第二十一章 〔実践の〕道の知見の清浄についての釈示

 

737.

 

§1  【639】また、「八つの知恵を所以に頂に至り得た〔あるがままの〕観察」が、さらに、「第九の真理に随順する知恵」が、かくのごとく、この〔九つの知恵〕が、「〔実践の〕道の知見の清浄」ということになる。そして、ここにおいて、「八つ〔の知恵〕」とは、付随する〔心の〕汚れから解脱し、〔正しい〕道程が実践された、「〔あるがままの〕観察」と名づけられた、(1)生成と衰失の随観の知恵、(2)滅壊の随観の知恵、(3)恐怖の現起の知恵、(4)危険の随観の知恵、(5)厭離の随観の知恵、(6)解き放ちを欲する知恵、(7)審慮の随観の知恵、(8)諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵、という、これらの八つの知恵と知られるべきである。(9)「第九の真理に随順する知恵」とは、これは、随順するものの同義語である。それゆえに、その〔知恵〕を成就させることを欲する者によって、付随する〔心の〕汚れから解脱した生成と衰失の随観の知恵を最初と為して、これらの知恵において、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

738.

 

 1 生成と衰失の随観の知恵

 

§2  「生成と衰失の随観の知恵において、ふたたび、〔心の〕制止が〔為されるべきであるなら〕、何を義(目的)としているのか」と、もし〔問うなら〕、「特相の省察を義(目的)とする」〔と答える〕。なぜなら、生成と衰失の知恵は、前には(道と道ならざるものの知見の清浄においては)、十の付随する〔心の〕汚れに汚れたものとして有って、あるがままの自ずからの効用(機能・性行)〔の観点〕から〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を省察することができなかったが、いっぽう、〔今は〕付随する〔心の〕汚れから解脱し、〔三つの特相を省察することが〕できるからである。それゆえに、特相の省察を義(目的)に、ここにおいて、ふたたび、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

739.

 

§3  【640】「また、〔三つの〕特相は、何に意を為さないことから、何によって隠蔽されたことから、現起しないのか」〔と問うなら〕、「まずは、無常の特相は、生成と衰失に意を為さないことから、相続によって隠蔽されたことから、現起せず、苦痛の特相は、間断なき逼悩に意を為さないことから、〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥)によって隠蔽されたことから、現起せず、無我の特相は、種々なる界域の分解に意を為さないことから、重厚〔の表象〕によって隠蔽されたことから、現起しない」〔と答える〕。

 

§4  いっぽう、生成と衰失を遍く収め取って、相続が破砕されたとき、無常の特相は、あるがままの自ずからの効用〔の観点〕から現起し、間断なき逼悩に意を為して、〔四つの〕振る舞いの道〔による隠蔽〕が撤去されたとき、苦痛の特相は、あるがままの自ずからの効用〔の観点〕から現起し、種々なる界域を分解して、重厚〔の表象〕の分解が為されたとき、無我の特相は、あるがままの自ずからの効用〔の観点〕から現起する。

 

740.

 

§5  そして、ここにおいて、「無常は、無常の特相である」「苦痛は、苦痛の特相である」「無我は、無我の特相である」と、この区分が知られるべきである。

 

§6  そこにおいて、「無常」とは、〔心身を構成する〕範疇の五なるもの(五蘊)のこと。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「生起と衰失と他化の状態あることから、あるいは、有って〔そののち〕状態なきことから」〔と答える〕。生起と衰失と他化は、無常の特相であり、あるいは、「有って〔そののち〕状態なき」と名づけられたものは、行相の変異である。

 

§7  また、「それが、無常であるなら、それは、苦痛です」(サンユッタ・ニカーヤ4p.1)という言葉から、まさしく、その、〔心身を構成する〕範疇の五なるものは、苦痛である。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「間断なき逼悩あることから」〔と答える〕。間断なき逼悩の行相は、苦痛の特相である。

 

§8  また、「それが、苦痛であるなら、それは、無我です」(サンユッタ・ニカーヤ4p.1)という言葉から、まさしく、その、〔心身を構成する〕範疇の五なるものは、無我である。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「自在に転起しないことから」〔と答える〕。自在に転起することなき行相は、無我の特相である。

 

§9  〔まさに〕その、この〔特相〕を、全てもろともに、この〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、付随する〔心の〕汚れから解脱し、〔正しい〕道程が実践された、「〔あるがままの〕観察」と名づけられた、生成と衰失の随観の知恵によって、あるがままの自ずからの効用(機能・性行)〔の観点〕から省察する。

 

741.

 

 2 滅壊の随観の知恵

 

§10  彼が、このように省察して、繰り返し、「無常であり、苦痛であり、無我である」と、諸々の形態と形態なき法(性質)を比較し推量していると、その知恵は、鋭敏なるものと成って運び行き、諸々の形成〔作用〕は、軽快に現起する。知恵が鋭敏なるものとして運び行きつつ、諸々の形成〔作用〕が軽快に現起しているとき、あるいは、生起に、あるいは、止住に、あるいは、転起されたものに、あるいは、形相に、得達することはなく、まさしく、滅尽と衰失と破壊と止滅において、気づきは確立する。

 

§11  彼が、【641】「まさに、形成〔作用〕として在るもの(形成されたもの)は、このように生起して、このように止滅する」と見ていると、一つの境位において、「滅壊の随観」という名の〔あるがままの〕観察の知恵が生起する。それに関して、〔聖典において〕説かれた。「どのように、対象を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における智慧が、〔あるがままの〕観察についての知恵となるのか。形態を対象とすることから、心は、生起して〔そののち〕破壊する。その対象を審慮して〔そののち〕、その心の、滅壊を随観する。『随観する』とは、どのように、随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を……無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を……厭離している者は、愉悦を……離貪している者は、貪欲を……止滅させている者は、集起を……放棄している者は、執取を捨棄する。感受〔作用〕を対象とすることから……。表象〔作用〕を対象とすることから……。諸々の形成〔作用〕を対象とすることから……。識知〔作用〕を対象とすることから……。眼を対象とすることから……略……。老と死を対象とすることから、心は、生起して〔そののち〕破壊する。その対象を審慮して〔そののち〕、その心の、滅壊を随観する。『随観する』とは、どのように、随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。……略……放棄している者は、執取を捨棄する。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『まさしく、そして、〔随観の〕基盤(事態)の転移が、さらに、智慧による還転が、まさしく、そして、傾注の力が、審慮の〔あるがままの〕観察である。

 〔現見の〕対象に付従することで、〔過去と未来の〕両者を一つに定め置くことが、止滅について信念あることが、衰失の特相の〔あるがままの〕観察である。

 そして、対象を審慮して〔そののち〕、さらに、滅壊を随観する。そして、空〔の観点〕からの〔気づきの〕現起が、卓越の智慧たる〔あるがままの〕観察である。

 三つの随観(無常の随観・苦痛の随観・無我の随観)に巧みな智ある者は、かつまた、四つの〔あるがままの〕観察(厭離の随観・離貪の随観・止滅の随観・放棄の随観)に〔巧みな智ある者は〕、三つの〔気づきの〕現起(滅尽の随観・衰失の随観・空性の随観)に巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない』と。

 

 それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。『対象を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における智慧が、〔あるがままの〕観察についての知恵となる』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.57-8)と。

 

742.

 

§12  そこにおいて、「対象を審慮して〔そののち〕」とは、それが何であれ、対象を審慮して〔そののち〕、知って〔そののち〕。滅尽〔の観点〕から、衰失〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、という義(意味)である。

 「滅壊の随観における智慧」とは、対象を、滅尽〔の観点〕から、衰失〔の観点〕から、〔あるがままに〕審慮して〔そののち〕生起した、その知恵の、滅壊の随観における、〔まさに〕その、智慧が、これが、「〔あるがままの〕観察についての知恵」と説かれた。【642】「どのように、その〔あるがままの観察についての知恵〕と成るのか」と、まずは、これが、言説することを欲する問いの義(意味)となる。

 

§13  そののち、すなわち、その〔あるがままの観察についての知恵〕と成るとおりに、それを見示するために、「形態を対象とすることから」という〔言葉〕等が説かれた。そこにおいて、「形態を対象とすることから、心は、生起して〔そののち〕破壊する」とは、形態を対象とするものとして、心は、生起して〔そののち〕破壊する。そこで、あるいは、形態を対象とする状態において、心は、生起して〔そののち〕破壊する、という義(意味)である。「その対象を審慮して〔そののち〕」とは、その、形態という対象を、審慮して〔そののち〕、知って〔そののち〕。滅尽〔の観点〕から、衰失〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、という義(意味)である。「その心の、滅壊を随観する」とは、その心によって、その、形態という対象が、滅尽〔の観点〕から、衰失〔の観点〕から、〔あるがままに〕見られたなら、その心の、滅壊を、他の心によって随観する、という義(意味)である。それによって、過去の方たちは言う。「そして、所知を、さらに、知恵を、両者ともどもに、〔あるがままに〕観察する」と。

 

§14  そして、ここにおいて、「随観する(アヌパッサティ)」とは、従い(アヌ)従い(アヌ)見る(パッサティ)。無数の行相によって、繰り返し見る、という義(意味)である。それによって、〔聖典に〕言う。「『随観する』とは、どのように、随観するのか。無常〔の観点〕から随観し」等と。

