第五章 残りの遍満についての釈示

 

91.

 

 2 水の遍満(2)

 

§1  【170】今や、地の遍満の直後に〔配置された〕(Ch.3§105)、水の遍満について、詳細の言説と成る。まさしく、まさに、すなわち、地の遍満のように、このように、水の遍満もまた、修めることを欲する者によって、安楽に坐り、水において、形相が収め取られるべきである(瞑想対象が心に把持されるべきである)。あるいは、〔人為に〕作り為されたものであれ、あるいは、作り為されていないものであれ、ということで、〔その〕全てが、〔地の遍満と同様に〕詳知されるべきである。

 そして、すなわち、ここでのように、このように、一切所において、まさに、これより他は、〔人為か、人為ではないか、という〕このことさえも〔もはや〕説かずして、まさしく、〔地の遍満との〕差異のみを、〔わたしたちは〕説くであろう。

 

§2  ここでもまた、過去(過去世)において参究が為された功徳ある者には、〔人為に〕作り為されていない水において、あるいは、池であれ、あるいは、沼であれ、あるいは、塩気のある〔湖〕であれ、あるいは、海であれ、形相が生起する。チューラ・シヴァ長老に(※)〔生起した〕ように。伝えるところでは、その尊者のばあい、「〔他者からの〕利得と尊敬を捨棄して、遠離の住に、〔わたしは〕住するのだ」と、マハー・ティッタ(地名・スリランカの港)で舟に乗って、ジャンブ・ディーパ(インド本島)へと赴きつつあると、〔その〕途中に、大海を眺め見ながら、それを相似(心に思念された瞑想対象)とする遍満の形相が生起した。

 

※ テキストには Cūasīvattherassa とあるが、VRI版により Cūasivattherassa と読む。

 

§3  〔過去における〕参究が為されていない者によって、四つの遍満の汚点(Ch.4§24)を遍く退けつつ、青と黄と赤と白の色のなかのどれか一つの色をした水を使わずして、また、すなわち、まさしく、地上に接触することなく、虚空(空中)において、清浄の衣によって収め取られた〔雨〕水──あるいは、他の、そのような形態の澄浄で混濁なき〔水〕があるなら──その〔水〕で、あるいは、鉢を、あるいは、瓶を、縁まで一杯に満たして、精舎の片隅において、〔前に〕説かれた流儀の隠蔽された空間に据え置いて、安楽に坐り、〔水の遍満が修められるべきである〕。〔水の〕色は、綿密に注視されるべきではない(※)。〔水の〕特相は、意が為されるべきではない。依所〔たる水〕の有する色だけのものと為して、増長(性質の優勢さ)を所以に、通称(施設:概念)としての法(性質)にたいし、心を据え置いて、〔意が為されるべきである〕。「アンブ」「ウダカ」「ヴァーリ」「サリラ」という〔言葉〕等々の、水の名前のなかで、まさしく、明白なる名前たるを所以に(水については「アーポー」という名称が一般的であることから)、「アーポー(水である)」「アーポー(水である)」と〔説くことで、水の遍満が〕修められるべきである。

 

※ テキストには vaṇṇo paccavekkhitabbo とあるが、VRI版により na vaṇṇo paccavekkhitabbo と読む。

 

§4  彼が、このように修めていると、順に、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔収取と相似の〕二つの形相が生起する。また、ここでは、収取の形相(取相:眼耳鼻舌身の五感官に依拠せず意感官だけで把捉できるようになった形相)は、動揺しているもののように現起する。【171】それで、もし、水が、泡沫や泡粒の混合あるものとして有るなら、まさしく、そのようなものとして現起し、遍満の汚点が覚知される。いっぽう、相似の形相(彼分相・似相:瞑想対象として心に思念された純粋形相)は、完全に震動なきものであり、虚空に据え置かれた宝珠の扇のように〔成って〕、さらに、宝珠で作られる鏡の円輪のように成って、現起する。彼は、まさしく、その〔相似の形相〕の現起と共に、〔瞑想の境地に〕近接する瞑想に、さらに、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想(四禅もしくは五禅)に(※)、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって至り得る、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストには catutthapañcakajjhānāni とあるが、VRI版により catukkapañcakajjhānāni と読む。

 

92.

