微睡み

「そっちに、行ってもいい?」

 寝室の扉の前に立ったまま、サディルナが囁くような声を出した。

「う、うん」

 ライールは長椅子の座面から、足を下ろして腰掛ける。暗がりの中で、サディルナの室内履きがぺたぺた心許ない音を立てた。互いの顔がまともに見える位置に来て、彼女はまた足を止める。

「座ってもいい?」

 ライールは頷き、椅子に一人分の場所を空けた。

 サディルナは灯りを置くと、ライールに並んで腰掛けた。体温がふわりと空気を伝って、ライールは息を呑む。彼女が自分の隣にいることに動揺した。常にない彼女の姿もそれに拍車をかける。

 サディルナは薄い寝間着を一枚着ているだけだった。彼女が日頃着ている司祭服は、高い襟と短い外衣が上半身を覆って、厚い生地は身体の線を拾わない。今、彼女が身につけている上等そうな寝間着は、仕立てにも品があったが、開いた首元も薄い布地も無防備であることに変わりない。

 どうにか「眠れないの?」と問いを口にすると、サディルナは頷いた。落ち着いた横顔にほっとすると、今度は剥き出しの首が気になって仕方ない。慌てて視線を落とせば、薄い布に浮き上がる柔らかな身体の線に、釘付けにされてしまう。

「どうしたの?」

 サディルナの怪訝な声に、弾かれたようにライールは立ち上がり、「ちょっと待って」と角灯を掴んだ。足早にサディルナの寝室へ行くと、目的のものはすぐに見つかった。

 引っ掴んで来た上掛けをサディルナの肩にかけてやると、彼女は「有り難う」と納得したように言った。

「そうよね、寝間着だもの。みっともないわよね」

 そういう問題ではないのだが、正直に口に出来る筈もなく、ライールは居たたまれない思いがする。

 サディルナが上掛けの釦を止め終えると、ライールの身体から力が抜けた。するとふと、彼女の滑らかな横顔に違和感を覚える。何だろうと、一瞬考えて気付いた。

(傷が、ない?)

 眠る彼女の額から頰にかけて、倒れた拍子に負っただろう擦り傷があった。血は止まり、既に赤黒い線にはなっていたが、痛ましかったのでよく覚えている。なのに。

「サディルナ、ごめん。ちょっとこっち向いて」

 素直に従ったサディルナの頰を覗き込む。左右こそ記憶していないが、あった筈の傷がどちらにも無かった。動転した挙げ句、こびり付いた血を傷と誤認したのだろうか。ここでの様子はどうだったろう。食堂から戻ったとき、包帯が既に無いことに驚いたことは記憶はあるが、それ以上思い出せない。

「私の顔が、どうかした?」

 ライールは我に返り、「いや」と頭を振る。

「ごめん、気のせいみたいだ。頭の傷は大丈夫? 具合はどう?」

「腫れているところに障ると痛いけど、何てことない。ありがとう、あの……

 落ち着かなく視線を泳がせて、サディルナがライールの様子を窺っている。

「どうしたの?」

 促すと、「ごめんなさい」と萎むような声が返った。

「私、ずっと、あなたにひどい態度だったと思うの。早く、謝ろうと思っていたんだけど」

 ライールは驚く。

「もしかして、それで起きて来たの?」

「その、眠れないし、気になったけど、あなたが怒っていたらどうしようと思って」

 肩を縮こまらせるサディルナに、ライールは胸がくすぐったいほど、一気に解けるのを感じた。

「大丈夫、怒ってない。元々、怒ってたわけじゃないんだ。俺も動転して、君を怖がらせてごめん」

 サディルナがほっとしたように顔を緩ませたので、ライールも安心した。しかし、これでサディルナの用事は終わったことになる。本当はもっと、話がしたい。引き留めたいが、どうすればいいか分からず迷っていると、サディルナがおずおずと、「もう少しここにいてもいい?」と言った。  

 ライールは浮き立つ心を抑え、努めて平静な声で「いいよ」と答えた。

「何か、して欲しいことはある?」

 ライールは話題の端緒を掴めず、そんなことを口にした。記憶の状態など、本当は彼女に尋ねたいことは幾らでもある。しかし、自分に普通に接してくれている、今の彼女を動揺させるのも怖かった。