 

§15  そこにおいて、すなわち、滅壊は、まさに、無常性における最高点であることから、それゆえに、その〔心の〕制止を行境とする者は、滅壊の随観ある者として、一切の形成〔作用〕として在るものを、「無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない」〔ということになる〕。そののち、無常なるものの苦痛なることから、苦痛なるものの無我なることから、まさしく、その〔一切の形成作用として在るもの〕を、「苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない」〔ということになる〕。

 

§16  また、すなわち、それが、無常であり、苦痛であり、無我であるなら、それは、愉悦されるべきではなく、そして、それが、愉悦されるべきではないなら、そこにおいて、貪欲されるべきではないことから、それゆえに、滅壊の随観に従い行くことで、「無常であり、苦痛であり、無我である」と見られた、この、形成〔作用〕として在るものにたいし、「厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない」〔ということになる〕。彼が、このように、貪欲せずにいるなら、まずは、世〔俗〕の知恵だけによって、貪欲を、「止滅させ、集起させない」〔ということになる〕。集起を作り為さない、という義(意味)である。

 

§17  そこで、あるいは、彼が、このように離貪したなら、すなわち、形成〔作用〕として在るものが見られたように、そのとおりに、〔いまだ〕見られていないものをもまた、付従する知恵(推測知)を所以に、止滅させ、集起させず、まさしく、止滅〔の観点〕から、意を為す。止滅だけを見、集起を〔見〕ない、という義(意味)である。

 

§18  彼は、このように実践する者として、「放棄し、執取しない」〔ということになる〕。何が、〔ここにおいて〕説かれたものと成るのか。この、無常等の随観もまた、その支分を所以に、諸々の範疇と〔それらの〕行作と共に、諸々の〔心の〕汚れを完全に捨て去ることから──さらに、形成されたものの汚点を見ることで、そして、その反対のものである涅槃〔の境処〕にたいし、それに向かい行くことで【643】跳入することから──まさしく、そして、完全に捨て去ることとしての放棄であり、さらに、跳入することとしての放棄である、と説かれる。それゆえに、それを具備した比丘は、説かれたとおりの方法によって、まさしく、諸々の〔心の〕汚れを完全に捨て去り、そして、涅槃に跳入し、発現することを所以に諸々の〔心の〕汚れに執取することもまたなく、汚点が見られないことを所以に形成された対象を〔執取することも〕ない。それによって説かれた。「放棄し、執取しない」と。

 

743.

 

§19  今や、彼に、それらの〔無常等の三つの随観の〕知恵によって、どのような諸法(性質)の捨棄が有るのか、それを見示するために、「無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し」という〔言葉〕等が説かれた。そこにおいて、「愉悦を」とは、喜悦を有する渇愛を。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた方法のものとなる。

 

744.

 

§20  また、諸々の詩偈について。「基盤(事態)の転移が」とは、形態の、滅壊を見て〔そののち〕、滅壊を見た、その心によって、ふたたび、また、その〔心〕の、滅壊を見ることを所以に、前の基盤から他の基盤へと転移することが。「さらに、智慧による還転が」とは、生成を捨棄して、衰失において確立することが。「まさしく、そして、傾注の力が」とは、形態の、滅壊を見て〔そののち〕、ふたたび、滅壊を対象とする心の、滅壊を見ることを義(目的)に、まさしく、直後に、傾注ができることが。「審慮の〔あるがままの〕観察である」とは、これが、「対象を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観」ということになる。

 

745.

 

§21  「対象に付従することで、〔過去と未来の〕両者を一つに定め置くことが」とは、現見のものとして見られた対象に付従し従い行くことで、「すなわち、この〔形成作用として在るもの〕が、〔現にいま、現見のものとして破壊する〕とおりに、そのように、形成〔作用〕として在るものは、過去においてもまた破壊したのであり、未来においてもまた破壊するであろう」と、このように、〔過去と未来の〕両者を、まさしく、一つの自ずからの状態によって定め置くことが、という義(意味)である。そして、このこともまた、過去の方たちによって説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「等しく見出されつつあるもの(現に存在するもの)にたいし、清浄の見ある者は、それに付従し、過去と未来を導く(正しく推論する)。

 諸々の形成〔作用〕として在るものは、全てもろともに、崩壊するものである──太陽が昇ったときの露の滴のように」と。

 

§22  「止滅について信念あることが」とは、このように、〔過去と未来の〕両者の滅壊を所以に、一つに定め置くことを為して、まさしく、その、「滅壊」と名づけられた止滅について、信念あることが。それを尊重すること、それに向かい行くこと、それに傾倒すること、それに傾斜すること、という義(意味)である。「衰失の特相の〔あるがままの〕観察である」とは、これが、「衰失の特相の〔あるがままの〕観察」ということになる、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

746.

 

§23  「そして、対象を審慮して〔そののち〕」とは、そして、前の形態等の対象を知って〔そののち〕。「さらに、滅壊を随観する」とは、その対象の滅壊を見て〔そののち〕、それを対象とする心の、滅壊を随観する。

 

§24  【644】「そして、空〔の観点〕からの〔気づきの〕現起が」とは、彼が、このように、滅壊を随観していると、「まさしく、諸々の形成〔作用〕は、破壊する。それらの破壊は、死である。〔諸々の形成作用より〕他のものは、何であれ、存在しない」と、空〔の観点〕からの〔気づきの〕現起が実現する。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の範疇は止滅し、そして、〔諸々の範疇より〕他のものは存在せず、諸々の範疇の破壊は、死である、と説かれる。

 〔気づきを〕怠らない者は、それらの滅尽を見る──金剛をもって宝珠を根源から貫くように」と。

 

§25  「卓越の智慧たる〔あるがままの〕観察である」とは、そして、すなわち、対象を審慮して〔そののち〕、かつまた、すなわち、滅壊を随観することが、さらに、すなわち、空〔の観点〕からの〔気づきの〕現起が、これが、「卓越の智慧たる〔あるがままの〕観察」ということになる、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

747.

 

§26  「三つの随観に巧みな智ある者は」とは、無常の随観等々(無常の随観・苦痛の随観・無我の随観)の三つ〔の随観〕に利口なる比丘は。「かつまた、四つの〔あるがままの〕観察に〔巧みな智ある者は〕」とは、かつまた、厭離等々(厭離・離貪・止滅・放棄)の四つの〔あるがままの〕観察に〔巧みな智ある者は〕。「三つの現起に巧みな智あることから」とは、滅尽〔の観点〕から、衰失〔の観点〕から、空〔の観点〕から(※)、という、そして、この三種類の〔気づきの〕現起に巧みな智あることから。「種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」とは、常久の見解等々の種々なる流儀の見解にたいし動揺しない。

 

※ テキストにはkhayato vayato bhayato suññato とあるが、VRI版により khayato vayato suññato と読む。

 

748.

 

§27  彼が、このように動揺せずにいると、「まさしく、〔いまだ〕止滅していないものが、止滅する。まさしく、〔いまだ〕破壊していないものが、破壊する」と意を為すことが転起され、力弱き器が破壊しつつあるかのように、細かい塵だけが散乱しつつあるかのように、諸々の胡麻が煎られつつあるかのように、一切の形成〔作用〕の、生起と止住と転起されたものと形相を捨てて、破壊だけを見る。彼は、すなわち、まさに、眼ある人が、あるいは、池畔に〔立ち〕、あるいは、川岸に立ち、天が土砂降りの雨を降らせているとき、水の背(水面)において、諸々の水の泡粒の大きなもの大きなものが、生起しては生起して、即座即座に、破壊しつつあるのを見るように、まさしく、このように、「一切の形成〔作用〕が、破壊する、破壊する」と見る。まさに、このような形態の〔心の〕制止を行境とする者に関して、世尊によって説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「泡粒を見るかのように、陽炎を見るかのように、このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ない」(ダンマパダ170)と。

 

749.

 

§28  彼が、このように、「一切の形成〔作用〕が、破壊する、破壊する」と、間断なく見ていると、八つの福利を付属品とする滅壊の随観の知恵は、力に至り得たものと成る。そこで、生存についての〔誤った〕見解の捨棄、〔生存にたいする〕思い入れの捨棄、生命にたいする欲念を完全に捨て去ること、恐怖を離れ去ったこと、常に道理あることに専念すること、忍耐と温和の獲得、清浄の生き方あること、歓楽と不満〔の思い〕を打ち負かすこと、という、これらが、八つの福利となる。【645】それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「これらの最上の八つの徳を見て、そこ(滅壊の随観)において、繰り返し触知する──頭巾が燃えている者の如くに、滅壊を随観する牟尼は、不死〔の境処〕に至り得るために」と。

 

 滅壊の随観の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

750.

