第十五章 〔認識の〕場所と界域についての釈示

 

510.

 

 1 諸々の〔認識の〕場所

 

§1  【481】〔諸々の範疇の直後に配置された〕(Ch.14§32)、「諸々の〔認識の〕場所()」とは、眼の〔認識の〕場所(眼処)、形態の〔認識の〕場所(色処)、耳の〔認識の〕場所(耳処)、音声の〔認識の〕場所(声処)、鼻の〔認識の〕場所(鼻処)、臭気の〔認識の〕場所(香処)、舌の〔認識の〕場所(舌処)、味感の〔認識の〕場所(味処)、身の〔認識の〕場所(身処)、感触の〔認識の〕場所(触処)、意の〔認識の〕場所(意処)、法(意の対象)の〔認識の〕場所(法処)、という、十二の〔認識の〕場所(十二処)である。

 

§2  そこにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)義(意味)と(2)特相と(3)限量と(4)順番と(5)簡略と詳細〔の観点〕から、そのように、まさしく、そして、(6)見られるべきもの〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである」〔と〕。

 

§3  (1)そこにおいて、まずは、〔義について〕差異〔の観点〕(分析的見地)から〔説くなら〕、見る(チャッカティ)、ということで、「眼(チャック)」。形態を味わい、さらに、分明する、という義(意味)である。可視のものとする(ルーパヤティ)、ということで、「形態(ルーパ)」。色艶(顔色や姿態)の変異を惹起しつつ、心臓(心)に在るものの状態(心理状態)を明示する、という義(意味)である。聞く(スナーティ)、ということで、「耳(ソータ)」。発音される(サッパティ)、ということで、「音声(サッダ)」。述べ伝えられる、という義(意味)である。嗅ぐ(ガーヤティ)、ということで、「鼻(ガーナ)」。嗅がれる(ガンダヤティ)、ということで、「臭気(ガンダ)」。自己の事態を密告する、という義(意味)である。生命(ジーヴィタ)を喚起する(アヴハヤティ)、ということで、「舌(ジヴハー)」。有情たちはそれを嗜好する(ラサティ)、ということで、「味感(ラサ)」。味わう、という義(意味)である。諸々の嫌悪されるもの(クッチタ)たる煩悩を有する諸法(性質)の入来(アーヤ)、ということで、「身(カーヤ)」。「入来」とは、生起の地点のこと。接触される(プシヤティ)、ということで、「感触(ポッタッバ)」。思い考える(ムナーティ)、ということで、「意(マノー)」。自己の特相を保持する(ダーラティ)、ということで、「法(ダンマ)」。

 

511.

 

§4  また、〔義について〕差異なき〔の観点〕(総合的見地)から〔説くなら〕、〔心を〕傾けること(アーヤタナ)から、諸々の入来(アーヤ)を広げること(タナナ)から、さらに、拡大されたもの(アーヤタ)を導くこと(ナヤナ)から、「〔認識の〕場所(アーヤタナ)」と知られるべきである。まさに、眼と形態等々において、それぞれの〔感官の〕門と対象の心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)が、各自の経験すること等の作用によって、〔心を〕傾け(アーヤティ)、奮起し、勤労し、努力する、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。そして、諸々の入来(アーヤ)として有る〔心と心の属性としての〕諸法(性質)を、それらを、これら〔の十二の認識の場所〕が、広げ(タノーティ)、拡張する、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。さらに、始源が思い考えられない輪廻において転起され極度に拡大された(アーヤタ)輪廻の苦しみが、これが、すなわち、退転しないかぎり、それまでは、まさしく、〔これらの十二の認識の場所が、輪廻の苦しみを〕導き(ナヤティ)、転起させる、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。ということで、【482】これら〔の十二の認識の場所〕の諸法(性質)は、全てもろともに、〔心を〕傾けること(アーヤタナ)から、諸々の入来(アーヤ)を広げること(タナナ)から、さらに、拡大されたもの(アーヤタ)を導くこと(ナヤナ)から、「〔認識の〕場所(アーヤタナ)」「〔認識の〕場所(アーヤタナ)」と説かれる。

 

512.

 

§5  そして、また、居住の場の義(意味)によって、鉱脈の義(意味)によって、集まってくる場の義(意味)によって、産出の地の義(意味)によって、さらに、契機の義(意味)によって、〔認識の〕場所が知られるべきである。まさに、そのように、世において、「イッサラ・アーヤタナ(自在天の場所)」「ヴァースデーヴァ・アーヤタナ(世天の場所)」という〔言葉〕等々において、居住の場が、「場所(アーヤタナ)」と説かれ、「スヴァンナ・アーヤタナ(金の場所)」「ラジャタ・アーヤタナ(銀の場所)」という〔言葉〕等々において、鉱脈が、〔「場所(アーヤタナ)」と説かれ〕、また、〔世尊の〕教えにおいて、「意が喜びとする場所(マノーランマ・アーヤタナ)があるとき、鳥たちは、その〔場所〕に慣れ親しむ」(アングッタラ・ニカーヤ3p.43)という〔言葉〕等々において、集まってくる場が、〔「場所(アーヤタナ)」と説かれ〕、「南の道(デカン地方)は、牛たちの場所(グンナン・アーヤタナ)である」(典拠不詳)という〔言葉〕等々において、産出の地(産地)が、〔「場所(アーヤタナ)」と説かれ〕、「気づき〔の場所〕気づきの場所(サティ・サティ・アーヤタナ)において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」(マッジマ・ニカーヤ1p.494,アングッタラ・ニカーヤ1p.258)という〔言葉〕等々において、契機(原因・根拠)が、〔「場所(アーヤタナ)」と説かれる〕。

