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 サディルナ・ウェルズはおかしなひとだと、ライール・リジェットは思う。


 まず、見た目と中身が乖離している。

 一見すると若々しく、三十に届くか届かないかという年齢に思われるが、おそらく見た目の倍は年を数えている。

 ライールは正確な年齢を知らないが、古くから『教会』に属している人々によると、三十年前には今と変わらなかったということなので、五十に達していることは間違いないだろう。

 世には、人として年齢を重ねながら、ある時点で外観の成長を止めた者があり、彼らは俗に『老いぬ者』と呼ばれている。


 サディルナについて、はっきりと思い出せる最も古い記憶は、十二の頃、ローデン国にあるライールの実家でのことである。

 サディルナは祖父、グレイの友人だった。ライールはそれより前にも彼女に会っている筈だが、物心がつく前だったか余り覚えていない。赤ん坊の彼を抱かせたことだってある、とは母・ティルネの言だ。

 サディルナはその時、『教会』の本拠ヴィールダルトから国境を跨ぎ、ローデンの都市リアムまで、遠路グレイを見舞いに来ていた。

「こんにちわ。今日訪問のお約束をしていたウェルズです。お母様はおられますか?」

 戸口の向こうで微笑んだ彼女を見て、ライールは立ち尽くした。

 ふた月前から体調を崩し、床に伏せるグレイへの『教会』関係者による見舞いは引きも切らない。その上、サディルナの訪問は予告されたもので、ライールは相手も予期して迎えに出たのだったが、対面した彼女の若々しさは、祖父と同年代の人物を想像していたライールを驚かせた。

 また、それより何よりライールを驚かせたのは、

(こんな綺麗なひとがこの世にいるのか)

 そう思わせるほどの、彼女の美貌だった。

 均整の取れた長身に、豊かに流れる黒褐色の髪。新緑のような瑞々しい瞳は長い睫に縁取られ、つややかな肌に乗った薄紅色の唇は、柔らかな甘さを持ちつつも思慮深げだった。

 見た目に騙されるなと、今のライールは自分に言ってやりたい。しかしサディルナはその時のライールが、本当に目の前にいるのかと、現実感を失うほど美しかった。加えて彼女の纏う、どこか浮世離れした雰囲気は、それまで彼が触れたことのない種類のものだった。

 「あ、はい」とろくな応対も出来ず棒立ちになっていると、背後から賑やかな声が降った。

「サディルナ、久しぶり! あなたったら、相変わらず綺麗ね!」

 はしゃぐ母親の声に我に返る。気づけば、ライールの心臓は早鐘を打っていた。

 サディルナがほんの少し苦笑する。

「久しぶりね、ティルネ。元気そうで良かった」

「あなたも! 遠くから本当に有り難う。でも来てくれて嬉しい。父さんもほんと楽しみにしてたのよ。さあ、入って入って」

 大きく腕を広げて彼女を迎え入れながら、もう一方の手で息子を示す。

「サディルナ、これは息子のライールよ。覚えてるわよね?」

 「勿論」と、その美しい人は改めて、親しみを込めた笑みをライールに向けた。

「久しぶりね、ライール。それとも初めまして、の方が、あなたにはしっくり来るのかしら」

「……はじめまして」

 ライールは、舌を絡ませずに返すのが精一杯だった。

「アシュレは留守?」

「ちょっと仕事が入って出たけど、夕方には帰るわ。ところでサディルナ、あなた荷物が随分少なくない?」

「向こうの通りに宿を取ったから、荷物は先に置いてきたのよ」

「はあ!?」

 ティルネが突然大声を発したので、残る二人は身体をビクリと震わせた。

「ティルネ、一体どうしたの」

「あり得ない! あなたはうちに泊まるに決まってるでしょうが。向こうの通りって、猪鹿亭? ライール!」

「なに」

 母親の調子に慣れきっているライールは、逆に自分を取り戻し、淡々と反応する。

「猪鹿亭に行って、サディルナの荷物を預かってきて。宿泊は無しよ。お詫びは今度するからって」

「わかったよ」

 朝から食事の支度だ掃除だのと散々こき使われてきたライールは、渋々ながら言われたとおり背を向ける。一方サディルナは、「ちょっと、ティルネ」と慌てた声を上げた。

「いいのよ。あなたたちを煩わせたくないし」

「なに水くさいこと言ってるの。あなたはうちの家族同然だって、いつも言ってるのに、あなたって人は、もう!」

 やかましい母親だなと、ライールは呆れつつ家を出た。それでも大人しく従うのは、ティルネが何日も前から意気揚々と、客人を迎える準備をしていたのを知っているからだ。祖父も同じく嬉しそうだった。グレイはサディルナについて、教会関係者で祖父の古くからの友人という以上のことを知らなかったが、彼女が一家にとって特別な客人であることは十分察せられた。

