微睡み

 似た言葉を、誰かに向けられたことがある。

 椅子に身を沈め、それはいつのことだったかとダイルグは思いを巡らせた。脳裏に蘇る声は、サディルナのそれと良く似ている。

『それが貴方にとって気休めでも、私やあの子にとって、無意味ということにはなりません』

 彼にそれを言ったのは、サディルナの姉、リエラだ。

 ダイルグは目を伏せ、その時の事を思い浮かべる。長く生きた彼の記憶は曖昧な部分も多いが、印象的な記憶なら、まだ、ある程度意識して引き出すことも出来る。

「私は、ダイルグ様に感謝しています」

 ダイルグと二人きりの時、リエラはそう切り出した。何か切っ掛けがあったのかもしれないが、それは思い出せない。

 記憶の中の彼女は、今のサディルナと、鏡写しのように似ている。ただ暗褐色の髪に新緑の目を持つ妹に対し、リエラのそれは、母親と同じ月光を紡いだような銀色と深い緑で、姉妹は対照的な色彩を持っていた。サディルナが長じてからの二人は、さながら絵に描いたような美しい一対だったが、当時のサディルナはまだリエラの腰ほどしかない少女で、二人の母親も存命だった。

 「私はサディルナが可愛い」とリエラは言った。

「あの子が笑顔でいるためなら、何でもしてあげたい、何だってできると思えます。けれどダイルグ様がいてくださらなかったら、私はお母様が怖くて、今のようにあの子に接することはできなかった」

 母親はサディルナの存在と、その姿を疎んだ。娘を無いものとして扱い、偶に姿を目にすれば「その薄汚い色を見せるな」と口にする。従僕達はそんな主の意に反することはなく、この館において、幼い少女を気に掛けるのは、「姉」であるリエラただひとりだった。

「貴方がサディルナに優しく接して下さったから、妹を大切にするよう、私に教えて下さったから、私はあの子の側にいることができた。今はもう、あの子のいない日々なんて、想像もつかないのです」

 そう切々と語る娘を、ダイルグは複雑な思いで見返す。

「私に感謝する必要はない。私の優しさなど上っ面の気休めに過ぎないよ。サディルナを守っているのは、君自身があの子に注ぐ愛情なのだから」

 愛情、感情、そう呼べるものを、目の前の娘が持っていることを、ダイルグは認めざるを得なかった。

 彼の言葉に、リエラは真摯な瞳で「いいえ」と頭を振る。

「それが貴方にとって気休めでも、私やあの子にとって、無意味ということにはなりません」

 そうダイルグに言い放つリエラの表情には、確固たる自我がある。以前の彼女は、決してこのような雰囲気の持ち主ではなかった。この世界において『彼女』の役割を果たすために生まれた模造品。その出自に相応しく、かつてのリエラは人形のように作り物めいていて、母親に従属し、課された役目を果たすためだけの存在だった。

「サディルナの処分に貴方が反対してくださったから、あの子はここに居られるのだと、私は知っています。貴方が私に妹を与えてくれた。そのことに、どれだけ感謝しても足りないのです」

 ダイルグは僅かに目だけを細める。役目のために生まれながら、その役目を果たす力を持たないサディルナは、無価値な存在として命を絶たれる可能性があった。少なくとも、彼女の母親はそれを望んだ。ダイルグが賛同しなかったのは、少女が世界にとって無意味であればこそだった。

 その「出来損ない」の少女はダイルグにとって、罅割れた世界の表象として存在に意味があり、そう生まれた時点で重要な役目を終えていた。だからこそ、命まで奪うのは、まるで無益なことに思われたのだ。

 しかしダイルグはその自分の判断に、年を追うごと後悔に近い思いが増すのを感じる。疎外されつつも健やかに育ち、彼を慕う少女の髪を撫でながら、あれは誤った判断、過ぎた干渉だったと考える。

「私は無責任で気まぐれな、通りすがりの客人だ。君達は、私に何の恩も感じる必要はない」

 諭すような思いでダイルグは言った。穏やかだが突き放す言葉に、リエラは哀しそうな顔をする。感情豊かなその様子がまた、彼の後悔を増すことが、リエラには分からない。

 姉は己の分身のような妹を愛して人間になり、母親は己の失敗の証である娘を受け入れられないあまり人間になった。かつてただ静かに、粛々と営まれたこの庭に、無価値な少女が及ぼした影響は大きい。それがどう波及するか定かではないが、サディルナの存在の重さを、ダイルグが見誤ったことは明らかだった。

 「貴方が思われる以上に」、リエラは言った。

「貴方が私達とは違う存在だと、私もあの子も、きっと分かっています。それでもお願いです。そんな風に御自分を隔てないで、これからもどうか、サディルナに優しくしてあげて」

 自分以外の誰かを想う、深い緑の眼差しが、ダイルグの遠い記憶の『彼女』と重なる。

「君はいつも、サディルナのことばかりだね」

 ダイルグの指摘に、リエラは清々しく笑った。

「私はあの子がいてくれればいいと思ってるのに、あの子はダイルグ様がいないと駄目なんです。ひどいでしょう?」

 そう言っておどけたリエラは、既にこの世にいない。ダイルグは過去から意識を戻して瞼を開き、何もない天井を見つめた。

 サディルナは、ダイルグが昨日、自分を助けた理由をわかっていただろう。あの程度の負傷が、強靱な身体と高い自己治癒力を持つサディルナを死に至らしめることはなく、ダイルグの関与は、彼女の生死を左右しない。だからこそ、彼は迷わず彼女を助けたのだと。ダイルグのそういった本質を、サディルナは正しく理解している。彼の無情に何度も苦しめられ、理解せざるを得なかったのだ。それにも関わらず、あんな言葉を口にする。顔を朱く染めて叫んだ彼女を思い、彼は緩く拳を握る。

