流れ霞と琥珀糖

 ドン!と扉にぶつかる音に、ライールとサディルナは顔を見合わせた。

 安息日の午後遅く。早めの夕食を終え、普段は来客用の円卓で、ゆったり食後の茶を愉しんでいたところである。ライールは休日であっても用事がなければ、研究室を出ないサディルナと二人、夕食を共にするのが常だった。

 何かがしつこく力を加えているように、扉がゴトゴト音を立てている。

「俺が様子を見るから、サディルナはそこにいて」

 ライールはひとり扉に近づき、外の気配を探った。鍵のかかった扉は木製だが頑丈で、破られる恐れはまずないだろうが、少し緊張する。今日は風はないので、物がぶつかったということはないだろう。獣だろうか。

 ヴィールダルトは緑深い場所だが、教会本部の広大な敷地は大半を高い塀と柵に囲われ、大きな獣が日常的に入り込むことはない。そういうことがあれば、周囲がもう少し騒がしくても良いだろう。

 残る可能性は人間だが、まともな来訪者は扉の叩き金を叩く。街中なら強盗の可能性を疑うところだが、ここは『教会』本部の関係者専用区画である。敷地内には守衛も常駐しており、部外者がそうそう立ち入れる場所ではない。一体何者だろう。

 もう一度ドンと扉に大きく衝撃が加わり、今度は呻きのような、くぐもった音が続いた。間違いなく人間だ。気付けばサディルナも近くに来ていた。

「――――――― !」

(……『ウェルズ』?)

 耳を付けた扉の隙間から、ようやく知った名前を聞き取る。続いて待ちかねたように大きく響いたのは、呂律の回らない男の声だった。

――――うおおい、ウェルズ! おれだ! さっさと開けろお!」

 サディルナを振り返ると、その正体を知ったらしい彼女は、心底嫌そうに長い溜息を吐いた。


 戸口を開くと、細身の男が、倒れ込むように室内にまろびいった。

「おそいよお前。呼んでんだから、さっさと開けろよ。寒いだろうが」

「あなたいったい、何してるのよ」

 地面に半身を起こし、酒の匂いと不平を撒き散らす男を、サディルナはうんざり見下ろした。明らかに知り合いの様子の二人を見遣りながら、ライールは扉を閉じて外気を閉め出す。

「こんなとこにいないで、さっさと自分のところに帰ってちょうだい。いま何時だと思ってるの」

「こどもでもあるまいに、大した時間でもないだろが。部屋が遠いんだよ。ちょっとここで休ませろ。あと水、水一杯くれ」

 苦情が微塵も響かぬ様子の男に、サディルナは眉根を寄せたが、大きく息をつくと、流し場のある別室に向かう。「俺がやるよ」と申し出るライールに、「いいから、ちょっとその人を見てて」と背を向けた。普段ならそんなことはライールの役目だが、サディルナは、休日にライールにそういった雑事をさせるのを好まない。

 ライールは仕方なく、酔漢の前に「大丈夫ですか」と膝を突いた。ここにいる以上は教会関係者なのだろうが、彼の見知らぬ人物である。

 ふわりと波打つ榛色の髪が印象的な男だった。背丈はそこそこ高いが、肉体は貧相に感じるほどに細い。甘い顔立ちをしており、遠目に最初は若者かと思ったが、よく見れば顔には細かい皺が刻まれ、サディルナと同じ年頃か年上のようだった。もっとも『老いぬ者』であるサディルナは、実年齢の三十歳は若々しい容貌の持ち主なのだが。

 男は初めて第三の人物に気付いたように、「誰だお前?」と眠たげな目をライールに向けた。

「徒弟のライール・リジェットです。動けるようなら、どうぞ長椅子を使ってください」

「……リジェット?」

 男が怪訝そうに眉を顰めたところで、サディルナが水飲みを片手に戻ってきた。

「地べたに座られても鬱陶しいから、椅子に座って、これを飲んだら帰って頂戴」

「おまえ、休日だってのに何で仕事着なんだよ。見てるこっちが疲れるだろうが」

 酔っ払いはサディルナの正面にだらしなく腰掛け、くだを巻いていた。

まさに人の休日を騒がせて言うこと? そんなのあなたの知ったことじゃないでしょ」

 サディルナは書物に目を落としたまま、ぺらぺらと喋り続ける男を適当にあしらっていた。男もそんなサディルナの態度を気に留めることなく、次から次へ言いたいことをまくし立てている。

「そんな人間がいると考えるだけで疲れるんだよ。年がら年中そんなもの着て、どうせ今日も机に張り付いてたんだろ。ああ、やだやだ。おまえって人間には遊びが足りないんだよ遊びが。坊主、おまえもそう思うだろ?」

 突然話しかけられ、ライールは「え、いえ」と答えにならない答えを返す。

 サディルナが平日休日を問わず殆ど四六時中、仕事着である司祭服を着回しているのは事実で、ライールもそこに思うところはあるのだが、それをサディルナ本人に言ったことはなく、ましてこの場で口に出来るはずもない。