 

 3 恐怖の現起の知恵

 

§29  彼が、このように、一切の形成〔作用〕の滅尽と衰失と破壊と止滅を対象とする滅壊の随観を習修し修め多く為していると、一切の生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と〔有情の〕居住の細別ある諸々の形成〔作用〕が、大いなる恐怖と成って現起する──安楽に生きることを欲する恐怖する人に、獅子や虎や豹や熊や鬣狗(ハイエナ)や夜叉や羅刹や猛牛や猛犬や発情し狂暴となった猛象やおぞましき毒蛇や雷電や墓場や戦地や燃え盛る火坑等々が〔大いなる恐怖と成って現起する〕ように。彼が、「諸々の過去の形成〔作用〕は、〔すでに〕止滅したのだ。諸々の現在〔の形成作用〕は、〔現にいま〕止滅する。未来に発現する諸々の形成〔作用〕もまた、まさしく、このように、〔いずれ〕止滅するであろう」と見ていると、この境位において、「恐怖の現起の知恵」という名のものが生起する。

 

§30  そこで、これが、〔その〕喩えとなる。伝えるところでは、或る婦女に、王に反逆する三者の子が〔有った〕。王は、彼らの断頭(斬首)を命じた。彼女は、子たちと共に刑場にやってきた。そこで、〔王の家来たちは〕彼女の長子の頭を断って、中〔子〕の〔頭を〕断ち始めた。彼女は、長子の首が断たれ、さらに、中〔子〕の〔頭が〕断たれつつあるのを見て、末〔子〕にたいする〔執着の〕基底を捨てた。「この者もまた、まさしく、これらの者たちに等しき者と成るであろう」と。そこにおいて、その婦女の、長子の頭が断たれたのを見ることのように、〔心の〕制止者の、諸々の過去の形成〔作用〕の止滅を見ることがある。中〔子〕の頭が断たれつつあるのを見ることのように、諸々の現在〔の形成作用〕の止滅を見ることがある。「この者もまた、まさしく、これらの者たちに等しき者と成るであろう」と、末子にたいする〔執着の〕基底を捨てることのように、「未来においてもまた、発現する諸々の形成〔作用〕は破壊するであろう」と、諸々の未来〔の形成作用〕の止滅を見ることがある。彼が、このように見ていると、この境位において、恐怖の現起の知恵が生起する。

 

§31  他にもまた、喩えがある。伝えるところでは、或る、出産障害の婦女が、十者の小児を【646】産んだ。それらのうち、九者は〔すでに〕死に、一者は手に在り、〔現にいま〕死ぬところであり、他の者(十一番目の小児)は、子宮のなかにいる。彼女は、九者の小児が死んだとき、さらに、第十の者が死につつあるのを見て、子宮に在る者(十一番目の小児)にたいする〔執着の〕基底を捨てた。「この者もまた、まさしく、これらの者たちに等しき者と成るであろう」と。そこにおいて、その婦女の、九者の小児の死を随念することのように、〔心の〕制止者の、諸々の過去の形成〔作用〕の止滅を見ることがある。手に在る〔小児〕の死につつある状態を見ることのように、〔心の〕制止者の、諸々の現在〔の形成作用〕の止滅を見ることがある。子宮に在る〔小児〕にたいする〔執着の〕基底を捨てることのように、諸々の未来〔の形成作用〕の止滅を見ることがある。彼(瞑想修行者)が、このように見ていると、この境位において、恐怖の現起の知恵が生起する。

 

751.

 

§32  「また、恐怖の現起の知恵は、〔自ら〕恐怖するのか、恐怖しないのか」と〔問うなら〕、「恐怖しない」〔と答える〕。なぜなら、それは、「諸々の過去の形成〔作用〕は、〔すでに〕止滅したのだ。諸々の現在〔の形成作用〕は(※)、〔現にいま〕止滅する。諸々の未来〔の形成作用〕は、〔いずれ〕止滅するであろう」と、まさしく、推量のみのものとして有るからである。それゆえに、すなわち、まさに、眼ある人が、城市の門にある三つの火坑を眺め見ながら、自ら恐怖しないように──なぜなら、彼には、単に、「ここにおいて、落下するであろう、それらそれらの者たちは、全ての者たちが、少なからざる苦痛を経験するであろう」と、まさしく、推量のみが有るからである──また、あるいは、すなわち、眼ある人が、堅い木の串、鉄の串、金の串、という、次第次第に据え置かれた三つの串を眺めながら、自ら恐怖しないように──なぜなら、彼には、単に、「これらの串に落下するであろう、それらそれらの者たちは、全ての者たちが、少なからざる苦痛を経験するであろう」と、まさしく、推量のみが有るからである──まさしく、このように、恐怖の現起の知恵は、自ら恐怖しない──なぜなら、それには、単に、三つの火坑に等しく、さらに、三つの串に等しく、三つの生存について、「諸々の過去の形成〔作用〕は、〔すでに〕止滅した。諸々の現在〔の形成作用〕は、〔現にいま〕止滅する。諸々の未来〔の形成作用〕は、〔いずれ〕止滅するであろう」と、まさしく、推量のみが有るからである。

 

※ テキストにはpaccuppannāni とあるが、VRI版により paccuppannā と読む。

 

§33  また、すなわち、その〔恐怖の現起の知恵〕には、単に、一切の生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と〔有情の〕居住として在る諸々の形成〔作用〕が、災厄を惹起したものと〔成り〕、恐怖を有するものと成って、恐怖〔の観点〕から現起することから、それゆえに、「恐怖の現起の知恵」と説かれる。

 また、その〔恐怖の現起の知恵〕の、このように恐怖〔の観点〕から現起することについて、これが、〔その〕聖典となる。「無常〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか。苦痛〔の観点〕から……。無我〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか」(パティサンビダー・マッガ2p.63)と。「無常〔の観点〕から意を為していると、形相が、恐怖〔の観点〕から生起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものが、恐怖〔の観点〕から生起する。無我〔の観点〕から意を為していると、そして、形相が、さらに、転起されたものが、恐怖〔の観点〕から生起する」(パティサンビダー・マッガ2p.63)と。

 

§34  そこにおいて、「形相」とは、諸々の形成〔作用〕の形相のこと。これは、まさしく、過去と未来と現在の諸々の形成〔作用〕の同義語である。まさに、無常〔の観点〕から【647】意を為している者は、諸々の形成〔作用〕の死だけを見る。それによって、彼には、形相が、恐怖〔の観点〕から現起する。「転起されたもの」とは、形態ある〔生存〕と形態なき生存の転起のこと。まさに、苦痛〔の観点〕から意を為している者は、安楽と等しく認証された転起の、間断なき逼悩の状態だけを見る。それによって、彼には、転起されたものが、恐怖〔の観点〕から現起する。また、無我〔の観点〕から意を為している者は、〔形相と転起されたものの〕両者ともどもに、これを、空の村落のように、さらに、陽炎や蜃気楼等々のように、空虚なるものと、虚妄なるものと、空なるものと、主人ならざるものと、遍き導き手ならざるものと、見る。それによって、彼には、そして、形相が、さらに、転起されたものが、両者ともに、恐怖〔の観点〕から現起する。ということで──

 恐怖の現起の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

752.

 

 4 危険の随観の知恵

 

§35  彼が、〔まさに〕その、恐怖の現起の知恵を、習修し修め多く為していると、一切の生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と有情の居住所のうちに、まさしく、救護所は〔覚知され〕ず、避難所は〔覚知され〕ず、赴く所は〔覚知され〕ず、帰依所は覚知されない。一切の生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と〔有情の〕居住として在る諸々の形成〔作用〕にたいし、一つの形成〔作用〕にたいしてであろうが、あるいは、切望〔の思い〕も、あるいは、偏執〔の思い〕も、有ることなくある。三つの生存は、諸々の無煙の炭火で満ちた火坑のように、四つの大いなる元素は、おぞましき毒ある毒蛇たちのように、五つの範疇は、剣を引き抜いた殺戮者たちのように、六つの内なる〔認識の〕場所は、空の村落のように、六つの外なる〔認識の〕場所は、村を殲滅する盗賊たちのように、七つの識知〔作用〕の止住(七識住:ディーガ・ニカーヤ3p.253)は、さらに、九つの有情の居住所(九有情居:ディーガ・ニカーヤ3p.263)は、そして、十一の火(貪欲・憤怒・迷妄・生・老・死・憂い・嘆き・苦痛・失意・葛藤)で燃え盛り燃え上がり光を有するものと成ったもののように、一切の形成〔作用〕は、そして、腫物と成り病と成り矢と成り悩苦と成り病苦と成ったもののように、悦楽なく味なく大いなる危険の集まりと成ったものと成って現起する。どのようにか。

 

§36  安楽に生きることを欲する恐怖する人には、たとえ、喜ばしき行相が止住しているものでも、猛獣を有する林の茂みのようなものとしてあり、豹を有する洞窟のようなものとしてあり、水鬼や羅刹を有する水〔場〕のようなものとしてあり、剣を掲げた者を有する〔自己の〕義(利益)に反する者(敵対者)たちのようなものとしてあり、毒を有する食料のようなものとしてあり、盗賊を有する道のようなものとしてあり、燃え盛る炭火のようなものとしてあり、軍団が対峙している戦地のようなものとしてある。まさに、すなわち、その人が、これらの猛獣を有する林の茂み等々に由来して、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、遍きにわたり、危険だけを見るように、まさしく、このように、この〔心の〕制止を行境とする者は、滅壊の随観たるを所以に、一切の形成〔作用〕が、恐怖〔の観点〕から現起したとき、遍きにわたり(※)、味なく悦楽なき危険だけを見る。彼が、このように見ていると、「危険〔の随観〕の知恵」という名のものが、生起したものと成る。それに関して、このことが説かれた。

