angraecum
「雨、止みましたよ」
口にした瞬間、客人がふっと口の端を上げた。
窓の外を見続けていたライールは、ようやく雨が止んだと見るや、間を置かず来訪者にそれを告げた。そのことに気付かれてしまったようだ。
追い出しにかかったと思われて仕方なく、それは事実でもあるのだが、ライールは少し恥じ入った。
「それでは私はお暇するよ。長居してすまなかったね」
雨宿りの名目でサディルナの研究室を訪れた男は、急かされたと不快を示す様子もなく、笑顔をともに立ち上がる。釣られるように顔を上げたサディルナの目は、僅かに赤く、無防備に見えた。
男の容貌は五十代に入ったくらい。サディルナの実年齢と、そう変わらないように見える。名前はダイルグ・シリングといい、サディルナと同じく、ヴィールダルトの司祭である。
彼はグレイの命日にリジェット家を訪れていた人物であり、葬儀の日、礼拝堂の裏でサディルナと共にいた男でもある。
ダイルグもサディルナと同じかそれ以上、ヴィールダルトで知られた存在である。今は半ば隠居の身だが、かつては教会本部から派遣されて世界を巡る、遍歴司祭を束ねていたこともあるらしい。とにかく顔の広い男で、その知見と人脈により、職種を越えた人々の頼りにされている。重職にあるわけではないが、実績と突出した存在感で有名な人物という意味でも、サディルナとダイルグは似ている。
教会に属した時期がほぼ重なる二人は、その付き合いの長さに反して、仲が険悪であることでも知られていた。正確にはサディルナが、一方的かつ過度にダイルグを嫌っているのだが。
ダイルグの側の態度は親しい友人に対するそれで、サディルナを見かければ自然と歩み寄り、笑顔を浮かべて声を掛ける。対するサディルナは、彼が近付くと見るや美しい貌を歪め、「一体何の用か」と刺々しく睨め付ける。そんなサディルナの様子は攻撃的で、普段の泰然とした彼女しか知らない人は非常に驚く。ライールがこの一年で「ウェルズ司祭は、何故あれほどシリング司祭を嫌っているのか」と尋ねられた回数は、両手の指を使っても足りない。
ライールにそれを尋ねられても困るのだったが、サディルナのダイルグに対する悪口雑言を纏めると意外と単純で、「胡散臭い」「信用できない」「見透かした物言いに腹が立つ」といったところだ。サディルナは嘘を言わないため、これらはおそらく本音だが、ではダイルグという存在を彼女が真実疎んじているのかといえば、ライールにはそれも大いに疑問だった。
ライールは、ヴィールダルトに来て初めて相対する二人を見たとき、グレイが生前に口にしたサディルナの『特別な人』とは、ダイルグのことだと直感した。
その人物について、気になったライールは結局グレイに尋ねたことがあるが、「お前の知らない人だよ」と返っただけで、具体的なことは聞けなかった。
ただライールが「サディルナはその人とも結婚したわけじゃないんだよね。片思いってこと?」と食い下がると、グレイは口の中で砂利でも噛んでしまったかのような、苦渋と疲労感に満ちた表情で言った。
「そんな単純な話なら、苦労はなかったんだが」
彼らしからぬ苦い顔をしたグレイの気持ちが、今はとてもよくわかる。
(なんなんだよ、この二人)
ライールがそう思ったことは、もう、一度や二度ではない。
人々の間にいる時、二人の様子は「相性が致命的に悪い同僚」という域を脱するものではない。しかし二人きりで相対すると、少し異なる様相を呈する。ダイルグの側はこれといって変わらない。ダイルグがサディルナに接する態度は、いつ誰から見ても好意に満ちて穏やかであり、至って紳士的だ。問題はサディルナの方である。
表面上はいつもどおり、早く失せろと言わんばかりの態度で、言葉も刺々しい。しかし一人ダイルグの真正面に立つ時のサディルナは常に緊張していて、彼の言葉ひとつに過敏に反応し、不安定な様子を見せる。それは嫌悪や恐怖に起因するものでは決してない。そんな時の彼女は、張り詰めていながら、同時にひどく頼りなげだった。
ライールから見ても、サディルナは年齢のわりに無防備なところがあるのだが、ダイルグの前ではそれが極まる。そしてライールが愉快でなく感じることに、そんな常にないサディルナの様子を、ダイルグは自然に受け入れているのだった。
