流れ霞と琥珀糖
その夜、ライールは宿舎に戻って眠りについた。サディルナを酔漢と二人きりにすることには不安を感じたが、当のサディルナが「大丈夫よ。どうせ朝まで起きやしないから」と言ったのだ。翌日、いつもより早く研究室を訪れると、男の姿は既になかった。
それから二週間後の夕方近く、教会本部での手伝いを終えたライールに、「おーい、そこの坊主」と声がかかった。振り返ると、柔らかい榛色の髪の、ひょろりとした男が、袋を片手に手を振っていた。
若い男に見えたので首を傾げたが、近付くと、先日の酔漢だと分かった。
「あいつのところに戻るんだろ? 丁度良かった」
気安く笑った男は、緑色の簡易服を身に纏っていた。やはり司祭なのかと得心する。今日は赤ら顔ではいないが、眠たげな半眼は先日とあまり変わらない。元々こういう顔らしい。
「こないだは悪かったな。詫びに土産を持参したから、茶でも淹れてくれ」
ライールは、先日の彼の雑な言動にあまり良い感情を抱いていなかったが、人好きのする笑みを見て一旦印象を改めることにした。彼もサディルナによ少しは痛い目を見たのだし、酔った際の所業を、素面の時に問うのも酷かもしれない。
「じゃあ、ご一緒に」と男を先導し、広大な敷地の一画にある研究室にたどり着く。
「師匠、戻りました。お客ですよ」
書斎の扉を叩いて呼ばわると、サディルナが怪訝そうに姿を現した。「よお」と手を上げた男を視界に入れると、はっきりと驚きを見せる。
「ファーレン」
「ダイルグが、この時間なら坊主も戻るだろうと言ったんだ。当たってたな」
彼は「後で食うといい」と言って、土産の袋をライールに手渡すと、勝手知ったる様子で、先日引きずり下ろされたその椅子に腰を落ち着けた。
(ファーレン?)
聞き覚えのある名だが、思い出せずにライールは頭を捻る。
「あなたまた、こんな時間に何してるの」
呆れた顔のサディルナに、ファーレンは「迷惑そうだな」と不服そうだ。
「休日でも平日でも、結局、態度が変わらんじゃないか。お前、相談があるから時間が欲しいって言ってたろ。だから多忙の隙にわざわざ出向いてやったんだ。感謝するところだろう、これは」
「そういう言葉は、ついこの間、かけた迷惑を思い起こしてから言ってくれるかしら」
「だから土産も持ってきたろう。そう手に入らん上物だぞ、お前では価値がわからんだろうが」
サディルナが大人しく彼の向かいに座ったので、ライールはファーレンの分も茶を淹れることにした。最近ではライールが研究室に戻るこの時間帯に、仕事の手を止めて一服する習慣になっているのだ。
(ファーレン………ファーレン)
殆ど動作を意識することもなく茶の支度を済ませ、手に盆を抱えたまま、ライールはその名を反芻し、ふと答えにたどり着いた。
(――――ルヴェスト・ファーレン大祭司!)
手元の茶器ががちゃんと音を立てた。残る二人がその音に目を向け、俄に身体を緊張させたライールに、彼がニヤリと笑った。
「気付いたようだが、少々遅いな」
「それらしくしない、あなたが悪いんでしょ」
ライールは戸惑いつつ、「失礼します」と言って卓に茶器を並べた。
「どうせならもっと驚けばいいのに。反応が薄くないかお前」
「すみません」
「下らないことで子どもに絡むのはよしなさいよ、恥ずかしいから……」
酔っていても酔っていなくても大差ない様子で、年長者二人は力の抜けた遣り取りをしている。ライールは十分すぎるほど驚いていたが、今更畏まって挨拶などするのも奇妙であり、さりとて立ち去るのも無礼かと迷って立ち尽くしていた。
大祭司はこの世界に三人存在する『教会』最高位の司祭であり、ルヴェスト・ファーレンはその一人である。大祭司は全員がこの教会本部に所在しているが、組織の最下層であるライールなどは、同じ敷地内にいても直に接する機会はない。
とはいえ公的な儀礼において、ライールは彼を遠目に見たことくらいはある筈だが、先程名前を耳にするまでその可能性にも思い至らなかった。本人の言動が言動であり、サディルナの態度が態度である。サディルナの上階だろうと想像しても、大祭司だろうなどとは思わない。
「まあ、こんな狭い場所で萎縮されても鬱陶しいが。ところで茶が旨いな。お前が淹れたのか?」
「はい、有り難うございます」
世界最高位の司祭の一人は、助祭が普段身につけるような服を纏って、行儀悪く足を組んでいる。彼の態度は不快でない程度に横柄で、堂々としたものだが、寝惚けたような目と痩せぎすな身体からは、威厳は感じられない。
「もう一杯くれ」と茶を催促され、注いでいる最中に入口の叩き金が鳴った。外から鈍く声が響く。
「突然の訪問、申し訳ありません。ウェルズ司祭にご相談があるのですが――――」
「まずい。坊主、隠れるぞ!」
問答無用に引き摺られたライールは、十数秒後、ファーレンと従者部屋にいた。閉じた扉の向こうで、サディルナがひとり来客に対応している。
(なんで俺も?)
