雨
雨の日は好きではなかった。
隙あらば館の外を歩き回る少女には、曇り空より、高く青い空が好ましかった。とはいえ、なぜだか空から落ちてきて頰を濡らす、その不思議な水滴を、彼女は元々嫌いだったわけではない。しかし泥の跳ねた靴や服を目に留めると、いつもは彼女を見ぬ振りをする母が、秀麗な貌に疎ましさを隠さなかった。
幼い頃はそれでも懲りずはしゃいだが、そのことで母が彼女でなく姉を責めることに気付いて以来、どれほど退屈でも、雨の日の外遊びはしなかった。そうなれば、雨は彼女を冷たい石壁に押し込める、暗く憂鬱なものでしかない。
それでも唯一、雨の訪れが、彼女を喜ばせる時があった。
「雨が降ってるから、まだ行かないでしょう?」
裾を掴む少女の小さな身体を見下ろして、その人は、そうだね、止むまで待とうか、と微笑んだ。
思い返せば、多少の雨など、彼の足を遮るものではなかったのだと思う。それでも、雨を口実にした少女の我が儘に、応じて出立を延ばしてくれた。彼の優しい微笑みが、ずっと胸の奥に焼き付いている。
彼と姉が、小さな彼女の世界のなかで、二つだけの大切なものだった。
「止まないわね」
窓枠の向こうに斜線を描く雨を眺め、サディルナ・ウェルズは呟いた。
呟きが独り言になったのは、従者のライールが、叩き金の音を聞いて戸口へ向かったからだ。書斎の扉ごしにそちらの様子を眺めると、ライールが「師匠、客です」と、まだ少年らしい顔に険悪な戸惑いを浮かべて振り返った。彼の声も、その表情と同じ色をしている。
戸口から覗いた客人の姿を認め、サディルナの表情も、ライールと同じ様相を呈する。
「雨宿りに寄らせて貰おうと思って。少しお邪魔していいかな?」
冷え冷えとした空気を意にも介さず、男は人好きのする笑みを浮かべた。ライールが目で窺ってきたので、サディルナは諦めの息を吐いて立ち上がる。
「ライール、お茶を出して頂戴」
「ありがとう」
言って、その男――ダイルグ・シリングは建物に足を踏み入れた。ライールは彼から水を弾いた外套を受け取り、サディルナは書斎を出て、来客用の小さな円卓に向かう。
「当然だけど仕事中なの。一服したらお帰りください」
刺々しい言葉を向けられても、ダイルグは何も気にしない風情で、「勿論、私も仕事中だよ」と笑った。
笑うと目元には皺が寄るが、老年と呼ぶには若々しい男である。見た目がせいぜい二十代後半のサディルナと、傍目には父娘ほど年齢が離れているように見えるだろうが、引き締まった体躯と活力のある目の輝きによって、老け込んだ印象はない。
「ちょっと使いに出されてね。傘は要らないと思ってたんだが、意外に難儀して。止むのを待っていて、ここが近いと気づいたんだ」
サディルナは、気付かなくていいのに、と心で悪態をついた。雨が降っている。こんな日に、よりによってこの男に会いたくない。
「そう嫌そうな顔をしないで。君は根を詰めすぎるから、邪魔な客を口実にして、少し休憩するといい」
さらりと言うので、サディルナは余計なお世話と反駁する隙を失う。己の反応の鈍さを呪って黙り込むと、「最近よく付けているね」と、ダイルグが彼女の顔を指さした。
一瞬怪訝に思ってから、気付いて耳に掛かった眼鏡の蔓を持ち上げる。
「あると、細かい書物を読むのに楽なの。少々値は張ったけど」
顔を見られていると思うと気恥ずかしく、サディルナは眼鏡を外して脇に置いた。ライールが盆を抱えてやってきて、二人の前に茶を差し出しながら言う。
「中身がもういい年だから」
「うるさい。殴るわよ」
ライールは「事実だろ」と受け流して背を向け、別室へ下がった。従者らしからぬ無礼さだが、その手で並べられた茶器は整然としており、繊細に盛られた焼き菓子まで添えられている。
ダイルグは「君たちは仲がいいね」と笑い含みに、湯気の立つ茶を口に運んだ。
「お茶も美味しい。部屋もいつも整っているし、行き届いた子だ。……ところで君はいつから、ライールの『師匠』になったんだい?」
「呼んでいるだけよ。『様』はやめろと言ったら、そこに落ち着いたの」
雲に陽が隠れて久しく、室内は少し冷えている。サディルナも茶に口を付け、温かさと豊かな香りに人心地ついた。
ライールは従者といってもサディルナの専属の部下ではなく、『教会』全体に奉仕する徒弟である。個人としては、サディルナの亡き友人の孫であり、彼女はライールを生まれた頃から見知っている。
