微睡み

 ライールとカヴァーリアが研究室に戻ると、ダイルグとサディルナは、来客用の円卓に向き合ってついていた。ライールはサディルナの頭に包帯が既にないことに気付き、どきりとする。

「おかえり。私の分まで、すまなかったね、二人とも」

 盆を抱えた二人にダイルグが言う。四人が診療所から戻った時、既に夕刻が近かったため、そのままここで食事を摂ることにしたのである。

 ライールが知る限り、ダイルグがこの研究室で食事を摂ったことはない。しかし今のサディルナにダイルグの側から離れる気配はなく、残る二人にはダイルグ抜きで状況に対応できる自信がない。ダイルグが残ったのは自然な流れだった。

 視線を感じたライールが顔を向けると、サディルナとまともに目が合った。診療所でダイルグと言葉を交わした前後で、サディルナの様子は明らかに変化していた。

『もしかしてここは、外なのですか?』

 ライールは脳裏にその問いを反芻する。ダイルグが「そうだ」と応じた遣り取りの意味を、ライールは理解できなかったが、その結果、サディルナの周囲に対する怯えが興味に転じたのは分かった。診療所から研究室に移動する間も、彼女は忙しなく周囲に目を遣って、ダイルグにあれは何か、これは何かと質問をしていた。その様子は、好奇心旺盛な子どものようでありつつ、不思議とライールが知るサディルナそのものにも見えた。

 そんなサディルナの関心は人間にも向けられているようで、ライールは時折、彼女の視線を感じる。もっともいざ目が合えば、逃げるように逸らされてしまうのだが、ライールはほっとしていた。少なくとも今の彼女から、ライールを拒絶する意思は感じられない。

 しかし食後の一服の後、ダイルグの発した言葉で、落ち着いていたサディルナの顔色が一変した。

「私はそろそろお暇するよ。サディルナ、君はここに残って休みなさい」

「ダイルグ様、どうして」

 立ち上がったダイルグに、サディルナは動揺を満面に、掠れた声を上げた。

「今日中に済ませなくてはならないことが残っていてね。何も遠くに行くわけじゃない」

「なら、私も」

 今にも縋りつきそうな様子のサディルナに、ダイルグは「だめだよ」と頭を振った。

「君は今晩、ここで過ごしなさい。教えたとおり、ここは君の部屋だ。何も心配は要らないし、私も何かあれば駆けつける」

「でも」

 サディルナは殆ど泣きそうな顔で、ライールとカヴァーリアを振り向いた。ライールは、サディルナが自分達、いや、自分のところに取り残されることに怯えているのだと考えて、胸を切りつけられたような痛みを覚えた。

 ダイルグはライールに気遣わしげな一瞥を送ると、サディルナの手を取った。労るように、「サディルナ」と優しい声で告げる。

「ライールは、君が最も信頼する人だ。いま彼を遠ざければ、君は必ず、後で悲しむことになる」

 サディルナは驚いて目を見開いた。それはライールも同様だった。

「君はとても疲れている。ゆっくり休みなさい。また明日会いに来るよ」

 サディルナの額に、「おやすみ」と口づけを落とすと、ダイルグはそのまま研究室を立ち去った。 

 ライールはまんじりともせず、長椅子に身を横たえていた。疲労は感じるが頭は興奮しきっていて、思考も止めどなく、到底眠れる気がしない。

 ダイルグが去った後、サディルナは落ち込んだように俯いて、黙り込んだ。しかし暫くすると顔を上げ、「部屋を案内して」と残る二人に口にした。研究室で特にサディルナの興味を引いたのは書斎らしく、書物の詰め込まれた棚を見て、「これが私の部屋なの?」と驚いていた。本に触ってもいいかと興味津々に尋ねていたが、カヴァーリアはきりが無さそうだと判断したか、「身体に障りますから、今日は休んでください」と寝室に導いた。

 年長の女性に免疫があるというカヴァーリアの分析が正しいのか、彼女の人徳か、はたまた本人が元々素直な性格なのか、サディルナは指示に対して従順で、カヴァーリアにあれこれ世話を焼かれながら自室で就寝した。彼女はライールを避ける様子を特に見せなかったが、ライールは怯えられるのが怖くて、少し遠巻きにしていた。

 カヴァーリアも従者用の部屋に落ち着き、今、客間にはライールだけが残っている。カヴァーリアはライールと同様に、敷地内の宿舎に自室があるのだが、当たり前のように研究室に残ってくれた。寝台はサディルナの寝室と従者部屋の二つにしかないため、カヴァーリアは自分が長椅子で寝ると言ったのだが、ライールが固辞したのだった。

 もう夜半近い。カヴァーリアは眠ったろうか。彼女は冷静で気持ちの切換えも上手いため、明日のために既に深い眠りについているかもしれない。それではダイルグはどうだろうかと、ふとライールは思う。

