鳥籠

 小高くなった丘の上から、ダイルグは墓地を見下ろしている。先程まではその場所にいたが、グレイの身内の少年に見咎められたことを察して、それを契機に離れたのだった。埋葬を終えた墓所には、まだ故人を悼む多くの人影がある。彼はもうそこに、グレイの生命と呼べるものはないことを、自らの感覚で「知って」いる。

 彼とサディルナは昨日の葬儀で公的な役目を終えていた。サディルナは友人として故人の一家に付き添ったが、ダイルグは近付く気がなかった。サディルナも彼を視界に入れることは望まないだろう。

 サディルナは昨日、彼の前で泣いた。己の痛みに声を上げず、苦しみに涙を零して来なかった彼女が、眼を枯れ果てさせんかのように泣き尽くした。胸に預けられた重みと熱が蘇り、ダイルグは意識せず頭を振る。

 グレイならダイルグに、サディルナを慰めるのはお前の仕事だと言っただろう。しかし彼自身が誰より知るように、ダイルグにそんな資格はなく、しかし彼女を一人で泣かせることもできず、側にいただけだった。

(君がいさえすれば良かったんだよ、グレイ)

 不条理にも心に呟く。サディルナが悲しむことのないよう、心を砕き続けたグレイがいれば、彼女は泣かずにいられたのだ。ダイルグは心の端で妬みながら、それを認めることができたろう。

 そんな矛盾に満ちた嫉妬心を、この世で唯一知り得たグレイは、ダイルグにいつも、サディルナを愛していると認めろと言っていた。それはできない相談だった。妄執に生きる千年の怪物に、そんな資格はない。ダイルグは、他の誰でも無くグレイにこそ、彼女を愛する資格があったと思う。

(君は、サディルナを籠の鳥にしたと自分を責めたが、そうじゃない)

 かつて真実、籠の鳥であったサディルナは、そこを飛び出して生き延び、自分の居場所を見つけたのだ。サディルナに自由を与えたのは、本人の意思と力だったが、道標となったのはグレイだった。そのグレイはもういない。

 微かな痛みが胸を突き、ダイルグは目を伏せた。

 遠からず、自分の命も尽きるだろう。ダイルグにはその予感がある。その時、自分が還るのは、果たして彼らと同じ場所だろうか。しかしいずれにせよ。

「フィルフィア」

 儚いことと知りながら、彼は虚空に呼びかけた。そこにもう、居るとも知れない女神の名を。

(どうか、彼に良い眠りを)

 祈るように最後に願い、友の骸に背を向けた。

 まだ夜も明けぬうち、サディルナは宿舎をそっと出た。司祭の簡易服の上に暗赤色の外套を纏い、足早に薄闇を抜ける。肌に触れる空気は冷たいが、息を白くするほどではない。

 埋葬を無事に終え、サディルナは今朝のうちにリアムを出る。暫く逗留したい思いもあったが、不在がちだったこの半年のために、ヴィールダルトにはすべきことが山積しており、それを放置することも彼女自身が認められなかった。

 それにしても、彼女一人がいないだけで立ちゆかない研究というのは、現実味を欠いている。それはこの半年間で思い知ったことだった。継続を求めるならば、在り方を見直し、担い手を増やすことについて本部に交渉して行くべきだろう。

 弔いの儀式が終わった途端、こんなことを考えている自分は、薄情だろうかとサディルナは思う。しかしグレイなら、離別を惜しみながらも「君らしいよ」と笑っただろう。胸の痛みに唇を噛み、サディルナは足を進めた。冷ややかな空気は、感傷を沈めるのに丁度良かった。

 去る前に、果たさなくてはいけない約束がある。

『お願いがあるんだ』

 最後に会った日、グレイはサディルナに言った。

『いつか俺が死んだ時は、手向けに歌を聴かせて欲しい』

 いきり立つ彼女を「いつかの話だよ」と鎮め、グレイは粘り強く「お願いだ」と言った。

『たとえ身体を失っても、きみの歌ならきっと届く』

 教会の裏手に広がる丘の裾に墓地はある。大司教座の敷地は広く、墓石の前に膝をついた時には少し息が切れていた。夜明けは間近で、教会の朝は早い。しかしこの場所であれば、暫く人が近付くことはないだろう。

 彼女は胸元で手を組むと、しばし静寂を乱すことを心の内で素精に詫びた。たとえ生きて動くものがなくとも、サディルナの「目」にそれが見えなくとも、ここには素精という形で生命が満ちている。かつてグレイであったものが、おそらく今もどこかにあるように。

「――――」

 一度深呼吸をした彼女が再び息を吐き出した時、それは澄んだ空気を細く震わせ、歌となった。

 声は、細く高く、しかしその場の眠りを乱さぬよう穏やかに、小さな鳥が空を飛びゆくように、自然と空気を伝わった。

 サディルナの声は天から降るようだと、かつてよく形容された。しかし今、彼女が歌うのは、聖歌ではなく、旋律は美しいがありふれた恋の歌だ。

 数十年前、二人で、サディルナの力を制御する方法を模索しながら、この歌をよく歌った。歌うのは勿論サディルナだが、グレイは素精を感知できないサディルナの目となり、彼女を導いた。サディルナが危険な存在ではないことを必ず証明してみせると、グレイは強い熱意をもっていた。

 かつての教会が、この役立たずな力を大袈裟に取り沙汰したことは、当のサディルナにとって不思議なことだった。その一方で、教会に来た当初置かれた、扱いに困る鼻摘みものという境遇については、馴染み深く、寧ろ違和感がなかった。サディルナは生まれた時からそういう存在だった。

 グレイがサディルナのために怒るまで、サディルナはそれが傷ついていいことだと知らなかった。お人好しの彼はそんなふうに、彼女に沢山のものをくれた。

『これは初めて聴いた君の歌なんだ』

 もう飽きるほど繰り返したその歌を聴いて、グレイはよくそう言った。

 サディルナ自身にそんな記憶はない。グレイが嬉しそうに口にするので、少しは覚えておけば良かったと後悔した。なにせ初対面で唐突に、『君は教会に保護されるべきだ』と迫られるなどという、実に押しつけがましく非常識な出会いだったので、それに呆れて腹を立てた以上の記憶がなかった。

 それ以来、サディルナはグレイとの思い出を、できるだけ覚えていようと思った。幸い素精干渉者のご多分に漏れず、サディルナは記憶力に優れている。多くの思い出が、今も彼女の中にある。そのことは、サディルナに切なく、同時に幸福な思いをもたらした。

 自分がそれらを覚えている限り、グレイが最後に遺した想いのとおり、彼が消えることはない。

 墓地に未だ現れる人影はなかった。彼に出会った頃のサディルナがここで歌えば、たとえこんな時刻であっても、感覚の鋭い司祭に異常を気取られたことだろう。しかし今のサディルナにはそれを、グレイに手向けるためだけに歌うことができる。

 愛しさと感謝をただ込めて。

 その歌は一人のために響き、夜明けの空に溶け込むように消えた。