 サディルナの答えは、ライールには意外なものだった。

「美味しい。本当に、どうしてこんなにいい香りがするの?」

 湯気の立つ茶を一口含み、感動したようにサディルナが言った。頰が仄かに上気している。ライールに告げたサディルナの望みは、「あのお茶がもう一度飲みたい」というものだった。ライールが食後に淹れたものを覚えていたらしい。

「摘んだ葉を干して揉むと、そういう香りが出るんだ。別に香りを付ける場合もあるんだけど」

「まるでお花みたいね。私、もっと、苦くて不味いものしか飲んだことない」

「お茶にも色々あるから。苦いものや、癖のあるものを、薬代わりに飲むこともあるよ」

 ライールは、緩む頰を抑えながら言う。

 彼の淹れる茶が、サディルナのお気に入りであることは知っていたが、こんな風に喜色を満面に褒められたことはない。記憶の欠如というものは、味覚の経験にも影響するものだろうか。それともサディルナは、本当はいつもこんな風に喜んでくれていたのだろうか。

「茶葉は、俺の母がいつも選んで送ってくるんだ」

 サディルナのために、と、付け加えて良いものか悩んでいると、彼女は興味を示した。

「あなたのお母様って、どんな人? お姉様もいる?」

「母は明るくて、すごく元気な人だよ。騒がしいけど。姉さんはいない。一人っ子なんだ」

 「そうなの」と、サディルナは少しがっかりしたようだ。

「君のお姉さんはどんな人?」

 訊ねながら、ライールが少しひやりとした一方で、サディルナは表情を一気に明るくする。

「とっても綺麗で、とっても優しくて、温かい人」

 屈託のないサディルナの笑顔に、ライールは罪悪感を覚えた。この彼女は、その姉がもう亡くなっていることを知らないのだ。ライールの表情の曇りを敏感に捉えて、サディルナが首を傾げる。

「どうかした?」

「いや、何でもないよ。君のお母さんは」

 ライールは慌てて話題を戻しかけ、ふと言葉を止めた。ライールはこれまで、サディルナの家族について本人の口から聞いたことはない。それを今の無防備な彼女から、こんな風に聞き出していいのだろうか。

「サディルナ、あの」

「お母様は苦手」

 サディルナがぽつりと言った。それきり黙り込んだので、ライールは不安を感じて話を継ぐ。

「お母さんが嫌いなの?」

「そうじゃない。私じゃなくて、お母様が私のことを嫌いなの。だけどお母様は、私の『家族』なんですって。あなたわかる?」

 彼女は真っ直ぐな瞳で、不思議な物言いをした。ライールが怪訝に思いつつ頷くと、嬉しそうに笑う。

「お母様とお姉様と私は、『家族』なんだって、ダイルグ様が教えて下さったの。『家族』って、特別なものなんでしょう?」

 ライールは「うん」と答えたが、内心は戸惑っていた。サディルナの言っていることは、どこか奇妙だ。覚えたての言葉を遊びで使ってみたかのようで、意味を理解している気がしない。その理由を追及したいと感じたが、ライールはこれ以上は駄目だと己を律した。母親のことも気になったが、彼女の過去について、あれこれ質問を重ねるべきではない。

 茶を流し込み、サディルナの器も空であることに気付いて、おかわりを注ぐ。ふいに流れた穏やかな沈黙に導かれて、ライールはもう一つ、気になっていたことを口にした。

「あの人に会いたいって、言わないんだね」

 あの人とは誰かとは、言うまでもない。今日のサディルナを見ていると、ダイルグはまるで、彼女の世界の中心であるかのようだ。しかしその一方で、彼女はダイルグが研究室を出てから、つい先程まで、彼に会いたいと願うこともその名を口にすることもなかった。そうして欲しかったわけではないが、ライールは彼女が無理をしているのではないかと、少し気にかかっていた。

 サディルナは何度か目を瞬いた後、あっさり言った。

「会いたいけど、言っても無駄だもの」

「無駄?」

「ダイルグ様は、私にここで過ごすように仰った。あの方がそう決めた時、我が儘を言っても聞いて下さらないわ」

 ダイルグに縋った様子からは想像できないほど、サディルナの態度は淡々としていた。心細くない筈はないだろう。しかしそれを、冷めた表情で覆い隠している。ライールはそんな彼女の様子に既視感を覚えた。

 ライールの知るサディルナには、常に凜としながらどこかに心細さを隠している、そんな気配があるのだ。それだけではない。内向きなようでいて、好奇心が強いところも、世間知らずで、妙に無防備なところも、程度の違いはあれどライールの知る彼女と同じだ。数十年分の記憶がなくても、彼女は確かにサディルナなのだ。この一年以上、ライールが来る日も来る日も傍にいた。

