angraecum

 グレイが亡くなって三年間、サディルナは毎年、忌日の前後にこの家を訪れている。三年目はつい半月前のことだ。

 サディルナはヴィールダルトという遠方からやってきて、この家に一泊して帰るのだが(最初に見舞いに来た時以来、他に宿を取る愚は犯さなかった)、一家と食事を共にし語らうほかは、このグレイの寝室で過ごす。今ライールが座る椅子に腰掛けて、他に誰もいなければ何をするでもなく、夜が更けるまで、ただ時間を過ごすのだ。

 彼女がいる間、この部屋を訪れて、幾らか話をするのがライールの通例になった。サディルナは迷惑がる様子はなく、ティルネもサディルナの邪魔をするなとは言わなかった。

「あなたは墓地には行かないの? いつも行ってないよね?」

 ライールは先日、その数年来の疑問を、悩んだ末にようやく口にしたのだったが、彼女の答えはあっさりしたものだった。

「『身は朽ちて女神の腕に還り、命は女神の息吹となって世に満ちる』。あんな物わかりの良い人間、あっさり女神の腕に戻っているわよ。あの場所にはもう何もないわ」

 サディルナが口にしたのは教会の決まり文句だが、祖父の最後の言葉と重なって、ライールはドキリとした。

「何もないの? なんて言うか、死んだ人の魂とか」

「不信心なことを言うのね」

 食い下がったライールに、サディルナの答えはすげない。

 死者の魂が生前の形を残し続けるというのは、死したものは女神に還るべきとする教会の教えに背く考えである。司祭のサディルナに向けるには確かに愚かな発言かもしれなかったが、サディルナはその点を大して気にした様子はなかった。

「信心云々はさておいても、人の意識や魂と呼べるものは、実際、肉体に大きく依拠するの。個人の魂は恐らく、外的な要因なしに形を保っていられるほど、確かなものじゃないわ」

「死んだら終わりってこと?」

「単純に言えばそう。肉体が滅びれば魂は滅び、他と一緒くたに女神の息吹となって世界に還る」

 言い切ってから、流石に突き放した物言いと思ったのか、サディルナは若干の保留を加えた。

「人の意識が素精に何かの影響を遺すということも、あるにはあるようだけど、それもそう長い時間ではないでしょう。それに私は、もしグレイが何かを遺すとしても、それは石や土の中ではなくて、あなたたち家族のいるところだと思うわ」

 ライールも祖父の人物像については同意だったが、一方で、それならグレイのその「何か」は、必ずサディルナの所へも遺る筈だと思った。

「あなたは、そういうことがわかるんだよね?」

 ライールの問いに、サディルナは「そういうことって?」と首を傾げた。そんな仕草は妙にあどけなく、本当に若い女性としか見えない。

「何かが遺っているか、いないかとか」

 サディルナは、ほんの少し間を置いて、「いいえ」と頭を振った。

「私が言ってるのは、人の証言や過去の研究の結果から得た結論よ。私自身には何も感じ取れないわ」

 ライールは意外な返答に驚いた。

「素精干渉者っていうのは、その、素精を感じ取れる人のことだと思ってたんだけど」

「基本的にそのとおりだと思うわよ。私が違うだけ」

 ライールは、素精干渉者とは、常人にはない第六感を持つ人間を指すのだと思っていた。グレイはサディルナを素精干渉者だと言っていたし、彼女の口ぶりもそれを否定していない。しかしそれなら、何故、サディルナは素精干渉者なのだろう。

「私は司祭ではあるけど、はずれ者なの。ただの研究者よ」

 あっさり言った彼女が話題を終わらせようとしていると感じて、ライールは新たに浮かび上がった好奇心を押さえつけた。

 付き合いを重ねると、サディルナはさほど愛想が良くはなく、完璧な美貌にいささか正直すぎる突っ慳貪な物言いもあって、取っつきやすい人間とは呼べないことが分かる。一方で、ライールが何か問えばきちんと答えを返してくれるし、遙か年少の彼を軽く扱う様子も見せない。その誠実さにおいて、サディルナはグレイと似通った印象があった。

 そのため、ライールは祖父にしたのと同じように、彼女にあれこれ問いかけてしまうが、同時に、彼女に馬鹿な子どもとは思われたくないという想いもあった。

 沈黙の間に、サディルナは茶を一口含む。サディルナとここで話す時、ライールは茶を淹れてくることにしていた。彼女は一人で放っておくと、何時間も水さえ飲まない。

「話は変わるけど、ライール、あなたもう中等学校を終えるんでしょう。推薦状を貰えると聞いたけど、進学するの?」

「まだ決めてないんだ」

 転じた話題に、ライールは少し苦い表情になる。

 ライールは官製の中等学校に通い、そこで語学や算術、歴史などを学んだ。彼は成績優秀で、より上位の学校に進むよう教師から勧められていた。

 彼が通う学校に多いのは、リアムの中流層、すなわち役人や商人、比較的裕福な職人の子女などで、このたび修了すれば生家の仕事に就くものも多いが、ライール自身は家に縛られていない。

