微睡み

「ここは、一体どこなの。あなたたちは、だれ」

 寝台の端まで身を引き下げ、サディルナは二人に怯えと警戒心の露わな眼差しを送っている。

「なに、言ってるんだ、サディルナ。そんな」

 思わず身を乗り出したライールから、サディルナは避けるように身を仰け反らせた。そんな二人の間を、横から差し出された腕が遮る。

 ライールが振り返ると、カヴァーリアは腕を引いて静かに頭を振った。

「サディルナ様」

 カヴァーリアが落ち着いた声で呼びかけた。サディルナが何も反応を返さないのを見て、続ける。

「私はカヴァーリアと申します。彼はライール。あなたは怪我をなさって、ここに運び込まれたのです。どこかが痛んだり、気分が悪いということはありませんか?」

 カヴァーリアが優しい表情と丁寧な口調で言うと、サディルナは戸惑いを見せつつも掛布から片手を外し、左の側頭部に触れた。

「頭の横が痛いわ。瘤が出来てるみたい」

「気分は如何です。頭がくらくらしたり」

 サディルナは反射的に頭を振り、痛みにだろう、少し顔を顰めた。

「それは良かった。お怪我に障りますから、どうぞ落ち着いてください。私達はあなたのお世話をしている者です。記憶にありませんか?」

「……知らないわ」

「そうですか」

 カヴァーリアは「少し失礼します」と言って、ライールの部屋の隅へと導いた。手を引かれながら、ライールはカヴァーリアに食ってかかる。

「どういうこと。俺達がわからないなんて」

「静かに。私もわからない。ただ頭を強く打つと、一時的に記憶が混乱することがあるとは聞いたことがある。おそらくそういうことだろう」

「一時的? 本当に?」

 カヴァーリアは、食い下がるライールを気遣わしげに見た。ライールも彼女を問い詰めても仕方がないと分かっている。しかし動揺が勝って、それをぶつけずにいられない。言いながら、自分で自分が情けなかった。

「名を呼ばれて否定しないのだから、ご自分についての記憶はあるということだ。全て忘れておられるわけじゃない。ともかく、ウォザリグ医師にこのことを知らせよう。私が行くから、君は―――」

 その時ガチャリと音がして、部屋の扉が内に向かって開いた。現れたのは、黒みがかった金髪の、司祭服に逞しい長身を包んだ年嵩の男だ。彼が入った瞬間、動揺していた部屋の空気が一瞬にして凪いだ。

 その存在感のままに、穏やかな表情を浮かべたダイルグ・シリングは、寝台に半身を起こしたサディルナを認め、安心したように目を細めた。

「サディルナ、良かった。目が覚めたんだな」

 サディルナが弾かれたように寝台から飛び降り、素足のまま、彼の元へと駆け寄った。

「ダイルグ様!」

 駆けた勢いのまま、ダイルグの胸へと飛び込む。そのまま彼の広い背中へ腕を回し、救いを求めるようにしがみ付いた。怒濤のように繰り広げられた光景を、残る二人は呆然と見つめた。いや、今まさに彼女に抱きつかれたダイルグすら、その状況に愕然としていた。

 あのサディルナが。ダイルグとの関係の険悪さを知られ、常日頃から彼を拒絶して止まない彼女が、自らダイルグの胸に飛び込み、離れることなど考えられないようにしがみ付いている。それはまさしく、目を疑う光景だった。

「サディルナ、これは、一体どういう……」

 胸元の彼女を見下ろし、ダイルグは途切れ途切れに言葉を紡いだ。ライールは、動揺するダイルグ・シリングを初めて見た。

 サディルナがダイルグにしがみ付いたまま、顔を上げる。

「ダイルグ様、ここはどこです!? お姉様、お姉様はどこにいるの」

 表情は不安に満ちて、真剣そのものだった。サディルナの言葉に、ダイルグの表情が、ふっと平静に戻る。

「リエラはここにはいない」

 落ち着いた声で言って、ダイルグはサディルナの長い髪を撫でた。

「ここは診療所というところで、君は怪我をして倒れたんだ。……いま目が覚めたのか?」

「はい、今し方」

 答えたカヴァーリアに、ダイルグが微笑む。

「今日はすまなかったね、カヴァーリア。君とライールをここに呼ぶよう言ったのは、私なんだ」

「いいえ、事情がわからず動けずにいたので、呼んで頂けて助かりました。それより、ダイルグ様、その、これは一体」

 カヴァーリアの眼差しは、ダイルグにしがみついたサディルナへと向けられている。カヴァーリアはライールと同じく、自分が目の当たりにしている状況に、戸惑いを極めているのだった。

