鳥籠

「来て」

 ダイルグの手首を掴んだサディルナは、そう一言だけ発し、背を向けたまま、彼を引いて歩き出した。

 リアムの大司教座教会。その前司祭長、グレイ・リジェットの葬儀を終えたところである。薄暗がりの聖堂に、家族と参列者の姿は既にないが、まだ司祭や助祭、徒弟らが屯していた。

 サディルナとダイルグは、司祭ではあるがヴィールダルトからの客分であり、それぞれ教会の中で知られた存在である。殆どの者が、彼らが共に亡き司祭長の親友であることも知っていた。目立つ二人の挙動に近くの者が何事かと振り返り、サディルナのただならぬ形相を見てぎょっとした。

 サディルナはそんな周囲に気を払うこともなく、側廊をつかつかと通り抜け、通用口から外へ出る。朝からの雨の名残に石畳は濡れ、泥がその表面を汚していた。昼の刻だが陽はその姿は隠したまま、長雨の最中のように鬱々とした空気が周囲を満たしている。

 サディルナは祭服の裾をはためかせ、空を見上げることも、脇目を振ることも、振り返ることもせず歩みを進める。ダイルグは質問のひとつもせず彼女に従っていた。しかし聖堂と別棟にある礼拝堂の裏手まで来ると、「サディルナ」と呼びかけた。

「今、このあたりに人はいない」

 サディルナはぴたり、歩みを止めた。続いてダイルグの手首を掴んだ手が、ふっと解かれる。それでも彼女は振り返ることなく、地面に顔を俯けていた。ダイルグはそんな彼女の襟元を見つめ、そっと手を伸ばした。

「髪紐が乱れているよ」

「――やめて!」

 サディルナが、ダイルグの手を勢いよく払いのける。そしてダイルグの落ち着いた目に向き合った瞬間、彼の意図どおりに動いたことに気付いて唇を噛んだ。きつく絞めた髪紐を、勢い任せに自分で振りほどく。金の髪が空気を得て、祭服の緑に散らばった。

「私に言いたいことがあるんだろう?」

 優しく促す声に、サディルナは怒りなのか自分でも判然としないものが、胸に渦巻くのを感じた。ダイルグは知っている。気付いている。自分が今から言おうとしていることも、何もかも。

 サディルナは幾度か呼吸をし、最後にごくりと息を呑んだ。

「ティルネから聞いた。最後の日に、あなたが見舞いに来ていたと」

 「死んだ日」と言えずに口にした言葉は、それでもサディルナの胸を突き刺した。亡骸に触れた感触が指に蘇る。落ち窪んだ目蓋。痩せ細った頬は硬く、石に触れたかのように冷たかった。その身体はまだこの教会にある。しかしもう微笑むことも、声を発することもない。

「ティルネは喜んでた。あなたが会いに来てくれて良かったと。間に合って良かったと」

 今際の際に友人に逢えた父の幸運を、ティルネは悲しみに涙を零しながら感謝していた。

「そうか」

「……あなたは!」

 拳を握り、サディルナは顔を上げた。

「あなたは、彼がいなくなることを、知っていたんじゃないの?」

 グレイが死ぬまさにその日に、ダイルグが彼の元に現れる。それを偶然と思える幸福な認識を、サディルナは持っていなかった。

 間近で睨む彼女をダイルグは静かに見下ろしている。それが肯定であると察して、サディルナは唇を震わせた。

 グレイは彼女の初めての友人だった。僅かな人々への思慕を胸に、閉じたサディルナの世界に、吹きこんだ春風のような人。彼の好意を知りながら、何も返さない身勝手な彼女に、愛情も、友情も、与えうる全てを与えてくれた。

 姉と「その人」の他にも、自分が誰かを愛することができると、姉がその身を捧げるこの世界を、自分は呪わず愛することができると、サディルナに信じさせてくれた人だった。

「なんで」

 乱れる呼吸の隙間で、言葉は辛うじて形を作った。

 かつて、姉リエラの死をサディルナに告げたのはダイルグだった。彼は起こりうる悲劇を察しながら、結果を知るために、それに関与しなかったと彼女に言った。生まれ故郷の崩壊と姉の死が、その結果だった。

 ダイルグはサディルナが生まれる前からリエラを知っていた。サディルナは、姉妹に分け隔てなく微笑みかける彼の姿を今も覚えている。それでも彼は、リエラを見殺しにすることができた。

「なんでまた、あなたなの」

 ダイルグは、日々容態を悪化させていくグレイを、最期の日まで見舞うことがなかった。グレイ自身は単に多忙か不義理の結果と思っていたようだが、サディルナはそう思わない。

 グレイはただの病ではなかった。死の間際には、衰弱の結果、様々な症状を併発していたが、当初は身体にも素精の態様にも異常が見られなかった。屈指の名医にも医務司祭にも打てる手がなく、サディルナに何が出来る筈もない。しかしダイルグが何ヶ月も訪れないと聞いた時、サディルナはひとつの考えに囚われた。

