第十六章 機能と真理についての釈示

 

525.

 

 1 諸々の機能

 

§1  【491】また、諸々の界域の直後に配置された(Ch.14§32)、「諸々の機能()」とは、眼の機能(眼根)、耳の機能(耳根)、鼻の機能(鼻根)、舌の機能(舌根)、身の機能(身根)、意の機能(意根)、女の機能(女根)、男の機能(男根)、生命の機能(命根)、安楽の機能(楽根)、苦痛の機能(苦根)、悦意の機能(喜根)、失意の機能(憂根)、放捨の機能(捨根)、信の機能(信根)、精進の機能(精進根)、気づきの機能(念根)、禅定の機能(定根)、智慧の機能(慧根)、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能、了知の機能、了知者の機能、という、二十二の機能である。

 

§2  そこにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)義(意味)〔の観点〕から、(2)特相等々〔の観点〕から、そして、(3)順番〔の観点〕から、(4)細別あるものと細別なきもの〔の観点〕から、そのように、(5)作用〔の観点〕から、さらに、(6)境地〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである」〔と〕。

 

§3  (1)そこにおいて、まずは、眼等々のばあい、「見る(チャッカティ)、ということで、『眼(チャック)』」(Ch.15§3)という〔言葉〕等の方法によって、〔すでに〕義(意味)は明示された。また、最後の三つについて。第一のものは、〔修行の〕前段部分において、「〔いまだ〕了知されていない不死の境処(涅槃)を、あるいは、〔いまだ了知されていない〕四つの真理(四諦)の法(性質)を、〔わたしは〕了知するであろう」と、このように、〔道の〕実践者に生起することから、さらに、機能の義(意味)の発生あることから、「『了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう』という機能」と説かれた。第二のものは、了知することから、さらに、機能の義(意味)の発生あることから、「了知の機能」〔と説かれた〕。第三のものは、四つの真理についての知恵と為すべきことの終了者にして煩悩の滅尽者たる了知者に生起することから、さらに、機能の義(意味)の発生あることから、「了知者の機能」〔と説かれた〕。

 

§4  「また、何が、それら〔の二十二の機能〕にとって、『機能の義(意味)』ということになるのか」と〔問うなら〕、「(1―1)インダ(インドラ神:ここでは行為のこと)の徴表という義(意味)が、『機能(インドリヤ)の義(意味)』〔ということになり〕、(1―2)インダ(インドラ神:ここではブッダのこと)によって説示されたものという義(意味)が、『機能(インドリヤ)の義(意味)』〔ということになり〕、(1―3)インダ(ブッダ)によって見られたものという義(意味)が、『機能(インドリヤ)の義(意味)』〔ということになり〕、(1―4)インダ(行為)によって引き起こされたものという義(意味)が、『機能(インドリヤ)の義(意味)』〔ということになり〕、(1―5)インダ(ブッダ)によって育成されたものという義(意味)が、『機能(インドリヤ)の義(意味)』〔ということになり〕、その〔義〕が、全てもろともに、ここに、道理のままに適合する」〔と答える〕。

 

§5  なぜなら、最高の権力者たる状態あることから、正等覚者たる世尊はインダであり、さらに、諸々の行為()にたいし誰であろうが権力者たる状態なきことから、善なる〔行為〕と善ならざる行為は〔インダである〕からである。まさしく、それによって、ここにおいて、【492】(1―1・1―4)まずは、行為によって生じさせられた諸々の機能は、善なる〔行為〕と善ならざる行為を徴表し、さらに、それによって引き起こされたものである、ということで、インダ(行為)の徴表という義(意味)によって、さらに、インダ(行為)によって引き起こされたものという義(意味)によって、「諸々の機能」〔ということになる〕。(1―2・1―3)また、これら〔の二十二の機能〕は、まさしく、〔それらの〕全てが、世尊によって、事実のとおり〔の観点〕から明示されたものであり、さらに、現正覚されたものである、ということで、インダ(ブッダ)によって説示されたものという義(意味)によって、さらに、インダ(ブッダ)によって見られたものという義(意味)によって、「諸々の機能」〔ということになる〕。(1―5)牟尼にしてインダ(インドラ神)たる世尊によって、まさしく、彼によって、〔諸々の機能のなかの〕或るものは、境涯の習修において〔習修されたものであり〕、〔諸々の機能のなかの〕或るものは、修行の習修において習修されたものである、ということで、インダ(ブッダ)によって育成されたものという義(意味)によってもまた、「諸々の機能」〔ということになる〕。

 

§6  さらに、また、これら〔の二十二の機能〕は、「優位たること」と名づけられた権力者たることの義(意味)によってもまた、「諸々の機能」〔ということになる〕。なぜなら、眼の識知〔作用〕等の転起において、その〔機能〕が鋭敏なるとき、〔識知作用等の転起もまた〕鋭敏なることから、〔さらに、その機能が〕薄弱なるとき、〔識知作用等の転起もまた〕薄弱なることから、眼等々には優位たることが実現しているからである。ということで、まずは、ここにおいて、これが、義(意味)〔の観点〕から、判別〔の方法〕となる。

 

§7  (2)「特相等々〔の観点〕から」とは、特相と効用と現起と境処の拠点によってもまた、眼等々の判別〔の方法〕が識知されるべきである、という義(意味)である。そして、それら〔の二十二の機能〕の、それらの特相等々は、まさしく、〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示(Ch.14)において説かれた。まさに、智慧の機能等々の四つ〔の機能〕は、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、迷妄なき〔あり方〕(無痴)となる。残りのものは、そこにおいて、まさしく、明確に言及された。

 

526.

 

§8  (3)「順番〔の観点〕から」とは、これもまた、説示の順番だけが〔適合する〕(Ch.14§211)。そこにおいて、諸々の内なる法(性質)を遍く知って(※)、聖者の境地の獲得が有る、ということで、自己状態(個我的あり方・身体のこと)に属している眼の機能等々が、最初に説示された。また、その自己状態が、或る法(性質)に執取して、あるいは、「女」という、あるいは、「男」という、名称に至り(かくのごとく名づけられる)、「これが、その〔法〕である」と実示することを義(目的)に、そののち、女の機能が〔説示され〕、さらに、男の機能が〔説示された〕。「その二種類ともどもに、生命の機能と連結された転起あるものである」と知らせることを義(目的)に、そののち、生命の機能が〔説示された〕。すなわち、その〔生命の機能〕に転起があるかぎり、それまでは、これらの感受されたものに退転はなく(消滅しない)、そして、「それが何であれ、感受されたものは、その全てが、苦痛である」と知らせることを義(目的)に、そののち、安楽の機能等々が〔説示された〕。また、「その〔苦痛〕の止滅を義(目的)に、これらの諸法(性質)が修められるべきである」と、〔道の〕実践を見示することを義(目的)に、そののち、信〔の機能〕等々が〔説示された〕。この〔道の〕実践によって、この法(性質)が最初に自己に出現する、ということで、〔道の〕実践の無駄ならざる状態を見示することを義(目的)に、そののち、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能が〔説示された〕。まさしく、その〔機能〕の果たることから、さらに、そののち直後に修められるべきことから、そののち、了知の機能が〔説示された〕。それから後に、「修行によって、この〔了知〕の到達があり、また、そして、この〔了知〕が到達されたとき、より以上に為されるべきことは、何であれ、存在しない(為すべきことは、もはや何も存在しない)」と知らせることを義(目的)に、最後において、最高の安堵として有る、了知者の機能が説示された。ということで、ここにおいて、これが、順番となる。

 

※ テキストにはajjhattadhammapariññāya とあるが、VRI版により ajjhattadhamme pariññāya と読む。

 

§9  【493】(4)「細別あるものと細別なきもの〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、生命の機能だけに細別がある。なぜなら、その〔機能〕は、形態ある生命の機能、形態なき生命の機能、という、二種類のものと成るからである。残りのものは、細別なきものである。ということで、ここにおいて、このように、細別あるものと細別なきもの〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 

527.

 

§10  (5)「作用〔の観点〕から」とは、「何が、諸々の機能にとって、作用であるのか」と、もし〔問うなら、以下のように答える〕。まずは、眼の機能の〔作用であるが〕、「眼の〔認識の〕場所は、眼の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、機能たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5)という言葉から、すなわち、〔まさに〕その、機能たる縁の状態によって遂行されるべきことが──自己の鋭敏や薄弱等の状態によって、眼の識知〔作用〕等の諸々の法(性質)の「鋭敏」や「薄弱」等と名づけられた、自己の行相に従い転じ行かせることが──これが、〔眼の機能の〕作用となる。このように、耳と鼻と舌と身の〔機能の作用がある〕(眼と同様である)。また、意の機能の〔作用は〕、共に生じた諸々の法(心所法)に自己の自在を転起させることであり、生命の機能の〔作用は〕、共に生じた諸々の法(色・心・心所法)を警護することであり、女の機能と男の機能の〔作用は〕、女と男の徴表や形相や所作や営為の行相を設定することであり(※)、安楽〔の機能〕と苦痛〔の機能〕と悦意〔の機能〕と失意の機能の〔作用は〕、共に生じた諸々の法(心・心所法)を征服して、自らのとおりの粗雑なる行相を獲得させることであり、放捨の機能の〔作用は〕、寂静にして精妙なる中なる行相を獲得させることであり、信等々〔の機能〕の〔作用は〕、相反するものを征服することであり、さらに、結び付いた諸々の法(心・心所法)を浄信した行相等の状態へと得達させることであり、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の〔作用は〕、まさしく、そして、〔身体を有するという見解と真理にたいする疑惑の思いと戒や掟への偏執という〕三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)を捨棄することであり、さらに、結び付いた〔諸々の法〕(心・心所法)がその捨棄に対面する状態を作り為すことであり、了知の機能の〔作用は〕、まさしく、そして、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕や憎悪〔の思い〕等を些細なものに作り為し捨棄することであり、さらに、共に生じた〔諸々の法〕(心・心所法)に自己の自在を転起させることであり、了知者の機能の〔作用は〕、まさしく、そして、一切の為すべきことにたいする思い入れを捨棄することであり、さらに、結び付いた〔諸々の法〕(心・心所法)が不死〔の境処〕(涅槃)に対面する状態の縁たることである。ということで、ここにおいて、このように、作用〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。

 

※ テキストにはitthipurisaliganimittakuttākuppākārānuvidhāna とあるが、VRI版により itthipurisaliganimittakuttākappākārānuvidhāna と読む。

 

528.

 

§11  (6)「境地〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、眼〔の機能〕と耳〔の機能〕と鼻〔の機能〕と舌〔の機能〕と身〔の機能〕と女〔の機能〕と男〔の機能〕と安楽〔の機能〕と苦痛〔の機能〕と失意の機能は、欲望の行境(欲界)のものだけとなる。意の機能と生命の機能と放捨の機能は、さらに、信〔の機能〕と精進〔の機能〕と気づき〔の機能〕と禅定〔の機能〕と智慧の機能は、四つの境地(三界と出世間)に属しているものとなる。悦意の機能は、欲望の行境と形態の行境(色界)と世〔俗〕を超えるもの(出世間)を所以に、三つの境地に属しているものとなる。残りの三つ〔の機能〕は、世〔俗〕を超えるものだけとなる。ということで、ここにおいて、このように、境地〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。まさに、このように識知している者は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔無常にたいする〕畏怖の〔思い〕多き比丘は、機能の統御において安立し、諸々の機能を遍く知って、苦しみの終極を為すであろう」と。

 

§12  これが、諸々の機能についての詳細の言説の門となる。

 

529.

