第三章 〔心を定める〕行為の拠点を収め取ることについての釈示

 

38.

 

§1  【84】今や、すなわち、このように、払拭〔行〕の支分を守り抜くことで成就された少なき欲求たること等々の諸徳によって遍く清められた、この戒において、〔自己を〕確立した者としてあるなら、「戒において〔自己を〕確立して、智慧(慧・般若)を有する人が、心を〔修めながら〕、そして、智慧を修めながら〔云々〕」(Ch.0§1)という言葉から、心を頭目として釈示された禅定(三昧・定:禅定の境地)が、〔彼によって〕修められるべきであるが、しかしながら、その〔禅定〕は、〔詩偈においては〕極めて簡略に説示されたことから、識知するにもまた、それだけでは為し易くはなく、ましてや、修めるのは〔為し易いはずもない〕ことから、それゆえに、その〔禅定〕の、そして、詳細を、さらに、修行の方法を、〔両者を〕見示するために、この、問いの列挙が有る。

 

 一 「何が、禅定であるのか」

 二 「どのような義(意味)によって、禅定であるのか」

 三 「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」

 四 「禅定は、どれだけの種類があるのか」

 五 「そして、何が、それにとって、汚染であるのか」

 六 「何が、浄化であるのか」

 七 「どのように、修められるべきであるのか」

 八 「何が、禅定の修行にとって、福利であるのか」と。

 

 一 「何が、禅定であるのか」(※)

 

※ テキストには見出しを欠くが、南伝大蔵経62『清浄道論1』にならい補足する(以下の同様箇所については注記を省略)。

 

§2  そこで、これが、答えとなる。「何が、禅定であるのか」とは──

 禅定は、多くの種類あるものであり、種々なる流儀あるものである。その全てを分明するために勉励しながらも、答えは、まさしく、そして、志向するところの義(意味)を遂行しないであろうし、さらに、より以上に〔心の〕散乱を等しく転起させるであろう。それゆえに、ここでは、志向するところだけに関して、〔わたしたちは〕説く。善なる心の一境性が、禅定である。

 

 二 「どのような義(意味)によって、禅定であるのか」

 

§3  「どのような義(意味)によって、禅定であるのか」とは──

 〔心を〕定めること(サマーダーナ)という義(意味)によって、「禅定(サマーディ)」。何が、この、「〔心を〕定めること」ということになるのか。一つの対象(所縁)にたいし、心と心の属性(心心所:心と心に現起する作用・感情)を、等しく、かつまた、正しく、保持すること、据え置くこと、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。【85】それゆえに、何らかの法(性質)の威力によって、一つの対象にたいし、心と心の属性が、等しく、かつまた、正しく、散乱なきものと〔成り〕、さらに、錯乱なきものと成って、安立するなら、これが、「〔心を〕定めること」と知られるべきである。

 

 三 「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」

 

§4  また、「何が、それにとって、特相であり、効用であり、現起であり、境処の拠点であるのか」とは──

 ここにおいて、禅定は、〔心の〕散乱なき〔状態〕を特相とし、〔心の〕散乱の砕破を効用(機能・性行)とし、〔心に〕動揺なき〔状態〕を現起(現状)とし、また、「安楽ある者には、心が定められます」(ディーガ・ニカーヤ3p.242)という言葉から、安楽が、それ(禅定)にとって、境処の拠点(直接原因)となる。

 

39.

 

 四 「禅定は、どれだけの種類があるのか」

 

§5  「禅定は、どれだけの種類があるのか」とは──

 (一)まずは、〔心の〕散乱なき〔状態〕という特相によって、一種類のものとなる。

 (二)(1)〔瞑想の境地に〕近接するもの(近行)と〔瞑想の境地に〕専注するもの(安止)を所以に、二種類のものとなる。そのように、(2)世〔俗〕のもの(世間)と世〔俗〕を超えるもの(出世間)を所以に、〔二種類のものとなる〕。(3)喜悦を有するものと喜悦なくあるものを所以に、〔二種類のものとなる〕。さらに、(4)安楽を共具したものと放捨(:選択せず差別なき心)を共具したものを所以に、〔二種類のものとなる〕。

 (三)(1)下劣なるものと中等なるものと精妙なるものを所以に、三種類のものとなる。そのように、(2)〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するもの(有尋有伺)等を所以に、〔三種類のものとなる〕。(3)喜悦を共具したもの等を所以に、〔三種類のものとなる〕。さらに、(4)微小なるものと莫大なるものと無量なるものを所以に、〔三種類のものとなる〕。

 (四)(1)苦なる〔実践の〕道にして遅き証知等を所以に、四種類のものとなる。そのように、(2)微小なる対象ある微小なるもの等を所以に、〔四種類のものとなる〕。(3)四つの瞑想の支分を所以に、〔四種類のものとなる〕。(4)退失を部分とするもの等を所以に、〔四種類のものとなる〕。(5)欲望の行境(欲界:粗雑な物質的世界)等を所以に、〔四種類のものとなる〕。さらに、(6)優位〔と為すもの〕を所以に、〔四種類のものとなる〕。

 (五)(1)五なる方法ある〔瞑想の階梯〕における五つの瞑想(五禅)の支分を所以に、五種類のものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

 [(一)一種類のものとしての禅定]

 

§6  そこにおいて、一種類のものの部は、まさしく、義(意味)が明瞭である。

 

 [(二)二種類のものとしての禅定]

 

 二種類のものの部について。(1)(1―1)六つの随念(六随念)の境位、死についての気づき(死念)、寂止の随念、食についての嫌悪の表象(食厭想)、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置(四界差別)、という、これらを所以に得られた心の一境性、さらに、すなわち、諸々の〔瞑想の境地に〕専注する禅定のための前段部分(前段階)における〔心の〕一境性──これが、〔瞑想の境地に〕近接する禅定である。(1―2)また、「第一の瞑想(初禅・第一禅)のための事前作業〔としての瞑想〕(予備的瞑想:Ch.4§74)は、第一の瞑想にとって、直後なる縁(無間縁:間を置かず直後に生起する果にとって縁となること)によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.165:一部異なる箇所あり)という言葉等から、すなわち、事前作業〔としての瞑想〕の直後なる〔心の〕一境性──これが、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕である。ということで、このように、〔禅定は、瞑想の境地に〕近接するものと〔瞑想の境地に〕専注するものを所以に、二種類のものとなる。

 

§7  (2)第二の二なるものについて。(2―1)三つの境地(三界)における善なる心の一境性が、世〔俗〕の禅定である。(2―2)聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)と結び付いた心の一境性が、世〔俗〕を超える禅定である。ということで、このように、世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものを所以に、二種類のものとなる。

 

§8  (3)第三の二なるものについて。(3―1)四なる方法ある〔瞑想の階梯〕(四禅)では〔最初の〕二つ〔の瞑想〕(第一の瞑想と第二の瞑想)における〔心の一境性〕が、五なる方法ある〔瞑想の階梯〕(五禅)では〔最初の〕三つの瞑想(第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想)における〔心の〕一境性が、喜悦を有する禅定である。(3―2)残りの【86】二つの瞑想(四禅では第三の瞑想と第四の瞑想、五禅では第四の瞑想と第五の瞑想)における〔心の〕一境性が、喜悦なくある禅定である。また、〔瞑想の境地に〕近接する禅定は、喜悦を有するものも存在するであろうし、喜悦なくあるものも存在するであろう。ということで、このように、喜悦を有するものと喜悦なくあるものを所以に、二種類のものとなる。

 

§9  (4)第四の二なるものについて。(4―1)四なる方法ある〔瞑想の階梯〕(四禅)では〔最初の〕三つ〔の瞑想〕(第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想)における〔心の一境性が〕、五なる方法ある〔瞑想の階梯〕(五禅)では〔最初の〕四つの瞑想(第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想と第四の瞑想)における〔心の〕一境性が、安楽を共具した禅定である。(4―2)残り〔の最終の瞑想〕(四禅では第四の瞑想・五禅では第五の瞑想)における〔心の一境性が〕、放捨を共具した禅定である。また、〔瞑想の境地に〕近接する禅定は、安楽を共具したものも存在するであろうし、放捨を共具したものも存在するであろう。ということで、このように、安楽を共具したものと放捨を共具したものを所以に、二種類のものとなる。

 

 [(三)三種類のものとしての禅定]

 

§10  諸々の三なるもののうち、(1)第一の三なるものについて。(1―1)獲得されたのみのものが、下劣なるものである。(1―2)極めて善く修められたものではないものが、中等なるものである。(1―3)善く修められ〔心の〕自在に至り得たものが、精妙なるものである。ということで、このように、下劣なるものと中等なるものと精妙なるものを所以に、三種類のものとなる。

 

§11  (2)第二の三なるものについて。(2―1)第一の瞑想の禅定が、〔瞑想の境地に〕近接する禅定と共に、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するもの(有尋有伺)である。(2―2)五なる方法ある〔瞑想の階梯〕では第二の瞑想の禅定が、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみあるもの(無尋唯伺)である。なぜなら、その〔瞑想者〕が、まさしく、〔粗雑なる〕思考のみにおいて、危険を見て、〔繊細なる〕想念において〔危険を〕見ずして、単に〔粗雑なる〕思考の捨棄のみを望みつつ、第一の瞑想を超越するなら、彼は、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみある禅定を獲得するからである。彼に関して、この〔粗雑なる思考なく繊細なる想念のみある禅定〕が説かれた。(2―3)また、四なる方法ある〔瞑想の階梯〕では第二〔の瞑想〕等々〔の三つの瞑想〕(第二の瞑想と第三の瞑想と第四の瞑想)における〔心の一境性が〕、五なる方法ある〔瞑想の階梯〕では第三〔の瞑想〕等々の三つの瞑想(第三の瞑想と第四の瞑想と第五の瞑想)における〔心の〕一境性が、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なきもの(無尋無伺)としての禅定である。ということで、このように、〔禅定は、粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するもの等を所以に、三種類のものとなる。

 

§12  (3)第三の三なるものについて。(3―1)四なる方法ある〔瞑想の階梯〕では最初の二つ〔の瞑想〕(第一の瞑想と第二の瞑想)における〔心の一境性が〕、そして、五なる方法ある〔瞑想の階梯〕では〔最初の〕三つ〔の瞑想〕(第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想)における〔心の〕一境性が、喜悦を共具した禅定である。(3―2)まさしく、それらのうち、そして、〔四なる方法ある瞑想の階梯では〕第三〔の瞑想〕における〔心の一境性が〕、さらに、〔五なる方法ある瞑想の階梯では〕第四の瞑想における〔心の〕一境性が、安楽を共具した〔禅定〕である。(3―3)〔残りの〕最終〔の瞑想〕(四禅では第四の瞑想・五禅では第五の瞑想)における〔心の一境性が〕、放捨を共具した禅定である。また、〔瞑想の境地に〕近接する禅定は、あるいは、喜悦〔を共具したもの〕か安楽を共具したものと成り、あるいは、放捨を共具したものと〔成る〕。ということで、このように、喜悦を共具したもの等を所以に、三種類のものとなる。

 

§13  (4)第四の三なるものについて。(4―1)〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の境地における〔心の〕一境性が、微小なる禅定である。(4―2)形態の行境(色界:精妙な物質的世界)と形態なき行境(無色界:非物質的世界)における善なる〔心の〕一境性が、莫大なる禅定である。(4―3)聖者の道と結び付いた心の一境性が、無量なる禅定である。ということで、このように、微小なるものと莫大なるものと無量なるものを所以に、三種類のものとなる。

 

 [(四)四種類のものとしての禅定]

 

§14  諸々の四なるもののうち、(1)第一の四なるものについて。(1―1)苦なる〔実践の〕道にして遅き証知なる禅定が存在し、(1―2)苦なる〔実践の〕道にして速き証知なる〔禅定〕が存在し、(1―3)楽なる〔実践の〕道にして遅き証知なる〔禅定〕が存在し、(1―4)楽なる〔実践の〕道にして速き証知なる〔禅定〕が存在する、と〔説かれる〕。

 

§15  そこにおいて、〔心の〕最初の集中から以降、すなわち、それぞれの瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕が生起するまで、それまでに転起された禅定の修行が、「〔実践の〕道」と説かれる。また、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕から以降、すなわち、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が〔生起する〕まで、それまでに転起された智慧(慧・般若)が、「証知」と説かれる。また、この〔実践の〕道は、それは、一部の者にとっては、苦なるものと成り、〔修行の〕妨害()等の、正反対の法(性質)の慣行を収め取ることで(悪しき法を繰り返し行為することで)、苦難と〔成る〕。楽ならざる習修(習慣)である、という【87】義(意味)である。一部の者にとっては、その状態なきことで、楽なるものと〔成る〕。証知もまた、一部の者にとっては、遅きものと成り、薄弱なるものと〔成り〕、即座に転起しない。一部の者にとっては、速きものと〔成り〕、薄弱ならざるものと〔成り〕、即座に転起する。

 

§16  そこにおいて、すなわち、後に、〔わたしたちが〕解説することになるであろう、そして、〔七種類の〕正当なるものと不当なるもの(Ch.4§35)、かつまた、障害の断絶等々の前もって為すべきこと(Ch.4§20)、さらに、〔十種類の瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智(Ch.4§42)、〔という〕──それら〔の三者〕のうち、その〔瞑想者〕が、不当なるものに慣れ親しむ者として有るなら、彼には、苦なる〔実践の〕道が〔有り〕、さらに、遅き証知が有り、正当なるものに慣れ親しむ者として〔有るなら、彼には〕、楽なる〔実践の〕道が〔有り〕、さらに、速き証知が有る。また、その〔瞑想者〕が、〔実践の道の〕前段部分において不当なるものに慣れ親しんで、後段部分において正当なるものに慣れ親しむ者として有るなら、あるいは、〔実践の道の〕前段部分において正当なるものに慣れ親しんで、後段部分において不当なるものに慣れ親しむ者として〔有るなら〕、彼には、〔両者の〕混合あることが知られるべきである。そのように、障害の断絶等の前もって為すべきことを成就させずして、修行に専念する者には、苦なる〔実践の〕道が有り、〔その〕反対によって、楽なる〔実践の道〕が〔有る〕。また、〔十種類の瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智を、成就させずにいる者には、遅き証知が有り、成就させている者には、速き〔証知〕が〔有る〕。

 

§17  さらに、また、渇愛と無明を所以に、そして、また、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察(止観)の参究を所以に、これらの細別が知られるべきである。まさに、渇愛に征服された者には、苦なる〔実践の〕道が有り、〔渇愛に〕征服されざる者には、楽なる〔実践の道〕が〔有る〕。さらに、無明に征服された者には、遅き証知が有り、〔無明に〕征服されざる者には、速き〔証知〕が〔有る〕。そして、その〔瞑想者〕が、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)において参究を為していないなら、彼には、苦なる〔実践の〕道が有り、参究を為したなら、楽なる〔実践の道〕が〔有る〕。また、その〔瞑想者〕が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)において参究を為していないなら、彼には、遅き証知が有り、参究を為したなら、速き〔証知〕が〔有る〕。

 

§18  さらに、また、〔心の〕汚れ(煩悩)と機能()を所以に、これらの細別が知られるべきである。まさに、強き〔心の〕汚れある者で、柔弱なる機能ある者には、苦なる〔実践の〕道が有り、かつまた、遅き証知が〔有り〕、いっぽう、鋭敏なる機能ある者には、速き証知が〔有る〕。そして、弱き〔心の〕汚れある者で、柔弱なる機能ある者には、楽なる〔実践の〕道が有り、かつまた、遅き証知が〔有り〕、いっぽう、鋭敏なる機能ある者には、速き証知が〔有る〕、と〔知られるべきである〕。

 

§19  かくのごとく、これらの〔実践の〕道と証知について、その人が、苦なる〔実践の〕道によって、かつまた、遅き証知によって、禅定に至り得るなら、彼の、その禅定は、「(1―1)苦なる〔実践の〕道にして遅き証知なる〔禅定〕」と説かれる。これが、残りの三者についてもまた、〔共通する説示の〕方法となる。ということで、このように、苦なる〔実践の〕道にして遅き証知等を所以に、四種類のものとなる。

 

§20  (2)第二の四なるものについて。(2―1)微小なる対象ある微小なる禅定が存在し、(2―2)無量なる対象ある微小なる〔禅定〕が存在し、(2―3)微小なる対象ある無量なる〔禅定〕が存在し、(2―4)無量なる対象ある無量なる〔禅定〕が存在する、と〔説かれる〕。

