第二十二章 知見の清浄についての釈示
806.
[1 第一の〔聖者の〕道の知恵]
§1 【672】これから後は、〔新たな〕種姓と成る知恵と成る。その〔知恵〕は、〔聖者の〕道に〔心を〕傾注する境位たることから、まさしく、〔実践の〕道の知見の清浄に〔属さ〕ず、知見の清浄にも属さず、〔両者の〕中途において、まさしく、語用なきもの(明確に言い当てられないもの)として有る。いっぽう、〔あるがままの〕観察の流れに落ち行った(参入した)ことから、「〔あるがままの〕観察」という名称に至る。
§2 また、預流道、一来道、不還道、阿羅漢道、という、これらの四つの〔聖者の〕道についての知恵が、「知見の清浄」ということになる。
§3 そこにおいて、まずは、第一の〔聖者の〕道(預流道)の知恵を成就させることを欲する者によって、他に、何であれ、為されるべきことは、まさに、存在しない。なぜなら、すなわち、彼によって為されるべきことが存在するとして、それは、随順するものを最後とする〔あるがままの〕観察を生起させつつある者によって、まさしく、為されたからである。
§4 また、このように、随順する知恵が生起した彼には、それらの三つの随順する知恵(事前作業するもの・近接するもの・随順するもの:Ch.21§129)もろともによって、自己の力に適切なるままに、粗大なるうえにも粗大なる真理を隠蔽する闇が消没させられたとき、一切の形成〔作用〕として在るもの(形成されたもの)にたいし、心は、跳入せず、確立せず、信念せず、執着せず、付着せず、結縛されず、蓮華の葉から水が〔落ちる〕ように、退去し、退避し、反転し、一切の形相としてある対象もまた、一切の転起されたものとしてある対象もまた、障害〔の観点〕から現起する(障害として現起する)。
§5 そこで、随順する知恵ある彼には、一切の形相〔としてある対象〕と〔一切の〕転起されたものとしてある対象が障害〔の観点〕から現起したとき、習修の最後において、形相なく転起されたものなく形成〔作用〕を離れた止滅の涅槃を対象と為しつつ、凡夫の種姓と凡夫の名称と凡夫の境地を超越しつつ、聖者の種姓と聖者の名称と聖者の境地に入りつつ、涅槃を対象とする最初の転回と最初の念慮と最初の集中として有るものが──〔聖者の〕道にとっての直後なる〔縁〕と等しく直後なる〔縁〕と【673】習修としての〔縁〕と近しき依所たる〔縁〕と非存在の〔縁〕と離去の〔縁〕を所以に六つの行相によって縁の状態を遂行しつつ、頂に至り得た〔あるがままの〕観察の筆頭として有るものが──さらなる転回なきものにして〔新たな〕種姓と成る知恵が──生起する。それに関して、〔聖典において〕説かれた。「どのように、外からの出起と還転における智慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵となるのか。生起を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものを……略……。葛藤を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。外なる諸々の形成〔作用〕の形相を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起なきものに……略……。葛藤なきものに……。止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起を征服して、生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる」(パティサンビダー・マッガ1p.66)と。〔その〕全てが詳知されるべきである。
807.
§6 そこで、これが、また、一つの傾注する〔作用〕によって、一つ〔の疾走作用〕の道程において転起している、随順する〔知恵〕と〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の、種々なる対象にたいし転起する行相を提示する喩えとなる。まさに、すなわち、大きな水路を跳び超えて、他岸に確立すること(立つこと)を欲する人が、勢いよく走って、水路の此岸にある木の枝に縛り付けて垂れ下がっている、あるいは、縄を、あるいは、棒を、掴んでは飛び上がって、他岸に向かい行き傾倒し傾斜する身体と成って、他岸の上部に至り得たなら、その〔縄や棒〕を解き放って、〔身体が〕揺れ動きつつも、他岸に降下して〔そののち〕徐々に確立するするように、まさしく、このように、この〔心の〕制止を行境とする者もまた(※)、生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と〔有情の〕居住にとって他岸として有る涅槃に確立することを欲する者として、生成と衰失の随観等によって、勢いよく走って、自己状態の木の枝に縛り付けて垂れ下がっている、あるいは、形態の縄を、あるいは、感受〔作用〕等々のうち、どれか一つの棒を、あるいは、「無常である」と、あるいは、「苦痛である」と、あるいは、「無我である」と、随順する〔知恵〕の傾注する〔作用〕(第一の随順する心)によって掴んで(収め取って)、その〔縄や棒〕を、まさしく、解き放つことなく、第一の随順する心によって飛び上がって、第二〔の随順する心〕によって、他岸に向かい行き傾倒し傾斜する身体ある者のように、涅槃に向かい行き傾倒し傾斜する意図ある者と成って、第三〔の随順する心〕によって、他岸の上部に至り得た者のように、今や、至り得るべき涅槃の近くにある者と成って、その心の止滅によって、その形成〔作用〕としてある対象を解き放って、〔新たな〕種姓と成る心によって、形成〔作用〕を離れた他岸として有る涅槃に降下する。いっぽう、一つの対象にたいする習修が〔いまだ〕得られていないことから、〔身体が〕揺れ動いているその人のように、まずは、〔いきなり〕善く確立された者と成ることはなく、そののち、〔聖者の〕道の知恵によって確立する、と〔知られるべきである〕。
※ テキストにはyogāvacaro vi とあるが、VRI版により yogāvacaro pi と読む。
808.
§7 そこにおいて、随順する〔知恵〕は、真理を隠蔽する〔心の〕汚れの闇を除去することはできるが、涅槃を対象と為すことは〔でき〕ない。〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕は、まさしく、涅槃を対象と為すことはできるが、真理を隠蔽する〔心の〕汚れの闇を除去することは〔でき〕ない。
§8 そこで、これが、〔その〕喩えとなる。【674】伝えるところでは、或る眼ある人が、「星の合を知るのだ」と、夜分に〔外に〕出て、月を見るために上を見上げた。彼には、諸々の黒雲によって隠蔽されていたことから、月は覚知されなかった。そこで、或る風が出起して、諸々の粗大なるうえにも粗大なる黒雲を砕破した。他の〔風〕が、諸々の中等なる〔黒雲〕を〔砕破した〕。他の〔風〕が、諸々の繊細なる〔黒雲〕をもまた〔砕破した〕。そののち、その人は、黒雲が離れ去った天空に月を見て、星の合を了知した。
§9 そこにおいて、三つの黒雲のように、真理を隠蔽する粗大なる〔心の汚れ〕と中等なる〔心の汚れ〕と繊細なる〔心の〕汚れの暗黒がある。三つの風のように、三つの随順する心がある。眼ある人のように、〔新たな〕種姓と成る知恵がある。月のように、涅槃がある。一つ一つの(※)風が順々に黒雲を砕破することのように、一つ一つの随順する心が真理を隠蔽する闇を除去することがある。黒雲が離れ去った天空に、その人が清浄なる月を見ることのように、真理を隠蔽する闇が離れ去ったとき、〔新たな〕種姓と成る知恵が清浄なる涅槃を見ることがある。
※ テキストにはekakassa とあるが、VRI版により ekekassa と読む。
§10 まさに、まさしく、すなわち、三つの風が、まさしく、月を隠蔽する〔三つの〕黒雲を砕破することはできるが、月を見ることは〔でき〕ないように、このように、〔三つの〕随順する〔知恵〕は、まさしく、真理を隠蔽する闇を除去することはできるが、涅槃を見ることは〔でき〕ない。すなわち、その人が、まさしく、月を見ることはできるが、〔三つの〕黒雲を砕破することは〔でき〕ないように、このように、〔新たな〕種姓と成る知恵は、まさしく、涅槃を見ることはできるが、〔心の〕汚れの闇を除去することは〔でき〕ない。
§11 そして、まさしく、それによって、この〔新たな種姓と成る知恵〕は、「〔聖者の〕道に〔心を〕傾注する〔作用〕」と説かれる。なぜなら、それは、〔自らは〕傾注する〔作用〕なきものとして存しつつもまた、傾注する〔作用〕の境位に止住して、「このように発現せよ」と、〔聖者の〕道に表象を与えるかのようにして、止滅するからである。〔聖者の〕道もまた、その〔新たな種姓と成る知恵〕によって与えられた表象を、まさしく、解き放たずして、間隔なき相続を所以に、その〔新たな種姓と成る〕知恵に追随しつつ、過去に貫かれたことがなく、過去に破られたことがない、貪欲の範疇と憤怒の範疇と迷妄の範疇を、まさしく、貫きつつ、破りつつ、発現する。
809.
§12 そこで、これが、〔その〕喩えとなる。伝えるところでは、或る射手が、八ウサバ(長さの単位・一ウサバは百四十肘の距離)ほどの距離のところに百の延べ板を据え置いて、衣で顔を包み込んで、矢を装着して、〔水平に回転する〕車輪の機具のうえに立った。他の人が、車輪の機具を回して、すなわち、延べ板が射手にとって対面のものと成るとき(真向かいの位置に来たとき)、そのとき、そこにおいて、棒で表象(合図)を与える。射手は、棒の表象を、まさしく、解き放たずして(機を逸することなく)、矢を放って、百の延べ板を貫く。
§13 そこにおいて、棒の表象のように、〔新たな〕種姓と成る知恵がある。射手のように、〔聖者の〕道の知恵がある。射手が、棒の表象を、まさしく、解き放たずして、百の延べ板を貫くことのように、〔聖者の〕道の知恵が、【675】〔新たな〕種姓と成る知恵によって与えられた表象を、まさしく、解き放たずして、涅槃を対象と為して、過去に貫かれたことがなく、過去に破られたことがない、貪欲〔の範疇〕と憤怒〔の範疇〕と迷妄の範疇を貫くことと破ることがある。
810.
§14 そして、この〔聖者の〕道は、単に、貪欲の範疇等々を貫くことだけを為すにあらず、さらに、また、まさに、始源が思い考えられない輪廻の転起の苦海を乾かし、一切の悪所の門を閉め、七つの聖なる財(信・戒・恥の思い・良心の咎め・所聞・施捨・智慧)と面前する状態を作り為し、八つの支分ある誤った道を捨棄し、一切の怨念と恐怖を寂止させ、正等覚者の正嫡子たる状態へと導き、さらに、他の幾百の福利を獲得するために等しく転起する。ということで、このように、無数の福利を与える預流道(第一の道)と結び付いた知恵が、預流道についての知恵(第一の道の知恵)となる。ということで──
第一の道の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。
811.
[2 預流果](※)
※ テキストにはDutiya(magga)ñāṇaṃ とあるが(VRI版は Sotāpannapuggalakathā)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい変更する。
§15 また、この〔預流道における〕知恵(第一の道の知恵)の直後に、まさしく、その〔預流道についての知恵〕の報いとして有る、二つ〔の瞬間〕の、あるいは、三つ〔の瞬間〕の、〔預流〕果の心が生起する。なぜなら、諸々の世〔俗〕を超える善にとって、まさしく、直後の報いたることから、そして、「それを、〔賢者たちは〕『直後なる禅定(無間定:時を要さず即座に結果が出る禅定)』と言う」(スッタニパータ226)と〔説かれ〕、さらに、「諸々の煩悩の滅尽のための(※)直後なる〔報い〕に遅く至り得ます」(アングッタラ・ニカーヤ2p.149)と、〔このような言葉〕等が説かれたからである。
※ テキストにはkhāyāyā とあるが、VRI版により khayāyā と読む。
§16 また、或る者たちは、「一つ〔の瞬間〕の、二つ〔の瞬間〕の、三つ〔の瞬間〕の、あるいは、四つ〔の瞬間〕の、〔預流〕果の心が〔生起する〕」と説くが、それは、収め取られるべきではない(承認できない)。なぜなら、随順する〔知恵〕の習修の最後において、〔新たな〕種姓と成る知恵が生起するからである。それゆえに、一切の最低限度として、二つ〔の瞬間〕の随順する〔知恵〕の心が有るべきである。なぜなら、一つ〔の瞬間の心〕は、習修としての縁を得ず、かつまた、一つの疾走〔作用〕の道程は、七つの心を最高とするからである。それゆえに、すなわち、二つ〔の瞬間〕の随順する〔知恵の心〕があるなら、そのばあい、第三〔の瞬間〕は、〔新たな〕種姓と成る〔知恵の心〕であり、第四〔の瞬間〕は、〔預流〕道の心であり、〔残りの〕三つ〔の瞬間〕が、〔預流〕果の心と成り、すなわち、三つ〔の瞬間〕の随順する〔知恵の心〕があるなら、そのばあい、第四〔の瞬間〕は、〔新たな〕種姓と成る〔知恵の心〕であり、第五〔の瞬間〕は、〔預流〕道の心であり、〔残りの〕二つ〔の瞬間〕が、〔預流〕果の心と成る。それによって説かれた。「二つ〔の瞬間〕の、あるいは、三つ〔の瞬間〕の、〔預流〕果の心が生起する」と。
§17 また、或る者たちは、「すなわち、四つ〔の瞬間〕の随順する〔知恵の心〕があるなら、そのばあい、第五〔の瞬間〕は、〔新たな〕種姓と成る〔知恵の心〕であり、第六〔の瞬間〕は、〔預流〕道の心であり、〔残りの〕一つ〔の瞬間〕が、〔預流〕果の心と〔成る〕」と説く。いっぽう、その〔説〕は、すなわち、「第四〔の瞬間の心〕が、あるいは、第五〔の瞬間の心〕が、〔道に〕専注するとして、それより他〔の心〕は、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕の近くにあることから、〔専注し〕ない」と拒絶されたことから(Ch.4§75)、それゆえに、真髄〔の観点〕から信受されるべきではない。
812.
