第一章 戒についての釈示

 

6.

 

§1  また、たとえ、このように無数の徳を包摂する戒と禅定と智慧(戒定慧)の門によって説示されたとして、この清浄の道は、極めて簡略に説示されただけのものとして有り、それゆえに、全ての者たちの資益には十分ではない。ということで、その〔清浄の道〕の詳細を見示するために、まずは、戒を対象として、この、問いの列挙が有る。

 

 一 「何が、戒であるのか」

 二 「どのような義(意味)によって、戒であるのか」

 三 「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」

 四 「何が、戒の福利であるのか」

 五 「そして、この戒は、どれだけの種類があるのか」

 六 「そして、何が、それにとって、汚染であるのか」

 七 「何が、浄化であるのか」と。

 

§2  そこで、これが、答えとなる。

 

 一 「何が、戒であるのか」(※)

 

 「何が、戒であるのか」とは──

 あるいは、命あるものを殺すこと等々から離れている者にとっての、あるいは、〔弟子としての〕行持の実践を満たしている者にとっての、思欲(:心の思い・意志)等々の諸法(性質)である。まさに、このことが、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「『何が、戒であるのか』とは、(1)思欲(:心の思い・意志)が、戒であり、(2)心の属性(心所:心に現起する作用・感情)が、戒であり、(3)〔心身の〕統御(律儀)が、【7】戒であり、(4)〔身体と言葉について〕違犯なきことが、戒である」(パティサンビダー・マッガ1p.44)と。

 そこにおいて、(1)「思欲が、戒であり」というのは、あるいは、命あるものを殺すこと等々から離れている者にとっての、あるいは、〔弟子としての〕行持の実践を満たしている者にとっての、思欲である。(2)「心の属性が、戒であり」というのは、命あるものを殺すこと等々から離れている者にとっての、離去〔という心の属性〕である。

 さらに、また、(1)「思欲が、戒であり」というのは、命あるものを殺すこと等々を捨棄している者にとっての、七つの行為()の道(身体と言葉における七つの清浄の行為)の思欲である。(2)「心の属性が、戒であり」というのは、「[彼は、世における]強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、[強欲〔の思い〕から心を完全に清めます]」(ディーガ・ニカーヤ1p.71)という〔言葉〕等の方法によって説かれた、強欲〔の思い〕なき〔あり方〕(無貪)と憎悪〔の思い〕なき〔あり方〕(無瞋)と正しい見解(正見)の諸法(性質)である。

 

※ テキストには見出しを欠くが、南伝大蔵経62『清浄道論1』にならい補足する(以下の同様箇所については注記を省略)。

 

§3  (3)「〔心身の〕統御が、戒であり」とは、ここにおいて、(3―1)戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御、(3―2)気づき()による統御、(3―3)知恵(知・智)による統御、(3―4)忍耐による統御、(3―5)精進による統御、という、五種類による〔心身の〕統御が知られるべきである。

 そこにおいて、(3―1)「この戒条による統御を、具した者として、具完した者として、[所有した者として、完備した者として、具有した者として、完有した者として、具備した者として、]〔世に〕有る」(ヴィバンガp.246)という、この〔聖典の言葉〕が、「戒条による統御」〔ということになる〕。

 (3―2)「眼の機能(眼根)を守護し、眼の機能における統御を惹起します」(ディーガ・ニカーヤ1p.70)という、この〔聖典の言葉〕が、「気づきによる統御」〔ということになる〕。

 

 (3―3)〔そこで、詩偈に言う〕「世尊は〔答えた〕『アジタよ、世において、それらの〔欲望の〕流れがあるとして、気づき()が、それら〔の流れ〕の防護となり、〔それらの〕流れの統御となると、〔わたしは〕説きます。智慧(慧・般若)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます』〔と〕」(スッタニパータ1035)という──

 

 この〔聖典の言葉〕が、「知恵による統御」〔ということになる〕。まさしく、ここにおいて、日用品(生活必需品)の受用もまた、〔同一の〕帰結へと至る(同様である)。

 (3―4)また、すなわち、この、「寒さや暑さに、[飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、]忍耐ある者として〔世に〕有り、[諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります]」(マッジマ・ニカーヤ1p.10)という〔言葉〕等の方法によって言及されたものが、これが、「忍耐による統御」ということになる。

 (3―5)さらに、すなわち、この、「生起した欲望の思考()を甘受せず、[捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます]」(マッジマ・ニカーヤ1p.11)という〔言葉〕等の方法によって言及されたものが、これが、「精進による統御」ということになる。まさしく、ここにおいて、生き方の完全なる清浄(§45)もまた、〔同一の〕帰結へと至る。

 かくのごとく、この、五種類もろともに、〔心身の〕統御となる。さらに、すなわち、悪を恐れる良家の子息たちの、得達した〔悪しき〕事態からの離去は、これは、全てもろともに、「〔心身の〕統御としての戒」と知られるべきである。

 (4)「〔身体と言葉について〕違犯なきことが、戒である」とは、戒を受持した者の、身体の属性と言葉の属性としての違犯なきこと。

 まずは、これが、「何が、戒であるのか」という問いの答えとなる。

 

7.

 

 二 「どのような義(意味)によって、戒であるのか」

 

§4  【8】残り〔の問い〕について。「どのような義(意味)によって、戒であるのか」とは──

 戒めること(シーラナ)という義(意味)によって、「戒(シーラ)」。何が、この、「戒めること」ということになるのか。あるいは、〔心を〕定めることであり──身体の行為(身業)等々にとって、善き戒たるを所以に、〔心の〕錯乱なきこと、という義(意味)である──あるいは、〔心を〕保ち置くことである──諸々の善なる法(性質)にとって、確立〔の縁〕たるを所以に、保持の状態あること、という義(意味)である。まさに、ここにおいて、この、二つの義(意味)だけを、語の特相を知る者(語源を熟知する者)たちは承認する。いっぽう、他の者たちは、「頭(シラ)の義(意味)が、戒(シーラ)の義(意味)となる」「清涼なる(シータラ)の義(意味)が、戒(シーラ)の義(意味)となる」という、まさしく、このような〔言葉〕等の方法によってもまた、ここにおいて、〔その〕義(意味)を解説する。

 

8.

 

 三 「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」

 

§5  今や、「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」とは──

 ここにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「たとえ、幾種に細別されたとして、戒めることが、それ(戒)にとって、特相である。すなわち、幾種に細別されたとして、有見(可視・可見)たる義(意味)が、形態()にとって、〔特相である〕ように」〔と〕。

 

 まさに、すなわち、青や黄等の細別によって、たとえ、幾種に細別されたとして、有見たる義(意味)が、形態の〔認識の〕場所(色処:眼の対象としての形態)にとって──青等の細別によって、たとえ、〔幾種に〕細別されたとして、有見たる状態に違犯なきことから──特相であるように、そのように、思欲等の細別によって、たとえ、幾種に細別されたとして、身体の行為等々の、〔心を〕定めることを所以に、さらに、諸々の善なる法(性質)の、確立〔の縁〕たるを所以に、〔前に〕説かれた、すなわち、この、戒めることが、まさしく、それが、戒にとって──思欲等の細別によって、たとえ、〔幾種に〕細別されたとして、〔心を〕定めることと確立〔の縁〕たる状態に違犯なきことから──特相である。

 

§6  また、このように、その特相にとって──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「劣戒を砕破することと罪過なき徳は、そのように、為すべきことと〔その〕得達という義(意味)によって、まさに、効用と呼ばれる」〔と〕。

 

 それゆえに、この、「戒」というものは、為すべきことという義(意味)の効用(機能・性行)によって、劣戒の砕破を効用とし、得達という義(意味)の効用によって、罪過なき〔あり方〕を効用とする、と知られるべきである。なぜなら、特相等々について、まさしく、為すべきことは、あるいは、〔その〕得達は、効用である、と説かれるからである。

 

§7  〔そこで、詩偈に言う〕「〔まさに〕その、この〔戒〕は、〔三つの行為の〕清廉たることを現起(現状)とし、そして、〔良心の〕咎め()が、まさしく、さらに、恥〔の思い〕()が、それ(戒)にとって、境処の拠点(直接原因)となる、と識者たちによって解説された」〔と〕。

 

 【9】まさに、その、この戒は、「身体()の清廉たることであり、言葉()の清廉たることであり、意()の清廉たることです」(アングッタラ・ニカーヤ1p.271,イティヴッタカp.37)と、このように説かれた〔三つの行為の〕清廉たることを現起(現状)とし、清廉たることの状態によって、〔戒として〕現起し、〔戒として〕収め取る状態へと至る。また、そして、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが、それ(戒)にとって、境処の拠点(直接原因)となる、と識者たちによって解説された。〔それにとっての〕近き契機(近因)である、という義(意味)である。なぜなら、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存しているとき、戒は、まさしく、そして、生起し、さらに、止住するも、〔恥の思いと良心の咎めが〕存していないとき、まさしく、生起せず、止住しないからである。ということで、このように、戒の、特相と効用と現起と境処の拠点が知られるべきである。

 

9.

 

 四 「何が、戒の福利であるのか」

 

§8  「何が、戒の福利であるのか」とは──

 後悔なくあること等の無数の徳の獲得が、〔戒の〕福利である。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「アーナンダ(阿難)よ、まさに、諸々の善なる戒は、後悔なくあることを義(目的)とし、後悔なくあることを福利とします」(アングッタラ・ニカーヤ5p.1)と。他にもまた説かれた。「家長(居士)たちよ、五つのものがあります。これらの、戒ある者の戒の成就(守戒)における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。家長たちよ、ここに、戒ある者は、戒が成就したなら、不放逸を事因とする大いなる財物の範疇に遭遇します。これは、第一の、戒ある者の戒の成就における福利です。家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者に、戒が成就したなら、善き評価の声が上がります。これは、第二の、戒ある者の戒の成就における福利です。家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。これは、第三の、戒ある者の戒の成就における福利です。家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、等しく迷乱しない者として命を終えます。これは、第四の、戒ある者の戒の成就における福利です。家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生します(※)。これは、第五の、戒ある者の戒の成就における福利です。家長たちよ、まさに、これらの五つの、戒ある者の戒の成就における福利があります」(ディーガ・ニカーヤ2p.86,アングッタラ・ニカーヤ3p.253)と。

 他にもまた、「比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、[内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想(禅・静慮)を放却しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者(瞑想修行に励む者)として、]〔世に〕存するべきです」(マッジマ・ニカーヤ1p.33)という〔言葉〕等の方法によって、愛しく意に適うこと等々が、煩悩()の滅尽を結末とする、無数の戒の福利として、〔聖典において〕説かれた。このように、後悔なくあること等の無数の徳の福利あるのが、戒である。

 

※ テキストには uppajjati とあるが、VRI版により upapajjati と読む。

 

§9  【10】さらに、また──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「良家の子息たちにとって、それなくして、〔世尊の〕教えにおいて、確立〔の縁〕が存在しない、その戒の、福利に限定あることを、誰が説くというのだろう(その恩恵は計りしれない)。

 ガンガー〔川〕、さらに、また、ヤムナー〔川〕、あるいは、サラブー〔川〕、サラスヴァティー〔川〕、あるいは、アチラヴァティーの水流、あるいは、また、マヒーの大河にあらず──

 ここ(現世)に、命ある者たちの、その垢を清めることができるのは。まさに、戒の水が、有情たちの、その垢を清める。

 雨雲を有する諸々の風にあらず、さらに、また、黄の栴檀にあらず、まさしく、諸々の〔真珠の〕首飾にあらず、諸々の宝珠にあらず、月の作り為す微光にあらず、その〔苦悶〕を──

 ここに、有情たちの、しっかりと守られた〔その〕苦悶を静めるのは。究極の清涼なるものが、この聖なる戒が、その〔苦悶〕を静める。

 すなわち、そして、順風のときも、さらに、逆風のときも、等しく香りただよう、戒の香りに等しき香りが、まさに、どうして、〔世に〕有るというのだろう。

 天上に登り行く梯子として、また、あるいは、涅槃の城に導き入れる門戸として、戒に等しき他のものが、どうして、〔世に有るというのだろう〕。

 真珠や宝珠で飾り立てられた王たちも、このように美しく輝くことはない。すなわち、戒の飾りで飾られた行者たちが美しく輝くようには。

 〔戒は〕自己への批判等の恐怖を、全てにわたり砕破し、そして、名誉と笑喜を生じさせるのが、常に、戒ある者たちの戒である。

 諸々の徳の根元として有るものの、諸々の〔心の〕汚点を殲滅する力あるものの、〔まさに、その〕戒の、福利についての言説の門は、かくのごとく、識知されるべきである」と。

 

10.

 

 五 「そして、この戒は、どれだけの種類があるのか」

 

§10  今や、すなわち、〔前に〕説かれた、「そして、この戒は、どれだけの種類があるのか」(§1)とは──

 そこで、これが、答えとなる。

 (一)まずは、この戒は、まさしく、〔その〕全てが、自己の戒めることという特相によって、一種類のものとなる。

 (二)(1)遵守と禁止を所以に、二種類のものとなる。そのように、(2)卓越の正行たるものと初等の梵行たるものを所以に、〔二種類のものとなる〕。(3)離去と不離を所以に、〔二種類のものとなる〕。(4)依拠したものと依拠なきものを所以に、〔二種類のものとなる〕。(5)時間を制限とするもの(※)と生命を終辺とするものを所以に、〔二種類のものとなる〕。(6)制限を有するものと制限なきものを所以に、〔二種類のものとなる〕。さらに、(7)世〔俗〕のもの(世間)と世〔俗〕を超えるもの(出世間)を所以に、〔二種類のものとなる〕。

 【11】(三)(1)下劣なるものと中等なるものと精妙なるものを所以に、三種類のものとなる。そのように、(2)自己を優位(主因)とするものと世を優位とするものと法(教え)を優位とするものを所以に、〔三種類のものとなる〕。(3)偏執されたものと〔もはや〕偏執されないものと安息したものを所以に、〔三種類のものとなる〕。(4)清浄なるものと清浄ならざるものと疑いあるものを所以に、〔三種類のものとなる〕。さらに、(5)学びあるもの(有学)と学ぶことなきもの(無学)と学びあるにもあらず学ぶことなきにもあらざるものを所以に、〔三種類のものとなる〕。

 (四)(1)退失を部分とするものと止住を部分とするものと殊勝を部分とするものと洞察を部分とするものを所以に、四種類のものとなる。そのように、(2)比丘〔の戒〕と比丘尼〔の戒〕と〔いまだ戒を〕成就していない〔出家者の戒〕と在家者の戒を所以に、〔四種類のものとなる〕。(3)性向(気質)〔としての戒〕と習行〔としての戒〕と法(真理)たること〔としての戒〕と過去の因あるものとしての戒を所以に、〔四種類のものとなる〕。さらに、(4)戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御〔としての戒〕と〔感官の〕機能()における統御〔としての戒〕と生き方の完全なる清浄〔としての戒〕と日用品に等しく依拠したものとしての戒を所以に、〔四種類のものとなる〕。

 (五)(1)制限ある完全なる清浄としての戒等を所以に、五種類のものとなる。そして、このこともまた、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「五つの戒がある。制限ある完全なる清浄としての戒、制限なき完全なる清浄としての戒、円満成就した完全なる清浄としての戒、〔もはや〕偏執されない完全なる清浄としての戒、安息にして完全なる清浄としての戒である」(パティサンビダー・マッガ1p.42)と。そのように、(2)捨棄と離断と思欲と〔心身の〕統御と〔身体と言葉について〕違犯なきことを所以に、〔五種類のものとなる〕。

 

※ テキストには kāyapariyanta とあるが、VRI版により kālapariyanta と読む。

 

11.

 

 [(一)一種類のものとしての戒]

 

§11  そこにおいて、一種類のものの部について。〔その〕義(意味)は、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである(既述のとおりである)。

 

 [(二)二種類のものとしての戒]

 

 二種類のものの部について。(1)(1―1)すなわち、「これは、為すべきことである」と、世尊によって制定された学びの境処(戒律)を円満すること──それが、遵守である。(1―2)すなわち、「これは、為すべきことではない」と拒絶されたものを為さないこと──それが、禁止である。そこで、これが、言葉の義(意味)となる。それを保有する者たちが、それについて行ない、諸戒における円満成就を為すために転起する(行為する)、ということで、「遵守」。〔悪しき行ないから〕防護されたものを、それによって救護し守護する、ということで、「禁止」。そこにおいて、信と精進による遂行が、遵守であり、信による遂行が、禁止である。このように、遵守と禁止を所以に、二種類のものとなる。

 

§12  (2)第二の二なるものについて。(2―1)「卓越の正行」とは、最上の正行。卓越の正行こそは、「卓越の正行たる〔戒〕」。あるいは、卓越の正行を対象として制定されたものが、「卓越の正行たる〔戒〕」。これは、〔清浄の〕生き方という第八〔の戒〕をのぞく残りの戒(身体と言葉における七つの清浄の行為)の同義語である。(2―2)〔聖者の〕道たる梵行にとって、初等の状態として有るもの、ということで、「初等の梵行たる〔戒〕」。これは、〔清浄の〕生き方という第八の戒の同義語である。まさに、それは、まさしく、〔修行の〕前段部分において、完全に清められるべきことから、〔聖者の〕道の、最初の状態として有るものである。それによって、〔世尊は〕言う。「また、まさに、まさしく、過去において、彼の、身体の行為(身業)と言葉の行為(口業)と生き方は、完全無欠の清浄なるものと成ります」(マッジマ・ニカーヤ3p.289)と。あるいは、すなわち、「[彼は、すなわち、それらが、]小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、[それらを犯しもまたし出起もまたします](極めて軽罪の戒律を犯すこともある)」(アングッタラ・ニカーヤ1p.231)と説かれたものが、【12】これが、卓越の正行たる戒である。残りのものが、初等の梵行たる〔戒〕である。あるいは、〔比丘と比丘尼の〕両区分に属しているものが、初等の梵行たる〔戒〕である。あるいは、〔律における〕章立てのなかで行持に属しているものが、卓越の正行たる〔戒〕である。その〔卓越の正行たる戒〕の得達によって、初等の梵行たる〔戒〕が成就する。まさしく、それによって、〔世尊は〕言う。「比丘たちよ、その比丘が、まさに……略……卓越の正行たる法(性質)を円満成就させずして、初等の梵行たる法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません」(アングッタラ・ニカーヤ3p.14-5)と。このように、卓越の正行たるものと初等の梵行たるものを所以に、二種類のものとなる。

 

§13  (3)第三の二なるものについて。(3―1)命あるものを殺すこと等々から離れていることのみが、離去の戒である。(3―2)残りの思欲等が、不離の戒である。ということで、このように、離去と不離を所以に、二種類のものとなる。

 

§14  (4)第四の二なるものについて。(4―1)「依所(依拠の対象)」とは、二つの依所がある。そして、渇愛という依所であり、さらに、見解という依所である。そこにおいて、すなわち、「わたしは、この、あるいは、戒によって、[あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、]あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕」(マッジマ・ニカーヤ1p.102,アングッタラ・ニカーヤ4p.461)と、このように、〔欲の思いで〕生存()の得達を望んでいる者によって転起させられたものが、これが、渇愛に依拠した〔戒〕である。すなわち、「戒によって、清浄〔の境地〕がある」(ダンマ・サンガニp.183,ヴィバンガp.365)と、このように、〔妄想された〕清浄の見解によって転起させられたものが、これが、見解に依拠した〔戒〕である。(4―2)また、すなわち、世〔俗〕を超える〔戒〕が、さらに、世〔俗〕の〔戒〕でも、まさしく、その〔世俗を超える戒〕にとって、資糧(素因)として有るものが、これが、依拠なき〔戒〕である。ということで、このように、依拠したものと依拠なきものを所以に、二種類のものとなる。

 

§15  (5)第五の二なるものについて。(5―1)時間の限定を為して受持された戒が、時間を制限とする〔戒〕である。(5―2)生あるかぎり受持して、まさしく、そのとおりに転起させられた〔戒〕が、生命を終辺とする〔戒〕である。ということで、このように、時間を制限とするものと生命を終辺とするものを所以に、二種類のものとなる。

 

§16  (6)第六の二なるものについて。(6―1)利得と盛名と親族と肢体と生命を所以に〔現に〕見られる制限ある〔戒〕が、「制限を有するもの」ということになり、(6―2)〔その〕反対が、「制限なきもの」〔ということになる〕。そして、このこともまた、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「どのようなものが、〔まさに〕その、制限を有する戒であるのか。利得を制限とする戒が存在する。盛名を制限とする戒が存在する。親族を制限とする戒が存在する。肢体を制限とする戒が存在する。生命を制限とする戒が存在する。どのようなものが、〔まさに〕その、利得を制限とする戒であるのか。ここに、一部の者が、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、【13】〔まさに〕その、利得を制限とする戒である」(パティサンビダー・マッガ1p.43)と。まさしく、この手段(方便)によって、諸他もまた、〔同様に〕詳知されるべきである(盛名・親族・肢体・生命もまた同様である)。制限なきものについての答えもまた、〔『パティサンビダー(無礙解道)』において〕説かれた。「どのようなものが、〔まさに〕その、利得を制限としない戒であるのか。ここに、一部の者が、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処に違犯するために、心でさえも、生起させることがない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、利得を制限としない戒である」(パティサンビダー・マッガ1p.44)と。まさしく、この手段によって、諸他もまた、〔同様に〕詳知されるべきである(盛名・親族・肢体・生命もまた同様である)。このように、制限を有するものと制限なきものを所以に、二種類のものとなる。

 

§17  (7)第七の二なるものについて。(7―1)煩悩を有する(有漏)戒は、全てもろともに、世〔俗〕のものである。(7―2)煩悩なき(無漏)〔戒〕は、世〔俗〕を超えるものである。そこにおいて、世〔俗〕の〔戒〕は、生存における殊勝〔の境地〕をもたらすものと成り、さらに、生存からの出離のための資糧と〔成る〕。すなわち、〔世尊が〕言うように、「律は、〔心身の〕統御(律儀)を義(目的)としてあります。〔心身の〕統御は、後悔なくあることを義(目的)としてあります。後悔なくあることは、歓喜を義(目的)としてあります。歓喜は、喜悦を義(目的)としてあります。喜悦は、静息を義(目的)としてあります。静息は、安楽を義(目的)としてあります。安楽は、禅定(三昧・定)を義(目的)としてあります。禅定は、事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)を義(目的)としてあります。事実のとおりの知見は、厭離を義(目的)としてあります。厭離は、離貪を義(目的)としてあります。離貪は、解脱を義(目的)としてあります。解脱は、解脱の知見を義(目的)としてあります。解脱の知見は、〔何も〕執取せずして〔到達する〕完全なる涅槃(般涅槃)を義(目的)としてあります。これを義(目的)として、言説があります。これを義(目的)として、考量があります。これを義(目的)として、比喩があります。これを義(目的)として、傾聴があります。すなわち、この、〔何も〕執取せずして〔到達する〕心の解脱です」(ヴィナヤ5p.164)と。世〔俗〕を超える〔戒〕は、生存からの出離をもたらすものと成り、さらに、綿密に注視する〔作用〕の知恵にとっての地盤(基盤)と〔成る〕。ということで、このように、世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものを所以に、二種類のものとなる。

 

12.

