第十四章 〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示

 

421.

 

§1  【436】今や、すなわち、このように神知を所以に、福利に到達し、より強固なる、禅定(三昧・定)の修行を具備した比丘によって、「戒において〔自己を〕確立して、智慧(慧・般若)を有する人が、心を〔修めながら〕、そして、智慧を修めながら〔云々〕」(Ch.0§1)と、ここにおいて、心を頭目として(※)釈示された禅定は、一切の行相によって修められたものと成り、また、その直後に、智慧が修められるべきであるが、しかしながら、その〔智慧〕は、〔詩偈においては〕極めて簡略に説示されたことから、識知するべくもまた、それだけでは為し易くはなく、ましてや、修めるべくも〔極めて為し難き〕ことから、それゆえに、その詳細を、さらに、修行の方法を、〔両者を〕見示するために、この、問いの列挙が有る。

 

 一 「何が、智慧であるのか」

 二 「どのような義(意味)によって、智慧であるのか」

 三 「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」

 四 「智慧は、どれだけの種類があるのか」

 五 「どのように、修められるべきであるのか」

 六 「何が、智慧の修行にとって、福利であるのか」〔と〕。

 

※ テキストには cittasīlena とあるが、VRI版により cittasīsena と読む。

 

422.

 

 一 「何が、智慧であるのか」(※)

 

※ テキストには見出しを欠くが、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい補足する(以下の同様箇所については注記を省略)。

 

§2  そこで、これが、答えとなる。「何が、智慧であるのか」とは──

 智慧は、多くの種類あるものであり、種々なる流儀あるものである。その全てを分明するために勉励しているとして、答えは、まさしく、そして、志向するところの義(目的)を遂行しないであろうし、さらに、より以上に〔心の〕散乱を等しく転起させるであろう。それゆえに、ここでは、志向するところだけに関して、〔わたしたちは〕説く。善なる心と結び付いた〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の知恵(知・智)が、智慧である。

 

423.

 

 二 「どのような義(意味)によって、智慧であるのか」

 

§3  「どのような義(意味)によって、智慧であるのか」とは──

 覚知すること(パジャーナナ)という義(意味)によって、「智慧(パンニャー)」。何が、この、「覚知すること」ということになるのか。表象することや識知することの行相と区別された、種々なる流儀〔の観点〕から知ることである。【437】なぜなら、表象〔作用〕()と識知〔作用〕()と智慧にとって、たとえ、知るという状態においては等しくあるも、表象〔作用〕は、「青である」「黄である」と、まさしく、対象(所縁)を表象するのみのものとして有り、「無常である」「苦痛である」「無我である」と、特相の理解(通達)に至り得させることができず、識知〔作用〕は、「青である」「黄である」と、そして、対象を知り、さらに、特相の理解に至り得させるが、いっぽう、邁進して〔聖者の〕道の出現に至り得させることができず、智慧は、〔前に〕説かれた方法を所以に、そして、対象を知り、さらに、特相の理解に至り得させ、かつまた、邁進して〔聖者の〕道の出現に至り得させるからである。

 

§4  まさに、すなわち、両替商の延べ板のうえに置かれた山積みの貨幣を、一者は〔いまだ〕覚慧が生じていない幼児、一者は村人、一者は両替商、という、三者の人が見ているとき、〔いまだ〕覚慧が生じていない幼児は、まさしく、諸々の貨幣の種々様々な色彩や長さや四角や円形の状態のみを知り、「これは、人間たちが使用し遍く受益するものであり、宝として等しく認証されたものである」と知ることがなく、村人は、種々様々な色彩等の状態を知り、さらに、「これは、人間たちが使用し遍く受益するものであり、宝として等しく認証されたものである」と〔知るが〕、いっぽう、「これは、本物である」「これは、偽物である」「これは、半分を真髄とする」と、この区分を知ることがなく、両替商は、それらの流儀を、全てもろともに知り、かつまた、知っている者として、貨幣を、眺め見てもまた知り、打たれた音声を聞いてもまた〔知り〕、臭いを嗅いでもまた〔知り〕、味を味わってもまた〔知り〕、手で保持してもまた〔知り〕、「何某という名の、あるいは、村で、あるいは、町で、あるいは、城市で、あるいは、山で、あるいは、川岸で、作られたものである」ともまた〔知り〕、「誰某の師匠によって作られたものである」ともまた(※)知るように、このように、同様に、この〔表象作用と識知作用と智慧の区分〕が知られるべきである。

 

※ テキストには katoti vi とあるが、VRI版により katoti pi と読む。

 

§5  まさに、表象〔作用〕は、青等を所以に対象の現起の行相のみを収め取ることから、〔いまだ〕覚慧が生じていない幼児のばあいの、貨幣を見ることのように有る。識知〔作用〕は、青等を所以に対象の〔現起の〕行相を収め取ることから、さらに、加えてまた、特相の理解へと得達させることから、村人のばあいの、貨幣を見ることのように有る。智慧は、青等を所以に対象の〔現起の〕行相を収め取って、さらに、特相の理解に至り得させて、そののち、加えてまた、〔聖者の〕道の出現に至り得させることから、両替商のばあいの、貨幣を見ることのように有る。それゆえに、すなわち、この、表象することや識知することの行相と区別された、種々なる流儀〔の観点〕から知ることが、これが、「覚知すること」と知られるべきである。まさに、これに関して、この〔言葉〕が説かれた。「覚知することという義(意味)によって、『智慧』」(§3)と。

 

§6  また、〔まさに〕その、この〔智慧〕は、そこにおいて、表象〔作用〕と識知〔作用〕があるとして、そこにおいて、一定して【438】有るのではない。また、すなわち、〔智慧が〕有るとき、そのときは、それらの諸法(性質)によって分解されることはなく、「これは、表象〔作用〕である」「これは、識知〔作用〕である」「これは、智慧である」と分解して得られるべき種々なる〔差異〕はなく、繊細にして見難きものとして〔有る〕。それで、尊者ナーガセーナは言った。「『大王よ、世尊によって為された為し難きことがあります』と。『尊き方よ、ナーガセーナよ、何が、世尊によって為された為し難きことですか』と。『大王よ、世尊によって為された為し難きことは、すなわち、諸々の形態なきものである、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)が、一つの対象にたいし転起しているとき、「これは、接触()である」「これは、感受()である」「これは、表象()である」「これは、思欲(:心の思い・意志)である」「これは、心である」〔と〕、〔差異の〕定置が告げ知らされたことです』」(ミリンダ・パンハp.87)と。

 

424.

 

 三 「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」

 

§7  また、「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」とは──

 ここにおいて、智慧は、諸々の法(性質)の自ずからの状態(自性:固有の性能)の理解を特相とし、諸々の法(性質)の自ずからの状態を隠蔽する迷妄()の暗黒の砕破を効用(機能・性行)とし、迷妄なき〔あり方〕(無痴)を現起(現状)とし、また、「〔心が〕定められた者は、事実のとおりに知り見る」(アングッタラ・ニカーヤ5p3)という言葉から、禅定が、それ(智慧)にとって、境処の拠点(直接原因)となる。

 

425.

 

 四 「智慧は、どれだけの種類があるのか」

 

§8  「智慧は、どれだけの種類があるのか」とは──

 

 (一)まずは、諸々の法(性質)の自ずからの状態の理解という特相によって、一種類のものとなる。

 (二)(1)世〔俗〕のもの(世間)と世〔俗〕を超えるもの(出世間)を所以に、二種類のものとなる。そのように、(2)煩悩を有するもの(有漏)と煩悩なきもの(無漏)等を所以に、〔二種類のものとなる〕。(3)名前(:精神的事象)〔を定め置くこと〕と形態(:物質的事象)を定め置くことを所以に、〔二種類のものとなる〕。(4)悦意()〔を共具したもの〕と放捨()を共具したものを所以に、〔二種類のものとなる〕。さらに、(5)見ること〔の境地〕と修めることの境地を所以に、〔二種類のものとなる〕。

 (三)(1)思弁〔によって作られるもの〕と所聞〔によって作られるもの〕と修行によって作られるものを所以に、三種類のものとなる。そのように、(2)微小なる〔対象〕と莫大なる〔対象〕と無量なる対象を所以に、〔三種類のものとなる〕。(3)入来〔の巧みな智〕と離去〔の巧みな智〕と手段(方便)の巧みな智を所以に、〔三種類のものとなる〕。さらに、(4)内なる固着等を所以に、〔三種類のものとなる〕。

 (四)(1)四つの真理(四諦)についての知恵を所以に、四種類のものとなる。さらに、(2)四つの融通無礙〔の智慧〕(四無礙解)を所以に、〔四種類のものとなる〕、と〔知られるべきである〕。

 

426.

 

 [(一)一種類のものとしての智慧]

 

§9  そこにおいて、一種類のものの部は、まさしく、義(意味)が明瞭である。

 

 [(二)二種類のものとしての智慧]

 

 二種類のものの部について。(1)(1―1)世〔俗〕の道と結び付いた〔智慧〕が、世〔俗〕の〔智慧〕である。(1―2)世〔俗〕を超える道と結び付いた〔智慧〕が、世〔俗〕を超える〔智慧〕である。ということで、このように、世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものを所以に、二種類のものとなる。

 

§10  (2)第二の二なるものについて。(2―1)諸々の煩悩の対象と成った〔智慧〕が、煩悩を有する〔智慧〕である。(2―2)それら〔の煩悩〕の対象ならざる〔智慧〕が、煩悩なき〔智慧〕である。また、この〔智慧〕は、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、世〔俗〕の〔智慧〕と世〔俗〕を超える〔智慧〕と成る。「煩悩と結び付き煩悩を有するもの」「煩悩と結び付かず煩悩なきもの」(ダンマ・サンガニp.3)という〔言葉〕等々についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。このように、煩悩を有するものと煩悩なきもの等を所以に、二種類のものとなる。

 

§11  (3)第三の二なるものについて。〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を始めることを欲する者の、(3―1)すなわち、四つの形態なき範疇(受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)を定め置くことにおける智慧──これが、名前()を定め置く智慧である。【439】(3―2)すなわち、形態の範疇(色蘊)を定め置くことにおける智慧──これが、形態()を定め置く智慧である。ということで、このように、名前〔を定め置くこと〕と形態を定め置くことを所以に、二種類のものとなる。

 

§12  (4)第四の二なるものについて。(4―1)欲望の行境(欲界)の二つの善なる心(悦意を共具し知恵と結び付き形成作用なき心・悦意を共具し知恵と結び付き形成作用を有する心:§83)、さらに、五なる〔瞑想〕の方法のばあいの四つの瞑想(五禅における最初の四つの瞑想)の(※)十六の道の心(初禅・第二禅・第三禅・第四禅それぞれの預流道心・一来道心・不還道心・阿羅漢道心の計十六道心)における智慧が、悦意を共具した〔智慧〕である。(4―2)欲望の行境の二つの善なる心(放捨を共具し知恵と結び付き形成作用なき心・放捨を共具し知恵と結び付き形成作用を有する心:§83)、さらに、第五の瞑想の四つの道の心(第五禅の預流道心・一来道心・不還道心・阿羅漢道心)における智慧が、放捨を共具した〔智慧〕である。ということで、このように、悦意〔を共具したもの〕と放捨を共具したものを所以に、二種類のものとなる。

 

※ テキストには catutthajjhānikesu とあるが、VRI版により catukkajjhānikesu と読む。

 

§13  (5)第五の二なるものについて。(5―1)第一の道(預流道)の智慧が、見ることの境地〔の智慧〕である。(5―2)残りの三つの道(一来道・不還道・阿羅漢道)の智慧が、修めることの境地〔の智慧〕である。ということで、このように、見ること〔の境地〕と修めることの境地を所以に、二種類のものとなる。

 

427.

 

 [(三)三種類のものとしての智慧]

 

§14  諸々の三なるもののうち、(1)第一の三なるものについて。(1―1)他者から聞かずして獲得された智慧が、自己の思弁を所以に完遂されたことから、思弁によって作られる〔智慧〕である。(1―2)他者から聞いて獲得された智慧が、所聞を所以に完遂されたことから、所聞によって作られる〔智慧〕である。(1―3)いかようにも、そのように、修行を所以に完遂され、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)に至り得た智慧が、修行によって作られる〔智慧〕である。そして、このことが、〔聖典において〕説かれた。「そこにおいて、どのようなものが、思弁によって作られる智慧であるのか。あるいは、諸々の〔心の〕制止(瑜伽:精神集中)によって調整された〔加工〕作業の場所〔である工場等々〕において、あるいは、諸々の〔心の〕制止によって調整された〔工芸〕技術の場所〔である工房等々〕において、あるいは、諸々の〔心の〕制止によって調整された学術〔習得〕の拠点〔である学堂等々〕において、あるいは、行為()を自らのものとする〔智慧〕を、あるいは、真理()に随順する〔智慧〕を──あるいは、『形態()は、無常である』と……『感受〔作用〕()は……『表象〔作用〕()は……『諸々の形成〔作用〕()は……あるいは、『識知〔作用〕()は、無常である』と──すなわち、このような形態に随順するものとしての、受認(信受)、見解、嗜好(選択)、思想、観測(判断)、法(真理)の納得による受認を、他者から聞かずして〔自ら理解し〕獲得する。これが、『思弁によって作られる智慧』〔と〕説かれる。……略……聞いて獲得する。これが、『所聞によって作られる智慧』〔と〕説かれる。入定者の智慧は、全てもろともに、修行によって作られる智慧である」(ヴィバンガp.324-5)と。このように、思弁〔によって作られるもの〕と所聞〔によって作られるもの〕と修行によって作られるものを所以に、三種類のものとなる。

 

§15  (2)第二の三なるものについて。(2―1)欲望の行境(欲界)の諸法(性質)を対象として転起された智慧が、微小なる対象ある〔智慧〕である。(2―2)形態の行境(色界)と形態なき行境(無色界)〔の諸法〕を対象として転起された〔智慧〕が、莫大なる対象ある〔智慧〕である。それが、世〔俗〕の〔あるがままの〕観察となる。(2―3)涅槃〔の境処〕を対象として転起された〔智慧〕が、無量なる対象ある〔智慧〕である。それが、世〔俗〕を超える〔あるがままの〕観察となる。ということで、このように、微小なる〔対象〕と莫大なる〔対象〕と無量なる対象を所以に、三種類のものとなる。

 

§16  (3)第三の三なるものについて。(3―1)「入来」というのは、増大のこと。それは、義(利益)ならざるものの退失〔の観点〕から、さらに、義(利益)の生起〔の観点〕から、二種類のものとなる。そこにおいて、巧みな智が、「入来の巧みな智」〔ということになる〕。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、入来の巧みな智であるのか。これらの諸法(性質)に意を為している者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)は生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)は捨棄される。また、あるいは、これらの諸法(性質)に意を為している者には、【440】まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)は生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)は、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起する。すなわち、そこにおいて、智慧、覚知、[判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、]迷妄なき〔あり方〕(無痴)、法(真理)の判別(択法)、正しい見解(正見)としてあるもの。これが、『入来の巧みな智』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.325-6)と。

 

§17  (3―2)また、「離去」とは、増大ならざること。それもまた、そして、義(利益)の退失〔の観点〕から、さらに、義(利益)ならざるものの生起〔の観点〕から、二種類のものとなる。そこにおいて、巧みな智が、「離去の巧みな智」〔ということになる〕。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、離去の巧みな智であるのか。これらの諸法(性質)に意を為している者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)は生起せず(※)、[さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)は止滅する。また、あるいは、これらの諸法(性質)に意を為している者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)は生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)は、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起する。すなわち、そこにおいて、智慧、覚知……略……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解としてあるもの。これが、離去の巧みな智と説かれる]」(ヴィバンガp.326)等と。

 

※ テキストには uppajjantī とあるが、VRI版により na uppajjantī と読む。

 

§18  (3―3)また、一切所において、それらそれらの諸法(性質)の完遂の契機となる諸々の手段(方便)について、〔まさに〕その、瞬間に転起され即座に生起する巧みな智が、「手段の巧みな智」ということになる。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこで、手段の智慧は、全てもろともに、手段の巧みな智である」(ヴィバンガp.326)と。このように、入来〔の巧みな智〕と離去〔の巧みな智〕と手段の巧みな智を所以に、三種類のものとなる。

 

§19  (4)第四の三なるものについて。(4―1)自己の〔五つの心身を構成する〕範疇()を収め取って、勉励された〔あるがままの〕観察の智慧が、内なる固着(内的事象の把持把握)〔の智慧〕である。(4―2)他者の〔五つの心身を構成する〕範疇を〔収め取って〕、あるいは、外にあるもので〔生命の〕機能()なきものと連結された形態(非有情的事象・物質)を収め取って、勉励された〔あるがままの観察の智慧〕が、外なる固着(外的事象の把持把握)〔の智慧〕である。(4―3)〔内と外の〕両者を収め取って、勉励された〔あるがままの観察の智慧〕が、内なると外なる固着〔の智慧〕である。ということで、このように、内なる固着等を所以に、三種類のものとなる。

 

428.

 

 [(四)四種類のものとしての智慧]

 

§20  諸々の四なるもののうち、(1)第一の四なるものについて。(1―1)苦しみという真理(苦諦)を対象として転起された知恵が、苦しみについての知恵である。(1―2)苦しみの集起を対象として転起された知恵が、苦しみの集起についての知恵である。(1―3)苦しみの止滅を対象として転起された知恵が、苦しみの止滅についての知恵である。(1―4)苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を対象として転起された知恵が、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵である。ということで、このように、四つの真理(四諦)についての知恵を所以に、四種類のものとなる。

 

§21  (2)第二の四なるものについて。「四つの融通無礙〔の智慧〕(四無礙解)」というのは、義(意味)等々について細別に至った四つの知恵である。そして、このことが、〔聖典において〕説かれた。「(2―1)義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり、(2―2)法(教え)についての知恵が、法(教え)の融通無礙となり、(2―3)そこにおける法(教え)の言語と話法についての知恵が、言語の融通無礙となり、(2―4)諸々の知恵についての知恵が、応答の融通無礙となる」(ヴィバンガp.293, p.331)と。

 

§22  (2―1)そこにおいて、「義(意味)」とは、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、これは、因の果の同義語である。なぜなら、因の果は、すなわち、因に従い行くことで、推進され、到達され、得達されることから、それゆえに、「義(意味)」と説かれるからである。いっぽう、細別〔の観点〕から〔説くなら〕、それが何であれ縁によって発生したもの、【441】涅槃、語られたものの義(意味)、報い(異熟・果報)〔としての善悪が説き明かされない心〕、〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされない心〕(唯作:行為の報いを生まない善悪無記の心)、という、これらの五つの法(性質)が、義(意味)である、と知られるべきである。その義(意味)を(※)綿密に注視している者の、その義(意味)について細別に至った知恵が、義(意味)の融通無礙である。

 

※ テキストには ettha とあるが、VRI版により attha と読む。

 

§23  (2―2)「法(教え)」とは、また、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、これは、縁の同義語である。なぜなら、縁は、すなわち、そのもの、そのものを、安置し、あるいは、転起させ、あるいは、得達することを与えることから、それゆえに、「法(教え)」と説かれるからである。いっぽう、細別〔の観点〕から〔説くなら〕、それが何であれ果を発現するもの、因、聖者の道、語られた善なるもの、〔語られた〕善ならざるもの、という、これらの五つの法(教え)が、法(教え)である、と知られるべきである。その法(教え)を綿密に注視している者の、その法(教え)について細別に至った知恵が、法(教え)の融通無礙である。

 

§24  まさに、まさしく、この義(意味)が、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、「苦しみについての知恵が、義(意味)の融通無礙である。苦しみの集起についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。[苦しみの止滅についての知恵が、義(意味)の融通無礙である。苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。]……略……。因についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。因の果についての知恵が、義(意味)の融通無礙である。……略……。それらの諸法(性質)が、生じ、成り、産出し、発現し、結実し、出現したなら、これらの諸法(性質)についての知恵が、義(意味)の融通無礙である。その法(性質)から、それらの諸法(性質)が、生じ、成り、産出し、発現し、結実し(※)、出現したなら、それらの諸法(性質)についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。……略……。老と死についての知恵が、義(意味)の融通無礙である。老と死の集起についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。[老と死の止滅についての知恵が、義(意味)の融通無礙である。老と死の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。……略……。生についての知恵が……。生存についての知恵が……。執取についての知恵が……。渇愛についての知恵が……。感受についての知恵が……。接触についての知恵が……。六つの〔認識の〕場所についての知恵が……。名前と形態についての知恵が……。識知〔作用〕についての知恵が……。諸々の形成〔作用〕についての知恵が、義(意味)の融通無礙である。諸々の形成〔作用〕の集起についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。]諸々の形成〔作用〕の止滅についての知恵が、義(意味)の融通無礙である。諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。……略……。ここに、比丘が、法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、[授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、]問答(ヴェーダッラ)を──知り、これが、『法(教え)の融通無礙』〔と〕説かれる。彼が、まさしく、その〔語られたもの〕、その語られたものの、義(意味)を──『これが、この語られたものの義(意味)である』と──知り、これが、『義(意味)の融通無礙』〔と〕説かれる。……略……。どのようなものが、諸々の善なる法(性質)であるのか。その時点において、欲望の行境の善なる心が、生起したものと成るなら……略……。これらが、諸々の善なる法(性質)である。これらの諸法(性質)についての知恵が、法(教え)の融通無礙である。それら〔の諸法〕の報いについての知恵が、義(意味)の融通無礙である」(ヴィバンガp.293-5)という〔言葉〕等の方法によって区分して、見示された。

 

※ テキストには abhinibbattā とあるが、VRI版により nibbattā abhinibbattā と読む。

 

§25  (2―3)「そこにおける法(教え)の言語と話法についての知恵」とは、〔まさに〕その、そして、義(意味)における、さらに、法(教え)における、すなわち、自ずからの状態の言語(文法的に正しい言語)として、異議申し立てのない語用が〔法の言語であり〕、その〔法〕の、その話法として、語られ、発話されたものについて──〔まさに〕その、語られ、談じられ、発話されたものを、まさしく、聞いて、「これは、自ずからの状態の言語である」「これは、自ずからの状態の言語ではない」と、このように、了解された法(教え)の言語について、〔まさに〕その、自ずからの状態の言語について、一切の有情たちにとって【442】根元の話し言葉であるマーガディカー(マガダ語)について──細別に至った知恵が、言語の融通無礙である。なぜなら、言語の融通無礙に至り得た者は、「パッソー(接触である)」「ヴェーダナー(感受である)」という、このような〔正しい語用の〕言葉等を聞いて、「これは、自ずからの状態の言語である(文法的に正しい)」と知り、また、「パッサー」「ヴェーダノー」という(※)、このような〔間違った語用の言葉〕等のものを〔聞いて〕、「これは、自ずからの状態の言語ではない(文法的に正しくない)」と〔知る〕からである。

 

※ テキストには Phassa-vedanā ti とあるが、VRI版により Phassā vedano ti と読む。

 

§26  (2―4)「諸々の知恵についての知恵」とは、一切所において、知恵を対象と為して綿密に注視している者の、知恵を対象とする知恵である。あるいは、〔前に〕説かれたとおりのそれらの知恵について、〔その〕有する境涯(作用範囲)と作用等を所以に、詳細〔の観点〕から〔綿密に注視する〕知恵である。〔この知恵が〕応答の融通無礙である、という義(意味)である。

 

429.

