鳥籠

 グレイがサディルナに出会ったのは、四十年と少し前のことである。

 当時のグレイは経験の浅い二十歳過ぎの若者で、教会の遍歴司祭だった。

 遍歴司祭は一言で言うと、ヴィールダルト直属の監察官である。大陸北部にある教会本部から派遣され、世界各地の教会を査察・監督する。

 個々の教会の運営に係る指示命令権など強い権能も持つ職だが、世界を飛び回るその性質上、丈夫で体力のある者が求められる傾向もあった。またその強い権限ゆえに相互監視の目的もあり、多くは二人一組で行動する。結果的に遍歴司祭には、年長の熟練者と頑丈な若者という組み合わせがしばしば見られ、安定的な能力と精神、加えて健康な肉体を持ったグレイに白羽の矢が当たった。

 かつてメニキアという国で、グレイが組んでいた上階(教会では階位が上の者をこう呼ぶ)に急きょ用務が生じ、単独で小教会の査察を任された時のこと。昨今話題の歌姫の話を聞いた。街の酒場や食堂を渡り歩くという、その美貌の歌姫の評判が妙に気にかかり、足跡を追った。その歌姫こそが、サディルナである。

(君は素精干渉者だ。素精干渉者は教会に保護されなくてはならない)

 勢い込んで語る初対面の自分を、胡乱げに見たサディルナの表情が、今でも浮かぶ。無理もないとグレイは思い出すたびに恥じ入るのだが、当時の自分は真剣そのものだった。

 遍歴司祭の主な仕事は、地方教会の査察と監督である。加えてあまり明るみに出ることはないが重要な任務として、素精干渉者の「保護」というものがある。教会は在野の干渉者を発見すると、女神の名の下に彼らを認知し、生活上その他の庇護を与える。通常それは、それぞれの地区を管轄する教会の職務であるが、遍歴司祭は場所を問わず、独自の判断で彼らの保護を行い、任意の教会に引き渡す権限を持っている。

 遍歴司祭の職務が、教会の監察という非常に事務的な面を持つにも関わらず、神官でなく司祭の領分となっているのはこのためと言われている。干渉者を判別することは、通常、神官には不可能なことであるからだ。

 教会が散らばる世界全体で見た場合、司祭は必ずしも素精干渉者ではない。村の小さな教会が一人の聖職者によって切り盛りされる場合、その者の職は司祭だが、同時に干渉者であるなどということは稀だろう。しかし教会の総本部であるヴィールダルトでは、司祭と神官は明確に分化しており、神に祈りを捧げる司祭の多くは、女神の息吹を感知する干渉者だ。グレイもその例に漏れない。

 グレイは素精に強く干渉する才能には欠けていたものの、その有り様を掴む能力に長けていた。彼には、素精が空間を揺らす、透明なさざなみのように「見える」。

 見えるといっても、実際に目で見ているわけではない。その証拠に、グレイは暗闇の中でも、目を閉じていても、素精を感知することはできる。しかしその場合も、彼自身は素精を「見ている」と感じており、その感覚を切り離すのは逆に難しい。

 素精を感知する機能は、常人が基本的に持つ五感、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚とは別の、謂わば第六感である。しかし多くの素精干渉者は素精を、肉体に付随した五感に寄せる形で捉えるという。最も多いのは、グレイと同じく、素精を視覚的に捉える者だ。しかしその「目」が映す様子は様々で、その様相を色彩として捉えるものもあれば、光の明暗のように捉えるものもある。

 なぜ多くの干渉者が、その感覚を敢えて五感に置き換えるのかは定かでない。仮説として、干渉者が素精を理解するため、五感という己の理解しやすい形に落とし込む必要があるというもの、また、肉体に依拠した五感に敢えて落とし込むことで、素精の感知を人が捉え得る範囲に限定し、自らを防衛しているのではないか、というものがあった。グレイの意見としては、どちらの説もある程度腑に落ちる。

