第二十章 道と道ならざるものの知見の清浄についての釈示

 

692.

 

§1  【606】また、「これは、道である」「これは、道ではない」と、このように、そして、道を、さらに、道ならざるものを、〔両者ともに〕知って、〔迷妄なき境地において〕安立した知恵が、「道と道ならざるものの知見の清浄」ということになる。

 

§2  その〔道と道ならざるものの知見の清浄〕を成就させることを欲する者によって、まずは、「〔形態や感受作用等の諸法の〕集合の〔あるがままの〕触知」と名づけられた、〔帰納的〕方法の〔あるがままの〕観察において、〔心の〕制止が為されるべきである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「〔あるがままの〕観察を始めた者に、光輝等〔の十の付随する心の汚れ〕(光輝・知恵・喜悦・静息・安楽・信念・励起・現起・放捨・欲念:§105)の発生あるとき、道と道ならざるものについての知恵の発生あることから」〔と答える〕。なぜなら、〔あるがままの〕観察を始めた者に、光輝等々〔の十の付随する心の汚れ〕が発生したとき、道と道ならざるものについての知恵が有り、かつまた、〔あるがままの〕観察にとって、〔形態や感受作用等の諸法の〕集合の〔あるがままの〕触知は、最初のものであるからである。それゆえに、この〔道と道ならざるものの知見の清浄〕が、疑いの超渡〔の清浄〕の直後に配置された。さらに、また、すなわち、推量の遍知が転起しているときに、道と道ならざるものについての知恵が生起し、かつまた、推量の遍知は、所知の遍知の直後にあることから、それゆえにもまた、その道と道ならざるものの知見の清浄を成就させることを欲する者によって、まずは、〔形態や感受作用等の諸法の〕集合の〔あるがままの〕触知において、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

693.

 

 1 三つの遍知

 

§3  そこで、これが、〔その〕判別となる。まさに、三つの世〔俗〕のものとしての遍知がある。(1)所知の遍知、(2)推量の遍知、さらに、(3)捨棄の遍知である。それらに関して、「証知としての智慧が、所知の義(意味)についての知恵となり、遍知としての智慧が、推量の義(意味)についての知恵となり、捨棄としての智慧が、遍捨の義(意味)についての知恵となり」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と説かれた。(1)そこにおいて、「形態は、壊れ崩れることを特相とする」「感受〔作用〕は、感受されたものを特相とする」と、このように、それらそれらの諸法(性質)の、各自の特相(個別的特相)の省察を所以に転起された智慧が、「所知の遍知」ということになる。(2)また、「形態は、無常である」「感受〔作用〕は、無常である」という〔言葉〕等の方法によって、まさしく、それらの諸法(性質)の、【607】同等の特相(一般的特相)を揚挙して転起された、特相を対象とする〔あるがままの〕観察の智慧が、「推量の遍知」ということになる。(3)また、まさしく、それらの諸法(性質)において、常住の表象等の捨棄を所以に転起された、特相を対象とする〔あるがままの〕観察の智慧が、「捨棄の遍知」ということになる。

 

§4  (1)そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の〔範囲の〕限定(Ch.18)から以降、すなわち、縁の遍き収取(Ch.19)までが、所知の遍知の境地である。なぜなら、この間においては、諸法(性質)の各自の特相の理解だけが、優位のものと成るからである(優勢となり他に先行する)。(2)また、〔形態や感受作用等の諸法の〕集合の〔あるがままの〕触知(§6)から始まって、すなわち生成と衰失の随観(Ch.21§2)までが、推量の遍知の境地である。なぜなら、この間においては、同等の特相の理解だけが、優位のものと成るからである。(3)滅壊の随観(Ch.21§10)を最初と為して以後が、捨棄の遍知の境地である。なぜなら、それから以降、「無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、愉悦を(※)捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅させている者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する」(パティサンビダー・マッガ1p.58)と、このように、常住の表象等の捨棄を遂行する七つの随観が、優位のものと〔成る〕からである。

 

※ テキストには ninda とあるが、VRI版により nandi と読む。

 

§5  かくのごとく、これらの三つの遍知のうち、まさしく、そして、諸々の形成〔作用〕の〔範囲の〕限定が〔遂行され〕、さらに、縁の遍き収取が遂行されたことから、この〔心の〕制止者によって、所知の遍知だけが到達されたものと成り、そして、他〔の二つの遍知〕が到達されるべきものと〔成る〕。それによって説かれた。「すなわち、推量の遍知が転起しているときに、道と道ならざるものについての知恵が生起し、かつまた、推量の遍知は、所知の遍知の直後にあることから、それゆえにもまた、その道と道ならざるものの知見の清浄を成就させることを欲する者によって、まずは、〔形態や感受作用等の諸法の〕集合の〔あるがままの〕触知において、〔心の〕制止が為されるべきである」(§2)と。

 

694.

 

§6  そこで、これが、〔形態や感受作用等の諸法の集合のあるがままの触知についての〕聖典となる。「どのように、過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となるのか。それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、[あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、]あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるもので……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるもので……略……無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。眼を……略……老と死を、過去と未来と現在のものも、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。

 

§7  『形態は、過去と未来と現在のものも、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である』と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。【608】『感受〔作用〕は……。『識知〔作用〕は……。『眼は……略……。『老と死は……略……触知についての知恵となる。『形態は、過去と未来と現在のものも、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である』と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。『感受〔作用〕は……。『識知〔作用〕は……。『眼は……。『老と死は、過去と未来と現在のものも、無常であり、形成されたものであり……略……止滅の法(性質)である』と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。

 

§8  『生という縁あることから、老と死がある。生が存していないとき、老と死は存することがない』と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、『生という縁あることから、老と死がある。生が存していないとき、老と死は存することがない』と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。『生存という縁あることから、生がある。……略……。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存することがない』と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存することがない』と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。

 それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。『過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.53-4)と。

 

§9  そして、ここにおいて、「眼は……略……老と死は」という、この省略〔箇所〕によって、〔感官の〕門と対象と共に、門によって転起された諸法(性質)である、五つの範疇、六つの門、六つの対象、六つの識知〔作用〕、六つの接触、六つの感受、六つの表象、六つの思欲、六つの渇愛、六つの思考、六つの想念、六つの界域、十の遍満、三十二の〔身体の〕部位、十二の〔認識の〕場所、十八の界域、二十二の機能、三つの界域、九つの生存、四つの瞑想、四つの無量、四つの入定、十二の縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の支分、という、これらの諸法(性質)の集まりが、簡略されたものとしてある(省略箇所に含まれている)、と知られるべきである。

 

§10  まさに、このことが、〔『パティサンビダー(無礙解道)』の〕証知についての釈示において説かれた。「比丘たちよ、一切が、証知されるべきです。比丘たちよ、では、どのようなものとして(※)、一切が、証知されるべきですか。【609】比丘たちよ、眼が、証知されるべきです。諸々の形態が(※※)……。眼の識知〔作用〕が……。眼の接触が……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知されるべきです。耳が……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知されるべきです。

 

※ テキストには Kiñci とあるが、VRI版により Kiñca と読む。

※※ テキストには rūpa とあるが、VRI版により rūpā と読む。

 

§11  形態が……。識知〔作用〕が……。眼が……。意が……。諸々の形態が(※)……。諸々の法(意の対象)が……。眼の識知〔作用〕が……。意の識知〔作用〕が……。眼の接触が……。意の接触が……。眼の接触から生じる感受が……。意の接触から生じる感受が……。形態の表象が……。法(意の対象)の表象が……。形態の思欲が……。法(意の対象)の思欲が……。形態の渇愛が……。法(意の対象)の渇愛が……。形態の思考が……。法(意の対象)の思考が……。形態の想念が……。法(意の対象)の想念が……。地の界域が……。識知〔作用〕の界域が……。地の遍満が……。識知〔作用〕の遍満が……。諸々の髪が……略……。脳味噌が……。眼の〔認識の〕場所が……。法(意の対象)の〔認識の〕場所が……。眼の界域が……。意の識知〔作用〕の界域が……。眼の機能が……。了知者の機能が……。欲望の界域が……。形態の界域が……。形態なき界域が……。欲望の生存が……。形態の生存が……。形態なき生存が……。表象の生存が……。表象なき生存が……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存が……。一つの構成としての生存が……。四つの構成としての生存が……。五つの構成としての生存が……。第一の瞑想が……。第四の瞑想が……。慈愛という〔止寂の〕心による解脱が……。放捨という〔止寂の〕心による解脱が……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定が……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が……。無明が、証知されるべきです。……略……。老と死が、証知されるべきです」(パティサンビダー・マッガ1p.5-8)と。

 

※ テキストには rūpa とあるが、VRI版により rūpā と読む。

 

§12  それが、そこ(『パティサンビダー(無礙解道)』の証知についての釈示)において、このように詳細〔の観点〕によって説かれたことから、ここ(最初の引用聖典:§6-8)では、〔その〕一切が、省略〔箇所〕によって簡略されたものとしてある。また、このように簡略されたものにおいて、ここにおいて、すなわち、世〔俗〕を超える諸法(性質)として言及されたものは、それらは、触知に近しく赴くものではないことから、この参究において収め取られるべきではない。そして、たとえ、それらが、触知に近しく赴くものであるとして、それらのなかでも、すなわち、彼にとって、明白なるものと成り、楽に遍き収取に至る、それらのものにおいて、彼によって、触知が始められるべきである。

 

695.

 

 2 五つの〔心身を構成する〕範疇の無常を所以にする触知

 

§13  そこで、これが、範疇()を所以に〔触知を〕始めての規定の解釈となる。「それが何であれ、形態としてあるなら……略……一切の形態を、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から……無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの【610】触知となる」(パティサンビダー・マッガ1p.53:§6)とは、これだけで、この比丘は、「それが何であれ、形態としてあるなら」と、このように決定なきもの(不特定のもの)として釈示された形態を、全てもろともに──まさしく、そして、過去〔と未来と現在〕の三なるものによって、さらに、四つの内なるもの等の二なるもの(内と外・粗雑と繊細・下劣と精妙・遠方と現前)によって、ということで、十一の空間によって限定して、一切の形態を──無常〔の観点〕から定め置き、「無常である」と触知する。どのようにか。〔そのすぐ〕後に説かれた方法によって。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「形態は、過去と未来と現在のものも、滅尽の義(意味)によって、無常であり〔云々〕」(パティサンビダー・マッガ1p.53:§7)と。

 

§14  それゆえに、彼(瞑想修行者)は、「(1)すなわち、過去のものとしてある形態は、それは、すなわち、まさしく、過去において、滅尽したことから、この生存への得達はない、ということで、滅尽の義(意味)によって、無常であり、(2)すなわち、直後の生存において発現するであろう、未来のものとしてある〔形態〕は、それもまた、まさしく、そこ(直後の生存)において、滅尽するであろうし、それより他の生存に至り行くことはないであろう、ということで、滅尽の義(意味)によって、無常であり、(3)すなわち、現在のものとしてある形態は、それもまた、まさしく、ここ(現在)において、滅尽し、ここから至り行くことはない、ということで、滅尽の義(意味)によって、無常であり、(4)すなわち、内なるものとしてある〔形態〕は、それもまた、まさしく、内なるものとして、滅尽し、外なる生存に至り行くことはない、ということで、滅尽の義(意味)によって、無常であり、(5)すなわち、外なるものとしてある〔形態〕は……略……(6)粗雑なるものとしてある〔形態〕は……(7)繊細なるものとしてある〔形態〕は……(8)下劣なるものとしてある〔形態〕は……(9)精妙なるものとしてある〔形態〕は……(10)遠方にあるものとしてある〔形態〕は……(11)現前にあるものとしてある〔形態〕は、それもまた、まさしく、そこ(現前)において、滅尽し、遠方にある生存に至り行くことはない、ということで、滅尽の義(意味)によって、無常である」と触知する。この〔形態〕は、全てもろともに、「滅尽の義(意味)によって、無常である」と、この〔義〕を所以に、一つの触知となり、また、細別〔の観点〕から、十一種類のものと成る。

 

§15  かつまた、その〔形態〕は、まさしく、〔その〕全てが、「恐怖の義(意味)によって、苦痛であり」(パティサンビダー・マッガ1p.53:§7)──「恐怖の義(意味)によって」とは、恐怖を有することによって──なぜなら、それが、無常であるなら、その〔形態〕は、『シーホーパマ・スッタ』(サンユッタ・ニカーヤ3p.84)における天〔の神々〕たちのばあいのように、恐怖をもたらすものと成るからである。かくのごとく、この〔形態〕もまた、「恐怖の義(意味)によって、苦痛である」と、この〔義〕を所以に、一つの触知となり、また、細別〔の観点〕から、十一種類のものと成る。

 

§16  さらに、すなわち、苦痛であるように、このように、その〔形態〕は、全てもろともに、「真髄なきものの義(意味)によって、無我である」(パティサンビダー・マッガ1p.53:§7)──「真髄なきものの義(意味)によって」とは、「自己」「居住者」「作り手」「受け手」「自らの自在者」という、このように遍く想い描かれた、自己の真髄の状態がないことによって──なぜなら、それが、無常であるなら、その〔形態〕は、苦痛であり、自己の〔形態〕もまた、あるいは、〔その〕無常性を、あるいは、生成と衰失の逼悩を、阻止することが(※)できないからである。どうして、その〔形態〕に、作り手等の状態があるというのだろう。それによって、〔世尊は〕言う。「比丘たちよ、まさに、そして、この形態が、自己として有ったなら、この形態は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、[さらに、形態にたいし、『わたしの形態は、このように有れ。わたしの形態は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう]」(サンユッタ・ニカーヤ3p.66,ヴィナヤ1p.13)等と。かくのごとく、この〔形態〕もまた、「真髄なきものの義(意味)によって、無我である」と、この〔義〕を所以に、一つの触知となり、また、細別〔の観点〕から、十一種類のものと成る。

 【611】これが、感受〔作用〕等々について、〔共通する説示の〕方法となる。

 

※ テキストには udayabbayapīana va dhāretu とあるが、VRI版により udayabbayapīana vā vāretu と読む。

 

696.

 

§17  また、それが、無常であるなら、その〔形態〕は、すなわち、決定して、形成されたもの等の細別あるものと成ることから、それによって、彼(瞑想修行者)に、〔無常の〕教相を見示することを義(目的)に、あるいは、種々なる行相によって意を為すことの転起を見示することを義(目的)に、「形態は、過去と未来と現在のものも、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」(パティサンビダー・マッガ1p.53:§7)と、ふたたび、聖典が説かれた。これが、感受〔作用〕等々について、〔共通する説示の〕方法となる、と〔知られるべきである〕。

 

697.