 

§27  そして、これらの融通無礙〔の智慧〕は、四つもろともに、二つの境位について細別に至る(四つそれぞれが二つに分別される)。そして、〔いまだ〕学びある境地(有学地)であり、さらに、〔もはや〕学ぶことなき境地(無学地)である。そこにおいて、至高の弟子たちには、さらに、偉大なる弟子たちには、〔もはや〕学ぶことなき境地について細別に至った〔融通無礙の智慧〕がある。アーナンダ長老やチッタ家長(居士)やダンミカ在俗信者(優婆塞)やウパーリ家長やクッジュッタラー女性在俗信者(優婆夷)等々には、〔いまだ〕学びある境地について〔細別に至った融通無礙の智慧がある〕。

 

§28  そして、このように、二つの境地について細別に至りつつもまた、これら〔の四つの融通無礙の智慧〕は、到達、学得、聴聞、遍問、さらに、過去(過去世)における〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)、という、これらの五つの行相によって、清潔なる〔状態〕と成る(純粋無雑となる)。そこにおいて、「到達」というのは、阿羅漢の資質に至り得ること。「学得」というのは、覚者の言葉を遍く学得すること。「聴聞」というのは、謹んで義(目的)と為して法(教え)を聞くこと。「遍問」というのは、聖典やアッタカター(注釈書)等々における難解な句や義(意味)の句の判別を言説すること。「過去における〔心の〕制止」というのは、過去の覚者たちの教えにおいて〔瞑想の修行に〕反復の状態によって、随順する〔知恵〕(Ch.21§129)や〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕(Ch.22§1)の近くに至るまで、それまでのあいだ、〔あるがままの〕観察に専念すること。

 

§29  他の者たちが言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「過去における〔心の〕制止(瞑想修行)、多聞(聴聞)、そして、地域の話し言葉、聖教(阿含)、遍問、到達、そのように、導師への等しき依拠、まさしく、そして、朋友の得達、という、〔これらの〕融通無礙〔の智慧〕の縁がある」と。

 

§30  そこにおいて、「過去における〔心の〕制止」とは、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(上述のとおりである)。「多聞」というのは、それらそれらの、そして、学問に、さらに、〔工芸〕技術の場所に、巧みな智あること。「地域の話し言葉」というのは、百一〔の話し言葉〕の語用に巧みな智あること。また、特に、マーガディカー(マガダ語)〔の語用〕に巧みな智あること。「聖教」というのは、もしくは、〔経典のなかの〕喩えの章(『ダンマパダ』第一章「ヤマカ・ヴァッガ」あるいは『マッジマ・ニカーヤ』根本五十経篇の第四章「マハー・ヤマカ・ヴァッガ」か第五章「チューラ・ヤマカ・ヴァッガ」)ほどであろうが、覚者の言葉を遍く学得すること。「遍問」というのは、一つの詩偈についてであろうが、義(意味)の判別を尋ねること。「到達」というのは、あるいは、預流たること〔に至り得ること〕……略……あるいは、阿羅漢の資質〔に至り得ること〕。「導師への等しき依拠」というのは、所聞と弁才多き導師たちの現前に住すること。「朋友の得達」というのは、まさしく、そのような形態の朋友たちを獲得すること、と〔知られるべきである〕。

 

§31  【443】そこにおいて、そして、覚者たちは、さらに、独覚たちも、まさしく、そして、過去における〔心の〕制止に〔依拠して〕、さらに、到達に依拠して、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕に至り得る。弟子たちは、これらの(※)契機に、全てもろともに〔依拠して、四つの融通無礙の智慧に至り得る〕。そして、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕に至り得るための〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)の修行への専念は、単独のものとしては、まさに、存在しない。いっぽう、〔いまだ〕学びある者(有学)たちには、〔いまだ〕学びある者の果の解脱の後に、〔もはや〕学ぶことなき者(無学)たちには、〔もはや〕学ぶことなき者の果の解脱の後に、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕に至り得ることが有る。なぜなら、如来たちの十の力(十力:マッジマ・ニカーヤ1p.69-71)のように、聖者たちには、まさしく、聖者の果によって、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕が実現するからである。ということで、これらの〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕に関して説かれた。「四つの融通無礙〔の智慧〕を所以に、四種類のものとなる」と。

 

※ テキストには ekāni とあるが、VRI版により etāni と読む。

 

430.

 

 五 「どのように、修められるべきであるのか」

 

§32  また、「どのように、修められるべきであるのか」とは──

 ここにおいて、すなわち、この智慧には、範疇()、〔認識の〕場所()、界域()、機能()、真理()、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)等の細別ある諸々の法(性質)の境地があり、まさしく、そして、戒の清浄、さらに、心の清浄(定心)、という、これらの二つの清浄が〔智慧の〕根元としてあり、見解の清浄、疑いの超渡の清浄、道と道ならざるものの知見の清浄(※)、〔実践の〕道の知見の清浄、知見の清浄、という、これらの五つの清浄の総体があることから、それゆえに、それらの〔智慧の〕境地として有る諸々の法(性質)について(※※)、収取と遍問を所以に知恵の精通を為して、〔智慧の〕根元として有る二つの清浄を成就させて、〔智慧の〕総体として有る五つの清浄を成就させつつ、〔智慧が〕修められるべきである。ここにおいて、これが、〔智慧の修行の方法の〕簡略〔の説示〕となる。

 

※ テキストには maggañāadassanavisuddhi とあるが、VRI版により maggāmaggañāadassanavisuddhi と読む。

※※ テキストには bhūmīsu tesu maggesu とあるが、VRI版により bhūmibhūtesu dhammesu と読む。

 

431.

 

 また、これが、〔智慧の修行の方法の〕詳細となる。

 

§33  すなわち、まずは、〔前に〕説かれた、「範疇、〔認識の〕場所、界域、機能、真理、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕等の細別ある諸々の法(性質)の境地があり」とは、ここにおいて、「諸々の範疇()」とは(※)、(1)形態の範疇(色蘊)、(2)感受〔作用〕の範疇(受蘊)、(3)表象〔作用〕の範疇(想蘊)、(4)諸々の形成〔作用〕の範疇(行蘊)、(5)識知〔作用〕の範疇(識蘊)、という、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)である。

 

※ テキストには khandhā とあるが、VRI版により khandhā ti と読む。

 

432.

 

 1 形態の範疇

 

§34  そこにおいて、それが何であれ、寒さ等々によって壊れ崩れること(ルッパナ)を特相とする法(性質)の類は、その全てが、〔それを〕一つに為して、形態(:ルーパ)の範疇である、と知られるべきである。〔まさに〕その、この〔形態の範疇〕は、壊れ崩れることという特相によって、一種類のものともまたなり、(一)〔四つの大いなる〕元素と(二)〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成されたもの〕という細別〔の観点〕から、二種類のものとなる。

 

§35  (一)そこにおいて、〔四つの大いなる〕元素としての形態(大種色)は、地の界域、水の界域、火の界域、風の界域、という、四種類のものとなる。それらの特相と効用(機能・性行)と現起(現状)は、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置〔についての釈示〕において説かれた(Ch.11§93)。また、境処の拠点(直接原因)〔の観点〕から〔説くなら〕、それらは、全てもろともに、残りの三つの界域を境処の拠点とする。

 

§36  【444】(二)〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態(所造色)は、(1)眼、(2)耳、(3)鼻、(4)舌、(5)身、(6)形態、(7)音声、(8)臭気、(9)味感、(10)女の機能、(11)男の機能、(12)生命の機能、(13)心臓の基盤、(14)身体の表示、(15)言葉の表示、(16)虚空の界域、(17)形態の軽快性、(18)形態の柔和性、(19)形態の行為適合性、(20)形態の蓄積、(21)形態の相続、(22)形態の老化性、(23)形態の無常性、(24)物質としての食、という、二十四種類のものとなる。

 

433.

 

§37  (1)そこにおいて、眼は、形態との遭遇に値する元素の〔機能の〕澄浄(形態を対象とする感官機能)を特相とし、あるいは、見ることを欲することを因縁とする行為から現起する元素の〔機能の〕澄浄(形態にたいする知覚欲求に起因して作用する感官機能)を特相とし、諸々の形態のうちに〔眼の識知作用を〕牽引することを効用(機能・性行)とし、眼の識知〔作用〕(眼識)を保持する状態を現起(現状)とし、見ることを欲することを因縁とする行為から生じる〔四つの大いなる〕元素(地・水・火・風)を境処の拠点(直接原因)とする。

 

§38  (2)耳は、音声との遭遇に値する元素の〔機能の〕澄浄(音声を対象とする感官機能)を特相とし、あるいは、聞くことを欲することを因縁とする行為から現起する元素の〔機能の〕澄浄(音声にたいする知覚欲求に起因して作用する感官機能)を特相とし、諸々の音声のうちに〔耳の識知作用を〕牽引することを効用(機能・性行)とし、耳の識知〔作用〕(耳識)を保持する状態を現起(現状)とし、聞くことを欲することを因縁とする行為から生じる〔四つの大いなる〕元素(地・水・火・風)を境処の拠点(直接原因)とする。

 

§39  (3)鼻は、臭気との遭遇に値する元素の〔機能の〕澄浄(臭気を対象とする感官機能)を特相とし、あるいは、嗅ぐことを欲することを因縁とする行為から現起する元素の〔機能の〕澄浄(臭気にたいする知覚欲求に起因して作用する感官機能)を特相とし、諸々の臭気のうちに〔鼻の識知作用を〕牽引することを効用(機能・性行)とし、鼻の識知〔作用〕(鼻識)を保持する状態を現起(現状)とし、嗅ぐことを欲することを因縁とする行為から生じる〔四つの大いなる〕元素(地・水・火・風)を境処の拠点(直接原因)とする。

 

§40  (4)舌は、味感との遭遇に値する元素の〔機能の〕澄浄(味感を対象とする感官機能)を特相とし、あるいは、味わうことを欲することを因縁とする行為から現起する元素の〔機能の〕澄浄(味感にたいする知覚欲求に起因して作用する感官機能)を特相とし、諸々の味感のうちに〔舌の識知作用を〕牽引することを効用(機能・性行)とし、舌の識知〔作用〕(舌識)を保持する状態を現起(現状)とし、味わうことを欲することを因縁とする行為から生じる〔四つの大いなる〕元素(地・水・火・風)を境処の拠点(直接原因)とする。

 

§41  (5)身は、感触(所触)との遭遇に値する元素の〔機能の〕澄浄(感触を対象とする感官機能)を特相とし、あるいは、接触することを欲することを因縁とする行為から現起する元素の〔機能の〕澄浄(感触にたいする知覚欲求に起因して作用する感官機能)を特相とし、諸々の感触のうちに〔身の識知作用を〕牽引することを効用(機能・性行)とし、身の識知〔作用〕(身識)を保持する状態を現起(現状)とし、接触することを欲することを因縁とする行為から生じる〔四つの大いなる〕元素(地・水・火・風)を境処の拠点(直接原因)とする。

 

434.

 

§42  また、或る者たちは、「眼は、火の増上ある諸元素の〔機能の〕澄浄であり、耳と鼻と舌は、風と地と水の増上ある諸元素の〔機能の〕澄浄であり、身は、〔四つの元素の〕全てもろともの〔機能の〕澄浄である」と説く。他の者たちは、「眼は、火の増上ある〔諸元素〕の〔機能の〕澄浄であり、耳と鼻と舌と身は、開空(虚空)と風と水と地の増上ある〔諸元素〕の〔機能の澄浄である〕」と説く。彼らは説かれるべきである。「〔基盤となる〕経を持参せよ」と。確実に、まさしく、経を、〔彼らは〕見ないであろう。

 

§43  また、或る者たちは、ここにおいて、「〔眼等々は〕火等々の諸徳(性質)がある形態等々に資助されて〔形成された〕状態あることから」と、〔自説の〕契機(根拠)を見示する。彼らは説かれるべきである。「また、誰が、このように言ったのか。『形態等々は、火等々の諸徳(性質)がある』【445】と。なぜなら、〔互いに分離されず〕分解不能のものとしてある諸元素について、『これは、この〔元素〕の徳がある』『これは、この〔元素〕の徳がある』と説くことはできないからである」と。

 

§44  そこで、また、〔彼らは〕説くであろう。「すなわち、それらそれらの諸要素における、それぞれの元素の増上性によって(何らかの性質が他の諸性質よりも増大し優勢であることから)、地等々には保持等々の諸作用があることを〔あなたたちが〕求める(主張し承認する)ように、このように、火等々の増上ある諸要素において、形態等々の増上ある状態を見ることから、『形態等々は、それら〔の火等々〕の諸徳がある』〔という〕、このことが求められるべきである(承認されるべきである)」と。彼らは説かれるべきである。「〔わたしたちは〕求めるであろう。『もしくは、水の増上ある香水の香りよりも、地の増上ある木綿における香りがより増上あるものとして存することになり、さらに、火の増上ある熱水の色よりも、冷水の色が遍く衰退することになるなら』〔と〕。

 

§45  また、すなわち、このことは、両者ともどもに存在しないことから、それゆえに、これらの依所たる諸元素の差異によって〔眼等々の差異を〕想定することを、このことを、〔あなたたちは〕捨棄するがよい。すなわち、一つの集合としては差異なくあるもまた、諸元素には、形態と味感等々が互いに他と相同ならざるものとして有るように、このように、他なる差異の契機が見出されずにあるもまた、眼の〔機能の〕澄浄(眼浄:視覚機能)等々は、〔互いに他と相同ならざるものとして有る〕」と。このことが収め取られるべきである。「また、何が、すなわち、その、互いに他と共通ならざるものであるのか」と〔問うなら〕、「まさしく、行為()が、それらのものの差異の契機となる」〔と答える〕。それゆえに、行為の差異から、これらのものには差異がある──元素の差異から、ではなく。なぜなら、元素の差異が存しているなら、まさしく、〔感官の機能の〕澄浄は生起しないからである。「まさに、〔感官の機能の〕澄浄は、諸々の等しきものにある──諸々の等しからざるものに、ではなく」と、過去の方たちは〔言った〕。

 

435.

 

§46  そして、このように、行為の差異から差異がある、これらのもののうち、眼と耳は(※)、自己の依所(眼根・耳根)に付着していない依所の境域においてだけ、識知〔作用〕の因あることから、得達されていない境域(接触なき対象)を収め取る〔感官の機能〕となり、鼻と舌と身は、まさしく、そして、依所〔との付着〕を所以に、さらに、自ら、自己の依所(鼻根・舌根・身根)に付着している境域においてだけ、識知〔作用〕の因あることから、得達された境域(接触ある対象)を収め取る〔感官の機能〕となる。

 

※ テキストには etesu ca cakkhusotādīni とあるが、VRI版により etesu cakkhusotāni と読む。

 

436.

 

§47  そして、ここにおいて、眼〔の機能〕は、すなわち、この、青い睫毛に取り囲まれたもので、黒白〔濃淡〕の円輪が種々様々にあり、青蓮の花弁の似姿をした、世において「眼」と説かれる、〔まさに〕その、要素を有するものとしての眼(眼球全体)の、白い円輪に取り巻かれた黒い円輪の中央において──対面して立っている者たちの肉体の外貌が生起する場所において、七つの綿の膜(灯芯)に注がれた油の綿の膜のような七つの眼膜に遍充して──保持と沐浴と装飾と扇風という〔四つの〕作用をする四者の乳母によって〔守られた〕士族の童子のように、保持(地)と結縛(水)と遍熱(火)と浮遊(風)の作用ある四つの界域によって資益が為され、季節と心と食によって保全されつつ、寿命によって警護されながら、色艶や臭気や味感等々によって囲繞された、量〔の観点〕からは虱の頭ほどのものにして、眼の識知〔作用〕等々のために、【446】〔状況に応じて〕分のままに〔認識の〕基盤と門(通路)たる状態を遂行しつつ、止住する。

 

§48  そして、このこともまた、法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)によって説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔まさに〕その、眼の〔機能の〕澄浄によって、諸々の形態を随観する。これは、微小にして繊細なるもの、虱の頭の喩えあるものである」(アッタサーリニーp.307)と。

 

§49  耳〔の機能〕は、要素を有するものとしての耳(耳の全体)の穴の内の、薄い赤毛が蓄積している、指袋の外貌がある部分において、〔前に〕説かれた流儀の〔四つの〕界域によって資益が為され、季節と心と食によって保全されつつ、寿命によって警護されながら、色艶等々によって囲繞されたものにして、耳の識知〔作用〕等々のために、〔状況に応じて〕分のままに〔認識の〕基盤と門たる状態を遂行しつつ、止住する。

 

§50  鼻〔の機能〕は、要素を有するものとしての鼻(鼻の全体)の穴の内の、山羊の足の外貌がある部分において、〔前に〕説かれたとおりの流儀の資益と保全と警護と囲繞あるものにして、鼻の識知〔作用〕等々のために、〔状況に応じて〕分のままに〔認識の〕基盤と門たる状態を遂行しつつ、止住する。

 

§51  舌〔の機能〕は、要素を有するものとしての舌(舌の全体)の中央の上の、青蓮の花弁の先端の外貌がある部分において、〔前に〕説かれたとおりの流儀の資益と保全と警護と囲繞あるものにして、舌の識知〔作用〕等々のために、〔状況に応じて〕分のままに〔認識の〕基盤と門たる状態を遂行しつつ、止住する。

 

§52  また、身〔の機能〕は、この身体において、執取された形態(行為から生じる形態)が、まさに、存在する、そのかぎりの一切所において、木綿の膜(灯芯)における脂質のように、まさしく、〔前に〕説かれた流儀の資益と保全と警護と囲繞あるものと成って、身の識知〔作用〕等々のために、〔状況に応じて〕分のままに〔認識の〕基盤と門たる状態を遂行しつつ、止住する。

 

§53  そして、蛇や鰐や鳥や山犬や野狐(ジャッカル)たちが、「蟻塚」や「水」や「虚空」や「村」や「墓所」と名づけられた自らの境涯(各自の餌場)に向かい行くものとしてあるように、これらの眼等々は、まさしく、形態等の自らの境涯(各自の作用範囲)に向かい行くものとしてある、と見られるべきである。

 

437.

 

§54  (6)それより他の形態等々について。形態(:眼の対象)は、眼を打破すること(刺激し触発すること)を特相とし、眼の識知〔作用〕の境域(対象)たる状態を効用(機能・性行)とし、まさしく、その〔眼の識知作用〕の境涯(作用範囲)たる〔状態〕を現起(現状)とし、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)を境処の拠点(直接原因)とする。さらに、すなわち、この〔形態〕のように、そのように、一切の〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態(所造色)もまたある(同様である)。また、そこにおいては、〔種々なる〕差異が存在するが、それについて、〔わたしたちは〕説くであろう。〔まさに〕その、この〔形態〕は、青、黄、という〔あり方〕等を所以に、無数の種類のものとなる。

 

§55  (7)音声(:耳の対象)は、耳を打破すること(刺激し触発すること)を特相とし、耳の識知〔作用〕の境域たる状態を効用(機能・性行)とし、まさしく、その〔耳の識知作用〕の、境涯たる〔状態〕を現起(現状)とし、太鼓の音声、小鼓の音声、という〔あり方〕等の方法によって、無数の種類のものとなる。

 

§56  【447】(8)臭気(:鼻の対象)は、鼻を打破すること(刺激し触発すること)を特相とし、鼻の識知〔作用〕の境域たる状態を効用(機能・性行)とし、まさしく、その〔鼻の識知作用〕の、境涯たる〔状態〕を現起(現状)とし、根の臭気、芯の臭気、という〔あり方〕等の方法によって、無数の種類のものとなる。

 

§57  (9)味感(:舌の対象)は、舌を打破すること(刺激し触発すること)を特相とし、舌の識知〔作用〕の境域たる状態を効用(機能・性行)とし、まさしく、その〔舌の識知作用〕の、境涯たる〔状態〕を現起(現状)とし、根の味感、幹の味感、という〔あり方〕等の方法によって、無数の種類のものとなる。

 

438.

 

§58  (10)女の機能(女根)は、女たる状態を特相とし、「女である」と明示することを効用(機能・性行)とし、女の徴表と形相と所作と営為あるための契機たる状態を現起(現状)とする。

 (11)男の機能(男根)は、男たる状態を特相とし、「男である」と明示することを効用(機能・性行)とし、男の徴表と形相と所作と営為あるための契機たる状態を現起(現状)とする。

 その両者ともどもに、身の〔機能の〕澄浄(触覚機能)のように、まさしく、全肉体に遍充するものとなる。しかしながら、あるいは、「身の〔機能の〕澄浄が止住している空間に止住する」と、あるいは、「〔身の機能の澄浄が〕止住していない空間に止住する」と、かくのごとく説かれるべき〔状態〕を惹起せず、形態と味感等々のように、互いに他と混同する〔状態〕は存在しない(混在することはない)。

 

439.

 

§59  (12)生命の機能(命根)は、共に生じる形態(倶生色)を警護することを特相とし、それら〔の形態〕を転起させることを効用(機能・性行)とし、まさしく、それら〔の形態〕を据置することを現起(現状)とし、〔生命の機能によって〕保持されるべき〔四つの大いなる〕元素(地・水・火・風)を境処の拠点(直接原因)とする。そして、たとえ、〔共に生じる形態を〕警護することを特相とする等の規定が〔生命の機能に〕存しているとして、まさしく、〔共に生じる形態が〕存在する瞬間において〔のみ〕、それ(生命の機能)は、〔それらの〕共に生じる形態を警護する──水が青蓮等々を〔守る〕ように。さらに、たとえ、〔それらの共に生じる形態が〕自らの縁なるままに生起した諸々の法(性質)であるとして、〔それは、それらの共に生じる形態を〕警護する──乳母が童子を〔守る〕ように。そして、まさしく、〔そこにおいて〕転起させられた諸々の法(性質)との連結あることで、自ら、転起する──船頭が〔舟と連結して操船する〕ように。〔身体の〕滅壊より以後は、そして、自己の、さらに、転起させられるべき〔それらの共に生じる形態〕の、〔両者の〕状態なきことから、〔もはや〕転起することはない。〔身体の〕滅壊の瞬間において、自ら破壊されることから、〔滅壊より以後は、それらの共に生じる形態を〕据置することはない──尽きつつある灯芯の脂質が〔尽きた瞬間において〕、灯火の炎が〔消える〕ように。しかしながら、〔前に〕説かれたような瞬間においては、その〔形態〕その〔形態〕のために〔警護すること等を〕遂行することから、警護と転起と据置の威力の絶無ならざることが見られるべきである。

 

440.

 

§60  (13)心臓の基盤(心基)は、意の界域(意界)と意の識知〔作用〕の界域(意識界)の依所たることを特相とし、まさしく、それらの界域を保持することを効用(機能・性行)とし、〔それらの界域を〕運搬することを現起(現状)とする。心臓の内にあり、身体の在り方についての気づきの言説において説かれた流儀の血に依拠して〔見出され〕(Ch.8§111)、保持等の作用ある〔四つの大いなる〕元素(地・水・火・風)によって資益が為され、季節と心と食によって保全されつつ、寿命によって警護されながら、まさしく、そして、意の界域と意の識知〔作用〕の界域のために、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)のために、基盤たる状態を遂行しつつ、止住する。

 

441.

