富士通アイソテツク社35年の足跡を辿るにあたり、創業当時その一方の母体となつた黒沢商店の概要を、創業前史的意味合いからも是非とも紹介する必要があろう。
黒沢商店の創立
黒沢商店は明治34年(1901)5月、黒澤貞次郎(1875-1953) によつて創設され、わが国最初のタイプライタ輸入販売、ならびに事務の近代化用機器の販売を行つた。
明治末年銀座尾張町2丁目(現在銀座6丁目)角にわが国最初の鉄筋コンクリートによる3階建事務所ビル(関東大震災、太平洋戦争の戦禍にも耐え昭和54年改築のため解体するまで現存) を建設した。 また大正5年(1916)東京・蒲田( 現在富士通シスラボ所在地)に工場を建設し、タイプライタ、事務用機器、什器の製造を開始した。この工場が黒沢通信工業発祥の地となる。
わが国初の電信用和文タイプライタの製造。
大正の初期、大阪中央電信局では欧文着信電報の翻写に欧文タイプライタの使用が実施されていたが、この利用を更に和文電報にも及ぼすことが利便と考えた同局は、大正5年電信用和文タイプライタの試作を黒澤貞次郎に依頼した。彼は広島電信課長の指導を受けながら鋭意この作業を進め1年後、2台の試作機を納入し、直ちに現業使用を開始した。
その後大正13年には大阪局全回線タイプ受信化(300 台) され、その好成績は他局への全面採用となつた。当初は輸入機の1部改造で納入され「和文スミス」と称したがその後順次国産化を進め、昭和8年(1933)純国産化された機会に「アヅマタイプ」AZMATYPEと命名された。東京で作られAからZまで打てるマシンの意である。今では当たり前のことであるが、活字を横向きに取付け、縦書きの機能を解決した着想は今も使われている。
和文印刷電信機の国産化
第1次大戦後、海外ではテレタイプによる電信の自動化が進んでいたが、英文字は5単位の符号の組合せで済むが、かな文字は6単位の符号が必要であつた。逓信省は米国クラインシュミツト社に試作をさせ、数台の試用をしたが価格の高さと、部品補給の困難に難渋し、国産技術の開発が望まれた。
黒澤貞次郎は昭和2年(1927)逓信省技師松尾俊太郎氏を迎え入れ、この試作研究にとりかかつた。一方逓信省は昭和7年(1932)電信電話技術調査会を設けて通信各社を招集し、6ケ月期限での設計書の提出に応えたのは黒沢他2社であり、更に1ケ年期限で試作機を提出したのは黒沢のみであつた。昭和9年この試作機を基に、新たに実用機の設計を開始した。逓信省は大阪逓信局より長谷、西川両氏を応援派遣され、2次3次と試作を重ねて昭和11年12月最終仕様書がまとめられた。
昭和12年(1937)11月 3日東京 大阪間に国産初の和文印刷電信機が実用開始された。
印刷電信機では文字符号の外に、スタート・ストツプの2符号を付加して仕様するが、5単位機はストツプ符号を2割程長くして機能動作の安定を図つているが、国産6単位機械は総て等長符号を使用した。オン・オフのデジタル通信の元祖として記念される。
黒澤貞次郎の企業哲学
黒澤貞次郎は「企業は一つの大きな家庭である」との企業哲学のもとに、蒲田工場の建設と並行して隣接地に従業員のための社宅(113 戸) を建設し、それぞれに菜園も用意され、さらに子女の教育のための幼稚園や小学校をも整備し、「吾等が村」の機関紙も出された。小学校は戦時下の国民学校令の施行にともない閉校されたが、昭和20年4月の空襲により社宅の一部と共に焼失した。
戦後の改革
工場の生産設備は幸い、戦禍を受けずに済んだが、資材調達に難渋しつつ、戦後の荒廃した通信網の復旧に努力を重ねた。
戦後進駐したGHQ(連合国総司令部)は通信業務の民営化、通信回線の開放の指示を打ち出し、この業界は大きな改革の洗礼を受けることになつた。