 

 [(三)三種類のものとしての戒]

 

§18  諸々の三なるもののうち、(1)第一の三なるものについて。あるいは、(1―1)下劣なる欲〔の思い〕(意欲)と心(専心)と精進と考察によって転起させられたものが、下劣なる〔戒〕である。(1―2)中等なる欲〔の思い〕等々によって転起させられたものが、中等なる〔戒〕である。(1―3)精妙なる〔欲の思い等々によって転起させられたものが〕、精妙なる〔戒〕である。あるいは、(1―1)盛名を欲することから受持されたものが、下劣なる〔戒〕である。(1―2)功徳の果を欲することから〔受持されたものが〕、中等なる〔戒〕である。(1―3)「これは、まさしく、為すべきことである」と、聖なる状態に依拠して受持されたものが、精妙なる〔戒〕である。あるいは、(1―1)「わたしは、戒を成就した者として存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちである」と、このように、自己を賞揚し他者を蔑視すること等々によって汚れたものが、下劣なる〔戒〕である。(1―2)汚れていない世〔俗〕の戒が、中等なる〔戒〕である。(1―3)世〔俗〕を超えるものが、精妙なる〔戒〕である。あるいは、(1―1)渇愛〔の思い〕を所以に、生存の享受を義(目的)として転起させられたものが、下劣なる〔戒〕である。(1―2)自己の解脱を義(目的)として転起させられたものが、中等なる〔戒〕である。(1―3)一切の有情たちの解脱を義(目的)として転起させられた智慧の完全態(般若波羅蜜多)たる戒が、精妙なる〔戒〕である。ということで、このように、下劣なるものと中等なるものと精妙なるものを所以に、三種類のものとなる。

 

§19  (2)第二の三なるものについて。(2―1)自己にとって適切ならざることを捨棄することを欲し、自己を重んじる者によって、自己にたいする【14】尊重〔の思い〕によって転起させられたものが、自己を優位(主因)とする〔戒〕である。(2―2)世の批判を退けることを欲し、世を重んじる者によって、世にたいする尊重〔の思い〕によって転起させられたものが、世を優位とする〔戒〕である。(2―3)法(教え)の大いなることを供養することを欲し、法(真理)を重んじる者によって、法(教え)にたいする尊重〔の思い〕によって転起させられたものが、法(教え)を優位とする〔戒〕である。ということで、このように、自己を優位とするもの等を所以に、三種類のものとなる。

 

§20  (3)第三の三なるものについて。(3―1)すなわち、諸々の二なるものにおいて、「依拠したもの」と説かれた〔戒〕が、それが、渇愛と見解によって偏執されたことから、偏執された〔戒〕である。(3―2)善き凡夫の、〔聖者の〕道のための資糧(素因)として有るものが、さらに、〔いまだ〕学びある者たちの、〔聖者の〕道と結び付いた〔戒〕が、〔もはや〕偏執されない〔戒〕である。(3―3)〔いまだ〕学びある者と〔もはや〕学ぶことなき者たちの、〔聖者の〕果と結び付いた〔戒〕が、安息した〔戒〕である。ということで、このように、偏執されたもの等を所以に、三種類のものとなる。

 

§21  (4)第四の三なるものについて。(4―1)すなわち、罪を犯さずにいる者によって満たされたものが、あるいは、〔罪を〕犯しても、ふたたび償いの行為(懺悔)が為されたものが、それが、清浄なる〔戒〕である。(4―2)罪を犯したのに償いの行為が為されていないものが、それが、清浄ならざる〔戒〕である。(4―3)あるいは、事について(罪を犯すことになる事態か否か)、あるいは、罪について(有罪か無罪か、有罪であるならどの程度の罪なのか)、あるいは、行について(罪を犯したことになる行為か否か)、疑いある者の戒が、「疑いある戒」ということになる。そこにおいて、清浄ならざる戒は、〔心の〕制止者(瞑想修行者)によって清められるべきである。疑いあるときは、事において行作を為さずして、疑いが除去されるべきである。かくのごとく〔為すなら〕、彼には、平穏が有るであろう。ということで、このように、清浄なるもの等を所以に、三種類のものとなる。

 

§22  (5)第五の三なるものについて。(5―1)四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)と、さらに、三つの沙門果(預流果・一来果・不還果)と、〔これらの七つのものと〕結び付いたものが、学びある戒である。(5―2)阿羅漢果と結び付いたものが、学ぶことなき〔戒〕である。(5―3)残りのものが、学びあるにもあらず学ぶことなきにもあらざる〔戒〕である。ということで、このように、学びあるもの等を所以に、三種類のものとなる。

 

§23  いっぽう、『パティサンビダー(無礙解道)』においては、すなわち、世における有情たちのそれぞれの性向(気質)もまた、「戒(習慣)」と説かれ、それに関して、「この者は、安楽を戒とする者である」「この者は、苦痛を戒とする者である」「この者は、紛争を戒とする者である」「この者は、装飾を戒とする者である」と、〔人々が〕話すことから、それゆえに、その教相〔の観点〕(比喩的具体的説明)によって、「三つの戒がある。(1)善なる戒(善戒)、(2)善ならざる戒(不善戒)、(3)〔善悪が〕説き明かされない戒(無記戒:善でもなく悪でもない習慣)である」(パティサンビダー・マッガ1p.44)と、このように、善なる戒等を所以にもまた、三種類のものとなる、と説かれた。そこにおいて、善ならざる戒(悪しき習慣)は、〔前に説かれた〕この義(意味)において志向された戒の特相等々について、一つでさえも合致しない、ということで、ここでは取り上げられなかった。それゆえに、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、その〔戒〕の、三種類のものとなることが知られるべきである。

 

13.

 

 [(四)四種類のものとしての戒]

 

§24  諸々の四なるもののうち、(1)第一の四なるものについて。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1―1)すなわち、ここに、劣戒の者たちと慣れ親しみ、戒ある者たちと慣れ親しむ、無知なる者は、事に違犯するにおいて、汚点を見ない。

 【15】誤った思惟(邪思惟)多き者は、諸々の〔感官の〕機能()を守らない。このような形態の者には、まさに、退失を部分とする戒が生まれる。

 (1―2)また、すなわち、戒の得達によって、ここに、わが意を得た者と成るとして、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)への専念にたいし、意図を生起させない。

 戒のみで満足し、より以上に勤めずにいる、その比丘には、〔まさに〕その、止住を部分とする戒が有る。

 (1―3)また、すなわち、戒を成就した者が、禅定を義(目的)として勤めるなら、この比丘には、殊勝を部分とする戒が有る。

 (1―4)すなわち、戒のみで満足せず、厭離に専念するなら、この比丘には、洞察を部分とする戒が有る」と。

 

 このように、退失を部分とするもの等を所以に、四種類のものとなる。

 

§25  (2)第二の四なるものについて。(2―1)比丘たちを対象として制定された諸々の学びの境処(戒律)が、かつまた、すなわち、比丘尼たちのための制定より〔他のもので〕、彼らにとって守るべきものが、これが、比丘の戒である。(2―2)比丘尼たちを対象として制定された諸々の学びの境処が、かつまた、すなわち、比丘たちのための制定より〔他のもので〕、彼女たちにとって守るべきものが、これが、比丘尼の戒である。(2―3)沙弥と沙弥尼たちのための十の戒が、〔いまだ戒を〕成就していない〔出家者〕の戒である。(2―4)在俗信者(優婆塞)と在俗女性信者(優婆夷)たちのための常なる戒を所以に〔制定された〕五つの学びの境処が、あるいは、能力が存しているなら、十〔の学びの境処〕が、斎戒(布薩)の支分を所以に〔制定された〕八つ〔の学びの境処〕が、〔それらもまた戒となる〕、ということで、これが、在家者の戒である。ということで、このように、比丘の戒等を所以に、四種類のものとなる。

 

§26  (3)第三の四なるものについて。(3―1)〔生まれつき善良な〕ウッタラ・クル〔ディーパ〕(北倶廬洲)の人間たちの違犯なき〔あり方〕が、性向としての戒である。(3―2)諸々の家系や地域や宗派の、自己それぞれの制約として修養された遵守〔の行為〕が、習行としての戒である。(3―3)「アーナンダ(阿難)よ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母には、男たちにたいする欲望の属性(妙欲)を伴った意図が生起せず、[そして、菩薩の母は、誰であろうが、〔欲に〕染まった心の男によって犯されざる者として〔世に〕有ります]」(ディーガ・ニカーヤ2p.13)と、このように説かれた菩薩の母の戒が、法(真理)たることとしての戒である。(3―4)また、マハー・カッサパ(迦葉)等々の清浄なる有情たちの、さらに、菩薩の、それぞれの生における戒が、過去の因あるものとしての戒である。ということで、このように、性向としての戒等を所以に、四種類のものとなる。

 

§27  (4)第四の四なるものについて。(4―1)すなわち、世尊によって、「ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます」(アングッタラ・ニカーヤ2p.22,ヴィバンガp.244)と、このように説かれた戒が、これが、「戒条による統御としての戒」ということになる。(4―2)また、すなわち、「彼(比丘)は、眼(視覚機能)によって、形態(:眼の対象)を見て、形相を収め取る者(形象を認知し把捉する者)と【16】成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能(眼根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳(聴覚機能)によって、音声(:耳の対象)を聞いて……略……鼻(嗅覚機能)によって、臭気(:鼻の対象)を嗅いで……略……舌(味覚機能)によって、味感(:舌の対象)を味わって……略……身(知覚機能)によって、感触(所触:身の対象)に接触して……略……意(思考機能)によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と〔成ら〕ず……略……意の機能(意根)における統御を惹起します」(ディーガ・ニカーヤ1p.70,マッジマ・ニカーヤ1p.180)と説かれたものが、これが、「〔感官の〕機能における統御としての戒」〔ということになる〕。(4―3)また、すなわち、生き方を因として制定された六つの学びの境処への違犯を〔所以に転起され〕、さらに、虚言、饒舌、示相、詐術、利得による利得の追求、という、このような〔あり方〕等々の悪しき諸法(性質)を所以に転起された、誤った生き方(邪命)からの離去が、これが、「生き方の完全なる清浄としての戒」〔ということになる〕。(4―4)「〔比丘は〕根源のままに審慮して〔そののち〕、衣料を受用します──寒さの防御のために、[暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、]まさしく、そのかぎりにおいて」(マッジマ・ニカーヤ1p.10)という〔言葉〕等の方法によって説かれた、審慮の完全なる清浄としての四つの日用品(生活必需品)の遍き受益が、「日用品に等しく依拠したものとしての戒」ということになる。

 

14.

 

 1 戒条による統御としての戒

 

§28  そこで、これが、〔第四の四なるものについて、その〕最初から始めて、〔その〕順次なる句の解説と共に、〔その〕判別の言説となる。[まずは、すなわち、世尊によって、「ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます」(アングッタラ・ニカーヤ2p.22)と説かれた、戒条による統御としての戒について]──

 「ここに」とは、この教えにおいて。「比丘」とは、あるいは、輪廻のうちに恐怖を見ることによって、あるいは、切断され破断された布切れを〔身に〕付けること等によって、このような語用(通称)を得た、信によって出家した良家の子息。「戒条による統御によって統御された者」とは、ここにおいて、「戒条(戒律条項)」とは、学びの境処としての戒。なぜなら、それ(戒条)は、彼がそれに注目し(パーティ)守護するなら、彼を解脱させ(モッケーティ)、悪所等々の諸苦から解き放つ(モーチャヤティ)からである。それゆえに、「戒条(パーティモッカ)」と説かれる。統御することが、「統御」。身体の属性と言葉の属性としての違犯なきことに、この名前がある。まさしく、戒条は、統御であり、戒条による統御である。その戒条による統御によって統御された者が、「戒条による統御によって統御された者」。〔それを〕所有した者、〔それを〕具備した者、という義(意味)である。「〔世に〕住み」とは、振る舞う(行為する)。

 

§29  【17】「〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として」という〔言葉〕等々の義(意味)は、まさしく、聖典において言及された方法によって、知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「『〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者』とは、〔正しい〕習行が存在し、〔正しい〕習行ならざるものが存在する。そこにおいて、どのようなものが、〔正しい〕習行ならざるものであるのか。身体の属性としての違犯であり、言葉の属性としての違犯であり、身体の属性と言葉の属性としての違犯である。これが、〔正しい〕習行ならざるものと説かれる。劣戒たることは、全てもろともに、〔正しい〕習行ならざるものである。ここに、一部の者が、あるいは、竹を与えることによって、あるいは、葉を与えることによって、花や果や洗粉や楊枝を与えることによって、あるいは、追従によって、あるいは、豆汁たること(半煮えの虚言)によって、あるいは、機嫌取りによって、あるいは、使い走りによって、あるいは、覚者(ブッダ)によって弾劾された誤った生き方である何らかの或るものによって、生計を営む。これが、〔正しい〕習行ならざるものと説かれる。そこにおいて、どのようなものが、〔正しい〕習行であるのか。身体の属性としての違犯なきことであり、言葉の属性としての違犯なきことであり、身体の属性と言葉の属性としての違犯なきことである。これが、〔正しい〕習行と説かれる。戒による統御は、全てもろともに、〔正しい〕習行である。ここに、一部の者が、あるいは、竹を与えることによってではなく、あるいは、葉を与えることによってではなく、花や果や洗粉や楊枝を与えることによってではなく、あるいは、追従によってではなく、あるいは、豆汁たること(半煮えの虚言)によってではなく、あるいは、機嫌取りによってではなく、あるいは、使い走りによってではなく、あるいは、覚者によって弾劾された誤った生き方である何らかの或るものによってではなく、生計を営む。これが、〔正しい〕習行と説かれる。

 

§30  『境涯』とは、〔正しい〕境涯が存在し、〔正しい〕境涯ならざるものが存在する。そこにおいて、どのようなものが、〔正しい〕境涯ならざるものであるのか。ここに、一部の者は、あるいは、娼婦を境涯とする者(娼婦のもとに足しげく通う者)として〔世に〕有り、あるいは、寡婦や年増娘や陰間や比丘尼や酒場を境涯とする者として〔世に〕有り、王たちと、王の大臣たちと、異教の者たちと、異教の弟子たちと、〔正しい行為に〕随順しない在家の交わり方で交わる者として〔世に〕住む。また、あるいは、すなわち、それらの家々が、比丘たちに、比丘尼たちに、在俗信者たち(優婆塞)に、在俗女性信者(優婆夷)たちに、信なく、浄信なく、給水者と成ることなく(布施をしない)、罵倒し口撃し、義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する〔家々〕であるなら、そのような【18】形態の家々に、慣れ親しみ、親近し、奉侍する。これが、〔正しい〕境涯ならざるものと説かれる。そこにおいて、どのようなものが、〔正しい〕境涯であるのか。ここに、一部の者は、あるいは、娼婦を境涯とする者(娼婦のもとに足しげく通う者)ではなく〔世に〕有り……略……酒場を境涯とする者ではなく〔世に〕有り、王たちと……略……異教の弟子たちと、〔正しい行為に〕随順しない在家の交わり方で交わらない者として〔世に〕住む。また、あるいは、すなわち、それらの家々が、比丘たちに……略……女性在俗信者たちに、信あり、浄信あり、給水者と成り(布施をする)、袈裟を灯火とし、聖賢の風が行き来し、義(利益)を欲し……略……束縛からの平安を欲する〔家々〕であるなら、そのような形態の家々に、慣れ親しみ、親近し、奉侍する。これが、〔正しい〕境涯と説かれる。かくのごとく、そして、この〔正しい〕習行を、さらに、この〔正しい〕境涯を、具した者として、具完した者として、所有した者として、完備した者として、具有した者として、完有した者として、具備した者として、〔世に〕有る。それによって説かれる。『〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者』〔と〕」(ヴィバンガp.246-7)と。

 

§31  さらに、また、ここにおいて、この方法によってもまた、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯が知られるべきである。まさに、二種類の〔正しい〕習行ならざるものがある。身体の属性としてのものであり、さらに、言葉の属性としてのものである。そこにおいて、どのようなものが、身体の属性としての〔正しい〕習行ならざるものであるのか。ここに、一部の者は、たとえ、僧団に赴いたとして(僧団の一員となっても)、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。長老の比丘たちが、履物無しで歩行〔瞑想〕をしているのに、履物有りで歩行〔瞑想〕をし、低い歩行場で歩行〔瞑想〕をしているのに、高き歩行場で歩行〔瞑想〕をし、大地で歩行〔瞑想〕をしているのに、歩行場で歩行〔瞑想〕をする。長老の比丘たちに、分け入ってであろうが立ち、分け入ってであろうが坐る。新参の比丘たちにもまた、坐を拒み、浴室においてもまた、長老の比丘たちに尋ねずして、薪をくべ、扉を締める。水浴場においてもまた、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが入り、前であろうが入り、ぶつかりながらであろうが沐浴し、前であろうが沐浴し、ぶつかりながらであろうが上がり、前であろうが上がる。〔布施を受けるために〕家屋の内に入りながらもまた、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが赴き、前であろうが赴き、そして、〔家から〕離れては、長老の比丘たちの前へ前へと赴く。すなわち、また、家々には、そして、秘密の、さらに、隠蔽された、それらの内室が有り、そこにおいて、良家の婦女たちが〔坐り〕、良家の少女たちが坐るなら、そこにおいてもまた、無理やり入り、少年の頭をもまた撫でまわす。これが、身体の属性としての〔正しい〕習行ならざるものと説かれる。

 

§32  そこにおいて、どのようなものが、言葉の属性としての〔正しい〕習行ならざるものであるのか。ここに、一部の者は、たとえ、僧団に赴いたとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに尋ねずして、〔他者にたいし〕法(教え)を話し、問いに答え、戒条(戒律条項)を誦説する。立ったまま【19】であろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。〔布施を受けるために〕家屋の内に入るもまた、あるいは、婦女に、あるいは、少女に、このように言う。「某名よ、某姓よ、何が存するのか。粥は存するのか。食べるものは存するのか。固形の食料は存するのか。〔わたしたちは〕何を飲むことになるのか。〔わたしたちは〕何を咀嚼することになるのか。〔わたしたちは〕何を頂戴することになるのか。あるいは、〔あなたたちは〕わたしに、何を布施してくれるのか」と語り散らす。これが、言葉の属性としての〔正しい〕習行ならざるものと説かれる。

 

