清浄の道(第二部)

 

 第十二章 〔種々なる〕神通の種類についての釈示

 

365.

 

§1  【373】今や、それらの世〔俗〕の神知(神通力・超越知)を所以に(※)、この禅定(三昧・定)の修行は、「神知という福利あるもの」(Ch.11§122)と説かれたが、それらの神知を成就させるために、すなわち、地の遍満()等々において第四の瞑想(静慮)に到達した〔心の〕制止者(瞑想修行者)によって、〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)が為されるべきであり──なぜなら、このように〔為すなら〕、彼の、その禅定の修行は、まさしく、そして、福利に到達したものと成るであろうし、さらに、より強固なるものと〔成るであろう〕からである──彼が、福利に到達した、より強固なる、禅定の修行を具備したなら、まさしく、安楽に、智慧(慧・般若)の修行を成就させるであろうことから、それゆえに、まずは、神知についての言説を、〔わたしたちは〕始めるであろう。

 

※ テキストには vāsena とあるが、VRI版により vasena と読む。

 

§2  まさに、世尊によって、第四の瞑想の禅定に到達した良家の子息たちのために、まさしく、そして、禅定の修行の福利を見示することを義(目的)に、さらに、上々にして妙々なる法(性質)を見示することを義(目的)に、「彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為()に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります」(ディーガ・ニカーヤ1p.77-8)という〔言葉〕等の方法によって、(1)〔種々なる〕神通の種類、(2)天耳の界域の知恵(知・智)、(3)〔他者の〕心を探知する知恵、(4)過去における居住(過去世)の随念の知恵、(5)有情たちの死滅と再生の知恵、という、五つの世〔俗〕の神知(漏尽通を除く五つの神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通)が説かれた。

 

 [1 〔種々なる〕神通の種類]

 

 そこにおいて、「一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります」(ディーガ・ニカーヤ1p.78)という〔言葉〕等の神通による変異を為すことを欲する初学の〔心の〕制止者によって、白の遍満を極限とする〔地と水と火と風と青と黄と赤と白の〕八つの遍満において、八つずつの入定(等至:禅定の境地)を発現させて、【374】(1)遍満の順〔の観点〕から、(2)遍満の逆〔の観点〕から、(3)遍満の順逆〔の観点〕から、(4)瞑想の順〔の観点〕から、(5)瞑想の逆〔の観点〕から、(6)瞑想の順逆〔の観点〕から、(7)瞑想の跳過〔の観点〕から、(8)遍満の跳過〔の観点〕から、(9)瞑想と遍満の跳過〔の観点〕から、(10)支分()の転移〔の観点〕から、(11)対象(所縁)の転移〔の観点〕から、(12)支分と対象の転移〔の観点〕から、(13)支分の定置〔の観点〕から、(14)対象の定置〔の観点〕から、という、これらの十四の行相によって、心が遍く調御されるべきである。

 

366.

 

§3  「また、ここにおいて、どのようなものが、遍満の順であり……略……対象の定置であるのか」と〔問うなら、以下のように答える〕。

 (1)ここに、比丘が、地の遍満において瞑想〔の境地〕に入定し、そののち、水の遍満において〔入定する〕、ということで、このように、次第次第に、〔地から白までの〕八つの遍満において、百回であろうが、千回であろうが、入定するなら、これが、「遍満の順」ということになる。

 (2)また、白の遍満から始めて、まさしく、そのように、逆の順によって入定することが、「遍満の逆」ということになる。

 (3)地の遍満から始めて、すなわち、白の遍満まで、白の遍満から始めて、すなわち、地の遍満まで、ということで、このように、順逆を所以に繰り返し入定することが、「遍満の順逆」ということになる。

 

§4  (4)また、第一の瞑想(初禅・第一禅)から始めて、次第次第に、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)まで、それまで、繰り返し入定することが、「瞑想の順」ということになる。

 (5)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所から始めて、すなわち、第一の瞑想まで、それまで、繰り返し入定することが、「瞑想の逆」ということになる。

 (6)第一の瞑想から始めて、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所まで、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所から始めて、すなわち、第一の瞑想まで、ということで、このように、順逆を所以に繰り返し入定することが、「瞑想の順逆」ということになる。

 

§5  (7)また、地の遍満において、第一の瞑想に入定して、まさしく、そこ(地の遍満)において、第三〔の瞑想〕に入定し、そののち、まさしく、その〔地の遍満〕を撤去して、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に〔入定して〕、そののち、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に〔入定する〕、ということで、このように、遍満を跳過せずして、まさしく、瞑想を、一つ間隔の状態で跳過する(一つ飛ばしで実践する)ことが、「瞑想の跳過」ということになる。このように、〔他の〕水の遍満等を根元とするものもまた、〔一つ間隔の状態で〕構成が為されるべきである。

 (8)地の遍満において、第一の瞑想に入定して、ふたたび、まさしく、その〔第一の瞑想〕に、火の遍満において〔入定して〕、そののち、青の遍満において〔入定して〕、そののち、赤の遍満において〔入定する〕、ということで、この方法によって、瞑想を跳過せずして、まさしく、遍満を、一つ間隔の状態で跳過することが、「遍満の跳過」ということになる。

 (9)地の遍満において、第一の瞑想に入定して、そののち、火の遍満において、第三〔の瞑想〕に〔入定して〕、青の遍満を撤去して、虚空無辺なる〔認識の〕場所に〔入定して〕、赤の遍満から、無所有なる〔認識の〕場所に〔入定する〕、ということで、この方法によって、まさしく、そして、瞑想を、さらに、遍満を、〔一つ間隔の状態で〕跳過することが、「瞑想と遍満の跳過」ということになる。

 

§6  (10)また、地の遍満において、第一の瞑想に入定して、まさしく、そこにおいて、【375】諸他〔の第二と第三と第四の瞑想〕にもまた入定することが、「支分の転移」ということになる。

 (11)地の遍満において、第一の瞑想に入定して、まさしく、その〔第一の瞑想〕に、水の遍満において〔入定して〕……略……まさしく、その〔第一の瞑想〕に、白の遍満において〔入定する〕、ということで、このように、一切の遍満において、まさしく、一つの瞑想に入定することが、「対象の転移」ということになる。

 (12)地の遍満において、第一の瞑想に入定して、水の遍満において、第二〔の瞑想〕に〔入定して〕、火の遍満において、第三〔の瞑想〕に〔入定して〕、風の遍満において、第四〔の瞑想〕に〔入定して〕、青の遍満を撤去して、虚空無辺なる〔認識の〕場所に〔入定して〕、黄の遍満から、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に〔入定して〕、赤の遍満から、無所有なる〔認識の〕場所に〔入定して〕、白の遍満から、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に〔入定する〕、ということで、このように、一つ間隔を所以に、そして、諸々の支分を、さらに、諸々の対象を、〔順に〕転移することが、「支分と対象の転移」ということになる。

 

§7  (13)また、第一の瞑想を「五つの支分あるもの」と定め置いて、第二〔の瞑想〕を「三つの支分あるもの」〔と定め置いて〕、第三〔の瞑想〕を「二つの支分あるもの」〔と定め置いて〕、そのように、第四〔の瞑想〕を〔「二つの支分あるもの」と定め置いて〕、虚空無辺なる〔認識の〕場所を……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を〔「二つの支分あるもの」と定め置く〕、ということで、このように、まさしく、瞑想の支分のみを定め置くことが、「支分の定置」ということになる。

 (14)そのように、「これは、地の遍満である」と定め置いて、「これは、水の遍満である」〔と定め置いて〕……略……「これは、白の遍満である」〔と定め置く〕、ということで、このように、まさしく、対象のみを定め置くことが、「対象の定置」ということになる。

 或る者たちは、「支分と対象の定置」をもまた求める(主張し承認する)。いっぽう、諸々のアッタカター(注釈書)において言及されていないことから、それは、確実に、修行の門と成らない。

 

367.

 

§8  また、これらの十四の行相によって心を遍く調御せずして、過去(過去世)において修行を修めていない初学の者たる、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)が、神通による変異を成就させるであろう、という、この状況は、見出されることがない。なぜなら、初学の者にとって、遍満のための事前作業〔としての瞑想〕(遍作:予備的瞑想)でさえも重荷であり、百のうちの、あるいは、千のうちの、一者だけができるからであり、遍満のための事前作業〔としての瞑想〕を為した者にとって、〔相似の〕形相を生起させることは重荷であり、百のうちの、あるいは、千のうちの、一者だけができるからであり、〔相似の〕形相が生起したとして、それを増大させて、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に到達することは重荷であり、百のうちの、あるいは、千のうちの、一者だけができるからであり、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に到達した者にとって、十四の行相によって心を遍く調御することは重荷であり、百のうちの、あるいは、千のうちの、一者だけができるからであり、十四の行相によって心が遍く調御された者にとってもまた、神通による変異は、まさに、重荷であり、百のうちの、あるいは、千のうちの、一者だけができるからであり、変異に至り得た者にとってもまた、速き感知の状態は、まさに、重荷であり、百のうちの、あるいは、千のうちの、一者だけが速き感知ある者と成るからである。

 

§9  まさに、テーランバッタラ〔精舎〕において、マハー・ローハナグッタ長老の病の奉仕にやってきた三万ほどの神通者たちのなかにいる、〔戒の〕成就から八年の【376】〔ブッダ〕ラッキタ長老のように。彼の〔神通の〕威力は、まさしく、地の遍満についての釈示において説かれた(Ch.4§135)。また、彼の、その〔神通の〕威力を見て、〔マハー・ローハナグッタ〕長老は言った。「友よ、それで、もし、ラッキタ〔長老〕が有ることなくあったなら、全ての者たちが、非難されるべき者たちとして存するであろう。『龍王を守ることができなかった』と。それゆえに、自己みずから収め取って行なうべき〔神通の〕武器を、まさしく、まさに、〔俗塵の〕垢を清めて〔そののち〕収め取って、〔自己みずから〕行なうのが順当である(ふさわしい)」と。彼ら(三万の神通者たち)は、〔マハー・ローハナグッタ〕長老の教諭のうちに安立して、三万の比丘もろともに、速き感知ある者たちと成った。

 

§10  そして、たとえ、速き感知ある者として存しつつも、他者の立脚地となる状態(他者の助けとなること)は重荷であり、百のうちの、あるいは、千のうちの、一者だけが、〔それができる者と〕成る。山への物品(灯明)の供養において、悪魔によって炭火の雨が転起されたとき、虚空に地を造作して炭火の雨を〔防護する〕救護者と〔成った〕長老のように。

 

§11  いっぽう、過去(過去世)における〔心の〕制止の力ある者たちである、覚者や独覚(縁覚・辟支仏)や至高の弟子(サーリプッタ長老とマハー・モッガッラーナ長老)等々のばあい、たとえ、この、〔前に〕説かれた流儀の修行の次第がなくでも、まさしく、阿羅漢の資質の獲得を所以に、そして、この神通による変異が〔実現し〕、さらに、他の融通無礙〔の智慧〕(無礙解)等の細別ある諸徳が実現する。

 

§12  それゆえに、すなわち、装身具を作ることを欲する金の細工師が、火を吹く等々によって、金を、まさしく、柔和で行為に適するものと為して、〔装身具を〕作るように──さらに、すなわち、容器類を作ることを欲する陶工が、粘土を完全無欠に捏ねられた柔和なものと為して、〔容器類を〕作るように──まさしく、このように、初学の者によって、これらの十四の行相によって心を遍く調御して〔そののち〕、まさしく、そして、欲〔の思い〕(意欲)を頭目(代表)とし、心(専心)を頭目とし、精進を頭目とし、考察を頭目とする、入定することを所以に、さらに、傾注すること等の〔五つの〕自在なる状態を所以に、〔心を〕柔和で行為に適するものと為して、〔種々なる〕神通の種類のために〔心の〕制止が為されるべきである。いっぽう、過去の因を成就した者(過去世において修行を修めた者)であり、行ないに自在なる者でもまたあるなら、諸々の遍満における第四の瞑想のみにおいて、〔心の制止を〕為すのが順当である。

 

§13  また、ここにおいて、すなわち、〔心の〕制止が為されるべきとおりに、その種類を見示しながら、世尊は、「彼は、このように、心が、(1)定められたものとなり、[(2)完全なる清浄のものとなり、(3)完全なる清白のものとなり、(4)穢れなきものとなり、(5)付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、(6)柔和と成ったものとなり、(7)行為に適するものとなり、(8)安立し不動に至り得たものとなるとき、〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります]」(ディーガ・ニカーヤ1p.77-8:§2)という〔言葉〕等を言った。

 

368.