 そこにおいて、その禅定が、未熟にして、上なる瞑想にとっての縁と成ることができないなら、これが、【88】微小なる〔禅定〕である。また、その〔禅定〕が、〔瞑想の〕対象が〔いまだ〕増大させられていないときに転起されたなら、これが、微小なる対象ある〔禅定〕である。その〔禅定〕が、熟練するところとなり、善く修められ、上なる瞑想にとっての縁と成ることができるなら、これが、無量なる〔禅定〕である。そして、その〔禅定〕が、〔瞑想の〕対象が〔すでに〕増大させられたときに転起されたなら、これが、無量なる対象ある〔禅定〕である。また、〔前に〕説かれた特相を混合することで、〔四通りの〕混合の方法が知られるべきである(これらを組み合わせることで、上掲の四種類の禅定となる)。このように、微小なる対象ある微小なるもの等を所以に、四種類のものとなる。

 

§21  (3)第三の四なるものについて。(3―1)〔五つの修行の〕妨害が鎮静され、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念と喜悦と安楽と禅定(心の一境性)を所以に、五つの支分ある、第一の瞑想(初禅・第一禅)となる。(3―2)そののち、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が寂止し、三つの支分(喜悦・安楽・心の一境性)ある、第二〔の瞑想〕(第二禅)となる。(3―3)そののち、喜悦が離貪され、二つの支分(安楽・心の一境性)ある、第三〔の瞑想〕(第三禅)となる。(3―4)そののち、安楽が捨棄され、放捨の感受(捨受:楽苦の感受が存在しない感受)を〔新たに〕伴った禅定を所以に、二つの支分(放捨・心の一境性)ある、第四〔の瞑想〕(第四禅)となる。ということで、これらの四つの瞑想の支分として有るもの〔の観点〕から、四つの禅定が有る。このように、四つの瞑想の支分を所以に、四種類のものとなる。

 

§22  (4)第四の四なるものについて。(4―1)退失を部分とする禅定が存在し、(4―2)止住を部分とする〔禅定〕が存在し、(4―3)殊勝を部分とする〔禅定〕が存在し、(4―4)洞察を部分とする〔禅定〕が存在する。

 (4―1)そこにおいて、正反対〔の法〕の慣行を所以に(悪しき法を繰り返し行為することで)、退失を部分とすることが〔知られるべきであり〕、(4―2)その法(性質)のままなることによる気づき()の確立を所以に(禅定において気づきを持続させることで)、止住を部分とすることが〔知られるべきであり〕、(4―3)上なる殊勝〔の境地〕への到達を所以に、殊勝を部分とすることが〔知られるべきであり〕、(4―4)さらに、〔迷いの生存への〕厭離〔の思い〕を共具した表象()に意を為す慣行を所以に、洞察を部分とすることが知られるべきである。

 すなわち、〔聖典に〕言うように、「第一の瞑想の得者に、欲望を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、退失を部分とする智慧である。その法(性質)のままなることによる気づきが確立するなら、止住を部分とする智慧である。思考なき〔心〕を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、殊勝を部分とする智慧である。〔迷いの生存への〕厭離〔の思い〕を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、離貪を伴った洞察を部分とする智慧である」(ヴィバンガp.330)と。また、その智慧と結び付いた禅定もまた、四つのものが有る。ということで、このように、退失を部分とするもの等を所以に、四種類のものとなる。

 

§23  (5)第五の四なるものについて。(5―1)欲望の行境(欲界)の禅定、(5―2)形態の行境(色界)の禅定、(5―3)形態なき行境(無色界)の禅定、(5―4)属するところなき禅定、ということで、このように、四つの禅定が〔有る〕。そこにおいて、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の〔心の〕一境性は、全てもろともに、欲望の行境の禅定である。そこにおいて、形態の行境等の善なる心の一境性が、他の三つ〔の禅定〕である。ということで、このように、欲望の行境等を所以に、四種類のものとなる。

 

§24  (6)第六の四なるものについて。「(6―1)もし、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)を優位(主因)と為して、禅定を得、心の一境性を得るなら、【89】これが、『欲〔の思い〕の禅定』〔と〕説かれる。(6―2)もし、比丘が、精進を〔優位と為して〕……略……。(6―3)もし、比丘が、心(専心)を〔優位と為して〕……略……。(6―4)もし、比丘が、考察を優位と為して、禅定を得、心の一境性を得るなら、これが、『考察の禅定』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.216-9)と、このように、優位〔と為すもの〕を所以に、四種類のものとなる。

 

 [(五)五種類のものとしての禅定]

 

§25  五なるものについて。すなわち、四なるものの細別において説かれた第二の瞑想(第二禅)であるが(§21)、それを、〔粗雑なる〕思考のみを超越することで第二〔の瞑想〕とし、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念〔の両者〕を超越することで第三〔の瞑想〕とする。ということで、このように、二種に細別して、五つの瞑想が知られるべきである。そして、それら〔の五つの瞑想〕の支分として有るもの〔の観点〕から、五つの禅定が〔有る〕。ということで、このように、五つの瞑想の支分を所以に、五種類のものとなることが知られるべきである。

 

40.

 

 五・六 「そして、何が、それにとって、汚染であるのか」「何が、浄化であるのか」

 

§26  また、「そして、何が、それにとって、汚染であるのか」「何が、浄化であるのか」とは──

 ここにおいて、〔その〕答えは、まさしく、『ヴィバンガ(分別論)』において説かれた。まさに、そこにおいて、「『汚染』とは、退失を部分とする法(性質)である。『浄化』とは、殊勝を部分とする法(性質)である」(ヴィバンガp.343)と説かれた。そこにおいて、「第一の瞑想の得者に、欲望を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、退失を部分とする智慧である」(ヴィバンガp.330)という、この方法によって、退失を部分とする法(性質)が知られるべきである。「思考なき〔心〕を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、殊勝を部分とする智慧である」(ヴィバンガp.330)という、この方法によって、殊勝を部分とする法(性質)が知られるべきである。

 

41.

 

 七 「どのように、修められるべきであるのか」

 

§27  また、「どのように、修められるべきであるのか」とは──

 ここにおいて、すなわち、まずは、この、「世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものを所以に、二種類のものとなる」(§7)という〔言葉〕等々において、聖者の道と結び付いた禅定と説かれたもの(世俗を超える禅定)は、それについての修行の方法は、まさしく、智慧による修行の方法によって包摂されたものとなる(Ch.22)。なぜなら、智慧が修められたなら、それ(聖者の道と結び付いた禅定)は、修められたものと成るからである。それゆえに、それに関して、「このように修められるべきである」と、何であれ、別に説くことはない。

 

§28  また、すなわち、この、世〔俗〕の〔禅定〕は、それは、〔前に〕説かれた方法によって諸戒を清めて、完全無欠の清浄の戒において〔自己を〕確立した者によって〔修められるべきである〕。(一)すなわち、彼に、十の障害のうち、〔何らかの〕障害が存在するなら、それを断ち切って、(二)〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)を与えてくれる善き朋友に近づいて行って、(三)自己の性行に随順するものとして、(四)四十の〔心を定める〕行為の拠点のうち、どれか一つの〔心を定める〕行為の拠点を収め取って、(五)禅定の修行に適切ならざる精舎を捨棄して、適切なる精舎に住んでいる者によって、(六)〔見難き〕小なる障害の断絶を為して、(七)一切の修行の規定を遍く衰退させずにいる者によって、〔世俗の禅定が〕修められるべきである。ということで、ここにおいて、これが、〔世俗の禅定の修行の方法の〕簡略〔の説示〕となる。

 

§29  また、これが、〔世俗の禅定の修行の方法の〕詳細となる。

 

 [(一)十の障害]

 

 すなわち、まずは、〔前に〕説かれた、「すなわち、彼に、十の障害のうち、〔何らかの〕障害が存在するなら、それを断ち切って」とは、ここにおいて──

 

 【90】〔そこで、詩偈に言う〕「そして、(1)居住、(2)家、(3)利得、(4)衆、さらに、第五のものとして、(5)行為、(6)旅行、(7)親族、(8)病苦、(9)書物、(10)神通、という、それらの十のものがある」という──

 

 これらのものが、「十の障害」ということになる。

 そこにおいて、居住こそは、居住という障害のこと。これが、〔以下の〕家等々において、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§30  (1)そこにおいて、「居住」とは、一つの内室もまた、〔居住と〕説かれ、一つの僧房もまた、〔居住と説かれ〕、僧団の林園は、〔その〕全体もまた、〔居住と〕説かれる。〔まさに〕その、この〔居住〕は、まさしく、全ての者にとって、障害と成ることはない。

 また、ここにおいて、その〔瞑想者〕が、あるいは、新たな〔設営の〕行為等々にたいし思い入れを起こすなら、あるいは、多くの物品の蓄積ある者として〔世に〕有るなら、あるいは、それがどのような動機であれ、〔居住に〕期待ある者となり、心が縛られたなら、まさしく、彼にとって、〔居住は〕障害と成る。他の者にとって、〔障害と成ることは〕ない。

 

§31  そこで、これが、〔その〕事例となる。伝えるところでは、二者の良家の子息が、アヌラーダの都を出て、順次に、トゥーパ林園において出家した。彼らのうち、一者は、二つの要綱(論母:法と律の要目)を熟練するところと為して、〔出家してのち〕五年の者と成って、〔雨期の滞在を〕充足して、パーチーナカンダラージという名のところに赴き、独り、まさしく、そこにおいて住する。パーチーナカンダラージに赴き、そこにおいて、長きにわたり住して、長老と成って、思い考えた。「これは、静坐に適切なる場である。さあ、それを、道友にもまた、告げるのだ」と。そののち、〔そこを〕出て、順次に、トゥーパ林園に入った。まさしく、入りつつある彼を見て、〔出家してのち〕等しき年の長老(道友)は、出迎えて、鉢と衣料を収め取って、〔接客の〕行持を為した。

 

§32  来客の長老は、〔道友の〕臥坐所に入って、思い考えた。「今や、道友は、わたしのために、あるいは、酥を、あるいは、糖を、あるいは、飲み物を、もってくるであろう。なぜなら、この者は、この城市において、長きにわたり、居住者なのだから」と。彼は、夜に、〔それらを〕得ずして、早朝に、思い考えた。「今や、奉仕者たちによって収め取られた、粥や固形の食料を、もってくるであろう」と。それをもまた、見ずして、「〔食を〕送り届ける者たちが、〔彼には〕存在しないのだ。思うに、〔村に〕入った者には、施すであろう」と、ごく早朝に、彼と共に、村に入った。彼ら、二者は、〔共に〕一つの街路を歩んで、匙ほどの粥を得て、坐堂(共用の食堂)に坐って、〔それを〕飲んだ。

 

§33  そののち、来客者は、思い考えた。「思うに、定番のものとしての粥が存在しないのだ(個人的な奉仕者がいない)。食事の時には、今に、〔村の〕人間たちが、精妙なる食事を施すであろう」と。そののち、食事の時にもまた、〔行乞の〕食のために〔村を〕歩んで(托鉢して)、得られただけのものを食べて、言った。「尊き方よ、どうでしょう、〔あなたは〕全ての時において、このように〔身を〕保ち行くのですか」と。「友よ、そのとおりです」と。「尊き方よ、パーチーナカンダラージは、平穏なるところです。そこに赴きましょう」と。長老(道友)は、城市から【91】南の門によって出つつ、〔パーチーナカンダラージへと至る〕クンバカーラ村の道を行った。他〔の長老〕は、言った。「尊き方よ、また、どうして、この道を行くことを義(目的)とするのですか(なぜ、臥坐所に戻らず、いきなり町を出て道を行くのですか)」と。「友よ、まさに、あなたは、パーチーナカンダラージについて、褒め称え〔の言葉〕を語ったではないですか(だから、町を出たのです)」と。「尊き方よ、また、どうでしょう、あなたさまには、これほどの〔長き〕時のあいだ住していた場に、何であれ、余分の必需品は存在しないのですか(臥坐所に残してきた生活用具はないのですか)」と。「友よ、そのとおりです。臥床と椅子がありますが、僧団のものですし、それは、まさしく、〔普段から適切に〕処理されています。他には、何であれ、存在しません」と。「尊き方よ、いっぽう、わたしどもには、歩杖と油筒が、さらに、履物袋が、まさしく、そこに〔存在します〕(臥坐所に残してきました)」と。「友よ、一日のあいだ住して、あなたによって、これほどのものが据え置かれたのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

§34  彼は、浄信した心の者となり、長老を敬拝して、「尊き方よ、あなたさまのような方には、一切所において、まさしく、林の住があります。トゥーパ林園は、四覚者の遺物を安置する場です。ローハ講堂においては、正当なる法(教え)を聞くことを〔得ますし〕、大塔廟を見ることを〔得ますし〕、さらに、長老を見ることを得ます。覚者(ブッダ)の時のように、〔物事は〕転起します。あなたさまは、まさしく、ここに住してください」と、次の日には、鉢と衣料を収め取って、まさしく、自ら、去り行った。かくのごとく、このような者にとって、居住は、障害と成ることはない。

 

§35  (2)「家」とは、あるいは、親族の家、あるいは、奉仕者の家のこと。なぜなら、一部の者にとっては、奉仕者の家でさえも、「[家長よ、ここに、一部の者は、在家者たちと交わりある者として〔世に〕住みます。喜びを共にし、憂いを共にし、]安楽の者たちのなかで安楽の者となり、[苦痛の者たちのなかで苦痛の者となり、諸々の義務や用事が生起したとき、自己みずから、それらにたいし、専念〔努力〕を惹起します]」(サンユッタ・ニカーヤ3p.11)という〔言葉〕等の方法によって、〔他者と〕交わりながら住んでいる者にとって、〔家は〕障害と成るからである。彼は、家の人間たちなしでは、法(教え)の聴聞のために、近隣の精舎にさえも、赴くことがない。一部の者にとっては、母と父でさえも、障害と成ることはない。コーランダカ精舎の住者たる長老の甥の青年比丘にとってのように。

 

§36  伝えるところでは、その〔青年比丘〕は、誦説〔の聴聞〕を義(目的)に、ローハナ(地名)に赴いた。長老(青年比丘の師父)の妹である女性在俗信者(青年比丘の母)もまた、常に、長老に、彼(彼女の子である青年比丘)の消息を尋ねる。長老は、或る日、「青年を迎え取るのだ」と、ローハナに向かい、出発した。

 

§37  青年もまた、「わたしは、ここに、長きにわたり住した。今や、師父(和尚)を見て、さらに、女性在俗信者(母)の消息を知って、〔ふたたびまた、この地に〕帰還するのだ」と、ローハナを出た。彼らは、両者ともどもに、ガンガー〔川〕の岸辺で遭遇した。彼(青年)は、或るどこかの木の根元で、長老への行持を為して、「どこに行くのか」と尋ねられたので、彼(長老)に、義(目的)を告げた。長老は、「〔何とも〕巧妙に、おまえによって為されたものだ。女性在俗信者もまた、常に、〔おまえの消息を〕尋ねる。わたしもまた、まさしく、これを義(目的)にやってきたのだ。おまえは、〔母のところに〕赴きなさい。いっぽう、わたしは、まさしく、ここで、この雨期を過ごすであろう」と、彼を送り出した。【92】彼(青年)は、まさしく、雨期の近づく日に、〔目的の地である〕その精舎(コーランダカ精舎)に至り得るところとなり、臥坐所もまた、まさしく、彼の父によって作られたものが至り得るところとなった(偶然にも父の寄進した臥坐所があてがわれた)。

 

§38  そこで、彼の父は、次の日に〔精舎に〕やってきて、「尊き方よ、わたしどもの臥坐所は、誰に至り得るところとなったのですか」と尋ねつつ、「来客の青年〔比丘〕に」と聞いて、彼に、近づいて行って、敬拝して言った。「尊き方よ、わたしどもの臥坐所に雨期に到着した〔比丘〕には、行持が存在します」と。「在俗信者よ、〔それは〕何ですか」と。「三月のあいだ、まさしく、わたしどもの家で、行乞〔の食〕を収め取って、〔雨期の滞在を〕充足して〔そののち〕、〔精舎から〕出行の時には、許しが乞われることです(出行の時を知らせてほしい)」と。彼は、沈黙の状態をもって承諾した。在俗信者もまた、家に赴いて、〔妻に〕「わたしたちの〔作らせた〕居住所に、一者の尊貴なる来客が到着したのだ。謹んで奉仕するべきである」と言った。女性在俗信者は、「善きかな」と領受して、精妙なる固形の食料と軟らかい食料を設えた。青年もまた、食事の時には、親族の家に赴いた。誰も、彼のことを、〔自分たちの子である、と〕表象しなかった(認知できなかった)。