§18 【676】また、そして、これだけで、この預流たる者は、まさに、第二の聖者たる人と成り、たとえ、〔彼が〕多く怠る者と成っても、七回、そして、天〔の神々〕たちにおいて、さらに、人間たちにおいて、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為すことができる者と成る。
§19 また、果の結末において、彼(預流たる者)の心は、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕へと入り行く。そののち、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断して、道を綿密に注視すること(再検証)を義(目的)として、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が生起する。それが止滅したとき、次第次第に、七つの、道を綿密に注視する〔作用〕としての疾走〔作用の心〕が〔生起する〕。ということで、ふたたび、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕へと入り行って、まさしく、〔その〕方法によって、果等々を綿密に注視することを義(目的)として、傾注する〔作用の心〕等々が生起する。それらの生起あることから、彼は、(1)道を綿密に注視し、(2)果を綿密に注視し、(3)捨棄された諸々の〔心の〕汚れを綿密に注視し、(4)残された諸々の〔心の〕汚れを綿密に注視し、(5)涅槃を綿密に注視する。
§20 まさに、彼は、(1)「まさに、わたしは、この道によって至り来たのだ」と、道を綿密に注視し、そののち、(2)「わたしによって、この福利が得られたのだ」と、果を綿密に注視し、そののち、(3)「まさに、わたしによって、これらの〔心の〕汚れが捨棄されたのだ」と、捨棄された諸々の〔心の〕汚れを綿密に注視し、そののち、(4)「まさに、わたしによって、これらの〔心の〕汚れが残されたのだ」と、後の三つの道によって打破されるべき諸々の〔心の〕汚れを綿密に注視し、そして、最後に、(5)「わたしによって、この法(性質)が、対象〔の観点〕から理解されたのだ」と、不死なる涅槃を綿密に注視する。ということで、聖なる弟子にして預流たる者には、五つの綿密に注視することが有る。
§21 そして、すなわち、預流たる者にとってのように、このように、一来たる者と不還たる者にとってもまたある。いっぽう、阿羅漢たる者のばあい、残された〔心の〕汚れを綿密に注視することは、まさに、存在しない。ということで、このように、全てもろともに、まさに、十九の綿密に注視することがあり、そして、これが、まさしく、最大限度となる。まさに、捨棄された〔心の汚れ〕を〔綿密に注視すること〕と残された〔心の〕汚れを綿密に注視することは、〔いまだ〕学びある者(有学)たちにとってはまた、あるいは、有り、あるいは、〔有ることが〕ない。まさに、その綿密に注視することの、まさしく、状態がないことによって、マハー・ナーマは、世尊に尋ねた。「[尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。]『いったい、まさに、わたしに、どのような法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあるのだろう。それによって、わたしに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、[諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住するのだ』]」(マッジマ・ニカーヤ1p.91)と。〔その〕全てが、詳細〔の観点〕から知られるべきである。
813.
[3 第二の〔聖者の〕道の知恵](※)
※ テキストには見出しを欠くが(VRI版は Dutiyamaggañāṇakathā)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい補足する。
§22 また、このように綿密に注視して、その聖なる弟子にして預流たる者は、あるいは、まさしく、その坐に坐り、あるいは、他の時点にあって、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が些細なる状態の第二の境地に至り得るために、〔心の〕制止を為す。彼は、〔正覚に至る五つの〕機能と力(五根・五力)と〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を結集して、まさしく、その、形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕の細別ある、形成〔作用〕として在るもの(形成されたもの)を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と、知恵によって窮尽し、遍く転起させ、〔あるがままの〕観察の道程に入り行く。
§23 彼が、このように【677】実践していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕の最後において、一つの傾注する〔作用〕によって、随順する〔知恵〕と〔新たな〕種姓と成る知恵が生起したとき、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の直後に、一来道(第二の道)が生起する。それと結び付いた知恵が、一来道についての知恵(第二の道の知恵)となる。ということで──
第二の道の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。
814.
[4 一来果](※)
※ テキストにはTatiyamaggañāṇaṃ とあるが(VRI版は Tatiyamaggañāṇakathā)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい変更する。
§24 この〔一来道における〕知恵(第二の道の知恵)の直後にもまた、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔二つの瞬間の、あるいは、三つの瞬間の、一来〕果の心が知られるべきである。そして、これだけで、この一来たる者は、まさに、第四の聖者たる人と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すことができる者と〔成る〕。それから後の綿密に注視することは、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる。
[5 第三の〔聖者の〕道の知恵](※)
※ テキストには見出しを欠くが(VRI版も同様)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい補足する。
§25 そして、このように綿密に注視して、その(※)聖なる弟子にして一来たる者は、あるいは、まさしく、その坐に坐り、あるいは、他の時点にあって、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕と憎悪〔の思い〕を残りなく捨棄する第三の境地に至り得るために、〔心の〕制止を為す。彼は、〔正覚に至る五つの〕機能と力と〔七つの〕覚りの支分を結集して、まさしく、その、形成〔作用〕として在るものを、「無常であり、苦痛であり、無我である」と、知恵によって窮尽し、遍く転起させ、〔あるがままの〕観察の道程に入り行く。
※ テキストにはEvaṃ paccavekkhitvā c’ eso とあるが、VRI版により Evaṃ paccavekkhitvā ca so と読む。
§26 彼が、このように実践していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕の最後において、一つの傾注する〔作用〕によって、随順する〔知恵〕と〔新たな〕種姓と成る知恵が生起したとき、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の直後に、不還道(第三の道)が生起する。それと結び付いた知恵が、不還道についての知恵(第三の道の知恵)となる。ということで──
第三の道の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。
815.
[6 不還果](※)
※ テキストにはCatutthamaggañāṇaṃ とあるが(VRI版は Catutthamaggañāṇakathā)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい変更する。
§27 この〔不還道における〕知恵(第三の道の知恵)の直後にもまた、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔二つの瞬間の、あるいは、三つの瞬間の、不還〕果の心が知られるべきである。そして、これだけで、この不還たる者は、まさに、第六の聖者たる人と成り、化生の者として、そこにおいて、完全なる涅槃に到達し、帰還の法(性質)なき者と〔成り〕、結生を所以にこの世にふたたび帰ることなき者と〔成る〕。それから後の綿密に注視することは、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる。
[7 第四の〔聖者の〕道の知恵](※)
※ テキストには見出しを欠くが(VRI版も同様)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい補足する。
§28 そして、このように綿密に注視して、その(※)聖なる弟子にして不還たる者は、あるいは、まさしく、その坐に坐り、あるいは、他の時点にあって、形態(色界)と形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔思い〕と思量(慢)と高揚(掉挙)と無明を残りなく捨棄する第四の境地に至り得るために、〔心の〕制止を為す。彼は、〔正覚に至る五つの〕機能と力と〔七つの〕覚りの支分を結集して、まさしく、その、形成〔作用〕として在るものを、「無常であり、苦痛であり、無我である」と、知恵によって窮尽し、【678】遍く転起させ、〔あるがままの〕観察の道程に入り行く。
※ テキストにはEvaṃ paccavekkhitvā va so とあるが、VRI版により Evaṃ paccavekkhitvā ca so と読む。
§29 彼が、このように実践していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕の最後において、一つの傾注する〔作用〕によって、随順する〔知恵〕と〔新たな〕種姓と成る知恵が生起したとき、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の直後に、阿羅漢道(第四の道)が生起する。それと結び付いた知恵が、阿羅漢道についての知恵(第四の道の知恵)となる。ということで──
第四の道の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。
816.
[8 阿羅漢果](※)
※ テキストにはPhalacittāni : A. Sattatiṃsa bodhipakkhiyā dhammā とあるが(VRI版は Arahantapuggalakathā)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい変更する。
§30 この〔阿羅漢道における〕知恵(第四の道の知恵)の直後にもまた、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔二つの瞬間の、あるいは、三つの瞬間の、阿羅漢〕果の心が知られるべきである。そして、これだけで、この阿羅漢たる者は、まさに、第八の聖者たる人と成り、大いなる煩悩の滅尽者であり、最後の肉身を保つ者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものが完全に滅尽した者であり、正しい了知による解脱者であり、天を含む世〔の人々〕にとって、至高の施与されるべき者である、と〔知られるべきである〕。
§31 かくのごとく、すなわち、その、〔前に〕説かれた、「また、預流道、一来道、不還道、阿羅漢道、という、これらの四つの〔聖者の〕道についての知恵が、『知見の清浄』ということになる」(§2)とは、それは、この順によって至り得られるべき、これらの四つの知恵に関して説かれた。
817.
[9 四つの知恵の知見の清浄の威力](※)
※ テキストには見出しを欠くが(VRI版はBodhipakkhiyakathā)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい補足する。
§32 今や、まさしく、この、四つの知恵の知見の清浄の威力を識知することを義(目的)に──
〔そこで、詩偈に言う〕「(一)覚りの項目(菩提分)が円満成就した状態が〔知られるべきであり〕、(二)出起と(三)力の結合が〔知られるべきであり〕、(四)それらの諸法(性質)が、その〔知恵〕によって捨棄されるべきであるなら、そして、それら〔の諸法〕の捨棄が〔知られるべきであり〕──
(五)それらの遍知等々の〔四つの〕作用が、知悉(現観)の時においてある、〔と〕説かれた。そして、それらの全てが、自ずからの状態(自性:固有の性能)のとおりに知られるべきである」と。
818.
[(一)覚りの項目](※)
※ テキストには見出しを欠くが(VRI版も同様)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい補足する。
§33 (一)そこにおいて、「覚りの項目(菩提分)が円満成就した状態が〔知られるべきであり〕」とは、〔三十七の〕覚りの項目の円満成就した状態が〔知られるべきであり〕。まさに、(1)四つの気づきの確立(四念処・四念住)、(2)四つの正しい精励(四正勤)、(3)四つの神通の足場(四神足)、(4)〔正覚に至る〕五つの機能(五根)、(5)〔正覚に至る〕五つの力(五力)、(6)七つの覚りの支分(七覚支)、(7)聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)、という、これらの三十七の諸法(性質)は、覚りの支分という義(意味)によって、「覚り」という名を得た聖者の道の項において有ることから、「覚りの項目」ということになる。「項において有ることから」とは、資益の状態において止住したことから。
819.
§34 (1)それらそれらの対象のうちに没入しては跳入して現起することから、「確立」。気づきこそは、確立であり、「気づきの確立」。また、身体と感受と心と法(性質)において、その〔気づき〕が、不浄と苦痛と無常と無我の行相を収め取ることを所以に〔転起し〕、さらに、浄美と安楽と常住と自己の表象を捨棄する作用を遂行することを所以に【679】転起することから、四種に細別が有る。それゆえに、「四つの気づきの確立」と説かれる。
820.