§33  また、それと相反するものを所以に、〔正しい〕習行が知られるべきである。そして、また、比丘が、尊重〔の思い〕を有し、敬虔〔の思い〕を有し、恥〔の思い〕()と〔良心の〕咎め()を成就した者として──きちんと衣をまとい、きちんと着衣し、前視したとして、後視したとして、屈曲したとして、伸直したとして、浄信をもって〔為し〕、〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、振る舞いの道(行住坐臥のあり方)を成就した者として──諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として、食において量を知る者として、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として、気づきと正知を具備した者として──少なき欲求の者として、〔常に〕満ち足りている者として、精進に励む者として──諸々の卓越の正行ある者たちにたいし恭しく為す者として、導師への心作多き者として、〔世に〕住む。これが、〔正しい〕習行と説かれる。まずは、このように、〔正しい〕習行が知られるべきである。

 

§34  また、〔正しい〕境涯は、依所たる境涯、守護たる境涯、連結たる境涯、という、三種類のものとなる。そこにおいて、どのようなものが、依所たる境涯であるのか。十の〔正しい〕議論の事例(十論事:少欲・知足・遠離・非俗・精進勉励・戒・禅定・智慧・解脱・解脱の知見)という徳を具備した、善き朋友である。彼に依拠して未聞を聞き、所聞を遍く清め、疑いを超え、見解を真っすぐに作り為し、心を浄信させ、また、あるいは、彼に従い学んでいる者は、信によって増大し、戒によって〔増大し〕、所聞によって〔増大し〕、施捨によって〔増大し〕、智慧によって増大する。これが、依所たる境涯と説かれる。

 

§35  どのようなものが、守護たる境涯であるのか。ここに、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御された者として赴く。象〔兵〕を眺めることなく、馬〔兵〕を眺めることなく、車〔兵〕を眺めることなく、歩〔兵〕を眺めることなく、女たちを眺めることなく、男たちを眺めることなく、少女たちを眺めることなく、少年たちを眺めることなく、店の内を眺めることなく、家の入り口を眺めることなく、上を眺めることなく、下を眺めることなく、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)を〔注意深く〕見ながら、赴く。これが、守護たる境涯と説かれる。

 

§36  どのようなものが、連結たる境涯であるのか。そこにおいて、心を結縛する、四つの気づきの確立(四念処・四念住)である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域なのですか。すなわち、この、四つの気づきの確立です」(サンユッタ・ニカーヤ5p.148)と。これが、連結たる境涯と説かれる。かくのごとく、そして、この〔正しい〕習行を、さらに、この〔正しい〕境涯を、具した者として……略……具備した者として、〔世に〕有る。それによってもまた、「〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者」と説かれる。

 

§37  【20】「諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として」(§28)とは、思わず犯してしまった学びの〔規則〕や善ならざる心の生起等の細別ある、諸々の微細な量の罪過に恐怖を見ることを戒とする者として。

 「〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます」とは、それが何であれ、諸々の学びの境処における学ぶべきものであるなら、その全てを正しく取って学ぶ。

 そして、ここにおいて、「戒条による統御によって統御された者」とは、そして、これだけで、〔その〕人物〔の境位〕を確立するための説示として、戒条による統御としての戒が見示された、〔と知られるべきである〕。また、「〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者」という〔言葉〕等の一切は、すなわち、〔戒を〕実践した者の、その戒が成就するとおりに、その実践〔のあり方〕を見示するために説かれた、と知られるべきである。

 

15.

 

 2 〔感官の〕機能における統御としての戒

 

§38  また、すなわち、この──その直後に、「彼(比丘)は、眼(視覚機能)によって、形態(:眼の対象)を見て、[形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能(眼根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳(聴覚機能)によって、音声(:耳の対象)を聞いて……略……鼻(嗅覚機能)によって、臭気(:鼻の対象)を嗅いで……略……舌(味覚機能)によって、味感(:舌の対象)を味わって……略……身(知覚機能)によって、感触(所触:身の対象)に接触して……略……意(思考機能)によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と〔成ら〕ず……略……意の機能(意根)における統御を惹起します]」(ディーガ・ニカーヤ1p.70,マッジマ・ニカーヤ1p.180)という〔言葉〕等の方法によって見示された、〔感官の〕機能における統御としての戒であるが──

 そこにおいて、「彼は」とは、〔まさに〕その、戒条による統御としての戒において安立した比丘は。「眼によって、形態を見て」とは、〔行為の〕契機を所以に「眼」という語用を得た、形態を見ることができる、眼の識知〔作用〕(眼識)によって、形態を見て。また、過去の方たちは言う。「眼は、形態を見ない──心の作用なきことから。心は、〔形態を〕見ない──眼の作用なきことから。いっぽう、〔感官の〕門と対象(所縁)が相打ったとき、眼の〔機能の〕澄浄(眼浄:視覚機能)を基盤とする心によって、〔形態を〕見る。また、この、〔『眼によって、形態を見て』という〕このような〔言葉〕は、『弓によって射る』という〔言葉〕等々におけるように、『要素を有する言説』ということに成る(内包する要素を含めて意味づけされ使用されている)。それゆえに、〔厳密には〕『眼の識知〔作用〕によって、形態を見て』という、まさしく、この〔言葉〕が、ここにおいて、〔正しい〕義(意味)となる」と。

 

§39  「形相を収め取る者と〔成ら〕ず」とは、あるいは、女や男の形相を、あるいは、浄美なる形相等の〔心の〕汚れ(煩悩)の基盤として有る形相を、収め取らない。まさしく、〔眼によって〕見られたもののみにおいて、確立する。「付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません」とは、諸々の〔心の〕汚れには付随する特徴があり、〔個々に〕明白なる状態を作り為すことから、「付随する特徴」という語用を得た、手や足や笑みや笑いや発話や顧慮等の細別ある行相を、収め取らない。それが、そこにおいて、〔あるがままに〕有るものであるなら、まさしく、それを、収め取る。

 

§40  チェーティヤ山の住者たるマハー・ティッサ長老のように。伝えるところでは、長老が、チェーティヤ山からアヌラーダの都へと〔行乞の〕食の歩み(托鉢行)を義(目的)にやってくるのを、或るどこかの良家の嫁が、夫を相手に言い争って、〔憂さ晴らしに〕天の少女のように美しく装い飾り、ごく早朝にアヌラーダの都から出て、親族の家(実家)に赴きつつあるところ、道の途中に見て、転倒した心の者となり、【21】大笑いに笑うのだった(こちらにやってくる長老を見て、意味なく大笑した)。長老は、「これは、何なのか」と眺め見ながら、彼女の歯の骨において、浄美ならざる表象(不浄想:身体は不浄で価値がないと意を為す瞑想)を獲得して、阿羅漢の資質に至り得た。それによって、〔このことが〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼女の歯の骨を見て、過去〔に修めた、浄美ならざる〕表象を随念した。まさしく、そこにおいて、その長老は、立ったまま、阿羅漢の資質に至り得た」と。

 

 いっぽう、夫もまた、まさに、彼女の〔辿った〕道沿いに赴きつつ、長老を見て、「尊き方よ、誰かしら、女をお見かけでしょうか」と尋ねた。長老は、彼に言った。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「あるいは、女が、あるいは、男が、ここから赴いたとして、〔わたしは、それを〕証知しない。しかしながら、また、骨の群結が、この大道において赴く」と。

 

§41  「すなわち」「これを事因として」という〔言葉〕等について。気づきの戸によって眼の機能が統御されず、眼の門が締められず、〔そのような者と〕成って〔世に〕住んでいる、この人物に、それを契機とすることから、その眼の機能における統御なき〔あり方〕を(※)因として、これらの強欲〔の思い〕等々の諸々の〔悪しき善ならざる〕法(性質)が流入し、ついてまわることになる。「その〔眼〕の統御のために実践し」とは、その眼の機能を気づきの戸によって締めることを義(目的)として実践し。そして、このように実践している者こそが、「眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します」と説かれる。

 

※ テキストには cakkhundriyasavarassa とあるが、VRI版により cakkhundriyāsavarassa と読む。

 

§42  そこにおいて、たとえ、何であれ、眼の機能〔それ自体〕においては、あるいは、統御も、あるいは、統御なき〔あり方〕も、存在しない。なぜなら、眼の〔機能の〕澄浄(眼浄:視覚機能)に依拠して、あるいは、気づきが、あるいは、気づきの忘却が、生起することはないからである。そして、また、すなわち、形態()が〔認識の〕対象(所縁)として、眼の視野にやってくるとき、そのとき、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕(有分:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)が、二回、生起しては止滅したときに、〔報いを生まない純粋〕所作(唯作:行為の報いを生まない善悪無記の心)としての意の界域(意界)が、〔心を対象に〕傾注する作用(引転・転向:感官機能に触れた対象を内に引き入れ認識可能状態にする作用)を遂行しつつ生起しては止滅する(Ch.14§115-6)。そののち、眼の識知〔作用〕(眼識)が、〔対象を〕見る作用を〔遂行しつつ生起しては止滅する〕(Ch.14§117)。そののち、報い(異熟・果報)としての意の界域が、〔対象を〕領受する作用(領受)を〔遂行しつつ生起しては止滅する〕(Ch.14§118)。そののち、因なきもの(因として機能せず未来に果を生まないもの)にして報いとしての意の識知〔作用〕の界域(意識界)が、〔対象を〕吟味する作用(推度)を〔遂行しつつ生起しては止滅する〕(Ch.14§119)。そののち、因なきものにして〔報いを生まない純粋〕所作としての意の識知〔作用〕の界域が、〔対象を〕定置する作用(確定)を遂行しつつ生起しては止滅する(Ch.14§120)。その直後に、疾走〔作用の心〕(速行:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)が疾走する(Ch.14§121)。そこで、また、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の時点においては、あるいは、統御も、あるいは、統御なき〔あり方〕も、まさしく、〔存在せ〕ず、〔心を対象に〕傾注する〔作用〕等々(傾注する作用・見る作用・領受する作用・吟味する作用・定置する作用)の或るどこかの時点においても、存在しないとして、いっぽう、疾走〔作用〕の瞬間において、それで、もし、あるいは、劣戒たることが、あるいは、気づきの忘却が、あるいは、無知(知恵なき状態)が、あるいは、忍耐なき〔あり方〕が、あるいは、怠惰が、生起するなら、〔その時点において〕統御なき〔あり方〕が有る。また、このように有りつつある、その〔状態〕が、「眼の機能における統御なき〔あり方〕」と説かれる。

 

§43  【22】「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「すなわち、その〔統御なきあり方〕が存しているとき、〔感官の〕門もまた守られていないものとして有り、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕もまた〔守られていないものとして有り〕、〔心を対象に〕傾注する〔作用〕等々の道程の諸心もまた〔守られていないものとして有る〕ことから」〔と答える〕。「すなわち、何のようにか」〔と問うなら〕、「すなわち、城市において四つの門が統御されていないときは、たとえ、何であれ、〔城市の〕内にある家屋や門や門小屋や部屋等々が善く統御されたものとして有るとして、そのように、また、城市の内にある一切の物品も、まさしく、守護されず保護されていないものとして有るように」〔と答える〕。なぜなら、盗賊たちが城市の門から入ってきて、その〔物品〕を求めるなら、その〔物品〕を〔思いのままに〕為すからである。まさしく、このように、疾走〔作用の心〕において、劣戒たること等々が生起したときは、その統御なき〔あり方〕が存しているとき、〔感官の〕門もまた守られていないものとして有り、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕もまた〔守られていないものとして有り〕、〔心を対象に〕傾注する〔作用〕等々の道程の諸心もまた〔守られていないものとして有る〕。いっぽう、その〔疾走作用の心〕において、戒等々が生起したときは、〔感官の〕門もまた守られたものとして有り、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕もまた〔守られたものとして有り〕、〔心を対象に〕傾注する〔作用〕等々の道程の諸心もまた〔守られたものとして有る〕。「すなわち、何のようにか」〔と問うなら〕、「すなわち、城市の諸門が善く統御されたときは、たとえ、何であれ、〔城市の〕内にある家屋等々が統御されていないものとして有るとして、また、そのように、城市の内にある一切の物品も、まさしく、善く守護され善く保護されたものとして有るように」〔と答える〕。なぜなら、城市の諸門が締められたときは、盗賊たちに入り口は存在しないからである。まさしく、このように、疾走〔作用の心〕において、戒等々が生起したときは、〔感官の〕門もまた守られたものとして有り、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕もまた〔守られたものとして有り〕、〔心を対象に〕傾注する〔作用〕等々の道程の諸心もまた〔守られたものとして有る〕。それゆえに、疾走〔作用〕の瞬間において生起しつつあるもまた、「眼の機能における統御」と説かれる。

 

§44  「耳によって、音声を聞いて」という〔言葉〕等々についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 このように、これを簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、形態等々における〔心の〕汚れに追随する形相等の収取を遍く避けるという特相が、「〔感官の〕機能における統御としての戒」と知られるべきである。

 

16.

 

 3 生き方の完全なる清浄としての戒

 

§45  今や、〔感官の〕機能における統御としての戒の直後に、[生き方を因として制定された六つの学びの境処への違犯を〔所以に転起され〕、さらに、虚言、饒舌、示相、詐術、利得による利得の追求、という、このような〔あり方〕等々の悪しき諸法(性質)を所以に転起された、誤った生き方からの離去、と]説かれた、生き方の完全なる清浄としての戒について。「生き方を因として制定された六つの学びの境処への〔違犯〕」とは、すなわち、それらの、〔第一に〕「生き方を因とし生き方を契機とすることから(豊かな暮らしを目的に)、悪しき欲求ある者となり、〔自らの〕欲求に支配された者となり、〔いまだ〕存在せず、〔いまだ〕事実ならざる、人間を超える法(性質)を、〔自己にあると〕吹聴する(人間を超える法を得ていないのに得たと言いふらす)」(ヴィナヤ5p.146)──〔僧団追放に値する〕極罪(波羅夷)の罪、〔第二に〕「生き方を因とし生き方を契機とすることから、〔男女の〕行き来に関与する(仲介する)」(ヴィナヤ5p.146)──〔僧団追放には至らない〕僧団残留(僧残)の罪、〔第三に〕「生き方を因とし生き方を契機とすることから、『すなわち、あなたの精舎に住する、その比丘は、阿羅漢である』と話す」(ヴィナヤ5p.146)──〔偽りを〕明言する者の粗罪(偸蘭遮)の罪、〔第四に〕「生き方を因とし生き方を契機とすることから、比丘が、諸々の精妙なる食料を、無病であるのに、自己の義(利益)のために、請求して受益する」(ヴィナヤ5p.146)──要懺悔償罪(波逸提・単堕)の罪、〔第五に〕「生き方を因とし生き方を契機とすることから、比丘尼が、諸々の精妙なる食料を、無病であるのに、自己の義(利益)のために、請求して受益する」(ヴィナヤ5p.146)──要懺悔告白(提舎尼・悔過)の罪、〔第六に〕「生き方を因とし生き方を契機とすることから、あるいは、汁を、あるいは、飯を、無病であるのに、自己の【23】義(利益)のために、請求して受益する」(ヴィナヤ5p.146)──要悔悟(突吉羅・悪作)の罪、という、このように、〔生き方を因として〕制定された六つの学びの境処(戒律)があり、これらの六つの学びの境処への〔違犯〕。

 

§46  「虚言」という〔言葉〕等々については、これが、聖典〔の言葉〕となる。「(一)そこにおいて、どのようなものが、虚言であるのか。利得と尊敬と名声に等しく依拠した者の、悪しき欲求ある者の、〔自らの〕欲求に支配された者の、すなわち、あるいは、『日用品の受用』と名づけられたものによる、あるいは、〔布施を得るための〕『なぞかけ』〔と名づけられたもの〕による、あるいは、振る舞いの道(行住坐臥)のための、(1)作為的虚飾、(2)虚飾、(3)常習的虚飾、(4)渋面すること、(5)渋面たること、(6)虚言、(7)虚言すること、(8)虚言あることである。これが、『虚言』〔と〕説かれる。

 

§47  (二)そこにおいて、どのようなものが、饒舌であるのか。利得と尊敬と名声に等しく依拠した者の、悪しき欲求ある者の、〔自らの〕欲求に支配された者の、すなわち、他者たちにたいする、(1)一方的饒舌、(2)饒舌、(3)常習的饒舌、(4)高揚的饒舌、(5)常習的高揚的饒舌、(6)粘言、(7)常習的粘言、(8)巧言、(9)常習的巧言、(10)愛慕の話し方をすること、(11)追従をすること、(12)豆汁たること(半煮えの虚言)、(13)機嫌取りをすることである。これが、『饒舌』〔と〕説かれる。

 

§48  (三)そこにおいて、どのようなものが、示相であるのか。利得と尊敬と名声に等しく依拠したの、悪しき欲求ある者の、〔自らの〕欲求に支配された者の、すなわち、他者たちにたいする、(1)形相、(2)形相の行為、(3)暗示、(4)暗示の行為、(5)なぞかけ、(6)ほのめかしの言説である。これが、『示相』〔と〕説かれる。

 

§49  (四)そこにおいて、どのようなものが、詐術であるのか。利得と尊敬と名声に等しく依拠した者の、悪しき欲求ある者の、〔自らの〕欲求に支配された者の、すなわち、他者たちにたいする、(1)罵倒、(2)蔑視、(3)非難、(4)冷笑、(5)常習的冷笑、(6)嘲笑、(7)常習的嘲笑、(8)悪口、(9)常習的悪口、(10)栄誉ならざることの言いふらし、(11)他者の陰口を言うことである。これが、『詐術』〔と〕説かれる。

 

§50  (五)そこにおいて、どのようなものが、利得による利得の追求であるのか。利得と尊敬と名声に等しく依拠した者が、悪しき欲求ある者が、〔自らの〕欲求に支配された者が、ここから得た財貨をそちらに運び、あるいは、そちらで得た財貨をここに運び来る。すなわち、このような形態の、財貨による財貨のための、(1)探求、(2)深き探求、(3)遍き探求、(4)探求すること、(5)深く探し求めること、(6)遍く探求することである。これが、『利得による利得の追求』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.352-3)と。

 

17.