 

§61  (14)身体の表示は、前進〔や後進〕等を転起させる心から現起する風の界域において、共に生じる形態の身体を強化し保持し動かすことにとっての【448】縁となる、行相の変異にして、〔自己の〕志向するところ(意志)を明示することを効用(機能・性行)とし、身体の振動の因たる状態を現起(現状)とし、心から現起する風の界域を境処の拠点(直接原因)とする。また、〔まさに〕その、この〔身体の表示〕は、身体の振動によって〔自己の〕志向するところを〔他者に〕識知させることを因とすることから、さらに、〔まさに〕その、「身体の振動」と名づけられた身体によって、自ら、識知されるべきことから、「身体の表示」と説かれる。また、そして、その〔身体の表示〕によって動かされ心から生じる諸々の形態と等しく連結する、季節から生じる〔諸々の形態〕等々をもまた動かすことから、前進〔や後進〕等々が転起する、と知られるべきである。

 

§62  (15)言葉の表示は、言葉の細別を転起させる心から現起する地の界域において、執取された〔形態である唇や喉等〕を打ち叩くことにとっての縁となる、行相の変異にして、〔自己の〕志向するところ(意志)を明示することを効用(機能・性行)とし、言葉の発声の因たる状態を現起(現状)とし、心から現起する地の界域を境処の拠点(直接原因)とする。そして、〔まさに〕その、この〔言葉の表示〕は、言葉の発声によって〔自己の〕志向するところを〔他者に〕識知させることを因とすることから、さらに、〔まさに〕その、「言葉の発声」と名づけられた(※)言葉によって、自ら、識知されるべきことから、「言葉の表示」と説かれる。まさに、すなわち、林地において、〔柱や杭等々に〕掲げて縛られた牛頭等の水の形相(水の存在を知らせる標識)を見て、「水が、ここにおいて存在する」と識知されるように、このように、まさしく、そして、身体の振動を、さらに、言葉の発声を、〔両者を〕収め取って、身体〔の表示〕と言葉の表示もまた識知される。

 

※ テキストには kāyavacīghosasakhātāya とあるが、VRI版により tāya vacīghosasakhātāya と読む。

 

442.

 

§63  (16)虚空の界域は、形態の限定を特相とし、形態の極限を明示することを効用(機能・性行)とし、形態の制約を現起(現状)とし、あるいは、〔四つの大いなる元素によって〕接触されていない状態と切断や開空の状態を現起とし、限定された形態を境処の拠点(直接原因)とする。そして、その〔虚空の界域〕によって、諸々の形態が限定されたとき、「これは、これよりも、上にある、下にある、横にある」ということに成る。

 

443.

 

§64  (17)形態の軽快性は、遅鈍性なき〔状態〕を特相とし、諸々の形態の鈍重なる状態を除去することを効用(機能・性行)とし、軽快にして遍く転起させられたものを現起(現状)とし、軽快の形態を境処の拠点(直接原因)とする。

 (18)形態の柔和性は、強情性なき〔状態〕を特相とし、諸々の形態の強情の状態を除去することを効用(機能・性行)とし、〔諸々の形態の〕一切の所作において遮ることなき〔状態〕を現起(現状)とし、柔和の形態を境処の拠点(直接原因)とする。

 (19)形態の行為適合性は、肉体の作用に随順し行為に適する状態を特相とし、行為適合性なき〔状態〕を除去することを効用(機能・性行)とし、力弱きことなき状態を現起(現状)とし、行為に適する形態を境処の拠点(直接原因)とする。

 

§65  また、これらの三つのものは、互いに他を捨棄することがないが、たとえ、このように、〔互いに他を捨棄することなく〕存しているとして、すなわち、無病の者にとってのように、諸々の形態にとって、軽快なる状態となり、遅鈍性なき〔状態〕となり、軽快なる遍き転起の〔種々なる〕流儀となり、形態の遅鈍なる〔状態〕を作り為す界域の変動(体調の異変)と相反する縁の現起となる、〔まさに〕その、形態の変異が、形態の軽快性であり、また、すなわち、完全無欠に鞣された皮にとってのように、諸々の形態にとって、柔和なる状態となり、〔諸々の形態の〕一切の作用の差異において自在に転起する状態ある柔和の〔種々なる〕流儀となり、形態の強情なる〔状態〕を作り為す【449】界域の変動と相反する縁の現起となる、〔まさに〕その、形態の変異が、形態の柔和性であり、また、すなわち、善く調練された黄金にとってのように、諸々の形態にとって、行為に適する状態となり、肉体の作用に随順する状態の〔種々なる〕流儀となり、諸々の肉体の作用にとって随順ならざる〔状態〕を作り為す界域の変動と相反する縁の現起となる、〔まさに〕その、形態の変異が、形態の行為適合性である。ということで、このように、これら〔の三つのもの〕の差異が知られるべきである。

 

444.

 

§66  (20)形態の蓄積は、集積を特相とし、過去の極(前際:過去の種々相)から諸々の形態を現出させることを効用(機能・性行)とし、引き渡すことを現起(現状)とし、あるいは、遍く満ちた状態を現起とし、蓄積された形態を境処の拠点(直接原因)とする。

 (21)形態の相続は、転起を特相とし、継続することを効用(機能・性行)とし、断絶なき〔状態〕を現起(現状)とし、継続を作り為す形態を境処の拠点(直接原因)とする。

 両者ともどもに、これは、まさしく、出生としての形態の同義語である。いっぽう、〔出生の〕行相の種々なることから、さらに、教導を所以に、「蓄積」「相続」という、概略の説示(誦説)が為された。また、ここにおいて、すなわち、義(意味)〔の観点〕から、種々なることは存在しないことから、それゆえに、これらの句の釈示において、「すなわち、〔形態等の〕諸々の〔認識の〕場所()の集積は、それは、形態の蓄積である。すなわち、形態の蓄積は、それは、形態の相続である」(ダンマ・サンガニp.144)と説かれた。

 

§67  アッタカター(注釈書)においてもまた、「『集積』というのは、発現のこと。『蓄積』というのは、増大のこと。『相続』というのは、転起のこと」と説いて、「川岸に掘られた穴に水が湧き出る時のように、集積たる発現があり、〔水が〕遍く満ちた時のように、蓄積たる増大があり、〔水が〕満ち溢れて赴く時のように、相続たる転起がある」と、喩えが為された。さらに、喩えの最後において、「『このようにあるとして、何が、言説されたものと成るのか』〔と問うなら〕、『〔認識の〕場所によって集積が言説され、集積によって〔認識の〕場所が言説された』〔と答える〕」と説かれ、さらに、「それゆえに、すなわち、諸々の形態にとって、最初の発現となるものが、それが、集積であり、すなわち、後に発現しているそれらの他〔の諸々の形態〕にとってもまた、発現となるものが、それが、増大の行相によって(※)現起することから、蓄積であり、すなわち、後に繰り返し発現しているそれらの他〔の諸々の形態〕にとってもまた、発現となるものが、それが、継続の行相によって現起することから、相続である」と説かれる、と知られるべきである。

 

※ テキストには vaḍḍhi; ākārena とあるが、VRI版により vaḍḍhiākārena と読む。

 

§68  (22)〔形態の〕老化性は、形態の円熟を特相とし、導くことを効用(機能・性行)とし、たとえ、自ずからの状態(自性:固有の性能)の離去なくも、米が古き状態となるように、新しき状態の離去を現起(現状)とし、円熟しつつある形態を境処の拠点(直接原因)とする。破断等の状態によって歯等々において変異を見示することから、この〔形態の老化性〕は、明白なる老化に(※)関して説かれた。いっぽう、諸々の形態なき法(性質)のばあいは、「隠蔽された老化」ということに成る。そのばあいは、この変異は存在しない。さらに、すなわち、地や水や山や月や日等々については、「間断なき老化」ということに〔成る〕。

 

※ テキストには pakaajara とあるが、VRI版により pākaajara と読む。

 

§69  【450】(23)形態の無常性は、〔形態の〕遍壊を特相とし、消沈することを効用(機能・性行)とし、滅尽と衰失を現起(現状)とし、遍壊しつつある形態を境処の拠点(直接原因)とする。

 

445.

 

§70  (24)物質としての食(段食)は、滋養を特相とし、形態を運び込むことを効用(機能・性行)とし、保全を現起(現状)とし、餌と為して運び込まれるべき事物(食物)を境処の拠点(直接原因)とする。その滋養によって、有情たちが〔身を〕保ち行くなら、この〔物質としての食〕は、その〔滋養〕の同義語である。

 

446.

 

§71  まずは、これらが、まさしく、聖典において言及された諸々の形態となる。また、アッタカター(注釈書)においては、力としての形態、発生としての形態、出生としての形態、病としての形態、一部の者たちの認証するところである、眠気としての形態、という、このように、諸他の形態をもまた追加して〔そののち〕、「たしかに、〔あなたは〕牟尼として、正覚者として、〔世に〕存しています。あなたに、諸々の妨害()は存在しません」(スッタニパータ541)という〔言葉〕等々を説いて、まずは、眠気としての形態が、まさしく、存在しない、ということで、拒絶され、諸他については、病としての形態が、〔形態の〕老化性と無常性に収め取ることで、まさしく、収め取られ(包摂され)、出生としての形態が、〔形態の〕蓄積と相続に収め取ることで、発生としての形態が、水の界域に収め取ることで、力としての形態が、風の界域に収め取ることで、まさしく、収め取られた。それゆえに、それらについては、「一つでさえも、別個に存在することはない」と、〔諸々のアッタカターにおいて〕確定が為された。

 かくのごとく、この、二十四種類の〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態、さらに、前に説かれた、四種類の元素の形態、という、二十八種類の形態が有り、〔これより〕少なくもなく、多くもない。

 

447.

 

§72  (一)それは、全てもろともに、まさしく、(1)因にあらざるもの、(2)因なきもの、(3)因と結び付かないもの、(4)縁を有するもの、(5)世〔俗〕のもの、(6)煩悩を有するもの、という〔言葉〕等の方法によって、一種類のものとなる。

 (二)(1)内なるものと外なるもの、(2)粗雑なるものと繊細なるもの、(3)遠方にあるものと現前にあるもの、(4)完遂されたものと完遂されていないもの、(5)〔感官の機能の〕澄浄ある形態と〔感官の機能の〕澄浄なき形態、(6)機能あるものと機能なきもの、(7)執取されたものと執取されていないもの、という〔あり方〕等を所以に、二種類のものとなる。

 

§73  (1―1)そこにおいて、眼等の五種類のものは、自己状態(個我的あり方・身体のこと)に関して転起されたことから、内なるものである。(1―2)残りのものは、それより外にあることから、外なるものである。(2―1)眼等々の九つ(眼・耳・鼻・舌・身・形態・音声・臭気・味感)、さらに、水の界域を除く三つの界域、という、十二種類のものは、打ち叩くことを所以に収め取られるべきことから、粗雑なるものである。(2―2)残りのものは、それとは反対のものたることから、繊細なるものである。(3―1)すなわち、繊細なるものは、まさしく、それは、理解し難き自ずからの状態あることから、遠方にあるものである。(3―2)他のものは、理解し易き自ずからの状態あることから、現前にあるものである。(4―1)四つの界域、眼等々の十三のもの(眼・耳・鼻・舌・身・形態・音声・臭気・味感・女の機能・男の機能・生命の機能・心臓の基盤)、さらに、物質としての食、という、十八種類の形態は、限定と変異と特相(§77)と〔性差の〕状態を超越して、まさしく、自ずからの状態によって収め取られるべきことから、完遂されたものである。(4―2)残りのものは、それとは反対のものたることから、完遂されていないものである。(5―1)眼等の五種類のものは、形態等々を収め取る縁の状態によって、鏡面のように澄浄なることから、〔感官の機能の〕澄浄ある形態である。(5―2)他のものは、それとは反対のものたることから、〔感官の機能の〕澄浄なき形態である。【451】(6―1)〔感官の機能の〕澄浄ある形態こそは、女の機能等の三つのもの(女の機能・男の機能・生命の機能)と共に、優位の義(意味)によって、機能あるものである。(6―2)残りのものは、それとは反対のものたることから、機能なきものである。(7―1)すなわち、「行為から生じるもの(業生)」と、後に〔わたしたちが〕説くであろうものは(§75,Ch.20§27)、それは、行為によって執取されたものたることから、執取されたものである。(7―2)残りのものは、それとは反対のものたることから、執取されていないものである。

 

448.

 

§74  (三)さらに、形態は、まさしく、全てが、(1)有見や(2)行為から生じるもの等々の三なるものを所以に、三種類のものと成る。

 (1)そこにおいて、(1―1)粗雑なるもののうち、形態(眼の対象)は、有見にして有対のものである。(1―2)残りのものは、無見にして有対のものである。(1―3)繊細なるものは、全てもろともに、無見にして無対のものである。まずは、このように、有見の三なるものを所以に、三種類のものとなる。

 

§75  (2・3・4・5)また、行為から生じるもの等の三なるものを所以に、〔三種類のものと成る〕。(2―1)行為から生じたものが、行為から生じるものである。(2―2)その他の縁から生じたものは、行為から生じざるものである。(2―3)どこからも生じざるものは、行為から生じるものにもあらず行為から生じざるものにもあらざるものである。(3―1)心から生じたものが、心から生じるものである。(3―2)その他の縁から生じたものは、心から生じざるものである。(3―3)どこからも生じざるものは、心から生じるものにもあらず心から生じざるものにもあらざるものである。(4―1)食(動力源・エネルギー)から生じたものが、食から生じるものである。(4―2)その他の縁から生じたものは、食から生じざるものである。(4―3)どこからも生じざるものは、食から生じるものにもあらず食から生じざるものにもあらざるものである。(5―1)季節(気候・気温)から生じたものが、季節から生じるものである。(5―2)その他の縁から生じたものは、季節から生じざるものである。(5―3)どこからも生じざるものは、季節から生じるものにもあらず季節から生じざるものにもあらざるものである。ということで、このように、〔形態は〕行為から生じるもの等の三なるものを所以に、三種類のものとなる。

 

449.

 

§76  (四)さらに、(1)見られたもの等や(2)形態としての形態等や(3)基盤等の四なるものを所以に、四種類のものとなる。

 (1)そこにおいて、(1―1)形態の〔認識の〕場所(色処)は、見ることの境域(対象)たることから、「見られたもの」ということになる。(1―2)音声の〔認識の〕場所(声処)は、聞くことの境域たることから、「聞かれたもの」ということになる。(1―3)臭気と味感と感触の三つは、得達されたものを収め取る〔感官の〕機能の境域たることから、「思われたもの」ということになる。(1―4)残りのものは、まさしく、識知〔作用〕の境域たることから、「識られたもの」ということになる。ということで、まずは、このように、見られたもの等の四なるものを所以に、四種類のものとなる。

 

§77  (2)また、ここにおいて、(2―1)完遂された形態は、「形態(壊れ崩れるもの)としての形態」ということになる。(2―2)虚空の界域は、「限定としての形態」ということになる。(2―3)身体の表示を最初とし行為適合性を結末とする〔五つの形態〕は(※)、「変異としての形態」ということになる。(2―4)出生(蓄積と相続)と老化(老化性)と滅壊(無常性)は、「特相としての形態」ということになる。ということで、このように、〔形態は〕形態としての形態等の四なるものを所以に、四種類のものとなる。

 

※ テキストには kammaññatāpariyanta とあるが、VRI版により kammaññatāpariyanta と読む。

 

§78  (3)また、ここにおいて、(3―1)すなわち、「心臓〔の基盤〕としての形態」というのは、それは、〔認識の〕基盤であり、門ではない。(3―2)〔身体と言葉の〕表示の二つは、門であり、〔認識の〕基盤ではない。(3―3)〔感官の機能の〕澄浄ある形態は、まさしく、そして、〔認識の〕基盤であり、さらに、門である。(3―4)残りのものは、〔認識の〕基盤にもあらず門にもあらざるものである。ということで、このように、〔形態は〕基盤等の四なるものを所以に、四種類のものとなる。

 

450.

 

§79  (五)さらに、一つのものから生じるもの、二つのものから生じるもの、三つのものから生じるもの、四つのものから生じるもの、どこからも生じざるもの、という、これらを所以に、五種類のものとなる。

 (1)そこにおいて、行為だけから生じるもの、さらに、心だけから生じるものは、「一つのものから生じるもの」ということになる。それらのうち、心臓の基盤と共に、機能としての形態は、行為だけから生じるものである。〔身体と言葉の〕表示の二つは、心だけから生じるものである。(2)また、すなわち、そして、心から、さらに、季節から、〔両者から〕生じたものは、それは、「二つのものから生じるもの」ということになる。それは、音声の〔認識の〕場所だけである。(3)すなわち、季節と心と食から生じたものは、【452】それは、「三つのものから生じるもの」ということになる。また、それは、軽快性等の三つだけである。(4)すなわち、行為等々の四つもろともから生じたものは、それは、「四つのものから生じるもの」ということになる。それは、特相としての形態(蓄積と相続と老化性と無常性)を除く残りのものと成る。

 

§80  (5)また、特相としての形態(§77)は、どこからも生じざるものである。何ゆえにか。なぜなら、生起(蓄積と相続)には、〔さらなる〕生起は存在せず、そして、生起したものには、他の二つのものである円熟(老化性)と破壊(無常性)のみがあるからである。すなわち、また、「形態の〔認識の〕場所(色処)、音声の〔認識の〕場所(声処)、臭気の〔認識の〕場所(香処)、味感の〔認識の〕場所(味処)、感触の〔認識の〕場所(触処)、虚空の界域、水の界域、形態の軽快性、形態の柔和性、形態の行為適合性、形態の蓄積、形態の相続、物質としての食──これらの諸法(性質)は、心から現起するものである」(ダンマ・サンガニp.157)という〔言葉〕等々において、出生(蓄積と相続)について、何らかのものから生じたものであることが認められているが、それは、形態を生じさせる諸縁の、作用の威力ある瞬間において、〔出生が〕見られたことから、と知られるべきである。

 まずは、これが、形態の範疇についての詳細の言説の門となる。

 

451.

 

 2 識知〔作用〕の範疇

 

§81  また、諸他〔の四つの範疇〕について。それが何であれ、感受されたもの(ヴェーダイタ)を特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、感受〔作用〕(:ヴェーダナー)の範疇と〔知られるべきであり〕、それが何であれ、表象すること(サンジャーナナ)を特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、表象〔作用〕(:サンニャー)の範疇と〔知られるべきであり〕、それが何であれ、行作すること(アビサンカラナ)を特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、諸々の形成〔作用〕(:サンカーラ)の範疇と〔知られるべきであり〕、それが何であれ、識知すること(ヴィジャーナナ)を特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、識知〔作用〕(:ヴィンニャーナ)の範疇と知られるべきである。そこにおいて、すなわち、識知〔作用〕の範疇が識知されたとき、諸他のものは識知し易きものと成ることから、それゆえに、識知〔作用〕の範疇を最初と為して、〔わたしたちは〕解説を為すであろう。

 

§82  まさに、「それが何であれ、識知することを特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、識知〔作用〕の範疇と知られるべきである」(§81)と説かれたが、「では、何が、識知することを特相とするものであるのか」〔と問うなら〕、「識知〔作用〕である」〔と答える〕。すなわち、〔尊者サーリプッタが〕言ったように、「友よ、『〔彼は〕識知する』『〔彼は〕識知する』ということで、まさに、それゆえに、識知〔作用〕と説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.292)と。「識知〔作用〕」「心」「意」とは、義(意味)〔の観点〕から、一つとなる(同一概念である)。

 〔まさに〕その、この〔識知作用〕は、識知することという特相によって、自ずからの状態(自性:固有の性能)〔の観点〕から、一種類のものともまたなり、類を所以に、(1)善なるもの、(2)善ならざるもの、さらに、(3)〔善悪が〕説き明かされないもの(無記)、という、三種類のものとなる。

 

452.

 

 [2―1 善なるもの]

 

§83  そこにおいて、善なる〔心〕は、境地の細別〔の観点〕から、四種類のものとなる。(一)欲望の行境(欲界)〔の心〕、(二)形態の行境(色界)〔の心〕、(三)形態なき行境(無色界)〔の心〕、さらに、(四)世〔俗〕を超える〔心〕である。

 (一)そこにおいて、欲望の行境(欲界)〔の心〕は、悦意()と放捨()と知恵(知・智)と形成〔作用〕()の細別〔の観点〕から、八種類のものとなる。それは、すなわち、この、(1)(※)悦意を共具し知恵と結び付き形成〔作用〕なきもの、さらに、(2)〔悦意を共具し知恵と結び付き〕形成〔作用〕を有するものであり、そのように、(3)〔悦意を共具し〕知恵と結び付かず〔形成作用なきもの〕、(4)〔悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するものであり〕、(5)放捨を共具し知恵と結び付き形成〔作用〕なきもの、さらに、(6)〔放捨を共具し知恵と結び付き〕形成〔作用〕を有するものであり、【453】そのように、(7)〔放捨を共具し〕知恵と結び付かず〔形成作用なきもの〕、(8)〔放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するものである〕。

 

※ テキストには(A)とあるが、これを(1)とし、以下、八十九の心に通し番号を付す。

 

§84  (1)まさに、すなわち、施すべき法(施物)の納受者等の得達(施物を提供する相手として適切な納受者に遭遇すること)に〔由来して〕、あるいは、他の悦意の因に由来して、欣喜のうえにも欣喜した者となり、「布施された〔施物の果〕は存在する」(マッジマ・ニカーヤ1p.288)という〔言葉〕等の方法によって転起された正しい見解(正見)を尊んで、躊躇することなく、他者たちに催促されることなく、布施等々の諸善を為すとき、そのときは、彼に、悦意を共具し知恵と結び付き形成〔作用〕なき心が有る。(2)また、すなわち、〔前に〕説かれた方法によって欣喜し満足した者となり、正しい見解を尊んで〔そののち〕、解き放たれた施捨たること(物惜せずに分け与えること)等〔の徳〕なきを所以に、あるいは、躊躇しつつ、あるいは、他者たちに催促され、〔布施等々の諸善を〕為すとき、そのときは、彼に、まさしく、その、〔悦意を共具し知恵と結び付き〕形成〔作用〕を有する心が有る。まさに、この義(意味)における「形成〔作用〕」とは、これは、あるいは、自己を〔所以に転起され〕、あるいは、他者たちを所以に転起された、〔行為の〕前の専念〔努力〕(明確な意志)の同義語である(形成作用なきものは、自他の意識的努力を起因とせず積極的に躊躇なく行為するが、形成作用を有するものは、自他の意識的努力を起因として消極的に躊躇しつつ行為する)。

 

§85  (3)また、すなわち、親族の人の〔布施等々の〕実践を見ることで精通を生じた年少の童たちが、比丘たちを見て悦意を生じ、即座に、まさしく、何であろうが、あるいは、手に在るものを施し、あるいは、敬拝するとき、そのときは、〔悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用なき〕第三の心が生起する。(4)また、すなわち、「与えよ」「敬拝せよ」と、親族たちに催促された者たちが、このように、〔布施等々を〕実践するとき、そのときは、〔悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用を有する〕第四の心が生起する。(5・6・7・8)また、すなわち、施すべき法(施物)の納受者等々の得達なき(施物を提供する相手として適切な納受者に遭遇しないこと)に〔由来して〕、あるいは、諸他の悦意の諸因の状態なきに由来して、〔前に説かれた〕四つの分別(1・2・3・4)もろともにおいて、悦意が絶無の者たちとして有るとき、そのときは、残りの四つの放捨を共具した心が生起する。ということで、このように、悦意と放捨と知恵と形成〔作用〕の細別〔の観点〕から、八種類の欲望の行境の善なる〔心〕が知られるべきである。

 

§86  (二)また、形態の行境(色界)〔の心〕は、瞑想(静慮)の支分との結合の細別〔の観点〕から、五種類のものと成る。それは、すなわち、この、(9)思考()と想念()と喜悦()と安楽()と禅定(三昧・定:心の一境性)と結び付いたものが、第一のものとなり、(10)思考を超越したものが、第二のものとなり、(11)そののち、想念を超越したものが、第三のものとなり、(12)そののち、喜悦が離貪したものが、第四のものとなり、(13)安楽が滅却に至り、放捨()と禅定(心の一境性)と結び付いたものが、第五のものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

§87  (三)形態なき行境(無色界)〔の心〕は、四つの形態なきものとの結合を所以に、四種類のものとなる。まさに、〔前に〕説かれた流儀によって、(14)虚空無辺なる〔認識の〕場所の瞑想(空無辺処)と結び付いたものが、第一のものとなり、(15・16・17)識知無辺なる〔認識の〕場所等々〔の三つの瞑想〕(識無辺処・無所有処・非想非非想処)と〔結び付いたものが〕、第二のものと第三のものと第四のものとなる。

 

§88  (四)世〔俗〕を超える〔心〕は、〔(18)預流道と(19)一来道と(20)不還道と(21)阿羅漢道の〕四つの道との結合〔の観点〕から、四種類のものとなる。

 ということで、まずは、このように、まさしく、善なる識知〔作用〕(善なる心)は、二十一種類のものと成る。

 

453.

