第二章 払拭〔行〕の支分についての釈示

 

22.

 

§1  【59】今や、少なき欲求たること(少欲)や満ち足りていること(知足)等々のそれらの諸徳によって、〔前に〕説かれた流儀の戒の浄化が有るなら、それらの諸徳を成就させるために、すなわち、戒を受持した〔心の〕制止者(瞑想修行者)によって、〔俗塵の〕払拭〔行〕(頭陀行)の支分の受持が為されるべきであり、まさに、このように、彼の、少なき欲求たることや満ち足りていることや謹厳〔の生活〕や〔俗事からの〕遠離や〔煩悩の〕滅減や精進に励むことや扶養し易きこと(他に迷惑をかけない生き方)等の徳の水によって〔俗塵の〕垢が洗い落とされた戒は、まさしく、そして、完全無欠の清浄と成るであろうし、さらに、諸々の掟(払拭行)も成就するであろうし、かくのごとく、罪過なき戒と掟の徳によって完全なる清浄となった一切の励行は、過去に〔説かれた〕三つの聖なる伝統(衣料についての知足・行乞の施食についての知足・臥坐についての知足)を確立して、かつまた、「修行に喜びあること」と名づけられた第四の聖なる伝統への到達に値するものと成るであろうことから、それゆえに、〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分についての言説を、〔わたしたちは〕始めるであろう。

 

§2  まさに、世尊によって、世の財貨(俗利)を完全に捨て去った者たちのために──かつまた、身体についても、かつまた、生命についても、期待なき者たちのために──まさしく、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を達成することを欲する良家の子息たちのために、十三の払拭〔行〕の支分が承認された。それは、すなわち、この──(1)糞掃衣の者の支分(糞掃衣支)、(2)三つの衣料の者の支分(三衣支)、(3)〔行乞の〕施食の者の支分(常乞食支)、(4)〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分(次第乞食支)、(5)一坐〔だけの食〕の者の支分(一坐食支)、(6)鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分(一鉢食支)、(7)〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分(時後不食支)、(8)林にある者の支分(阿蘭若住支)、(9)木の根元にある者の支分(樹下住支)、(10)野外にある者の支分(露地住支)、(11)墓場にある者の支分(塚間住支)、(12)〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分(随処住支)、(13)常坐〔にして不臥〕なる者の支分(常坐不臥支)、という〔十三の払拭行の支分である〕。

 

§3  そこにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(一)義(意味)〔の観点〕から、(二)特相等々〔の観点〕から、(三)受持と(四)規定〔の観点〕から、(五)細別〔の観点〕から、さらに、(六)破壊〔の観点〕から、(七)福利〔の観点〕から、それぞれに──

 まさしく、そして、(八)善なるもの〔等〕の三つのもの〔の観点〕から、(九)払拭等々の区分〔の観点〕から、さらに、また、(十)総合と(十一)分析〔の観点〕から、〔払拭行についての〕判別〔の方法〕が識知されるべきである」〔と〕。

 

23.

 

§4  【60】(一)そこにおいて、まずは、「義(意味)〔の観点〕から」とは、(1)道や墓場や塵芥場等々のどこであれ、そこにおいて、諸々の砂塵の高く堆積したことから、盛り上がったという義(意味)によって、それらの砂塵(パンス)における斜面(クーラ)のような、ということで、「糞掃衣(パンスクーラ)」。さらに、あるいは、砂塵(パンス)のように、嫌悪(クッチタ)の状態へと至り行く(ウラティ)、ということで、「糞掃衣(パンスクーラ)」。嫌悪の状態へと至る、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。このように語源が得られた糞掃衣の、〔その〕保持が、糞掃衣〔をまとうこと〕。それが、彼の戒である、ということで、「糞掃衣の者」。糞掃衣の者の〔受持する〕支分が、「糞掃衣の者の支分」。「支分」とは、契機と説かれる。それゆえに、すなわち、〔この支分の〕受持によって、彼が糞掃衣の者と成るなら、この〔支分〕は、〔まさに〕その〔受持〕の同義語である、と知られるべきである。

 (2)まさしく、この方法によって、「大衣」と「上衣」と「内衣」と名づけられた三つの衣料〔をまとうこと〕が、彼の戒である、ということで、「三つの衣料の者」。三つの衣料の者の〔受持する〕支分が、「三つの衣料の者の支分」。

 

§5  (3)また、「行乞〔の食〕」と名づけられた諸々の財貨の食(ピンダ)の、〔鉢への〕落下(パータ)、ということで、「〔行乞の〕施食(ピンダパータ)」。他者たちによって施された諸々の〔行乞の〕食(ピンダ)の、鉢(パッタ)に落ちること(ニパタナ)、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。その〔行乞の〕施食(施しの食)を回収する──その〔家〕その家に近づいて行きながら〔食を〕探し求める──ということで、「〔行乞の〕施食の者」。あるいは、〔行乞の〕食(ピンダ)のために落ち行く(パタティ)ことが、この者の掟である、ということで、「〔行乞の〕施食(ピンダパータ)ある者」。「落ち行くこと」とは、歩むこと。〔行乞の〕施食ある者こそが、「〔行乞の〕施食の者」。彼の〔受持する〕支分が、「〔行乞の〕施食の者の支分」。

 

§6  (4)断絶(ダーナ)は、破断することと説かれる。断絶(ダーナ)から離れた(アペータ)、ということで、「断絶なき(アパダーナ)」。破断することなき、という義(意味)である。断絶なき(アパダーナ)と共に(サハ)、歩々淡々(サーパダーナ)と、破断絶無に、家ごとに〔行乞する〕、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。この歩々淡々と歩むことが、彼の戒である、ということで、「歩々淡々の歩みある者」。歩々淡々の歩みある者こそが、「〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者」。彼の〔受持する〕支分が、「〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分」。

 

§7  (5)一坐において受益することが、一坐〔だけの食〕。それが、彼の戒である、ということで、「一坐〔だけの食〕の者」。彼の〔受持する〕支分が、「一坐〔だけの食〕の者の支分」。

 (6)第二の器を拒絶することから、単に一鉢のみに〔盛られた行乞の〕食が、「鉢に〔盛られた行乞の〕食」。今や、鉢に〔盛られた行乞の〕食を収め取ることにたいし、鉢に〔盛られた行乞の〕食の表象()を為して、鉢に〔盛られた行乞の〕食が、彼の戒である、ということで、「鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者」。彼の〔受持する〕支分が、「鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分」。

 

§8  (7)「否」とは、制止の義(意味)における不変化詞である。〔規定された食を〕充足した者として存しているなら、【61】〔それ〕以後に得られた食が、「以後の食」ということになる。その〔規定された食〕以後の食を受益することが、「〔規定された食〕以後の食を受益すること」。その〔規定された食〕以後の食を受益することにたいし、〔規定された食〕以後の食の表象を為して、〔規定された食〕以後の食が、彼の戒である、ということで、「〔規定された食〕以後の食ある者」。〔規定された食〕以後の食ある者ではなくあるのが、「〔規定された食〕以後の食を否とする者」。〔戒の〕受持を所以に〔食が〕拒絶されたことから、ということで、これが、食べることを遠ざけた者の名前となる。また、アッタカター(注釈書)において、「否」とは、或る鳥のことである、〔と〕説かれた。その〔鳥〕は、口で果実を収め取って、その〔果実〕が〔地に〕落ちたとき、もはや、他〔の果実〕を咀嚼しない。この〔比丘〕は、そのような者である、ということで、「〔規定された食〕以後の食を否とする者」。彼の〔受持する〕支分が、「〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分」。

 

§9  (8)林での居住が、彼の戒である、ということで、「林にある者」。彼の〔受持する〕支分が、「林にある者の支分」。

 (9)木の根元での居住が、木の根元にあること。それが、彼の戒である、ということで、「木の根元にある者」。木の根元にある者の〔受持する〕支分が、「木の根元にある者の支分」。

 (10・11)野外にある者と墓場にある者の〔両者の〕支分についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§10  (12)まさしく、すなわち、〔坐具が〕広げられた〔場所〕が、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕。「この〔場所〕は、あなたに至り得る(あなたにふさわしい)」と、このように、この〔支分〕は、最初に指定された臥坐所の同義語である。その広げられたとおり〔の場所〕に住むことが、彼の戒である、ということで、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者」。彼の〔受持する〕支分が、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分」。

 (13)〔横になって〕臥すことを拒絶して、坐床に住むことが、彼の戒である、ということで、「常坐〔にして不臥〕なる者」。彼の〔受持する〕支分が、「常坐〔にして不臥〕なる者の支分」。

 

§11  また、まさしく、これら〔の払拭行〕の全てが、それぞれの受持によって、〔心の〕汚れ(煩悩)の払拭たることから、払拭〔行〕の比丘にとって、諸々の支分となる──あるいは、〔心の〕汚れを払拭することから、「払拭(頭陀)」という語用(通称)を得た知恵(知・智)が、これら〔の払拭行〕の支分となる──ということで、「諸々の〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分」。さらに、あるいは、それらの払拭〔行〕は、そして、相反するもの〔である心の汚れ〕を払拭することから、さらに、実践のための諸々の支分である、ということでもまた、「諸々の〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分」。まずは、ここにおいて、このように、義(意味)〔の観点〕から、〔払拭行についての〕判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 

§12  (二)また、まさしく、これら〔の払拭行〕の全てが、受持への思欲(:心の思い・意志)を特相とする。そして、このこともまた、アッタカター(注釈書)において説かれた。「その者が、受持するなら、彼は、人である。それによって、〔彼が〕受持するなら、心と心の属性(心心所:心と心に現起する作用・感情)として、これらの諸法(性質)はある。それが、受持への思欲であるなら、それは、〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分である。それを、〔彼が〕拒絶するなら、それは、事物(拒絶の対象)である」と。そして、まさしく、〔これらの払拭行の〕全てが、妄動の砕破を効用(機能・性行)とし、妄動なき状態を現起(現状)とし、少なき欲求たること等の聖なる法(教え)を境処の拠点(直接原因)とする。【62】ここにおいて、このように、特相等々〔の観点〕から、〔払拭行についての〕判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