 

§6  さらに、また、それに依止した転起あることから、それら〔の心と心の属性としての諸法〕、それらの心と心の属性としての諸法(性質)が、眼等々において居住する、ということで、そして、眼等々は、それら〔の心と心の属性としての諸法〕にとって、居住の場となる。そして、それに依拠したことから、さらに、それを対象とすることから、それら〔の心と心の属性としての諸法〕が、眼等々において散在している、ということで、眼等々は、それら〔の心と心の属性としての諸法〕にとって、鉱脈となる。そして、その場その場において、基盤であり門であり対象であることを所以に、〔心と心の属性としての諸法が〕集まってくることから、眼等々は、それら〔の心と心の属性としての諸法〕にとって(※)、集まってくる場となる。そして、それを依所とし対象とする状態によって、まさしく、そこにおいて、生起あることから、眼等々は、それら〔の心と心の属性としての諸法〕にとって、産出の地となる。そして、〔眼等々の〕状態なきとき、それら〔の心と心の属性としての諸法〕の状態なきことから、眼等々は、それら〔の心と心の属性としての諸法〕にとって、契機となる、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストにはCakkhādayo ca とあるが、VRI版により Cakkhādayo ca nesa と読む。

 

§7  ということで、居住の場の義(意味)によって、鉱脈の義(意味)によって、集まってくる場の義(意味)によって、産出の地の義(意味)によって、さらに、契機の義(意味)によって、という、これらの契機によってもまた、これらの諸法(性質)は、「〔認識の〕場所」「〔認識の〕場所」と説かれる。それゆえに、〔前に〕説かれたとおりの義(意味)によって、そして、眼は、それは、かつまた、〔認識の〕場所である、ということで、眼の〔認識の〕場所となり……略……そして、諸々の法(意の対象)は、それらは、かつまた、〔認識の〕場所である、ということで、法(意の対象)の〔認識の〕場所となる。ということで、まずは、ここにおいて、このように、義(意味)〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 

513.

 

§8  (2)「特相〔の観点〕から」とは、眼等々のばあい、特相〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別〔の方法〕が識知されるべきである。また、そして、それら〔の眼等々〕のばあい、それらの特相は、まさしく、〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示において説かれた方法によって(Ch.14§37)、知られるべきである。

 

§9  (3)「限量〔の観点〕から」とは、そのかぎりの状態〔の観点〕から。このことが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。「まさに、眼等々もまた、まさしく、諸々の法(性質)である。このように存しているのに、まさしく、『法(性質)の〔認識の〕場所』と説かずして、何ゆえに、『十二の〔認識の〕場所』と説かれたのか」と、もし〔問うなら〕、「六つの識知〔作用〕の体系の生起の門と対象の〔差異の〕定置〔の観点〕から」〔と答える〕。ここでは、六つの識知〔作用〕の体系の、門たる状態によって、さらに、対象たる状態によって、【483】〔差異の〕定置〔の観点〕から、これら〔の十二の認識の場所〕の、この細別が有る、ということで、十二〔の認識の場所〕が説かれた。

 

§10  なぜなら、眼の識知〔作用〕の道程(心相続)に属している識知〔作用〕の体系には、眼の〔認識の〕場所だけが、生起の門となり、かつまた、形態の〔認識の〕場所だけが、対象となり、そのように、諸他のものにも、〔それぞれに対応する〕諸他のものがあるからである。また、第六のもの〔である意の識知作用の体系〕には、「生存の〔潜在〕支分(有分:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)の意」と名づけられた、意の〔認識の〕場所の一部位だけが、生起の門となり、かつまた、共通ならざるものとしてある法(意の対象)の〔認識の〕場所だけが、対象となる、と〔知られるべきである〕。かくのごとく、六つの識知〔作用〕の体系の生起の門と対象の〔差異の〕定置〔の観点〕から、十二〔の認識の場所〕が説かれた。ということで、ここにおいて、このように、限量〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 

514.

