雨
回廊の隅でぽたぽたと、地面へまっすぐ雫が落ちる。その様子と、日の光を反射して輝く草が雨の残滓で、空は嘘のように晴れわたっていた。
「伝えるのが遅くなったけれど、私は暫くここを離れることになりそうなんだ。大祭司のご命令で。二、三ヶ月かかるかな」
「……何かあるの?」
「世がこんな状況だからね。主要な都市をこの目で視察してこいと」
外套を羽織るダイルグを薄目に見て、サディルナは眉間を押さえた。頭がぼうっとしている。
彼に相対すると、いつも感情が乱高下してひどく疲れる。そして、懲りもせず彼の言動に心を乱す自分に、心底うんざりするのだ。
どれだけ時間が経てばいいのだろう。年寄り呼ばわりされて仕方のない年数を生きたのに、心は見た目どおりの小娘のまま、何ひとつ変わることが出来ていない。
「ここにも情報は入ってくるが、混乱していて信憑性がない。ならお前が直接見てこいとね。私は殆ど隠居で身軽な身の上だから」
「……建前はやめて。何を企んでるの?」
「言葉どおりだよ。私のやることなすことに裏があると思うのは、君の悪い癖だ」
笑うダイルグを睨むが、彼の身長はサディルナより高いので、立つとかなり見上げる形になるのが忌々しい。
「私に物事を企むほどの主体性はないことを、君はよく知っているだろうに」
サディルナは眉を顰めて視線を落とした。それは知っている、嫌になるほど。
「ただ、企みというのは大袈裟だが、私自身もできる限り世界の様子が見たい。ここから見えるものには限りがあるからね」
その言葉には何の偽りもないと感じて、サディルナは唇を噛んだ。客観、観察。それが彼の核心であり、本領だ。サディルナはかつて、ダイルグの口から、彼の生きる目的らしきものを教えられたことがある。『神の裁定が見たい』のだと、彼は言った。
その言葉の意味はわからない。サディルナが理解しているのは、彼の目的が、物事に直接関わることではなく、それを「見る」ことだということだ。その目的のためなら、彼はどんな出来事も見過ごすだろう。数十年前、その危険を知りながら、サディルナの姉の命を見捨てたように。
俯くサディルナの頬に、ふいに彼の手が伸ばされる。気付いたサディルナは、びくりと身体を震わせた。
「君はこのところ痩せたように見えるよ。気が急くのはわかるが、無理は良くない」
少し皺のある、筋張った大きな手。幼い頃から良く知る彼の手は、頬に触れることはなく、サディルナの長い髪を掠めて離れた。
「君の身体は確かに多少の無理がきく。しかし食事や睡眠はきちんと摂っておきなさい。まあ、ライールがいる限り、心配は要らないかもしれないが」
地面を弾く光が雨の残り香を伝えている。けれど雨が止めば、彼が止まる理由はない。サディルナはろくに回らない頭で、そんなことを思った。
「帰って、くるの」
掠れた声がついて出て、次いで自覚したサディルナの首筋に血が上る。ダイルグは意外そうに目を瞬いた。
「調査が終われば勿論帰るよ。任務だからね。君にも色々と報告できるだろう。……私を心配してくれたのかい? 嬉しいな」
言葉どおり嬉しそうな彼を見て、サディルナは慌てる。
「あなたの心配なんて誰がするものですか。せいぜい働きなさいよ」
「粉骨砕身してくるよ。約束どおりに帰ったら、久しぶりに、君の歌が聴きたいな」
サディルナは目を剥き、「歌!?」と叫んだ。
「どうして突然、そんなものが出てくるのよ!」
「老体に鞭打つご褒美かな。駄目かい、『氷の歌姫』?」
懐かしい呼称まで持ち出されてサディルナはいきり立ったが、ダイルグは楽しそうに笑う。からかわれたのだと思って、サディルナの心は逆に落ち着いた。
司祭となる以前に、歌を生業にしていたこともあるサディルナだが、現在は殆ど歌うことはない。とりわけ人前、ましてやダイルグの前でとなると、この三十年間に一度もない筈だった。乞われたことも当然ない。そのため、サディルナは彼が冗談だとしても口にした願いに、ひどく驚いていた。
『上手だし、とても綺麗な歌声だ。またここに来た時は、私に聴かせてくれるかい?』
そう言って、教わった歌を披露した少女を喜ばせたのは、他ならぬ彼だった。大好きだったその人に、その想いを伝えたくて、褒めて貰えるのが嬉しくて、幼い彼女は歌った。その後の数十年に何があったとしても、その頃の想いをサディルナが忘れることはない。
「……考えておくわ」
「なんと。本当かい?」
「やるとは言ってないわ。考えておくから、さっさと行って!」
たまらず大きな背中を両手で押し出す。ダイルグはハハ、と声を上げた。
「どうか元気で」
「……あなたも」
少女のサディルナは、雨が降るたび、彼を引き留めた。雨が止んでしまえば、引き留められる理由は何もなかった。多くが変わっても、それは何も変わらないのだった。
形のない想いに胸を締め付けられながら、これが永遠の別れではないことを、口に出さずにサディルナは祈った。
雨が降っていたので彼女を思いだした。
雨が降るたび彼を引き留めた少女のことを、ダイルグは勿論、忘れていない。それで研究室に足を向けたのではあるが、ある意味、それも口実に過ぎないだろう。切っ掛けさえあれば彼女を構うのは、彼の悪い癖だ。
ダイルグはサディルナが抱える葛藤に気づいている。彼女の内では彼への旧い尊敬や愛着と、その仕打ちへの怒りや憎しみが、常に相克しているのだ。
苦しげなサディルナを見て、可哀想にと思う気持ちは嘘ではない。しかしそれでも彼女に構うのも、彼なのだった。我ながら度し難い。自分という存在の度し難さは、今に始まったことではないが。
(この開き直りが、より一層嫌われる元だな。無理もない。なのに)
「帰ってくるの」
目を伏せて、不安に揺れる新緑の瞳を思い浮かべる。
本当に懲りない子だと思う。卵から孵ったばかりの雛のように、幼い日に抱いた信頼を、いつまでも打ち捨てられない。彼にそんな価値はないというのに。サディルナのその澄んだ愚かさを、ダイルグは哀れに思い、同時に、止めどなく愛おしく思う。
大丈夫だよと、慈しむように心に呟く。
裁定はまだ訪れない。世界は変動し、今まさに終末へと向かう変化は続いている。その結末を、神の裁定を見届けるまで、自分は消えはしない。それだけのために、もう数えるのもやめた時を生きてきたのだから。
ただ、その時までは。
(君の側にいられるように、願うよ)
了