angraecum

 ヴィールダルトで教会の徒弟となって、サディルナの元で働きたい。

 ライールがその望みを告げた時、アシュレとティルネはまず呆気に取られ、次に「何を言い出すのか」と反対した。彼らはこれまでグレイの意向どおり、息子の将来について余分な口を出さず、本人が望むなら、一旦徒弟とするのもやむなしと思っていた。しかし一人息子を国の外へ出すなどとは、まるで想定していなかったのである。

 しかし一晩経つと、前日には猛然と反対したティルネが(アシュレは反対する以上に考え込んでいた)、その提案が彼女にとって様々な面で都合が良いことに気付いたらしい。あっさりと手の平を返した。

 息子を徒弟にするしかないなら、総本部であるヴィールダルトは、経験を積むに最上の場所ではあるに違いない。また、懸案となっているサディルナの世話役が、生活方面の才能を持ち、サディルナと面識があり、ティルネが信用を置ける人物であるなら、それに勝ることはない。加えてその状況は、高位の司祭であるサディルナが、右も左も分からぬ息子の後見についてくれることも意味するだろう。以上の諸々は、息子を親元から離すことを差し引いても、認めない場合と比して余りあるものがある。

 ライールは、母はきっと最終的には反対しないだろうと想定していた。ティルネが賛意を示すと、アシュレは反対する理由はなくなったとばかりに、「好きにしなさい」と息子に言った。

「ただ勿論、サディルナに快く賛同して貰えなければいけないよ」

 アシュレがライールより寧ろティルネに向けて念を押したことは、言うまでもないことで、決めてしまえば彼女の動きは早かった。

 用件をしたためた手紙をサディルナに向けて発送すると、返事も待たずにライールを連れて、軽い荷物とともに馬車に乗り込んだ。国境を跨ぎ、二泊挟んでヴィールダルトに辿り着くと、旅の疲れを癒やすのもそこそこに、正式な訪問の手続きを経て、本部敷地内のサディルナの研究室へと乗り込んだ。

 サディルナは突如来訪した二人のため、呆気に取られながらも予定を空けたが、それは手紙に記された提案に不賛同を示すためだった。サディルナの意見は、「大事な一人息子を、まして自分のために遠方にやるなど、とんでもない」という、常識的かつ陳腐なもので、そんな反応は予測済である来客二人は平然としていた。

 ティルネはまず、サディルナの高いとは言えない生活能力をあげつらって世話役の必要性を説き、ライールは徒弟になる時は協力すると彼女が言ったことに触れ、演技に見えない程度に傷ついた素振りを見せた。更にティルネは、これは息子の自立のため願ってもない機会と訴え、サディルナの庇護を受けられるなら親として安心は如何ばかりかと、わざとらしいほど真摯に語った。

 サディルナはこの親子が多少大袈裟ぶってでも、勢いで彼女を落としにかかっていることを察していたが、二人が口にすることが満更嘘でもないので、反論をなかなか差し挟めない。

 とどめは、議論が膠着するに及んで、それまで気配を消すように控えていたジェイルが、「ライールさんが来てくださるなら、私はサディルナ様をお任せして、安心してお暇をいただくことができます」と、穏やかにしかし切々と訴えたことだった。

 このジェイルの援護はティルネの狙いどおりだった。そのためにジェイルが辞して去る前にと、電光石火の勢いでここへやってきたのである。

 長年にわたって付き添ってくれた女性の、最後の願いを無碍にはできず、サディルナは折れた。ライールはこの時、サディルナは頑固なようで、意外と押しは弱い、と学んだ。

 かくして三名の希望は叶い、半年後、サディルナに新たな従者がつくこととなった。

 ライールがヴィールダルトに移り住んで、一年が過ぎようとしている。

 ライールは、サディルナの研究室で彼女の身の回りの世話をする傍ら、徒弟として本部全体の様々な雑用をこなしている。サディルナの指示で書物を借り出してきたり、彼女の手紙や伝言を預かることもあれば、他の司祭や神官からの指示を受けることもある。

 ライールの主な役目は今のところ使いっぱしりに過ぎないが、ここは信徒や業者を含め、一日数千もの人間が起居しまたは出入りする教会の総本部である。敷地も広大で、ライールは日々、敷地の端から端へと駆けまわっていた。

 ライールは前任のジェイル同様に、サディルナ専属の従者となることも可能だったが、サディルナが首を縦に振らなかった。サディルナはライールを自分の従者にしたこと自体、彼の将来を狭めることと考えているらしく、彼をあちこちの部署へ積極的に派遣していた。

 お陰でライールは、敷地内の地理や建物の構造にも明るくなり、職種問わず知己も増えたが、日々疲労困憊している。ただ若く体力もあるので、宛がわれた寮の狭い寝台でも、一晩休めば寝覚めも健やかだ。