 

§11  (4)「順番〔の観点〕から」とは、ここでもまた、前に説かれた生起の順番等々のうち(Ch.14§211)、説示の順番だけが適合する。まさに、〔眼等々の六つの〕内なる〔認識の〕場所のうち、有見にして有対の境域あることから、眼の〔認識の〕場所は、明白なるものである、ということで、最初に説示された。そののち、無見にして有対の境域あることから、耳の〔認識の〕場所等々が〔説示された〕。そこで、あるいは、因の状態として見ることの無上なると聞くことの無上なるによって多くの資益あることから(見と聞は因として最もわかりやすい)、〔六つの〕内なる〔認識の〕場所のうち、眼の〔認識の〕場所と耳の〔認識の〕場所が、最初に説示され、そののち、鼻の〔認識の〕場所等々の三つが〔説示された〕。五つ〔の認識の場所〕もろともの境涯(作用範囲)が境域(対象)たることから、最後において、意の〔認識の〕場所が〔説示された〕。また、眼の〔認識の〕場所等々の境涯たることから、それぞれに対応するものとして、諸々の外なるものについて、形態の〔認識の〕場所等々が〔説示された〕。

 

§12  さらに、また、識知〔作用〕の生起の契機の〔差異の〕定置〔の観点〕からもまた、これら〔の十二の認識の場所〕の、この順番が知られるべきである。そして、このことが、〔聖典において〕説かれた。「眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。……略……。意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します」(マッジマ・ニカーヤ1p.111)と。このように、順番〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 

515.

 

§13  (5)「簡略と詳細〔の観点〕から」とは、まさに、簡略〔の観点〕から、まさしく、そして、意の〔認識の〕場所が、さらに、法(意の対象)の〔認識の〕場所の一部位が、名前(:精神的事象)によって〔包摂されたものとなり〕、かつまた、その残りの〔認識の〕場所が、形態(:物質的事象)によって包摂されたものとなることから、十二の〔認識の〕場所もろともに、まさしく、名前と形態(名色)のみのものと成る。

 

§14  また、詳細〔の観点〕から、まずは、〔六つの〕内なる〔認識の場所〕のうち、眼の〔認識の〕場所は、類を所以に、まさしく、眼の〔機能の〕澄浄(眼浄:視覚機能)のみのものとなるが、いっぽう、縁や境遇や部類や人の細別〔の観点〕から、終極なき細別あるものとなる。そのように、耳の〔認識の〕場所等々の四つがある(眼と同様である)。意の〔認識の〕場所は、善なるものと善ならざるものと報い〔としての善悪が説き明かされないもの〕と〔報いを生まない純粋〕所作〔としての善悪が説き明かされないもの〕という識知〔作用〕の細別によって、八十九の細別あるものとなり、さらに、百二十一の細別あるものとなるが(八十九の心のうち世俗を超える八つの心を五つの瞑想に配して四十に数え、残りの八十一の心と合わせて百二十一とする)、いっぽう、基盤や〔実践の〕道等の細別〔の観点〕から、終極なき細別あるものとなる。形態〔の認識の場所〕と音声〔の認識の場所〕と臭気〔の認識の場所〕と味感の〔認識の〕場所は、部分を共にしないもの(共通点を有さないもの)や縁等の細別〔の観点〕から、終極なき細別あるものとなる。感触の〔認識の〕場所は、地の界域と火の界域と風の界域を所以に、三つの細別あるものとなり、【484】縁等の細別〔の観点〕から、無数の細別あるものとなる。法(意の対象)の〔認識の〕場所は、感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕の〔三つの〕範疇と繊細なる形態(Ch.14§73)と涅槃の、自ずからの状態(自性)の種々なる細別〔の観点〕から、無数の細別あるものとなる。ということで、このように、簡略と詳細〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 

516.

 

§15  (6)また、「見られるべきもの〔の観点〕から」とは、ここにおいて、形成されたもの(有為)としての〔認識の〕場所は、まさしく、〔それらの〕全てが、来ることなき〔の観点〕から、さらに、去ることなき〔の観点〕から、見られるべきである。なぜなら、それら〔の形成されたものとしての認識の場所〕は、生成〔の瞬間〕より前においては、どこからであろうが、来ることはなく、衰失〔の瞬間〕より後においては、どこにであろうが、去ることもまたなく、そこで、まさに、生成〔の瞬間〕より前においては、自ずからの状態は〔いまだ〕獲得されず、衰失〔の瞬間〕より後においては、自ずからの状態は完全に破壊され、過去の極と未来の極の中間(現在)においては、縁に依止した転起たることによって、自在なきものとして転起するからである。それゆえに、来ることなき〔の観点〕から、さらに、去ることなき〔の観点〕から、見られるべきである。そのように、作動なき〔の観点〕から、さらに、労苦なき〔の観点〕から、〔見られるべきである〕。なぜなら、眼と形態等々には、「ああ、まさに、わたしたちの和合あるとき、識知〔作用〕は、まさに、生起するであろう」という、このような〔思いが〕有ることはなく、さらに、それら〔の形成されたものとしての認識の場所〕は、識知〔作用〕を生起させることを義(目的)に、門たる状態によって、基盤たる状態によって、あるいは、対象たる状態によって、作動することはなく、労苦を体験することはなく、そこで、まさに、すなわち、「眼と形態等の和合あるとき、眼の識知〔作用〕等々は発生する」とは、これは、まさしく、法(性質)たること(法性:人為的作為が介在しない自然の性質)であるからである。それゆえに、作動なき〔の観点〕から、さらに、労苦なき〔の観点〕から、見られるべきである。