 

 2 諸々の真理

 

§13  【494】また、その直後に〔配置された〕(Ch.14§32)、「諸々の真理()」とは、苦しみという聖なる真理(苦諦)、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)、という、四つの聖なる真理(四聖諦)である。

 

§14  そこにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)区分〔の観点〕から、(2)語源と(3)特相等の細別〔の観点〕から、まさしく、そして、(4)義(意味)と(5)義(意味)の摘要〔の観点〕から、そのように、(6)減増なき〔の観点〕から──

 (7)順番〔の観点〕から、(8)生等々の決定〔の観点〕から、(9)知恵の作用〔の観点〕から、(10)諸々の内含されているものの細別〔の観点〕から、(11)喩え〔の観点〕から、(12)四なるもの〔の観点〕から──

 (13)空〔の観点〕から、(14)一種類のもの等々〔の観点〕から、(15)部分を共にするものと部分を共にしないもの〔の観点〕から、教えの順番における判別〔の方法〕が、識知者によって識知されるべきである」〔と〕。

 

§15  (1)そこにおいて、「区分〔の観点〕から」とは、まさに、苦しみ等々には、〔それぞれに〕四つずつに区分された義(意味)があり(合計十六の義がある)、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる、それら〔の義〕は、苦しみ等々を知悉している者たちによって知悉されるべきである。すなわち、〔聖典に〕言うように、「[どのように、苦痛が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、苦しみの、苦しみの義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。]苦しみの、逼悩の義(意味)、形成されたもの(有為)の義(意味)、熱苦の義(意味)、変化の義(意味)である。これらの四つのものが、苦しみの、苦しみの義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。[このように、苦しみが、真実の義(意味)によって、真理となる]」(パティサンビダー・マッガ2p.104)〔と〕。「[どのように、集起が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、集起の、集起の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。]集起の、専業(業を作ること)の義(意味)、因縁の義(意味)、束縛の義(意味)、障害の義(意味)である。[このように、集起が、真実の義(意味)によって、真理となる]」(パティサンビダー・マッガ2p.104)〔と〕。「[どのように、止滅が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、止滅の、止滅の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。]止滅の、出離の義(意味)、遠離の義(意味)、形成されたものではないもの(無為)の義(意味)、不死の義(意味)である。[このように、止滅が、真実の義(意味)によって、真理となる]」(パティサンビダー・マッガ2p.105)〔と〕。「[どのように、道が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、道の、道の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。]道の、出脱の義(意味)、因の義(意味)、〔あるがままの〕見の義(意味)、優位の義(意味)である。これらの四つのものが、道の、道の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。[このように、道が、真実の義(意味)によって、真理となる]」(パティサンビダー・マッガ2p.105)と。そのように、「[十六の行相によって、知悉の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。]苦しみの、逼悩の義(意味)が、形成されたものの義(意味)が、熱苦の義(意味)が、変化の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。[集起の、専業の義(意味)が、因縁の義(意味)が、束縛の義(意味)が、障害の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。止滅の、出離の義(意味)が、遠離の義(意味)が、形成されたものではないものの義(意味)が、不死の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。道の、出脱の義(意味)が、因の義(意味)が、〔あるがままの〕見の義(意味)が、優位の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。これらの十六の行相によって、知悉の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる]」(パティサンビダー・マッガ1p.108)という、このような〔言葉〕等がある。ということで、このように区分された、四つずつの義(意味)を所以に、苦しみ等々が知られるべきである。ということで、まずは、ここにおいて、これが、区分〔の観点〕から、判別〔の方法〕となる。

 

530.

 

§16  (2)また、「語源と特相等の細別〔の観点〕から」とは、ここにおいて、まずは、語源〔の観点〕から〔説くなら〕、ここでの、「ドゥ」という、この語は、嫌悪されるものにおいて見られる。なぜなら、〔人々は〕嫌悪される子を、「悪しき(ドゥ)子」と説くからである。また、「カ」という語は、虚妄なるものにおいて〔見られる〕。なぜなら、虚妄なる虚空は、「虚(カ)」と説かれるからである。そして、この第一の真理(苦諦)は、無数の禍を確立することから、嫌悪されるものであり、愚者たる人が遍く想い描くところの常恒と浄美と安楽と自己の状態が絶無なることから、虚妄なるものである。それゆえに、嫌悪されるものたることから、さらに、虚妄なるものたることから、「苦しみ(:ドゥッカ)」と説かれる。

 

§17  【495】さらに、「サン」という、この語は、「集い(サマーガマ)」「合致(サメータ)」という〔言葉〕等々において、結合(サンヨーガ)〔という語義〕を明らかにする(表示する)。「ウ」という、この〔語〕は、「生起したもの(ウッパンナ)」「上昇したもの(ウディタ)」という〔言葉〕等々において、生起(ウッパッティ)〔という語義〕を〔明らかにする〕。「アヤ」という語は、契機(カーラナ)〔という語義〕を明らかにする。そして、また、この第二の真理(集諦)は、残余の縁との結合が存しているとき、苦しみの生起の契機(原因・根拠)となる。ということで、結合があるとき、苦しみの生起の契機たることから、「苦しみの集起(:サムダヤ)」と説かれる。

 

§18  また、第三の真理(滅諦)は、すなわち、「ニ」という語が状態なき〔という語義〕を〔明らかにし〕、さらに、「ローダ」という語が牢獄〔という語義〕を明らかにすることから、それゆえに、ここにおいて、一切の〔死後に〕赴く所の空なることから、「輪廻の牢獄」と名づけられた苦しみの拘禁(ローダ)の状態なきものであり、あるいは、その〔第三の真理〕が到達されたとき、その〔苦しみ〕と相反するものたることから、「輪廻の牢獄」と名づけられた苦しみの拘禁の状態なきことが有る、ということでもまた、「苦しみの止滅(:ニローダ)」と説かれる。あるいは、苦しみの不生起としての止滅を縁とすることから、「苦しみの止滅」と〔説かれる〕。

 

§19  また、第四の真理(道諦)は、すなわち、この〔第四の真理〕が、対象たるを所以に、その〔苦しみの止滅〕に対面するものとして有ることから、苦しみの止滅に至り、さらに、苦しみの止滅に至り得るための〔実践の〕道と成ることから、それゆえに、「苦しみの止滅に至る〔実践の〕道」と説かれる。

 

531.

 

§20  また、すなわち、これら〔の四つの真理〕を、覚者(ブッダ)等々の聖者たちが理解することから、それゆえに、「〔四つの〕聖なる真理(聖諦)」と説かれる。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、[四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。]……略……。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。聖者たちは、これら〔の四つの真理〕を理解し、それゆえに、『〔四つの〕聖なる真理』と説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.425:一部異なる箇所あり)と。さらに、また、聖者の〔四つの〕真理である、ということでもまた、「〔四つの〕聖なる真理」。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、天を含み、[魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、]世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は聖者であり、それゆえに、『〔四つの〕聖なる真理』と説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.435)と。

 

§21  そこで、あるいは、これら〔の四つの聖なる真理〕を(※)現正覚したことから、聖なる状態の実現あることからもまた、「〔四つの〕聖なる真理」。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚したことから、如来は、阿羅漢にして正等覚者であり、『聖者』と説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.433:一部異なる箇所あり)と。

 

※ テキストにはekesa とあるが、VRI版により etesa と読む。

 

§22  また、まさに、そして、また、聖なるものにして、〔四つの〕真理である、ということでもまた、「〔四つの〕聖なる真理」。「聖なるもの」とは、真実であり、真実を離れざるものである。言葉を違えることなきもの、という義(意味)である。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理は、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものであり、それゆえに、『〔四つの〕聖なる真理』と説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.431)と。ここにおいて、このように、語源〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

532.

 

§23  (3)「特相等の細別〔の観点〕から」とは、どのようにか。まさに、ここにおいて、苦しみという真理(苦諦)は、悩ますことを特相とし、【496】熱苦させることを効用(機能・性行)とし、転起を現起(現状)とする。集起という真理(集諦)は、起源を特相とし、断絶なき〔状態〕を作り為すことを効用(機能・性行)とし、障害を現起(現状)とする。止滅という真理(滅諦)は、寂静を特相とし、死滅なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、形相なき〔状態〕を現起(現状)とする。道という真理(道諦)は、出脱することを特相とし、〔心の〕汚れ(煩悩)を捨棄することを効用(機能・性行)とし、出起することを現起(現状)とする。さらに、また、〔四つもろともに〕次第次第に〔説くなら〕、〔これらの四つの真理は、それぞれに〕転起と転起させることと退転と退転させることを特相とし、そのように、かつまた、形成されたものと渇愛と形成されたものではないものと〔あるがままに〕見ることを特相とする。ということで、ここにおいて、このように、特相等の細別〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

533.

 

§24  (4)また、「まさしく、そして、義(意味)と義(意味)の摘要〔の観点〕から」とは、ここにおいて、まずは、義(意味)〔の観点〕から、「何が、真理の義(意味)であるのか」と、もし〔問うなら〕、「智慧の眼によって〔常に〕近しく注視している者たちには、すなわち、幻想のように転倒したものも、陽炎のように言葉を違えるものも、さらに、異教の者たちにとっての自己(アートマン)のように自ずからの状態(自性:固有の性能)が認められないものも、有ることなくあり、そこで、まさに、悩ますこと(苦しみ)と起源(集起)と寂静(止滅)と出脱すること(道)の流儀によって、真実にして転倒なく事実なる状態によって、聖なる知恵の境涯(作用範囲)が、まさしく、有り、〔まさに〕この、火の特相のように、さらに、世における〔生来の〕性向のもの(自然のもの)のように、真実にして転倒なく事実なる状態あるものが、真理の義(意味)である、と知られるべきである」〔と答える〕。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、『これは、苦しみである』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです」(サンユッタ・ニカーヤ5p.430)と、以下云々。

 

§25  さらに、また──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、悩ますものならざる苦しみはないことから、苦しみより他に悩ますものはないことから、それゆえに、悩ますものたる決定性によって、この〔苦しみ〕は、『真理である』〔と〕認証された。

 それなくして、他よりの苦しみはなく、そして、それゆえに、それがないなら、〔苦しみも〕有ることはなく、かくのごとく、苦しみの因たる決定性によって、執着〔の思い〕は、『真理である』〔と認証された〕。

 涅槃より他に、寂静はなく、そして、すなわち、それがないなら、寂静〔の状態〕もないことから、寂静の状態たる決定性によって、この〔涅槃〕は、『真理である』〔と〕認証された。

 〔聖者の〕道より他に、出脱はなく、そして、また、それがないなら、出脱もなく、真実の出脱たる状態あることから、かくのごとく、その〔道〕は、『真理である』〔と〕等しく認証された。

 かくのごとく、四つもろともにおいて、真実にして転倒なく事実なる状態があり、賢者たちは、苦しみ等々について、差異なき〔の観点〕によって(※)、『真理の義(意味)である』〔と〕言った」と。

 

 このように、義(意味)〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

※ テキストにはdukkhādīsvapisesena とあるが、VRI版により dukkhādīsvavisesena と読む。

 

534.

 

§26  (5)「義(意味)の摘要〔の観点〕から」〔とは〕、どのようにか。ここでは、この「真理」という語は、幾多の義(意味)において見られる(使用される)。それは、すなわち、この──「真理を話すように。忿激しないように」(ダンマパダ224)という〔言葉〕等々においては、〔偽りなき〕言葉という真理〔の義〕において〔見られ〕、「そして、真理に依って立つ者たちである、沙門や婆羅門たちは」(ジャ-タカ5p.491)という【497】〔言葉〕等々においては、〔言葉による悪しき行ないからの〕離去という真理〔の義〕において〔見られ〕、「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている、論争好きの者たちは、いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか」(スッタニパータ885)という〔言葉〕等々においては、見解という真理〔の義〕において〔見られ〕、「まさに、真理は一つです。第二のものは存在しません」(スッタニパータ884)という〔言葉〕等々においては、最高の義(勝義:最高の真実)という真理〔の義〕において〔見られ〕、まさしく、そして、涅槃〔の義〕において〔見られ〕、さらに、道〔の義〕において〔見られ〕、「四つの聖なる真理には、どれだけの善なるものがあり、[どれだけの善ならざるものがあり、どれだけの〔善悪が〕説き明かされないものがあるのか]」(パティサンビダー・マッガ2p.108,ヴィバンガp.112)という〔言葉〕等々においては、聖なる真理〔の義〕において〔見られる〕。〔まさに〕その、この〔「真理」という語〕は、ここでもまた、聖なる真理〔の義〕において転起する(使用される)。ということで、ここにおいて、このように、義(意味)の摘要〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

535.