脱力するライールを余所に、ファーレンは先日一晩を過ごした寝台に腰掛けると、手にしたままの茶碗に口を付けた。部屋には他に文机と椅子もあったが、目上の人物を前に腰掛けるのも憚られ、ライールは立ち尽くしたまま言う。
「姿を隠す必要があったんですか……?」
「そりゃあるさ。大祭司の俺が、職務中にこんな格好でこんなところに出入りしてたらまずいだろ」
やはりこの訪問は、所謂お忍びに近いものであるらしい。大祭司が助祭のような格好で、敷地の片隅を一人フラフラするものだとは、ライールも考えない。しかし。
「ここに来るのは何かまずいんですか?」
サディルナはおそらくファーレンの部下であり、その研究室を訪れるのが何かまずいことなのだろうか。
「俺が部下のところにわざわざ出向くことは、まあ普通はないからな。俺のウェルズ贔屓は知られた話だが、それがあんまり目立つのもよろしくない」
「そういうものですか」
「そういうものだ」とファーレンは足を組む。
「目立つあいつを嫌う人間もそこそこいる。贔屓が過ぎれば反発もある。偉い人間ってのは難しいんだよ。あと、ばれたら普通に恥ずかしいだろ」
(恥は知ってるんだな……)
密かに無礼な思考をするライールに向かって、ファーレンは茶を口にしながら雑に片手を振った。
「お前も座れ。顔が見られなければいいから、別に声を潜める必要はない。にしても、この茶は旨いな。ジェイルにも張る腕前だ」
「有り難うございます」
茶を淹れるなど取り立てた技能ではなく、ライールは日頃賛辞を受けるたび恥ずかしく思っているのだが、茶葉は母のティルネが選んだもので、褒められて悪い気はしない。
ティルネはライールの故郷、ローデン国の大司教座リアムに今も暮らしており、長く父の友人だったサディルナをずっと姉のように慕っている。世話焼きの彼女は、息子がサディルナの元に来て以来、嗜好品や部屋の装飾品などサディルナ自身が気を遣わないあれこれを見繕っては、息子にかこつけて送ってきていた。茶葉もそのひとつで、それが届くようになってから、一日机に貼り付く仕事の虫のサディルナが、茶を淹れれば一服入れるようになった。
「大祭司様は、ジェイルさんをご存知なんですね」
ジェイルはライールが来る以前に、サディルナの身の周りの世話をしていた人物だ。家庭の事情で職を辞したものの、サディルナと良い関係を築いており、控えめだが気配りの細やかそうな女性だった。
「そりゃあな。ウェルズ司教が死んでから、彼の世話人だったジェイルをここに回したのは俺だ。あの女の無精具合は目に余ったからな」
『あの女』とはサディルナのことだ。ライールはこの大祭司が彼女について知らないことを探すのは、無益に思い始めた。
「ジェイルがいなくなって、それなりに気にしてたんだ。あの女は、人見知り、引きこもり、不養生の三重苦だからな。どうしたもんかと思ったら、うまく後釜が見つかって安心したよ。あいつ、小言のうるさい子どもが来たと嘆いてたぞ」
ファーレンはにやにや笑ってライールを見たが、ライールは「そうでしょうね」とあっさり返す。サディルナが実際に彼のことをどう言ったか定かでないが、自分が「小言のうるさい子ども」なのは事実だ。ファーレンは、「かわいくないなあ、お前」とつまらなそうだが、さりとてライールの生意気さを気にする風でもない。
「まあ、あいつには口煩いぐらいの方がいいさ。世間知らずのくせに頑固で、人の話なんか聞いちゃいないからな」
ライールはしみじみ、ファーレンのサディルナへの理解の深さを感じる。物言いはいちいち極端だが、先日酔っていた時も含め、彼の言葉は概ね一面の真実を突いている。
「大祭司様が、師匠を『贔屓』される理由はなんですか?」
出過ぎた質問かと思いつつ、興味が勝ってライールが口にすると、ファーレンは不快を感じる様子もなく、少し考えるふうにした。
「お前は、ウェルズの能力について知っているか?」
半眼の下から窺うように見つめるファーレンに、ライールは「少しだけ」と控えめに頷いた。
「素精を感知できないと本人から聞いたことがあります。これは普通のことなんでしょうか」
「異常さ。素精を感知することで干渉する、素精干渉者として矛盾している。理屈に合っていない。そんなのはあいつくらいのものだろう」
