微睡み

「あのお二人は、一体どういうご関係なんだろう」

 研究室を出て、渡り廊下を歩きながらカヴァーリアが独り言のように呟いた。といっても、傍らのライールに向けた言葉には違いないのだが、ライールは自分が知りたい、と返したいところだった。

 辺りはもう薄暗く、人気はない。ダイルグと彼らはサディルナを連れて研究室に戻り、ライールとカヴァーリアの二人は夕食を取りに出たところだった。サディルナに朝夕の食事を運ぶのは、ライールの役目だ。今朝だって同じ道を通ったのに、あまりに時が隔たってしまったような気がする。

「カヴァーリアは、あの人とサディルナは、仲が悪いんだと思ってた?」

 ライールは彼女に答える代わりに尋ねた。あの人とは無論、ダイルグのことである。

 カヴァーリアは、少し考える風にした。

「研究室にお邪魔するようになる前はね。お二人は司祭の中でも華やかで目立つ方だから、仲が険悪だというのも有名な話なんだ。といっても、ダイルグ様の側は明らかに好意的だし、そもそも人と敵対する方ではないから、中にはあの方が昔、サディルナ様にしつこく言い寄って、嫌われてしまったのだなどと、口さがなく言う者もいる」

「そうなの?」

 ライールは初耳だった。徒弟の間でも、身近な神官や司祭については下世話な内容も含めて話題になるが、あの二人は徒弟程度が事情を知るには高位すぎるのだろう。

「そうなんだ。しかもダイルグ様は、そういう噂を必ずしも否定なさらないから、好き勝手に憶測されている。とはいえ、お二人は尊敬されておいでだから、そう聞くに堪えない噂もないが。ちょっと座ろうか」

 二人は、少し高くなった縁石に腰掛けた。食堂の近くは住み込みの関係者の居住区であるため人気が増えるが、この辺りはまだ静かだ。人々は既に今日の仕事を終え、職場を去っているのだろう。

「私がサディルナ様の所に通うことになった時、ダイルグ様は私に、サディルナ様の前で自分を話題にしないよう仰ったんだ。彼女に嫌われているからと。サディルナ様とお話してみると実際、ダイルグ様のことを余り良く思っていない仰りようだったから、評判は事実なんだなと、最初は確かに、そう思っていたんだが」

 カヴァーリアはそこで言葉を止め、困った表情になる。ライールには彼女の気持ちがよく分かった。

「私は、自分の目で見て感じたことと、お二人が司祭として同期のようなものとしか知らない。ライールはお二人に詳しいのか?」

「俺の亡くなった祖父が、二人の昔からの友人なんだ。それ以外については、あまり」

 ライールはサディルナの人となりに詳しくても、あの二人の関係について知っていることと言えば、カヴァーリアと大差ない。つまりほぼ何も知らなかった。

 但し、ライールが絶対的な事実として認識していることがひとつある。それは祖父のグレイが、若き日にサディルナへの恋に破れた理由、サディルナの「特別な人」が、ダイルグであるということだ。グレイはそれを誰と明言しなかった。しかしライールはそれがダイルグだと確信していたし、今日、その確信を深めざるを得なかった。

 黙り込んだライールに、カヴァーリアは質問を重ねたりはしなかった。カヴァーリアは元来、他人についてあれこれ詮索する下世話な性質ではない。先ほどは、目にしたものへの衝撃のあまり、率直に疑問を口にしてしまっただけなのだろう。

 ライールはカヴァーリアの節度と心遣いに触れ、己の醜態を思い起こす。

「カヴァーリア、今日は色々とごめん。迷惑をかけたし、俺の態度もずっと悪かったと思う」

 ライールの謝罪に、カヴァーリアは朗らかに笑った。

「気にするな。何も迷惑とは思っていないし、サディルナ様に大事があったのだから君が動揺するのは当然だ。私があれこれ動けたのは、さほど動揺してなかったからに過ぎないよ。私もサディルナ様が心配だが、君とは付き合いの深さが違う」