 

§51  また、このように、この聖典の義(意味)が知られるべきである。(一)まずは、虚言の釈示について。「利得と尊敬と名声に等しく依拠した者の」とは、そして、利得に、かつまた、尊敬に、さらに、名誉の声に、〔それらに〕等しく依拠し、〔それらを〕切望している者の、という義(意味)である。【24】「悪しき欲求ある者の」とは、〔自己に〕存在していない徳の〔他者への〕提示を欲する者の。「〔自らの〕欲求に支配された者の」とは、〔自らの〕欲求に支配され、悩まされている者の、という義(意味)である。これより他は、すなわち、(1)日用品の受用と(2)〔布施を得るための〕なぞかけと(3)振る舞いの道に等しく依拠したものを所以に、『マハー・ニッデーサ(大義釈)』において、三種類の虚言の事例が言及されたことから、それゆえに、これを、三種類もろともに見示するために、「あるいは、『日用品の受用』と名づけられたものによる」という、このような〔言葉〕等が始められた。

 

§52  (1)そこにおいて、衣料等々によって〔布施をするために、在俗の家長たちに〕招かれた〔比丘〕が、まさしく、それを義(目的)とする者(衣料等々を欲する者)として存しつつ、悪しき欲求に依拠して、〔とりあえずは〕拒絶することで、そして、それらの家長たちを、自己にたいし善く確立された信ある者たちと知って、ふたたび、彼らが、「ああ、尊貴なる方は、少なき欲求の者です。何であれ、納受することを求めない。それで、もし、たとえ、少しばかりのものでも、何であれ、納受してくれるなら、まさに、わたしたちにとって、善く得られたもの(善き功徳)として存するでしょう」と、種々なる種類の手段で諸々の精妙なる衣料等々を運びつつあるなら、まさしく、それに執持なき〔あり方〕を欲することを明らかと為して(執持しないと明言して)、しかしながら、〔実際には〕納受することで、それより以降もまた、諸々の荷車で〔施物を〕持ってくることの因と成った謀事が、「『日用品の受用』と名づけられた虚言の事例」と知られるべきである。

 

§53  まさに、このことが、『マハー・ニッデーサ(大義釈)』において説かれた。「どのようなものが、『日用品の受用』と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、〔在俗の〕家長たちが、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって〔布施をするために〕、比丘を招く。その〔比丘〕は、悪しき欲求ある者であり、〔自らの〕欲求に支配された者であり、〔それらの施物を〕義(目的)とする者であり、諸々の衣料や……略……必需品をより一層欲することに執取して、衣料を〔とりあえずは〕拒絶し、〔行乞の〕施食を〔とりあえずは〕拒絶し、臥坐具を〔とりあえずは〕拒絶し、病のための日用品たる薬の必需品を〔とりあえずは〕拒絶する。彼は、このように言う。『沙門にとって、高価な衣料が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けるなら。沙門にとって、高価な〔行乞の〕施食が何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、残飯行(乞食行)によって、〔施しの〕握り飯によって、生計を営むなら。沙門にとって、高価な臥坐具が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、木の根元にある者として、あるいは、墓場にある者として、あるいは、野外にある者として、〔世に〕存するなら。沙門にとって、高価な病のための日用品たる薬の必需品が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、腐尿(発酵した牛の尿)によって、あるいは、薬果の破断したものによって、薬と為すなら』と。それ(施物)に執取して、粗末な衣料を〔身に〕付け、粗末な〔行乞の〕施食を遍く受益し、【25】粗末な臥坐所を受用し、粗末な病のための日用品たる薬の必需品を受用する。〔まさに〕その、この者のことを、〔在俗の〕家長たちは、このように知る。『この沙門は、少なき欲求の者であり、〔常に〕満ち足りている者であり、遠離している者であり、〔世俗と〕交わりなき者であり、精進に励む者であり、〔俗塵の〕払拭(頭陀)を説く者である』と。より一層、より一層、〔家長たちは〕諸々の衣料や……略……必需品によって〔布施をするために、その比丘を〕招く。彼は、このように言う。『三つのものが面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第一に〕信が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第二に〕施すべき法(施物)が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第三に〕施与されるべき者たちが、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。まさしく、そして、あなたたちには、この信が存在し、さらに、施すべき法(施物)が等しく見出される。かつまた、わたしは、納受する者である。それで、もし、わたしが納受しないであろうなら、このように、あなたたちは、功徳から遍く外にある者たちと成るであろう。わたしには、これに義(目的)はないが、しかしながら、また、まさしく、あなたたちへの慈しみ〔の思い〕によって、〔わたしは〕納受する』と。それに執取して、さらに、多くの衣料を納受し、さらに、多くの〔行乞の〕施食を納受し、さらに、多くの臥坐具を納受し、さらに、多くの病のための日用品たる薬の必需品を納受する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが(※)、『日用品の受用』と名づけられた虚言の事例である」(マハー・ニッデーサp.224-5)と。

 

※ テキストには ida vuccati とあるが、VRI版により ida と読む。

 

§54  (2)また、まさしく、悪しき欲求ある者として存している者の、人間を超える法(性質)への到達を遍く提示する言葉によって、そのように〔為しては〕そのように〔為す〕、〔あの手この手の〕謀事が、「『なぞかけ』と名づけられた虚言の事例」と知られるべきである。

 すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのようなものが、『なぞかけ』と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、『このように、人は、わたしを尊ぶであろう』と、聖なる法(教え)に等しく依拠した言葉を語る。『彼が、このような形態の衣料を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である』と話す。『彼が、このような形態の鉢や銅椀や水瓶や濾過器や鍵や身体を縛る〔帯〕や履物を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である』と話す。『彼に、このような形態の師父(和尚)がいるなら……師匠(阿闍梨)や師父に等しき者や師匠に等しき者や朋友や同輩や知己や道友がいるなら……『彼が、このような形態の精舎に住するなら……半屋根や高楼や楼房や岩窟や山窟や小屋や楼閣や見張塔や円室や屋舎や奉仕堂や【26】天幕や木の根元に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である』と話す。さらに、あるいは、逆上に逆上し、渋面に渋面し、虚言に虚言し、饒舌に饒舌し、口で尊ばれている者が、『この沙門は、このような形態の、これらの寂静なる住への入定(等至:禅定の境地)の得者である』と、このような、深遠で、秘密にされ、精緻で、隠蔽され、世〔俗〕を超える、空性に関係した言説を言説する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが(※)、『なぞかけ』と名づけられた虚言の事例である」(マハー・ニッデーサp.226-7)と。

 

※ テキストには ida vuccati とあるが、VRI版により ida と読む。

 

§55  (3)また、まさしく、悪しき欲求ある者として存している者の、〔他者に〕尊ばれることを志向することで作り為された振る舞いの道による謀事が、「振る舞いの道に等しく依拠した虚言の事例」と知られるべきである。

 すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのようなものが、『振る舞いの道』と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、『このように、人は、わたしを尊ぶであろう』と、赴くに装い、臥すに装い、作為して赴き、作為して立ち、作為して坐り、作為して臥所を営み、〔心が〕定められた者であるかのように赴き、〔心が〕定められた者であるかのように立ち、坐り、臥所を営み、そして、視野のうちなる瞑想者(見かけ上の瞑想者)と成る。すなわち、このような形態の、振る舞いの道のための、作為的虚飾、虚飾、常習的虚飾、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが(※)、『振る舞いの道』と名づけられた虚言の事例である」(マハー・ニッデーサp.225-6)と。

 

※ テキストには ida vuccati とあり、VRI版もida vuccati とあるが、引用原典により ida と読む。

 

§56  そこにおいて、「『日用品の受用』と名づけられたものによる」とは、「日用品の受用」と、このように名づけられたものによって、あるいは、「日用品の受用」と名づけられたものによって。「〔布施を得るための〕『なぞかけ』〔と名づけられたもの〕による」とは、〔話柄を〕近づけて話すこと(ほのめかし)によって。「あるいは、振る舞いの道のための」とは、四つの振る舞いの道(四威儀:行住坐臥)のための。(1)「作為的虚飾」とは、最初にする虚飾、あるいは、慇懃による虚飾。(2)「虚飾」とは、虚飾を為すこと。(3)「常習的虚飾」とは、〔あらかじめ〕準備すること。浄信ある状態を作り為すこと、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。(4)「渋面すること」とは、精励において最高〔の境地〕に立つ者たる〔自己の〕状態を〔他者に〕見示することで、渋面を作り為すこと。顔をしかめること、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。彼にとって、渋面を作り為すことが戒となる、ということで、渋面する者。渋面する者の状態が、(5)「渋面たること」。(6)「虚言」とは、謀事。虚言者の道が、(7)「虚言すること」。虚言する者の状態が、(8)「虚言あること」。ということで、〔このように、虚言の釈示について知られるべきである〕。

 

§57  (二)饒舌の釈示について。(1)「一方的饒舌」とは、精舎にやってきた人間たちを見て、「諸君は、何を義(目的)としてやってきたのかな。どうであろう、比丘たちを招くために〔やってきたのかな〕。【27】もしくは、そのとおりであるなら、去りたまえ(帰宅せよ)。わたしが、後から鉢を収め取って、〔比丘たちとともに〕到来するであろう」と、このように、まさしく、最初から〔一方的にまくしたてる〕饒舌。さらに、あるいは、自己を宣伝して、「わたしは、ティッサ(人名)である。王は、わたしにたいし浄信しているのだ。かつまた、誰某も、かつまた、誰某も、王の大臣も、わたしにたいし浄信しているのだ」と、このように、自己宣伝の饒舌が、一方的饒舌である。(2)「饒舌」とは、〔問いを〕尋ねられた者として存している者の、まさしく、〔前に〕説かれた流儀の饒舌をすること。(3)「常習的饒舌」とは、〔在俗の〕家長たちの嫌悪を恐れている者が、〔聴聞の〕機会を与えては与えて〔説くところの〕巧妙な饒舌。(4)「高揚的饒舌」とは、「大富豪ですね」「大舟主ですね」「大施主ですね」と、このように、〔相手を〕高きに作り為して〔説くところの〕饒舌。(5)「常習的高揚的饒舌」とは、全てにわたり、分細に、〔相手を〕高きに作り為して〔説くところの〕饒舌。

 

§58  (6)「粘言」とは、「在俗信者たちよ、過去において、このような時には、新たな布施を施すはずなのに、今や、どうして施さないのかな」と、このように〔語り〕、すなわち、「尊き方よ、施します。〔布施をする〕機会を得ない〔だけのこと〕です」という〔言葉〕等々を〔彼らが〕説くまで、それまでは、上に上にと〔高圧的に〕からみつくこと。まとわりつくこと、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。さらに、あるいは、〔在俗信者が〕甘蔗を手にしているのを見て、「在俗信者よ、どこから運んできたのかな」と尋ね、「尊き方よ、甘蔗畑からです」と〔答えるのにたいし〕、「どうであろう、そこにおいては、甘い甘蔗があるのかな」と〔尋ね〕、「尊き方よ、〔甘いかどうかは〕咀嚼して〔そののち〕知るべきものです」と〔答えるのにたいし〕、「在俗信者よ、『甘蔗を施せ』と説くことは、比丘として、順当ではない(ふさわしくない)」と〔説く〕。すなわち、このような形態の、〔無用の言を〕弄している者のまた、まとわりつく言説──それが、粘言である。全てにわたり、分細に、繰り返し〔説くところの〕粘言が、(7)「常習的粘言」。

 

§59  (8)「巧言」とは、「この家は、まさしく、わたしを知る(昵懇の間柄である)。それで、もし、ここにおいて、施すべき法(施物)が生起するなら、まさしく、わたしのために施す」と、このように、〔過去の布施を〕持ち上げて言明する巧言。闡明すること、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。そして、ここにおいて、テーラカンダリカの事例が説かれるべきである(二人の比丘が、在俗信者テーラカンダリカの娘について、かつて、その母親が酥を瓶ごと施したことを想起し、娘も同じようにするであろう、と語り合う話)。また、全てにわたり、分細に、繰り返し〔説くところの〕巧言が、(9)「常習的巧言」。

 

§60  (10)「愛慕の話し方をすること」とは、真理()として適切であるかを〔顧みずして〕、あるいは、法(教え)として適切であるかを顧みずして、繰り返し、まさしく、〔相手に〕愛されることを話すこと。(11)「追従をすること」とは、卑しい生活者たること。下に下にと自己を据え置いて行持すること。(12)「豆汁たること(半煮えの虚言)」とは、豆汁に等しきこと。まさに、すなわち、諸々の豆が煮られているとき、まさしく、幾許かは煮られず、残りは煮られるように、このように、その人物の言葉において、まさしく、幾許かは真理として有り、残りは偽りとして〔有るなら〕、この人物は、「豆汁の者」と説かれる。彼の状態が、「豆汁たること(半煮えの虚言)」。

 

§61  (13)「機嫌取りをすること」とは、【28】機嫌取りの状態。まさに、すなわち、良家の乳児たちを、あるいは、脇で、あるいは、肩で、持ち運ぶ──〔持ち運ぶとは〕保持する、という義(意味)である──乳母であるかのような、〔そのような行動を取る〕彼の、持ち運びの行為が、機嫌取り。機嫌取りをする者の状態が、「機嫌取りをすること」。ということで、〔このように、饒舌の釈示について知られるべきである〕。

 

§62  (三)示相の釈示について。(1)「形相」とは、それが何であれ、他者たちに、日用品の布施の表象()を生じさせる、身体〔の行為〕と言葉の行為。(2)「形相の行為」とは、固形の食料を抱えて赴く者たちを見て、「どうであろう、固形の食料を得たのかな」という〔言葉〕等の方法によって形相を作り為すこと。(3)「暗示」とは、日用品に関係した言説。(4)「暗示の行為」とは、子牛の〔面倒を見る〕牛飼いたちを見て、「どうであろう、これらの子牛たちは、乳〔を飲む〕子牛たちであるのか、それとも、酪〔を飲む〕子牛たちであるのか」と尋ねて、「尊き方よ、乳〔を飲む〕子牛たちです」と説かれたとき、「乳〔を飲む〕子牛たちにあらず。もしくは、乳〔を飲む〕子牛たちとして存するなら、比丘たちもまた、乳を得るべきである」という、このような〔言葉〕等の方法によって、それらの少年たちの母と父に知らせて、乳を布施させる等の、暗示を作り為すこと。

 

§63  (5)「なぞかけ」とは、〔話柄を〕近くに為して〔それとなく〕呟くこと。そして、ここにおいて、家に親近ある比丘の事例が説かれるべきである。伝えるところでは、家に親近ある比丘が、〔食を〕受けることを欲し、〔信者の〕家に入って坐った。彼を見て、施すことを欲さない家婦は、「米は存しません」と話しながら、〔他所から〕米を持ち運ぶことを欲するかのようにして、近所の家に赴いたところ、比丘は、内部屋に入って〔様子を〕眺め見ながら、戸の隅に甘蔗を、器のなかに砂糖を、籠のなかに数珠つなぎの塩漬け魚を、瓶のなかに米を、鉢のなかに酪を、〔それらを盗み〕見て、〔内部屋を〕出て、〔元のところに〕坐った。家婦が、「米を得ませんでした」と〔話しながら〕帰ってきたところ、比丘は、「女性在俗信者よ、『今日の行乞は成就しないであろう』と、まさしく、前もって、形相を見た」と言った。「尊き方よ、何を〔見たのですか〕」と。「戸の隅に置かれた甘蔗のような蛇を見た。『それを打とう』と眺め見ていると、器のなかに据え置かれた砂糖の塊のような岩を〔見た〕。〔その〕岩塊で打たれた蛇によって、籠のなかに置かれた数珠つなぎの塩漬け魚に等しき鎌首が作り為されたのを〔見た〕。その岩塊を咬むことを欲する、その〔蛇〕の、瓶のなかの米に等しき諸々の牙を〔見た〕。さらに、怒ったその〔蛇〕の口から、鉢のなかに置かれた酪に等しき、毒の混じり合った唾液が出ているのを〔見た〕」と。彼女は、「坊主を騙すことはできない」と、【29】甘蔗を施して、飯を炊いて、酪と砂糖と魚と共に、一切を施した。

 

§64  ということで、このように、〔話柄を〕近くに為して〔それとなく〕呟くことが、「なぞかけ」と知られるべきである。(6)「ほのめかしの言説」とは、すなわち、それを得るように、そのとおりに、遍く転起させては遍く転起させて、〔遠回しに〕言説すること。ということで、〔このように、示相の釈示について知られるべきである〕。

 

§65  (四)詐術の釈示について。(1)「罵倒」とは、十の罵倒の事態(他者を罵倒するための十事:盗人・馬鹿・阿呆・駱駝・雌牛・驢馬・地獄落ち・畜生・碌でなし・悪趣行き)によって罵倒すること。(2)「蔑視」とは、〔相手を〕貶めて言説すること。(3)「非難」とは、「信なき者である」「浄信なき者である」という〔言葉〕等の方法によって〔相手の〕汚点を揚挙すること。(4)「冷笑」とは、「ここにおいて、このことを言説してはならない」という言葉によって〔相手を〕排斥すること。全てにわたり、分細に、基盤を有し因を有するものに作り為して〔相手を排斥する〕冷笑が、(5)「常習的冷笑」。さらに、あるいは、施さずにいる者を見て、「ああ、施主よ」と、このように排斥することが、「冷笑」。「大施主よ」と、このように巧妙に冷笑することが、「常習的冷笑」。(6)「嘲笑」とは、「〔来世への悪しき〕種を食べるこの者には、どのような生があるのだろう」と、このように揶揄すること。(7)「常習的嘲笑」とは、「どうして、〔あなたたちは〕この者のことを、『施者ならざる者である』と話すのですか。彼は、常時、全てもろともの者たちに、『〔施すものは〕存在しない』という言葉を施します」と、このように、より巧妙に嘲弄すること。

 

§66  (8)「悪口」とは、施者ならざることへの、あるいは、〔相手の〕栄誉ならざることへの、悪口。全てにわたり、分細に〔説く〕悪口が、(9)「常習的悪口」。(10)「栄誉ならざることの言いふらし」とは、「このように、栄誉ならざることの恐怖からもまた、〔彼は〕わたしに施すであろう」と、家から家に、村から村に、地方から地方に、〔相手の〕栄誉ならざることを言いふらすこと。(11)「他者の陰口を言うこと」とは、〔相手の〕前では甘いことを話して、他面では(背後では)〔相手の〕栄誉ならざることを話すこと。まさに、これは、対面して眺め見ることができない者が、他面の者(後ろ向きの者)たちの背肉を喰うようなものとして有る。それゆえに、「他者の陰口を言うこと」と説かれた。「これが、詐術と説かれる」とは、これは、すなわち、竹篦で膏薬を〔塗り付ける〕ように、他者の徳を押し潰し、牽き砕くことから──あるいは、すなわち、香料の類を押し潰して〔香を取り出す〕香の搾取のように、他者たちの諸々の徳を押し潰し、打ち砕いて、〔まさに〕この、利得の搾取と成ることから──それゆえに、「詐術」と説かれる。ということで、〔このように、詐術の釈示について知られるべきである〕。

 

§67  (五)利得による利得の追求の釈示について。「追求」とは、搾取すること。「ここから得た〔財貨〕」とは、この家から得た〔財貨〕。「そちらに」とは、そちらの家に。(1)「探求」とは、求めること。(2)「深き探求」とは、搾取すること。(3)「遍き探求」とは、繰り返し搾取すること。そして、ここにおいて、最初〔の家〕から始めて、【30】行乞〔の食〕として得たもの得たものを、そこかしこで良家の乳児たちに与えて、最後には〔親から〕乳粥を得て、去り行った比丘の事例が言説されるべきである。「探求すること」という〔言葉〕等々は、まさしく、探求等々の同義語であり、それゆえに、「探求」とは、(4)「探求すること」であり、「深き探求」とは、(5)「深く探求すること」であり、「遍き探求」とは、(6)「遍く探求すること」である。ということで、ここにおいて、このように、〔それらを〕結び付けることが知られるべきである。これが、虚言等々の義(意味)となる。

 

§68  今や、「さらに、[虚言、饒舌、示相、詐術、利得による利得の追求、という、]このような〔あり方〕等々の悪しき諸法(性質)」とは、ここにおいて、「等」という語によって、「また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知(無益な呪術)である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、肢体〔の占い〕、形相〔の占い〕、天変〔の占い〕、夢〔の占い〕、特相〔の占い〕、鼠のかじりあと〔の占い〕、火の献供、柄杓の献供、[籾殻の献供、籾糠の献供、米の献供、酥の献供、油の献供、口の献供、血の献供、肢体の呪術、地所の呪術、士族の呪術、野狐(ジャッカル)の呪術、精霊の呪術、土地の呪術、蛇の呪術、蛇の呪術、毒の呪術、蝎の呪術、鼠の呪術、鳥の呪術、烏の呪術、命数の予言、矢の護呪、獣の声〔の占い〕であり、あるいは、かくのごときものである]」(ディーガ・ニカーヤ1p.9)という〔言葉〕等の方法によって、『ブラフマ・ジャーラ〔スッタ〕』(ディーガ・ニカーヤ1p.1)において説かれた、無数の悪しき諸法(性質)を収め取るものと知られるべきである。

 

§69  かくのごとく、すなわち、この、これらの生き方を因として制定された六つの学びの境処への違犯を〔所以に転起され〕、さらに、これらの、虚言、饒舌、示相、詐術、利得による利得の追求、という、このような〔あり方〕等々の悪しき諸法(性質)を所以に転起された、誤った生き方があるなら、すなわち、〔まさに〕その、一切の流儀もろともの誤った生き方からの離去が、これが、「生き方の完全なる清浄」〔ということになる〕。

 そこで、これが、言葉の義(意味)となる。これに由来して(アーガンマ)〔人々は〕生きる(ジーヴァンティ)、ということで、「生き方(アージーヴァ)」。何が、それであるのか。日用品を遍く探求する努力である。「完全なる清浄」とは、完全なる清浄たること。生き方にとっての完全なる清浄が、「生き方の完全なる清浄」。

 

18.

