angraecum

「あの人は、じいさんの何なの?」

 寝台に半身を起こしたグレイは、孫からふいに向けられた問いに目をしばたいた。

「あの人って、サディルナのことかい?」

 つい先程まで交わしていたのはごく日常的な遣り取りで、その話題に前後の脈絡はなかった。しかしライールが口にしたのは、一昨日去った彼女のこと以外にないだろう。昨日、グレイは丸一日床についており、今日も昼食を寝室で簡単に済ませたところだった。

「何って、友人だよ。親友と言っても差し支えないかな」

 傍らに座って怪訝な顔をするライールに、「ティルネから聞いてないか?」と付け加える。

「サディルナは見た目が若いから、私の友人と言っても妙に感じるかもしれないけど、実際の歳は私とあまり変わらないんだよ。知り合って三十年は経つかな」

「そうじゃなくて……」

 孫の歯切れの悪さにグレイは首を傾げ、ややあって「ははあ」と笑った。

「さてはお前、私とサディルナについて、ティルネに妙なことを吹き込まれただろう」

「ち、違うよ。別になにも、吹き込まれては無いけど」

 サディルナに対して、結婚だの何だのと騒いでいた母の物言いからすると、二人の関係がただの友人とも思えない。

「じいさんって、もしかして、あの人のこと好きだったの?」

「今も好きだよ。大切な友人だからね」

「そういうんじゃなくて!」

 興奮して語気を強めたライールに、グレイは、ははと声をあげて笑ったが、ふと苦痛を感じたように眉根を寄せた。

「ちょっと、じいさん、大丈夫?」

 慌てて腰を上げたライールに、「大丈夫だよ」と安心させるように笑う。

「茶化して悪かった。お前が照れ臭い話をするものだからさ。そうだな。一言で言えば、初恋の人かな。初恋というものは、いつまでも特別なものだろう?」

そんなことは知らないとも言えず、ライールは「ふーん」と曖昧な反応をした。

「サディルナは特別な人だが、私の生涯の伴侶はアリスだよ。ティルネがおかしなことを言ったせいで、何か心配をしているのなら、安心しなさい」

「そういうわけじゃないけど」

 言いながら、ライールは少しほっとする自分を感じた。

 三年前に亡くなったアリスは小柄でおっとりとした女性で、浮世離れした美貌のサディルナとは、あまりに異なる雰囲気の人だった。ライールは小さい頃からその祖母に可愛がられ、ずっと祖父母を理想の夫婦のように思っていたのだった。

 ただしライールは、何もそのことが気になって、サディルナを話題にしたわけでもない。

「あの人とは、教会で知り合ったの?」

 グレイは頭を振った。

「サディルナは元々、教会とは何も関わりがなかった。彼女は若い頃、旅芸人、というか流しの歌姫でね。酒場で歌ったりして、日銭を稼ぎながら旅をしていた」

「歌姫? 歌うの? あの人が?」

「昔の話だけどね。内緒だよ。この話を持ち出すと、彼女に怒られてしまう」

 身を乗り出すライールに、グレイは笑って唇に指をあて、少し遠くを見るような目をした。

「だけど彼女の歌は素晴らしかった。まるで天上から降ってくるような美しい声だった」

 小さな酒場で披露されるばかりだったその歌は次第に評判となり、彼女は『氷の歌姫』という異名をとって、知る人ぞ知る存在になったのだという。

「彼女の評判を聞きつけて、私が会いに行ったのが最初だ。そこで、まあ、有り体に言えば、一目惚れしてしまってね。彼女、それはそれは綺麗だろう?」

「一体なんだって教会の司祭が、歌姫になんて会いに行くのさ」

「お前、私が遊んでたんだなんて思ってるだろう。見損なうなよ。歴とした仕事だったんだよ」

 半眼の呆れ顔を向けたライールに、グレイは眉を顰めて弁明したが、それで美女に一目惚れしていたのでは世話がないのではなかろうか。

「サディルナの歌には少し特別な力があってね。彼女は素精干渉者だったうえに、その自覚がなかった。教会には、そういった在野の能力者を保護する役目もあるんだ」

「あの人も?」

 『素精干渉者』とは、『素精』を感知しそれに干渉する者を指す。

 『素精(ファル)』とは、世界のあらゆる事物・事象と繋がる根源的なものとされているが、常人が視覚や聴覚、嗅覚といった五感で捉えることは出来ない。『素精干渉者(ファル・ラー)』と呼ばれる特殊な能力者のみが、それを感知することが出来るらしい。

 らしいというのは、ライールにそんな力はないからだ。一方で、グレイはまさしく教会に認知された素精干渉者である。この才能は血筋に依るところも多いとライールは聞くが、グレイの娘であるティルネは勿論、リアムの役人であったグレイの実父母にもそんな力はなかったらしい。

 ライールの目には見えず、触れられず、耳にも聞こえない。それにも関わらず、この世に存在するという素精とは何なのかと、ライールはもっと幼い頃に、グレイに尋ねたことがある。

 グレイの答えはこうだった。

『素精はこの世に命を吹きこんだ、女神の息吹とも呼ばれる。他にも様々表されるけど、私にはそれが一番しっくりくる。素精はそれを捉えられない存在を、弾くものでは決してないんだ。今この時も、この世のすべてに満ち、私やお前にも満ちているよ』