§13  (三・四・五・六・七)また、「受持と規定〔の観点〕から」という〔言葉〕等々の五つ(受持・規定・細別・破壊・福利)について。まさしく、払拭〔行〕の支分の全てが、世尊が〔身を〕保っているときは(ブッダ存命中は)、まさしく、世尊の現前において、受持されるべきである。完全なる涅槃に到達したときは、大弟子の現前において、〔受持されるべきである〕。彼が存していないときは、煩悩の滅尽者(阿羅漢)の……不還たる者の……一来たる者の……預流たる者の……三ピタカ(三蔵:経蔵・律蔵・論蔵の三聖典)〔の熟知者〕の……〔三ピタカのなかの〕二ピタカ〔の熟知者〕の……〔三ピタカのなかの〕一ピタカ〔の熟知者〕の……〔五ニカーヤ(長部・中部・相応部・小部・増支部の五部経典)のなかの〕一〔ニカーヤ〕の合誦者の(※)……アッタカター(注釈書)の師匠の〔現前において、受持されるべきである〕。彼が存していないときは、〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分の保持者の〔現前において、受持されるべきである〕。彼さえも存していないときは、塔廟の庭を掃き清めて、ひざまずき、坐って、正等覚者の現前において説いているかのようにして、受持されるべきである。そして、また、たとえ、自ら〔単独であるも〕、受持するのが、まさしく、順当である。そして、ここにおいて、チェーティヤ山における二者の兄弟長老のなかの、長兄の払拭〔行〕の支分にたいし少なき欲求たることの事例が言説されるべきである(長兄は、常坐にして不臥なる者の支分を受持していたが、誰もそのことを知らず、ある夜、雷光に照らされた兄の姿を見た弟が、兄に受持者であるかを尋ね、兄は、それを否定して一旦は横臥し、その後ふたたび坐り続けた話)。

 まずは、これが、〔各支分〕共通の言説となる。

 

※ テキストには ekasagītikassa ekāgamassa とあるが、VRI版により ekasagītikassa と読む。

 

24.

 

 1 糞掃衣の者の支分

 

§14  今や、一つ一つ〔の支分〕についての(1)受持と(2)規定と(3)細別と(4)破壊と(5)福利を、〔わたしたちは〕解説するであろう。

 (1)まずは、糞掃衣の者の支分であるが、「家長(居士)の施しの衣料を、〔わたしは〕拒絶する」「糞掃衣の者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらの二つの言葉のうち、どちらか一つによって、〔この支分は〕受持されたものと成る。まずは、ここにおいて、これが、〔糞掃衣の者の支分の〕受持となる。

 

§15  (2)また、このように受持された払拭〔行〕の支分ある者としてある彼によって、墓場の〔ぼろ布〕、店先の〔ぼろ布〕、道端のぼろ布、塵芥〔場〕のぼろ布、出産の〔ぼろ布〕、沐浴のぼろ布、渡し場(沐浴場)のぼろ布、往来した〔ぼろ布〕、火で焼かれた〔ぼろ布〕、牛に喰われた〔ぼろ布〕、白蟻に喰われた〔ぼろ布〕、鼠に喰われた〔ぼろ布〕、端が切断された〔ぼろ布〕、縁が切断された〔ぼろ布〕、放置された旗、塔の衣料、沙門の衣料、灌頂の〔衣料〕、神通で作られる〔衣料〕、道の者(旅人)の〔衣料〕、風で運ばれた〔衣料〕、天〔の神〕によって与えられた〔衣料〕、海浜の〔衣料〕、という、これらのうち、どれか一つの衣料を収め取って、切り裂いて、力弱き箇所を捨棄して、諸々の強固な箇所を洗浄して、衣料を作り為して、以前のものとしてある、家長の〔施しの〕衣料を取り去って、〔糞掃衣が〕遍く受益されるべきである。

 

§16  そこにおいて、「墓場の〔ぼろ布〕」とは、墓場に落ちている〔ぼろ布〕のこと。「店先の〔ぼろ布〕」とは、店の門口に落ちている〔ぼろ布〕のこと。「道端のぼろ布」とは、功徳を義(目的)とする者たちによって窓の間から道端に捨てられたぼろ布のこと。「塵芥〔場〕のぼろ布」とは、【63】塵芥場に捨てられたぼろ布のこと。「出産の〔ぼろ布〕」とは、胎の垢(出産の穢れ)を拭って〔そののち〕捨てられた衣のこと。伝えるところでは、ティッサ家臣の母は、百〔金〕の価値ある衣で胎の垢を拭わせて、「糞掃衣の者たちが収め取るであろう」と、テーラヴェーリの道に捨てさせた。比丘たちは、まさしく、〔衣の〕老朽した箇所〔の修繕〕を義(目的)に、〔それを〕収め取る。

 

§17  「沐浴のぼろ布」とは、すなわち、精霊の祓い師(悪霊調伏者)たちによって頭まで沐浴させて、「黒耳(不吉)の布」ということで捨てて去り行く、〔その布のこと〕。「渡し場(沐浴場)のぼろ布」とは、沐浴場に捨てられた布切れのこと。「往来した〔ぼろ布〕」とは、すなわち、人間たちが墓場に赴いて、戻ってきた者たちが沐浴して〔そののち〕捨てる、〔その布のこと〕。「火で焼かれた〔ぼろ布〕」とは、火によって焼かれた〔布の〕部分のこと。なぜなら、人間たちは、それを捨てるからである。「牛に喰われた〔ぼろ布〕」等々は、まさしく、明白である。なぜなら、それらのようなものをもまた、人間たちは捨てるからである。「放置された旗〔のぼろ布〕」とは、舟に乗っている者たちが旗を〔岸に〕縛って〔舟に〕乗り、彼らの見〔の範囲〕を超えたとき(視野を離れたとき)、〔置き去りにされた〕その〔旛〕を収め取るのは順当である(許容される)。すなわち、また、戦いの地に旗を縛って〔そののち〕捨て置かれたもので、両軍ともども去り行った時に、〔置き去りにされた〕その〔旛〕を収め取るのも順当である。

 

§18  「塔の衣料」とは、蟻塚に〔布を〕張り巡らせて供物の行為と為したもの。「沙門の衣料」とは、比丘の所有するもの。「灌頂の〔衣料〕」とは、王の灌頂(即位式)の場に捨てられた衣料のこと。「神通で作られる〔衣料〕」とは、〔受戒の際、世尊が〕「比丘よ、来たれ」〔と言って、その比丘に与える、神通で作られる〕衣料のこと。「道の者(旅人)の〔衣料〕」とは、道の途中に落ちているもの。また、すなわち、所有者たちの気づきの忘却によって落ちたものは、それは、暫くは〔使用を〕控えて〔所有者が判明しないときに〕収め取られるべきである。「風で運ばれた〔衣料〕」とは、風で運ばれて、遠くに落ちたもの。また、それは、〔暫くは使用を控えて〕所有者たちを見ないときに収め取るのが順当である。「天〔の神〕によって与えられた〔衣料〕」とは、アヌルッダ長老のために天神たちによって与えられた〔衣料〕のようなもの。「海浜の〔衣料〕」とは、海の諸波によって陸に打ち上げられたもの。

 

§19  また、すなわち、「〔わたしたちは〕僧団に施します」と施されたものは、あるいは、ぼろ布の行乞のために歩んでいる者たちによって得られたものも、それは、糞掃衣ではない。比丘のために施されるものについてもまた、それが、あるいは、最年長者に収め取らせて〔そののち〕、〔他の比丘たちに〕施されるなら、あるいは、〔特定の〕臥坐所への衣料として有るなら、それは、糞掃衣ではない。〔特定の人や場所に〕収め取らせずして施されたものだけが、糞掃衣である。そこで、また、すなわち、施者たちによって、比丘の足元に置かれたものであるも、いっぽう、その比丘によって、糞掃衣の者の手のうえに据え置いて施されたものであるなら、それは、「一者ゆえに清浄なるもの」ということになる。すなわち、比丘の手のうえに据え置いて施されたものであるも、いっぽう、その〔比丘〕によって、〔糞掃衣の者の〕足元に据え置かれたものであるなら、それもまた、「一者ゆえに清浄なるもの」〔ということになる〕。すなわち、また、比丘の足元に据え置かれたもので、その〔比丘〕によってもまた、まさしく、そのように、〔糞掃衣の者の足元に据え置いて〕施されたものは、それは、【64】「両者ゆえに清浄なるもの」〔ということになる〕。すなわち、〔比丘の〕手のうえに据え置いて得られたもので、まさしく、〔糞掃衣の者の〕手のうえに据え置かれたものは、それは、「高尚ならざる衣料」ということになる。かくのごとく、この糞掃衣の細別を知って、糞掃衣の者によって、衣料が遍く受益されるべきである。ということで、ここにおいて、これが、〔糞掃衣の者の支分の〕規定となる。

 

§20  (3)また、これが、〔糞掃衣の者の支分の〕細別となる。高尚なる者、中等なる者、柔弱なる者、という、三者の糞掃衣の者である。そこにおいて、墓場にあるものだけを収め取っている者は、高尚なる者と成り、「出家者が収め取るであろう」と据え置かれたものを収め取っている者は、中等なる者と〔成り〕、足元に据え置いて施されたものを収め取っている者は、柔弱なる者と〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 (4)彼らのうち、誰であろうが、彼にとって、在家者たちによって施されたものを自己の嗜好と愛着によって受けた瞬間において、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔糞掃衣の者の支分の〕破壊となる。

 

§21  (5)また、これが、〔糞掃衣の者の支分の〕福利となる。「出家は、糞掃衣の衣料に依拠して」(ヴィナヤ1p.58)という言葉から、〔衣食住薬という四つの〕依所に適切なる実践の発生あること。第一の聖なる伝統(衣料についての知足)において〔自己を〕確立すること。〔衣料の〕守護という苦しみの状態なきこと。他者に依止しない生活者たること。盗賊の恐怖による恐怖なきこと。遍き受益への渇愛の状態なきこと。沙門にとって適切なる必需品たること。「まさしく、そして、価値少なきものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それらは、罪過なきものです」(アングッタラ・ニカーヤ2p.26)と、世尊によって等しく褒め称えられた日用品たること。浄信あるものたること。少なき欲求たること等々の果の完遂あること。正しい実践を増進すること。後〔世〕の人民における見の随従(模範)を育成すること。ということで──

 

§22  〔そこで、詩偈に言う〕「悪魔の軍団を打破するために、糞掃衣を〔身に〕保つ者となり、行者は、戦いにあって鎧を着けた士族のように美しく輝く。

 カーシ産等々の優れた衣を捨棄して、すなわち、世の導師(ブッダ)によって保持された、〔まさに〕その、糞掃衣を、誰が〔身に〕保たずにいられよう。

 まさに、それゆえに、自己の比丘たる明言を〔常に〕正しく随念しながら、〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)の習行に随順する糞掃衣を喜ぶ者となり、〔世に〕存するがよい」と。

 

 まずは、これが、糞掃衣の者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

25.