「あなたはグレイを助けることが、できたんじゃないの……?」

 乾いて張り付く舌を引き剥がし、喉から掠れる声を絞り出す。

 起こりうることを知りながら、リエラを救わなかったように。本当はグレイを救う手立てがあるからこそ、彼は来ないのではないか。数週間前、ヴィールダルトに戻ったサディルナは、真っ先にダイルグを探したが、彼は不在だった。連絡を取れないかと焦る間に、訃報は届いた。

 サディルナは、違うと、そんな考えは邪推に過ぎないと彼に言って欲しかった。彼女は我知らず俯き、湿った地面を見つめていた。答えを知るのが恐いサディルナは、しかし答えを知っていた。

 返ったのは言葉ではなく沈黙であり、沈黙はすなわち肯定だった。

「――――~~~~~!」

 言葉にならない唸りを上げ、サディルナは、両の拳を目の前の男の胸に叩きつけた。何度も。ダイルグは抵抗せず、彼女のなすがままにさせていた。

 力尽きたサディルナが、彼の前見頃を鷲掴んで項垂れたとき、声が降った。

「すまない」

 顔を上げてサディルナは息を呑んだ。これまで一度も目にしたことのない枯れ果てた顔が、彼女を見下ろしていた。

 造形が変化した筈もないのに、乾ききったとしか形容のできない、仮面のような貌が、サディルナをぞっとさせた。それにも関わらず、虚ろな闇のような目に彼女が見て取ったのは、紛れもない悲しみだった。

「すまない」

 立ち尽くすサディルナを前に、彼はもう一度そう言った。常より平坦でさえあるその声が、彼女の胸を打ち据えた。その言葉は断じてサディルナに向けた慰めではなかった。ダイルグはグレイの友人として、彼を助けられなかったことを詫びていた。サディルナの喉が大きく震えた。

 ダイルグとグレイは友人だった。サディルナはそれをずっと奇妙にも思いながら、どこかに微かな喜びを感じていた。グレイは、他に何ひとつ対等でなく、他に何ひとつ分かち合えない二人が、確かにたったひとつ共にした友人だった。

 一粒、一粒と涙が落ちた。「グレイ」と名を口にすると、それが溢れた。

「グレイ……グレイ」

 サディルナは宙に繰り返し彼の名を呼び、涙が頰を伝うに任せた。サディルナの心を占めるのはもう、怒りでも失望でもなく、友人を喪った悲しみだけだった。

 ダイルグはそんな彼女を見つめていたが、ふいに身体を屈めると、彼女の頭の脇に顔を寄せて、その口を開いた。 

「『この身は朽ちても女神の腕に還り』」

 届いた声は、ダイルグのものではなかった。

 サディルナは驚いて顔を上げたが、ダイルグは彼女の頭を引き寄せ、視界を塞いでしまう。

「『命は女神の息吹となってこの世に満ちる』」

 教会の常套句である、その一連の文句をサディルナはよく知っている。

 罪なき死者の肉体は、母なる女神(フィルフィアル)の腕、すなわち土へと還り、その魂は、この世界に生命を吹きこんだ女神の息吹と同化する。そうして次の命が生まれ、世を巡る。

 サディルナは同じ言葉を、昨日、ティルネの口から伝えられた。それを直接聞いたのは家族だけだったが、これはきっとあなたに向けた言葉でもあるからと、ティルネは一言一句、そのままの形で書き留めていた。

 それはこう続く。その言葉が、声が、彼女の耳に再現される。

「『けして、寂しくはないよ』」

 死んだ者は形を残さない。肉体も魂も蘇ることはなく、いつか等しく女神に還って、新たな命を生む。それゆえ惜しんではならないというのが、教会の教えである。しかしそれでもこの世にあるとのだと、グレイは言ったのだ。

 だから、寂しくはない。だからどうか悲しまないでと。

「馬鹿言わないで……」 

 サディルナはダイルグの胸元を掴み、声を震わせた。

 そんなのは詭弁だ。死は死なのだ。司祭であったグレイは、そんなことは当然理解している。それでも、どこまでも彼らしい、身勝手なまでの優しさと思い遣りを、家族に、サディルナに、そしてダイルグに遺したのだ。

 嗚咽が込み上げる。彼に会いたい。愚かなお人好しと詰りたい。なのにもう二度と会えない。若い頃、グレイを「泣き虫」とからかったサディルナが、まるで涙を止める術を知らなかった。悲しまないで、幸福でいてと、彼はいつも、彼女に願ってくれていたのに。

 だけどどうか、今だけは。

「泣かないで」

 最後に耳元で囁いたその声は、果たして誰のものだったろう。