微睡み

「突然、何を言い出すの」

 腰を浮かせたサディルナを、ファーレンは鬱陶しげに見て息を吐いた。

「突然でもない、座れ。ダイルグにさせた調査のことを覚えているだろう」

「『消失』案件のこと?」

 教会本部で起こった『神木消失』が世に知れ渡ると、各国から類似の報告が相次いだ。その真偽の調査のため、ファーレンは遍歴司祭であるダイルグを、各土地へと向かわせた。

「奴の所感を元に、継続調査を行わせた結果が先日纏まった。五十近くの報告のうち、大半は虚偽や集団幻覚、そのうち、十は事実だ」

 ファーレンは立ち上がって執務机から紙の束を取り上げ、サディルナの前に置いた。

「これが報告書だ。お前は俺に、この世界は四十年前、支柱を失ったのだと言ったな。これはその症例というわけだ」

 執務机に寄りかかり、ファーレンは観察するような目でサディルナを見た。

「お前が俺に告げた話が事実なら、お前は今後、事態を左右する鍵になる可能性があると、俺は考える。だが、ウェルズ、お前はこの四十年、己の特殊性を解明するでなく御するでなく、抑え込む方向にしか意識を向けてこなかった」

「……それを望んだのは、教会よ」

「そのとおりだ。そのことで、俺はお前を責めるつもりはない。お前は自分のため、グレイ・リジェットのため、己が無害であると我々に示さねばならなかった。しかし状況は変わった。それでは不十分だ」

 悪びれずに言い放つファーレンから、サディルナは目を逸らした。

「私は『出来損ない』で、そんな大それたものじゃない。あなたはどうして私の話を信じるの?」

 『神木消失』が起きた後、サディルナは意を決して、己の身の上と世界との関わりについての推測を、ファーレンに語った。ファーレンは彼女の話に耳を傾けたが、所感を述べることはなく、今日までその話題に言及することもなかった。

「おかしなことを言う。お前は俺に信じさせようとして話をしたんじゃないのか」

「それはそうよ。だけど、荒唐無稽と思わない?」

「思わないと思うか? それでもお前の発言を考慮するのは、それなりの裏付けがあってのことだ。四十年前を境に、現実に、大陸全土で出生の減、死亡の増、農作物の不作などの傾向が進み、ここ数年で誰もが知る状況となっている。原因は不明だ。……腑に落ちん顔だな」

「原因不明の異常があるからと、神秘的な話に飛びつくのは、あなたらしくないでしょう」

「その神秘的な話とやらを自分でしておいて、食い下がるな。納得できないと、上階の命令も聞けないのか。いつまで小娘のつもりだ、お前は」

 ファーレンはうんざりしたように溜息をついたが、サディルナは少し砕けた彼の様子にほっとする。ファーレンは暫く考え込むように額を抑えていたが、ややあって顔を上げた。

「素精干渉者にとってお前は異端だ、ウェルズ」

「今更言われなくても知ってるわ」

「いや。不自由な能力しか持たないお前は、それゆえ、教会が己を異端視したことを、お門違い程度にしか思っていない。だがお前は、素精への過剰な影響力だけではなく、存在からして、素精干渉者にとって認めがたい異常だ」

 口の悪い彼にしても辛辣すぎる言葉に、サディルナは顔を顰めた。

「素精干渉者は、素精に干渉し、干渉される。能力の強い者にとって、それは特権というより生まれながらに受けた呪いだ。物理的な壁も、明確な境界もなく、己を絶えず侵食する。望むと望まぬとに関わらず、感じることを強いられる。それが素精干渉者が生きる世界の当然だ。しかし、ウェルズ。我々はお前を感じ取ることができない。お前の内に触れることはできない。お前という存在は、他者による素精的な干渉を除外している」

 ファーレンはそう言って、宙に手を伸ばす。その指と同じく彼女に向けられた目は、どこにもない虚空を見つめているようで、サディルナを一瞬ぞっとさせた。

「そこに世界の洞があるように、お前の姿は隠されて、我々の『目』に映らない。これが俺達にとって、どれほどの異常か、お前が知ることはない。レストバーは」

 思いがけない名にサディルナが驚く間に、ファーレンは知性と理性を凝り固めた、いつもの彼に戻っていた。

「レストバーはお前を畏れていた。隠そうとしていたし、認めたくもなかっただろうが。昨日、お前を殴り倒した後、奴は自失していた。お前という得体の知れない存在を、害したことが恐ろしかったからだ。お前は、レストバーから単に疎まれていたとしか、思っていないだろうがな」

 己の愚昧を突きつけられ、サディルナは黙り込む。細めた目で彼女を見つめ、ファーレンは続けた。

「俺はかつて、お前に近しい存在を一人だけ見たことがある」

「……それは?」

「フェルディンの『女神の息子』だ。大祭司の総主教訪問に随行して、第一王子を間近に見たことがある。もう亡くなった先王だな。『女神の息子』は知っているな?」

 サディルナは頷く。広く知られた異名だが、そもそもフェルディンという特殊な国を、意識しない教会関係者はいない。

「フェルディンの長子は常に男に生まれ、女神の加護と色彩、そして卓越した能力を持つ。……作り事めいた話だ。俺も昔はそれを、大いに誇張された宣伝文句だと思っていた」

「実際には、どうなの?」

「第一王子は、銀色の髪と緑の目を持つ、文武に秀でた青年だった。だが問題はそこじゃない。俺にも、同席した誰にも、目の前にいる王子の内側が『見えなかった』。世界から隠されているように、彼の素精の態様は外側からは感知できず、全ての干渉は排除されていた」