 いずれにせよグレイにとって、素精は世界を満たす空気か水のようだ。それが密度の濃淡をもって、絶えず揺らいでいる。

 そんな彼が、かつて酒場で歌い始めたサディルナを見たとき、一瞬で、彼女が素精干渉者であることを悟った。それは彼が生まれて初めて見たような、とてつもない光景だった。

 声の波動が空気を震わすように、サディルナの周囲で、素精が深い波紋を作った。素精は歌う彼女の動きに応じて、彼女に懐くように慕うように、纏わり、舞い踊る。その神秘的とも異様とも言える光景を、グレイは呼吸を忘れて凝視した。

 素精干渉者に限らず、生きとし生けるものは、常に素精と影響しあって存在している。それは呼気が僅かに大気を震わすように、ごく自然なことだ。素精干渉者とは、そんな生命活動とは別に、自らの意思や能力でもって素精に影響を及ぼすことが可能な者を指すのだ。

 しかしグレイは、素精に対し、サディルナほどあからさまな影響力を行使する者を見たことがなかった。そのうえ驚くべきことに、彼女は自分のその力にまったくの無自覚だった。

 危険だ、と思った。この力は教会に管理されなければならない。彼女は教会に保護され導かれなくては。何より彼女自身のために。

 独り善がりであっても、そこに断じて悪意はなかったと、この人を守りたいと思った気持ちに偽りはなかったと、グレイは今も言い切れる。しかし幾度も思う。自分があの時、彼女を見つけなければ、過ぎた想いを抱かなければ、彼女の生きる道は、どう違っていただろう。

 四十年前、グレイと共にヴィールダルトを訪れたサディルナを待っていたのは、監禁同然の日々だった。


 サディルナという素精干渉者の特異性は、大きく言えば二つある。

 一つは素精を感知しないにも関わらず、素精に影響を及ぼしうるということ。もう一つは、その影響力が並外れて大きいということだ。

 そのいずれもが常識外であると、彼女に出会った当初からグレイも理解していた。だからこそ、教会の総本部であるヴィールダルトに、サディルナの保護を訴えたのだ。しかしグレイの理解はまだ甘かった。サディルナの特異性は、世界の教会を統括するヴィールダルトにあってさえ、想像外のものだった。最高位の司祭さえ、彼女に類似する存在を知らなかった。

 教会は彼女についての情報を鵜呑みにする前に、まずその真偽を疑った。素精を感知しないと言う、それ自体が虚偽ではないか。これは幾人かの素精干渉者を動員した実験の結果、ほどなく否定された。

 加えるなら、素精干渉者にとって、サディルナが素精を感知しないという事実は、寧ろ自然に了解される。干渉者は干渉者を判別する。ただそこに立っている時、サディルナと素精の関わりは、常人と何ら変わらない。

 しかし彼女が息を吸い込み、唇から歌を紡ぎ始めるとき、様相は一変する。

 それを目の当たりにした者にとって、その力に疑問の余地はない。彼女の力は、ヴィールダルト内部に、強さと同じだけの波紋を呼んだ。教会は、自らの懐に飛び込んだその奇異な存在を扱いかね、一部の司祭を除いてその存在を秘匿し、彼女を隔離された一室に閉じ込めた。

 この対応にグレイは猛烈に反発し、サディルナに自由を与えるよう上階らに訴えた。しかし彼らは、彼女の存在は脅威的であり、その力は慎重かつ適切に管理されなければならない。これはそのための方策だと言った。

 グレイは怒り失望し、サディルナを連れて出奔することさえ考えたが、そうはならなかった。サディルナ本人が教会の方針に従うと言ったからだ。

 ただし彼女は条件をつけた。これ以降、教会と彼女に関わることから、グレイ・リジェットを排除することは許さない。彼が認める場合にのみ、教会の指示に従うと。

 グレイはそれから数年、サディルナの観察と指導という職務を与えられ、ヴィールダルトのある一室で、専ら彼女と共に過ごした。その時間は、グレイが出会って彼女の旅に同行した時間よりも長い。

 サディルナは当時、教会の庇護の下、衣食住に不自由することはなく、書物など情報の入手についても可能な限り便宜を図られたが、敷地内で一人出歩くことも許されなかった。そして日々、言うなれば研究対象として、司祭らによる様々な問答や実験に付き合った。

