鳥籠

「ひとつ、お前に尋ねたいことがある」

 目線で促され、グレイは続けた。

「お前はいつか、俺に、歌を歌うのが苦手だと言っていたな。音が外れてるのは分かるのに、どうしても正しく歌えない、そんなことを」

 それは旅をしていた頃の古い記憶だが、ダイルグにしては珍しい話題だったため、強く印象に残っている。

「確かにそうだが、どうしてそんなことを聞くんだい?」

 グレイはダイルグに即答せず、脳裏にまた別の記憶を呼び起こす。

 それはサディルナがヴィールダルトに来て、間もない頃だったろうか。

 どうして君は歌うようになったのかというグレイの質問に、サディルナは幼い頃の話をした。

(小さい頃、私はとてもよく泣く子どもだったらしいの。ちっとも泣き止まなくて困っている姉さんに、ある人が、それなら子守歌を歌ってご覧と教えた。それが私にとっての初めての歌。そのことがなければ、私が歌うことなんてなかったと思う)

 その「ある人」とは誰かと尋ねると、身内ではないのだという。

(特別なお客様)

 その人物が正確にどういう立場にあったのか、サディルナも知らない。しかし特別な存在であることは知っていた。彼女の家で最も権威を持っていた母親が、明らかな敬意を払っていたからだ。

 一方で、彼は姉妹に対して気取りなく朗らかで、サディルナは彼がやって来るたび、様々なことを教わったのだという。

(大きくなって姉さんの話を聞いて、私も知りたいとその人にねだって幾つか教えて貰ったの。歌ってみたら、上手だね、って褒められたものだから、その気になって沢山練習したの。だけどね、可笑しいのその人。自分は歌うのがとっても下手なのよ)

 自分が下手でも、人には教えられるってことあるのねと、サディルナは幸福そうに笑った。

 グレイはそのとき、彼にとっての歌が常にサディルナに結びつくものであるように、サディルナにとっての歌は、その思い出の人々と結びつくものであると知ったのだ。

 彼は顔を上げてダイルグを見つめる。

「サディルナに歌を教えたのはお前なのか?」

 ダイルグは珍しく驚いたようだった。沈思するように黙り込み、返答は得られないかとグレイが諦めかけた頃、「ただの思いつきだったんだ」と口を開いた。

「妹が泣き止まないと困り果てているから、子守歌を歌ってみてはどうかと言ったんだ。それは何だと言われてから、自分が実演するしかないと気付いて、弱ったよ」

 それは事実上の肯定だ。サディルナが語った過去を、ダイルグは確かに共有している。

「そうか」

 事実を受け止めた途端、ひどい落胆に襲われ、グレイは「なにが」と震える声を上げた。

「なにが俺と同い年だ、まったく」

 問いの本旨から外れた反応に、誰よりグレイ自身が驚いた。一方のダイルグは戸惑うことなく、「すまない」と口にする。

「君は怒っていい」

 粛然とした声に、グレイは奥歯を噛みしめた。

 出会った頃のダイルグは、グレイと変わらぬ若者の姿をしていた。それから四十年、時間の経過とともに、その容貌は老いの徴候を示してきた。しかし先程の話によれば、ダイルグはサディルナと同じ年頃のグレイより、かなりの年長者であることになる。

 サディルナが語った思い出の人物がダイルグだと、グレイは昔から考えていたわけではない。ダイルグの素性に関する疑問、歌が苦手という符号、ダイルグとサディルナの奇妙な関係性。諸々の要素が時間をかけて育てた「もしかすると」という疑念が、今日、ダイルグの話を聞いて確信に変わったに過ぎない。

 グレイはダイルグが公に語る素性を信じてはおらず、それは年齢についても同様だった。それでも心のどこかで、友人として彼と共に老い、歳を重ねてきたと信じていたのだ。それが上っ面のものに過ぎず、偽られてきたという事実を突きつけられたことは、想像以上の衝撃だった。

 グレイは、ふざけるなと怒鳴りつけてやりたいような腹立ちを感じながら、それを抑え込んだ。息を大きく吐き、言葉を絞り出す。

「お前にほんとうに怒る資格があるのは、俺じゃないだろう」

 信頼を裏切られたのは自分ではない。幼い頃から信頼を向けたその人に、手酷い仕打ちを受けたのはサディルナだ。それをダイルグも理解しているからこそ、サディルナが自分を許す必要はないと言うのだろう。それでも。

「どうして……」

 グレイが絞り出した言葉を、サディルナも繰り返してきたに違いなかった。

 サディルナを苛むのは、最愛の姉の喪失だけではない。ダイルグが姉を見捨てた事実と、それでも打ち捨てられない彼への思慕だ。その事実を知りさえしなければ、彼女が今日まで苦しみ続けることはなかったろうに。