 

 [2―2 善ならざるもの]

 

§89  【454】また、善ならざる〔心〕は、境地〔の観点〕から、一種類のものとなる。まさしく、欲望の行境〔の心〕である。根元〔の観点〕から、三種類のものとなる。(一)貪欲()を根元とする〔心〕、(二)憤怒()を根元とする〔心〕、さらに、(三)迷妄()を根元とする〔心〕である。

 

§90  (一)そこにおいて、貪欲を根元とする〔心〕は、悦意と放捨と悪しき見解(悪見・成見)と形成〔作用〕の細別〔の観点〕から、八種類のものとなる。それは、すなわち、この、(22)悦意を共具し悪しき見解と結び付き形成〔作用〕なきもの、さらに、(23)〔悦意を共具し悪しき見解と結び付き〕形成〔作用〕を有するものであり、そのように、(24)〔悦意を共具し〕悪しき見解と結び付かず〔形成作用なきもの〕、(25)〔悦意を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用を有するものであり〕、(26)放捨を共具し悪しき見解と結び付き形成〔作用〕なきもの、さらに、(27)〔放捨を共具し悪しき見解と結び付き〕形成〔作用〕を有するものであり、そのように、(28)〔放捨を共具し〕悪しき見解と結び付かず〔形成作用なきもの〕、(29)〔放捨を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用を有するものである〕。

 

§91  (22)まさに、すなわち、「諸々の欲望〔の対象〕のうちに、危険は存在しない」(マッジマ・ニカーヤ1p.307)(※)という〔言葉〕等の方法によって〔転起された〕誤った見解(邪見)を尊んで、欣喜し満足した者となり、まさしく、自ずからの状態として鋭敏で〔他者たちに〕催促されたことなき心によって、あるいは、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益し、あるいは、所見の幸福等々を真髄〔の観点〕から信受するとき、そのときは、〔悦意を共具し悪しき見解と結び付き形成作用なき〕第一の善ならざる心が生起する。(23)すなわち、〔自ずからの状態として〕薄弱で〔他者たちに〕催促された心によって、〔あるいは、諸々の欲望の対象を遍く受益し、あるいは、所見の幸福等々を真髄の観点から盲信する〕とき、そのときは、〔悦意を共具し悪しき見解と結び付き形成作用を有する〕第二〔の善ならざる心〕が〔生起する〕。(24)すなわち、誤った見解を尊ばずして、単に、欣喜し満足した者となり、まさしく、自ずからの状態として鋭敏で〔他者たちに〕催促されたことなき心によって、あるいは、淫事に慣れ親しみ、あるいは、他者の得達を貪り求め、あるいは、他者の物品を持ち去るとき、そのときは、〔悦意を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用なき〕第三〔の善ならざる心〕が〔生起する〕。(25)すなわち、〔自ずからの状態として〕薄弱で〔他者たちに〕催促された心によって、〔あるいは、淫事に慣れ親しみ、あるいは、他者の得達を貪り求め、あるいは、他者の物品を持ち去る〕とき、そのときは、〔悦意を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用を有する〕第四〔の善ならざる心〕が〔生起する〕。(26・27・28・29)また、すなわち、あるいは、諸々の欲望〔の対象〕の得達なきに由来して、あるいは、諸他の悦意の諸因の状態なきによって、〔前に説かれた〕四つの分別(22・23・24・25)もろともにおいて、悦意が絶無の者たちとして有るとき、そのときは、残りの四つの放捨を共具した心が生起する。ということで、このように、悦意と放捨と悪しき見解と形成〔作用〕の細別〔の観点〕から、八種類の貪欲を根元とする〔心〕が知られるべきである。

 

※ テキストには natthi kāmesu ādīnavo とあるが、マッジマ・ニカーヤ1p.288には natthi kāmesu doso とある。

 

§92  (二)また、憤怒を根元とする〔心〕は、(30)失意を共具し敵対(瞋恚・有対)と結び付いた形成〔作用〕なきもの、(31)〔失意を共具し敵対と結び付いた〕形成〔作用〕を有するもの、という、二種類のものだけと成る。そのばあいは、命あるものを殺すこと等々において、鋭敏で〔他者に催促されたことなき心〕か薄弱で〔他者に催促された心〕の転起ある時に、転起が知られるべきである。

 

§93  (三)迷妄を根元とする〔心〕は、(32)放捨を共具し疑惑()と結び付いたもの、さらに、(33)〔放捨を共具し〕高揚(掉挙)と結び付いたもの、という、二種類のものとなる。そのばあいは、〔心に〕確定なき〔時〕か〔心に〕散乱ある時において転起が知られるべきである。

 ということで、このように、善ならざる識知〔作用〕(善ならざる心)は、十二種類のものと成る。

 

454.

 

 [2―3 〔善悪が〕説き明かされないもの]

 

§94  〔善悪が〕説き明かされない〔心〕は、類の細別〔の観点〕から、二種類のものとなる。(1)報い(異熟・果報)〔としての善悪が説き明かされない心〕であり、さらに、(2)〔報いを生まない純粋〕所作(唯作)〔としての善悪が説き明かされない心〕である。

 

 [2―3―1 報い〔としての善悪が説き明かされない心〕]

 

 (1)そこにおいて、報い(異熟・果報)〔としての善悪が説き明かされない心〕は、境地〔の観点〕から、四種類のものとなる。(一)欲望の行境〔の心〕、(二)形態の行境〔の心〕、(三)形態なき行境〔の心〕、さらに、(四)世〔俗〕を超える〔心〕である。(一)そこにおいて、欲望の行境〔の心〕は、二種類のものとなる。(1)善なる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕であり、さらに、(2)善ならざる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕である。(1)善なる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕もまた、二種類のものとなる。(1―1)因なきものであり、さらに、(1―2)因を有するものである。

 

§95  (1―1)そこにおいて、貪欲なき〔あり方〕等の因の絶無なる〔善なる〕報い〔としての善悪が説き明かされない心〕が、因なきものである。それは、(34)眼の識知〔作用〕、(35・36・37・38)耳〔の識知作用〕と鼻〔の識知作用〕と舌〔の識知作用〕と身の識知〔作用〕、(39)領受する作用としての意の界域、さらに、(40・41)吟味する等の作用としての二つの意の識知〔作用〕の界域、という、八種類のものとなる。

 

§96  【455】そこにおいて、(34)眼の識知〔作用〕は、眼に依拠する形態を識知することを特相とし、形態のみを対象とすることを効用(機能・性行)とし、形態に対面する状態を現起(現状)とし、形態を対象とする〔報いを生まない純粋〕所作としての意の界域(70:§107)の離去を境処の拠点(直接原因)とする。(35・36・37・38)耳〔の識知作用〕と鼻〔の識知作用〕と舌〔の識知作用〕と身の識知〔作用〕は、耳等に依拠する音声等を識知することを特相とし、音声等のみを対象とすることを効用(機能・性行)とし、音声等に対面する状態を現起(現状)とし、音声等を対象とする〔報いを生まない純粋〕所作としての意の界域の離去を境処の拠点(直接原因)とする。

 

§97  (39)〔領受する作用としての〕意の界域は、眼の識知〔作用〕等々の直後に形態等を識知することを特相とし、形態等を領受することを効用(機能・性行)とし、そのように〔領受する〕状態を現起(現状)とし、眼の識知〔作用〕等の離去を境処の拠点(直接原因)とする。(40・41)吟味する等の作用としての意の識知〔作用〕の界域は、二種類ともどもに、因なきものにして〔善なる〕報いとしてのものであり、六つの対象を識知することを特相とし、吟味すること等を効用(機能・性行)とし、そのように〔吟味する等の〕状態を現起(現状)とし、心臓の基盤(心の依所:§60)を境処の拠点(直接原因)とする。

 

§98  また、悦意と放捨への結合〔の観点〕から、さらに、二つ〔の境位〕と五つの境位の細別〔の観点〕から、その〔界域〕の〔二種類の〕細別がある。まさに、これらのうち、(40)一つは、一方的に好ましい対象にたいする転起を自ずからの状態とすることから、悦意と結び付いたものと成って、吟味する〔作用〕と残象〔作用という二つの作用〕を所以に、まさしく、そして、〔眼等の〕五つの門において、さらに、〔一連の〕疾走〔作用〕の最後において(終了時点において)、転起することから、二つの境位あるものと成る。(41)一つは、好ましいものにたいし中なる〔行相〕ある〔放捨の〕対象にたいする転起を自ずからの状態とすることから、放捨と結び付いたものと成って、吟味する〔作用〕と残象〔作用〕と結生〔作用〕と生存の〔潜在〕支分〔作用〕と死滅〔作用という五つの作用〕を所以に転起することから、五つの境位あるものと成る。

 

§99  そして、この因なきものにして〔善なる〕報いとしての識知〔作用〕(心)は、八種類もろともに、〔対象が〕決定しているものと〔対象が〕決定していないものという対象〔の観点〕から、二種類のものとなり、放捨と安楽と悦意の細別〔の観点〕から、三種類のものとなる。まさに、ここにおいて、識知〔作用〕の五なるもの(34・35・36・37・38)は、〔各自〕順々に、形態等々だけにたいする転起あることから(作用と対象の関係が一対一対応になっていることから)、〔対象が〕決定しているものである。残りのもの(39・40・41)は、〔対象が〕決定していないものである(※)。なぜなら、そこでは、意の界域(39)は、形態等々の五つもろともにたいし転起し、意の識知〔作用〕の界域の二つ(40・41)は、六つ〔もろともに〕にたいし〔転起する〕からである、と〔知られるべきである〕。また、ここにおいて、身の識知〔作用〕(38)は、安楽と結び付いたものである。二つの境位ある意の識知〔作用〕の界域(40)は、悦意と結び付いたものである。残りのもの(41)は、放捨と結び付いたものである。ということで、まずは、このように、善なる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕の因なきものの八種類が知られるべきである。

 

※ テキストには saniyatārammaa とあるが、VRI版により aniyatārammaa と読む。

 

§100  (1―2)また、貪欲なき〔あり方〕等の因と結び付いた〔善なる〕報い〔としての善悪が説き明かされない心〕が、因を有するものである。それは、欲望の行境の善なるもの(1・2・3・4・5・6・7・8)のように、悦意等の細別〔の観点〕から、〔(42)悦意を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの、(43)悦意を共具し知恵と結び付き形成作用を有するもの、(44)悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用なきもの、(45)悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するもの、(46)放捨を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの、(47)放捨を共具し知恵と結び付き形成作用を有するもの、(48)放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用なきもの、(49)放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するもの、という〕八種類のものとなる。また、すなわち、〔欲望の行境の〕善なる〔心〕が、布施等を所以に、六つの対象にたいし転起するように、そのように、この〔心〕は〔転起することが〕ない。なぜなら、この〔心〕は、結生〔作用〕と生存の〔潜在〕支分〔作用〕と死滅〔作用〕と残象〔作用〕を所以に、諸々の微小なる法(性質)に属している六つの対象だけにたいし転起するからである。また、ここにおいて、形成〔作用を有する状態〕と形成〔作用〕なき状態は、〔過去からの〕到来等を所以に知られるべきである(前世に起因する)。そして、たとえ、結び付いた諸々の法(性質)に【456】差異が存していないとして、報い〔としての善悪が説き明かされない心〕は、鏡面等々に〔映った〕顔の形相のように、能力なきものであり、〔欲望の行境の〕善なる〔心〕は、顔〔そのもの〕のように、能力を有するものである、と知られるべきである。

 

§101  (2)まさに、善ならざる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕は、単に、因なきものだけである。それは、(50)眼の識知〔作用〕、(51・52・53・54)耳〔の識知作用〕と鼻〔の識知作用〕と舌〔の識知作用〕と身の識知〔作用〕、(55)領受する作用としての意の界域、(56)吟味する等の作用としての五つの境位ある意の識知〔作用〕の界域、という、七種類のものとなる。それは、特相等〔の観点〕から、まさしく、善なる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕の因なきものにおいて説かれた方法によって(§96-8)、知られるべきである。

 

§102  まさに、単に、善なる報い〔としての八つの心〕は、好ましい〔対象〕と好ましいものにたいし中なる〔行相〕ある〔放捨の対象〕を対象とし、これら〔の善ならざる報いとしての七つの心〕は、好ましくない〔対象〕と好ましくないものにたいし中なる〔行相〕ある〔放捨の対象〕を対象とする(それだけの差異があるにすぎない)。そして、それら〔の善なる報いとしての八つの心〕は、放捨と安楽と悦意の細別〔の観点〕から、三種類のものとなり、これら〔の善ならざる報いとしての七つの心〕は、苦痛と放捨を所以に、二種類のものとなる。まさに、ここ(善ならざる報いとしての七つの心)において、身の識知〔作用〕は、まさしく、苦痛を共具したものであり、残りのものは、放捨を共具したものとなる。そして、それらにおけるその放捨は、下劣なるものにして、苦痛のように極めて鋭敏なることはない。諸他〔の善なる報いとしての八つの心〕における放捨は、精妙なるものにして、安楽のように極めて鋭敏なることはない。

 かくのごとく、これらの七つの善ならざる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕、さらに、前の十六の善なる報い〔としての善悪が説き明かされない心〕を所以に、欲望の行境の報いとしての識知〔作用〕は、二十三種類のものとなる。

 

§103  (二)また、形態の行境〔の心〕は、善なるもの(9・10・11・12・13)のように、〔(57)思考と想念と喜悦と安楽と禅定と結び付いたもの、(58)思考を超越したもの、(59)想念を超越したもの、(60)喜悦が離貪したもの、(61)安楽が滅却に至り、放捨と禅定と結び付いたもの、という〕五種類のものとなる。また、善なるものは、入定を所以に、〔一連の〕疾走〔作用〕の道程において転起するが、この〔善悪が説き明かされないもの〕は、〔形態の行境への〕再生において、結生〔作用〕と生存の〔潜在〕支分〔作用〕と死滅〔作用〕を所以に〔転起する〕。

 

§104  (三)さらに、すなわち、形態の行境〔の心〕のように、このように、形態なき行境〔の心〕もまた、善なるもの(14・15・16・17)のように、〔(62)虚空無辺なる認識の場所の瞑想と結び付いたもの、(63・64・65)識知無辺なる認識の場所等々と結び付いたもの、という〕四種類のものとなる。そのばあいの転起の細別もまた、まさしく、形態の行境において説かれた方法となる(形態の行境と同様である)。

 

§105  (四)世〔俗〕を超える報い〔としての心〕は、四つの道と結び付いた心の果たることから、〔(66)預流果と(67)一来果と(68)不還果と(69)阿羅漢果、という〕四種類のものとなる。それは、まさしく、そして、〔聖者の〕道の道程を所以に、さらに、果の入定を所以に、二種に転起する(Ch.22)。

 このように、四つの境地において、全てもろともに、報いとしての識知〔作用〕(報いとしての善悪が説き明かされない心)は、三十六種類のものと成る。

 

 [2―3―2 〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされない心〕]

 

§106  (2)また、〔報いを生まない純粋〕所作(唯作)〔としての善悪が説き明かされない心〕は、境地の細別〔の観点〕から、三種類のものとなる。(一)欲望の行境〔の心〕、(二)形態の行境〔の心〕、さらに、(三)形態なき行境〔の心〕である。

 (一)そこにおいて、欲望の行境〔の心〕は、二種類のものとなる。(1)因なきものであり、さらに、(2)因を有するものである。

 (1)そこにおいて、貪欲なき〔あり方〕等の因の絶無なる〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされない心〕が、因なきものである。それは、(1―1)意の界域と(1―2)意の識知〔作用〕の界域の細別〔の観点〕から、二種類のものとなる。

 

§107  (1―1)そこにおいて、(70)意の界域は、眼の識知〔作用〕等に先行するものにして、形態等を識知することを特相とし、〔心を対象に〕傾注する〔作用〕(引転・転向:感官機能に触れた対象を内に引き入れ認識可能状態にする作用)を効用(機能・性行)とし、形態等に対面する状態を現起(現状)とし、生存の〔潜在〕支分〔作用〕(有分:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)の切断を境処の拠点(直接原因)とする。それは、放捨と結び付いたものだけと成る。

 

§108  (1―2)また、意の識知〔作用〕の界域は、二種類のものとなる。(1―2―1)共通なるもの(凡夫と聖者に共通のもの)であり、さらに、(1―2―2)共通ならざるもの(阿羅漢だけのもの)である。

 【457】(1―2―1)そこにおいて、共通なるものは、(71)放捨を共具し因なきものにして〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされない心〕であり、六つの対象を識知することを特相とし、〔心の〕作用を所以に、五つの門と意の門における定置する〔作用〕と傾注する〔作用〕を効用(機能・性行)とし、そのように〔定置し傾注する〕状態を現起(現状)とし、因なきものにして報いとしての意の識知〔作用〕の界域と生存の〔潜在〕支分〔作用〕のなかのどちらか一つの離去を境処の拠点(直接原因)とする。(1―2―2)共通ならざるものは、(72)悦意を共具し因なきものにして〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされない心〕であり、六つの対象を識知することを特相とし、〔心の〕作用を所以に、諸々の秀逸ならざる事物にたいする阿羅漢たちの笑いを生起させることを効用(機能・性行)とし、そのように〔笑いが生起する〕状態を現起(現状)とし、一方的に、心臓の基盤(心の依所:§60)を境処の拠点(直接原因)とする、と〔知られるべきである〕。ということで、欲望の行境の〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされない心〕の因なきものは、三種類のものとなる。

 

§109  (2)また、因を有するものは、悦意等の細別〔の観点〕から、善なるもの(1・2・3・4・5・6・7・8)のように、〔(73)悦意を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの、(74)悦意を共具し知恵と結び付き形成作用を有するもの、(75)悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用なきもの、(76)悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するもの、(77)放捨を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの、(78)放捨を共具し知恵と結び付き形成作用を有するもの、(79)放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用なきもの、(80)放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するもの、という〕八種類のものとなる。まさに、単に、〔欲望の行境の〕善なる〔心〕は、〔いまだ〕学びある者と凡夫たちに生起するが、この〔心〕は、阿羅漢たちにだけ〔生起する〕、という、このことが、ここにおいて、差異となる。まずは、このように、欲望の行境〔の報いを生まない純粋所作としての善悪が説き明かされない心〕は、十一種類のものとなる。

 (二・三)また、形態の行境〔の心〕、さらに、形態なき行境〔の心〕は、善なるもの(9・10・11・12・13・14・15・16・17)のように、〔(81)思考と想念と喜悦と安楽と禅定と結び付いたもの、(82)思考を超越したもの、(83)想念を超越したもの、(84)喜悦が離貪したもの、(85)安楽が滅却に至り、放捨と禅定と結び付いたもの、という〕五種類のもの、さらに、〔(86)虚空無辺なる認識の場所の瞑想と結び付いたもの、(87・88・89)識知無辺なる認識の場所等々と結び付いたもの、という〕四種類のものと成る。そして、阿羅漢たちにだけ生起あることを所以に、その〔心〕の、善なるものとの差異が知られるべきである。

 ということで、このように、三つの境地において、全てもろともに、〔報いを生まない純粋〕所作としての識知〔作用〕(報いを生まない純粋所作としての善悪が説き明かされない心)は、二十種類のものと成る。

 

455.

 

§110  かくのごとく、二十一の善なる〔心〕、十二の善ならざる〔心〕、三十六の報い〔としての善悪が説き明かされない心〕、二十の〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされない心〕、ということで、全てもろともに、八十九の識知〔作用〕と成る。

 それら〔の八十九の心〕は、(1)結生〔作用〕と(2)生存の〔潜在〕支分〔作用〕と(3)傾注する〔作用〕と(4)見る〔作用〕と(5)聞く〔作用〕と(6)嗅ぐ〔作用〕と(7)味わう〔作用〕と(8)接触する〔作用〕と(9)領受する〔作用〕と(10)吟味する〔作用〕と(11)定置する〔作用〕と(12)疾走〔作用〕と(13)残象〔作用〕と(14)死滅〔作用〕を所以に、十四の行相によって転起する。どのようにか。

 

§111  (1)まさに、すなわち、八つの欲望の行境の善なる〔心〕(1・2・3・4・5・6・7・8)の威力によって、天〔の神々〕と人間たちのうちに有情たちが発現するとき、そのときは、彼らの〔前世における〕死の時に現起された行為()と行為の形相と〔死後に〕赴く所()の形相のなかのどれか一つを対象と為して、八つの因を有するものにして欲望の行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(42・43・44・45・46・47・48・49)が〔転起し〕、さらに、人間たちのなかで性機能不全者等の状態を惹起している者たちのばあいは、〔禅定の獲得に欠かせない善因である迷妄なきあり方を欠いた〕力弱き二つの因(貪欲なきあり方と憤怒なきあり方)の善なる報いとして、放捨を共具した因なきものにして〔善なる〕報いとしての意の識知〔作用〕の界域(41)が〔転起する〕。ということで、結生〔作用〕を所以に、九つの報いとしての心が転起する。

 

§112  すなわち、形態の行境と形態なき行境の善なる〔心〕(9・10・11・12・13・14・15・16・17)の威力によって、諸々の形態ある〔生存〕と形態なき生存のうちに〔有情たちが〕発現するとき、そのときは、彼らの〔前世における〕死の時に現起された行為と行為の形相だけを対象と為して、九つの形態〔の行境〕と形態なき行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(57・58・59・60・61・62・63・64・65)が、結生〔作用〕を所以に転起する。

 

§113  また、すなわち、善ならざる〔心〕(22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33)の威力によって、悪所のうちに〔有情たちが〕発現するとき、そのときは、彼らの〔前世における〕死の時に現起した行為と行為の形相と〔死後に〕赴く所の形相のなかのどれか一つを対象と為して、一つの善ならざる報いとしての因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(56)が、結生〔作用〕を所以に転起する。ということで、【458】まずは、ここにおいて、このように、十九の報いとしての識知〔作用〕の転起が、結生〔作用〕を所以に知られるべきである。

 

§114  (2)また、結生の識知〔作用〕(結生識)が止滅したとき、〔十九の報いとしての識知作用のなかの〕それぞれの結生の識知〔作用〕に追随しつつ、まさしく、それぞれの行為の報いとして有る〔識知作用〕が、まさしく、その〔結生の識知作用の〕対象にたいし、まさしく、その〔結生の識知作用〕と相同のものとして、「生存の〔潜在〕支分の識知〔作用〕(有分識)」ということで、転起する。さらに、また、その〔生存の潜在支分の識知作用〕と相同のものとして、ということで、このように、相続を転変させる他の心の生起が存していないときは、川の流れのように、夢を見ずに眠りに入る時等々において、無量の数〔の生存の潜在支分の識知作用〕でさえもが、まさしく、転起する。ということで、このように、まさしく、それらの〔十九の〕識知〔作用〕の転起が、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を所以に知られるべきである。

 