 

§27  (6)また、「減増なき〔の観点〕から」とは、「何ゆえに、聖なる真理は、まさしく、四つのものとして、〔四つよりも〕減なく増なきものとして説かれたのか」と、もし〔問うなら〕、「他のものの発生なきことから、さらに、どれ一つにも取り去るべき状態なきことから」〔と答える〕。なぜなら、あるいは、これら〔の四つの聖なる真理〕より他の増上のものは〔発生せず〕、あるいは、これら〔の四つの聖なる真理〕のなかの一つでさえも取り去るべきものは発生しないからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、ここに、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『これは、苦しみという聖なる真理ではない。他のものが、苦しみという聖なる真理である』〔と〕言及するとして、わたしが、この苦しみという聖なる真理を除外して、他の苦しみという聖なる真理を報知することになる、という、この状況は見出されません」(典拠不詳)等と。さらに、すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみは、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第一の聖なる真理ではない』〔と〕、このように説くとして、わたしが、この苦しみを、第一の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第一の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません」(サンユッタ・ニカーヤ5p.428)等と。

 

§28  さらに、また、転起を告げ知らせつつある世尊は、因を有するものとして告げ知らせた。そして、退転を〔告げ知らせつつある世尊は〕、手段(方便)を有するものとして〔告げ知らせた〕。かくのごとく、転起(集起)と退転(止滅)とその両者の因(苦しみ・道)を〔所以に〕、この〔四つ〕を最高とすることから、まさしく、四つ〔の真理〕が説かれた。そのように、遍知されるべきものと捨棄されるべきものと実証されるべきものと修行されるべきものを〔所以に〕、渇愛()の基盤と渇愛と渇愛の止滅と渇愛の止滅の手段を〔所以に〕、さらに、基底(阿羅耶:執着の思い)と基底を喜ぶことと基底の根絶と基底の根絶の手段を所以にもまた、まさしく、四つ〔の真理〕が説かれた。ということで、ここにおいて、このように、減増なき〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

536.

 

§29  (7)「順番〔の観点〕から」とは、これもまた、説示の順番だけが〔適合する〕(Ch.14§211)。そして、ここにおいて、粗雑なることから、さらに、一切の有情たちに共通なることから、識知し易きものである、ということで、苦しみという真理が、最初に説かれた。まさしく、その〔苦しみ〕の、因を見示することを義(目的)に、その直後に、集起という真理が〔説かれた〕。「〔苦しみの〕因の止滅あることから、果の止滅がある」と知らせることを義(目的)に、そののち(※)、止滅という真理が〔説かれた〕。その〔止滅〕への到達の手段を見示することを義(目的)に、最後において、道という真理が〔説かれた〕。

 

※ テキストにはkato とあるが、VRI版により tato と読む。

 

§30  【498】あるいは、生存()の安楽の悦楽に拘束された有情たちに畏怖〔の思い〕を生じさせることを義(目的)に、最初に、苦しみを言った。「その〔苦しみ〕は、まさしく、作られざるものとしてやってきたのではなく、イッサラ〔天〕(自在天・創造神)の化作等から有るのでもなく、いっぽう、この〔集起〕から有る」と知らせることを義(目的)に、その直後に、集起を〔言った〕。そののち、因を有する苦しみによって征服されたことから畏怖の意図ある者たちとなり苦しみからの出離を探し求める者たちのために、出離を見示することで安堵を生じさせることを義(目的)に、止滅を〔言った〕。そののち、止滅への到達を義(目的)に、止滅へと得達させるものとして、道を〔言った〕。ということで、ここにおいて、このように、順番〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

537.

 

§31  (8)「生等々の決定〔の観点〕から」とは、すなわち、それら〔の諸法〕として、〔四つの〕聖なる真理を釈示しつつある世尊によって、(一)「(1)生もまた、苦しみです。(2)老もまた、苦しみです。(3)死もまた、苦しみです。諸々の(4)憂い()と(5)嘆き()と(6)苦痛()と(7)失意()と(8)葛藤()もまた、苦しみです。(9)諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。(10)諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。(11)すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。(12)簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです」(ディーガ・ニカーヤ2p.305,マッジマ・ニカーヤ3p.249,パティサンビダー・マッガ1p.37,ヴィバンガp.99)と、苦しみについての釈示において、十二の法(性質)が〔説かれ〕、(二)「すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、(1)欲望の渇愛(欲愛)であり、(2)生存の渇愛(有愛)であり、(3)非生存の渇愛(非有愛)の渇愛です」(ディーガ・ニカーヤ2p.308,マッジマ・ニカーヤ3p.250-1,パティサンビダー・マッガ1p.39-40,ヴィバンガp.101)と、集起についての釈示において、三種類の渇愛が〔説かれ〕、(三)「すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です」(ディーガ・ニカーヤ2p.310,マッジマ・ニカーヤ3p.251,パティサンビダー・マッガ1p.40,ヴィバンガp.103)と、止滅についての釈示において、このように、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、一つのものとして、涅槃が〔説かれ〕、(四)「どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)なのですか。比丘たちよ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、(1)正しい見解(正見)であり……略……(8)正しい禅定(正定)です」(ディーガ・ニカーヤ2p.311,マッジマ・ニカーヤ3p.251,パティサンビダー・マッガ1p.40-1,ヴィバンガp.104)と、道についての釈示において、このように、八つの法(性質)が〔説かれ〕、ということで、かくのごとく、四つの真理についての釈示において、生等々の諸法(性質)が説かれたが、それらの生等々〔の諸法〕の決定〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

 (一)苦しみについての釈示

 

§32  (1)それは、すなわち、この──まさに、この「生」という語は、幾多の義(意味)がある。まさに、そのように、この〔「生」という語〕は、「一生をもまた、二生をもまた」(ディーガ・ニカーヤ1p.81)と、ここにおいて、生存〔の義〕において言及され──「ヴィサーカーよ、ニガンタという名の沙門の生が存在します」(アングッタラ・ニカーヤ1p.206)と、ここにおいて、部派(類・衆)〔の義〕において〔言及され〕──「生は、二つの範疇によって包摂されたものとなる」(ダートゥ・カターp.15)と、ここにおいて、形成されたもの(有為)の特相〔の義〕において〔言及され〕──「すなわち、母の子宮において、最初の心が生起し、最初の識知〔作用〕が出現したなら、それに関して、まさしく、それが、彼の生と〔説かれる〕」(ヴィナヤ1p.93)と、ここにおいて、結生〔の義〕において〔言及され〕──【499】「アーナンダよ、生まれると同時に、菩薩は、[自らの〔両の〕足で地に立って、北に向かい、七歩を交互に赴きます]」(マッジマ・ニカーヤ3p.123)と、ここにおいて、誕生〔の義〕において〔言及され〕──「生まれの論によって排斥されず弾劾されません」(アングッタラ・ニカーヤ3p.152)と、ここにおいて、家(家系・家柄)〔の義〕において〔言及され〕──「姉妹よ、すなわち、聖なる生まれによって生まれてからのち、わたしは[証知しません──思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪う者として〔有ったことを〕]」(マッジマ・ニカーヤ2p.103:一部異なる箇所あり)と、ここにおいて、聖なる戒〔の義〕において〔言及された〕。

 

538.

 

§33  〔まさに〕その、この〔「生」という語〕は、ここでは、〔母の〕胎に臥す者(胎生)たちのばあいの、結生から以降、すなわち、母の子宮から出るまでの、そのあいだに転起された諸々の〔心身を構成する〕範疇について〔説かれ〕、〔母胎に臥す者たち以外の〕諸他のもの(卵生・湿生・化生)たちのばあいは、まさしく、結生における諸々の〔心身を構成する〕範疇について〔説かれた〕、と見られるべきである(ここに言う生は生まれることを意味する)。そして、これはまた、まさしく、教相の言説(経の説示)であり、いっぽう、教相なき言説(論の説示)〔の観点〕からは、その場その場において発現している有情たちに、それらそれらの諸々の〔心身を構成する〕範疇が出現するなら、それらそれら〔の諸々の心身を構成する範疇〕の最初の出現が、「生」ということになる。

 

§34  また、〔まさに〕その、この〔生〕は、その場その場の生存における最初の発現を特相とし、引き渡すことを効用(機能・性行)とし、過去の生存からここ(現世)に現われ出ることを現起(現状)とし、あるいは、苦しみの種々様々なることを現起とする。

 

539.

 

 「また、何ゆえに、この〔生〕は苦しみであるのか」と、もし〔問うなら〕、「〔生は〕無数の苦しみにとって基盤の状態たることから」〔と答える〕。なぜなら、〔生には〕無数の苦しみがあるからである。それは、すなわち、この、苦痛の苦しみ、変化の苦しみ、形成の苦しみ、隠蔽された苦しみ、隠蔽されていない苦しみ、様態ある苦しみ(間接的苦痛)、様態なき苦しみ(直接的苦痛)、という〔苦しみである〕。

 

§35  そこにおいて、身体の属性としての〔苦痛の感受〕と心の属性としての苦痛の感受(苦受)は、そして、自ずからの状態〔の観点〕から、さらに、名前〔の観点〕からも、苦しみたることから、「苦痛の苦しみ」と説かれる。安楽の感受(楽受)は、変化によって、苦しみの生起の因たることから、「変化の苦しみ」〔と説かれる〕。まさしく、そして、〔苦でもなく楽でもない〕放捨の感受(捨受)は、さらに、残りの三つの境地(三界)の諸々の形成〔作用〕は、生成と衰失に遍く責め苛まれることから、「形成の苦しみ」〔と説かれる〕。耳の痛みや歯の痛みや貪欲から生じる苦悶や憤怒から生じる苦悶等の、身体の属性としての〔病苦〕と心の属性としての病苦は、尋ねて〔そののち〕知られるべきことから、さらに、行動に明白ならざる状態あることから、「隠蔽された苦しみ」ということになり、「明白ならざる苦しみ」ともまた説かれる。三十二の行罰刑等による現起ある病苦は、まさしく、尋ねずして知られるべきことから、さらに、行動に明白なる状態あることから、「隠蔽されていない苦しみ」ということになり、「明白なる苦しみ」ともまた説かれる。苦痛の苦しみを除いて、残りのものは、〔『ヴィバンガ(分別論)』の〕苦しみという真理の区分(ヴィバンガp.99)において言及された。生等は、全てもろともに、それぞれの苦しみにとって基盤の状態たることから、「様態ある苦しみ(間接的苦痛)」〔と説かれる〕。また、苦痛の苦しみは、「様態なき苦しみ(直接的苦痛)」と説かれる。

 

§36  そこで、この生は、すなわち、『バーラ・パンディタ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ3p.163)等々において、世尊によってもまた喩えを所以に明示された、〔まさに〕その、悪所にある者の苦しみがあり──さらに、すなわち、たとえ、善き境遇(善趣)たる人間の世においても、入胎を根元とする等の細別ある苦しみが【500】生起するのであり──その〔苦しみ〕にとって基盤の状態たることから、苦しみである。

 

540.