 

 4 日用品に等しく依拠したものとしての戒

 

§70  また、すなわち、この──その直後に、[「比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、(1)衣料を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。根源のままに審慮して〔そののち〕、(2)〔行乞の〕施食を受用します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行(禁欲清浄行)の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。根源のままに審慮して〔そののち〕、(3)臥坐所を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。根源のままに審慮して〔そののち〕、(4)病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を受用します──生起した諸々の病苦の〔苦痛の〕感受の防御のために、加害なき〔あり方〕を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて」(マッジマ・ニカーヤ1p.10)と]説かれた、日用品に等しく依拠したものとしての戒であるが──

 そこにおいて、「根源のままに審慮して〔そののち〕」とは、手段(方便)の道によって審慮して〔そののち〕。〔あるがままに〕知って、綿密に注視して、という義(意味)である。そして、ここにおいて、「寒さの防御のために」という〔言葉〕等の方法によって説かれた綿密に注視することこそが、「根源のままの審慮」と知られるべきである。

 

§71  (1)そこにおいて、「衣料」とは、それが何であれ、内衣等々における〔身に付ける〕もののこと。「受用します」とは、遍く受益する、あるいは、着衣する、あるいは、包着する。「まさしく、そのかぎりにおいて」とは、【31】目的の限界と限定を決定する言葉。なぜなら、まさしく、これだけのものが、〔心の〕制止者(瞑想修行者)にとって、衣料の受用における目的であり、すなわち、この、「寒さの防御のために」という〔言葉〕等のものは、これよりもより一層のものではないからである。「寒さの」とは、あるいは、内なる界域の変動(体調の異変)を所以に〔生起し〕、あるいは、外なる〔界域〕の季節の変化を所以に生起した、それが何であれ、寒さとしてあるものの。「防御のために」とは、〔障害の〕打破を義(目的)に。すなわち、肉体において病苦を生起させないように、このように、その〔病苦〕の除去を義(目的)に。なぜなら、肉体が寒さに侵されたとき、散乱した心は、根源のままに精励することができないからである。それゆえに、世尊は、寒さの防御のために、衣料が受用されるべきである、と承認した。これが、〔以下の言葉の〕一切所において、〔共通する説示の〕方法となる。まさに、ここにおいて、〔共通しない差異だけを〕単に〔説くなら〕、「暑さ」とは、火の熱苦のこと。それについては、林を焼く等々において、〔その〕発生が知られるべきである。

 

§72  また、「諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触」とは、ここにおいて、「虻」とは、諸々の咬む蝿のこと。〔それらは〕「盲蝿」ともまた説かれる。「蚊」とは、まさしく、諸々の蚊のこと。「風」とは、塵を有するものや塵なきもの等の細別ある諸々の〔風〕。「熱」とは、太陽の熱。「蛇類」とは、それらが何であれ、流れながら赴く、諸々の長い類のもので、蛇等々のこと。それらについては、そして、咬まれる接触、さらに、触れられる接触、という、二種類の接触がある。その〔二種類の接触〕ともどもに、衣料を着込んで坐った者を悩ますことはない。それゆえに、それらのような状況において、それらの防御を義(目的)として、〔衣料を〕受用する。

 

§73  「まさしく、そのかぎりにおいて」とは、さらなるこの言葉は、決定された目的の限界と限定を見示することを義(目的)とするもの。なぜなら、恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことは、決定された目的であり、諸他のものは、何らかの或る時において〔目的と〕成るからである。そこにおいて、「恥〔の思い〕で隠すべきところ」とは、〔男女〕それぞれの猥雑の箇所(陰部)のこと。なぜなら、〔男女〕それぞれの局部が暴露されているとき、恥〔の思い〕は動乱し、消失するからであり、〔男女〕それぞれの恥〔の思い〕を動乱させることから、「恥〔の思い〕で隠すべきところ」と説かれる。そして、その、恥〔の思い〕で隠すべきところの、覆うことを義(目的)に、ということで、「恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)に」。恥〔の思い〕で隠すべきところであり、覆うことを義(目的)に、というのもまた、〔一つの〕読み方となる。

 

§74  (2)「〔行乞の〕施食」とは、それが何であれ、食(動力源・エネルギー)としてあるもののこと。なぜなら、それが何であれ、食としてあるものは、比丘にとって、食乞い(托鉢)によって鉢に落とされたことから、「〔行乞の〕施食」と説かれるからである。あるいは、諸々の〔行乞の〕食の、〔鉢に〕落ちたものが、「〔行乞の〕施食」。そこかしこで得られた諸々の行乞〔の食〕の、集められた集積物、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。「まさしく、戯れのためではなく」とは、村の少年等々のように戯れを義(目的)とせず。遊戯を形相とするもの、というのが、〔ここにおいて〕説かれたもの(戯れ)と成る。「驕りのためではなく」とは、拳闘士や力士等々のように驕りを義(目的)とせず。力の驕りを形相とし、さらに、人の驕りを形相とするもの、というのが、【32】〔ここにおいて〕説かれたもの(驕り)と成る。「装うことのためではなく」とは、宮女や娼婦等々のように装うことを義(目的)とせず。手足や肢体の豊満の状態を形相とするもの、というのが、〔ここにおいて〕説かれたもの(装うこと)と成る。「飾ることのためではなく」とは、女優や舞女等々のように飾ることを義(目的)とせず。澄浄なる表皮と色艶を形相とするもの、というのが、〔ここにおいて〕説かれたもの(飾ること)と成る。

 

§75  そして、ここにおいて、「まさしく、戯れのためではなく」とは、これは、迷妄()の依所の捨棄を義(目的)に説かれ、「驕りのためではなく」とは、これは、憤怒()の依所の捨棄を義(目的)に〔説かれ〕、「装うことのためではなく、飾ることのためではなく」とは、これは、貪欲()の依所の捨棄を義(目的)に〔説かれた〕。さらに、「まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく」とは、これは、自己にとって、束縛するもの()の生起の制止を義(目的)に〔説かれ〕、「装うことのためではなく、飾ることのためではなく」とは、これは、他者にとってもまた、束縛するものの生起の制止を義(目的)に〔説かれた〕。そして、これらの四つもろともによって、根源のままならざる実践の〔捨棄が説かれ〕、さらに、欲望の安楽に付着する束縛()の捨棄が説かれた、と知られるべきである。「まさしく、そのかぎりにおいて」とは、まさしく、〔前に〕説かれた義(意味)となる。

 

§76  「この身体の」とは、この、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる形態の身体(色身:物質的身体)の。「止住のために」とは、連続の止住を義(目的)に。「存続のために」とは、転起の断絶なきことを義(目的)に、あるいは、長時の止住を義(目的)に。まさに、老朽した家屋の主人が家屋の保全に〔努める〕ように、さらに、車夫が車軸の塗油を〔怠らない〕ように、身体の止住を義(目的)に、かつまた、〔その〕存続を義(目的)に、この〔比丘〕は、〔行乞の〕施食を受用する──戯れや驕りや装うことや飾ることを義(目的)に、ではなく。さらに、また、「止住」とは、これは、生命の機能(命根)の同義語である。それゆえに、「この身体の止住のために、存続のために」とは、これだけで、この身体の生命の機能の転起を義(目的)に、ということでもまた、〔ここにおいて〕説かれたものと成る、と知られるべきである。

 

§77  「悩害の止息のために」とは、「悩害」というのは、病苦という義(意味)によって、飢えのことであり、その止息を義(目的)にもまた、この〔比丘〕は、〔行乞の〕施食を受用する──傷に〔薬を〕塗るように、さらに、暑さや寒さ等々にたいする、その対策のように。「梵行(禁欲清浄行)の資助のために」とは、そして、教え全体における梵行の、さらに、〔聖者の〕道における梵行の、〔両者の〕資助を義(目的)に。なぜなら、この〔比丘〕は、〔行乞の〕施食の受用を縁とする身体の力に依拠して、三つの学び(三学:戒・定・慧)に専念することを所以に、生存の砂漠を超え出ることを義(目的)に、〔道を〕実践しつつ、梵行の資助のために、〔行乞の施食を〕受用するからである──砂漠を超え出ることを義(目的)とする者たちが、子の肉を〔食べる〕ように──川を超え出ることを義(目的)とする者たちが、筏を〔用いる〕ように──さらに、海を超え出ることを義(目的)とする者たちが、船を〔用いる〕ように。

 

§78  「かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう」とは、このように、この〔行乞の〕施食の受用によって、【33】そして、〔わたしは〕古いもの(過去の経験)としてある飢えによる〔苦痛の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しいもの(未来の経験)としてある〔苦痛の〕感受を、〔正しく〕量られていない〔大量の〕食料〔の遍き受益〕を縁に〔身動きが取れなくなり他者の〕手で〔身体を〕運ぶ〔婆羅門〕や衣がきつきつになる〔婆羅門〕やその場で転倒する〔婆羅門〕や〔口から溢れ出たものを〕烏があさる〔婆羅門〕や食べたものを吐き出す婆羅門たちのなかの或るひとりのようには生起させないであろう(適量のみを摂取する)、ということでもまた、〔この比丘は、行乞の施食を〕受用する──病んだ者が薬を〔受用する〕ように。さらに、あるいは、すなわち、今このときに不当にして〔正しく〕量られていない食料に依拠して、古い行為の縁を所以に生起することから、「古い〔苦痛の〕感受」と説かれる、その〔苦痛の感受〕の縁を、正当にして〔正しく〕量られた食料によって消失させながら、そして、その古い〔苦痛の〕感受を、〔わたしは〕打破するであろう、〔ということで、この比丘は、行乞の施食を受用する〕。さらに、すなわち、この、今このときに為された道理なき遍き受益の行為の蓄積に依拠して、未来に生起することから、「新しい〔苦痛の〕感受」と説かれる、その〔苦痛の感受〕の根元を、道理ある遍き受益を所以に発現させずにいながら、そして、その新しい〔苦痛の〕感受を、〔わたしは〕生起させないであろう、ということで、〔この比丘は、行乞の施食を受用する〕。このようにもまた、ここにおいて、義(意味)が見られるべきである。

 これだけで、道理ある遍き受益を包摂するものとして、自己の疲弊への専念の捨棄(断食の否定と適量の摂取)が、さらに、法(教え)にかなう安楽の遍捨なきこと(過食の否定と適量の摂取)が、明らかにされたものと成る、と知られるべきである。

 

§79  「そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう」とは、益あるものとして〔正しく〕量られた〔食料〕の遍き受益によって、生命の機能を断絶させる〔危難〕の──あるいは、振る舞いの道を打ち砕く危難の──状態なきことから、そして、「長時に赴くもの」と名づけられた〔生命の〕続行が、わたしの、〔正当なる〕日用品(適量の食)に依止した生活ある、この身体に有るであろう、ということでもまた、〔この比丘は、行乞の施食を〕受用する──持病のある者がその日用品(薬)を〔受用する〕ように。「かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」とは、道理なく遍く探求することによる〔施物の〕納受と遍き受益を遍く避けることによって、罪過なき〔生〕たることが〔有るであろうし〕、〔正しく〕量られたものの遍き受益によって、平穏の住が〔有るであろう〕。あるいは、不当にして〔正しく〕量られていない食料を縁とする不満や倦怠や欠伸(あくび)や識者からの非難等の〔心の〕汚点となる状態がないことによって、罪過なき〔生〕たることが〔有るであろうし〕、正当にして〔正しく〕量られた食料を縁とする身体の力の発生によって、平穏の住が〔有るであろう〕。あるいは、すなわち、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけの腹一杯の食料を遍く避けることによって、臥すことの安楽や横になることの安楽や眠ることの安楽を捨棄することから、罪過なき〔生〕たることが〔有るであろうし〕、四〔口〕五口ばかりの少しの食料によって、四つの振る舞いの道(行住坐臥)において道理ある状態を実践することから、平穏の住が、そして、わたしに有るであろう、ということでもまた、〔この比丘は、行乞の施食を〕受用する。まさに、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四〔口〕五口〔の食〕は食べずして、水を飲むように。自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔これで〕十分だ」(テーラ・ガーター983)と。

 

 【34】そして、これだけで、〔食の〕目的の遍き収取(理解・把握)が、さらに、中なる〔実践の〕道(中道)が、明らかにされたものと成る、と知られるべきである。

 

§80  (3)「臥坐所」とは、そして、臥所であり、さらに、坐所である。まさに、そこかしこにおいて、あるいは、精舎において、あるいは、半屋根等において、〔比丘が〕臥すところ──それが、臥所である。そこかしこにおいて、〔比丘が〕着坐し坐るところ──それが、坐所である。それを一つに為して、「臥坐所」と説かれる。「季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として」とは、まさしく、〔その〕季節が、迫害の義(意味)あることで、季節の危難となる。そして、季節の危難の除去を義(目的)に、さらに、静坐の喜びを義(目的)に。すなわち、肉体の病苦や心の散乱を作り為す、不当なるものが、季節の臥坐所の受用によって、除去されるべきものと成り(季節に由来する危難を、臥坐所に起居することで回避する)、その〔季節の危難〕の除去を義(目的)に、さらに、独りある状態(遠離独存)の安楽を義(目的)に、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。さらに、もちろん、まさしく、寒さの防御等によって、季節の危難の除去が、まさしく、〔ここにおいて〕説かれた。また、すなわち、衣料の受用について、「恥〔の思い〕で隠すべきところ(陰部)を覆うことは、決定された目的であり、諸他のものは、何らかの或る時において、〔目的と〕成る」(§73)と説かれたように、このように、ここでもまた、決定された季節の危難の除去に関して、このことが説かれた、と知られるべきである。さらに、あるいは、〔まさに〕この、〔前に〕説かれた流儀の季節が(§71)、まさしく、〔ここにおいて説かれた〕季節となる。また、危難は、二種類のものとなる。そして、明白なる危難であり、さらに、隠蔽された危難である。そこにおいて、明白なる危難は、獅子や虎等々のものであり、隠蔽された危難は、貪欲〔の思い〕や憤怒〔の思い〕等々のものである。それら〔の危難〕が、そこにおいて、そして、〔感官の〕遍き保護なきこと(気づきの欠如)によって、さらに、不当なる形態を見ること等によって、病苦を作り為さないなら、その臥坐所を、このように、〔あるがままに〕知って、綿密に注視して、〔適切に〕受用しながら、比丘は、根源のままに審慮して〔そののち〕、臥坐所を……略……季節の危難の除去を義(目的)に受用する、と知られるべきである。

 

§81  (4)「病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)」とは、ここにおいて、病の快復という義(目的)による日用品のこと。正反対〔の状態〕に至るという義(目的)による〔日用品〕、という義(意味)である。これは、それが何であれ、正当なる〔医薬品〕の同義語である。医師の行為(薬の調合)として、その〔医師〕によって承認されたものであるから、ということで、「薬」。まさしく、病のための日用品は、薬であり、「病のための日用品たる薬」。それが何であれ、病のために正当なるものであり、医師の行為として〔調合された〕、油や蜜や糖等、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。また、「必需品」とは、「[王の最辺境の城市は、]七つの城市の必需品によって善く備えあるものと成る」(アングッタラ・ニカーヤ4p.106)という〔言葉〕等々においては、付属品と説かれる。「車体は、戒が必需品であり、瞑想が車軸であり、精進が車輪である」(サンユッタ・ニカーヤ5p.6)【35】という〔言葉〕等々においては、〔装いを〕十分に作り為すこと(装飾)と〔説かれる〕。「さらに、すなわち、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、[諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます]」(マッジマ・ニカーヤ1p.104)という〔言葉〕等々においては、資糧(素材)と〔説かれる〕。また、ここでは、資糧と〔説かれる〕もまた、付属品と〔説かれる〕もまた、〔両者ともに〕順当である。なぜなら、〔まさに〕その、病のための日用品たる薬は、生命のための付属品としてもまた有り、生命を滅ぼす病苦の生起あるときは、間を与えずして守ることから、資糧としてもまた〔有る〕からである。すなわち、〔生命が〕長く転起するように、このように、それにとって、契機の状態たることから、それゆえに、「必需品」と説かれる。このように、それは、そして、病のための日用品たる薬であり、さらに、必需品である、ということで、「病のための日用品たる薬の必需品」。〔まさに〕その、病のための日用品たる薬の必需品を〔受用する〕。それが何であれ、病のために正当なるものであり、医師によって承認されたものである、油や蜜や糖等の生命のための必需品を〔受用する〕、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

§82  「生起した」とは、生じた、成った、発現した。「諸々の病苦の」とは、ここにおいて、病苦のもの、ということで、〔身体の〕界域の変動(体調の異変)。そして、それから現起することから、癩や腫物や吹出物等々のこと。病苦のものから生起したことから、「諸々の病苦の」。「〔苦痛の〕感受の」とは、諸々の苦痛の感受(苦受)は、諸々の善ならざる報いの感受であり、それらの病苦の感受の。「加害なき〔あり方〕を最高とするために(※)」とは、苦しみなき〔あり方〕を最高とするために。すなわち、その苦しみの全てが捨棄されたものと成るかぎりの、そのかぎりにおいて、という義(意味)である(それ以上のものではない)。このように、これを簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、根源のままに審慮して〔そののち〕、日用品の遍き受益という特相が、日用品に等しく依拠したものとしての戒と知られるべきである。また、ここにおいて、言葉の義(意味)は、まさに、衣料等々は、すなわち、それらを縁として、〔それらに〕依拠して、〔それらを〕遍く受益している命ある者たちが、至り、赴き、転起することから、それゆえに、「日用品」と説かれる。それらの日用品に等しく依拠したもの、ということで、「日用品に等しく依拠したもの」。

 

※ テキストには avyāpajjaparamatāyā とあるが、VRI版により avyābajjhaparamatāyā と読む。

 

19.

 

 〔5 四つの完全なる清浄の成就の手順〕

 

§83  (一)このように、この四種類の戒(戒条による統御としての戒・感官の機能における統御としての戒・生き方の完全なる清浄としての戒・日用品に等しく依拠したものとしての戒)があるなかで、戒条(戒律条項)による統御は、信によって成就されるべきである。なぜなら、学びの境処(戒律)の制定については弟子の境域(権限)を超え行ったことから(管轄外であり権限外であることから)、その〔戒条による統御〕は、信の遂行としてあるからである。そして、ここにおいて、学びの境処の制定を乞うことの拒絶が(※)、〔その〕証拠となる(ヴィナヤ3p.9-10)。それゆえに、〔世尊によって〕制定された、そのとおりに、学びの境処を残すところなく信によって受持して、生命についてもまた期待を為さずにいる者によって、善きこと(戒条による統御)が成就されるべきである。まさに、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。

 

 【36】〔そこで、詩偈に言う〕「雌鳥が、卵を〔守る〕ように、犁牛(ヤク)が、尾を〔守る〕ように、〔独り子の親が、その〕愛しい子を〔守る〕ように、〔独眼の者が、残された〕一なる眼を〔守る〕ように、まさしく、そのように、〔あなたたちは〕戒を守りながら、〔世に〕有りなさい──極めて博愛なる者たちととして、常に尊重〔の思い〕を有する者たちとなり」(スマンガラ・ヴィラーシニー1p.56)と。

 

 他にもまた説かれた。「[パハーラーダよ、それは、たとえば、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがないように、]パハーラーダよ(※※)、まさしく、このように、まさに、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学処(戒律)であるなら、その〔学処〕を、わたしの弟子たちは、たとえ、生命を因としても、犯すことがありません(生命を顧みずに守り抜く)」(アングッタラ・ニカーヤ4p.201)と。

 

※ テキストには sikkhāpadapaññattiyā vacanapaikkhepo c’ ettha とあるが、VRI版によりsikkhāpadapaññattiyā. Sikkhāpadapaññattiyācanapaikkhepo cettha と読む。

※※ テキストには mahārāja とあるが、VRI版により pahārāda と読む。

 

§84  また、そして、ここにおいて、これについて、森のなかで盗賊たちに捕縛された長老たちの諸々の事例が知られるべきである。伝えるところでは、マハー・ヴァッタニ(地名)の森のなかで、長老を、盗賊たちが諸々の黒蔓で縛って突き倒した。長老は、まさしく、横になっている、そのとおりに、七日のあいだ、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を増大させて、不還果(覚りの第三階梯)に至り得て、まさしく、そこにおいて、命を終えて、梵の世(梵天界)に発現した。他にもまた、タンバパンニ・ディーパ(スリランカ島)において、長老を、〔盗賊たちが〕蔦葛で縛って突き倒した。その〔長老〕は、山火事がやってきても、〔身を縛る〕蔓を、まさしく、断たずして、〔あるがままの〕観察を確立させて、等首者(煩悩が滅尽して阿羅漢と成ったその瞬間に命を終える者)と成って、完全なる涅槃に到達した。『ディーガ〔ニカーヤ〕(長部経典)』の朗読者たるアバヤ長老が、五百の比丘たちと共にやってきつつ〔それを〕見て、長老の肉体を燃やして塔廟を作らせた。それゆえに、他の、信ある良家の子息もまた──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔与えられた〕戒条を〔常に〕清めつつ、まさしく、生命を捨棄することになるもまた、世の主(ブッダ)によって制定された戒による統御を破るべきにあらず」〔と〕。

 

§85  (二)そして、すなわち、戒条による統御が、信によって〔成就されるべきである〕ように、このように、〔感官の〕機能における統御は、気づき()によって成就されるべきである。なぜなら、気づきによって確立された諸々の〔感官の〕機能には、強欲〔の思い〕等々による流入なきことから、その〔感官の機能における統御〕は、気づきの遂行としてあるからである。それゆえに、「[比丘たちよ、燃え盛るものの教相を、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、燃え盛るものの教相であり、法(教え)の教相なのですか。]比丘たちよ、優れているのは、燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、熱せられた鉄の箆(へら)で、眼の機能が擦り付けられることです──まさしく、しかし、眼によって識知されるべき諸々の形態において、付随する特徴から形相を収め取ることではなく」(サンユッタ・ニカーヤ4p.168)という〔言葉〕等の方法によって〔説かれた〕、燃え盛る〔鉄の棒〕の教相(比喩的説示)を正しく随念して、形態等々の諸々の境域(:認識対象)において眼の門等によって転起された識知〔作用〕(:認識作用)の形相等を収め取る〔作用〕を──強欲〔の思い〕等々による流入あるべき〔その作用〕を──忘却なき【37】気づきによって〔常に〕制している者によって、この善きこと(感官の機能における統御)が成就されるべきである。

 