二人はそう広く認識されているように、険悪な間柄の、対等な同僚などではない。ライールはそう確信しているが、では何なのかと言えば、それを知る由もない。この関係について詳しい者がいたとして、二人の共通の友人である、グレイ以上の者はいなかったろう。ライールはなぜ祖父をもっと問い詰めておかなかったかと、出来なかったことを今更後悔するのである。
「お茶をご馳走様。美味しかったよ」
雫を拭き取った外套をライールから受け取って、ダイルグが微笑む。世の九割を信頼させるであろうその微笑みを、ライールが何とも胡散臭く感じてしまうのは、意識をサディルナに寄せすぎている所為だという自覚はある。
ライールが自分を疎んじていることをダイルグは察しているだろうが、ライールは彼から不快な態度を示されたことは一度もない。それを思えば罪悪感も湧くが、その寛容さはライールの悪感情など物の数ではないということだと思うと、彼の余裕に若干の苛立ちも覚えてしまうのだった。
「出されたお菓子は、サイラムのものかな?」
「あ、はい。試しに作ったとかで、分けて貰いました」
サイラムは日頃からサディルナの食事も用意している調理人である。ライールが茶に添えて出した菓子は、昨晩サイラムが帰り際、研究室に差し入れてくれたものだった。
「あちらも美味しかった。彼はサディルナ贔屓でね。以前彼女が、厨房の改善に口添えをしてくれたと、とても感謝しているんだ」
「そうなんですか」
ライールは毎日厨房に行くので、そこにいる人々を大体見知っている。こと食事に関しては不届き者のサディルナに対して、彼らは何かと親切だと思っていたが、そういうわけがあったのか。
「サイラムは君にも感謝してると言っていた」
「俺に?」
「ジェイルがいなくなってどうなることかと思ったが、君がしっかり者なので安心したと」
ダイルグが笑うと、戸口の近くにいるサディルナが、「ちょっと」と剣呑な声を上げた。
「あなたたち、いつまで話をしているのよ」
今行くよとサディルナを宥めてから、ダイルグはライールを見た。
「こう言っては逆に失礼かもしれないが、私も君に感謝しているよ。彼女はすぐに無理をするから、側でよく見ていてやってくれ」
「言われるまでもない」という反射的に浮かんだ幼い反発を、ライールは抑え込む。そうして、「あなたは」と、次に浮かんだ言葉を口にした。
「あなたは側にいないんですか?」
サディルナから最も特別に想いを向けられているのだろう、あなたは。
ライールの言葉にひどく驚いた顔をしたダイルグは、ややあって微笑んだ。
「君は本当にグレイに似ているね」
祖父の名が出されたことに、今度はライールが驚いた。目の前の男がグレイの友人であったことは知っているが、改めて彼と祖父の話をしたことはない。
ライールが戸惑う間に、ダイルグは「またお邪魔するよ」と言って、さらりと身を翻した。
サディルナとダイルグは扉の外で、その後も暫く話をしていた。ライールは声の届かない場所に離れていたが、ダイルグが去ったと見て歩み寄る。
建物の影に彼の姿が消えても、サディルナはそちらを見たまま、ぼうっと立ち尽くしている。ライールはそんな彼女に、「サディルナ」と呼びかけた。
「お茶淹れなおすから、部屋に戻ろう」
他人のいない時は、サディルナを「師匠」とは呼ばずに名前で呼んでいる。ライールは、ようやく振り返った彼女の横顔をじっと見つめた。
淡々とした表情は、既にいつもどおりのようでもある。けれどライールはそこに、まるで泣き腫らした後のような疲労感を感じ取る。
「なあに、人の顔をじろじろ見て。おかしな子ね」
咎めるサディルナに、ライールは気のない様子で「なんでもないよ」と返した。
(おかしいのは俺じゃなくて、あなただよ)
あの男を見送る自分がどんな顔をしているか、サディルナは分かっていないのだろうか。それとも分かっていて、素知らぬふりをするのだろうか。
ダイルグを自ら拒絶するくせ、離れる彼を見る顔は切なげで、引き留めたい想いが溢れ出ているように見える。そんな彼女は恋する人のようで、ライールに目を塞ぎたい思いをさせたが、それを一言で恋と片付けられるなら、こんな拗れた様相を呈してはいないのだろう。
