鳥籠

「君は一体、何者なんだろう」

 口を突いてしまった言葉に、かつて彼女はこう返した。

「あなたは自分が何者かということを、生まれた時から知っていた?」

 戸惑うグレイを彼女はじっと覗き込む。長い睫に縁取られた新緑に怒りはなく、寧ろ澄んだ真摯さがあった。

「あなたは何者なのか、その質問に、あなたなら答えられるのかしら」

 問われて咄嗟に返せる言葉がなく、これはそういう未熟な問いだと、グレイは気付いて後悔した。

「私は、自分が『何者か』と誰にも教えられなかった。だから悪いけれど、あなた達のその質問には答えられない」

 達、ということは、彼女は既にその問いをぶつけられた後だということだ。その無神経さに自分が与したことに、グレイは羞恥と怒りを覚えた。

「ばかなことを言った。ごめん」

 拳を握りしめて俯く彼を見て、彼女は「気にしないで」と言った。

「そのひとが何者か決めるのは、きっと自分じゃないのでしょう。私が自分についてはっきりと言えるのは、私には母と姉がいて、母は私を『でき損ない』と言っていたということ。その二人はもういないから、尋ねられる相手もいないわ」

 淡々と語る彼女を前に、グレイは言葉を失った。

「でも、あなた達に付き合っていると、自分がどう『でき損ない』なのかが、少し分かる気がするわね」

 その声と表情には自嘲も感傷もなく、少し可笑しげでさえある。しかしグレイは彼女の言葉に、心臓を鷲掴みにされた思いがする。

「ここにいれば私は、自分が何者か分かるかしら」

 最低限の調度しか置かれていない、寒々しくがらんとした部屋。囚われの身を嘆くことさえない彼女は、誰に言うともなくそう呟いた。

「そんな日がいつか、来るかしら」

 願いというには淡く、望みというにもそれは微かな声だった。

「グレイ、起きてる? お邪魔していいかしら」

「起きてるよ。どうぞ」

 サディルナの声に、グレイは重い身体をどうにか起こした。

 苦労して扉を開けたサディルナは、腕に重たげな盆を抱えていた。鍋と器などあれこれ置かれたそれを机に置き、明らかにほっとした顔をする。

「わざわざ来てくれたのに、君にそんなことをさせて申し訳ない」

「私が持って行きたいと言ったの。気にしないで」

 サディルナは椅子を引き、グレイの枕元に腰掛けた。これは彼女の定位置だ。この数ヶ月で何度目だろう。彼女はヴィールダルトからはるばる国境を越え、ここへやって来ている。

 「具合はどう?」と問いかけるサディルナに、笑顔を向ける。

「悪くないよ。ただ正直あまり食欲はないから、食事はそこに置いておいてくれると」

「あなた昨日私が来た時から、一日何も食べていないじゃない。パーシル司祭から薬を預かってきたの。飲む前に少しだけ食べて」

 言って早々に立ち上がると、机の上で鍋を開けて、湯気を上げた粥らしきものをよそい始める。その手つきがどこか子どものように不慣れで、グレイはつい口を挟めぬまま見守った。

 無事粥を注ぎ終えると、サディルナはどすんと椅子につき、グレイに向けて椀と匙を差し出した。

「はい、どうぞ」

 その妙に力のこもった様子にグレイがつい反応できずにいると、サディルナは口元を窄め、暫し己の手元を見つめた。そうして匙で粥を掬うと、それをグレイの口元に差し出した。

「はい、食べて」

 思いがけない展開に、グレイはサディルナの美しい貌をまじまじ見返した。サディルナは肩を怒らせる。

「そんな風に黙らないで。恥ずかしいでしょう!」

 そう言われては大人しく、あーんと口を開くしかない。グレイはサディルナに手ずから粥を供された。そうしてすぐに口を押さえると、俯いて堪えきれず身体を震わせる。

「なに笑ってるのよ!」

 サディルナは抗議の声を上げたが、グレイとしては、粥を吹き出さずに飲み込んだことを褒めて欲しい。

 しかし、いつまでも笑えば機嫌を損ねるとわかっているので、ぐっと堪えて「ありがとう。あとは自分で戴くよ」と椀を譲り受ける。サディルナは自分が早とちりで行動したことに気づいたらしく、眉を顰めて気難しげな顔をした。それが彼女の照れ隠しだと分かっているグレイには、ただ微笑ましい。