そのため、彼に以前から自分を「サディルナ」と名で呼ばせていたのだが、徒弟となってから、ライールはそれではけじめがつかないと嫌がった。サディルナはそれも道理と頷いたものの、「サディルナ様」という呼び方には、彼女自身が三日と保たず音を上げた。続いて「ウェルズ司祭」と呼ばせてみたものの、今度は妙に他人行儀で落ち着かない。その結果、ライールが編み出したのが、この「師匠」なる呼び名である。少々奇妙で不正確ではあるものの、端から聞いて無礼でもなかろうと、そこに落ち着いている。
「慣れたように呼べばいいと思うが、君たちらしいね」
ダイルグは可笑しそうに言う。
「ところでサディルナ、君は今日も昼食を取り損ねたんじゃないか?」
唐突な話題に眉を顰めつつ、サディルナは反射的に記憶を反芻する。今日は朝から調べ物に没頭していて、昼食を摂った覚えは確かにない。運ばれた際、掛けられた声に気付かなかったか、無意識に要らないと断ったのだろう。後ほどライールに食らう小言を思って、サディルナは息を吐いた。ライールは不摂生なサディルナに、きちんと食事を摂らせることに執念を燃やしているのである。
ダイルグが、焼き菓子の盛られた皿を、サディルナに向けて押し出す。
「これは私でなく、君に出されたものだよ。食べなさい」
「指図しないで」
サディルナは反発を覚え、咄嗟に強い声で撥ね付けた。
そうしてしまってから、己のそんな反応に恥じらいを覚える。ダイルグの物言いはお節介であっても高圧的だったわけではなく、大体腹を立てるほどの話題でもない。分かっているのに、胸が不快にざわめく。
(雨のせい)
しとしとと、降り落ちる雨の気配がする。
ダイルグに対するサディルナの非好意的な態度は今に始まったことではなく、彼は気に留めないと知っていたが、サディルナは気まずい思いに目を逸らす。そのうえ差し出された菓子を無視するのも幼稚に感じられ、渋々ひとつ摘まみあげた。香ばしく焼き固められた生地は、それでいて噛むとほろりと崩れた。中に包まれた煮苺の甘酸っぱさが舌に沁み、サディルナは空腹を自覚する。
よく味わって咀嚼してから「美味しいわよ」と皿を押し返す。
「あなたもどうぞ。ライールは、なにも私だけに出したわけじゃないわ」
ダイルグは「それなら」と素直に手を伸ばし、話題のないまま、茶器を上下する音だけが微かに響く。沈黙はけして不快なものではなかった。安らかな静寂を包むように、雨粒が遠く音を奏でる。ライールは別室で気配を消しており、サディルナは石壁に囲われた世界に、まるで二人きりでいるような錯覚を覚えた。それは懐かしく、慕わしい感覚だった。
サディルナは、少女の頃に思いを馳せる。思い起こせば、あの日も雨が降っていた。『彼』に歌を教わった日。彼を引き留め、その人がかつて彼女の姉に伝えた子守歌を、自分にも教えて欲しいとねだった。殺風景で小さな部屋に二人きり、困り顔の彼を前に、幼い彼女は幸福だった。
「そういえば」と、暫くしてダイルグが口火を切った。サディルナは遠い記憶から、引きずり戻されるように我に返る。
「カヴァーリアはどうしている? 多忙な君に手間をかけてすまないが、彼女はどうだろう」
カヴァーリア・ダーガードは『教会』に勤める若い女性の神官であり、数ヶ月前から週に数度、研修の名目でサディルナの研究室を訪れている。
「よくやってるわ。真面目でとても熱心だし、覚えも早い」
加えて人柄も良く、年齢の割に少し賢しいライールとも仲良くやっている。受け入れを求められた際には何を押しつけられたかと思ったが、サディルナは彼女の存在に、己の職務を疎外されるどころか大いに助けられていた。神官らしく事務能力の高いカヴァーリアは、サディルナなら後回しにする雑務を手早く片付けてしまうし、聡明な彼女の打てば響くような反応に、教えているサディルナ自身が学ぶところも多い。
「彼女が私にとって迷惑ということは、今のところ無いわ」
「それは良かった」
答えを知っていたように微笑むダイルグを、サディルナは咎めるように睨んだ。サディルナは、カヴァーリアの指導者に自分を推薦したのが彼であることを知っていた。「だけど」、と語気を強める。
「カヴァーリアにとって私が、適切な教師であるかどうかは疑問だわ」