「そうかな……」

 サディルナの拒絶も露わな眼差しを思い起こし、ライールは胸に大きな穴を穿たれた気分になる。

「サディルナは俺を嫌がってたし、あなたの方が警戒されてないみたいだったよ」

 子どもっぽい言い草を自覚しながら、ライールは切なくて、そんなことを口にしてしまう。カヴァーリアは、「ばかだな」と言った。

「サディルナ様も動揺しておいでだったから、君の必死さに、つい怯えてしまわれただけだよ。私のことにしても、サディルナ様の言葉どおりなら、あの方には姉君がおられるんだろう。きっと年上の女性に耐性があるんだよ」

 ライールはそれだけではないだろうと思いながら、サディルナの家族についてグレイが語っていたことを思い出した。

「サディルナには姉さんがいて、教会に来た頃にはもう亡くなってたって聞いたことがある」

「サディルナ様は、二、三十歳の時分からここにおられる筈だ。姉君がご存命ということは、今のサディルナ様の認識は、本当にお若い頃のものということだな」

 そのカヴァーリアの推測は正しいだろう。『老いぬ者』であるサディルナの姿は、そもそも実年齢と違い若い女性のものだが、今日のサディルナの言動は、そんな見た目より更に幼く、まるで少女のようだ。

 それにしても、とライールは思う。サディルナの意識の幼さが止むを得ないものとして、ダイルグに頼り切った様子は何だろう。ライールはこれまで、あの二人は外見年齢に差はあれど同年代だと思っていたし、実際に彼らはそのように振る舞っていた。しかし今日見た二人の様子は、対等という言葉からは、かけ離れたものだ。

 怯えるサディルナはダイルグに縋ったが、だからといってその様子は、恋人同士のそれとは違う。友人ではなく、親子でもない。しかしダイルグが彼女を宥める様子は、年の離れた保護者のようだった。

 ダイルグは、サディルナの異変に最初こそ動揺したものの、その後は何ら違和感を覚えている様子がなかった。あのサディルナの様子は、ダイルグにとっては過去に見知ったものなのだ。信頼と敬慕を露わにダイルグに縋るサディルナと、それを当然のように受け止めるダイルグの姿を思い出し、ライールの胸に言語化できない、もやもやとした気持ちが湧き起こる。

 彼ら二人はサディルナの研究室に残っている。どんな言葉を交わしているのだろう。今もサディルナはぴったりと、ダイルグの腕に手を絡ませているのだろうか。ライールは一刻も早く研究室に戻りたいような、このまま戻りたくないような、相反する気持ちに苛まれた。

「ライールは兄弟がいるのか?」

 カヴァーリアに問われて、ライールははっと我に返り、慌てて答えた。

「いや、いないよ。カヴァーリアは?」

「いない。だからまあ、勝手な印象の話でしかないんだが」

 カヴァーリアは、はっきりと目を開いて人を見る。真摯な眼差しだが、不思議と圧迫感はない。

「私は、君とサディルナ様を見て、年の離れた姉弟のようだと思っていたんだ。愛情があって、互いを思い遣っている」

 そんな風に思われていたとは初耳で、ライールは驚く。彼女は優しい声で続けた。

「無責任に聞こえるだろうが、私には、サディルナ様が君を忘れるとは思えないんだよ。きっと大丈夫だから、気落ちせず、ひとまずできることをやろう。サディルナ様は今、君より年下の少女のようなものなんだ。あの方がこれ以上、怯えなくていいようにね」

 それは慰めというだけでなく、訓戒とも聞こえたが、ライールの心に素直に落ちた。彼女の言葉は正しい。サディルナを不安にさせることは、自分の仕事ではない。そこにダイルグがどうとかは関係ない。

「うん。有り難う、カヴァーリア。もう行こうか」

 カヴァーリアは微笑んで頷いた。