 

 3 火の遍満(3)

 

§5  火の遍満を修めることを欲する者によってもまた、火において、形相が収め取られるべきである。そこにおいて、〔過去において〕参究が為された功徳ある者(過去世における修行の功徳ある者)が、形相を収め取っていると、〔人為に〕作り為されていない〔火〕において──あるいは、灯明の炎においてであれ、あるいは、竈においてであれ、あるいは、鉢の煮沸場においてであれ、あるいは、山火事においてであれ、すなわち、どこにおいてであれ──火の光を眺め見つつ、形相が生起する。チッタ・グッタ長老に〔生起した〕ように。まさに、その尊者のばあい、法(教え)の聴聞の日に斎戒堂に入ったところ、灯明の炎を、まさしく、眺め見ていると、形相が生起した。

 

§6  また、〔過去において参究が為されていない〕他の者によって、〔火の遍満が、人為に〕作り為されるべきである。そこで、これが、作り方の規定となる。脂質で芯のある諸々の木片を切り裂いて、乾かして片々と為して、あるいは、適切なる木の根元に〔赴いて〕、あるいは、天幕に赴いて、鉢の煮沸の行相によって山積みに為して点火して、あるいは、筵に、あるいは、皮に、あるいは、布きれに、〔一〕ヴィダッティ(長さの単位・一ヴィダッティは約二十五センチ)と四アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ・十二アングラが一ヴィダッティに相当)の量の穴が作られるべきである。それを、前に据え置いて、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって坐って、あるいは、下に、草や薪に〔意を為さずして〕、あるいは、上に、煙や炎に意を為さずして、中間において、重厚なる炎の形相が収め取られるべきである。

 

§7  あるいは、「青である」と、あるいは、「黄である」と、という〔言葉〕等を所以に、〔火の〕色は、綿密に注視されるべきではない。熱いことを所以に、〔火の〕特相は、意が為されるべきではない。依所〔たる火〕の有する色だけのものと為して、増長(性質の優勢さ)を所以に、通称としての法(性質)にたいし、心を据え置いて、〔意が為されるべきである〕。「パーヴァカ」「カンハヴァッタニ」「ジャータヴェーダ」「フターサナ」という〔言葉〕等々の、火の名前のなかで、まさしく、明白なる名前たるを所以に(火については「テージョー」という名称が一般的であることから)、「テージョー(火である)」「テージョー(火である)」と〔説くことで、火の遍満が〕修められるべきである。

 

§8  彼が、このように修めていると、順に、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔収取と相似の〕二つの形相が生起する。そこにおいて、収取の形相は、炎が断たれては断たれて落ちるのと相同のものと成って現起する。【172】また、〔人為に〕作り為されていない〔火〕において、〔火の遍満を〕収め取っている者には、遍満の汚点が覚知される。あるいは、燃えている〔木〕の切れ端、あるいは、炭火の塊、あるいは、灰、あるいは、煙が、現起する。相似の形相は、動揺なく、虚空に据え置かれた赤の毛布の切れ端のように、金の扇のように、さらに、金の柱のように、現起する。彼は、まさしく、その〔相似の形相〕の現起と共に、〔瞑想の境地に〕近接する瞑想に、さらに、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想(四禅もしくは五禅)に(※)、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって至り得る、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストには catutthapañcakajjhānāni とあるが、VRI版により catukkapañcakajjhānāni と読む。

 

93.

 

 4 風の遍満(4)

 

§9  風の遍満を修めることを欲する者によってもまた、風において、形相が収め取られるべきである。そして、その〔形相〕は、まさに、あるいは、〔眼で〕見られたものを所以に、あるいは、〔身体に〕触れたものを所以に、〔収め取られるべきである〕。まさに、このことが、諸々のアッタカター(注釈書)において説かれた。「風の遍満を収め取っている者は、風において、形相を収め取る。あるいは、甘蔗の先端が、〔風に〕揺らぎ動揺したのを近しく観る。あるいは、竹の先端が、あるいは、木の先端が、あるいは、髪の先端が、〔風に〕揺らぎ動揺したのを近しく観る。あるいは、身体に触れた〔風〕を近しく観る」と。

 

§10  それゆえに、頭に等しき〔高さ〕で立ち、重厚なる葉ある、あるいは、甘蔗が、あるいは、竹が、あるいは、木が、あるいは、四アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)の量の重厚なる髪ある人の頭が、風に打たれているのを見て、「この風は、この場において、打つ」と、気づきを据え置いて、また、あるいは、すなわち、風が、あるいは、窓の間から、あるいは、壁の穴から、入ってきて、彼の身体の部分を打つなら、そこにおいて、気づきを据え置いて、「ヴァータ」「マールタ」「アニラ」等々の、風の名前のなかで、まさしく、明白なる名前たるを所以に(風については「ヴァーヨー」という名称が一般的であることから)、「ヴァーヨー(風である)」「ヴァーヨー(風である)」と〔説くことで、風の遍満が〕修められるべきである。

 

§11  ここでは、収取の形相は、竈から下ろしたばかりの粥の噴出熱と相同の動揺するものと成って現起する。相似の形相は、静止したものと成り、動揺なきものと〔成る〕。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきであるである。ということで──

 

94.