電信中継機械化
日本電信電話公社は電報中継の全自動化を企画し、昭和28年(1953)水戸電報局にて実用開始を始めた。新興、沖の各社と共に黒沢も新機種LT-K形の線路送信機を担当、旧来のJ-3 形受信機と共に納入した。
民間の電信中継機械化・・黒沢商店と富士通との出会い
昭和30年(1955)日本通運株式会社は既設の全国電信通信網の中継機械化を企画され、同社の松浦通信係長の指導で黒沢商店にて仕様の検討開発が進められた。このシステムの第1号が日通名古屋総括支店の新築開業を機会に設置が決まり、たまたまその電話交換機が富士通受注が決まり、保守上の便宜を考えて電信用交換機も富士通製が好ましいとの指示をうけ、黒沢商店より富士通に製造を依頼した。
昭和31年6月、日本通運、富士通、黒沢商店の三社の間で仕様打合せが始められた。
これより前、昭和26年 昭和27年、富士通が東京証券取引所用リレー計算機開発のために鍵盤鑽孔機とテ プ送信機が必要になり、当時の開発課長小林大祐氏( 後の富士通社長)が黒沢商店に来られたので必要機械の貸出を行いその要望に応えた。
さらに、昭和28年 昭和30年に富士通より電子計算機用ラインプリンタの活字製造の依頼があり、黒沢商店は必要量を数次にわたり製作納入した。この間に富士通の担当者は技術打合せ等を通じて黒沢商店の技術を理解したものと思われる。
このような交流を通じて、黒沢商店側は当時進行中の日本通運向けのPBTXシステムの開発を、富士通側は電子計算機用端末機の早急な開発の必要性など、互いがこの業種の将来を期待して新会社設立の気運が助成された。
新会社の設立
昭和31年(1956)12月黒沢商店、富士通信機両社の間で合弁会社設立に関する覚書の調印がなされ、昭和32年(1957)2月1日黒沢通信機株式会社の誕生をみた。
設立の概要
本社 東京都大田区御薗3丁目
資本金 1億円(黒沢商店6千万円 富士通4千万円)
役員 代表取締役社長 黒澤敬一 (当時黒沢商店社長)
常務取締役 笹島六郎 (当時富士通取締役) 兼任総務部長
常務取締役 黒沢張三 (当時黒沢商店副社長) 兼任製造部長
常務取締役 篠田四五 (当時富士通取締役) 兼任技術部長
常務取締役 高洲湘二郎(当時黒沢商店取締役) 兼任営業部長
監査役 山本良衛 (当時黒沢商店取締役)
監査役 竹野内英夫(当時富士通専務取締役)
土地 15,000坪 建屋 2,000 坪 従業員 200名
これにより 黒沢商店蒲田工場とその従業員は新会社に移管された。
新製品開発と製産
日本電信電話公社電信中継装置用機器
黒沢商店時代からの継続機種としてLT-K形線路送信機、J-3 形受信機が生産納入された。
民間初の電信機械化中継装置(日本通運名古屋総括支店向け)
この民間初の電信機械化中継装置は日本通運名古屋総括支店に納入されることになり、これが、黒沢通信工業の設立の直接の動機になつたのであるが、昭和32年 6月の社屋新築完成に合わせて、急遽、印字受信鑽孔機は印字部機能を除いた機械にて納入された。
引き続き大阪支店(容量25局、実装19局) 、東京本社( 昭和33年 3月) 分の受注を受けこの分より印字受信鑽孔機を整備し、且つ交換機能の大規模の装置が納入をした。
その後、札幌、仙台、広島、福岡、熊本、鹿児島等にまで装備され全国交換網の完成をみた。
通産省鉱工業技術試験所指定 高速度テープ鑽孔機
PT-300さん孔タイプライタ( 昭和33年)
日本国有鉄道よりさん孔タイプライタの試作受注があり、昭和34年 1月12台を納入し以後150 台余を納入した。帳票にタイプすると共に、必要事項をテ プさん孔しI.D.P処理を行うための機械。
HSP高速度さん孔タイプライタ( 電電公社通研型)