 祖父も父も教会関係者であるライールは、幼い頃から教会の付属学校に通ってもおかしくなかったが、家族は敢えて官製の初等学校に通わせた。それ自体、ライールが望むとおりに将来を選んで良いという、家族の意思表示だ。

「学問を修めることに興味がないわけでもないけど、それを役立ててなりたいものがあるわけでもないんだ。それなら早く働いて、何かすべきことがあるんじゃないかって」

 行政府の役人や法律家、医師などを志すなら進学は必須であり、ライールにはその能力も選択肢もある。しかし目下、彼にはそれらに具体的な意欲がない。そのため、単に好きだからと学問を続けることを罪に感じる一方で、そんな自由を与えられつつ放棄することは、逆にひどい贅沢だとも感じて、ライールは悩んでいる。

 黙り込むライールを見つめて、サディルナが言った。

「すべきこと、ねえ。あなた、もしかしてグレイを気にしすぎてはいない?」

「どうしてじいさんの名前が出てくるの?」

 顔を上げたライールに、サディルナは「そう思っただけ」と言った。

「的外れなら気にしないで。ティルネがあなたは、昔は口を開けば『おじいちゃんみたいになりたい』と言ってたと言うから」

「子どもの頃の話だよ」

 ライールは思わず赤面する。ティルネの言は事実であるとライールも覚えているのだが、母親という種族はどうしてこう、子どもの昔のことを、現在のことのように持ち出すのだろう。

 ただ改めて言われてみると、自分が祖父を気にしているのは事実だとライールは思った。彼が未来の自分について考えるとき、まず思い浮かべるのは祖父のことだ。

 グレイは気取りなく誰からも愛される人物だったが、彼が尊敬を集めた理由は人柄だけではない。グレイはヴィールダルトから、このローデン国の大司教座リアムに赴任して間もない二十数年前、当時は一司祭の身でありながら、都市の貧困層を中心に多数の死者を出した疫病の流行を深刻に捉え、下層の人々に利用可能な施療院の設立に尽力した。

 グレイは教会の上層部に理解を求め、行政府に実行の必要性を説き、教会の医務司祭を動員して従事者を育成し、四方に手を尽くして複数の施療院を設立させることに成功した。

 それが疫病の鎮静と死者の減少に及ぼした影響が明白であったため、ローデンは施療院の設置に本腰を入れ、教会とこの施療院の関係を知る貴族や大商人は、神の恩恵を願って寄進を行った。結果、ローデン各地に官営の施療院が新設され、貧しさの中で病に喘ぐ人々を救った。

 これらは当然、グレイ個人が作ったものではないし、教会が設置したものでもなかったが、その第一線で駆け回っていたのが誰かを知る人々は、この司祭に尊敬と感謝を捧げた。当人は褒め称えられるたび、「これは女神の恩恵ですから」と控えめに笑っていた。

 グレイはライールに常々、「私達のことは気にせず、なりたいようになりなさい」と言っていた。しかし偉大だった祖父を思うと、漠然とした道を選ぶのは罪であり、自分にもなるべき何かが、するべき何事かがあるのではないかと思ってしまうのだ。

 そんなライールに、サディルナは言う。

「言っておくけど、あんな人間のできたお人好し、探してもそうそういやしないから、気にするだけ無駄よ」

(人間のできた、お人好し)

 ライールは祖父をこれほど雑に評する人間を初めて見た。グレイは女神とその子らに尽くす熱意と能力を持った聖職者であり、同時に優しく謙虚な心の持ち主だった。そのうえ、素精干渉者という側面まで持ち合わせていたため、人々の中には彼を女神の使徒のように崇める者さえいた。

「あなたには彼が大層立派な人物に映るんでしょうけど、若い頃は結構バタバタして落ち着きがなかったわよ」

「ほんとに?」

「本当よ」

 サディルナは柳眉を顰めた。

「初対面の私に向かって『君は素精干渉者だから、教会に保護されるべきだ』なんて、やかましいわ、押し付けがましいわ。あんまり腹が立ったから、暫く無視してやったわ」

 グレイが彼女に一目惚れしていたことを知っているライールは、その言われ様に同情した。

「グレイを尊敬してるからって、それに倣おうとする必要はないわ。彼のように誰かのために尽くせる人は立派かもしれないけど、そういう人だけが世の中を支えるわけじゃないもの」