 

 5 青の遍満(5)

 

§12  その直後に、〔諸々のアッタカターにおける〕「青の遍満を収め取っている者は、青のものにおいて、形相を収め取る──あるいは、花においてであれ、あるいは、衣においてであれ、あるいは、色の界域(色素)においてであれ」という言葉から、まずは、〔過去において〕参究が為された功徳ある者には、そのような形態の、あるいは、花畑の群叢を、あるいは、諸々の供養場における花の敷物を、【173】あるいは、諸々の青の衣や宝珠のなかのどれか一つを、まさしく、見て、〔それだけで〕形相が生起する。

 

§13  〔過去において参究が為されていない〕他の者によって、青蓮やギリカンニカ〔樹〕等々の花を収め取って、すなわち、あるいは、花糸が、あるいは、茎が、覚知されないように、このように、あるいは、小箱を、あるいは、箱の蓋を、諸々の花弁だけで、縁まで一杯に満たして、広げられるべきである。あるいは、青色の衣を束に結んで、〔小箱や蓋が〕満たされるべきである。あるいは、その〔小箱や蓋〕の口の周囲において、鼓の面のように、〔青色の衣が〕結ばれるべきである。あるいは、青銅や青葉や青塗料のなかのどれか一つの〔青色の〕界域(青の色素)によって(※)、地の遍満において説かれた方法によって、あるいは、持ち運びができる〔遍満の円輪〕を〔作って〕、あるいは、まさしく、壁において、〔据え置きの〕遍満の円輪を作って、相違する色から限定されるべきである。そののち、地の遍満において説かれた方法によって、「青である」「青である」と、意を為すことが転起させられるべきである。

 

※ テキストには aññatarena vā dhātunā とあるが、VRI版により aññatarena dhātunā と読む。

 

§14  ここでもまた、収取の形相において、遍満の汚点が覚知され、花糸や茎や花弁の隙間等々が現起する。相似の形相は、遍満の円輪から解き放たれて、虚空にある宝珠の扇と相同のものと〔成って〕現起する。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきであるである。ということで──

 

95.

 

 6 黄の遍満(6)

 

§15  黄の遍満についてもまた、まさしく、これが、方法となる。まさに、このことが、〔諸々のアッタカターにおいて〕説かれた。「黄の遍満を収め取っている者は、黄のものにおいて、形相を収め取る──あるいは、花においてであれ、あるいは、衣においてであれ、あるいは、色の界域(色素)においてであれ」と。それゆえに、ここでもまた、〔過去において〕参究が為された功徳ある者には、そのような形態の、あるいは、花畑の群叢を、あるいは、〔諸々の供養場における〕花の敷物を、あるいは、諸々の黄の衣や〔黄色の〕界域(黄の色素)のなかのどれか一つを、まさしく、見て、〔それだけで〕形相が生起する。チッタ・グッタ長老に〔生起した〕ように。伝えるところでは、その尊者のばあい、チッタラ山において、パッタンガの花々で作られた供養の坐を見ていると、まさしく、見る〔行為〕と共に、坐の量の形相が生起した。

 

§16  〔過去において参究が為されていない〕他の者によって、あるいは、カニカーラの花等々によって、あるいは、黄の衣によって、あるいは、〔黄色の〕界域(黄の色素)によって、まさしく、青の遍満において説かれた方法によって、遍満〔の円輪〕を作って、「黄である」「黄である」と、意を為すことが転起させられるべきである。残りのものは、まさしく、そのようなものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

96.