 

※ テキストにはsamanto とあるが、VRI版により samantato と読む。

 

§37  「どのように、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となるのか。

 【648】『生起(再生)は、恐怖である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。『転起されたもの(所与的世界)は、恐怖である』と……。『形相(概念把握)は、恐怖である』と……。『専業(業を作ること)は、恐怖である』と……。『結生(転生すること)は、恐怖である』と……。『境遇(死後に赴く所)は、恐怖である』と……。『発現は、恐怖である』と……。『再生は(※)、恐怖である』と……。『生(出生)は、恐怖である』と……。『老は、恐怖である』と……。『病は、恐怖である』と……。『死は、恐怖である』と……。『憂いは、恐怖である』と……。『嘆きは、恐怖である』と……。『葛藤は、恐怖である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 『生起なきものは、平安である』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起なきものは……略……。『葛藤なきものは、平安である』と、寂静の境処についての知恵となる。

 『生起は、恐怖である。生起なきものは、平安である』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起されたものは……略……。『葛藤は、恐怖である。葛藤なきものは、平安である』と、寂静の境処についての知恵となる。

 『生起は、苦痛である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。『転起されたものは……略……。『葛藤は、苦痛である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 『生起なきものは、安楽である』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起なきものは……略……。『葛藤なきものは、安楽である』と、寂静の境処についての知恵となる。

 『生起は、苦痛である。生起なきものは、安楽である』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起されたものは……略……。『葛藤は、苦痛である。葛藤なきものは、安楽である』と、寂静の境処についての知恵となる。

 『生起は、財貨を有するもの(世俗のもの)である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。『転起されたものは……略……。『葛藤は、財貨を有するものである』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 『生起なきものは、財貨なきもの(非俗のもの)である』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起なきものは……略……。『葛藤なきものは、財貨なきものである』と、寂静の境処についての知恵となる。

 『生起は、財貨を有するものである。生起なきものは、財貨なきものである』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起されたものは……略……。『葛藤は、財貨を有するものである。葛藤なきものは、財貨なきものである』と、寂静の境処についての知恵となる。

 『生起は、諸々の形成〔作用〕である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。『転起されたものは……略……。『葛藤は、諸々の形成〔作用〕である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 『生起なきものは、涅槃である』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起なきものは……略……。『葛藤なきものは、涅槃である』と、寂静の境処についての知恵となる。

 『生起は、諸々の形成〔作用〕である。生起なきものは、涅槃である』と、寂静の境処についての知恵となる。『転起されたものは……略……。『葛藤は、諸々の形成〔作用〕である。葛藤なきものは、涅槃である』と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 【649】〔そこで、詩偈に言う〕『そして、生起を、さらに、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、「苦痛である」と見る。これは、危険についての知恵である。

 しかしながら、生起なきものを、転起なきものを、形相なきものを、専業なきものを、結生なきものを、「安楽である」と〔見る〕。これは、寂静の境処についての知恵である。

 この、危険についての(※※)知恵は、五つの境位において生まれ、五つの境位ある寂静の境処を、十の知恵ある〔寂静の境処〕を、覚知する。〔危険と寂静の境処の〕二つの知恵に巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない』と。

 

 それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。『恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.59-60)と。

 

※ テキストには uppatti とあるが、VRI版により upapatti と読む。以下の uppatti についても、同様に upapatti と読む。

※※ テキストにはĀdīnave とあるが、VRI版により Ida ādīnave と読む。以下の平行箇所も同様。

 

753.

 

§38  そこにおいて、「生起」とは、前(前世)の行為を縁とする、ここ(現世)への生起(再生)のこと。「転起されたもの」とは、そのように生起した者の転起のこと(※)。「形相」とは、全てもろともの形成〔作用〕の形相のこと。「専業」とは、未来の結生の因と成った行為のこと。「結生」とは、未来への生起(再生)のこと。「境遇」とは、その境遇において、その結生が有る、〔その境遇のこと〕。「発現」とは、諸々の範疇が発現すること。「再生」とは、「あるいは、〔そこに〕入定した者の、あるいは、〔そこに〕再生した者の(※※)」(パティサンビダー・マッガ1p.84,ダンマ・サンガニp.224)と、このように説かれた、報いの転起のこと。「生」とは、老等々にとっての縁として有るもので、生存という縁あることからある生(出生)のこと。老と死等々は、まさしく、明白なるものである。

 

※ テキストにはpavattati とあるが、VRI版により pavatti と読む。

※※ テキストには uppannassa とあるが、VRI版により upapannassa と読む。

 

§39  そして、ここにおいて、生起等々の五つ(生起・転起されたもの・形相・専業・結生)だけが、危険〔の随観〕の知恵にとっての基盤たるを所以に説かれた。残りのものは、それらの同義語たるを所以に〔説かれた〕。まさに、発現、生、という、この両者は、まさしく、そして、生起の、さらに、結生の、同義語である。境遇、再生、という、この両者は、転起されたものの〔同義語である〕。老等々は、形相の〔同義語である〕、と〔知られるべきである〕。それによって、〔聖典に〕言う。

 そして、「そして、生起を、さらに、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、『苦痛である』と見る。これは、危険についての知恵である」と。

 さらに、「この、危険についての知恵は、五つの境位において生まれ〔云々〕」と。

 

§40  また、「『生起なきものは、平安である』と、寂静の境処についての知恵となる」という〔言葉〕等は、危険〔の随観〕の知恵とは相反する知恵を見示することを義(目的)に説かれた。あるいは、恐怖の現起〔の知恵〕によって危険を見て、心臓が怯えている者たちに、「恐怖なきものもまた存在する。平安が〔存在し〕、危険なきものが〔存在する〕」と、安堵を生じさせることを義(目的)にもまた、この〔言葉等〕は説かれた。また、あるいは、すなわち、彼にとって、生起等々は、恐怖〔の観点〕から善く確立されたものと成り、彼には、それと相反するものに向かい行く心が有ることから、それゆえに、【650】恐怖の現起〔の知恵〕を所以に危険〔の随観〕の知恵を実現した者の福利を見示することを義(目的)にもまた、この〔言葉等〕は説かれた、と〔知られるべきである〕。

 

§41  そして、ここにおいて、すなわち、それが、恐怖であるなら、それは、決定して、苦痛であり、そして、それが、苦痛であるなら、それは、〔輪廻の〕転起の財貨と世の財貨と〔心の〕汚れの財貨から解脱していないことから、まさしく、財貨を有するものであり、さらに、それが、財貨を有するものであるなら、それは、まさしく、形成〔作用〕のみのものであることから、それゆえに、「『生起は、苦痛である』と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる」という〔言葉〕等が説かれた。たとえ、このように存しているとして(上述のとおりであるとして)、恐怖の行相によって、苦痛の行相によって、財貨を有するものの行相によって、ということで、このように、行相の種々なることから、〔種々なる〕転起あることを所以に、ここにおいて、〔知恵の〕種々なることが知られるべきである。

 

§42  「十の知恵ある〔寂静の境処〕を、覚知する」とは、危険〔の随観〕の知恵を覚知している者は、生起等を基盤とする五つ〔の知恵〕、生起なきもの等を基盤とする五つ〔の知恵〕、という、十の知恵を、覚知し、理解し、実証する。「〔危険と寂静の境処の〕二つの知恵に巧みな智あることから」とは、まさしく、そして、危険についての知恵、さらに、寂静の境処についての知恵、という、これらの二つ〔の知恵〕に巧みな智あることから。「種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」とは、〔異教の者たちにとって〕最高のものとされる所見の法(現世)における涅槃(現法涅槃)等を所以に転起された諸々の見解にたいし動揺しない。残りのものは、ここにおいて、まさしく、明瞭である。ということで──

 危険の随観の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

754.

 

 5 厭離の随観の知恵

 

§43  彼は、このように、一切の形成〔作用〕を、危険〔の観点〕から見ながら、一切の生存と胎と境遇と識知〔作用〕の止住と有情の居住所として在るものを、〔そのような種々なる〕細別を有する諸々の形成〔作用〕として在るもの(形成されたもの)を、厭離し、嫌悪し、〔もはや〕喜び楽しまない。

 それは、たとえば、また、まさに、チッタクータ山の山麓を喜び楽しむ黄金の鵞鳥(ハンサ・神が乗る鳥)の王が、不浄のチャンダーラ(旃陀羅:賎民・非人)の村の門にある水たまりを喜び楽しまず、〔ヒマヴァントにある〕七つの大池だけを喜び楽しむように、まさしく、このように、この、鵞鳥の王たる〔心の〕制止者もまた、完全無欠に危険が見られたものを、〔そのような種々なる〕細別を有する諸々の形成〔作用〕として在るものを、〔もはや〕喜び楽しまず、いっぽう、修行を喜びとすることを〔具備し〕、修行の喜びを具備したことから、七つの随観だけを喜ぶ。そして、すなわち、黄金の檻に入れられた獣の王たる獅子が、〔黄金の檻を〕喜び楽しまず、いっぽう、幅が三千ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)のヒマヴァント(ヒマラヤ)だけを喜ぶように、このように、この、獅子たる〔心の〕制止者は、三種類の善き境遇の生存(欲界における人間と神々・色界の梵天・無色界の梵天)をもまた、〔もはや〕喜び楽しまず、いっぽう、三つの随観だけを喜ぶ。さらに、すなわち、純白にして、〔手足と鼻と尾と陰茎の〕七つが〔地に〕確立し、神通があり宙を赴く六牙の象の王が、城市の中を喜び楽しまず、ヒマヴァントにあるチャッダンタの池や茂みだけを喜び楽しむように、このように、【651】この、優れた象たる〔心の〕制止者は、諸々の形成〔作用〕として在るものを、全てもろともに、〔もはや〕喜び楽しまず、「生起なきものは、平安である」という〔言葉〕等の方法によって見られた、寂静の境処だけを喜び楽しみ、それに向かい行きそれに傾倒しそれに傾斜する意図ある者と成る。ということで──

 厭離の随観の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

755.

