鳥籠

 話し声がする。人の気配。扉を開け閉めする音。

 意識の水底から、浮き上がるように目を開ける。ぼやけた視界が焦点を結ぶと、昼の光の中に、予想どおりの人物がいた。

「ディー」

「ごめん。起こしてしまったね」

 枕元に腰掛けた男が、柔らかな声で言った。グレイが起き上がろうと身じろぎすると、「無理をしなくていい」と手で制する。

「突然来たからね。ティルネには、眠っていたら顔だけ見ることにすると言ったんだ。無理をさせると叱られる」

 寝床に再び体重を落とし、グレイは目を眇める。光に慣れると、視界に映る光景が久しぶりに鮮やかだった。色褪せた壁や天井の色も、鉢植の花も。

(夢? いや、違うか)

 夢と考えるには、光のきらめきも肌に触れる温度もひどく具体的だ。一度瞬きして、改めて来訪者を見る。

「遅いぞ」

 声は掠れたが、最大限の不満を込めた。

「手紙を送ったのは、何週間前だ」

「ごめん。これでも急いで都合を合わせたんだ。来たので勘弁してくれ」

 ダイルグ・シリングは悪びれた風もなく、人が良さそうな顔で言う。

 数ヶ月ぶりの友人はあまりにいつもどおりで、グレイは怒る気が失せた。怒るには体力が必要だが、今のグレイにはそれがない。代わりに安堵の息を吐く。

(間に合わないかと思った)

「ずいぶん簡素な手紙だったね」

 送った手紙の内容は、宛名と差出人の他には、『見舞いに来い』とただ一文だけ。グレイ自身、かくも無礼な手紙をしたためた経験はない。無作法の自覚はあるが余力もなかった。

「お前に遠回しに物を言ったところで、効き目はないだろう」

言い訳じみていると思いながら言うと、ダイルグは笑った。

「そうかもしれない。喉がつらそうだね。水を飲むかい」 

 横たわったまま頷いて、「ディー」と呼びかける。

「悪いんだが、やっぱり身体を起こすのを手伝ってくれないか。話しにくい」

 目を上げると、グレイは自分を見返すダイルグに、ほんの少し奇妙な様子を感じた。怪訝に思う間に、ダイルグは「お安い御用だよ」とグレイを起き上がらせ、背後に枕と椅子布団を挟み込んだ。

「ありがとう。お前、どうかしたか?」

 グレイが言うと、ダイルグは首を傾げた。

「さっき何かおかしかったぞ」

「ああ。……『ディー』」

 呼び名を本人に反復され、今度はグレイが「何だって」と首を傾げた。

「私をそう呼ぶのは、君だけだなと思ってたんだ」

「なにを今更」

 グレイはダイルグを大抵「ディー」と呼ぶ。愛称のようだがそういうわけでもなく、単純に初めから呼んでいた名がそうなのだ。

(俺のことは、ディーと呼んでくれればいい)

出会った頃、ダイルグは決まってそう自己紹介をしていた。

「サディルナはそう呼ばないのか? 昔は呼んでいただろう」

 もっともそれは数十年前の記憶なのだが。ダイルグは「呼ばないよ」と笑う。

「昔は、私がそう呼べと言うから付き合ってくれていただけでね。あれはちょっとした、そう、悪ふざけのようなものなんだ」

「なんだそれは」

 四十年越しの説明に、グレイは「真面目に聞いた俺はばかか」と呆れる。しかし、ダイルグは「そんなことはない」と真面目な顔で頭を振った。

「君にとって私が『ディー』なら、それは確かに私の名だよ。名前は、呼ばれることに意味があるものだから」

 もっともらしく言って誤魔化したようにも思えるが、ダイルグが落ち着いた声で語れば、言葉はいかにも誠実そうな響きを帯びる。狡いやつだと、グレイは感心半分呆れ半分に思った。

 ダイルグは、飄々として掴み所のない部分もあるが、それでいて不誠実や軽薄といった印象とは無縁の男だ。柔らかい物腰には不思議な安定感があり、グレイは彼に相対していると、年経れた大樹に向き合うような心地になることがある。人当たりの良さも相まって大抵の人に好感を抱かれ、教会関係者や信徒のなかにも彼の信奉者は多い。

 但し、この男が見た目の印象どおりの誠実な人物であるかについては、グレイには少々疑いがある。

「なら、サディルナはお前をなんて呼ぶんだ?」

「どうだろう。私は彼女に嫌われていて、名を呼ばれることもないから」

 さりげないふりで投げた問いだったが、躱された、とグレイは感じた。

 ただ、サディルナがダイルグの名を呼ぶことが殆どないのも事実だ。グレイに向かっても「彼」とか「あの男」などと言い、職務上必要な場合はシリング司祭と呼ぶ。そのうえ、「ディー」というかつての呼び名も付き合いに過ぎなかったのであれば、サディルナにとって、この男の名はなんだろう。