§115  (3)また、このように、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の相続が転起され、すなわち、有情たちの諸々の〔感官の〕機能()が、対象を収め取ることへの受認あるものと成るとき(対象把捉作用として機能できる状態となるとき)、そのとき、形態が眼の視野に至ったときは、形態を縁として、眼の〔機能の〕澄浄(眼浄:視覚機能)には、打ち叩くことが有る(感官機能に認識対象が接触する)。そののち、〔眼の機能を〕打ち叩くことの威力によって、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の動揺が有る。そこで、生存の〔潜在〕支分〔作用〕が止滅したとき、まさしく、その〔視野に至った〕形態を対象と為して、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断しているかのように、〔心を対象に〕傾注する作用(引転・転向:感官機能に触れた対象を内に引き入れ認識可能状態にする作用)を遂行しつつ、〔報いを生まない純粋〕所作としての意の界域(70)が生起する。耳の門等々においてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§116  また、意の門においては、六種類もろともに〔何であれ〕対象として視野に至ったとき、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の動揺の直後に、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断しているかのように、〔心を対象に〕傾注する作用を遂行しつつ、放捨を共具し因なきものにして〔報いを生まない純粋〕所作としての意の識知〔作用〕の界域(71)が生起する。ということで、このように、二つの〔報いを生まない純粋〕所作としての識知〔作用〕の転起が、傾注する〔作用〕を所以に知られるべきである。

 

§117  (4・5・6・7・8)また、傾注する〔作用〕の直後に、まずは、眼の門において、見る作用を遂行しつつ、眼の〔機能の〕澄浄(視覚機能)を基盤とする眼の識知〔作用〕(34・50)が〔転起し〕、耳の門等々において、聞く等の作用を遂行しつつ、耳〔の識知作用〕と鼻〔の識知作用〕と舌〔の識知作用〕と身の識知〔作用〕(35・36・37・38・51・52・53・54)が転起する。それら〔の十の識知作用〕は、諸々の好ましい〔境域〕と好ましいものにたいし中なる〔行相〕ある境域において、〔五つの〕善なる報い〔としての心〕(34・35・36・37・38)が〔転起し〕、諸々の好ましくない〔境域〕と好ましくないものにたいし中なる〔行相〕ある境域において、〔五つの〕善ならざる報い〔としての心〕(50・51・52・53・54)が〔転起する〕。ということで、このように、十の報いとしての識知〔作用〕の転起が、見る〔作用〕と聞く〔作用〕と嗅ぐ〔作用〕と味わう〔作用〕と接触する〔作用〕を所以に知られるべきである。

 

§118  (9)また、「眼の識知〔作用〕の界域が生起して止滅した等しく直後に(等無間:間を置かず直後に)、心、意、意図、[意の〔認識の〕場所、意の機能、識知〔作用〕、識知〔作用〕の範疇、]それに合う意の界域が、生起する」(ヴィバンガp.88)という言葉等から、眼の識知〔作用〕等々の直後に、まさしく、それらの境域を領受しつつ、善なる報い〔としての眼等の五つの識知作用〕(34・35・36・37・38)の直後には、善なる報い〔としての意の界域〕(39)が〔生起し〕、【459】善ならざる報い〔としての眼等の五つの識知作用〕(50・51・52・53・54)の直後には、善ならざる報いとしての意の界域(55)が生起する。このように、二つの報いとしての識知〔作用〕の転起が、領受する〔作用〕(領受)を所以に知られるべきである。

 

§119  (10)また、「意の界域が生起して止滅した等しく直後にもまた、心、意、意図……略……それに合う意の識知〔作用〕の界域が、生起する」(ヴィバンガp.89-90)という言葉から、まさしく、意の界域によって領受された境域を吟味しつつ、善ならざる報いとしての意の界域(55)の直後には、善ならざる報い〔としての意の識知作用の界域〕(56)が〔生起し〕、善なる報い〔としての意の界域〕(39)の直後には、好ましい対象にたいしては悦意を共具した〔善なる報いとしての因なきものたる意の識知作用の界域〕(40)が〔生起し〕、好ましいものにたいし中なる〔行相〕ある〔対象〕にたいしては放捨を共具した〔善なる〕報いとしての因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(41)が生起する。ということで、このように、三つの報いとしての識知〔作用〕の転起が、吟味する〔作用〕(推度)を所以に知られるべきである。

 

§120  (11)また、吟味する〔作用〕の直後に、まさしく、その境域を定置しつつ、放捨を共具し〔報いを生まない純粋〕所作としての因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(71)が生起する。ということで、このように、一つの〔報いを生まない純粋〕所作としての識知〔作用〕だけの転起が、定置する〔作用〕(確定)を所以に知られるべきである。

 

§121  (12)また、定置〔作用〕の直後に、それで、もし、形態等の対象が大いなるものとして有るなら、そこで、定置されたとおりの境域にたいし、あるいは、八つの欲望の行境の善なる〔心〕(1・2・3・4・5・6・7・8)のなかの、あるいは、十二の善ならざる〔心〕(22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33)のなかの、あるいは、九つの残りの欲望の行境の〔報いを生まない純粋〕所作(72・73・74・75・76・77・78・79・80)のなかの、どれか一つを所以に、六つ、あるいは、七つの、疾走〔作用の心〕(速行:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)が疾走する。まずは、これが、五つの門における方法となる。また、意の門においては、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕の直後に、まさしく、それら〔の疾走作用の心〕が〔疾走する〕。

 〔事前作業するものと近接するものと随順するものと新たな〕種姓と成るもの〔としての心〕から以後は(Ch.4§74,Ch.21§129)、形態の行境からは五つの善なる〔心〕(9・10・11・12・13)と五つの〔報いを生まない純粋〕所作(81・82・83・84・85)、形態なき行境からは四つの善なる〔心〕(14・15・16・17)と四つの〔報いを生まない純粋〕所作(86・87・88・89)、世〔俗〕を超えるものからは四つの道の心(18・19・20・21)と四つの果の心(66・67・68・69)、という、これら〔の諸心〕のうち、その〔心〕その〔心〕が、縁を得たものとして有るなら、〔縁を得た〕その〔心〕その〔心〕が、〔疾走作用として〕疾走する。ということで、このように、五十五の、善なるものと善ならざるものと〔報いを生まない純粋〕所作と報いとしての識知〔作用〕の転起が、疾走〔作用〕を所以に知られるべきである。

 

§122  (13)また、疾走〔作用〕の最後において、それで、もし、五つの門における〔形態等の対象が〕極めて大いなるものとして〔有り〕、さらに、意の門において明瞭なる対象が有るなら、そこで、欲望の行境の有情たちには、欲望の行境の疾走〔作用〕の最後において、好ましい対象等々を〔所以に〕、さらに、前の行為の疾走〔作用〕の心等々を所以に、その〔縁〕その縁が、得られたものと成るなら、その〔縁〕その〔縁〕を所以に、八つの因を有するものにして欲望の行境の報い〔としての心〕(42・43・44・45・46・47・48・49)のうち、さらに、三つの報いとしての因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(40・41・56)のうち、どれか一つの報いとしての識知〔作用〕が、流れに反して赴く舟に追随している幾許かの間の水のように、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の対象より他の対象にたいし疾走した疾走〔作用〕に追随するものとして、二回、あるいは、一度、【460】生起する。〔まさに〕その、この〔報いとしての識知作用〕は、疾走〔作用〕の最後において、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の対象にたいし転起するに値するものとして存しつつも、その疾走〔作用〕の対象を対象と為して転起されたことから、「残象〔作用〕(彼所縁)」と説かれる。このように、十一の報いとしての識知〔作用〕の転起が、残象〔作用〕を所以に知られるべきである。

 

§123  (14)また、残象〔作用〕の最後において、ふたたび、まさしく、生存の〔潜在〕支分〔作用〕が転起する。生存の〔潜在〕支分〔作用〕が切断されたとき、ふたたび、傾注する〔作用〕等々が〔転起する〕。ということで、このように、縁を得た心の相続は、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の直後に傾注する〔作用〕が〔生起し〕、傾注する〔作用〕の直後に見る〔作用〕等々が〔生起する〕。ということで、まさしく、心の決定(確定性)を所以に、すなわち、一つの生存における生存の〔潜在〕支分〔作用〕の完全なる滅尽あるまで、それまでは、繰り返し、〔それらの心の作用が〕転起する。まさに、一つの生存における、すなわち、一切の最後のものとしてある、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の心は、それは、その〔生存〕から死滅することから、「死滅〔作用〕」と説かれる。それゆえに、その〔死滅作用の心〕もまた、まさしく、〔結生作用や生存の潜在支分作用と同じく〕十九種類のものと成る。このように、十九の報いとしての識知〔作用〕の転起が、死滅〔作用〕を所以に知られるべきである。

 

§124  また、死滅から、ふたたび、結生があり、結生から、ふたたび、生存の〔潜在〕支分〔作用〕がある。ということで、このように、〔三つの〕生存(三有・三界)と〔五つの〕境遇(五趣)と〔七つの識知作用の〕止住(七識住)と〔九つの〕居住(九有情居)において輪廻している有情たちの切断されざる心の相続が、まさしく、転起する。また、ここにおいて、彼が、阿羅漢の資質に至り得るなら、彼の〔識知作用は〕、死滅の心が止滅したとき、まさしく、止滅したものと成る。

 これが、識知〔作用〕の範疇についての詳細の言説の門となる。

 

456.

 

 3 感受〔作用〕の範疇

 

§125  今や、すなわち、〔前に〕説かれた、「それが何であれ、感受されたものを特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、感受〔作用〕の範疇と〔知られるべきであり〕」(§81)とは、ここにおいてもまた、「感受されたものを特相とするもの」というのは、まさしく、感受〔作用〕である。すなわち、〔尊者サーリプッタが〕言ったように、「友よ、『〔彼は〕感受する』『〔彼は〕感受する』ということで、まさに、それゆえに、感受〔作用〕と説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.293)と。

 

§126  また、それは、感受されたものという特相によって、自ずからの状態(自性:固有の性能)〔の観点〕から、一種類のものともまたなり、類を所以に、(1)善なるもの、(2)善ならざるもの、さらに、(3)〔善悪が〕説き明かされないもの(無記)、という、三種類のものとなる。

 そこにおいて、(1)「欲望の行境〔の心〕は、悦意と放捨と知恵と形成〔作用〕の細別〔の観点〕から、八種類のものとなる」(§83)という〔言葉〕等の方法によって説かれた善なる識知〔作用〕と結び付いた〔感受作用〕が、善なるものであり、(2)善ならざる〔識知作用〕と結び付いた〔感受作用〕が、善ならざるものであり、(3)〔善悪が〕説き明かされない〔識知作用〕と結び付いた〔感受作用〕が、〔善悪が〕説き明かされないものである、と知られるべきである。

 

§127  【461】それは、自ずからの状態〔の観点〕から、(1)安楽、(2)苦痛、(3)悦意、(4)失意、(5)放捨、という、五種類のものと成る。

 そこにおいて、(1)善なる報いとしての身の識知〔作用〕(38)と結び付いた〔感受作用〕が、安楽であり、(2)善ならざる〔報いとしての身の識知作用(54)〕と〔結び付いた感受作用が〕、苦痛であり、(3)欲望の行境の、四つの善なるもの(1・2・3・4)、四つの因を有するものにして〔善なる〕報いとしてのもの(42・43・44・45)、一つの因なきものにして〔善なる〕報いとしてのもの(40)、四つの因を有するものにして〔報いを生まない純粋〕所作としてのもの(73・74・75・76)、一つの因なきものにして〔報いを生まない純粋〕所作としてのもの(72)、四つの善ならざるもの(22・23・24・25)と〔結び付いた感受作用〕、形態の行境の、第五の瞑想としての識知〔作用〕を除いて四つの善なるもの(9・10・11・12)、四つの〔善なる〕報いとしてもの(57・58・59・60)、四つの〔報いを生まない純粋〕所作としてのもの(81・82・83・84)と〔結び付いた感受作用〕、また、世〔俗〕を超えるものは、すなわち、瞑想に属さないものが、まさに、存在しないことから、そえゆえに、八つの世〔俗〕を超える〔心〕(18・19・20・21・66・67・68・69)は、〔それぞれにある〕五つの瞑想を所以に、四十〔の心〕が有り(八つそれぞれに五つの瞑想があり、合計で四十の瞑想がある)、それらのうち、八つの第五の瞑想に属するものを除いて、残りの三十二の善なる報いとしてのものと〔結び付いた感受作用〕、という、このように、七十二の識知〔作用〕と結び付いた〔感受作用〕が、悦意であり、(4)二つの善ならざるもの(30・31)と〔結び付いた感受作用が〕、失意であり、(5)残りの五十五の識知〔作用〕と結び付いた〔感受作用〕が、放捨である。

 

§128  そこにおいて、(1)安楽は、好ましい感触を経験することを特相とし、〔それと〕結び付いた〔諸々の心と心の属性〕を増進することを効用(機能・性行)とし、身体の属性としての悦楽を現起(現状)とし、身の機能(身根)を境処の拠点(直接原因)とする。

 (2)苦痛は、好ましくない感触(所触)を経験することを特相とし、〔それと〕結び付いた〔諸々の心と心の属性〕を萎縮させることを効用(機能・性行)とし、身体の属性としての病苦を現起(現状)とし、身の機能を境処の拠点(直接原因)とする。

 (3)悦意は、好ましい対象を経験することを特相とし、いかようにも、そのように、好ましい行相に等しき受益あることを効用(機能・性行)とし、心の属性としての悦楽を現起(現状)とし、静息を境処の拠点(直接原因)とする。

 (4)失意は、好ましくない対象を経験することを特相とし、いかようにも、そのように、好ましくない行相に等しき受益あることを効用(機能・性行)とし、心の属性としての病苦を現起(現状)とし、まさしく、一方的に、心臓の基盤を境処の拠点(直接原因)とする。

 (5)放捨は、中なるものとして感受されたものを特相とし、〔それと〕結び付いた〔諸々の心と心の属性〕を増進することと萎縮させることが極めてないことを効用(機能・性行)とし、寂静の状態を現起(現状)とし、喜悦なくある心を境処の拠点(直接原因)とする。ということで──

 これが、感受〔作用〕の範疇についての詳細の言説の門となる。

 

457.

 

 4 表象〔作用〕の範疇

 

§129  今や、すなわち、〔前に〕説かれた、「それが何であれ、表象することを特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、表象〔作用〕の範疇と〔知られるべきであり〕」(§81)とは、ここにおいてもまた、「表象することを特相とするもの」というのは(※)、まさしく、表象〔作用〕である。すなわち、〔尊者サーリプッタが〕言ったように、「友よ、『〔彼は〕表象する』『〔彼は〕表象する』ということで、まさに、それゆえに、表象〔作用〕と説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.293)と。また、〔まさに〕その、この〔表象作用〕は、表象することという特相によって、自ずからの状態〔の観点〕から、一種類のものともまたなり、類を所以に、(1)善なるもの、(2)善ならざるもの、さらに、(3)〔善悪が〕説き明かされないもの、という、三種類のものとなる。

 そこにおいて、(1)善なる識知〔作用〕と結び付いた〔表象作用〕が、【462】善なるものであり、(2)善ならざる〔識知作用〕と結び付いた〔表象作用〕が、善ならざるものであり、(3)〔善悪が〕説き明かされない〔識知作用〕と結び付いた〔表象作用〕が、〔善悪が〕説き明かされないものである。それが、表象〔作用〕と結び付かないものであるなら、まさに、それは、識知〔作用〕として存在せず、それゆえに、すなわち、識知〔作用〕の細別としてあるかぎりは、そのかぎりが、表象〔作用〕の〔細別となる〕、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストには sañjānanalakkhaa とあるが、VRI版により sañjānanalakkhaa nāma と読む。

 

§130  また、〔まさに〕その、この〔表象作用〕は、このように、識知〔作用〕に等しき細別あるもまた、特相等〔の観点〕から、まさしく、全て〔の表象作用〕が、表象することを特相とし、「これは、まさしく、それである」と、木片等々にたいし大工等々が〔形相を作り為す〕ように、ふたたび表象することの縁として形相を作り為すことを効用(機能・性行)とし、象を〔手で〕見る盲者たちのように(ウダーナp.68-9)、〔自己に〕収め取られたとおりの形相を所以に、〔理解の〕固着(把持把握)を為すことを現起(現状)とし、諸々の草人形(案山子)にたいし、「人だ」という、子鹿たちに生起した表象のように、〔自己に〕現起したとおりの境域(認識対象)を境処の拠点(直接原因)とする。ということで──

 これが、表象〔作用〕の範疇についての詳細の言説の門となる。

 

458.

 

 5 諸々の形成〔作用〕の範疇

 

§131  また、すなわち、〔前に〕説かれた、「それが何であれ、行作することを特相とするものは、その全てが、〔それを〕一つに為して、諸々の形成〔作用〕の範疇と〔知られるべきであり〕」(§81)とは、ここにおいて、「行作することを特相とするもの」というのは、集まりを作り為すことを特相とするもの。「また、何が、それであるのか」と〔問うなら〕、「まさしく、諸々の形成〔作用〕(諸行)である」〔と答える〕。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、形成されたもの(有為:サンカタ)として行作する(アビサンカロンティ)、ということで、まさに、それゆえに、『諸々の形成〔作用〕(サンカーラー)』と説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ3p.87)と。

 

§132  それらは、行作することを特相とし、専業すること(業を作ること)を効用(機能・性行)とし、充満を現起(現状)とし、残りの三つの範疇を境処の拠点(直接原因)とする。このように、特相等〔の観点〕から、そして、一種類のものともまたなり、類を所以に、(1)善なるもの、(2)善ならざるもの、さらに、(3)〔善悪が〕説き明かされないもの、という、三種類のものとなる。

 それらのうち、(1)諸々の善なる識知〔作用〕と結び付いた〔形成作用〕が、善なるものであり、(2)諸々の善ならざる〔識知作用〕と結び付いた〔形成作用〕が、善ならざるものであり、(3)諸々の〔善悪が〕説き明かされない〔識知作用〕と結び付いた〔形成作用〕が、〔善悪が〕説き明かされないものである。

 

 [5―1 善なるもの]

 

§133  そこにおいて、まずは、欲望の行境の第一の善なる識知〔作用〕(1:悦意を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、〔生起が〕決定しているもの(必ず生起するもの)として〔聖典において〕明確に言及されたものが二十七、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」(ダンマ・サンガニp.9)と〔簡略して説かれたもの〕が四つ、〔生起が〕決定していないもの(生起不定のもの)が五つ、ということで、三十六〔の形成作用〕(心所・心の属性)がある。

 そこにおいて、(1)接触、(2)思欲、(3)思考、(4)想念、(5)喜悦、(6)精進、(7)生命、(8)禅定、(9)信、(10)気づき、【463】(11)恥〔の思い〕、(12)〔良心の〕咎め、(13)貪欲なき〔あり方〕、(14)憤怒なき〔あり方〕、(15)迷妄なき〔あり方〕、(16)身体の静息、(17)心の静息、(18)身体の軽快性、(19)心の軽快性、(20)身体の柔和性、(21)心の柔和性、(22)身体の行為適合性、(23)心の行為適合性、(24)身体の熟練性、(25)心の熟練性、(26)身体の真直性、(27)心の真直性、という、これらが、〔聖典において〕明確に言及された二十七のものである。(28)欲〔の思い〕、(29)信念、(30)意を為すこと、(31)そこに中なること、という、これらが、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれた〕四つのものである。(32)慈悲、(33)歓喜、(34)身体による悪しき行ないからの離去、(35)言葉による悪しき行ないからの離去、(36)誤った生き方からの離去、という、これらが、〔生起が〕決定していない五つのものである。なぜなら、これら〔の五つ〕は、〔特定ならざる〕或る時に生起し、そして、たとえ、生起しつつも、一緒に生起することがないからである。

 

459.

 

§134  (1)そこにおいて、接触する、ということで、「接触(:感覚の発生)」。〔まさに〕その、この〔接触〕は、接触することを特相とし、相打つことを効用(機能・性行)とし、集合を現起(現状)とし、〔六つの識知作用の〕視野に至った境域(対象)を境処の拠点(直接原因)とする。なぜなら、この〔接触〕は、たとえ、形態なき法(性質)として存しつつも、まさしく、対象にたいし接触することという行相によって転起し、さらに、たとえ、〔感官の機能とその対象が〕一地点で付着していなくても、形態と眼のように、さらに、音声と耳のように、心(識知作用)は、そして、対象と相打つからである。「〔感官の機能とその対象と識知作用の〕三なるものの集合」と名づけられた自己の契機を所以に〔言述され〕知らされたことから(マッジマ・ニカーヤ1p.111,マッジマ・ニカーヤ3p.281)、〔接触は〕集合を現起(現状)とする。まさしく、そして、それに合う〔心の〕集中(識知作用)によって、さらに、〔感官の〕機能によって、境域(認識対象)が現前したとき、まさしく、直後に生起することから、〔接触は〕「〔六つの識知作用の〕視野に至った境域を境処の拠点(直接原因)とする」と説かれる(※)。また、感受(:楽苦の知覚)を確立する状態あることから(感受の依所たることから)、皮なし牛〔の喩え〕(サンユッタ・ニカーヤ2p.99)のように見られるべきである(皮を剥がれた牛は身体中どこでも何らかの接触にたいし苦痛を感じるように、接触があるところに、感受が生起する)。

 

※ テキストには āpāthagatavisayapadaṭṭhāno とあるが、VRI版により āpāthagatavisayapadaṭṭhānoti と読む。

 

460.

 

§135  (2)思い考える、ということで、「思欲(:心の思い・意志)」。整える、という義(意味)である。それは、思い考える状態を特相とし、専業することを効用(機能・性行)とし、差配することを現起(現状)とする。一番弟子や棟梁大工等々のように、自らの作用と他者の作用を遂行するものである。また、そして、これは、非常の作業を随念すること等々において、〔それと〕結び付いた〔諸々の心と心の属性〕を邁進する状態で転起しているとき、明白なるものと成る。

 

§136  【464】(3・4・5)思考()と想念()と喜悦()について、すなわち、説かれるべきこととして存するものは、それは、まさしく、地の遍満についての釈示における、第一の瞑想の解説において説かれた(Ch.4§88-99)。

 

461.

 

§137  (6)勇猛の状態が、「精進」。それは、邁進することを特相とし、諸々の共に生じたものを保全することを効用(機能・性行)とし、沈滞することなき状態を現起(現状)とし、「畏怖する者となり、根源のままに精励します」(アングッタラ・ニカーヤ2p.115)という言葉から、畏怖〔の思い〕を境処の拠点(直接原因)とし、あるいは、精進に励むことの事例を境処の拠点とする。正しい勉励〔の精進〕は、一切の得達の根元と成る、と見られるべきである。

 

462.

 

§138  (7)それによって、〔人々は〕生きる、あるいは、自ずと、生きる、あるいは、それは、まさしく、生きることそのものである、ということで、「生命()」。また、それについての特相等々は、まさしく、形態の生命〔の機能〕において説かれた方法によって(§59)、知られるべきである。なぜなら、それは、形態の諸法(性質)の生命であり(物質的存在者の生命)、これは、形態なき諸法(性質)の〔生命である〕(非物質的存在者の生命)、という、このことだけが、ここにおいて、種々なる契機(相違点)となるからである。

 

463.

 

§139  (8)対象にたいし、心が、等しく保持される、あるいは、正しく保持される、あるいは、これは、まさしく、心を定め置くことそのものである、ということで、「禅定(三昧・定)」。それは、〔心の〕拡散なき〔状態〕を特相とし、あるいは、〔心の〕散乱なき〔状態〕を特相とし、洗い粉にとっての水のように、諸々の共に生じたものを連結することを効用(機能・性行)とし、寂止を現起(現状)とし、特に、安楽を境処の拠点(直接原因)とする。無風における諸々の灯明の炎の止住のように、心の止住(心の一境性)である、と見られるべきである。

 

464.