 

§18  彼は、まさしく、その、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)における無常と苦痛と無我の触知を、強固なる状態とすることを義(目的)として──すなわち、その、世尊によって〔説かれた〕、「どのような四十の行相によって、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得するのか。どのような四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入るのか」(パティサンビダー・マッガ2p.238)という、この〔句〕の区分において、「五つの〔心身を構成する〕範疇を、(1)無常〔の観点〕から、(2)苦痛〔の観点〕から、(3)病〔の観点〕から、(4)腫物〔の観点〕から、(5)矢〔の観点〕から、(6)悩苦〔の観点〕から、(7)病苦〔の観点〕から、(8)他者〔の観点〕から、(9)崩壊〔の観点〕から、(10)疾患〔の観点〕から、(11)禍〔の観点〕から、(12)恐怖〔の観点〕から、(13)災禍〔の観点〕から、(14)動揺するもの〔の観点〕から、(15)滅壊するもの〔の観点〕から、(16)常恒ならざるもの〔の観点〕から、(17)救護所ならざるもの〔の観点〕から、(18)避難所ならざるもの〔の観点〕から、(19)帰依所ならざるもの〔の観点〕から、(20)空虚〔の観点〕から、(21)虚妄〔の観点〕から、(22)空〔の観点〕から、(23)無我〔の観点〕から、(24)危険〔の観点〕から、(25)変化の法(性質)〔の観点〕から、(26)真髄なきもの〔の観点〕から、(27)悩苦の根元〔の観点〕から、(28)殺戮者〔の観点〕から、(29)非生存〔の観点〕から、(30)煩悩を有するもの〔の観点〕から、(31)形成されたもの〔の観点〕から、(32)悪魔の餌〔の観点〕から、(33)生の法(性質)〔の観点〕から、(34)老の法(性質)〔の観点〕から、(35)病の法(性質)〔の観点〕から、(36)死の法(性質)〔の観点〕から、(37)憂いの法(性質)〔の観点〕から、(38)嘆きの法(性質)〔の観点〕から、(39)葛藤の法(性質)〔の観点〕から、(40)〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から」(パティサンビダー・マッガ2p.238)という、四十の行相によって──〔さらに、すなわち〕「五つの〔心身を構成する〕範疇を、無常〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。『五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、常住であり、涅槃である』と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る」(パティサンビダー・マッガ2p.238)という〔言葉〕等の方法によって、〔真理に〕随順する知恵として区分しつつ、細別〔の観点〕から、無常等の触知が、〔世尊によって〕説かれたが、それを所以にもまた──これらの五つの〔心身を構成する〕範疇を触知する。

 

698.

 

§19  どのようにか。まさに、彼(瞑想修行者)は、一つ一つの範疇を──(1)究極のもの(常久のもの)なきことから(※)、さらに、最初と最後(生起と衰失)あることから、無常〔の観点〕から、(2)生起と衰失による逼悩あることから、さらに、苦しみの基盤たることから、苦痛〔の観点〕から、(3)縁によって保持されるべきことから、さらに、病の根元たることから、病〔の観点〕から、(4)苦なることという串との結合あることから、〔心の〕汚れの不浄物が流出することから、さらに、生起と老化と滅壊によって膨張し完熟し破壊したことから、腫物〔の観点〕から、(5)逼悩(激痛)を生じさせることから、内を刺すことから、さらに、取り出し難きことから、矢〔の観点〕から、(6)罵倒されるべきことから、増大なき〔状態〕をもたらすことから、さらに、悩苦の基盤たることから、【612】悩苦〔の観点〕から、(7)独存なき状態を生じさせることから、さらに、病苦の境処の拠点(直接原因)たることから、病苦〔の観点〕から、(8)自在なきことから、さらに、調節できないことから、他者〔の観点〕から、(9)病と老と死によって崩壊することから、崩壊〔の観点〕から、(10)無数の災厄をもたらすことから、疾患〔の観点〕から、(11)まさしく、〔いまだ〕見出されていない、諸々の広大にして義(利益)ならざるものをもたらすことから、さらに、一切の禍の基盤たることから、禍〔の観点〕から、(12)一切の恐怖の鉱脈たることから、さらに、「苦しみの寂止」と名づけられた最高の安堵と相反するものとして有ることから、恐怖〔の観点〕から、(13)無数の義(利益)ならざるものによる追随あることから、〔心の〕汚点(悪意)によって迫害されることから、さらに、災禍のように耐え忍ぶことができないことから、災禍〔の観点〕から、(14)まさしく、そして、病と老と死によって、さらに、利得と利得なき等々の世〔俗〕の諸法(性質)によって、動揺することから、動揺するもの〔の観点〕から、(15)まさしく、そして、行動〔による死〕(事故死)によって、さらに、自ずからの効用(機能・性行)〔による死〕(自然死)によって、滅壊に近しく赴くことを戒とすることから、滅壊するもの〔の観点〕から、(16)一切の位置において落ち行くものたることから、さらに、強固なる状態の状態なきことから、常恒ならざるもの〔の観点〕から、(17)まさしく、そして、救護なきことから、さらに、平安が得られるべくもないことから、救護所ならざるもの〔の観点〕から、(18)避難することができないことから、さらに、また、避難している者たちにとって避難所の作用を為すことなきものたることから(※※)、避難所ならざるもの〔の観点〕から、(19)依存している者たちにとって恐怖を砕破する状態なきことから、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、(20)遍く想い描かれたとおりの常恒で浄美で安楽で自己なる状態が空虚なることから、空虚〔の観点〕から、(21)まさしく、空虚なることから、あるいは、微小なるものであることから──なぜなら、微小なるものもまた、世において、「虚妄である」と説かれるからである──虚妄〔の観点〕から、(22)主人や居住者や作り手や受け手や確立者の絶無なることから、空〔の観点〕から、(23)さらに、自ら主人ならざる状態等たることから、無我〔の観点〕から、(24)〔生の〕転起(輪廻)の苦なることから、さらに、苦しみの危険なることから、危険〔の観点〕から、そこで、あるいは、悲惨(アーディーナ)が、吹きすさび(ヴァーティ)、至り行き、転起する、ということで、「危険(アーディーナヴァ)」──これは、困窮の人間の同義語である──そして、諸々の範疇もまた、まさしく、困窮のものである、ということで、危険に等しきことから、危険〔の観点〕から、(25)まさしく、そして、老によって、さらに、死によって、ということで、二種に、変異という〔生来の〕性向あることから、変化の法(性質)〔の観点〕から、(26)力弱きことから、さらに、樹皮のように楽に打ち砕けることから、真髄なきもの〔の観点〕から、(27)悩苦の因たることから、悩苦の根元〔の観点〕から、(28)朋友顔の敵のように信頼の殲滅者たることから、殺戮者〔の観点〕から、(29)生存が離れ去ったことから、さらに、非生存が発生したことから、非生存〔の観点〕から、(30)煩悩の境処の拠点(直接原因)たることから、煩悩を有するもの〔の観点〕から、(31)因と縁によって行作されたことから、形成されたもの〔の観点〕から、(32)死魔の悪魔と〔心の〕汚れの悪魔たちの餌として有ることから、悪魔の餌〔の観点〕から、(33・34・35・36)生と老と病と死という〔生来の〕性向あることから、生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、(37・38・39)憂いと嘆きと葛藤の因たることから、憂いと嘆きと葛藤の法(性質)〔の観点〕から、(40)渇愛と見解と悪しき行ないという〔心の〕汚染にとって境域(対象)の法(性質)たることから、〔心の〕汚染の法(性質)〔の観点〕から──ということで、このように、細別〔の観点〕から説かれた無常等の触知を所以に触知する。

 

※ テキストには aniccan-tikatāya とあるが、VRI版により anaccantikatāya と読む。

※※ テキストには leakiccākāranāya とあるが、VRI版により leakiccākāritāya と読む。

 

§20  まさに、ここにおいて、無常〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常恒ならざるもの〔の観点〕から、【613】変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、形成されたもの〔の観点〕から、死の法(性質)〔の観点〕から、ということで、一つ一つの範疇において、十〔の触知〕、十〔の触知〕を為して、五十の無常の随観となる。他者〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から(※)、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、ということで、一つ一つの範疇において、五〔の触知〕、五〔の触知〕を為して、二十五の無我の随観となる。残りの、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、という〔言葉〕等々が、一つ一つの範疇において、二十五〔の触知〕、二十五〔の触知〕を為して、百二十五の苦痛の随観となる、と〔知られるべきである〕。

 かくのごとく、彼が、この二百の細別ある無常等の触知によって、五つの〔心身を構成する〕範疇を触知していると、〔まさに〕その、「〔帰納的〕方法の〔あるがままの〕観察」と名づけられた、無常と苦痛と無我の触知が、強固なるものと成る。まずは、ここにおいて、これが、聖典の方法に従い行くことで触知を始めての規定となる。

 

※ テキストには parittato とあるが、VRI版により rittato と読む。

 

699.

 

 3 九つの行相

 

§21  また、彼が、このように、〔帰納的〕方法の〔あるがままの〕観察によって、〔心の〕制止を為しつつもなお、〔帰納的〕方法の〔あるがままの〕観察が成就しないなら、彼によって、九つの行相によって、諸々の機能()は鋭敏と成り、生起しては生起した諸々の形成〔作用〕の滅尽だけを、〔心の制止者は〕見る。そして、そこにおいて、(1)恭しく為すことによって成就させる、(2)常に為すことによって成就させる、(3)正当に為すことによって成就させる、(4)さらに、禅定(三昧・定)の形相を収め取ることによって〔成就させる〕、(5)さらに、〔七つの〕覚りの支分(覚支)に随転することによって〔成就させる〕、(6)さらに、身体について〔期待なきことを現起させる〕、(7)さらに、生命について期待なきことを現起させる、(8)さらに、そこにおいて、〔生起する苦痛を〕離欲によって征服して〔成就させる〕、(9)さらに、中途で終えないことによって(※)〔成就させる〕、という、このように説かれた九つの行相を所以に、諸々の機能を鋭敏と為して、地の遍満についての釈示において説かれた方法によって(Ch.4§35)、七つの不当なるものを避けて、七つの正当なるものと〔常に〕慣れ親しみつつ、〔しかるべき〕時に、形態が触知されるべきであり、〔しかるべき〕時に、形態なきものが〔触知されるべきである〕。

 

※ テキストには accosānenā とあるが、VRI版により abyosānenā と読む。

 

700.

 

 4 形態の触知

 

§22  形態を触知している者によって、形態の発現が見られるべきである。それは、すなわち、この──この、「形態」というものは、行為等(行為・心・食・季節)を所以に、四つの契機によって発現する。

 

§23  そこにおいて、一切の有情たちに、形態が発現しつつあるなら、最初に、行為()から発現する。まさに、まさしく、結生の瞬間において、〔母の〕胎に臥す者(胎生)たちのばあい、まずは、三つの相続を所以に、「〔心臓の〕基盤〔の十なるもの〕」と「身〔の十なるもの〕」と「〔性差の〕状態の十なるもの」と名づけられた三十の形態が発現する。そして、それら〔の三十の形態〕は、まさに、結生の心の、まさしく、生起の瞬間においてある。さらに、すなわち、まさしく、生起の瞬間においてあるように、そのように、止住の瞬間においてもまたあり、滅壊の瞬間においてもまたある(同様である)。そこにおいて、形態は、遅き止滅のものとしてあり、重き転起のものとしてあり、心は、速き止滅のものとしてあり、軽き転起のものとしてある。それによって、〔世尊は〕言う。「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、軽やかに遍く転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。【614】比丘たちよ、すなわち、この、心です」(アングッタラ・ニカーヤ1p.10)と。

 

§24  なぜなら、形態が、まさしく、〔一回、その身を〕保持しているときに、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の心(有分心:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)は、十六回、生起しては止滅するからである。心のばあい、生起の瞬間もまた、止住の瞬間もまた、滅壊の瞬間もまた、一つに等しきものとしてある。いっぽう、形態のばあい、まさしく、生起と滅壊の瞬間は、軽やかなものとしてあり、まさに、それらは等しくあるが、いっぽう、止住の瞬間は、〔その持続が〕大いなるものとしてある。すなわち、十六の心が生起して止滅するまで、それまでのあいだ、転起する(止住する)。

 

§25  結生の心の生起の瞬間において生起し、止住〔の境位〕に至り得た、先に生じた〔心臓の〕基盤に依拠して、第二の生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕が生起する。それ(第二の生存の潜在支分)と共に生起し、止住〔の境位〕に至り得た、先に生じた〔心臓の〕基盤に依拠して、第三の生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕が生起する。この方法によって、寿命のあるかぎり、心の転起がある、〔と〕知られるべきである。いっぽう、死の近くにある者には、一つだけの、止住〔の境位〕に至り得た、先に生じた〔心臓の〕基盤に依拠して、十六の心が生起する。

 

§26  結生の心の生起の瞬間において生起した形態は、結生の心より以後に、第十六の心と共に止滅する。〔結生の心の〕止住の瞬間において生起した〔形態〕は、第十七〔の心〕の生起の瞬間と共に止滅する。〔結生の心の〕滅壊の瞬間において生起した〔形態〕は、第十七〔の心〕の止住の瞬間に至り得て止滅する。すなわち、〔輪廻の〕転起が、まさに、存在するかぎり、まさしく、このように、転起する。

 化生の者たちのばあいもまた、七つの相続を所以に、七十の形態が、まさしく、このように、転起する。

 

701.

 

 [行為から生じる形態]

 

§27  そこにおいて、〔行為から生じる諸々の形態について〕、(1)行為、(2)行為から現起するもの、(3)行為を縁とするもの、(4)行為を縁とする心から現起するもの、(5)行為を縁とする食から現起するもの、(6)行為を縁とする季節から現起するもの、という、この区分が知られるべきである。

 

§28  (1)そこにおいて、「行為」というのは、善なる〔思欲〕と善ならざる思欲である。

 (2)「行為から現起するもの」というのは、そして、報いとしての諸々の範疇であり、さらに、眼の十なるもの等の正味七十の形態である。

 (3)「行為を縁とするもの」というのは、まさしく、その〔行為から現起するもの〕である。なぜなら、行為は、行為から現起するものにとって、保全するものとしての縁ともまた成るからである。

 

§29  (4)「行為を縁とする心から現起するもの」というのは、報いとしての心から現起する形態である。

 (5)「行為を縁とする食から現起するもの」というのは、行為から現起する諸々の形態のうち、止住〔の境位〕に至り得た滋養が現起させる、他の、滋養を第八とするもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養からなる最小限の物質的事象)である。そこでもまた、滋養は、止住〔の境位〕に至り得て、他〔の滋養を第八とするもの〕を〔現起させる〕、ということで、このように、あるいは、四つ〔の転起〕を、あるいは、五つの転起を、結束する。

 (6)「行為を縁とする季節から現起するもの」というのは、止住〔の境位〕に至り得た、行為から生じる火の界域が現起させる、季節から現起する滋養を第八とするものである。そこでもまた、〔止住の境位に至り得た〕季節(火の界域)は、他の滋養を第八とするものを〔現起させる〕、ということで、このように、あるいは、四つ〔の転起〕を、あるいは、五つの転起を、結束する。まずは、このように、行為から生じる形態の発現が見られるべきである。

 

702.