『教会』には司祭と司教という、二つの大きな職領域がある。司祭であるサディルナやダイルグと異なり、カヴァーリアは神官、すなわち下位の司教だった。彼女は奇特なことに司祭への転向を希望して、サディルナの元に学びに来ているのだった。
司祭から司教への転向には一定の例があるが、その逆は稀である。神の官吏と呼ばれる司教と異なり、司祭、取分けここヴィールダルトの『教会』本部の司祭には、単なる知性、或いは努力や志向以前の特殊な才能が求められる。その才能とは、『素精(ファル)』と呼ばれるものに関する適性である。
『素精』とは教会の経典において、「世界の意思、全ての根源であり、全ての存在そのもの」とされる。父なる神が創造したこの世界に生命を吹きこんだ、女神の息吹のことも指すそれは、目に映らず、手に触れられず、常人に感知し得ない、形なきものである。
この素精を、第六感によって感知する者を、通常『素精干渉者(ファル・ラー)』と呼び、ヴィールダルトに属する司祭の九割は、正式に教会に認知された素精干渉者だった。
「カヴァーリアには素精を感知する才能が、あるにしても乏しい。認知を受けるのも覚束ない。だけどその意味で、私は彼女より更に劣る」
サディルナは歴としたヴィールダルトの司祭だが、異例なことに、素精を感知する能力を持たない。それにも関わらず、この職にあるのは、彼女の行っている研究が司祭の職領域に属するためでもあるが、それ以上に、彼女が他者には持ちえない特殊な素養を持っているからだ。但し、サディルナの能力は、他者に教授してやれる種類のものではない。
「私に学ぼうとしたところで、彼女の助けになるとは思えない」
サディルナは挑みかかるようにダイルグを見た。
「どうしてあの子を私のところに寄越したの。何を企んでるの。現職の神官を司祭に、まして私のようなはぐれ者のところに置くだなんて、よく許可が出たものだわ。誰をどう丸め込んだの」
辛辣な物言いにも眉ひとつ動かさず、ダイルグは彼女を見た。
「まして君のところに、とはどういう意味だろう」
静かに質問を質問で返され、サディルナは怯んだが、すぐに向こうっ気を振り起こす。
「人に言わせれば私は、司祭が守る『神秘』の冒涜者よ。そんな私に神官を近づけるなんて、警戒する人もいるでしょう」
「つまり君が、司祭の立場を危うくする恐れがあると言っているのか?」
「違うと言えるかしら」
ダイルグは即座に「違うね」と答えた。
「君の研究を面白くなく思う人物が、司祭の中に一定数存在するのは事実だ。しかし彼らはごく一部であって、気に留めるにあたらない。多くの者は、君の研究が現実に資することを理解している」
ダイルグの目はまっすぐサディルナを見据えている。
「君は、君自身がそう評するように、はぐれ者でもなければ余所者でもない。その始まりはどうあれ、君は既にこの教会の一部であって、多くの者が君を信頼している。君の能力や研究成果が他に類のないものだとして、君が身内を貶める可能性など、ここでは誰も思いつきはしないよ」
声は穏やかだったが、彼女を窘める響きもあった。サディルナは「随分な評価ね」と辛うじて刺々しい声を返したが、ダイルグはさらりと「事実だからね」と言う。
「つけ加えると、カヴァーリアの受け入れには、ファーレン大祭司の積極的な協力があったんだ」
「ファーレンの?」
ダイルグは頷いた。ルヴェスト・ファーレンは教会最高位の司祭であり、サディルナとダイルグの共通の上司、教会の表現で言えば上階にあたる。
「以前から私には、遍歴司祭に神官の出身者を組み込めないかという腹案があってね。敢えて君の言う『企み』に相当することを言うなら、カヴァーリアをその先行例にできないかとは考えている。大祭司はこの話に理解を示して下さって、彼女の受け入れ先を君にしたいと言ったら、いいんじゃないかと仰せだったよ」
ファーレンの名を持ち出され、サディルナは言葉に詰まる。サディルナは昔から、単なる上階という以上に彼に色々と世話になっていた。そんなサディルナを見て、常日頃、にこやかな表情を崩さないダイルグが、どこか不服げなような、ひどく彼らしからぬ表情をした。
「私の長広舌よりファーレンの名の方が、君には効き目があるようだ」
どことなく突き放す声にサディルナは戸惑ったが、一度瞬きをすると、ダイルグはいつもどおりの彼だった。