 

§37  そこで、これが、入胎を根元とする等の細別ある苦しみとなる。まさに、この有情は、母の子宮のなかに発現しつつあるとして、青蓮や赤蓮や白蓮等々のなかに発現するのではなく、そこで、まさに、胃の腑の下、大腸の上にある、腹膜と脊椎の中間の、最高に猥雑にして、極めて暗黒なる、種々なる死骸(汚物)の臭いに遍く満たされ、最高の悪臭や瘴気が立ち込めた、極度に忌避される嫌悪の場所において、腐った魚や腐った粥やどぶ池等々において蛆虫が〔発生する〕ように発現する。彼は、そこにおいて発現したなら、十月のあいだ、母の子宮に発生する熱によって、袋詰めの煮物のように煮られつつ、粉団子のように熱せられつつ、曲げ伸ばし等〔の動作〕は絶無にして、旺盛なる苦しみを経験する。ということで、まずは、これが、入胎を根元とする苦しみである。

 

§38  また、すなわち、母がいきなり躓いたり赴いたり坐ったり立ち上がったり転がり回ったりする等々のときは、酒に酔った者の手に在る小羊のように、さらに、蛇使いの手に在る小蛇のように、引き上げることや引き回すことや振り上げることや振り落とすこと等の〔母の〕行動によって、その〔胎児〕が経験する、旺盛なる苦しみ──さらに、すなわち、母が冷水を飲む時には、寒冷地獄に再生した者のように、熱い粥や食等を飲み下す時には、炭火の雨にまみれた者のように、塩や酸っぱいもの等を飲み下す時には、〔身体中の傷口に〕灰汁を刷り込む等の行罰刑に至り得た者のように、〔その胎児が〕経験する、強烈なる苦しみ──これが、懐胎を根元とする苦しみである。

 

§39  また、すなわち、母に異常の胎あるときは、朋友や僚友や親友等々によってもまた見ることができない、苦しみの生起ある箇所において、切断することや切り裂いたりすること等々によって、その〔胎児〕に生起する、苦しみ──これが、堕胎を根元とする苦しみである。

 

§40  すなわち、母が産みつつあるときは、諸々の〔母の〕行為から生じる〔体内の〕風によって遍く転起させられて、奈落の深淵に〔落ち行く〕ように、極めて恐怖ある胎の道(産道)を次第次第に行きつつあると、最高に猥雑な胎の口(膣口)をとおることで、大いなる龍が鍵穴から引き出されつつあるように、さらに、奈落(地獄)の有情が相打つ〔両の〕山によって粉砕されつつあるように、〔その胎児に〕生起する、苦しみ──これが、出産を根元とする苦しみである。

 

§41  また、すなわち、生傷に等しく繊細なる肉体ある者(新生児)として生まれたなら、手で掴んだり沐浴したり洗浄したり雑巾で擦りまわしたりする時に、諸々の針の先や剃刀の切っ先で貫いたり切り裂いたりするに等しきものとして、〔その有情に〕生起する、苦しみ──これが、母の胎から外に出ることを根元とする苦しみである。

 

§42  【501】すなわち、それから後に、〔生の〕転起(人生)において、まさしく、自己によって、自己を打ち殺しつつあるなら(自己破壊の道を選ぶなら)、無衣の掟等を所以に〔日光で肉体を〕焼け焦がすことや焼き尽くすことへの専念に専念する者(苦行者)に、忿激を所以に食べずにいる者(拒食者)に、さらに、〔首を〕吊る者(自殺者)に、〔その有情に〕生起する、苦しみ──これが、自己の行動を根元とする苦しみである。

 

§43  また、すなわち、他者からの殴打や結縛等々を経験しているなら、〔その有情に〕生起する、〔苦しみ〕──これが、他者の行動を根元とする苦しみである、と〔知られるべきである〕。

 かくのごとく、この、全てもろともの苦しみにとって、この生は、まさしく、基盤と成る。

 

541.

 

 それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の奈落(地獄)において、もし、有情が生まれないなら、そこにおいて、火で焼く等の耐えられない苦しみは、いったい、どこに、確立〔の縁〕を得るというのだろう。ということで、牟尼は、ここに、生を、『苦しみである』と言った。

 畜生たちにおいて、苦しみは、鞭や杖や棒で打つこと等の状態ある無数のものとなる。すなわち、その〔苦しみ〕は、そこにおいて、生なくして、どのように有るというのだろう。そこにおける生は、それゆえにもまた、苦しみである。

 また、餓鬼たちにおいて、苦しみは、飢えや渇きや風や熱等を起源とする種々様々なものとなる。すなわち、生まれなかったなら、そこにおいて存在しないことから、それゆえにもまた、牟尼は、生を、『苦しみである』〔と〕言った。

 さらに、極めて暗黒にして耐えられない寒さの世の中間〔地帯〕において、すなわち、阿修羅たちにおける、〔その〕苦しみは、そして、そこにおいて、生が存在しないなら、それは有るべくもない。すなわち、それゆえにもまた、この生は苦しみである。

 さらに、また、すなわち、糞の奈落(糞尿地獄)のような母胎において、長きにわたり住しながら、そして、外に出つつあるとして、有情が至り得る、〔その〕苦しみは、極めておぞましきものであり、この〔苦しみ〕もまた、生なくしては存在しない。かくのごとくもまた、まさに、この生は、苦しみである。

 多く語ることが、何になるというのだろう。まさに、すなわち、どこであろうが、いつであろうが、たとえ、幾許かのものであれ、この苦しみは、ここに、存在するではないか。すなわち、〔この苦しみは〕生が絶無であるなら、まさしく、存在しないことから、偉大なる聖賢(ブッダ)は、一切における最初のものである、この生を、『苦しみである』と言った」と。

 

 まずは、これが、生についての判別〔の方法〕となる。

 

542.

 

§44  【502】(2)「老もまた、苦しみです」とは、ここにおいて、二種類の老がある。そして、形成されたものの特相であり、さらに、〔歯の〕破断等として等しく認証されたものにして、相続において一つの生存に属している〔心身を構成する〕範疇の古い状態である。その〔後者〕が、ここでは、志向するところとなる。また、〔まさに〕その、この老は、〔心身を構成する〕範疇の円熟を特相とし、死へと導くことを効用(機能・性行)とし、若さの消失を現起(現状)とする。まさしく、そして、形成の苦しみ(§35)の状態たることから、さらに、苦しみの基盤たることから、〔老は〕苦しみである。

 

§45  まさに、すなわち、手足や肢体の緩慢の状態や〔感官の〕機能の変異と醜い形態たることや若さの消失や力の害障や記憶と思慧の離住(能力低下)や他者からの貶斥等の無数の縁となる、身体の属性としての〔苦しみ〕と心の属性としての苦しみが生起するなら、老は、その〔苦しみ〕にとって基盤となる。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の肢体の緩慢の状態あることから、諸々の機能の変異あることから、若さの消失による力の害障あることから──

 記憶等々の離住あることから(※)、自己の子や妻に叱責されるべきことから、まさしく、そして、より一層、愚者たることに至り得ることから──

 すなわち、死すべき者(人間)が至り得る、身体の苦しみは、そのように、意〔の苦しみ〕も、この全てが、老を因とすることから、すなわち、それゆえに、老は苦しみである」と。

 

 これが、老についての判別〔の方法〕となる。

 

※ テキストにはVippavāsasatādīna とあるが、VRI版により Vippavāsā satādīna と読む。

 

543.

 

§46  (3)「死もまた、苦しみです」とは、ここにおいてもまた、二種類の死がある。そして、それに関して、「老と死は、二つの範疇によって包摂されたものとなる」(ダートゥ・カターp.15)と説かれた、形成されたものの特相であり、さらに、それに関して、「常に、死ゆえの恐れがある」(スッタニパータ576)と説かれた、一つの生存に属している生命の機能の連続の断絶である。その〔後者〕が、ここでは、志向するところとなる。「生を縁とする死(産褥死)」「行動による死(事故死)」「自ずからの効用(機能・性行)による死(自然死)」「寿命の滅尽による死」「功徳の滅尽による死」というのもまた、まさしく、その〔死〕の名前となる。

 

§47  〔まさに〕その、この〔死〕は、死滅を特相とし、別離を効用(機能・性行)とし、〔現世の〕境遇からの離住を現起(現状)とする。また、苦しみにとって基盤の状態たることから、「〔死は〕苦しみである」と知られるべきである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪なる行為等の形相を随観している悪しき者であれ、愛らしい事物の別離に耐えられずにいる幸せ者であれ──

 死につつある者に差異なくしてある、意のものとしての、その苦しみ──さらに、また、全ての者たちにある、関節の連結の断絶等のものとしての、その〔苦しみ〕──

 【503】死穴が刺されている者(急所に損傷ある者)たちに(※)有る、肉体から生じる、耐えられず対策のない苦しみ──この苦しみにとって、すなわち、この死は、基盤たることから、それによって、この〔死〕は、まさしく、『苦しみである』と語られた」と。

 

 これが、死についての判別〔の方法〕となる。

 

※ テキストにはVitujjamānadhammāna とあるが、VRI版により Vitujjamānamammāna と読む。

 

544.

 

§48  憂い等々について。(4)「憂い()」というのは、親族の災厄等々に接触された者(遭遇した者)の、心の熱苦。それは、たとえ、何であれ、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、失意と成る。たとえ、このように存しているとして、〔心の〕内なる焼尽を特相とし、心を遍く焼尽することを効用(機能・性行)とし、憂い悲しむことを現起(現状)とする。また、苦痛の苦しみ(§35)たることから、さらに、苦しみの基盤たることから、〔憂いは〕苦しみである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「憂いは、有情たちの心臓を、毒矢のように刺す。火で熱せられた鉄槍のように、ふたたび激しく焼く。

 そして、病と老と死の細別ある、様々な種類の苦しみをもまた、等しくもたらすことから、すなわち、それゆえに、『苦しみである』と説かれる」と。

 

 これが、憂いについての判別〔の方法〕となる。

 

545.

 

§49  (5)「嘆き()」というのは、親族の災厄等々に接触された者の、言葉の空騒ぎ。それは、泣き叫ぶことを特相とし、徳と汚点(不徳)を述べ伝えることを効用(機能・性行)とし、混迷を現起(現状)とする。また、形成の苦しみの状態たることから、さらに、苦しみの基盤たることから、〔嘆きは〕苦しみである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「憂いの矢に打たれた者が、嘆き悲しみながら、〔まさに〕その、喉や唇や口蓋面の渇きから生じる耐えられない〔苦しみ〕に、〔憂いよりも〕より一層に旺盛なる苦しみに、まさしく、到達する。それによって、世尊は、嘆きを、『苦しみである』と言った」と。

 

 これが、嘆きについての判別〔の方法〕となる。

 

546.

 

§50  (6)「苦痛()」というのは、身体の属性としての苦しみ。それは、身体の逼悩を特相とし、智慧浅き者たちの失意を作り為すことを効用(機能・性行)とし、身体の属性としての病苦を現起(現状)とする。また、苦痛の苦しみたることから、さらに、意の苦しみをもたらすことから、〔苦痛は〕苦しみである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「この、身体の属性としての〔苦しみ〕は、〔身体を〕責め苛め、さらに、意の苦しみを、より一層、生むことから、すなわち、それゆえに、特に、『苦しみである』と説かれた」と。

 

 これが、苦痛についての判別〔の方法〕となる。

 

547.

 

§51  【504】(7)「失意()」というのは、意の苦しみ。それは、心の逼悩を特相とし、意の悩苦を効用(機能・性行)とし、意の病を現起(現状)とする。また、苦痛の苦しみたることから、さらに、身体の属性としての苦しみをもたらすことから、〔失意は〕苦しみである。なぜなら、心の苦しみに引き渡された者たちは、諸々の髪を振り乱して泣き叫び、胸を打ち叩き、転がり行っては転がり戻り、足を上にして倒れ落ち、〔自死するために〕刃を持ち出し(※)、毒を喰らい、縄で〔首を〕吊り、火に入る、という、〔まさに〕その、種々なる流儀ある苦しみを経験するからである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「心を責め苛み、さらに、身体の逼悩を等しくもたらすことから、すなわち、それゆえに、失意を離れる者たちは、失意を、『苦しみである』と言った」と。

 

 これが、失意についての判別〔の方法〕となる。

 

※ テキストにはaharanti とあるが、VRI版により āharanti と読む。

 

548.