§86  このように、まさに、この〔感官の機能における統御〕が成就されていないときは、戒条による統御としての戒もまた、時に耐え得ぬものと成り、長き止住なきものと〔成る〕──枝による囲い込み(木柵による防護)が施されていない作物のように──そして、この〔戒条による統御〕は、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の盗賊たちによって打ちのめされる──門が開かれている村が、他者のものを奪い去る者(盗賊)たちに〔襲われる〕ように──さらに、彼の心に、貪欲〔の思い〕が漏れ入る──〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が〔漏れ入る〕ように。

 まさに、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の形態と諸々の音声にたいし、さらに、諸々の味感と諸々の臭気にたいし、そして、諸々の接触にたいし、〔感官の〕機能を守れ。なぜなら、〔感官の〕門が開かれ守られていないなら、これらのものが〔心を〕打ちのめすからである──他者のものを奪い去る者たちが村を〔襲う〕ように」(典拠不詳)

 「すなわち、〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪欲〔の思い〕は漏れ入る」(ダンマパダ13)と。

 

§87  いっぽう、その〔感官の機能における統御〕が成就されたときは、戒条による統御としての戒もまた、時に耐え得るものと成り、長き止住あるものと〔成る〕──枝による囲い込み(木柵による防護)がしっかりと施された作物のように──そして、この〔戒条による統御〕は、諸々の心の汚れの盗賊たちによって打ちのめされない──門が善く統御された村が、他者のものを奪い去る者たちに〔襲われない〕ように──さらに、彼の心に、貪欲〔の思い〕が漏れ入ることはない──〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が〔漏れ入らない〕ように。

 そして、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の形態と諸々の音声にたいし、さらに、諸々の味感と諸々の臭気にたいし、そして、諸々の接触にたいし、〔感官の〕機能を守れ。なぜなら、〔感官の〕門が締められ善く統御されたなら、これらのものは〔心を〕打ちのめさないからである──他者のものを奪い去る者たちが村を〔襲わない〕ように」(典拠不詳)

 「すなわち、〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪欲〔の思い〕は漏れ入らない」(ダンマパダ14)と。

 

§88  また、これは、極めて高尚なる説示である。「心」というものは、これは、軽薄にして遍く転起するものである。それゆえに、生起した貪欲〔の思い〕を、浄美ならざるものと意を為すこと(不浄想)によって除去して、〔感官の〕機能における統御が成就されるべきである。出家したばかりの【38】ヴァンギーサ長老によって〔成就された〕ように。

 伝えるところでは、出家したばかりの長老が〔行乞の〕食のために歩んでいると、或る婦女を見て、貪欲〔の思い〕が生起する。そののち、〔ヴァンギーサ長老は〕アーナンダ長老に言った。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔わたしは〕欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕によって焼かれます。わたしの心は遍く焼かれます。ゴータマ(アーナンダ)よ、どうか、〔欲の炎を〕寂滅させる〔道〕を説いてください──慈しみ〔の思い〕によって」(サンユッタ・ニカーヤ1p.188)と。

 

 〔アーナンダ〕長老は言った。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「表象(:概念・心象)の転倒あることから、あなたの心は遍く焼かれます。貪欲を伴った浄美なる相(美しく価値あるように見えるもの)を遍く避けなさい。

 諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)を、『他者である』と見なさい。『苦しみである』と〔見なさい〕。そして、『自己である』と〔見ては〕いけません。大いなる貪欲〔の思い〕を寂滅させなさい。繰り返し、〔貪欲の思いに〕焼かれてはいけません」(サンユッタ・ニカーヤ1p.188)と。

 

 〔ヴァンギーサ〕長老は、貪欲〔の思い〕を除去して、〔行乞の〕食のために歩んだ。

 

§89  さらに、また、クランダカ大窟の住者たるチッタ・グッタ長老のように、さらに、チョーラカ大精舎の住者たるマハー・ミッタ長老のように、〔感官の〕機能における統御の円満者たる比丘によって、〔成就が〕有るべきである。

 

§90  伝えるところでは、クランダカ大窟には、七覚者(過去七仏)の出家の〔場面を描いた〕意が喜びとする〔美しい〕絵画が有った。大勢の比丘たちが、臥坐所の巡行に逍遥しつつ、〔その〕絵画を見て、〔チッタ・グッタ長老に〕「尊き方よ、意が喜びとする〔美しい〕絵画です」と言った。長老は言った。「友よ、六十年を超えるあいだ、窟に住しているわたしですが、『絵画が存在する』ということさえも知りません。今日、今や、眼ある方たちに依拠して知られたのです」と。伝えるところでは、この歳月のあいだ、〔窟に〕住している長老によって、眼を開いて窟が見上げられたことは過去になく、さらに、彼の窟の門には大きなナーガ樹が有ったが、それもまた、長老によって、高くに見上げられたことは過去になく、年ごとに地に花糸が落下したのを見て、〔その〕年の開花した状態を、〔長老は〕知る。

 

§91  王は、長老が徳の得達者であることを聞いて、敬拝することを欲し、三回、〔使者を〕送っても、長老がやってこなかったので、その村において、幼い子がいる婦女たちの乳房を縛らせて、〔乳が飲めないように〕封印させた。「長老がやってこないかぎり、それまでは、幼児たちは乳を得てはならない」と。【39】長老は、幼児たちへの慈しみ〔の思い〕によって、〔王のいる〕大いなる村へと赴いた。〔それを〕聞いて、王は、〔家臣たちに〕「赴け。〔おまえたちに〕申し付ける。長老を、〔王宮へと〕導き入れよ。諸々の戒を、〔わたしは〕収め取るのだ」と、〔長老を〕内宮に案内させて、〔長老を〕敬拝して、〔施しの食を〕食べさせて、「尊き方よ、今日、機会は存しません。明日、諸々の戒を、〔わたしは〕収め取るでありましょう」と、長老の鉢を収め取って、しずしずと従い行き、妃と共に敬拝して戻った。長老は、あるいは、王が敬拝しようが、あるいは、妃が〔敬拝しようが〕、「大王よ、安楽ある者と成れ」と説く。

 

§92  このように七日が去り行き、比丘たちが言った。「尊き方よ、どうして、あなたさまは、王が敬拝しているときであろうが、妃が敬拝しているときであろうが、『大王よ、安楽ある者と成れ』と、このように説くのですか」と。長老は、「友よ、わたしは、あるいは、『王』ということで、あるいは、『妃』ということで、〔差異の〕定置を為さないのです(差異を認識しない)」と説いて、七日を超えたところで、「長老にとって、ここに住あることは、苦しみである」と、王によって送り出された。クランダカ大窟に赴いて、夜分のこと、〔長老は〕歩行場に登った。ナーガ樹に住している天神が、棒の灯明を掴んで、〔その場に〕立った。そこで、彼(長老)の〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)は、極めて完全なる清浄のものと〔成り〕、明白なるものと成った。長老は、「いったい、どうして、今日、わたしの〔心を定める〕行為の拠点は、極度に明白となるのだろう」と、わが意を得た者となり、中夜(真夜中)の等しく直後に、全山を轟かせつつ、阿羅漢の資質に至り得た。

 

§93  それゆえに、他の、自己の義(目的)を欲する良家の子息もまた──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「林のなかの猿のように、林野をさまよう鹿のように、さらに、恐れわななく幼童のように、妄動の眼ある者と成らないように。

 〔両の〕眼〔の視線〕を下に投げ放つように。〔一〕ユガ(:長さの単位・一ユガは約二メートル)ばかりを〔隙なく〕見る者として存するように。林野の猿の妄動ある心の支配に〔自ら〕進み行かないように」と。

 

§94  また、マハー・ミッタ長老の母に、毒ある腫物の病が生起した。彼女の娘もまた、比丘尼たちのもと、出家者として〔世に〕有る。彼女(母)は、彼女(娘)に言った。「貴婦よ、赴きなさい。兄の現前に赴いて、わたしの平穏ならざる状態を告げて、薬を持ってきておくれ」と。彼女は赴いて、〔長老に〕告げた。長老は言った。「わたしは、根薬等々を集めて薬を弁別することを知らない。しかしながら、また、あなたに薬となるものを告げ知らせよう。『すなわち、わたしが出家してからのち、それから以降〔今日まで〕、わたしによって、貪欲を共具した心で、諸々の〔感官の〕機能〔における統御としての戒〕を破って、〔自らの性と〕相違する形態(異性の姿)が過去に眺め見られたことはない』──この【40】真理の言葉(嘘偽りのない真実の言葉)によって、わたしの母に、平穏有れ。赴きなさい。この〔言葉〕を説いて、女性在俗信者(母)の肉体を擦ってあげなさい」と。彼女は赴いて、この義(意味)を告げて、そのとおりに為した。まさしく、その瞬間に、女性在俗信者の腫物は、泡沫の団塊のように溶けて消没した。彼女は立ち上がって、「それで、もし、正等覚者(ブッダ)が〔身を〕保持しているなら(今の世に存しているなら)、何ゆえに、網状の紋(三十二相の一つ)ある手でもって、わたしの子のような比丘の頭を撫でずにいられよう」と、わが意を得た言葉を放った。

 

§95  それゆえに──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「他の良家の子息も、今や、〔世尊の〕教えにおいて出家して(※)、ミッタ長老のように、優れた〔境地〕たる〔感官の〕機能における統御において止住するべきである」〔と〕。

 

※ テキストには pabbajitvā na とあるが、VRI版により pabbajitvāna と読む。

 

§96  (三)また、すなわち、〔感官の〕機能における統御が、気づきによって〔成就されるべきである〕ように、そのように、生き方の完全なる清浄は、精進によって成就されるべきである。なぜなら、正しく精進に励む者には、誤った生き方の捨棄の発生あることから、その〔生き方の完全なる清浄〕は、精進の遂行としてあるからである。それゆえに、精進によって、不適切で不当な探し求めを捨棄して、〔行乞の〕施食行等々による〔適切で〕正しい探し求めによって、この〔生き方の完全なる清浄〕が成就されるべきである──まさしく、完全なる清浄の生起となる諸々の〔適切なる〕日用品を、〔常に〕受用していることによって──完全なる清浄の生起とならない〔諸々の適切ならざる日用品〕を、毒蛇たちであるかのように〔常に〕遍く避けることによって。

 

§97  そこにおいて、〔俗塵の〕払拭〔行〕(頭陀行)の支分が遍く収め取られていない者(十三頭陀行の非完全実践者)であるなら、僧団(四人以上の比丘の集まり)から〔得た諸々の日用品が〕、僧集(四人未満の比丘の集まり)から〔得た諸々の日用品が〕、さらに、〔信者たちへの〕法(教え)の説示等々の彼の諸徳によって浄信した在家者たちの現前において生起した諸々の日用品(施物として得られた日用品)が、「完全なる清浄の生起〔となる諸々の適切なる日用品〕」ということになる。また、〔行乞の〕施食行等々〔の適切で正しい探し求め〕によって〔得られた諸々の日用品は〕、まさしく、「極めて完全なる清浄の生起〔となる諸々の適切なる日用品〕」〔ということになる〕。〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分が遍く収め取られた者(十三頭陀行の完全実践者)であるなら、〔行乞の〕施食行等々〔の適切で正しい探し求め〕によって〔得られた諸々の日用品が〕、さらに、彼の払拭〔行〕の支分の徳にたいし浄信した〔在家者たち〕の現前において払拭〔行〕の支分の決定に随順することで生起した〔諸々の日用品〕が、「完全なる清浄の生起〔となる諸々の適切なる日用品〕」ということになる。

 さらに、彼に、〔何らかの〕或る病が止み静まることを義(目的)とする腐薬果があり、〔酥と油と蜜と糖の〕四つの甘き〔薬〕が生起したとして(得られたとして)、「他のまた梵行を共にする者たちが、四つの甘き〔薬〕を遍く受益するであろう」と思い考えて、薬果の破断したものだけを遍く受益しているなら、払拭〔行〕の支分の受持は、適切なるものと成る。なぜなら、この者は、「最上の聖なる伝統(アングッタラ・ニカーヤ2p.28)の比丘」と説かれるからである。

 

§98  また、すなわち、これらの衣料等々の諸々の日用品であるが、それらについては、彼が誰であろうと、〔自らの〕生き方を完全に清めている比丘であるなら、そして、衣料についても、さらに、〔行乞の〕施食についても、形相や暗示やほのめかしの言説の表示は順当ではない(許容されない)。いっぽう、臥坐所については、〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分が遍く収め取られていない者であるなら、諸々の形相や暗示やほのめかしの言説〔の表示〕は順当である(許容される)。

 

§99  そこにおいて、「形相」【41】というのは、臥坐所を義(目的)に、土地の事前作業(下準備)等々を為している者の、「尊き方よ、何が為されるのですか。誰が為させているのですか」と在家者たちに説かれたときの、「誰でもありません」という返事の言葉である。また、あるいは、すなわち、他の、このような形態〔の行為〕もまた、形相の行為となる。「暗示」というのは、「在俗信者たちよ、あなたたちは、どこに住しているのですか」と〔尋ねて〕、「尊き方よ、高楼です」と〔説かれたとき〕、「在俗信者たちよ、さてまた、比丘たちにとって、高楼は順当ではありません(ふさわしくない)」という言葉である。また、あるいは、すなわち、他の、このような形態〔の行為〕もまた、暗示の行為となる。「ほのめかしの言説」というのは、「比丘の僧団の臥坐所は煩雑です」という言葉である。また、あるいは、すなわち、他の、このような形態〔の行為〕もまた、ほのめかしの言説となる。

 

§100  薬については、全てもろともに、順当である(許容される)。いっぽう、病が止み静まったとき、そのように生起した薬を、〔その時点において〕遍く受益するのは順当であるか、順当ではないか、と〔問われるべきである〕。そこにおいて、律の保持者たちは、「世尊によって門が与えられた(許可された)。それゆえに、順当である」と説く。いっぽう、経の専門家たちは、まさしく、「たとえ、何であれ、罪には成らないとして、いっぽう、〔当人の〕生き方を動乱させる。それゆえに、順当ではない」と説く。

 

§101  また、すなわち、たとえ、世尊によって承認されたとして、形相や暗示やほのめかしの言説の表示を為すことなく、少なき欲求たること等の諸徳だけに依拠して、生命の滅尽が現起したときでさえも(死の間際においても)、暗示等々より、まさしく、他の、〔比丘に適切なる方法で〕生起した諸々の日用品〔だけ〕を受用するなら、この者は、「最高の謹厳の生活者」と説かれる。それは、たとえば、また、サーリプッタ(舎利弗)長老のように。

 

§102  伝えるところでは、その尊者は(※)、或る時のこと、遠離〔の境地〕を増進させながら、マハー・モッガッラーナ(目連)長老と共に、或るどこかの林に住んでいる。そこで、彼に、或る日のこと、腹に風病が生起して、激苦を生じさせた。マハー・モッガッラーナ長老は、夕刻時に、その尊者の奉仕(看護)に赴き、長老が横になっているのを見て、その消息を尋ねて、「友よ、過去において、何によって、あなたに平穏が有りますか(どのように快癒したのですか)」と尋ねた。長老は言った。「友よ、在家の時においては、わたしの母が、酥や蜜や砂糖等々を調合して、混物なしの乳粥を〔作って、わたしに〕与えてくれました。それによって、わたしに平穏が有りました」と。その尊者(マハー・モッガッラーナ長老)もまた、「友よ、〔そのように〕有れ。それで、もし、あるいは、わたしに、あるいは、あなたに、功徳が存するなら、まさしく、また、まさに、明日、〔わたしたちは、乳粥を〕得るでしょう」と言った。

 

※ テキストには So kira yasmā とあるが、VRI版により So kirāyasmā と読む。

 

§103  いっぽう、彼らのこの会話を、歩行場の外れにある木に住している天神が聞いて、思い考えた。「明日、尊貴なる方のために、粥を、〔わたしは〕生起させるのだ」と。まさしく、ただちに、長老の奉仕者の家に【42】赴いて、長子の肉体に侵入して、逼悩(激痛)を生じさせた。そこで、その〔長子〕には、医療の形相が現見される。彼(天神)は、親族たちに言った。「それで、もし、明日、長老のために、まさに、このような形態の粥を設えるなら、彼(長子)を解き放つであろう」と。彼らは、「たとえ、あなたに説かれなくても、わたしたちは、長老たちのために、持続して行乞〔の食〕を施しています」と説いて、次の日には、そのような形態の粥を設えた。

 

§104  マハー・モッガッラーナ長老は、まさしく、早朝にやってきて、「友よ、すなわち、わたしが〔行乞の〕食のために歩んで帰ってくるまで、それまでは、まさしく、ここに有れ(※)」と説いて、村に入った。〔奉仕者の家の〕それらの人間たちは、出迎えて、長老の鉢を収め取って、〔前に〕説かれた流儀の粥を満たして施した。長老は、出行の行相を見せた。彼らは、「尊き方よ、食べてください。あなたさまに、他〔の粥〕もまた施しましょう」と、長老に食べさせて、ふたたび、鉢に満ちる〔粥〕を施した。長老は、赴いて、「友よ、サーリプッタよ、さあ、遍く受益したまえ」と、〔粥を〕差し出した。長老もまた、それを見て、「極めて意に適う粥である。いったい、まさに、どのように生起したのか」と思い考えつつ、その生起の根元を見て(由来を察知して)、言った。「友よ、モッガーラよ、運び去ってください。遍く受益するに値しない〔行乞の〕施食です」と。

 

※ テキストには hotī とあるが、VRI版により hohī と読む。

 

§105  その尊者もまた、「まさに、わたしのような者によって運ばれた〔行乞の〕施食を、〔彼は〕遍く受益しない」という、〔そのような〕心でさえも生起させずして、まさしく、〔その〕一言によって、鉢の口の縁を掴んで、一方に伏せた。粥が地に落ちると共に、長老の病は消没した。それから以降、四十五年のあいだ、ふたたび、〔病は〕生起しなかった。

 

§106  そののち、〔長老は〕マハー・モッガッラーナに言った。「友よ、言葉の表示に依拠して生起した粥は、たとえ、諸々の腸が地に出て歩くとして、遍く受益することは道理なき形態のものです」と。そして、この感興〔の言葉〕を発した。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「言葉の表示の充満から生起した蜜粥を、それで、もし、わたしが食べ、〔そのような者として、世に〕有るなら、わたしの自らの生き方は非難されるところとなる。

 すなわち、たとえ、わたしの内臓が外に出て歩くとして、たとえ、生命を捨て去りつつあるとして、〔わたしが、自らの〕生き方を破り去ることは、まさしく、ないであろう。

 〔わたしは〕自らの心を喜ばせる。〔わたしは〕不当な探し求めを避ける。さらに、覚者によって弾劾された不当な探し求めを、わたしが為すことはないであろう」(典拠不詳)と。

 

§107  【43】そして、ここにおいて、チーヴァラグンバの住者にしてアンバ〔果〕(マンゴー)の食者たるマハー・ティッサ長老の事例もまた、言説されるべきである(§117)。

 このように、一切点においてもまた──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「明眼の者は、不当な探し求めの心でさえも生じさせずして、信によって出家した行者として、〔自らの〕生き方を完全に清めるべきである」〔と〕。

 

§108  (四)そして、すなわち、生き方の完全なる清浄が、精進によって〔成就されるべきである〕ように、そのように、日用品に等しく依拠したものとしての戒は、智慧(慧・般若)によって成就されるべきである。なぜなら、智慧ある者には、諸々の日用品における危険と福利を見ることができる状態あることから、その〔日用品に等しく依拠したものとしての戒〕は、智慧の遂行としてあるからである。それゆえに、日用品にたいする貪求〔の思い〕を捨棄して、法(教え)と正義によって生起した諸々の日用品を、説かれたとおりの手順によって、智慧によって綿密に注視して遍く受益している者によって、その〔日用品に等しく依拠したものとしての戒〕が成就されるべきである。

 

§109  そこにおいて、二種類の綿密に注視することがある。諸々の日用品を獲得する時における〔綿密に注視することであり〕、さらに、遍く受益する時における〔綿密に注視することである〕。まさに、獲得する時においてもまた、あるいは、〔地と水と火と風の四つの〕界域〔の差異の定置〕(Ch.11§27)を所以に、あるいは、嫌悪〔の表象〕(Ch.11§1)を所以に、据え置かれた衣料等々を綿密に注視して〔正しく判別するなら〕、それより後は、〔その衣料等々を〕遍く受益する者にとって、〔その〕遍き受益は、まさしく、罪過なきものとなる。そのように、遍く受益する時においてもまたある(同様である)。

 

§110  そこで、これが、確定を為す判別となる。(1)窃盗としての遍き受益、(2)借金としての遍き受益、(3)遺産としての遍き受益、(4)主人としての遍き受益、という、まさに、四つの遍き受益がある。