 ライールが挙動不審になっている間にも、「ほら見ろよ」「ライールは何も言ってないでしょ」と会話は続く。

 水をあおった男は結局、来客用の円卓にすっかり陣取ってしまった。サディルナはライールに宿舎に戻るよう言ったのだが、ライールは彼女を謎の酔漢と二人きりにするのも気にかかり、壁際の長椅子から、所在なく様子を眺めているのだった。

 この男は一体何者だろう。ライールは気にはなるものの、妙にくだけた二人の間に口を挟めない。

 サディルナは正直で率直な人間だが、多弁というわけではなく、必要がない時にはさほど喋らない。その彼女が酔っ払いの戯れ言に付き合って、立て板に水の如く言葉の応酬を繰り広げている。この二人が親しい間柄なのは間違いないが、それにしては、ライールがヴィールダルトに来て三ヶ月、男に一度も会ったことがないのが不思議だった。

「遊びってのは、つまり色気だ。お前には色気がないんだよ。少しは俺を見習え俺を」

「迷惑な酔っ払いを、誰が見習おうと思うのよ」

 男はサディルナの言葉を聞き流し、「ああ」と大袈裟に卓に突っ伏した。

「俺のところなら、こんな鬱陶しい着たきり、断じてさせんのに。やっぱりお前は俺の娘にしときゃ良かった」

 ライールは突拍子のない発言に目を剥いたが、サディルナはあっさり「謹んで辞退するわ」と突き返した。

「そもそも、ウェルズ司教を私の引受人にしたのはあなたじゃないの」

「あの時はそれでいいと思ったんだよ。しかし結局、俺も独り身だからなあ。そんならお前くらい貰っときゃ良かった。つまらん」

 寝惚けたような半眼で見上げる男を、サディルナは呆れ顔で見返した。

「あなたが私を娘にして、一体何が面白いのよ」

「お前はくそ真面目なわりに、妙なことを思いつくからな。何だかんだ騒がしくて退屈しない。あと見た目はいいから目の保養にもなる」

「それは褒めてるつもりなの?」

「褒めてなきゃなんなんだよ。お前はほんと、めんどくさい女だなあ。だからそんだけの見た目してんのに、ダイルグやらリジェットみたいな、物好きにしかモテないんだぞ」

「もててないし、余計なお世話よ!」

 リジェットとはライールの祖父であるグレイのことだろう。彼はダイルグやグレイと親しいのだろうかと、ライールは酔漢を興味深く眺めた。

 一方、サディルナはそろそろ潮時と思ったか、手元の書物をぱたんと閉じた。

「人のことばかり仰るけど、あなたもいい加減、いい歳なんだから、お酒も遊びもほどほどになさいよ」

「俺からなけなしの癒やしを奪うっていうのか。大体、俺が歳ならお前も歳だろ。お前こそ、いつまでダイルグとうだうだやってる気なんだ」

「はあ!?」

 男を適当にあしらっていたサディルナが、一瞬で気色ばんだ。

「生娘ぶってないで、俺が死ぬ前に、あいつとくっつくなり何なりしろよ。自分を幾つだと思ってんだ」

 立て続けの暴言にライールは目を剥き、サディルナは顔を真っ赤に染めてわなわなと震えた。「まったくこの女は」などと溜息交じりに呟く男は、彼女の逆鱗に触れたことに気を払う様子もない。

 身体を強ばらせて見守るライールの前で、サディルナがガタン、と音を立てて立ち上がった。そのまま男の後ろ襟をひっつかみ、驚くべき力で彼を椅子から引き摺り下ろす。

「わっ、いてえ!」

 情けない声を上げた男は、締まる襟元を必死に押さえ「ちょっと待て!」と喚いた。

――――待て! 俺が悪かった、謝る! だから待て、この馬鹿力!」

「うるさい! さっさと出て行きなさい、この酔っ払い」

 サディルナは振り返りもせず、男をそのまま引き摺っていく。いかに痩せているとはいえ、成人男性の肉体である。ライールは、サディルナの細腕にあんな力が潜んでいたのかと、呆然とする。しかしふと男の表情に気づき、「サディルナ、待って」と慌てて呼びかけたところで、時は既に遅かった。

「ちょ待っ……うおぇ」


「本当にごめんなさい」

 石畳の床にぶちまけられた吐瀉物を前に、しゃがんだサディルナが肩を縮こまらせた。

 男の姿はここにはない。吐くだけ吐いて力尽きたので、サディルナと二人、従者部屋の、普段は使っていない寝台に運んだのだ。

「いいよ。別にこんなの慣れてるし、さっきのは流石に、あの人が悪いよ」

 街育ちのライールは他人の吐瀉物など見慣れている。サディルナは自分が片付けると言ったのだが、ライールが自分がやった方が早いと下がらせたのだった。

 床は汚れるし異臭はひどいし、迷惑極まりないが、サディルナが激怒したことで男の口が塞がって、ライールはほっとしていた。

「それよりあの人、一体なんなの?」

 寝台にたどり着いた時、男は既に寝息を立てており、ライールはその図太さに呆れた。

「それはちょっと、今は言いたくない気分だわ……」

 サディルナは、心底げんなりした顔でこう付け加えた。

「まあ、そのうち分かるわよ」