「私が君を推薦したのは、純粋に、最も適任と考えたからだよ。カヴァーリアの司祭としての適性は、確かにヴィールダルトの水準に及ばない。素精干渉能力に優れた者が彼女を指導したところで、さして助けにはならないだろう。一方でサディルナ、君が組み上げてきた理論は他者と共有することができる。君の成果は、おそらくカヴァーリアの助けになるだろう」
(あなたから見れば、それも子どもの遊びに過ぎないでしょう)
他の者なら賛辞と受け止めただろう言葉に、サディルナは形の良い眉を顰め、唇を噛む。
「私が適任だなんて、冗談もいいところよ」
サディルナの考える真の適任者は、いま彼女の目の前にいる。サディルナに可能であってダイルグに不可能なことなど存在しない。彼はただそれを、自分の役割と考えていないだけだ。カヴァーリアが司祭への転向を望む理由、それは彼の存在にあるにも関わらず。
『神官として教会に入ることはできましたが、やはり同じ司祭として、ダイルグ様を微力であってもお助けできればと思ったんです。その気持ちを諦めきれず、機会を頂いて飛びついてしまいました』
カヴァーリアにとってダイルグは恩人なのだと言う。その恩なるものの詳細をサディルナは知らないし、詮索するつもりもない。カヴァーリアの動機を聞かされた時、サディルナが気にかけたのは別のことだ。
「カヴァーリアはあなたを信頼してる。けど、あなたは彼女の信頼に値しない人だわ」
サディルナは切りつけるような言葉を、正にその彼へとぶつけた。ダイルグは仄かに笑みさえ浮かべてそれを受け止める。
「同感だよ」
彼が善人であると、誰もが錯覚する笑みだ。
『彼を闇雲に信頼するのはよしなさい』。サディルナはカヴァーリアにそう言った。多くの人が、彼を善良で高潔な聖職者と信じている。しかしサディルナは、彼がそのように単純に分類できない存在であることを知っている。
人はサディルナが彼を蛇蝎のごとく嫌うと知って驚き、何故かと口を揃えて問う。彼女が返せる説明はなく、ろくでなしだからよ、とでも言い捨てるほかない。今もダイルグは、悪びれない態度がサディルナを刺激すると知っていながら、そう振る舞っている。腹立たしさに押されるように、サディルナは彼を睨み付けた。
ダイルグはその視線も平然と受け止めたが、ふと思案顔になって「ただ」と言葉を返す。
「私が君の言うような人間であるのは否定できないが、受け止め方には、少し誤解があると感じるよ」
「何が誤解なの」と苛立ちを滲ませるサディルナに対し、ダイルグは飽くまで穏やかだ。
「君は素精を感知する感覚を持たない代わりに、その努力によって、これまで誰も理論化しなかった事実を明らかにしてきた。そんな君の成果が、カヴァーリアの道標たり得ないと、私は真実思っていない」
淡々と誠実に紡がれる言葉に、サディルナは何も返せない。
「君は、私が怠惰や思惑によって面倒を避けていると思っているのだろうし、それも否定しきれないところはあるが、私にとっては紛れもなく、彼女には私より君が相応しい」
そう言ってダイルグは相好を崩し、冷えきった茶を口に運んだ。
「カヴァーリアは君と同じように、柔軟だが確かな意思を持った人だ。自ら学んで道を決める。心配することはない」
君のことをよく知っている、だから心配ないのだと、言外に響く言葉に、サディルナの頰に朱が上る。どうにか撥ね付けたいのに、向けられる微笑みに、胸が震えて口が開けない。
(どうして)
どうしてこれほど振り回されてしまうのか。あの幼い日から、どれだけの時間が経つと思うのか。いつまでも、いつまで経っても変わらずに。
「もうひとつ、私はずっと、君が誤解していると思っていることがあるんだ。言ってもいいかな」
「……なにを」
掠れる声をどうにか返すと、ダイルグは真摯な眼差しを彼女に向けた。
「君が私を不快に思うのは仕方のないことだ。それは構わない。しかし君は、私がまるで君を怒らせて喜んでいると思っているように感じる。それは誤解だよ。出来ることならやめてほしい」
サディルナは今度こそ二の句が継げなくなった。ダイルグの視線から逃げるように俯く。猛烈な、恥ずかしさにも似た気持ちに襲われ、自分がどんな表情をしているか、どんな表情をすればいいかわからない。必死に外へと意識を逸らした。雨、雨音。
雨音が――――
「止みましたよ」
ライールの声が淡々と響いた。