 (1)そこで、たとえ、僧団の中に坐っていても、遍く受益する者が劣戒の者であるなら、〔その〕遍き受益が、「窃盗としての遍き受益」ということになる。

 (2)戒ある者の、綿密に注視せずしての遍き受益が、「借金としての遍き受益」ということになる。それゆえに、衣料は、〔その〕遍き受益〔その〕遍き受益において、〔そのたびごとに〕綿密に注視されるべきである。〔行乞の〕施食は、〔一〕口〔一〕口において、〔そのたびごとに綿密に注視されるべきである〕。〔あるいは〕そのようにできない者によって、食前(午前)、食後(午後)、初夜(宵の内)、中夜(真夜中)、後夜(明け方)において、〔そのたびごとに綿密に注視されるべきである〕。それで、もし、彼が、まさしく、綿密に注視せずにいるとして、朝日が昇るなら、〔彼は〕借金としての遍き受益の境位に立つ。臥坐所もまた、〔その〕遍き受益〔その〕遍き受益において、〔そのたびごとに〕綿密に注視されるべきである。薬の納受においてもまた、〔その〕遍き受益においてもまた、まさしく、気づきを縁とすることが順当である(ふさわしい)。たとえ、このように存しているとして(上述のとおりであるとして)、納受において気づきを為しても、遍き受益において、まさしく、〔気づきを〕為さずにいるなら、〔その遍き受益は〕罪となる。いっぽう、納受において気づきを為さずしても、遍き受益において〔気づきを〕為しているなら、〔その遍き受益は〕罪なきものとなる。

 

§111  説示による清浄、統御による清浄、遍き探求による清浄、綿密に注視することによる清浄、という、まさに、四種類の清浄がある。そこにおいて、「説示による清浄」【44】というのは、戒条による統御としての戒である。まさに、それは、説示によって清浄となることから、「説示による清浄」と説かれる。「統御による清浄」というのは、〔感官の〕機能における統御としての戒である。まさに、それは、「ふたたび、〔わたしが〕このように為すことは、〔もはや〕ないであろう」と、まさしく、心の確立たる統御によって清浄となることから、「統御による清浄」と説かれる。「遍き探求による清浄」というのは、生き方の完全なる清浄としての戒である。まさに、それは、不当な探し求めを捨棄して、法(教え)と正義によって諸々の日用品を生起させている者には、遍く探求することによって清浄あることから、「遍き探求による清浄」と説かれる。「綿密に注視することによる清浄」というのは、日用品に等しく依拠したものとしての戒である。まさに、それは、〔前に〕説かれた流儀の綿密なる注視によって清浄となることから、「綿密に注視することによる清浄」と説かれる。それによって説かれた。「いっぽう、納受において気づきを為さずしても、遍き受益において〔気づきを〕為しているなら、〔その遍き受益は〕罪なきものとなる」と。

 

§112  (3)七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)の、日用品の遍き受益が、「遺産としての遍き受益」ということになる。なぜなら、彼らは、世尊の子たちであるからである。それゆえに、父の所有する諸々の日用品の相続者たちと成って、彼らは、諸々の日用品を遍く受益する。「また、どうであろう、彼らは、世尊の諸々の日用品を遍く受益するのか、それとも、在家者たちの諸々の日用品を遍く受益するのか」と〔問うなら〕、「まさに、在家者たちによって与えられた〔諸々の日用品〕もまた、世尊によって承認されたことから、まさしく、世尊の所有するものと成る」〔と答える〕。それゆえに、〔彼らは〕世尊の諸々の日用品を遍く受益する、と知られるべきである。そして、ここにおいて、『ダンマ・ダーヤーダ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ1p.12)が、〔その〕確証となる。

 (4)煩悩の滅尽者たちの遍き受益が、「主人としての遍き受益」ということになる。なぜなら、彼らは、渇愛の奴隷たることを超え行ったことから、主人たちと成って遍く受益するからである。

 

§113  これらの遍き受益のうち、そして、主人としての遍き受益は、さらに、遺産としての遍き受益は、全ての者たちにとって、順当であり、借金としての遍き受益は、順当ではない。

 窃盗としての遍き受益については、まさしく、言説が存在しない(論外である)。また、すなわち、この、戒ある者の綿密に注視された遍き受益は、それは、借金としての遍き受益とは正反対のものであることから、あるいは、借金としての遍き受益ならざるものと成り、あるいは、まさしく、遺産としての遍き受益において、包摂に至る(綿密に注視された遍き受益は、遺産としての遍き受益に包摂される)。なぜなら、戒ある者は、この学びを具備することから、まさしく、「〔いまだ〕学びある者」と説かれるからである。

 

§114  また、これらの遍き受益のうち、すなわち、主人としての遍き受益が至高のものであることから、それゆえに、それを切望している比丘によって、〔前に〕説かれた流儀の綿密に注視することによって綿密に注視して遍く受益しながら、日用品に等しく依拠したものとしての戒が成就されるべきである。まさに、このように為している者は、為すべきことを為す者と成る。

 そして、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。

 

 【45】〔そこで、詩偈に言う〕「〔行乞の〕食に、精舎に、そして、臥坐具に、さらに、大衣の塵を洗い流す水に──善き至達者(ブッダ)によって説示された法(教え)を聞いて、〔正しく〕究明して〔そののち〕──優れた智慧ある〔覚者の〕弟子は、慣れ親しむように(規則どおりに受用するべきである)。

 まさに、それゆえに、〔行乞の〕食について、そして、臥坐具について、さらに、大衣の塵を洗い流す水について──これらの法(事物)について汚されない者として、比丘はある。あたかも、蓮〔の葉〕に、水の滴が〔着かない〕ように」(スッタニパータ391-2)

 「執持せずして、他者から、〔しかるべき〕時に得て、諸々の固形の食料について、さらに、諸々の軟らかい食料について、諸々の臥具について、彼は、〔しかるべき〕量を知るであろう──常に〔気づきを〕現起している者として。あたかも、傷への塗薬治療におけるように」(典拠不詳)

 「砂漠において子の肉を〔食べる〕ように、車軸の塗油を〔怠らない〕ように、このように、食を食するがよい──〔身の〕存続を義(目的)として、〔味に〕耽溺することなく」(ミリンダ・パンハp.367)と。

 

§115  そして、この日用品に等しく依拠したものとしての戒の、円満成就を為すことについて、〔マハー・サンガラッキタ長老の〕甥であるサンガラッキタ沙弥の事例が言説されるべきである。なぜなら、彼は、正しく綿密に注視して遍く受益したからである。すなわち、〔彼が、詩偈に〕言ったように──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「師父は、よく冷えた米の飯を食べているわたしに〔言った〕。『沙弥よ、おまえは、自制なき者となり、舌を燃やすことが、まさしく、まさに、あってはならない』〔と〕。

 師父の言葉を聞いて、そのとき、〔わたしは〕畏怖〔の思い〕を得た。一坐において、坐って〔そののち〕、阿羅漢の資質に至り得た。

 〔まさに〕その、わたしは、あたかも、十五〔夜〕の月のように、〔正しい〕思惟が円満成就した者となり、一切の煩悩が完全に滅尽した者となる。今や、さらなる生存は存在しない」(典拠不詳)と。

 【46】「それゆえに、他の、苦しみの完全なる滅尽を切望している者もまた、根源のままに綿密に注視して、諸々の日用品を受用するべきである」(典拠不詳)と。

 

 このように、戒条による統御としての戒等を所以に、四種類のものとなる。

 ということで、四つの完全なる清浄としての戒についての雑駁なる言説となる。

 

20.

 

 [(五)五種類のものとしての戒](※)

 

※ テキストには Katividha sīla とあるが(VRI版は Pahamasīlapañcaka)、南伝大蔵経62『清浄道論1』にならい変更する。

 

§116  五種類のものの部の、(1)第一の五なるものについて。〔その〕義(意味)は、〔いまだ戒を〕成就していない〔出家者〕の戒等を所以に知られるべきである。まさに、このことが、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「(1―1)どのようなものが、制限ある完全なる清浄としての戒であるのか。〔いまだ戒を〕成就していない〔出家者たち〕で、制限ある学びの境処(限定された有制限の戒)ある者たちの〔戒である〕。これが、制限ある完全なる清浄としての戒である。(1―2)どのようなものが、制限なき完全なる清浄としての戒であるのか。〔すでに戒を〕成就した〔出家者たち〕で、制限なき学びの境処(限定されない無制限の戒)ある者たちの〔戒である〕。これが、制限なき完全なる清浄としての戒である。(1―3)どのようなものが、円満成就した完全なる清浄としての戒であるのか。善なる諸法(性質)と結び付いた善き凡夫たちで、〔いまだ〕学びある者たち〔の学び〕を制限とする〔学び〕(有学者以前の学び)における円満成就を為す者たちとなり、かつまた、身体について、かつまた、生命について、期待なき者たちとなり、生命を遍捨した者たちの〔戒である〕。これが、円満成就した完全なる清浄としての戒である。(1―4)どのようなものが、〔もはや〕偏執されない完全なる清浄としての戒であるのか。七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)の〔戒である〕。これが、〔もはや〕偏執されない完全なる清浄としての戒である。(1―5)どのようなものが、安息にして完全なる清浄としての戒であるのか。如来の弟子たる煩悩の滅尽者たちや独覚(縁覚・辟支仏)たちや阿羅漢にして正等覚者たる如来たちの〔戒である〕。これが、安息にして完全なる清浄としての戒である」(パティサンビダー・マッガ1p.42-3)と。

 

§117  (1―1)そこにおいて、〔いまだ戒を〕成就していない〔出家者たち〕の戒は、数を所以に制限を有することから、「制限ある完全なる清浄としての戒」と知られるべきである。

 (1―2)〔すでに戒を〕成就した〔出家者たち〕の〔戒は〕──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「九百億、十八億、五十の百千、さらに、また、他に、三十六〔の百千〕がある。

 これらの統御の律が、正覚者によって明示された。〔それらは〕略門によって釈示されたものにして、律の統御における諸々の学び(戒律)である」と──

 

 このように、たとえ、数を所以に制限を有するとして、そして、残りなき〔実践〕を所以に【47】受持の状態あることに〔関して〕、さらに、利得や盛名や親族や肢体や生命を所以にする制限が見られない状態あることに関して、「制限なき完全なる清浄としての戒」と知られるべきである。チーヴァラグンバの住者にしてアンバ〔果〕の食者たるマハー・ティッサ長老の戒のように。

 

§118  まさに、そのように、その尊者は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「手足の無事を因とする者は、財産を捨て去るであろう。生命を守る者は、手足を捨て去るであろう。法(教え)を〔常に〕随念している人は、手足を、財産を、さらに、また、生命を、一切を捨て去るであろう」(ジャータカ5p.500)と──

 

 この正なる人士(ブッダ)の随念を捨棄することなく、生命の〔喪失の〕疑念あるときでさえも学びの境処に違犯せずして、まさしく、その制限なき完全なる清浄としての戒に依拠して、〔飢えのために〕在俗信者の背に在る者となり、阿羅漢の資質に至り得た。すなわち、〔彼が、詩偈に〕言ったように──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『おまえの、父にあらず、母にもまたあらず、親族たちにあらず、眷属たちにもまたあらず。戒ある者にとって、〔為すべき〕契機たることから、そのようなものとして、為すべきことを為す』〔と〕──

 畏怖〔の思い〕を生じさせて、根源のままに触知して、彼(在俗信者)の背に在る者として存しつつ、〔わたしは〕阿羅漢の資質に至り得た」(典拠不詳)と。

 

§119  (1―3)善き凡夫たちの戒は、〔戒の〕成就〔の時〕から以降(受戒してから今日まで)、美しく洗い清められた天然の宝珠のように、さらに、完全無欠の〔精錬〕作業が為された黄金のように、極めて完全なる清浄なることから、心の生起ほどの垢でさえも絶無となり、まさしく、阿羅漢の資質にとって、境処の拠点(直接原因)と成る。それゆえに、「円満成就した完全なる清浄〔としての戒〕」と説かれる。マハー・サンガラッキタ〔長老〕と甥のサンガラッキタ長老の〔戒〕のように。

 

§120  伝えるところでは、〔出家してから〕六十年を超え行ったマハー・サンガラッキタ長老が、死の床において横になっていたところ、比丘の僧団が、世〔俗〕を超えるものへの到達を尋ねた(解脱したかどうかを尋ねた)。長老は、「わたしに、世〔俗〕を超える法(性質)は存在しない」と言った。そこで、彼の奉仕者たる青年比丘は言った。「尊き方よ、あなたさまが完全なる涅槃に到達した者として〔命を終える〕、ということで、遍きにわたり、十二ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)から、人間たちが集まったのです。あなたさまが凡夫として命を終えることで、大勢の人に後悔〔の思い〕が有るでしょう」と。「友よ、『わたしは、〔来世において〕メッテイヤ(弥勒)世尊と会見するのだ』と、〔あるがままの〕観察を確立させなかった。【48】まさに、それでは、わたしを坐らせて、〔阿羅漢の資質に至り得るための〕機会を作りなさい」と。彼は、長老を坐らせて、外に出たところ、彼が、まさしく、〔外に〕出ると共に、長老は、阿羅漢の資質に至り得て、弾指をもって表象(合図)を与えた。僧団〔の人々〕は集まって、言った。「尊き方よ、このような形態の死の時において、世〔俗〕を超える法(性質)を発現させて、〔あなたさまは〕為し難きことを為しました」と。「友よ、これは、為し難きことにあらず。さらに、また、為し難きことを、あなたたちに告げ知らせるであろう。友よ、わたしは、出家した時から以降、気づきなきことで無知(知恵なき状態)に支配された行為を、まさに、思念しない(一切の行為に気づきが伴った)」と。彼の甥もまた、〔出家してから〕五十年の時に、まさしく、このように、阿羅漢の資質に至り得た、ということである。

 

§121  〔そこで、詩偈に言う〕「もし、また、〔彼が〕少聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕定められていないなら、そして、戒〔の観点〕から、さらに、所聞(学識)によって、両者によって、〔人々は〕彼を難詰する。

 もし、また、〔彼が〕少聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕善く定められたなら、戒〔の観点〕から、〔人々は〕彼を賞賛し、彼の所聞は成就する。

 もし、また、〔彼が〕多聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕定められていないなら、戒〔の観点〕から、〔人々は〕彼を難詰し、彼の所聞は成就しない。

 もし、また、〔彼が〕多聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕善く定められたなら、そして、戒〔の観点〕から、さらに、所聞によって、両者によって、〔人々は〕彼を賞賛する。

 多聞にして、法(教え)を保ち、智慧を有する、覚者の弟子を──まさしく、ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)たる彼を非難することが、誰ができるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマー神)からもまた、賞賛される者となる」(アングッタラ・ニカーヤ2p.7)と。

 

§122  (1―4)また、〔いまだ〕学びある者たちの戒は、〔悪しき〕見解を所以に偏執されないことから、また、あるいは、凡夫たちの、〔迷いの〕生存を所以に偏執されない戒は、「〔もはや〕偏執されない完全なる清浄〔としての戒〕」と知られるべきである。クトゥンビヤプッタ・ティッサ長老の戒のように。まさに、その尊者は、そのような形態の戒に依拠して、阿羅漢の資質において確立することを欲し、怨みある者たちに言った。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『わたしは、両の足を破断しても、あなたたちにたいし自制するであろう。わたしは、貪欲を有する死に、苦悩し、自責する』と。

 【49】わたしは、このように思い考えて、根源のままに触知して、日の出に達し得るや、阿羅漢の資質に至り得た」(典拠不詳)と。

 

§123  〔他の〕或るどこかの大長老もまた、激しい病となり、食さえも自らの手で遍く受益することができずに、自らの糞尿のうちにはまり転倒する。彼を見て、或るどこかの青年〔比丘〕が、「ああ、生命の諸々の形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)は、苦しみである」と言った。〔まさに〕その、この〔青年比丘〕に、大長老は言った。「友よ、今や、死につつある〔わたし〕は、天上への得達(天上界の幸福)を得るであろう。わたしに、ここにおいて、疑念は存在しない。いっぽう、この、戒を破って得られた得達は、まさに、学びを拒絶して獲得された在家の状態に等しきものである」と説いて、「まさしく、戒と共に、〔わたしは〕死ぬのだ」と、まさしく、そこにおいて横になったまま、まさしく、その病を触知しながら、阿羅漢の資質に至り得て、比丘の僧団に、これらの詩偈をもって説き明かした。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「或る何かの病悩に襲われたわたしが、病に激しく苦しみ悩んでいると、この亡骸(肉体)は、すみやかに遍く干上がる──あたかも、熱砂のうえに置かれた花のように。

 善き生まれならざるものが、善き生まれなるものと見なされ、清らかならざるものが、清らかなるものとして敬われ、種々なる死骸(汚物)に遍く満ちるものが、善き生まれの形態あるものとなる──〔あるがままに〕見ていない者にとっては。

 厭わしきものとして存せ──この病める腐敗の身体は──忌避されるべきものにして、清らかならざるものたる、病の法(性質)あるものは。そこにおいて、放逸となり、耽溺する人々は、善き境遇(善趣)への再生の道を失う」(ジャータカ2p.437)と。

 

§124  (1―5)また、阿羅漢たち等々の戒は、一切の懊悩の安息によって完全なる清浄なることから、「安息にして完全なる清浄〔としての戒〕」と知られるべきである。このように、制限ある完全なる清浄等を所以に、五種類のものとなる。

 

§125  (2)第二の五なるものについて。〔その〕義(意味)は、命あるものを殺すこと等々の捨棄等を所以に知られるべきである。まさに、このことが、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「五つの戒がある。命あるものを殺すことの、(1)捨棄としての戒、(2)離断としての戒、(3)思欲(:心の思い・意志)としての戒、(4)〔心身の〕統御としての戒、(5)〔身体と言葉について〕違犯なきこととしての戒である。与えられていないものを取ることの……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)の……。虚偽を説くことの……。中傷の言葉の……。粗暴な言葉の……。雑駁な虚論の……。【50】強欲〔の思い〕の……。憎悪〔の思い〕の……。誤った見解の……。離欲による、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)の……。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕による、憎悪〔の思い〕(瞋恚)の……。光明の表象(光明想)による、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)の……。〔心の〕散乱なき〔状態〕による、〔心の〕高揚(掉挙)の……。法(性質)の〔差異の〕定置による、疑惑〔の思い〕()の……。知恵(知・智)による、無明の……。歓喜による、不満〔の思い〕の……。第一の瞑想(初禅・第一禅)による、〔五つの修行の〕妨害()の……。第二の瞑想による、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念(尋伺)の……。第三の瞑想による、喜悦()の……。第四の瞑想による、安楽と苦痛(楽苦)の……。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定による、形態の表象(色想)の、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の、種々なる表象(異想)の……。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定による、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定による、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定による、無所有なる〔認識の〕場所の表象の……。無常の随観による、常住の表象の……。苦痛の随観による、安楽の表象の……。無我の随観による、自己の表象の……。厭離の随観による、愉悦の……。離貪の随観による、貪欲の……。止滅の随観による、集起の……。放棄の随観による、執取の……。滅尽の随観による、重厚の表象の……。衰失の随観による、専業(業を作ること)の……。変化の随観による、常恒の表象の……。無相の随観による、形相(概念把握)の……。無願の随観による、切願の……。空性の随観による、固着(固定観念)の……。卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察による、真髄への執取の固着の……。事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)による、迷妄の固着の……。危険の随観による、執着の固着の……。審慮の随観による、審慮なき〔状態〕の……。還転の随観による、束縛の固着の……。預流道による、〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の……。一来道による、粗雑なる諸々の〔心の〕汚れの……。不還道による、微細なる〔状態〕を共具した諸々の〔心の〕汚れの……。阿羅漢道による、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの、(1)捨棄としての戒、(2)離断としての戒、(3)思欲としての戒、(4)〔心身の〕統御としての戒、(5)〔身体と言葉について〕違犯なきこととしての戒である。このような形態の諸戒は、心の、後悔なくあることために等しく転起し、歓喜のために等しく転起し、喜悦のために等しく転起し、静息のために等しく転起し、悦意のために等しく転起し、習修のために等しく転起し、修行のために等しく転起し、多くの行為(多作・多修)のために等しく転起し、十分に作り為すことのために等しく転起し、必需のもののために等しく転起し、付属のもののために等しく転起し、円満成就のもののために等しく転起し、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する」(パティサンビダー・マッガ1p.46-7)と。

 

§126  (2―1)そして、ここにおいて、「捨棄」とは、〔前に〕説かれた流儀の命あるものを殺すこと等々のただの不生起より他に、まさに、何であれ、法(性質)は存在しない。また、すなわち、それぞれの捨棄は、それぞれの善なる法(性質)にとって、【51】確立の義(意味)によって、〔心を〕保ち置くものと成り、さらに、動揺の状態を作らないことによって、〔心を〕定めるものと〔成る〕ことから、それゆえに、まさしく、前に説かれた、「〔心を〕保ち置くこと」と「〔心を〕定めること」(§4)と名づけられた戒めること(シーラナ)の義(意味)によって、「戒(シーラ)」と説かれた。

 (2―2・2―3・2―4・2―5)他の四つの法(性質)は、〔命あるものを殺すこと等々の〕それぞれからの離断を所以に、〔命あるものを殺すこと等々の〕それぞれの統御を所以に、その両者と結び付いた思欲を所以に、さらに、〔命あるものを殺すこと等々の〕それぞれに違犯していない者の違犯なき〔状態〕を所以に、〔それらの〕心の転起の自ずからの状態(自性:固有の性能)に関して説かれた。また、それらの戒の義(意味)は、まさしく、前に明示された(§2-3)。ということで、このように、捨棄としての戒等を所以に、五種類のものとなる。

 

§127  そして、これだけで、「何が、戒であるのか」「どのような義(意味)によって、戒であるのか」「何が、それにとって、諸々の特相であり、効用であり、現起であり、境処であるのか」「何が、戒の福利であるのか」「そして、この戒は、どれだけの種類があるのか」(§1)という、これらの問いへの答えは終了となる。

 

21.