§35 (2)これによって〔人々が〕精励する、ということで、「精励」。美しく輝く精励が、「正しい精励」。あるいは、これによって〔人々が〕正しく精励する、ということで、「正しい精励」。あるいは、それは、〔心の〕汚れという醜い形態が絶無なることから(※)、美しく輝くものとなり、そして、利益と安楽を完遂させるという義(意味)によって、最勝の状態をもたらすことから、さらに、精励の状態の契機たることから、精励となる、ということで、「正しい精励」。これは、精進の同義語である。〔まさに〕その、この〔正しい精励〕は、諸々の〔すでに〕生起した〔善ならざる法〕と〔いまだ〕生起していない善ならざる〔法〕の捨棄と不生起の作用を〔遂行し〕、さらに、諸々の〔すでに〕生起した〔善なる法〕と〔いまだ〕生起していない善なる〔法〕の生起と止住の作用を遂行する、ということで、四種類のものと成る。それゆえに、「四つの正しい精励」と説かれる。
※ テキストにはkilesavirūpatti-vidahanato とあるが、VRI版により kilesavirūpattavirahato と読む。
821.
§36 (3)前に説かれた(Ch.12§20)、実現すること(イッジャナ)という義(意味)によって、「神通(イッディ)」。その〔神通〕が結び付いたことから、先行という義(意味)によって、さらに、〔その神通が〕果と成ったことから、〔神通の〕前段部分を作り為すという義(意味)によって、神通にとっての足場となる、ということで、「神通の足場」。その〔神通の足場〕は、欲〔の思い〕(意欲)等を所以に、四種類のものと成る。それゆえに、「四つの神通の足場」と説かれる。すなわち、〔聖典に〕言うように、「四つの神通の足場がある。欲〔の思い〕(意欲)という神通の足場であり、心(専心)という神通の足場であり、精進という神通の足場であり、考察という神通の足場である」(ヴィバンガp.223)と。これらは、まさしく、世〔俗〕を超えるものとなる。また、世〔俗〕のものとしては、「もし、比丘が、欲〔の思い〕を優位(主因)と為して、禅定を得、心の一境性を得るなら、これが、『欲〔の思い〕による禅定』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.216)という言葉等から、欲〔の思い〕等の優位を所以に獲得された諸法(性質)もまた、〔四つの神知の足場と〕成る。
822.
§37 (4・5)不信と怠惰と放逸と散乱と迷妄を征服することから、「征服するもの」と名づけられた優位の義(意味)によって、「機能(※)」。そして、不信等々によって征服できないことから、不動の義(意味)によって、「力」。その〔機能と力〕は、両者ともどもに、信等を所以に、五種類のものと成る。それゆえに、「五つの機能(※※)と力」と説かれる。
※ テキストにはiddhiyaṃ とあるが、VRI版により indriyaṃ と読む。
※※ テキストにはpañciddhiyāni とあるが、VRI版により pañcindriyāni と読む。
823.
§38 (6・7)また、覚る者としての有情にとっての支分たる状態によって、気づき(念)等々は、七つの覚りの支分と〔成る〕。さらに、出脱の義(意味)によって、正しい見解(正見)等々は、八つの支分ある道と成る。それによって、「七つの覚りの支分」「聖なる八つの支分ある道」と説かれた。
824.
§39 かくのごとく、これらの三十七の覚りの項目の諸法(性質)がある。
〔聖者の道の知恵が生起する以前の〕前段部分において、世〔俗〕のものとしての〔あるがままの〕観察が転起しているとき、そして、〔呼吸、振る舞いの道、四つの正知、嫌悪なるものに意を為すこと、界域に意を為すこと、九つの墓所、という〕十四種類によって身体を遍く収め取っていると(Ch.8§42)、身体の随観における気づきの確立があり、そして、〔楽の感受、苦の感受、苦でもなく楽でもない感受、世の財貨を有する楽の感受、世の財貨なき楽の感受、世の財貨を有する苦の感受、世の財貨なき苦の感受、世の財貨を有する苦でもなく楽でもないの感受、世の財貨なき苦でもなく楽でもないの感受、という〕九種類によって、感受を遍く収め取っていると、感受の随観における気づきの確立があり、そして、〔貪欲を有する心、貪欲を離れた心、憤怒を有する心、憤怒を離れた心、迷妄を有する心、迷妄を離れた心、退縮した心、散乱した心、莫大なる心、莫大ならざる心、有上なる心、無上なる心、定められた心、定められていない心、解脱した心、解脱していない心、という〕十六種類によって、心を遍く収め取っていると、心の随観における気づきの確立があり、【680】そして、〔五つの修行の妨害、五つの心身を構成する執取の範疇、十二の認識の場所、七つの覚りの支分、四つの聖なる真理、という〕五種類によって、諸法(性質)を遍く収め取っていると、法(性質)の随観における気づきの確立がある。
この自己状態において、過去に生起したことなく、他者に生起した善ならざる〔法〕を見て、「すなわち、〔かくのごとく〕実践した者に、この〔善ならざる法〕が生起したように、そのように、〔わたしは〕実践しないであろう。このように、わたしに、この〔善ならざる法〕は生起しないであろう」と、その〔善ならざる法〕の生起なきために努力する時において、第一の正しい精励があり、自己の慣行たる〔状態〕に至り得た善ならざる〔法〕を見て、その〔善ならざる法〕を捨棄するために努力する時において、第二〔の正しい精励〕があり、この自己状態において(※)、過去に生起したことなき、あるいは、瞑想を、あるいは、〔あるがままの〕観察を、生起させようと努力していると、第三〔の正しい精励〕があり、〔すでに〕生起した〔瞑想を、あるいは、あるがままの観察〕を、すなわち、〔それが〕遍く衰退しないように、このように、繰り返し生起させていると、第四の正しい精励がある。
欲〔の思い〕を筆頭と為して、善なる〔法〕を生起させる時に、欲〔の思い〕という神通の足場があり……略……誤った言葉から離れる時に、正しい言葉があり……略……。ということで、このように、〔聖者の道の知恵が生起する以前の前段部分において、世俗のものとしてのあるがままの観察が転起しているとき、三十七の覚りの項目の諸法は〕種々なる心において得られる。
いっぽう、〔世俗を超えるものである〕これらの四つの〔道の〕知恵の生起ある時においては、〔三十七の覚りの項目の諸法は〕一つの心において得られる。果の瞬間においては、四つの正しい精励を除いて、残りの三十三〔の覚りの項目の諸法〕が得られる。
※ テキストにはbhāve とあるが、VRI版により attabhāve と読む。
825.
§40 そして、このように、一つの心において得られている、これら〔の覚りの項目の諸法〕のなかで、涅槃を対象とする、まさしく、一つの気づきが、身体等々において浄美の表象等を捨棄する作用を遂行することを所以に、「四つの気づきの確立」と説かれ、さらに、まさしく、一つの精進が、諸々の〔いまだ〕生起していない〔善ならざる法〕の不生起等の作用を遂行することを所以に、「四つの正しい精励」と説かれる。いっぽう、〔四つの気づきの確立と四つの正しい精励以外の〕残りのものについては、〔数の〕減増は存在しない。
826.
§41 さらに、また、それらについて──
〔そこで、詩偈に言う〕「九つのものは、一種類のものに、一つのものは、二種に、そして、四〔種に〕、五種に、まさしく、さらに、八種に、九種に、ということで、それらは、六種に成る」と。
§42 「九つのものは、一種類のものに」とは、欲〔の思い〕、心、喜悦、静息、放捨、〔正しい〕思惟、〔正しい〕言葉、〔正しい〕行業、〔正しい〕生き方、という、これらの九つのものは、欲〔の思い〕という神通の足場等を所以に、まさしく、一種類のものと成り、他の部位には属さない。「一つのものは、二種に」とは、信は、機能と力を所以に、二種に止住しているものとなる。「そして、四〔種に〕、五種に」とは、そして、他の一つのものは、四種に〔止住しているものとなり〕、他〔の一つのもの〕は、五種に止住しているものとなる、という義(意味)である。そこにおいて、一つのものとして、禅定は、機能と力と覚りの支分と道の支分を所以に、四種に止住しているものとなり、智慧は、それらの四つを〔所以に〕、さらに、神通の足場の部位を所以に、五種に〔止住しているものとなる〕。「まさしく、さらに、八種に、九種に」とは、他の一つのものは、八種に〔止住しているものとなり〕、〔他の〕一つのものは、九種に止住しているものとなる、という義(意味)である。気づきは、四つの気づきの確立と機能(※)と力と覚りの支分と道の支分を所以に、八種に止住しているものとなり、精進は、四つの正しい精励と神通の足場と機能と力と覚りの支分と道の支分を所以に、九種に〔止住しているものとなる〕。
※ テキストにはiddhiya とあるが、VRI版により indriya と読む。
§43 ということで、このように──
【681】〔そこで、詩偈に言う〕「これらの覚りの項目は、まさしく、十四の、混入なきもの(欲の思い・心・喜悦・静息・放捨・正しい思惟・正しい言葉・正しい行業・正しい生き方・信・禅定・智慧・気づき・精進)が有り、部位〔の観点〕から、七種類のもの(気づきの確立・正しい精励・神通の足場・機能・力・覚りの支分・聖なる道)となり、細別〔の観点〕から、三十七〔の項目〕となる。
自らの作用を完遂させることから、さらに、自らの形態による転起あることから、まさしく、それらの全てが、聖者の道の発生あるとき、発生する」と。
まずは、ここにおいて、このように、覚りの項目が円満成就した状態が知られるべきである。
827.
[(二)出起]
§44 (二・三)「出起と力の結合が〔知られるべきであり〕」(§32)とは、まさしく、そして、出起が〔知られるべきであり〕、さらに、力の結合が〔知られるべきであり〕。なぜなら、世〔俗〕のものとしての〔あるがままの〕観察は、まさしく、そして、形相を対象とすることから、さらに、転起の契機たる集起を断絶しないことから、まさしく、形相から〔出起せ〕ず、転起されたものからも出起しないからである。
(二)〔新たな〕種姓と成る知恵は、〔転起の契機たる〕集起を断絶しないことから、転起されたものから出起しないが、いっぽう、涅槃を対象とすることから、形相からは出起する、ということで、一者からの出起と成る。それによって、〔聖典に〕言う。「外(形相)からの出起と還転における智慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.66)と。そのように、「生起から還転して、生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから還転して、[転起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。……略……]」(パティサンビダー・マッガ1p.67)と。〔その〕全てが知られるべきである。
これらの〔四つの道の〕知恵は、四つもろともに、無相を対象とすることから、形相から出起し、〔転起の契機たる〕集起を断絶することから、転起されたものから出起する、ということで、両者からの出起と成る。それによって説かれた。
§45 「どのように、〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。『〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる』と。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から出起し……。遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から出起し……。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業が、誤った行業から出起し……。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から出起し……。励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から出起し……。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから出起し……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、誤った禅定から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。『〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる』と。
一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)という束縛するもの(結)から〔出起し〕、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)という束縛するものから〔出起し〕、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習(随眠:潜在煩悩)から〔出起し〕、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し……略……。不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、微細なる〔状態〕を共具した【682】欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、思量(慢)から〔出起し〕、高揚(掉挙)から〔出起し〕、無明から〔出起し〕、思量の悪習から〔出起し〕、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、無明の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。『〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.69-70)と。
828.
[(三)力の結合](※)
※ テキストには見出しを欠くが(VRI版も同様)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい補足する。
§46 (三)そして、世〔俗〕の八つの入定を修める時においては、〔心の〕止寂(止)の力が増上のものとして有り、無常の随観等々を修める時においては、〔あるがままの〕観察(観)の力が〔増上のものとして有る〕。いっぽう、聖者の道の瞬間においては、それらの〔二つの〕法(性質)は、双連のものとして、互いに他を超克することなき義(意味)によって転起し、それゆえに、これらの四つの知恵もろともにおいて、両者の力の結合が有る。それによって、〔聖典に〕言う。「そして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、さらに、諸々の範疇から出起していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。そして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、さらに、諸々の範疇から出起していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、出起の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと(※)成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。『出起の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修める』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ2p.98)と。
ここにおいて、このように、出起と力の結合が知られるべきである。
※ テキストにはayuganaddhā とあるが、VRI版により yuganaddhā と読む。
829.
