第十九章 疑いの超渡の清浄についての釈示

 

678.

 

§1  【598】また、まさしく、この名前と形態にとっての、縁の遍き収取(理解・把握)によって、〔過去と現在と未来の〕三つの時における疑いを超渡して安立した知恵が、「疑いの超渡の清浄」ということになる。

 

§2  その〔疑いの超渡の清浄〕を成就させることを欲する比丘は、すなわち、まさに、巧みな智ある医師が、病を見て、その〔病〕の現起〔の因〕を遍く探し求めるように──また、あるいは、すなわち、慈しみの人が、か弱い年少の童子が道のうえで上向きに臥し横になっているのを見て、「いったい、まさに、この子は、誰の〔子〕なのか」と、彼の母と父のことに〔心を〕傾注するように──まさしく、このように、その名前と形態にとっての因と縁を遍く探し求めることを〔心に〕惹起する。

 

§3  彼は、まさしく、最初から、かくのごとく深慮する。「まずは、この名前と形態は、一切所において、一切時に、さらに、一切の者にとって、一つに等しき状態に至り得ないことから、因なきものではなく──名前と形態より以上に、イッサラ〔天〕(自在天・創造神)等々(Ch.16§85)の状態なきことから、イッサラ〔天〕等を因とするものではなく──すなわち、また、『まさしく、名前と形態そのものが、イッサラ〔天〕等々である』と説く者たちも、彼らのばあい、『イッサラ〔天〕』等と名づけられた名前と形態の因なき状態に至り得ることから(名前と形態こそがイッサラ天であるなら、イッサラ天である名前と形態は無因のものとして存することになるが、そのようなことはない)──それゆえに、因と縁あることから有るべきものとして、〔名前と形態は〕存しているのだ。いったい、まさに、何が、それら〔の因と縁〕なのだ」と。

 

679.

 

§4  彼は、このように、名前と形態にとっての因と縁に〔心を〕傾注して〔そののち〕、まずは、この形態の身体(色身)にとっての因と縁を、このように遍く収め取る。「この身体は、発現しつつあるとして、まさしく、青蓮や赤蓮や白蓮や睡蓮等々の内部に発現するのでもなく、宝珠や真珠の首飾等々の〔内部に発現するのでも〕なく、そこで、まさに、胃の腑と大腸の間に、腹膜を後、脊椎を前と為して、腸と腸の贓物に取り囲まれ、自らもまた、悪臭と忌避と嫌悪〔の状態〕あるものとなり、悪臭と忌避と嫌悪〔の状態〕ある最高に猥雑なる空間において、腐った魚や腐った死骸や腐った粥や水たまりやどぶ池等々において蛆虫が〔発生する〕ように発現する。このように発現しつつある、その〔身体〕にとって、無明、渇愛、執取、行為、【599】という、これらの四つの法(性質)は、〔それを〕発現させることから、因となり、食は、〔それを〕保全することから、縁となる。ということで、五つの法(性質)が、因と縁と成る。それらのうちでもまた、無明等々の三つは、この身体にとって、幼児にとっての母のように、近しき依所と成り、行為は、子にとっての父のように、生じさせるもの(作成者)と〔成り〕、食は、幼児にとっての乳母のように、保持するものと〔成る〕」と。

 

§5  このように、形態の身体にとっての縁の遍き収取を為して、ふたたび、「かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します」(マッジマ・ニカーヤ1p.111)という〔言葉〕等の方法によって、名前の身体(名身)にとっての縁の遍き収取を為す。彼は、このように、名前と形態の、縁からの転起を見て、「すなわち、今現在、この〔名前と形態〕があるように、このように、過去の時においてもまた、縁から転起したのであり、未来〔の時〕においてもまた、縁から転起するであろう」と等しく随観する。

 

680.