 

§39  彼は、三月もろとものあいだ、そこにおいて〔行乞の〕施食を遍く受益して、雨期を過ごし、「わたしは赴きます」と、〔出行の〕許しを乞うた(出行の時を知らせた)。そこで、彼の親族たち(両親)は、「尊き方よ、明日、〔あなたさまは〕赴きたまえ(明日、出行してください)」と、次の日には、まさしく、家で、〔施しの食を〕食べさせて、油筒を満たして、砂糖の塊を一つ、さらに、九ハッタ(長さの単位・一ハッタは約五十センチ)の衣を施して、「尊き方よ、〔あなたさまは〕赴きたまえ」と言った。彼は、随喜(祝福)を為して、ローハナに向かい、出発した。

 

§40  彼の師父もまた、〔雨期の滞在を〕充足して、反対の道を〔精舎へと〕帰還しつつ、まさしく、過去において〔甥を〕見た場に、彼を見た。彼(青年)は、或るどこかの木の根元で、長老への行持を為した。そこで、長老は、彼に尋ねた。「幸顔なる者よ、どうであろう、おまえによって、女性在俗信者は見られたかな」と。彼は、「尊き方よ、そのとおりです(見ました)」と、一切の消息を告げて、〔施された〕その油で、長老の〔両の〕足を塗布して、砂糖で飲み物を作って飲ませて、〔施された〕その衣もまた、まさしく、長老に施して、長老を敬拝して、「尊き方よ、わたしには、ローハナこそが、正当なるところです」と、〔ローハナへと〕赴いた。長老もまた、精舎に帰還して、次の日に、〔妹の家がある〕コーランダカ〔の村〕に入った。

 

§41  女性在俗信者もまた、「わたしの兄は、わたしの子を収め取って(同道して)、今に、帰還するであろう」と、常に、道を、まさしく、眺め見ながら立っている。彼女は、まさしく、独り、〔子を連れずに〕帰還する彼を見て、「思うに、わたしの子は死んだのだ。この長老は、まさしく、独り、〔子を連れずに〕帰還する」と、長老の足元にひれ伏して、嘆き悲しみながら泣き叫んだ。長老は、「たしかに、青年は、少なき欲求たることから、まさしく、自己を知らせずして赴いたのだ」と、彼女を安堵させて、【93】一切の消息を告げて、〔施された〕その衣を、鉢袋から取り出して、〔彼女に〕見せた。

 

§42  女性在俗信者は、浄信して、子が赴いた方角に向かい、胸をもってひれ伏して、礼拝しながら言った。「思うに、まさに、わたしの子のような比丘を、世尊は、身体による実証者(Ch.21§74)と為して、ラタヴィニータの〔実践の〕道(マッジマ・ニカーヤ1p.145:ラタヴィニータ・スッタ)を、ナーラカの〔実践の〕道(スッタニパータp.131:ナーラカ・スッタ)を、トゥヴァタカの〔実践の〕道(スッタニパータp.179:トゥヴァタカ・スッタ)を、さらに、四つの日用品によって満ち足りている者が修行に喜びあることの提示となる、偉大にして聖なる伝統の〔実践の〕道(ディーガ・ニカーヤ3p.188)を、説示したのです。まさに、産みの母の家において、三月のあいだ、〔施しの食を〕食べながらもまた、『わたしは、子です。あなたは、母です』と説こうとしないとは。ああ、稀有なる人間である」と。このような形態の者にとっては、母と父でさえも、障害と成ることはない。ましてや、他の奉仕者の家は〔言うまでもない〕、と〔知られるべきである〕。

 

§43  (3)「利得」とは、四つの日用品のこと。それら〔の日用品〕は、どのように、障害と成るのか。まさに、功徳ある比丘のばあい、赴く〔場〕赴く場において、人間たちは、諸々の大いなる付属品や諸々の日用品を施す。彼は、彼らに随喜し法(教え)を説示しながら、沙門の法(性質)を為すための機会を得ない(祝福し説法してばかりで沙門の務めを果たせない)。すなわち、日の出から初夜(宵の内)まで、それまでのあいだ、人間との交わりが断ち切られることはない。さらに、極めてごく早朝に、多くの〔行乞の〕施食の者たちがやってきて、「尊き方よ、誰某の、在俗信者が、女性在俗信者が、家臣が、家臣の娘が、あなたさまと会見することを欲しています」と説く。彼は、「友よ、鉢と衣料を収め取ってください」と、まさしく、出行の準備ある者と成る。ということで、〔彼は〕常なる多忙の者と〔成る〕。まさしく、彼にとって、それらの日用品は、障害と成る。彼によって、衆を捨棄して、すなわち、〔人々が〕彼のことを知らないところで、そこにおいて、独りある者となり、〔沙門の法が〕行なわれるべきである。このように、その障害は断ち切られる、と〔知られるべきである〕。

 

§44  (4)「衆」とは、あるいは、経の専門家たちの衆、あるいは、論の専門家たちの衆のこと。彼が、その〔衆〕に、あるいは、誦説(聖典)を、あるいは、遍問(義釈)を、説示しながら、沙門の法(性質)の機会を得ないなら、まさしく、彼にとって、衆は、障害と成る。彼によって、その〔衆〕は、このように断ち切られるべきである。それで、もし、それらの比丘たちにとって、多くのものが収め取られたものと成り、少しのものが残されたなら、その〔残りのもの〕を終了させて、林に入るべきである。それで、もし、少しのものが収め取られたものと〔成り〕、多くのものが残されたなら、【94】〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)より他には赴かずして、〔一〕ヨージャナという〔範囲の〕限定内において、他の、衆に言葉ある者(別の説示者)のところに近づいて行って、「尊者よ、これらの者たちを、誦説等々によって、愛護してください」と説くべきである。たとえ、このように〔為すも〕、〔そのような説示者〕を得ずにいるなら、「友よ、わたしには、一つの為すべきことが存在します。あなたたちは、平穏なるままに〔各自の〕場へと赴きたまえ」と、衆を捨棄して、自己の行為(自業)が為されるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

§45  (5)「行為」とは、新たな〔設営の〕行為のこと。それを為している者によって、大工等々による得不得が知られるべきであり(工事の進展を配慮する必要がある)、作不作にたいし思い入れが起こされるべきである(工事の完成を配慮する必要がある)。ということで、一切時において、〔新たな設営の行為は〕障害と成る。その〔行為〕もまた、このように断ち切られるべきである。それで、もし、少しのものが残され、〔未完のままに〕有るなら、〔設営の行為は〕終了させられるべきである。それで、もし、多くのものが〔残され、未完のままに有るなら〕──もし、〔その〕新たな〔設営の〕行為が、僧団のものであるなら、あるいは、僧団に、あるいは、僧団の荷を運ぶ比丘たち(僧団運営に責任ある比丘たち)に、引き渡されるべきであり──もし、自己のために存しているものであるなら、自己の荷を運ぶ者たちに引き渡されるべきである。そのような者たちを得ずにいるなら、僧団に〔引き渡し〕完全に捨て去って、去り行くべきである、と〔知られるべきである〕。

 

§46  (6)「旅行」とは、道を赴くこと。なぜなら、その〔比丘〕のために、あるいは、〔彼のもとで〕出家を期す者が、どこかしらに有り、あるいは、何らかの日用品の類が、得られるべきもの(施物)として有り、それで、もし、彼〔の来訪〕を得ずにいる者が、〔それを〕耐え忍ぶことができないなら、たとえ、林に入って沙門の法(性質)を為しているとして、訪問の心は、まさに、除き去り難きものと成る。それゆえに、赴いて、その為すべきことを、まさしく、果たして〔そののち〕、沙門の法(性質)にたいし思い入れが為されるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

§47  (7)「親族」とは、精舎においては、師匠(阿闍梨)や師父(和尚)や共住者(師父の弟子)や内弟子(師匠の弟子)で師父に等しき者や師匠に等しき者たちのこと。家においては、母、父、兄弟、という、このような者等々のこと。彼らが病であるなら、この者(瞑想修行者)にとって、障害と成る。それゆえに、その障害は、彼らのために、〔まずは〕奉仕して(看護して)、〔彼らを〕自然のとおりと為すことで(彼らを平癒させて)、断ち切られるべきである。

 

§48  そこにおいて、まずは、師父が病となり、それで、もし、軽々に立ち上がれないなら、生あるかぎりはまた、看護されるべきである。そのように、出家の師匠(出家の時の師)、〔戒の〕成就の師匠(受戒の時の師)、共住者、さらに、〔戒を〕成就し出家した内弟子で師父に等しき者たちが〔看護されるべきである〕。また、依所たる師匠や誦説の師匠や依所たる内弟子や誦説の内弟子や師匠に等しき者たちは、すなわち、依所と誦説が断ち切られないかぎり、そのかぎりは看護されるべきである。可能であるなら、それから後もまた、まさしく、看護されるべきである。

 

§49  母と父にたいしては、師父のように、実践されるべきである。まさに、それで、もし、たとえ、彼らが王権に立つ者として〔世に〕有るも、そして、子からの奉仕を願い求めるなら、【95】まさしく、為されるべきである。そこで、彼らに薬が存さないなら、自己に存するものが与えられるべきである。〔自己に〕存していないときは、行乞行によって、たとえ、遍く探し求めてでも、まさしく、与えられるべきである。また、兄弟や姉妹たちのばあい、彼らに存するものこそが、調合して、与えられるべきである。それで、もし、存さないなら、自己に存するものを暫時のあいだ与えて、のちに〔薬を〕得るなら、〔それを〕収め取るべきであり、〔薬を〕得ずにいるとして、〔返却を〕催促するべきではない。姉妹の夫で親族ならざる者には、薬を作るのも、まさしく、〔順当では〕なく、与えるのも順当ではない(許容されない)。いっぽう、「あなたの夫に与えなさい」と説いて、姉妹に与えられるべきである。兄弟の妻もまた、まさしく、これが、〔共通する〕方法となる。いっぽう、彼らの子たちは、この者にとって、まさしく、親族たちである。ということで、彼らに〔薬を〕作るのは順当である(許容される)、と〔知られるべきである〕。

 

§50  (8)「病苦」とは、それが何であれ、病のこと。それは、〔当の者を〕悩ましているなら、障害と成る。それゆえに、薬を作り為すことで断ち切られるべきである。また、それで、もし、数日のあいだ薬を作り為しつつもまた、〔病苦が〕止み静まらないなら、「わたしは、おまえ(病苦)の奴隷にあらず、雇われにあらず。なぜなら、まさしく、おまえを養いつつ、始源が思い考えられない輪廻の転起において、苦しみに至り得たのだから」と、自己状態(個我的あり方・身体のこと)を難じて、沙門の法(性質)が為されるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

§51  (9)「書物」とは、聖典を〔心に〕守り抜くこと。その読誦等々によって、まさしく、常なる多忙の者にとって、〔書物は〕障害と成る。他の者にとって、〔障害と成ることは〕ない。そこで、これらが、〔その〕事例となる。伝えるところでは、『マッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)』の朗読者レーヴァ長老は、マラヤの住者たるレーヴァ長老の現前に赴いて、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)〔についての誦説〕を乞い求めた。長老は、「友よ、聖典について、〔あなたは〕どのような者として存しているのですか」と尋ねた。「尊き方よ、わたしには、マッジマ〔ニカーヤ〕が熟練するところです」と。「友よ、『マッジマ〔ニカーヤ〕』というものは、これは、〔心に〕守り抜き難きものです。根元の五十〔経〕を読誦している者には、中間の五十〔経〕が〔次なるものとして〕やってきます。それを読誦している者には、後分の五十〔経〕が〔次なるものとしてやってきます〕(このように、次から次へと学ばねばならない)。どうして、あなたに、〔心を定める〕行為の拠点があるというでしょう」と。「尊き方よ、あなたさまの現前において、〔心を定める〕行為の拠点を得て〔そののち〕、ふたたび、〔聖典を〕眺め見ることはないでしょう」と、〔心を定める〕行為の拠点を収め取って、十九年のあいだ、読誦を為さずして、第二十の年において、阿羅漢の資質に至り得て、読誦を義(目的)としてやってきた比丘たちに、「友よ、わたしが、二十年のあいだ、聖典を【96】眺め見ずにいるとして、しかしながら、また、まさに、ここにおいて、精通を為した者として、わたしはあります。始めたまえ」と説いて、最初から以降、結末まで、たとえ、一つの語についてであれ、彼に、疑いが有ることはなかった(完璧に読誦できた)。

 

§52  カーラリヤ山の住者たるナーガ長老もまた、十八年のあいだ、聖典を捨て放って〔そののち〕、比丘たちに、界域()についての言説を誦説した。同席している村の住者たる長老たちを含めて、彼らへの〔答えとして〕、たとえ、一つの問いであれ、誤って言及されたものが有ることはなかった(完璧に誦説できた)。

 

§53  マハー・ヴィハーラ(大寺:寺名)においてもまた、ティピタカ・チューラ・アバヤ長老は、まさに、アッタカター(注釈書)を、まさしく、収め取らずして、「五ニカーヤ(長部・中部・相応部・小部・増支部の五部経典)〔の熟練者たち〕の円輪あるなか、〔わたしは〕三ピタカ(三蔵:経蔵・律蔵・論蔵の三聖典)を遍く転起させるであろう」と、金鼓を打たせた。比丘の僧団は、「〔長老の説は〕どの師匠たちの収め取るところですか。自己の師匠の収め取るところこそを、説いてください。他のばあいは、説くことを許しません」と言った。〔長老の〕師父もまた、自己の奉仕にやってきた彼に尋ねた。「友よ、あなたは、鼓を打たせましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「どのような契機から」と。「尊き方よ、〔わたしは〕聖典を遍く転起させるでありましょう」と。「友よ、アバヤよ、師匠たちは、この句を、どのように説きますか」と。「尊き方よ、このように説きます」と。長老(師父)は、「フン」と拒否した。ふたたび、彼は、他〔の教相〕によっては他の教相によって、「尊き方よ、このように、〔彼らは〕説きます」と、三回、言った。長老は、全てに、「フン」と拒否して、「友よ、あなたによって、最初に言説されたものこそが、師匠の道です。いっぽう、師匠の口から収め取られていないことから、『このように、師匠たちは説く』と、究めることができなかったのです。赴きなさい。自己の師匠の現前において、〔師匠の口から、じかに〕聞きなさい」と。「尊き方よ、〔わたしは〕どこに赴くのですか」と。「ガンガー〔川〕の彼方のローハナ地方にあるトゥラーダーラ山の精舎に、一切聖典者たる『マハー・ダンマラッキタ長老』という名の方が住しています。彼の現前に赴きなさい」と。「尊き方よ、善きかな」と、長老を敬拝して、五百の比丘たちと共に、長老の現前に赴いて、敬拝して坐った。長老は、「何ゆえに、到来者として、〔あなたは〕存しているのですか(何のためにやってきたのか)」と尋ねた。「尊き方よ、法(教え)を聞くためにです」と。「友よ、アバヤよ、ディーガ〔ニカーヤ〕(長部経典)やマッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)について、〔その〕時〔その〕時に、〔人々は〕わたしに尋ねます。いっぽう、残りのものは、わたしによって、三十年ほどのあいだ、過去に眺め見られたことがありません。ですが、ともあれ、あなたは、夜に、わたしの現前において、〔それらを〕遍く転起させてください。わたしは、昼に、あなたに言説しましょう(夜のあいだに読誦してくれれば、昼に解説しよう)」と。彼は、「尊き方よ、善きかな」と、そのとおりに為した。

 

§54  僧房の門口に大いなる天幕を作らせて、村の住者たちは、日々に、法(教え)の聴聞を義(目的)としてやってくる。長老は、夜に遍く転起させたものを昼に言説しながら、【97】順次に説示を言説しては終了させて、アバヤ長老の現前において、筵に坐って、「友よ、わたしに、〔心を定める〕行為の拠点を言説してください」と言った。「尊き方よ、何を話されるのですか。まさに、わたしによって、まさしく、あなたさまの現前において、〔法が〕聞かれたのではないですか。あなたさまに知られていない何を、わたしが言説するというのでしょう」と。そののち、長老は、彼に、「友よ、この、『到達者の道』というものは、〔学識とは〕他のものなのです」と言った。

 

§55  伝えるところでは、アバヤ長老は、そのとき、預流たる者(覚りの第一階梯に到達した者)として有り、そこで、彼は、彼に、〔心を定める〕行為の拠点を与えて、〔精舎に〕帰還して、ローハ講堂において、法(教え)を遍く転起させつつ、「〔マハー・ダンマラッキタ〕長老が、完全なる涅槃に到達した者となる(般涅槃した)」と聞いた。聞いて、「友よ、衣料を運び来たれ」と、衣料を着して、「友よ、わたしたちの師匠にとって、阿羅漢道は、至当なるものです。友よ、わたしたちの師匠は、〔心が〕真っすぐで、善き生まれの方です。彼は、自己の法(教え)の内弟子の面前で、筵に坐って、『わたしに、〔心を定める〕行為の拠点を言説してください』と言いました。友よ、長老にとって、阿羅漢道は、至当なるものです」と〔言った〕。このような形態の者たちにとって、書物は、障害と成ることはない、と〔知られるべきである〕。

 

§56  (10)「神通」とは、凡夫のものとしての神通のこと。まさに、それは、上向きに臥している幼児のように、さらに、若き作物のように、守り抜き難きものとして有り、まさしく、少しばかりのものによって破壊される。また、それは、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)にとって、障害と成るが、禅定にとって、〔障害と成ることは〕ない。禅定に至り得て〔そののち〕、〔神通が〕至り得られるべきである。それゆえに、神通の障害は、〔あるがままの〕観察を義(目的)とする者によって断ち切られるべきである。残り〔の九つの障害〕は、他の者(禅定を義とする者)によって〔断ち切られるべきである〕。ということで──

 まずは、これが、障害についての言説の詳細となる。

 

42.

