微睡み

 眠りから浮上しかけたところで物が倒れる音を察知し、ライールは飛び起きた。部屋のあちこちに薄日が差し込んでいる。朝だ。

 足早にサディルナの寝室へと向かい、扉を開ける。倒れた脇机の横に膝を突いたサディルナの、頭上に暗雲を背負ったような表情が目に入り、ライールはその場にへたり込んだ。

「ライール!?」

 このまま土中に埋もれたいと言わんばかりの陰惨な顔をしていたサディルナが、声を上げてライールに駆け寄る。

「ちょっと、あなた、大丈夫?」

 尋ねるまでもない。ぴんと伸びた背筋、理性の勝った瞳。ライールの顔を覗き込んで来たサディルナは間違いなく、昨日の朝までの彼女だった。ライールは、気が抜けた余り身体に力が入らず、はは、と、だらしなく笑った。

「何でもないよ。サディルナは大丈夫? どこも……うわあ!」

 ライールは、我が身に突如襲いかかった温もりと柔らかさに叫び声をあげた。

「え、ちょっ、サディルナ、離れ」

「ごめんなさい」

 彼にしがみつき、耳元で囁いたサディルナの声が震えていて、ライールは動揺から醒めた。大切な確認をする。

「……祖父さんのこと、覚えてる?」

「覚えてるわ、忘れたりしない!」

 身体を離して叫んだサディルナの、表情はすぐ「ごめんなさい」と頼りなく崩れた。潤んだ目は、殆ど泣き出しそうに見える。

「なら、いいんだ。謝らないでよ」

 ぎごちない手つきでそっと腕を撫でると、サディルナは、うんと小さく呟いた。ライールにも、彼女に言わなければいけないことがある。

「サディルナ、俺もごめん。あなたについて知らなかったことを、色々聞いてしまった」

 サディルナは「いいえ」と、目を固く閉じて頭を振った。

「これまで何も話さなかったことがおかしいの。私はあなたのこと、沢山知っているんだもの。……それに、あなたに話したのは、私だわ」

 彼女はそう言いながら、気難しげに視線を泳がせ、眉をぴくぴくと震わせている。ライールは察して言った。

「もしかして、昨日のことが恥ずかしい?」

「恥ずかしいわよ、決まってるじゃない!」

 サディルナは耳を赤く染めて叫んだが、どうにか羞恥を堪えるように続けた。

「だけど、覚えているし、忘れないわ」

 その気持ちはライールも同じだった。昨日の自分の言動をまともに思い返せば、恥ずかしさと照れくささで、地面を転げ回りたくなる。一方で、彼女と言葉を交わし、出会いをやり直した夜のことは、きっとずっと忘れない。

 彼女の目が、ライールをまともに見て言う。

「私のこと、私の家族のこと、ちゃんとあなたに話すわ。……聞いてくれる?」

 ライールが笑顔で頷くと、サディルナも照れ臭そうに笑った。昨夜のことを何となく思い出して、そのまま笑い合う。開いた扉の外で、二人を安心したように見つめて、カヴァーリアも笑っていた。

「よく来たな。調子はどうだ。頭を打って、随分馬鹿になってたそうじゃないか」

 ファーレンは開口一番そう言って、目線でサディルナに座るよう促した。自身も執務机を離れ、サディルナの正面で足を組む。

「もう問題ありません。貴方は?」

「結構なことだ。俺自身は何も問題ない。お陰様でな」

 サディルナが執務室に入ってからずっと、ファーレンの表情は冷ややかだ。彼は元より執務中は和やかさなどと無縁の男だが、サディルナには、彼が敢えて怒りを表明しているのだと分かっていた。

「部下の女に庇われて、俺はいい面の皮だ。あんな真似は二度とするな」

 身を挺して庇ったその部下に対し、随分な物言いだったが、サディルナも気にしない。

「生憎だけど、約束はできません」

 眉を顰めたファーレンに、サディルナは平然と続ける。

「あの程度で私は死なない。けれどあんな風に殴りつけられれば、貴方なら死んでしまうもの」

 サディルナは何の目算もなしにファーレンを庇ったわけではない。常人ならば命を落とすような怪我を負っても、余程のことがなければ彼女は死なない。彼女はそれを事実として知っている。