[(四)捨棄]
§47 (四)また、「それらの諸法(性質)が、その〔知恵〕によって捨棄されるべきであるなら、そして、それら〔の諸法〕の捨棄が〔知られるべきであり〕」(§32)とは、これらの四つの知恵において、それらの諸法(性質)が、その〔知恵〕によって捨棄されるべきであるなら、そして、それら〔の諸法〕の捨棄が知られるべきである。なぜなら、これら〔の四つの知恵〕は、道理のままに、(1)「束縛するもの」と(2)「〔心の〕汚れ」と(3)「誤った〔道〕たること」と(4)「世の法(性質)」と(5)「物惜」と(6)「転倒」と(7)「拘束」と(8)「非道」と(9)「煩悩」と(10)「激流」と(11)「束縛」と(12)「妨害」と(13)「偏執」と(14)「執取」と(15)「悪習」と(16)「垢」と(17)「善ならざる行為の道」と(18)「〔善ならざる〕心の生起」と名づけられた諸法(性質)にとって、捨棄を為すものとしてあるからである。
§48 (1)そこにおいて、「諸々の束縛するもの(結)」とは、〔現世の〕諸々の範疇を〔来世の〕諸々の範疇に〔束縛するものであり〕、行為を果に〔束縛するものであり〕、あるいは、有情たちを苦痛に束縛するものであることから、形態にたいする貪り〔の思い〕等々の十の法(性質)と説かれる。まさに、すなわち、それら〔の十の法〕があるかぎり、そのかぎりは、これら〔の諸々の範疇や果や苦痛〕に止息はない、と〔知られるべきである〕。そこで、また、形態にたいする貪り〔の思い〕、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕、思量、高揚、無明、という、これらの五つ〔の法〕は、上〔の二つの領域である形態の界域と形態なき界域〕に発現する範疇等に束縛するものであることから、「上なる〔領域〕を部分とする束縛するもの(五上分結)」ということになる。身体を有するという見解、【683】疑惑、戒や掟への偏執、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、敵対〔の思い〕、という、これらの五つ〔の法〕は、下〔の領域である欲望の界域〕に発現する範疇等に束縛するものであることから、「下なる〔領域〕を部分とする束縛するもの(五下分結)」ということになる。
§49 (2)「諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)」とは、自ら、汚染したものたることから、かつまた、〔それと〕結び付いた諸々の法(性質)にとっても、汚染したものたることから、貪欲、憤怒、迷妄、思量、見解、疑惑、沈滞、高揚、恥〔の思い〕なき〔生き方〕、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕、という、これらの十の法(性質)である。
§50 (3)「諸々の誤った〔道〕たること(邪性)」とは、誤って転起することから、誤った見解、誤った思惟、誤った言葉、誤った行業、誤った生き方、誤った努力、誤った気づき、誤った禅定、という、これらの八つの法(性質)である。あるいは、誤った解脱と誤った知恵と(※)共に、十〔の法〕となる。
※ テキストにはMicchāviratti-micchāñāṇehi とあるが、VRI版により Micchāvimuttimicchāñāṇehi と読む。
§51 (4)「諸々の世の法(世間法)」とは、世の転起が存しているとき、止息なき法(性質)たることから、利得、利得なき、盛名、盛名なき、安楽、苦痛、非難、賞賛、という、これらの八つ〔の法〕である。いっぽう、ここに、〔それらの〕契機と行境たるによって、利得等の基盤たる随貪〔の思い〕の、さらに、利得なき等の基盤たる敵対〔の思い〕の、〔両者を〕世の法(性質)に収め取ることで、この収め取りが為された(これらの八つの世の法は、随貪の思いと敵対の思いの両者に包摂される)、と知られるべきである。
§52 (5)「諸々の物惜(慳)」とは、居住への物惜〔の思い〕、家への物惜〔の思い〕、利得への物惜〔の思い〕、法(教え)への物惜〔の思い〕、栄誉への物惜〔の思い〕、という、これらの居住等々における他者たちとの共通の状態(共有)を耐えられない行相によって転起された、五つの物惜〔の思い〕である。
§53 (6)「諸々の転倒(顛倒)」とは、まさしく、無常であり、苦痛であり、無我であり、不浄である、諸々の事物について、「常住であり、安楽であり、自己であり、浄美である」と、このように転起された、表象の転倒、心の転倒、見解の転倒、という、これらの三つ〔の転倒〕である。
§54 (7)「諸々の拘束(繋)」とは、まさしく、そして、名前の身体を〔拘束し〕、さらに、形態の身体を拘束することから、強欲〔の思い〕等々の四つ〔の拘束〕である。まさに、そのように、それら〔の四つの拘束〕は、「強欲〔の思い〕は、身体の拘束である」「憎悪〔の思い〕は、身体の拘束である」「戒や掟への偏執〔の思い〕は、身体の拘束である」「『これ〔だけ〕が、真理である』という固着〔の思い〕は、身体の拘束である」(ディーガ・ニカーヤ3p.230)〔と〕、まさしく、かくのごとく説かれた。
§55 (8)「非道(不応行)」とは、欲〔の思い〕と憤怒と迷妄と恐怖によって、為すべきではないことを為すことの〔同義語であり〕、かつまた、為すべきことを為さないことの同義語である。まさに、それは、聖者たちが赴くべきところならざることから、「非道」と説かれる。
§56 (9)「諸々の煩悩(漏)」とは、対象を所以に、〔新たな〕種姓と成るものまで、さらに、至高の生存(非想非非想処)まで、諸々の流れ出るもの。あるいは、統御されていない〔感官の〕諸門から、諸々の穴ある鉢から水が〔漏れ出る〕ように流れ出ることから、あるいは、常に流出するという義(意味)によって、輪廻の苦しみが流れ出ることから、これは、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕と生存にたいする貪り〔の思い〕と誤った見解と無明の(※)同義語である。
【684】(10)生存の海洋に引き寄せるという義(意味)によって、さらに、超え難いという義(意味)によって、〔欲望の対象にたいする貪りの思いと生存にたいする貪りの思いと誤った見解と無明は〕「諸々の激流(暴流)」ともまた〔説かれる〕。
(11)まさしく、そして、対象との別離を〔与えず〕、さらに、苦痛との別離を与えないことから、〔欲望の対象にたいする貪りの思いと生存にたいする貪りの思いと誤った見解と無明は〕「諸々の束縛(軛)」ともまた〔説かれる〕。まさしく、それらの同義語である。
※ テキストにはāvijjānam とあるが、VRI版により avijjānam と読む。
§57 (12)「諸々の妨害(蓋)」とは、心を妨げ妨害し隠蔽するという義(意味)によって(Ch.4§96)、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕等々の五つ〔の妨害〕(欲望の対象にたいする欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)である。
§58 (13)「偏執(執)」とは、その〔法〕その法(性質)の自ずからの状態を超え行って(無視して)、他〔の観点〕から、事実ならざる自ずからの状態を、偏執の行相によって転起することから、これは、誤った見解の同義語である。
§59 (14)「諸々の執取(取)」とは、一切の行相によって、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕についての釈示において説かれた(Ch.17§240)、欲望への執取等々の四つ〔の執取〕(欲望への執取・見解への執取・戒や掟への執取・自己の論への執取)である。
§60 (15)「諸々の悪習(随眠)」とは、強靭に至ったものという義(意味)によって、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、敵対〔の悪習〕、思量〔の悪習〕、見解〔の悪習〕、疑惑〔の悪習〕、生存にたいする貪り〔の思いの悪習〕、無明の悪習、という、このように説かれた、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習等々の七つ〔の悪習〕である。まさに、それらは、強靭に至ったことから、繰り返し、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕等々にとっての(※)生起の因たる状態によって、まさしく、悪しき習いとなる、ということで、「諸々の悪習」。
※ テキストにはkāmarāgādīni とあるが、VRI版により kāmarāgādīnaṃ と読む。
§61 (16)「諸々の垢」とは、油や塗薬や泥のように、そして、自ら、清浄ならざることから、さらに、他者たちにとっても、清浄ならざる状態を作り為すことから、貪欲と憤怒と迷妄の三つ〔の垢〕(貪瞋痴の三毒)である。
§62 (17)「諸々の善ならざる行為の道」とは、まさしく、そして、善ならざる行為たる状態によって、さらに、諸々の悪しき境遇にとっての道たる状態によって、命あるものを殺すこと、与えられていないものを取ること、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)、虚偽を説くこと、中傷の言葉、粗暴な言葉、雑駁な虚論、強欲〔の思い〕、憎悪〔の思い〕、誤った見解、という、これらの十〔の善ならざる行為の道〕である。
§63 (18)「諸々の善ならざる心の生起」とは、八つの貪欲を根元とする〔心〕、二つの憤怒を根元とする〔心〕、二つの迷妄を根元とする〔心〕、という、これらの十二〔の善ならざる心の生起〕である(Ch.14§89)。
830.
§64 かくのごとく、これらの束縛するもの等々の諸法(性質)にとって、これら〔の四つの知恵〕は、道理のままに捨棄を為すものとしてある。どのようにか。
(1)まずは、〔十の〕束縛するものについて。身体を有するという見解、疑惑、戒や掟への偏執、さらに、悪所に至るべきものとしての欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕と敵対〔の思い〕、という、これらの五つの法(性質)は、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。残りの、粗雑なるものとしての欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕と敵対〔の思い〕は、第二の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなり、繊細なるもの〔としての欲望の対象にたいする貪りの思いと敵対の思い〕は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなり、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕等々の五つもまた、まさしく、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
そして、〔この束縛するものについての釈示より〕後はもう、その場その場において、「まさしく」という語による決定(限定・確定)を為すことはないであろう(省略する)。その場その場において(※)、その〔法〕その〔法〕を、「上なる知恵によって打破されるべきものとなる」と説くであろうが、その〔法〕その〔法〕は、諸々の前の知恵によって、まさしく、悪所に至るべきものが打破された等の状態と成って〔そののち〕、上なる知恵によって打破されるべきものと成る、と知られるべきである。
※ テキストにはTattha とあるが、VRI版により Tattha tattha と読む。
§65 (2)諸々の〔心の〕汚れについて。見解と疑惑は、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。憤怒は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。貪欲と迷妄と思量と沈滞と高揚と恥〔の思い〕なき〔生き方〕と〔良心の〕咎めなき〔生き方〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§66 (3)諸々の誤った〔道〕たることについて。誤った見解、誤った言葉、誤った行業、誤った生き方、【685】という、これらは、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。誤った思惟、中傷の言葉、粗暴な言葉、という、これらは、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。そして、ここにおいては、〔中傷の言葉、粗暴な言葉、という〕思欲(思:心の思い・意志)〔の言葉〕だけが、〔誤った〕言葉となる、と知られるべきである。〔残りの誤った言葉である〕雑駁な虚論(思欲なき言葉)と誤った努力と〔誤った〕気づきと〔誤った〕禅定と〔誤った〕解脱と〔誤った〕知恵は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§67 (4)諸々の世の法(性質)について。敵対〔の思い〕は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。随貪〔の思い〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。「そして、盛名にたいする、さらに、賞賛にたいする、随貪〔の思い〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる」と、或る者たちは〔説く〕。
(5)諸々の物惜は、まさしく、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§68 (6)諸々の転倒について。そして、無常における「常住である」〔という表象の転倒と心の転倒と見解の転倒〕、無我における「自己である」という表象〔の転倒〕と心〔の転倒〕と見解の転倒、さらに、苦痛における「安楽である」〔という見解の転倒〕、不浄における「浄美である」という見解の転倒、という、これらは、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。不浄における「浄美である」という表象〔の転倒〕と心の転倒は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。苦痛における「安楽である」という表象〔の転倒〕と心の転倒は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§69 (7)諸々の拘束について。戒や掟への偏執〔の思いによる身体の拘束〕と「これ〔だけ〕が、真理である」という固着〔の思い〕による身体の拘束は、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。憎悪〔の思い〕による身体の拘束は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。他の〔強欲の思いによる身体の拘束〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
(8)非道は、まさしく、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§70 (9)諸々の煩悩について。見解の煩悩は、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。欲望の煩悩は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。他の〔生存の煩悩と無明の煩悩の〕二つは、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
(10・11)諸々の激流と束縛についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。
§71 (12)諸々の妨害について。疑惑〔の思い〕の妨害は、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの妨害〕、憎悪〔の思いの妨害〕、悔恨〔の妨害〕、という、三つは、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。〔心の〕沈滞〔の妨害〕と眠気〔の妨害〕と〔心の〕高揚〔の妨害〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
(13)偏執は、まさしく、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§72 (14)諸々の執取について。世〔俗〕の諸法(性質)のばあい、全てもろともに、事物の欲望(Ch.4§83)たるを所以に、「諸々の欲望〔の対象〕となる」(マハー・ニッデーサp.2)と言及されたことから、形態(色界)と形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔思い〕もまた、欲望への執取のうちに落ち行く(包摂される)。それゆえに、それ(欲望への執取)は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。残りの〔見解への執取と戒や掟への執取と自己の論への執取〕は、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§73 (15)諸々の悪習について。見解〔の悪習〕と疑惑の悪習は、まさしく、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思いの悪習〕と敵対〔の思い〕の悪習は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。思量〔の悪習〕と生存にたいする貪り〔の思いの悪習〕と無明の悪習は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§74 (16)諸々の垢について。憤怒の垢は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。他の〔貪欲の垢と迷妄の垢〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§75 (17)諸々の善ならざる行為の道について。命あるものを殺すこと、与えられていないものを取ること、〔諸々の欲望の対象にたいする〕誤った行ない、虚偽を説くこと、誤った見解、という、これらは、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。中傷の言葉、粗暴な言葉、憎悪〔の思い〕、という、三つは、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。雑駁な虚論と強欲〔の思い〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§76 (18)諸々の善ならざる心の生起について。四つの〔悪しき〕見解と結び付いた〔善ならざる心(22・23・26・27)の生起〕、さらに、疑惑と結び付いた〔善ならざる心(32)の生起〕、という、五つは、まさしく、第一の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。二つの敵対と結び付いた〔善ならざる心(30・31)の生起〕は、第三の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。残りの〔四つの悪しき見解と結び付かない善ならざる心(24・25・28・29)の生起、さらに、高揚と結び付いた善ならざる心(33)の生起、という、五つ〕は、第四の〔道の〕知恵によって打破されるべきものとなる。
§77 かくのごとく、そして、その〔法〕が、その〔知恵〕によって打破されるべきであるなら、その〔法〕は、その〔知恵〕によって捨棄されるべきである、ということになる。それによって説かれた。「かくのごとく、これらの束縛するもの等々の諸法(性質)にとって、これら〔の四つの知恵〕は、道理のままに捨棄を為すものとしてある」(§64)と。
831.