 

 7 赤の遍満(7)

 

§17  赤の遍満についてもまた、まさしく、これが、方法となる。まさに、このことが、〔諸々のアッタカターにおいて〕説かれた。「赤の遍満を収め取っている者は、赤のものにおいて、形相を収め取る──あるいは、花においてであれ、【174】あるいは、衣においてであれ、あるいは、色の界域(色素)においてであれ」と。それゆえに、ここでもまた、〔過去において〕参究が為された功徳ある者には、そのような形態の、あるいは、バンドゥジーヴァカ等の花畑の群叢を、あるいは、〔諸々の供養場における〕花の敷物を、あるいは、諸々の赤の衣や宝珠や〔赤色の〕界域(赤の色素)のなかのどれか一つを、まさしく、見て、〔それだけで〕形相が生起する。

 

§18  〔過去において参究が為されていない〕他の者によって、あるいは、ジャヤスマナやバンドゥジーヴァカやラッタコーランダカ等の花々によって、あるいは、赤の衣によって、あるいは、〔赤色の〕界域(赤の色素)によって、まさしく、青の遍満において説かれた方法によって、遍満〔の円輪〕を作って、「赤である」「赤である」と、意を為すことが転起させられるべきである。残りのものは、まさしく、そのようなものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

97.

 

 8 白の遍満(8)

 

§19  白の遍満についてもまた、〔諸々のアッタカターにおける〕「白の遍満を収め取っている者は、白のものにおいて、形相を収め取る──あるいは、花においてであれ、あるいは、衣においてであれ、あるいは、色の界域(色素)においてであれ」という言葉から、まずは、〔過去において〕参究が為された功徳ある者には、そのような形態の、あるいは、花畑の群叢を、あるいは、ヴァッシカやスマナ等の〔諸々の供養場における〕花の敷物を、あるいは、クムダやパドゥマ〔の蓮の花〕の群落を、あるいは、諸々の白の衣や〔白色の〕界域(白の色素)のなかのどれか一つを、まさしく、見て、〔それだけで〕形相が生起する。錫の円輪や銀の円輪や月の円輪においてもまた、まさしく、生起する。

 

§20  〔過去において参究が為されていない〕他の者によって、あるいは、〔前に〕説かれた流儀の白の花々によって、あるいは、白の衣によって、あるいは、〔白色の〕界域(白の色素)によって、まさしく、青の遍満において説かれた方法によって、遍満〔の円輪〕を作って、「白である」「白である」と、意を為すことが転起させられるべきである。残りのものは、まさしく、そのようなものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

98.

 

 9 光明の遍満(9)

 

§21  また、光明の遍満についてもまた、〔諸々のアッタカターにおける〕「光明の遍満を収め取っている者は、光明において、形相を収め取る──あるいは、壁の穴においてであれ、あるいは、鍵の穴においてであれ、あるいは、窓の間においてであれ」という言葉から、まずは、〔過去において〕参究が為された功徳ある者には、すなわち、壁の穴等々のなかのどれか一つから、あるいは、太陽の光明が〔入って〕、あるいは、月の光明が入って、あるいは、壁において、あるいは、地上において、円輪を現起させ──あるいは、重厚なる葉ある木の枝の間から〔出て〕、あるいは、重厚なる枝ある天幕の間から出て、まさしく、地上において、円輪を現起させ──その〔円輪〕を、まさしく、見て、〔それだけで〕形相が生起する。

 

§22  〔過去において参究が為されていない〕他の者によってもまた、まさしく、その、〔前に〕説かれた流儀の光の円輪が、あるいは、「光である」「光である」と、あるいは、「光明である」「光明である」と、修められるべきである。そのようにできない者によって、鉢のなかに灯明を燃やして、鉢の口を塞いで、鉢に〔光を出す〕穴を作って、壁に向かい、据え付けられるべきである。その穴から灯明の光明が出て、壁において円輪を作る。その〔円輪〕が、【175】「光明である」「光明である」と、修められるべきである。この〔円輪〕は、〔前に説かれた〕諸他のものより長く続くものと成る。

 

§23  ここでは、収取の形相は、あるいは、壁において、あるいは、地上において、まさしく、出起した円輪と相同のものと成る。相似の形相は、重厚にして澄浄なる光明の塊と相同のものと〔成る〕。残りのものは、まさしく、そのようなものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

99.