 

§52  (8)「葛藤()」というのは、親族の災厄等々に接触された者の、旺盛なる心の苦しみによって増加された、まさしく、〔心の〕汚点のこと。或る者たちは、「諸々の形成〔作用〕の範疇に属している一つの法(性質)である」と〔説く〕。それは、心を遍く焼き尽くすことを特相とし、呻吟することを効用(機能・性行)とし、憔悴を現起(現状)とする。また、形成の苦しみの状態たることから、心を遍く焼き尽くすことから、さらに、身体を憔悴させることから、〔葛藤は〕苦しみである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、心を遍く焼き尽くすことから、さらに、身体を憔悴させることから、旺盛なるものとして、すなわち、苦しみを、葛藤は生む。それゆえに、苦しみと説かれた」と。

 

 これが、葛藤についての判別〔の方法〕となる。

 

§53  そして、ここにおいて、憂いは、器の内において、弱火で〔煮られている〕煮物のようなものと〔見られるべきであり〕、嘆きは、強火で煮られているものが器から外に出ることのようなものと〔見られるべきであり〕、葛藤は、外に出たものの残りが〔外に〕出ることができずに、まさしく、器の内において、完全なる滅尽に至るまで〔煮られた〕煮物のようなものと見られるべきである。

 

549.

 

§54  (9)「諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)」というのは、諸々の意に適わない、有情たちや諸々の形成〔作用〕と結合すること。それは、好ましくないものと結合することを特相とし、心の悩苦を作り為すことを効用(機能・性行)とし、義(利益)ならざる状態を現起(現状)とする(※)。また、苦しみの基盤たることから、〔愛しくない者たちとの結合は〕苦しみである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「愛しくない者たちを見て、最初に、心において、苦しみが有り、そこで、すなわち、身体において、ここに、その行動によって発生した〔苦しみ〕があることから──

 それゆえに、〔心と身体の〕苦しみの両者ともどもにとって基盤たることから、〔まさに〕その、愛しくない者たちとの結合は、偉大なる聖賢(ブッダ)によって、苦しみと説かれた、と識知されるべきである」と。

 

 これが、愛しくない者たちとの結合についての判別〔の方法〕となる。

 

※ テキストには anattabhāvapaccupaṭṭhāno とあるが、VRI版により anatthabhāvapaccupaṭṭhāno と読む。

 

550.

 

§55  【505】(10)「諸々の愛しいものとの別離(愛別離)」というのは、諸々の意に適う、有情たちや諸々の形成〔作用〕との別れの状態。それは、好ましい事物との別離を特相とし、憂いを生起させることを効用(機能・性行)とし、災厄を現起(現状)とする。また、憂いと苦しみの基盤たることから、〔諸々の愛しいものとの別離は〕苦しみである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「親族や財産等との別離ある者たちとなり、憂いの矢に射抜かれた愚者たちは、刺され〔苦しむ〕ことから、すなわち、それゆえに、〔まさに〕その、諸々の愛しいものとの別離は、『苦しみである』と認証された」と。

 

 これが、諸々の愛しいものとの別離についての判別〔の方法〕となる。

 

551.

 

§56  (11)「すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)」とは、ここにおいて、「ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず」(マッジマ・ニカーヤ3p.250,ヴィバンガp.101)という〔言葉〕等々の、諸々の得ることができない事物にたいする、まさしく、欲求のこと。〔その欲求が〕「すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです」と説かれた。それは、得ることができない事物を求めることを特相とし、それを遍く探し求めることを効用(機能・性行)とし、それらに至り得ないことを現起(現状)とする。また、苦しみの基盤たることから、〔求めるものの不得は〕苦しみである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そのものそのものを切望している者たちに、そのものそのものの不得あることから、ここに、有情たちに生まれる、〔まさに〕その、悩苦から作られる苦しみ──

 諸々の得ることができない事物を切望することは、その〔苦しみ〕にとって、契機となることから、すなわち、それゆえに、勝者(ブッダ)は、求めるものの不得を、苦しみと説いた」と。

 

 これが、求めるものの不得についての判別〔の方法〕となる。

 

552.

 

§57  (12)また、「簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです」とは、ここにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、ここに、如なる方(ブッダ)によって説かれた、生等の苦しみ──さらに、すなわち、説かれなかった〔苦しみ〕も──その全てが、これら〔の五つの心身を構成する執取の範疇〕なくしては見出されない。

 すなわち、それゆえに、簡略〔の観点〕から、これらの〔五つの心身を構成する〕執取の範疇は、苦しみの終極の説示者たる偉大なる聖賢によって、『苦しみである』と説かれた」と。

 

§58  まさに、そのように、燃料を(※)火が〔燃やす〕ように、標的を諸々の射撃が〔狙う〕ように、牛の形態に虻や蚊等々が〔集まる〕ように、田畑〔の穀物〕を刈り手たちが〔刈る〕ように、村に村を殲滅する〔盗賊〕たちが〔来襲する〕ように、まさしく、〔心身を構成する〕執取の範疇の五なるものを、生等々は、種々なる流儀によって悩ませながら、草や蔓等々が地に〔生える〕ように、花と果と若芽が木々に〔生える〕ように、まさしく、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇に発現する。

 

※ テキストには indanam とあるが、VRI版により indhanam と読む。

 

§59  そして、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇にとって、最初の苦しみは、生であり、中間における苦しみは、老であり、結末の苦しみは、死である。死を末路とする苦しみとの遭遇によって遍く焼かれる苦しみは、憂いである。それに耐えられないことから、泣き叫ぶ苦しみは、嘆きである。そののち、「界域の変動(体調の異変)」と名づけられた、好ましくない感触との結合あることから、身体を悩ます苦しみは、苦痛である。その〔苦痛〕に悩まされている凡夫たちに、【506】そこにおいて、敵対〔の思い〕の生起あることから、心を悩ます苦しみは、失意である。憂い等の増大によって生まれた憔悴ある者たちの泣き悲しむ苦しみは、葛藤である。意欲の打破〔という事態〕に至り得た者たちの欲求の打破の苦しみは、求めるものの不得である。ということで、このように、種々なる流儀〔の観点〕から近しく注視されているなら、まさしく、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇は、苦しみである、と〔知られるべきである〕。

 

§60  すなわち、この〔苦しみ〕は、〔その〕一つ一つを見示して説かれているとして、たとえ、無数のカッパ(:時間の単位・極めて長い時間)をもってしても、残りなく説くことはできず、それゆえに、その苦しみを、全てもろともに──海全体の水の味を、一つの水滴において、〔簡略して見示する〕ように──それらの、何であれ、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、簡略して見示するために、「簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、苦しみです」と、世尊は説いた、と〔知られるべきである〕。

 これが、〔五つの心身を構成する〕執取の範疇についての判別〔の方法〕となる。

 まずは、これが、苦しみについての釈示の方法となる。

 

553.

 

 (二)集起についての釈示

 

§61  また、集起についての釈示において〔説かれた、「すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、(1)欲望の渇愛(欲愛)であり、(2)生存の渇愛(有愛)であり、(3)非生存の渇愛(非有愛)です」(§31)について〕。「すなわち、この」「渇愛です」とは、すなわち、この渇愛は。「さらなる生存あるものであり」とは、さらなる生存(再生)を作り為すこと。さらなる生存、さらなる生存が、この〔渇愛〕にとって、戒(習性)となる、ということで、「さらなる生存あるものであり」。愉悦と貪欲と共に赴いたもの、ということで、「愉悦と貪欲を共具したものであり」。義(意味)〔の観点〕からは、愉悦と貪欲と共に、まさしく、一なる〔状態〕に至ったもの、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。「そこかしこに愉悦〔の思い〕ある」とは、その場その場において、自己状態が発現するなら、その場その場において、愉悦〔の思い〕あるものとなる。「それは、すなわち、この」とは、不変化詞。それには、「『それは、どのようなものか』と、もし〔問うなら〕」という義(意味)がある。「欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛の渇愛です」とは、これらは、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕についての釈示において明らかと成るであろう(Ch.17§233)。また、ここでは、この〔渇愛〕は、三種類もろともに、苦しみという真理を発現するものという義(意味)によって、一なるものにまとめて、「苦しみの集起という聖なる真理」と説かれた、と知られるべきである。

 

554.

 

 (三)苦しみの止滅についての釈示

 

§62  苦しみの止滅についての釈示において、「すなわち、まさしく、その渇愛の、[残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です]」(§31)という〔言葉〕等の方法によって、集起の止滅が説かれた。「それは、何ゆえにか」と、もし〔問うなら〕、「集起の止滅によって、苦しみの止滅があることから」〔と答える〕。なぜなら、集起の止滅によって、苦しみは止滅するからである──他なるものとして、ではなく。それによって、〔世尊は〕言う。

 

 【507】〔そこで、詩偈に言う〕「あたかも、また、根が無禍にして堅固であるなら、たとえ、切断された木でも、まさしく、ふたたび成長するように、また、このように、渇愛の悪習(随眠:潜在煩悩)が打破されていないなら、この苦しみは、繰り返し発現する」(ダンマパダ338)と。

 

§63  かくのごとく、すなわち、まさしく、集起の止滅によって、苦しみが止滅することから、それゆえに、世尊は、苦しみの止滅を説示しつつ、まさしく、集起の止滅によって、〔止滅という真理を〕説示した。なぜなら、獅子に等しき行持ある如来たちは、彼らが、苦しみを止滅させているなら、さらに、苦しみの止滅を説示しているなら、因において実践するからである──果において、ではなく。いっぽう、犬の行持ある異教の者たちは、彼らが、苦しみを止滅させているなら、さらに、苦しみの止滅を説示しているなら、自己の疲弊(苦行)への専念の説示等々によって、果において実践する──因において、ではなく。ということで、まずは、このように、苦しみの止滅の説示の目的が、集起の止滅を所以に知られるべきである。

 

555.

 

§64  また、これが、義(意味)となる。「まさしく、その渇愛の」とは、「さらなる生存あるものであり」と説いて〔そののち〕、欲望の渇愛等を所以に区分された、〔まさに〕その、渇愛の。離貪は、道と説かれる。なぜなら、「離貪あることから、解脱します」(サンユッタ・ニカーヤ4p.2)と説かれたからである。離貪によって止滅があり、「離貪と止滅」。悪習の根絶から、残りなき離貪と止滅があり、「残りなき離貪と止滅」。さらに、あるいは、「離貪」とは、捨棄と説かれる。それゆえに、残りなき離貪は、残りなき止滅となる。ということで、このようにもまた、ここにおいて、〔句の〕構成が見られるべきである。

 

§65  また、義(意味)〔の観点〕から、これらのものは、まさしく、全てが、涅槃の同義語となる。なぜなら、最高の義(勝義:最高の真実)〔の観点〕から、「苦しみの止滅という聖なる真理」とは、涅槃と説かれるからである。また、すなわち、それ(涅槃)に由来して、渇愛が、まさしく、そして、離貪し、さらに、止滅することから、それゆえに、そして、「離貪」と〔説かれ〕、さらに、「止滅」と説かれる。さらに、すなわち、まさしく、それ(涅槃)に由来して、その〔渇愛〕の施捨等々が有り、そして、ここにおいて、〔五つの〕欲望の属性(妙欲:色・声・香・味・触)の基底(阿羅耶:執着の思い)については、一つの基底でさえも存在せず、それゆえに、「施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です」と説かれる。

 

556.