 益体のない己の思考に、グレイはふと引っかかりを覚えた。

「どうして、サディルナが知っているんだ?」

「何の話だい?」

 視線がダイルグのそれとぶつかる。

「お前と彼女の姉さんの話だ。お前が姿を消した頃の話だと言ったろう。その頃、俺はずっとサディルナと一緒にいた。彼女がそんな出来事に遭遇する機会なんてなかった筈だ」

 サディルナの話では、彼女の故郷は遠く、戻れない場所にあるということだった。そこに暮らす姉の消息について、そもそもサディルナが見聞きする機会さえない。

 グレイの混乱を余所に、ダイルグはさらりと告げた。

「サディルナは何も見ていない。君の疑問は不思議でも何でもないよ。私が彼女に伝えただけのことだから」

 グレイは呆気に取られる。

「お前が?」

「当然の帰結と思うが、どうしてそんなに驚くんだい」

 ダイルグは怪訝そうだが、グレイからすればそちらの方が余程不可解だった。

 サディルナに、お前の姉は死んだ、自分が見殺しにしたなどと、自ら報告したというのか?

「どうしてそんなことをしたんだ」

 言われたダイルグは、眉を顰めてさえみせた。

「随分君らしからぬ事を言う。知っていて、彼女に黙っているのか? 君がそうすると、私には思えないが」

「それは――そうかもしれないが」

 確かに自分なら、たとえ後ろ暗い部分があったとしても、サディルナにそんな重大な事実を黙っておくことは出来ないだろう。しかしそれは、彼女との関係性とグレイの性質あってのことで、ダイルグに当てはまるとは思えない。

 今日まで様々な面でグレイを偽り続けたように、不都合な事実を平然と隠匿し続けることも、ダイルグにはできるのだ。起きたことをサディルナが知りさえしなければ、二人の関係は今の様相を呈してはいない。そんな計算が出来ない男ではない。

 その彼が言った。

「伝えなければサディルナは、どこにもいない姉が生きていると信じ続けることになる。リエラはサディルナにとって誰より大切な人だった。その死は伝えられなくてはならなかった」

「それがサディルナに惨い事実であってもか」

「そうであればこそ、知らずにいることは、彼女に相応しくない」

 声は淀みなく、表情は真摯でさえあった。一方的な言い分は、それでサディルナが傷ついても構わないと言っているに等しいのに、グレイに残酷さとは真逆のものを感じさせた。

「私はリエラの死を予測して注視していたからこそ、その結末を知っている。私が彼女を見殺しにしたことに、サディルナが気付くのは必然で、そもそも隠すまでもないことなんだよ」

 ならば全ての出来事を、知らないふりで隠し通せば良かったのだ。それが不可能だったとは思えない。しかしダイルグは「彼女に相応しくない」、それだけの理由でそれを「しなかった」。

 それはサディルナに対する信奉であり、愛情でなくて何だろう。

 グレイはダイルグが、サディルナを愛していることを知っている。それを誰より知っているのは自分だと思ってきた。そのダイルグが彼女の悲しみを、憎しみを受けて、無感覚でいられる道理はないのに、自らそれを許容している。

 グレイがその想いの形に、本当の意味で理解を示してやることはできない。彼が最も重きを置くのは、サディルナを悲しませない、傷つけないことであるからだ。それでも、身勝手と責めることも、愚かとうち捨てることもできなかった。その想いの在り方は、あまりに――――


「――グレイ!」

 鋭い声に、はっと目を見開く。天井の梁と、覗き込むダイルグが見えた。

 荒く数回呼吸をし、現実感を取り戻す。

「俺は、気絶したのか?」

 「少しの間だけどね」とダイルグが頷く。いつも泰然とした彼の顔が、心なし青かった。

「随分話に付き合わせてしまったから、疲れたんだろう。無理をしなくていい。休むかい」

「……いや、大丈夫だ」

 先程は起き上がっていた筈が、今は枕に頭を深く埋もれさせている。かなり身体を重く感じた。それは慕わしい重さでもあった。

 身体は床に貼り付くようだが、頭は意外に明瞭で、思考の連続性はすぐに取り戻せた。

「ディー」

 呼びかけると、ダイルグは「なんだい」と優しく応じた。

「初めて会った時から、お前は何でも出来て、いけ好かなくて、俺はお前を、この世で一番器用な人間のように思ってた。・・・・・・けど、違うんだな」

 意識を失う直前、そのことを考えていた。

「お前は、不器用だよ」

 すべてを自分の思うさまに進めているようでいて、愛する女性をただ大切にすることすらままならない。自らさえ縛る心の有り様は、気付いてみれば不器用と言うほかなく、グレイのよく知る彼女に似ていた。似ていたから、そう思ったのかもしれない。