「頭を打って記憶が混乱しているようだ。しかし彼女は彼女だよ」

 ダイルグはサディルナの背に手を添え、至って冷静な調子で答える。

「ともかく研究室に帰った方がいいだろう。カヴァーリア、悪いがヴォザリグに、彼女が目を覚ましたので連れて帰ると伝えてくれ。問題はないからと」

「―――承知しました」

 一拍置いたが、敬愛するダイルグの指示に、カヴァーリアに否やはない。さっと背を向けて部屋を後にする。二人の側に、ライールだけ残された。

「サディルナ、君も戸惑っていると思うが、私の言うとおりにしてくれ。いいかい?」

 サディルナはダイルグを不安そうに見上げたが、素直に頷いた。その外観はライールの知るサディルナそのものなのに、動きも言葉も、ライールの知る彼女からかけ離れていて、頭がおかしくなりそうになる。

 目を逸らして俯くと、ダイルグが「ライール」と呼びかけた。

「しっかりしなさい、君らしくもない。サディルナがこの状態なのに、君がその調子でどうする」

 ダイルグの声に叱咤の響きを感じ取り、ライールは驚きと怒りに顔を上げた。そうすると、彼に身を任せるサディルナの姿が、嫌でも目に入ってしまう。一方のサディルナは、視界からダイルグ以外の存在を追いやるかのようにしている。ダイルグが現れてから、ライールは一度もサディルナと目が合っていなかった。

「あなたはサディルナに問題はないと言ったんでしょう。一体何が問題ないんです」

 ライールは噛みつくが、ダイルグは落ち着き払っている。

「身体的には確かに何の問題もない。怪我も程なく治るだろう」

「なら、どうして!」

 ライールはああ、また、と頭の隅で思う。カヴァーリアを責めても仕方がないように、ダイルグを責めて何が変わるわけでもない。そもそも彼ら以上に、自分に何ができると言うのか。

「残念だが、何故かは私もわからない。人の精神活動は、理屈では推し量れないところがあるからね。しかしおそらく一時的なものだ。心配はいらない」

「何を根拠に」

「ダイルグ様を悪く言わないで!」

 傍らで強い声が上がった。目を向けると、サディルナが憤然とライールを睨み付けている。

 ようやく自分に向けられた新緑にあるのは怒りだけで、親しみなど一分も含まれていない。殆ど泣きたい気持ちで言葉を継げないライールの代わりに、声を発したのはダイルグだった。

「いいんだ、サディルナ。ライールを責めるのは止しなさい。彼は他ならぬ君を心配しているんだ」

 サディルナの目に怪訝な色が浮かぶ。ダイルグとライールを見比べ、納得の行かない様子で「わかりました」と答えた。

 暫くの間、全員が沈黙した後、サディルナが「ダイルグ様」と口火を切った。彼女はダイルグにしがみ付いてはおらず、彼の胸にそっと手を置いて立っている。

「私は彼らの言うとおり、何かおかしいのですか?」

 サディルナの強ばった背中を、ダイルグは優しく撫でた。

「君は少し混乱しているんだ。けれど難しく考えず、気を楽にしていなさい。大丈夫。私が居るのだから、心配ない」

 サディルナは頷くと、すっと目を上げてダイルグに言った。

「ダイルグ様、もしかしてここは、『外』、なのですか?」

「―――そうだよ」

 サディルナの表情が変わった。殆どダイルグに固定していた目線を大きく動かし、部屋を見回す。

  続いてライールに向けられた顔にもう怯えの色はなく、真っ直ぐで透徹としたその眼差しは、ライールのよく知る彼女と同じものだった。