§78 「また、どうであろう、これら〔の知恵〕は、これらの諸法(性質)を、過去と未来のものとして捨棄するのか、それとも、【686】現在のものとして〔捨棄するのか〕」と〔問うなら〕、「また、どうであろう、ここにおいて、すなわち、まずは、過去と未来のものとして〔捨棄するなら〕、果なきものとして、努力が惹起する」〔と答える〕(過去と未来のものとして捨棄するのではない)。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「諸々の捨棄されるべきものが存在しないことから」〔と答える〕(過去のものは過ぎ去ったものであり、未来のものは未だ来ぬものであり、それゆえに、過去と未来のものとして捨棄するのではない)。そこで、「現在のものとして〔捨棄するなら〕、そのように、また、果なきものとして、〔努力が惹起する〕」〔と答える〕(現在のものとして捨棄するのではない)。〔「何ゆえにか」と問うなら〕、「〔もし、現在のものとして捨棄するなら〕、努力と共に、諸々の捨棄されるべきものが、〔現在のものとして〕存在することから」〔と答える〕(両者が併存することになり、それゆえに、現在のものとして捨棄するのではない)。さらに、「〔もし、現在のものとして捨棄するなら〕、〔心の〕汚染に属するものとして、〔聖者の〕道の修行が惹起し、あるいは、諸々の〔心の〕汚れが、〔心と〕結び付かないことになる。しかしながら、現在のものとしてある〔心の〕汚れで、心と結び付かないものは、まさに、存在しない」と〔答える〕。
§79 これは、独特の質問ではない。まさに、まさしく、聖典において、〔問いの言葉として〕「〔まさに〕その、この者が、諸々の〔心の〕汚れを捨棄するとして、〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄するのか、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄するのか、〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄するのか」(パティサンビダー・マッガ2p.217)と説いて、ふたたび、そして、「では、もし、〔彼が〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それなら、〔すでに〕滅尽したものを滅尽させ、〔すでに〕止滅したものを止滅させ、〔すでに〕離れ去ったものを離れ去らせ、〔すでに〕滅却に至ったものを滅却に至らせることになる。それが、過去のものであるなら、〔もはや〕存在せず、その〔存在しないもの〕を捨棄することになるのでは」(パティサンビダー・マッガ2p.217)と説いて〔そののち〕、「〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄しない」(パティサンビダー・マッガ2p.217)と、〔過去のものとしての捨棄が〕拒絶された。そのように、そして、「では、もし、〔彼が〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それなら、〔いまだ〕生じていないものを捨棄し、〔いまだ〕発現していないものを捨棄し、〔いまだ〕生起していないものを捨棄し、〔いまだ〕出現していないものを捨棄することになる。それが、未来のものであるなら、〔いまだ〕存在せず、その〔存在しないもの〕を捨棄することになるのでは」(パティサンビダー・マッガ2p.217)と説いて〔そののち〕、「〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄しない」(パティサンビダー・マッガ2p.217)と、〔未来のものとしての捨棄が〕拒絶された。そのように、そして、「では、もし、〔彼が〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それなら、貪りある者が、貪欲を捨棄することになり、怒りある者が、憤怒を捨棄することになり、迷いある者が、迷妄を捨棄することになり、結縛ある者が、思量を捨棄することになり、偏執ある者が、見解を捨棄することになり、〔心の〕散乱に至った者が、高揚を捨棄することになり、結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)が、疑惑を捨棄することになり、〔悪習を所以に〕強靭に至った者(頑迷固陋の者)が、悪習を捨棄することになり、黒白の〔二つの〕法(性質)が、双連のものとして転起することになり、〔聖者の〕道の修行が、汚染(雑染)のものと成るのでは」(パティサンビダー・マッガ2p.217-8)と説いて〔そののち〕、「〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄せず、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄せず、〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄しない」(パティサンビダー・マッガ2p.218)と、一切を拒絶して、「まさに、それなら、〔聖者の〕道の修行が存在しないことになり、〔沙門の〕果の実証が存在しないことになり、〔心の〕汚れの捨棄が存在しないことになり、法(性質)の知悉(現観)が存在しないことになるのでは」(パティサンビダー・マッガ2p.218)という問いの結末において、まさに、さにあらず、「〔聖者の〕道の修行は存在し、[〔沙門の〕果の実証は存在し、〔心の〕汚れの捨棄は存在し、]法(性質)の知悉は存在する」(パティサンビダー・マッガ2p.218)と明言して、「たとえば、どのように、そのようなことになるのか」(パティサンビダー・マッガ2p.218)と説かれたとき、このことが説かれた。「それは、たとえば、また、〔いまだ〕果が生じていない若木があり、〔まさに〕その、この根を、人が切断するとして、すなわち、その木の、〔いまだ〕生じていない諸々の果は、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく、まさしく、〔いまだ〕発現していないものであり、〔もはや〕発現することはなく、まさしく、〔いまだ〕生起していないものであり、〔もはや〕生起することはなく、まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはないように、まさしく、このように、『諸々の〔心の〕汚れの発現にとって、生起は因であり、生起は縁である』と、生起における危険を見て、心は、生起なきものに跳入する。生起なきものに心が跳入したことから、すなわち、生起の縁あるものとして〔いずれ〕発現するであろう、諸々の〔心の〕汚れは、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく……略……まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはない。このように、因の止滅あることから、苦の止滅がある。【687】[『諸々の〔心の〕汚れの発現にとって、]転起されたものは因であり……略……形相は因であり……略……専業(業を作ること)は因であり、[専業は縁である』と、専業における危険を見て、心は、専業なきものに跳入する。]専業なきものに心が跳入したことから、すなわち、専業の縁あるものとして〔いずれ〕発現するであろう、諸々の〔心の〕汚れは、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく……略……まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはない。このように、因の止滅あることから、苦の止滅がある(※)。このように、〔聖者の〕道の修行は存在し、〔沙門の〕果の実証は存在し、〔心の〕汚れの捨棄は存在し、法(性質)の知悉は存在する」(パティサンビダー・マッガ2p.218)と。
※ テキストにはphalanirodho とあるが、VRI版により dukkhanirodho と読む。
832.
§80 「これによって、どのようなことが、明らかにされたものと成るのか」〔と問うなら〕、「地盤を得たものとしてある諸々の〔心の〕汚れの捨棄が、明らかにされたものと成る」〔と答える〕。「また、どうであろう、地盤を得たもの〔としてある諸々の心の汚れ〕は、過去や未来のものであるのか、それとも、現在のものであるのか」と〔問うなら〕、「それらは、まさしく、『地盤を得たものとして生起したもの』ということになる」〔と答える〕。
833.
§81 まさに、生起したものは、(1)〔現に〕転起しているものと(2)〔かつて〕有ったが〔すでに〕離去したものと(3)機会を作り為したものと(4)地盤を得たものを所以に、複数の細別あるものとなる。
(1)そこにおいて、「生起と老化(止住)と滅壊を保有するもの」と名づけられたものは、全てもろともに、「〔現に〕転起しているものとしてある生起したもの」ということになる。
(2)対象の味を経験して〔そののち〕止滅したもので、「〔すでに〕経験し離去したもの」と名づけられた、善なるものと善ならざるものが──さらに、生起等の三つ(生起・老化・滅壊)に至り得て〔そののち〕止滅したもので、「有って〔そののち〕離去したもの」と名づけられた、残りの形成されたものが──「〔かつて〕有ったが〔すでに〕離去したものとしての生起したもの」ということになる。
(3)「すなわち、彼の、それらの過去において為された諸々の行為が」(マッジマ・ニカーヤ3p.164:一部異なる箇所あり)という、このような〔言葉〕等の方法によって説かれた行為は、過去のものとして存しつつもまた、他〔の行為〕の報いを拒んで、自己の報いのための機会を作り為して止住していることから(Ch.19§16)──さらに、そのように、機会が作り為された報いは、〔いまだ〕生起していないものとして存しつつもまた、このように、機会が作り為されたなら、一方的に生起することから──「機会を作り為したものとして生起したもの」ということになる。
(4)それらそれらの地盤において〔いまだ〕完破されていない善ならざる〔行為〕が、「地盤を得たものとして生起したもの」ということになる。
834.
§82 そして、ここにおいて、地盤の、さらに、地盤を得たものの、種々なること(両者の差異)が知られるべきである。まさに、「地盤」とは、〔あるがままの〕観察の対象として有るものであり、〔欲望の行境と形態の行境と形態なき行境の〕三つの地盤ある五つの〔心身を構成する〕範疇である。「地盤を得たもの」というのは、それらの〔五つの心身を構成する〕範疇における生起に値するものであり、〔心の〕汚れの類のものである。まさに、その〔心の汚れの類のもの〕によって、その地盤は、「得られたもの」ということに成る、と〔知られるべきである〕。それゆえに、「地盤を得たもの」と説かれる。
§83 そして、その〔地盤〕は、まさに、対象を所以にするではない。なぜなら、対象を所以に、全てもろともの過去と未来のものを〔対象として〕、さらに、また、煩悩の滅尽者たちの遍知された諸々の範疇を対象としても、諸々の〔心の〕汚れは生起するからである。マハー・カッチャーナやウッパラヴァンナー等々の諸々の範疇を対象として、ソーレイヤ長者やナンダ学徒等々に〔心の汚れが生起した〕ように(ダンマパダ・アッタカター1p.325,ダンマパダ・アッタカター2p.49)。さらに、もしくは、その〔心の汚れを生起させた対象〕が、まさに、地盤を得たものとして存するなら、その〔対象〕を捨棄できないことから、誰であれ、生存の根元を捨棄できないであろう。いっぽう、〔対象ではなく〕基盤を所以に、地盤を得たものが知られるべきである。なぜなら、その場その場において、〔あるがままの〕観察によって遍知されていない諸々の範疇が生起するなら、その場その場において、〔諸々の範疇の〕生起から以降は、それら〔の諸々の範疇〕において、〔輪廻の〕転起の根元たる〔心の〕汚れの類のものが悪しき習いとなるからである。その〔心の汚れの類のもの〕が、〔いまだ〕捨棄されていないものという義(意味)によって、「地盤を得たもの」と知られるべきである。
835.