 

§6  彼が、このように等しく随観していると、すなわち、その、過去の極(前際:過去の種々相)に関して、「『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』」(マッジマ・ニカーヤ1p.8)と説かれた、五種類の疑惑──すなわち、また、未来の極(後際:未来の種々相)に関して、「『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』」(マッジマ・ニカーヤ1p.8)と説かれた、五種類の疑惑──すなわち、また、現在に関して、「また、あるいは、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕有ります。『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴く者と成るのだろうか』」(マッジマ・ニカーヤ1p.8)と説かれた、六種類の疑惑──それが、全てもろともに捨棄される。

 

681.

 

§7  他の者は、共通なるものと共通ならざるものを所以に、二種類の、名前にとっての縁を見る。行為等を所以に、四種類の、形態にとっての〔縁を見る〕。

 

§8  まさに、二種類のものが、名前にとって、縁となる。共通なるものであり、さらに、共通ならざるものである。そこにおいて、眼等々の六つの門と形態等々の六つの対象は、名前にとって、共通なる縁となる──善なるもの等の細別ある一切の流儀〔の名前〕もろともにとって、その〔六つの門と六つの対象〕からの転起あることから。意を為すこと等のものは、共通ならざる縁となる──なぜなら、根源のままに意を為すこと(如理作意)や正なる法(教え)の聴聞等のものは、善なるものにとってだけ、〔縁と〕成り、【600】〔その〕反対のものは、善ならざるものにとって、〔縁と成り〕、行為等のものは、報いにとって、〔縁と成り〕、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕(有分:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)等のものは、〔報いを生まない純粋〕所作にとって、〔縁と成る〕からである、と〔知られるべきである〕。

 

§9  また、形態にとって、行為、心、季節、食、という、この、行為等の四種類のものが、縁と〔成る〕。そこにおいて、まさしく、過去の行為は、行為から現起する形態にとって、縁と成る。生起しつつある心は、心から現起する〔形態〕にとって、〔縁と成る〕。季節と食は、季節と食から現起する〔形態〕にとって、止住の瞬間において、縁と成る。ということで、まさしく、このように、或る者は、名前と形態にとっての縁の遍き収取を為す。

 

§10  彼は、このように、名前と形態の、縁からの転起を見て、「すなわち、今現在、この〔名前と形態〕があるように、このように、過去の時においてもまた、縁から転起したのであり、未来〔の時〕においてもまた、縁から転起するであろう」と等しく随観する。彼が、このように等しく随観していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、三つの時における疑惑が捨棄される。

 

682.

 

§11  他の者は、まさしく、それらの──「名前と形態」と名づけられた諸々の形成〔作用〕の──老に至り得ることを〔見て〕、さらに、老いた者たちの〔身体の〕滅壊を見て、「諸々の形成〔作用〕の、この、老と死は、まさに、生が存しているときに有る。生は、生存が存しているときに〔有る〕。生存は、執取が存しているときに〔有る〕。執取は、渇愛が存しているときに〔有る〕。渇愛は、感受が存しているときに〔有る〕。感受は、接触が存しているときに〔有る〕。接触は、六つの〔認識の〕場所が存しているときに〔有る〕。六つの〔認識の〕場所は、名前と形態が存しているときに〔有る〕。名前と形態は、識知〔作用〕が存しているときに〔有る〕。識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕が存しているときに〔有る〕。諸々の形成〔作用〕は、無明が存しているときに〔有る〕」と、このように、逆なる縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を所以に、名前と形態にとっての縁の遍き収取を為す。そして、彼が、〔このように等しく随観していると〕、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔三つの時における〕疑惑が捨棄される。

 

683.

 

§12  他の者は、かくのごとく、まさに、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」と、まさしく、前に詳知させて見示した(Ch.17§29)、順なる縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を所以に、名前と形態にとっての縁の遍き収取を為す。そして、彼が、〔このように等しく随観していると〕、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔三つの時における〕疑惑が捨棄される。

 

684.

