angraecum

 葬儀の朝は雨だった。始まる頃には止んでいたが、足元はその残滓でぬかるんでいる。

 グレイの葬儀は、前司祭長のものとして、教会が取り仕切った。そのため、身内であるグレイにも特段の役割はなかった。

 大司教座の聖堂で行われた葬儀は、荘厳かつ厳粛で、栄誉なものであったろう。しかしライールは、哀しみで頭がぼんやりとしていて、目の前の景色が、今ひとつ現実のものと思われなかった。

 両親はまだ埋葬について打合わせる必要があり、ライールは先に帰宅するよう告げられたが、教会の広い敷地を何処に行くともなしに歩いている。家に帰って一人、祖父がもう其処にいないことを確認したくないのかもしれないと、頭の隅で思った。

(そういえば、あの人に、挨拶もできてない)

 遠目に見た彼女のことを思い出す。司祭服を纏ったサディルナ・ウェルズは、故人の身内ではなく、教会の関係者として列席していた。聖堂には百人近い教会関係者がいたが、その中でも彼女の容貌は目立つ。礼装の広く長い襟は、若々しい容姿と裏腹な高い位階を示しており、控えめな好奇の視線を集めていた。

 サディルナは五度にわたって病床のグレイを訪れた。彼女は一度ヴィールダルトから医師さえ伴ってきたが、その甲斐もなく体調を日々悪化させたグレイは、二日前の夕方、家族の前で息を引き取った。

『そんな悲しそうな顔をしないで』

 憂いを増すサディルナと裏腹に、グレイには笑みを絶やさなかった。辛くも苦しくもなかった筈はないのに、そんな姿を彼女には見せなかった。

『君が笑っていてくれるなら、私は幸せなんだから』

 祖父の笑顔を思い出し、ライールはサディルナがどこかに見つからないかと塀の内を彷徨った。幸運なことに、労せずその姿を見つけることができた。しかし、彼女は一人では無かった。

 人目につかない礼拝堂の裏手、彼女と同じ深い緑の司祭服を纏った男の前で、サディルナは身を震わせて泣いていた。両手は相手の胸元を鷲掴み、ぶつかるように折れた身体は、今にもくずおれんばかりだった。

 その二人の距離の近しさと、相反する悲壮な様子に、ライールは建物の死角で立ち尽くした。

 ライールからは半ば背を向けた男の顔も表情もよく見えない。しかし視線の先で、震えるサディルナを支えるでもなく下ろされていた手が、ふいに彼女の長い髪を、掠めるようにそっと撫でた。

 足元がじゃり、と音を立てた。視界の隅で、男がこちらを振り返る。ライールはそのまま目を背け、逃げるように走り去った。出て行けないのは当然のことながら、何故走り出してしまったのかはよくわからない。

 家に向かう道を一目散に駆けながら、ライールはその男が誰かを思い出した。


 翌日の埋葬では、サディルナと顔を合わせることができた。サディルナは素朴な司祭服に身を包んでいたが、この日は故人の友人として、ライールやティルネら身内の傍にいた。

 彼女の腫れた瞼には涙の残滓があったが、家族の前で悲しみは見せず、涙を零すティルネを、姉か叔母かのように慰めていた。土に埋まっていく棺を見、グレイとの断絶に息を詰まらせながら、ライールは祖父の最後の言葉を思い起こす。

『この身は朽ちても女神の腕に還り、命は女神の息吹となってこの世に満ちる。けして、寂しくはないよ』

 あるかなしか笑みと、女神の従僕に相応しく、彼らしい思い遣りに満ちた言葉を最後に、グレイは息を引き取った。

 ライールは、傍らでティルネを支えて立つサディルナを見た。凜とした姿は、昨日見た打ち拉がれた様子が嘘だったかのようだ。

 視線を更に動かすと、視界の隅に、昨日サディルナと共に見た男の姿が映った。司祭服を纏った長身の男は、悼む人々の円から外れ、遠目に埋葬の様子を見守っている。知らぬ者なら、グレイとあまり縁がない人物だと思ったろうが、ライールは男の素性を知っている。

 名はダイルグ・シリング。ヴィールダルトの教会に属する司祭で、彼もまた、グレイの古くからの友人である筈だ。グレイが亡くなったその日、丁度家に見舞いにきており、ライールはその一事によって、彼の存在を記憶していた。