 

 そこで、これが、まさしく、聖典の方法に従い行くことによる、判別の言説となる。

 そこにおいて、「彼は」とは、〔まさに〕その、第四の瞑想に到達した〔心の〕制止者(瞑想修行者)は。「このように」とは、これは、第四の瞑想の次第の実例として。この第一の瞑想への到達等の次第によって第四の瞑想を獲得して、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。(1)「定められたものとなり」とは、この第四の瞑想の禅定によって定められたものとなり。「心が」とは、形態の行境(色界)における心が。

 

§14  また、「完全なる清浄のものとなり」という〔言葉〕等々について。(2)放捨による気づきの完全なる清浄の状態によって、「完全なる清浄のものとなり」。(3)まさしく、完全なる清浄なることから、「完全なる清白のものとなり」。【377】光り輝くものとなり、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。(4)安楽等々の諸縁の殲滅によって、貪欲等が離れ去ったものとなり、穢れなきことから、「穢れなきものとなり」。(5)まさしく、穢れなきことから、「付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり」。なぜなら、穢れによって、その心は汚れることになるからである。(6)善く修められたことから、「柔和と成ったものとなり」。〔傾注すること等の五つの〕自在なる状態に至り得たものとなり、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。なぜなら、〔傾注すること等の五つの〕自在において転起している心は、柔和である、と説かれるからである。(7)そして、まさしく、柔和なることから、「行為に適するものとなり」。行為への忍耐あるものとなり、行為への専念あるものとなり、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

§15  なぜなら、柔和なる心は、善く吹かれた金のように、行為に適するものと成るからである。そして、その〔心〕は、まさしく、善く修められたことから、〔柔和と成ったものと行為に適するものの〕両者でもまたある、と〔知られるべきである〕。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められ、多く為されたなら、そして、柔和と成り、さらに、行為に適するものと〔成る〕ものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です」(アングッタラ・ニカーヤ1p.9)と。

 

§16  (8)これらの完全なる清浄の状態等々において安立したことから、「安立し」。まさしく、安立したことから、「不動に至り得たものとなるとき」。動揺なきものとなり、動くことなきものとなるとき、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。あるいは、柔和にして行為に適する状態によって、自己の自在において安立したことから、「安立し」。信等々によって遍く収め取られたことから、「不動に至り得たものとなるとき」。

 

§17  なぜなら、信によって遍く収め取られた心は、不信によって動揺せず、精進によって遍く収め取られた〔心〕は、怠惰によって動揺せず、気づきによって遍く収め取られた〔心〕は、放逸によって動揺せず、禅定によって遍く収め取られた〔心〕は、〔心の〕高揚(掉挙)によって動揺せず、智慧によって遍く収め取られた〔心〕は、無明によって動揺せず、光輝に至った〔心〕は、〔心の〕汚れ(煩悩)の暗黒によって動揺せず、これらの六つの法(性質)によって遍く収め取られた〔心〕は、不動に至り得たものと成るからである。

 

§18  このように、八つの支分を具備した心は、神知によって実証されるべき諸々の法(性質)にとって、神知の実証のために、導引の忍耐あるものと成る(誘因として機能する)。

 

§19  他の〔説示の〕方法がある。(1)第四の瞑想の禅定によって、「定められたものとなり」。(2)〔五つの修行の〕妨害()から遠き状態によって、「完全なる清浄のものとなり」。(3)思考()等の超越によって、「完全なる清白のものとなり」。(4)瞑想〔の境地〕の獲得を縁とする諸々の悪しき欲求の行境の状態がないことによって、「穢れなきものとなり」。(5)強欲〔の思い〕等々の心に付随する〔心の〕汚れの離去によって、「付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり」。そして、〔穢れなきものと付随する心の汚れが離れ去ったものの〕両者でもまたある、この〔心〕は、『アナンガナ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ1p.24)と『ヴァッタ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ1p.36)〔の説示の方法〕に従い行くことで、知られるべきである。(6)〔傾注すること等の五つの〕自在に至り得ることによって、「柔和と成ったものとなり」。(7)神通の足場(神足)の状態に近しく赴くことによって、「行為に適するものとなり」。(8)修行の円満成就によって精妙の状態に近しく赴くことによって、「安立し不動に至り得たものとなるとき」。すなわち、不動に至り得たものと成るように、このように、〔心が〕安立したとき、という義(意味)である。このようにもまた、八つの支分を具備した心は、【378】神知によって実証されるべき諸々の法(性質)にとって、神知の実証のために、導引の忍耐あるものと成り(誘因として機能する)、〔その〕足場(基礎)と〔成り〕、境処の拠点(直接原因)と成ったものと〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

369.

 

§20  「〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます」とは、ここにおいて、実現(イッジャナ)の義(意味)によって、「神通(イッディ)」。完遂の義(意味)によって、さらに、獲得の義(意味)によって、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。なぜなら、それが、完遂され、さらに、獲得されるなら、それは、実現する、と説かれるからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「欲望〔の対象〕を欲しているとして、もし、彼の、その〔欲望〕が等しく実現するなら(望みが適うなら)」(スッタニパータ766)と。そのように、「離欲が実現する(イッジャティ)、ということで、神通(イッディ)となり、[欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を]変形させる(パティハラティ)、ということで、神変(パーティハーリヤ)となる。……略……。阿羅漢道が実現する(※)、ということで、神通となり、[〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを]変形させる、ということで、神変となる」(パティサンビダー・マッガ2p.228-9)と。

 

※ テキストには icchatī とあるが、VRI版により ijjhatī と読む。

 

§21  他の〔説示の〕方法がある。実現(イッジャナ)の義(意味)によって(※)、「神通(イッディ)」。これは、手段(方便)の成就の同義語である。なぜなら、志向するところの果を生むことから、手段の成就は実現するからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「まさに、このチッタ家長は、戒ある者であり、善き法(性質)ある者です。それで、もし、『未来の時に、転輪王として存するのだ』と誓願するなら、まさに、戒ある者である彼の、この心の誓願は、清浄なることから、実現するでしょう」(サンユッタ・ニカーヤ4p.303)と。

 

※ テキストには ijjhanaṭṭhe とあるが、VRI版により ijjhanaṭṭhena と読む。

 

§22  他の〔説示の〕方法がある。これによって、有情たちが実現する(イッジャティ)、ということで、「神通(イッディ)」。「実現する(成功する)」とは、実現した者たちと〔成り〕、増大した者たちと〔成り〕、高尚に至った者たちと成る、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 それ(神通)は、十種類のものとなる。すなわち、〔聖典に〕言うように、「『どれだけの、神通があるのか(※)』とは、十の神通がある」(パティサンビダー・マッガ2p.205)〔と〕。さらに、また、他にも言った。「どのようなものが、十の神通であるのか。(1)確立の神通、(2)変異の神通、(3)意によって作られる神通、(4)知恵の充満の神通、(5)禅定の充満の神通、(6)聖者の神通、(7)行為の報い(業報)から生じる神通、(8)功徳者の神通、(9)明呪(呪文)によって作られる神通、(10)その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる」(パティサンビダー・マッガ2p.205)と。

 

※ テキストには iddhiyo とあるが、VRI版により kati iddhiyo と読む。

 

370.

 

§23  (1)そこにおいて、「〔生来の〕性向によっては一なる者が、多なるものに──あるいは、百〔の身体〕に、あるいは、千〔の身体〕に、あるいは、百千〔の身体〕に──〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。『〔わたしは〕多なる者と成るのだ』」(パティサンビダー・マッガ2p.207:一部異なる箇所あり)と、このように区分して見示された神通が、〔心の〕確立(加持)を所以に完遂されたことから、「確立の神通」ということになる。

 

371.

 

§24  (2)「彼は、〔生来の〕性向の姿を捨棄して、あるいは、少年の姿を見示し、あるいは、龍の姿を……略……様々な種類の軍勢をもまた見示する」(パティサンビダー・マッガ2p.210)と、このように言及された神通が、〔生来の〕性向の姿を捨棄する変異を所以に転起されたことから、「変異の神通」ということになる。

 

372.

 

§25  【379】(3)「ここに、比丘が、この身体から、他の身体を化作する──意によって作られる、形態あるものとして、[意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして]」(パティサンビダー・マッガ2p.210)という、この方法によって言及された神通が、肉体の内部において、まさしく、他の、意によって作られる肉体の、完遂を所以に転起されたことから、「意によって作られる神通」ということになる。

 

373.

 

§26  (4)また、知恵の生起より、あるいは、前に、あるいは、後に、あるいは、その瞬間において、知恵の威力によって発現した殊勝なるものが、「知恵の充満の神通」ということになる。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「無常の随観によって、常住の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、知恵の充満の神通となる。……略……。阿羅漢道によって、一切の〔心の〕汚れの、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、知恵の充満の神通となる。尊者バックラの、知恵の充満の神通である。尊者サンキッチャの、知恵の充満の神通である。尊者ブータパーラの、知恵の充満の神通である」(パティサンビダー・マッガ2p.211)と。

 

§27  そこにおいて、まさしく、年少の尊者バックラは、吉日に川で沐浴されつつ、乳母の怠りで流れに落とされた。〔まさに〕その、この〔バックラ〕を、魚が飲み込んで、バーラーナシー(波羅奈:地名)の渡し場へと赴いた。そこで、その〔魚〕を、魚捕りが捕捉して、長者の妻に売った。彼女は、魚にたいし愛執〔の思い〕を起こして、「まさしく、わたしが、その〔魚〕を煮るのだ」と、〔魚を〕切り裂きつつ、魚の腹のなかに、黄金像のような幼児を見て、「子が、わたしによって得られた」と、悦意を生じた者と成った。かくのごとく、魚の腹のなかにおける無病の状態は、最後の生存の者(現在の生を最後の生とする者)たる尊者バックラの、その自己状態によって獲得されるべき阿羅漢道の知恵の威力によって発現したことから、「知恵の充満の神通」ということになる。また、〔この〕事例が、詳細〔の観点〕によって言説されるべきである。

 

§28  また、サンキッチャ長老が、まさしく、〔母の〕胎に在るとき、〔彼の〕母が、命を終えた。荼毘の薪山に載せて、諸々の串で貫いて、彼女(母)を燃やしていると、幼児が、串の端によって眼の峰に打撃を得て、声を為した。そののち、〔人々は〕「幼児が生きている」と、〔死体を〕下ろして、腹を切り裂いて、〔助けた〕幼児を祖母に与えた。彼は、彼女によって看護され、年長に達して出家して、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕と共に阿羅漢の資質に至り得た。かくのごとく、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、荼毘の薪山の木片のうえにおける無病の状態は、尊者サンキッチャの、「知恵の充満の神通」ということになる。

 

§29  また、ブータパーラ幼児の父は、ラージャガハ(王舎城:地名)の貧しき人間として〔世に有った〕。【380】彼が、諸々の木片を義(目的)として、荷車で森に赴いて、木片の荷を作って、夕方に城市の門の近くに至り得たところ、そこで、彼の牛たちは、軛を投げ捨てて、城市に入ってしまった。彼は、荷車の根元に子を坐らせて、牛たちの足跡を赴きつつ、まさしく、城市に入った。彼が、まさしく、〔城市から〕出ずにあるのに、門が締められた。幼児の、猛獣や夜叉が歩み行く城市の外にあるもまた、夜の三つの時期(初夜・中夜・後夜)のあいだ、無病の状態は、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、「知恵の充満の神通」ということになる。また、〔この〕事例が、〔詳細の観点によって〕詳知されるべきである。

 

374.

 

§30  (5)禅定より、あるいは、前に、あるいは、後に、あるいは、その瞬間において、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の威力によって発現した殊勝なるものが、「禅定の充満の神通」ということになる。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害()の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、禅定の充満の神通となる。……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、禅定の充満の神通となる。尊者サーリプッタの、禅定の充満の神通である。尊者サンジーヴァの、尊者カーヌ・コンダンニャの、ウッタラー女性在俗信者(優婆夷)の、サーマーヴァティー女性在俗信者の、禅定の充満の神通である」(パティサンビダー・マッガ2p.211-2)と。

 

§31  そこにおいて、すなわち、尊者サーリプッタが、マハー・モッガッラーナ長老と共に、カポータカンダラー(地名)に住んでいると、月明かりの夜、諸々の髪を新しく剃り下ろし、野外において坐っている〔尊者〕の頭に、一者の〔心が〕汚れた夜叉が、仲間の夜叉が止めているにもかかわらず、打撃を与えたとき、その〔打撃〕の音声は、〔雷〕雲が鳴り響いたかのようなものと成ったが、そのとき、長老は、彼への打撃の時点において、入定に至り得ていたので、そこで、彼には、その打撃による病苦は、何であれ、有ることなくあった。これが、その尊者の、禅定の充満の神通である。また、〔この〕事例が、まさしく、『ウダーナ(自説経)』(ウダーナp.39)において言及された。

 

§32  また、サンジーヴァ長老が止滅〔の入定〕に入定したのを、牛飼い等々が「命を終えたのだ」と察して(死んだと勘違いして)、諸々の草や薪や牛糞を寄せ集めて火を着けたが、長老の衣料の糸ほどさえも燃やさなかった。これが、彼の、順次の入定(次第定)を所以に転起された〔心の〕止寂の威力によって発現したことから、禅定の充満の神通である。そして、〔この〕事例が、まさしく、経典(マッジマ・ニカーヤ1p.333)において言及された。

 

§33  また、カーヌ・コンダンニャ長老は、まさしく、〔生来の〕性向によって、入定〔の境地〕多き者である。彼は、或るどこかの林で、夜のあいだ、入定〔の境地〕に専注して【381】坐っていた。五百の盗賊たちが、物品を盗んで去り行きつつ、「今や、俺たちの来た道をやってくる者たちは存在しない」と、休息することを欲し、物品を下ろしながら、「これは木株だ」と思いつつ、まさしく、長老の上に一切の物品を置いた。彼らが、休息して去り行きつつ、最初に置いた物品を収め取る〔その〕時に、長老は、時の限定を所以に出起した(終了時間がきて出起した)。彼らは、長老の動作を見て、恐怖し、叫んだ。長老は、「在俗信者(優婆塞)たちよ、恐れてはならない。わたしは、比丘である」と言った。彼らはやってきて、〔長老を〕敬拝して、長老に至った浄信によって出家して、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕と共に阿羅漢の資質に至り得た。五百の物品が覆い被さった長老の、病苦なき状態が、ここにおいて、これが、禅定の充満の神通となる。

 

§34  ウッタラー女性在俗信者は、プンナカ長者の娘である。彼女の頭に、嫉妬〔の思い〕に支配されたシリマーという名の遊女が、熱せられた油の瓶をぶちまけた。ウッタラーは、まさしく、その瞬間に、慈愛〔の瞑想〕に入定した。油は、蓮の葉から水滴が〔落ちる〕ように、〔肌を〕転がりながら赴いた。これが、彼女の、禅定の充満の神通である。また、〔この〕事例が、〔詳細の観点によって〕詳知されるべきである。

 

§35  サーマーヴァティーという名の者は、ウデーナ王の第一王妃である。マーガンディヤ婆羅門が、自己の娘に第一王妃の地位を望みつつ、彼女(サーマーヴァティー)の琵琶に毒蛇を入れて、王に言った。「大王よ、サーマーヴァティーは、あなたを殺すことを欲する者です。琵琶に毒蛇を収めて持ち運んでいます」と。王は、その〔毒蛇〕を見て、怒りの者となり、「サーマーヴァティーを打ち殺すのだ」と、弓を取り上げて、毒を浸した尖り矢を装着した。サーマーヴァティーは、取り巻きの者と共に、慈愛〔の思い〕で王を充満した。王は、矢を、まさしく、放つことも〔でき〕ず、下ろすこともできずに、震えわななきながら立っていた。そののち、彼に、妃は言った。「大王よ、どうでしょう、疲れていますか」と。「そのとおり、〔わたしは〕疲れている」と。「まさに、それでは、弓を下ろしてください」と。矢は、王の、まさしく、足元に落ちた。そののち、彼に、妃は言った。「大王よ、汚れなき者に、汚されるべきものはありません」と、〔彼を〕教え諭した。かくのごとく、王の、矢を解き放つことができない状態が、サーマーヴァティー女性在俗信者の、禅定の充満の神通である、と〔知られるべきである〕。

 

375.