 

 2 三つの衣料の者の支分

 

§23  (1)また、その直後に〔説かれた〕、三つの衣料の者の支分であるが、「第四の衣料を、〔わたしは〕拒絶する」「三つの衣料の者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、【65】〔この支分は〕受持されたものと成る。

 (2)また、その三つの衣料の者によって、衣料の布地は、得て〔そののち〕、すなわち、あるいは、〔体調の〕平穏ならざる状態によって〔衣を〕作ることができず、あるいは、専門の〔作り手〕を得ず、あるいは、針等々について、それが何であれ、満たされないあいだは、それまでは、置かれたままであるべきである(保管することが許される)。〔そのばあいは、手許に〕置かれた〔布地〕を縁として汚点が存在することはない。いっぽう、染められた時から以降は、〔そのまま手許に〕置くのは順当ではない(許容されない)。〔彼は〕「払拭〔行〕の支分の盗賊」ということに成る。これが、それ(三つの衣料の者の支分)の規定となる。

 

§24  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者であるなら、染める時には、あるいは、内衣か、あるいは、上衣か、〔どちらかを〕最初に染めて、それを着衣して〔そののち〕、他のものが染められるべきであり、それ(内衣か上衣)を包着して〔そののち〕、大衣が染められるべきである。また、〔染める時に〕大衣を着衣するのは順当ではない。村の外れの臥坐所においては、これが、彼の行持となる。いっぽう、林にある者であるなら、〔内衣と上衣の〕二つを一緒に洗い清めて、〔裸になって、大衣を〕染めるのは順当である(許容される)。また、すなわち、誰であれ、〔人を〕見ては〔すぐさま〕袈裟(大衣)を引いて上に為すことができるように(袈裟で身を包むことができるように)、このように、〔袈裟に〕近き場に坐るべきである。また、中等なる者のばあい、〔衣を〕染める堂のなかに「〔衣を〕染めるための袈裟」というものが有り、それを、あるいは、着衣して、あるいは、包着して、染める行為を為すのは順当である。柔弱なる者のばあい、同僚の比丘たちの諸々の衣料を、あるいは、着衣して、あるいは、包着して、染める行為を為すのは順当である。彼のばあい、そこに据え置かれている敷物〔を包着すること〕もまた順当である。いっぽう、〔それを〕持ち運ぶのは順当ではない。同僚の比丘たちの衣料もまた、中途中途で〔時々に〕遍く受益するのは順当である。また、三つの衣料を払拭〔行〕の支分とする者にとって、第四の存在として、肩袈裟だけは順当である。しかしながら、それは、まさに、幅が〔一〕ヴィダッティ(長さの単位・一ヴィダッティは約二十五センチ)で、長さが三ハッタ(長さの単位・一ハッタは約五十センチ)にかぎり、順当である。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、第四の衣料を、まさしく、受けた瞬間において、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔三つの衣料の者の支分の〕破壊となる。

 

§25  (5)また、これが、〔三つの衣料の者の支分の〕福利となる。三つの衣料の者たる比丘は、身体を守るものとしての衣料で、〔それだけで〕満ち足りている者と成る。彼の、その〔衣料〕によって、鳥のように、まさしく、〔その支分を〕受持して〔軽やかに〕赴くこと。〔衣料のための〕勉励少なきこと。衣の蓄積を遍く避けること。軽素な生活者たること。超過の衣料への妄動を捨棄すること。適確なる〔衣料〕についてもまた、量を〔正しく〕作り為す謹厳の生活者たること。少なき欲求たること等々の果の完遂、という、このような〔あり方〕等々の諸徳が成就する。ということで──

 

§26  【66】〔そこで、詩偈に言う〕「超過の衣への渇愛を捨棄して、蓄積を避けた慧者は、満ち足りていることの安楽の味を知る者であり、三つの衣料を〔身に〕保つ〔心の〕制止者として〔世に〕有る。

 それゆえに、翼を有し〔空を〕歩む鳥のように、〔三つの〕衣料を有する優れた〔心の〕制止者のように、安楽に〔世を〕渡り歩くことを欲する者となり、衣料を制することに喜びを作り為すがよい」と。

 

 これが、三つの衣料の者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

26.

 

 3 〔行乞の〕施食の者の支分

 

§27  (1)〔行乞の〕施食の者の支分もまた、「超過の利得を、〔わたしは〕拒絶する」「〔行乞の〕施食の者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その〔行乞の〕施食の者によって、僧団食、指定食、招待食、抽選食、半月ごとの〔食〕、斎戒(布薩)の〔食〕、月初の〔食〕、来客食、訪問食、病者食、看病食、精舎食(精舎を指定されて施される食)、筆頭食(村の筆頭の家で施される食)、時分食(季節の変わり目に施される食)、という、これらの十四の食が受けるべきではないものとなる。また、それで、もし、「僧団食を収め取ってください」という〔言葉〕等の方法によって説かずして、「わたしどもの家で、僧団〔の人々〕が行乞〔の食〕を収め取ります。あなたさまもまた、行乞〔の食〕を収め取ってください」と説いて、諸々の施しが有るなら、それらを受けるのは順当である。僧団から〔与えられた〕財貨なきもの(非俗のもの)としての抽選〔食〕もまた、精舎で炊かれた食もまた、まさしく、順当である。ということで、これが、それ(行乞の施食の者の支分)の規定となる。

 

§28  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者は、前からもまた、後からもまた、〔施者によって〕持ち運ばれた行乞〔の食〕をもまた収め取り、門の外に立って、〔施すために彼の鉢を〕収め取っている者たちにもまた鉢を与え、〔彼の〕戻るところに持ち運んで施された行乞〔の食〕をもまた収め取るが、いっぽう、その日、坐って〔そののちは〕、行乞〔の食〕を収め取ることはない。中等なる者は、その日、坐って〔そののち〕もまた、〔行乞の食を〕収め取る。いっぽう、翌日の〔行乞の食を〕承諾することはない。柔弱なる者は、翌日の〔行乞の食を〕もまた〔承諾し〕、翌々日の行乞〔の食〕をもまた承諾する。彼らは、両者ともどもに、独住の安楽を得ない。いっぽう、高尚なる者は、〔独住の安楽を〕得る。伝えるところでは、或る村において、聖なる伝統〔についての説法〕が有り、高尚なる者は、他の者たちに言った。「友よ、法(教え)の聴聞のために、〔わたしは〕行きます」と。彼らのうち、一者(中等なる者)は、「尊き方よ、〔わたしは〕或る人間によって坐らされた者として存しています(今日は施しの約束があります)」と言った。他の者(柔弱なる者)は、「尊き方よ、わたしによって〔昨日〕、或る者のために、翌日の行乞〔の食〕が承諾されました(今日は施しの約束があります)」と〔言った〕。このように、彼らは、両者ともどもに、遍く劣る者たちとなる。他の者(高尚なる者)は、ごく早朝に〔行乞の〕食のために歩んで〔そののち〕、〔聴聞に〕赴いて、法(教え)の味を【67】得知した。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、僧団食等の超過の利得を、まさしく、受けた瞬間において、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔行乞の施食の者の支分の〕破壊となる。

 

§29  (5)また、これが、〔行乞の施食の者の支分の〕福利となる。「出家は、〔施しの〕握り飯の食料に依拠して」(ヴィナヤ1p.58)という言葉から、〔衣食住薬という四つの〕依所に適切なる実践の発生あること。第二の聖なる伝統(食についての知足)において〔自己を〕確立すること。他者に依止しない生活者たること。「まさしく、そして、価値少なきものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それらは、罪過なきものです」(アングッタラ・ニカーヤ2p.26)と、世尊によって等しく褒め称えられた日用品たること。怠惰の削除たること。完全なる清浄の生き方たること。学びの実践を円満すること。他者を扶養する〔義務〕なきこと。他者の資助を為すこと。〔我想の〕思量(:自尊心)を捨棄すること。味への渇愛を防護すること。衆徒食(三四人の者で食の招待を受けること)や再度食(食の招待を受けた後でさらなる招待を受けること)の遵守たる諸々の学びの境処(戒律)によって罪なくあること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。正しい実践を増進すること。後〔世〕の人民を慈しむこと。ということで──

 

§30  〔そこで、詩偈に言う〕「〔施しの〕握り飯で満ち足りている者は、他者に依止しない生き方の者である。食への妄動を捨棄した行者は、四方の者(四方に慈しみある不害の者)として〔世に〕有る。

 〔彼は〕怠惰を除き去り、彼の生き方は清浄となる。まさに、それゆえに、思慮深き者は、行乞行を軽んじぬがよい」〔と〕。

 

 まさに、このような形態の者として──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔行乞の〕施食の者(托鉢行者)として自己を養い、他者を扶養する〔義務〕なき比丘(自主独立の自己確立者)──寂静にして常に気づきある者──そのような者を、天〔の神々〕たちは羨む」(ウダーナp.31)と。

 

 これが、〔行乞の〕施食の者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

27.