「そんな風に言われたのは初めてかな。しかしそうだね。自分を器用な人間と思ったことはない」

 声は淡々としていたが、そこに不快の色はない。

「何でも出来るというのはまあ、単に長生きのなせる業だよ。――君は気味が悪くはないのか?」

「気味が悪い?」

「私は君の何倍も生きている。君が見てきた私の姿も、実体ではあるが、あてにならないまやかしのようなものだ。君は平然としているように見えるが、私を気味が悪いとは思わないのか?」

 グレイは天井を見つめ、「そんなことか」と重く息をつく。

「何度も同じようなことを言わせるな。お前が胡散臭いことは最初から知ってる。今更ただの友人から格上げしてやる気はないし、俺には友人を気味悪く思うような感性はないんだ」

 頭を動かすことも億劫で、ダイルグを見もせず言った。

 グレイにとってダイルグは、公において誠実で有能な同僚であり、私において多少不誠実な友人だった。司祭長まで務めたリアムで職責を果たすにあたり、ダイルグの視野とその人脈に幾度となく助けられ、友人としては四十年にわたり、サディルナを挟んでやきもきさせられた。彼にとってダイルグとの関係はそれ以上ではなく、ましてそれ以下ではない。

 それではダイルグにとってはどうか。そこにも疑念はない。ダイルグが今ここにいることが何よりの証左だ。訪れればグレイの恨み言を聞かされるばかりであることは、容易に想像できていただろう。どんな手紙を寄越されようと、無視することは出来たのだ。しかしそれを「しなかった」。その彼が、友人としてここに居るのでなくて何だというのか。

 分からず屋の秘密主義で、飄々としていけ好かなかろうと、ダイルグはグレイの友人だ。グレイにとってそれ以上に必要な事実はなかった。

「ディー、俺はお前にも幸せになって欲しいよ」 

 視界の隅で、ダイルグが目を見開いた。

「俺の望みは何より、サディルナが幸福であることだ。でもお前にも幸せであって欲しい。お前達が二人で幸福であることは、そんなに叶わないことなのか」

 言い終えてグレイは目を伏せる。正直なところ、言葉を紡ぐのが苦しかった。天井を向いたグレイに、ダイルグの表情は映らない。

「君という人は、本当にお人好しだ」

 ダイルグはそうとだけ言った。答えになっていない答えに、グレイは落胆の息を吐く。

「お前は、賢いくせに本当にばかだよ」

 沈黙が落ちる。グレイは今や全身を襲う虚脱感を、硬く目を閉じてやり過ごそうとする。まるで所在を失ったような彼の手を、そっと掴む感覚があった。

「グレイ」

 ダイルグが、彼の片手を両手で掴んでいる。輪郭はぼやけて、表情は上手く見て取れない。その口が動いた。

「もし」

 掴まれた手に僅かな力がこもる。区切られた言葉が、どこか掠れたように聞こえた。

「もし、君が」

 言葉が続かず途切れ、グレイは呻いた。

「ディー、何だ、よく聞こえない。言いたいことがあるなら」

 ふっ、と意識が遠ざかるのを感じた瞬間に、腕を強く引かれて我に返る。目の前に、ダイルグの焦りを含んだ相貌があった。

 目が合うと、友人は「駄目だよ、グレイ」といつも通りの顔で、微かに微笑んだ。

「君と最後に語るのが、私なんかであってはいけない」

 ダイルグはグレイの腕を掛布の下に戻すと、乱れた寝具を整えた。そして子どもをあやすような仕草で、掛布の上をそっと撫でる。

「疲れたろう。一度休むといい。暫くすれば目覚める。安心して。私が約束する」

 グレイは口を開こうとするが、唇が貼り付いたように動かせない。心は焦っているのに、眠気が押し寄せ、意識が三度攫われようとする。

(駄目だ、まだ――)

 渾身の抵抗によって引き上げた手が、ダイルグの手首を掴む。それを引き寄せるように無理矢理己の身体を持ち上げ、ダイルグと相対した。

「幸せになれ。サディルナがお前を許せなくても、俺が、お前を許すから」

 ダイルグは呆然としている。そんな顔を初めて見たと思う間もなく、波が寄せて意識が攫われる。茫洋とする視界の中で、掴んだ指の感触だけを縁に、グレイはもう一言を絞り出した。

「サディルナを頼む。約束だ」

 力を失った頭が傾ぎ、目の前の胸にぶつかる。微かな声が囁いた。

「君に出会えたことは僥倖だった。彼女にとっても……私にとっても」

「おやすみ、グレイ」