 

§44  また、〔まさに〕その、この〔厭離の随観の知恵〕は、前の二つの知恵(恐怖の現起の知恵と危険の随観の知恵)と、義(意味)〔の観点〕から、一つとなる。それによって、過去の方たちは言う。「恐怖の現起の知恵は、まさしく、一つにして、三つの名を得る。一切の形成〔作用〕を、恐怖〔の観点〕から見た、ということで、『恐怖の現起の知恵』という名が生じたのであり、まさしく、それらの形成〔作用〕について、危険〔の思い〕を生起させる(※)、ということで、『危険の随観の知恵』という名が生じたのであり、まさしく、それらの形成〔作用〕について、厭離している〔知恵〕が生起したのだ、ということで、『厭離の随観の知恵』という名が生じたのである」と。聖典においてもまた説かれた。「そして、すなわち、恐怖の現起における智慧は、かつまた、すなわち、危険についての知恵は、さらに、すなわち、厭離は、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)」(パティサンビダー・マッガ2p.63)と。

 

※ テキストにはuppādesī とあるが、VRI版により uppādetī と読む。

 

756.

 

 6 解き放ちを欲する知恵

 

§45  また、この厭離〔の随観〕の知恵によって、この良家の子息(瞑想修行者)が、厭離し、嫌悪し、喜び楽しまずにいると、一切の生存と胎と境遇と識知〔作用〕の止住と有情の居住所として在るものにたいし、〔そのような種々なる〕細別を有する諸々の形成〔作用〕として在るものにたいし、たとえ、一つの形成〔作用〕にたいしても、心は、執着せず、付着せず、結縛されず、一切の形成〔作用〕として在るものから、〔自己を〕解き放つことを欲するものと〔成り〕、出離することを欲するものと成る。すなわち、何のようにか。

 

§46  すなわち、まさに、網の内部に在る魚、蛇の口に在る蛙、檻に入れられた野鶏、堅固な罠の支配に在る鹿、蛇使いの手に在る蛇、大泥にはまった象、金翅鳥の口に在る龍王、ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の口に入った月、敵に取り囲まれた人、という、このような〔あり方〕等々のものたちが、それぞれ〔の捕捉者〕から、〔自己を〕解き放つことを欲するものたちと〔成り〕、まさしく、出離することを欲するものたちと成るように、このように、その〔心の〕制止者の心は、一切の形成〔作用〕として在るものから、〔自己を〕解き放つことを欲するものと〔成り〕、出離することを欲するものと成る。そこで、彼には、このように、一切の形成〔作用〕にたいする〔執着の〕基底を離れ去った者には、一切の形成〔作用〕として在るものから〔自己を〕解き放つことを欲する者には、解き放ちを欲する知恵が生起する。ということで──

 解き放ちを欲する知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

757.

 

 7 審慮の随観の知恵

 

§47  彼は、このように、一切の生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と〔有情の〕居住として在るものから、〔そのような種々なる〕細別を有する諸々の形成〔作用〕として在るものから、〔自己を〕解き放つことを欲する者となり、一切の形成〔作用〕として在るものから〔自己を〕解き放つために、【652】ふたたび、まさしく、それらの形成〔作用〕を、審慮の随観の知恵によって、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、遍く収め取る。

 

§48  彼は、一切の形成〔作用〕を、究極ならざるもの〔の観点〕から(※)、暫時のもの〔の観点〕から、生起と衰失によって限定されたもの〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常恒ならざるもの〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、形成されたもの〔の観点〕から、死の法(性質)〔の観点〕から、という〔あり方〕等々の契機によって、「無常である」と見る──間断なき逼悩あるもの〔の観点〕から、苦痛あるもの〔の観点〕から、苦痛の基盤〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生の法(性質)〔の観点〕から、老の法(性質)〔の観点〕から、病の法(性質)〔の観点〕から、憂いの法(性質)〔の観点〕から、嘆きの法(性質)〔の観点〕から、葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染の法(性質)〔の観点〕から、という〔あり方〕等々の契機によって、「苦痛である」と見る──善き生まれならざるもの〔の観点〕から、悪臭あるもの〔の観点〕から、忌避されるべきもの〔の観点〕から、嫌悪なるもの〔の観点〕から、装うに値しないもの〔の観点〕から、醜い形態のもの〔の観点〕から、離れ去るべきもの〔の観点〕から、という〔あり方〕等々の契機によって、苦痛の特相の付属品として有ることから、浄美ならざるもの(不浄)〔の観点〕から見る──他者〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、主人ならざるもの〔の観点〕から、権力者ならざるもの〔の観点〕から、自在の転起なきもの〔の観点〕から、という〔あり方〕等々の契機によって、無我〔の観点〕から見る。

 

※ テキストにはaniccan ti kato とあるが、VRI版により anaccantikato と読む。

 

758.

 

 まさに、〔彼が〕このように見ていると、彼によって、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、諸々の形成〔作用〕が遍く収め取られた、ということに成る。

 

§49  「また、何ゆえに、この〔心の制止者〕は、これら〔の三つの特相〕を、このように遍く収め取るのか」と〔問うなら〕、「解き放ちのための手段の成就を義(目的)に」〔と答える〕。そこで、これが、〔その〕喩えとなる。伝えるところでは、或る人が、「魚たちを捕捉するのだ」と、魚網を抱えて、水のなかに仕掛けた。彼は、網の口に手を下ろして、水中で蛇の首を掴んで、「魚が、わたしによって捕捉された」と、わが意を得た者と成った。彼は、「まさに、大魚が、わたしによって得られた」と、〔蛇を〕持ち上げて見つつ、〔胴体にある〕三つの卍印を見ることで、「蛇だ」と了解して恐怖し、〔その〕危険を見て、〔蛇を〕掴んでいることにたいし厭離ある者と〔成り〕、解き放つことを欲する者と成って、解き放ちのための手段を為しつつ、尾の先端から始めて、〔蛇が絡み付いている〕手をほどいて(※)、腕を持ち上げて、頭上において、二〔回〕、三回と、蛇を振り回して、力弱きものと為して、「汚れた蛇よ、去れ」と捨て放って、勢いよく池の堤に登って、「ああ、まさに、〔わたしは〕大蛇の口から解き放たれた者として存している」と、やってきた道を眺め見ながら立った。

 

※ テキストにはnibbedhetvā とあるが、VRI版により nibbehetvā と読む。

 

§50  そこにおいて、その人の、「魚が、〔わたしによって捕捉された〕」と、蛇の首を掴んで満足した時のように、また、この〔心の〕制止者の、まさしく、最初に、自己状態(個我的あり方)を獲得して満足した時がある。その〔人〕の、網の口から〔蛇の〕頭を取り出して、〔胴体にある〕三つの卍印を見ることのように、この〔心の制止者〕の、重厚〔の表象〕の分解を【653】為して〔そののち〕、諸々の形成〔作用〕について、三つの特相を見ることがある。その〔人〕の、恐怖した時のように、この〔心の制止者〕の、恐怖の現起の知恵がある。そののち、危険を見ることのように、危険の随観の知恵がある。〔蛇を〕掴んでいることにたいし厭離することのように、厭離の随観の知恵がある。蛇の解き放ちを欲することのように、解き放ちを欲する知恵がある。解き放ちのための手段を為すことのように、審慮の随観の知恵によって、諸々の形成〔作用〕について、三つの特相を揚挙することがある。まさに、すなわち、その人が、蛇を振り回して、力弱きものと為して、〔もはや〕引き返して咬むことができない状態に至り得させて〔そののち〕、善く解き放たれた者として、〔蛇から自己を〕解き放つように、このように、この〔心の〕制止を行境とする者は、三つの特相を揚挙することで、諸々の形成〔作用〕を振り回して、力弱きものと為して、ふたたび常住と安楽と浄美と自己の行相によって現起することができない状態に至り得させて〔そののち〕、善く解き放たれた者として、〔諸々の形成作用から自己を〕解き放つ。それによって説かれた。「解き放ちのための手段の成就を義(目的)に、このように遍く収め取る」と。

 

759.