 

§36  (6)また、嫌悪なるもの等々について、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むこと等のものが、「聖者の神通」ということになる。すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのようなものが、聖者の神通であるのか。ここに、比丘が、それで、もし、『嫌悪なるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住む。……略……そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、【382】気づきと正知の者として〔世に住む〕」(パティサンビダー・マッガ2p.212)と。まさに、これが、心の自在に至り得た聖者たちだけに発生あることから、「聖者の神通」と説かれる。

 

§37  まさに、この〔神通〕を具備した、煩悩が滅尽した比丘は、嫌悪なるものである好ましくない事物にたいし、あるいは、慈愛〔の心〕の充満を〔為しつつ〕、あるいは、〔四つの〕界域に意を為すことを為しつつ、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住む。嫌悪ならざるものである好ましい事物にたいし、あるいは、浄美ならざる〔表象〕の充満を〔為しつつ〕、あるいは、「無常である」と意を為すことを為しつつ、嫌悪なる表象ある者として〔世に〕住む。そのように、種々の嫌悪なるものにたいし、まさしく、その、あるいは、慈愛〔の心〕の充満を〔為しつつ〕、あるいは、〔四つの〕界域に意を為すことを為しつつ、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住む。さらに、種々の嫌悪ならざるものにたいし、まさしく、その、あるいは、浄美ならざる〔表象〕の充満を〔為しつつ〕、あるいは、「無常である」と意を為すことを為しつつ、嫌悪なる表象ある者として〔世に〕住む。また、「眼によって形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、[失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕]」(アングッタラ・ニカーヤ2p.198)という〔言葉〕等の方法によって説かれた、六つの支分ある放捨〔の心〕を転起させつつ、そして、嫌悪なるものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。

 

§38  まさに、『パティサンビダー(無礙解道)』において、「どのように、嫌悪なるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのか。好ましくない事物にたいし、あるいは、慈愛〔の心〕で充満し、あるいは、〔四つの〕界域〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する」(パティサンビダー・マッガ2p.212)という〔言葉〕等の方法によって、まさしく、この義(意味)が区分された。これが、心の自在に至り得た聖者たちだけに発生あることから、「聖者の神通」と説かれる。

 

376.

 

§39  (7)また、鳥等々の、宙を赴くこと等のものが、「行為の報い(業報)から生じる神通」ということになる。すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのようなものが、行為の報いから生じる神通であるのか。一切の翼あるものたち(鳥類)の、一切の天〔の神々〕たちの、一部の人間たちの、一部の堕所にある者たちの、〔その神通である〕。これが、行為の報いから生じる神通である」(パティサンビダー・マッガ2p.213)と。まさに、ここにおいて、一切の鳥たちには、あるいは、瞑想〔の境地〕であれ、あるいは、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)であれ、まさしく、〔両者〕なくして、虚空を赴くことがある。そのように、一切の天〔の神々〕たちには、さらに、第一カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)の者(第一劫に生を受けた者)たる一部の人間たちにも、〔虚空を赴くことがある〕。そのように、ピヤンカラマーター女夜叉があり、ウッタラマーター〔女夜叉〕があり、プッサミッター〔女夜叉〕があり、ダンマグッター〔女夜叉〕がある。ということで、このような等々の者の、一部の堕所にある者たちの、虚空を赴くことが、「行為の報いから生じる神通」と〔説かれる〕。

 

377.

 

§40  (8)また、転輪〔王〕等々の、宙を赴くこと等のものが、「功徳者の神通」ということになる。すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのようなものが、功徳者の神通であるのか。転輪王が、四つの支分ある軍団と共に、もしくは、馬丁や牛卒たちを加え含めて、宙を赴く。ジョーティカ家長の、功徳者の神通である。ジャティラカ家長の、【383】功徳者の神通である。ゴーシタ家長の、功徳者の神通である。メンダカ家長の、功徳者の神通である。五者の大いなる功徳ある者たちの、功徳者の神通である」(パティサンビダー・マッガ2p.213)と。また、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、功徳の資糧(素因)が円熟に至ったときに実現する殊勝なるものが、功徳者の神通となる。

 

§41  そして、ここにおいて、ジョーティカ家長のばあい、地を破断して、宝珠の高楼が出起し、さらに、六十四のカッパ樹が〔出起した〕、ということで、これが、彼の、功徳者の神通となる。

 ジャティラカ〔家長〕のばあい、八十ハッタ(長さの単位・一ハッタは約五十センチ)の黄金の山が発現した。

 ゴーシタ〔家長〕のばあい、七箇所において、殺害を義(目的)として行動が為されたにもかかわらず無病の状態が、功徳者の神通となる。

 メンダカ〔家長〕のばあい、一つ耕したのみの場所における、七宝で作られている羊たちの出現が、功徳者の神通となる。

 

§42  「五者の大いなる功徳ある者たち」というのは、メンダカ長者、彼の妻のチャンダパドゥマシリー、子のダナンチャヤ長者、嫁のスマナデーヴィー、奴隷のプンナ、ということになる、と〔知られるべきである〕。彼らのうち、長者のばあい、頭を洗い、虚空を見上げる時に、虚空から〔降って来た〕赤米で一万二千五百の蔵が満たされ、妻のばあい、ただの〔一〕ナーリ(容積の単位・一ナーリは一枡の量)ほどの飯を収め取って、ジャンブ・ディーパ(インド本島)全体の住者たちに給仕しつつも、食は尽きず、子のばあい、千袋〔の金〕を収め取って、ジャンブ・ディーパ全体の住者たちに与えつつもなお、貨幣は尽きず、嫁のばあい、一トゥンバ(容積の単位・一トゥンバは一桶の量)の稲を収め取って、ジャンブ・ディーパ全体の住者たちに分けつつもなお、穀物は尽きず、奴隷のばあい、一鋤で耕しつつも、ここから〔左に〕七つ、ここから〔右に〕七つ、ということで、十四の道と成る(十四の畝ができてしまう)。これが、彼らの、功徳者の神通となる。

 

378.

 

§43  (9)また、明呪の保持者(呪術師)等々の、宙を赴くこと等のものが、「明呪によって作られる神通」〔ということになる〕。すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのようなものが、明呪(呪文)によって作られる神通であるのか。明呪の保持者たちが、明呪を呟いて宙を赴き、虚空において、空中において、象〔兵〕をもまた見示し……略……様々な種類の軍勢をもまた見示する」(パティサンビダー・マッガ2p.213)と。

 

379.

 

§44  (10)また、それぞれの正しい専念によって、それぞれの行為が実現することが、「その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる」〔ということになる〕。すなわち、〔聖典に〕言うように、「離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる」(パティサンビダー・マッガ2p.213)と。そして、ここにおいて、まさしく、「実践」と名づけられた、正しい専念〔のあり方〕の、【384】提示を所以に、まさしく、前の〔知恵の充満の神通において言及された〕聖典〔の言葉〕(§26)と相同の聖典〔の言葉〕が、〔ここにおいて〕言及された。また、アッタカター(注釈書)においては、車形陣等を為すことを所以に、それが何であれ、技術の行為を、それが何であれ、医師の行為を、三ヴェーダを収め取ること、三ピタカ(三蔵:経蔵・律蔵・論蔵の三聖典)を収め取ること、もしくは、耕すことや〔種を〕蒔くこと等々を加え含めて、それぞれの行為を為して発現する殊勝なるものとして、「その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる」と言及された。

 

§45  かくのごとく、これらの十の神通について、「〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために」(§13)という、この句においては、(一)確立の神通だけが言及されたが、いっぽう、この〔神通の本来の〕義(意味)においては、(二)変異〔の神通〕と(三)意によって作られる神通もまた、まさしく、求められるべきである。

 

380.

 

 [(一)確立の神通]

 

§46  「〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために」(§13)とは、〔種々なる〕神通の部位〔の獲得〕のために、あるいは、〔種々なる〕神通の分別〔の獲得〕のために。「心を導引し、向かわせます」とは、その比丘は、〔前に〕説かれた流儀を所以に、その心に神知の足場〔たる瞑想〕が生じたとき、〔種々なる〕神通の種類への到達を義(目的)として、事前作業〔としての瞑想〕の心を導引し、遍満の対象から取り去って、〔種々なる〕神通の種類の門へと送る。「向かわせます」とは、到達されるべき神通に傾倒を〔為し〕、〔到達されるべき〕神通に傾斜を為す。

 

§47  「彼は」とは、〔まさに〕その、このように心の導引を為した比丘は。「無数〔の流儀〕に関した」とは、無数の種類の、種々なる流儀の。「〔種々なる〕神通の種類を」とは、〔種々なる〕神通の部位を。「経験します」とは、経験する、体得する、実証する、至り得る、という義(意味)である。

 

§48  今や、その〔神通〕の、無数〔の流儀〕に関した状態を見示しながら、「一なる者としてもまた有って、[多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます]」(ディーガ・ニカーヤ1p.78)という〔言葉〕等を言った。

 そこにおいて、「一なる者としてもまた有って」とは、神通を為すより、まさしく、前においては、〔生来の〕性向によって、一なる者としてもまた有って。「多種なる者と成ります」とは、多くの者たちの現前において、あるいは、歩行〔瞑想〕をすることを欲する者と〔成って〕、あるいは、読誦を為すことを欲する者と〔成って〕、あるいは、問いを尋ねることを欲する者と成って、百にもまた〔成り〕、千にもまた成る。「また、どのように、この者は、このように(※)成るのか」〔と問うなら〕、「神通にとっての、(1)四つの境地、(2)四つの足場、(3)八つの境処、(4)十六の根元を成就させて、(5)知恵によって〔心を〕確立しつつ」〔と答える〕。

 

※ テキストには eta とあるが、VRI版により eva と読む。

 

381.

 

§49  (1)そこにおいて、「四つの境地」とは、四つの瞑想〔の境地〕と知られるべきである。まさに、このことが、法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)によって説かれた。「神通には、どのような四つの境地があるのか。遠離から生じる境地たる第一の瞑想、喜悦と安楽の境地たる第二の瞑想、放捨と安楽の境地たる第三の瞑想、苦でもなく楽でもない境地たる第四の瞑想である。神通には、これらの四つの境地がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異性のために〔等しく転起し〕、神通の発出性のために〔等しく転起し〕、神通の自在なる状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する」(パティサンビダー・マッガ2p.205)と。そして、ここにおいて、前の三つの瞑想〔の境地〕は、すなわち、そして、喜悦の充満によって、さらに、安楽の充満によって、そして、安楽の表象に、さらに、軽快の表象に、入って〔そののち〕、軽快かつ柔和にして行為に適する身体と成って神通に至り得ることから、【385】それゆえに、この様態によって、神通を得るために等しく転起することから、〔前の三つの瞑想の境地は〕資糧の境地である、と知られるべきである。いっぽう、第四の瞑想〔の境地〕は、神通を得るための、まさしく、〔生来の〕性向の境地である。

 

382.

 

§50  (2)「四つの足場」とは、四つの神通の足場(四神足)と知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「神通には、どのような四つの足場があるのか。ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。神通には、これらの四つの足場がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異性のために〔等しく転起し〕、神通の発出性のために〔等しく転起し〕、神通の自在なる状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する」(パティサンビダー・マッガ2p.205)と。

 

§51  そして、ここにおいて、欲〔の思い〕(意欲)の因ある〔禅定〕が、あるいは、欲〔の思い〕の増上ある禅定が、「欲〔の思い〕の禅定」。これは、為すことを欲することとしての欲〔の思い〕を優位(主因)と為して獲得された禅定の同義語である。〔正しい〕精励と成った諸々の形成〔作用〕が、「精励の形成〔作用〕」。これは、四つの作用を遂行する正しい精励と精進の同義語である。「具備した」とは、そして、欲〔の思い〕の禅定を、さらに、精励の形成〔作用〕を、〔両者ともに〕具した。

 

§52  「神通の足場を」とは、あるいは、完遂の様態たる、実現の義(意味)によって実現する(§20)──あるいは、これによって、有情たちは、実現した者たちと〔成り〕、増大した者たちと〔成り〕、高尚に至った者たちと成る(§22)──という、この様態によって、「神通」という名称に至り、神知の心と結び付いた、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕にとって、確立の義(意味)によって、〔その〕足場と成った、〔欲の思いの禅定と精励の形成作用を除く〕残りの心と心の属性(心心所:心と心に現起する作用・感情)の集まりを、という義(意味)である。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「『神通の足場』とは、そのように〔欲の思いの禅定と精励の形成作用を具備したものと〕成った、感受〔作用〕の範疇(受蘊)であり……略……識知〔作用〕の範疇(識蘊)である」(ヴィバンガp.217)と。

 

§53  そこで、あるいは、それによって至り着く(パッジャテー)、ということで、「足場(パーダ)」。至り得られる、という義(意味)である。神通にとっての足場が、「神通の足場」。これは、欲〔の思い〕等々の同義語である。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、もし、比丘が、欲〔の思い〕に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、これは、『欲〔の思い〕の禅定』〔と〕説かれます。彼は、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。これらは、『諸々の精励の形成〔作用〕』〔と〕説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、そして、この欲〔の思い〕は、かつまた、この欲〔の思い〕の禅定は、さらに、これらの精励の形成〔作用〕は、比丘たちよ、これは、『欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場』〔と〕説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.268)と。このように、残り〔の三つ〕(心・精進・考察)の神通の足場についてもまた、義(意味)が知られるべきである。

 

383.

 

§54  (3)「八つの境処」とは、欲〔の思い〕等々の八つが知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「神通には、どのような八つの境処があるのか。もし、比丘が、欲〔の思い〕に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、欲〔の思い〕は、禅定ではなく、禅定は、欲〔の思い〕ではない。他なるものとして、【386】欲〔の思い〕があり、他なるものとして、禅定がある(両者は別個のものである)。もし、比丘が、精進に……略……。もし、比丘が、心に……略……。もし、比丘が、考察に依拠して、禅定を得、〔彼は〕心の一境性を得るなら、考察は、禅定ではなく、禅定は、考察ではない。他なるものとして、考察があり、他なるものとして、禅定がある。神通には、これらの八つの境処がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕……略……神通の離怖のために等しく転起する」(パティサンビダー・マッガ2p.205-6)と。まさに、ここにおいて、神通を生起させることを欲することとしての欲〔の思い〕は、まさしく、禅定と一つに結び付けられたものとして、神通を得るために等しく転起する。そのように、精進等々がある(同様である)。それゆえに、これらの八つの境処が説かれた、と知られるべきである。

 

384.