「シリング司祭がサディルナを置いて行くとは思わなかった。いくら仕事があるからって」

 サディルナが寝室に行き、カヴァーリアと二人になってから、ライールは失望を込めて呟いた。すると、カヴァーリアが言った。

「ライール、違うんだよ。そんなものはない。それは嘘なんだ」

「どういうこと?」

「私もサディルナ様がお気の毒だと思って、ダイルグ様に、残っては頂けないかとお願いしたんだ」

 ダイルグが研究室を出た際、カヴァーリアは彼を追いかけていたが、ライールはそんな遣り取りがあったとは知らなかった。

「そしたらなんて?」

「ご自分が側にいるのは、今のサディルナ様にとって良くないと仰った。今日は執務室に泊まるので、何かあれば呼ぶようにと」

 ダイルグの自宅は三人と異なり、教会の敷地内ではなく街にある。ライールの祖父一家がヴィールダルトで暮らしていた家を、ダイルグが管理の名目で引き継いでいるのだった。

「あの方もサディルナ様を心配しておいでなんだよ、ライール

 ダイルグを敬愛するカヴァーリアは、彼のことを薄情な人物と思って貰いたくないのだろう、真摯な眼差しでそう言った。ライールにも、ダイルグがサディルナを案じていることは分かっている。だからこそ、薄情だと失望するのだ。

 自分は勝手だとライールは思う。ダイルグを慕うサディルナを見ていたくないくせに、彼にはサディルナを守って欲しいと思っている。ファーレンについても同じ事が言えた。サディルナがファーレンを庇って負傷したと知った時、ライールはファーレンの無事を喜ぶよりもまず、彼が側にいながら何故傷ついたのがサディルナなのかと思ってしまった。

 ライールは無意識のうちに、二人の年長者がサディルナを常に守ってくれるものだと思っていた。取るに足らない自分が果たせない役割を、彼らが果たしてくれると信じていた。情けないし、身勝手だ。彼らに感じる怒りも不満も、自分の無力さに対するそれの裏返しに過ぎないのに。

『ライールは、君が最も信頼する人だ』

 だからこそライールは、ダイルグが自分の存在をそんな風に捉えているとは考えてもみなかった。それとも、それもまた、サディルナを落ち着かせるための嘘なのだろうか。

 ライールはダイルグをよく知るわけではない。ライールが彼について知ることといえば、亡き祖父の親友で、人々からの信頼の篤い司祭であること。そしてサディルナにとって、他の誰にも代えられない人物であるということだ。

 司祭は内向きで特殊性の高い職であり、特にヴィールダルトではその殆どが素精干渉者であることもあって、他の人々から一線を画されている。そんな中にあって、ファーレンとダイルグは異例な二人だった。ファーレンはその頭脳と判断力、ダイルグは交渉能力や人脈によって、神官にも一目を置かれ、彼らの間でもしばしば話題に上る。その冷徹さと地位の高さから畏怖を受けるファーレンに対し、ダイルグは穏やかな風貌や温厚な人柄によって、職の位や種を問わず広く慕われていた。

 ライールは二人に直接接する機会があるが、彼の認識と世間の評判の間には齟齬がある。ファーレンは奔放で傍迷惑なところもあるが、気さくで面倒見の良い人物だし、ダイルグはサディルナの複雑な心情を察しつつ彼女を振り回す、「信用できず」「胡散臭い」、身勝手な人物だ。ライールの印象は、どうしてもサディルナを介したものになってしまうのである。もっともライールは、自分がダイルグを好ましく思えないのは、サディルナの「特別」である彼への、幼い嫉妬心ゆえということも理解している。

 それでもライールは、ダイルグが彼なりにサディルナを大切に思っていることは分かっていた。ダイルグが彼女に向ける眼差しに浮かぶのは、紛れもなく、愛情や慈しみといった種類のものだ。それは今日も変わりなく、サディルナからの拒絶がない分、一層明らかだった。

 同じこの夜の下、ダイルグはどんな気持ちでいるのだろう。サディルナには数十年分の記憶がない。その間に何があって、二人の関係に罅割れを起こしたのか、ライールには想像も付かないが、今のサディルナはダイルグを一心に慕い、信頼しきっている。ダイルグはそのサディルナの側を敢えて離れた。彼もまた、今のサディルナの状態を、良くないものと考えているのだろうか。たとえ記憶が戻れば自分が拒絶されてしまうとしても、元のサディルナに会いたいと願っているのだろうか。

 そんなことをつらつらと考えながら、到底眠れそうにないと思っていると、部屋の奥から扉の開く音がした。慌てて身体を起こすと、視線の先に、掲げた角灯に照らされた、サディルナの白い姿があった。