 

 [(二)〔心を定める〕行為の拠点を与えてくれる善き朋友]

 

§57  また、「〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)を与えてくれる善き朋友に近づいて行って」(§28)とは、ここにおいて、二種類の〔心を定める〕行為の拠点がある。(1)一切所のものとしての〔心を定める〕行為の拠点(あらゆる実践者に適合する汎用的瞑想手段)であり、さらに、(2)〔瞑想対象を心に〕維持するものとしての〔心を定める〕行為の拠点(実践者の性行に随順する個別的瞑想手段)である。

 (1)そこにおいて、「一切所のものとしての〔心を定める〕行為の拠点」というのは、比丘の僧団等々にたいする慈愛〔の心〕()であり、さらに、死についての気づき(死念)である。「浄美ならざる表象(不浄想)〔も含まれる〕」ともまた、或る者たちは〔説く〕。

 

§58  まさに、〔心を定める〕行為の拠点ある比丘によって、最初に、まずは、〔瞑想対象の範囲を〕限定して、〔聖なる〕境界(結界・戒壇)のうちに止住する比丘の僧団にたいし、「安楽の者たちと成れ。憎悪なき者たちと〔成れ〕」と、慈愛〔の心〕(:慈悲の瞑想)が修められるべきである。そののち、〔聖なる〕境界のうちに止住する天神たちにたいし、そののち、托鉢する村における権力ある人々にたいし、そののち、そこおける人間たちを加え含めて、一切の有情たちにたいし〔修められるべきである〕。まさに、彼は、比丘の僧団にたいする慈愛〔の心〕によって、共住者たちへの柔和なる心性を生じさせる。そこで、彼にとって、彼らは、安楽の共住ある者たちと成る。〔聖なる〕境界のうちに止住する天神たちにたいする慈愛〔の心〕あることから、〔彼は〕柔和なる心が作り為された天神たちによる法(正義)にかなう守護によって善く差配された守護ある者と【98】成る。托鉢する村における権力ある人々にたいする慈愛〔の心〕あることから、〔彼は〕柔和なる〔心身の〕相続(温厚な人柄)が作り為された権力者たちによる法(正義)にかなう守護によって善く守られた必需品ある者と成る。そこおける人間たちにたいする慈愛〔の心〕あることから、〔彼は〕心が浄信した彼らに貶められない者と成って〔村を〕渡り歩く。一切の有情たちにたいする慈愛〔の心〕あることから、〔彼は〕一切所において打破されずに歩む者と成る。また、死についての気づき(死念:死を常に身近なものとして意識する瞑想)によって、「まちがいなく、わたしは、死すべき〔存在〕である」と思い考えながら、〔生に関する〕不当な探し求めを捨棄して、上に上にと増え行く畏怖〔の思い〕ある者と〔成り〕、畏縮なき生活者と成る(無常の現実をあるがままに知ることができ、生にたいする執着が消える)。また、浄美ならざる表象(不浄想:身体は不浄で価値がないと意を為す瞑想)によって心が蓄積されたなら、彼には、たとえ、〔浄美なる存在である〕諸々の天のものが〔認識の〕対象(所縁)となるも、貪欲〔の思い〕を所以に心が完全に奪い去られることはない。

 

§59  このように、多くの資益あることから、そして、一切所において、義(目的)とされるべきであり、求められるべきである、ということで、さらに、〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)に専念する行為を志向した者にとっての拠点となる、ということで、「一切所のものとしての〔心を定める〕行為の拠点」と説かれる。

 

§60  (2)また、四十の〔心を定める〕行為の拠点のうち、それが、彼にとって、〔自己の〕性行に随順するものであるなら、それは、彼にとって、常に遍く守られるべきことから、かつまた、さらなる上、さらなる上の、修行の行為にとって、境処の拠点(直接原因)となることから、「〔瞑想対象を心に〕維持するものとしての〔心を定める〕行為の拠点」と説かれる。ということで、この〔心を定める〕行為の拠点を、二種類ともどもに、その者が与えてくれるなら、この者が、「〔心を定める〕行為の拠点を与えてくれる者」ということになる。

 

§61  〔まさに〕その、「〔心を定める〕行為の拠点を与えてくれる善き朋友に〔近づいて行って〕」とは──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔誰にとっても〕愛しき者、〔誰にとっても〕重き者、〔誰にとっても〕尊ばれる者、そして、〔真理を〕説く者、〔誹謗の〕言葉に忍耐ある者、かつまた、深遠なる議論の為し手、さらに、状況なきこと(道理なきこと)に(※)〔他者を〕駆り立てない者」(アングッタラ・ニカーヤ4p.32)という──

 

 このような〔愛しき者〕等の徳を具備した者である、一方的に〔他者の〕益を求める者に、〔退失ならざる〕増大の側に立つ者に、善き朋友に〔近づいて行って〕。

 

※ テキストには ca hāne とあるが、VRI版により caṭṭhāne と読む。

 

§62  また、「アーナンダよ、まさに、善き朋友である、わたし(ブッダ)に由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、[老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、病の法(性質)ある有情たちは、病から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます]」(サンユッタ・ニカーヤ1p.88)という言葉等から、正等覚者こそは、一切の行相の成就者であり、善き朋友であり、それゆえに、彼が〔世に〕存しているときは、まさしく、彼の、世尊の現前において収め取られた〔心を定める〕行為の拠点が、善く収め取られたものと成る。また、彼が完全なる涅槃に到達したときは、八十大弟子たちのなかで、その者が、〔いまだ身を〕保っているなら、彼の現前において収め取るのが順当である。彼もまた存していないときは、その〔心を定める〕行為の拠点を収め取ることを欲する者として有り、まさしく、その〔心を定める行為の拠点〕を所以に、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想(四禅もしくは五禅)を発現させて、〔その〕瞑想を境処の拠点(直接原因)とする〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を増大させて、煩悩の滅尽に至り得た者である、煩悩の滅尽者の現前において収め取られるべきである。

 

§63  「また、どうして、煩悩の滅尽者が、『わたしは、煩悩の滅尽者である』と、自己を明示するというのだろう、という〔この問題は〕、どう説かれるべきであるのか」〔と問うなら〕、「まさに、〔心を定める行為の拠点を〕作り為す状態があることを知って〔そののち〕、〔自己を〕明示する」〔と答える〕。まさに、アッサグッタ長老は、〔心を定める〕行為の拠点に励んでいる比丘のために、【99】「この者は、〔心を定める〕行為の拠点を作り為す者である」と知って〔そののち〕、虚空に皮の切れ端を設けて(神通で化作して)、そこにおいて結跏で坐り、〔心を定める〕行為の拠点を言説したではないか。ということで──

 

§64  それゆえに、それで、もし、煩悩の滅尽者を得るなら、ということで、これは、善なることである。もし、得ないなら、不還たる者と一来たる者と預流たる者と瞑想の得者たる凡夫と三ピタカ(三蔵)の保持者と二ピタカの保持者と一ピタカの保持者たちのなかで、〔できるだけ〕前の者、前の者の現前において、〔心を定める行為の拠点が収め取られるべきである〕。一ピタカの保持者でさえも存していないときは、その者に、たとえ、〔ディーガ・ニカーヤ等の〕一〔ニカーヤ〕の合誦でも、アッタカター(注釈書)を含めて、熟練するところとしてあり、かつまた、自ら、恥〔の思い〕ある者として、〔その者が〕有るなら、彼の現前において、〔心を定める行為の拠点が〕収め取られるべきである。まさに、このような形態の経典保持者は、伝統の守護者であり、教統の警護者であり、師匠であり、まさしく、師匠の思慧ある者として有り、自己の思慧ある者(我流の師匠)として有ることはない。それでこそ、過去の長老たちは、「恥〔の思い〕ある者は、〔教えを〕守るであろう。恥〔の思い〕ある者は、〔教えを〕守るであろう」と、三回、言った。

 

§65  そして、ここにおいて、前に説かれた煩悩の滅尽者等々は、まさしく、自己によって到達した道を告げ知らせる。また、多聞の者は、それぞれの師匠に近づいて行って、諸々の収取と遍問についての〔疑惑を〕清めたことから、こちらからも、あちらからも、あるいは、経を、あるいは、〔その〕契機となるものを、〔あるがままに〕省察して、正当なるものと不当なるものを勘案して、茂みある箇所を赴く巨象のように、大いなる道を見示しながら、〔心を定める〕行為の拠点を言説するであろう。それゆえに、このような形態の〔心を定める〕行為の拠点を与えてくれる善き朋友に近づいて行って、彼のために、〔弟子としての〕種々なる行持を為して、〔心を定める〕行為の拠点が収め取られるべきである。

 

§66  また、それで、もし、この者を、まさしく、一つの精舎(同一の精舎)において、得るなら、ということで、これは、善なることである。もし、得ないなら、すなわち、彼が住するところ──そこに赴くべきである。そして、〔そこに〕赴くとして、洗い清められ〔油が〕塗布された〔両の〕足に履物を履いて、傘蓋を収め取って、油筒と蜜や糖等々を収め取らせて(他の者に持たせて)、内弟子たちに取り囲まれた者と〔成り〕、赴くべきではない。いっぽう、訪問者の行持を満たして、自己の鉢と衣料を、まさしく、自ら、収め取って、道の途中における、その〔精舎〕その精舎に入り、一切所において、種々なる行持を為しながら、軽素な必需品の者と〔成り〕、最高の謹厳の生活者と成って、赴くべきである。〔目的とする〕その精舎に入りつつあるとして、まさしく、道の途中で、楊枝の工面を為させて、〔それを〕収め取って、入るべきである(楊枝は自分で用意する)。さらに、「寸時のあいだ〔身体を〕休ませて、足を洗い清めることや〔油を〕塗布すること等々を為して〔そののち〕、師匠の現前に赴くのだ」と、他の僧房に入るべきではない。

 

§67  何ゆえにか。なぜなら、それで、もし、そこに、その師匠と相違する(反目する)比丘たちが有るなら、彼らは、到来の動機を尋ねて、師匠の栄誉ならざることを明示して(誹謗中傷して)、「〔あなたは〕滅びの者として存する──それで、もし、〔あなたが〕彼の現前に【100】至り着いたなら」と、後悔〔の思い〕を生起させることになるからである──それによって、まさしく、その〔精舎〕から、退去させるべく。それゆえに、師匠の住する場を尋ねて、真っすぐに、まさしく、そこに赴くべきである。

 

§68  それで、もし、師匠が、〔自己よりも〕年少の者として有るなら、〔師匠による〕鉢と衣料の納受等々は、受けるべきではない(遠慮するべきである)。それで、もし、〔自己よりも〕年長の者として有るなら、赴いて、師匠を敬拝して、立つべきである。「友よ、鉢と衣料を置いてください」と説かれたなら、〔鉢と衣料が〕置かれるべきである。「飲み物を飲んでください」と説かれたなら、それで、もし、〔身体が〕求めるなら、〔飲み物が〕飲まれるべきである。「〔両の〕足を洗い清めてください」と説かれたなら、それだけでは、〔両の〕足は洗い清められるべきではない。なぜなら、それで、もし、〔その〕水が、師匠によって運ばれたものとして有るなら、〔使用に〕適切なるものとして存さないからである。いっぽう、「友よ、洗い清めてください。わたしによって運ばれたものではありません。他の者たちによって運ばれたものです」と説かれたなら、すなわち、師匠が見ない──あるいは、隠蔽された空間において、あるいは、また、精舎の野外において──このような形態のところにおいて、一方に坐って、〔両の〕足が洗い清められるべきである。

 

§69  それで、もし、師匠が、油筒を運び来るなら、立ち上がって、両の手で、恭しく収め取られるべきである。なぜなら、それで、もし、収め取らないなら、「この比丘は、まさしく、これから以降は、共同の受益を乱す」と、師匠にとって〔思うところとは〕他なるものと成るであろうからである(誤解を生むことになる)。また、〔油筒を〕収め取って、まさしく、最初から、〔両の〕足が塗布されるべきではない。なぜなら、それで、もし、それが、師匠の五体に塗る油として有るなら、〔使用に〕適切なるものとして存さないからである。それゆえに、最初に、頭に塗布して、肩等々が塗布されるべきである。いっぽう、「全てのものを維持するための油です。友よ、これを、〔両の〕足にもまた、塗布しなさい」と説かれたなら、僅かを頭に為して、〔両の〕足を塗布して、「尊き方よ、この油筒を、〔わたしは〕据え置きます」と説いて、師匠が収め取るとき、〔油筒は〕与えられるべきである(手渡されるべきである)。

 

§70  到来した日から早々に、「尊き方よ、〔心を定める〕行為の拠点を、わたしに言説してください」と、このように説かれるべきではない。いっぽう、次の日から以降に、それで、もし、師匠に、元来の奉仕者(世話係)が存するなら、彼に乞うて、〔師匠にたいする〕行持が為されるべきである。それで、もし、たとえ、乞われた者(元来の奉仕者)が許さないとして、まさしく、機会が得られたときに為されるべきである。そして、〔行持を〕為しているなら、〔朝の洗面に際しては〕小中大の三つの楊枝が差し出されるべきである。冷たいもの、温かいもの、という、二種類のものが、そして、顔を洗い清める水として、さらに、沐浴の水として、設えられるべきである。そののち、すなわち、師匠が、三日のあいだ遍く受益する、まさしく、そのような〔楊枝や水〕が、常に差し出されるべきである。〔大きさや温度の細かい〕決定を為さずして、あるいは、それであるなら、あるいは、それを、〔というように、不作為に〕遍く受益している者には、得られたとおりのものが差し出されるべきである。

 

§71  どうして、多くに説かれたのか。すなわち、それが、世尊によって〔説かれた〕、「比丘たちよ、内弟子によって、師匠にたいし、【101】〔弟子としての行持が〕正しく行持されるべきです(為すべきことが為されるべきである)。そこで、これが、正しく行持することとなります。ごく早朝に起きて、〔両の〕履物を脱いで、一つの肩に上衣を掛けて、〔師匠に〕楊枝が与えられるべきです(手渡されるべきである)。顔〔を洗い清める〕水が与えられるべきです。坐所が設けられるべきです。それで、もし、粥が有るなら、器を洗い清めて、粥が差し出されるべきです」(ヴィナヤ2p.231)という〔言葉〕等の、〔律における〕章立てのなかで制定された正しい行持であるなら、それは、全てもろともに為されるべきである。

 

§72  このように、行持の得達によって、導師を喜ばせながら、夕方には〔師匠を〕敬拝して、「行きなさい」と送り出されたなら、去り行くべきである(退室するべきである)。すなわち、彼(師匠)が、「何のために、〔あなたは〕到来者として存しているのですか」と尋ねるとき、そのときに、到来の動機が言説されるべきである。また、それで、もし、彼が、まさしく、尋ねることなく、行持を受けるなら、あるいは、十日が、あるいは、半月が、過ぎ去ったなら、或る日、送り出されてもなお、去り行かずして、機会を作らせて、到来の動機が告げられるべきである。あるいは、時ならざる〔時〕に赴いて、「何を義(目的)に、〔あなたは〕到来者として存しているのですか」と尋ねられたなら、〔到来の動機が〕告げられるべきである。それで、もし、彼が、「まさしく、早朝に、やってきなさい」と説くなら、まさしく、早朝に、赴くべきである。

 

§73  また、それで、もし、彼(学人)に、その時刻において、あるいは、胆汁の病苦によって腹が遍く焼かれているなら(激痛で苦しむなら)、あるいは、〔腹中の〕火の弱まりから食べたものが朽ち行かないなら(消化不良に悩むなら)、あるいは、何であれ、他の病が〔彼を〕悩ますなら、それを事実のとおりに明らかと為して(そのとおりに申告して)、自己に正当な時刻を告げて、その時刻において、近づいて行くべきである。なぜなら、不当な時刻においては、たとえ、〔心を定める〕行為の拠点が説かれていても、意を為すことができずに有るからである。ということで──

 ここにおいて、これが、「〔心を定める〕行為の拠点を与えてくれる善き朋友に近づいて行って」という〔言葉〕の詳細となる。

 

43.