 

§16  さらに、また、〔六つの〕内なる〔認識の場所〕は、常恒と浄美と安楽と自己の状態が絶無なることから、空の村落のように見られるべきであり、〔六つの〕外なる〔認識の場所〕は、〔六つの〕内なる〔認識の場所〕にとっての殲滅者たることから、村を殲滅する盗賊たちのように〔見られるべきである〕。そして、このことが、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、眼は、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない形態によって打ちのめされます」(サンユッタ・ニカーヤ4p.175)と、以下云々。さらに、また、〔六つの〕内なる〔認識の場所〕は、六つの命あるもの(生類)のように見られるべきであり、〔六つの〕外なる〔認識の場所〕は、それら〔の六つの命あるもの〕にとっての境涯(餌場)のように〔見られるべきである〕(サンユッタ・ニカーヤ4p.198)。ということで、ここにおいて、このように、見られるべきもの〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 まずは、これが、諸々の〔認識の〕場所についての詳細の言説の門となる。

 

517.

 

 2 諸々の界域

 

§17  また、〔諸々の認識の場所の〕その直後に〔配置された〕(Ch.14§32)、「諸々の界域()」とは、眼の界域(眼界)、形態の界域(色界)、眼の識知〔作用〕の界域(眼識界)、耳の界域(耳界)、音声の界域(声界)、耳の識知〔作用〕の界域(耳識界)、鼻の界域(鼻界)、臭気の界域(香界)、鼻の識知〔作用〕の界域(鼻識界)、舌の界域(舌界)、味感の界域(味界)、舌の識知〔作用〕の界域(舌識界)、身の界域(身界)、感触の界域(触界)、身の識知〔作用〕の界域(身識界)、意の界域(意界)、法(意の対象)の界域(法界)、意の識知〔作用〕の界域(意識界)、という、十八の界域(十八界)である。

 

§18  そこにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)義(意味)〔の観点〕から、(2)特相等々〔の観点〕から、(3)順番と(4)限量と(5)数〔の観点〕から、(6)縁〔の観点〕から、さらに(※)、(7)見られるべきもの〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである」〔と〕。

 

※ テキストにはaṭṭha とあるが、VRI版により atha と読む。

 

§19  (1)そこにおいて、「義(意味)〔の観点〕から」とは、まずは、「見る(チャッカティ)、ということで、『眼(チャック)』。可視のものとする(ルーパヤティ)、ということで、『形態(ルーパ)』。眼にとっての識知〔作用〕が、『眼の識知〔作用〕』」(§3)という、このような〔言葉〕等の【485】方法によって、眼等々の差異の義(意味)〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。また、差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕(※)、設定する(ヴィダハティ)、安置される(ディーヤテー)、規定すること(ヴィダーナ)、これによって設定される(ヴィディーヤテー)、あるいは、ここにおいて安置される(ディーヤティ)、ということで、「界域(ダートゥ)」。

 

※ テキストにはAvisesena とあるが、VRI版により Avisesena pana と読む。

 

§20  まさに、諸々の世〔俗〕の界域は、〔それぞれの〕契機の状態によって、〔差異が〕定め置かれたものと成って、諸々の金や銀等の界域(鉱石)が金や銀等を〔産出する〕ように、無数の流儀の輪廻の苦しみを設定する(ヴィダハティ)。そして、荷を運ぶ者たちによって荷が〔設置される〕ように、有情たちによって安置される(ディーヤテー)。保ち置かれる、という義(意味)である。そして、これら〔の世俗の界域〕は、自在なきものとして転起することから、まさしく、苦しみを規定すること(ヴィダーナ)のみのものとなる。そして、これら〔の世俗の界域〕が契機として有ることから、輪廻の苦しみが、有情たちによって〔因縁に〕従い設定される(ヴィディーヤテー)。そして、そのように設定されたその〔苦しみ〕は、まさしく、これら〔の世俗の界域〕において安置される(ディーヤティ)。据え置かれる、という義(意味)である。ということで、眼等々について、一つ一つの法(性質)が、〔その〕発生のとおりに、設定する、安置される、という〔言葉〕等の義(意味)を所以に、「界域」と説かれる。

 

518.