「それでも、素精干渉者と呼べるんですか?」
「あいつの場合は、そう呼ぶしかないというのが正直なところだ」
その理由もライールは知りたかったが、ファーレンはそこを深く説明する気はないようだった。
「ウェルズは普通の司祭としては役に立たない。だが、だからこそ、普通の司祭が持ちえない視点を持っている。発想を実行に移す勢いと能力もある。それをまあまあ重宝してるんだ。俺達がいるような閉鎖的な世界は、硬直しがちだからな。質問の答えになったか?」
「はい」
ファーレンの答えは、吹けば飛ぶ子ども相手に返すには十分過ぎるほど誠実で、ライールは感謝した。
「そんなわけで、俺は至って真面目にあいつを贔屓してるわけだが、如何せんあいつが女なもんで、先入観を持つやつも多いし、下手したら仕事中に逢引きをしてると噂されかねない。それはまずい」
「……まずいんですか?」
尊敬の念を抱きかけたところを落とされ、ライールは脱力しつつ一応反応をした。
「まずいし、大祭司の威厳も形無しだろう。そもそもウェルズは俺の好みの女じゃない。見た目はいいと思うが」
問題がずれているとしか思えないが、彼が頻繁にサディルナの容姿に言及するものだから、そこは本当に好みなんだなとライールは思った。自身の美貌に頓着していない本人は、さぞ不快がるだろう。
「いずれにせよ誤解は不本意だ。俺はダイルグのような物好きじゃない」
これもやはり頻繁に、彼はダイルグを引き合いに出す。ライールはそれを理解できるが、ファーレンの認識を確かめたくなった。
「シリング司祭は、師匠のことがお好きなんでしょうか」
ファーレンは、「当たり前だろう」と呆れたような目を向けた。
「あれが惚れてるんでなければ何だ。俺の知る限り、あいつに他の女っ気はないぞ。何十年も、懲りずに隙あらばあの女に構ってる。物好きにも程があるな。もっとも、物好きはお前の祖父さんも相当だったが」
矛先を転じられて驚くライールに、ファーレンはにやりと笑った。
「祖父のこともご存じなんですか?」
「特に親しくしたことはない。グレイ・リジェットは若い頃、ウェルズと一組で随分悪目立ちしたのさ。ただ、リアムに移ってからの評判は非常に良かったな。あの地の医療体制整備の立役者だ」
ファーレンは碗を置いて立ち上がり、壁に身体を凭せかけた。
「だがウェルズを気にするなら、リジェットはここを離れるべきじゃなかった。あいつの側にいる男どもは、どいつも熱心なわりに中途半端だ。それ以上に中途半端なのは、本人だが」
ファーレンは宙を見て、独りごちるように言う。
「『老いぬ者』ってのは厄介だ。まともに歳を取らないから、命に限りがあることを実感していない。ウェルズも、リジェットが死んで懲りたかと思ったが、まだ分かっちゃないな」
ライールはファーレンの横顔をまじまじと見る。
「あなたはどうして、サディルナをそんなに気に掛けるんですか?」
ファーレンがきょとんとした顔でライールを見返した後、「お前、生意気だなあ」と言ったので、ライールは今更慌てた。分不相応な内容にもだが、いつもの調子でサディルナを呼び捨てにしてしまった。
「すみません」
恐縮するライールに「まあいいさ」と、寝惚けた目を細めて笑う。
「あいつとは長い付き合いだからな。阿呆な娘でも、泣くのが分かってちゃ忍びないだろ」
「……どうしてサディルナが泣くんです?」
怪訝にするライールに、ファーレンは肩をすくめて見せる。
「ダイルグはそのうちあっさり死ぬだろう。あいつからは、長生きする人間の匂いを感じない」
ライールが絶句すると、「お前、大祭司の言葉を信じてないだろ」と突っ込まれた。
「まあ、そんな俺の予測が当たろうが当たるまいが、好きな男は、四の五の言わずに捕まえとけってことだ。俺は『老いぬ者』じゃないからな。限られた時間は、大切にすることにしている」
含みありげにそう告げたファーレンに、ライールは気付いた。ファーレンは自分をここに勢いで連れ込んだのではなく、何故かはわからないが、自分と話をするために時間を取ってくれたのだ。
「さりとて俺は多忙の身だ。あいつの面倒なんか、いつも見ておられん。それはお前に任せるから、せいぜい励むんだな。あいつの調子に乗せられるなよ」