 

 (三)自己の性行に随順するもの

 

§74  今や、「自己の性行に随順するものとして」(§28)とは、ここにおいて、「性行」とは、(1)貪欲()の性行、(2)憤怒()の性行、(3)迷妄()の性行、(4)信の性行、(5)覚の性行、(6)思考の性行、という、六つの性行のこと。また、或る者たちは、「貪欲等々の交わりの配列を所以に、他のまた四つ〔の性行〕(貪欲にして憤怒の性行・貪欲にして迷妄の性行・憤怒にして迷妄の性行・貪欲にして憤怒にして迷妄の性行)があり、そのように、信等々の〔交わりの配列を所以に、他のまた四つの性行(信にして覚の性行・信にして思考の性行等々)がある〕」と、これらの八つ〔の性行〕と共に、〔合わせて〕十四〔の性行〕を求める(主張し承認する)。いっぽう、このように細別が説かれるなら、貪欲等々の交わりを、信等々によってもまた為して、〔結果として〕無数の性行が有ることになる(六項目を対象に組み合わせを考えると、収拾がつかなくなる)。それゆえに、簡略〔の観点〕によって、六つの性行だけが知られるべきである。「性行」「性向」「増長性(何らかの性質が他の性質よりも増大し優勢であること)」とは、義(意味)〔の観点〕から、一つとなる(同一概念である)。それら〔の六つの性行〕を所以に、【102】(1)貪欲の行ないの者、(2)憤怒の行ないの者、(3)迷妄の行ないの者、(4)信の行ないの者、(5)覚の行ないの者、(6)思考の行ないの者、という、まさしく、六者の人が〔世に〕有る。

 

§75  そこにおいて、すなわち、〔信は〕貪欲に近い徳(性質)あることから、貪欲の行ないの者のばあい、善なる〔心〕の転起の時点において、信は、力あるものと成り──まさに、すなわち、善ならざる〔心〕の側において、貪欲が、円滑で、極めて粗野ならざるように、このように、善なる〔心〕の側において、信は、〔円滑で、極めて粗野ならざるものと成り〕──すなわち、貪欲が、諸々の事物を欲望〔の対象〕として遍く探し求めるように(貪りの対象を近づけようとするように)、このように、信は、戒等の諸徳を〔遍く探し求め〕──すなわち、貪欲が、益なきものを完全に捨て去ることがないように、このように、信は、益あるものを完全に捨て去ることがなく──〔以上の〕ことから、それゆえに、貪欲の行ないの者にとって、信の行ないの者は、部分を共にする者(共通点を有する者)となる。

 

§76  また、すなわち、〔智慧は〕憤怒に近い徳(性質)あることから、憤怒の行ないの者のばあい、善なる〔心〕の転起の時点において、智慧は、力あるものと成り──まさに、すなわち、善ならざる〔心〕の側において、憤怒が、愛執〔の思い〕なく、対象に執着しないように(怒りの対象を遠ざけようとするように)、このように、善なる〔心〕の側において、智慧は、〔愛執の思いなく、対象に執着することがなく〕──さらに、すなわち、憤怒が、まさしく、事実ならざる汚点(不実の過失)でさえも遍く探し求めるように、このように、智慧は、まさしく、事実の汚点を遍く探し求め──すなわち、憤怒が、有情を遍く避ける行相によって転起するように、このように、智慧は、形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)を遍く避ける行相によって〔転起し〕──〔以上の〕ことから、それゆえに、憤怒の行ないの者にとって、覚の行ないの者は、部分を共にする者(共通点を有する者)となる。

 

§77  また、すなわち、〔思考は〕迷妄に近い特相あることから、迷妄の行ないの者のばあい、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために努力しているとして、多くのところは、障りを為す諸々の思考が生起し──まさに、すなわち、迷妄が、遍き混乱あることから、定めなきものと〔成る〕ように、このように、思考は、種々なる流儀の思考あることから、〔定めなきものと成り〕──さらに、すなわち、迷妄が、遍き沈潜なきことから、動揺あるものと〔成る〕ように、そのように、思考は、軽薄なる遍き分別あることから、〔動揺あるものと成り〕──〔以上の〕ことから、それゆえに、迷妄の行ないの者にとって、思考の行ないの者は、部分を共にする者(共通点を有する者)となる、と〔知られるべきである〕。

 

§78  他の者たちは、渇愛()と思量()と見解()を所以に、他のまた三つの性行を説く。そこにおいて、渇愛は、まさしく、貪欲であり、さらに、思量も、それ(貪欲)と結び付いたものである、ということで、その両者は、貪欲の性行を超越しない(同列のものである)。さらに、見解のばあい、迷妄を縁とすることから、見解の性行は、まさしく、迷妄の性行に従起する。

 

44.

 

§79  また、「〔まさに〕その、これらの性行は、(1)何を因縁とするのか。(2)そして、どのように知られるべきであるのか。『この人は、貪欲の行ないの者である』『この人は、憤怒等々における或る何かの行ないの者である』と。(3)どのような行ないの人にとって、何が正当であるのか」と〔問うなら、以下のように答える〕。

 

§80  (1)そこで、「まずは、前の三つの性行(貪欲の性行・憤怒の性行・迷妄の性行)は、過去(過去世)に習行したものを因縁とし、さらに、界域と汚点を因縁とする」と、一部の者たちは説く。伝えるところでは、過去において、好ましいものへの専念と浄美なるものへの行為()多き者は、貪欲の行ないの者と成り、あるいは、天上から死滅して、ここ(現世)に再生した者も〔貪欲の行ないの者と成り〕、過去において、切断や殴打や結縛や怨念の行為多き者は、憤怒の行ないの者と成り、あるいは、地獄か龍の胎から死滅して、ここに再生した者も〔憤怒の行ないの者と成り〕、【103】過去において、飲酒多き者は、さらに、所聞と遍問の捨棄ある者は、迷妄の行ないの者と成り、あるいは、畜生の胎から死滅して、ここに再生した者も〔迷妄の行ないの者と成る〕、ということで、このように、「過去に習行したものを因縁とする」と、〔一部の者たちは〕説く。

 

§81  また、そして、地の界域の、さらに、水の界域の、〔これらの〕二つの界域が増長したことから(地と水の性質が強く働くことで)、人は、迷妄の行ないの者と成り、他の二つ〔の界域〕が増長したことから(火と風の性質が強く働くことで)、憤怒の行ないの者と〔成り〕、また、全て〔の界域〕の平等なることから(地と水と火と風が平均して働くことで)、貪欲の行ないの者と〔成る〕、ということで──さらに、諸々の汚点(病苦を生む要素)のなかで、痰の増上ある者は、貪欲の行ないの者と成り、風(体調不良を引き起こす体内の風)の増上ある者は、迷妄の行ないの者と〔成り〕、あるいは、痰の増上ある者は、迷妄の行ないの者と〔成り〕、あるいは、風の増上ある者は、貪欲の行ないの者と〔成る〕、ということで──このように、「界域と汚点を因縁とする」と、〔一部の者たちは〕説く。

 

§82  そこにおいて、すなわち、過去において、好ましいものへの専念と浄美なるものへの行為多き者たちもまた、さらに、天上から死滅して、ここ(現世)に再生した者たちもまた、全ての者たちが、まさしく、貪欲の行ないの者たちと成るのではなく、あるいは、他の者たちは、憤怒や迷妄の行ないの者たちと〔成り〕、かつまた、このように、〔地と水と火と風の四つの〕界域のばあいも、まさしく、〔前に〕説かれたとおりの方法による増長の決定(優勢な性質を形成し確定すること)は、まさに、存在せず(Ch.14§43)、さらに、汚点の決定(病苦を生む要素に起因する性質形成)についても、貪欲と迷妄の二つだけが説かれ、そして、それもまた、まさしく、前後矛盾するものであり、さらに、信の性行等々については、一つの因縁でさえも、まさしく、説かれなかったことから、それゆえに、この一切は、限定されざる〔不確定の〕言葉である。

 

§83  また、ここにおいて、これが、アッタカター(注釈書)の師匠たちの認証するところに従い行くことで、〔真の〕判別となる。まさに、このことが、増長についての叙述において説かれた。「これらの有情たちは、過去〔に作られた〕因の決定によって、〔或る者たちは〕貪欲の増長ある者(貪欲の性行が強い者)たちと〔成り〕、〔或る者たちは〕憤怒の増長ある者たちと〔成り〕、〔或る者たちは〕迷妄の増長ある者たちと〔成り〕、〔或る者たちは〕貪欲なき〔あり方〕(無貪)の増長ある者たちと〔成り〕、〔或る者たちは〕憤怒なき〔あり方〕(無瞋)の増長ある者たちと〔成り〕、そして、〔或る者たちは〕迷妄なき〔あり方〕(無痴)の増長ある者たちと成る。まさに、彼にとって、行為に専業する瞬間(再生の業を作る瞬間)において、貪欲が力あるものと成り、貪欲なき〔あり方〕が弱く、憤怒なき〔あり方〕と迷妄なき〔あり方〕が力あるものと〔成り〕、憤怒と迷妄が弱いなら、彼のばあい、貪欲なき〔あり方〕が弱く、貪欲を完全に取り払うことができず、いっぽう、憤怒なき〔あり方〕と迷妄なき〔あり方〕が力あるものと〔成り〕、憤怒と迷妄を完全に取り払うことができる。それゆえに、彼は、その行為によって、与えられた結生〔の因縁〕を所以に発現した者として、貪る者と成り、安楽を戒(習慣)とする者(友誼ある者)と〔成り〕、忿激しない者と〔成り〕、智慧ある者と〔成り〕、金剛の如き知恵ある者と〔成る〕。

 

§84  また、彼にとって、行為に専業する瞬間において、貪欲と憤怒が力あるものと成り、貪欲なき〔あり方〕と憤怒なき〔あり方〕が弱く、かつまた、迷妄なき〔あり方〕が力あるものと〔成り〕、迷妄が弱いなら、彼は、まさしく、最初の方法によって、まさしく、そして、貪る者と成り、さらに、怒る者と〔成り〕、いっぽう、智慧ある者と成り、金剛の如き知恵ある者と〔成る〕──ダッターバヤ長老のように。彼にとって、行為に専業する瞬間において、貪欲と憤怒なき〔あり方〕と迷妄が力あるものと成り、諸他のものが弱いなら、彼は、まさしく、最初の方法によって、まさしく、そして、貪る者と成り、さらに、遅鈍なる者と〔成り〕、いっぽう、〔安楽を〕戒とする者(友誼ある者)と成り、忿激しない者と〔成る〕──バークラ長老のように。そのように、彼にとって、行為に専業する瞬間において、貪欲と憤怒と迷妄が、三つもろともに、力あるものと成り、貪欲なき〔あり方〕等々が弱いなら、彼は、まさしく、最初の方法によって、まさしく、そして、貪る者と成り、かつまた、怒る者と〔成り〕、さらに、迷う者と〔成る〕。

 

§85  【104】また、彼にとって、行為に専業する瞬間において、貪欲なき〔あり方〕と憤怒と迷妄が力あるものと成り、諸他のものが弱いなら、彼は、まさしく、最初の方法によって、貪らない者と〔成り〕、〔心の〕汚れ(煩悩)少なき者と成り、たとえ、〔浄美なる存在である〕天を〔認識の〕対象として見ても、動揺なき者と〔成り〕、いっぽう、怒る者と成り、さらに、遅鈍なる智慧の者と〔成る〕。彼にとって、行為に専業する瞬間において、貪欲なき〔あり方〕と憤怒なき〔あり方〕と迷妄が力あるものと成り、諸他のものが弱いなら、彼は、まさしく、最初の方法によって、まさしく、そして、貪らない者と成り、さらに、怒らない者と〔成り〕、〔安楽を〕戒とする者と〔成り〕、いっぽう、遅鈍なる者と成る。そのように、彼にとって、行為に専業する瞬間において、貪欲なき〔あり方〕と憤怒と迷妄なき〔あり方〕が力あるものと成り、諸他のものが弱いなら、彼は、まさしく、最初の方法によって、まさしく、そして、貪らない者と成り、さらに、智慧ある者と〔成り〕、いっぽう、怒る者と成り、忿激する者と〔成る〕。また、彼にとって、行為に専業する瞬間において、貪欲なき〔あり方〕と憤怒なき〔あり方〕と迷妄なき〔あり方〕が、三つもろともに、力あるものと成り、貪欲等々が弱いなら、彼は、まさしく、最初の方法によって、貪らない者と〔成り〕、怒らない者と〔成り〕、さらに、智慧ある者と成る──マハー・サンガラッキタ長老のように」と。

 

§86  そして、ここにおいて、すなわち、「貪る者」と説かれた者は、この者は、貪欲の行ないの者である。怒る者と遅鈍なる者は、憤怒〔の行ないの者〕と迷妄の行ないの者である。智慧ある者は、覚の行ないの者である。貪らない者と怒らない者は、浄信した性向あることから、信の行ないの者たちである。あるいは、すなわち、迷妄なき〔あり方〕に付属する行為によって発現した者が、覚の行ないの者であるように、このように、力ある信に付属する行為によって発現した者は、信の行ないの者であり、欲望や思考等に付属する行為によって発現した者は、思考の行ないの者であり、貪欲等の混合に付属する行為によって発現した者は、混合の行ないの者である。ということで、このように、貪欲等々のなかの何らかの或るものに付属し、結生を生じさせる行為が、〔六つの〕性行にとって、因縁となる、と知られるべきである。

 

45.