 改めて粥を口に運ぶと、口溶けよく滋味があって、食べられそうだという気がした。刻んだ野菜を穀と煮込んだもので、香草の風味付けも程よく食欲を誘う。加えて、

「これはもしかして君が作ってくれた?」

 サディルナのしかめっ面に、加えて微かな羞恥が浮かぶ。

「作るとか、そんな大したことはしてないわ。ライールを手伝っただけよ。でも、どうしてそう思ったの?」

「何となく?」

 歪な野菜が時折口に当たるため、とは言えないグレイは、曖昧に答えた。

 この家の厨房に立つのは専ら娘のティルネだが、彼女は勢い任せに見える言動とは裏腹に、手元が几帳面で料理も繊細に拵える。息子のライールも、そんな母の善き弟子だった。

「ライールはとっても器用な子ね。私なんてただの足手纏い。どうせ、野菜の切り方が雑で気付いたとかなんでしょう」

 グレイは「ごめん」と素直に白状した。

「それでも嬉しいよ、ありがとう。とてもおいしい」

 世辞ではなく、グレイは本当に久しぶりに、食事を美味しいと感じながら口にしていた。それは、とても幸せなことだ。

 サディルナには厨房に立った経験などほぼない筈だ。その彼女が、普段触れることもない包丁を握り、彼のために食事の支度をしてくれた。グレイは幸福感で満腹に思えるほどだが、食事を残せば当然彼女の思いを損なうだろう。 

 グレイは少し浮かれた思いのまま、サディルナに微笑みかける。

「君の分はないんだろうか。君も食事がまだなら、せっかくだから一緒に食べよう」


 サディルナが自分用の器を取りに廊下の向こうへ消えると、グレイが食事を口にしたと聞いてだろう、ティルネが「やったわ!」と声を上げていた。いつも賑やかな娘である。

 小さな脇机を挟んでサディルナと食事を摂りながら、グレイは「それにしても」と少し笑った。

「君が私の食事の心配をするなんてね。少しは我が身を反省して、ジェイルに苦労をかけないようにしなくては」

「うるさいわね」

「君の没頭ぐせには俺も苦労したなあ」

 サディルナには仕事に没頭するあまり食事や睡眠を疎かにする悪癖がある。彼女の世話人であるジェイルが、グレイへの手紙で常に嘆くところなのだが、若い頃はそんなサディルナの生活面を管理するのは、専らグレイの役目だった。

 サディルナは、うぐ、と唸るように黙り込んだが、グレイの言葉は無視することにしたらしい。粥を掬って口に運び、ゆっくり飲み込んで言った。

「ほんとうに美味しいわ。あんな歳の子が、こんなに上手に料理できるものなのね」

 話を逸らしたサディルナは、しかし素直に感心しているようだ。素朴なようで出汁はきっちり取ってあり、味の均衡も完璧である。きっちり二杯平らげたグレイが、「ご馳走様」と空の椀を預けると、サディルナはほっとしたように目を細めた。

「ライールは器用でね。昔から、教えたことは大概こなすんだ」

 器用な質ではないグレイにとって、ライールの多芸ぶりは、自身の少年時代を思い起こすと羨ましい。孫のライールといい、娘のティルネといい、妻譲りの几帳面さを除けば、その性格も才能も、一体誰に似たものかと思う。

 「将来は何になるかしらね」と何気なく呟いたあと、サディルナはふと眉を顰めた。

「いやだわ。あの子、教会に入るとか言いだしそう」

 決めつけて、つまらない、と言わんばかりの顔をする。グレイは苦笑した。

「どうだろう。まあ興味はあるみたいで、昔から色々聞いてくるけどね」

「間違いない。賭けてもいいわ。あの子、あなたに憧れてるもの」

「そんなこと、一度も言われたことはないよ」

「憧れてるとか、尊敬してるとかなんて、面と向かってそう言わないわよ。でもあなたの影響を受けてることくらい、見ればわかるじゃない」

 グレイはサディルナに、最近は君の影響も受けているようだよと言いたくなったが、敢えて口にしなかった。

「ライールは、素精干渉者(ファル・ラー)ではないんでしょう?」

「うん。違う」

 『素精(ファル)』とは、人の五感で感知することはできない、この世のあらゆる事物・事象と繋がる根源的なものである。教会はそれを、父なる神に生み出された世界に生命を吹き込んだ、母なる女神の息吹であると説く。