 

 10 限定された虚空の遍満(10)

 

§24  限定された虚空の遍満についてもまた、〔諸々のアッタカターにおける〕「虚空の遍満を収め取っている者は、虚空において、形相を収め取る──あるいは、壁の穴においてであれ、あるいは、鍵の穴においてであれ、あるいは、窓の間においてであれ」という言葉から、まずは、〔過去において〕参究が為された功徳ある者には、壁の穴等々のうち、どれか一つを、まさしく、見て、〔それだけで〕形相が生起する。

 

§25  〔過去において参究が為されていない〕他の者によって、あるいは、しっかりと覆われた天幕において、あるいは、皮や筵等々のなかのどれか一つにおいて、〔一〕ヴィダッティ(長さの単位・一ヴィダッティは約二十五センチ)と四アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ・十二アングラが一ヴィダッティに相当)の量の穴を作って、まさしく、その、壁の穴等の細別ある穴が、「虚空である」「虚空である」と、修められるべきである。

 

§26  ここでは、収取の形相は、壁の制限(穴の周囲の壁)等々と共にあり、まさしく、穴と相同のものと成る。たとえ、増大させられているとして、増大しない。相似の形相は、まさしく、虚空の円輪と成って現起する。そして、増大させられていると、増大する。残りのものは、まさしく、地の遍満において説かれた方法によって、知られるべきである。ということで──

 

 [11 十の遍満についての雑駁なる言説]

 

§27  〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、十の力ある方(ブッダ)は、〔十の〕遍満を〔説いた〕。すなわち、形態の行境における四なる〔瞑想〕と五なる瞑想(四禅と五禅)の因となる十〔の遍満〕を、一切の法(事象)を見る方は説いた。

 このように、そして、それら〔の十の遍満〕を〔知って〕、さらに、それら〔の十の遍満〕の(※)、この修行の方法を知って〔そののち〕、まさしく、それら〔の十の遍満〕について、この雑駁なる言説もまた、より一層、識知されるべきである」と。

 

※ テキストには sesañca とあるが、VRI版により tesañca と読む。

 

100.

 

§28  まさに、これら〔の十の遍満〕において、地の遍満を所以に、「一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります」(ディーガ・ニカーヤ1p.78)という〔言葉〕等の状態──あるいは、虚空において、あるいは、水において、地を化作して、足によって赴くこと、あるいは、立つことや坐ること等を営為すること──微小と無量の方法による征服ある〔認識の〕場所(勝処:克服し超克された認識対象;ディーガ・ニカーヤ2p.110,ディーガ・ニカーヤ3p.260,マッジマ・ニカーヤ2p.13)の獲得──という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§29  水の遍満を所以に、地のなかに出没すること、雨の水を生起させること、川や海を化作すること、地や山や高楼等々を動かすこと、という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§30  火の遍満を所以に、煙を出すこと、燃え盛ること、炭火の雨を生起させること、火によって火を完全に取り払うこと──彼が、まさしく、それを〔燃やすことを〕求めるなら、【176】それを焼くことができること──天眼によって形態を見ることを義(目的)として光明を作り為すこと──完全なる涅槃の時点において、火の界域によって肉体を燃やし尽くすこと──という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§31  風の遍満を所以に、風の赴く〔速さ〕で赴くこと、風の雨を生起させること、という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§32  青の遍満を所以に、青の形態を化作すること、暗黒を作り為すこと、善色と悪色の方法による征服ある〔認識の〕場所の獲得(ディーガ・ニカーヤ2p.110,ディーガ・ニカーヤ3p.260,マッジマ・ニカーヤ2p.13)、浄美の解脱への到達(ディーガ・ニカーヤ2p.112,ディーガ・ニカーヤ3p.262,マッジマ・ニカーヤ2p.12)、という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§33  黄の遍満を所以に、黄の形態を化作すること、「金となれ」と信念すること(サンユッタ・ニカーヤ1p.116)、まさしく、〔前に〕説かれた〔善色と悪色の〕方法による征服ある〔認識の〕場所の獲得、さらに、浄美の解脱への到達、という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§34  赤の遍満を所以に、赤の形態を化作すること、まさしく、〔前に〕説かれた〔善色と悪色の〕方法による征服ある〔認識の〕場所の獲得、浄美の解脱への到達、という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§35  白の遍満を所以に、白の形態を化作すること、〔心の〕沈滞と眠気に遠き状態を作り為すこと、暗黒を砕破すること、天眼によって形態を見ることを義(目的)として光明を作り為すこと、という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§36  光明の遍満を所以に、光を有する形態を化作すること、〔心の〕沈滞と眠気に遠き状態を作り為すこと、暗黒を砕破すること、天眼によって形態を見ることを義(目的)として光明を作り為すこと、という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§37  虚空の遍満を所以に、諸々の覆われたものに開かれた〔状態〕を作り為すこと──地や山等々の内でさえも虚空を化作して、振る舞いの道(行住坐臥)を営為すること──壁を超える等々において着することなく赴くこと──という、このような〔あり方〕等々のことが実現する。