 

§66  〔まさに〕その、この〔止滅〕は、寂静を特相とし、死滅なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、あるいは、安堵を作り為すことを効用とし、形相なき〔状態〕を現起(現状)とし、あるいは、虚構なき〔状態〕を現起とする。

 

557.

 

 [涅槃についての言説]

 

§67  「涅槃は、兎の角のように認知できないことから、まさしく、存在しないのでは」と、もし〔問うなら〕、「〔適切なる〕手段(方便)によって認知できることから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。なぜなら、それ(涅槃)は、〔他者の〕心を探知する知恵によって、他者たちの世〔俗〕を超える心が〔知られる〕ように、「それに適切なる〔道の〕実践」と名づけられた手段によって認知されるからである。それゆえに、「認知できないことから、存在しない」と説かれるべきではない。なぜなら、それを、愚者たる凡夫たちが認知しないとして、「それは、存在しない」と説かれるべきではないからである。

 

558.

 

§68  さらに、また、「涅槃は存在しない」と説かれるべきではない。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「〔道の〕実践には、徒労の状態なきことが惹起することから(確実に結果をもたらす)」〔と答える〕。【508】なぜなら、涅槃が存していないなら、正しい見解(正見)を先導とし戒等の三つの範疇(戒の範疇・禅定の範疇・智慧の範疇)を包摂する正しい〔道の〕実践に、徒労の状態が惹起するが、しかしながら、この〔道の実践〕は、〔実践する者を〕涅槃に至り得させることから、徒労ではないからである、と〔知られるべきである〕。「〔五つの心身を構成する範疇の〕状態なき〔状態〕に至り得させることから、〔道の〕実践に、徒労の状態の惹起が(※)ないのでは」と、もし〔問うなら〕、「過去と未来〔の五つの心身を構成する範疇〕の状態なくあるもまた、涅槃に至り得るための状態なきことから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。「〔現在において〕転起している〔五つの心身を構成する範疇〕の状態なき〔状態〕がまた、涅槃なのでは」と、もし〔問うなら〕、「それら〔の現在において転起している五つの心身を構成する範疇〕には、状態なき〔状態〕の発生なきことから(※※)──そして、状態なき〔状態〕においては、〔現在において〕転起していない状態が惹起することから──さらに、〔現在において〕転起している〔五つの心身を構成する〕範疇に依拠した〔聖者の〕道の瞬間において、〔生存の〕依り所(身体)という残りものを有する涅槃の界域(有余依涅槃界)に至り得るための状態なき〔状態〕という汚点あることから──〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。「そのとき(聖者の道の瞬間において)、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)には、転起していない〔状態〕あることから、〔状態なき状態という〕汚点はないのでは」と、もし〔問うなら〕、「聖者の道の義(意味)なき状態が惹起することから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。なぜなら、このように存しているなら、聖者の道の瞬間より過去においてもまた、諸々の〔心の〕汚れは存在しないことになり、ということで、聖者の道の義(意味)なき状態が惹起するからである。それゆえに、これは、契機なきこととなる(道理がない)。

 

※ テキストには vañjhābhāvāpatti とあるが、VRI版により vañjhabhāvāpatti と読む。

※※ テキストには abhāvā sambhavato とあるが、VRI版により abhāvāsambhavato と読む。

 

559.

 

§69  「『友よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、[憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、涅槃と説かれます]』(サンユッタ・ニカーヤ4p.251)という言葉等から、〔貪欲等の〕滅尽が、涅槃なのでは」と、もし〔問うなら〕、「阿羅漢の資質にもまた、〔貪欲等の〕滅尽のみが惹起することから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。なぜなら、その〔阿羅漢の資質〕もまた、「友よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、[憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、阿羅漢の資質と説かれます]」(サンユッタ・ニカーヤ4p.252)という〔言葉〕等の方法によって釈示されたからである。「そして、なお、より一層に、涅槃にとって、暫時のもの等として至り得るという汚点となることから、〔そのようなことはない〕」〔と答える〕。なぜなら、このように存しているなら、涅槃は、暫時のものとなり、形成されたものを特相とするものとなり、そして、正しい努力(正精進)を期すことなく到達されるべき状態が惹起するからであり、(※)さらに、形成されたものを特相とすることから、形成されたものに属しているものとなり、形成されたものに属していることから、貪欲等々の火によって燃えるものとなり、そして、燃えることから、ということでもまた、苦しみが惹起するからである。「〔まさに〕その、〔貪欲等の〕滅尽以降は、〔貪欲等の〕より一層の転起は、まさに、有ることがなく、その〔滅尽〕には、涅槃の状態あることから、汚点はないのでは」と、もし〔問うなら〕、「そのような滅尽の状態なきことから、〔そのようなことは〕なく、そして、たとえ、〔そのような滅尽の〕状態があるとして、この〔滅尽〕には、〔前に〕説かれた流儀の汚点の超克なきことから、さらに、聖者の道には、涅槃の状態の惹起あることから、〔そのようなことはない〕」〔と答える〕。なぜなら、聖者の道は、諸々の汚点を滅尽させ、それゆえに、「滅尽」と説かれるからである。そして、それから以降は、諸々の汚点の、より一層の転起はない、と〔知られるべきである〕。

 

※ VRI版により、以下の欠落箇所 Sakhatalakkhaattāyeva ca sakhatapariyāpanna, sakhatapariyāpannattā rāgādīhi aggīhi āditta, ādittattā dukkhañcātipi āpajjati. を補う。

 

§70  また、「不生起としての止滅」と名づけられた滅尽の教相によって、〔涅槃の〕依所(近因)たることから、その〔涅槃〕にとって、〔滅尽は〕依所と成り、その〔滅尽〕に近接することによって、〔涅槃は〕「滅尽」と説かれた。「何ゆえに、まさしく、明確に説かれなかったのか」と、もし〔問うなら〕、「極めて繊細なることから」〔と答える〕。そして、その〔涅槃〕の極めて繊細なることは、世尊に思い入れ少なき状態(説法の躊躇)をもたらすことから(※)、さらに、聖なる眼によって見られるべきことから、〔実証され〕証明された、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストには apposukkābhāvāvahanato とあるが、VRI版により apposukkabhāvāvahanato と読む。

 

560.

 

§71  〔まさに〕その、この〔涅槃〕は、〔聖者の〕道を保有する者によって至り得られるべきものであることから、〔他のものと〕共通ならざるものであり、前端の状態なきことから(直前の存在が認知されないことから)、起源なきものである。「〔聖者の〕道の状態あるとき、〔涅槃の〕状態あることから、起源なきものではないのでは」と、もし〔問うなら〕、「〔涅槃は、聖者の〕道によって生起させられるべきものではないことから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。なぜなら、この〔涅槃〕は、〔聖者の〕道によって、まさしく、至り得られるべきものであり、生起させられるべきものではないからである。それゆえに、まさしく、起源なきものである。起源なきことから、老と死なきものである。起源と老と死の(※)状態なきことから、常住である。

 

※ テキストには Pabhavajarāmarana とあるが、VRI版により Pabhavajarāmaraāna と読む。

 

§72  【509】「涅槃のように、〔異教の者たちが説く〕微細〔原子〕(極微)等々にもまた、常住の状態の惹起があるのでは」と、もし〔問うなら〕、「因の状態なきことから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。「涅槃の常住なることから、それら〔の微細原子等々〕も常住なのでは」と、もし〔問うなら〕、「因の特相に至り得ないことから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。「〔微細原子等々もまた〕生起等々の状態なきことから、涅槃のように常住なのでは」と、もし〔問うなら〕、「微細〔原子〕等々の〔存在が〕証明されていないことから、〔そのようなことは〕ない」〔と答える〕。

 

561.

 

§73  また、〔前に〕説かれたとおりの適合と自ずからの状態(自性)あることから、この〔涅槃〕だけが常住であり、形態の自ずからの状態の超越あることから、形態ならざるものであり、覚者等々の者たちの究極〔の境地〕(涅槃)には差異の状態なきことから、究極〔の境地〕は、一つだけである。

 彼が、修行によって至り得た〔涅槃〕は、彼の、〔心の〕汚れの寂止に〔関連して〕、さらに、〔生存の〕依り所(身体)という残りものに関連して、報知されるべきことから、〔生存の〕依り所という残りものと共に報知される、ということで、「〔生存の〕依り所という残りものを有する〔涅槃〕(有余依)」。さらに、すなわち、彼の、〔苦しみの〕集起の捨棄によって、まさに、行為の果の断滅によって、そして、最後の心より以後は、転起する〔五つの心身を構成する〕範疇を生起させないことから、かつまた、〔すでに〕生起した〔五つの心身を構成する範疇〕の消没あることから、〔生存の〕依り所という残りものの状態なき〔あり方〕となり、その〔あり方〕に関連して報知されるべきことから、ここにおいて、〔生存の〕依り所という残りものは存在しない、ということで、「〔生存の〕依り所という残りものがない〔涅槃〕(無余依)」。

 

§74  緩慢ならざる勤勉〔努力〕によって〔実証され〕証明された殊勝なる知恵によって到達されるべきことから、さらに、一切知者の言葉たることから、最高の義(勝義:最高の真実)によって自ずからの状態たることから、涅槃は、見出されざるもの(非存)にあらず。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、『生じたもの』ではなく『成ったもの』ではなく『作り為されたもの』ではなく『形成されたもの』ではないもの(涅槃)は存在します」(ウダーナp.80,イティヴッタカp.37)と。

 これが、苦しみの止滅についての釈示における判別〔の方法〕の言説の門となる。

 

562.

 

 (四)苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての釈示

 

§75  また、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての釈示において説かれた八つの法(性質)は、もちろん、〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示においてもまた、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、明示された。また、ここでは、一つの瞬間において転起しているそれら〔の八つの法〕の差異を覚らせることを義(目的)に、〔わたしたちは〕説くであろう。

 

§76  まさに、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕──

 (1)四つの真理の理解のために実践する〔心の〕制止者の、涅槃を対象とするもので、無明の悪習(随眠)を根絶するものたる、智慧(慧・般若)の眼が、「正しい見解(正見)」〔ということになる〕。それは、正しく見ることを特相とし、界域を明示することを効用(機能・性行)とし、無明の暗黒を砕破することを現起(現状)とする。

 

§77  (2)そのように〔正しい〕見解を成就した者の、その〔正しい見解〕と結び付いたもので、誤った思惟を打破するものたる、心を涅槃の境処に固定することが、「正しい思惟(正思惟)」〔ということになる〕。それは、正しく心を固定することを特相とし、専注することを効用(機能・性行)とし、誤った思惟を捨棄することを現起(現状)とする。

 

§78  (3)そのように見ている者の、かつまた、思考している者の、まさしく、その〔正しい見解と正しい思惟〕と結び付いたもので、言葉による悪しき行ないを根絶するものたる、【510】誤った言葉からの離去が、「正しい言葉(正語)」ということになる。それは、遍き収取(理解・把握)を特相とし、〔誤った言葉から〕離れることを効用(機能・性行)とし、誤った言葉を捨棄することを現起(現状)とする。

 

§79  (4)そのように〔誤った言葉から〕離れている者の、まさしく、その〔正しい言葉〕と結び付いたもので、誤った行業を断絶するものたる、命あるものを殺すこと等からの離去が、「正しい行業(正業)」ということになる。それは、〔離去を〕現起させることを特相とし、〔誤った行業から〕離れることを効用(機能・性行)とし、誤った行業を捨棄することを現起(現状)とする。

 

§80  (5)また、彼の、それらの正しい言葉と正しい行業にとって清浄と成ったものが──まさしく、その〔正しい言葉と正しい行業〕と結び付いたもので、虚言等を断絶するものたる、誤った生き方からの離去が──それが、「正しい生き方(正命)」ということになる。それは、〔生き方を〕浄化することを特相とし、正理の生き方の転起を効用(機能・性行)とし、誤った生き方を捨棄することを現起(現状)とする。

 

§81  (6)そこで、彼の、〔まさに〕その、「正しい言葉と〔正しい〕行業と〔正しい〕生き方」と名づけられた、戒の境地において〔自己を〕確立した者の、その〔正しい言葉と正しい行業と正しい生き方〕に適切なるものが──まさしく、その〔正しい言葉と正しい行業と正しい生き方〕と結び付いたもので、怠惰を断絶するものたる、精進に励むことが──これが、「正しい努力(正精進)」ということになる。それは、励起することを特相とし、〔いまだ〕生起していない善ならざるものを生起させないこと等を効用(機能・性行)とし、誤った努力を捨棄することを現起(現状)とする。

 

§82  (7)彼が、このように努力していると、まさしく、その〔正しい努力〕と結び付いたもので、誤った気づきを払拭するものたる、心の忘却なき〔状態〕が、「正しい気づき(正念)」ということになる。それは、現起することを特相とし、忘却なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、誤った気づきを捨棄することを現起(現状)とする。

 

§83  (8)このように無上なる気づきによって心が守られている者の、まさしく、その〔正しい気づき〕と結び付いたもので、誤った禅定を砕破するものたる、心の一境性が、「正しい禅定(正定)」ということになる。それは、〔心の〕散乱なき〔状態〕を特相とし、〔心を〕定め置くことを効用(機能・性行)とし、誤った禅定を捨棄することを現起(現状)とする、と〔知られるべきである〕。

 これが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての釈示の方法となる。

 ここにおいて、このように、生等々の、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

563.