 

§13  他の者は、「過去(過去世)の行為の生存において、迷妄としてある無明、専業としてある諸々の形成〔作用〕、欲念としてある渇愛、近接としてある執取、思欲としてある生存、という、過去(過去世)の行為の生存における、これらの五つの法(性質)は、ここ(現世)に、結生にとって、縁となる。ここ(現世)に、結生としてある識知〔作用〕、入胎としてある名前と形態、〔機能の〕澄浄(正常な感官機能)としてある〔認識の〕場所、接触されたものとしてある接触、感受されたものとしてある感受、という、ここ(現世)に、再生の生存における(※)、これらの五つの法(性質)は、先(過去世)に作り為された行為にとって、縁から〔発生する果となる〕。諸々の〔認識の〕場所の完熟したものたることから、ここ(現世)に、迷妄としてある無明、専業としてある諸々の形成〔作用〕、欲念としてある渇愛、近接としてある執取、思欲としてある生存、という、ここ(現世)に、行為の生存における、これらの五つの法(性質)は、未来(来世)に、結生にとって、縁となる」(パティサンビダー・マッガ1p.52)と、このように、行為の転起と報いの転起を所以に、名前と形態にとっての縁の遍き収取を為す。

 

※ テキストには idhūppattibhavasmi とあるが、VRI版により idhūpapattibhavasmi と読む。

 

685.

 

§14  【601】そこにおいて、(1)所見の法(現法:現世)において感受されるべき〔行為〕、(2)再生(来世)において感受されるべき〔行為〕、(3)順後(来々世以降)において感受されるべき〔行為〕、(4)既有(無力)の行為、という、四種類の行為()がある。それらのうち、(1)一つの疾走〔作用〕の道程(一連の心相続の過程)における、七つ〔の疾走作用〕の心のうち、あるいは、善なる〔第一の疾走作用の思欲〕が、あるいは、善ならざる第一の疾走〔作用〕の思欲が、「所見の法(現世)において感受されるべき行為」ということになる。それは、まさしく、〔現世の〕この自己状態において、報い(異熟・果報)を与える。(4)また、そのように〔報いを与えることが〕できずにいる〔第一の疾走作用の思欲〕が、「既有の行為」〔ということになる〕。行為の報い(業報)が、〔過去に〕有ったことなく、行為の報いが、〔未来に〕有るであろうことなく、行為の報いが、〔今現在も〕存在しない、ということで、このように、この三なるものを所以に、「既有の行為」ということに成る。(2)また、義(目的)を遂行するものとして、第七の疾走〔作用〕の思欲が、「再生において感受されるべき行為」ということになる。それは、〔現世の〕直後の自己状態において、報いを与える。(4)そのように〔報いを与えることが〕できずにいる〔第七の疾走作用の思欲〕が、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、「既有の行為」ということに成る。(3)〔第一の疾走作用の心と第七の疾走作用の心の〕両者の中間にある、五つの疾走〔作用〕の思欲が、「順後において感受されるべき行為」ということになる。それは、未来において、すなわち、機会を得るとき、そのときに、報いを与える。輪廻の転起が存しているときは、「既有の行為」ということには成らない。

 

686.

 

§15  他にもまた、(5)すなわち、重き〔行為〕としてあるもの、(6)すなわち、多き〔行為〕としてあるもの、(7)すなわち、近き〔行為〕としてあるもの、(8)また、あるいは、為されたものとしての行為、という、四種類の行為がある。そこにおいて、(5)あるいは、善なるもので有れ、あるいは、善ならざるもので〔有れ〕、重き〔行為〕と重くない〔行為〕のうち、すなわち、重き〔行為〕として〔有るなら〕──あるいは、母の殺害等の行為であり、あるいは、莫大なる行為(形態の行境と形態なき行境の瞑想)であるが──まさしく、その〔行為〕が、最初に熟する。(6)そのように、多き〔行為〕と多くない〔行為〕のうちでもまた、すなわち、多き〔行為〕として有るなら──あるいは、善戒の〔行為〕であり、あるいは、劣戒の〔行為〕であるが──まさしく、その〔行為〕が、最初に熟する。(7)すなわち、近き〔行為〕としてあるものは、まさに、死の時において随念された行為である。まさに、すなわち、死の近くにある者が随念することができる、まさしく、その〔行為〕によって、〔彼は〕再生する(※)。(8)また、これらの三つ〔の行為〕から除外されたもので、繰り返しの習修を得た〔行為〕(繰り返し反復された行為)が、「また、あるいは、為されたものとしての行為」ということに成る。その〔行為〕は、それら〔の三つの行為〕の状態なきときに、結生を引き寄せる。

 

※ テキストには uppajjati とあるが、VRI版により upapajjati と読む。

 

687.

