微睡み

「ウェルズ司祭! お身体はよろしいのですか?」

「大丈夫よ。有り難う」

 建物に入るなり顔見知りの司祭に声をかけられ、サディルナは微笑みを返す。

「突然やってきて申し訳ないのだけど、シリング司祭は、おられるかしら」

「お待ちください、すぐに伝えて参ります」

 早足に去った彼女を見送って、サディルナはそんなに急がなくていいのに、と思う。自分でここを訪れながら、心構えの全く出来ていない彼女は、研究室に戻りたい気持ちで一杯だった。

 ここは教会本部の一画にある、遍歴司祭の詰め所である。室内は広いが人は疎らで、机の半数程度しかいない。地方教会の監察を本務とする彼らは、ヴィールダルトを離れていることが殆どだ。

 サディルナは数少ない人から向けられる好奇の視線を感じたが、不審がられている様子でもないのは、昨日の事件が知られているからだろう。負傷したサディルナを救護したのは、彼らの上階であるダイルグだ。意識を失っていたサディルナ自身、それを見たわけではないのだが、医務室で目を覚ました際にダイルグが傍に居たという、ぼんやりとした記憶はある。

 戻った司祭に促され、奥に進むと、突き当たりの部屋から、今度は若い助祭が慌てた様子で飛び出した。

「ウェルズ司祭、お待たせして申し訳ありません! シリング司祭はこちらです。どうぞ」

「いいえ、お邪魔してごめんなさい」

 恐縮する彼に笑顔で答えながら、サディルナは奇妙に思う。何故彼らはこう、妙に浮き足だっているのだろう。自分が落ち着かないから、過敏になっているだけだろうか。促され、サディルナは内心渋々と、部屋に足を踏み入れた。

「おはよう、サディルナ。元気そうで何よりだ」

 喜色を浮かべて迎えるダイルグに、サディルナはぎゅっと、心臓を掴まれたような感覚に襲われる。立ち尽くすサディルナの背後からやってきた女性に、ダイルグは素早く声を掛けた。

「有り難う。後は私がやるから、置いておいてくれ」

 女性は茶を載せた盆を執務机に置いて去り、サディルナの背後で扉は無情に閉じた。部屋には二人しかいない。サディルナは居心地の悪さを感じ、今更のように「お邪魔します」と小さく口にした。そんな彼女を、ダイルグは大きく腕を広げて室内へ促す。

「身体はもう何ともない?」

「何ともありません」

 ダイルグは「そうか」と微笑む。

「先ほど、カヴァーリアが報告をくれてはいたんだが、会えて嬉しい。用向きは何かな?」

「昨日、怪我をした私を診療所に運んだのは貴方だと聞きました。その後も色々、迷惑をかけたから。そのお詫びにと思って」

「それはわざわざ有り難う。けれど君に関することが、私にとって迷惑ということはないよ。ともかく、そんな入口に立っていないで、座って」

「その、私、長居するつもりは」

「お茶を用意して貰ったんだ。君はまだ休んでいるべきと思うが、もし私に恩を感じて来てくれたなら、一服くらいは付き合って構わないだろう?」

 彼の言い分はもっともで、反論できないサディルナは、「少しだけ」とやむ無く椅子に腰掛けた。

 ダイルグが茶の支度をする間、手持ち無沙汰なサディルナは、部屋をぐるりと見回した。広いとは言えない一室だ。執務机の背後に古びた書棚があり、残った狭い空間に、応接机と椅子を詰め込んである。

「君は、この部屋に来るのは初めてだったね」

「ええ、まあ」

 サディルナは気まずく応じた。敷地内であっても必要がなければ出歩かない彼女が、ましてダイルグの領域に近寄ることはない。サディルナが前回この建物を訪れたのは何年も前で、当時、遍歴司祭の長であったダイルグが使っていたのは、もっと広い一室だった。

「ここは随分、質素なのね」

「隠居のような身だからね。不在も多いから、この程度で事足りるんだ。偶に来てくれる客人には申し訳ないけどね。どうぞ」

 茶を受け取ったサディルナは、それを口にするなり眉を顰めてしまい、自分を内心窘めた。この茶がそこまで不味いわけではなく、ティルネの茶葉とライールの腕が特別なのだ。自分はすっかり贅沢に慣れてしまっている。

 そんな彼女の様子に気付いてだろう、正面から笑いを堪える気配がしたので、サディルナはダイルグを睨むように見る。ダイルグは案の定、口元を押さえて、楽しそうに彼女を見ている。しかし改めて見ると、いつもどおり涼しげな彼の、髪や衣服が、少しくたびれているように見えた。