 ファーレンはそんな彼女を、冷ややかに睨み据える。

「盾になるしかない程度の鈍さで、生意気を言う。絶対拒否権はどうした」

「それはそんな便利なものじゃない。知ってるでしょう。……庇いたかったわけじゃなく、本当は彼を止めたかったのよ。けれど確かに私みたいな人間に、そんなことが上手くいくものじゃないわね」

 身体が常人と違っても、サディルナは荒事に耐性があるというわけではない。大柄な男が振るう暴力に対して、咄嗟に処する術など身につけていない。

 『絶対拒否権』についても同じことが言える。ファーレンの言うそれは、サディルナが有する他者の行動を抑制する力のことだが、それを彼女が発揮するためには、明確な拒絶の意思を持っていなければならない。彼女の意思が曖昧だったり、意識が状況に追いついていなければ、効力を持たないのだ。

「役に立たんな」

 ファーレンはすげなく言い捨てたが、サディルナも同感だった。かつて教会の重鎮達は、型破りな力を持つサディルナを脅威として扱った。しかし彼女自身にとって、この不自由な力は、所詮「出来損ない」のそれに過ぎない。

「レストバーはどうなったの」

「警吏に引き渡した。内々に処理したかったが、白昼堂々、怪我人を出してしまってはやむを得ん。教会が私刑を行ったと言われても適わんからな」

「彼は正気じゃなかった。罰することは難しいでしょう」

 サディルナは昨日の出来事を思い起こす。記憶の精細さに関しては、彼女も他の素精干渉者に引けを取らない。

『お前達がすべての元凶なのだ、この冒涜者ども』

 二ヶ月ぶりのレストバーは、ファーレンとサディルナの姿を目にするなり激昂し、彼ら二人を激しく罵った。

 ゲイル・レストバーは、サディルナの研究を神に対する冒涜として批判してきた人物である。サディルナ自身にとって研究は、神威の失墜を何ら企図するものではない。しかし実際、素精という神秘を解体し、常人に晒そうとする試みには違いなく、教会には常に、彼女や彼女の支持者であるファーレンを快く思わない人間が一定数存在した。レストバーはその派閥における急先鋒だったと言える。

 但し、以前のレストバーは立場のある人間としての節度を保っており、如何に二人を嫌悪したとしても、乱暴な振る舞いに及ぶことなどはなかった。彼の失調は、『神木消失』に起因するものに違いなかった。大きく窶れた顔に深く暗い隈を刻み、着衣も乱れた彼の様子は一瞬別人と見紛うほどで、血走った目は己の内を見て、現実を見ていなかった。

「レストバーが罰されなかったとして、教会は彼をどうするの?」

「除籍は容易い。だがいざ自由の身となった時、昨日の調子で騒ぎたてられては迷惑だ。恩給を与えて身内に黙らせるのが、あるいは賢いかもしれんな。そうなったとして、お前は許容できるか?」

 傷を負わされたサディルナがレストバーを訴えなければ、如何様にもなるということだ。

「あなたの判断にお任せします」

 元よりサディルナは、ファーレンのこの種の判断に否やを唱えるつもりはない。常に状況を俯瞰し、時に冷徹と誹られても最適解を求める。それがファーレンであることを彼女は知っている。彼のその手腕が、不確かなサディルナの立場を支えてきたのだ。

「結構。ところでウェルズ、お前に今ひとつ要求がある」

「なんですか?」

「お前の従来の研究を、すべて他の者に引き継がせろ。道筋は既に出来ているのだから可能な筈だ」

 思いがけない命令に、サディルナは一瞬言葉を失った。

「……どういうこと? それでは私は何をするの?」

「今後、お前はお前自身を研究の対象としろ。四十年越しだが、もうやり方は十分学んだろう」