§84 【688】そして、そこにおいて、彼の、それらの諸々の範疇において、〔いまだ〕捨棄されていないものという義(意味)によって、諸々の〔心の〕汚れが悪しき習いとなったなら、彼の、それらの諸々の範疇だけが、それらの諸々の〔心の〕汚れにとっての基盤であり、他者たちに存している諸々の範疇は、〔それらの諸々の心の汚れにとっての基盤では〕ない。さらに、過去の諸々の範疇において、諸々の〔心の〕汚れが〔いまだ〕捨棄されずに悪しき習いとなったなら、過去の諸々の範疇だけが、〔それらの諸々の心の汚れにとっての〕基盤であり、諸他〔の未来と現在の心の汚れ〕は、〔それらの諸々の心の汚れにとっての基盤では〕ない。未来等々について、これが、〔共通する説示の〕方法となる。そのように、欲望の行境の諸々の範疇において、諸々の〔心の〕汚れが〔いまだ〕捨棄されずに悪しき習いとなったなら、欲望の行境の諸々の範疇だけが、〔それらの心の汚れにとっての〕基盤であり、諸他〔の形態の行境と形態なき行境の諸々の範疇〕は、〔それらの心の汚れにとっての基盤では〕ない。形態〔の行境〕と形態なき行境について、これが、〔共通する説示の〕方法となる。
§85 いっぽう、預流たる者等々については、それぞれの聖者たる人の諸々の範疇において、それぞれの〔輪廻の〕転起の根元たる〔心の〕汚れの類のものが、それぞれの〔聖者の〕道によって捨棄されたなら、それぞれの〔聖者たる人〕のそれらそれらの諸々の範疇は、それらそれらの〔輪廻の〕転起の根元たる〔心の〕汚れが捨棄されたので、〔もはや〕基盤ならざることから、「地盤」という名称を得ない。凡夫のばあい、全てにわたり、諸々の〔輪廻の〕転起の根元たる〔心の〕汚れが〔いまだ〕捨棄されていないことから、それが何であれ、行為が為されているなら、〔その行為は〕善なるものと〔成るか〕、あるいは、善ならざるものと成る。ということで、彼には、行為と〔心の〕汚れという縁あることから、〔輪廻の〕転起が転起する。
§86 「彼(凡夫)には、この〔輪廻の〕転起の根元が、形態の範疇においてだけあり、感受〔作用〕の範疇等々においてなく……あるいは、識知〔作用〕の範疇においてだけあり、形態の範疇等々においてない」と説かれるべきではない。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕、五つもろともの範疇において、悪しき習いとなったことから」〔と答える〕。
836.
§87 「どのようにか」〔と問うなら〕、「木における地の効用(機能・性行)等のように」〔と答える〕。まさに、すなわち、大木が、地面に確立して、そして、地の効用に〔依拠して〕、さらに、水の効用に依拠して、その縁あることから、根と幹と枝と小枝と若芽と葉と花と果とともに増大して、天空を満たして、カッパの最後(一劫の終末)に至るまで、種が、他から他へと木の系統を相続しつつ止住しているとき、それは、「地の効用等は、根においてだけあり、幹等々においてなく……略……あるいは、果においてだけあり、根等々においてない」と説かれるべきではないように。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「差異なき〔の観点〕によって〔説くなら〕、根等々の一切において、〔地の効用等が〕従い行くことから」と〔答える〕。
§88 また、すなわち、まさしく、その木の、花や果等々にたいし、誰であれ、厭離している人が、〔その木の〕四方において、「マンドゥーカの棘」という名の毒の棘を打ち込むなら、そこで、その木は、その毒の接触によって接触され、地の効用と水の効用が完全に奪い去られたことから、生み出す法(性質)なきことに由来して、さらなる相続を発現させることができないように、まさしく、このように、〔五つの心身を構成する〕範疇の転起にたいし厭離している良家の子息(瞑想修行者)は、その人(木を厭離している者)が、木の四方において、毒を結び付ける(毒の棘を打ち込む)ように、自己の相続において、四つの道の修行を始め、そこで、彼の、その〔五つの心身を構成する〕範疇の相続は、その四つの道における毒の接触によって〔接触され〕、全てにわたり、〔輪廻の〕転起の根元たる諸々の〔心の〕汚れが完全に奪い去られたことから、〔報いを生まない純粋〕所作の状態のみに近しく赴く身体の行為等を一切の行為の細別とするものと成って、未来にさらなる生存を発現させる法(性質)なきことに【689】由来して、別の生存への相続を発現させることができない。単に、最後の識知〔作用〕の止滅によって、燃料なき火のように、執取〔の思い〕なきものとなり、完全なる涅槃に到達する。このように、地盤の、さらに、地盤を得たものの(※)、種々なること(両者の差異)が知られるべきである。
※ テキストにはbhūmiladdhassa ca とあるが、VRI版により bhūmiyā bhūmiladdhassa ca と読む。
837.
§89 さらに、また、他にもまた、(5)慣行としてあるものと(6)対象が収取されたものと(7)鎮静されていないものと(8)完破されていないものを所以に、四種類の生起したものがある。
(5)そこにおいて、〔現に〕転起しているものとしてある生起したものこそが、「慣行としてある生起したもの」〔ということになる〕。
(6)また、対象が眼等々の視野にやってきたとき、前段部分において、たとえ、〔心の〕汚れの類のものが生起せずにいるとして、まさしく、対象が収取された(妄想され執着された)ことから、後段部分において、一方的に生起あることから、「対象が収取されたものとして生起したもの」と説かれる。マハー・ティッサ長老がカルヤーナ村(美人村)を〔行乞の〕食のために歩んでいると、〔自らの性と〕相違する形態(異性の姿)を見ることで生起した〔心の〕汚れの類のように。
(7)〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察のなかのどちらか一つを所以に〔いまだ〕鎮静されていない〔心の〕汚れの類のものは、たとえ、心の相続としては成長なくも、〔その〕生起を妨げる因の状態なきことから、「鎮静されていないものとして生起したもの」ということになる。
(8)また、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を所以に、たとえ、〔すでに〕鎮静された〔心の汚れの類のもの〕であるとして、聖者の道によって〔いまだ〕完破されていないことから、生起の法(性質)たることを〔いまだ〕超え行っていないことによって、「完破されていないものとして生起したもの」と説かれる。八つの入定の得者たる長老が虚空を赴いていると、花ひらいた木の小林のなかで花々を集めながら甘美な声で歌っている女性の歌を聞くことで生起した〔心の〕汚れの類のように。
§90 そして、この、対象が収取されたものと鎮静されていないもの(※)と完破されていないものとして生起したものは、三種類もろともに、まさしく、地盤を得たものによって包摂に至る(包摂される)、と知られるべきである。
※ テキストにはvikkhambhita とあるが、VRI版により avikkhambhita と読む。
838.
§91 かくのごとく、この、〔前に〕説かれた細別ある生起したものにおける、すなわち、この、「(1)〔現に〕転起しているもの」と「(2)〔かつて〕有ったが〔すでに〕離去したもの」と「(3)機会を作り為したもの」と「(5)慣行としてあるもの」と名づけられた四種類の生起したものは、それは、〔聖者の〕道によって打破されるべきものではないことから、たとえ、何であれ、知恵によって捨棄されるべきものと成ることはない。また、すなわち、この、「(4)地盤を得たもの」と「(6)対象が収取されたもの」と「(7)鎮静されていないもの」と「(8)完破されていないもの」と名づけられた〔四種類の〕生起したものは、それには、それぞれの生起した状態を消失させながら、すなわち、それぞれの世〔俗〕の〔知恵〕と世〔俗〕を超える知恵が生起することから、それゆえに、それは、全てもろともに、〔知恵によって〕捨棄されるべきものと成る。
ということで、ここにおいて、このように、それらの諸法(性質)が、その〔知恵〕によって捨棄されるべきであるなら、そして、それら〔の諸法〕の捨棄が知られるべきである。
839.
[(五)作用]
§92 (五)〔そこで、詩偈に言う〕「それらの遍知等々の〔四つの〕作用が、知悉(現観)の時においてある、〔と〕説かれた。そして、それらの全てが、自ずからの状態(自性:固有の性能)のとおりに知られるべきである」(§32)と。
まさに、真理の知悉の時においては、これらの四つの〔聖者の道の〕知恵の一つ一つに、一つの瞬間において、(1)遍知、(2)捨棄、(3)実証、(4)修行、という、これらの遍知等々の四つの(※)作用がある、〔と〕説かれた。それら〔の四つの作用〕が、自ずからの状態のとおりに【690】知られるべきである。まさに、このことが、過去の方たちによって説かれた。「たとえば、灯明が、〔その〕前でもなく、〔その〕後でもなく、一つの瞬間において(※※)──灯芯を燃やす、暗黒を砕破する、光明を遍く顕わす、脂質を完全に奪い去る、〔という〕──四つの作用を為すように、まさしく、このように、〔聖者の〕道の知恵は、〔その〕前でもなく、〔その〕後でもなく、一つの瞬間において──苦しみを遍知の知悉によって知悉する、集起を捨棄の知悉によって知悉する、道を修行の知悉によって知悉する、止滅を実証の知悉によって知悉する、〔という〕──四つの真理を知悉する。『何が、〔ここにおいて〕説かれたものと成るのか』〔と問うなら〕、『止滅を対象と為して、四つの真理もろともに、至り得る、見る、理解する』〔と答える〕」と。
※ テキストにはcattāri cattāri とあるが、VRI版により cattāri と読む。
※※ テキストにはekakkhaṇena とあるが、VRI版により ekakkhaṇe と読む。以下の平行箇所も同様。
§93 そして、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、その者が、苦しみを〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。[その者が、苦しみの集起を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見ます]」(サンユッタ・ニカーヤ5p.437)と。〔その〕全てが知られるべきである。他にもまた説かれた。「〔聖者の〕道を保有する者の知恵は、これは、苦しみにおいてもまた、知恵となり、これは、苦しみの集起においてもまた、知恵となり、これは、苦しみの止滅においてもまた、知恵となり、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道においてもまた、知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.119)と。
§94 そこにおいて(※)、すなわち、灯明が、灯芯を燃やすように、このように、〔聖者の〕道の知恵は、苦しみを遍知する。すなわち、暗黒を砕破するように、このように、集起を捨棄する。すなわち、光明を遍く顕わすように、このように、共に生じた等の縁たることから、「正しい思惟等の法(性質)」と名づけられた〔聖者の〕道を修行する。すなわち、脂質を完全に奪い去るように、このように、〔心の〕汚れを完全に奪い去る止滅を実証する。ということで、このように、喩えの適応が知られるべきである。
※ テキストにはTassa とあるが、VRI版により Tattha と読む。
840.
§95 他の〔説示の〕方法がある。すなわち、太陽が昇りつつ、〔その〕前でもなく、〔その〕後でもなく、出現と共に──諸々の形態として在るものを照らす、暗黒を砕破する、光明を見示する、寒さを安息させる、〔という〕──四つの作用を為すように、まさしく、このように、〔聖者の〕道の知恵は……略……止滅を実証の知悉によって知悉する、〔という〕──四つの真理を知悉する。ここでもまた、すなわち、太陽が、諸々の形態として在るものを照らすように、このように、〔聖者の〕道の知恵は、苦しみを遍知する。すなわち、暗黒を砕破するように、このように、集起を捨棄する。すなわち、光明を見示するように、このように、共に生じた等の縁たることから、〔聖者の〕道を修行する。すなわち、寒さを安息させるように、このように、〔心の〕汚れを安息させる止滅を実証する。ということで、このように、喩えの適応が知られるべきである。
841.
§96 他の〔説示の〕方法がある。すなわち、舟が、〔その〕前でもなく、〔その〕後でもなく、一つの瞬間において──此岸を捨棄する、流れを断ち切る、【691】物品を運ぶ、彼岸に突き進む、〔という〕──四つの作用を為すように、まさしく、このように、〔聖者の〕道の知恵は……略……止滅を実証の知悉によって知悉する、〔という〕──四つの真理を知悉する。ここにおいてもまた、すなわち、舟が、此岸を捨棄するように、このように、〔聖者の〕道の知恵は、苦しみを遍知する。すなわち、流れを断ち切るように、このように、集起を捨棄する。すなわち、物品を運ぶように、このように、共に生じた等の縁たることから、〔聖者の〕道を修行する。すなわち、彼岸に突き進むように、このように、彼岸として有る止滅を実証する。ということで、このように、喩えの適応が知られるべきである。
842.