 

§87  (2)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「そして、どのように知られるべきであるのか。『この人は、貪欲の行ないの者である』〔云々〕」(§79)という〔言葉〕等であるが、そこで、これが、〔その〕方法となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(2―1)〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥)〔の観点〕から、(2―2)為すべきこと〔の観点〕から、(2―3)食べること〔の観点〕から、(2―4)見ること等〔の観点〕から、まさしく、そして、(2―5)法(性質)の転起〔の観点〕から、〔六つの〕性行を分明するべきである」と。

 

§88  (2―1)そこにおいて、「〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥)〔の観点〕から」とは、(2―1―1)まさに、貪欲の行ないの者は、〔生来の〕性向の赴き方(自然の歩調)で赴きつつ、典雅に赴く。〔彼は〕徐々に足を置く。等しく置き、等しく引き上げ、そして、彼の足跡は、うずくまったものと成る(中央が地に着いていない)。憤怒の行ないの者は、〔両の〕足の先端で〔地面を〕掘り崩しているかのように赴く。無理やり足を置き、無理やり〔足を〕引き上げ、そして、彼の足跡は、引きずられたものと成る。迷妄の行ないの者は、遍き混乱の赴き方で赴く。驚愕者のように足を置き、驚愕者のように〔足を〕引き上げる。【105】そして、彼の足跡は、無理やり押し付けられたものと成る。そして、このこともまた、『マーガンディヤ・スッタ』(スッタニパータ835-47)の生起〔についての釈示〕において説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、貪る者の足跡は、うずくまったものと成るであろう。怒る者の足跡は、引きずられたものと成る。迷う者の足跡は、無理やり押し付けられたものと〔成る〕。〔迷妄の〕覆いが開かれた方(ブッダ)の足跡は、これこのとおりのものと〔成る〕」(パラマッタ・ジョーティカーp.544)と。

 

§89  (2―1―2)立ち方もまた(※)、貪欲の行ないの者のばあい、〔見た目は〕澄浄で蜜のように甘美な行相と成る。憤怒の行ないの者のばあい、強情な行相と〔成る〕。迷妄の行ないの者のばあい、雑多な行相と〔成る〕。(2―1―3)坐り方もまた、まさしく、これが、〔共通する〕方法となる。(2―1―4)さらに、貪欲の行ないの者は、急ぐことなく、平坦に臥所を設けて、徐々に横になって手足と肢体を収めて、〔見た目は〕澄浄なる行相で臥す。そして、起こされつつあるなら、急に起きて、疑いあるかのように、徐々に返事の言葉を与える。憤怒の行ないの者は、急ぎながら、いかようにも、かくようにも、臥所を設けて、身体を置き、渋面を為して臥す。そして、起こされつつあるなら、急に起きて、怒っているかのように、返事の言葉を与える。迷妄の行ないの者は、外貌悪く臥所を設けて、身体を投げ出し、多くは、顔を下にして臥す。そして、起こされつつあるなら、フンと為すこと(不平を言うこと)を為しつつ、遅く起きる。

 

※ テキストには Mānampi とあるが、VRI版により hānampi と読む。

 

§90  また、信の行ないの者等々は、すなわち、貪欲の行ないの者等々と部分を共にすることから(§75-7)、それゆえに、彼らのばあいもまた、まさしく、そのようなものとして、振る舞いの道(行住坐臥のあり方)は有る。ということで、まずは、このように、振る舞いの道〔の観点〕から、〔六つの〕性行を分明するべきである。

 

§91  (2―2)「為すべきこと〔の観点〕から」とは、そして、掃除等々の為すべきことにおいて、貪欲の行ないの者は、善くしっかりと帚を掴んで、急ぐことなく、砂をまき散らさずに、シンドゥヴァーラの花を広げるかのように、〔丁寧に〕広げながら、清浄で平坦に掃き清める。憤怒の行ないの者は、荒々しく帚を掴んで、〔常に〕急ぎの様子で、両側から砂を巻き上げつつ、粗野な音で、清浄ならず平坦ならずに掃き清める。迷妄の行ないの者は、緩慢に帚を掴んでごろごろさせ、散らかしながら、清浄ならず平坦ならずに掃き清める。

 

§92  さらに、すなわち、掃除についてのように、このように、衣料を洗い清めることや染めること等々の一切の為すべきことについてもまたある(同様である)。精緻で蜜のように甘美で均等で恭しく為す者が、貪欲の行ないの者である。荒々しく強情で均等ならずに為す者が、憤怒の行ないの者である。精緻ならず混乱して均等ならず限定せずに為す者が(※)、【106】迷妄の行ないの者である。そして、衣料の保持(着こなし)もまた、貪欲の行ないの者のばあい、極めて荒々しくもなく極めて緩慢でもなく澄浄で遍き円成のものと成る。憤怒の行ないの者のばあい、極めて荒々しく遍き円成ならざるものと〔成る〕。迷妄の行ないの者のばあい、緩慢で遍き混乱のものと〔成る〕。信の行ないの者等々は、〔貪欲の行ないの者等々と〕その部分を共にすることから、まさしく、それら〔の貪欲の行ないの者等々〕に従い行くことで(その流儀を参照することで)、知られるべきである。ということで、このように、為すべきこと〔の観点〕から、〔六つの〕性行を分明するべきである。

 

※ テキストには Anipuabyākulavisamāparicchinnakāre とあるが、VRI版により Anipuabyākulavisamāparicchinnakārī と読む。

 

§93  (2―3)「食べること〔の観点〕から」とは、貪欲の行ないの者は、滑らかで蜜のように甘美な食料を愛好する者として有り、そして、食べつつあるなら、大き過ぎることのない完円のものを一口と為して、種々なる味の得知者として、急ぐことなく食べる。そして、まさしく、幾許かの美味なるものを得ては、悦意を起こす。憤怒の行ないの者は、粗野で酸っぱい食料を愛好する者として有り、そして、食べつつあるなら、口に満ち溢れるものを一口と為して、味の得知者となることなく、急ぎながら食べる。そして、まさしく、幾許かの美味ならざるものを得ては、失意を起こす。迷妄の行ないの者は、決まった好みなき者として有り、そして、食べつつあるなら、完円ならざる小さなものを一口と為して、〔食べ残しを〕器に捨て放ちながら〔咀嚼物で〕口を塗りたくり、散乱した心の者となり、あれやこれや思い考えつつ食べる。信の行ないの者等々もまた、〔貪欲の行ないの者等々と〕その部分を共にすることから、まさしく、それら〔の貪欲の行ないの者等々〕に従い行くことで、知られるべきである。ということで、このように、食べること〔の観点〕から、〔六つの〕性行を分明するべきである。

 

§94  (2―4)「見ること等〔の観点〕から」とは、貪欲の行ないの者は、たとえ、僅かでも、意が喜びとする形態()を見て、驚きが生じた者のようになり、長きにわたり眺め見る。たとえ、小さくとも、〔自他の〕徳について執着し、たとえ、事実でも、〔自他の〕汚点を収め取ることはない(短所を認めない)。たとえ、立ち去りつつあるも、まさしく、解き放たれることを欲さない者(別れを惜しむ者)と成って、〔再会の〕期待を有する者として、立ち去る。憤怒の行ないの者は、たとえ、僅かでも、意が喜びとしない形態を見て、疲れた様子ある者のようになり、長きにわたり眺め見ることがない。たとえ、小さくとも、〔自他の〕汚点について打ちのめされ、たとえ、事実でも、〔自他の〕徳を収め取ることはない(長所を認めない)。たとえ、立ち去りつつあるも、まさしく、解き放たれることを欲する者(別れを望む者)と成って、〔再会の〕期待なき者として、立ち去る。迷妄の行ないの者は、それが何であれ、形態を見て、他者〔の所見〕を縁とする者(他者の意見に左右される者)と成る。他者が非難しているのを聞いて、〔自分も〕非難し、賞賛しているのを聞いて、〔自分も〕賞賛する。いっぽう、自らは、無知なる放捨(無関心)によって、まさしく、放捨の者と成る。音声()を聞くこと等々についてもまた、これが、〔共通する〕方法となる。また、信の行ないの者等々は、〔貪欲の行ないの者等々と〕その部分を共にすることから、まさしく、それら〔の貪欲の行ないの者等々〕に従い行くことで、知られるべきである。ということで、このように、見ること等〔の観点〕から、〔六つの〕性行を分明するべきである。

 

§95  (2―5)「まさしく、そして、法(性質)の転起〔の観点〕から」とは、そして、貪欲の行ないの者には、「幻惑、狡猾、思量、悪しき欲求たること、大欲なること、満ち足りていないこと、悪賢さ、軽薄さ」という、このような〔あり方〕等々の諸法(性質)が、多く転起する。【107】憤怒の行ないの者には、「忿激、怨恨、偽装、加虐、嫉妬、物惜」という、このような〔あり方〕等々〔の諸法〕が、〔多く転起する〕。迷妄の行ないの者には、「沈滞、眠気、高揚、悔恨、疑惑、執取を収め取ること(妄執)、放棄し難きこと(固執)」という、このような〔あり方〕等々〔の諸法〕が、〔多く転起する〕。信の行ないの者には、「解き放たれた施捨たること(物惜せずに分け与えること)、聖者たちと会見することを欲すること、正なる法(教え)を聞くことを欲すること、歓喜多きこと、狡猾なくあること、幻惑なくあること、諸々の浄信するべき状況における浄信」という、このような〔あり方〕等々〔の諸法〕が、〔多く転起する〕。覚の行ないの者には、「素直であること、善き朋友あること、食において量を知る者たること、気づきと正知、〔眠らずに〕起きていることへの専念、諸々の畏怖するべき状況における畏怖〔の思い〕、さらに、畏怖する者の根源からの〔正しい〕精励」という、このような〔あり方〕等々〔の諸法〕が、〔多く転起する〕。思考の行ないの者には、「談義多きこと、衆を喜ぶこと、善なることへの専念における不満、定めなき〔心の〕作用たること、夜に煙を出し昼に燃え盛ること(夜に計画を立て昼に実行すること)、あの〔世〕からあの〔世〕へと走り行くこと」という、このような〔あり方〕等々の諸法(性質)が、多く転起する。ということで、このように、法(性質)の転起〔の観点〕から、〔六つの〕性行を分明するべきである。

 

§96  また、すなわち、この性行を分明する規定は、一切の行相によって、まさしく、聖典において〔言及されたことは〕なく、アッタカター(注釈書)において言及されたこともなく、単に、師匠たちの認証するところに従い行くことで説かれたことから、それゆえに、真髄〔の観点〕から信受されるべきではない。なぜなら、貪欲の行ないの者の〔性行として、前に〕説かれた〔四つの〕振る舞いの道等々を、憤怒の行ないの者等々もまた、不放逸の住者たちと〔成るなら〕、為すことができるからである。さらに、まさしく、一者の人でありながら、〔貪欲等々の性行が〕交わり合った行ないの者のばあい、諸々の細別された特相としての振る舞いの道等々が成就することはない。また、すなわち、諸々のアッタカターにおいて、性行を分明する規定と説かれた、このことが、それこそが、真髄〔の観点〕から信受されるべきである。まさに、このことが説かれた。「〔他者の〕心を探知する知恵の得者である師匠は、〔内弟子の〕性行を知って、〔心を定める〕行為の拠点を言説するであろう。〔得者ならざる〕他〔の師匠〕は、内弟子に〔その性行を〕尋ねるべきである」と。それゆえに、あるいは、〔他者の〕心を探知する知恵によって、あるいは、その人に尋ねて、〔その性行が〕知られるべきである。「この人は、貪欲の行ないの者である」「この者は、憤怒等々における或る何かの行ないの者である」と。

 

46.

 

§97  (3)また、「どのような行ないの人にとって、何が正当であるのか」(§79)とは、ここにおいて、(3―1)まずは、貪欲の行ないの者にとって、臥坐所は、洗い清められていない〔不潔な〕手すりがあって地面に〔そのまま〕立つもの──〔人の手で〕作られたものではない洞窟か草小屋か草庵等々のなかのどれか一つ──塵が振り積もり、蝙蝠に満ち、破損し損壊し、あるいは、高過ぎ、あるいは、低過ぎ、〔周囲が〕寂寞として、〔猛獣に襲われる〕危惧を有し、不浄で、道が平坦ならざるもの──【108】そこにおいては、臥床と椅子さえも虱に満ち、形悪く、色艶悪きところ──すなわち、まさしく、眺め見ている者に忌避〔の思い〕が生起するもの──そのような〔臥坐所〕が正当である。着るものや被るものは、端が切断され、ほつれた糸が飛び出ては垂れ下がり、網菓子に等しきもので、麻のように粗野な感触で、汚れ、重く、持ち運ぶのに難渋するものが正当である。鉢もまた、色悪く、あるいは、楔もあり節もある損なわれた土の鉢で、あるいは、重くて外貌の悪い鉄の鉢で、頭蓋骨のように忌避されるものが順当である。行乞の歩みの道もまた、意に適わず、村に近からず、平坦ならざるものが順当である。行乞の歩みの村もまた、そこにおいては、〔彼のことを〕見ないでいるかのように人間たちが歩むところ(行乞者を無視する村)──そこにおいては、一つの家でさえも、行乞〔の食〕を得ずして、〔村を〕出つつある〔比丘〕を、「尊き方よ、来たれ」と、坐堂(共用の食堂)に導き入れて、粥や食を与えて去り行く者たちが、雌牛たちを牛舎に導き入れて〔顧みない〕ように、〔比丘を〕顧みずに去り行くところ──そのような〔村〕が順当である。給仕する人間たちもまた、あるいは、奴隷たち、あるいは、労夫たち──色艶悪く、見てくれ悪く、汚れた衣で、悪臭をはなち、忌避される者たち──すなわち、心作なしで粥や食を、捨て放っているかのように給仕する者たち──そのような者たちが正当である。粥や食や固形の食料もまた、粗野で、色艶悪く、粟や稗や屑米等で作られるもの、腐った酪、酸えた粥、古くなった野菜汁──まさしく、それが何であれ、単に腹が満ちるのみのものが順当である。振る舞いの道(行住坐臥のあり方)もまた、彼にとっては、あるいは、立つことが〔順当であり〕、あるいは、歩行することが順当である。〔心を定める行為の拠点としての〕対象(所縁)は、青等々の色の遍満(色一切入・色遍:特定の色の相を瞑想対象として、あらゆる認識対象に遍満させる瞑想方法)のうち、それが何であれ、完全なる清浄ならざる〔不浄の〕色が〔順当である〕。ということで、貪欲の行ないの者にとって、これが正当である。

 

§98  (3―2)憤怒の行ないの者にとって、臥坐所は、高過ぎず、低過ぎず、〔日の〕影と水〔の便〕が満たされ、美しく区分された壁と柱と梯子があり、完全無欠に加工された飾り細工や蔓細工があり、種々なる種類の絵画の輝きを有するもので、平坦で滑らかで柔らかな地面があり、梵〔天〕の宮殿のように花環や種々様々な色の布の天蓋で十二分に作り為され、善く設けられた清らかで意が喜びとする敷物の臥床や椅子があり、そこかしこにおいて、芳香を義(目的)として置かれた花の芳しい香りや美しい香りがあり、すなわち、ただ見るだけで喜悦と歓喜を生じさせるもの──このような形態のものが正当である。

 

§99  また、その臥坐所への道もまた、一切の危難から解放され、清らかで、平坦な面の、十分に作り為され整備されたものこそが【109】順当である。ここにおいて、臥坐所の必需品(備品)もまた、蠍や虱や長いものの類(蛇)や鼠たちの依所を限定する(遮断する)ことを義(目的)に、多過ぎることなく、ただ一つの臥床と椅子だけが順当である。着るものや被るものもまた、彼にとっては、チーナ布やソーマーラ布や絹や木綿や繊細な麻布等々のなかで、そのもの、そのものが、精妙なるものであるなら、そのもの、そのものによる、あるいは、一つの布で、あるいは、二つの布で、軽素のものが、沙門に適切なる〔方法〕によって善く染められ、清浄の色あるものが順当である。鉢は、水泡のように美しい外貌をしたもので、宝珠のように美しく磨かれた無垢のもの、沙門に適切なる〔方法〕による完全無欠の清浄の色あるもので、鉄で作られるものが順当である。行乞の歩みの道は、危難から解放され、平坦で、意に適い、村に遠過ぎず近過ぎないものが順当である。行乞の歩みの村もまた、そこにおいては、人間たちが、「今や、尊貴なる方がやってくるであろう」と、〔水が〕注がれ掃き清められた地域に坐を設けて出迎えて、鉢を取って家屋に導き入れて、設けられた坐に坐らせて、恭しく自らの手で給仕するところ──そのような〔村〕が順当である。

 

§100  また、給仕者たちも、彼にとっては、すなわち、形姿麗しく、澄浄で、善く沐浴し、善く塗油し、煙香や花香で芳しく、種々に染められ清らかで快意な衣をまとい、装飾品で装われ、恭しく為す者たちとして有るなら、そのような〔給仕者〕たちが正当である。粥や食や固形の食料もまた、色艶や臭気や味感が満たされ、滋養があり、意が喜びとする、一切の行相において精妙なるもので、それを義(目的)とするかぎりのものが順当である。振る舞いの道もまた、彼にとっては、あるいは、臥すことが〔順当であり〕、あるいは、坐ることが順当である。〔心を定める行為の拠点としての〕対象は、青等々の色の遍満のうち、それが何であれ、完全無欠の清浄の色が〔順当である〕。ということで、憤怒の行ないの者にとって、これが正当である。

 

§101  (3―3)迷妄の行ないの者にとって、臥坐所は、〔四〕方に面し、隔てなく、そこにおいては、坐った者にとって、〔四〕方が開かれ、覚知されるなら、順当である。諸々の振る舞いの道のなかでは、歩行することが順当である。また、〔心を定める行為の拠点としての〕対象も、彼にとっては、微小なるものは、箕ほどのものも、あるいは、台皿ほどのものも、小さなものは順当ではなく──なぜなら、隔てある空間のなかで、心は、より一層、迷妄を惹起するからである──それゆえに、広大なるものである、大いなる遍満が順当である。残りのものは、まさしく、憤怒の行ないの者のために〔前に〕説かれた〔規定〕に等しきものとなる(憤怒の行ないの者と同様である)。ということで、迷妄の行ないの者にとって、これが正当である。

 

§102  (3―4)信の行ないの者にとっては、全てもろともに、憤怒の行ないの者について〔前に〕説かれた規定が正当である。さらに、彼のばあい、諸々の〔瞑想の〕対象のなかでは、〔心を定める行為の〕拠点として〔六つの〕随念もまた順当である。

 (3―5)覚の行ないの者にとって、臥坐所等々については、「これは、まさに、不当である」という、〔そのようなものは〕存在しない。

 (3―6)思考の行ないの者にとって、臥坐所は、〔四方が〕開かれ、〔四〕方に面し、そこにおいては、【110】坐った者にとって、喜ばしき林園や林や蓮池が〔覚知され〕、次第次第に村や町や地方が〔覚知され〕、さらに、青く光る山々が覚知されるなら、その〔臥坐所〕は順当ではなく──なぜなら、その〔臥坐所〕は、まさしく、思考が走り回ることにとって、縁と成るからである(美しい景色に思いが行き、瞑想の邪魔になる)──それゆえに、深遠〔の地〕にあり、洞窟の入口が林に覆われた、ハッティクッチ山窟やマヒンダ洞窟に等しき臥坐所に住するべきである。〔心を定める行為の拠点としての〕対象もまた、彼にとって、広大なるものは順当ではなく──なぜなら、そのようなものは、思考を所以に、〔心が〕流転することにとって、縁と成るからである──いっぽう、微小なるものが順当である。残りのものは、まさしく、貪欲の行ないの者のために〔前に〕説かれた〔規定〕に等しきものとなる(貪欲の行ないの者と同様である)。ということで、思考の行ないの者にとって、これが正当である。

 「自己の性行に随順するものとして」(§28)とは、ここにおいて、これが、〔前に〕言及された〔六つの〕性行の細別と因縁と分明と正当なるものを限定することから、〔その〕詳細となる。

 

§103  しかしながら、それだけで、〔自己の〕性行に随順するものとしての〔心を定める〕行為の拠点は、一切の行相によって明らかと為されたのではない(解説不足である)。まさに、それは、〔この〕直後の、項目の句の詳細において、まさしく、自ずと、明らかと成るであろう。

 

47.