 

§21  さらに、また、すなわち、異教の者たちの〔説く〕「自己(アートマン)」というものが、自ずからの状態〔の観点〕から存在しないように、このように、これら〔の界域〕が〔存在しないということは〕なく、いっぽう、これら〔の界域〕は、自己の自ずからの状態を保持する(ダーレーティ)、ということで、「諸々の界域(ダートゥ)」。さらに、すなわち、世において、種々様々な黄や赤の絵具等々の岩の成分が、「諸々の界域(色素)」と説かれるように、このように、これら〔の界域〕もまた、諸々の界域(色素)のように、「諸々の界域」〔と説かれる〕。なぜなら、種々様々なこれら〔の眼等々〕は、知恵と所知の成分としてあるからである、と〔知られるべきである〕。あるいは、すなわち、「肉体」と名づけられた集起の諸々の成分として有る液や血等々が互いに他と部分を共にしない特相によって限定されたとき、「界域」という呼称があるように、このように、これら〔の眼等々〕もまた、「五つの〔心身を構成する〕範疇」と名づけられた自己状態(個我的あり方)の諸々の成分があるとき、「界域」という呼称が知られるべきである。なぜなら、互いに他と部分を共にしない特相によって限定されたものとして、これらの眼等々はあるからである、と〔知られるべきである〕。

 

§22  さらに、また、「界域」とは、これは、まさしく、生命なきもののみの、同義語である。まさに、そのように、世尊は、「比丘よ、人は、これは、六つの界域あるものであり、[六つの接触ある〔認識の〕場所あるものであり、十八の意の細かい想念あるものであり、四つの〔心の〕確立あるものです]」(マッジマ・ニカーヤ3p.239)という〔言葉〕等々において、生命の表象の完破を義(目的)に、界域の説示を為した、と〔知られるべきである〕。それゆえに、〔前に〕説かれたとおりの義(意味)によって、そして、眼は、それは、かつまた、界域であり、眼の界域となり……略……そして、意の識知〔作用〕は、それは、かつまた、界域であり、意の識知〔作用〕の界域となる。ということで、まずは、ここにおいて、このように、義(意味)〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

519.

 

§23  (2)「特相等々〔の観点〕から」とは、眼等々のばあい、特相等々〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別〔の方法〕が知られるべきである。また、そして、それら〔の眼等々〕のばあい、それらの特相は、まさしく、〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示において説かれた方法によって(Ch.14§37)、知られるべきである。

 

§24  (3)「順番〔の観点〕から」とは、ここでもまた、前に説かれた生起の順番等々のうち(Ch.14§211)、説示の順番だけが適合する。また、そして、〔まさに〕その、この〔説示の順番〕は、因と果の順次の〔差異の〕定置を所以に説かれた。なぜなら、「眼の界域」「形態の界域」という、この二つは因であり、「眼の識知〔作用〕の界域」とは、果であるからである。このように、一切所においてある(他も同様である)。

 

520.

 

§25  (4)「限量〔の観点〕から」とは、そのかぎりの状態〔の観点〕から。このことが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。「まさに、それらそれらの【486】経や論の部分において、「光明の界域、浄美の界域、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域、無所有なる〔認識の〕場所の界域、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域、表象と感覚の止滅の界域」(サンユッタ・ニカーヤ2p.150)「欲望の界域、憎悪の界域、悩害の界域、離欲の界域、憎悪なき界域、悩害なき界域」(ヴィバンガp.86)「安楽の界域、苦痛の界域、悦意の界域、失意の界域、放捨の界域、無明の界域」(ヴィバンガp.85)「勉励の界域、促進の界域、勤勉の界域」(サンユッタ・ニカーヤ5p.66)「下劣なる界域、中等なる界域、精妙なる界域」(ディーガ・ニカーヤ3p.215)「地の界域、水の界域、火の界域、風の界域、虚空の界域、識知〔作用〕の界域」(ヴィバンガp.82)「形成されたもの(有為)の界域、形成されたものではないもの(無為)の界域」(マッジマ・ニカーヤ3p.63)「[サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、]無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、[事実のとおりに覚知します]」(マッジマ・ニカーヤ1p.70)、という、このような〔言葉〕等々が〔見られ〕、諸他の界域もまた見られる。このように存しているのに、〔これらの〕全てを所以に〔範囲の〕限定を為さずして、何ゆえに、『十八』という、まさしく、この限定が為されたのか」と、もし〔問うなら〕、「自ずからの状態〔の観点〕から、〔現に〕見出されている全ての界域が、その〔十八の界域〕に内含されることから」〔と答える〕。

 

§26  まさに、形態の界域こそは、光明の界域である。また、浄美の界域は、形態等と連結されたものである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「浄美なる形相あることから」〔と答える〕。まさに、浄美なる形相は、浄美の界域である。そして、それは、形態等から解き放たれたものとして見出されることがない。あるいは、善なる報い〔としての心〕の対象たる形態等々こそは、浄美の界域である。ということで、まさしく、形態等のみのものとして、この〔浄美の界域〕はある。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)の界域等々については、心は、まさしく、意の識知〔作用〕の界域であり、残り〔の心の属性としての諸法〕は、法(意の対象)の界域である。また、表象と感覚の止滅(想受滅)の界域は、自ずからの状態〔の観点〕から存在しない。なぜなら、その〔表象と感覚の止滅の界域〕は、まさしく、〔意の識知作用の界域と法の界域の〕二つの界域の止滅のみのものとしてあるからである(二つの界域の止滅の状態を言うにすぎない)。