「グレイ」

顔を上げると、ダイルグは笑みを納めた顔で「君らしくないね」と言った。

「私に単に見舞いに来て欲しかったわけでも、遠回しな質問をするためにここに呼んだわけでもないだろう?」

 要するに本題に入れと言っているのだ。穏やかな声には鋭さがあり、グレイは反射的に怒りを覚えたが、上等だと開き直った

「ならはっきり言ってやる。お前はサディルナを、どうするつもりなんだ」

真正面から斬り込むと、ダイルグは微かに頭を傾けてみせた。

「どうするとは?」

「わざわざ口にしろと言っておいて、わかっているのに誤魔化すな」

 グレイは声に苛立ちを込めた。

「お前はサディルナを愛してる」

 否定を許さない、明白な事実として言い切る。

「なのにずっと、付かず離れずの場所にいるばかりだ。どうして彼女の傍にいようとしないんだ」

 ダイルグは表情を動かさず、じっとグレイを見返している。

「ディー、俺はお前に何度も言ってきた。サディルナが大事なら彼女の傍にいろ。俺はお前がいたから、ヴィールダルトを離れたんだ」

 グレイは二十数年前、一度は捨てた故郷である、このリアムへと赴任した。その理由は単純にこれと語れるものではないが、どんな理由があろうと、ダイルグがいなければ、グレイはヴィールダルトに、サディルナの傍に残ったと言いきれる。

 ダイルグがヴィールダルトに、再びサディルナの前に現れたとき、グレイは自分はサディルナの傍を離れるべきと考えた。奇妙に拗れた関係も、時があれば解決するだろう。まさかそれが、その後三十年もの間、解決どころか変化さえしないとは思わなかったのである。

 その間に、サディルナは彼女自身の努力によって、教会における己の立場を変化させてきた。今の彼女には、教会に確固たる居場所があり、彼女を慕う者、尊敬し頼りにする者も多くいる。歩みを止めず前進してきたサディルナが、ダイルグとの関係においては、その姿と同じく時を止めているようだ。

「私も君に何度も言ったと思うが、私と彼女は、君の想像するような関係じゃないよ」

 ようやく口を開いたダイルグの、いつもの逃げ口上に、グレイは「ディー!」と眉を吊り上げる。

「私は、彼女の姉の仇だ」

 さらりと落とされた一言に、グレイは思わず身を乗り出す。

「――は?」

「君はずっと知りたがっていたろう。それが私と彼女の関係性の答えだよ」

 淡々とした言葉に、グレイは理解が追いつかない。

(姉さん? 仇?)

 姉さんとは、サディルナのあの最愛の姉のことか? グレイは、サディルナが故郷に置いてきた今は亡き姉を、心底慕っていることを知っている。

(私なんかより、姉さんの方がずっと綺麗)

 サディルナは若い頃、自身の美貌を褒めそやされると、決まって不満そうにそう口にした。好意に満ちた嘆賞にもうんざりした顔をして、そのくせ自分はこう言うのだ。

(姉さんは、この世界で一番綺麗で、一番優しい人なの)

 グレイは、自分に対する賛辞も素直に受け止めればいいのにと思いつつ、そんな彼女の愛情が零れる笑顔に見惚れた。姉について話す時のサディルナは、彼女らしからぬほど盲目的で、同時に幸福そうだった。

 その姉を、どうしたと?

「仇って、どういうことだ」

 お前が殺したのか、と言葉を続けられないグレイに、ダイルグが言う。

「直接、命を奪ったわけではないけどね」

 それを聞いてグレイは、誰のためにかは分からないが心底安堵した。

 重い吐息とともに「驚かせるな」と吐き出したが、ダイルグの表情は緩まない、。

「私は彼女が命を落とすだろうと知っていた。知っていて何も手出しをしなかった。だから私は、サディルナにとっての仇なんだよ」

 そう語るダイルグの目には何の感情も浮かんでおらず、グレイは眉を顰めた。

「お前はその人に恨みでもあったのか?」

「いや」

「何の恨みもないその人を、お前はわざと見捨てたということなのか? どうして?」

 質問には明確な沈黙が返った。答える気はないということだ。唇を噛んだグレイを余所に、ダイルグは別のことを口にする。

「彼女の名前はリエラと言った。とても仲が良い姉妹だったよ。リエラはサディルナを何より大事にしていたし、サディルナはリエラを誰より慕っていた」

「だから、サディルナは姉さんを見捨てたお前を恨んでいるんだと?」

 落ち着いた目でグレイを見つめ、ダイルグは問いかける。

「もし私が、ティルネに命の危険があると知っていて、それを見捨てて死なせたら、君は私を許せるか?」

 咄嗟に浮かんだ怒りの滲む目を上げると、「許せないだろう?」とダイルグは言った。

 ダイルグはそれこそ、生まれた時から娘のティルネを知っている。その彼が、娘の命をみすみす見捨てたとしたなら?