 

 4 〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分

 

§31  (1)〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分もまた、「妄動の歩み(貪りの思いで行乞すること)を、〔わたしは〕拒絶する」「〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者によって、村の門に立って、危難の状態なきことが省察されるべきである。すなわち、あるいは、路地において、あるいは、村において、危難が有るなら、それを捨棄して、他所に歩むのは順当である。すなわち、あるいは、家の門において、あるいは、路地において、あるいは、村において、何も得ないなら、村にあらずと表象を為して、〔その村は〕去り行くべきである。そこにおいて、何ものかを得るなら、その〔村〕を捨棄して、〔他の村に〕去り行くのは順当ではない。そして、この比丘によって、〔村は〕早朝に入るべきである。なぜなら、このように〔早朝に村に入るなら〕、平穏ならざる場を捨棄して、他所に【68】去り行くことができるからである。また、それで、もし、精舎において布施を施している者たちが、あるいは、道の途中において〔こちらに〕やってきつつある人間たちが、彼の鉢を収め取って、〔行乞の〕施食を施すなら、〔それは〕順当である。そして、また、この〔比丘〕によって、〔彼が〕道を行きつつあるとして、行乞の歩みの時刻において得達した村は、超え行かずして、まさしく、歩まれるべきである(素通りしてはならない)。そこにおいて、あるいは、〔何も〕得ずしても、あるいは、僅かを得ても、村の次第次第に歩まれるべきである。ということで、これが、それ(歩々淡々と歩む者の支分)の規定となる。

 

§32  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者は、前から持ち運ばれた行乞〔の食〕もまた、後から持ち運ばれた行乞〔の食〕もまた、〔彼の〕戻るところに持ち運んで施される〔食〕もまた、収め取らない。いっぽう、門口において、鉢を差し出す〔だけのこと〕。まさに、この払拭〔行〕の支分において、マハー・カッサパ(迦葉)長老と相同の者は、まさに、存在しない(ウダーナp.31)。彼のばあい、まさしく、鉢が差し出された状況でさえも、〔今にあって〕覚知される(今日に至るまで伝えられている)。中等なる者は、あるいは、前から〔持ち運ばれたものもまた〕、あるいは、後から持ち運ばれたものもまた、〔彼の〕戻るところに持ち運ばれたものもまた、収め取る。門口においてもまた、鉢を差し出す。いっぽう、行乞〔の食〕を待ちながら坐ることはない。このように、彼は、高尚なる〔行乞の〕施食の者に随順する。柔弱なる者は、その昼のあいだ、坐って〔行乞の食を〕待つ。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、妄動の歩みが生起したのみで、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔歩々淡々と歩む者の支分の〕破壊となる。

 

§33  (5)また、これが、〔歩々淡々と歩む者の支分の〕福利となる。家々において常に新参の者たること。月の如き者たること。家への物惜を捨棄すること。〔差別なき〕平等の慈しみある者たること。家への親近という危険の状態なきこと。招きを喜ばないこと。〔食の〕提供に義(目的)なき者たること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§34  〔そこで、詩偈に言う〕「月の如く、家々において常に新しくある者──物惜〔の思い〕なく、一切にたいし平等の慈しみある者──家への親近という危険から解き放たれた比丘は、ここに、〔家を選ばず〕歩々淡々の歩みある者として〔世に〕有る。

 そして、妄動の歩みを捨棄して、それゆえに、〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、〔一〕ユガ(:長さの単位・一ユガは約二メートル)ばかりを〔隙なく〕見る者となり、地において独存の歩みを望みながら、慧者は、歩々淡々の歩みを歩むがよい」と。

 

 これが、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

28.

 

 5 一坐〔だけの食〕の者の支分

 

§35  【69】(1)一坐〔だけの食〕の者の支分もまた、「種々なる坐の食を、〔わたしは〕拒絶する」「一坐〔だけの食〕の者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その一坐〔だけの食〕の者によって、〔彼が、食のための〕坐堂(共用の食堂)に坐っているなら、長老の坐に坐らずして、「この〔坐〕が、わたしに至り得るであろう(わたしに順当である)」と、適切なる坐が、省察して〔そののち〕、坐られるべきである。それで、もし、〔いまだ〕食が終わらないうちに、彼の、あるいは、師匠(阿闍梨)が、あるいは、師父(和尚)が、やってくるなら、立ち上がって、〔弟子としての〕行持を為すのが順当である。また、ティピタカ・チューラ・アバヤ長老は言った。「あるいは、〔食が終わらないうちは〕坐を守るべきであり(坐から立たない)、あるいは、〔立ち上がったなら〕食を〔守るべきである〕(食を終わらせる)。そして、この、〔いまだ〕食が終わらない者は、それゆえに、〔弟子としての〕行持を為すべきであり、いっぽう、〔立ち上がってそののちは〕食を食べてはならない」と。これが、それ(一坐だけの食の者の支分)の規定となる。

 

§36  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者は、あるいは、少なく有れ、あるいは、多く〔有れ〕、その食に手を下すなら、それより他を収め取ることを得ない。それで、もし、また、人間たちが、「長老は、何も食べなかった」と、酥等々を運び来るなら、まさしく、薬を義(目的)に、〔それを食べるのは〕順当であるが、食を義(目的)に、〔それを食べるのは順当では〕ない。中等なる者は、すなわち、鉢のなかの食べものが尽きないあいだ、それまでは、他を収め取ることを得る。まさに、この者は、「食を制限とする者(制限ある者)」ということに成る(払拭行の無条件の実践者ではない)。柔弱なる者は、すなわち、坐から立ち上がらないあいだ、それまでは、食べることを得る。まさに、彼は、あるいは、すなわち、鉢を洗い清める〔水〕を収め取らないあいだ、それまでは、食べることから、「水を制限とする者」〔ということ〕に成り、あるいは、すなわち、〔坐から〕立ち上がらないあいだ、それまでは、食べることから、「坐を制限とする者」〔ということに成る〕。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、種々なる坐の食を食べた瞬間において、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔一坐だけの食の者の支分の〕破壊となる。

 

§37  (5)また、これが、〔一坐だけの食の者の支分の〕福利となる。少なき病苦たること。少なき病悩たること。〔心身の〕軽快なる状況あること。力あること。平穏の住あること。残余〔の食〕なきを縁とする罪なきこと。味への渇愛を除き去ること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§38  〔そこで、詩偈に言う〕「一坐の食を喜ぶ行者を、食を縁とする諸々の病苦は打ち負かさず、味に妄動なき者は、自己の行為(自業)を遍く衰退させない(※)。

 かくのごとく、平穏の住の契機となり、清らかなる謹厳の喜びが近しく慣れ親しむ、一坐の食に、清浄なる意図ある行者は、喜び〔の思い〕を生じさせるがよい」と。

 

 これが、一坐〔だけの食〕の者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

※ テキストには pariyāpeti とあるが、VRI版により parihāpeti と読む。

 

29.

 

 6 鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分

 

§39  【70】(1)鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分もまた、「第二の器を、〔わたしは〕拒絶する」「鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者によって、粥を飲む時において、器に添えて香味が得られたなら、あるいは、香味が最初に咀嚼されるべきであり、あるいは、粥が〔最初に〕飲まれるべきである。また、それで、もし、粥のなかに〔香味を〕盛るなら、腐った魚等々の香味が盛られたとき、粥は、嫌悪なるものと成る。しかしながら、まさしく、嫌悪ならざるものと為して、遍く受益するのは順当である。それゆえに、そのような形態の香味に関して、このことが説かれた。また、すなわち、蜜や砂糖等の嫌悪ならざるものとして有るものは、それは、盛られるべきである。そして、収め取っている者によって、相応しい量だけが収め取られるべきである。生の野菜を手で収め取って咀嚼するのは順当である。また、そのように為さずして、鉢にこそ、盛られるべきである。また、第二の器を拒絶することから、他〔の器〕として木の葉〔を用いること〕もまた順当ではない。ということで、これが、それ(鉢に盛られた行乞の食のみを食する者の支分)の規定となる。

 

§40  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者のばあい、甘蔗を咀嚼する時より他は、埃でさえも、捨て放つのは順当ではない。握飯や魚や肉や菓子もまた、細別して咀嚼するのは順当ではない。中等なる者のばあい、一つの手で細別して咀嚼するのは順当である。この者は、「手による〔心の〕制止者」ということに〔成る〕。また、柔弱なる者は、「鉢による〔心の〕制止者」ということに成る。彼のばあい、それが、鉢に置くことができるものとして有るなら、その全てを、あるいは、手で、あるいは、諸々の歯で、細別して咀嚼するのは順当である。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、第二の器を受けた瞬間において、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔鉢に盛られた行乞の食のみを食する者の支分の〕破壊となる。

 

§41  (5)また、これが、〔鉢に盛られた行乞の食のみを食する者の支分の〕福利となる。種々なる味への渇愛を除き去ること。求め過ぎを捨棄すること。食について〔本来の〕目的にかなう量の見者たること。小皿等を運ぶ煩苦の状態なきこと。〔心の〕散乱なき食者たること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§42  〔そこで、詩偈に言う〕「種々なる器による〔心の〕散乱を捨棄して、〔注意深く〕眼を落とし、味への渇愛の諸々の根を〔常に〕掘り崩している、善き掟ある者のように──

 自らの形態のままに満足〔の思い〕を〔常に〕保ち持っている、善き意図ある者のように──食を遍く受益できる者として、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の他に、誰がいるというのだろう」と。

 

 これが、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

30.

 

 7 〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分

 

§43  【71】(1)〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分もまた、「残余の食を、〔わたしは〕拒絶する」「〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その〔規定された食〕以後の食を否とする者によって、〔規定された食を〕充足して〔そののちは〕、さらなる食が、工面を為させて受益されるべきではない。これが、それ(規定された食以後の食を否とする者の支分)の規定となる。

 

§44  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者は、すなわち、最初の〔行乞の〕食において、充足は、まさに、存在しないとして、いっぽう、それが飲み下されつつあるとき、他〔の食〕は拒絶するところと成ることから、それゆえに、このように充足した者となり、最初の〔行乞の〕食を飲み下して〔そののちは〕、第二の〔行乞の〕食を食べない。中等なる者は、その食において、充足した者となる、まさしく、その〔食〕を食べる。柔弱なる者は、また、すなわち、坐から立ち上がらないあいだ、それまでは食べる。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、〔規定された食を〕充足した者となり、〔さらなる食の〕工面を為させて食べた瞬間において、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔規定された食以後の食を否とする者の支分の〕破壊となる。

 

§45  (5)また、これが、〔規定された食以後の食を否とする者の支分の〕福利となる。残余の食なき〔を縁とする〕罪から遠き状態あること。飽食の状態なきこと。財貨(食料)の蓄積なきこと。さらなる〔食を〕遍く探求する状態なきこと。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§46  〔そこで、詩偈に言う〕「慧者は、遍く探し求めることによる煩苦に至らず、蓄積を為さない。〔規定された食〕以後の食を否とする〔心の〕制止者は、飽食を捨棄する。

 それゆえに、善き至達者(ブッダ)に賞賛された、〔常に〕満ち足りている徳等の増大を生むものに、この払拭〔行〕の支分に、諸々の〔心の〕汚点を振り払うことを欲する〔心の〕制止者は、親近するがよい」と。

 

 これが、〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

31.