 

§16  他にもまた、(9)生じさせる〔行為〕、(10)保全する〔行為〕、(11)阻害する〔行為〕、(12)害障する〔行為〕、という、四種類の行為がある。そこにおいて、(9)「生じさせる〔行為〕」というものは、善なるものとして有るもまた、善ならざるものとして〔有る〕もまた、それは、結生においてもまた、転起されたものにおいてもまた、報いとしての諸々の形態と形態なき範疇を生じさせる。(10)また、保全する〔行為〕は、報いを生じさせることができない。他の行為によって結生が与えられ、報いが生じさせられたとき、生起する楽と苦を保全し、時を転起させる(持続させる)。(11)阻害する〔行為〕は、他の行為によって結生が与えられ、報いが生じさせられたとき、生起する楽と苦を阻止し捕縛し、時を転起させることを許さない。(12)また、害障する〔行為〕は、自ら、善なるものであろうが、善ならざるものであろうが、存しているなら、【602】他の力弱き行為を害して、その〔力弱き行為〕の報いを拒んで、自己〔の行為〕の報いの機会を作り為す。また、このように、行為によって機会が作り為されたとき、その報いは、まさに、「生起したもの」と説かれる。

 

§17  かくのごとく、これらの十二の行為のなかの、まさしく、そして、別の行為となるもの(他の世へと継続する行為)は、さらに、別の報いとなるもの(他の世へと継続する報い)は、覚者たちには、まさしく、〔彼らの有する〕行為と報いの知恵には、あるがままの自ずからの効用(機能・性行)〔の観点〕から、明白なるものと成り、弟子たちとは共通ならざるものとしてある。また、〔あるがままの〕観察者によるなら、そして、別の行為となるものは、さらに、別の報いとなるものは、一部位〔の観点〕から、知られるべきものとなる(あるがままの観察によって、部分的に知ることができる)。それゆえに、門のみの見示によって、この〔十二の〕行為の差異が明示された、と〔知られるべきである〕。

 

688.

 

 かくのごとく、この十二種類の行為を、行為の転起のうちに加え含めて、このように、或る者は、行為の転起と報いの転起を所以に、名前と形態にとっての縁の遍き収取を為す。

 

§18  彼は、このように、行為の転起と報いの転起を所以に、名前と形態の、縁からの転起を見て、「すなわち、今現在、この〔名前と形態〕があるように、このように、過去の時においてもまた、行為の転起と報いの転起を所以に、縁から転起したのであり、未来の時においてもまた、まさしく、行為の転起と報いの転起を所以に、縁から転起するであろう」と〔等しく随観し〕、「かくのごとく、まさしく、そして、行為があり、さらに、行為の報いがあり、そして、行為の転起があり、さらに、報いの転起があり、そして、行為によって転起されたものがあり、さらに、報いによって転起されたものがあり、そして、行為の相続があり、さらに、報いの相続があり、そして、所作があり、さらに、所作の果がある」〔と等しく随観し〕──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「行為から、諸々の報いが転起し、報いは、行為を発生とする。行為から、さらなる生存が有り、このように、世は転起する」と──

 

 等しく随観する。

 

§19  彼が、このように等しく随観していると、すなわち、その、過去の極等々に関して、「いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか」(§6)という〔言葉〕等の方法によって説かれた、十六種類の疑惑は、その全てが捨棄される。一切の生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と〔有情の〕居住において、因と果の連結を所以に転起している、まさしく、名前と形態のみが見える。彼は、契機(原因・根拠)より以上の作り手を見ることが、まさしく、なく、報いの転起より以上の報いの得知者を〔見ることも〕ない。「いっぽう、契機が存しているときは、『作り手』と〔呼称され〕、報いの転起が存しているときは、『得知者』と〔呼称され〕、賢者たちは、呼称のみで語用する(言説する)」〔と〕、まさしく、かくのごとく、彼には、正しい智慧によって善く見られた〔名前と形態〕が有る。

 

689.