 

§84  (9)「知恵の作用〔の観点〕から」(§14)とは、真理の知恵の作用〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである。まさに、二種類の真理の知恵がある。随覚の知恵であり、さらに、理解の知恵である。そこにおいて、随覚の知恵は、世〔俗〕のものであり、聴聞等を所以に、止滅において、さらに、道において、転起する。理解の知恵は、世〔俗〕を超えるものであり、止滅を対象と為して、作用〔の観点〕から、四つの真理を理解する。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、その者が、苦しみを〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。[その者が、苦しみの集起を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見ます]」(サンユッタ・ニカーヤ5p.437)と、〔四つの真理の〕全てが説かれるべきである。また、その〔世俗を超える知恵〕の、その作用は、〔道と道ならざるものの〕知見の清浄〔についての釈示〕において明らかと成るであろう(Ch.22§92)。

 

§85  【511】また、すなわち、この、世〔俗〕の〔知恵〕であるが、そこにおいて、苦しみ〔という真理〕の知恵は、妄執による征服を所以に転起している、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)を退転させ、集起〔という真理〕の知恵は、断絶の見解(断見:断滅論的見解)を〔退転させ〕、止滅〔という真理〕の知恵は、常久の見解(常見:常住論的見解)を〔退転させ〕、道〔という真理〕の知恵は、無作の見解(修行不要論)を〔退転させる〕。あるいは、苦しみ〔という真理〕の知恵は、常恒と浄美と安楽と自己の状態が絶無なる〔五つの心身を構成する〕範疇における「常恒と浄美と安楽と自己の状態」と名づけられた、果における邪行を〔退転させ〕、集起〔という真理〕の知恵は、「世〔の界域〕は、イッサラ〔天〕(自在天・創造神)や根本〔因〕や時や自ずからの状態等々から(※)転起する」という、契機(原因・根拠)なきものにおいて転起された契機の意念(原因なきものについて原因を想定する妄想)である、因における邪行を〔退転させ〕、止滅〔という真理〕の知恵は、形態なき世や世の頂点等々にたいする、終着点(涅槃)の収取(涅槃を無色界等々の場所に実在すると錯視する妄想)として有る、止滅における邪行を〔退転させ〕、道〔という真理〕の知恵は、欲望の安楽〔への専念〕(快楽主義)と自己の疲弊への専念(苦行主義)の細別ある、清浄ならざる道において、清浄の道の収取(清浄ならざる道を清浄の道と錯視する妄想)を所以に転起された、手段における邪行を退転させる。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「世と世の起源について、さらに、世の滅至という至福とそのための手段について、人は迷乱する──すなわち、〔四つの〕真理を識知しないかぎり、それまでは」と。

 

 ここにおいて、このように、知恵の作用〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

※ テキストには issarapadānakālasabhāvādīhi とあるが、VRI版により issarapadhānakālasabhāvādīhi と読む。

 

564.

 

§86  (10)「諸々の内含されているものの細別〔の観点〕から」とは、まさに、苦しみという真理のうちには、まさしく、そして、渇愛を〔除いて〕、さらに、諸々の煩悩なき法(性質)を除いて、残りの一切の法(性質)が内含され、集起という真理のうちには、三十六の渇愛の行ないが〔内含され〕、止滅という真理は、混合なきものであり、道という真理のうちには、正しい見解という部門によって、考察という神通の足場(観神足)と智慧の機能(慧根)と智慧の力(慧力)と法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)が〔内含され〕、正しい思惟という題目によって、三つの離欲の思考等々が〔内含され〕、正しい言葉という題目によって、四つの言葉による善き行ないが〔内含され〕、正しい行業という題目によって、三つの身体による善き行ないが〔内含され〕、正しい生き方という部門によって、少なき欲求たることが〔内含され〕、さらに、満ち足りていることが〔内含され〕、あるいは、これらの正しい言葉と〔正しい〕行業と〔正しい〕生き方の、まさしく、全てが、聖者の欲する戒たることから、さらに、聖者の欲する戒の信の手によって納受されるべきことから、それらの存在あることによって、〔戒の〕存在の状態あることから、信の機能(信根)と信の力(信力)と欲〔の思い〕(意欲)という神通の足場(欲神足)が〔内含され〕、正しい努力という題目によって、四種類の正しい精励(四正勤)と〔精進という神通の足場(精進神足)と〕精進の機能(精進根)と精進の力(精進力)と精進という正覚の支分(精進覚支)が〔内含され〕、正しい気づきという題目によって、四種類の気づきの確立(四念処・四念住)と気づきの機能(念根)と気づきの力(念力)と気づきという正覚の支分(念覚支)が〔内含され〕、正しい禅定という題目によって、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する〔禅定〕等々の三つの禅定(有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定)と〔心という神通の足場(心神足)である〕心の禅定と禅定の機能(定根)と【512】禅定の力(定力)と喜悦〔という正覚の支分〕(喜覚支)と静息〔という正覚の支分〕(軽安覚支)と禅定〔という正覚の支分〕(定覚支)と放捨という正覚の支分(捨覚支)が内含されている。ということで、ここにおいて、このように、諸々の内含されているものの細別〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

565.

 

§87  (11)「喩え〔の観点〕から」とは、まさに、苦しみという真理は、重荷のように見られるべきであり、集起という真理は、重荷を〔手に〕取ることのように〔見られるべきであり〕、止滅という真理は、重荷を捨て置くことのように〔見られるべきであり〕、道という真理は、重荷を捨て置く手段のように〔見られるべきである〕。さらに、苦しみという真理は、病のように〔見られるべきであり〕、集起という真理は、病の因縁のように〔見られるべきであり〕、止滅という真理は、病の寂止のように〔見られるべきであり〕、道という真理は、薬のように〔見られるべきである〕。あるいは、苦しみという真理は、飢饉のように〔見られるべきであり〕、集起という真理は、旱魃のように〔見られるべきであり〕、止滅という真理は、豊作のように〔見られるべきであり〕、道という真理は、適雨のように〔見られるべきである〕。さらに、また、怨みある者と怨みの根元と怨みの根絶と怨みの根絶の手段、毒の木と木の根と根の切断とその切断の手段、恐れと恐れの根元と恐れなき〔状態〕とその到達の手段、さらに、此岸と大激流と彼岸とそれに得達させる努力と、〔これらの喩えと〕結び付けてもまた、喩え〔の観点〕から、これら〔の四つの真理〕が知られるべきである。ということで、ここにおいて、このように、喩え〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

566.

 

§88  (12)「四なるもの〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、苦しみとして存在し、聖なる真理として〔存在し〕ない、聖なる真理として存在し、苦しみとして〔存在し〕ない、まさしく、そして、苦しみとして存在し、さらに、聖なる真理として〔存在する〕、まさしく、苦しみとして存在せず、聖なる真理として〔存在し〕ない。集起等々についても、これが、〔その〕方法となる。

 

§89  そこにおいて、道と結び付いた諸々の法(性質)は、さらに、〔四つの〕沙門果は、「それが、無常であるなら、それは、苦しみである」(サンユッタ・ニカーヤ2p.53)という言葉から、形成の苦しみ(§35)たることによって、苦しみであるも、〔苦しみという〕聖なる真理ではない。止滅は、聖なる真理であり、苦しみではない。また、他の二つの聖なる真理(集起と道)は、無常なることから、苦しみとして存在するべきであるが、いっぽう、その遍知のために、世尊のもとで梵行(禁欲清浄行)が住されるなら、真実の義(意味)によって、〔苦しみでは〕ない。また、一切の行相によって、渇愛より他の、〔心身を構成する〕執取の範疇の五なるもの(渇愛を除く五取蘊)は、まさしく、そして、苦しみであり、さらに、〔苦しみという〕聖なる真理である。道と結び付いた諸々の法(性質)は、さらに、〔四つの〕沙門果は、その遍知を義(目的)に、世尊のもとで梵行が住されるなら、真実の義(意味)によって、まさしく、苦しみでもなく、〔苦しみという〕聖なる真理でもない。このように、集起等々についてもまた、道理のままに結び付けて、ここにおいて、四なるもの〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

567.

 

§90  (13)「空〔の観点〕から、一種類のもの等々〔の観点〕から」とは、ここにおいて、まずは、空〔の観点〕から、最高の義(勝義:最高の真実)によって、〔四つの〕真理は、まさしく、全てが、受け手と作り手と寂滅した者と赴く者の状態なきことから、空である、と知られるべきである。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 【513】〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、誰であれ、苦しんでいる者(受け手)はなく、苦しみだけがあり、作り手はなく、行じ為すことだけが見出される。寂滅は存在するが、寂滅した人はなく、道は存在するが、赴く者は見出されない」と。

 

 さらに、あるいは──

 

 「前の二つのもの(苦しみと集起)は、常恒と浄美と安楽と自己が空にして、不死の境処(止滅)は、自己が空にして、道は、常恒と安楽と自己が絶無である。ということで、それらにおいて、空なることがある」〔と〕。

 

§91  あるいは、〔苦しみと集起と道の〕三つは、止滅が空であり、そして、止滅は、残りの三つが空である。あるいは、ここにおいて、集起においては、苦しみの状態なきことから、かつまた、道においては、止滅の〔状態なきことから〕、因〔である集起と道〕は、果〔である苦しみと止滅〕が空であり、原質論者(サーンキヤ派)たちの原質(根本物質)のように、果と胎を共にするものではない(因の中に果が含まれることはない)。さらに、苦しみと集起には、かつまた、止滅と道には、会合なきことから(※)、果〔である苦しみと止滅〕は、因〔である集起と道〕が空であり、会合論者(ヴァイシェーシカ派)たちの二つの微細〔原子〕のように、因の果が因と会合することはない。それによって、この〔詩偈〕が説かれる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔苦しみと集起と道の〕三つは、ここに、止滅が空にして、寂滅は、その三つもろともに空である。因は、果が空であり、その果もまた、因が空である」と。

 

 まずは、このように、空〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

※ テキストには asamāvayā とあるが、VRI版により asamavāyā と読む。

 

568.