 

 8 林にある者の支分

 

§47  (1)林にある者の支分もまた、「村の外れの臥坐所を、〔わたしは〕拒絶する」「林にある者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 

§48  (2)また、その林にある者によって、村の外れの臥坐所を捨棄して、林のなかで、朝日が迎えられるべきである(日の出は、林のなかで迎えねばならない)。そこにおいて、近接するところを含む村(村落と村落に近接するところを含めた地域一帯)こそが、「村の外れの臥坐所」。「村」というのは、それが何であれ、あるいは、一つの小屋、あるいは、幾つかの小屋、あるいは、〔壁で〕囲まれたもの、あるいは、〔壁で〕囲まれていないもの、あるいは、人間を有するもの、あるいは、人間のいないもの、もしくは、【72】それが何であれ、たとえ、隊商であれ、四月を超えて住居としたもの。「村に近接するところ」というのは、〔壁で〕囲まれた村のばあい、それで、もし、アヌラーダの都のように、二つのインダ(インドラ神)の杭(城市の門柱)が有るなら、「インダの杭の真ん中に立った中等の強さの人の〔投げた〕石の落ちるところである」(ヴィナヤ3p.46)〔と説かれた〕。その〔規定〕の特相としては、「すなわち、若年の人間たちが自己の力を見示しながら腕を伸ばして石を投げるように、このように投げられた石の落ちる箇所の内部である」と、律の保持者たちは〔説く〕。いっぽう、経の専門家たちは、「烏の防護のための方策として投げられた〔石〕の〔落ちる箇所の内部である〕」と説く。〔壁で〕囲まれていない村においては、すなわち、全てのなかで最も外れにある家の門口に立った女性が器でもって水を捨てる、その〔水〕の落ちる箇所が、「家に近接するところ」。その〔箇所〕から、〔前に〕説かれた方法によって、一つの石の落ちるところが、「村」。〔最初の石が落ちたところから投げられた〕第二〔の石の落ちるところ〕が、「村に近接するところ」。

 

§49  また、林は、まずは、律の教相によって、「そして、村を、さらに、村と近接するところを、〔両者を〕除いて、この一切が、林である」(ヴィナヤ3p.46)と説かれた。高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)の教相によって、「インダの杭(城市の門柱)から外に出て、この一切が、林である」(パティサンビダー・マッガ1p.176,ヴィバンガp.251)と説かれた。いっぽう、これについて、経の専門家の教相によって、「『林にある臥坐所』というのは、最低でも、五百弓〔の距離〕あるところである」(ヴィナヤ4p.183)と、この特相が〔説かれた〕。それは、〔標準的な〕師匠の弓が用いられたうえで、〔壁で〕囲まれた村のばあいはインダの杭から〔始めて〕、〔壁で〕囲まれていない〔村〕のばあいは最初の石の落ちるところから始めて、すなわち、精舎の囲いまで、まさしく、計量して、〔限定の範囲が〕定め置かれるべきである。

 

§50  「また、それで、もし、精舎が、囲まれていないものとして有るなら、あるいは、全てのなかで〔村から〕最初にある臥坐所が、あるいは、〔村から最初にある〕食堂(共有の食堂)が、あるいは、〔村から最初にある〕常なる集まりの場が、あるいは、〔村から最初にある〕菩提〔樹〕が、あるいは、〔村から最初にある〕塔廟が、たとえ、もし、それが、臥坐所から遠くに有るとして、それを〔範囲の〕限定と為して、〔距離が〕計量されるべきである」と、諸々の律のアッタカター(注釈書)において説かれた。いっぽう、『マッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)』のアッタカターにおいては、「精舎のばあいもまた、村のばあいのように、近接するところを除外して、〔精舎と村の〕両者の〔外側より投げられた〕石の落ちるところの間が計量されるべきである」と説かれた。ここにおいて、これが、〔しかるべき距離の〕量となる。

 

§51  それで、もし、たとえ、近きところに村が有り、精舎に立つ者たちに人間たちの声が聞こえるとして、いっぽう、山や川等々によって、〔それらが〕間に立ちはだかっていることから、真っすぐに赴くことができず、すなわち、その〔精舎〕への〔地形に応じた〕自然の道が有るなら、それで、もし、また、舟によって〔村と〕行き来するべきであるなら、その道によって、五百弓〔の距離〕が収め取られるべきである(計量されるべきである)。いっぽう、その者が、〔払拭行の〕支分の成就を義(目的)に、近き村への道をそこかしこに塞ぐなら、この者は、払拭〔行〕の支分の盗賊と成る。

 

§52  また、それで、もし、林にある比丘の、あるいは、師父が、あるいは、師匠が、病と成り、林のなかで、彼が正当なる〔薬〕を得ずにいるなら、村の外れの臥坐所に【73】〔病者を〕導いて、奉仕されるべきである。また、ごく早朝に〔村の外れを〕出て、〔払拭行の〕支分に相応しい場において、朝日が迎えられるべきである(日の出は、林のなかで迎えねばならない)。それで、もし、朝日が昇る時刻にあって、彼らの病苦が増大するなら、まさしく、彼らのために、為すべきことが為されるべきである。払拭〔行〕の支分に清浄なる者として有るべきではない。ということで、これが、それ(林にある者の支分)の規定となる。

 

§53  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者によって、一切時において、林のなかで、朝日が迎えられるべきである。中等なる者は、雨期の四つの月のあいだは、村の外れに住することを得る。柔弱なる者は、冬もまた、〔村の外れに住することを得る〕。また、これらの三者もろともにとって、限定されたとおりの時に林からやってきて、村の外れの臥坐所において、法(教え)を聴聞し聞いているなら(彼らが説法の場にいるなら)、たとえ、朝日が昇ったとして、払拭〔行〕の支分は破壊されない。聞いて〔そののち〕、〔林へと〕赴きつつ、道の途中で、たとえ、〔朝日が〕昇ったとして、〔払拭行の支分は〕破壊されない。

 (4)また、それで、もし、法(教え)の言説者(説法する者)が立ち上がったときもなお、「〔わたしたちは〕寸時のあいだ横になって、〔それから〕赴くのだ」と眠りつつ、朝日が昇るなら──あるいは、自己の好みで、村の外れの臥坐所において、朝日を迎えるなら──払拭〔行〕の支分は破壊される。ということで、ここにおいて、これが、〔林にある者の支分の〕破壊となる。

 

§54  (5)また、これが、〔林にある者の支分の〕福利となる。林にある比丘は、林の表象に〔常に〕意を為しつつ、あるいは、〔いまだ〕得られていない禅定(三昧・定)を獲得することが可能となり、あるいは、〔すでに〕得られた〔禅定〕を守護することが〔可能となる〕。〔世の〕教師たる方(ブッダ)もまた、彼に、わが意を得た者と成る。すなわち、〔世尊が〕言うように、「ナーギタ(人名)よ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります」(アングッタラ・ニカーヤ3p.343)と。そして、その辺地の臥坐所の住者の心を、不当なる形態()等々が散乱することはない。〔彼は〕恐慌が離れ去った者と成り、生命にたいする欲念を捨棄し、遠離の安楽の味を味わう。さらに、糞掃衣の者等の状態もまた、彼にとって、適切なるものと成る。ということで──

 

§55  〔そこで、詩偈に言う〕「〔世俗から〕遠離し、〔他者と〕交わらず、辺地の臥坐所を喜ぶ者となり、林に住することで、〔世の〕主たる方(ブッダ)の意図を喜ばせながら──

 独り、林のなかに住している行者が得る、その安楽──その〔安楽〕の味を見出すことは、たとえ、インダ(インドラ神)を含む天〔の神々〕たちであれ、ない。

 そして、この者こそは、糞掃衣を鎧のように〔身に〕保ちながら、林の戦場に赴き、残りの払拭〔行の支分〕ゆえに戦士となる。

 まさしく、長からずして、〔彼は〕軍勢を有する悪魔に勝つことができる者となる。それゆえに、賢者たる者は、林に住することに喜びを作り為すがよい」と。

 

 これが、林にある者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

32.

 

 9 木の根元にある者の支分

 

§56  【74】(1)木の根元にある者の支分もまた、「〔屋根に〕覆われた〔臥坐所〕を、〔わたしは〕拒絶する」「木の根元にある者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その木の根元にある者によって、〔聖なる〕境界(結界・戒壇)の内にある木、塔廟の木、樹脂の木、果実の木、蝙蝠の木、空洞の木、精舎の中央に立っている木、という、これらの木々を避けて、精舎の片隅に立っている木が収め取られるべきである。ということで、これが、それ(木の根元にある者の支分)の規定となる。

 

§57  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者は、〔自己の〕好みのままに木を収め取って、〔他者に〕手伝わせることを得ない。足で落葉を取り去って、住されるべきである。中等なる者は、その場に至り得た者たちによってだけ、手伝わせることを得る(居合わせた者たちの世話になる)。柔弱なる者であるなら、園丁(寺男)や見習い沙門(沙弥)たちを呼んで、〔場を〕清めさせて、平坦に作り為させて、砂を振りまいて、垣の囲いを作り為させて、門を閉ざして、住されるべきである。また、〔斎戒などの〕大いなる日には、木の根元にある者は、そこにおいて坐らずして、他所において、〔屋根に〕覆われた場において坐るべきである。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、〔屋根に〕覆われた〔臥坐所〕に住を設けた瞬間において、払拭〔行〕の支分は破壊される。「知って〔そののち〕(わかっていながら故意に)、〔屋根に〕覆われた〔臥坐所〕において、朝日を迎えたときのみ、〔払拭行の支分は破壊される〕」と、『アングッタラ〔ニカーヤ〕(増支部経典)』の朗読者たちは〔説く〕。ここにおいて、これが、〔木の根元にある者の支分の〕破壊となる。

 

§58  (5)また、これが、〔木の根元にある者の支分の〕福利となる。「出家は、木の根元の臥坐所に依拠して」(ヴィナヤ1p.58)という言葉から、〔衣食住薬という四つの〕依所に適切なる実践の発生あること。「まさしく、そして、価値少なきものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それらは、罪過なきものです」(アングッタラ・ニカーヤ2p.26)と、世尊によって等しく褒め称えられた日用品たること。間断なく若葉の変化を見ることで無常の表象(無常想)を現起させること。臥坐所への物惜と〔臥坐所を設営する〕行為に喜びあることの〔両者の〕状態なきこと。天神たちとの共住あること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§59  〔そこで、詩偈に言う〕「最勝の覚者(ブッダ)によって褒め称えられ、さらに、『依所』と語られたもの──〔世俗から〕遠離した者の居住所として、木の根元に等しきものが、どこにあるというのだろう。

 居住所への物惜〔の思い〕を運び去り、天神に遍く守られたところ──まさに、〔世俗から〕遠離した木の根元に住しながら、善き掟の者は──

 【75】藍や黄に染まり、そして、落ちていった諸々の若葉を見ながら、常住の表象を除き去る。

 まさに、それゆえに、覚者の遺産にして、修行を喜ぶ者の基底たるものを、〔世俗から〕遠離した木の根元を、明眼の者は軽んじぬがよい」と。

 

 これが、木の根元にある者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

33.