 

§140  (9)これによって、〔人々は〕信を置く、あるいは、自ずと、信を置く、あるいは、これは、まさしく、信を置くことそのものである、ということで、「信()」。それは、信を置くことを特相とし、あるいは、信頼することを特相とし、水を澄浄にする宝珠のように、浄信すること(澄浄にすること)を効用(機能・性行)とし、あるいは、激流を超え上がるように、跳入することを効用とし、翳りなき〔状態〕を現起(現状)とし、あるいは、信念を現起とし、信を置くべき事例を境処の拠点(直接原因)とし、あるいは、正なる法(教え)の聴聞等の預流の支分を境処の拠点とする。手や富や種のように見られるべきである。

 

465.

 

§141  (10)それによって、〔人々は〕思念する(念じる)、あるいは、自ずと、思念する、あるいは、これは、まさしく、思念することそのものである、ということで、「気づき()」。それは、列挙することを特相とし、忘却なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし(※)、守護を現起(現状)とし、あるいは、境域(認識対象)に対面する状態を現起とし、強固なる表象〔作用〕を境処の拠点(直接原因)とし、あるいは、身体等の気づきの確立(念処・念住)を境処の拠点とする。また、対象において堅固に確立していることから、石柱のように、さらに、眼の門等を守護することから、門番のように、見られるべきである。

 

※ テキストには asammoharasā とあるが、VRI版により asammosarasā と読む。

 

466.

 

§142  (11・12)身体による悪しき行ない等々によって恥じ入る、ということで、「恥〔の思い〕()」。これは、恥の同義語である。まさしく、それら〔の身体による悪しき行ない等々〕によって〔心が〕咎める、ということで、「〔良心の〕咎め()」。これは、悪あることからの戦慄(悪にたいする不安や恐怖)の同義語である。そこにおいて、恥〔の思い〕は、悪あることから忌避することを特相とし、〔良心の〕咎めは、〔悪あることから〕恐懼することを特相とし、恥〔の思い〕は、恥の行相によって諸々の悪を為さないことを効用(機能・性行)とし、〔良心の〕咎めは、恐懼の行相によって〔諸々の悪を為さないことを効用とし〕、そして、これらは、まさしく、〔前に〕説かれた流儀によって、〔両者ともに〕悪あることから退縮することを現起(現状)とし、〔恥の思いは〕自己への尊重〔の思い〕を〔良心の咎めは〕他者への尊重〔の思い〕を境処の拠点(直接原因)とする。【465】良家の嫁のように、自己を重きものと為して、恥〔の思い〕によって悪を捨棄し、娼婦のように、他者を重きものと為して、〔良心の〕咎めによって悪を捨棄する。そして、これらの二つの法(性質)は、世を警護するものである、と見られるべきである。

 

467.

 

§143  (13・14・15)それによって、〔人々は〕貪らない、あるいは、自ずと、貪らない、あるいは、これは、まさしく、貪らないことそのものである、ということで、「貪欲なき〔あり方〕(無貪)」。憤怒なき〔あり方〕(無瞋)と迷妄なき〔あり方〕(無痴)についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。それらのうち、貪欲なき〔あり方〕は、蓮の花弁における水滴のように、対象にたいする心の貪求なき〔状態〕を特相とし、あるいは、〔対象にたいし〕付着なき状態を特相とし、解脱した比丘のように、〔対象にたいし〕遍き収取なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、不浄物のなかに落ちた人のように、〔対象にたいし〕執着なき状態を現起(現状)とする。

 

468.

 

 憤怒なき〔あり方〕は、随順する朋友(気の合う親友)のように、狂暴ならざる〔状態〕を特相とし、あるいは、〔他者にたいし〕反感なき〔状態〕を特相とし、栴檀のように、憤懣〔の思い〕の調伏(取り除き)を効用(機能・性行)とし、あるいは、苦悶〔の思い〕の調伏を効用とし、満月のように、温和なる状態を現起(現状)とする。

 

469.

 

 迷妄なき〔あり方〕は、巧みな智ある射手によって放たれた矢が〔髪の毛を〕貫くように、自ずからの状態のとおりの理解を特相とし、あるいは、惑乱なき理解を特相とし、灯明のように、境域を照らすことを効用(機能・性行)とし、林に在する善き説示者(案内人)のように、迷妄なき〔状態〕を現起(現状)とする。そして、これらは、三つもろともに、一切の善なるものの根元として有るものである、と見られるべきである。

 

470.

 

§144  (16・17)身体を静息させることが、「身体の静息」。心を静息させることが、「心の静息」。そして、「身体」とは、ここにおいて、感受〔作用〕等々の三つの範疇(感受作用・表象作用・諸々の形成作用)と〔説かれる〕(物質的な身体ではなく、精神的な身体を意味する)。また、身体〔の静息〕と心の静息は、これらの両者ともどもに一つに為して(一括して)、身体と心の懊悩の寂止を特相とし、身体と心の懊悩を撃破することを効用(機能・性行)とし、身体と心が震動しない清涼の状態を現起(現状)とし、身体と心を境処の拠点(直接原因)とする。身体と心の寂止ならざる〔状態〕を作り為す高揚(掉挙)等の〔心の〕汚れと相反するもの(煩悩の対処法)として有るものである、と見られるべきである。

 

§145  (18・19)身体の軽快なる状態が、「身体の軽快性」。心の軽快なる状態が、「心の軽快性」。それらは、身体と心の鈍重なる状態の寂止を特相とし、身体と心の鈍重なる状態を撃破することを効用(機能・性行)とし、身体と心の遅鈍性なき〔状態〕を現起(現状)とし、身体と心を境処の拠点(直接原因)とする。身体と心の鈍重なる状態を作り為す沈滞と眠気(昏沈睡眠)等の〔心の〕汚れと相反するものとして有るものである、と見られるべきである。

 

§146  (20・21)身体の柔和なる状態が、「身体の柔和性」。心の柔和なる状態が、「心の柔和性」。それらは、身体と心の強情なる状態の寂止を特相とし、身体と心の強情なる状態を撃破することを効用(機能・性行)とし、敵対なき〔状態〕を現起(現状)とし、身体と心を境処の拠点(直接原因)とする。身体と心の強情なる状態を作り為す見解()や思量()等の〔心の〕汚れと相反するものとして有るものである、と見られるべきである。

 

§147  (22・23)身体の行為に適する状態が、「身体の行為適合性」。心の行為に適する状態が、「心の行為適合性」。それらは、身体と心の行為に適さない状態の寂止を特相とし(※)、【466】身体と心の行為に適さない状態を撃破することを効用(機能・性行)とし、身体と心の対象を作り為すことの得達(対象の的確な把握)を現起(現状)とし、身体と心を境処の拠点(直接原因)とする。身体と心の行為に適さない状態を作り為す残りの〔修行の〕妨害()等と相反するものとして有るものであり、諸々の浄信するべき事例において浄信をもたらすものであり、諸々の利益ある所作にたいする確たる専念への受認ある状態をもたらすものであり、〔加工前の〕黄金の清浄〔の状態〕のようなものである、と見られるべきである。

 

※ テキストには kāyacittakammaññabhāvavūpasamalakkhaā とあるが、VRI版により kāyacittākammaññabhāvavūpasamalakkhaā と読む。

 

§148  (24・25)身体の熟練の状態が、「身体の熟練性」。心の熟練の状態が、「心の熟練性」。それらは、身体と心の病なき状態を特相とし、身体と心の病を撃破することを効用(機能・性行)とし、危険なき〔状態〕を現起(現状)とし、身体と心を境処の拠点(直接原因)とする。身体と心の病を作り為す不信等と相反するものとして有るものである、と見られるべきである。

 

§149  (26・27)身体の真っすぐな状態が、「身体の真直性」。心の真っすぐな状態が、「心の真直性」。それらは、身体と心の正直な〔状態〕を特相とし、身体と心の屈曲の状態を撃破することを効用(機能・性行)とし、歪曲なき〔状態〕を現起(現状)とし、身体と心を境処の拠点(直接原因)とする。身体と心の屈曲の状態を作り為す幻惑()や狡猾()等と相反するものとして有るものである、と見られるべきである。

 

471.

 

§150  (28)「欲〔の思い〕(:意欲)」とは、これは、為すことを欲することの同義語である。それゆえに、〔まさに〕その、欲〔の思い〕は、為すことを欲することを特相とし、対象を遍く探し求めることを効用(機能・性行)とし、対象を義(目的)とすることを現起(現状)とし、まさしく、その〔対象を義とすること〕を、それにとっての境処の拠点(直接原因)とする。これは、対象を収め取ることにおいて、心の手を伸ばすことのように見られるべきである。

 

472.

 

§151  (29)信念することが、「信念(勝解)」。それは、〔心を〕確定することを特相とし、逡巡しないことを効用(機能・性行)とし、決定を現起(現状)とし、確定されるべき法(性質)を境処の拠点(直接原因)とする。対象にたいする動揺なき状態によって、インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)のように見られるべきである。

 

473.

 

§152  (30)作用が、為すこと。意において〔対象に結び付けることを〕為すことが、「意を為すこと(作意)」。前の意と相同ならざる意を為す、ということでもまた、「意を為すこと」。〔まさに〕その、この〔意を為すこと〕は、対象に行かせるもの、〔心の作用の〕道程に行かせるもの、疾走〔作用〕に行かせるもの、という、三つの流儀がある。

 そこにおいて、対象に行かせるものは、意において〔対象に結び付けることを〕為すこと、ということで、意を為すこととなる。それは、〔意を対象に〕流れ行かせることを特相とし、〔対象と〕結び付いた〔諸々の心と心の属性〕を対象に結び付けることを効用(機能・性行)とし、対象に対面する状態を現起(現状)とし、対象を境処の拠点(直接原因)とする。諸々の形成〔作用〕の範疇に属しているものであり、対象に行かせることによって、〔対象と〕結び付いた〔諸々の心と心の属性〕にとって馭者のように見られるべきである。また、「〔心の作用の〕道程に行かせるもの」とは、これは、五つの門における〔心を対象に〕傾注する〔作用〕(70)の同義語である。「疾走〔作用〕に行かせるもの」とは、これは、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用〕(71)の同義語である。それら〔の二つ〕は、ここでは、志向するところではない(対象に行かせるものだけが、その意味するところとなる)。

 

474.

 

§153  (31)〔結び付いたものとしてある〕それらの諸法(性質)にたいし中なること(中庸の態度を取ること・放捨)が、「そこに中なること」。それは、〔結び付いたものとしてある〕諸々の心と心の属性(心心所:心と心に現起する作用・感情)を平等に取り扱うことを特相とし、不足と増上のものから防ぎ護ること(過不足なくあること)を効用(機能・性行)とし、【467】あるいは、偏向を断ち切ることを効用とし、中なる状態を現起(現状)とする。諸々の心と心の属性を放捨する状態によって、平等に等しく転起された良馬たちを放捨する馭者のように見られるべきである。

 

§154  (32・33)慈悲()、さらに、歓喜()は、まさしく、梵住についての釈示において説かれた方法によって(Ch.9§94-5)、知られるべきである。まさに、単に、それら(梵住としての慈悲と歓喜)は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た、形態の行境(色界)のものであり、これらは、欲望の行境(欲界)のものである、という、このことだけが、差異となる。また、或る者たちは、慈愛()と放捨()をもまた、〔生起が〕決定していないもののうちに求めるが、それは、収め取られるべきではない(承認できない)。まさに、義(意味)〔の観点〕から、慈愛は、まさしく、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)であり、放捨は、まさしく、そこに中なることである、と〔知られるべきである〕。

 

475.

 

§155  (34・35・36)身体による悪しき行ないから離去することが、「身体による悪しき行ないからの離去」。残りのもの(言葉による悪しき行ないからの離去と誤った生き方からの離去)についてもまた、これが、〔共通する説示の〕方法となる。また、これらは、特相等〔の観点〕から、三つもろともに、身体による悪しき行ない等の〔対象となる〕諸々の事物にたいし違犯なき〔状態〕を特相とし──蹂躙なき〔状態〕を特相とする、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る──身体による悪しき行ない等の〔対象となる〕事物から退縮することを効用(機能・性行)とし、〔悪しき〕作用なき〔状態〕を現起(現状)とし、信や恥〔の思い〕や〔良心の〕咎めや少なき欲求たること等の徳を境処の拠点(直接原因)とする。悪しき作用から心が離反する状態と成ったもの、と見られるべきである(※)。

 

※ テキストには vimukhabhāvabhūtā ti とあるが、VRI版により vimukhabhāvabhūtā ti daṭṭhabbā と読む。

 

476.

 

§156  かくのごとく、まさしく、これらの三十六の形成〔作用〕が、第一の欲望の行境の善なる識知〔作用〕(1:悦意を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの)と、結合へと至る(相応し結び付く)、と知られるべきである。そして、すなわち、第一のものと〔結び付く〕ように、このように、第二のもの(2:悦意を共具し知恵と結び付き形成作用を有するもの)ともまた、〔三十六の形成作用が、結合へと至る〕。なぜなら、まさしく、形成〔作用〕を有する状態(意志を有し意識的ではあるが消極的かつ他律的な行為のあり方:§84)のみが、ここにおいて、差異となるからである。また、第三のもの(3:悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用なきもの)とは、迷妄なき〔あり方〕を除いて、残り〔の三十五の形成作用〕が、〔結合へと至る、と〕知られるべきである。そのように、第四のもの(4:悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するもの)と、〔三十五の形成作用が、結合へと至る〕。なぜなら、まさしく、形成〔作用〕を有する状態のみが、ここにおいて、差異となるからである。また、第一のものにおいて説かれた〔三十六の形成作用〕のうち、喜悦を除いて、残り〔の三十五の形成作用〕が、第五のもの(5:放捨を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの)と、結合へと至る(相応し結び付く)。そして、すなわち、第五のものと〔結び付く〕ように、このように、第六のもの(6:放捨を共具し知恵と結び付き形成作用を有するもの)ともまた、〔三十五の形成作用が、結合へと至る〕。なぜなら、まさしく、形成〔作用〕を有する状態のみが、ここにおいて、差異となるからである。また、そして、第七のもの(7:放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用なきもの)とは、〔喜悦と〕迷妄なき〔あり方〕を除いて、残り〔の三十四の形成作用〕が、〔結合へと至る、と〕知られるべきである。そのように、第八のもの(8:放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用を有するもの)と、〔三十四の形成作用が、結合へと至る〕。なぜなら、まさしく、形成〔作用〕を有する状態のみが、ここにおいて、差異となるからである。

 

§157  〔欲望の行境の〕第一のもの(1:悦意を共具し知恵と結び付き形成作用なきもの)において説かれた〔三十六の形成作用〕のうち、三つの離去を除いて、残り〔の三十三の形成作用〕が、形態の行境の諸々の善なるもののうち、第一のもの(9:思考と想念と喜悦と安楽と禅定と結び付いたもの)と、結合へと至る(相応し結び付く)。それから思考を除く〔三十二の形成作用〕が、第二のもの(10:思考を超越したもの)と、〔結合へと至る〕。それから想念を除く〔三十一の形成作用〕が、第三のもの(11:想念を超越したもの)と、〔結合へと至る〕。それから喜悦を除く〔三十の形成作用〕が、第四のもの(12:喜悦が離貪したもの)と、〔結合へと至る〕。それから〔生起が〕決定していないもののうちの慈悲と歓喜を除く〔二十八の形成作用〕が、第五のもの(13:安楽が滅却に至り、放捨と禅定と結び付いたもの)と、〔結合へと至る〕。

 四つの形態なき善なるもの(14・15・16・17)については、まさしく、それら〔の二十八の形成作用〕が、〔四つの形態なき善なるもののそれぞれと、結合へと至る〕。なぜなら、まさしく、形態なき行境の状態が、ここにおいて、差異となるからである。

 

§158  諸々の世〔俗〕を超えるもの(18・19・20・21)について。まずは、第一の瞑想に属する〔四つの〕道の識知〔作用〕(18)については、第一の形態の行境の〔善なる〕識知〔作用〕(9)において説かれた方法によって、第二の瞑想に属するもの等の細別(19・20・21)については、まさしく、第二の形態の行境の〔善なる〕識知〔作用〕等々(10・11・12・13)において説かれた方法によって、知られるべきである。また、慈悲と歓喜の状態なきこと、〔生起が〕決定している離去たること、さらに、世〔俗〕を超えるものたること、という、【468】このことが、ここにおいて、差異となる。まずは、このように、まさしく、諸々の善なる形成〔作用〕が知られるべきである。

 

477.

 

 [5―2 善ならざるもの]

 

§159  諸々の善ならざるものについて。まずは、貪欲を根元とする〔心〕における、第一の善ならざるもの(22:悦意を共具し悪しき見解と結び付き形成作用なきもの)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、〔生起が〕決定しているものとして〔聖典において〕明確に言及されたもの(ダンマ・サンガニp.75)が十三、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれたもの〕が四つ、ということで、十七〔の形成作用〕(心所・心の属性)がある。

 そこにおいて、(1)接触、(2)思欲、(3)思考、(4)想念、(5)喜悦、(6)精進、(7)生命、(8)禅定、(9)恥〔の思い〕なき〔生き方〕、(10)〔良心の〕咎めなき〔生き方〕、(11)貪欲、(12)迷妄、(13)誤った見解、という、これらが、〔聖典において〕明確に言及された十三のものである。(14)欲〔の思い〕、(15)信念、(16)〔心の〕高揚、(17)意を為すこと、という、これらが、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれた〕四つのものである。

 

478.

 

§160  (9・10:37・38)そこにおいて、恥じ入ることがない、ということで、恥〔の思い〕なき者。恥〔の思い〕なき者の状態が、「恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)」。〔心が〕咎めることがない、ということで、「〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)」。それらのうち、恥〔の思い〕なき〔生き方〕は、身体による悪しき行ない等々から忌避しないことを特相とし、あるいは、恥なき〔あり方〕を特相とし、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕は、まさしく、それら〔の身体による悪しき行ない等々〕による、恐れおののきなき〔あり方〕を特相とし、あるいは、恐懼なき〔あり方〕を特相とする。ここにおいて、これが、簡略〔の言説〕となる。また、詳細〔の言説〕は、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めに説かれたものと相反するものを所以に知られるべきである。

 

479.

 

§161  (11・12:39・40)それによって、〔人々は〕貪る、あるいは、自ずと、貪る、あるいは、それは、まさしく、貪ることそのものである、ということで、「貪欲()」。それによって、〔人々は〕迷う、あるいは、自ずと、迷う、あるいは、それは、まさしく、迷うことそのものである、ということで、「迷妄()」。

 

§162  それらのうち、貪欲は、猿の塗薬(とりもち)のように、対象を収め取ることを特相とし、熱釜に投げ込まれた肉片のように、執着を効用(機能・性行)とし、油の黒い染みのように、完全に捨て去ることなき〔状態〕を現起(現状)とし、結び付けられるべき諸々の法(性質)において悦楽を見ることを境処の拠点(直接原因)とする。激しく流れる川が大海に〔至り行く〕ように、渇愛の川の状態によって増大しながら、〔貪る者を〕収め取って、まさしく、悪所に赴く、と見られるべきである。

 

480.

 

§163  迷妄は、心の暗愚なる状態を特相とし、あるいは、無知(知恵なき状態)を特相とし、理解なきことを効用(機能・性行)とし、あるいは、対象の自ずからの状態を隠蔽することを効用とし、正しからざる実践を現起(現状)とし、あるいは、暗黒(盲目状態)を現起とし、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)を境処の拠点(直接原因)とする。一切の善ならざるものの根元である、と見られるべきである。

 

481.

 

§164  (13:41)それによって、〔人々は〕誤って見る、あるいは、自ずと、誤って見る、【469】あるいは、これは、誤って見ることそのものである、ということで、「誤った見解(邪見)」。それは、根源のままならざる〔理解の〕固着(対象認知)を特相とし、偏執を効用(機能・性行)とし、誤った〔理解の〕固着を現起(現状)とし、聖者たちと会見することを欲さないこと等を境処の拠点(直接原因)とする。最高の罪過である、と見られるべきである。

 

482.

 

§165  (16:42)〔心が〕高揚した状態が、「〔心の〕高揚(掉挙)」。それは、風に打たれ動揺する水のように、寂止なき〔状態〕を特相とし、風に打たれ動揺する旗や幟のように、確立なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、岩に打たれ巻き上げられた灰のように、迷走を現起(現状)とし、心の寂止なき〔状態〕において根源のままならずに意を為すことを境処の拠点(直接原因)とする。心の散乱である、と見られるべきである。

 

§166  残りのものは、まさしく、善なるものにおいて(※)説かれた方法によって、知られるべきである。なぜなら、これら〔の善ならざるもの〕の、善ならざる状態だけが、さらに、善ならざる状態によって悪辣なることが、それら〔の善なるもの〕との差異となるからである。

 

※ テキストには akusale とあるが、VRI版により kusale と読む。

 

483.

 

 かくのごとく、これらの十七の形成〔作用〕が、第一の善ならざる識知〔作用〕(22:悦意を共具し悪しき見解と結び付き形成作用なきもの)と、結合へと至る(相応し結び付く)、と知られるべきである。そして、すなわち、第一のものと〔結び付く〕ように、このように、第二のもの(23:悦意を共具し悪しき見解と結び付き形成作用を有するもの)ともまた、〔十七の形成作用が、結合へと至る〕。また、ここにおいて、形成〔作用〕を有することが、さらに、(18)〔心の〕沈滞と(19)眠気があり、〔生起が〕決定していないことが、差異となる(心の沈滞と眠気を加えた十九の形成作用が、結合へと至る)。

 

§167  (18・19:43・44)そこにおいて、〔心が〕沈滞することが、「〔心の〕沈滞(昏沈)」。眠気あることが、「眠気(睡眠)」。邁進〔の思い〕なく麻痺すること、さらに、能なく打破された(※)、という義(意味)である。そして、〔心の〕沈滞が、さらに、眠気が、〔両者を合わせたものが〕「〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)」。そこにおいて、〔心の〕沈滞は、邁進〔の思い〕なき〔状態〕を特相とし、精進を除去することを効用(機能・性行)とし、〔心の〕消沈を現起(現状)とする。眠気は、行為適合性なき〔状態〕を特相とし、閉塞することを効用(機能・性行)とし、畏縮することを現起(現状)とし、あるいは、居眠りや睡眠を現起とする。両者ともどもに、不満〔の思い〕(退屈感)や欠伸(あくび)等々において根源のままならずに意を為すことを境処の拠点(直接原因)とする。

 

※ テキストには āsattivighāto とあるが、VRI版により asattivighāto と読む。

 

§168  第三のもの(24:悦意を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用なきもの)とは、第一のものにおいて説かれた〔十七の形成作用〕のうち、誤った見解を除いて、残りのものが、〔結合へと至る、と〕知られるべきである。また、ここにおいて、(17)思量()が、〔生起が〕決定していないものとして有る。これが、差異となる(思量を加えた十七の形成作用が、結合へと至る)。

 (17:45)それ(思量)は、傲慢を特相とし、横柄なることを効用(機能・性行)とし、〔自己を〕顕示することを欲することを現起(現状)とし、見解と結び付かない貪欲を境処の拠点(直接原因)とする。狂者のように見られるべきである。

 第四のもの(25:悦意を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用を有するもの)とは、第二のものにおいて説かれた〔十九の形成作用〕のうち、誤った見解を除いて、残りのものが、〔結合へと至る、と〕知られるべきである。そして、ここにおいてもまた、諸々の〔生起が〕決定していないもののうち、思量が、まさしく、有る。

 

§169  また、第一のものにおいて説かれた〔十七の形成作用〕のうち、喜悦を除いて、残りのものが、第五のもの(26:放捨を共具し悪しき見解と結び付き形成作用なきもの)と、結合へと至る(相応し結び付く)。そして、すなわち、第五のものと〔結び付く〕ように、このように、第六のもの(27:放捨を共具し悪しき見解と結び付き形成作用を有するもの)ともまた、〔十六の形成作用が、結合へと至る〕。また、ここにおいて、形成〔作用〕を有することが、さらに、(17)〔心の〕沈滞と(18)眠気があり、〔生起が〕決定していない状態が、差異となる(心の沈滞と眠気を加えた十八の形成作用が、結合へと至る)。第七のもの(28:放捨を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用なきもの)とは、第五のものにおいて説かれた〔十六の形成作用〕のうち、〔誤った〕見解を除いて、残りのものが、〔結合へと至る、と〕知られるべきである。また、ここにおいて、(16)思量が、〔生起が〕決定していないものとして有る(思量を加えた十六の形成作用が、結合へと至る)。第八のもの(29:放捨を共具し悪しき見解と結び付かず形成作用を有するもの)とは、第六のものにおいて説かれた〔十八の形成作用〕のうち、〔誤った〕見解を除いて、残りのものが、〔結合へと至る、と〕知られるべきである。そして、ここにおいてもまた、諸々の〔生起が〕決定していないもののうち、(18)思量が、まさしく、有る(思量を加えた十八の形成作用が、結合へと至る)、と〔知られるべきである〕。

 

484.