 フェルディンは、他の多くの国と同じく女神を奉じ、領域内に多数の教会を有するが、その国の教会は大陸全土で唯一、ヴィールダルトの管理下にない。フェルディンにおいて、女神の代行者は教会ではなく王であり、教会は『女神の愛し子』とも呼ばれる自国の王に傅く。

「あれを女神の加護と呼ぶなら、確かにそうだろう。それと同じものが、お前にもある」

 ファーレンはサディルナの前に立った。彼の細い身体を隠すように覆った長衣の上に、大祭司の位階を示す聖帯が揺れる。

「『女神の息子』とお前の話、どちらも作り事めいている。しかし彼は実在し、お前はここにいる。俺がお前を信じる最大の理由はそれだ。そして俺にとって、何より荒唐無稽で、質の悪い冗談は、数ヶ月前この場所で、現実に起こった出来事だ。存在したものが瞬きの後に消え去るという、ふざけた事象そのものだ」

 彼の痩せ衰えた顔の中で、目だけが不均衡に鋭い光を放つ。

「世界は支柱を失い、罅割れを起こしている。この事態に応じるために、教会は持ちうるすべての武器を持たねばならない。それがお前だけでは不十分だとしても、お前は我々の武器でなくてはならない。たとえ世の根幹に近くとも、己の身さえ保持できない武器では話にならない。納得が行ったか?」

 二人は黙して見つめ合う。その状況に、サディルナは既視感があった。それは彼女だけのことではないようだった。

「ウェルズ、かつてお前は俺に言った。為し得ることを為すために、自分はここに居るのだと。これが俺の考える、お前の為し得ることだ。果たしてみせろ。そのための人も状況も、必要があれば用意する」

 石壁に囲われた暗く冷たい部屋。目に見えない格子の内と外で、最初に二人は向き合った。四十年前、この世の誰より慕った二人を失い、折れかけたサディルナの心を支えたのはグレイであり、迷い子同然の彼女に生きる道筋を与えたのは、目の前のファーレンだった。

「わかりました。けれど、条件があります」

「言ってみろ」

「貴方がちゃんと食事を取って、ちゃんと眠ること」

「……何を言ってるんだ?」

 信じがたいという顔で自分を見たファーレンを、サディルナは負けじと見返した。

「言葉のとおりよ。最近鏡を見たことはある? 貴方、もうずっとひどい顔をしてる」

 削がれた頰と消えない隈が、彼の生活を明白に示している。ファーレンは元々痩せぎすだが、最近は袖から覗く手にも骨が目立ち、若い頃の余韻を残す甘い風貌も、鋭さと昏さばかり増して見る影もない。

 その変化の起点となったのもまた、『神木消失』だ。その異常を目の当たりにした関係者はレストバーだけではない。司祭二十余名のうち最上位にして唯一の大祭司が、ファーレンだった。

「不摂生の見本のようなお前が、小僧の説教の真似事か?」

 減らず口を叩く笑顔もどこか淀んでいて、サディルナは眉根を寄せた。

「それほど酷いということよ。大祭司がそれでは、皆が不安がるわ。そんな貧相な有様じゃ、私に庇われたって文句は言えない。こんなお説教、貴方が私にさせないで」  

 サディルナは椅子から立ち上がり、真っ向から彼を見た。

 ルヴェスト・ファーレンは、類い稀な素精干渉能力を持つ司祭でありながら、それを統御し、優れた知性と高い判断力をもって、神官にも一目を置かせる『教会の理性』である。彼はこの難局において、教会が欠くべからざる存在だ。何よりサディルナ個人にとって、失うことのできない人物だった。

「私が何をしたところで、貴方がいなければ立ち行かない。ご命令のとおり、出来る限りのことをします。その代わり、貴方は自分を大切にして」

 この教会でかつてサディルナを捕らえていた檻の扉を、開いたのはファーレンだ。それが情や哀れみでなく、思惑や興味の産物だったとしても構わない。彼はどこにも居場所のないサディルナに教会の籍を与え、愚かな娘と嘲りつつも、懲りずに彼女を導き続けてくれた。ファーレンはサディルナが『外』の世界で得るに至った、「大切な人」の一人だ。 

 ファーレンは乾いた目でサディルナを見返していたが、ややあって一度目を閉じ、息を吐いた。

「その口が言うなと言いたいところだが、条件ならやむを得ん。善処しよう」

「ありがとう」

 サディルナは肩の力を抜いて笑った。彼は出来ないことを口にしない。

「話は終わりだ。方向性を検討して持ってこい。但し、今日のところは大事を取って、休んで構わん」

 さっさと執務机に戻ろうとする背中を、サディルナは見つめた。この部屋に来てから、ずっと彼が口にさせてくれなかった言葉を、ようやく口にする。

「ファーレン、心配をかけてごめんなさい」

「……俺に礼を言う必要も、詫びる必要もない。その台詞はダイルグにでも言っておけ」

 サディルナの表情を見て、ファーレンは意趣返しに成功したように、微かに笑った。

「倒れたお前を見て、あいつは真っ青になっていたぞ。せいぜい安心させに行ってやれ」

 「元よりそのつもりよ」と、力なく呟いて、サディルナは部屋を後にした。