 

 [心から生じる形態]

 

§30  【615】心から生じる〔諸々の形態〕についてもまた、(1)心、(2)心から現起するもの、(3)心を縁とするもの、(4)心を縁とする食から現起するもの、(5)心を縁とする季節から現起するもの、という、この区分が知られるべきである。

 

§31  (1)そこにおいて、「心」というのは、八十九の心である。それらのうち──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「三十二の心と二十六〔の心〕と十九〔の心〕と十六〔の心〕が、形態と振る舞いの道(行住坐臥)と表示を生じさせるものと生じさせないものとなる(※)、〔と〕認証された」〔と〕。

 

 まさに、欲望の行境〔の観点〕から、八つの善なる〔心〕(1・2・3・4・5・6・7・8)、十二の善ならざる〔心〕(22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33)、意の界域を除く十の〔報いを生まない純粋〕所作としての〔心〕(71・72・73・74・75・76・77・78・79・80)、善なるもの〔の観点〕と〔報いを生まない純粋〕所作〔の観点〕から、二つの神知の心、という、三十二の心は、形態を〔生じさせ〕、〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥)を〔生じさせ〕、さらに、〔身体と言葉の〕表示を生じさせる。報いとしてのものを除く、残りの十の形態の行境〔の心〕(9・10・11・12・13・81・82・83・84・85)、八つの形態なき行境〔の心〕(14・15・16・17・86・87・88・89)、八つの世〔俗〕を超える心(18・19・20・21・66・67・68・69)、という、二十六の心は、形態を〔生じさせ〕、さらに、〔四つの〕振る舞いの道を生じさせ、〔身体と言葉の〕表示を〔生じさせ〕ない。欲望の行境における、十の生存の〔潜在〕支分〔作用〕の心(41・42・43・44・45・46・47・48・49・56)、形態の行境における、五つ〔の心〕(57・58・59・60・61)、三つの意の界域(39・55・70)、一つの報いとしての悦意を共具した因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(40)、という、十九の心は、形態だけを生じさせ、〔四つの〕振る舞いの道を〔生じさせ〕ず、〔身体と言葉の〕表示を〔生じさせ〕ない。二つの五つの識知〔作用〕(34・35・36・37・38・50・51・52・53・54)、一切の有情たちの結生の心、煩悩の滅尽者たちの死滅の心、四つの形態なき〔行境〕の報い〔としての心〕(62・63・64・65)、という、十六の心は、まさしく、形態を生じさせることもなく、〔四つの〕振る舞いの道を〔生じさせることも〕なく、〔身体と言葉の〕表示を〔生じさせることも〕ない。そして、ここにおいて、すなわち、形態を生む、それら〔の心〕は、止住の瞬間において、〔生じさせることは〕なく、あるいは、滅壊の瞬間において、〔生じさせることも〕ない。なぜなら、そのとき(止住と滅壊の瞬間)、心は、力弱きものと成り、いっぽう、生起の瞬間においては、力あるものと〔成る〕からである。それゆえに、その〔生起の瞬間の心〕は、そのとき、先に生じた〔心臓の〕基盤に依拠して、形態を現起させる。

 

※ テキストにはjanakāmatā とあるが(VRI版も同様)、注釈書(Visuddhimagga-mahāīkā)により janakājanakā matā と読む。

 

§32  (2)「心から現起するもの」というのは、三つの形態なき範疇、さらに、音声の九なるもの(滋養を第八とするものに音声を加えたもの)、身体の表示、言葉の表示、虚空の界域、〔形態の〕軽快性、〔形態の〕柔和性、〔形態の〕行為適合性、〔形態の〕蓄積、〔形態の〕相続、という、十七種類の形態である。

 (3)「心を縁とするもの」というのは、「後に生じた心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)は、先に生じたこの身体にとって、〔後に生じた縁によって、縁となる〕」(ティカ・パッターナ1p.5)と、このように説かれた、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起する形態である。

 

§33  (4)「心を縁とする食から現起するもの」というのは、心から現起する諸々の形態のうち、止住〔の境位〕に至り得た滋養が現起させる、他の、滋養を第八とするものである。このように、二つ〔あるいは〕三つの転起を結束する。

 

§34  (5)「心を縁とする季節から現起するもの」というのは、止住〔の境位〕に至り得た、心から現起する季節が【616】現起させる、他の、滋養を第八とするものである。このように、二つ〔あるいは〕三つの転起を結束する。このように、心から生じる形態の発現が見られるべきである。

 

703.

 

 [食から生じる形態]

 

§35  食から生じる〔諸々の形態〕についてもまた、(1)食、(2)食から現起するもの、(3)食を縁とするもの、(4)食を縁とする食から現起するもの、(5)食を縁とする季節から現起するもの、という、この区分が知られるべきである。

 

§36  (1)そこにおいて、「食」というのは、物質としての食である。

 (2)「食から現起するもの」というのは、執取された〔形態〕(有情的事象)である、行為から生じる形態が、縁を得て、そこにおいて止住して、止住〔の境位〕に至り得た滋養によって現起させられた、滋養を第八とするもの、虚空の界域、〔形態の〕軽快性、〔形態の〕柔和性、〔形態の〕行為適合性、〔形態の〕蓄積、〔形態の〕相続、という、十四種類の形態である。

 (3)「食を縁とするもの」というのは、「物質としての食は、この身体にとって、食としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5)と、このように説かれた、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起する形態である。

 

§37  (4)「食を縁とする食から現起するもの」というのは、食から現起する諸々の形態のうち、止住〔の境位〕に至り得た滋養が現起させる、他の、滋養を第八とするものである。そこでもまた、滋養は、他〔の滋養を第八とするもの〕を〔現起させる〕、ということで、このように、十〔あるいは〕十二回の転起を結束する。一日に受益した食は、七日でさえも〔身体を〕保全する。また、天の滋養は、一月や二月でさえも〔身体を〕保全する。母が遍く受益した食もまた、胎児の肉体を充満して、形態を現起させる。肉体に塗布された食もまた、形態を現起させる。行為から生じる食は、「執取された〔形態〕としての食」ということになる。止住〔の境位〕に至り得た、その〔食〕もまた、形態を現起させる。そこでもまた、滋養は、他〔の滋養を第八とするもの〕を現起させる、ということで、このように、あるいは、四つ〔の転起〕を、あるいは、五つの転起を、結束する。

 

§38  (5)「食を縁とする季節から現起するもの」というのは、止住〔の境位〕に至り得た、食から現起する火の界域が現起させる、季節から現起する、滋養を第八とするものである。そこで、この食は、諸々の食から現起する〔形態〕にとって、〔それらを〕生むものと成って、縁と成る。残り〔の行為と心と季節から現起する諸々の形態〕にとって、依所たる〔縁〕と食としての〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、〔縁と成る〕。ということで、このように、食から生じる形態の発現が見られるべきである。

 

704.

 

 [季節から生じる形態]

 

§39  季節から生じる〔諸々の形態〕についてもまた、(1)季節、(2)季節から現起するもの、(3)季節を縁とするもの、(4)季節を縁とする季節から現起するもの、(5)季節を縁とする食から現起するもの(※)、という、この区分が知られるべきである。

 

※ テキストにはutupaccaya-āhārasamuṭṭhānānan とあるが、VRI版により utupaccayaāhārasamuṭṭhānan と読む。

 

§40  (1)そこにおいて、「季節」というのは、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起する火の界域である。また、これは、暑い季節、寒い季節、ということで、このように、二種類のものと成る。

 (2)「季節から現起するもの」というのは、執取された〔形態〕(有情的事象)である、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起する季節(火の界域)が、縁を得て、止住〔の境位〕に至り得たものとして、肉体のうちに現起させる、形態である。【617】それは、音声の九なるもの、虚空の界域、〔形態の〕軽快性、〔形態の〕柔和性、〔形態の〕行為適合性、〔形態の〕蓄積、〔形態の〕相続という、十五種類の形態のものと成る。

 (3)「季節を縁とするもの」というのは、〔行為と心と食と季節の四つのものから現起する形態である〕。季節(火の界域)は、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起する諸々の形態の、そして、転起にとって、さらに、消失にとって、縁と成る。

 

§41  (4)「季節を縁とする季節から現起するもの」というのは、止住〔の境位〕に至り得た、季節から現起する火の界域が現起させる、他の、滋養を第八とするものである。そこでもまた、季節は、他〔の滋養を第八とするもの〕を〔現起させる〕、ということで、このように、長時においてでさえも、季節から現起する〔形態〕は、執取されていない〔形態〕(非有情的事象)の側において止住して、また、まさしく、転起する。

 

§42  (5)「季節を縁とする食から現起するもの」というのは、止住〔の境位〕に至り得た、季節から現起する滋養が現起させる、他の、滋養を第八とするものである。そこでもまた、滋養は、他〔の滋養を第八とするもの〕を〔現起させる〕、ということで、このように、十〔あるいは〕十二回の転起を結束する。そこで、この季節は、季節から現起する〔諸々の形態〕にとって、〔それらを〕生じさせるものと成って、縁と成る。残り〔の行為と心と食から現起する諸々の形態〕にとって、依所たる〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、〔縁と成る〕。ということで、このように、季節から生じる形態の発現が見られるべきである。

 まさに、このように、形態の発現を〔あるがままに〕見ている者は、〔しかるべき〕時に、形態を触知する(§21)、ということになる。

 

705.

 

 5 形態なきものの触知

 

§43  さらに、すなわち、形態を触知している者によって、形態の〔発現が見られるべきである〕ように、このように、形態なきものを触知している者によってもまた、形態なきものの発現が見られるべきである。そして、その〔発現〕は、まさしく、世〔俗〕の心の生起を所以に、まさに、八十一となる。それは、すなわち、この──まさに、この、「形態なきもの」というものは、前の生存(前世)において専業された行為を所以に、(1)まずは、結生(再生の瞬間)において、十九の心の生起の細別あるものとして、発現する(Ch.17§130)。また、その〔心〕が発現する行相は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕についての釈示において説かれた方法によって(Ch.17§134)、知られるべきである。まさしく、その〔心〕は、結生の心の直後の心から以降は、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を所以に〔転起し〕、寿命の結末においては、死滅〔作用〕を所以に〔転起する〕。その〔心〕が、そこにおいて、欲望の行境〔の心〕としてあるなら、その〔心〕は、〔認識の〕六つの門において、力ある対象があるとき、残象〔作用〕を所以に〔転起する〕。

 

§44  (2)また、転起されたもの(結生以後の転起)においては、眼〔の機能〕に混入なく、諸々の形態が視野にやってきたことから、光明に依拠し、意を為すことを因とする、眼の識知〔作用〕が、〔それと〕結び付いた諸々の法(性質)と共に、発現する。まさに、眼の〔機能の〕澄浄(視覚機能)の止住の瞬間において、止住〔の境位〕に至り得た形態だけが、眼〔の機能〕を打ち叩く。それが打ち叩かれたとき、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕が、二回、生起しては止滅する。そののち、まさしく、その対象にたいし、〔報いを生まない純粋〕所作としての意の界域が、傾注する〔作用〕(感官機能に触れた対象を内に引き入れ認識可能状態にする作用)を遂行しつつ、生起する。その直後に、まさしく、その形態を見つつ、善なる報い〔としての眼の識知作用〕が〔生起するか〕、あるいは、善ならざる報いとしての眼の識知〔作用〕が〔生起する〕。【618】そののち、まさしく、その形態を領受しつつ、報いとしての意の界域が〔生起する〕。そののち、まさしく、その形態を吟味しつつ、因なきものにして報いとしての意の識知〔作用〕の界域が〔生起する〕。そののち、まさしく、その形態を定置しつつ、放捨を共具し因なきものにして〔報いを生まない純粋〕所作としての意の識知〔作用〕の界域が〔生起する〕。それから後に、欲望の行境の善なる〔心〕(1・2・3・4・5・6・7・8)と善ならざる〔心〕(22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33)と〔善悪が〕説き明かされない心(71・73・74・75・76・77・78・79・80)のうち、あるいは、一つの放捨を共具し因なき心(71)が〔生起するか〕、五つ、あるいは、七つの、疾走〔作用の心〕が〔生起する〕。そののち、欲望の行境の有情たちには、十一の残象〔作用〕の心(40・41・42・43・44・45・46・47・48・49・56)のうち、それが何であれ、疾走〔作用〕に適切なる残象〔作用の心〕が〔生起する〕、と〔知られるべきである〕。残りの諸門についてもまた、これが、〔共通する説示の〕方法となる。また、意の門においては、諸々の莫大なる心(形態の行境と形態なき行境の心)もまた、生起する。ということで、このように、六つの門における形態なきものの発現が見られるべきである。

 まさに、このように、形態なきものの発現を〔あるがままに〕見ている者は、〔しかるべき〕時に、形態なきものを触知する(§21)、ということになる。

 

 6 三つの特相の揚挙

 

§45  このように、〔しかるべき〕時に、形態を〔触知して〕、〔しかるべき〕時に、形態なきものを触知して、また、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、順に〔道を〕実践しつつ、或る者は、智慧の修行を成就させる。

 

706.