 

§170  また、二つの憤怒を根元とする〔心〕のうち、【470】まずは、第一の〔善ならざる〕もの(30:失意を共具し敵対と結び付いた形成作用なきもの)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、〔生起が〕決定しているものとして〔聖典において〕明確に言及されたもの(ダンマ・サンガニp.83)が十一、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれたもの〕が四つ、〔生起が〕決定していないものが三つ、ということで、十八〔の形成作用〕(心所・心の属性)がある。

 そこにおいて、(1)接触、(2)思欲、(3)思考、(4)想念、(5)精進、(6)生命、(7)禅定、(8)恥〔の思い〕なき〔生き方〕、(9)〔良心の〕咎めなき〔生き方〕、(10)憤怒、(11)迷妄、という、これらが、〔聖典において〕明確に言及された十一のものである。(12)欲〔の思い〕、(13)信念、(14)〔心の〕高揚、(15)意を為すこと、という、これらが、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれた〕四つのものである。(16)嫉妬、(17)物惜、(18)悔恨、という、これらが、〔生起が〕決定していない三つのものである。

 

485.

 

§171  (10:46)そこにおいて、それによって、〔人々は〕怒る、あるいは、自ずと、怒る、あるいは、それは、まさしく、怒ることそのものである、ということで、「憤怒()」。それは、〔棒で〕打たれた毒蛇のように、狂暴を特相とし、毒の落下のように、拡散することを効用(機能・性行)とし、あるいは、山火事のように、自己の依所(身体)を焼くことを効用とし、機会を得た敵のように、怒ることを現起(現状)とし(※)、〔九つの〕憤懣の基盤(アングッタラ・ニカーヤ4p.408)を境処の拠点(直接原因)とする。毒と交わり合った腐尿のように見られるべきである。

 

※ テキストには dusanapaccupaṭṭhāno とあるが、VRI版により dūsanapaccupaṭṭhāno と読む。

 

486.

 

§172  (16:47)嫉妬することが、「嫉妬()」。それは、他者の諸々の得達を嫉妬することを特相とし、まさしく、そこにおいて、喜びなきことを効用(機能・性行)とし、その〔得達〕から顔を背ける状態を現起(現状)とし、他者の得達を境処の拠点(直接原因)とする。束縛するものである、と見られるべきである。

 

487.

 

§173  (17:48)物惜の状態が、「物惜()」。それは、あるいは、得られたものであれ、あるいは、得られるべきものであれ、自己の諸々の得達を隠匿することを特相とし、まさしく、それらを、他者たちと共有する状態の受認なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、退縮することを現起(現状)とし、あるいは、緊縮することを現起とし、自己の得達を境処の拠点(直接原因)とする。心にとって醜い形態の状態である、と見られるべきである。

 

488.

 

§174  (18:49)嫌悪された所為が、悪しき所為(クカタ)。その〔悪しき所為〕の状態が、「悔恨(悪作:クックッチャ)」。それは、後に悩み苦しむことを特相とし、為したことや為さなかったことに憂い悲しむことを効用(機能・性行)とし、後悔を現起(現状)とし、為したことや為さなかったことを境処の拠点(直接原因)とする。奴隷たること(隷属状態)のように見られるべきである。

 

§175  残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた流儀のものとなる、と〔知られるべきである〕。

 かくのごとく、これらの十八の形成〔作用〕が、第一の憤怒を根元とする〔心〕(30:失意を共具し敵対と結び付いた形成作用なきもの)と、結合へと至る(相応し結び付く)、と知られるべきである。そして、すなわち、第一のものと〔結び付く〕ように、このように、第二のもの(31:失意を共具し敵対と結び付いた形成作用を有するもの)ともまた、〔十八の形成作用が、結合へと至る〕。また、形成〔作用〕を有することが、さらに、諸々の〔生起が〕決定していないもののうち、まさしく、(19)〔心の〕沈滞と(20)眠気の発生あることが、差異となる(心の沈滞と眠気を加えた二十の形成作用が、結合へと至る)。

 

489.

 

§176  二つの迷妄を根元とする〔心〕のうち、まずは、疑惑と結び付いたもの(32:放捨を共具し疑惑と結び付いたもの)と〔結び付いた諸々の形成作用は〕、【471】(1)接触、(2)思欲、(3)思考、(4)想念、(5)精進、(6)生命、(7)心の止住、(8)恥〔の思い〕なき〔生き方〕、(9)〔良心の〕咎めなき〔生き方〕、(10)迷妄、(11)疑惑〔の思い〕、という、〔聖典において〕明確に言及されたもの(ダンマ・サンガニp.85)が十一、(12)〔心の〕高揚、(13)意を為すこと、という、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれたもの〕が二種、ということで、十三〔の形成作用〕(心所・心の属性)がある。

 

490.

 

§177  (7)そこにおいて、「心の止住」は、転起の止住ほどのものにして、力弱き禅定(一境性)である。

 (11:50)離れ去った癒し(ヴィガター・チキッチャー)、ということで、「疑惑〔の思い〕(:ヴィチキッチャー)」。それは、疑念を特相とし、〔心を〕動かすことを効用(機能・性行)とし、決定なき〔状態〕を現起(現状)とし、あるいは、一定ならざる収取を現起とし、疑惑〔の思い〕における根源のままならずに意を為すことを境処の拠点(直接原因)とする。実践の障りを作り為すものである、と見られるべきである。

 残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた流儀のものとなる。

 

§178  高揚と結び付いたもの(33:放捨を共具し高揚と結び付いたもの)と〔結び付いた諸々の形成作用は〕、疑惑と結び付いたもの(32)において説かれた〔十三の形成作用〕のうち、疑惑〔の思い〕を除いて、残りの十二〔の形成作用〕がある。また、疑惑〔の思い〕の状態がないことによって、ここにおいて、(13)信念が生起する。それと共に、まさしく、十三〔の形成作用〕があり、そして、信念の発生あることから、〔心の止住は〕より力ある禅定と成る。そして、ここにおいて、すなわち、〔心の〕高揚は、それは、まさしく、〔聖典において〕明確に言及されたもの(ダンマ・サンガニp.86)であり、信念と意を為すことは、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれたもの〕を所以に〔知られるべきである〕。ということで、このように、まさしく、諸々の善ならざる形成〔作用〕が知られるべきである。

 

491.

 

 [5―3 〔善悪が〕説き明かされないもの]

 

§179  諸々の〔善悪が〕説き明かされないものについて。(1)まずは、報いとしての〔善悪が〕説き明かされない〔諸々の形成作用〕は、(1―1)因なきものと(1―2)因を有するものの細別〔の観点〕から、二種類のものとなる。

 (1―1)それらのうち、因なきものにして報いとしての識知〔作用〕と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、因なきものである。

 そこにおいて、まずは、善なる〔報いとしての眼の識知作用〕と善ならざる報いとしての眼の識知〔作用〕(34・50)と結び付いた〔諸々の形成作用〕として、(1)接触、(2)思欲、(3)生命、(4)心の止住、という、〔聖典において〕明確に言及されたもの(ダンマ・サンガニp.87)が四つ、〔聖典において〕「あるいは、また、云々」と〔簡略して説かれたもの〕は、(5)意を為すことだけ、ということで、五つ〔の形成作用〕がある。耳〔の識知作用〕(35・51)と鼻〔の識知作用〕(36・52)と舌〔の識知作用〕(37・53)と身の識知〔作用〕(38・54)と結び付いた〔諸々の形成作用〕もまた、まさしく、これら〔の五つの形成作用〕がある。

 

§180  〔善なる行為と善ならざる行為の〕両者の報いとしての意の界域(39・55)と〔結び付いた諸々の形成作用として〕、まさしく、そして、これら〔の五つの形成作用〕、さらに、(6)思考と(7)想念と(8)信念、ということで、八つ〔の形成作用〕がある。そのように、三種類の因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(40・41・56)と〔結び付いた諸々の形成作用〕もまた、〔まさしく、これらの八つの形成作用がある〕。また、ここにおいて、すなわち、悦意を共具した〔意の識知作用の界域〕(40)は、それと共に、(9)喜悦が、増上のものとして有る(喜悦を加えた九つの形成作用がある)、と知られるべきである。

 

§181  (1―2)また、因を有するものにして報いとしての識知〔作用〕と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、因を有するものである。

 それらのうち、まずは、八つの欲望の行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(42・43・44・45・46・47・48・49)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、八つの欲望の行境の善なる〔心〕(1・2・3・4・5・6・7・8)と結び付いた諸々の形成〔作用〕と、まさしく、相同のものとなる。また、すなわち、諸々の〔生起が〕決定していないもののうち、慈悲と歓喜は、それらは、有情を対象とすることから、〔八つの欲望の行境の善なる〕報い〔としての心〕においては存在しない。なぜなら、〔八つの〕欲望の行境の〔善なる〕報い〔としての心〕は、一方的に〔限定された〕微小なる対象あるものとなるからである(※)(有情を対象とすることはできない)。さらに、単に、慈悲と歓喜にあらず。〔三つの〕離去もまた、〔八つの欲望の行境の善なる〕報い〔としての心〕においては【472】存在しない。なぜなら、「五つの学びの境処(戒律)は、善なるものだけである」(ヴィバンガp.291)と説かれたからである(善悪が説き明かされない無記のものではない)。

 

※ テキストにはekattaparittārammaā とあるが、VRI版により ekantaparittārammaā と読む。

 

§182  また、形態の行境〔の善なる報いとしての心〕(57・58・59・60・61)と形態なき行境〔の善なる報いとしての心〕(62・63・64・65)と世〔俗〕を超える報いとしての識知〔作用〕(66・67・68・69)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、それらにとっての善なる識知〔作用〕(9・10・11・12・13・14・15・16・17・18・19・20・21)と結び付いた〔諸々の形成作用〕と、まさしく、相同のものとなる。

 

492.

 

§183  (2)〔報いを生まない純粋〕所作としての〔善悪が〕説き明かされない〔諸々の形成作用〕もまた、(2―1)因なきものと(2―2)因を有するものの細別〔の観点〕から、二種類のものとなる。

 (2―1)それらのうち、因なきものにして〔報いを生まない純粋〕所作としての識知〔作用〕(70・71・72)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、因なきものである。

 そして、それらは、善なる報いとしての意の界域(39)と二つの因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(40・41)と結び付いた〔諸々の形成作用〕に等しきものとなる。また、二つの意の識知〔作用〕の界域(71・72)については、精進が、増上のものとして〔有り〕、そして、精進の発生あることから、〔心の止住は〕力に至り得た禅定と成る。ここにおいて、これが、差異となる。

 

§184  (2―2)また、因を有するものにして〔報いを生まない純粋〕所作としての識知〔作用〕(73・74・75・76・77・78・79・80・81・82・83・84・85・86・87・88・89)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、因を有するものである。

 それらのうち、まずは、八つの欲望の行境の〔報いを生まない純粋〕所作としての識知〔作用〕(73・74・75・76・77・78・79・80)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、〔三つの〕離去を除いて、八つの欲望の行境の善なる〔心〕(1・2・3・4・5・6・7・8)と結び付いた諸々の形成〔作用〕と相同のものとなる。

 また、形態の行境〔の報いを生まない純粋所作としての心〕(81・82・83・84・85)と形態なき行境の〔報いを生まない純粋〕所作〔としての心〕(86・87・88・89)と結び付いた〔諸々の形成作用〕は、全てもろともの行相によって、それらにとっての善なる識知〔作用〕(9・10・11・12・13・14・15・16・17)と結び付いた〔諸々の形成作用〕と、まさしく、相同のものとなる。ということで、このように、諸々の〔善悪が〕説き明かされないものが知られるべきである。ということで──

 これが、諸々の形成〔作用〕の範疇についての詳細の言説の門となる。

 

 6 感受〔作用〕の範疇の過去等の区分

 

§185  まずは、これが、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)における、句を細別する方法による、〔五つの心身を構成する〕範疇についての詳細の言説の門となる。

 

493.

 

 また、世尊によって、「それが何であれ、形態としてあるなら、(1)過去と未来と現在の、(2)あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、(3)あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、(4)あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、(5)あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、それを一所に、集めて、纏めて、これが、『形態の範疇』〔と〕説かれる。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……纏めて、これが、『識知〔作用〕の範疇』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.1-9)と、このように、〔五つの心身を構成する〕範疇が詳知された。

 

§186  そこにおいて、「それが何であれ」とは、残りなく完全に取り上げる〔言葉〕。「形態としてあるなら」とは、超過の適用を制するもの(指示対象を限定し拡大解釈を阻止するためのもの)。このように、二つの句ともどもによって、形態についての、残りなき遍き収取が為されたことと成る(過不足なく包含された)。そこで、その〔形態〕の、過去等々による区分〔の釈示〕が始められる。まさに、それが、何であれ、過去のものも、何であれ、未来のものも、等の細別となる、と〔知られるべきである〕。これが、感受〔作用〕等々において、〔共通する説示の〕方法となる。

 

494.

 

 (1)そこにおいて、まずは、形態は、(1―1)一期と(1―2)相続と(1―3)時点と(1―4)瞬間を所以に、四種に過去がある、ということに成り、そのように、未来と現在がある(同様である)。

 

§187  (1―1)そこにおいて、まずは、一期を所以に、一者の一つの生存(一生涯)において、結生より前は過去となり、死滅より後は未来となり、両者の中間は現在となる。

 

§188  (1―2)相続を所以に、部分を共にする一つの季節から現起する〔形態〕は、さらに、〔部分を共にする〕一つの食から現起する〔形態〕は、過去と未来を所以に転起しつつ【473】もまた、現在となる。それより前において、〔現在のものと〕部分を共にしない季節と食から現起する〔形態〕は過去となり、〔それより〕後は未来となる。心から生じる〔形態〕は、〔心的作用の〕一つの道程と一つの疾走〔作用〕と一つの入定から現起する〔形態〕が現在となる。それより前は過去となり、〔それより〕後は未来となる。行為から現起する〔形態〕のばあい、単独のものとして、相続を所以に、過去等の細別が存在することはない。また、季節と食と心から現起する〔形態〕にとって、まさしく、それらにとって、〔行為から現起する形態は〕保全するものであることを所以に、その〔行為から現起する形態〕の、過去等の状態が知られるべきである。

 

§189  (1―3)時点を所以に、一刻や早刻や夕刻や夜や昼等々の諸時点において、〔形態が〕相続することを所以に転起している、その〔時点〕、その時点が、「現在」ということになる。それより前は過去となり、〔それより〕後は未来となる。

 

§190  (1―4)瞬間を所以に、生起等の三つ(生起・止住・滅壊)の瞬間に属している〔形態〕は現在となる。それより前は過去となり、〔それより〕後は未来となる。

 

§191  さらに、また、因と縁の作用が超え行った〔形態〕は過去となり、因の作用が終了したが縁の作用が終了していない〔形態〕は現在となり、両者の作用が達し得ていない〔形態〕は未来となる。あるいは、作用を有する瞬間における〔形態が〕現在となる。それより前は過去となり、〔それより〕後は未来となる。そして、ここにおいて、瞬間等の言説(1―4)だけが、教相なきもの(逐語的理論的説明)であり、残りのものは、教相を有するもの(比喩的具体的説明)となる。

 

495.

 

§192  (2)内なるものと外なるものの細別は、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(§73)。さらに、また、ここでは、自分の内なる〔形態〕もまた、内なるものとなり、さらに、他の人の〔形態〕もまた、外なるものとなる、と知られるべきである。

 

§193  (3)粗雑なるものと繊細なるものの細別は、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(§73)。

 

496.

 

 (4)下劣なるものと精妙なるものの細別は、教相〔の観点〕(比喩的具体的説明)から、さらに、教相なき〔観点〕(逐語的理論的説明)から、二種類のものとなる。そこにおいて、色究竟〔天の神々〕たちの形態より、善見〔天の神々〕たちの形態は下劣なるものとなる。まさしく、その〔善見天の神々たちの形態〕は、善現〔天の神々〕たちの形態より、精妙なるものとなる。このように、すなわち、地獄の有情たちの形態まで、そのかぎりが、教相〔の観点〕から、下劣なると精妙なることが知られるべきである。また、教相なき〔観点〕から〔説くなら〕、そこにおいて、善ならざる報いが生起するなら、その〔形態〕は、下劣なるものとなり、そこにおいて、善なる報いが〔生起するなら〕、その〔形態〕は、精妙なるものとなる。

 

§194  (5)「遠方にあるも、現前にあるも」とは、これもまた、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(§73)。さらに、また、ここにおいて、空間〔の観点〕からもまた、相対的な遠近性が知られるべきである。

 

497.

 

§195  「それを一所に、集めて、纏めて」とは、その、過去等々の諸句によって個々別々に釈示された形態の全てが、「壊れ崩れることという特相」と名づけられた一種類の状態において、智慧によって集まりと為して、「形態の範疇」と説かれる、ということで、ここにおいて、これが、〔その〕義(意味)となる。

 

§196  これによって、形態は、全てもろともに、壊れ崩れることという特相において、集まりの状態に近しく赴くことによって、「形態の範疇」と見示されたものと成る。なぜなら、形態より他に、「形態の範疇」というものは存在しないからである。

 

498.

 

 【474】そして、すなわち、形態のように、このように、感受〔作用〕等々もまた、感受されたものという特相等々において、集まりの状態に近しく赴くことによって、〔感受作用の範疇等々である、と見示されたものと成る〕。なぜなら、感受〔作用〕等々より他に、「感受〔作用〕の範疇等々」というものは存在しないからである。

 

§197  (1)また、ここにおいて、過去等の区分については、(1―1)相続を所以に、さらに、(1―2)瞬間等を所以に、感受〔作用〕の過去と未来と現在の状態が知られるべきである。

 (1―1)そこにおいて、相続を所以に、〔心的作用の〕一つの道程と一つの疾走〔作用〕と一つの入定に属している〔感受作用〕で、かつまた、一つの種類の(※)境域(対象)と結び付くものとして転起された〔感受作用〕が現在となる。それより前は過去となり、〔それより〕後は未来となる。

 (1―2)瞬間等を所以に、〔生起等の〕三つ(生起・止住・滅壊)の瞬間に属している〔感受作用〕で、過去の極と未来の極の中間に在し、かつまた、自らの作用を為している感受〔作用〕が現在となる。それより前は過去となり、〔それより〕後は未来となる。

 

※ テキストにはekavīthi とあるが、注釈書(Visuddhimagga-mahāīkā)により ekavidha と読む。

 

§198  (2)内なるものと外なるものの細別は、自分の内なる〔感受作用〕を所以に知られるべきである。

 

499.

 

 (3)粗雑なるものと繊細なるものの細別については、「善ならざる感受〔作用〕は、粗雑なるものとなり、善なる〔感受作用〕と〔善悪が〕説き明かされない感受〔作用〕は、繊細なるものとなる」(ヴィバンガp.3)という〔言葉〕等の方法によって、『ヴィバンガ(分別論)』において説かれた、(3―1)類と(3―2)自ずからの状態と(3―3)人と(4―4)世〔俗〕のもの(世間)と世〔俗〕を超えるもの(出世間)を所以に知られるべきである。

 

§199  (3―1)まずは、類を所以に、善ならざる感受〔作用〕は、罪過を有する作用の因たることから、さらに、〔心の〕汚れ(煩悩)の熱苦の状態あることから、寂止ならざる転起あるものとなる、ということで、善なる感受〔作用〕より、粗雑なるものとなり、労苦を有することから、邁進〔の思い〕を有することから、報いを有することから、〔心の〕汚れの熱苦の状態あることから、さらに、罪過を有することから、報いとしての〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕より、粗雑なるものとなり、報いを有することから、〔心の〕汚れの熱苦の状態あることから、憎悪〔の思い〕を有することから(※)、さらに、罪過を有することから、〔報いを生まない純粋〕所作としての〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕より、粗雑なるものとなる。また、善なる〔感受作用〕と〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕は、〔前に〕説かれたところと反対なることから、善ならざる〔感受作用〕より、繊細なるものとなる。善なる〔感受作用〕と善ならざる感受〔作用〕は、二つともどもに、労苦を有することから、邁進〔の思い〕を有することから、さらに、報いを有することから、道理のままに、二種類の〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕よりもまた、粗雑なるものとなる。〔前に〕説かれたところと反対なることによって、〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕は、二種類ともどもに、それら(善なる感受作用と善ならざる感受作用)より、繊細なるものとなる。まずは、このように、類を所以に、粗雑なると繊細なることが知られるべきである。

 

※ テキストにはsabyābajjato とあるが、VRI版により sabyābajjhato と読む。

 

500.

 

§200  (3―2)また、自ずからの状態を所以に、苦の感受〔作用〕(苦受)は、悦楽なきことから、拡散を有することから、変動を為すことから、戦慄させられるべきことから、さらに、〔他を〕征服することから、他の二つ〔の感受作用〕(楽の感受作用と苦でもなく楽でもない感受作用)より、粗雑なるものとなる。また、他の二つ〔の感受作用〕は、快楽なることから、寂静なることから、精妙なることから、意に適うことから、さらに、中なることから、道理のままに、苦〔の感受作用〕より、繊細なるものとなる。また、楽〔の感受作用〕と苦〔の感受作用〕の両者は、拡散を有することから、変動を為すことから、さらに、明白なることから、苦でもなく楽でもない〔感受作用〕より、粗雑なるものとなる。その〔苦でもなく楽でもない感受作用〕は、〔前に〕説かれたところと反対なることによって、その両者より、繊細なるものとなる。このように、自ずからの状態を所以に、粗雑なると繊細なることが知られるべきである。

 

501.

 

§201  (3―3)また、人を所以に、入定していない者の感受〔作用〕は、種々なる対象において散乱した状態あることから、入定した者の感受〔作用〕より、粗雑なるものとなる。〔前に説かれたところと〕反対なるによって、他〔の入定した者の感受作用〕は、繊細なるものとなる。このように、人を所以に、粗雑なると繊細なることが知られるべきである。

 

§202  (3―4)【475】また、世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものを所以に、煩悩()を有する感受〔作用〕は、世〔俗〕のものであり、それは、煩悩の生起の因たることから、〔欲の〕激流(暴流)となるべきことから、束縛()となるべきことから、拘束()となるべきことから、〔修行の〕妨害()となるべきことから、執取()となるべきことから、〔心の〕汚染(雑染)たることから、さらに、凡夫と共通のものたることから、煩悩なき〔感受作用〕(世俗を超えるもの)より、粗雑なるものとなる。その〔煩悩なき感受作用〕は、〔前に説かれたところと〕反対なるによって、煩悩を有する〔感受作用〕(世俗のもの)より、繊細なるものとなる。このように、世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものを所以に、粗雑なると繊細なることが知られるべきである。

 

502.