 

 10 野外にある者の支分

 

§60  (1)野外にある者の支分もまた、「そして、〔屋根に〕覆われた〔臥坐所〕を、さらに、木の根元も、〔わたしは〕拒絶する」「野外にある者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その野外にある者にとって、あるいは、法(教え)の聴聞のために、あるいは、斎戒(布薩)を義(目的)として、斎戒堂に入るのは順当である。それで、もし、入った者に、天が雨を降らせるなら、天が雨を降らせているときは〔外に〕出ずして、雨が止むときに出るべきである。あるいは、食堂に〔入って〕、あるいは、火堂(台所)に入って、行持を為すのは〔順当である〕。食堂において、長老の比丘たちに、食べたあとで問い尋ねるのは〔順当である〕。あるいは、誦説しつつあるなら、あるいは、修学しつつあるなら、〔屋根に〕覆われた〔臥坐所〕に入るのは〔順当である〕。さらに、外にだらしなく置かれた諸々の臥床や椅子等々を内に導き入れるのも順当である。それで、もし、道を赴きつつあるとして、年長者たちの必需品(生活用品)が収め取られ、〔手に〕有るなら(年長者たちの生活用品を手に道を行くなら)、天が雨を降らせているとき、道中に立っている堂に入るのは順当である。それで、もし、何も収め取られずに有るなら、「堂のなかで待機するのだ」と、勢いよく赴くのは順当ではない。いっぽう、〔生来の〕性向の赴き方(自然の歩調)で赴いて、〔小屋に〕入ったなら、すなわち、雨が止むまで待機して、赴くべきである。ということで、これが、それ(野外にある者の支分)の規定となる。木の根元にある者にとってもまた、まさしく、これが、〔共通する〕方法となる。

 

§61  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者のばあい、あるいは、木に、あるいは、山に、あるいは、家に、近しく依拠して住するのは順当ではない。まさしく、野外において、衣料の小屋を作って、住されるべきである。中等なる者のばあい、木や山や家に近しく依拠して、内に入らずして住するのは順当である。柔弱なる者のばあい、制約となる覆い(風雨を遮断する岩棚)がない山腹もまた、枝の天幕もまた、糊の〔効いた〕布切れもまた、田畑の守り手(農夫)等々によって捨てられそこに立っている小屋もまた、順当である、と〔知られるべきである〕。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、住を義(目的)として、あるいは、〔屋根に〕覆われた〔臥坐所〕に、あるいは、木の根元に(※)、入った瞬間において、【76】払拭〔行〕の支分は破壊される。「知って〔そののち〕、そこにおいて、朝日を迎えたときのみ、〔払拭行の支分は破壊される〕」と、『アングッタラ〔ニカーヤ〕(増支部経典)』の朗読者たちは〔説く〕。ここにおいて、これが、〔野外にある者の支分の〕破壊となる。

 

※ テキストには channañ ca rukkhamūlañ ca とあるが、VRI版により channa vā rukkhamūla vā と読む。

 

§62  (5)また、これが、〔野外にある者の支分の〕福利となる。居住の障害を断ち切ること。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を除き去ること。「鹿たちのように、執着なく歩む者たち──比丘たちは、家なき者たちとして〔世に〕住む」(サンユッタ・ニカーヤ1p.199)という賞賛に適切なること。執着なきこと。四方の者(四方に慈しみある不害の者)たること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§63  〔そこで、詩偈に言う〕「家なき状態に適切にして、得難きものにあらざるところ──星の宝珠の天蓋のもと、月の灯明に照らされたところ──

 野外に住しつつ、比丘は、鹿と成った心で、〔心の〕沈滞と眠気を除き去って、修行の喜びに依拠した者となる。

 遠離の味の美味なるものを、まさしく、長からずして見出すことから、すなわち、まさに、それゆえに、智慧を有する者は、野外を喜ぶ者となり、〔世に〕存するがよい」と。

 

 これが、野外にある者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

34.

 

 11 墓場にある者の支分

 

§64  (1)墓場にある者の支分もまた、「墓場を、〔わたしは〕拒絶しない」「墓場にある者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その墓場にある者によって、すなわち、人間たちが〔新たな〕村を住居としながら、「これが墓場である」と定め置くも、そこにおいては住されるべきではない。なぜなら、死んだ肉体が燃やされていないなら、それは、「墓場」ということには成らないからである。いっぽう、〔最後に肉体が〕燃やされた時から以降、たとえ、それで、もし、十二年のあいだ捨て放たれたとして、それは、まさしく、「墓場」〔ということに成る〕。

 

§65  また、その〔墓場〕に住している者によって、歩行場や天幕等々を作らせて、臥床や椅子を設けさせて、飲み物や食べ物を供えさせて、法(教え)を教授しつつ住されるべきではない。なぜなら、この払拭〔行の〕支分は、重きものであり、それゆえに、生起した危難の打破を義(目的)として、あるいは、僧団の長老に、あるいは、王の属吏に、〔あらかじめ〕知らせて、〔気づきを〕怠らない者によって住されるべきである。歩行〔瞑想〕をしているなら、半眼となり、火葬場を眺め見ながら、【77】歩行〔瞑想〕がされるべきである。墓場へと赴きつつあるもまた、大道から外れて、道ならざる道(脇道)によって赴くべきである。まさしく、昼から、〔認識の〕対象(所縁)が定め置かれるべきである。なぜなら、このように〔為すなら〕、彼にとって、その〔対象〕は、夜に、恐怖させるものと成らないからである。人間ならざるもの(精霊・悪霊)たちが、夜に、たとえ、吠え叫んでは吠え叫んで逍遥しているとして、何によってであれ、〔彼らは〕打たれるべきではない(石や木等々で追い払ってはならない)。たとえ、一日であれ、墓場に赴かないのは順当ではない。「中夜(真夜中)を墓場で過ごして、後夜(明け方)に戻ってくるのは順当である」と、『アングッタラ〔ニカーヤ〕(増支部経典)』の朗読者たちは〔説く〕。人間ならざるものたちの愛好するもの、胡麻の粉や豆の食や魚(※)や肉や乳や油や砂糖等の固形の食料や軟らかい食料は、慣れ親しむべきではない(使用してはならない)。〔人間ならざる者たちが彼に付き従うので〕良家の家は、入るべきではない(出入りしてはならない)。ということで、これが、それ(墓場にある者の支分)の規定となる。

 

※ テキストには majjha とあるが、VRI版により maccha と読む。

 

§66  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者によって、すなわち、諸々の常なる燃焼と常なる死骸と常なる悲泣が存するところであるなら、まさしく、そこにおいて、住されるべきである。中等なる者のばあい、三つのうち、たとえ、一つでも存しているなら、順当である。柔弱なる者のばあい、〔前に〕説かれた方法による墓場の特相に至り得たのみで、順当である。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、墓場に住を設けないことで、払拭〔行〕の支分は破壊される。「墓場に赴かなかった日において〔破壊される〕」と、『アングッタラ〔ニカーヤ〕(増支部経典)』の朗読者たちは〔説く〕。ここにおいて、これが、〔墓場にある者の支分の〕破壊となる。

 

§67  (5)また、これが、〔墓場にある者の支分の〕福利となる。死についての気づき(死念)を獲得すること。不放逸の住者(気づきの実践者)たること。浄美ならざる形相の到達あること。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を除き去ること。間断なく身体の自ずからの状態(自性:固有の性能)を見ること。畏怖の〔思い〕多きこと。無病の驕り等を捨棄すること。〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを打ち負かすこと。人間ならざるものたちに重き者として尊ばれること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§68  〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、死の随念(死随念)が増加することから、墓場にある者には、たとえ、眠りに赴いたとして、諸々の放逸の汚点が触れることはない。そして、多くの死骸を〔常に〕正しく見ている彼には、欲望の威力と支配に赴いた(※)心もまた有ることはない。

 広大なる畏怖〔の思い〕へと至り、〔心の〕驕りには近づかず、そこで、寂滅〔の境処〕を探し求めながら、正しく勤める。墓場にある者の支分は、かくのごとく、無数の徳をもたらすことから、涅槃に向かい行く心臓(心)によって慣れ親しまれるべきである」と。

 

 これが、墓場にある者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

※ テキストには kāmānurāgavavasagam とあるが、VRI版により kāmānubhāvavasagam と読む。

 

35.

