結び
891.
【711】そして、これだけで──
〔そこで、詩偈に言う〕「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が、心を〔修めながら〕、そして、智慧を修めながら、熱情ある賢明なる比丘として、彼は、この結束を解きほぐすでしょう」(サンユッタ・ニカーヤ1p.13:Ch.0§1)と──
この詩偈を提出して、すなわち、〔わたしたちが〕言ったところのもの──
〔そこで、詩偈に言う〕「今や、偉大なる聖賢(ブッダ)によって言説された、この詩偈の、戒等を細別する義(意味)を、事実のとおりに解説している〔わたし〕である。
勝者(ブッダ)の教えにおいて、出家という極めて得難き〔あり方〕を得て〔そののち〕、戒等を包摂する平安〔の境地〕たる、清浄のための真っすぐな道を──
事実のとおりに知らずにいる者たちが、ここに、彼らが、たとえ、清浄を欲する〔心の〕制止者(瞑想修行者)たちとして〔常に〕努力しつつもまた、清浄〔の境地〕に到達しないなら──
彼らのために、〔真の〕歓喜を作り為すものにして、極めて清浄なる〔真の〕判別たるものを──マハー・ヴィハーラ(大寺:寺名)の住者たちの説示の方法(理趣)に依拠した〔道〕を──
〔その〕清浄の道を、〔わたしは〕語るであろう。謹んで語っているわたしのその〔言葉〕を、〔あなたたちは〕全てもろともに清浄を欲する善き者たちとなり、傾聴せよ」(Ch.0§4)と。
〔まさに〕その、この〔清浄の道〕が、〔ここにおいて〕語られたものと成る。
892.
そして、そこにおいて──
〔そこで、詩偈に言う〕「戒等を細別するそれらの義(意味)にとって、〔まさに〕その、〔真の〕判別となるものが、五つのニカーヤ(長部・中部・相応部・小部・増支部の五部経典)もろとものアッタカター(注釈書)の方法において説かれた。
その全てを集めて、多くのところとして、〔真の〕判別が〔為され〕、一切の混同の汚点から解き放たれ、すなわち、〔ここに〕明示されたことから──
それゆえに、清浄を欲し清浄の智慧ある〔心の〕制止者たちによって、この、清浄の道にたいし、まさしく、慇懃〔の心〕が作り為されるべきである」と。
893.
〔そこで、詩偈に言う〕「最勝なる区分論者たちにして、福徳ある長老者たちである、マハー・ヴィハーラの住者たちの、〔その〕伝統に属する者にして、〔真理を〕分明する者──
清らかなる謹厳の生活者にして、律の習行に専念し〔正しい〕実践に専念する者、幸甚なる方サンガパーラの〔要請を〕──
【712】忍耐と温和と慈愛等の徳に飾られた心ある方の要請を、まさしく、収め取って、この〔清浄の道〕を、わたしは作り為しつつ──
正なる法(教え)の止住を欲する者として至り得た、〔まさに〕その、功徳の積み重ねがあるなら(※)、その〔功徳〕の輝きによって、命あるものたちは、全てもろともに、安楽に満ち栄えよ」〔と〕。
※ テキストにはpaññasañcayo とあるが、VRI版により puññasañcayo と読む。
894.
〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、この清浄の道は、五十八の朗読分ある聖典として、ここに、障りなくして、終了するところとなった。
すなわち、まさしく、そのように、世の、一切の善なるものに依拠した意欲は、障りなく、即座に、即座に、実現せよ」と。
895.
[後書き]
最高にして清浄なる信と覚慧と精進によって装飾された者にして、戒の習行が迅速にして柔和なる等の徳の集まりが集まった者──自らの教義と別の教義を収め取り沈潜することができる、智慧と聡慧を具備した者にして、アッタカター(注釈書)を含む三ピタカ(三蔵)なる聖典の細別ある、教師の言説たる教師の教えにおいて、打破されることなき知恵の増加ある者──大いなる文典の精通者にして、文字の得達によって生まれた安楽に由来する、甘美にして秀逸なる言葉の色艶を擁する者──道理あることを解き放って説く優れた説き手にして、大いなる詩人──六つの神知と融通無礙〔の智慧〕等の細別ある徳に装飾された人間を超える法(教え)において、打破されることなき覚慧ある者たちにして長老の伝統の灯明たる長老たちの、マハー・ヴィハーラの住者たちの、〔その〕伝統を十分に作り為す者として有る、広大にして清浄なる覚慧ある者──導師たちによって収め取られた「ブッダゴーサ(仏音)」という命名ある長老によって、モーランダチェータカと説かれるべき者によって、作り為されたものが、「清浄の道」ということになる。
896.
〔そこで、詩偈に言う〕「それまでは、世に止住せよ──世の超脱を探し求める良家の子息たちのために、戒の清浄の方法を説示しながら、〔この『清浄の道』は〕。
すなわち、世の最尊者にして偉大なる聖賢たる方の、清浄の心ある者にして如なる方の、たとえ、『ブッダ(覚者)』という名前であれ、世に転起するかぎりは」と。
【713】〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、この〔書写〕によって実現した功徳──さらに、すなわち、他の、わたしが追い求めた〔功徳〕──この功徳の行為によって、第二の自己の発生(来世)においては──
三十三〔天〕において歓喜しながら、戒の習行の徳を喜ぶ者となり、五つの欲望〔の対象〕に付着することなく、第一の果に至り得て──
最後の自己状態においては、世の至高の人にして主たる方、一切の有情たちの利益を喜ぶ方、牟尼の牛主たる方、メッテイヤ(弥勒)を──
〔彼を〕見て、慧者たる彼の、正なる法(教え)の説示を聞いて、至高の果に到達して、勝者の教えを荘厳するであろう」と。
清浄の道(ヴィスッディ・マッガ)は、〔以上で〕終了となる。