 

 六・七 「そして、何が、それにとって、汚染であるのか」「何が、浄化であるのか」

 

§128  また、すなわち、〔前に〕説かれた、「そして、何が、それにとって、汚染であるのか」「何が、浄化であるのか」(§1)とは──

 そこで、〔わたしたちは〕説く。(一)破断等の状態が、戒にとって、汚染である。(二)破断ならざる等の状態が、浄化である。

 (一)また、その破断等の状態は、そして、(1)利得や盛名等の因ある〔戒の〕破壊によって、さらに、(2)七種類の淫事の束縛によって、包摂されたものとなる。

 (1)まさに、そのように、彼の学びの境処(戒律)が、七つの罪の範疇(波羅夷・僧残・波逸提・提舎尼・突吉羅・偸蘭遮・悪説)における、あるいは、〔その〕最初において、あるいは、〔その〕最後において、破壊されたものと成るなら、彼の戒は、最極(外端)において切断された衣のように、「破断」ということに成る。また、彼の〔学びの境処が、七つの罪の範疇における、その〕中間において、破壊されたものと〔成るなら〕、彼の〔戒は〕、中間において切断された衣のように、「切断」ということに成る。彼の〔学びの境処が、七つの罪の範疇における、その〕次第次第において、二つ三つが破壊されたものと〔成るなら〕、彼の〔戒は〕、あるいは、背に、あるいは、腹に、〔体色と〕相違する色〔の斑紋〕が出起したことで、黒や赤等々の何らかの或る体色がありながら〔その体色と相違する色の斑紋をもつ〕雌牛のように、「斑紋」ということに成る。彼の〔学びの境処が、七つの罪の範疇における、その〕中途中途において、諸々の破壊されたものと〔成るなら〕、彼の〔戒は〕、中途中途に〔体色と〕相違する色の種々様々な斑点がある雌牛のように、「雑色」ということに成る。まずは、このように、利得等の因ある〔戒の〕破壊によって〔包摂されたものとして〕、破断等の状態が有る。

 

§129  (2)このように、七種類の淫事の束縛を所以に、〔破断等の状態が有る〕。まさに、世尊によって説かれた。「(2―1)婆羅門よ、ここに、一部の(※)、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、〔自らについて〕正しく梵行者と明言しながら、まさに、女性を【52】相手に〔男女〕一対の両者による入定(性行為)に入定することが、まさしく、まさに、なく、しかしながら、また、まさに、女性の〔彼への〕塗身と按摩と沐浴と摩擦を愛用します。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験します。婆羅門よ、これもまた、まさに、梵行にとって、破断にもまたなり、切断にもまたなり、斑紋にもまたなり、雑色にもまたなります。婆羅門よ、この者は、『完全なる清浄ならざる梵行を歩む』〔と〕説かれます。淫事の束縛に束縛された者は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

※ テキストには kacco とあるが、VRI版により ekacco と読む。

 

§130  (2―2)婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門が……略……明言しながら、まさに、女性を相手に〔男女〕一対の両者による入定に入定することが、まさしく、まさに、なく、女性の〔彼への〕塗身と按摩と沐浴と摩擦を愛用することもまたなく、しかしながら、また、まさに、女性を相手に高笑し遊楽し〔女性を〕遊楽させます。彼は、それを味わい……略……。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

§131  (2―3)婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門が……略……まさに、女性を相手に〔男女〕一対の両者による入定に入定することが、まさしく、まさに、なく、女性の〔彼への〕塗身と……略……愛用することもまたなく、女性を相手に高笑し遊楽し〔女性を〕遊楽させることもまたなく、しかしながら、また、まさに、女性の眼を〔自らの〕眼をもって凝視し眺め見ます。彼は、それを味わい……略……。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

§132  (2―4)婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門が……略……女性を……略……まさしく、まさに、なく、女性の……略……もまたなく、女性を……略……もまたなく、女性の……略……眺め見ることもまたなく、しかしながら、また、まさに、女性の、あるいは、笑っている、あるいは、話している、あるいは、歌っている、あるいは、泣いている、〔その〕声を、あるいは、壁を超えて、あるいは、塀を超えて、聞きます。彼は、それを味わい……略……。『〔彼は〕苦しみから〔完全に解き放たれない〕』と、〔わたしは〕説きます。

 

§133  (2―5)婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門が……略……女性を……略……まさしく、まさに、なく、女性の……略……もまたなく、女性と……略……もまたなく、女性の……略……あるいは、泣いている、〔その〕声を、あるいは、壁を超えて、あるいは、塀を超えて、聞くこともまたなく、しかしながら、また、まさに、彼に、それらの、過去において女性を相手に笑い談じ戯れたことがあり、それらのことを随念します(繰り返し思い浮かべる)。彼は、それを味わい……略……。『〔彼は〕苦しみから〔完全に解き放たれない〕』と、〔わたしは〕説きます。

 

§134  (2―6)婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門が……略……女性を……略……まさしく、まさに、なく、女性の……略……もまたなく、女性と……略……もまたなく、彼に、それらの、過去において女性を相手に笑い談じ戯れたことがあり、それらのことを【53】随念することもまたなく、しかしながら、また、まさに、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。彼は、それを味わい……略……。『〔彼は〕苦しみから〔完全に解き放たれない〕』と、〔わたしは〕説きます。

 

§135  (2―7)婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門が……略……女性を……略……まさしく、まさに、なく、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ることもまたなく、しかしながら、また、まさに、或るどこかの天の衆〔と成ること〕を志向して梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験します。婆羅門よ、これもまた、まさに、梵行にとって、破断にもまたなり、切断にもまたなり、斑紋にもまたなり、雑色にもまたなります。[婆羅門よ、この者は、『完全なる清浄ならざる梵行を歩む』〔と〕説かれます。淫事の束縛に束縛された者は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます]」(アングッタラ・ニカーヤ4p.54-6)と。

 このように、破断等の状態は、そして、(1)利得や盛名等の因ある〔戒の〕破壊によって、さらに、(2)七種類の淫事の束縛によって、包摂されたものとしてある、と知られるべきである。

 

§136  (二)また、破断ならざる等の状態は、(1)一切の学びの境処の破壊なき〔状態〕によって、(2)かつまた、〔たとえ、それらの戒が〕破壊されたとして、償いの行為(懺悔)を有するもの(僧団残留の罪より軽微のもの)であるなら、〔その〕償いの行為を為すことによって、(3)かつまた、七種類の淫事の束縛の状態がないことによって(※)、(4)かつまた、他の、忿激、怨恨、偽装、加虐、嫉妬、物惜、幻惑、狡猾、強情、激昂、思量、高慢、驕慢、放逸、という〔あり方〕等々の悪しき諸法(性質)の不生起によって、(5)かつまた、少なき欲求たることや満ち足りていることや謹厳たること等々の諸徳の生起によって、包摂されたものとなる。

 

※ テキストには sattavidhamethunasayogā bhāvena とあるが、VRI版により sattavidhamethunasayogābhāvena と読む。

 

§137  まさに、それらの戒が、利得等々の義(目的)によってもまた破壊されていないなら、あるいは、たとえ、放逸の汚点によって破壊されたとして、償いの行為が為されたなら、かつまた、〔七つの〕淫事の束縛によって、あるいは、忿激や怨恨等々の悪しき諸法(性質)によって、損壊されていないなら、それら〔の諸戒〕は、全てにわたり、破断ならざるものであり、切断ならざるものであり、斑紋ならざるものであり、雑色ならざるものである、と説かれる。まさしく、それら〔の諸戒〕は、そして、自由なる状態を作り為すことから、自由なるものであり、識者たちに賞賛されたことから、識者たちに賞賛されるものであり、渇愛と見解によって偏執されないことから、〔もはや〕偏執されないものであり、あるいは、〔瞑想の境地に〕近接する禅定(近行定)を〔等しく転起させ〕、あるいは、〔瞑想の境地に〕専注する禅定(安止定)を等しく転起させる、ということで、かつまた、禅定を等しく転起させるものと成る。それゆえに、それら〔の諸戒〕にとって、この破断ならざる等の状態は、浄化である、と知られるべきである。

 

§138  また、〔まさに〕その、この浄化は、二つの行相によって成就する──そして、(1)戒の衰滅(破戒)の危険を見ることによって、さらに、(2)戒の得達(守戒)の福利を見ることによって。

 【54】(1)そこにおいて、「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、劣戒の者の戒の衰滅における危険です」(アングッタラ・ニカーヤ3p.252)という、このような〔言葉〕等の経の方法によって、戒の衰滅の危険が見られるべきである。

 

§139  さらに、また、劣戒の人は、劣戒たることを因として、天〔の神々〕と人間たちにとって意に適わない者と成り、梵行を共にする者たちにとって教示するべきではない者と〔成り〕、劣戒についての諸々の非難のなかで苦痛の者と〔成り〕、戒ある者たちへの諸々の賞賛のなかで後悔の者と〔成り〕、また、そして、〔まさに〕その、劣戒たることで、麻布のように醜き色艶の者と成る。また、まさに、〔劣戒の者に信ある〕それらの者たちが、彼に随従する見解を惹起するなら、彼らには、長夜にわたり、悪所の苦しみをもたらすことから、苦しみの接触がある。それらの者たちの施すべき法(施物)を、〔劣戒の者が〕納受するなら、彼らにとって、大いなる果を作り為さないことから、〔その施物は〕少価のものとなる。〔劣戒の者は〕年代物の糞坑のように清め難き者であり、火葬の薪のように〔在家と出家の〕両者から遍く外にある者(両者に忌避される者)であり、たとえ、比丘の状態を明言しているとして、牛の群れについてまわる驢馬のように、まさしく、比丘ならざる者であり、全ての者にとって怨みある人のように常に怯えわななく者であり、死んだ亡骸のように共住に値しない者であり、たとえ、所聞(学識)等の徳を擁しているとして、墓場の火のように梵行を共にする婆羅門たちにとって供養に値しない者であり、形態を見ることに〔可能なき〕盲者のように殊勝〔の境地〕の到達に可能なき者であり、王権に〔望みなき〕チャンダーラ(旃陀羅:賎民・非人)の少年のように正なる法(教え)に望みなき者であり、たとえ、「安楽の者として〔わたしは〕存している」と思っているとして、火の塊の教相(アングッタラ・ニカーヤ4p.128-34)において説かれた苦しみの分有者たることから、まさしく、苦痛の者である。

 

§140  まさに、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の遍き受益や〔他者からの〕敬拝や敬慕等の安楽の悦楽に心が拘束された劣戒の者たちの、それを縁とする〔苦しみ〕を──たとえ、想起するほどのことでも、心臓の熱苦を生じさせて熱血の嘔吐を転起させることができる、極めて辛辣な苦しみを──見示しながら、一切の行相によって行為の報い(業報)に現見ある方、世尊は言う。

 「〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を』と。〔比丘たちが答えた〕『尊き方よ、そのとおりです(見ます)』と。〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわるのと──すなわち、あるいは、士族の少女を、あるいは、婆羅門の少女を、あるいは、家長の少女を、柔らかく若い手足ある〔少女〕を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわるのと──では』と。〔比丘たちが答えた〕『尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の少女を……略……【55】あるいは、近しく横たわることです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を……略……あるいは、近しく横たわることです』と。

 

§141  〔世尊は言った〕『比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒にして悪しき法(性質)ある者にとって、不浄にして励行に疑いある者にとって、生業を隠蔽している者にとって、沙門ではないのに沙門と明言する者にとって、梵行者ではないのに梵行者と明言する者にとって、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている者にとって、生まれながらの屑にとって、すなわち、この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を……略……あるいは、近しく横たわるなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することは(※)ありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒にして悪しき法(性質)ある者が、不浄にして励行に疑いある者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の少女を……略……あるいは、近しく横たわるなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します』」(アングッタラ・ニカーヤ4p.128-9)と。

 

※ テキストには uppajjeyya とあるが、VRI版により upapajjeyya と読む。以下の uppajjati についても、同様に upapajjati と読む。

 

§142  このように、火の塊の喩えによって、婦女に縛縛され五つの欲望の属性の遍き受益を縁とする苦しみを見示して、まさしく、この手段(方便)によって、さらに、「〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、堅固な〔馬の〕毛の縄で、両の脛を巻いて引きずり、その〔縄〕が、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住するのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、敬拝を受けるのと──では』」(アングッタラ・ニカーヤ4p.129)と。かつまた、「〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、油で洗い清められた鋭い刃で、胸を打つのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、合掌の行為を受けるのと──では』」(アングッタラ・ニカーヤ4p.130)と。かつまた、「〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の板で、身体を巻き包むのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの(※)、信によって施されるべき衣料を遍く受益するのと──では』」(アングッタラ・ニカーヤ4p.130-1)と。かつまた、「〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、【56】まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の杭で、口を開いて、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の玉を、口に置き、それが、彼の、唇をもまた焼き、口をもまた焼き、舌をもまた焼き、喉をもまた焼き、腹をもまた焼き、腸をもまた〔取り〕、腸間膜をもまた取って、下部に出るのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の……婆羅門の……家長の大家たちの(※※)、信によって施されるべき〔行乞の〕施食を遍く受益するのと──では』」(アングッタラ・ニカーヤ4p.131-2)と。かつまた、「〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、熱せられた、あるいは、鉄の臥床に、あるいは、鉄の椅子に、あるいは、坐らせ、あるいは、横たわらせるのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の……婆羅門の……家長の大家たちの、信によって施されるべき臥床と椅子を遍く受益するのと──では』」(アングッタラ・ニカーヤ4p.132-3)と。かつまた、「〔世尊は尋ねた〕『比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、足を上に、頭を下に、〔彼を〕掴んで、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の釜に置き、彼が、そこにおいて、泡立ち、煮られながら、一度また上に赴き、一度また下に赴き、一度また横に赴くのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の……婆羅門の……家長の大家たちの、信によって施されるべき精舎を遍く受益するのと──では』」(アングッタラ・ニカーヤ4p.133-4)と。かくのごとく、これらの〔馬の〕毛の縄や鋭い刃や鉄の板や鉄の玉や鉄の臥床や鉄の椅子や鉄の釜の喩えによって、敬拝や合掌の行為や衣料や〔行乞の〕施食や臥床や椅子や精舎の遍き受益を縁とする苦しみを見示した。

 

※ テキストには khattiya-brāhmaa-gahapati-mahāsālāna vā とあるが、VRI版により khattiyamahāsālāna vā brāhmaamahāsālāna vā gahapatimahāsālāna vā と読む。

※※ テキストには khattiya-brāhmaa-gahapati-mahāsālāna vā とあるが、VRI版により khattiya… brāhmaa… gahapatimahāsālāna vā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

§143  それゆえに──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「火の塊を抱きかかえる苦しみを超える苦しみという辛辣な果ある欲望の安楽を捨棄せずにいる者にとって、どうして、安楽があるというのだろう──破壊された戒ある者(破戒者)にとって。

 堕落した戒ある者にとって、〔他者からの〕敬拝を受けることに、まさに、何の安楽があるというのだろう──堅固な〔馬の〕毛の縄を引きずる苦しみを超える苦しみの分有者にとって。

 【57】戒なき者にとって、信ある者たちの合掌の行為を受けることに、何の安楽があるというのだろう──それを因として、刃の打撃の苦しみを超えるほどの苦しみある者にとって。

 自制なき者にとって、衣料の遍き受益の安楽が、まさに、何だというのだろう──それによって、長きにわたり、地獄において、燃え盛る鉄の板との接触を味わうことになるなら。

 戒なき者にとって、たとえ、蜜のように甘美であるとして、〔行乞の〕施食は、猛毒の如きもの──それによって、長夜にわたり、諸々の燃え盛る鉄の玉を飲み込むことになるなら。

 戒なき者にとって、たとえ、安楽と等しく認証されたとして、臥床と椅子の遍き受益は、苦しみである──彼を、長きにわたり、諸々の燃え盛る鉄の臥床と椅子が悩ますことになるなら。

 劣戒の者にとって、信によって施されるべき精舎に、何の居住の喜びがあるというのだろう──それによって、諸々の燃え盛る鉄の釜の中に居住することになるなら。

 『励行に疑いある者は、悪しき者にして、生まれながらの屑であり、〔煩悩が〕漏れ出ている者であり、内まで腐った者である』と、そして、彼を非難しながら、世の導師たる方は言った。

 厭わしきかな、自制なき者の生命は──〔まさに〕その、沙門の見てくれを保持する沙門ならざる者の〔生命は〕──打ち砕かれ掘り崩された自己を(※)運んでいる者の〔生命は〕。

 この〔世において〕、装うことを欲する者たちが、糞を〔避ける〕ように、死骸を避けるように、まさに、すなわち、戒ある寂静なる者が〔避けるもの〕──彼の生命が、何だというのだろう。

 一切の恐怖から解き放たれず、一切の到達の安楽から解き放たれ、天上の門はしっかりと締められ、悪所への道を登り行くのが、〔劣戒の者であるなら〕──

 慈悲の人にとって、慈悲の基盤と成った者として、まさに、他の誰がいるというのだろう。劣戒の者に等しき者として、〔他の誰がいるというのだろう〕──劣戒たることによって、かくのごとくもまた、多くの種類の汚点がある」と。

 

 このように、〔火の喩え〕等を綿密に注視することによって、戒の衰滅の危険を見ることが〔知られるべきであり〕、さらに、〔前に〕説かれた流儀の反対〔の観点〕から、戒の得達の福利を見ることが知られるべきである。

 

※ テキストには chatamattāna とあるが、VRI版により khatamattāna と読む。

 

§144  (2)そして、また──

 

 【58】〔そこで、詩偈に言う〕「彼の鉢と衣料の保持は、浄信あるものと成る──彼の出家は、果を有するものと〔成る〕──彼の戒が、しっかりと無垢であるなら。

 清浄の戒ある比丘にとって、自己への批判等の恐怖は、暗黒が太陽に〔侵入できない〕ように、心臓(心)に入り行かない。

 戒の得達によって美しく輝きながら、比丘は、苦行の林にあって、光輝の得達によって、空にある月のように美しく輝く。

 たとえ、身体の香りでも、戒ある比丘のものであるなら、天〔の神々〕たちにもまた、歓喜〔の思い〕を作り為す。戒の香りについては、まさしく、何の言説があるというのだろう。

 一切の香りある類の、〔その〕得達は征服され、悩苦なき戒の香りは、一切の方角に香りただよう。

 たとえ、為すこと少なく為されたとして、戒ある者においては、諸々の大いなる果と成る。かくのごとく、戒ある者は、供養と尊敬の器と成る。

 戒ある者を、所見の法(現法:現世)としてある諸々の煩悩は結縛せず、戒ある者は、未来のものとしてある諸々の苦しみの根を掘り崩す。

 すなわち、人間たちにおける得達は、さらに、すなわち、天〔の神々〕たちにおける成就も、それは、戒を成就した者にとって、求めているなら、得難きものと成らない。

 また、すなわち、究極の寂静として、この、涅槃の成就があり、まさしく、それへと、戒を成就した者の意は走り行く。

 一切の得達の根元である戒について、かくのごとく、賢者たる者は、無数の行相と区別ある福利を分明するべきである」と。

 

§145  まさに、このように分明していると、戒の衰滅〔の観点〕から戦慄して、戒の得達へと向かい行く意図が有る。それゆえに、〔前に〕説かれたとおり、この戒の衰滅の危険を、さらに、この戒の得達の福利を、〔あるがままに〕見て、一切の慇懃〔の心〕をもって、戒が浄化されるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

§146  そして、これだけで、「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が〔云々〕」(Ch.0§1)という、この詩偈の、戒と禅定と智慧(戒定慧)の門によって説示された清浄の道における、まずは、戒が、遍く提示されたものと成る。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、「戒についての釈示」という名の第一章となる。