 常人に感じ取れないそれを感じ取り、場合によっては己の意思で影響を及ぼす力を先天的に持つ者を、素精干渉者、もしくは単に干渉者と呼ぶ。グレイは教会に正式に認知された素精干渉者だ。

 素精干渉者は対する相手が同じくそうであるか、基本的に判断することができる。なぜかはグレイにも説明が難しいが、素精への接し方、影響の仕方が、そうでない者とは違っているのである。時には、相手と自分が身体の壁を越えて通じ合う印象を覚えることもあった。

 素精は目に映らなくとも世に存在し、それを感じ取れる者も実在する。それはグレイ個人の認識とも一致する、『教会』の絶対的見解である。しかし素精干渉者が生まれることは稀であり、多くとも数千に一人程度しか存在しない。

 干渉者として生まれるかどうかは、血筋の影響が大きいと世間では信じられている。しかし少なくともグレイの両親はそうでなかったし、一人娘も孫も、その素養を持ってはいない。グレイはティルネが生まれた時、娘が彼の特性を引き継がなかったことに、心の底から安堵した。

 グレイは自分が素精干渉者であることを不幸とは思っていない。それはグレイの人生において掛け替えのない縁のいずれもが、彼がそう生まれついたことに起因するものであるからだ。しかしグレイはその力が、持つことが幸福なものだとは、けして考えていなかった。

 多くの者に感知しえないものを感知する能力など、その力を持たない人々にとっては異常である。触れることも見ることもできないものを、「ある」と主張する者が、彼らにとって狂人とどう違いがあるのだろう。

 教会に属する素精干渉者は、聖職者の衣によって庇護された異端者だ。彼らは教会の堅固な壁に守られて、初めて世の人々の尊敬を受ける。そんな素精干渉者達を保護することは、教会の極めて重要な役割のひとつだと、グレイは年若い頃から信じていた。

「それなら神官になるのが順当なのかしら。向いてはいそうだけど……どうかした?」

 水を注いでいたサディルナが、凝視するグレイに気付いて手を止める。

「いや、なんでもないよ」

 四十年近く前のこと。歌を生業に各地を流れていたサディルナを見つけ出し、教会に引き入れたのは自分だ。グレイは教会が、彼女にも必ず庇護と居場所を与えてくれると信じた。

 サディルナが小さな壺から丸薬を出して皿に乗せ、湯呑みとともにグレイに差し出す。

「パーシル司祭が用意してくれた薬よ。毎回三粒、出来るだけ食後に。今後はリアムの教会から届けるそうよ。何か支障があれば、それもそちらに言ってくれと」

「有り難くいただくよ」

 豆粒程度の丸薬だが、彼の手によるものなら効用は確かだ。素材自体の薬効もあるだろうが、作り手がさらに手を加えている気配がある。口に入れると舌にきつい風味と痺れがあったが、良薬口に苦しだとぬるま湯で流し込む。

「パーシルによく礼を伝えてくれ。前回も彼には悪かったね。こんなところまで来て貰ったのに、徒労をさせてしまって」

「彼はあなたに、どうか気にせず身体を休めてくれと言っていたわ。これは職務だから、前回のように謝礼も礼状も要らないと」

 その言葉に、グレイは眉を顰める。

「しかしここまで個人的なことを、教会に頼るわけにはいかない」

 グレイは未だリアムの司祭長の職にはあるが、体調という個人の領域について、そこまで立場に甘えるわけにはいかない。しかしサディルナは頭を振った。

「前回は私のお願いに彼が応じてくれた形だけど、今回は、ファーレン大祭司が彼に命じたの。条件は薬の効き目を、教会の使者に報告すること。口頭でいいの」

 教会最高位の司祭の名前が出たことに、グレイは驚く。

「それはまた、どうして」

「大祭司が、パーシルがお手上げとまで言うなら、逆に追究する意味があるだろうと。彼がそう言うのだから、あなたは何も気にしなくていいのよ」

 グレイは既に数ヶ月床に伏せっているが、原因は未だ明らかではない。ひどい倦怠感が続き、頻繁に発熱もする。しかしこれといって体の表層に現れた異常はなく、どこかに明確な痛みというものもない。名高い医師にも頼ったが成果のないまま、弱る身体は彼を寝床に張り付け、最近は起きられない日も稀ではなかった。