 

§55  (4)「十六の根元」とは、十六の行相による心の不動なることと知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「神通には、どのような十六の根元があるのか。下向することなき心は、怠惰にたいし動揺しない、ということで、不動となる。上向することなき心は、〔心の〕高揚にたいし動揺しない、ということで、不動となる。曲がることなき心は、貪欲〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。傾くことなき心は、憎悪〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。依存なき心は、見解にたいし動揺しない、ということで、不動となる。結縛なき心は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。解脱した心は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。束縛を離れた心は、〔心の〕汚れにたいし動揺しない、ということで、不動となる。制約を離れることを為した心は、〔心の〕汚れの制約にたいし動揺しない、ということで、不動となる。一なることに至った心は、種々なることたる〔心の〕汚れにたいし動揺しない、ということで、不動となる。信によって遍く収め取られた心は、不信にたいし動揺しない、ということで、不動となる。精進によって遍く収め取られた心は、怠惰にたいし動揺しない、ということで、不動となる。気づきによって遍く収め取られた心は、放逸にたいし動揺しない、ということで、不動となる。禅定によって遍く収め取られた心は、〔心の〕高揚にたいし動揺しない、ということで、不動となる。智慧によって遍く収め取られた心は、無明にたいし動揺しない、ということで、不動となる。光輝に至った心は、無明の暗黒にたいし動揺しない、ということで、不動となる。神通には、これらの十六の根元がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕……略……神通の離怖のために等しく転起する」(パティサンビダー・マッガ2p.206)と。

 

§56  さらに、もちろん、この〔不動の〕義(意味)は、「このように、心が、定められたものとなり」(§13)という〔言葉〕等によってもまた、まさしく、成就されたものとしてあるが(§17)、いっぽう、第一の瞑想等々(前の三つの瞑想)が、神通にとっての、境地と足場と境処と根元たる状態を見示することを義(目的)に、ふたたび、〔ここにおいて〕説かれた。そして、前のものは、諸経において言及された〔説示の〕方法であり、これは、『パティサンビダー(無礙解道)』において〔言及された説示の方法である〕。ということで、両所において迷妄なきことを義(目的)に、また、ふたたび、〔ここにおいて〕説かれた(混同することがないように再説された)。

 

385.

 

§57  (5)「知恵によって〔心を〕確立しつつ」とは、〔まさに〕その、この〔比丘〕は、神通にとっての、境地と足場と境処と根元として有る、これらの【387】諸法(性質)を成就させて(第一の瞑想等々の前の三つの瞑想を成就させて)、神知の足場たる〔第四の〕瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、それで、もし、百〔の身体〕を求めるなら、「〔わたしは〕百〔の身体〕と成るのだ。〔わたしは〕百〔の身体〕と成るのだ」と、事前作業〔としての瞑想〕(予備的瞑想としての前の三つの瞑想)を為して、ふたたび、神知の足場たる〔第四の〕瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、〔心を〕確立する。まさしく、確立の心と共に、〔彼は〕百〔の身体〕と成る。千〔の身体〕等々についてもまた、まさしく、これが、〔共通する〕方法となる。

 それで、もし、このように〔修めつつも〕、〔神通が〕実現しないなら、ふたたび、事前作業〔としての瞑想〕を為して、再度また、入定して〔そののち、入定から〕出起して、〔心が〕確立されるべきである。なぜなら、『サンユッタ〔ニカーヤ〕(相応部経典)』のアッタカター(注釈書)において、「一回、二回と、入定するのが順当である」と説かれたからである。

 

§58  そこにおいて、〔神知の〕足場たる〔第四の〕瞑想の心は、〔相似の〕形相を対象とし、事前作業〔としての前の三つの瞑想〕の心は、あるいは、百〔の身体〕を対象とし、あるいは、千〔の身体〕を対象とする。そして、それら〔の前の三つの瞑想の心〕は、まさに、具象を所以にするものであり、通称(施設:概念)を所以にするものではない。確立の心もまた、まさしく、そのように、あるいは、百〔の身体〕を対象とし、あるいは、千〔の身体〕を対象とするが、〔いっぽう、通称を所以にするものであり、具象を所以にするものではない〕。それ(確立の心)は、前に説かれた専注する心のように(Ch.4§78)、〔新たな〕種姓と成るもの〔としての心〕の直後に、〔ただ〕一つ〔の心の瞬間〕だけのもの(一刹那のみのもの)として生起し、形態の行境(色界)のものにして第四の瞑想に属するものとなる。

 

386.

 

§59  まさに、すなわち、また、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた、「〔生来の〕性向によっては一なる者が、多なるものに──あるいは、百〔の身体〕に、あるいは、千〔の身体〕に、あるいは、百千〔の身体〕に──〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。『〔わたしは〕多なる者と成るのだ』と。〔彼は〕多なるものと成る。たとえば、尊者チューラ・パンタカのように」(パティサンビダー・マッガ2p.207:一部異なる箇所あり)とは、そこでもまた、「〔心を〕傾注する」とは、まさしく、事前作業〔としての瞑想〕を所以に説かれた。「〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する」とは、神知の知恵を所以に説かれた。それゆえに、〔事前作業としての瞑想を為して〕多なるものに〔心を〕傾注し、そののち、また、それらの事前作業〔としての前の三つの瞑想〕の諸心の最後に入定し、入定から出起して、ふたたび、「〔わたしは〕多なる者と成るのだ」と〔心を〕傾注して、そののち、〔その〕後に転起された、三つ、あるいは、四つの、前段部分の諸心の、〔その〕直後に生起した〔神知の知恵〕によって──〔心を〕確定させることを所以に「確立」という名を得たものであり、〔ただ〕一つ〔の心の瞬間〕だけのものである、神知の知恵によって──〔心を〕確立する。ということで、ここにおいて、このように、義(意味)が見られるべきである。また、すなわち、〔前に〕説かれた、「たとえば、尊者チューラ・パンタカのように」とは、それは、多種なる状態の身体の実証として見示することを義(目的)に説かれた。また、それは、事例によって明らかにされるべきである。

 

§60  伝えるところでは、それらの二者の兄弟は、道のうえで生まれたことから、「パンタカ(道の者)」という名を得た。彼らのうち、長〔兄〕が、マハー・パンタカにして、彼は、出家して、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕と共に阿羅漢の資質に至り得た。阿羅漢と成って、〔弟の〕チューラ・パンタカを出家させて──

 

 【388】〔そこで、詩偈に言う〕「蓮華が、あたかも、善き香りの赤蓮が、早朝に咲き誇り、香りが離れずに存しているようなもの。見よ──光り輝いているアンギーラサ(放光者・ブッダの尊称の一つ)を、空中にある太陽のように輝いている方を」(サンユッタ・ニカーヤ1p.81,アングッタラ・ニカーヤ3p.239)と──

 

 この詩偈を与えた。彼(チューラ・パンタカ)は、その〔詩偈〕を、四月をもってしても、熟練するところと為すことができなかった(覚えられなかった)。そこで、彼に、長老(マハー・パンタカ)は、「おまえは、教えにおいて可能なき者だ」と〔告げて〕、精舎から追い出した。

 

§61  そして、その時、長老は、食の指定者(割り振り役)として有る。ジーヴァカ(人名)が、長老のところに近づいて行って、「尊き方よ、明日、世尊と共に、五百の比丘たちを収め取って、わたしどもの家において、行乞〔の食〕を収め取ってください」と言った。長老もまた、「チューラ・パンタカを除いて、残りの者たちについては承諾します」と承諾した。チューラ・パンタカは、門小屋のところに立って泣き叫ぶ。世尊は、天眼によって〔それを〕見て、〔彼のところに〕近づいて行って、「何ゆえに、〔あなたは〕泣き叫ぶのですか」と言った。彼は、その消息を告げ知らせた。

 

§62  世尊は、「読誦を為すことができずにいる者は、わたしの教えにおいて可能なき者である、ということは有りません。比丘よ、憂い悲しんではいけません」と、彼の腕を掴んで精舎に入って、神通によって布切れの小片を化作して、〔彼に〕与えた。「比丘よ、さあ、これを擦りながら、『塵を取り払う』『塵を取り払う』と、繰り返し読誦を為しなさい(※)」と。彼が、そのとおり為していると、その〔布切れ〕は黒色と成った。彼は、「衣(布切れ)は、完全なる清浄のもの、ここにおいて、汚点は存在しない。いっぽう、自己状態には、この汚点がある」と、表象を獲得して、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)にたいし知恵を下ろして、〔あるがままの〕観察を増大させて、随順する〔知恵〕(Ch.21§129)から、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕(Ch.22§1)の近くへと、至り得させた。

 

※ テキストには karotī とあるが、VRI版により karohī と読む。

 

§63  そこで、世尊は、彼に、光輝の詩偈を語った。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲()は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、貪欲の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕の教えにおいて住む。

 憤怒()は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、憤怒の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕の教えにおいて住む。

 迷妄()は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、迷妄の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕の教えにおいて住む」(マハー・ニッデーサp.505)と。

 

 【389】彼には、詩偈の結末において、四つの融通無礙〔の智慧〕と六つの神知を付属品とする〔預流道と預流果と一来道と一来果と不還道と不還果と阿羅漢道と阿羅漢果と涅槃の〕九つの世〔俗〕を超える法(性質)が、まさしく、手に在るものと成った(獲得され自在のものとなった)。

 

§64  教師(ブッダ)は、次の日、ジーヴァカの家に、比丘の僧団と共に赴いた。そこで、〔食前の〕施水が最後となり、粥が施されつつあるとき、〔世尊は、手で〕鉢を塞いだ。ジーヴァカは、「尊き方よ、どうしてですか」と尋ねた。「精舎に、一者の比丘が存します」と。彼(ジーヴァカ)は、下僕を〔精舎に〕送る。「赴くのだ。尊貴なる方を収め取って、急ぎ、来たれ」と。

 

§65  また、世尊が〔その朝〕精舎から出つつあるとき、〔この詩偈が語られた〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「パンタカは、千回、自己〔の姿〕を化作して(千体の化身を造作して)、喜ばしきアンバ〔樹〕の林に坐った──〔供養の〕時の知らせがある、それまでのあいだ」(テーラ・ガーター563)と。

 

§66  そこで、その下僕は〔精舎に〕赴いて、諸々の袈裟で一〔面〕の光となっている林園を見て、〔家に〕帰って、「尊き方よ、林園は、比丘たちで満ちています。わたしは、どなたがその尊貴なる方であるか、知りません」と言った。そののち、世尊は、彼に言った。「赴きなさい。〔あなたが〕最初に見る、その者です。その者を、衣料の端を掴んで、『教師が、あなたを呼んでいます』と説いて、連れてきなさい」と。彼は、その〔林園〕に赴いて、まさしく、長老(チューラ・パンタカ)の衣料の端を掴んだ。まさしく、ただちに、一切の化作された〔比丘たち〕が消没した。長老は、「赴きなさい、あなたは」と、彼を送り出して、洗顔等の肉体についての為すべきことを終了させて、〔使者よりも〕より最初に〔家に〕赴いて、至り得た坐に坐った。この〔事例〕に関して、「たとえば、尊者チューラ・パンタカのように」と説かれた(§59)。

 

§67  そこで、すなわち、それらの多くの化作された〔比丘たち〕は、彼らは、〔色艶や年代を〕決定せずして化作されたことから、神通者と、まさしく、相同の者たちとして有る。あるいは、立つことや坐ること等々について、あるいは、語りや沈黙の状態等々について、その〔行為〕その〔行為〕を、神通者が為すなら、まさしく、その〔行為〕その〔行為〕を、〔それらの化作された比丘たちもまた〕為す。また、それで、もし、〔神通者が〕種々なる姿ある者たちを欲する者として有るなら──或る者たちを、最初の年代(青年)の者たちに、或る者たちを、中間の年代(中年)の者たちに、或る者たちを、最後の年代(老年)の者たちに、そのように、長髪の者たちに、半分が剃髪の者たちに、剃髪の者たちに、〔黒髪と白髪の〕混合ある髪の者たちに、半分が赤の衣料の者たちに、薄赤の衣料の者たちに、句の朗読や法(教え)の言説や声唱や問いを尋ねることや問いに答えることや〔衣料の〕染色煮沸や衣料の縫合洗浄等々を為している者たちに、あるいは、他のまた種々なる流儀の者たちに、〔それぞれに〕作り為すことを欲する者と成るなら──彼によって、足場たる瞑想から出起して、「これだけの比丘たちが、最初の年代(青年)の者たちと成れ」という〔言葉〕等の方法によって、事前作業〔としての瞑想〕を為して、ふたたび入定して〔そののち、入定から〕出起して、〔心が〕確立されるべきである。確立された心と共に、まさしく、それぞれに求められた流儀の者たちと成る、と〔知られるべきである〕。

 

§68  これが、「多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります」という〔言葉〕等々について、〔共通する〕方法となる。また、これが、差異となる。この比丘によって、このように多くの状態を化作して〔そののち〕、ふたたび、あるいは、「まさしく、一なる者と成って、〔わたしは〕歩行〔瞑想〕をするのだ。読誦を【390】為すのだ、問いを尋ねるのだ」と思い考えて──あるいは、「この精舎は、比丘が少ない。それで、もし、或る者たちがやってくるなら、『どうして、これらの者たちは、これだけの者たちが、一つに等しき比丘たちなのだ。たしかに、これは、長老の〔神通の〕威力である』と、わたしのことを知るであろう」と、少なき欲求たることによって──まさしく、〔神通の〕途中で、「〔わたしは〕一なる者と成るのだ」と求めつつあるなら、足場たる瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、「〔わたしは〕一なる者と成るのだ」と、事前作業〔としての瞑想〕を為して、ふたたび入定して〔そののち、入定から〕出起して、「〔わたしは〕一なる者と成るのだ」と、〔心が〕確立されるべきである。まさしく、確立された心と共に、一なる者と成る。いっぽう、このように為さずにいるとして、すなわち、限定された時を所以に、まさしく、自ずと、一なる者と成る(神通の時間が過ぎれば自然と元に戻る)。

 

387.