 グレイは話し疲れて眠ってしまったと、ダイルグは家族に長居を詫びた。帰り際に「君はグレイと良く似ているね」とライールに微笑んだ男は、グレイと同じ年頃の筈だが不思議と若々しく、一度会ったら忘れないような人物だった。

 彼が訪れた夜、グレイは一度目を覚まして家族と言葉を交わした後、永遠にその目を閉じた。

 今、ダイルグがなぜ、親しい友人に最後の別れも告げず、この場を遠巻きにしているのかはわからない。ライールが怪訝に見つめるうち、彼は墓所に背を向けて去った。

「サディルナのところのジェイルさんが、今度辞めるらしいんだ」

「ええ? 初耳だわ、一体どうして?」

 食卓に夕食を並べていたティルネが、帰宅した夫の話題に猛然と食いつく。炊事場のライールも、思わず振り向いて聞き耳を立てた。ジェイルは、ヴィールダルトの教会本部にあるサディルナの研究室で、彼女の身の回りの世話をしている女性である。

 ライールの父・アシュレは、リアムの大司教座教会に属する神官であり、ジェイルが近々、遠方に移る息子夫婦に同道して教会を去るらしいと同僚に聞かされた。教会本部にしばしば用務のある同僚は、一家がサディルナを気にかけていることを知っており、いつもそれとなく彼女の様子を窺ってくれるのだ。

「ジェイルさんも、もう六十近かったかしら。それは仕方ないかもしれないけど、代わりはどうなるの?」

「それがどうやら、サディルナが必要ないと言ったらしくてね。本人が、身の回りのことは自分で出来るからって」

 パン籠を食卓に置くライールの向かいで、ティルネが大袈裟に眉を顰めた。

「冗談でしょう? そしたらあの人、あの研究室で一人じゃない」

「そうは言っても、教会の敷地内だから危険はないだろうし、食事や洗濯なんかは奉仕も受けられると思うんだけど」

「様子を見てくれる人が居てくれるのと、居てくれないのじゃ大違いよ。あなたも見たでしょう、あの人の研究室!」

 ライールは一年前にヴィールダルトを訪れた際に見た、研究室の様子を思い浮かべた。サディルナは寮に入ることも敷地外に家を構えることもなく、教会にある自分の研究室で起居している。

 研究室といっても、書斎を中心に複数の部屋で構成された空間で、一人にあてがわれるには贅沢すぎると思えるほどのものだ。しかしそこで一家が見たのは、うずたかく書物と書面が積まれ、机につく者の姿も見えない書斎の有様と、荒れた髪を雑に一纏めにした、類い稀な美貌も形無しな主の姿だった。

 書斎とその主とは異なり、他の共用部分は綺麗に清められ、控えめに花さえ飾られていた。サディルナが身支度を調えるまで、茶と手作りの菓子で一家を歓待してくれたジェイルは、物静かだが柔らかな笑顔の女性で、ライールに祖母のアリスを思い起こさせた。

 ジェイルのような細やかな世話人が不在となれば、サディルナとその居室の行きつく先は、ライールにも想像に難くない。

「サディルナったら、この間、そんな話全然しなかったじゃない」

「彼女らしいね」

「のんきなこと言わないでよ。ああ、何とかならないかしら」

 その話題に関する両親の遣り取りを、ライールは夕餉を口にしながら黙って聞いていた。その後、食事の片付けを済ませたが自室に戻らず、気をひかれて祖父の寝室の扉をあける。

 窓を開けると、月の光が部屋を浮かび上がらせる。グレイの部屋は、彼が亡くなった後もこまめに掃除され、多くがそのままにされている。

 ぼんやり部屋を眺めながら、文机の椅子を引く。彼自身、病床にある祖父と話す際、幾度となく使ったものだ。ライールは、同じこの椅子に端然と座る、サディルナの姿を思い浮かべた。

(あの人は、寂しくないのかな)

サディルナがジェイルと共に居る様子を、ライールが見たのは一度きりだが、二人の関係はとても良好であるように見えた。時を経て、友人のグレイが亡くなり、長く共に過ごしたジェイルも居なくなる。可憐な花の彩りも、茶の薫りもなく、サディルナはあの研究室で一人、書に埋もれるように毎日を過ごすのだろうか。それは一体、いつまでのことなのだろう。