「あの人の側にいたいのに、ここにいるのは嫌じゃない?」 

 自虐的に言ったライールに、サディルナはきょとんとした顔をする。

「嫌じゃないわ」

「どうして? あの人が、俺のことをああ言ったから?」

 ダイルグはサディルナに対して、ライールのことを『君が最も信頼する人だ』だと言ったのだ。

 サディルナは「それもあるけど」と、思案するように言う。

「私、あなたと話をしてると何だか安心する。ダイルグ様の言葉は、本当なんだって思うの。勝手なことを言うって怒る?」

 虚を突かれたライールは、慌てて首を振る。

「不思議だけど、どうしてかしら。あなたが優しいからかしら」

「サディルナ、」

「あなたは私の名前を、当たり前みたいに呼ぶのね」

 サディルナはライールを見つめて、唐突にそんなことを言った。ライールは戸惑う。

「いけなかった?」

「ううん。びっくりするし、くすぐったいけど、嬉しいんだと思う。私の名前を呼ぶのは、お姉様とダイルグ様だけだったから」

 ライールは眉を顰めた。

「お母さんは?」

「お母様は、私の名前なんて呼ばないわ。この名前は、お姉様がつけてくれたの」

「じゃあ、他の人は」

「お母様が許さないからしない」

 ライールは言葉を失ったが、彼女自身はそのことには然程関心がないようで、別のことを言った。

「あなたは『ライール』というのよね。私もそう呼んでいい?」

 頷くと、サディルナは「ありがとう」と、はにかむように笑った。

 その笑顔に、ライールの胸が震える。彼女の眼差しが、声が、確かに自分に向けられているだけで、彼の心はこんなに簡単に浮き立ってしまう。ライールは今日、何より自分を苦しめていたのは、サディルナの記憶から自分が消えたことでも、ダイルグを慕う彼女の様子でもなく、サディルナからの拒絶そのものであることを思い知った。

 ライールが、物心ついてからサディルナと出会ったのは、十二歳の時だ。グレイの孫である彼は、彼女に初めから存在を受け入れられていて、他人のように扱われたことさえない。サディルナは何だかんだ言っても年長者らしく、生意気なライールに対して寛容であり、彼は昨日まで一度として、サディルナに拒絶されたと言える経験がない。

 それはとても贅沢だったのだと思う。存在ごと肯定されているという特権は、グレイの恩恵であって、ライール自身の功績ではない。ライールはそんな都合の良い幸運の上に、胡座をかいていたつもりはなかった。しかし、自分がどれだけ恵まれていたかを、自覚できてはいなかった。

「『ライール』、ライールね。うん」

「サディルナ」

 呼び掛けると「なに?」と、鮮やかな緑が灯りを弾いてライールを見た。その眩しい瞳に背中を押される。

「もし貴方が、俺のことを思い出せなくても、傍にいさせてくれる?」

 彼の言葉に、サディルナが驚いたように目を瞬いた。

 その想いを、口に出すのは怖かった。今のサディルナにとって、自分は何者でもない。こんなことを言えば、彼女はきっと戸惑うだろう。嫌われてしまうかも。しかし何をどのように、幾ら考えたところで、ライールの望みはそこにしかない。

 サディルナは裁定を待つライールを真顔で見つめ、ややあって言う。

「傍にいてくれるの? 私の?」

 声に嫌悪の色はなく、奇特な申し出に、興味を惹かれた響きがあった。

「違うよ、俺が傍にいたいんだ」

 んな想いを抱いても、ライールがこれまで口にしたことは無かった。好意に甘えて懐に潜り込み、当たり前のように傍にいた。

「明日も? 明後日も?」

「もし、サディルナが許してくれるなら」

 ライールは椅子を降り、彼女の前の床に膝をついていた。

 サディルナは生真面目そうに慎重に、「よくはわからないけど」と口を開く。

「私は、あなたともっと、お話したい。あなたが本当に、私の傍にいてくれるなら」

「明日も、明後日も?」

ライールはサディルナが口にした言葉を、願うように繰り返す。

「明日も、明後日も」

 サディルナが更に鸚鵡返しをして、ふふっと笑ったので、ライールも可笑しくなって、二人は薄暗がりの中、そのまま笑い合った。一日中強ばっていた顔の筋肉が引き攣りそうで痛かったが、こんな気分はいつぶりだろうというくらい、楽しかった。