 

§203  そこにおいて、類等を所以にする〔粗雑なるものと繊細なるものの〕混入(混同)が遍く退けられるべきである。なぜなら、善ならざる報いとしての身の識知〔作用〕と結び付いた感受〔作用〕は、〔善悪が〕説き明かされないものたることから、類を所以に、繊細なるものとして存しつつもまた、自ずからの状態等を所以に、粗雑なるものと成るからである。そして、このことが、〔聖典において〕説かれた。「〔善悪が〕説き明かされない感受〔作用〕は、繊細なるものとなり、苦の感受〔作用〕は、粗雑なるものとなる。入定した者の感受〔作用〕は、繊細なるものとなり、入定していない者の感受〔作用〕は、粗雑なるものとなる。煩悩なき感受〔作用〕は、繊細なるものとなり、煩悩を有する感受〔作用〕は、粗雑なるものとなる」(ヴィバンガp.3)と。そして、すなわち、苦の感受〔作用〕のように、このように、楽の感受〔作用〕等々もまた、類を所以に、粗雑なるものとなり、自ずからの状態等を所以に、繊細なるものと成る。

 

§204  それゆえに、すなわち、類等を所以にする〔粗雑なるものと繊細なるものの〕混入が有ることなきように、そのように、諸々の感受〔作用〕の粗雑なると繊細なることが知られるべきである。それは、すなわち、この、〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕は、類を所以に、善なる〔感受作用〕と善ならざる〔感受作用〕より、繊細なるものとなるが、そこにおいて、「どのような〔感受作用〕が、〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕であるのか。どうであろう、〔自ずからの状態として〕苦〔の感受作用〕であるのか。どうであろう、〔自ずからの状態として〕楽〔の感受作用〕であるのか。どうであろう、入定した者の〔感受作用〕であるのか。どうであろう、入定していない者の〔感受作用〕であるのか。どうであろう、煩悩を有する〔感受作用〕であるのか。どうであろう、煩悩なき〔感受作用〕であるのか」と、このように、自ずからの状態等の細別が偏執されるべきではない。これが、一切所において、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§205  さらに、また、「あるいは、また、それぞれの感受〔作用〕を相対的に〔見て〕(相互に比較して)、感受〔作用〕は、粗雑なるものと繊細なるものが見られるべきである」(ヴィバンガp.4)という言葉から、諸々の善ならざる〔感受作用〕等々についてもまた──貪欲を共具した〔感受作用〕より、憤怒を共具した感受〔作用〕は、火のように自己の依所を焼くことから、粗雑なるものとなり、貪欲を共具した〔感受作用〕は、〔憤怒を共具した感受作用より〕繊細なるものとなる。憤怒を共具した〔感受作用〕もまた──〔生起が〕決定している〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、〔生起が〕決定していない〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。〔生起が〕決定している〔感受作用〕もまた──カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ〔地獄に〕止住する者(五逆罪を犯し一劫の間を地獄に住む者)の〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、他の〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者たちについてもまた(※)──形成〔作用〕なき〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、他の〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。また、貪欲を共具した〔感受作用〕は──〔悪しき〕見解と結び付いた〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、他の〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。その〔悪しき見解と結び付いた感受作用〕もまた──〔生起が〕決定している〔感受作用〕とカッパのあいだ〔地獄に〕止住する者の〔感受作用〕と形成〔作用〕なき〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、他の〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。そして、差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕、善ならざる〔感受作用〕は──多き報いある〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、少なき報いある〔感受作用〕は、繊細なるものとなり、いっぽう、善なる〔感受作用〕は──少なき報いある〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、多き報いある〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。

 

※ テキストにはNiyatā pi Kappaṭṭhitikāsu pi とあるが、VRI版により Niyatā pi kappaṭṭhitikā oārikā, itarā sukhumā. Kappaṭṭhitikāsu pi と読む。

 

§206  さらに、また、欲望の行境の善なる〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、形態の行境の〔感受作用〕は、繊細なるものとなり、それよりも、形態なき行境の〔感受作用〕は、〔繊細なるものとなり〕、それよりも、世〔俗〕を超える〔感受作用〕は、〔繊細なるものとなる〕。欲望の行境の〔善なる感受作用〕は──布施によって作られる〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、戒によって作られる〔感受作用〕は、繊細なるものとなり、それよりも、修行によって作られる〔感受作用〕は、〔繊細なるものとなり〕、修行によって作られる〔感受作用〕もまた、二つの因ある〔感受作用〕(欲望の行境の八つの善なる心のうち、知恵と結び付かない四つの心(3・4・7・8)と結び付いた感受作用)は、粗雑なるものとなり、三つの因ある〔感受作用〕(欲望の行境の八つの善なる心のうち、知恵と結び付いた四つの心(1・2・5・6)と結び付いた感受作用)は、繊細なるものとなり、三つの因ある〔感受作用〕もまた、形成〔作用〕を有する〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり、形成〔作用〕なき〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。形態の行境の〔感受作用〕は──第一の瞑想に属する〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり……略……第五の瞑想に属する〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。そして、形態なき行境の〔感受作用〕は──虚空無辺なる〔認識の〕場所と結び付いた〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり【476】……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所と結び付いた〔感受作用〕は、まさしく、繊細なるものとなる。さらに、世〔俗〕を超える〔感受作用〕は──預流道と結び付いた〔感受作用〕は、粗雑なるものとなり……略……阿羅漢道と結び付いた〔感受作用〕は、まさしく、繊細なるものとなる。そして、それぞれの境地における報い〔としての諸々の感受作用〕と〔報いを生まない純粋〕所作としての諸々の感受〔作用〕についても、さらに、苦なるもの等や入定していない者等や煩悩を有するもの等を所以に説かれた諸々の感受〔作用〕についても、それが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§207  そして、また、空間を所以に、地獄における苦〔の感受作用〕は、粗雑なるものとなり、畜生の胎における〔苦の感受作用は〕、繊細なるものとなる。……略……他化自在〔天の神々〕たちにおける〔苦の感受作用は〕、まさしく、繊細なるものとなる。そして、すなわち、苦〔の感受作用〕のように、このように、楽〔の感受作用〕もまた(※)、一切所において、適切なるままに解釈されるべきである。

 

※ テキストにはsukumā pi とあるが、VRI版により sukhā pi と読む。

 

§208  そして、また、〔認識の〕基盤を所以に、それが何であれ、下劣なるものを基盤とする感受〔作用〕は、粗雑なるものとなり、精妙なるものを基盤とする〔感受作用〕は、繊細なるものとなる。

 (4)下劣なるものと精妙なるものの細別については、それが、粗雑なるものであるなら、それは、下劣なる〔感受作用〕であり、そして、それが、繊細なるものであるなら、それは、精妙なる〔感受作用〕である、と見られるべきである。

 

503.

 

§209  (5)また、「遠方にあるも」の句は、「善ならざる感受〔作用〕は、善なる〔感受作用〕と〔善悪が〕説き明かされない感受〔作用〕より、遠方にあるものとなる」(ヴィバンガp.4)〔という言葉等の方法によって〕、「現前にあるも」の句は、「善ならざる感受〔作用〕は、善ならざる感受〔作用〕の、現前にあるものとなる」(ヴィバンガp.4)という〔言葉〕等の方法によって、『ヴィバンガ(分別論)』において区分された。それゆえに、善ならざる感受〔作用〕は(※)、部分を共にしないことから、交わりなきことから、さらに、同等ならざることから、善なる〔感受作用〕と〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕より、遠方にあるものとなる。そのように、善なる〔感受作用〕と〔善悪が〕説き明かされない〔感受作用〕は、善ならざる〔感受作用〕より、〔遠方にあるものとなる〕。これが、一切の時機において、〔共通する説示の〕方法となる。また、善ならざる感受〔作用〕は、部分を共にすることから、さらに、同等なることから、善ならざる〔感受作用〕の、現前にあるものとなる(善なる感受作用と善悪が説き明かされない感受作用も同様)。ということで──

 これが、感受〔作用〕の範疇の過去等の区分についての詳細の言説の門となる。

 また、それぞれの感受〔作用〕と結び付いた表象〔作用〕等々のばあいもまた、まさしく、このように、知られるべきである。

 

※ テキストにはakusalā pi とあるが、VRI版により akusalā と読む。

 

504.

 

 7 〔五つの心身を構成する〕範疇についての知恵の細別

 

§210  そして、このように知って、ふたたび、まさしく、これら〔の五つの心身を構成する範疇〕について──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔五つの心身を構成する〕範疇について、知恵の細別を義(目的)に、(1)順番〔の観点〕から、さらに、(2)差異〔の観点〕から、まさしく、そして、(3)減増なき〔の観点〕から(※)、さらに、まさしく、そのように、(4)喩え〔の観点〕から──

 (5)見られるべきもの〔の観点〕から二種に、(6)このように見ている者の義(目的)の成就〔の観点〕から(※※)、判別の方法が、分明する者によって正しく識知されるべきである」〔と〕。

 

※ テキストにはAnūnādikato とあるが、VRI版により Anūnādhikato と読む。

※※ テキストにはpassa tass’ atthasiddhito とあるが、VRI版により passantassatthasiddhito と読む。

 

§211  (1)そこにおいて、「順番〔の観点〕から」とは、ここに、生起の順番、捨棄の順番、実践の順番、境地の順番、説示の順番、という多くの種類の順番がある。そこにおいて、「最初に、カララ(入胎後一週間)と成ります。カララから、アッブダ(入胎後二週間)と成ります」(サンユッタ・ニカーヤ1p.206)という、このような〔言葉〕等が、生起の順番である。「見ることによって捨棄されるべき諸々の法(性質)、修めることによって捨棄されるべき諸々の法(性質)」(ダンマ・サンガニp.1)という、このような〔言葉〕等が、捨棄の順番である。「戒の清浄【477】、心(瞑想)の清浄」(ディーガ・ニカーヤ3p.288,マッジマ・ニカーヤ1p.148)という、このような〔言葉〕等が、実践の順番である。「欲望の行境、形態の行境」(ダンマ・サンガニp.180,パティサンビダー・マッガ1p.83)という、このような〔言葉〕等が、境地の順番である。あるいは、「四つの気づきの確立(四念処・四念住)、四つの正しい精励(四正勤)」(ディーガ・ニカーヤ2p.120)という、あるいは、「布施についての講話、戒についての講話」(マッジマ・ニカーヤ1p.379,アングッタラ・ニカーヤ4p.186)という、このような〔言葉〕等が、説示の順番である。

 

§212  ここでは、それらのうち、まずは、生起の順番は、〔五つの心身を構成する〕範疇のばあい、カララ等々のような、過去と未来の〔差異の〕定置による生起がないことから(生起の順番が不確定であるために)、適合しない。捨棄の順番は、善なるものと〔善悪が〕説き明かされないもののばあい、捨棄されるべきではないことから、〔適合し〕ない。実践の順番は、諸々の善ならざるもののばあい、実践されるべきではないことから、〔適合し〕ない。境地の順番は、感受〔作用〕等々のばあい、〔それぞれが〕四つの境地(三界と出世間)に属していることから、〔適合し〕ない。

 

§213  いっぽう、説示の順番が、適合する。なぜなら、細別なき〔の観点〕によって、五つの〔心身を構成する〕範疇にたいし、自己の収取(我見)に落ちた教え導かれるべき人々を、集積物の重厚を分解して見ることによって、自己の収取から解き放つことを欲する世尊は、〔人々の〕益を欲する者として、その〔人〕、その人のために、楽に収め取ることを義(目的)に(容易に理解できるように)、眼等々にとってもまた境域(認識対象)として有り、粗雑なるものである、形態の範疇を最初に説示し(※)、そののち、好ましい〔形態〕と好ましくない形態を感受するものである、感受〔作用〕を〔説示し〕、「それを感受するなら、それを表象する」と、このように、感受〔作用〕の境域の行相を収め取るものである、表象〔作用〕を〔説示し〕、表象〔作用〕を所以に行作するものである、諸々の形成〔作用〕を〔説示し〕、それらの感受〔作用〕等々にとって依所(依拠の対象)となり、かつまた、それら〔の感受作用等々〕にとって優位のものとして有る、識知〔作用〕を〔最後に説示した〕からである。ということで、まずは、このように、順番〔の観点〕から、判別の方法が識知されるべきである。

 

※ テキストにはdeseti とあるが、VRI版により desesi と読む。

 

505.

 

§214  (2)「差異〔の観点〕から」とは、そして、〔五つの心身を構成する〕範疇の、さらに、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇の、差異〔の観点〕から。「では、何が、それらの差異であるのか」〔と問うなら〕、「まずは、〔五つの心身を構成する〕範疇が、差異なき〔の観点〕から説かれ、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇が、煩悩を有し執取されるべき状態によって区別して〔説かれた〕」〔と答える〕。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)を、そして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、五つの〔心身を構成する〕範疇なのですか。比丘たちよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、比丘たちよ、これは、形態の範疇と説かれます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、比丘たちよ、これは、識知〔作用〕の範疇と説かれます。比丘たちよ、これらは、五つの〔心身を構成する〕範疇と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇なのですか。比丘たちよ、それが何であれ、形態としてあるなら……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、煩悩を有し、執取されるべきものは、比丘たちよ、これは、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、煩悩を有し、執取されるべきものは、比丘たちよ、これは、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます。比丘たちよ、これらは、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ3p.47)【478】と。

 

§215  そして、ここにおいて、すなわち、感受〔作用〕等々が、煩悩なきものとしてもまた存在するように、このように、形態が〔存在することは〕ないが、また、すなわち、その〔形態〕の、集まりの義(意味)によって、範疇の状態が適合することから、それゆえに、〔五つの心身を構成する〕範疇のうちに説かれ、すなわち、そして、集まりの義(意味)によって、さらに、煩悩を有する義(意味)によって、執取の範疇の状態が適合することから、それゆえに、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇のうちに説かれた。また、感受〔作用〕等々は、煩悩なきものだけが、〔五つの心身を構成する〕範疇のうちに説かれ、煩悩を有するものは、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇のうちに〔説かれた〕。そして、「〔五つの心身を構成する〕執取の範疇」とは、ここにおいて、「〔五つの心身を構成する〕執取の境涯(作用範囲)としての範疇が、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇である」と、このように、義(意味)が見られるべきである。また、ここでは、これら〔の五つの心身を構成する範疇と五つの心身を構成する執取の範疇〕は、全てもろともに、一所に為して、〔五つの心身を構成する〕範疇となる、というのが、志向するところとなる。

 

506.

 

§216  (3)「減増なき〔の観点〕から」とは、「また、何ゆえに、世尊によって、まさしく、五つの範疇が、〔五つよりも〕減なく増なきものとして説かれたのか」と〔問うなら〕、「(3―1)一切の形成されたもの(有為)で部分を共にするもの(共通点を有するもの)を一つに包摂することから、(3―2)自己と自己に属する収取の基盤(執着の対象)がこの〔五つの範疇〕を最高とすることから、さらに、(3―3)諸他〔の範疇〕がその〔五つの範疇〕に包含されることから」〔と答える〕。

 

§217  (3―1)なぜなら、無数の細別ある形成されたものたる諸法(性質)が、部分を共にすることを所以に包摂されているときは、形態もまた、形態という部分を共にするものを一つに包摂することを所以に、一つの範疇と成り、感受〔作用〕は、感受〔作用〕という部分を共にするものを一つに包摂することを所以に、一つの範疇と成り、表象〔作用〕等々についても、これが、〔共通する〕方法となるからである。それゆえに、一切の形成されたもので部分を共にするものを一つに包摂することから、五つ〔の範疇〕だけが説かれた。

 

§218  (3―2)そして、この〔五つの範疇〕を最高とするのが、この、自己と自己に属する収取の基盤であり、すなわち、この、形態等々の五つ〔の範疇〕である。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』」(サンユッタ・ニカーヤ3p.181-2)と。それゆえに、自己と自己に属する収取の基盤(執着の対象)が、この〔五つの範疇〕を最高とすることからもまた、五つ〔の範疇〕だけが説かれた。

 

§219  (3―3)さらに、すなわち、また、諸他の、戒等々の五つの法(性質)の範疇(戒の範疇・禅定の範疇・智慧の範疇・解脱の範疇・解脱の知見の範疇)が説かれたが、それらもまた、諸々の形成〔作用〕の範疇に属していることから、まさしく、ここにおいて、包含へと至る(形成作用のうちに包含される)。それゆえに、諸他〔の範疇〕が、その〔五つの範疇〕に包含されることからもまた、五つ〔の範疇〕だけが説かれた。ということで、このように、減増なき〔の観点〕から、判別の方法が識知されるべきである。

 

507.

 

§220  (4)まさに、ここにおいて、「喩え〔の観点〕から」とは、病者の喩えある識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇にとって基盤であり門であり対象であることを所以に、居住の場たることから、病舎の喩えあるのが、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇である。病苦たることから、病の喩えあるのが、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇である。欲望の表象等を所以に、貪欲等と結び付いた〔苦の〕感受の発生あることから、病の現起の喩えあるのが、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇である。感受〔作用〕の病にとって、因縁たることから、正当ならざる付き添い(不適切な看護)の喩えあるのが、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇である。なぜなら、「〔諸々の形成作用は〕感受〔作用〕を、感受〔作用〕たることによって、形成されたものとして【479】行作する(※)」(サンユッタ・ニカーヤ3p.87)と説かれ、そのように、「善ならざる行為が作り為され蓄積されたことから、報いとしての身の識知〔作用〕が、苦を共具したものとして、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.117-8)と〔説かれた〕からである。感受〔作用〕の病によって完全に解き放たれていないことから、病者の喩えあるのが、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇である。

 

※ テキストにはVedana vedanatthāya abhisakharonti とあるが、VRI版『サンユッタ・ニカーヤ』原文により Vedana vedanattāya sakhatamabhisakharonti と読む。

 

§221  さらに、また、これら〔の五つの範疇〕は、牢獄と懲罰と違反と懲罰の為し手と違反者の喩えあるものであり、さらに、器と食料と香味と給仕者と食者の喩えあるものである。ということで、このように、喩え〔の観点〕から、判別の方法が識知されるべきである。

 

508.

 

§222  (5)「見られるべきもの〔の観点〕から二種に」とは、簡略〔の観点〕から、さらに、詳細〔の観点〕から、ということで、このように、二種に、見られるべきもの〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別の方法が識知されるべきである。

 

§223  まさに、簡略〔の観点〕から、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、『アーシーヴィスーパマ〔スッタ〕』(サンユッタ・ニカーヤ4p.172)において(※)説かれた方法によって、剣を引き抜いた〔自己の〕義(利益)に反する者(武器を保持する敵対者)〔の観点〕から〔見られるべきであり〕、『バーラ・スッタ』(サンユッタ・ニカーヤ3p.25)を所以に、重荷〔の観点〕から〔見られるべきであり〕、喰われるべきものの教相(サンユッタ・ニカーヤ3p.87)を所以に、喰うもの〔の観点〕から〔見られるべきであり〕、『ヤマカ・スッタ』(サンユッタ・ニカーヤ3p.114)を所以に、無常と苦痛と無我と形成されたものと殺戮者〔の観点〕から見られるべきである。

 

※ テキストにはāsivisūpamo とあるが、VRI版により āsīvisūpame と読む。

 

§224  また、詳細〔の観点〕から、ここにおいて、形態は、〔無常による〕圧搾に耐えられないことから、泡沫の団塊のように見られるべきであり、感受〔作用〕は、寸時に喜び楽しむべきことから、水泡のように〔見られるべきであり〕、表象〔作用〕は、〔人を〕惑わすことから、陽炎のように〔見られるべきであり〕、諸々の形成〔作用〕は、真髄なきことから、芭蕉の幹のように〔見られるべきであり〕、識知〔作用〕は、騙す者たることから、幻術のように〔見られるべきである〕(サンユッタ・ニカーヤ3p.140-3)。さらに、差異〔の観点〕から、極めて秀逸なる内なる形態もまた、浄美ならざるものである(価値なく不浄である)、と見られるべきである。感受〔作用〕は、三つの苦なること(苦痛の苦しみ・変化の苦しみ・形成の苦しみ:Ch.16§35)によって解き放たれていないことから、苦痛である、と〔見られるべきである〕。表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕は、〔自己の思い通りに〕設定できないことから、無我である、と〔見られるべきである〕。識知〔作用〕は、生成と衰失の法(性質)たることから、無常である、と見られるべきである。

 

509.

 

§225  (6)「このように見ている者の義(目的)の成就〔の観点〕から(※)」とは、そして、このように、簡略と詳細〔の観点〕を所以に、二種に見ている者には、すなわち、義(目的)の成就が有り、その〔観点〕からもまた、判別の方法が識知されるべきである。それは、すなわち、この、まずは、簡略〔の観点〕から、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、剣を引き抜いた〔自己の〕義(利益)に反する者等の状態によって見ている者は、〔五つの心身を構成する〕範疇によって打ちのめされず、また、詳細〔の観点〕から、形態等々を、泡沫の団塊等に等しき状態によって見ている者は、諸々の真髄なきものに真髄を見る者ではなく〔世に〕有る。

 

※ テキストにはpassa tass’ atthasiddhito とあるが、VRI版により passantassatthasiddhito と読む。

 

§226  さらに、差異〔の観点〕から、【480】内なる形態を、浄美ならざるもの〔の観点〕から見ている者は、物質としての食(段食:口にする食)を遍知し、浄美ならざるものにたいする「浄美である」という転倒を捨棄し、欲望の激流を超え上がり、欲望の束縛による束縛を離れ、欲望の煩悩による煩悩なき者と成り、強欲〔の思い〕による身体の拘束を破り去り、欲望〔の対象〕への執取〔の思い〕に執取することがない。

 

§227  感受〔作用〕を、苦痛〔の観点〕から見ている者は、接触としての食(触食:知覚としての食)を遍知し、苦痛にたいする「安楽である」という転倒を捨棄し、生存の激流を超え上がり、生存の束縛による束縛を離れ、生存の煩悩による煩悩なき者と成り、憎悪〔の思い〕による身体の拘束を破り去り、戒や掟への執取〔の思い〕に執取することがない。

 

§228  表象〔作用〕を、さらに、諸々の形成〔作用〕を、無我〔の観点〕から見ている者は、意の思欲としての食(思食:意志としての食)を遍知し、無我にたいする「自己である」という転倒を捨棄し、見解の激流を超え上がり、見解の束縛による束縛を離れ、見解の煩悩による煩悩なき者と成り、「これは真理である」という固着〔の思い〕による身体の拘束を破り去り、自己の論への執取〔の思い〕に執取することがない。

 

§229  識知〔作用〕を、無常〔の観点〕から見ている者は、識知〔作用〕としての食(識食:認識としての食)を遍知し、無常にたいする「常住である」という転倒を捨棄し、無明の激流を超え上がり、無明の束縛による束縛を離れ、無明の煩悩による煩悩なき者と成り、戒や掟への偏執〔の思い〕による身体の拘束を破り去り、見解への執取〔の思い〕に執取することがない。

 

§230  〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、殺戮者等〔の観点〕を所以に見ることは、このように、大いなる福利あることから、それゆえに、慧者は、〔五つの心身を構成する〕範疇を、殺戮者等〔の観点〕を所以に見るべきである」と。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示」という名の第十四章となる。