 そのグレイの状態を知るサディルナが、先日、ヴィールダルトからパーシルを伴って来た。

 リオルド・パーシルは、『教会』本部の医務司祭である。医務司祭は、一般的な医療行為もある程度身につけているものの、世俗の医師とは探求する診察と治療の方法が異なる。医務司祭は例外なく素精干渉者であり、患者の肉体そのものではなく素精の態様を診るのである。

 素精は物質ではないが、すべての生命に不可分のものとして存在し、人間もその例外ではない。素精干渉者が見れば、人の肉体は素精という女神の息吹に満たされ、それは人の内側で血液のように常に流動し変化する。その状態を、素精の態様と呼ぶ。

 この素精の態様は、肉体の状態ともある程度連動し、健全な状態と比較した場合の滞り、すなわち『負調』を感知することで、肉体の内に潜む患部や病の源を発見できることがある。一方で、素精を健全な状態、すなわち『正調』に導くことが、肉体を快復に導くこともあった。その術を探求する者が、教会の医務司祭である。

 パーシルはヴィールダルト屈指の医務司祭であり、つまり大陸でも屈指といって過言ではない。その彼がグレイを診察し、打つ手がないと言った。グレイのどこにも致命的な負調は見当たらず、それゆえパーシルの能力をもってしても、正調に導くことは出来ないのだと。

 その診断にグレイはさほど衝撃を受けなかった。グレイは素精干渉者として、自分自身の状態は『正調』にあると、同様の判定を下していたからだ。やはりそうかと、沈む心で事実を受け止めただけのこと。それよりグレイの胸を痛めたのは、その場にいたサディルナの、折れそうに打ち拉がれた様子だった。

「大祭司の心配りとは畏れ多いが、あの方がそう仰るなら、確かに気にする必要はないんだろう」

「そうよ。あの人にはあの人の思惑があるのだから、都合良く甘えていればいいの」

 ファーレン大祭司は合理的な人物である。薬は手を尽くされたものに違いないが、それが効用をもたらさなかったとしても、ファーレンは失望しない。効用がないと確認したことに意味を見いだすだろう。その点で、この贈り主とサディルナは根本的に異なっている。グレイはそんなことを考えた。ただ、

「それにしても勿体ないことだ。サディルナ、君にも感謝をしなくては」

「え?」

 サディルナの端正な容貌から、ふと笑みが消えて無防備な表情になる。

「君にはずっと、沢山の無理をかけてる」

 グレイが床に伏せって以来、サディルナは複数回に渡りリアムを訪れている。この数十年間、日々教会の敷地から出ることさえなく、休日などないも同然に研究に没頭してきた彼女が、仕事を放り、国さえ跨いで彼の元へとやってくる。

 パーシルを連れてきたことも、私的な伝手と好意だけで可能なことではなかった筈だ。多忙なパーシルに、殆ど一週間もヴィールダルトを空けさせるため、サディルナは彼にもその周辺にも頭を下げたに違いなかった。

 職に私情を挟むことも、他者に負担をかけることも厭うサディルナが、この数ヶ月、無理を押してそれに近いことをしている。ただ友人であるグレイのためだけにだ。 

「大祭司やパーシルが気遣いを下さるのは、たとえ他に理由があったとしても、まず君が俺のために駆け回っていることをご存知だからだ」

 サディルナは悄然と頭を振る。

「私は大したことは何もしてない。出来ていないわ」

 厳しく眉根を寄せた彼女は、それにも関わらずどこか繊細な少女のように頼りなく、泣き出しそうな顔をしていた。

 多くの人はサディルナを、美貌に愛想の無さを加えた印象からか、鉄面皮のように言う。しかしグレイから見ると、サディルナは十分表情豊かであったし、それ以上に、静かな表層の内側に、鋭く繊細な感性と豊かな情を湛えた人物だった。長い年月を過ごし、年配者らしい柔軟さや寛容さを身に付けたとしても、サディルナの本質は姿と同じく変わらない。