 記憶がたとえ戻らなかったとしても、こんな風に傍にいられるなら、いいのだろうか。

「傍にいたい、なんて私、そんなこと言われたの初めて」

 サディルナが今更恥ずかしがるように言ったので、ライールも照れ隠しに笑う。

「違うよ、きっと」

 ――――祖父さんもそう言っただろうから。言いかけて、ざっと身体から血の気が引いた。

「ライール?」

 彼の様子を見咎めたサディルナを、ライールは愕然と見返す。

 どうしてそのことに、今まで思い至らずにいられたのだろう。心臓が早鐘を打ち、口の中が一気に乾く。怯えながら、彼女に問いを投げかけた。

「サディルナ。祖父さんを、グレイ・リジェットを、覚えてる?」

「わからないわ。誰?」

 分かりきった答えに、目の前が真っ暗になる。ライールは溺れる者のように、サディルナの腕を掴んだ。

「だめだよサディルナ。それはだめだ」

 サディルナは明らかに戸惑っていたが、ライールは止めることができなかった。ライールの亡き祖父グレイは、サディルナの親友だ。グレイは若き日に出会ったサディルナに一目で恋をして、その想いが叶わなかった後も、友人として彼女を愛し続けた。

「俺を忘れててもいい、祖父さんを忘れないで。俺はここにいる、けど、祖父さんは」

 グレイはもう、サディルナと会うことも、言葉を交わすことも出来ない。未来に向けて、何ひとつ積み上げることはできないのだ。サディルナが目を見開く。

「あなた、泣いてるの?」

 ライールの頬を涙がこぼれ落ちていた。サディルナはどう慰めれば良いのか戸惑うように、宙に指を泳がせる。

「ライール、お願い、泣かないで」

「俺のことなんていいんだ。祖父さんを思い出して。お願いだ。祖父さんは、あんなにサディルナのこと、大切に思ってたのに。サディルナだって」

 二人が互いを慈しむ姿が、幼いライールの心を惹きつけ、彼をサディルナの傍らに導いた。サディルナの記憶にグレイを蘇らせることができるなら、自分のことが忘れられていたとしても構わない。それほどライールにとって祖父の存在はかけがえなく、それはサディルナにとっても同じ筈だった。

「……その人は、あなたの大切な人?」

「サディルナの、大切な人だよ」

 鼻を啜るライールに「そう」と返すと、サディルナは寝間着の袖を伸ばして彼の頰を拭った。ライールは「だめだよ、汚れる」と慌てたが、サディルナは構わず、ライールの両手を引いて長椅子に座るよう導くと、自分も横に腰掛けた。

 夜のしんとした静寂が、沸き立った空気を落ちつかせた。

「あなたの話を聞いてると、私には、随分大切な人が増えたみたい」

 サディルナが、伸ばした自分の足先を見つめて言った。

「私ね、お姉様とダイルグ様がいれば、それでいいって思ってた。お母様が私を嫌いでも、二人がいるなら大丈夫。私が大切なのはずっとずっと、二人だけ。……だけど、違うのね」

「信じられない?」

 サディルナは頭を振った。

「不思議なの。でも、そうだったら嬉しいのかもって思う。だから思い出したいわ。あなたのこと。あなたの大切な人のこと」

「サディルナ」

 ライールは彼女を抱き締めたいような想いに駆られたが、堪えて拳を握りしめる。

「そう思ったら、何だか気持ちが軽くなった。ずっと不安だったけど、今なら眠れる気がする。あなたのお陰。だからあなたも、もう泣かないで」

 ライールは、「うん」と力なく返事をする。気持ちが落ち着くと、自分のありとあらゆる言動に対する恥ずかしさが、怒濤のように押し寄せた。羞恥に俯くライールの頰を、しかし、立ち上がったサディルナが両手で挟んで上向かせた。

 そのままライールの額に、そっと唇が触れる。

「おやすみなさい、ライール。明日目が覚めても、必ずいてね。約束よ」

「いるよ。サディルナも今日のこと、必ず覚えてて」

「うん、きっと。約束する」

 朗らかに笑うサディルナに「おやすみ」と告げ、寝室の扉が閉まるのを見届けて、ライールは長椅子にばたんと身体を横たえる。

 額に手を触れ、くすぐったい思いに目を閉じると、そのまま気絶するように眠りに落ちた。