「そうかな」

「そうよ。掃除夫だって農夫だって商人だって、本人が世のため人のためなんて思っていなくても、欠かすことはできないでしょ。人には向き不向きがあるの」

「それはまあ、そうだろうけど」

 随分開き直った話ではないかと思ったが、少し肩の力が抜けた気にもなって、ライールは「実は」と思い切って言った。

「進学しない場合は、教会の徒弟になりたいと思ってるんだ。サディルナ、あなたはどう思う?」

「あなたのような立場の人間が、普通なりたいと望むものではないのは確かね」

 サディルナは感心半分、呆れ半分といった顔で言った。

 教会における『徒弟』は、「神官見習い」のように解されることもあるが、実態は雑役夫である。教会内で最低限の衣食住を保証される代わりに、神の官僚たる神官が行うまでもなく、信徒の奉仕では足らない部分の、ありとあらゆる雑用をこなす。

 徒弟が神官になる例もあるにはあるが、後に聖職者として教会に属することを前提とはしておらず、当然、生涯徒弟として教会に居続けるものもいる。

「好きに使われるうえに報酬は僅かだし、不自由は多いしおすすめしないわ。大体、あなたが神官になりたいなら、神学校に行って叙任される方が確実でしょう」

「そうなんだけど、俺は今のところ神官になりたいわけじゃなくて、教会で働いてみたいんだ。それに有望な徒弟は、神官見習いになったり、神学校で学ばせて貰えることもあるって聞いたよ」

「それは徒弟がよほど優秀で、しかも運が良い場合よ」

「そうじゃないなら、それはそれでいいんだ」

 ライールは正直、明確な目的なく学び続けるより、早く自分の身を立てたかったし、その場所として思い浮かぶのは、やはり祖父のいた教会だった。仮に教会に属し、働き次第ではそれ以上を望める可能性もあるというなら、今のライールにとって十分すぎるというものだ。

サディルナは「おかしな子ね」と溜息半分に言った。

「あなたの決めることだもの。私がどうこう言うことではないけど。でもよく考えなさい」

 裕福な未来も望める身であると考えれば、愚かな考えと言えるだろうと、ライール自身、承知している。しかし彼はサディルナが賛意を示してくれなかったことに、自分でも驚くほど落胆していた。

「馬鹿なことを言ってるかな」

 サディルナは困ったように息を吐いた。

「そこまでは言ってないわ。本当にそうすることにして、もしメルク以外の教会に行きたいなら、私に言いなさい。紹介状を書いてあげる」

「ほんと!?」

 沈んでいた顔に途端に喜色を浮かべた少年に、サディルナはしかつめらしく言った。

「二言はないけど、いい、よく考えるのよ」

「わかった!」

 その勢いにサディルナは目を丸くしたが、何を思ったか、ふいに相好を崩す。

「いつも澄ました顔してるのに、あなたどこまでもおじいちゃん子ねえ。グレイのことばっかり」

 玉を転がすように笑うサディルナに、ライールは赤面する。「覚えてないでしょうけど」と、彼女は膝のあたりで片手をひらひらさせた。

「あなた、こんな小さい時から、じいじじいじ、ってグレイにしがみついて離れなくて、ティルネが『お母さんは私なのに』って拗ねていたのよ」

「そんな昔のこと、持ち出さないでよ」

 心から勘弁して欲しいのだが、楽しそうなサディルナを見ると、語気も弱くなる。

 サディルナは普段気難しげなくせ、思い切り笑うと笑顔は意外に朗らかで、美貌も相まってまるで花が開くようだった。ライールはずっと見ていたいと思ってしまう。

 サディルナはひとしきり笑ったうえで、「悪かったわ。ごめんなさい」と口元を押さえた。

「あなたももういい年頃なのに、おじいさん以外に、少しは気になる人はいないの?」

「え」

 サディルナが何も考えず口にしただろう言葉に、ライールは身体を強ばらせた。

「『え』?」

 サディルナの新緑の瞳にぶつかり、ライールは反射的に目を逸らす。

「私、変なこと言った?」

「いや、別に、何も」

 ぼそぼそと口にしながら、別の話題を慌てて探す。

「そ、そういえば、あなたは昔、どうして歌姫をしてたの?」

 苦し紛れの問いは劇的な効果を生み、ぐわっと一瞬で目を見開いたサディルナの迫力に、ライールは恐れ戦いた。

 彼女は続いて何か言おうと口をぱくぱくさせたが、何も言わず、代わりに地に沈み込むような深い溜め息を吐いた。何故そんなことを知っていると問おうとしたが、該当者はわかりきっているのだから、問うだけ無駄だ。