 

 他の者は、(一)形態の七なるものと(二)形態なき七なるものを所以に、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、諸々の形成〔作用〕を触知する。

 

 [(一)形態の七なるものを所以にする三つの特相の揚挙]

 

§46  (一)そこにおいて、(1)執取と捨置〔の観点〕から、(2)年齢の増大と滅至〔の観点〕から、(3)食によって作られるもの〔の観点〕から、(4)季節によって作られるもの〔の観点〕から、(5)行為から生じるもの〔の観点〕から、(6)心から現起するもの〔の観点〕から、(7)法(性質)たることとしての形態〔の観点〕から、という、これらの行相によって、〔三つの特相を〕揚挙して触知している者は、形態の七なるものを所以に、〔三つの特相を〕揚挙して触知する、ということになる。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)執取と捨置〔の観点〕から、(2)年齢の増大と滅至〔の観点〕から、さらに、(3)食〔の観点〕から、(4)季節〔の観点〕から、さらに、また、(5)行為〔の観点〕から、(6)心〔の観点〕から、(7)法(性質)たることとしての形態〔の観点〕から、〔これらの〕七つの詳細〔の観点〕によって〔あるがままに〕観察する」と。

 

§47  (1)そこにおいて、「執取」とは、結生のこと。「捨置」とは、死滅のこと。かくのごとく、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、これらの執取と捨置〔の観点〕から、百年を一つに限定して、諸々の形成〔作用〕について、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙する。どのようにか。(1―1)ここにおいて、〔百年の〕間において、一切の形成〔作用〕は、「無常である」〔と揚挙する〕。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「生起と衰失と転起あることから、変化あることから、暫時のものたることから、さらに、常住の拒絶あることから」〔と答える〕。(1―2)また、すなわち、生起した諸々の形成〔作用〕は、止住〔の境位〕に至り得、止住〔の境位〕においては、老によって疲弊し、老に至り得て〔そののちは〕、かならず破壊することから、それゆえに、間断なき逼悩あることから、耐え難きことから、苦痛の基盤たることから、さらに、安楽の拒絶あることから、「苦痛である」〔と揚挙する〕。(1―3)さらに、すなわち、「生起した諸々の形成〔作用〕は、止住〔の境位〕に至り得てはならない」「止住〔の境位〕に至り得た〔諸々の形成作用〕は、老いてはならない」「老〔の境位〕に至り得た〔諸々の形成作用〕は、破壊してはならない」と、これらの三つの境位について、誰のものであれ、自在なる転起ある状態は存在せず、まさしく、その、自在に転起する行相が空であることから、それゆえに、空なることから、主人ならざるものたることから、自在なる転起なきことから、さらに、自己〔の要望〕の拒絶あることから、「無我である」〔と揚挙する〕。

 

707.

 

§48  【619】(2)このように、執取と捨置を所以に、百年に限定された形態について、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、それから後に、年齢の増大と滅至〔の観点〕から揚挙する。そこにおいて、「年齢の増大と滅至」というのは、年齢を所以にする増大と増大した形態の滅至である。それを所以に三つの特相を揚挙する、という義(意味)である。どのようにか。

 

§49  (2―1)彼は、まさしく、その百年を、最初の年齢、中間の年齢、最後の年齢、という、三つの年齢によって限定する。そこにおいて、最初から三十三年が、「最初の年齢」ということになる。そののち、三十四年が、「中間の年齢」ということになる。そののち、三十三年が、「最後の年齢」ということになる、と〔知られるべきである〕。かくのごとく、これらの三つの年齢によって限定して、「最初の年齢において転起された形態は、中間の年齢に至り得ずして、まさしく、そこ(最初の年齢)において、止滅する。それゆえに、それは、無常である。それが、無常であるなら、それは、苦痛である。それが、苦痛であるなら、それは、無我である。中間の年齢において転起された形態もまた、最後の年齢に至り得ずして、まさしく、そこ(中間の年齢)において、止滅する。それゆえに、それもまた、無常であり、苦痛であり、無我である。最後の年齢における三十三年のあいだに転起された形態もまた、死より後に至り行くことができるものは、まさに、存在しない。それゆえに、それもまた、無常であり、苦痛であり、無我である」と、三つの特相を揚挙する。

 

708.

 

§50  (2―2)このように、最初の年齢等を所以に、年齢の増大と滅至〔の観点〕から、三つの特相を揚挙して、ふたたび、(2―2―1)薄弱の十なるもの、(2―2―2)遊興の十なるもの、(2―2―3)色艶の十なるもの、(2―2―4)活力の十なるもの、(2―2―5)智慧の十なるもの、(2―2―6)退失の十なるもの、(2―2―7)傾斜の十なるもの、(2―2―8)湾曲の十なるもの、(2―2―9)迷愚の十なるもの、(2―2―10)横臥の十なるもの、という、これらの十の十なるものを所以に、年齢の増大と滅至〔の観点〕から、三つの特相を揚挙する。

 

§51  そこにおいて、〔これらの十の〕十なるもののうち、(2―2―1)まずは、百年の生ある人の、第一の十年が、「薄弱の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼は、薄弱にして動揺の童子として、〔世に〕有るからである。(2―2―2)そののち、他の十〔年〕が、「遊興の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼は、遊興の歓楽多き者として、〔世に〕有るからである。(2―2―3)そののち、他の十〔年〕が、「色艶の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼の色艶の場所は、広大に至り得るからである。(2―2―4)そののち、他の十〔年〕が、「活力の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼の、そして、活力は、さらに、強靭は、広大に至り得るからである。(2―2―5)そののち、他の十〔年〕が、「智慧の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼の智慧は、善く確立されたものと成り、まさに、〔生来の〕性向によって力弱き智慧の者でさえも、その時には、僅かばかりの智慧が、まさしく、生起するからである。(2―2―6)そののち、他の十〔年〕が、「退失の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼の遊興の歓楽と色艶と活力と智慧は、遍く衰退するからである。(2―2―7)そののち、他の十〔年〕が、「傾斜の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼の自己状態(個我的あり方・身体のこと)は、【620】前に傾斜したものと成るからである。(2―2―8)そののち、他の十〔年〕が、「湾曲の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼の自己状態は、鋤の突端のように彎曲したものと成るからである。(2―2―9)そののち、他の十〔年〕が、「迷愚の十なるもの」ということになる。なぜなら、そのとき、彼は、迷愚の者と成り、為したこと為したことを〔順次に〕忘却するからである。(2―2―10)そののち、他の十〔年〕が、「横臥の十なるもの」ということになる。なぜなら、百年〔の生〕ある者は、まさしく、横臥多き者と成るからである。

 

§52  そこで、この〔心の〕制止者は、これらの〔十の〕十なるものを所以に、年齢の増大と滅至〔の観点〕から、三つの特相を揚挙するべく、かくのごとく深慮する。「第一の十なるものにおいて転起された形態は、第二の十なるものに至り得ずして、まさしく、そこ(第一の十なるもの)において、止滅する。それゆえに、それは、無常であり、苦痛であり、無我である。第二の十なるものにおいて……略……。第九の十なるものにおいて転起された形態は、第十の十なるものに至り得ずして、まさしく、そこ(第九の十なるもの)において、止滅する。第十の十なるものにおいて転起された形態は、さらなる生存に至り得ずして、まさしく、ここ(現世)に、止滅する。それゆえに、それもまた、無常であり、苦痛であり、無我である」と、三つの特相を揚挙する。

 

709.

 

§53  (2―3)このように、十なるものを所以に、年齢の増大と滅至〔の観点〕から、三つの特相を揚挙して、ふたたび、まさしく、その百年を、五年を所以に二十の部位と為して、年齢の増大と滅至〔の観点〕から、三つの特相を揚挙する。どのようにか。

 

§54  まさに、彼は、かくのごとく深慮する。「第一の五年なるものにおいて転起された形態は、第二の五年なるものに至り得ずして、まさしく、そこ(第一の五年なるもの)において、止滅する。それゆえに、それは、無常であり、苦痛であり、無我である(※)。第二の五年なるものにおいて転起された形態は、第三の……略……。第十九の五年なるものにおいて(※※)転起された形態は、第二十の五年なるものに至り得ずして、まさしく、そこ(第十九の五年なるもの)において、止滅する。第二十の五年なるものにおいて転起された形態は、死より後に至り行くことができるものは、まさに、存在しない。それゆえに、それもまた、無常であり、苦痛であり、無我である」と。

 

※ テキストにはanattā ti とあるが、VRI版により anattā と読む。

※※ テキストにはekūnavīsatim ev’ assa pañcake とあるが、VRI版により ekūnavīsatime vassapañcake と読む。

 

§55  (2―4)このように、二十の部位を所以に、年齢の増大と滅至〔の観点〕から、三つの特相を揚挙して、ふたたび、〔百年を〕二十五の部位と為して、四年ずつを所以に、〔年齢の増大と滅至の観点から、三つの特相を〕揚挙する。

 (2―5)そののち、〔百年を〕三十三の部位と為して、三年ずつを所以に、〔年齢の増大と滅至の観点から、三つの特相を揚挙する〕。

 (2―6)〔そののち、百年を〕五十の部位と為して、二年ずつを所以に、〔年齢の増大と滅至の観点から、三つの特相を揚挙する〕。

 (2―7)〔そののち、百年を〕百の部位と為して、一年ずつを所以に、〔年齢の増大と滅至の観点から、三つの特相を揚挙する〕。

 (2―8)そののち、一年を三つの部位と為して、雨期と冬期と夏期の三つの季節における一つ一つの季節を所以に、その、年齢の増大と滅至ある形態について、三つの特相を揚挙する。どのようにか。

 

§56  「雨期において、四月のあいだ転起された形態は、冬期に至り得ずして、まさしく、そこ(雨期)において、止滅したものとなる。冬期において、〔四月のあいだ〕転起された形態は、夏期に至り得ずして、まさしく、そこ(冬期)において、止滅したものとなる。夏期において、〔四月のあいだ〕転起された形態は、ふたたび、雨期に至り得ずして、まさしく、そこ(夏期)において、止滅したものとなる。それゆえに、それは、【621】無常であり、苦痛であり、無我である」と、〔三つの特相を揚挙する〕。

 

§57  (2―9)このように揚挙して、ふたたび、一年を六つの部位と為して、「雨期において、二月のあいだ転起された形態は、秋期に至り得ずして、まさしく、そこ(雨期)において、止滅したものとなる。秋期において、〔二月のあいだ〕転起された形態は、冬期に……略……。冬期において、〔二月のあいだ〕転起された形態は、冷期に……略……。冷期において、〔二月のあいだ〕転起された形態は、春期に……略……。春期において、〔二月のあいだ〕転起された形態は、夏期に……略……。夏期において、〔二月のあいだ〕転起された形態は、ふたたび、雨期に至り得ずして、まさしく、そこ(夏期)において、止滅したものとなる。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である」と、〔三つの特相を揚挙する〕。このように、その、年齢の増大と滅至ある形態について、三つの特相を揚挙する。

 

§58  (2―10)このように揚挙して、そののち、〔一月を〕黒白〔の期間〕(月の前半と後半)を所以に、「黒〔の期間〕において転起された形態は、白〔の期間〕に至り得ずして、白〔の期間〕において転起された形態は、黒〔の期間〕に至り得ずして、まさしく、そこにおいて、止滅したものとなる。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である」と、三つの特相を揚挙する。

 

§59  (2―11)そののち、夜と昼を所以に、「夜に転起された形態は、昼に至り得ずして、まさしく、そこにおいて、止滅したものとなる。昼に転起された形態もまた、夜に至り得ずして、まさしく、そこにおいて、止滅したものとなる。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である」と、三つの特相を揚挙する。

 

§60  (2―12)そののち、まさしく、その夜と昼を、早刻等を所以に、六つの部位と為して、「早刻において転起された形態は、日中に至り得ずして、日中において転起された形態は、夕刻に〔至り得ずして〕、夕刻において転起された形態は、初夜(宵の内)に〔至り得ずして〕、初夜において転起された形態は、中夜(真夜中)に〔至り得ずして〕、中夜において転起された形態は、後夜(明け方)に至り得ずして、まさしく、そこにおいて、止滅したものとなる。後夜において転起された形態は、ふたたび、早刻に至り得ずして、まさしく、そこにおいて、止滅したものとなる。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である」と、三つの特相を揚挙する。

 

710.

 

§61  (2―13)このように揚挙して、ふたたび、まさしく、その形態について、(2―13―1)前進と(2―13―2)後進と(2―13―3)前視と(2―13―4)後視と(2―13―5)屈曲と(2―13―6)伸直を所以に、「前進において転起された形態は、後進に至り得ずして、まさしく、そこにおいて、止滅する。後進において転起された形態は、前視に〔至り得ずして〕、前視において転起された形態は、後視に〔至り得ずして〕、後視において転起された形態は、屈曲に〔至り得ずして〕、屈曲において転起された形態は、伸直に至り得ずして、まさしく、そこにおいて、止滅する。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である」と、三つの特相を揚挙する。

 

§62  (2―14)そののち、一足の時機を、(2―14―1)上に挙げることと(2―14―2)前に運ぶことと(2―14―3)横に運ぶことと(2―14―4)下に降ろすことと(2―14―5)置き据えることと(6)押し付けることを所以に、六つの部位と為す。

 

§63  そこにおいて、(2―14―1)「上に挙げること」というのは、足を地上から持ち上げること。(2―14―2)「前に運ぶこと」というのは、前に運び去ること。(2―14―3)「横に運ぶこと」というのは、木株や刺や蛇等々のうち、何らかの或るものを見て、こちらからもあちらからも足を行き来すること。(2―14―4)「下に降ろすこと」というのは、足が下に降り行くこと。【622】(2―14―5)「置き据えること」というのは、〔足を〕地面に据え置くこと。(2―14―6)「押し付けること」というのは、ふたたび足を引き上げる時に足が地を相手に圧迫すること。

 

§64  そこにおいて──上に挙げることにおいて、地の界域、水の界域、という、二つの界域は、最少にして弱きものと成り、他の二つ〔の界域〕(火の界域と風の界域)は、旺盛にして力あるものと成る。そのように、前に運ぶことと横に運ぶことにおいてある(同様である)。下に降ろすことにおいて、火の界域、風の界域、という、二つの界域は、最少にして弱きものと成り、他の二つ〔の界域〕(地の界域と水の界域)は、旺盛にして力あるものと成る。そのように、置き据えることと押し付けることにおいてある(同様である)。

 このように、六つの部位と為して、それらを所以に、その、年齢の増大と滅至ある形態について、三つの特相を揚挙する。どのようにか。

 

§65  彼は、かくのごとく深慮する。「それらの、上に挙げることにおいて転起された、諸々の界域は──さらに、すなわち(※)、諸々のそれに執取して〔形成された〕形態は──それらの諸法(性質)の全てが、前に運ぶことに至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である。そのように、前に運ぶことにおいて転起された〔諸法〕は、横に運ぶことに〔至り得ずして〕、横に運ぶことにおいて転起された〔諸法〕は、下に降ろすことに〔至り得ずして〕、下に降ろすことにおいて転起された〔諸法〕は、置き据えることに〔至り得ずして〕、置き据えることにおいて転起された〔諸法〕は、押し付けることに〔至り得ずして〕、まさしく、ここにおいて(※※)、止滅する。かくのごとく、その場その場において、生起した〔諸法〕は、他〔の部位〕、他の部位に至り得ずして、まさしく、その場その場において、結節ごとのものと〔成って〕、連鎖ごとのものと〔成って〕、限界ごとのものと成って、熱せられた釜に入れられた胡麻がタタタタと音をたてながら〔細分される〕ように、諸々の形成〔作用〕として細分される。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である」と。

 

※ テキストにはyoni とあるが、VRI版により yāni と読む。

※※ テキストにはtattheva とあるが、VRI版により ettheva と読む。

 

§66  彼が、このように、結節ごとの在り方をした諸々の形成〔作用〕を〔あるがままに〕観察していると、形態の触知は、繊細なるものと成る。

 

711.