 

§69  「明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕」とは、ここにおいて、明現状態を作り為す、超没状態を作り為す、ということで、これが、〔その〕義(意味)となる。まさに、まさしく、これに関して、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「『明現状態と〔成ります〕』とは、何によってであれ、覆われていないものと成り、隠されていないものと〔成り〕、開かれたものと〔成り〕、明白なるものと〔成る〕。『超没状態と〔成ります〕』とは、何によってであれ、覆われたものと成り、隠されたものと〔成り〕、塞がれたものと〔成り〕、覆い包まれたものと〔成る〕」(パティサンビダー・マッガ2p.207)と。

 そこで、この神通者は、明現状態を作り為すことを欲する者として、あるいは、暗黒を光明に作り為し、あるいは、隠されたものを開かれたものに〔作り為し〕、あるいは、視野ならざるものを視野なるものに作り為す。どのようにか。

 

§70  まさに、この者は、すなわち、たとえ、隠れていても、あるいは、たとえ、遠くに立っていても、〔その姿が〕見えるように、このように、あるいは、自己を、あるいは、他者を、〔その姿が見えるように〕作り為すことを欲する者となり、足場たる瞑想から出起して、あるいは、「この暗黒の状況は、光明の類のものと成れ」と、あるいは、「この隠されたものは、開かれたものと成れ」と、あるいは、「この視野ならざるものは、視野なるものと成れ」と、〔心を〕傾注して、事前作業〔としての瞑想〕を為して、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔心を〕確立する。確立の心と共に(※)、まさしく、確立されたとおりのものと成る。他者たちは、たとえ、遠くに立っていても、〔その姿を〕見る。自らもまた、見ることを欲する者として、〔その姿を〕見る。

 

※ テキストには saha adhiṭṭhānā とあるが、VRI版により saha adhiṭṭhānacittena と読む。

 

388.

 

§71  「また、この神変は、誰によって、過去に作り為されたのか」と〔問うなら〕、「世尊によって」〔と答える〕。まさに、世尊は、チューラ・スバッダー(人名)に招かれ、ヴィッサカンマ(神名:工芸神)によって化作された五百の楼閣によって、サーヴァッティー(舎衛城:地名)から七ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)の内にあるサーケータ(地名)へと赴きながら、すなわち、サーケータの城市の住者たちがサーヴァッティーの住者たちを、かつまた、サーヴァッティーの住者たちがサーケータの住者たちを、〔互いに〕見るように、このように、〔心を〕確立した。さらに、城市の中間に降り行って、地を二様に破断して、アヴィーチ(阿鼻)〔の大地獄〕に至るまで、かつまた、虚空を二様に取り去って、梵の世に至るまで、〔人々に〕見示した。

 

§72  さらに、〔世尊の〕天からの降下によってもまた、この義(意味)が分明されるべきである。

 伝えるところでは、世尊は、対なる神変を為して、八万四千の命あるものたちを結縛から解き放って、「過去の覚者たちは、対なる神変の最後において、どこに赴いたのか」と〔心を〕傾注して、「〔彼らは〕三十三〔天〕の生存域に赴いたのだ」と見た。【391】そこで、〔世尊は〕一つの足で地面を踏みしめて、第二〔の足〕をユガンダラ山に依拠させて、ふたたび、最初の足を引き上げて、シネール〔山〕(須弥山)の頂きを踏みしめて〔三十三天に至り〕、そこにおいて、パンドゥカンバラの石床(帝釈坐)において雨期を過ごして、集まってきた一万のチャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)の天神たちに、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)についての言説(講話)を、最初から以降、〔順次に〕始めた。行乞の歩みの時刻には、化作した覚者(化仏)を造作した。彼は〔世尊の代わりとなり〕、法(教え)を説示する。

 

§73  世尊は、龍蔓の楊枝を咀嚼して、アノータッタ池で顔を洗い清めて、ウッタラ・クル〔ディーパ〕(北倶廬洲)において〔行乞の〕施食を収め取って、アノータッタ池の岸辺で遍く受益する。サーリプッタ長老は、そこに赴いて、世尊を敬拝する。世尊は、「今日はこれだけの法(教え)を説示した」と、長老に、〔高次の法理についての言説の〕方法を与え施す。このように、三月のあいだ、断絶することなく、高次の法理についての言説を言説した。その〔高次の法理についての言説〕を聞いて、八億の天神たちに、法(教え)の知悉(現観)が有った。

 

§74  〔世尊の〕対なる神変において集まってきた十二ヨージャナの衆もまた、「世尊を、まさしく、見て〔そののち〕、〔わたしたちは〕去り行くのだ」と、仮屋を構えて、〔そこにそのまま〕止住した。その〔衆〕に、まさしく、チューラ・アナータピンディカ長者は、一切の日用品をもって奉仕した。人間たちは、「世尊は、どこにいるのだ」と、〔世尊の居場所を〕知ることを義(目的)として、アヌルッダ長老に乞い求めた。長老は、光明を増大させて、天眼によって見た。そこ(三十三天)において、雨期を過ごしている世尊を見て、〔彼らに、世尊の居場所を〕告げた(※)。

 

※ テキストには āroceti とあるが、VRI版により ārocesi と読む。

 

§75  彼らは、世尊を敬拝することを義(目的)として、マハー・モッガッラーナ長老に乞い求めた。長老は、まさしく、衆の中央において、大地に潜って、シネール山を貫いて、如来の足元において、まさしく、世尊の〔両の〕足を敬拝している〔状態〕で現われて、世尊に、こう言った。「尊き方よ、ジャンブ・ディーパ(インド本島)の住者たちが、『世尊の〔両の〕足を敬拝して、まさしく、見て〔そののち〕、〔わたしたちは〕去り行くのだ』と説きます」と。世尊は言う。「モッガッラーナよ、また、あなたの長兄である法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)は、今現在、どこにいますか」と。「尊き方よ、サンカッサの城市にいます」と。「モッガッラーナよ、わたしを見ることを欲する者たちは、明日、サンカッサの城市に来なさい。わたしは、明日、大いなる充足となる満月の斎戒(布薩)の日に、サンカッサの城市に降り行きましょう」と。

 

§76  「尊き方よ、善きかな」と。長老は、十の力ある方(ブッダ)を敬拝して、まさしく、やってきた道を降下して、人間たちの現前に達し得た。そして、〔三十三天を〕往復する時において、すなわち、人間たちが彼〔の姿〕を見るように、このように、〔心を〕確立した。まずは、ここにおいて、マハー・モッガッラーナ長老は、この明現状態の神変を為した。彼は、このように帰還し、その消息を〔人間たちに〕告げて、「『〔サンカッサは〕遠くある』と、表象を作り為さずして、まさしく、朝食を為したあと、〔サンカッサへと〕出発しなさい」と言った。

 

§77  世尊は、帝釈天王に告げた。「大王よ、明日、〔わたしは〕人間の世に赴きます」と。〔帝釈〕天王は、ヴィッサカンマに【392】命じた。「親愛なる者よ、明日、世尊は、人間の世に赴くことを欲している。三つの梯子段を造作せよ。一つは、黄金で作られているものを。一つは、白銀で作られているものを。一つは、宝珠で作られているものを」と。彼は、そのように作り為した。

 

§78  世尊は、次の日、シネール〔山〕の頂きに立って、東の世の界域を眺め見た。幾千のチャッカ・ヴァーラが開かれたものと成って、一つの群れであるかのように顕現した。そして、すなわち、東〔の世の界域〕のように、このように、西〔の世の界域〕もまた、北〔の世の界域〕もまた、南〔の世の界域〕もまた、一切が開かれたのを見た。また、下は、アヴィーチ〔の大地獄〕に至るまで、上は、色究竟〔天〕の生存域に至るまで、そのかぎりを見た。その日は、まさに、「世の開顕〔の日〕」ということに成った。人間たちもまた、天〔の神々〕たちを見る。天〔の神々〕たちもまた、人間たちを〔見る〕。そこにおいて、まさしく、人間たちは上を見上げることがなく、天〔の神々〕たちは下を眺め見ることがなく、一切の者たちが面前にあるかのように、互いに他を見る。

 

§79  世尊は、中央にある宝珠で作られている梯子を降り行く。六つの欲望の行境の天(六欲天)〔の神々〕たちは、左側にある黄金で作られている〔梯子〕を〔降り行き〕、そして、浄居〔天の神々〕たちは、さらに、大いなる梵〔天〕は、右側にある白銀で作られている〔梯子〕を〔降り行く〕。〔帝釈〕天王は、鉢と衣料を収め取った。大いなる梵〔天〕は、三ヨージャナの白の傘蓋を〔収め取り〕、スヤーマ(神名)は、毛扇を〔収め取り〕、音楽神の子のパンチャシカ(神名)は、三ガーヴタ(長さの単位・一ガーヴタは牛の鳴き声が届く距離で四分の一由旬とされる)ほどのベールヴァ〔樹〕の黄の琵琶を収め取って、如来への供養を為しながら降り行く。その日、世尊を見て、覚者の状態に羨望〔の思い〕を生起させずして止住した有情は、まさに、存在しない。ここにおいて、世尊は、この明現状態の神変を為した。

 

§80  さらに、また、タンバパンニ・ディーパ(スリランカ島)において、タランガラの住者たるダンマディンナ長老もまた、ティッサ大精舎の塔廟の庭に坐って、「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、雑物なき〔実践の〕道の実践者と成ります」(アングッタラ・ニカーヤ1p.113)という『アパンナカ・スッタ』〔の言葉〕を言説しながら、下向きに扇を為したところ、アヴィーチ〔の大地獄〕に至るまで、一つの庭と成った。そののち、上向きに〔扇を〕為したところ、梵の世に至るまで、一つの庭と成った。長老は、〔比丘たちを〕地獄の恐怖で脅迫して、さらに、天上の安楽で誘惑して、法(教え)を説示した。或る者たちは、預流たる者たちと成った。或る者たちは、一来たる者たちと〔成り〕、不還たる者たちと〔成り〕、阿羅漢たちと〔成った〕、と〔知られるべきである〕。

 

389.

 

§81  また、超没状態を作り為すことを欲する者は、あるいは、光明を暗黒に作り為し、あるいは、隠されていないものを隠されたものに〔作り為し〕、あるいは、視野なるものを視野ならざるものに作り為す。どのようにか。まさに、この者は、すなわち、たとえ、隠れていなくても、あるいは、たとえ、近くに立っていても、〔その姿が〕見えないように、このように、あるいは、自己を、あるいは、他者を、〔その姿が見えないように〕作り為すことを欲する者となり、足場たる瞑想から出起して、あるいは、「この光明の状況は、暗黒と【393】成れ」と、あるいは、「この隠されていないものは、隠されたものと成れ」と、あるいは、「この視野なるものは、視野ならざるものと成れ」と、〔心を〕傾注して、事前作業〔としての瞑想〕を為して、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔心を〕確立する。確立の心と共に、まさしく、確立されたとおりのものと成る。他者たちは、たとえ、近くに立っていても、〔その姿を〕見ない。自らもまた、見ないことを欲する者として、〔その姿を〕見ない。

 

390.

 

§82  「また、この神変は、誰によって、過去に作り為されたのか」と〔問うなら〕、「世尊によって」〔と答える〕。まさに、世尊は、まさしく、近くに坐っている、良家の子息たるヤサを、すなわち、父が彼を見ないように、このように、〔隠されたものに〕作り為した。

 そのように、百二十ヨージャナを〔旅した〕マハー・カッピナ〔王〕の出迎えを為して、彼を不還果に〔確立させ〕、さらに、彼の千の家臣たちを預流果に確立させて〔そののち〕、彼の〔辿った〕道のままにやってきた、千の取り巻きの女たちとアノージャー王妃が、〔そこに〕やってきて、たとえ、近くに坐っていても、すなわち、衆を有する王〔の姿〕を見ないように、そのように、〔王たちを隠されたものに〕作り為して、〔王妃によって〕「さて、尊き方よ、王を見られましたか」と説かれたとき、「では、どうでしょう、あなたたちにとって、優れているのは、王を探し求めることですか、それとも、自己みずからですか」と〔説き〕、「尊き方よ、自己みずからです」と説いて坐った彼女に、そのように、法(教え)を説示した(※)。すなわち、彼女は、千の〔取り巻きの〕女たちと共に、預流果に確立し、家臣たちは、不還果に〔確立し〕、王は、阿羅漢の資質に〔確立した〕、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストには deseti とあるが、VRI版により desesi と読む。

 

§83  さらに、また、タンバパンニ・ディーパ(スリランカ島)にやってきた日に、すなわち、自己と共にやってきた残りの者たちを、王が見ないように、このように、〔隠されたものに〕作り為している、マヒンダ長老によってもまた、この〔超没状態の神変〕は、まさしく、作り為された。

 

391.

 

§84  さらに、また、全てもろともに、明白なる神変は、「明現状態」ということになり、明白ならざる神変は、「超没状態」ということになる。そこにおいて、明白なる神変においては、神通もまた覚知され、神通者もまた〔覚知される〕。それは、対なる神変によって明らかにされるべきである。なぜなら、そこでは、「ここに、如来が、弟子たちとは共通ならざる、対なる神変を為す。上の身体からは、火の塊が転起し、下の身体からは、水の奔流が転起する」(パティサンビダー・マッガ1p.125)と、このように、〔神通と神通者の〕両者が覚知されたからである。明白ならざる神変においては、神通だけが覚知され、神通者は〔覚知され〕ない。それは、そして、『マハカ・スッタ』(サンユッタ・ニカーヤ4p.288)によって、さらに、『ブラフマ・ニマンタニカ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ1p.326)によって、明らかにされるべきである。なぜなら、そこでは、そして、尊者マハカの、さらに、世尊の、神通だけが覚知され、神通者は〔覚知され〕なかったからである。

 

§85  すなわち、〔世尊が〕言うように、「一方に坐った、まさに、チッタ家長は、尊者マハカに、こう言いました。『尊き方よ、どうか、尊貴なるマハカは、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見せてください』と。『家長よ、まさに、それでは、あなたは、外縁に上衣を設けて、【394】草の束を振りまきなさい』と。『尊き方よ、わかりました』と、まさに、チッタ家長は、尊者マハカに答えて、外縁に上衣を設けて、草の束を振りまきました。そこで、まさに、尊者マハカは、精舎に入って、閂を施して、すなわち、そして、鍵穴から、さらに、閂の隙間から、炎が出て、諸々の草を燃やすも、上衣を燃やさなかった、そのような形態の神通の行作を行作しました」(サンユッタ・ニカーヤ4p.290)と。

 

§86  さらに、すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、そのような形態の神通の行作を行作しました。『これだけの、かつまた、梵〔天〕が、かつまた、梵〔天〕の衆が、かつまた、梵〔天〕の会衆たちが、そして、わたしの音声を聞くも、しかしながら、わたしを見ない』と。消没した〔わたし〕は、この詩偈を語りました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『わたしは、まさしく(※)、生存(:実体)のうちに恐怖を見て、さらに、生存から離れること(非有:虚無)を求める者たちの生存を〔見て〕、何であれ、生存に迎合せず、そして、愉悦〔の思い〕に執取しなかった』」(マッジマ・ニカーヤ1p.330)と。

 

※ テキストには cā’ ha とあるが、VRI版により vāha と読む。

 

392.