 ライールは毎朝食堂で手早く食事を済ませると、サディルナの食事を受け取って研究室に赴く。彼女に朝食を摂らせる傍ら、軽く部屋の掃除や片付けを行い、サディルナが特に用事を言いつけない限りは余所へ行く。そのため日中は研究室にいないことも多いのだが、これはライールの悩みの種だった。一人で居ると、サディルナは仕事に没頭したまま、用意された昼食を大抵摂り損なう。たまにちゃんと食事したかと思えば、今度は夕食を忘れるという始末だった。

 サディルナは生活することに関して、無能力というより無頓着だった。仕事熱心で集中力が高く、没頭しやすい性質のうえ、食事どころか睡眠さえろくに取らなくとも身体の無理がきくようなのだ。放っておくと彼女の生活は、規則的とか健康的とかいう言葉と程遠い有様になる。

 根が細やかで世話焼きなライールは、「食事をしろ」「夜更かしするな」「少しは自分の年を考えろ」と口を酸っぱくしすぎて、自分は彼女の母親か姉かと自問する日々である。頑固なサディルナに対抗すべく、すっかり口も悪くなってしまった。

 ここに来た当初、ライールは日暮れ頃に食事を届けると、書斎に張り付くサディルナにくれぐれも夕食を摂るよう伝えて研究室を辞し、他の徒弟と同様に食堂で夕食を摂っていた。それが節度と考えていたのだが、ひと月でたまりかね、研究室で食事をさせて貰えないかと徒弟を管理する神官に願い出た。ジェイルもそうしていたためか、希望はあっさり受け容れられ、以降ライールはサディルナと夕食を共にしている。

 ライールが自分の夕食も摂らず三時間、書斎から出てくる彼女を敢えて待ち続けたという経験を経て、サディルナは食卓につく努力をするようになった。殆ど彼女を監視するため始めた同席だったが、サディルナにひとりで食事をさせずに済むことに、ライールはほっとしていた。ライールはそのことに、日々落ち着かない気持ちでいたのである。

 ライールから見れば、サディルナの生活はあまり人間的と言えない。サディルナは日中の大半、薄暗い書斎に隠り、日々届けられる膨大な報告書や書物と向き合う。サディルナは半ば隠居のような扱いらしく、勤務の自由度が高い一方で始業も終業も明確でなく、休日も気付けば仕事をしている。完全な仕事の虫である。

 私生活を無碍にするほど仕事が好きかと言えばそうではなく、本人曰く「必要だからやっている」という。趣味らしきものもなければ、買い物も必要最低限を奉仕に任せて、自分は街には出ない。サディルナはどうやって息抜きや気晴らしをしているのか、ライールには謎だった。

 ただ、そのサディルナが、淹れたての茶を口に運ぶ時は、湯気や薫りを楽しむように少し顔を綻ばせる。そのことに気付いたライールは折を見て茶を淹れ、彼女に休息を取らせるようにしていた。ライールはサディルナに無理をして欲しくないだけで、邪魔になりたいとは思っていない。

 生活上の不心得はさておき、サディルナが精励恪勤な研究者であることは間違いなかった。徒弟に過ぎないライールは、彼女の研究の詳細を知らされてはおらず、書斎に無断で足を踏み入れることも、直接渡された書面以外に触れることも許されていない。それでも、サディルナ・ウェルズと彼女の研究が、教会で重要視され信頼を置かれているものであることは、相談に訪れる人の様子や、彼女の使いとして出向いた際の、人々の反応からわかる。

 ライールは、サディルナの正直すぎる物言いや淡泊な態度も知っていたので、周囲との人間関係は如何ばかりかとあまり良くない想像もしていたが、実際は危惧する必要はなかった。サディルナは多少口が悪いが、だからといって誰彼構わずというわけではなく、落ち着いた物腰に年長者らしい寛容さも持ち合わせている。高位の司祭であるサディルナは、大半の者にとって目上の存在であって、周囲に愛想を振りまくことは求められていないのだ。

 それどころか、多くの第三者から見たサディルナは、怜悧な頭脳に、希有な美貌と『老いぬ者』という神秘性を兼ね備えた雲の上の存在であって、遠くから羨望の眼差しを送る者も多かった。

 人々の目が多少の幻想を含んでいたとしても、ライールから見るサディルナもまた、職務に対して真摯で、人に対して誠実だった。彼女は自分に関する以外のことを、何ひとつ疎かにしない。サディルナのそんな人柄は、ライールに祖父のグレイを想起させ、彼女がグレイの親友で想い人であったことを思い出させる。そんな時、ライールの胸には喜びと、ほんの少し、締め付けるような痛みが湧くのだった。