 

 また、そして、その〔触知〕の、繊細なることについて、この喩えがある。伝えるところでは、木や草の松明等々に精通を為し(慣れ親しみ)、過去に灯明を見たことがない、或る、辺境の住者が、城市にやってきて、店の内で燃え盛る灯明を見て、或る人に尋ねた。「おや、まあ、これは、このように意に適うものは、何なのでしょう」と。彼(或る人)は、彼(辺境の住者)に、このように言った。「ここにおいて、何が、意に適うというのでしょう。これは、『灯明』というものです。油の滅尽によって、さらに、灯芯の滅尽によって、この〔灯明〕の、去り行った道すらも、覚知されることはないでしょう」と。他の者は、彼に、このように言った。「〔今の〕この〔説明〕は、粗雑なるものです。まさに、徐々に焼かれつつある、この灯芯の、三分の一、三分の一のところで、光は、他〔の部分〕、他の部分に、まさしく、至り得ずして、止滅することになるでしょう」と。他の者は、彼に、このように言った。「〔今の〕この〔説明〕もまた、粗雑なるものです。まさに、この〔灯芯〕の、指と指の間隔のところで……半指と半指の間隔のところで(※)……〔撚った〕紐、〔撚った〕紐のところで……〔一本の〕糸、〔一本の〕糸のところで、光は、他〔の糸〕、他の糸に、まさしく、至り得ずして、止滅することになるでしょう」と。また、糸を除外して、〔他のものは〕光を覚知させることができない、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストにはvuḍḍhagulavuḍḍhagulantare とあるが、VRI版により aḍḍhagulaḍḍhagulantare と読む。

 

§67  【623】そこにおいて、「油の滅尽によって、さらに、灯芯の滅尽によって、〔この〕灯明の、去り行った道すらも、覚知されることはないでしょう」と〔言った〕人の知恵のように、〔心の〕制止者の、執取と捨置〔の観点〕から、百年によって限定された形態について、三つの特相を揚挙することがある。「……〔この〕灯芯の、三分の一、三分の一のところで、光は、他〔の部分〕、他の部分に、まさしく、至り得ずして、止滅することになるでしょう」と〔言った〕人の知恵のように、〔心の〕制止者の、百年の三分の一によって限定された、年齢の増大と滅至ある形態について、三つの特相を揚挙することがある。「……指と指の間隔のところで、光は、他のもの、他のものに、まさしく、至り得ずして、止滅することになるでしょう」と〔言った〕人の知恵のように、〔心の〕制止者の、十年と五年と四年と三年と二年と一年によって限定された形態について、三つの特相を揚挙することがある。「……半指と半指の間隔のところで、光は、他のもの、他のものに、まさしく、至り得ずして、止滅することになるでしょう」と〔言った〕人の知恵のように、〔心の〕制止者の、一つ一つの季節を所以に、一年を、三種に〔区分して〕、さらに、六種に区分して、四月と二月によって限定された形態について、三つの特相を揚挙することがある。「……〔撚った〕紐、〔撚った〕紐のところで、光は、他のもの、他のものに、まさしく、至り得ずして、止滅することになるでしょう」と〔言った〕人の知恵のように、〔心の〕制止者の、〔一月を〕黒白〔の期間〕を所以に──さらに、〔一日を〕夜と昼を所以に──さらに、一つの夜と昼(一昼夜)を六つの部位と為して、早刻等を所以に──限定された形態について、三つの特相を揚挙することがある。「……〔一本の〕糸、〔一本の〕糸のところで、光は、他のもの、他のものに、まさしく、至り得ずして、止滅することになるでしょう」と〔言った〕人の知恵のように、〔心の〕制止者の、まさしく、そして、前進等を所以に、さらに、上に挙げること等々における一つ一つの部位を所以に、限定された形態について、三つの特相を揚挙することがある、と〔知られるべきである〕。

 

712.

 

§68  (3・4・5・6)彼(瞑想修行者)は、このように、種々なる行相によって、年齢の増大と滅至ある形態について、三つの特相を揚挙して、ふたたび、まさしく、その形態を分析して、食によって作られるもの等を所以に、四つの部位と為して、一つ一つの部位について、三つの特相を揚挙する。

 (3)そこで、彼にとって、食によって作られる形態は、空腹と満腹を所以に、明白なるものと成る。なぜなら、空腹の時において現起した形態は、焼尽し、疲弊したものと成り、焼尽の木株のように、さらに、炭籠のなかに隠れている烏のように、色艶悪く、外貌悪きものと〔成り〕、満腹の時において現起した〔形態〕は、充足し、豊満で、柔和で、円滑で、快美な接触あるものと成るからである。彼は、その〔形態〕を遍く収め取って、「空腹の時において転起された形態は、満腹の時に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。満腹の時において現起した〔形態〕もまた、空腹の時に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。それゆえに、それは、無常であり、苦痛であり、無我である」と、このように、そこにおいて、三つの特相を揚挙する。

 

713.

 

§69  (4)季節によって作られる〔形態〕は、寒冷と暑熱を所以に、明白なるものと成る。なぜなら、暑熱の時において現起した形態は、焼尽し、疲弊し、色艶悪きものと成り、【624】寒冷の季節に現起した形態は、充足し、豊満で、柔和で、円滑で、快美な接触あるものと成るからである。彼は、その〔形態〕を遍く収め取って、「暑熱の時において転起された形態は、寒冷の時に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。寒冷の時において転起された形態は、暑熱の時に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。それゆえに、それは、無常であり、苦痛であり、無我である」と、このように、そこにおいて、三つの特相を揚挙する。

 

714.

 

§70  (5)行為から生じるものは、〔認識の〕場所である門を所以に、明白なるものと成る。なぜなら、眼の門においては、眼〔の十なるもの〕と身〔の十なるもの〕と〔性差の〕状態の十なるものを所以に、三十の行為から生じる形態があり、また、それらを保全するものである、季節と心と食から現起する〔三つの滋養を第八とするもの〕が二十四あり、ということで、五十四〔の形態〕と成り、そのように、耳と鼻と舌の門においても、〔五十四の形態と成り〕、身の門においては、まさしく、そして、身〔の十なるもの〕と〔性差の〕状態の十なるものを所以に、さらに、季節から現起するもの等〔の二十四の形態〕を所以に、四十四〔の形態〕と〔成り〕、意の門においては、まさしく、そして、心臓の基盤〔の十なるもの〕と身〔の十なるもの〕と〔性差の〕状態の十なるものを所以に、さらに、季節から現起するもの等〔の二十四の形態〕を所以に、まさしく、五十四〔の形態〕と〔成る〕からである。彼は、その〔形態〕を、全てもろともに遍く収め取って、「眼の門において転起された形態は、耳の門に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。耳の門において転起された形態は、鼻の門に……。鼻の門において転起された形態は、舌の門に……。舌の門において転起された形態は、身の門に……。身の門において転起された形態は、意の門に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。それゆえに、それは、無常であり、苦痛であり、無我である」と、このように、そこにおいて、三つの特相を揚挙する。

 

715.

 

§71  (6)心から現起するものは、悦意と失意を所以に、明白なるものと成る。なぜなら、悦意の時において生起した形態は、円滑で、柔和で、豊満で、快美な接触あるものと成り、失意の時において生起した〔形態〕は、焼尽し、疲弊し、色艶悪きものと成るからである。彼は、その〔形態〕を遍く収め取って、「悦意の時において転起された形態は、失意の時に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。失意の時において転起された形態は、悦意の時に至り得ずして、まさしく、ここにおいて、止滅する。それゆえに、それもまた、無常であり、苦痛であり、無我である」と、このように、そこにおいて、三つの特相を揚挙する。

 

§72  彼が、このように、心から現起する形態を遍く収め取って、そこにおいて、三つの特相を揚挙していると、この義(意味)が、明白なるものと成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「生命は、そして、自己状態(個我的あり方・身体のこと)も、さらに、楽と苦も、全部が、一つの心〔の瞬間〕と結び付いたものであり、〔その〕瞬間は、軽やかに転起する。

 八万四千カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、それらの神たちが〔世に〕止住するとして、まさしく、しかし、彼らもまた、二つの心が収められたものとして、〔世に〕止住することはない(一つの心だけが転起する)。

 【625】この〔世において〕、死につつある者の、あるいは、止住している者の、それらの止滅した〔五つの心身を構成する〕範疇()は、全てもろともに、相同のものであり、〔すでに〕去り行ったものであり、結生なきものである(結生に至り着くことはない)。

 そして、それらが、直前に滅壊した〔五つの範疇〕であるとして、さらに、それらが、未来に滅壊した〔五つの範疇〕であるとして、その直後に止滅した〔五つの範疇〕にとって、特相における差異は存在しない(両者ともに滅壊するものとしてある)。

 発現した〔心〕が〔すでに〕ないなら、生じたものは〔もはや〕なく、現在〔の瞬間の心の転起〕によって、〔有情は〕生きる。心が滅壊したのち、世〔の人々〕の死がある。〔これが〕最高の義(勝義:最高の真実)としての通称(施設:概念)となる(あるがままの世界のあり方である)。

 諸々の滅壊したものは、安置に至らず、未来における堆積は存在しない。たとえ、それらが、諸々の発現したものとして止住するとして、錐の先の芥子の如きもの。

 そして、諸々の発現した法(性質)には、それらには、滅壊が待ち受けている。諸々の崩壊の法(性質)として止住し、諸々の過去のものと交わることはない。

 諸々の滅壊は、見えざるところから至り来て、見えざるところに去り行く。虚空における雷光の生起のように、〔それらは〕生起し、かつまた、衰失する」(マハー・ニッデーサp.42-3:一部異なる箇所あり)と。

 

716.

 

§73  (7)このように、食によって作られるもの等々について、三つの特相を揚挙して、ふたたび、法(性質)たることとしての形態について、三つの特相を揚挙する。「法(性質)たること(法性:人為的作為が介在しない自然の性質)」というのは、外にあり、〔感官の〕機能との連結がない(※)、鉄と銅と錫と鉛と金と銀と真珠と宝珠と瑠璃と法螺と宝石と珊瑚と紅玉と瑪瑙と地と岩と山と草と木と蔓等の細別あるもので、還転されたカッパ(Ch.13§28)から以降に生起する形態である。

 

※ テキストにはindriyabaddha とあるが、VRI版により anindriyabaddha と読む。

 

§74  彼にとって、その〔形態〕は、アソーカ〔樹〕の芽等を所以に、明白なるものと成る。なぜなら、アソーカ〔樹〕の芽は、まさしく、最初には、薄い赤をしたものと成り、そののち、二日、三日と経過して、濃い赤をしたものと〔成り〕、ふたたび、二日、三日と経過して、鈍い赤をしたものと〔成り〕、そののち、若芽色のものと〔成り〕、そののち、若葉色のものと〔成り〕、そののち、緑葉色のものと〔成り〕、そののち、青葉色のものと〔成り〕、そののち、青葉色の時から以降は、部分を共にする形態(共通する形態)の相続を継続させつつ、一年ほどで黄葉と成って、茎から断たれて落下するからである。

 

§75  彼は、その〔形態〕を遍く収め取って、「薄い赤の時において転起された形態は、濃い赤の時に至り得ずして、止滅する。濃い赤の時において転起された形態は、鈍い赤の時に〔至り得ずして〕、鈍い赤の時において転起された形態は、若芽色の時に〔至り得ずして〕、若芽色の時において転起された〔形態〕は、若葉色の時に〔至り得ずして〕、若葉色の時において転起された〔形態〕は、緑葉色の時に〔至り得ずして〕、緑葉色の時において転起された形態は、青葉色の時に〔至り得ずして〕、青葉色の時において転起された〔形態〕は、黄葉の時に〔至り得ずして〕、黄葉の時において転起された〔形態〕は、茎から断たれて【626】落下する時に(※)、まさしく、至り得ずして、止滅する。それゆえに、それは、無常であり、苦痛であり、無我である」と、このように、そこにおいて、三つの特相を揚挙して、この方法によって、法(性質)たることとしての形態を、全てもろともに、触知する。

 まずは、このように、形態の七なるものを所以に、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、諸々の形成〔作用〕を触知する。

 

※ テキストにはpahanakāla とあるが、VRI版により patanakāla と読む。

 

717.

 

 [(二)形態なき七なるものを所以にする三つの特相の揚挙]

 

§76  (二)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「形態なき七なるものを所以に」(§45)とは、そこにおいて、(1)集合〔の観点〕から、(2)対なるもの〔の観点〕から、(3)瞬間のもの〔の観点〕から、(4)次第次第〔の観点〕から、(5)見解を撤去すること〔の観点〕から、(6)思量()を根絶すること〔の観点〕から、(7)欲念を完全に取り払うこと〔の観点〕から、という、これが、〔その〕項目となる。

 

§77  (1)そこにおいて、「集合〔の観点〕から」とは、接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つの〕法(性質)のこと。「どのように、集合〔の観点〕から触知するのか」と〔問うなら、以下のように答える〕。

 ここに、比丘は、かくのごとく深慮する。「すなわち、これらの、『諸々の髪は、無常であり、苦痛であり、無我である』という触知において生起した、接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つの〕法(性質)は──さらに、すなわち、『諸々の毛は……略……『脳味噌は、無常であり、苦痛であり、無我である』という触知において生起した、接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つの〕法(性質)は──それらの全てが、他のもの他のものに至り得ずして、結節ごとのものと〔成って〕、限界ごとのものと成って、熱せられた釜に入れられた胡麻のようにタタタタと音をたてながら消失したのだ。それゆえに、無常であり、苦痛であり、無我である」と。まずは、これが、〔一つの説である〕清浄の言説における、〔説示の〕方法となる。

 

§78  また、〔いま一つの説である〕聖なる伝統の言説においては、前に〔説かれた〕、形態の七なるものにおける七つの境位において(§46-75)、形態を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と〔触知して〕転起された、〔その〕心を、他〔の瞬間〕の心(次の瞬間の心)によって、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知している者は、集合〔の観点〕から触知する、と説かれたが、それが、より適合するものとなる。それゆえに、残りのものもまた。まさしく、その方法によって、〔わたしたちは〕区分するであろう(清浄の言説ではなく、聖なる伝統の言説における説示の方法を採用する)。

 

718.