 

§87  「壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように」とは、ここにおいて、「壁を超え」とは、壁の彼方に。壁の彼方の部分に、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。これが、諸他について、〔共通する説示の〕方法となる。そして、「壁」とは、これは、家の壁の同義語である。「垣」とは、家や精舎や村等々の周囲の垣である。「山」とは、あるいは、砂山であり、あるいは、岩山である。「着することなく」とは、付着することなく。「それは、たとえば、また、虚空にあるかのように」とは、虚空にあるように。

 

§88  また、このように赴くことを欲する者によって、虚空の遍満に入定して〔そののち、入定から〕出起して、あるいは、壁に、あるいは、垣に、あるいは、シネールやチャッカ・ヴァーラであろうが、どれか一つの山に、〔心を〕傾注して、事前作業〔としての瞑想〕を為したなら、「虚空と成れ」と、〔心が〕確立されるべきであり、まさしく、虚空と成る。下に降り行くことを欲する者には、あるいは、上に登り行くことを欲する者には、空洞と成る。貫いて赴くことを欲する者には、洞穴と〔成る〕。彼は、そこにおいて、着することなく赴く。

 

§89  また、ここにおいて、ティピタカ・チューラ・アバヤ長老は言った。「友よ、虚空の遍満への入定は、何を義(目的)とするのか(虚空の遍満への入定は、かならずしも必要ではないのではないか)。どうであろう、象や馬等々を化作することを欲する者は、象や馬等々の遍満に入定するであろうか。まさに、何であれ、どの遍満においても、事前作業〔としての瞑想〕を為して〔そののち〕、八つの入定の自在ある状態だけが基準(必要条件)となり、そのもの、そのものを求めるなら、まさしく、そのもの、そのものと成るのではないか」と。〔他の〕比丘たちは言った。「尊き方よ、聖典において、まさしく、虚空の遍満が言及されたのです。それゆえに、かならず、この〔虚空の遍満〕が説かれるべきです」と。

 

§90  そこで、これが、〔その〕聖典となる。「〔生来の〕性向によって、虚空の遍満への入定の得者と成り、壁を超え、垣を超え、山を超えることに、【395】〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。『虚空と成れ』と。〔それは〕虚空と成る。〔彼は〕壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、何によってであれ、覆われていないものにおいて、囲まれていないものにおいて、着することなく赴くように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように」(パティサンビダー・マッガ2p.208)と。

 

§91  「また、それで、もし、その比丘が、〔心を〕確立して赴きつつあるとして、途中に、あるいは、山が、あるいは、木が、出起するなら、どうであろう、ふたたび入定して、〔「虚空と成れ」と、心が〕確立されるべきであるのか」と〔問うなら〕、「〔そのことに〕汚点は存在しない(確立されるべきではない)」〔と答える〕。なぜなら、ふたたび入定して、〔心を〕確立することは、〔あらためて〕師父の現前において依所を収め取ることに等しきことと成るからである。また、そして、この比丘によって、「虚空と成れ」と、〔心が〕確立されたことから、まさしく、虚空と成るのであり、さらに、彼の、まさしく、以前の確立の力によって、途中に、他の、あるいは、山が、あるいは、木が、季節によって作られるもの(天然自然のもの)として出起する、という、このことは、まさしく、状況なきことである(ありえない)。いっぽう、他の神通者によって化作されたときは、最初の化作が力あるものとして有り、他の者は、その〔最初の化作〕の、あるいは、上を、あるいは、下を、赴くべきこととなる。

 

393.

 

§92  「地のなかであろうが、出没することを」とは、ここにおいて、「出」とは、出起することと説かれる。「没」とは、消沈することと〔説かれる〕。そして、出が、さらに、没が、「出没」。このように為すことを欲する者によって、水の遍満に入定して〔そののち、入定から〕出起して、「これだけの場において、地は、水と成れ」と限定して、事前作業〔としての瞑想〕を為して〔そののち〕、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔心が〕確立されるべきである。確立〔の心〕と共に、限定されたとおりの場において、地は、まさしく、水と成る。彼は、そこにおいて、出没することを為す。

 

§93  そこで、これが、〔その〕聖典となる。「〔生来の〕性向によって、水の遍満への入定の得者と成り、地に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。『水と成れ』と。〔地は〕水と成る。彼は、地のなかで出没することを為す。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、水のなかで出没することを為すように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、地のなかで出没することを為す──それは、たとえば、また、水にあるかのように」(パティサンビダー・マッガ2p.208)と。

 

§94  さらに、単に、出没するだけにあらず。沐浴や喫飲や顔の洗浄や物品の洗浄等々について、そのもの、そのものを求めるなら、そのもの、そのものを為す。さらに、単に、水だけにあらず。酥や油や蜜や糖等々についてもまた、そのもの、そのものを求めるなら、そのもの、そのものに、「そして、これは、さらに、これは、これだけのものと成れ」と〔心を〕傾注して、事前作業〔としての瞑想〕を為して、〔心を〕確立していると、【396】まさしく、確立されたとおりのものと(※)成る。取り出して器に盛ることを為しているとして、まさしく、酥は、酥として有り、まさしく、油等々は、油等々として〔有り〕、まさしく、水は、水として〔有る〕。彼は、そこにおいて、まさしく、潤すことを欲する者として潤し、潤すことを欲さない奢として潤さない。しかしながら、その地は、彼にとってだけ、水として有り、残りの人にとっては、まさしく、地として〔有る〕。そこにおいて、人間たちは、歩行者としてもまた赴き、乗物等々によってもまた赴き、耕作の行為等々をもまた、まさしく、為す。また、それで、もし、この者(神通者たる比丘)が、「彼らにとってもまた、水と成れ」と求めるなら、まさしく、〔彼らにとってもまた、水と〕成る。いっぽう、限定された時を超え行って〔そののちは〕、すなわち、〔生来の〕性向によって鉢や池等々にある水についてはそれを除いて、残りの限定された場は、まさしく、地と成る。

 

※ テキストには yathādiṭṭhitameva とあるが、VRI版により yathādhiṭṭhitameva と読む。

 

394.

 

§95  「水のうえであろうが、沈むことなく」とは、ここにおいて、すなわち、水を踏みしめて〔そののち〕、沈み行くなら、それは、「沈みつつある」と説かれる。〔その〕反対が、「沈むことなく」。また、このように赴くことを欲する者によって、地の遍満に入定して〔そののち、入定から〕出起して、「これだけの場において、水は、地と成れ」と限定して、事前作業〔としての瞑想〕を為して〔そののち〕、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔心が〕確立されるべきである。確立〔の心〕と共に、限定されたとおりの場において、水は、まさしく、地と成る。彼は、そこにおいて赴く。

 

§96  そこで、これが、〔その〕聖典となる。「〔生来の〕性向によって、地の遍満への入定の得者と成り、水に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。『地と成れ』と。〔水は〕地と成る。彼は、水のうえで沈むことなく赴く。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、地のうえで沈むことなく赴くように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、水のうえで沈むことなく赴く──それは、たとえば、また、地にあるかのように」(パティサンビダー・マッガ2p.208)と。

 

§97  さらに、単に、赴くだけにあらず。そのもの、そのものを、振る舞いの道(行住坐臥)として求めるなら、そのもの、そのものを為す。さらに、単に、〔水を〕地と為すだけにあらず。宝珠や黄金や山や木等々についてもまた、そのもの、そのものを求めるなら、そのもの、そのものに、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔心を〕傾注して、〔心を〕確立し、まさしく、確立されたとおりのものと成る。しかしながら、その水は、彼にとってだけ、地として有り、残りの人にとっては、まさしく、水として〔有る〕。そして、魚や亀たちは、さらに、水烏等々は、好みのままに渡り歩く。また、それで、もし、この者(神通者たる比丘)が、他の人間たちにとってもまた、その〔水〕を地と為すことを求めるなら、まさしく、〔水を地と〕為す。いっぽう、限定された時を超え行くことで、まさしく、水と成る。

 

395.

 

§98  「結跏で進み行きます」とは、結跏で赴く。「翼ある鳥」とは、〔両の〕翼を擁する鳥のこと。また、このように為すことを欲する者によって、地の遍満に入定して〔そののち、入定から〕出起して、それで、もし、坐った者として【397】赴くことを求めるなら、結跏〔の坐〕の量となる場を限定して、事前作業〔としての瞑想〕を為して〔そののち〕、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔心が〕確立されるべきである。それで、もし、横になった者として赴くことを欲する者と成るなら、臥床の量〔となる場〕を、それで、もし、足で赴くことを欲する者と成るなら、道の量〔となる場〕を、ということで、このように、適切なるままに場を限定して、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、「地と成れ」と、〔心が〕確立されるべきである。確立〔の心〕と共に、まさしく、地と成る。

 

§99  そこで、これが、〔その〕聖典となる。「『虚空においてであろうが、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように』とは、〔生来の〕性向によって、地の遍満への入定の得者と成り、虚空に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。『地と成れ』と。〔虚空は〕地と成る。彼は、虚空において、空中において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐りもまたし、臥所を営みもまたする。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、地において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐りもまたし、臥所を営みもまたするように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、虚空において、空中において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐りもまたし、臥所を営みもまたする」(パティサンビダー・マッガ2p.208)と。

 

§100  さらに、虚空において赴くことを欲する比丘であるなら、天眼の得者としてもまた有るべきである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「途中において、あるいは、季節から現起するもの(化作されたものではなく、天然自然のものとして存在するもの)としての山や木等々が有り、あるいは、龍や金翅鳥等々が〔彼に〕嫉妬しながら〔山や木を〕造作するとして、それらを見ることを義(目的)に」〔と答える〕。「また、それらを見て、何が為されるべきであるのか」と〔問うなら〕、「足場たる瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、『虚空と成れ』と、事前作業〔としての瞑想〕を為して、〔心が〕確立されるべきである」〔と答える〕。

 

§101  また、〔ここにおいて、ティピタカ・チューラ・アバヤ〕長老は言った。「友よ、〔さらなる〕入定に入定するのは、何を義(目的)とするのか。まさに、彼の心は、まさしく、〔すでに〕定められたものとしてあり、それによって、その〔状況〕その状況に、『虚空と成れ』と、〔心を〕確立するなら、まさしく、虚空と成るのではないか」と。たとえ、何であれ、このように言ったとして、そこで、まさに、まさしく、壁を超える神変において説かれた方法によって、実践されるべきである。さらに、また、〔適切なる〕空間への降下を義(目的)にもまた、この〔比丘〕は、天眼の得者として有るべきである。なぜなら、それで、もし、この〔比丘〕が、〔適切なる〕空間ではない、あるいは、沐浴場に、あるいは、村の門に、降下するなら、大勢の人に明白なるものと成る。それゆえに、天眼によって見て、〔適切なる〕空間ではないところを避けて、〔適切なる〕空間に降り行く、と〔知られるべきである〕。

 

396.

 

§102  「このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします」とは、ここにおいて、月と日の、四万二千ヨージャナの上方を歩み行くことによって、大いなる神通あることが〔知られるべきであり〕、三つのディーパ(大陸)にたいし一つの瞬間において光明を作り為すことによって、大いなる威力あることが知られるべきである。【398】あるいは、このように上方を歩み行くことと光明を作り為すことによって、「大いなる神通があり」。まさしく、その、大いなる神通あることによって、「大いなる威力がある」。「撫でまわし」とは、遍く収め取る、あるいは、一つの地点において触れる。「擦りまわします」とは、遍きにわたり、鏡面を〔磨く〕ように、擦りまわす。

 

§103  また、彼の、この神通は、まさしく、神知の足場たる瞑想を所以に実現する。ここにおいて、〔特定の〕遍満への入定という決定(確定・限定)は存在しない。まさに、このことが、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「『このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた(※)、手でもって、撫でまわし、擦りまわします』とは、ここに、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、あるいは、坐った者として、あるいは、横になった者として、月と日に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。『手近に有れ』と。〔月と日は〕手近に有る。彼は、あるいは、坐った者として、あるいは、横になった者として、月と日を、手でもって、撫で、撫でまわし、擦りまわす。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、まさしく、何であれ、形態の在り方をしたものを、手近において、撫で、撫でまわし、擦りまわすように、まさしく、このように、彼は、神通者として……略……擦りまわす」(パティサンビダー・マッガ2p.208)と。

 

※ テキストには Ime candimasūriye とあるが、VRI版により Imepi candimasūriye と読む。

 

§104  〔まさに〕その、この〔比丘〕が、もしくは、〔月と日に〕赴いて擦りまわすことを求めるなら、〔月と日に〕赴いて擦りまわす。また、もしくは、まさしく、ここで、あるいは、坐った者として、あるいは、横になった者として、擦りまわすことを欲する者と成るなら、「手近に有れ」と、〔心を〕確立し、〔心の〕確立の力によって、あるいは、茎から解き放たれたターラ〔樹〕の果のように〔月と日が〕やってきて、手近に止住した〔月と日〕を擦りまわし、あるいは、〔自己の〕手を増大させて、〔手近に止住した月と日を擦りまわす〕。「また、〔自己の手を〕増大させている者にとって、どうであろう、執取された〔形態〕(有情的事象)が増大するのか、執取されていない〔形態〕(非有情的事象)が〔増大するのか〕」と〔問うなら〕、「執取された〔形態〕に依拠して、執取されていない〔形態〕が増大する」〔と答える〕。

 

§105  そこにおいて、ティピタカ・チューラ・ナーガ長老は言った。「友よ、また、どうであろう、執取された〔形態〕は、小なるものにもまた、大いなるものにもまた、成らないのというのか。まさに、すなわち、比丘が、鍵穴等々から出るとき、そのときは、執取された〔形態〕が小なるものと成り、すなわち、大なる自己状態を作り為すとき、そのときは、〔執取された形態が〕大いなるものと成るのではないか。マハー・モッガッラーナ長老のように」と。

 