 

§20  それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「行為の作り手は存在せず、かつまた、報いの受け手も〔存在せず〕、〔不純なき〕清浄の諸法(性質)が転起するだけであり、これが、正しく見ることとなる。

 このように、行為が、さらに、報いが、因を有するものとして転起しているとき、種と木等々に〔根源が認められない〕ように、過去の突端は導かれない。

 未来においてもまた、輪廻において転起されざるものは見られず、この義(道理)を(※)了知せずして、異教の者たちは、自ら、自在なき者たちとなる。

 【603】有情の表象を収め取って、常久と断絶を見る者たちは、六十二の見解(ディーガ・ニカーヤ1p.39)を収め取る(妄想し執着する)──互いに他と矛盾する者たちとなり。

 見解の結縛に結縛された彼らは、渇愛の流れによって運ばれる。渇愛の流れによって運ばれながら、彼らは、苦しみから解き放たれない。

 このように、この〔義〕を証知して、覚者の弟子たる比丘は、深遠にして精緻なる、空なる縁を理解する。

 行為は、報いのうちに存在せず、成熟したもの(報い)は、行為のうちに見出されず、〔行為と報いの〕両者は、互いに他と空にして、かつまた、行為なくして、果は〔存在し〕ない。

 すなわち、火が、太陽のうちになく、宝珠のうちになく、牛糞(燃料)のうちになく、それらの外にも、それは存在せず、かつまた、〔それらの〕資糧(素材)から、〔それが〕生まれるように──

 そのように、行為の内に、報いは認められず、行為の外にもまた、〔報いは認められ〕ず、行為は、そこ(報い)において見出されない。

 果が空なるものとして、その行為はあり、果は、行為によって見出される。そして、まさに、行為に執取して、その〔行為〕から、果が発現する。

 まさに、ここにおいて、天〔の神〕は、あるいは、梵〔天〕も、輪廻の作り手として存在せず、〔不純なき〕清浄の諸法(性質)が、因となり資糧となり縁となり、転起する〔だけのこと〕」と。

 

※ テキストには evam attha とあるが、VRI版により etamattha と読む。

 

690.

 

§21  彼にとって、このように、行為の転起と報いの転起を所以に、名前と形態にとっての縁の遍き収取を為して、三つの時における疑惑が捨棄されたなら、一切の過去と未来と現在の諸法(性質)が、死滅と結生を所以に知られたものと成る。それが、彼にとって、所知の遍知(Ch.20§3)と成る。

 

§22  彼は、このように覚知する。「すなわち、過去において、行為という縁あることから発現した諸々の範疇は、それらは、まさしく、そこにおいて、止滅したものとしてある。また、過去の行為という縁あることから、この生存においては、他の諸々の範疇が、発現したものとしてある。過去の生存から、この生存へと至り来たものは、一つの法(性質)でさえも、存在しない。この生存においてもまた、行為という縁によって発現した諸々の範疇は止滅するであろう。さらなる生存においては、他〔の諸々の範疇〕が発現するであろう。この生存から、さらなる生存へと、一つの法(性質)でさえも、至り行くことはないであろう。