 

 12 〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分

 

§69  【78】(1)〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分もまた、「臥坐所への妄動を、〔わたしは〕拒絶する」「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者によって、すなわち、彼の臥坐所が、「この〔臥坐所〕は、あなたに至り得る(あなたにふさわしい)」と、収め取らされたものとして有るなら、それだけで満足するべきである。〔彼のために、臥坐所から〕他の者が立ち退かされるべきではない。これが、それ(坐具が広げられたとおりの場所にある者の支分)の規定となる。

 

§70  (3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者は、自己に至り得た臥坐所のことを、あるいは、「遠くにあるのか」と、あるいは、「ごく近くにあるのか」と、あるいは、「人間ならざるものや長いものの類(蛇)等々に悩まされたことがあるのか」と、あるいは、「暑いのか」と、あるいは、「寒いのか」と、尋ねることを得ない。中等なる者は、尋ねることを得る。いっぽう、赴いて、眺め見ることを得ない。柔弱なる者は、赴いて、眺め見て、それで、もし、それが、彼にとって好ましくないなら、他を収め取ることを得る。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、臥坐所への妄動が生起したのみで、払拭〔行〕の支分は破壊される。ということで、ここにおいて、これが、〔坐具が広げられたとおりの場所にある者の支分の〕破壊となる。

 

§71  (5)また、これが、〔坐具が広げられたとおりの場所にある者の支分の〕福利となる。「それが得られたなら、それで満足するべきである」(ヴィナヤ4p.259・ジャータカ1p.476)と説かれた教諭を為すこと。梵行を共にする者たちの益を求める者たること。下劣なるものと精妙なるものの分別(劣勝の価値判断)を完全に捨て去ること。共感と反感(好き嫌いの感情)を捨棄すること。求め過ぎの門を閉めること。少なき欲求たること等々に随順する生活者たること。ということで──

 

§72  〔そこで、詩偈に言う〕「それが得られたなら、それで満ち足りている者として、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある行者は、〔下劣なるものと精妙なるものの〕分別なき者であり、たとえ、諸々の草の敷物のうえでも、安楽に臥す。

 彼は、最勝なるものに染まらない(執着しない)。下劣なるものを得ても怒らない。梵行を共にする新参の者たちを、益によって慈しむ。

 それゆえに、正しくある聖者たちによって習行され、〔人の〕牛主たる牟尼(ブッダ)によって褒め称えられた〔臥坐所のあり方〕である、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕を喜びとすることに、思慮ある者は専念するがよい」と。

 

 これが、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

36.

 

 13 常坐〔にして不臥〕なる者の支分

 

§73  (1)常坐〔にして不臥〕なる者の支分もまた、「臥所を、〔わたしは〕拒絶する」「常坐〔にして不臥〕なる者の支分を、〔わたしは〕受持する」という、これらのなかの、どちらか一つの言葉によって、受持されたものと成る。

 (2)また、その常坐〔にして不臥〕なる者によって、夜の三つの時期(初夜・中夜・後夜)のうち、〔常坐ならざる者が眠りに就くべき〕一つの時期(中夜)を、〔眠らずに〕起きて、歩行〔瞑想〕がされるべきである。なぜなら、〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥)のうち、まさしく、横になるのは、順当ではないからである。これが、それ(常坐にして不臥なる者の支分)の規定となる。

 

§74  【79】(3)また、細別〔の観点〕から、これもまた、三種類のものと成る。そこにおいて、高尚なる者のばあい、寄り掛かるものは、まさしく、〔順当では〕なく、うずくまって坐すための布は〔順当では〕なく、〔倒れないように身を〕結び付ける紐は順当ではない。中等なる者のばあい、これらの三つのうち、それが何であれ、順当である。柔弱の者は、寄り掛かるものもまた、うずくまって坐すための布もまた、〔倒れないように身を〕結び付ける紐もまた、枕もまた、五つの支分ある〔椅子〕もまた、七つの支分ある〔椅子〕もまた、順当である。「五つの支分ある〔椅子〕」というのは、〔四本の足の他に第五の支分として〕背の寄り掛かりを含めて作られたもの。「七つの支分ある〔椅子〕」というのは、そして、〔四本の足の他に第五の支分として〕背の寄り掛かりを、さらに、〔第六と第七の支分として〕両脇の寄り掛かりを、〔それらを〕含めて作られたもの。伝えるところでは、〔人々は〕それを、ミールハーバヤ長老のために作った。長老は、不還たる者と成って〔そののち〕、完全なる涅槃に到達した。

 (4)また、これらの三者もろともにとって、臥所を設けたのみで、払拭〔行〕の支分は破壊される。ここにおいて、これが、〔常坐にして不臥なる者の支分の〕破壊となる。

 

§75  (5)また、これが、〔常坐にして不臥なる者の支分の〕福利となる。「横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます」(マッジマ・ニカーヤ1p.103)と説かれた心の結縛を断ち切ること。一切の〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)への専念に正当なること。〔他者の信を惹起する〕浄信ある振る舞いの道たること。精進に励むことに随順すること。正しい実践を増進すること。ということで──

 

§76  〔そこで、詩偈に言う〕「結跏を組んで、体躯を真っすぐに立てて、〔常に〕坐っている行者は、悪魔の心臓を動揺させる。

 横臥の楽しみと睡眠の楽しみを捨棄して、精進に励み、〔常〕坐を喜ぶ比丘として、苦行の林を美しく荘厳しながら──

 すなわち、財貨なき喜悦と安楽に正しく到達することから、それゆえに、慧者は、〔常〕坐の掟に専念するがよい」と。

 

 これが、常坐〔にして不臥〕なる者の支分における受持と規定と細別と破壊と福利の解説となる。

 

37.

 

 払拭〔行〕についての雑駁なる言説(※)

 

※ テキストには Dhutādīna kusalattikato とあるが、VRI版により Dhutagapakiṇṇakakathā と読む。

 

§77  今や──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、(八)善なるもの〔等〕の三つのもの〔の観点〕から、(九)払拭等々の区分〔の観点〕から、さらに、また、(十)総合と(十一)分析〔の観点〕から、〔払拭行についての〕判別〔の方法〕が識知されるべきである」(§3)という──

 

 この詩偈を所以に、〔以下の〕解説と成る。

 

§78  (八)そこにおいて、「善なるもの〔等〕の三つのもの〔の観点〕から」とは、まさに、まさしく、払拭〔行〕の支分の全てが、〔いまだ〕学びある者と凡夫と煩悩の滅尽者たちを所以に、(1)善なるものとして存在するであろうし、(2)〔善悪が〕説き明かされないもの(無記)として存在するであろうが、【80】(3)善ならざるものとして、払拭〔行〕の支分が存在することはない、と〔知られるべきである〕。また、すなわち、〔一部の者が〕説くかもしれない。「『悪しき欲求ある者が、欲求に支配された者が、林にある者として〔世に〕有ります』(アングッタラ・ニカーヤ3p.219)という言葉等から、善ならざるものとしてもまた、払拭〔行〕の支分は〔存在するのでは〕」と。彼は、〔以下のように〕説かれるべきである。

 わたしたちは、「善ならざる心で、林に住することはない」と説くのではない(善ならざる心で、林に住することもある)。なぜなら、彼の居住が林にあるなら、彼は、林にある者であり、そして、彼は、あるいは、悪しき欲求ある者として〔世に〕有るであろうし、あるいは、少なき欲求の者として〔世に有るであろう〕からである。また、これら〔の払拭行〕は、それぞれの受持によって、〔心の〕汚れ(煩悩)の払拭あることから、払拭〔行〕の比丘にとって、諸々の支分となり、あるいは、〔心の〕汚れを払拭することから、「払拭」という語用を得た知恵(知・智)が、これら〔の払拭行〕にとって、支分となる、ということで、「諸々の〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分」〔と説かれ〕、さらに、あるいは、それらの払拭〔行〕は、そして、相反するもの〔である心の汚れ〕を払拭することから、さらに、実践のための諸々の支分である、ということでもまた、「諸々の〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分」と説かれた。彼に、これら〔の払拭行〕の支分が有るとして、しかしながら、善ならざるものによっては、何であれ、「払拭」ということには成らない。それら〔の受持〕があるなかで、その〔善ならざるもの〕を支分と為して、〔それらの受持が〕「諸々の〔俗塵の〕払拭〔行〕の支分」と説かれるとして、しかしながら、善ならざるものは、何であろうが払拭しない。善ならざるものは、まさしく、そして、衣料への妄動等々を払拭することも、さらに、実践の支分と成ることも、ともにない。それゆえに、このことが、見事に説かれた。「善ならざるものとして、払拭〔行〕の支分が存在することはない」と。

 

§79  すなわち、また、払拭〔行〕の支分が、善なるもの〔等〕の三つのものから解き放たれた〔単なる言葉〕としてある、そのような者たちにとっては、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、払拭〔行〕の支分は存在しない。存在していないものが、何を払拭することから、「払拭〔行〕の支分」ということに成るのだろう。さらに、「諸々の払拭〔行〕の徳を受持して、行持する」という言葉の矛盾もまた、彼らに惹起する。それゆえに、その〔説〕は収め取られるべきではない(採用できない)。ということで──

 まずは、これが、善なるもの〔等〕の三つのもの〔の観点〕からの解説となる。

 

§80  (九)「払拭等々の区分〔の観点〕から」とは──

 (1)払拭が、知られるべきである。(2)払拭の論が、知られるべきである。(3)諸々の払拭の法(性質)が、知られるべきである。(4)諸々の払拭〔行〕の支分が、知られるべきである。(5)「誰にとって、払拭〔行〕の支分に慣れ親しむことが正当であるのか」と知られるべきである。

 

§81  (1)そこにおいて、「払拭」とは、あるいは、〔心の〕汚れが払拭された人、あるいは、〔心の〕汚れを払拭する法(性質)のこと。

 (2)また、「払拭の論」とは、ここにおいて、(2―1)払拭者として存在し、払拭の論ある者として〔存在し〕ない──(2―2)払拭者として存在せず、払拭の論ある者として〔存在する〕──(2―3)まさしく、払拭者としても存在せず、払拭の論ある者としても〔存在し〕ない──(2―4)まさしく、そして、払拭者としても存在し、さらに、払拭の論ある者としても〔存在する〕──〔という、四者の比丘が知られるべきである〕。

 