 

§27  欲望の界域は、あるいは、法(意の対象)の界域のみのものとして有り──すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、欲望の界域であるのか。欲望に関係した、考え、思考、[思惟、専注、細かい専注、心の固定、]誤った思惟(邪思惟:妄想)である」(ヴィバンガp.86)と──あるいは、十八の界域もろとものものとして〔有る〕──すなわち、〔聖典に〕言うように、「下は、アヴィーチ(阿鼻)の地獄を極限と為して、上は、他化自在天を終極と為して、すなわち、この中間において、ここにおいて、諸々の行境となり、ここにおいて、諸々の属しているものとなる、諸々の範疇と界域と〔認識の〕場所、諸々の形態、感受〔作用〕、表象〔作用〕、諸々の形成〔作用〕、識知〔作用〕が、これが、『欲望の界域』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.86)と。

 

§28  【487】離欲の界域は、まさしく、法(意の対象)の界域である。「諸々の善なる法(性質)は、全てもろともに、離欲の界域である」(ヴィバンガp.86)という言葉から、意の識知〔作用〕の界域としてもまた、まさしく、有る。憎悪〔の界域〕と悩害〔の界域〕と憎悪なき〔界域〕と悩害なき〔界域〕と安楽〔の界域〕と苦痛〔の界域〕と悦意〔の界域〕と失意〔の界域〕と放捨〔の界域〕と無明〔の界域〕と勉励〔の界域〕と促進〔の界域〕と勤勉の界域は、まさしく、法(意の対象)の界域である。

 

§29  下劣なる〔界域〕と中等なる〔界域〕と精妙なる界域は、まさしく、十八の界域のみのものとしてある。なぜなら、下劣なる眼等々は、下劣なる界域であり、中等なる〔眼等々〕と精妙なる〔眼等々〕は、まさしく、そして、中等なる〔界域〕であり、さらに、精妙なる〔界域〕であるからである。また、教相なき〔観点〕(逐語的理論的説明)によって〔説くなら〕、諸々の善ならざる法(意の対象)の界域と意の識知〔作用〕の界域は、下劣なる界域であり、世〔俗〕の善なるものと〔善悪が〕説き明かされないものは、両者ともどもに〔中等なる界域であり〕、さらに、眼の界域等々も、中等なる界域であり、また、世〔俗〕を超える法(意の対象)の界域と意の識知〔作用〕の界域は、精妙なる界域である。

 

§30  地〔の界域〕と火〔の界域〕と風の界域は、まさしく、感触の界域である。水の界域は、さらに、虚空の界域は、まさしく、法(意の対象)の界域である。識知〔作用〕の界域は、まさしく、眼の識知〔作用〕等の七つの識知〔作用〕の界域(眼の識知作用の界域・耳の識知作用の界域・鼻の識知作用の界域・舌の識知作用の界域・身の識知作用の界域・意の界域・意の識知作用の界域)の簡略〔の表示〕となる。

 

§31  十七の界域、さらに、法(意の対象)の界域の一部位は、形成されたもの(有為)の界域である。また、形成されたものではないもの(無為)の界域は、まさしく、法(意の対象)の界域の一部位である。また、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕も、まさしく、十八の界域の細別のみのものとしてある、と〔知られるべきである〕。

 かくのごとく、自ずからの状態〔の観点〕から、〔現に〕見出されている全ての界域が、その〔十八の界域〕に内含されることから、まさしく、十八〔の界域〕が説かれた、と〔知られるべきである〕。

 

521.

 

§32  さらに、また、識知することを自ずからの状態とする識知〔作用〕にたいし生命の表象ある者たちのために、表象の完破を義(目的)にもまた、まさしく、十八〔の界域〕が説かれた。なぜなら、有情たちは、識知することを自ずからの状態とする識知〔作用〕にたいし生命の表象ある者たちとして〔世に〕存するからである。彼らのために、眼〔の界域〕と耳〔の界域〕と鼻〔の界域〕と舌〔の界域〕と身〔の界域〕と意の界域と意の識知〔作用〕の界域の細別によって、その〔識知作用〕の無数なることを〔明示して〕、さらに、眼と形態等の縁に依止した転起あることによって、〔その識知作用の〕無常なることを明示して、長夜に悪しき習いとなった生命の表象を完破することを欲する世尊によって、十八の界域が明示された。

 

§33  そして、なお、より一層に、そのように、そして、教え導かれるべき〔弟子たち〕の志欲を所以に──さらに、彼らが、この、簡略〔過ぎず〕詳細過ぎない説示によって、教え導かれるべき有情たちであるなら、そして、その志欲を所以に──まさしく、十八〔の界域〕が明示された。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「この方(ブッダ)が、彼の法(教え)を明示する、そのとおり、そのとおりに、簡略と詳細の方法によって、まさに、そのとおり、そのとおりに、正なる法(教え)の火に打たれ、教え導かれるべき有情たちの心臓のうちなる闇は、瞬時に溶解しながら過ぎ去り行く」と。

 

 ここにおいて、このように、限量〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

522.