 

§38  まさしく、全て〔の遍満〕が、上に、下に、横に、無二なるもの(※)、無量なるもの、という、この細別を得る。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「或る者は、地の遍満を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します」(アングッタラ・ニカーヤ5p.60)等と。

 

※ テキストには dvaya とあるが、VRI版により advaya と読む。

 

§39  そこにおいて、「上に」とは、上なる空域に向かい。「下に」とは、下なる地域に向かい。「横に」とは、田畑の圏域のように、遍きにわたり限定されたところに。まさに、一部の者は、まさしく、上に、遍満を増大させる。一部の者は、下に〔遍満を増大させる〕。一部の者は、遍きにわたり〔遍満を増大させる〕。あるいは、それぞれの動機によって、このように拡大させる──天眼によって形態を見ることを欲する者が、光明を〔作り為す〕ように。【177】それによって説かれた。「上に、下に、横に」と。また、「無二なるもの」とは、これは、一つ〔の遍満〕が他なる状態に近しく赴かないことを義(意味)として説かれた。まさに、たとえば、水に入った者には、一切の方角に水だけが有り、他のものがないように、まさしく、このように、地の遍満は、地の遍満だけが有る。それに、他の遍満の混入は存在しない、と〔知られるべきである〕。まさしく、これが、一切所において、〔共通する説示の〕方法となる。「無量なるもの」とは、これは、その〔遍満〕の、充満の無量を所以に説かれた。まさに、その〔遍満〕を、心で充満している者は、まさしく、全体を充満し、「これは、その〔遍満〕の、最初である。これは、中間である」と、量を収め取ることがない、と〔知られるべきである〕。

 

101.

 

§40  さらに、すなわち、「あるいは、行為の妨害(業障)を具備し、あるいは、〔心の〕汚れの妨害(煩悩障)を具備し、あるいは、報いの妨害(異熟障)を具備し、信なく、〔涅槃への〕欲〔の思い〕なく、智慧浅く、諸々の善なる法(性質)における正しい〔道〕たる決定に入ることができない者たち」(ヴィバンガp.341)と説かれた、それらの有情たちは、彼らのなかの一者でさえも、たとえ、一つの遍満においてであれ、〔その〕修行は実現することがない(成功しない)。

 

§41  そこにおいて、「行為の妨害を具備し」とは、直後なる〔報い〕ある行為(無間業)の保有者(結生直後に報いが転起する悪業の保有者)たちのこと。「〔心の〕汚れの妨害を具備し」とは、まさしく、そして、〔過誤が〕決定している誤った見解(邪見)ある者たち、さらに、両性具有者や去勢者たちのこと。「報いの妨害を具備し」とは、無因と二因の結生者たちのこと(過去世における無貪・無瞋・無痴という三つの善因を欠く再生者たち、さらに、禅定の獲得に欠かせない善因である無痴を欠く再生者たち)。「信なく」とは、覚者(ブッダ)等々への信が絶無となった者たちのこと。「〔涅槃への〕欲〔の思い〕なく」とは、正反対〔の法〕(修行の妨害)なき〔実践の〕道への欲〔の思い〕が絶無となった者たちのこと。「智慧浅く」とは、世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものとしての正しい見解(正見)が絶無となった者たちのこと。「諸々の善なる法(性質)における正しい〔道〕たる決定に入ることができない者たち」とは、「諸々の善なる法(性質)における決定」と名づけられ、さらに、「正しい〔道〕たること」と名づけられた、聖者の道に入ることができない者たち、という義(意味)である。

 

§42  さらに、単に、遍満においてだけではなく、諸他の〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)においてもまた、これらの者たちなかの一者でさえも、〔その〕修行は実現することがない。それゆえに、報いの妨害を離れ去った良家の子息によってもまた、そして、行為の妨害を、さらに、〔心の〕汚れの妨害を、遠く離れ、遍く避けて、正なる法(教え)の聴聞や正なる人士を依所とすること等々によって、そして、信を、かつまた、〔涅槃への〕欲〔の思い〕を、さらに、智慧を、増大させて、〔心を定める〕行為の拠点への専念において、〔心の〕制止が為されるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「残りの遍満についての釈示」という名の第五章となる。