§82  (2―1)そこにおいて、その〔比丘〕が、払拭〔行〕の支分によって、自己の諸々の〔心の〕汚れを払拭したとして、いっぽう、他者を、払拭〔行〕の支分によって教諭せず教示しないなら、バックラ長老のように、この者は、払拭者であり、払拭の論ある者ではない。すなわち、〔世尊が〕言うように、「〔まさに〕その、この者は、尊者バックラは、払拭者であり、払拭の論ある者ではありません」(典拠不詳)と。(2―2)また、その〔比丘〕が、【81】払拭〔行〕の支分によって、自己の諸々の〔心の〕汚れを払拭していないとして、単に、他者たちを、払拭〔行〕の支分によって教諭し教示するなら、ウパナンダ長老にように、この者は、払拭者ではなく、払拭の論ある者である。すなわち、〔世尊が〕言うように、「〔まさに〕その、この者は、尊者ウパナンダ釈子は、払拭者ではなく、払拭の論ある者です」(典拠不詳)と。(2―3)その〔比丘〕が、〔払拭と払拭の論の〕両者の堕落者であるなら、ラールダーインのように、この者は、まさしく、払拭者でもなく、払拭の論ある者でもない。すなわち、〔世尊が〕言うように、「〔まさに〕その、この者は、尊者ラールダーインは、まさしく、払拭者でもなく、払拭の論ある者でもありません」(典拠不詳)と。(2―4)また、その〔比丘〕が、〔払拭と払拭の論の〕両者の成就者であるなら、法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)のように、この者は、まさしく、そして、払拭者でもあり、さらに、払拭の論ある者でもある。すなわち、〔世尊が〕言うように、「〔まさに〕その、この者は、尊者サーリプッタは、まさしく、そして、払拭者でもあり、さらに、払拭の論ある者でもあります」(典拠不詳)と。

 

§83  (3)「諸々の払拭の法(性質)が、知られるべきである」とは、(3―1)少なき欲求たること、(3―2)満ち足りていること、(3―3)謹厳たること、(3―4)遠離たること、(3―5)この〔法〕を義(目的)とすること、という、これらの五つの法(性質)が、払拭〔行〕の支分への思欲(:心の思い・意志)に付属するものとしてあり、「まさしく、少なき欲求たることに依拠して」(アングッタラ・ニカーヤ3p.219)という言葉等から、「諸々の払拭の法(性質)」ということになる。

 

§84  (3―1・3―2)そこにおいて、そして、少なき欲求たること(少欲)は、さらに、満ち足りていること(知足)は、貪欲なき〔あり方〕(無貪)において従起する。(3―3・3―4)そして、謹厳たることは、さらに、遠離たることは、かつまた、貪欲なき〔あり方〕において、かつまた、迷妄なき〔あり方〕(無痴)において、二つの法(性質)において従起する。(3―5)この〔法〕を義(目的)とすることは、まさしく、知恵である。そこにおいて、貪欲なき〔あり方〕によって、諸々の拒絶の事物(納受を拒絶するべき物品)にたいする貪欲を〔払拭し〕、迷妄なき〔あり方〕によって、まさしく、それら〔の拒絶の事物〕における危険を隠蔽する迷妄を払拭する。さらに、貪欲なき〔あり方〕によって、諸々の承認された〔物品〕の受用を要因として転起された欲望の安楽への専念(快楽主義)を〔払拭し〕、迷妄なき〔あり方〕によって、諸々の払拭〔行〕の支分における過度の謹厳を要因として転起された自己の疲弊への専念(苦行主義)を払拭する。それゆえに、これらの〔五つの〕法(性質)が、諸々の払拭の法(性質)である、と知られるべきである。

 

§85  (4)「諸々の払拭〔行〕の支分が、知られるべきである」とは、(1)糞掃衣の者の支分……略……(13)常坐〔にして不臥〕なる者の支分、という、十三の払拭〔行〕の支分が知られるべきである。それらは、義(意味)〔の観点〕から、さらに、特相等々〔の観点〕から、まさしく、〔前に〕説かれた。

 

§86  (5)「誰にとって、払拭〔行〕の支分に慣れ親しむことが正当であるのか」とは、まさしく、そして、貪欲の行ないの者(貪欲の資質が強い者)にとって、さらに、迷妄の行ないの者(迷妄の資質が強い者)にとって。何ゆえにか。なぜなら、払拭〔行〕の支分に慣れ親しむことは、まさしく、そして、苦なる〔実践の〕道であり、さらに、謹厳の住であるからである。そして、苦なる〔実践の〕道に依拠して、貪欲()は寂止する。謹厳〔の住〕に依拠して、〔気づきを〕怠りなくあるなら、迷妄()は捨棄される。あるいは、林にある者の支分と木の根元にある者の支分の受用は、ここにおいて、憤怒の行ないの者(憤怒の資質が強い者)にとってもまた、正当である。なぜなら、そこにおいて、その〔比丘〕が、〔他者と〕相打つことなく住んでいると、憤怒()もまた寂止するからである。ということで──

 これが、払拭〔行〕等々の区分〔の観点〕からの解説となる。

 

§87  【82】(十・十一)「総合と分析〔の観点〕から」とは──

 (十)また、これらの払拭〔行〕の支分は、総合〔の観点〕から、三つのものが、頭目たる支分としてあり、五つのものが、混入なき支分としてある、ということで、まさしく、八つのものと成る。そこにおいて、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分、一坐〔だけの食〕の者の支分、野外にある者の支分、という、これらの三つのものが、頭目たる支分である。なぜなら、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分を守っている者は、〔行乞の〕施食の者の支分をもまた守ることになるからであり、さらに、一坐〔だけの食〕の者の支分を守っている者にとっては、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分と〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分もまた、善く守られるべきものとして有るからであり、野外にある者の支分を守っている者にとって、木の根元にある者の支分と〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分において守るべきものとして、いったい、〔これ以上の〕何が存するというのだろう(当然のことながら守られている)。ということで、これらの三つのものが、頭目たる支分である。そして、林にある者の支分、糞掃衣の者の支分、三つの衣料の者の支分、常坐〔にして不臥〕なる者の支分、墓場にある者の支分、という、これらの五つのものが、混入なき支分である。ということで、まさしく、八つのものと成る。

 

§88  さらに、二つのものが、衣料に関係したものとしてあり、五つのものが、〔行乞の〕施食に関係したものとしてあり、五つのものが、臥坐所に関係したものとしてあり、一つのものが、精進に関係したものとしてある、ということで、このように、まさしく、四つのものと成る。そこにおいて、常坐〔にして不臥〕なる者の支分は、精進に関係したものであり、諸他のものは、まさしく、明白である。さらに、まさしく、全てのものが、依所を所以に、日用品(生活必需品)に依拠した十二のもの、精進に依拠した一つのもの、という、二つのものと成る。慣れ親しまれるべきものと慣れ親しまれるべきではないものを所以にもまた、まさしく、二つのものと成る。なぜなら、〔諸々の払拭行の支分に〕慣れ親しんでいるその〔比丘〕に、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)が増大するなら、〔それらの支分は〕彼によって慣れ親しまれるべきものとしてあり、〔諸々の払拭行の支分に〕慣れ親しんでいるその〔比丘〕に、〔心を定める行為の拠点が〕退失するなら、〔それらの支分は〕彼によって慣れ親しまれるべきではないものとしてあるからである。また、その〔比丘〕が、慣れ親しんでいようが、慣れ親しんでいなかろうが、まさしく、〔心を定める行為の拠点が〕増大し、退失しないなら、〔それらの支分は〕彼によってもまた、後〔世〕の人民を慈しみながら、慣れ親しまれるべきものとしてある。たとえ、その〔比丘〕が、慣れ親しんでいようが、慣れ親しんでいなかろうが、〔心を定める行為の拠点が〕増大しないなら、〔それらの支分は〕彼によってもまた、未来への習慣づけ(薫習)を義(目的)として、まさしく、慣れ親しまれるべきものとしてある。ということで、このように、慣れ親しまれるべきものと慣れ親しまれるべきではないものを所以にもまた、二種類のものと〔成る〕。

 

§89  まさしく、全てものが、思欲を所以に、一種類のものと成る。なぜなら、払拭〔行〕の支分は、受持への思欲、という、まさしく、一つのものとしてあるからである。アッタカター(注釈書)においてもまた説かれた。「『それが、思欲であるなら、それは、払拭〔行〕の支分である』と、〔人々は〕説く」と。

 

§90  (十一)また、分析〔の観点〕から、比丘たちのための十三のもの、比丘尼たちのための八つのもの、沙弥たちのための十二のもの、〔女性の〕習学者と沙弥尼たちのための七つのもの、在俗信者(優婆塞)と女性在俗信者(優婆夷)たちのための二つのもの、という、四十二のものと成る。

 

§91  また、それで、もし、林にある者の支分を成就した墓場が野外に有るなら、たとえ、一者の比丘であれ、一挙に一切の払拭〔行〕の支分を遍く受益することができる。いっぽう、比丘尼たちのばあい、林にある者の支分は、さらに、〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分は、二つのものともどもに、まさしく、学びの境処(戒律)によって拒絶するところとなる。野外にある者の支分、【83】木の根元にある者の支分、墓場にある者の支分、という、これらの三つのものは守り抜き難く、まさに、比丘尼のばあい、〔連れとなる〕第二者なくして住するのは順当ではない。そして、このような形態の場において、〔払拭行への〕欲〔の思い〕を等しくする第二者(志を等しくする朋友)は得難く、それで、もし、たとえ、〔そのような者を〕得るとして、〔そのときは、他者との〕交わりある住から解き放たれないであろう。このように存しているなら、その義(目的)にために、〔彼女が〕払拭〔行〕に慣れ親しむとして、まさしく、その、彼女の義(目的)は成就しないであろう。このように、遍く受益することができないことから、五つのものを減らして、比丘尼たちには、八つのものだけが有る、と知られるべきである。

 

§92  また、〔前に〕説かれたとおり〔の十三の支分〕のうち、三つの衣料の者の支分を除いて、沙弥たちには、残りの十二のものが〔有り〕、〔女性の〕習学者と沙弥尼たちには、七つのものが〔有る、と〕知られるべきである。また、在俗信者と女性在俗信者たちには、一坐〔だけの食〕の者の支分、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の支分、という、これらの二つのものが、まさしく、そして、適切であり、さらに、遍く受益することができる、ということで、二つの払拭〔行〕の支分が〔有る〕。ということで、このように、分析〔の観点〕から、四十二のものと成る。ということで──

 これが、総合と分析〔の観点〕からの解説となる。

 

§93  そして、これだけで、「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が〔云々〕」(Ch.0§1)という、この詩偈の、戒と禅定と智慧の門によって説示された清浄の道における、少なき欲求たることや満ち足りていること等々のそれらの諸徳によって、〔前に〕説かれた流儀の戒の浄化が有り、それら〔の諸徳〕の成就を義(目的)に、受持されるべき払拭〔行〕の支分についての言説が、語られたものと成る。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、「払拭〔行〕の支分についての釈示」という名の第二章となる。