 

§34  (5)「数〔の観点〕から」とは、まずは、眼の界域は、類〔の観点〕から、眼の〔機能の〕澄浄(視覚機能)を所以に、まさしく、「一つの法(性質)」という、【488】数へと至る(一つのものとして数えられる)。そのように、耳〔の界域〕と鼻〔の界域〕と舌〔の界域〕と身〔の界域〕と形態〔の界域〕と音声〔の界域〕と臭気〔の界域〕と味感の界域は、耳の〔機能の〕澄浄(聴覚機能)等を所以に、〔まさしく、「一つの法」という、数へと至る〕。いっぽう、感触の界域は、地と火と風を所以に、「三つの法(性質)」という、数へと至る(三つのものとして数えられる)。眼の識知〔作用〕の界域は、善なる〔報い〕と善ならざる報いとしてのもの(34・50)を所以に、「二つの法(性質)」という、数へと至る(二つのものとして数えられる)。そのように、耳〔の識知作用の界域〕と鼻〔の識知作用の界域〕と舌〔の識知作用の界域〕と身の識知〔作用〕の界域は、〔善なる報いと善ならざる報いとしてのもの(35・36・37・38・51・52・53・54)を所以に、「二つの法(性質)」という、数へと至る〕。また、意の界域は、五つの門における〔心を対象に〕傾注する〔作用〕(70)と善なる〔報い〕と善ならざる報いとしての領受する〔作用〕(39・55)を所以に、「三つの法(性質)」という、数へと至る。法(意の対象)の界域は、三つの形態なき範疇(感受作用・表象作用・諸々の形成作用)と十六の繊細なる形態(Ch.14§73)、さらに、形成されたものではない界域(無為界)を所以に、「二十の法(性質)」という、数へと至る。意の識知〔作用〕の界域は、残りの善なる〔識知作用〕と善ならざる〔識知作用〕と〔善悪が〕説き明かされない識知〔作用〕を所以に、「七十六の法(性質)」という、数へと至る。ここにおいて、このように、数〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

523.

 

§35  (6)「縁〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、まずは、眼の界域は、眼の識知〔作用〕の界域にとって、不結合の〔縁〕と先に生じた〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕と依所たる〔縁〕と機能としての縁を所以に、六つの縁によって、縁と成り、形態の界域は、先に生じた〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕と対象としての縁を所以に、四つの縁によって、縁と成る。このように、耳の識知〔作用〕の界域等々にとって、耳の界域と音声の界域等々の界域がある(眼と同様である)。

 

§36  また、それらの五つ〔の識知作用の界域〕にとって、傾注する〔作用〕としての意の界域(70)は、直後なる〔縁〕(無間縁)と等しく直後なる〔縁〕(等無間縁)と非存在の〔縁〕と離去の〔縁〕と直後なる近しき依所たる〔縁〕を所以に、五つの縁によって、縁と成る。さらに、それらの五つ〔の識知作用の界域〕もまた、領受する〔作用〕としての意の界域(39・55)にとって、〔五つの縁によって、縁と成る〕。そのように、領受する〔作用〕としての意の界域は、吟味する〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域(40・41・56)にとって、〔五つの縁によって、縁と成る〕。さらに、その〔吟味する作用としての意の識知作用の界域〕は、定置する〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域(71)にとって、〔五つの縁によって、縁と成る〕。さらに、定置する〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域は、疾走〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域にとって、〔五つの縁によって、縁と成る〕。また、疾走〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域は、直後の疾走〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域にとって、まさしく、そして、それらの五つ〔の縁〕によって、さらに、習修(習慣)としての縁によって、ということで、六つの縁によって、縁と成る。まずは、これが、五つの門について、〔その〕方法となる。

 

§37  また、意の門については、生存の〔潜在〕支分〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域は、傾注する〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、傾注する〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域は、疾走〔作用〕としての意の識知〔作用〕の界域にとって、前に〔説かれた〕五つの縁によって、縁と成る。

 

§38  また、法(意の対象)の界域は、七つの識知〔作用〕の界域(眼の識知作用の界域・耳の識知作用の界域・鼻の識知作用の界域・舌の識知作用の界域・身の識知作用の界域・意の界域・意の識知作用の界域)もろともにとって、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕等々によって、多種に縁と〔成る〕。

 