 

§79  (2)「対なるもの〔の観点〕から」とは、ここに、比丘は、執取と捨置(結生と死滅)の形態(§47)を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知して、その心をもまた、他の〔瞬間の〕心によって、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知する。年齢の増大と滅至ある形態(§48-67)を、食によって作られる〔形態〕(§68)を、季節によって作られる〔形態〕(§69)を、行為から生じる〔形態〕(§70)を、心から現起する〔形態〕(§71-2)を、法(性質)たることとしての形態(§73-5)を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知して、その心をもまた、他の〔瞬間の〕心によって、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知する。このように、「対なるもの〔の観点〕から触知する」ということになる。

 

719.

 

§80  (3)「瞬間のもの〔の観点〕から」とは、ここに、比丘は、執取と捨置の形態を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知して、その第一の心を、第二の心によって、第二〔の心〕を、第三〔の心〕によって、第三〔の心〕を、第四〔の心〕によって、第四〔の心〕を、第五〔の心〕によって、これをもまた、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知する。年齢の増大と滅至ある形態を、食によって作られる〔形態〕を、季節によって作られる〔形態〕を、行為から生じる〔形態〕を、【627】心から現起する〔形態〕を、法(性質)たることとしての形態を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知して、その第一の心を、第二の心によって、第二〔の心〕を、第三〔の心〕によって、第三〔の心〕を、第四〔の心〕によって、第四〔の心〕を、第五〔の心〕によって、これをもまた、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知する。このように、形態を遍く収め取ることから以降、四つ〔の心〕四つ〔の心〕を触知している者は、「瞬間のもの〔の観点〕から触知する」ということになる。

 

720.

 

§81  (4)「次第次第〔の観点〕から」とは、執取と捨置の形態を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知して、その第一の心を、第二の心によって、第二〔の心〕を、第三〔の心〕によって、第三〔の心〕を、第四〔の心〕によって……略……第十〔の心〕を、第十一〔の心〕によって、これをもまた、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知する。年齢の増大と滅至ある形態を、食によって作られる〔形態〕を、季節によって作られる〔形態〕を、行為から生じる〔形態〕を、心から現起する〔形態〕を、法(性質)たることとしての形態を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と触知して、その第一の心を、第二の心によって、第二〔の心〕を、第三〔の心〕によって……略……第十〔の心〕を、第十一〔の心〕によって、これをもまた、「無常であり、苦痛であり、無我である」と、このように、〔あるがままの〕観察の次第次第によって、全日中でさえも触知するのが順当であろう。また、すなわち、第十の心の触知となるまでには、形態の〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)もまた、形態なきものの〔心を定める〕行為の拠点もまた、熟練するところと成り、それゆえに、「まさしく、第十〔の心〕において、据え置かれるべきである」と、〔聖なる伝統の言説において〕説かれた(熟練後は第十の心の触知までで十分である)。このように触知している者は、「次第次第〔の観点〕から触知する」ということになる。

 

721.

 

§82  (5・6・7)「見解を撤去すること〔の観点〕から」「思量を撤去すること〔の観点〕から」「欲念を完全に取り払うこと〔の観点〕から」とは、これらの三つにおいて、別個に触知の方法は、まさに、存在しない。また、すなわち、この、前に〔遍く収め取られた〕形態も、さらに、ここに遍く収め取られた形態なきものも、それを見ている者は、形態と形態なきものより以上に、他に、有情を、まさに、見ない。有情を見ないことから以降、有情の表象は、撤去されたものと成る。有情の表象が撤去された心によって、諸々の形成〔作用〕を遍く収め取っている者に、見解は生起しない。見解が生起せずにいるとき、見解は、「撤去されたもの」ということに成る。見解が撤去された心によって、諸々の形成〔作用〕を遍く収め取っている者に、思量は生起しない。思量が生起せずにいるとき、思量は、「根絶されたもの」ということに成る。思量が根絶された心によって、諸々の形成〔作用〕を遍く収め取っている者に、渇愛は生起しない。渇愛が生起せずにいるとき、欲念は、「完全に取り払われたもの」ということに成る。ということで、まずは、このことが、清浄の言説において説かれた。

 

§83  また、聖なる伝統の言説においては、「見解を撤去すること〔の観点〕から」「思量を根絶すること〔の観点〕から」「欲念を完全に取り払うこと〔の観点〕から」という項目を据え置いて、この方法が見示された。まさに、「わたしは〔あるがままに〕観察する」「わたしの〔あるがままの〕観察である」と収め取っているなら、「見解を撤去すること」ということには成らない。いっぽう、「諸々の形成〔作用〕【628】だけが、諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕観察する、触知する、定め置く、遍く収め取る、限定する」と収め取っているなら、「見解を撤去すること」ということに成る。「巧妙に〔わたしは〕観察する」「意に適うように〔わたしは〕観察する」と収め取っているなら、「思量の根絶」ということには成らない。いっぽう、「諸々の形成〔作用〕だけが、諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕観察する、触知する、定め置く、遍く収め取る、限定する」と収め取っているなら、「思量の根絶」ということに成る。「〔あるがままに〕観察することが〔わたしは〕できる」と、〔あるがままの〕観察を味わっているなら、「欲念を完全に取り払うこと」ということには成らない。いっぽう、「諸々の形成〔作用〕だけが、諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕観察する、触知する、定め置く、遍く収め取る、限定する」と収め取っているなら、「欲念を完全に取り払うこと」ということに成る。

 

§84  「それで、もし、諸々の形成〔作用〕が、自己として有るなら、『自己である』と収め取るのは順当であろう。また、しかしながら、無我であるものが、『自己である』と収め取られたのだ。それゆえに、それら〔の形成作用〕は、自在に転起することなき義(意味)によって、無我であり、有って〔そののち〕状態なき義(意味)によって、無常であり、生起と衰失による逼悩ある義(意味)によって、苦痛である」と見ているなら、「見解を撤去すること」ということに成る。

 

§85  「それで、もし、諸々の形成〔作用〕が、常住として有るなら、『常住である』と収め取るのは順当であろう。また、しかしながら、無常であるものが、『常住である』と収め取られたのだ。それゆえに、それら〔の形成作用〕は、有って〔そののち〕状態なき義(意味)によって、無常であり、生起と衰失による逼悩ある義(意味)によって、苦痛であり、自在に転起することなき義(意味)によって、無我である」と見ているなら、「思量の根絶」ということに成る。

 

§86  「それで、もし、諸々の形成〔作用〕が、安楽として有るなら、『安楽である』と収め取るのは順当であろう。また、しかしながら、苦痛であるものが、『安楽である』と収め取られたのだ。それゆえに、それら〔の形成作用〕は、生起と衰失による逼悩ある義(意味)によって、苦痛であり、有って〔そののち〕状態なき義(意味)によって、無常であり、自在に転起することなき義(意味)によって、無我である」と見ているなら、「欲念を完全に取り払うこと」ということに成る。

 

§87  このように、諸々の形成〔作用〕を、無我〔の観点〕から見ているなら、「見解を撤去すること」ということに成り、無常〔の観点〕から見ているなら、「思量を根絶するすること」ということに成り、苦痛〔の観点〕から見ているなら、「欲念を完全に取り払うこと」ということに成る。かくのごとく、この〔無我と無常と苦痛のあるがままの〕観察は、まさしく、自己〔の境位〕、自己の境位において、安立する(各自の境位において確固たるものとなる)。

 

§88  ということで、このように、形態なき七なるものを所以にもまた(※)、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、諸々の形成〔作用〕を触知する。

 また、これだけで、彼には、形態の〔心を定める〕行為の拠点もまた、形態なきものの〔心を定める〕行為の拠点もまた、熟練するところと成る。

 

※ テキストにはarūpasattakavasenā ti とあるが、VRI版により arūpasattakavasenāpi と読む。

 

722.

 

 7 十八の大いなる〔あるがままの〕観察

 

§89  彼(瞑想修行者)は、このように、形態と形態なきものの〔心を定める〕行為の拠点が熟練するところとなり、すなわち、以後は、滅壊の随観(Ch.21§10)から以降、捨棄の遍知(§3)を所以に、一切の行相〔の観点〕から至り得られるべき、十八の大いなる〔あるがままの〕観察の、まずは、まさしく、ここに、それらの一部位を理解している者となり、それと相反する諸法(性質)を捨棄する。

 

§90  「十八の大いなる〔あるがままの〕観察」というのは、無常の随観等の智慧である。それら〔の智慧〕において、(1)無常の随観を修めている者は、常住の表象を捨棄する。(2)苦痛の随観を【629】修めている者は、安楽の表象を捨棄する。(3)無我の随観を修めている者は、自己の表象を捨棄する。(4)厭離の随観を修めている者は、愉悦を捨棄する。(5)離貪の随観を修めている者は、貪欲を捨棄する。(6)止滅の随観を修めている者は、集起を捨棄する。(7)放棄の随観を修めている者は、執取を捨棄する。(8)滅尽の随観を修めている者は、重厚の表象を捨棄する。(9)衰失の随観を修めている者は、専業を捨棄する。(10)変化の随観を修めている者は、常恒の表象を捨棄する。(11)無相の随観を修めている者は、形相を捨棄する。(12)無願の随観を修めている者は、切願を捨棄する。(13)空性の随観を修めている者は、固着を捨棄する。(14)卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察を修めている者は、真髄への執取の固着を捨棄する。(15)事実のとおりの知見を修めている者は、迷妄の固着を捨棄する。(16)危険の随観を修めている者は、基底の固着を捨棄する。(17)〔あるがままの〕審慮の随観を修めている者は、審慮なき〔状態〕を捨棄する。(18)還転の随観を修めている者は、束縛の固着を捨棄する。

 

§91  それら〔の智慧〕のうち、すなわち、この〔心の制止者〕によって、無常等の三つの特相を所以に、諸々の形成〔作用〕が見られたことから、それゆえに、(1・2・3)無常と苦痛と無我の随観は、〔すでに〕理解されたものとして有る。さらに、すなわち、「そして、すなわち、(1)無常の随観は、さらに、すなわち、(11)無相の随観は、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)」(パティサンビダー・マッガ2p.63)〔と説かれ〕、そのように、「そして、すなわち、(2)苦痛の随観は、さらに、すなわち、(12)無願の随観は、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる」「そして、すなわち、(3)無我の随観は、さらに、すなわち、(13)空性の随観は、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる」(パティサンビダー・マッガ2p.63)と説かれたことから(※)、それゆえに、それら〔の無相の随観と無願の随観と空性の随観〕もまた、〔すでに〕理解されたものとして有る。また、(14)卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察は、全てもろともに、〔あるがままの〕観察であり、(15)事実のとおりの知見は、まさしく、疑いの超渡の清浄(Ch.19)によって包摂されたものとなる。ということで、この二つもまた、まさしく、〔すでに〕理解されたものとして有る。残りの〔あるがままの〕観察の智慧のうち、幾許かものは、〔すでに〕理解されたものとして〔有り〕、幾許かものは、〔いまだ〕理解されていないものとして〔有る〕。それらの区分を、〔わたしたちは〕後に明らかと為すであろう(Ch.22§113)。

 

※ テキストにはTathā yā ca dukkhānupassanā yā ca appaihitānupassanā, ime dhammā ekatthā, byañjanameva nānan ti vutta とあるが、VRI版により Tathā ‘‘yā ca dukkhānupassanā yā ca appaihitānupassanā, ime dhammā ekatthā, byañjanameva nāna’’. ‘‘Yā ca anattānupassanā yā ca suññatānupassanā, ime dhammā ekatthā, byañjanameva nāna’’nti vutta と読む。

 

§92  まさに、まさしく、その、〔すでに〕理解されたものであるが、それに関して、このことが説かれた。「このように、形態と形態なきものの〔心を定める〕行為の拠点が熟練するところとなり、すなわち、以後は、滅壊の随観から以降(※)、捨棄の遍知を所以に、一切の行相〔の観点〕から至り得られるべき、十八の大いなる〔あるがままの〕観察の、まずは、まさしく、ここに、それらの一部位を理解している者となり、それと相反する諸法(性質)を捨棄する」(§89)と。

 

※ テキストにはbhagānupassanā tato paṭṭhāya とあるが、VRI版により bhagānupassanato paṭṭhāya と読む。

 

723.

 

 8 生成と衰失の随観の知恵

 

§93  彼(瞑想修行者)は、このように、無常の随観等と相反する(※)常住の表象等々の捨棄によって、清浄の知恵ある者となり、触知の知恵の彼岸に至って〔そののち〕、すなわち、その、触知の知恵の直後に、「現在の【630】諸法(性質)の、変化の随観における智慧が、生成と衰失の随観についての知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.54)と、〔聖典において〕生成と衰失の随観の知恵と説かれた、その〔知恵〕に到達するために、〔心の〕制止を始める。

 

※ テキストにはaniccānupassanā-paipakkhāna とあるが、VRI版により aniccānupassanādipaipakkhāna と読む。

 

§94  そして、始めつつあるとして、まずは、簡略〔の観点〕から始める。そこで、これが、〔その〕聖典となる。「どのように、現在の諸法(性質)の、変化の随観における智慧が、生成と衰失の随観についての知恵となるのか。生じた形態が、現在の〔法〕であり、その〔生じた形態〕の、発現の特相が、生成であり、変化の特相が、衰失であり、〔その〕随観が、知恵となる。生じた感受〔作用〕が……略……。生じた表象〔作用〕が……。生じた諸々の形成〔作用〕が……。生じた識知〔作用〕が……。生じた眼が……略……。生じた生存が(※)、現在の〔法〕であり、その〔生じた生存〕の、発現の特相が、生成であり、変化の特相が、衰失であり、〔その〕随観が、知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.54)と。

 

※ テキストにはbhāvo とあるが、VRI版により bhavo と読む。

 

§95  彼は、この聖典の方法によって、生じた名前と形態の、発現の特相を、生(出生)を、生起を、最新の行相を、「生成である」と〔触知し〕、変化の特相と滅尽と滅壊を、「衰失である」と触知する。

 

§96  彼は、このように覚知する。「この名前と形態の生起(再生)より前において、〔いまだ〕生起していないものに、あるいは、集積物は、あるいは、蓄積物は、存在しない。生起しつつあるものにもまた、あるいは、集積物から、あるいは、蓄積物から、至り来ることは、まさに、存在しない。止滅しつつあるものにもまた、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に至り行くことは、まさに、存在しない。〔すでに〕止滅したものにもまた、或る境位において、集積物から、蓄積物から、安置物から、確立することは、まさに、存在しない。また、すなわち、琵琶が奏でられているとき、〔すでに〕生起した音声の生起より前において、まさしく、蓄積物は存在せず、生起しつつある〔音声〕も、蓄積物から至り来たものではなく、止滅しつつある〔音声〕にも、〔四〕方と〔四〕維に至り行くことは存在せず、〔すでに〕止滅したことから、どこであれ、蓄積されたものは止住せず、そこで、まさに、そして、琵琶を、かつまた、琵琶の首を、さらに、人のそれに合う努力を、〔これらの三者を〕縁として、〔音声が〕有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行くように、このように、諸々の形態と形態なき法(性質)は、全てもろともに、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く」と。

 

724.