 

§51  これだけで、彼には、審慮〔の随観〕の知恵が、生起したものと成る。それに関して、〔聖典において〕説かれた。「無常〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。苦痛〔の観点〕から……。無我〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、形相を審慮して、知恵が生起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものを審慮して、知恵が生起する。無我〔の観点〕から意を為していると、そして、形相を、さらに、転起されたものを、〔両者を〕審慮して、知恵が生起する」(パティサンビダー・マッガ2p.63-4)と。

 

§52  そして、ここにおいて、「形相を審慮して」とは、諸々の形成〔作用〕の形相を、「常恒ならざるものである」「暫時のものである」と、無常の特相を所以に知って。また、そして、もちろん、最初に知って、最後に知恵が生起するとして、いっぽう、語用を所以に、「かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します」(マッジマ・ニカーヤ1p.112)という〔言葉〕等々のように、このように説かれる。あるいは、〔因と果の〕一なることの方法(Ch.20§102)によって、最初のものと最後のものとを一つに為して、このように説かれた、と〔知られるべきである〕。この方法によって、他の二つの句についてもまた、義(意味)が知られるべきである。ということで──

 審慮の随観の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

760.

 

 8 諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵(※)

 

 [空性の遍き収取]

 

※ テキストにはSuññatānupassanāñāa とあるが(VRI版は Sakhārupekkhāñāakathā)、南伝大蔵経64『清浄道論3』にならい変更する。以下、「9 随順する知恵」に至るまで、見出しを適宜変更する。

 

§53  彼は、このように、審慮の随観の知恵によって、(一)「一切の形成〔作用〕は、空である」(サンユッタ・ニカーヤ4p.54)と遍く収め取って、ふたたび、(二)「これは、空である──(1)あるいは、自己〔の観点〕によって、(2)あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって」(マッジマ・ニカーヤ2p.263,パティサンビダー・マッガ2p.36)と、二つの〔論〕点の空性を遍く収め取る。

 彼は、このように、何であれ、自己にとって必需の状態で止住しているものを、まさしく、自己と〔見〕ず、他者と見ずして、ふたたび、(三)「(1)わたしは、どこにであれ、(2)何にとってであれ、何ものにおいてであれ、〔存在せ〕ず、(3)そして、わたしのものは、【654】どこにであれ、(4)、何においてであれ、何ものとしてであれ、存在しない」(マッジマ・ニカーヤ2p.263-4:一部異なる箇所あり)と、すなわち、ここにおいて、四つの〔論〕点の空性として言説された、その〔空性〕を遍く収め取る。どのようにか。

 

§54  まさに、この〔心の制止者〕は、(1)「わたしは、どこにであれ〔存在し〕ない」と、自己を、どこにも見ない。(2)「何にとってであれ、何ものにおいてであれ、〔存在しない〕」と、自己の自己を、誰であれ他者の何らかの状態において導かれるべきものと見ない。あるいは、兄弟の境位における兄弟と、あるいは、道友の境位における道友と、あるいは、必需品の境位における必需品と、思い考えて導かれるべきものと見ない、という義(意味)である。(3)「そして、わたしのものは、どこにであれ、〔存在し〕ない」とは、ここにおいて、まずは、「わたしのものは」という語を除いて、「そして、どこにであれ、〔存在し〕ない」とし、そして、他者の自己を、どこにも見ない(※)、という、これが、〔ここでの〕義(意味)となる。(4)今や、「わたしのものは」という語を加えて、「わたしのものは、何においてであれ、何ものとしてであれ、存在しない」とは、その〔心の制止者〕は、「他者の自己は、わたしの、何においてであれ、何らかの状態において存在する」と見ない。かくのごとく、自己の、あるいは、兄弟の境位における兄弟と、あるいは、道友の境位における道友と、あるいは、必需品の境位における必需品と、かくのごとく、何の境位においてであれ、他者の自己を、この何らかの状態によって導かれるべきものと見ない、という、義(意味)である。このように、この〔心の制止者〕は、すなわち、(1)まさしく、どこにおいてであれ、自己を見ず、(2)それ(自己の自己)を、他者の何らかの状態において導かれるべきものと見ず、(3)他者の自己を見ず、(4)他者の自己を、自己の(※※)何らかの状態において導かれるものと見ないことから、それゆえに、彼によって、四つの〔論〕点の空性が遍く収め取られたものと成る、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストにはna ca kvacani parassa ca attāna kvaci passatī とあるが、VRI版により na ca kvacanīti parassa ca attāna kvaci napassatī と読む。

※※ テキストにはattāna attano とあるが、VRI版により attāna passati, na parassa attāna attano と読む。

 

761.

 

§55  このように、四つの〔論〕点の空性を遍く収め取って、ふたたび、(四)六つの行相によって空性を遍く収め取る。どのようにか。「眼は、空である──(1)あるいは、自己〔の観点〕によって、(2)あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって、(3)あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、(4)あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、(5)あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、(6)あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。……略……。意は、空である……。諸々の形態は、空である……。諸々の法(意の対象)は、空である……。眼の識知〔作用〕は……。意の識知〔作用〕は……。眼の接触は……」と、このように、老と死に至るまで、〔その〕方法が導かれるべきである。

 

762.

 

§56  このように、六つの行相によって空性を遍く収め取って、ふたたび、(五)八つの行相によって〔空性を〕遍く収め取る。それは、すなわち、この──「形態は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──(1)あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、(2)あるいは、常恒の真髄という真髄〔の観点〕によって、(3)あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、(4)あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、(5)あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、(6)あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、(7)あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、(8)あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は……。眼は……。老と死は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──(1)あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、(2)あるいは、常恒の真髄という真髄〔の観点〕によって、(3)あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、(4)あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、(5)あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、(6)あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、(7)あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、(8)あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。たとえば、葦が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、エーランダ(伊蘭)が……たとえば、ウドゥンバラ(無曇華)が……たとえば、セータ(白花)の薮が……たとえば、パーリバッダカ〔樹〕が……たとえば、泡沫の団塊が……たとえば、水泡が……たとえば、陽炎が……たとえば、芭蕉の幹が……たとえば、【655】幻想が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、まさしく、このように、形態は……略……。老と死は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──(1)あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって……略……(8)あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって」(チューラ・ニッデーサp.249-50:一部異なる箇所あり)と。

 

763.

 

§57  彼(瞑想修行者)は、このように、八つの行相によって空性を遍く収め取って、ふたたび、(六)十の行相によって〔空性を〕遍く収め取る。どのようにか。「形態を、(1)空虚〔の観点〕から見る。(2)虚妄〔の観点〕から……。(3)空〔の観点〕から……。(4)無我〔の観点〕から……。(5)権力者ならざるもの〔の観点〕から……。(6)欲するままに為すことができないもの〔の観点〕から……。(7)〔欲するままに〕得ることができないもの〔の観点〕から……。(8)自在の転起なきもの〔の観点〕から……。(9)他者〔の観点〕から……。(10)〔過去の極と未来の極から〕遠離されたもの〔の観点〕から見る。感受〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、(1)空虚〔の観点〕から……略……。(10)〔過去の極と未来の極から〕遠離されたもの〔の観点〕から見る」(チューラ・ニッデーサp.250-1:一部異なる箇所あり)と。

 

764.

 

§58  このように、十の行相によって空性を遍く収め取って、ふたたび、(七)十二の行相によって〔空性を〕遍く収め取る。それは、すなわち、この──「形態は、(1)有情ではなく、(2)生ある者ではなく、(3)人ではなく、(4)人間ではなく、(5)女ではなく、(6)男ではなく、(7)自己ではなく、(8)自己に属するものではなく、(9)わたしではなく、(10)わたしのものではなく、(11)他者のものではなく、(12)誰のものでもない。感受〔作用〕は……略……。識知〔作用〕は……(12)誰のものでもない」(チューラ・ニッデーサp.251:一部異なる箇所あり)と。

 

765.