§97 また、このように、真理の知悉の時における一つの瞬間において、四つの作用を所以に転起された知恵には、それには、十六の行相によって、真実の義(意味)によって、四つの作用が、一なる理解あるものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのように、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。十六の行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。(一)苦しみの、(1)逼悩の義(意味)が、(2)形成されたものの義(意味)が、(3)熱苦の義(意味)が、(4)変化の義(意味)が、真実の義(意味)となる。(二)集起の、(5)専業の義(意味)が、(6)因縁の義(意味)が、(7)束縛の義(意味)が、(8)障害の義(意味)が、真実の義(意味)となる。(三)止滅の、(9)出離の義(意味)が、(10)遠離の義(意味)が、(11)形成されたものではないものの義(意味)が、(12)不死の義(意味)が、真実の義(意味)となる。(四)道の、(13)出脱の義(意味)が、(14)因の義(意味)が、(15)〔あるがままの〕見の義(意味)が、(16)優位の義(意味)が、真実の義(意味)となる。これらの十六の行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる」(パティサンビダー・マッガ2p.107)と。
843.
§98 そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「ときに、苦しみ等々には、他のまた病や腫物等々の義(意味)が存在する。そこで、何ゆえに、四つ〔の義〕だけが説かれたのか」と〔問うなら〕、ここにおいて、〔わたしたちは〕説くであろう。「他の真理を見ることを所以に、〔病や腫物等々の義もまた〕明らかな状態となることから」〔と〕。
まさに、「そこにおいて、どのようなものが、苦しみについての知恵であるのか。苦しみを対象として生起する、〔まさに〕その、智慧、覚知、[判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能、智慧の力、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。これが、苦しみについての知恵と説かれる。苦しみの集起を対象として……略……。苦しみの止滅を対象として……略……。苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を対象として生起する、〔まさに〕その、智慧、覚知……略……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。これが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵と説かれる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる]」(パティサンビダー・マッガ1p.119)という〔言葉〕等の方法によって、一つ一つの真理を対象とすることを所以にもまた、真理の知恵が説かれた。「比丘たちよ、その者が、苦しみを〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、[苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの集起を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見ます]」(サンユッタ・ニカーヤ5p.437)という〔言葉〕等の方法によって、一つの真理を対象と為して、残り〔の三つの真理〕においてもまた作用の完遂あることを所以にもまた、〔真理の知恵が〕説かれた。
§99 (一)そこにおいて、すなわち、一つ一つの真理を対象と為すとき、そのとき、まずは、集起を見ることによって、自ずからの状態〔の観点〕から、(1)また、逼悩の特相ある苦しみの──すなわち、その〔苦しみ〕は、専業の特相ある集起によって専業されたものであり、形成されたものであり、集まりと為されたものであることから、それゆえに、その〔苦しみ〕の──(2)〔まさに〕その、形成されたものの義(意味)が明らかと成る。また、すなわち、道は、〔心の〕汚れの熱苦を運び去るものにして、極めて清涼のものであることから、【692】それゆえに、道を見ることによって、その〔苦しみ〕の、(3)熱苦の義(意味)が明らかと成る。尊者ナンダが仙女を見ることによって、〔人間の〕美女の、形姿麗しからざる状態が〔明らかと成る〕ように(ウダーナp.21)。また、変化なき法(性質)たる止滅を見ることによって、(4)変化の義(意味)が明らかと成る。ということで、まさしく、説かれるべきものは、〔もはや〕ここにおいて存在しない(明瞭である)。
§100 (二)そのように、苦しみを見ることによって、自ずからの状態〔の観点〕から、(5)また、専業の特相ある集起の、(6)因縁の義(意味)が明らかと成る──不当な食料から生起した病を見ることによって、食料の、病にとっての因縁たる状態が〔明らかと成る〕ように。束縛を離れたものとして有る止滅を見ることによって、(7)束縛の義(意味)が〔明らかと成る〕。さらに、出脱のものとして有る道を見ることによって、(8)障害の義(意味)が〔明らかと成る〕、と〔知られるべきである〕。
§101 (三)そのように、遠離ならざるものとして有る集起を見ることによって、(9)また、出離の特相ある止滅の、(10)遠離の義(意味)が明らかと成る。道を見ることによって、(11)形成されたものではないものの義(意味)が〔明らかと成る〕。なぜなら、道は、この〔心の制止者〕によって、始源が思い考えられない輪廻において、過去に見られたことがないとして、しかしながら、その〔道〕もまた、縁を有することから、まさしく、形成されたものである、ということで、縁なき法(性質)〔である止滅〕の、形成されたものではない状態が、極度に明白なるものと成るからである。また、苦しみを見ることによって、その〔止滅〕の、(12)不死の義(意味)が明らかと成る──「まさに、苦しみは、毒である。不死なるは、涅槃である」と。
§102 (四)そのように、集起を見ることによって、(13)また、出脱の特相ある道の、「この〔集起〕は、〔涅槃に至り得るための〕因ではない」「この〔道〕は、涅槃に至り得るための因である」と、(14)因の義(意味)が明らかと成る。止滅を見ることによって、(15)〔あるがままの〕見の義(意味)が〔明らかと成る〕──最高に繊細なる諸々の形態を見ている者に、「まさに、わたしの眼は、澄浄になった」と、〔その〕眼の、澄浄になった状態が〔明らかと成る〕ように。苦しみを見ることによって、(16)優位の義(意味)が〔明らかと成る〕──無数の病や痛苦や困窮の人たちを見ることによって、権力ある人々の、秀逸なる状態が〔明らかと成る〕ように。
§103 ということで、ここにおいて、このように、〔四つの真理の〕自らの特相を所以に、一つ一つ〔の義〕が〔明らかな状態となることから〕、さらに、他の真理を見ることを所以に、他の三つ三つ〔の義〕が明らかな状態となることから、一つ一つ〔の真理〕に、四つ四つの義(意味)が説かれた。
また、〔聖者の〕道の瞬間において、そして、これらの〔十六の〕義(意味)は、〔それらの〕全てが、苦しみ等々において四つの作用ある、まさしく、一つの知恵によって、理解へと至る(理解される)、と〔知られるべきである〕。また、すなわち、種々なる知悉〔の存在〕を求める、彼らのために、さらなるものとして、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)における『カター・ヴァットゥ(論事)』(カター・ヴァットゥp.212)において、まさしく、〔種々なる知悉が〕説かれた。
844.
§104 今や、すなわち、それらの遍知等々の四つの作用がある、〔と〕説かれた(§92)、それら〔の四つの作用〕について──
〔そこで、詩偈に言う〕「(1)遍知は、三種類のものと成り、そのように、(2)捨棄もまたあり、(3)実証もまたあり、(4)二つの修行がある、〔と〕認証された。そこにおいて、〔その〕判別が知られるべきである」〔と〕。
845.
§105 (1)「遍知は、三種類のものと成り」とは、(1―1)所知の遍知、(1―2)推量の遍知、(1―3)捨棄の遍知、ということで、このように、遍知は、三種類のものと成る。
§106 (1―1)そこにおいて、「証知としての智慧が、所知の義(意味)についての知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と、このように概略して、【693】「それらそれらの諸法(性質)が、証知されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、所知のものと成る」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と、このように、簡略〔の観点〕から〔説いて〕、「比丘たちよ、一切が、証知されるべきです。比丘たちよ、では、どのようなものとして、一切が、証知されるべきですか。比丘たちよ、眼が、証知されるべきです」(パティサンビダー・マッガ1p.5)という〔言葉〕等の方法によって、詳細〔の観点〕から説かれたものが、「所知の遍知」ということになる。その〔所知の遍知〕にとっては、縁を有する名前と形態を証知すること(見解の清浄と疑いの超渡の清浄)が、独特の境地となる。
846.
§107 (1―2)また、「遍知としての智慧が、推量の義(意味)についての知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と、このように概略して、「それらそれらの諸法(性質)が、遍知されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、推量されたものと成る」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と、このように、簡略〔の観点〕から〔説いて〕、「比丘たちよ、一切が、遍知されるべきです。比丘たちよ、では、どのようなものとして、一切が、遍知されるべきですか。比丘たちよ、眼が、遍知されるべきです」(パティサンビダー・マッガ1p.22)という〔言葉〕等の方法によって、詳細〔の観点〕から説かれたものが、「推量の遍知」ということになる。その〔推量の遍知〕にとっては、集合の〔あるがままの〕触知から以降、「無常であり、苦痛であり、無我である」と推量することを所以に転起しつつ、すなわち、随順するものまでが、独特の境地となる。
847.
§108 (1―3)また、「捨棄における智慧が(※)、遍捨の義(意味)によって、知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と、このように概略して、「それらそれらの諸法(性質)が、捨棄されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、遍捨されたものと成る」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と、このように、詳細〔の観点〕から説かれ、「無常の随観によって、常住の表象を捨棄する」(パティサンビダー・マッガ1p.58:一部異なる箇所あり)という〔言葉〕等の方法によって転起されたものが、「捨棄の遍知」〔ということになる〕。その〔捨棄の遍知〕にとっては、滅壊の随観から以降、すなわち、〔聖者の〕道の知恵までが、〔その〕境地となる。この〔捨棄の遍知〕が、ここでは、志向するところとなる。
※ テキストにはPahānapariññā とあるが、VRI版により Pahānapaññā と読む。
§109 あるいは、すなわち、所知〔の遍知〕と推量の遍知もまた、まさしく、その〔捨棄〕の義(意味)があることから──さらに、すなわち、それらの諸法(性質)を捨棄するなら、それら〔の諸法〕は、決定して、まさしく、そして、諸々の所知のものと〔成り〕、さらに、諸々の推量されたものと成ることから──それゆえに、三つの遍知もろともに、この教相によって、〔聖者の〕道の知恵の作用である、と知られるべきである。
848.
§110 (2)「そのように、捨棄もまたあり」とは、まさに、捨棄もまた、遍知のように、(2―1)鎮静による捨棄、(2―2)置換による捨棄、(2―3)断絶による捨棄、という、まさしく、三種類のものと成る。
§111 (2―1)そこにおいて、すなわち、藻を有する水に鉢が置かれたことで藻が〔押し除けられる〕ように、それぞれの世〔俗〕の禅定によって、〔五つの修行の〕妨害等々の正反対の諸法(性質)を〔一時的に〕鎮静することが、これが、「鎮静による捨棄」ということになる。また、聖典において、「そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静による遠離がある」(パティサンビダー・マッガ1p.27)と、まさしく、〔五つの修行の〕妨害を鎮静することが説かれたが、それは、明白なるものたることから説かれた、と知られるべきである。なぜなら、〔五つの修行の〕妨害は、瞑想の前段部分においてもまた、〔瞑想の〕後段部分においてもまた、即座に(明瞭に)心に覆い被さることはないが、〔瞑想の支分である〕思考等々は、まさしく、〔瞑想の境地が〕専注された瞬間において、〔五つの修行の妨害を鎮静する〕からである。それゆえに、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静による捨棄は、明白なるものとなる。
849.