 『猪鹿亭』の主人は知人だったので、「司祭様のお客だったのか、そりゃいかんな」と、ライールは不快を示されるどころか恐縮がられながらサディルナの荷物を回収し、家に戻った。

 ティルネとサディルナの二人は、居間に腰を落ち着けているようだった。見舞いの対象である祖父は、まだ眠っているのだろう。

 ライールは特に人見知りをするわけでもないが、ほぼ初対面の女性、ましてあの彼女のいる場となると入りづらい。扉の影で荷物を置き、何ともなしに息を吐くと、

「あなたが今からでも、父さんと結婚してくれればいいのに」

 という母親の声が聞こえて、後頭部をあわや壁に打ちつけそうになった。

(はあ!?)

「ええと、ティルネ」

 明らかに戸惑ったサディルナの声に、ライールは心底ほっとする。

「相手があなたなら母さんも文句は言わないだろうし、死別だから教会的にも再婚に問題ないわ。大丈夫よ」

(なにが大丈夫なんだ!)

 ライールは心中、全力で叫ぶ。元々素っ頓狂な母親とは思っているものの、今日はとりわけ色々ひどいがどうしたことだ。

「それともうちの父さんじゃやっぱり駄目?  私は悪くないと思うんだけど」

「あのね、ティルネ。そういうことじゃなくて」

「結婚が駄目なら、養子でもいいわ。そしたらサディルナは私の姉さんね。全然問題ない。寧ろ大歓迎よ」

 ライールは脱力のあまり、額を壁に打ち付けた。サディルナは返す言葉を失っているようだ。いい加減にこの話題を中断させるべきかと荷物を掴んだところで、「まあ、結婚はともかく」とティルネの落ち着いた声がしたので、動きを止める

「養子については、実際、父さんともどうなのかって、話したことがあるのよ」

「グレイと?」

 サディルナの声が関心を増したのが、端から聞くライールにも分かった。

「ウェルズ様が亡くなってから、あなた一人きりじゃない。あの方も身内がなかったから、親戚だってない。あなたを差し置いて、勝手にする話じゃないのは分かってるのよ。だけどサディルナ、私たち、あなたのことが心配なの」

 ティルネは真摯な声音で呼びかけたが、サディルナは沈黙している。

「あなたは教会から離れられないのかもしれない。だけど父さんが、グレイ・リジェットが引き受けるというなら、それは認めてくれるかもしれない。大司教座のここでなら、あなたも自分の研究を続けられるんじゃないかって」

 ライールは話の内容に戸惑って立ち尽くしていたが、それはサディルナも同様のようだった。

「あなたの気持ちは、とても有り難いと思うわ」

 暫くして発された彼女の声には、ライールが危惧したような不快は滲んでいなかった。

「心配してくれて有り難う、でも大丈夫よ。私はそう頼りない人間でもないわ」

 穏やかだがきっぱりした物言いだった。しかし対するティルネもすぐに、「そうじゃないの」と跳ね返す。

「あなたはとても賢くて強い。そんなこと知ってる。私たちの大切な、自慢の家族で、友人よ。でもそれは問題じゃないの。私たちが、ただ、あなたを一人にしていたくないのよ」

 真剣な声に引かれて部屋を覗き込むと、ティルネは真剣な顔でサディルナの手を握っていた。

「こんなの勝手な話だわ。だけど、どうか覚えてて。あなたのこと、そんな風に想ってる人間がいるってこと」

 丁度その時、ギィと音を立て、居間の奥の扉から、寝間着に長衣を羽織った男が顔を覗かせた。

「やあ、サディルナ。相変わらずとても綺麗だ」

 血色のあまり良くない顔に、相反する朗らかな笑みを浮かべているのは、ライールの祖父、グレイ・リジェットその人である。

 サディルナは、音を立てて椅子から立ち上がった。

「せっかく来てくれたのに、待たせてごめん。会えて嬉しいな。君は元気?」

 扉の枠に寄りかかったグレイに、サディルナがずかずかと歩み寄る。ライールがそれに驚きの目を向けつつ居間に入ると、あっけらかんとしたティルネが「あら、おかえり」と声をかけた。

「病人が、なに起き上がってきてるの!」

 叱責するように厳しい声をあげたのは、サディルナである。ライールは驚いて目を剥く。

「ごめんごめん。声が聞こえたものだから。見苦しい格好ですまない。早く君に会いたくて」

「いいから、さっさと床に戻りなさい! ティルネ、悪いけどお邪魔するわよ」

 どうぞどうぞ、ごゆっくりーと、ティルネはのんびり手を振り、サディルナはグレイの身体を押し戻すようにして奥へと消えた。

 呆気に取られたライールに、ティルネは楽しそうに声を立てて笑う。

「ああいう人なの。吃驚した? あの二人、まるで姉弟みたいよね」