 教会には教会の必要性や妥当性があったとしても、サディルナが受けた扱いは、グレイにとっては非人道的で認めがたいものだ。しかしサディルナ本人はというと、その境遇自体に怒りを感じている様子も、悲観している様子もなかった。それはどこかグレイに、そういう扱いに慣れている、という風情を感じさせた。

 そしてそれ以上に、サディルナという人は、不思議に前向きなところのある人間だった。

 彼女は無闇に悲嘆に暮れたり、自己を憐れむことがない。誰かや何かを責めて満足することもない。脇目を振らず、振り返らず、自分が今すべきことを探す。彼女はそういう善性と呼ぶべき特性を持っている。

 最悪に近いところから始まった教会との関係においても、同じことが言えた。サディルナは己やグレイの意に反しない限り、彼らの研究に熱心に協力した。 

 自分で素精を感知することができないサディルナは、そのうち、素精を感知するということはどういうことか、人は素精にどう影響を与え、それにより何が可能となるのかということについて、非常に強い関心を持った。そしてついには、書物を集め、逆に司祭らに聴取を行い、自らの意思で一種の研究を始めた。

 これに驚かなかった者はいない。教会の態度は表面上紳士的だったものの、サディルナは囚われの身に違いなく、その立場はけして呑気でも穏やかでもなかった。それは十分理解しているだろうに、研究対象である彼女が何と自分で研究などを始めてしまったのだ。

 但しサディルナは、彼女自身の研究については変わらず他者に任せ、自分は世の素精干渉者達を対象とした。これはその方が有用と判断したからでもあるし、教会の無用な警戒を生まないためでもあった。

 教会がサディルナを警戒した理由のひとつに、『絶対拒否権』というものがある。

 これはかつて誰かが皮肉げに使った表現ではあるが、わかりやすくはある。サディルナが何らかの指示に従うことを拒絶した場合、それを彼女に無理強いすることはできない。それを示した言葉だが、これは比喩でも、はたまたただの揶揄でもない。

 何人たりとも彼女の意に反して彼女を動かすことが、不可能だという「事実」だ。

 グレイは旅の最中も含め、その実例を幾度も見たことがある。サディルナが心底拒絶した場合、相手はそれを行う自由を奪われる、と言えばいいだろうか。遭遇したある者は、前後の意識が消えたと言い、ある者は身動きが取れなくなったと言う。

 同様の場面に直面した、あるヴィールダルトの高位の司祭は、ただ一言、「これは無理だな」と言った。

 サディルナはこの力についても、やはり意図して行使していない。現象の理屈ははっきりとしないが、彼女の素精に対する強い影響力と関連しているのは間違いないだろう。ある者は、彼女は無意識に、相手に満ちる素精に直接命令を下しているのだと言う。

 グレイは彼女にこの、人の意のままにされない力があったことが、正義を掲げる教会とサディルナの双方にとって、幸いだったと思っている。しかしこの絶対拒否権という威力がまた、一部の彼女に対する警戒を増したことも事実だ。

 教会の重鎮を含む殆どの者は、サディルナに接するうち、彼女が教会にいたって従順で、可能な限りの譲歩をしていること、彼女の人間性そのものに、攻撃性や高い危険性はないということを理解していた。それでも、その力は捨て置けるものではない。

 なるほど彼女はその力を積極的に行使することはなく、その技能もないのかもしれない。しかし果たして、将来的にもそうだと言いきれるか。或いは彼女の意思はどうあれ、その力を利用しようとする者が現れればどうなるか。いずれにせよこの特異な存在が、教会の守る秩序にとって、危険な種であることに変わりはない。

 一方のサディルナは、教会に対して譲れぬ線は守り、必要な主張はした。しかし自身を常に守ろうとするグレイがその立場を悪くすることを望まず、教会を無闇に刺激することはしなかった。自らの力を行使しようとはせず、知覚できないそれを制御する方法だけを模索した。

 そうしてグレイが出会った歌姫は、いつしか自由に歌うことをやめた。