 

§92  【514】(14)「一種類のもの等々〔の観点〕から」とは、そして、苦しみは、まさしく、全てが、ここにおいて、転起の状態〔の観点〕から、一種類のものとなる。名前と形態〔の観点〕から、二種類のものとなる。欲望〔の行境〕と形態〔の行境〕と形態なき〔行境〕(欲界・色界・無色界)への再生の状態の細別〔の観点〕から(※)、三種類のものとなる。四つの食(四食:口にする食・知覚としての食・意志としての食・認識としての食)の細別〔の観点〕から、四種類のものとなる。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の細別〔の観点〕から、五種類のものとなる。

 

※ テキストには kāmarūpārūpuppattibhavabhedato とあるが、VRI版により kāmarūpārūpūpapattibhavabhedato と読む。

 

§93  集起もまた、転起者の状態〔の観点〕から、一種類のものとなる。見解と結び付いたものと結び付かないもの〔の観点〕から、二種類のものとなる。欲望〔の渇愛〕と生存〔の渇愛〕と非生存の渇愛〔の観点〕から、三種類のものとなる。四つの〔聖者の〕道によって捨棄されるべきもの〔の観点〕から、四種類のものとなる。形態を愉悦すること等の細別〔の観点〕から、五種類のものとなる。六つの渇愛の体系〔の観点〕から、六種類のものとなる。

 

§94  止滅もまた、形成されたものではない界域(無為界)の状態〔の観点〕から、一種類のものとなる。いっぽう、〔経典の〕教相によるなら、〔生存の〕依り所という残りものを有する〔涅槃〕と〔生存の〕依り所という残りものがない〔涅槃〕の細別〔の観点〕から、二種類のものとなる。三つの生存(三有:三界)の寂止〔の観点〕から、三種類のものとなる。四つの〔聖者の〕道によって到達されるべきもの〔の観点〕から、四種類のものとなる。五つ〔の欲望の属性〕を愉悦することの寂止〔の観点〕から、五種類のものとなる。六つの渇愛の体系の滅尽の細別〔の観点〕から、六種類のものとなる。

 

§95  道もまた、修められるべきもの〔の観点〕から、一種類のものとなる。〔心の〕止寂()と〔あるがままの〕観察()の細別〔の観点〕から、あるいは、見ることと修めることの細別〔の観点〕から、二種類のものとなる。〔戒と禅定と智慧の〕三つの範疇の細別〔の観点〕から、三種類のものとなる。なぜなら、この〔道〕は、〔八つの〕部分を有することから、〔各地の〕城市が王国によって〔包摂されたものとなる〕ように、部分なき三つの範疇によって包摂されたものとなるからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「友よ、ヴィサーカよ、まさに、聖なる八つの支分ある道によって、三つの範疇が包摂されたものとなるのではありません。友よ、ヴィサーカよ、しかしながら、まさに、三つの範疇によって、聖なる八つの支分ある道は包摂されたものとなります。友よ、ヴィサーカよ、そして、すなわち、正しい言葉は、かつまた、すなわち、正しい行業は、さらに、すなわち、正しい生き方は、これらの法(性質)は、戒の範疇(戒蘊)に包摂されたものとなります。そして、すなわち、正しい努力は、かつまた、すなわち、正しい気づきは、さらに、すなわち、正しい禅定は、これらの法(性質)は、禅定の範疇(定蘊)に包摂されたものとなります。そして、すなわち、正しい見解は、さらに、すなわち、正しい思惟は、これらの法(性質)は、智慧の範疇(慧蘊)に包摂されたものとなります」(マッジマ・ニカーヤ1p.301)と。

 

§96  なぜなら、ここにおいて、正しい言葉等々の三つは、まさしく、戒であり、それゆえに、それらは、同類たることから、戒の範疇によって包摂されたものとなるからである。まさに、たとえ、何であれ、〔前に説かれた〕聖典において、「戒の範疇に」と処格によって釈示が為されたとして、いっぽう、義(意味)としては、まさしく、具格を所以に知られるべきである(「に」とあるが、「によって」と理解するべきである)。

 また、正しい努力等々の三つについて、禅定は、自己の法(性質)たること(法性:人為的作為が介在しない自然の性質)によって、対象にたいする一境の状態によって〔瞑想の境地に〕専注することはできないが、いっぽう、精進が励起する作用を遂行しているときは、かつまた、気づきが列挙する作用を遂行しているときは、〔両者による〕資益を得たものと成って、〔対象にたいする一境の状態によって瞑想の境地に専注することが〕できる。

 

§97  そこで、これが、〔その〕喩えとなる。まさに、すなわち、「〔わたしたちは〕星祭りの遊戯をするのだ」と、庭園に入った三者の仲間のうちの一者が、見事に花ひらいたチャンパカ樹を(※)見て、たとえ、手を持ち上げても掴むことができず、そこで、彼のために、第二の者が、屈んで背を与えることになるが、彼(第一の者)は、たとえ、彼の背に立っても〔身体が〕揺れ動いているので掴むことができず、【515】そこで、彼のために、他の者(第三の者)が、肩先を差し出すことになり、彼は、一者の背に立って、〔かつまた〕一者の肩先に頼って、好みのままの花々を摘んで、飾り立てて星祭りの遊戯をするであろうように、このように、同様に、この〔正しい努力等々の三つ〕が見られるべきである。

 

※ テキストには campatharukkha とあるが、VRI版により campakarukkha と読む。

 

§98  まさに、一緒に庭園に入った三者の仲間のように、一緒に生じた正しい努力等々の三つの法(性質)がある。見事に花ひらいたチャンパカ〔樹〕のように、〔瞑想の〕対象がある。たとえ、手を持ち上げても掴むことができずにいるように、自己の法(性質)たることによって、対象にたいする一境の状態によって〔瞑想の境地に〕専注することができずにいる、禅定がある。背を与えて屈んだ仲間のように、努力がある。肩先を与えて立った仲間のように、気づきがある。彼らのうちの一者の背に立って、〔かつまた〕一者の肩先に頼って、他の者が、好みのままの花を掴むことができるように、まさしく、このように、精進が励起する作用を遂行しているとき、かつまた、気づきが列挙する作用を遂行しているとき、〔両者による〕資益を得た禅定は、対象にたいする一境の状態によって〔瞑想の境地に〕専注することができる。

 それゆえに、ここにおいて、まさしく、禅定は、同類たることから、禅定の範疇によって包摂されたものと〔成り〕、また、努力と気づきは、作用〔の観点〕から、〔禅定の範疇によって〕包摂されたものと成る。

 

§99  正しい見解と正しい思惟についてもまた、智慧は、自己の法(性質)たることによって、「無常である」「苦痛である」「無我である」と、対象を判別することはできないが、いっぽう、思考(正しい思惟)が〔対象を〕打っては打って与えているときは、〔対象を判別することが〕できる。どのようにか。

 

§100  まさに、すなわち、両替商が手に貨幣を据え置いて、〔その貨幣の〕全ての部分について眺め見ることを欲する者として存しつつもまた、眼の面だけでは〔その貨幣を〕遍く転起させることができず、いっぽう、指先によって〔その貨幣を〕遍く転起させては遍く転起させて〔そののち〕、こちらからもあちらからも〔その貨幣の全ての部分について〕眺め見ることができるように、まさしく、このように、智慧は、自己の法(性質)たることによって、無常等〔の知見〕を所以に、対象を判別することはできないが、いっぽう、固定することを特相とし、触発することと撃打することを効用(機能・性行)とする(※)、思考(正しい思惟)によって、打ち叩いているかのように、さらに、遍く転起させているかのように、取っては取って、まさしく、与えられた〔対象〕を判別することができる。それゆえに、ここでもまた、まさしく、正しい見解は、同類たることから、智慧の範疇によって包摂されたものと〔成り〕、また、正しい思惟は、作用を所以に、〔智慧の範疇によって〕包摂されたものと成る。

 

※ テキストには āhananapariyāhananavasena とあるが、VRI版により āhananapariyāhananarasena と読む。

 

§101  かくのごとく、これらの三つの範疇によって、道は、包摂に至る(包摂される)。それによって説かれた。「〔戒と禅定と智慧の〕三つの範疇の細別〔の観点〕から、三種類のものとなる」(§95)と。まさしく、預流道等(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)を所以に、〔道は〕四種類のものとなる。

 

§102  さらに、また、〔四つの〕真理は、まさしく、全てが、真実を離れざるもの〔の観点〕から、あるいは、証知されるべきもの〔の観点〕から、一種類のものとなる。世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるもの〔の観点〕から、あるいは、形成されたものと形成されたものではないもの〔の観点〕から、二種類のものとなる。見ることと修めることによって捨棄されるべきもの〔の観点〕から、さらに、捨棄されるべきではないもの〔の観点〕から、三種類のものとなる。遍知されるべきもの等(遍知されるべきもの・捨棄されるべきもの・実証されるべきもの・修行されるべきもの)の細別〔の観点〕から(§28)、四種類のものとなる。ということで、ここにおいて、このように、一種類のもの等々〔の観点〕から、判別〔の方法〕が知られるべきである。

 

569.

 

§103  【516】(15)「部分を共にするものと部分を共にしないもの〔の観点〕から」とは、〔四つの〕真理は、まさしく、全てが、真実を離れざるもの〔の観点〕から、自己が空なるもの〔の観点〕から、さらに、理解が為し難きもの〔の観点〕から──すなわち、〔世尊が〕言うように、「〔世尊は尋ねた〕『アーナンダよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、あるいは、より為し難くあり、あるいは、より征服し難くありますか。すなわち、はるか遠くから、繊細なる鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通すことですか、あるいは、すなわち、百様に破断された毛の端を、〔矢の〕端で貫くことですか』と。〔アーナンダが答えた〕『尊き方よ、これこそが、まさしく、そして、より為し難くあり、さらに、より征服し難くあります。あるいは、すなわち、百様に破断された毛の端を、〔矢の〕端で貫くことです』と。〔世尊は言った〕『アーナンダよ、そこで、まさに、〔賢者たちは〕より貫き難きものを貫きます。すなわち、〔彼らは〕『これは、苦しみである』と、事実のとおりに理解し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに理解します」(サンユッタ・ニカーヤ5p.454)と──互いに他と部分を共にするもの(共通点を有するもの)となり、自らの特相の〔差異の〕定置〔の観点〕から、部分を共にしないもの(共通点を有さないもの)となる。

 

§104  そして、前の二つのもの(苦しみと集起)は、沈潜し難きことによって深遠なることから、世〔俗〕のものたることから、さらに、煩悩を有するものたることから、部分を共にするものとなり、果と因の細別〔の観点〕から、さらに、遍知されるべきものと捨棄されるべきもの〔の細別の観点〕から、部分を共にしないものとなる。後の二つのもの(止滅と道)もまた、深遠なることによって沈潜し難きことから、世〔俗〕を超えるものたることから、さらに、煩悩なきものたることから、部分を共にするものとなり、境域と境域あるものの細別〔の観点〕から、さらに、実証されるべきものと修行されるべきもの〔の細別の観点〕から、部分を共にしないものとなる。そして、また、第一のものと第三のもの(苦しみと止滅)は、果を題目とすることから、部分を共にするものとなり、形成されたものと形成されたものではないもの〔の細別の観点〕から、部分を共にしないものとなる。そして、また、第二のものと第四のもの(集起と道)は、因を題目とすることから、部分を共にするものとなり、一方的に善なるものと善ならざるもの〔の細別の観点〕から、部分を共にしないものとなる。そして、また、第一のものと第四のもの(苦しみと道)は、形成されたものたることから、部分を共にするものとなり、世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるもの〔の細別の観点〕から、部分を共にしないものとなる。そして、また、第二のものと第三のもの(集起と止滅)は、学びあるものにもあらず学ぶことなきものにもあらざる状態から、部分を共にするものとなり、対象を有するものと対象なきもの〔の細別の観点〕から、部分を共にしないものとなる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、このように、諸々の流儀によって、さらに、諸々の方法によって、明眼の者は、〔四つの〕聖なる真理に部分を共にするものと部分を共にしないものがあることを識知するべきである」と。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「機能と真理についての釈示」という名の第十六章となる。