 サディルナのような『老いぬ者』は長命なのかと、ライールはグレイに訊ねたことがある。サディルナが見舞った後は、グレイの体調が一時的に上向くことが多く、ライールはグレイとよく彼女の話をした。

 ライールがサディルナについて尋ねると、グレイは大抵嬉しそうにしたが、その時は少し顔を曇らせた。「必ずしもそうとは言えない」というのが彼の答えだった。

「若い姿のままで、百を超えて生きた方も知っているが、一方で、短命な人もいる。『老いぬ者』の身体の老いは、見た目どおりに止まっているようだが、それなら長く生きられるというものでもない」

「それは、若いだけで普通の人間だから? 食べられなければ死ぬとか、病気にかかるとか」

 グレイはどう答えるか、思案する様子を見せた。

「それはそうだろう。けどそれだけではなく、『老いぬ者』は、強い力を持った素精干渉者に多いんだ。その人々は感受性が強くて、心がとても繊細なことが多い」

 長く生きられる身体を持っていても、心がそれについて行かずに死に至るということだ。弱った心が身体に悪い影響を及ぼすのかもしれず、或いは最悪、自ら死を選ぶということだろう。グレイが濁した言葉から、ライールはそう意味を汲み取った。

「人と違う、抜きん出た能力を持つということは、そもそも人に理解されない孤独と隣り合わせということでもある。そのうえ周囲と、同じ時の流れに生きることさえできないというのは、どれだけ過酷なことだろうね」

 祖父は深い同情を込めて言ったが、彼もまた、その「人と違う」素精干渉者の一人なのである。ましてグレイの家族には、誰もそんな能力の持ち主はいなかった。

 孫の物問いたげな視線に気付いて、グレイは「私の力は大したものではないから」と笑った。

「じいさんは、つらいとは思わなかったの?」

 率直な問いにも、グレイの笑みは揺るがない。

「子どもの頃は辛かったな。力そのものより、人に自分が、何か違うものとして見られるのが辛かった。両親の側にも自分の居場所がない気がして、この家を出て行ってしまった」

 出て行ったその家に、今、彼はいる。

「今はこの力があって良かったと思ってるよ。素精干渉者であることで、私には出来ないことよりも、出来ることの方が多かった。教会にいたから、彼女にも会えた」

 ライールにも、彼女とは誰か問うまでもない。

「『老いぬ者』はさっき言ったとおり、確かに長命とは限らない。でも私は少なくとも、サディルナは長く生きるだろうと思っている。彼女はとても逞しいし、心の強い人だから」

 どこか悲しげに目を伏せたグレイに、ライールは祖父の、言葉にしない想いが伝わる気がした。変わらぬ姿のまま、彼女はどう生きていくのだろう、と。

 ライールがこの家で初めてサディルナを迎えた日、ティルネはサディルナに「あなたを一人にしていたくない」と言った。その時には過剰なお節介にも思えた想いの根源はここなのだと、祖父と話したその時、ライールは理解した。

 サディルナとティルネは、今でこそ、歳もさして変わらぬ姉妹のように見える。しかしあの二人が出会った時、ティルネは赤子かほんの幼い少女に過ぎず、母親と変わらぬ若さのサディルナを大きく見上げ、或いはその腕に抱えられていたのだ。

 ライールにはその感覚が、真の意味では理解できない。しかしサディルナを長く知れば知るほど、彼女と自分達を引き裂く、残酷な時の流れを意識せざるを得ないのだろう。ティルネからしてそうなのだから、グレイについて考えるまでもない。出会った頃のまま、何十年も変わらぬ彼女の姿を見つめて、グレイは生きて来たのだ。

 グレイが衰弱していく身体を抱えて恐れたのは、自分の死より、それによってサディルナを置いていくことだったのではないかと、今のライールは思う。

 『この身は朽ちても女神の腕に還り、命は女神の息吹となってこの世に満ちる。けして、寂しくはないよ』

 グレイが末期に告げた言葉は、家族だけでなく、サディルナに向けたものに思えてならない。

 ライールはその言葉を、せめて自分の口からサディルナに伝えたかった。そのくせ、祖父でなく自分が伝えるのは相応しくない気がして、三年以上経った今も出来ずにいる。とうの昔にティルネが伝えたかもしれず、寧ろその可能性が高いと思っているのに、自分でも何故か不思議なほど拘ってしまっていた。