 ダイルグは全知全能ではない。昨日起きた事件に関して言えば、彼が異変を察知したのは直前のことだ。その場に彼が辿り着いた時、事は起こった後だった。レストバーは居合わせた者達に拘束され、ファーレンはサディルナの傍らに膝を突いていた。

 血を流して横たわるサディルナの姿を目にした時、ダイルグは足元の地面を失ったような感覚に襲われた。そこから彼女が診療所で目覚めるまでの記憶は、他人事のように希薄だ。

 生まれながら特別な庇護を受けるサディルナに対し、素精的な治療を施すことは、ファーレンや一級の医務司祭であっても不可能だ。しかし昨日の負傷に関して言えば、医師の外科的な処置と本人の治癒力に任せれば問題はなかった。それにも関わらず、ダイルグは他の誰も気付かぬ形で、サディルナに治療を施していた。一心に、傷ひとつ、彼女の身体に残さぬように。

『君の目が、このまま開かなかったらと、ずっと思っていた』

 引き留めて告げた言葉は、偽りない事実だ。しかしそれを伝えて一体何になるだろう。あんな無茶をしないでくれと続けるつもりだったのか。彼がそんなことを、彼女に願う資格はない。崩壊へ進む世界にファーレンが不可欠な人物と知るからこそ、サディルナは彼を庇い、ダイルグは彼を救わない。運命という神の采配こそ、ダイルグが見極めようとするものだからだ。そしてサディルナは、運命の前に大人しく座す人間ではない。

 サディルナは自分の無力を嘆くがゆえ、姉のために為し得る何かを求めて、『庭』を出た最初の『女神の娘』となった。世間を何ひとつ知らない娘は、傷つきながらどうにか生き延び、生き抜く術とした選んだ歌によって『教会』に発見された。そうしてグレイに導かれた『教会』で、囚われながらも為すべきを見つけ、長い時間と努力によって、そこに己の居場所を得た。

 サディルナの原動力は、大義でも反骨心でもない。疎外されて育った彼女は、だからこそ純粋でひたむきな情ゆえに、姉が支えた世界のため、自分に想いを懸けてくれた人のため、為すべきことを探し、それを果たそうとするのだ。

 ファーレンはそんなサディルナの能力と意思を買い、今後訪れる危機に際し、重要な役割を担わせるつもりでいる。サディルナの力は不完全だが、ファーレンの影響力と合わされば、世界に何らかの影響を及ぼしうる。出来損ないとして生まれた彼女は、それでも世界にとって意味のない存在ではあり得なかった。そのことに、ダイルグは眩しさと遣り切れなさを感じる。彼女が無意味な存在であればこそ、彼は彼女を守ることが出来るのだから。それは余りに身勝手な思いだと、彼も承知している。

 ダイルグが生きる目的は、神の定めた運命の、価値を、意味を、見定めることにあった。そのために余りに長くを生き、もはや妄執の残滓に過ぎない彼の始まりは、神への怒りであり憎しみであり、呪いだった。未来に幸福あれかしと、かつて彼は望んだわけではない。しかし、結末の気配を感じながら、彼は今、心の片隅で、どこか夢見るように願っている。

 彼女の側にいることを、彼が願うことはできない。しかし来るべき未来に、崩壊ではなく、彼女が幸福に生きられる世界があるなら。それを見届けて、長すぎた命を終えることが出来るなら、それはどんなにか―――

「サディルナ? 目が覚めたかい?」

 意識が戻った時、寝台に横たわるサディルナの目に映ったのは、覗き込む、その人のひどく心配そうな顔だった。

 頭は朦朧としてひどく眠く、今がいつで、ここが何処か、自分が何故ここに居るのか、何ひとつ状況が分からない。けれどその人が誰かということだけは、彼女には当然のように分かった。

「ダイルグさま」

 囁くと、彼はほっとしたように目を細めた。

「良かった」

 覆い被さるように、彼がサディルナの体を抱き寄せる。彼女は少し驚いたが、包み込む温もりと、彼の匂いに安堵する。何かひどく、恐ろしいことがあった気がした。そのせいか強ばっていた身体が、あっという間に解れていく。

 それなのに、何故だろう。サディルナは戸惑った。圧倒的な安心が身を浸しているのに、同時に泣きたいほどに哀しい。それが何故なのか、混乱した今の彼女には分からない。

 悲しい。悲しい。大好きな人の腕の中にいるのに、私は何がそんなに哀しいんだろう。

「傷はほどなく治るだろうが、まだ安静にしなくては」

 サディルナの頰にそっと触れて、彼が言う。

 彼女は自分に言い聞かせた。忘れなさい。何も哀しいことなんてない。彼が側にいてくれるなら、怖いことなんて何もないのだから。

 だからどうか、ずっとどうか、このままで。

「おやすみ、サディルナ」

 優しい声とともに、彼女は意識を手放した。