§106  伝えるところでは、或る時のこと、アナータピンディカ家長は、世尊の法(教え)の説示を聞いて、「尊き方よ、明日、五百の比丘たちと共に、わたしどもの家において、行乞〔の食〕を収め取ってください」と招請して立ち去った。世尊は、承諾して〔そののち〕、その日の残りを〔過ごし〕、さらに、夜分を過ごして、早朝の時分に、一万の世の界域を眺め見た。そこで、その〔世尊〕の知恵の門の視野に、ナンドーパナンダという名の龍王がやってきた。

 

§107  世尊は、「この龍王が、わたしの知恵の門の視野にやってくる。いったい、まさに、彼には、〔帰依の〕依所(近因)が存在するのか」と〔心を〕傾注させつつ、「この〔龍王〕は、誤った見解(邪見)の者であり、三宝にたいし【399】浄信なき者である」と見て、「いったい、まさに、誰が、この〔龍王〕を、誤った見解から遠離させるのか」と〔心を〕傾注させつつ、マハー・モッガッラーナ長老を〔適任の者と〕見た。そののち、夜が明けたとき、肉体の看護を為して(身体の面倒を見て)、尊者アーナンダに語りかけた。「アーナンダよ、五百の比丘たちに告げなさい。如来(ブッダ)は、天の巡行へと赴きます」と。

 

§108  そして、その日、ナンドーパナンダ〔龍王〕のために、〔配下の龍たちが〕酒宴の地を設置した。彼(龍王)は、天宝の長椅子のうえで、天の白傘蓋を保持する者に、まさしく、そして、三種類の舞踏者たちに、さらに、龍の衆に、〔それらの者たちに〕取り囲まれ、諸々の天器に盛られた食べ物や飲み物の種類を眺め見ながら、〔設置された酒宴の地に〕坐った者として有る。そこで、世尊は、すなわち、〔自己の姿を〕龍王が見るように、そのように為して、まさしく、彼の天蓋の頭上をとおり、五百の比丘たちと共に、三十三天の世に向かい出発した。

 

§109  また、まさに、その時点にあって、ナンドーパナンダ龍王に、このような形態の邪悪にして悪しき見解が、生起したものと成る。「まさに、これらの、まさに、坊主頭の沙門どもは、上に上にと、俺たちの生存域をとおり、三十三天〔の神々〕たちの生存域へと、入りもするし、出もまたする。今や、これから以降は、これらの者たちが、俺たちの頭上において、足の砂を振りまきながら赴くことを〔もはや〕許さない」と立ち上がって、シネール〔山〕の足下に赴いて、その自己状態を捨棄して、シネール〔山〕を七重に〔七つの〕蜷局で取り巻いて、上に鎌首を作り為して、三十三〔天〕の生存域を、下に折り曲げた(※)鎌首で収め取って、見なき〔状態〕へと至らせた(見えなくした)。

 

※ テキストには avakujje phaena とあるが、VRI版により avakujjena phaena と読む。

 

§110  そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、世尊に、こう言った。「尊き方よ、過去において、この場所に止住した〔わたし〕は、シネール〔山〕を見、シネール〔山〕の連なりを見、三十三〔天〕を見、ヴェージャヤンタ〔の高楼〕を見、ヴェージャヤンタの高楼の上にある旗を見ます。尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、今現在、まさしく、シネール〔山〕を見ず……略……ヴェージャヤンタの高楼の上にある旗を見ないのですか」と。「ラッタパーラよ、この者が、ナンドーパナンダという名の龍王が、あなたたちに怒り、シネール〔山〕を七重に〔七つの〕蜷局で取り巻いて、上に〔作り為した〕鎌首で覆って、暗黒と為して、止住しているのです」と。「尊き方よ、〔わたしが〕彼を調御します」と。世尊は承認しなかった。そこで、まさに、尊者バッディヤ、尊者ラーフラ、という順に、比丘たちは、全てもろともに立ち上がったが、世尊は承認しなかった。

 

§111  最後に、尊者マハー・モッガッラーナ長老が、「尊き方よ、わたしが、彼を調御します」と言った。「モッガッラーナよ、調御しなさい」と、世尊は承認した。長老は、自己状態を捨棄して、大いなる龍王の姿に化作して、ナンドーパナンダを、十四重に〔十四の〕蜷局で取り巻いて、彼の鎌首の頭上に自己の鎌首を据え置いて、シネール〔山〕と共に締め付けた。龍王は、【400】煙を出した。長老もまた、「おまえだけの肉体に、煙が存在するのではない。わたしにもまた、〔煙は〕存在する」と、煙を出した。龍王の煙は、長老を悩まさず、いっぽう、長老の煙は、龍王を悩ます。そののち、龍王は、火を放った。長老もまた、「おまえだけの肉体に、火が存在するのではない。わたしにもまた、〔火は〕存在する」と、火を放った。龍王の火は、長老を悩まさず、いっぽう、長老の火は、龍王を悩ます。

 

§112  龍王は、「この者は、わたしを、シネール〔山〕と〔共に〕締め付けて、まさしく、そして、煙を出し、さらに、火を放つ」と思い考えて、「君よ、あなたは、何者として存しているのですか」と尋ねた。「ナンダよ、わたしは、まさに、モッガッラーナである」と。「尊き方よ、自己の比丘の状態で立ってください」と。長老は、〔龍と成った〕自己状態を捨棄して、その〔龍王〕の、右の耳孔から入っては左の耳孔から出て、左の耳孔から入っては右の耳孔から出て、そのように、右の鼻孔から入っては左の鼻孔から出て、左の鼻孔から入っては右の鼻孔から出た。そののち、龍王は、口を開いた。長老は、口から入って、腹の内で、そして、東に、さらに、西に、歩行する。

 

§113  世尊は、「モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、意を為しなさい。この龍は、大いなる神通者である」と言った。長老は、「尊き方よ、わたしの、まさに、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、遍く蓄積され、善く勉励されました。尊き方よ、ナンドーパナンダは、おまかせください。わたしは、ナンドーパナンダと相同の龍王を、百であろうが、千であろうが、百千であろうが、調御するでありましょう」と言った。

 

§114  龍王は、思い考えた。「〔奴が腹の内に〕入っている、それまでは、わたしに見られないとして、出る時には、今や、奴を牙の間に入れて、噛み砕いてやる」と思い考えて、「尊き方よ、出てください。腹の内で次第次第に歩行しながら、わたしを悩ましてはいけません」と言った。長老は、外に出て立った。龍王は、「これが、奴だ」と見て、鼻の風を送り出した。長老は、〔即座に〕第四の瞑想に入定した。風は、彼の毛穴でさえも、動かすことができなかった。残りの比丘たちは、まさに、〔モッガッラーナ長老が為した神変の〕最初から以降、〔それらの〕全ての神変を為すことができるであろうが、いっぽう、この状況に至り得て、このように速き感知ある者と成って入定することはできない。ということで、世尊は、彼らには、龍王の調御を承認しなかった。

 

§115  龍王は、「わたしは、鼻の風で、この沙門の毛穴でさえも、動かすことができなかった。大いなる神通ある沙門なのだ」と思い考えた。長老は、自己状態を捨棄して、金翅鳥の形態を化作して、金翅鳥の風体を見示しながら、龍王を追った。龍王は、その【401】自己状態を捨棄して、学生の姿に化作して、「尊き方よ、〔わたしは〕あなたさまを帰依所として赴きます」と敬拝しつつ、長老の〔両の〕足を敬拝した。長老は、「ナンダよ、〔世の〕教師たる方が到来したのです。さあ、赴きましょう」と、龍王を調御して、無毒と為して収め取って〔そののち〕、世尊の現前に赴いた。

 

§116  龍王は、世尊を敬拝して、「尊き方よ、〔わたしは〕あなたさまを帰依所として赴きます」と言った。世尊は、「龍王よ、安楽ある者と成れ」と説いて、比丘の僧団に取り囲まれ、アナータピンディカの住居地に赴いた。アナータピンディカは、「尊き方よ、どうして、昼過ぎに到来されたのですか」と言った。「そして、モッガッラーナに、さらに、ナンドーパナンダに、〔彼らに〕戦いが有りました」と。「尊き方よ、誰に勝利が、誰に敗北が」と。「モッガッラーナに勝利が、ナンダに敗北が」と。アナータピンディカは、「尊き方よ、世尊は、七日のあいだ、わたしの、一連の食事〔の供養〕を承諾してください。七日のあいだ、長老のために、尊敬〔の思い〕を作り為しましょう」と、七日のあいだ、覚者を筆頭とする五百の比丘たちのために、大いなる尊敬〔の思い〕を作り為した。

 

§117  ということで、このナンドーパナンダの調御において為された、この大いなる自己状態に関して、このことが、〔ティピタカ・チューラ・ナーガ長老によって〕説かれた。「すなわち、大なる自己状態を作り為すとき、そのときは、〔執取された形態が〕大いなるものと成るのではないか。マハー・モッガッラーナ長老のように」(§105)と。

 たとえ、このように説かれたとして、〔他の〕比丘たちは、「執取された〔形態〕(有情的事象)に依拠して、まさしく、執取されていない〔形態〕(非有情的事象)が増大する」と言った。そして、ここにおいて、まさしく、これが、適合〔説〕となる。

 

§118  彼(神通者たる比丘)は、このように為して、単に、月と日を撫でまわすのではなく、それで、もし、求めるなら、足布と為して〔両の〕足を据え置き、椅子と為して坐り、臥床と為して横になり、寄り掛かる延べ板(脇息)と為して寄り掛かる。

 そして、すなわち、或る者が〔この神変を為す〕ように、このように、他の者もまた〔この神変を為す〕(複数の者が同時に為すこともできる)。なぜなら、たとえ、幾百千の比丘たちが、このように〔神変を〕為しているときも、そして、彼らの一者一者の〔神変は〕、まさしく、そのように、実現するからである。そして、月と日の、〔空を〕赴くこともまた、光明を作り為すこともまた、まさしく、そのように、〔以前のままに〕有る。まさに、すなわち、千の鉢に水が満ちているとき、そして、一切の鉢に月輪が見えるも、月の、〔空を〕赴くこともまた、さらに、光明を作り為すことも、まさしく、自然のとおりに、〔以前のままに〕有るように、その喩えのように、この神変はある。

 

397.

 

§119  「梵の世に至るまでもまた」とは、梵の世をもまた、〔神変の範囲の〕限定と為して。「身体によって自在に転起させます」とは、梵の世において、そこにおいて、自己の身体によって、自在に転起させる。その〔句〕の義(意味)は、聖典に従って知られるべきである。まさに、ここにおいて、これが、〔その〕聖典となる。「『梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます』とは、それで、もし、彼が、神通者として、心の自在に至り得た者として、梵の世に赴くことを欲する者と成るなら、(1)遠方にあるもまた、現前に〔心を〕確立する。『現前に有れ』と。〔それは〕現前に【402】有る。(2)現前にあるもまた、遠方に〔心を〕確立する。『遠方に有れ』と。〔それは〕遠方に有る。(3)多きものをもまた、少なきものに〔心を〕確立する。『少なきものと成れ』と。〔それは〕少なきものと成る。(4)少なきものをもまた、多きものに〔心を〕確立する。『多きものと成れ』と。〔それは〕多きものと成る。(5)天眼によって、その梵〔天〕の形態を見る。(6)天耳の界域によって、その梵〔天〕の音声を聞く。(7)〔他者の〕心を探知する知恵によって、その梵〔天〕の心を覚知する。それで、もし、彼が、神通者として、心の自在に至り得た者として、見られる身体(可見の身体)で梵の世に赴くことを欲する者と成るなら、(8)身体の自在によって心を変化させ、身体の自在によって心を確立する。身体の自在によって心を変化させて、身体の自在によって心を確立して、そして、安楽の表象に〔入って〕、さらに、軽快の表象に入って、見られる身体で梵の世に赴く。それで、もし、彼が、神通者として、心の自在に至り得た者として、見られない身体(不可見の身体)で梵の世に赴くことを欲する者と成るなら、(9)心の自在によって身体を変化させ、心の自在によって身体を確立する。心の自在によって身体を変化させて、心の自在によって身体を確立して、そして、安楽の表象に〔入って〕、さらに、軽快の表象に入って、見られない身体で梵の世に赴く。(10)彼は、その梵〔天〕の前に、〔自己の〕形態を化作する──意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。(11)それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕歩行するなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、歩行する。それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕立つなら……坐るなら……臥所を営むなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、臥所を営む。(12)それで、もし、彼が、神通者として、煙を出すなら……火を放つなら……法(教え)を語るなら……問いを尋ねるなら……問いを尋ねられた者として答えるなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、問いを尋ねられた者として答える。(13)それで、もし、彼が、神通者として、その梵〔天〕と共に立ち、談論し、論議に入定するなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、その梵〔天〕と共に立ち、談論し、論議に入定する。なぜなら、まさしく、そのこと、そのことを、彼が、神通者として為すなら、まさしく、そのこと、そのことを、化作された〔形態〕は為すからである」(パティサンビダー・マッガ2p.209)と。

 

§120  そこにおいて、「遠方にあるもまた、現前に〔心を〕確立する」とは、足場たる瞑想から出起して、遠方にある、あるいは、天の世に、あるいは、梵の世に、〔心を〕傾注する。「現前に有れ」と。〔心を〕傾注して、事前作業〔としての瞑想〕を為して、ふたたび入定して、知恵によって、〔心を〕確立する。「現前に有れ」と。〔それは〕現前に有る。これが、残りの諸句についてもまた、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§121  そこにおいて、(1)「誰が、遠方にあるものを収め取って、現前にあるものと為したのか」と〔問うなら〕、「世尊である」〔と答える〕。まさに、世尊は、対なる神変の最後において(※)、天の世に赴きつつ、そして、ユガンダラ〔山〕を、さらに、シネール〔山〕を、現前にあるものと為して、地面から、一つの足を【403】をユガンダラ〔山〕に依拠させて、第二〔の足〕をシネール〔山〕の頂きに据え置いた。

 

※ テキストには jamakapāihāriyāvasāne とあるが、VRI版により yamakapāihāriyāvasāne と読む。

 

§122  「他の誰が、〔遠方にあるものを収め取って、現前にあるものと〕為したのか」〔と問うなら〕、「マハー・モッガッラーナ長老である」〔と答える〕。まさに、長老は、食事を為してサーヴァッティー(舎衛城:地名)から出つつある〔長さ〕十二ヨージャナの衆を、〔距離にして〕三十ヨージャナのサンカッサの城市への道を省略して、まさしく、その瞬間に、〔サンカッサの城市に〕得達させた(§76)。さらに、また、タンバパンニ・ディーパ(スリランカ島)のチューラ・サムッダ長老もまた、〔遠方にあるものを収め取って、現前にあるものと〕為した。