 ライールの小さな身体に触れ、そう語った祖父の手も眼差しも温かで、その言葉は事実だと信じられた。

「私はサディルナに素精干渉者として、教会の保護を受けるよう言った。彼女には身寄りが無くてね。元々は姉さんと暮らしていたそうなんだが、その人も亡くなって帰る場所はないと言っていた。最終的には私が当時所属していたヴィールダルトに身を寄せることになって、その後、司祭になったんだ」

 来し方を語るグレイの瞳は深い色合いを帯びていて、ライールは口を挟みづらい気配を感じながらも、気になっていたことを問うた。

「あの人、結婚してないんでしょ? なのに、じいさんはふられたの?」

 グレイはがくりと脱力した。

「お前、ずけずけ言うね」

 情けない声を出した祖父に、ライールは「だってさ」と唇を曲げた。

 グレイは十人居れば十人が接しやすいと評するだろう、温厚で人好きのする人物だが、ローデン国唯一の大司教座・リアムの司祭長である。その肩書きと実績に加え、人柄によって多くの人々の尊敬を受けてきた。心優しく誠実であり、公正でありながら寛容である。そんな心根をそのまま写したような柔和な見た目だって悪くない。一言で言えば、自慢の祖父なのだ。

 ライールはそんなグレイが、想った女性に好意を無碍にされたと信じたくない。グレイは彼女に想いを告げなかったのではと思いもした。

 そんな希望的観測を、あっさり砕くようにグレイが言う。

「まあ実際、私はサディルナに告白して、完膚なきまでに振られたんだが」

「他人事みたいに言うんだね」

 祖父の可笑しそうな様子にぼやくと、「まあ、昔のことだから」とあっさり言う。それはまあ、そうだろうが。グレイは「それに」と付け加えた。

「私の初恋は確かに成就しなかったかもしれないが、彼女は私の気持ちを受け止めてくれたと思ってるんだ。私達は恋人でも夫婦でもあったことはないけど、それでも彼女は私にとって、かけがえのない女性だよ」

 聞く側が照れ臭くなるような発言だったが、事実なのだとライールは思った。

 この家で数日前、短い時間を共に過ごしたグレイとサディルナは、とても楽しそうだった。同時にサディルナはグレイの身体をずっと気遣っており、グレイはそんな彼女に感謝をしていた。二人の様子を間近に見たライールは、再婚だの何だのと騒ぎ立てるティルネの気持ちが、少しわかってしまった。

 だからつい、グレイに彼女のことを訊いてみたくなったのだ。

「ふられて悲しくなかったの?」

「それはまあ、当時は自分がサディルナを幸せにするんだなんて思っていたから、悔しかったし、勿論悲しかったよ。でも彼女には特別な人がいたからね。それはどうしようもなかった」

その特別な人は誰だったのかとか、サディルナはその人物とはどうなったのかとか、ライールは気にはなったのだが、それ以上の追及は、みっともなく思えて出来なかった。特定の女性の個人的な事情をあれこれ聞き出そうとするなんて、まるで変に興味があるようだ。

 そんなことを考えていると、くく、と祖父の抑えた笑い声が聞こえた。彼が明らかに自分を見て笑っていたため、ライールは「何だよ」と唇を曲げる。

「じいさん、なんか楽しそうだよね」

 単なる当てこすりではなく、今日のグレイは随分陽気だ。最近青白く感じることの多い顔も、血色が良いように見える。

「そうかい? 楽しいと言うより、嬉しいかな」

「嬉しい?」

「お前がサディルナに興味を持ってくれてることがさ」

 グレイはその言葉どおり、嬉しそうに彼を眺めている。ライールは興奮して「はあ!?」と腰を上げかけたが、続く言葉に一転、冷や水を浴びせられる。

「ティルネやお前がサディルナを気にかけてくれるなら、私は安心できるよ」

 その微笑みと声はあまりに優しく、ライールは返す言葉に詰まって、息をひとつ飲み込んだ。

「何言ってんだよ。じいさんがいれば十分じゃないか。親友なんだろ」

 声が不自然に高低したことに、祖父は気付いたろうが、それを表には出さなかった。

「サディルナは『老いぬ者』だからね。人より随分長生きをするかもしれない。友人は多い方がいいだろう?」

「友人って、一体幾つ歳が離れてると思ってるんだよ」

「友人に年齢は関係ない。私とお前だって、じいさんと孫でなくても、友人になれるよ」

 その声からグレイが微笑んでいることがわかった。しかしライールは祖父と目を合わせることが出来ず、顔を背けて昼食の盆を手に取った。

「お喋りに付き合わせてごめん。寝てよ。これ以上いたら、俺が母さんに怒られるから」

「そうだな。昼食有り難う。楽しかったよ」

 言って、グレイは大人しく寝台に横たわった。

 部屋を出る直前、ライールが振り返ると、グレイは目を閉じていた。話しすぎて疲れたのだろう。明るい瞳が隠れると、目元の影が目立つ。仰向けた顔に、頬骨がやけに浮き上がったように見えて、ライールは目を逸らした。

 三ヶ月後、グレイは女神に与えられた生命を終えた。