しかしライールは、葬儀の日の二人の様子も覚えている。ライールにはサディルナが、心を許していないような者に縋り付いて泣くとは思えなかった。二人の間にあるものの正体を知りたいが、それを尋ねることもできず、ライールはもどかしいような腹立たしいような、自分でもよくわからない気持ちに支配される。
サディルナ・ウェルズという人は、ライールから見て、矛盾に満ちている。
年を重ねているくせ見た目は若く、年相応の自若とした様子を見せると思えば、少女のような無防備さを見せる。人を撥ね付ける言動をするくせ目配りは細やかで、自分のことを雑に扱うのに、他人のことには心を砕く。人を頼らず独りでいようとするくせに、佇む姿は寂しげだ。
逞しいのに何かにつけて不均衡なサディルナを、グレイはよく知り、彼女のそんなところを愛しながら、心にかけてもいたのだろう。
「いい薫り」
淹れ直した茶から立ち上る蒸気に、サディルナが少し目を細める。
「さっきのお菓子は、サイラムがくれたの?」
ライールが頷くと、サディルナは微笑んだ。
「会ったらいつも有り難うと、お礼を伝えておいて」
「サイラムはお礼はいいから、用意した食事を食べ損なうなって言うよ」
「わかってるわよ。皆して、何度も煩いったらもう」
いつもどおりの会話に、彼女の緊張が解けているのを感じて、ライールの心は安らぐ。泣きそうに張り詰めている彼女など見たくない。
ライールはサディルナに対して強い影響力を持つダイルグのことを、正直妬ましく思っている。しかしそれは、彼に成り代わりたいという思いではない。
サディルナは拒絶が上辺のものでない証に、自らダイルグに接することはない。機会を見れば近付くのはダイルグの方だ。ライールから見ると、ダイルグは自分の思うさまサディルナに構って、彼女を振り回している。
(あなたは側にいないんですか?)
ダイルグは先ほどのその問いにも、何も答えを返さなかった。ダイルグは鈍感な男ではなく、年少者を無視するような人物でもない。ライールの問いの意図を、理解していて答えなかったのだ。そう思うと、腹立たしさが沸き起こる。
「どうしたの、ライール」
かけられた声に、棚に皿を収めていたライールは「え?」と手を止める。
「あなた顔色が悪いわよ。疲れてるんじゃない? 片付けはいいから、少し座りなさい」
「大丈夫だよ」
「いいから。あなたもお茶にしなさい」
サディルナが立ち上がり、茶碗まで用意するものだから、言うとおりにせざるを得なかった。ライールが卓につくと、慣れない手つきで残っていた茶を注ぐ。
「はい、どうぞ」
それは不思議な光景で、非常にくすぐったい感じがした。口を付けた茶は自分で淹れたものなのだが、どこか甘い。
「おいしい?」
普段しないことをして愉快だったのか、サディルナが珍しくおどける。
「俺が淹れたんだから、おいしいも何もないよ」
「あら可愛くない。私も、お茶を淹れられるようになろうかしら」
「サディルナは不器用なんだから、無理するなよ」
「失礼ね」
ライールは疲れても体調を崩してもいない。ライールの険悪な顔つきを誤解したのだろうが、彼女の心配りが嬉しく、敢えてそれを口にはしなかった。何より、サディルナの顔から陰が消えたことに、ライールは幸福を覚える。サディルナの「特別な人」が、ダイルグのような存在であるなら、ライールはそうなりたいと思わない。孤高で繊細な彼女が、いつも笑顔でいられるようであって欲しい。
そばにいるから悲しまないでと、きっとサディルナへの思いを込めたグレイの言葉を、伝えたい気持ちはもう無かった。その必要はないからだ。グレイの魂がもうこの世のどこにもないとしても、彼の思いは自分に残った。グレイはもうサディルナの側にいることはできず、彼女の「特別な人」は側にいない。なら自分は彼女の側にいる。ライールはそう決めて、ここにやって来た。
『老いぬ者』であるサディルナは、いつまで生きるか分からない。ライールはどこまで生きていられるかわからない。未来のことはわからないが、側にいられる限り。それが許されている限り。
彼女が寂しい思いをしなくて済むように、泣かずにいられるように。祖父が願ったそのままに、彼もまた願うのだ。
了