 

§123  伝えるところでは、飢饉の時のこと、長老の現前に、ごく早朝に、七百の比丘たちがやってきた。長老は、「〔この〕大いなる比丘の僧団は、どこにおいて、行乞の歩みの者(托鉢者)と成るのだろう(どこに行けば、行乞できるのだろう)」と思い考えつつ、タンバパンニ・ディーパ全体において〔適地を〕見ずして、「対岸(インド本島)のパータリプッタ(地名)において、〔行乞の歩みの者と〕成るであろう」と見て、比丘たちに鉢と衣料を収め取らせて、「友よ、来たれ、行乞の歩みに赴くのです」と、地を省略して、パータリプッタに赴いたのだった。比丘たちは、「尊き方よ、この城市は、いずれのものですか」と尋ねた。「友よ、パータリプッタです」と。「尊き方よ、パータリプッタは、まさに、遠方にあります」と。「友よ、老練の長老たちというものは、諸々の遠方にあるものをもまた収め取って、諸々の現前にあるものと為します」と。「尊き方よ、大海は、どこにあるのですか」と。「友よ、まさに、途中に、一つの青い水路を超え行ってやってきたではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです。いっぽう、大海は、大いなるものです」と。「友よ、老練の長老たちというものは、大いなるものをもまた収め取って、小なるものと為します」と。

 

§124  さらに、すなわち、この〔長老〕のように、このように、ティッサダッタ長老もまた、夕刻時に、沐浴して〔そののち〕、上衣を為し(身に付け)、「大いなる菩提〔樹〕を敬拝するのだ」と、心が(※)生起したとき、〔大いなる菩提樹を〕現前にあるものと為した。

 

※ テキストには cinte とあるが、VRI版により citte と読む。

 

§125  (2)また、「誰が、現前にあるものを収め取って、遠方にあるものと為したのか」と〔問うなら〕、「世尊である」〔と答える〕。まさに、世尊は、そして、自己の、さらに、アングリマーラ(人名)の、〔両者の〕間隔を、現前にあるもまた、遠方にあるものと為した、と〔知られるべきである〕。

 

§126  (3)そこで、「誰が、多きものを、少なきものと為したのか」と〔問うなら〕、「マハー・カッサパ長老である」〔と答える〕。

 伝えるところでは、ラージャガハ(王舎城:地名)において、星祭りの日に、五百の少女たちが、諸々の月菓子(円形の焼き菓子)を抱えて、星祭りの遊戯を義(目的)として赴きつつ、世尊を見て、何も施さなかった。いっぽう、後からやってきた長老を見て、「わたしたちの長老が来ます。菓子を施しましょう」と、全て〔の少女たち〕が、諸々の菓子を抱えて、長老のところに近づいて行った。長老は、鉢を取り出して、全て〔の菓子〕を一鉢に満ちるほどのものと為した。世尊は、長老を待ちつつ、前方に坐った。長老は、〔菓子を〕持ってきて、世尊に施した。

 

§127  (4)また、イッリーサ長者の事例において、マハー・モッガッラーナ長老は、少なきものを、多きものと為した(ジャータカ1p.349・本生物語78)。さらに、カーカヴァッリヤ(人名)の事例において、世尊は、〔少なきものを、多きものと為した〕。

 伝えるところでは、マハー・カッサパ長老は、七日のあいだ、入定において過ごして〔そののち〕、貧者への愛護〔の思い〕を為しつつ、カーカヴァッリヤという名の悪しき境遇の人間の、【404】家の戸口に立った。彼の妻は、長老を見て、夫のために調理した塩気なく酸っぱい粥を、鉢に降り注いだ。長老は、それを収め取って、世尊の手に据え置いた。世尊は、大いなる比丘の僧団に調達できる〔量の〕ものと為して〔心を〕確立した。一鉢で運ばれた〔粥〕が、全ての者たちに調達できた。カーカヴァッリヤもまた、第七日には長者の地位を得た、という。

 

§128  さらに、単に、少なきものを多きものと為すのではなく、甘美なるものを甘美ならざるものに、甘美ならざるものを甘美なるものに、という〔あり方〕等々についてもまた、そのもの、そのものを求めるなら、全てが、神通者に実現する。

 まさに、そのように、マハー・アヌラ長老は、まさに、大勢の比丘たちが、〔行乞の〕食のために歩んで乾燥した食事だけを得て、ガンガー〔川〕の岸に坐って遍く受益しているのを見て、「ガンガーの水は、酥精(醍醐)と〔成れ〕」と、〔心を〕確立して、沙弥たちに〔その〕表象を与えた。彼らは、諸々の小皿で〔ガンガーの水を〕運んで、比丘の僧団に与えた。全ての者たちが、甘美なる酥精とともに〔食事を〕食べた、と〔知られるべきである〕。

 

§129  (5)「天眼によって」とは、まさしく、ここ(人間界)に止住する者が、光明を増大させて、その梵〔天〕の形態を見る。そして、まさしく、ここに止住する者として、(6)〔天耳の界域によって〕、その〔梵天〕の語っている一切の音声を聞き、(7)〔他者の心を探知する知恵によって、その梵天の〕心を覚知する。

 

§130  (8)「身体の自在によって心を変化させる」とは、〔行為を〕為すことから生じる身体の自在によって、心を変化させる。足場たる瞑想の心を収め取って、身体において揚挙し、〔心を〕身体に従い行くものと為し、〔心を〕遅鈍に赴くものと〔為す〕(心の機能速度を遅くして、身体の機能速度と同調させる)。なぜなら、身体の赴くことは、遅鈍のものとして有るからである。

 

§131  「そして、安楽の表象に〔入り〕、さらに、軽快の表象に入る」とは、足場たる瞑想を対象とする神通の心と共に生じた、そして、安楽の表象に〔入り〕、さらに、軽快の表象に、入り、入り行き、体得し、得達する。「安楽の表象」というのは、放捨〔の心〕と結び付いた表象である。なぜなら、放捨〔の心〕は、寂静であり、安楽である、と説かれたからである。そして、まさしく、その、〔安楽の〕表象は、まさしく、そして、〔五つの修行の〕妨害から〔解脱し〕、さらに、〔粗雑なる〕思考等々の正反対〔の法〕から解脱したことから、「軽快の表象」ともまた知られるべきである。また、その〔軽快の表象〕に入りつつある彼(神通者たる比丘)の、〔行為を〕為すことから生じる身体もまた、木綿のように、軽素なものと成る。彼は、このように、風に吹き上げられた木綿のように(※)、軽素にして見られる身体(可見の身体)で梵の世に赴く。

 

※ テキストには vātakkhittatūlapicunā とあるが、VRI版により vāyukkhittatūlapicunā と読む。

 

§132  そして、このように赴きつつあるとして、それで、もし、求めるなら、地の遍満を所以に虚空の道を化作して、足によって赴く(歩いて行く)。それで、もし、求めるなら、風の遍満を所以に風に〔心を〕確立して、木綿のように、風によって赴く。しかしながら、また、赴くことを欲することだけが、ここにおいて、基準(必要条件)となる。なぜなら、赴くことを欲することが存するとき、このように心の確立を為した者は、まさしく、〔心の〕確立の勢いで吹き上げられ、彼は(※)、射手によって放たれた矢のように、見られつつ〔梵の世に〕赴くからである。

 

※ テキストには adhiṭṭhānavegakkhitto vaso とあるが、VRI版により adhiṭṭhānavegukkhittova so と読む。

 

§133  【405】(9)「心の自在によって身体を変化させる」とは、身体を収め取って、心において揚挙し、〔身体を〕心に従い行くものと為し、〔身体を〕急速に赴くものと〔為す〕(身体の機能速度を速くして、心の機能速度と同調させる)。なぜなら、心の赴くことは、急速のものとして有るからである。「そして、安楽の表象に〔入り〕、さらに、軽快の表象に入る」とは、形態の身体を対象とする神通の心と共に生じた、そして、安楽の表象に〔入り〕、さらに、軽快の表象に入る。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきであるである。いっぽう、これは、心の赴くことだけが有る(心と同じ状態になった見られない身体が赴く)。

 

§134  「このように、見られない身体で赴きつつあるとして、また、どうであろう、この者は、〔まさに〕その、確立の心の、生起の瞬間において赴くのか、それとも、止住の瞬間において〔赴くのか〕、あるいは、滅壊の瞬間において〔赴くのか〕」と説かれたとき、「三つの瞬間もろともにおいて、〔彼は〕赴く」と、〔或る〕長老は言った。「また、どうであろう、彼は、自ら赴くのか、化作されたものを送るのか」と〔問うなら〕、「好みのままに為す」〔と答える〕。また、ここでは、まさしく、彼が自ら赴くことが言及された。

 

§135  (10)「意によって作られるもの」とは、確立の意によって化作されたことから、意によって作られるもの。「劣ることなき〔感官の〕機能ある」とは、これは、眼や耳等々の外貌を所以に説かれた。また、化作された形態においては、〔機能の〕澄浄(正常な感官機能)は、まさに、存在しない(外貌のみが完全なものとなる)。

 

§136  (11)「それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕歩行するなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、歩行する」という〔言葉〕等の一切は、弟子によって化作されたものに関して説かれた。いっぽう、覚者(ブッダ)によって化作されたものは、そのこと、そのことを、世尊が為すなら、そのこと、そのことをもまた為し、世尊の好み(意向)を所以に、他のことをもまた為す、と〔知られるべきである〕。

 さらに、ここにおいて、すなわち、彼が、神通者として、まさしく、ここ(人間界)に止住する者として、(5)天眼によって、〔その梵天の〕形態を見、(6)天耳の界域によって、〔その梵天の〕音声を聞き、(7)〔他者の〕心を探知する知恵によって、〔その梵天の〕心を覚知するも、これだけでは、身体による自在を転起させず、すなわち、また、彼が、まさしく、ここに止住する者として、その梵〔天〕と共に立ち、談論し、論議に入定するも、これだけでもまた、身体による自在を転起させず、すなわち、また、彼の、(1・2・3・4)「たとえ、遠方にあるも、現前に〔心を〕確立する」という〔言葉〕等の確立があるも、これだけでもまた、身体による自在を転起させず、すなわち、また、彼が、(8)あるいは、見られつつある〔身体〕で、(9)あるいは、見られない身体で、梵の世に赴くも、これだけでもまた、身体による自在を転起させない。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、(10・11・12・13)「その梵〔天〕の前に、〔自己の〕形態を化作する」という〔言葉〕等の方法によって説かれた規定を〔実行し〕惹起するなら、これだけが、身体による自在を転起させる、ということになる。また、残りのものは、ここにおいて、身体による自在を転起させるための前段部分たることの見示を義(目的)に説かれた、と〔知られるべきである〕。

 まずは、これが、(一)確立の神通となる。

 

398.

 

§137  また、(二)変異〔の神通〕には、さらに、(三)意によって作られる神通には、この、種々なる契機(相違点)がある。

 

 [(二)変異〔の神通〕]

 

 まずは、変異〔の神通〕を為している者によって、「彼は、〔生来の〕性向の姿を捨棄して、【406】あるいは、少年の姿を見示し、あるいは、龍の姿を見示し、あるいは、金翅鳥の姿を見示し、あるいは、阿修羅の姿を見示し、あるいは、インダ(インドラ神)の姿を見示し、あるいは、天〔の神〕の姿を見示し、あるいは、梵〔天〕の姿を見示し、あるいは、海の姿を見示し、あるいは、山の姿を見示し、あるいは、獅子の姿を……虎の姿を……豹の姿を……象〔兵〕をもまた見示し……馬〔兵〕を……車〔兵〕を……歩〔兵〕者を……様々な種類の軍勢をもまた見示する」(パティサンビダー・マッガ2p.210)と、このように説かれた少年の姿等々について、そのもの、そのものを望むなら、そのもの、そのものに〔心が〕確立されるべきである。

 

§138  そして、〔心を〕確立している者によって、地の遍満等々のうち、どれか一つを対象とする神知の足場たる瞑想から出起して、自己の少年の姿が傾注されるべきである。傾注して〔そののち〕、事前作業〔としての瞑想〕の最後において、ふたたび入定して〔そののち、入定から〕出起して、「〔わたしは〕このような形態の、まさに、少年と成るのだ」と、〔心が〕確立されるべきである。確立の心と共に、〔彼は〕少年と成る。デーヴァダッタ(提婆達多:ブッダを裏切り、サンガを分裂させた)のように。これが、一切所において、〔共通する説示の〕方法となる。また、「象〔兵〕をもまた見示し」という〔言葉〕等は、ここにおいて、〔自己の〕外にもまた、象〔兵〕等を見示することを所以に説かれた。そこにおいては、「〔わたしは〕象〔兵〕と成るのだ」と、〔心を〕確立せずして、「象〔兵〕が有れ」と、〔心が〕確立されるべきである。馬〔兵〕等々についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 これが、変異〔の神通〕となる。

 

399.

 

 [(三)意によって作られる神通]

 

§139  また、意によって作られる神通を為すことを欲する者は、足場たる瞑想から出起して、まずは、身体に〔心を〕傾注して、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、「空洞と成れ」と、〔心を〕確立する。〔それは〕空洞と成る。そこで、彼の〔身体の〕内部において、他の身体に〔心を〕傾注して、事前作業〔としての瞑想〕を為して、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔心を〕確立する。彼の〔身体の〕内部において、「他の身体が有れ」と。彼は、その〔意によって作られる他の身体〕を、ムンジャ〔草〕から葦を〔引き抜く〕ように、鞘から剣を〔引き抜く〕ように、さらに、脱け殻から蛇を〔引き抜く〕ように、引き抜く。それによって説かれた。「ここに、比丘が、この身体から、他の身体を化作する──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。それは、たとえば、また、人が、ムンジャ〔草〕から葦を取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するであろう。『これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかし、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された』」(パティサンビダー・マッガ2p.210-1)等と。そして、ここにおいて、すなわち、葦等々が、ムンジャ〔草〕等々と相同のものとして有るように、このように、意によって作られる形態は、神通者と、まさしく、相同のものとして有る(他のものではあるが、相似のものとしてある)、と見示することを義(目的)に、これらの喩えが説かれた、と〔知られるべきである〕。

 これが、意によって作られる神通となる。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、「〔種々なる〕神通の種類についての釈示」という名の第十二章となる。