 

 それゆえに、すなわち、〔前に〕説かれた、「四十の〔心を定める〕行為の拠点のうち、どれか一つの〔心を定める〕行為の拠点を収め取って」(§28)とは、ここにおいて、(1)名称の釈示〔の観点〕から、(2)〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕と〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕をもたらすもの〔の観点〕から、(3)瞑想の細別〔の観点〕から、(4)超越〔の観点〕から、(5)増大と不増〔の観点〕から、(6)対象〔の観点〕から、(7)境地〔の観点〕から、(8)収め取ること〔の観点〕から、(9)縁〔の観点〕から、(10)性行に随順するもの〔の観点〕から、という、まずは、これらの十の行相によって、〔心を定める〕行為の拠点の判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

 (四)四十の〔心を定める〕行為の拠点

 

§104  (1)そこにおいて、「名称の釈示〔の観点〕から」とは、まさに、「四十の〔心を定める〕行為の拠点のうち」と説かれたもののこと。そこで、(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)十の遍満(一切入・遍:特定の瞑想対象をあらゆる認識対象に遍満させる瞑想方法)、(11・12・13・14・15・16・17・18・19・20)十の浄美ならざるもの(不浄)、(21・22・23・24・25・26・27・28・29・30)十の随念、(31・32・33・34)四つの梵住(慈悲喜捨の四無量心)、(35・36・37・38)四つの形態なきもの(四無色界禅定)、(39)一つの表象、(40)一つの〔差異の〕定置、という、これらの四十の〔心を定める〕行為の拠点がある。

 

§105  そこにおいて、(1)地の遍満、(2)水の遍満、(3)火の遍満、(4)風の遍満、(5)青の遍満、(6)黄の遍満、(7)赤の遍満、(8)白の遍満、(9)光明の遍満、(10)限定された虚空の遍満、という、これらのものが、十の遍満である。(11)膨張したもの、(12)青黒くなったもの、(13)膿み爛れたもの、(14)切断されたもの、(15)喰い残されたもの、(16)散乱したもの、(17)打ち殺され散乱したもの、(18)血まみれのもの、(19)蛆虫まみれのもの、(20)骨となったもの、という、これらのものが、十の浄美ならざるものである。(21)覚者(:ブッダ)の随念、(22)法(:ダンマ)の随念、(23)僧団(:サンガ)の随念、(24)戒の随念、(25)施捨の随念、(26)天神たちの随念、(27)死の随念、(28)身体の在り方についての気づき(身至念)、(29)呼吸についての気づき(安般念)、(30)寂止の随念、という、これらのものが、十の随念である。【111】(31)慈愛〔の心〕()、(32)慈悲〔の心〕()、(33)歓喜〔の心〕()、(34)放捨〔の心〕()、という、これらのものが、四つの梵住である。(35)虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)、(36)識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)、(37)無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)、(38)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)、という、これらのものが、四つの形態なきものである。(39)食についての嫌悪の表象が、一つの表象である。(40)〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置が、一つの〔差異の〕定置である。ということで、このように、名称の釈示〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の〕判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

§106  (2)「〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕と〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕をもたらすもの〔の観点〕から」とは、そして、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)を、さらに、呼吸についての気づき(安般念:出息と入息についての気づき)を、〔両者を〕除いて、〔十の随念のなかの〕残りの八つの随念、食についての嫌悪の表象、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置、という、まさしく、これらの十の〔心を定める〕行為の拠点が、まさに、ここにおいて、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕をもたらすものとなり、残り〔の三十の心を定める行為の拠点〕が、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕をもたらすものとなる。ということで、このように、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕と〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕をもたらすもの〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

§107  (3)「瞑想の細別〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕をもたらす〔三十の心を定める行為の拠点〕のうち、呼吸についての気づきと共に、十の遍満が、〔第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想と第四の瞑想の〕四なる瞑想〔の全て〕に属するものと成る。身体の在り方についての気づきと共に、十の浄美ならざるものが、第一の瞑想(初禅・第一禅)〔だけ〕に属するものと成る。〔四つの梵住のうち〕前の三つの梵住(慈愛・慈悲・歓喜)が、〔第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想の〕三なる瞑想に属するものと〔成る〕。第四の梵住(放捨)が、さらに、四つの形態なきものが、第四の瞑想(第四禅)〔だけ〕に属するものと〔成る〕(※)。ということで、瞑想の細別〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

※ テキストには catukkajjhānikā とあるが、VRI版により catutthajjhānikā と読む。

 

§108  (4)「超越〔の観点〕から」とは、そして、(4―1)支分の超越があり、さらに、(4―2)対象の超越があり、〔これらの〕二つの超越がある。(4―1)そこにおいて、〔第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想の〕三なる〔瞑想に属する心を定める行為の拠点〕(慈愛・慈悲・歓喜)と〔第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想と第四の瞑想の〕四なる瞑想〔の全て〕に属する〔心を定める〕行為の拠点(呼吸についての気づき・十の遍満)においては、〔粗雑なる〕思考()や〔繊細なる〕想念()等々の諸々の瞑想の支分(禅支)を超越して、まさしく、それらの〔瞑想と同一の〕対象において、第二の瞑想等々が至り得られるべきであるから(同じものを瞑想対象としつつ、瞑想の各階梯において、各階梯における瞑想の支分を超越して、次の瞑想の階梯に至り得ることから)、全てもろともに、支分の超越が有る。そのように、第四の梵住(放捨)においてもある(同様である)。なぜなら、それ(第四の梵住)もまた、まさしく、慈愛等々の〔三つの瞑想と同一の〕対象において、悦意を超越して、至り得られるべきであるからである、と〔知られるべきである〕。(4―2)また、四つの形態なきものにおいては、対象の超越が有る。なぜなら、〔十の遍満のなかの〕前の九つの遍満のうち、どれか一つを超越して〔そののち〕、虚空無辺なる〔認識の〕場所が至り得られるべきであり、さらに、虚空〔無辺なる認識の場所〕等々を超越して〔そののち〕、識知無辺なる〔認識の〕場所等々が〔至り得られるべきである〕からである。残り〔の心を定める行為の拠点〕においては、超越は存在しない。ということで、このように、超越〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

§109  (5)「増大と不増〔の観点〕から」とは、これらの四十の〔心を定める〕行為の拠点のうちでは、十の遍満だけが増大させられるべきである。なぜなら、遍満によって空間を充満する、そのぶんだけ、その内部において、天耳の界域によって音声を聞くことが〔できる者と成り〕、天眼によって諸々の形態を見ることが〔できる者と成り〕、さらに、〔自らの〕心をとおして他の有情たちの心を了知することができる者と成るからである。

 

§110  いっぽう、身体の在り方についての気づきは、さらに、諸々の浄美ならざるものは、増大させられるべきではない。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「空間によって限定されていることから、さらに、福利の状態なきことから」〔と答える〕。そして、それらが空間によって限定されていることは、それは、修行方法〔の釈示〕において、明らかと成るであろう(Ch.8§83-138,Ch.6§40,41,79)。また、それらが増大させられたとして、【112】死骸の集積物だけが増大し、何であれ、福利は存在しない。そして、このこともまた、ソーパーカの問いへの説き明かしにおいて説かれた。「世尊よ、形態の表象(色想)は、明瞭です。骨の表象(骨想)は、明瞭ではありません」(典拠不詳)と。まさに、そこで、形相の増大を所以に、形態の表象は、「明瞭です」と説かれ、骨の表象は、不増を所以に、「明瞭ではありません」と説かれた。

 

§111  また、すなわち、「〔わたしは〕骨の表象によって、この地の全部を充満した」(テーラ・ガーター18)と、この〔言葉〕が説かれたが、それは、〔骨の表象の〕得者として存している者の、〔骨の表象の〕現起の行相を所以に説かれた。まさしく、まさに、すなわち、ダンマーソーカ(アショーカ王)の時に、カラヴィーカ鳥が、遍きにわたり、鏡ある壁のなかで自己の影像を見て、全ての方角にたいし、カラヴィーカ〔鳥〕の表象ある者と成って(仲間のカラヴィーカ鳥がいると勘違いして)、蜜のように甘美な鳴き声を放ったように、このように、長老もまた、骨の表象の得者(骨想観の成就者)たることから、全ての方角に現起した形相を見つつ、「地は、〔その〕全部でさえも、骨で充満している」と思い考えた、と〔知られるべきである〕。

 

§112  「もしくは、このように、すなわち、諸々の浄美ならざる〔表象〕の瞑想(不浄想)に無量なる対象あることが説かれたが、それは、〔増大させられるべきではない、という、うえの言葉と〕矛盾するのでは」と〔問うなら〕、「そして、それは矛盾しない」〔と答える〕。なぜなら、一部の者は、あるいは、膨張したものであれ、あるいは、骨となったものであれ、大いなるものにおいて形相を収め取り、一部の者は、小なるものにおいて〔形相を収め取る〕からである。この教相によって、「一部の者には、微小なる対象の瞑想が有り、一部の者には、無量なる対象〔の瞑想〕が〔有る〕」と〔説かれた〕。あるいは、すなわち、この〔浄美ならざる形相〕を増大させることに危険を見ずにいる者が〔形相を〕増大させるなら、彼に関して、「無量なる対象〔の瞑想〕が〔有る〕」と説かれた。いっぽう、〔浄美ならざる形相を増大させることには〕福利の状態なきことから、〔諸々の浄美ならざるものは〕増大させられるべきではない、と〔知られるべきである〕。

 

§113  さらに、すなわち、これら〔の浄美ならざる表象の瞑想〕のように、このように、残りのものもまた、増大させられるべきではない。何ゆえにか。なぜなら、それらのうち、まずは、呼吸の形相を増大させている者には、風の集積物だけが(※)増大し、かつまた、〔呼吸についての気づきは〕空間によって限定されているからである。ということで、危険を有することから、かつまた、空間によって限定されていることから、〔呼吸についての気づきは〕増大させられるべきではない。〔四つの〕梵住(慈悲喜捨の四無量心)は、有情を対象とするものであり、それらの形相を増大させている者には、有情の集積物だけが(※※)増大するであろう。そして、それによる義(利益)は存在しない。それゆえに、それらもまた、増大させられるべきではない(形相を増大させるのではなく、慈愛の思いこそが修められるべきである)。

 

※ テキストには vātarāsiye とあるが、VRI版により vātarāsiyeva と読む。

※※ テキストには sattarāsiye va とあるが、VRI版により sattarāsiyeva と読む。

 

§114  また、すなわち、〔経典において〕説かれた、「慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して」(ディーガ・ニカーヤ1p.250)という〔言葉〕等であるが、それは、まさしく、遍き収取(理解・把握)を所以に説かれた。なぜなら、一つの居住〔の有情〕、二つの居住〔の有情〕等の順番によって、一つの方角の有情たちを遍く収め取って、〔慈愛の思いを〕修めつつ、一つの方角を〔慈愛の思いで〕充満して、と説かれたからである──【113】形相を増大させつつ、ではなく。そして、ここにおいて、すなわち、〔心の〕制止者(瞑想修行者)として、この者が増大させるべき、まさしく、相似の形相(彼分相・似相:瞑想対象として心に思念された純粋形相)は存在しない(相似の形相は慈悲喜捨の四無量心には存在しない)。微小なる〔対象あること〕と無量なる対象あることもまた、ここにおいて、まさしく、遍き収取を所以に知られるべきである。

 

§115  〔四つの〕形態なきもの(無色界禅定)の対象についてもまた、〔虚空無辺なる認識の場所の対象となる〕虚空は、遍満の撤去のみのものたることから、〔増大させられるべきではない〕(虚空は、地等の遍満を撤去することで得られるだけであり、増大させられるべきものではない)。まさに、その〔虚空〕は、まさしく、遍満の離去を所以に〔得られたものであり、そのようなものとして〕意が為されるべきである(形相を増大させて得られたのではない)。〔何かを〕増大させているとして、その〔虚空〕より他に、何であれ、〔増大させられるべきものが〕有ることはない。〔識知無辺なる認識の場所の対象となる〕識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)は、自ずからの状態(自性:固有の性能)の法(性質)たることから、〔増大させられるべきではない〕。なぜなら、自ずからの状態の法(性質)を増大させることはできないからである。〔無所有なる認識の場所の対象となる〕識知〔作用〕の離去は、識知〔作用〕の状態なきのみのものたることから、〔増大させられるべきではない〕。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の対象は、まさしく、自ずからの状態の法(性質)たることから、増大させられるべきではない。

 

§116  残りのものは、形相なきものたることから、〔増大させられるべきではない〕。なぜなら、相似の形相が、増大させられるべきものとして、まさに、有るべきであるからである。そして、覚者の随念等々には、相似の形相として対象が有ることは、まさしく、なく、それゆえに、それは、増大させられるべきではない。ということで、このように、増大と不増〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

§117  (6)「対象〔の観点〕から」とは、そして、これらの四十の〔心を定める〕行為の拠点のうち、十の遍満、十の浄美ならざるもの、呼吸についての気づき、身体の在り方についての気づき、という、これらの二十二が、相似の形相を対象とするものであり、残りのものは、相似の形相を対象とするものではない。そのように、十の随念のうち、そして、呼吸についての気づきを、さらに、身体の在り方についての気づきを、〔両者を〕除いて、残りの八つの随念、食についての嫌悪の表象、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置、識知無辺なる〔認識の〕場所、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所、という、これらの十二が、自ずからの状態の法(性質)を対象とするものであり、十の遍満、十の浄美ならざるもの、呼吸についての気づき、身体の在り方についての気づき、という、これらの二十二が、形相を対象とするものであり、残りの六つは、〔分類して〕説かれるべきものを対象とするものではない。そのように、膿み爛れたもの、血まみれのもの、蛆虫まみれのもの、呼吸についての気づき、水の遍満、火の遍満、風の遍満、さらに、すなわち、光明の遍満において(※)太陽等々の光の円輪を対象とするもの、という、これらの八つが、動揺するものを対象とするものであり──そして、それら〔の動揺するものを対象とするもの〕は、まさに、〔相似の形相の〕前段部分におけるものであり、いっぽう、相似〔の形相〕は、まさしく、静止したものと成る──残りのものは、動揺するものを対象とするものではない。ということで、このように、対象〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