 

§97  このように、簡略〔の観点〕から、生成と衰失に意を為すことを為して、ふたたび、すなわち、まさしく、この生成と衰失の知恵の区分において、「(1)『無明の集起あることから、形態の集起がある』と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(2)『渇愛の集起あることから……。(3)『行為の集起あることから……。(4)『食の集起あることから、形態の集起がある』と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(5)〔彼は〕発現の特相を見ている者としてもまた、形態の範疇の、生成を見る。形態の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 (6)『無明の止滅あることから、形態の止滅がある』と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰失を見る。(7)『渇愛の止滅あることから……。(8)『行為の止滅あることから……。(9)『食の止滅あることから、形態の止滅がある』と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰失を【631】見る。(10)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、形態の範疇の、衰失を見る。形態の範疇の、衰失を見ている者はまた、これらの五つの特相を見る」(パティサンビダー・マッガ1p.55-6)〔と説かれ〕──

 そのように、「(1)『無明の集起あることから、感受〔作用〕の集起がある』と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(2)『渇愛の集起あることから……。(3)『行為の集起あることから……。(4)『接触の集起あることから、感受〔作用〕の集起がある』と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(5)発現の特相を見つつもまた、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。感受〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 (6)『無明の止滅あることから……。(7)『渇愛の止滅あることから……。(8)『行為の止滅あることから……。(9)『接触の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅がある』と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(10)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、感受〔作用〕の範疇の、衰失を見る。感受〔作用〕の範疇の、衰失を見ている者は、これらの五つの特相を見る」(パティサンビダー・マッガ1p.56)〔と説かれ〕──

 そして、感受〔作用〕の範疇の〔生成と衰失を見る〕ように、表象〔作用の範疇〕と諸々の形成〔作用の範疇〕と識知〔作用〕の範疇の〔生成と衰失を見る〕──また、これが、差異となる。識知〔作用〕のばあい、「接触」の箇所において、「名前と形態の集起あることから……。「名前と形態の止滅あることから……」〔となる〕(「接触」とあるところが、「名前と形態」となる)──ということで、このように、一つ一つの範疇の生成と衰失を見ることによって、十〔の特相〕、十〔の特相〕と為して、〔全部で〕五十の特相が説かれた。それらを所以に、「このようにもまた、形態の生成があり、このようにもまた、形態の衰失があり、このようにもまた、形態が生まれ出て、このようにもまた、形態が滅し去る」と、まさしく、そして、縁〔の観点〕から、さらに、瞬間〔の観点〕から、詳細〔の観点〕によって意を為す。

 

725.

 

 彼が、このように意を為していると、「かくのごとく、まさに、これらの諸法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く」と、知恵が、より清潔なるものとなる(純粋無雑となる)。

 

§98  彼が、このように、まさしく、そして、縁〔の観点〕から、さらに、瞬間〔の観点〕から、二種に生成と衰失を見ていると、真理()と縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)の方法と特相の諸々の細別が、明白なるものと成る。

 

726.

 

§99  まさに、すなわち、彼が、無明等の集起あることから、諸々の範疇の集起を〔見るなら〕、さらに、無明等の止滅あることから、諸々の範疇の止滅を見るなら、これが、彼にとって、縁〔の観点〕から生成と衰失を見ることとなる。また、すなわち、発現の特相と変化の特相を見ている者が、諸々の範疇の生成と衰失を見るなら、これが、彼にとって、瞬間〔の観点〕から生成と衰失を見ることとなる。なぜなら、まさしく、生起の瞬間においては、発現の特相があり、さらに、滅壊の瞬間においては、変化の特相があるからである。

 

727.

 

§100  かくのごとく、彼が、このように、まさしく、そして、縁〔の観点〕から、さらに、瞬間〔の観点〕から、二種に生成と衰失を見ていると、縁〔の観点〕から、生成を見ることによって、生じさせるもの(因)を覚ることから、集起という真理(集諦)が、明白なるものと成り、【632】瞬間〔の観点〕から、生成を見ることによって(※)、生の苦しみを覚ることから、苦しみという真理(苦諦)が、明白なるものと成り、縁〔の観点〕から、衰失を見ることによって、縁の不生起による(※※)諸々の縁あるものの不生起を覚ることから、止滅という真理(滅諦)が、明白なるものと成り、瞬間〔の観点〕から、衰失を見ることによって、死の苦しみを覚ることから、まさしく、苦しみという真理が、明白なるものと成る。さらに、すなわち、彼にとって、〔縁の観点と瞬間の観点から〕生成と衰失を見ることは、そして、これは、世〔俗〕のものとしての道(出脱の道)であり、ということで、そこで、迷妄の打破あることから、道という真理(道諦)が、明白なるものと成る。

 

※ テキストにはudayabbayadassanena とあるが、VRI版により udayadassanena と読む。

※※ テキストにはpaccayānuppādanena とあるが、VRI版により paccayānuppādena と読む。

 

728.

 

§101  そして、彼にとって、縁〔の観点〕から、生成を見ることによって、「これが存しているとき、これが有る」(マッジマ・ニカーヤ1p.262)という覚りあることから、順なる縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が、明白なるものと成り、縁〔の観点〕から、衰失を見ることによって、「これの止滅あることから、これが止滅する」(マッジマ・ニカーヤ1p.264)という覚りあることから、逆なる縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が、明白なるものと成り、また、瞬間〔の観点〕から、生成と衰失を見ることによって、形成されたものの特相を覚ることから、縁によって生起した諸々の法(縁已生法)が、明白なるものと成る──なぜなら、諸々の生成と衰失あるものは、形成されたものであり、そして、それらは、縁によって生起したものであるからである、と〔知られるべきである〕。

 

729.

 

§102  そして、彼にとって、縁〔の観点〕から、生成を見ることによって、因と果の連結による相続の断続なきことを覚ることから、一なることの方法(Ch.17§310)が、明白なるものと成り、そこで、〔彼は〕より巧妙に断絶の見解を捨棄し、瞬間〔の観点〕から、生成を見ることによって、新しいもの新しいものの生起を覚ることから、種々なることの方法(Ch.17§311)が、明白なるものと成り、そこで、〔彼は〕より巧妙に常久の見解を捨棄する。さらに、彼にとって、縁〔の観点〕から、生成と衰失を見ることによって、諸々の法(性質)の自在の転起なき状態を覚ることから、労苦なきことの方法(Ch.17§312)が、明白なるものと成り、そこで、〔彼は〕より巧妙に自己の見解を捨棄する。また、縁〔の観点〕から、生成を見ることによって、縁の適切なるままに果の生起を覚ることから、このように〔あるがままの〕法(性質)たることの方法(Ch.17§313)が、明白なるものと成り、そこで、〔彼は〕より巧妙に無作の見解を捨棄する。

 

730.

 

§103  そして、彼にとって、縁〔の観点〕から、生成を見ることによって、諸々の法(性質)の作動(意図的努力)なくして縁との連結による転起を覚ることから、無我の特相が、明白なるものと成る。瞬間〔の観点〕から、生成と衰失を見ることによって、有って〔そののち〕状態なきことを覚ることから、さらに、過去の極と未来の極からの遠離を覚ることから、無常の特相が、明白なるものと成り、生成と衰失による逼悩を覚ることから、苦痛の特相もまた、明白なるものと成り、生成と衰失によって限定されたものを覚ることから、自ずからの状態の特相もまた、明白なるものと成り、自ずからの状態の特相における形成されたものの特相の暫時のものたることもまた、生成の瞬間における衰失の〔状態なきことを覚ることから〕、さらに、衰失の瞬間における生成の状態なきことを覚ることから、明白なるものと成る、と〔知られるべきである〕。

 

731.

 

§104  このように、真理と縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の方法と特相の諸々の細別が明白なるものと成った者には(※)、彼には、「まさに、このように、これらの諸法(性質)は、まさに、過去に生起したものではないものとして生起し、生起したものは止滅する」と、諸々の形成〔作用〕が、まさしく、常に新しいものと【633】成って現起する(※※)。さらに、単に、常に新しいものとしてではなく、日の出における露の滴のように(アングッタラ・ニカーヤ4p.137)、水泡のように(サンユッタ・ニカーヤ3p.141,ダンマパダ170,アングッタラ・ニカーヤ5p.173)、水のうえの棒線のように(アングッタラ・ニカーヤ4p.137)、錐の先にある芥子のように(スッタニパータ625,ダンマパダ407)、さらに、雷光の生起(マハー・ニッデーサp.43)のように、微小なる境位のものとして、幻想や陽炎や夢中や火輪や蜃気楼や泡沫や芭蕉等々のように、真髄なきものとして──さらに、また、真髄にあらざるものとして、ということでも──現起する。

 これだけで、この者によって、「衰失の法(性質)だけが生起し、そして、生起したものは、衰失に近しく赴く」と、この行相によって、正味五十の(※※※)特相を〔あるがままに〕理解して安立した、「生成と衰失の随観」という名の、初歩の〔あるがままの〕観察の知恵が到達されたものと成り、その〔知恵〕の到達あることから、〔彼は〕「〔あるがままの〕観察を始めた者」という名称に至る。

 

※ テキストにはpākaībhūtasaccasamuppādanayalakkhaabhedassa とあるが、VRI版により pākaībhūtasaccapaiccasamuppādanayalakkhaabhedassa と読む。

※※ テキストにはuṭṭhahanti とあるが、VRI版により upaṭṭhahanti と読む。

※※※ テキストにはsamapaññāya とあるが、VRI版により samapaññāsa と読む。

 

732.

 

 9 〔あるがままの〕観察に付随する〔心の〕汚れ

 

§105  そこで、この〔あるがままの〕観察を始めた者には、この初歩の〔あるがままの〕観察によって、十の〔あるがままの〕観察に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が生起する。なぜなら、〔十のあるがままの〕観察に付随する〔心の〕汚れは、まさしく、そして、〔瞑想の境地の〕理解(通達)に至り得た聖なる弟子には〔生起せず〕、さらに、邪行の実践者にして〔心を定める〕行為の拠点を捨て置いた怠惰の人にも生起せず、いっぽう、正しい実践者として道理あることに専念する、〔あるがままの〕観察を始めた良家の子息に、まさしく、生起するからである。

 「また、どのようなものが、それらの十の付随する〔心の〕汚れであるのか」と〔問うなら〕、「(1)光輝、(2)知恵、(3)喜悦、(4)静息、(5)安楽、(6)信念、(7)励起、(8)現起、(9)放捨、(10)欲念、という、〔十の付随する心の汚れがある〕」〔と答える〕。

 

§106  まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「どのように、法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。〔彼は〕『光輝が、法(真理)である』と、光輝に〔心を〕傾注する。その〔光輝〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から……無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない」(パティサンビダー・マッガ2p.100)〔と〕。そのように、「無常〔の観点〕から意を為していると、知恵が生起する。……喜悦が……静息が……安楽が……信念が……励起が……現起が……放捨が……欲念が生起する。〔彼は〕『欲念が、法(真理)である』と、欲念に〔心を〕傾注する。その〔欲念〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに【634】覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から……無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない」(パティサンビダー・マッガ2p.101)と。

 

733.

 

§107  (1)そこにおいて、「光輝」とは、〔あるがままの〕観察の光輝のこと。それが生起したとき、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、「これより前に、まさに、わたしにとって、このような形態の光輝は、過去に生起したことがなく、確実に、道に至り得た者として、〔わたしは〕存している、果に至り得た者として、〔わたしは〕存している」と、まさしく、道ならざるものを、「道である」と〔収め取り〕、さらに、まさしく、果ならざるものを、「果である」と収め取る(妄想し執着する)。彼が、道ならざるものを「道である」と〔収め取り〕、果ならざるものを「果である」と収め取っているなら、〔彼の、あるがままの〕観察の道程は、「〔道を〕外れたもの」ということに成る。彼は、自己の、根元の〔心を定める〕行為の拠点を捨てて、光輝だけを味わいながら坐る。

 

§108  また、まさに、その、この光輝は、或る比丘には、まさしく、結跏の場のみを照らしつつ生起し、或る〔比丘〕には、部屋の内を〔照らしつつ生起し〕、或る〔比丘〕には、部屋の外をもまた〔照らしつつ生起し〕、或る〔比丘〕には、精舎の全体を、〔一〕ガーヴタ(長さの単位・一ガーヴタは牛の鳴き声が届く距離で四分の一由旬とされる)を、半ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)を、〔一〕ヨージャナを、二ヨージャナを、三ヨージャナを……略……或る〔比丘〕には、地の面から、色究竟〔天〕の梵の世に至るまで、一つの光明に作り為しつつ〔生起する〕。また、世尊のばあいは、一万の世の界域を照らしつつ生起した。

 

§109  そして、その〔光輝〕の、このように相違あることについて(※)、これが、〔その〕事例となる。伝えるところでは、チッタラ山のドヴィクッダ・ゲーハの内に、二者の長老が坐っていた。そして、その日、黒分(月が欠ける期間)の斎戒(新月の日の布薩)と成り、〔四〕方は雨雲の膜に覆われ、夜分には四つの支分(新月・雨雲に覆われた空・夜分・林中の四条件)を具備した闇が転起する。そこで、一者の長老が言った。「尊き方よ、わたしによって、今や、塔廟の庭の獅子坐における五色の花々が覚知されます」と。彼に、他の者が言った。「友よ、〔あなたは〕稀有ならざることを言説する(めずらしいことではない)。いっぽう、わたしによって、今現在、大海の〔一〕ヨージャナの場における魚と亀たちが覚知されます」と。

 

※ テキストにはeva attatāya とあるが、VRI版により vemattatāya と読む。

 

§110  また、この〔あるがままの〕観察に付随する〔心の〕汚れは、多くのところとして、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察(止観)の得者に生起する。彼は、諸々の〔心の〕汚れが入定によって鎮静され、〔それらの〕慣行なきことから、「わたしは、阿羅漢である」と、心を生起させる。ウッチャヴァーリカの住者たるマハー・ナーガ長老のように。ハンカナカの住者たるマハー・ダッタ長老のように。さらに、チッタラ山のニカペンナカパダーナ・ガラの住者たるチューラ・スマナ長老のように。