 グレイはそのことが愛おしく、同時に少しだけ、胸を刺すように悲しい。

「君が何もしていないだなんて、そんなことはない」

 グレイに頑固に頭を振って、サディルナは立ち上がる。

「長居し過ぎたわ。薬も飲んだことだし、すこし休んで」

 湯呑みを預かろうと伸ばされた細い腕を、グレイはそっと掴む。「グレイ」と咎めるように眉を顰めたサディルナに、穏やかに微笑みかける。

「具合はいいんだ。安心して。俺は大丈夫だから」

 嘘ではない。サディルナが来るとグレイの具合が良いと、家族は口を揃える。

 しかし彼らも今日、グレイがサディルナと談笑しながら食事する様子を、直に見ればさぞ驚いただろう。昨日彼女が訪れるまで、グレイは自力で起き上がるような状態ではなかった。ここ一月は食事が殆ど喉を通らなかったため肉も落ち、外観もいささか見苦しい筈だ。その自分が今、サディルナの前では、まるでほんの数日、体調を崩しただけであるかのように振る舞えている。

 これはサディルナの力によるものだ、そうグレイは考えていた。それは比喩ではなく、サディルナは確かに、医務司祭であるパーシルに不可能であった何かをやってのけている。

 サディルナは教会が認知した素精干渉者だ。しかし、彼女は素精を感知する能力を持たないため、ライールが干渉者であるかどうかを自ら判別することさえできない。これは、素精干渉者の常識から言えばおかしなことだった。

 素精干渉者は常人と異なり、物質的な存在ではない素精を感知するからこそ、それに己の意思で干渉することもできる。素精干渉者と素精の間には肉体のように明確な壁はなく、感知すること自体がそれらに干渉し、干渉されていることと同義でもある。

 グレイは素精の態様を感知することに長けているが、彼の場合、これは俯瞰する能力が高いのであって、素精との距離感は比較的遠い。グレイは素精の影響を強く受けない代わりに、素精に対する影響力も強くない。このように素精干渉者と素精の関係は通常、一方的なものではあり得ない。

 そんな法則の一方で、サディルナがなぜ素精干渉者と認められるのかといえば、彼女は素精を感知することなく、自ら意識することさえなく、素精に対して絶大な影響力を発揮するからである。

 素精干渉者の世界においてこれは明確に非常識だ。そんな、大陸中に散らばる教会にとってさえ異端の能力者がサディルナである。かつて、この世界からそのたった一人の彼女を見つけ出してしまったのが、他ならぬグレイだった。

 グレイはそんなサディルナの能力について、サディルナ自身よりよく知っている。グレイ一人の素精に影響を及ぼすことなど、彼女の影響力を考えれば造作もない。その仕組みは知る由もないが、サディルナは無自覚に、グレイの生命活動を補助する力を行使しているに違いなかった。

 グレイはそんな推測を以前から抱いていたが、体調の悪化が進んだ今に至って確信した。

 しかしそれをサディルナに伝える気はない。無力に打ちのめされるサディルナに、決してそんなことはないと伝えたくても、そのことだけは伝える気がない。伝えれば、サディルナは間違いなく、グレイのためにここに留まろうとするだろう。

 それはできない。これ以上、自分がサディルナの自由を奪うことは、あってはならない。

「グレイ、だめよ。少し調子がいいからって、休まなきゃ。話してる場合じゃ……」

 サディルナは、自らの手首を掴む痩せた指を、解くに解けず言葉を重ねる。

「大丈夫だ。だからまだいて。お願いだ」

 グレイはサディルナを安心させるように、そして少しだけ甘えるように言う。彼女は、自分がグレイに与えている恵みを何も知らない。

 けして言わない。永遠に。けれど今だけ、まだどうか。