※ テキストには ālokakasiesu とあるが、VRI版により ālokakasie と読む。

 

§118  (7)「境地〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、十の浄美ならざるもの、身体の在り方についての気づき、食についての嫌悪の表象、という、これらの十二は、諸々の天〔の世〕においては転起しない。それらの十二、さらに、呼吸についての気づき、という、これらの十三は、梵の世(梵天界)においては転起しない。また、形態なき生存(無色界)においては、四つの形態なきもの(四無色界禅定)を除いて、他は転起しない。人間たちにおいては、全てもろともに転起する。ということで、このように、境地〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

§119  【114】(8)「収め取ること〔の観点〕から」とは、ここにおいて、見られたものと触れられたものと聞かれたものを収め取ること(視覚と触覚と聴覚による対象認知)〔の観点〕からもまた、〔心を定める行為の拠点の〕判別〔の方法〕が知られるべきである。そこで、風の遍満を除いて、残りの九つの遍満、十の浄美ならざるもの、という、これらの十九が、見られたものによって収め取られるべきである。〔相似の形相の〕前段部分においては、眼で眺め見て(肉眼で見て)、それらの形相が収め取られるべきである、という義(意味)である。身体の在り方についての気づきにおいては、皮膚の五なるもの(髪・毛・爪・歯・皮膚)が、見られたものによって〔収め取られるべきであり〕、残りもの(肉・腱・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓・腸・腸間膜・胃物・糞・脳味噌・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・膏・唾液・鼻水・髄液・尿)は、聞かれたものによって〔収め取られるべきである〕。ということで、このように、その〔身体の在り方についての気づき〕の対象は、見られたものと聞かれたものによって〔収め取られるべきである〕。呼吸についての気づきは、触れられたもの(感触)によって〔収め取られるべきである〕。風の遍満は、見られたものと触れられたものによって〔収め取られるべきである〕。残りの十八は、聞かれたものによって収め取られるべきである。そして、ここにおいて、放捨〔の心〕の梵住、四つの形態なきもの、という、これらのものは、初学の者によって収め取られるべきではない。残りの三十五が、〔初学の者によって〕収め取られるべきである。ということで、このように、収め取ること〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

§120  (9)また、「縁〔の観点〕から」とは、これらの〔心の定める〕行為の拠点のうち、虚空の遍満を除いて、残りの九つの遍満は、諸々の形態なきものにとっての縁と成る。十の遍満もまた、諸々の神知(神通力・超越知)にとっての〔縁と成る〕。三つの梵住は、第四の梵住にとっての〔縁と成る〕。形態なきものは、下のもの下のものが、上のもの上のものにとっての〔縁と成る〕。〔第四の形態なきものである〕表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)は、止滅の入定(滅尽定)にとっての〔縁と成る〕。〔これらは〕全てもろともに、〔所見の法における〕安楽の住(現法楽住)と〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)と〔善なる〕生存の得達(天界の再生)にとっての〔縁と成る〕。ということで、このように、縁〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の判別の方法が知られるべきである〕。

 

§121  (10)「性行に随順するもの〔の観点〕から」とは、ここにおいて、〔六つの〕性行に随順するもの〔の観点〕からもまた、〔心を定める行為の拠点の〕判別〔の方法〕が知られるべきである。それは、すなわち、この──まずは、貪欲の行ないの者には、ここにおいて、十の浄美ならざるもの、身体の在り方についての気づき、という、十一の〔心を定める〕行為の拠点が随順するものとなり、憤怒の行ないの者には、四つの梵住、四つの色の遍満、という、八つ〔の心を定める行為の拠点が随順するものとなり〕、そして、迷妄の行ないの者には、さらに、思考の行ないの者には、呼吸についての気づきという一つの〔心を定める〕行為の拠点だけが〔随順するものとなり〕、信の行ないの者には、〔十の随念のなかの〕前の六つの随念が〔随順するものとなり〕、覚の行ないの者には、死についての気づき、寂止の随念、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置、食についての嫌悪の表象、という、四つ〔の心を定める行為の拠点が随順するものとなる〕。残りの遍満は、さらに、四つの形態なきものは、全ての行ないの者に随順するものとなる。そして、諸々の遍満のうち、それが何であれ、微小なる〔対象〕は、思考の行ないの者に〔随順するものとなり〕、無量なる〔対象〕は、迷妄の行ないの者に〔随順するものとなる〕。ということで、ここにおいて、このように、〔性行に〕随順するもの〔の観点〕から、〔心を定める行為の拠点の〕判別の方法が知られるべきである。

 

§122  かくのごとく、そして、この〔判別の方法〕の一切は、そして、真に正反対のものを所以に〔説かれ〕、さらに、極めて正当なるものを所以に説かれた(単純化して解説した)。また、諸々の善なる修行で、貪欲等々の鎮静とならないものは、あるいは、信等の資益とならないものは、まさに、存在しない(善なる修行は、多かれ少なかれ貪欲を鎮静し信を資益する)。そして、このこともまた、『メーギヤ・スッタ』において説かれた。「より上なるものとして、四つの法(性質)が修められるべきです。貪欲〔の思い〕の捨棄のために、不浄〔の表象〕が修められるべきであり、憎悪〔の思い〕の捨棄のために、慈愛〔の心〕が修められるべきであり、思考の断絶のために、呼吸についての気づきが修められるべきであり、【115】『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)の根絶ために(※)、無常の表象(無常想)が修められるべきです」(ウダーナp.37)と。『ラーフラ・スッタ』においてもまた、「ラーフラ(羅睺羅)よ、慈愛の修行(慈悲の瞑想)を修めなさい(※※)」(マッジマ・ニカーヤ1p.424)という〔言葉〕等の方法によって、まさしく、一者のために、七つの〔心を定める〕行為の拠点(不浄想・呼吸についての気づき・無常想・慈悲喜捨の四無量心)が説かれた。それゆえに、言葉ばかりに固着を為さずして、一切所において志向するところ(真に意味するところ)が遍く探し求められるべきである。ということで、「〔心を定める〕行為の拠点を収め取って」(§28)とは、ここにおいて、これが、〔心を定める〕行為の拠点の言説の判別となる。

 

※ テキストには asmimānassa samagghātāyā とあるが、VRI版により asmimānasamugghātāyā と読む。

※※ テキストには bhāvetū とあるが、VRI版により bhāvehī と読む。

 

48.

 

§123  また、「収め取って」とは、これが、この句の義(意味)の遍き提示となる。〔まさに〕その、〔心の〕制止者によって、ここにおいて、「〔心を定める〕行為の拠点を与えてくれる善き朋友に近づいて行って」(§28)と、まさしく、説かれた方法によって、〔前に〕説かれた流儀の善き朋友に近づいて行って、(1)あるいは、覚者たる世尊に、あるいは、師匠に、自己を引き渡して、(2)〔確固たる〕志欲の成就者と〔成って〕、かつまた、〔確固たる〕信念の成就者と成って、〔心を定める〕行為の拠点が乞われるべきである。

 

§124  (1)そこにおいて、「世尊よ、わたしは、この自己状態(身体)を、あなたさまのために完全に捨て去ります」と、このように、覚者たる世尊に自己が引き渡されるべきである。なぜなら、このように〔自己を〕引き渡さずして、諸々の辺地の臥坐所に住んでいる者は、恐ろしい対象が視野にやってきたとき、〔身を〕堅く保つことができず、村の外れを訪ねて、在家者たちと交わる者と成って、不当な探し求めを起こして、思い掛けない災厄に至り得るであろうからである(※)。いっぽう、自己状態を〔覚者たる世尊に〕引き渡した者には、彼には、恐ろしい対象が視野にやってきたときもまた、恐怖が生起することはない。また、「賢者よ、まさに、おまえによって、自己は、まさしく、前もって、覚者たちに引き渡されたではないか」と、綿密に注視している者には、彼には、まさしく、悦意が生起する。

 

※ テキストには āpajjeyya とあるが、VRI版により pāpueyya と読む。

 

§125  たとえば、まさに、人に、最上のカーシ産の衣が有るとして、彼のその〔衣〕が、あるいは、鼠によって、あるいは、虫たちによって、喰われたときは、失意が生起するであろうが、いっぽう、それで、もし、その〔衣〕を、衣料なき比丘に与えるなら、そこで、彼には、たとえ、その〔衣〕が、その比丘によって切れ切れに為されているのを見ても、まさしく、悦意が生起するであろうように、このように、同様に、このことが知られるべきである。

 

§126  師匠に〔自己を〕引き渡している者によってもまた、「尊き方よ、わたしは、この自己状態を、あなたさまのために、完全に捨て去ります」と説かれるべきである。なぜなら、このように自己状態を〔師匠に〕引き渡さなかった者は、あるいは、〔師匠に〕叱られない者と成り、あるいは、〔師匠の〕教諭を為さない頑固者と〔成り〕、あるいは、〔自己の〕欲するままに赴く者と〔成り〕、まさしく、師匠に尋ねずして、そこが〔自己の〕求めるところであるなら、そこに赴いて〔思うままに振る舞う〕。〔まさに〕その、この者を、師匠は、あるいは、財貨によって、あるいは、法(教え)によって、愛護せず、秘密にされた書物を学ばせない。彼は、この二種類の愛護を得ることなく、〔世尊の〕教えにおいて、【116】確立〔の縁〕を得ず、まさしく、長からずして、あるいは、劣戒の〔状態〕に、あるいは、在家の状態に、至り得る。いっぽう、自己状態を〔師匠に〕引き渡した者は、〔師匠に〕叱られない者と成ることが、まさしく、なく、〔自己の〕欲するままに赴く者と成らず、素直で、まさしく、師匠に依止した生活者と成る。彼は、師匠から二種類の愛護を得つつ、〔世尊の〕教えにおいて、増大と成長と広大に至り得る。チューラ・ピンダパーティカ・ティッサ長老の内弟子たちのように。

 

§127  伝えるところでは、長老の現前に、三者の比丘がやってきた。三者のうち、一者は、「尊き方よ、わたしは、『あなたさまの義(利益)のために』と説かれたなら、百人〔の高さ〕ある深淵に落ちることができます」と言った。第二の者は、「尊き方よ、わたしは、『あなたさまの義(利益)のために』と説かれたなら、この自己状態を、踵から始まって、岩の背ですりつぶしながら、残りなく投げ捨てることができます」と言った。第三の者は、「尊き方よ、わたしは、『あなたさまの義(利益)のために』と説かれたなら、出息と入息を止めて、命の終焉を為すことができます」と言った。長老は、「有能なるは、まさに、これらの比丘たちである」と、〔心を定める〕行為の拠点を、〔彼らに〕言説した。彼らは、彼の教諭において安立して、三者もろともに、阿羅漢の資質に至り得た。ということで、これが、自己を〔師匠に〕引き渡すことにおける福利となる。それによって説かれた。「あるいは、覚者たる世尊に、あるいは、師匠に、自己を引き渡して」と。

 

49.

 

§128  (2)また、「〔確固たる〕志欲の成就者と〔成って〕、かつまた、〔確固たる〕信念の成就者と成って」(§123)とは、ここにおいて、その〔心の〕制止者は、貪欲なき〔あり方〕等々を所以に、六つの行相によって、〔確固たる〕志欲の成就者と成るべきである。なぜなら、このように、〔確固たる〕志欲の成就者は、三つの覚り(三菩提:無上正等菩提・独覚菩提・声聞菩提)のなかのどれか一つに至り得るからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「六つの志欲は、菩薩たちにとって、覚りの円熟のために等しく転起します。そして、貪欲なき〔あり方〕を志欲とする菩薩たちは、貪欲について汚点を見る者たちとなります。そして、憤怒なき〔あり方〕を志欲とする菩薩たちは、憤怒について汚点を見る者たちとなります。そして、迷妄なき〔あり方〕を志欲とする菩薩たちは、迷妄について汚点を見る者たちとなります。そして、離欲を志欲とする菩薩たちは、在家の居住について汚点を見る者たちとなります。そして、遠離を志欲とする菩薩たちは、社交について汚点を見る者たちとなります。そして、出離を志欲とする菩薩たちは、一切の生存()と赴く所()について汚点を見る者たちとなります」(典拠不詳)と。なぜなら、彼らが誰であれ、過去と未来と現在の、預流たる者と一来たる者と不還たる者と煩悩の滅尽者(阿羅漢)と独覚(縁覚・辟支仏)と正等覚者たちであるなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六つの行相によって、自己それぞれに、至り得るべき殊勝〔の境地〕に至り得たからである。それゆえに、これらの六つの行相によって、〔確固たる〕志欲の成就者と成るべきである。

 

§129  また、それに信念あることから、〔確固たる〕信念の成就者と成るべきである。禅定に信念ある者と〔成るべきであり〕、禅定を尊重する者と〔成るべきであり〕、禅定に傾斜する者と〔成るべきであり〕、【117】さらに、涅槃に信念ある者と〔成るべきであり〕、涅槃を尊重する者と〔成るべきであり〕、そして、涅槃に傾斜する者と成るべきである、という義(意味)である。

 

50.

 

§130  また、このように、〔確固たる〕志欲と信念の成就者として、彼が、〔心を定める〕行為の拠点を乞いつつあるなら、〔他者の〕心を探知する知恵の得者である師匠によって、心の習行を眺め見て、〔彼の〕性行が知られるべきである。〔得者ならざる〕他〔の師匠〕によっては、「〔あなたは〕どのような行ないの者として存していますか」「あるいは、あなたのばあい、どのような諸法(性質)が、多く慣行となりますか」「あるいは、あなたのばあい、どのようなものに意を為していると、平穏が有りますか」「あるいは、あなたのばあい、どの〔心を定める〕行為の拠点に、心が傾きますか」という、このような〔言葉〕等々の方法によって尋ねて、〔彼の性行が〕知られるべきである。このように知って、〔彼の〕性行に随順する〔心を定める〕行為の拠点が言説されるべきである。そして、言説しているとして、三種類〔の方法〕によって言説されるべきである。(1)〔生来の〕性向によって〔自ずと、心を定める〕行為の拠点が収め取られた者には、一〔坐〕か二坐のあいだ(※)、読誦を為させて〔そののち〕、与えられるべきである。(2)現前に住している者には、やってきた〔瞬間〕やってきた瞬間に言説されるべきである。(3)収め取って〔そののち〕、他所に赴くことを欲する者には、極めて簡略でもなく極めて詳細でもないものと為して、言説されるべきである。

 

※ テキストには nissajjāni とあるが、VRI版により nisajjāni と読む。

 

§131  そこにおいて、まずは、地の遍満を言説しているとして、(1)四つの遍満の汚点(Ch.4§24)、(2)遍満の作り方(Ch.4§25)、(3)作り為された〔遍満〕の修行の方法(Ch.4§27)、(4)二種類の形相(Ch.4§30)、(5)二種類の禅定(Ch.4§32)、(6)七種類の正当なるものと不当なるもの(Ch.4§34)、(7)十種類の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智(Ch.4§42)、(8)精進の平等なること(Ch.4§66)、(9)〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の規定(Ch.4§74)、という、これらの九つの行相が言説されるべきである。残りの〔心を定める〕行為の拠点についてもまた、それぞれに適切なるものが言説されるべきである。その全てが、それらの修行の規定において、明らかと成るであろう。また、このように、〔心を定める〕行為の拠点が言説されているとき、その〔心の〕制止者によって、形相を収め取って、〔心を定める行為の拠点についての言説が〕聞かれるべきである。

 

§132  「形相を収め取って」とは、「これが、前の句である」「これが、後の句である」「これが、その〔句〕の義(意味)である」「これが、志向(意図)である」「これが、喩えである」と、このように、それぞれの行相を連結して、という義(意味)である。このように、形相を収め取って、まさに、謹んで聞いている者によって、〔心を定める〕行為の拠点は、善く収め取られたものと成る。そこで、彼には、その〔善く収め取られた心を定める行為の拠点〕に依拠して、殊勝〔の境地〕への到達が成就する。他の者には、〔そのようなことは〕ない。ということで、これが、「収め取って」という、この句の義(意味)の遍き提示となる。

 

§133  これだけで、「善き朋友に近づいて行って、自己の性行に随順するものとして、四十の〔心を定める〕行為の拠点のうち、どれか一つの〔心を定める〕行為の拠点を収め取って」(§28)という、これらの句が、一切の形相によって詳知されたものと成る、と〔知られるべきである〕。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「〔心を定める〕行為の拠点を収め取ることについての釈示」という名の第三章となる。