 

§111  そこで、これが、一つの事例の遍き提示となる。伝えるところでは、ターランカラの住者たるダンマディンナ長老という名の、一者の、融通無礙〔の智慧〕(無礙解)を開発し、大いなる煩悩の滅尽者にして、大いなる比丘の僧団に教諭を与える者が〔世に〕有った。彼は、或る日、自己の昼〔の休息〕の場に坐って、「いったい、まさに、どうなのだろう、わたしたちの師匠であるウッチャヴァーリカの住者たるマハー・ナーガ長老の、【635】沙門の状態として為すべきことは、頂に至り得たのか、否や」と〔心を〕傾注しつつ、彼(マハー・ナーガ長老)の、まさしく、凡夫の状態を見て、かつまた、「わたしが赴かずにいるなら、まさしく、凡夫のまま命の終わりを為すであろう」と知って、神通によって宙に飛び上がって、昼〔の休息〕の場に坐っている〔マハー・ナーガ〕長老の近くに降りて、敬拝して、〔弟子としての〕行持を見示して、一方に坐った。そして、「友よ、ダンマディンナよ、どうして、時ならざる到来者として、〔あなたは〕存しているのですか」と説かれたとき、〔ダンマディンナ長老は〕「尊き方よ、問いを尋ねるために、到来者として、〔わたしは〕存しています」と言った。そののち、「友よ、尋ねなさい。知っているままに言説しましょう」と説かれたとき、〔ダンマディンナ長老は〕千の問いを尋ねた。

 

§112  〔マハー・ナーガ〕長老は、尋ねられた〔問い〕尋ねられた〔問い〕を、まさしく、着することなく言説した。そののち、「尊き方よ、あなたさまの知恵は、極めて鋭敏なるものです。あなたさまが(※)、この〔融通無礙の〕法(性質)に到達したのは、いつのことですか」と説かれたとき、〔マハー・ナーガ長老は〕「友よ、これより六十年の昔に」と言った。「尊き方よ、禅定をやってみてください」と。「友よ、これは、大したことにあらず」と。「尊き方よ、まさに、それでしたら、一つの象を造作してください」と。〔マハー・ナーガ〕長老は、純白の象を造作した。「尊き方よ、今や、すなわち、この象が、耳を逆立て、尾を伸ばし、鼻を口に入れて、恐ろしい威嚇の咆哮を為しながら、あなたさまに向かい、やってくるように、そのように、その〔象〕を作り為してください」と。〔マハー・ナーガ〕長老は、そのように作り為して、勢いよくやってくる象の、恐ろしい行相を見て、立ち上がって逃げ出すべく励む者となる。〔まさに〕その、この〔象〕を、煩悩の滅尽者たる〔ダンマディンナ〕長老は、手を伸ばして衣料の端で収め取って、「尊き方よ、煩悩の滅尽者に、『恐れおののき』というものが、有りましょうか」と言った。

 

※ テキストにはtumhepi とあるが、VRI版により tumhehi と読む。

 

§113  彼(マハー・ナーガ長老)は、その時に、自己の凡夫の状態を知って、「友よ、ダンマディンナよ、わたしの援助者と成りたまえ(※)」と説いて、〔ダンマディンナ長老の〕足元にひざまずき、坐った。「尊き方よ、あなたさまの援助者と成りましょう。まさしく、かくのごとく、わたしはやってきたのです。〔不要に〕思い考えることがあってはなりません(余計な心配は無用です)」と、〔心を定める〕行為の拠点を言説した。〔マハー・ナーガ〕長老は、〔心を定める〕行為の拠点を収め取って、〔瞑想のための〕歩行場に登って、第三足目に、至高の果たる阿羅漢の資質に至り得た。まさに、〔マハー・ナーガ〕長老は、憤怒の行ない(性格)の者として有った。このような形態の比丘たちは、光輝にたいし、〔心が〕動く(憤怒の行ないの者は、化作したものに動揺する)。

 

※ テキストにはhotī とあるが、VRI版により hohī と読む。

 

734.

 

§114  (2)「知恵」とは、〔あるがままの〕観察の知恵のこと。伝えるところでは、彼(瞑想修行者)が、諸々の形態と形態なき法(性質)を比較し推量していると、放たれたインダ(インドラ神)の金剛のように、打破されざる勢いで、鋭敏にして勇敢の、極めて清潔なる知恵が生起する。

 

§115  (3)「喜悦」とは、〔あるがままの〕観察の喜悦のこと。伝えるところでは、彼には、その時点において、微小の喜悦、瞬間の喜悦、継起の喜悦、戦慄の喜悦、充満の喜悦という、この五種類の喜悦(Ch.4§94)が、全肉体を満たしつつ生起する。

 

§116  (4)「静息」とは、〔あるがままの〕観察の静息のこと。伝えるところでは、彼が、その時点において、あるいは、夜の〔坐の〕場であれ、あるいは、昼の〔坐の〕場であれ、坐っていると、身体と心には、【636】まさしく、懊悩もなく、鈍重もなく、粗剛なることもなく、行為に適合しないこともなく、病もなく、湾曲なることもなく、〔そのように〕有る。そこで、また、まさに、彼の身体と心は、静息となり、軽快となり、柔和となり、行為に適するものとなり、極めて清潔なるものとなり、まさしく、真直なるものとなり、〔そのように〕有る。彼は、これらの静息等々によって身体と心が資助され、その時点において、まさに、人間ならざる喜びを経験する。それに関して、〔聖典において〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔人のいない〕空家に入り、心が寂静となった比丘が、正しく法(事象)を観察していると、人間ならざる喜びが有る。

 〔五つの心身を構成する〕範疇の生成と衰失を〔時々刻々に〕触知する、そのたびごとに、〔自己と世界をあるがままに〕識知している者たちの、〔まさに〕その、不死なる喜悦と歓喜を、〔彼は〕得る」(ダンマパダ373-4)と。

 

 このように、彼には、この人間ならざる喜びを遂行する、軽快性等と結び付いた静息が生起する。

 

§117  (5)「安楽」とは、〔あるがままの〕観察の安楽のこと。伝えるところでは、彼には、その時点において、全肉体に流れ行く極めて精妙なる安楽が生起する。

 

§118  (6)「信念」とは、信のこと。なぜなら、彼には、まさしく、〔あるがままの〕観察と結び付いたものとして、心と心の属性としての〔諸法〕にとって極めて勝れた浄信と成った、力ある信が生起するからである。

 

§119  (7)「励起」とは、精進のこと。なぜなら、彼には、まさしく、〔あるがままの〕観察と結び付いたものとして(※)、緩慢ならず、励み過ぎず、しっかりと励起された精進が生起するからである。

 

※ テキストにはVipassanāsampayuttā yeva とあるが、VRI版により Vipassanāsampayuttameva と読む。

 

§120  (8)「現起」とは、気づきのこと。なぜなら、彼には、まさしく、〔あるがままの〕観察と結び付いたものとして、善く現起し、しっかりと確立され、掘り下げられた、不動にして、山の王(ヒマラヤ)に等しき気づきが生起するからである。彼が、その〔知恵〕、その知恵に、〔心を〕傾注し、集中し、意を為し、綿密に注視するなら、彼には、その〔状況〕、その状況が、気づきによって現起する──〔瞑想の境地に〕没入して跳入して、天眼の者に、他の世が〔現起する〕ように。

 

§121  (9)「放捨」とは、まさしく、そして、〔あるがままの〕観察の放捨のことであり、さらに、傾注する〔作用〕の放捨のことである。なぜなら、彼には、その時点において、一切の形成〔作用〕にたいし中なるものと成った〔あるがままの〕観察の放捨もまた、意の門における傾注する〔作用〕の放捨もまた、力あるものとして生起するからである。まさに、その〔放捨〕は、彼が、その〔状況〕、その状況に、〔心を〕傾注していると、放たれたインダの金剛のように、葉の袋に入れられた熱せられた鉄槍のように、勇敢にして鋭敏なるものと成って、運び行く(作用する)。

 

§122  (10)「欲念」とは、〔あるがままの〕観察の欲念のこと。なぜなら、彼には、このように光輝等によって装飾され(※)、〔あるがままの〕観察にたいし基底を作り為している、繊細にして寂静の行相ある欲念が生起するからである。すなわち、〔その〕欲念は、「〔心の〕汚れである」と遍く収め取ることもまた【637】できない、〔そのようなものと〕成る。

 

※ テキストにはokāsādi-paimaṇḍitāya とあるが、VRI版により obhāsādipaimaṇḍitāya と読む。

 

§123  そして、すなわち、光輝が〔生起した〕とき(※)のように、このように、これら〔の付随する心の汚れ〕についてもまた、どれか一つが生起したとき、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、「これより前に、まさに、わたしにとって、このような形態の知恵は、過去に生起したことがなく……このような形態の喜悦は……静息は……安楽は……信念は……励起は……現起は……放捨は……欲念は、過去に生起したことがなく、確実に、道に至り得た者として、〔わたしは〕存している、果に至り得た者として、〔わたしは〕存している」と、まさしく、道ならざるものを、「道である」と〔収め取り〕、さらに、まさしく、果ならざるものを、「果である」と収め取る(妄想し執着する)。彼が、道ならざるものを「道である」と〔収め取り〕、果ならざるものを「果である」と収め取っているなら、〔彼の、あるがままの〕観察の道程は、「〔道を〕外れたもの」ということに成る。彼は、自己の、根元の〔心を定める〕行為の拠点を捨てて、欲念だけを味わいながら坐る、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストにはokāse とあるが、VRI版により obhāse と読む。

 

735.

 

§124  そして、ここにおいて、光輝等々は、付随する〔心の〕汚れの基盤たることから、「付随する〔心の〕汚れ」と説かれたが、善ならざることから、ではない。また、欲念は、まさしく、そして、付随する〔心の〕汚れであり、さらに、付随する〔心の〕汚れの基盤である。そして、まさしく、基盤たるを所以に、これら〔の付随する心の汚れ〕は、十と〔成り〕、また、収取たるを所以に、正味三十のものと成る。どのようにか。

 

§125  まさに、「わたしに、光輝が生起したのだ」と収め取っている者には、見解の収取が有り、「まさに、意に適う光輝が生起したのだ」と収め取っている者には、思量の収取が〔有り〕、光輝を味わっている者には、渇愛の収取が〔有り〕、ということで、光輝にたいし、見解と思量と渇愛を所以に、三つの収取がある。そのように、残り〔の九つの付随する心の汚れ〕についてもまたあり(同様である)、ということで、このように、収取を所以に、正味三十の付随する〔心の〕汚れと成る。それら〔の付随する心の汚れ〕を所以に、巧みな智なく明敏ならざる〔心の〕制止を行境とする者は、光輝等々にたいし、〔心が〕動き、散乱し、光輝等々の一つ一つを、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と等しく随観する。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、光輝にたいし、かつまた、知恵にたいし、さらに、喜悦にたいし、〔心が〕動き、静息にたいし、まさしく、そして、安楽にたいし、それら〔の付随する心の汚れ〕によって、心が動揺する。

 そして、信念にたいし、励起にたいし、さらに、現起にたいし、〔心が〕動き、そして、傾注する〔作用〕の放捨にたいし、〔あるがままの観察の〕放捨にたいし、欲念にたいし、〔心が動く〕」(パティサンビダー・マッガ2p.102:一部異なる箇所あり)と。

 

736.

 

§126  また、巧みな智ある賢者にして明敏なる覚りの成就者たる〔心の〕制止を行境とする者は、光輝等々が生起したとき、「この光輝が、まさに、わたしに生起したのだ。いっぽう、それは、まさに、この〔光輝〕は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、あるいは、かくのごとく、それを、智慧によって限定し、近しく注視する。そこで、また、あるいは、彼には、このような〔思いが〕有る。「それで、もし、光輝が、自己として有るなら、『自己である』と収め取るのは順当であろう。また、しかしながら、無我であるものが、これが、『自己である』と収め取られたのだ。それゆえに、それは、自在に転起することなき義(意味)によって、無我であり、有って〔そののち〕状態なき義(意味)によって、無常であり、生起と衰失による逼悩ある義(意味)によって、苦痛である」と。〔その〕一切は、形態なき七なるものにおいて説かれた方法によって(§84-6)、詳知されるべきである。さらに、すなわち、光輝についてのように、このように、残り〔の九つの付随する心の汚れ〕についてもまたある。

 

§127  彼は、このように近しく注視して、光輝を、「これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない」と等しく随観する。……【638】知恵を……略……欲念を、「これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない」と等しく随観する。このように等しく随観している者は、光輝等々にたいし、〔心が〕動かず、動揺しない。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「これらの十の境位があるも、智慧が、彼に遍く蓄積されたなら、法(教え)にたいする〔心の〕高揚に巧みな智ある者と成り、そして、〔心の〕散乱に至らない」(パティサンビダー・マッガ2p.102:一部異なる箇所あり)と。

 

§128  彼が、このように〔心の〕散乱に至らずにいると、〔まさに〕その、正味三十種類の付随する〔心の〕汚れの結束を解きほぐして、「光輝等々の諸法(性質)は、〔聖者の〕道ではない。いっぽう、付随する〔心の〕汚れから解脱し、〔正しい〕道程が実践された、〔あるがままの〕観察の知恵が、〔聖者の〕道である」と、そして、道を、さらに、道ならざるものを、〔両者ともに〕定め置く。

 

§129  彼の、このように、「これは、道である」「これは、道ではない」と、そして、道を、さらに、道ならざるものを、〔両者ともに〕知って〔そののち〕、〔迷妄なき境地において〕安立した知恵が、「道と道ならざるものの知見の清浄」と知られるべきである。

 

 10 三つの真理の〔差異の〕定置

 

§130  また、そして、これだけで、彼によって、三つの真理の〔差異の〕定置が為されたことと成る。どのようにか。まずは、見解の清浄において、名前と形態を定め置くことによって、苦しみという真理の〔差異の〕定置が為され、疑いの超渡の清浄において、縁の遍き収取によって、集起という真理の〔差異の〕定置が〔為され〕、この、道と道ならざるものの知見の清浄において、正しい道を強調することによって、道という真理の〔差異の〕定置が為された、ということで、このように、世〔俗〕の知恵だけによって、まずは、三つの真理の〔差異の〕定置が為されたことと成る。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「道と道ならざるものの知見の清浄についての釈示」という名の第二十章となる。