 一方のライールは、サディルナの激変ぶりに汗をかいていた。その話題はサディルナを怒らせるとグレイが言っていたが、ここまでとは。

 暫く黙り込んでいたサディルナは、それも子ども相手に大人げないと思ったか、頭痛を堪えるような顔で重苦しげに口を開いた。

「どうしてもなにも、意味なんてないわ。それしか出来ることがなかったのよ」

 ライールは意味を捉えかねて首を傾げる。歌うという特殊な行為しかできないという状況は、なかなか想像ができない。

「旅をしたかったんだけど、お金はないし、何ひとつまともにできることがなくて、稼ぐ手段もなかったの。だけどたまたま私の歌は、それなりにものになるらしいと分かったから」

 語っているうちに渋面は消え、サディルナは過去に思いを馳せるような目をした。

「旅芸人っているじゃない? あの真似事で、酒場で小金を稼いで、少し貯めて移動して、なんてことをしていたの。歌を沢山知っているわけでもなかったから、行く先々で教えて貰ったりして」

 ライールにはサディルナの言うことが何となく不思議だった。

 歌が好きなら、それなりに数も知っていそうなものだし、歌が得意なら、それは歌うことが好きということなのではないかと安直に思ってしまうのだが、サディルナの口ぶりはそれよりもっと距離を置いた感じがする。

「あなたは歌うのが好きだったわけじゃないの?」

 疑問を素直にぶつけると、サディルナは「どうかしら」と目を伏せた。

「歌を聴くのは好きだし、歌うのも嫌いじゃないけれど、好きというと少し違う気がするわ」 

「どういう意味?」

 食い下がるライールに、サディルナは少し困った顔をしたが、諦めたように言った。

「歌うのが好きというより、小さい頃、私が歌うと喜んでくれた人達のことが好きだったの。その人達が、私に歌を教えてくれたから」

 サディルナが言うのは勿論、酒場の聴衆のことではない。誰か彼女の大切な人達だ。ライールの脳裏に、あどけない少女が自分の歌を褒められて、顔を綻ばせる情景が浮かぶ。

 その少女の歌を、聴いてみたいとライールは思った。けれどその必要がなくなったサディルナはもう、歌うことはないのだろうか。

「この話はここまでよ。グレイったらまったく、口が軽いんだから」

 彼女にとって忌まわしいらしい過去を吹き込んだ元凶にぶつくさ言いながら、サディルナは冷めた茶腕に口を付ける。淹れなおそうとライールが言うと、「気にしないで」と頭を振った。

「あなたはお茶を淹れるのが本当に上手ね。料理も上手くて何かと器用だし、どこに行っても物の数にはなるでしょう」

「徒弟としても十分?」

 褒められて嬉しくなり、少し調子に乗ってしまう。

「しつこいわね。よく考えろって言ったでしょ」

 その口調は言葉ほどにはきつくなく、ライールは嬉しくなった。

「それじゃ、最後の質問にするから答えて。司祭になったのはどうして?」

 サディルナが素精干渉者であったため、教会として保護したとグレイは言っていた。かといって、それで即ち高位の司祭になれるというものではないだろう。

「それもなりゆきよ。お節介焼きな、あなたのお祖父さんに会ったのが運の尽きよ」

 サディルナは雑に答えを返したが、ライールを見て、ふと考えるような仕草を見せた。

 「でも、そうね」と、口元に手を当てる。

「確かになりゆきだったけど、私のすべきことは、もうここにしかなかった。だから私はずっと、ここにいるんだわ」

 奇妙な口ぶりだった。『ここ』とは明らかに今いるこの場所ではないが、教会を指しているのだろうか。答えは独り言めいていて、ライールはその『すべきこと』とは何かと、思っても問うことが出来なかった。

 ただ、『すべきこと』のために『ここにいる』と言う彼女が、その場所で一人佇んでいるような、そんな寂しい印象を抱いた。

 ずっとここにいる。長い時間を残されていくままに。ひとりで?

 淡く月が照らす静けさのなかで、ライールは、半月前の彼女との遣り取りを思い起こす。

 グレイの意識も魂もとっくに存在しないと言いながら、この場所でグレイを悼み続けるサディルナが、残されていくことを哀しく思っていないなんて、そんなことがあるだろうか。

 悲しいとも寂しいとも、到底口にしない彼女の孤独を思うなど、グレイの影響を受けすぎているだろうか。だけど、そんなのは今更だ。

 自分が祖父の影響下にあることは否定のしようがない。それを含めてライール・リジェットという人間だ。肯定したうえで、自分はどう思うのか。

 「すべきこと」は、したいことは何だ?

 問うと答えは意外なほど、すとんと軽く落ちてきた。

 翌朝、再び彼女の話を始めた両親の前で、ライールは「あのさ」と口火を切った。