「……昨日は、ここに泊まったの?」

「やはり気に掛かったからね。結果として、何も大事がなくて良かった」

 そう言って向けられる笑顔は、紛れもない慈しみに満ちていて、サディルナは息を詰まらせる。

 彼女は幼い頃、彼のこんな笑顔がこの世で一等好きだった。彼が笑いかけてくれるだけで、特別な贈り物を貰ったような気持ちになれた。その頃に抱いた想いを、まさしく昨日のこととして思い出せるのに、今のサディルナは心臓を握りつぶされる想いがする。

 今朝目覚めてからずっと、彼女の胸の裡にはひとつの疑問が暗く渦巻いていた。それは、ダイルグが昨日の出来事を、果たして予測していたかということだ。サディルナの目に、レストバーの行動は極めて衝動的なものに見えた。なら予測は不可能だったかもしれない。一方でサディルナには、その凶行をダイルグが事前に察知していたとして、止めはしなかっただろうという確信がある。

 負傷したサディルナを手当し、診療所に運んだのはダイルグだ。しかしサディルナは知っている。ダイルグがサディルナを助けたのは、彼がそうしてもしなかったとしても、彼女が死なないという結果に変わりがないからだ。重傷を負ったのが彼女でなくファーレンであったなら、ダイルグはおそらくファーレンの命を、自身が見守る運命の手に委ねただろう。たとえその結果、ファーレンが命を落とすとしても。

「どうかしたかい?」

「なんでもありません」

 気遣わしげな眼差しから、サディルナは堪らず目を逸らした。机に落ちた視線の先に、紙の束が映る。彼女の目を追ってダイルグが呟いた。

「それは先日、私が大祭司に提出した報告書だね」

 そこにあるのは、先ほどファーレンから受け取った『消失』案件の報告書だ。サディルナは、心が急速に冷え込むのを感じた。

「貴方はどんな顔をして、これをファーレンに差し出すの」

 顔を歪めて言い捨てたサディルナに、ダイルグはやや困った表情をする。

「誤解があってはいけないので言うが、その中身は信頼してくれて構わない。現地の者はよくやってくれた」

「結果を知っているも同然の、あなたの指示の元にでしょう」

「それは買いかぶりというものだ。その報告書にある事実は、私も初めて知ることばかりだよ」

 サディルナは、「買いかぶり?」と肩を震わせた。

「この世界について、ファーレンが知りたいと望む答えの殆どを、貴方は知っているのに?」

 ダイルグは今度は否定しなかった。サディルナの視線を受け止めるように見返し、「前にも言ったけれど」と口を開く。

「もし君が辛いなら、あるいは必要と思うなら、私についても、彼に話して構わないよ」

 淡々とした声音に、サディルナは息を飲む。

 ダイルグ・シリングは、紛れもなく正式な『教会』の司祭である。数十年の長きに渡り、職務を忠実に果たしてきた彼の、女神に対する誠実を疑う者はいない。しかしサディルナは、彼が司祭として教会に現れた当初から、素性も、姿も、能力や見識さえ偽ってここにいることを知っている。サディルナが知る限りのことをファーレンに告げるだけで、ダイルグは様々な追及を免れない。しかし。

「私がそうしたところで、あなたは姿を消すだけのことでしょう」

 サディルナの指摘に、ダイルグは薄く笑った。サディルナはそれを肯定と受け止め、膝の上で衣を握りしめる。

「貴方は狡い」

「……狡い?何がだい?」

「貴方は私がそれを言わないと思っているのに、そんなことを言うんだわ」

 この三十年、サディルナは彼女の知るダイルグという存在について、ファーレンはおろか親友のグレイにすら語らなかった。彼女はダイルグの、周囲を欺く有り方を許容できない。それにも関わらず、彼の行いを阻むことも、居場所を奪うことも出来なかった。

 それを当然知る筈のダイルグは、サディルナの言葉に目を瞬き、意外そうに彼女を見た。

「私も決して、そこまで思い上がれてはいないよ。……けれど正直に言えば、君が言わないでいてくれたら、と思ってはいる。私は、ここを離れたいと思ってはいないから」

「好きにしろと言っておいて、そんな物言いは卑怯だわ」

 「まったくだ」と、ダイルグは苦笑した。

「今のは失言だ。どうぞ忘れて」

 サディルナが知るダイルグの正体は、冷徹な、世界の傍観者だ。愛情深く誠実そのものの顔をして、人を欺き、人に偽り、身近な者の命を見捨てることも厭わない。それなのに、どうして彼はいつも、こんな目で彼女を見るのだろう。

「出来損ない」の哀れな子どもに、彼が与えてくれた優しさを、温かさを、サディルナが偽りだと思ったことはない。いっそすべて紛いものだと思えたら良かった。そうすれば彼女は、最愛の姉を無情に見捨てた彼を、憎むことだって出来たのに。