§112 (2―2)また、すなわち、夜分に灯明が光り輝くことで暗黒を〔追い払う〕ように、それぞれの〔あるがままの〕観察の【694】成分として有る知恵の支分によって、まさしく、相反するもの(対処法)たるを所以に、それぞれの捨棄されるべき法(性質)を捨棄することが、これが、「置換による捨棄」ということになる。それは、すなわち、この、まずは、名前と形態の〔範囲の〕限定によって、身体を有するという見解の〔捨棄があり〕、縁の遍き収取(理解・把握)によって、まさしく、そして、無因〔の見解〕と誤因の見解の〔捨棄があり〕、さらに、疑いの垢の〔捨棄があり〕、集合の〔あるがままの〕触知によって、「わたしである」「わたしのものである」と集積物を収め取ることの〔捨棄があり〕、道と道ならざるものの〔差異の〕定置によって、道ならざるものにおける道の表象の〔捨棄があり〕、生成を見ることによって、断絶の見解の〔捨棄があり〕、衰失を見ることによって、常久の見解の〔捨棄があり〕、恐怖の現起によって、恐怖を有するものにおける恐怖なき表象の〔捨棄があり〕、危険を見ることによって、悦楽の表象の〔捨棄があり〕、厭離の随観によって、愉悦の表象の〔捨棄があり〕、解き放ちを欲することによって、解き放ちを欲することなき状態の〔捨棄があり〕、審慮によって、審慮なき〔状態〕の〔捨棄があり〕、放捨によって、放捨なき〔状態〕の〔捨棄があり〕、随順によって、真理と逆順するものを収め取ることの捨棄がある。
§113 また、あるいは、すなわち、十八の大いなる〔あるがままの〕観察において、(1)無常の随観によって、常住の表象の〔捨棄があり〕、(2)苦痛の随観によって、安楽の表象の〔捨棄があり〕、(3)無我の随観によって、自己の表象の〔捨棄があり〕、(4)厭離の随観によって、愉悦の〔捨棄があり〕、(5)離貪の随観によって、貪欲の〔捨棄があり〕、(6)止滅の随観によって、集起の〔捨棄があり〕、(7)放棄の随観によって、執取の〔捨棄があり〕、(8)滅尽の随観によって、重厚の表象の〔捨棄があり〕、(9)衰失の随観によって、専業の〔捨棄があり〕、(10)変化の随観によって、常恒の表象の〔捨棄があり〕、(11)無相の随観によって、形相の〔捨棄があり〕、(12)無願の随観によって、切願の〔捨棄があり〕、(13)空性の随観によって、固着の〔捨棄があり〕、(14)卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察によって、真髄への執取の固着の〔捨棄があり〕、(15)事実のとおりの知見によって、迷妄の固着の〔捨棄があり〕、(16)危険の随観によって、基底の固着の〔捨棄があり〕、(17)〔あるがままの〕審慮の随観によって、審慮なき〔状態〕の〔捨棄があり〕、(18)還転の随観によって、束縛の固着の捨棄があるが、これもまた、まさしく、「置換による捨棄」となる。
850.
§114 (1・2・3・4・5・6・7)そこにおいて、すなわち、無常の随観等々の七つによって、常住の表象等々の捨棄が有る、その〔あり方〕は、まさしく、滅壊の随観において説かれた(Ch.21§15-9)。
(8)また、「滅尽の随観」とは、重厚〔の表象〕の分解を為して、「滅尽の義(意味)によって、無常である」と、このように、滅尽を見ている者の知恵であり、それによって、重厚の表象の捨棄が有る。
§115 (9)「衰失の随観」とは──
〔そこで、詩偈に言う〕「〔現見の〕対象に付従することで、〔過去と未来の〕両者を一つに定め置くことが、止滅について信念あることが、衰失の特相の〔あるがままの〕観察である」(パティサンビダー・マッガ1p.58)と──
このように説かれたものであり──まさしく、そして、現見〔の観点〕から、さらに、付従(推測)〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕の滅壊を見て、まさしく、その、「滅壊」と名づけられた止滅について信念あることであり──それによって、専業の捨棄が有る。なぜなら、「それらを義(目的)として【695】専業するも、それらは、このように、衰失の諸法(性質)である」と見ていると、心は、専業にたいし傾かないからである。
§116 (10)「変化の随観」とは、形態の七なるもの(Ch.20§46)等を所以に、それぞれの〔範囲の〕限定を超え行って、他なるものへの転起を見ることであり──あるいは、生起したものの、まさしく、そして、老によって、さらに、死によって、二つの行相によって、変化を見ることであり──それによって、常恒の表象の捨棄が有る。
§117 (11)「無相の随観」とは、まさしく、無常の随観であり、それによって、常住の形相の捨棄が有る。
(12)「無願の随観」とは、まさしく、苦痛の随観であり、それによって、安楽の切願と安楽の切望の捨棄が有る。
(13)「空性の随観」とは、まさしく、無我の随観であり、それによって、「自己が存在する」という固着の捨棄が有る。
§118 (14)「卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察」とは──
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、対象を審慮して〔そののち〕、さらに、滅壊を随観する。そして、空〔の観点〕からの〔気づきの〕現起が、卓越の智慧たる〔あるがままの〕観察である」(パティサンビダー・マッガ1p.58)と──
このように説かれたものであり──形態等の対象を知って、そして、その対象の〔滅壊を見て〕、さらに、それを対象とする心の滅壊を見て、「まさしく、諸々の形成〔作用〕は、破壊する。諸々の形成〔作用〕には、死がある。他のものは、何であれ、存在しない」と、滅壊を所以に空性を収め取って転起された〔あるがままの〕観察であり──それは、「そして、卓越の智慧であり、かつまた、諸々の法(性質)における〔あるがままの〕観察である」と為して、「卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察」と説かれ──それによって、そして、常住の真髄の状態なきことが〔巧妙に見られたことから〕、さらに、自己の真髄の状態なきことが巧妙に見られたことから、真髄への執取の固着の捨棄が有る。
§119 (15)「事実のとおりの知見」とは、縁を有する名前と形態の遍き収取であり、それによって、まさしく、そして、「過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか」(マッジマ・ニカーヤ1p.8:Ch.19§6)という〔言葉〕等を所以に〔転起され〕、さらに、「世〔の界域〕は、イッサラ〔天〕(自在天・創造神)から発生する」という〔言葉〕等を所以に転起された、迷妄の固着の捨棄が有る。
§120 (16)「危険の随観」とは、恐怖の現起〔の知恵〕を所以に生起したものであり、一切の生存等々における危険の知見であり、それによって、「何であれ、避難するべきところは見られない」と、基底の固着の捨棄が有る。
(17)「〔あるがままの〕審慮の随観」とは、解き放ちのための手段を作り為す審慮の知恵であり、それによって、審慮なき〔状態〕の捨棄が有る。
§121 (18)「還転の随観」とは、まさしく、そして、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕であり、さらに、随順する〔知恵〕であり──なぜなら、そのとき、彼の心は、僅かな傾きある蓮の葉のうえの水の滴のように、一切の形成〔作用〕として在るものから、退去し、退避し、反転する、と説かれたからであり(Ch.21§63)、それゆえに──それによって、束縛の固着の捨棄が有る。【696】欲望の束縛等の、〔心の〕汚れの固着の〔捨棄が有り〕、〔心の〕汚れの転起の捨棄が有る、という義(意味)である。
このように、詳細〔の観点〕から、置換による捨棄が知られるべきである。また、聖典においては、「そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、置換による捨棄がある」(パティサンビダー・マッガ1p.27)と、まさしく、簡略〔の観点〕によって説かれた。
851.
§122 (2―3)また、すなわち、雷電によって打たれた木に〔さらなる転起がない〕ように、聖者の道の知恵によって、束縛等々の諸法(性質)に、すなわち、さらなる転起がないように、このように、捨棄することが、これが、「断絶による捨棄」ということになる。それに関して、〔聖典において〕説かれた。「そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶による捨棄がある」(パティサンビダー・マッガ1p.26)と。
§123 かくのごとく、これらの三つの捨棄のうちでは、断絶による捨棄こそが、ここでは、志向するところとなる。
また、すなわち、その〔心の〕制止者にとっては、前段部分における(※)鎮静〔による捨棄〕と置換による捨棄もまた、まさしく、その〔断絶による捨棄〕の義(意味)があることから、それゆえに、三つの捨棄もろともに、この教相によって、〔聖者の〕道の知恵の作用である、と知られるべきである。なぜなら、敵の王を打倒して、王権に至り得たことによって、たとえ、すなわち、それより前に為されたことであるとして、そして、これも、さらに、あれも、〔その〕全てが、まさしく、「王によって為されたことである」と説かれるからである。
※ テキストにはpubbabhāve とあるが、VRI版により pubbabhāge と読む。
852.
§124 (3)「実証もまたあり」とは、(3―1)世〔俗〕の実証、(3―2)世〔俗〕を超える実証、ということで、たとえ、二種に細別されたとして、世〔俗〕を超える〔実証〕には、(3―2―1)見ることと(3―2―2)修めることを所以に、〔さらなる〕細別あることから、三種類のものと成る。
§125 (3―1)そこにおいて、「第一の瞑想の得者として、〔わたしは〕存している。〔第一の瞑想に〕自在なる者として、〔わたしは〕存している。第一の瞑想は、わたしによって実証された」(ヴィナヤ3p.93-4)という〔言葉〕等の方法によって言及された第一の瞑想等々を体得することが、「世〔俗〕の実証」ということになる。「体得すること」とは、到達して〔そののち〕、「これは、わたしによって到達された」と、現見〔の観点〕から、知恵の体得によって体得すること。まさに、まさしく、この義(意味)に関して、「実証としての智慧が、体得の義(意味)についての知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と概略して、「それらそれらの諸法(性質)が、実証されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、体得されたものと成る」(パティサンビダー・マッガ1p.87)と、実証についての釈示が説かれた。
§126 さらに、また、自己の相続において、たとえ、生起させずしても、それらの諸法(性質)が、単に、他の縁ある知恵によって知られたものであるなら、それらは、実証されたものと成る。まさに、まさしく、それによって説かれた。「比丘たちよ、一切が、実証されるべきです。比丘たちよ、では、どのようなものとして、一切が、実証されるべきですか。比丘たちよ、眼が、実証されるべきです」(パティサンビダー・マッガ1p.35)等と。他にもまた説かれた。「形態を、〔あるがままに〕見ている者は実証します。感受〔作用〕を【697】……略……。識知〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証します。眼を……。老と死を……。不死への沈潜たる涅槃を、〔あるがままに〕見ている者は実証します。かくのごとく、それらそれらの諸法(性質)が、諸々の実証されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、体得されたものと成ります」(パティサンビダー・マッガ1p.35:一部異なる箇所あり)と。
§127 (3―2)また、第一の道の瞬間において、涅槃を見ることが、(3―2―1)「見ることとしての実証」〔ということになる〕。残りの〔三つの〕道の瞬間において、(3―2―2)「修めることとしての実証」〔ということになる〕。かくのごとく、その〔世俗を超える実証〕が、〔見ることと修めることの〕二種類もろともに、ここでは、志向するところとなる。それゆえに、見ることと修めることを所以にする涅槃の実証が、この〔聖者の道の〕知恵の作用である、と知られるべきである。
853.
§128 (4)また、「二つの修行がある、〔と〕認証された」とは、修行は、(4―1)世〔俗〕の修行、(4―2)世〔俗〕を超える修行、という、二つだけがある、〔と〕認証された。
(4―1)そこにおいて、世〔俗〕の戒と禅定と智慧(戒定慧)を生起させることが、さらに、それらによる相続の残香(薫習:潜在傾向)が、「世〔俗〕の修行」〔ということになる〕。
(4―2)世〔俗〕を超える〔戒と禅定と智慧〕を生起させることが、さらに、それらによる相続の残香が、「世〔俗〕を超える修行」〔ということになる〕。
それらのうち、世〔俗〕を超える〔修行〕が、ここでは、志向するところとなる。なぜなら、この〔聖者の道の〕知恵は、四種類もろともに、世〔俗〕を超える戒等々を生起させるからである。それら〔の戒等々〕にとって、共に生じた縁等たることから、さらに、それら〔の戒等々〕によって、相続を残香させる(潜在傾向的影響を与える)、ということで、世〔俗〕を超える修行だけが、その〔聖者の道の知恵〕の作用となる。
ということで、このように──
〔そこで、詩偈に言う〕「それらの遍知等々の〔四つの〕作用が、知悉の時においてある、〔と〕説かれた。そして、それらの全てが(※)、自ずからの状態のとおりに知られるべきである」(§32)と。
※ テキストにはsaccānī とあるが、VRI版により sabbānī と読む。
§129 そして、これだけで、「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が、心を〔修めながら〕、そして、智慧を修めながら〔云々〕」(Ch.0§1)と、このように、まさしく、自らの形態によって運用された、智慧の修行の、規定を見示することを義(目的)に、すなわち、〔前に〕説かれた、「〔智慧の〕根元として有る二つの清浄を成就させて、〔智慧の〕総体として有る五つの清浄を成就させつつ、〔智慧が〕修められるべきである」(Ch.14§32)とは、その〔義〕が、詳知されたものと成る。
そして、「どのように、修められるべきであるのか」(Ch.14§1)という、この問いが答えられた、と〔知られるべきである〕。
ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「知見の清浄についての釈示」という名の第二十二章となる。