 さらに、また、まさに、すなわち、師匠の口からの読誦は、内弟子の口に入ることはないが、しかしながら、その縁あることから、彼(内弟子)の口において、読誦が転起しないことがないように──使者によって飲まれた呪文の水は、病者の腹に入ることはないが、しかしながら、その縁あることから、彼(病者)には、病が寂止しないことがないように──顔に装飾を施すことは、鏡面等々において、顔の形相が至り行くことはないが、しかしながら、そこにおいて、その縁あることから、装飾を施すことが覚知されないことがないように──或る灯芯の灯炎は、他の灯芯に転移することはないが、しかしながら、そこにおいて、その縁あることから、〔他の灯芯に〕灯炎が発現しないことがないように──まさしく、このように、過去の生存から、この生存へと、〔何であれ、法が転移することは〕なく、あるいは、この〔生存〕から、さらなる生存へと【604】、何であれ、法(性質)が転移することはないが、しかしながら、過去の生存における、範疇と〔認識の〕場所と界域(蘊処界)という縁あることから、ここ(現世)に──あるいは、ここ(現世)に、範疇と〔認識の〕場所と界域という縁あることから、さらなる生存において──範疇と〔認識の〕場所と界域が発現しないことはない」と。

 

§23  〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、すなわち、意の界域の直後にある眼の識知〔作用〕が、まさしく、そして、〔意の界域から〕至り来たこともなく、〔意の界域の〕直後に発現しないこともまたないように──

 まさしく、そのように、結生が転起されたとき、心の相続がある。前の心が破壊され、そののち、後〔の心〕が生まれる。

 それらに、中間のものは存在せず、それらに、間隔は見出されない。そして、ここから、何であれ、至り行かず、かつまた、結生が生まれる」と。

 

691.

 

§24  このように、死滅と結生を所以に知られた一切の法(事象)の一切の行相によって、名前と形態にとっての縁の遍き収取の知恵が、強靭に至ったものと成り、十六の疑い(§6)が、より巧妙に捨棄される。さらに、単に、それだけにあらず。「[比丘たちよ、ここに、比丘が、]教師にたいし、疑い、[疑惑し、信念せず、正しく浄信しません]」(アングッタラ・ニカーヤ3p.248)という〔言葉〕等の方法によって転起された八種類もろともの疑い(教師・法・僧団・学び・過去の極・未来の極・過去の極と未来の極・これを縁とすることと縁によって生起した諸々の法についての疑惑:ダンマ・サンガニp.183)が、まさしく、捨棄され、六十二の悪しき見解が鎮静する。

 

§25  このように、種々なる方法によって、名前と形態にとっての縁の遍き収取によって、三つの時における疑いを超え渡って〔そののち〕、〔迷妄なき境地において〕安立した知恵が、「疑いの超渡の清浄」と知られるべきである。「法(性質)の止住の知恵」というのもまた、「事実のとおりの知恵」というのもまた、まさしく、この〔疑いの超渡の清浄〕の同義語である。

 

§26  まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.50)と。

 「無常〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無常〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑いは捨棄されるのか。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。[どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、苦痛〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑いは捨棄されるのか。無我〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無我〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。]どこにおいて、疑いは捨棄されるのか。

 無常〔の観点〕から意を為している者は、形相(概念把握)を、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。『正しく見ること』〔と〕。このように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無常〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑いは捨棄される。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、転起されたものを、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。『正しく見ること』〔と〕。このように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、苦痛〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑いは捨棄される。無我〔の観点〕から意を為している者は、そして、形相を、さらに、転起されたものを、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。『正しく見ること』〔と〕。このように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無我〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑いは捨棄される。

 そして、すなわち、事実のとおりの知恵は、かつまた、すなわち、正しく見ることは、さらに、すなわち、疑いの超渡は、これらの【605】〔三つの〕法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)のものであり、さらに、種々なる文型のものであるのか(異義かつ異語であるのか)、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか(同義かつ異語であるのか)。

 そして、すなわち、事実のとおりの知恵は、かつまた、すなわち、正しく見ることは、さらに、すなわち、疑いの超渡は、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)」(パティサンビダー・マッガ2p.62-3)と。

 

§27  また、この知恵を具備した〔あるがままの〕観察者は、「覚者(ブッダ)の教えにおいて、安堵を得た者、確立を得た者、決定している境遇の者、小なる預流たる者」ということに成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「それゆえに、比丘は、常に気づきある者として、名前と形態にとっての諸縁を、全てにわたり、遍く収め取るべきである──疑いの超渡を義(目的)とする者となり」と。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「疑いの超渡の清浄についての釈示」という名の第十九章となる。