§39  また、眼の界域等々は、さらに、一部の法(意の対象)の界域(繊細なる形態と涅槃)は、一部の意の識知〔作用〕の界域にとって、対象としての縁等々によってもまた、縁と〔成る〕。そして、眼の識知〔作用〕の界域等々にとって、単に、眼と形態等々が、縁と成るのではなく、そこで、まさに、光明等々もまた、〔縁と成る〕。それによって、往古の師匠たちは言った。「眼と形態と光明と意を為すことを縁として、眼の識知〔作用〕が生起する。【489】耳と音声と開空(虚空)と意を為すことを縁として、耳の識知〔作用〕が生起する。鼻と臭気と風と意を為すことを縁として、鼻の識知〔作用〕が生起する。舌と味感と水と意を為すことを縁として、舌の識知〔作用〕が生起する。身と感触と地と意を為すことを縁として、身の識知〔作用〕が生起する。生存の〔潜在〕支分〔作用〕としての意と法(意の対象)と意を為すことを縁として、意の識知〔作用〕が生起する」と。ここにおいて、これが、簡略〔の説示〕となる。

 また、詳細〔の観点〕から〔説くなら〕、縁の細別は、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)についての釈示において明らかと成るであろう(Ch.17§66)。ということで、ここにおいて、このように、縁〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

524.

 

§40  (7)ここにおいて、「見られるべきもの〔の観点〕から」とは、見られるべきもの〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである、という義(意味)である。まさに、諸々の形成されたものの界域は、まさしく、〔それらの〕全てが、「過去の極と未来の極から遠離されたものである(現在のみのものである)」と、「常恒と浄美と安楽と自己の状態が空なるものである(無常であり不浄であり苦痛であり無我である)」と、さらに、「縁に依止した転起あるものである(縁によって生起し作用している)」と、〔そのような観点から〕見られるべきである。

 

§41  また、差異〔の観点〕から〔説くなら〕、ここにおいて、眼の界域は、太鼓の面のように見られるべきであり、形態の界域は、〔太鼓を叩く〕棒のように〔見られるべきであり〕、眼の識知〔作用〕の界域は、〔太鼓の〕音のように〔見られるべきである〕。そのように、眼の界域は、鏡の面のように〔見られるべきであり〕、形態の界域は、顔のように〔見られるべきであり〕、眼の識知〔作用〕の界域は、〔鏡に映った〕顔の形相のように〔見られるべきである〕。さらに、あるいは、眼の界域は、甘蔗や胡麻のように〔見られるべきであり〕、形態の界域は、〔甘蔗を粉砕する〕機具や〔胡麻を圧搾する〕輪棒のように〔見られるべきであり〕、眼の識知〔作用〕の界域は、甘蔗液や〔胡麻〕油のように〔見られるべきである〕。そのように、眼の界域は、火起こしの下〔の台〕のように〔見られるべきであり〕、形態の界域は、火起こしの上〔の棒〕のように〔見られるべきであり〕、眼の識知〔作用〕の界域は、〔起こされた〕火のように〔見られるべきである〕。これが、耳の界域等々について、〔その〕方法となる。

 

§42  また、意の界域は、発生のとおり〔の観点〕から、眼の識知〔作用〕の界域等々にとって、先行者と随行者のように見られるべきである(五つの門における心を対象に傾注する作用としての意の界域が先行者で、領受する作用としての意の界域が随行者)。

 法(意の対象)の界域について。感受〔作用〕の範疇は、矢のように〔見られるべきであり〕、さらに、槍のように見られるべきである。表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕の範疇は、感受〔作用〕の矢と槍との結合あることから、痛苦のように〔見られるべきである〕。あるいは、凡夫たちの表象〔作用〕は、〔自分勝手な〕願望から苦しみを生むことから、空拳のように〔見られるべきであり〕、事実のとおりならざる形相を収め取ることから、〔草人形に人の形相を収め取る〕林の鹿のように〔見られるべきであり〕、諸々の形成〔作用〕は、〔人を〕結生のうちに置くことから、〔罪人を〕火坑のなかに投げ込む〔王の〕家来たちのように〔見られるべきであり〕、生の苦しみが追随することから、王の家来たちが追随する盗賊たちのように〔見られるべきであり〕、一切の義(利益)ならざることをもたらす範疇の相続にとっての因たることから、諸々の毒の木の種のように〔見られるべきである〕。形態は、種々なる種類の禍の形相あることから、〔旋回する〕剃刀の輪のように見られるべきである。いっぽう、形成されたものではない界域は、不死〔の観点〕から〔見られるべきであり〕、寂静〔の観点〕から〔見られるべきであり〕、さらに、平安〔の観点〕から見られるべきである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「一切の義(利益)ならざることをもたらすものにとって、相反するものとして有ることから」〔と答える〕。

 

§43  【490】意の識知〔作用〕の界域は、諸々の対象にたいする〔差異の〕定置の状態なきことから、林の猿のように〔見られるべきであり〕、調御し難いことから、野生の馬のように〔見られるべきであり〕、欲する所へと落ち行くことから、宙空に投げ放たれた棒のように〔見られるべきであり〕、貪欲や憤怒等の種々なる流儀の〔心の〕汚れ(煩悩)の衣装との結合あることから、舞台の女優のように見られるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「〔認識の〕場所と界域についての釈示」という名の第十五章となる。