 サディルナは茶を一気に飲み干し、器を置いた。

「もうお暇します。昨日はお世話になりました。今日は、それを言いたかっただけ」

 会話を打ちきるように形だけの感謝を告げてから、真実、伝えなくてはならないことがあると気付く。

「ライールを、私から庇ってくれて有り難う。本当に、感謝しています」

 ダイルグは昨日、記憶を失ったサディルナの無神経な言動から、ライールを守ってくれた。ダイルグがいなければ、彼女はライールをどれだけ傷つけてしまっていたか知れない。

 ダイルグは微笑んだ。

「何のことはない。彼を哀しませるのは、君の本意ではないと思ったからだよ。君は、昨日のことを全部覚えているんだね」

 避けたかった指摘に、サディルナの顔が一瞬で朱に染まる。襲いかかる羞恥に、黙って居られず言う。

「あなたから見て、昨日の私は、さぞ滑稽だったことでしょうね」

「そんな風には思っていない。懐かしくは、思ったけれどね。君はそれこそ普通の状態でなかったのだから、気にすることはない。私は昨日のことを取り沙汰して、君にどうこう言うつもりはないよ」

 ダイルグは反応を待つように言葉を切ったが、サディルナは顔を上げない。少し考えるように間を置いてから続けた。

「かつての君が、私を慕ってくれたのは」

 サディルナの肩が、ぎくりと強ばる。

「リエラの他には私しか、君を肯定する者が居なかったからだ。自分に選択肢のなかったことを、恥じる必要はない」

 サディルナはゆっくり顔を上げた。

「君はあの場所から『外』に出て、多くを知り、多くの人を得、自らの居場所を掴んでここにいる」

 そう語る、ダイルグの姿も声も、あの頃と変わらない。

「その君が、過去の自分を気に病むことはない。昨日のことは、ちょっとした夢だと思えばいい」

 サディルナは俄に荒く息を吸い込み、椅子から立ち上がった。ダイルグは目を見開いて彼女を見上げる。

「サディルナ」

「そんなふうに」

 彼女の両脇で、握りしめた拳が震える。

「そんなふうに、言わないで」

 怒りに似た感情で、頭の芯が煮え立っていた。その想いのまま、彼に向かって言葉を吐き出す。

「あの頃の私が、狭い世界に生きていたとして。何も知らなかったとして」

 『外』に出て数十年、サディルナは確かに、生まれついた場所では到底得られなかった、かけがえのない多くを得た。

 しかし彼女は、あの小さな世界で、自分が与えられたものが間違いだったと、一度も思ったことがない。姉と、彼がいた箱庭になら、永遠に縛り付けられたとして、彼女はきっと自分が幸福だと思っていられた。

「私の大切な人が、ほんの僅かしかいなかったとして、それが私にとって、特別でないということにはなりません!」

 叫ぶように言ったサディルナは、机の報告書を掴み、脇目を振らず扉へ向かった。しかし一瞬の後、その勢いを、強い力が止める。振り返ると、ダイルグの指が彼女の左手首を掴んでいた。反射的に逃れようとするが、腕はびくともせず、彼女は立ち竦む。

 彼女を至近から見下ろすダイルグが、空いた手を彼女に伸ばした。サディルナは身体を強ばらせる。

「昨日、倒れた君を見て」

 彼の手は、サディルナの顔の横を抜け、彼女の側頭部にそっと触れた。それは彼女がレストバーに殴打された箇所だが、負傷の痕跡は既にない。

「君の目が、このまま開かなかったらと、ずっと思っていた」

 そう囁く顔に笑みはなく、いつも柔らかな表情に隠された、鷹のような目が彼女を射竦める。彼の手と視線に自由を奪われ、サディルナは自分が獲物になってしまったような恐怖と、湧き起こるそれと相反する感覚に身動きができない。

「君が無事で、本当に良かった」

 安堵を表情ではなく声に滲ませて、彼はまるで、この世に見るべきものが他にないかのように、サディルナを見つめている。それを錯覚だと理性は叫ぶのに、目を背けることも出来ず、サディルナは怯えた。

 見透かされてしまう。震える心を、早鐘を打つ心臓を。彼女自身が見ぬ振りをしている想いの数々を。

「離して」

 サディルナは震える声を絞り出した。

 ダイルグに向ける想いは、サディルナにとって、覆い隠した傷そのものだ。まともに受け止めれば、弱い彼女の心は砕けて、立っていられない。それは許されなかった。最愛の姉の側を離れ、手の届かない場所で死なせてしまった彼女には、なすべきことも果たさずに、膝をつくなど許されない。

「お願い」

 手首を捕らえた力が緩んだ。引き抜いた手を胸に抱き締め、サディルナは逃げるようにその部屋を後にした。