 

§59  このように、十二の行相によって空性を遍く収め取って、ふたたび、推量の遍知を所以に、(八)四十二の行相によって空性を遍く収め取る。「形態を、(1)無常〔の観点〕から……。(2)苦痛〔の観点〕から……。(3)病〔の観点〕から……。(4)腫物〔の観点〕から……。(5)矢〔の観点〕から……。(6)悩苦〔の観点〕から……。(7)病苦〔の観点〕から……。(8)他者〔の観点〕から……。(9)崩壊〔の観点〕から……。(10)疾患〔の観点〕から……。(11)禍〔の観点〕から……。(12)恐怖〔の観点〕から……。(13)災禍〔の観点〕から……。(14)動揺するもの〔の観点〕から……。(15)滅壊するもの〔の観点〕から……。(16)常恒ならざるもの〔の観点〕から……。(17)救護所ならざるもの〔の観点〕から……。(18)避難所ならざるもの〔の観点〕から……。(19)帰依所ならざるもの〔の観点〕から……。(20)帰依所ならざるものとして有るもの〔の観点〕から……。(21)空虚〔の観点〕から……。(22)虚妄〔の観点〕から……。(23)空〔の観点〕から……。(24)無我〔の観点〕から……。(25)悦楽なきもの〔の観点〕から……。(26)危険〔の観点〕から……。(27)変化の法(性質)〔の観点〕から……。(28)真髄なきもの〔の観点〕から……。(29)悩苦の根元〔の観点〕から……。(30)殺戮者〔の観点〕から……。(31)非生存〔の観点〕から……。(32)煩悩を有するもの〔の観点〕から……。(33)形成されたもの〔の観点〕から……。(34)悪魔の餌〔の観点〕から……。(35)生の法(性質)〔の観点〕から……。(36)老の法(性質)〔の観点〕から……。(37)病の法(性質)〔の観点〕から……。(38)死の法(性質)〔の観点〕から……。(39)憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)〔の観点〕から……。(40)集起〔の観点〕から……。(41)滅至〔の観点〕から……。(42)出離〔の観点〕から見る。感受〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、(1)無常〔の観点〕から……略……。(42)出離〔の観点〕から見る。感受〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、(1)無常〔の観点〕から……略……。(42)出離〔の観点〕から見る」(マハー・ニッデーサp.277:一部異なる箇所あり)〔と〕。

 

§60  そして、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。形態を、(1)無常〔の観点〕から……略……。(42)出離〔の観点〕から見ている者は、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。感受〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、(1)無常〔の観点〕から……略……。(42)出離〔の観点〕から見ている者は、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 【656】〔そこで、詩偈に言う〕「モーガラージャンよ、常に気づきある者として、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視しなさい。自己についての偏った見解を取り去って、このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです。このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ません」(スッタニパータ1119)と。

 

766.

 

§61  このように、空〔の観点〕から見て、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を揚挙して、諸々の形成〔作用〕を遍く収め取っている者は、そして、恐怖を、さらに、愉悦を、〔両者ともに〕捨棄して、諸々の形成〔作用〕にたいし、無頓着の者と成り、中なる者と〔成り〕、あるいは、「わたしである」と、あるいは、「わたしのものである」と、収め取ることがない──妻を捨てた人のように。

 

§62  すなわち、まさに、人に、好ましく愛らしく意に適う妻が有るなら、彼は、彼女なしでは、寸時でさえも、耐え忍ぶことができず、極度に、彼女を、わたしのものと〔錯視〕するであろうし、彼は、その女が、他の男と共に、あるいは、立っているのを、あるいは、坐っているのを、あるいは、話しているのを、あるいは、笑っているのを(※)、見て〔そののち〕、怒りの者として存するであろうし、わが意を得ずに、旺盛なる失意を得知するであろうし、彼は、他の時点にあって、その女の汚点を見て、解き放つこと(離縁)を欲する者と成って、彼女を捨てるなら、彼女を、「わたしのものである」と収め取ることはないであろうし、それから以降は、彼女が、それが誰であれ共にいながら、それが何であれ為していているのを見てもまた、まさしく、怒ることもないであろうし、失意を惹起することもないであろうし、何はともあれ、無頓着の者と成るであろうし、中なる者と〔成るであろう〕ように、まさしく、このように、この〔心の制止者〕は、一切の形成〔作用〕から〔自己を〕解き放つことを欲する者と成って、審慮の随観によって、諸々の形成〔作用〕を遍く収め取りつつ、「わたしである」「わたしのものである」と収め取るべきものを見ずして、そして、恐怖を、さらに、愉悦を、〔両者ともに〕捨棄して、一切の形成〔作用〕にたいし、無頓着の者と成り、中なる者と〔成る〕。

 

※ テキストにはkasanti とあるが、VRI版により hasanti と読む。

 

§63  彼が、このように知り、このように見ていると、三つの生存と四つの胎と五つの境遇と七つの識知〔作用〕の止住と九つの有情の居住所にたいし、心は、退去し、退避し、反転し、〔もはや〕伸展されることがない。あるいは、放捨が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立する。それは、たとえば、また、まさに、僅かな傾きある蓮の葉に触れた諸々の水〔の滴〕が、退去し、退避し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、まさしく、このように──それは、たとえば、また、まさに、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓(薄片)が、火にたいし、退去し、退避し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、まさしく、このように──三つの生存にたいし、心は……略……あるいは、放捨が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立する。ということで、彼に、「諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵」という名のものが、生起したものと成る。

 

767.

 

§64  また、〔まさに〕その、この〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕は、それで、もし、寂静の境処たる涅槃を、寂静〔の観点〕から見るなら、一切の形成〔作用〕によって転起されたものを捨てて、まさしく、涅槃に跳入するが、もし、涅槃を、寂静〔の観点〕から見ないなら、繰り返し、【657】まさしく、形成〔作用〕を対象とするものと成って転起する──航海者たちにとっての方角烏のように。

 

§65  伝えるところでは、航海者たる商人たちは、船に乗っているなら、「方角烏」というものを携える。彼らは、すなわち、船が風に流され、陸から離れたところに跳入し、岸が覚知されないとき、そのとき、方角烏を捨て放つ。その〔方角烏〕は、帆柱から虚空に飛び立って、全ての、そして、〔四〕方(東西南北)に、さらに、〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に、従い行って(全方角を見渡して)、それで、もし、岸を見るなら、まさしく、それに向かい赴くが、もし、見ないなら、繰り返し帰ってきては、まさしく、帆柱に止まる。まさしく、このように、諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵は、それで、もし、寂静の境処たる涅槃を、寂静〔の観点〕から見るなら、一切の形成〔作用〕によって転起されたものを捨てて、まさしく、涅槃に跳入するが、もし、見ないなら、繰り返し、まさしく、形成〔作用〕を対象とするものと成って、転起する。

 

§66  〔まさに〕その、この〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕は、箕の先端で〔穀物の〕粉を転がしているかのように、〔種を〕抜いた木綿を〔柔らかくするために〕打っているかのように、種々なる流儀〔の観点〕から諸々の形成〔作用〕を遍く収め取って、そして、恐怖を、さらに、愉悦を、〔両者ともに〕捨棄して、形成〔作用〕を弁別することにおいて、中なるものと成って、三種類の随観たるを所以に安立する。このように安立している〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕は、(一)三種類の解脱の門の状態に〔心を〕傾注して〔そののち〕、(二)七者の聖者たる人たちの区分にとっての縁と成る。

 

768.

 

 [三種類の解脱の門]

 

§67  (一)そこで、この〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕は、〔無常と苦痛と無我の〕三種類の随観たるを所以に転起することから、〔信と禅定と智慧の〕三つの機能にとって優位たるを所以に、〔無相と無願と空性の〕三種類の解脱の門の状態を惹起する、ということになる。

 なぜなら、三つの随観は、三つの解脱の門である、と説かれるからである。すなわち、〔聖典に〕言うように、「また、まさに、三つのものが、〔すなわち、無相と無願と空性という〕これらの解脱の門が、世〔の界域〕からの出脱のために、等しく転起する。(1)一切の形成〔作用〕を、限定と周縁〔の観点〕から等しく随観することによって、そして、無相の界域にたいし、心が跳入するために、〔無相の解脱の門が、等しく転起する〕。(2)一切の形成〔作用〕にたいし、意を鼓舞することによって、そして、無願の界域にたいし、心が跳入するために、〔無願の解脱の門が、等しく転起する〕。(3)一切の法(事象)を、他者〔の観点〕から等しく随観することによって、そして、空性の界域にたいし、心が跳入するために、〔空性の解脱の門が、等しく転起する〕。これらの三つの解脱の門が、世〔の界域〕からの出脱のために、等しく転起する」(パティサンビダー・マッガ2p.48)と。

 

§68  そこにおいて、「限定と周縁〔の観点〕から」とは、生成と衰失を所以に、まさしく、そして、限定〔の観点〕から、さらに、周縁〔の観点〕から。なぜなら、無常の随観は、「生成より過去において、諸々の形成〔作用〕は存在しない」と〔範囲を〕限定して、それらの境遇(赴く所)を正しく調査しつつ、「衰失より後は、〔どこにも〕赴かず、まさしく、ここにおいて、消没する」と、周縁〔の観点〕から等しく随観するからである。「意を鼓舞することによって」とは、心を畏怖させることによって。なぜなら、苦痛の随観によって、諸々の形成〔作用〕にたいし、心を畏怖させるからである。【658】「他者〔の観点〕から等しく随観することによって」とは、「わたしではない」「わたしのものではない」と、このように、無我〔の観点〕から等しく随観することによって。

 

§69  かくのごとく、これらの三つの句は、無常の随観等々を所以に説かれた、と知られるべきである。まさしく、それによって、その直後に、問いへの答えにおいて説かれた。「無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。無我〔の観点〕から意を為していると、空〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する」(パティサンビダー・マッガ2p.48)と。

 

769.