「そういうことだよ。サディルナは私を許せない。私も彼女が許す必要があると思わない」

「なんて質問だ」

 唸りながらも、グレイは理解せざるを得なかった。

「昔、お前が俺たちの前から一度姿を消したのは、そういうことなのか」

「そうだね。リエラの亡くなった後だ」

「その後、ヴィールダルトに、サディルナの前にやってきたのは?」

「……それは、彼女とは関わりない、また別の都合なんだ」

 無情な答えに顔を顰めたグレイに、ダイルグが少し苦笑する。それはダイルグの相貌に、久しぶりに浮かんだ感情だった。

「私は手前勝手な人間なんだよ。サディルナはそのことを、とても良く分かってるんだ」

 開き直りとも取れる言葉だったが、その声と表情にグレイは口を閉ざす。滲みでる愛おしさに、今、この男は気付いているのだろうか。

「君は私を責めないのかい」

 不意打ちな問いに、グレイは物思いから引き戻される。

「責める?」

「事実は君の道義心に反している。サディルナのためにも、君はもっと怒るかと思っていた」

 グレイは咄嗟に返答に窮したが、どうにか言葉を返す。

「当事者ではない俺が、口を挟める問題とも思えない。そもそも、お前がどうしてそんなことをしたかもわからないのに、何を判断のしようもないだろう。言う気があるのか?」

「……ないね」

「なら問い詰めたところで、言いやしないだろう」

 グレイは息を吐く。正直なところ、明かされた事実は重く、どう受け止めるべきか判断がつかない。

確かなのは、サディルナの苦しみを思って胸が痛むことと、だからといって目の前の男を安易に責め立てることも、自分は望んでいないということだ。

 但し口ではこうとだけ言った。

「俺に分かるのは、思ってたとおり、お前が胡散臭い人間だってことだ」

「君のその言い種も、随分久しぶりだ」

 何が嬉しいのかダイルグが笑顔を浮かべたため、グレイは渋面になる。

 ダイルグは出会った時から奇妙な男だった。端正な容姿と洗練された物腰を持ち、愛想が良く口も達者。そこまでなら美点と片付けられようが、サディルナの行くところ、その行く先を知っているかのように現れる。人を見透かし、物事の先を読み、知らぬことなどないように振る舞う。何をさせてもこなし、グレイは彼が出来ない事を、ささやかな一事を除いて知らない。

 そんなダイルグを、グレイは感心を通り越し、しばしば「胡散臭い」と評したものだった。

「お前は教会に来てからは、まともそうな皮を被っていたからな」

「特に何を取り繕っているつもりもないよ」

「寝言のつもりか」

 ダイルグはグレイやサディルナと同じく、教会に認知された素精干渉者である。

 ダイルグは多くが認める有能な司祭ではあるものの、素精に関わる能力については標準的と認識されている。干渉者は干渉者を識別し、能力の度合いもある程度察するが、ダイルグのそれは安定的だが平凡なものとしか感じ取れないからだ。しかしグレイはその経験から、ダイルグが的確すぎて異常なほどの第六感を備えることを知っており、ダイルグが周囲に平凡を装っていると考えていた。しかしそれも元来、およそ可能なことではない。

 素精は人と別個に存在するものではなく、人の存在や生命活動と不可分のものだ。素精に対して強い影響力を有する者であっても、自らが受ける影響もまた強いように、素精は人が一方的に操れるようなものではない。その態様を他者に向けて偽るなどどうすれば可能なのか。

 そんなことの出来る者は世の常識の埒外にいる。教会から異端者として扱われたサディルナより、ダイルグの方が遙かに常軌を逸した存在であることを、グレイは薄々理解している。

(そのお陰だろうから、感謝すべきなのか)

 グレイは今、当然のようにダイルグと言葉を交わしている。グレイの容態は、数週間前サディルナが訪れた時より大幅に悪化していた。それにも関わらず、何の痛みも苦しみもなく、ろくに力も入らなかった筈のこの身体で。

 サディルナも無意識のうちにグレイの身体を好調に転じていたが、それとも次元の異なる力が、彼の生命を支えているようだった。原理などわからない。しかしグレイは、ダイルグがここに「間に合い」さえすれば話はできると信じていたし、その予測は当たったのだった。

「君は私のことを『胡散臭い』と、ずっとそう思っているのに、私が何者かとは尋ねてこなかったね。どうしてだろう」

「サディルナに尋ねたことはあるさ。『あいつは一体何なんだ』って。でも彼女は答えたくなさそうだったし、そういう質問には、訳あって懲りたんだ」

 グレイはダイルグの個人的な背景を知らない。知っていることさえ、どこまでが真実かわからない。だとしても、彼が司祭として人々に見せる、思いやりや優しさといったものが、偽りではないと知っていた。それさえ知っていれば、友人でいることはできたのだ。

 だが、聞きたい気持ちがなかったわけではない。一体何を抱えて、笑顔の奥で何を思って生きているのか。いつか本人が話す気になったら聞きたいと思っていた。

 そして今、ダイルグはグレイと話をするために来ているのだった。グレイは彼に確認したいことがあった。