 

§70  「また、どのようなものが、それらの〔三つの〕解脱であるのか。それら〔の三つの解脱〕のために、これらの〔三つの〕随観の門があるとして」と〔問うなら〕、「無相〔の解脱〕、無願〔の解脱〕、空性〔の解脱〕、という、これらの三つ〔の解脱〕である」〔と答える〕。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「無常〔の観点〕から意を為している、信念が多くある者は、無相の解脱を獲得する。苦痛〔の観点〕から意を為している、静息が多くある者は、無願の解脱を獲得する。無我〔の観点〕から意を為している、知が多くある者は、空性の解脱を獲得する」(パティサンビダー・マッガ2p.58)と。

 

§71  そして、ここにおいて、「無相の解脱」とは、無相の行相によって、涅槃を対象と為して転起された聖者の道のこと。なぜなら、それは、無相の界域において生起したことから、無相であり、さらに、諸々の〔心の〕汚れから解脱したことから、解脱であるからである。まさしく、この方法によって、無願の行相によって、涅槃を対象と為して転起された〔聖者の道〕が、無願〔の解脱〕であり、空性の行相によって、涅槃を対象と為して転起された〔聖者の道〕が、空性〔の解脱〕である、と知られるべきである。

 

770.

 

§72  また、すなわち、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)においては、「〔世俗を〕出脱し〔煩悩の〕滅減に至る世〔俗〕を超える瞑想を修め、諸々の悪しき見解を捨棄するために、最初の境地に至り得るために、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、無願にして空性の第一の瞑想を成就して〔世に〕住む、その時点において」(ダンマ・サンガニp.70-1)と、このように、二つの解脱だけが説かれたが、それは、教相なき〔観点〕(逐語的理論的説明)から、〔その二つの解脱が、あるがままの〕観察から至り来ることに関して〔説かれた〕。

 

§73  なぜなら、〔あるがままの〕観察の知恵は、たとえ、何であれ、『パティサンビダー・マッガ(無礙解道)』においては、「無常の随観の知恵は、常住〔の観点〕から、固着を解き放つ、ということで、空性の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽〔の観点〕から、固着を(※)解き放つ、ということで、空性の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己〔の観点〕から、固着を解き放つ、ということで、空性の解脱となる」(パティサンビダー・マッガ2p.67:一部異なる箇所あり)と、このように、固着を解き放つことを所以に、そして、「空性の解脱」と〔説かれ〕、「無常の随観の知恵は、常住〔の観点〕から、形相を解き放つ、ということで、無相の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽〔の観点〕から、形相を解き放つ、ということで、無相の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己〔の観点〕から、形相を解き放つ、ということで、無相の(※※)解脱となる」(パティサンビダー・マッガ2p.68:一部異なる箇所あり)と、このように、【659】形相を解き放つことを所以に、そして、「無相の解脱」と〔説かれ〕、「無常の随観の知恵は、常住〔の観点〕から、切願を(※※※)解き放つ、ということで、無願の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽〔の観点〕から、切願を解き放つ、ということで、無願の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己〔の観点〕から、切願を解き放つ、ということで、無願の解脱となる」(パティサンビダー・マッガ2p.68:一部異なる箇所あり)と、このように、切願を解き放つことを所以に、そして、「無願の解脱」と説かれたが、たとえ、そのようにあるも、それ(あるがままの観察の知恵)は、諸々の形成〔作用〕の形相を捨棄しないことから、教相なき〔観点〕(逐語的理論的説明)によって、無相ではなく、また、教相なき〔観点〕によって、まさしく、そして、空性であり、さらに、無願であり、そして、その〔二つの解脱〕が〔あるがままの観察から〕至り来ることを所以に、聖者の道の瞬間における解脱が、〔高次の法理において〕取り上げられたからである。それゆえに、無願、空性、という、二つの解脱だけが説かれた、と知られるべきである。

 まずは、ここにおいて、これが、解脱についての言説となる。

 

※ テキストにはabhinivesā とあるが、VRI版により abhinivesa と読む。

※※ テキストにはnimitto とあるが、VRI版により animitto と読む。

※※※ テキストにはpaidhiyā とあるが、VRI版により paidhi と読む。以下の平行箇所も同様。

 

771.

 

 [七者の聖者たる人たち]

 

§74  (二)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「七者の聖者たる人たちの区分にとっての縁と成る」(§66)とは、そこにおいて、(1)信に従い行く者、(2)信による解脱者、(3)身体による実証者、(4)両部の解脱者、(5)法(教え)に従い行く者、(6)〔正しい〕見解に至り得た者、(7)智慧による解脱者、という、まずは、これらの者たちが、七者の聖者たる人たちであり、この諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵は、それら〔の七者の聖者たる人たち〕の区分にとって、縁と成る。

 

772.

 

§75  (1)まさに、すなわち、無常〔の観点〕から意を為している信念多き者が、信の機能を獲得するなら、彼は、預流道の瞬間において、信に従い行く者と成る。(2)残りの七つの境位(四道四果から預流道を除いたもの)において、信による解脱者と〔成る〕。

 

773.

 

 (3)また、すなわち、苦痛〔の観点〕から意を為している静息多き者が、禅定の機能を獲得するなら、彼は、一切所において、「身体による実証者」ということに成る。(4)また、形態なき〔行境〕の瞑想(無色界禅定)に至り得て〔そののち〕、至高の果〔たる阿羅漢の資質〕に至り得た者は、「両部の解脱者」ということに成る。

 

774.

 

 (5)また、すなわち、無我〔の観点〕から意を為している知多き者が、智慧の機能を獲得するなら、彼は、預流道の瞬間において、法(教え)に従い行く者と成る。(6)六つの境位(四道四果から預流道と阿羅漢果を除いたもの)において、〔正しい〕見解に至り得た者と〔成る〕。(7)至高の果〔たる阿羅漢の資質〕において、智慧による解脱者と〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

775.

 

§76  まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「(1)無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、預流道を獲得する。それによって説かれる。『信に従い行く者』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ2p.53)と。そのように、「(2)無常〔の観点〕から【660】意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、預流果が、実証されたものと成る。それによって説かれる。『信による解脱者』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ2p.53)等と。

 

776.

 

§77  他にもまた説かれた。「(2)〔常に〕信を置いている解脱者である、ということで、信による解脱者となる。(3)接触されたものの終極を実証した者である、ということで、身体による実証者となる。(6)見られたものの終極に至り得た者である、ということで、〔正しい〕見解に至り得た者となる。(2)〔常に〕信を置きつつ解脱する、ということで、信による解脱者となる。(3)瞑想の体得を最初に体得し、最後に止滅の涅槃を実証する、ということで、身体による実証者となる。(6)『諸々の形成〔作用〕は、苦痛である』『止滅は、安楽である』と、〔すでに〕知られたものと成り、〔すでに〕見られたものと〔成り〕、〔すでに〕見出されたものと〔成り〕、〔すでに〕実証されたものと〔成り〕、智慧によって〔すでに〕体得されたものと〔成る〕、ということで、〔正しい〕見解に至り得た者となる」(パティサンビダー・マッガ2p.52:一部異なる箇所あり)と。

 

777.

 

§78  また、他の四者について。(1)信を随念し(アヌサラティ)、あるいは、信によって随念し至り行く、ということで、信に従い行く者(アヌサーリン)となる。(5)そのように、「智慧」と名づけられた法(性質)を随念し、あるいは、法(教え)によって随念し〔至り行く〕、ということで、法(教え)に従い行く者となる。(4)まさしく、そして、形態なき〔行境〕の瞑想によって、さらに、聖者の道によって、という、両者の部分によって解脱した者、ということで、両部の解脱者となる。(7)〔常に〕覚知している解脱者、ということで、智慧による解脱者となる。ということで、このように、言葉の義(意味)が知られるべきである。かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵がある。

 

778.

 

 [諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵の三つの名前]

 

§79  また、〔まさに〕その、この〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕は、前の二つの知恵(解き放ちを欲する知恵と審慮の随観の知恵)と、義(意味)〔の観点〕から、一つとなる。それによって、過去の方たちは言う。「この諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵は、まさしく、一つにして、三つの名前を得る。最初に、『解き放ちを欲する知恵』という名が生じ、中間において、『審慮の随観の知恵』という名が〔生じ〕、そして、最後に、頂に至り得たものとして、『諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵』という名が〔生じた〕」〔と〕。

 

779.

 

§80  聖典においてもまた説かれた。「どのように、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となるのか。生起(再生)を解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。転起されたもの(所与的世界)を……。形相(概念把握)を[解き放つことを欲し……略……。専業(業を作ること)を解き放つことを欲し……。結生(転生すること)を解き放つことを欲し……。境遇(死後に赴く所)を解き放つことを欲し……。発現を解き放つことを欲し……。再生を解き放つことを欲し……。生(出生)を解き放つことを欲し……。老を解き放つことを欲し……。病を解き放つことを欲し……。死を解き放つことを欲し……。憂いを解き放つことを欲し……。嘆きを解き放つことを欲し……。]葛藤を解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。『生起は、苦痛である』と、[解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。『転起されたものは、苦痛である』と……略……。『葛藤は、苦痛である』と……略……。]『生起は、恐怖である』と……略……。『生起は、財貨を有するものである』と……略……。『生起は、諸々の形成〔作用〕である』と……略……。『葛藤は、諸々の形成〔作用〕である』と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.60-1)と。

 

780.

 

§81  そこにおいて、そして、解き放つことを欲することは、それは、そして、審慮して〔そののち〕、さらに、確立する〔智慧〕である、ということで、「解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する」。かくのごとく、〔修行の〕前段部分において、【661】厭離〔の随観〕の知恵によって厭離している者の、生起等々を完全に捨て去ることを欲することが、「解き放つことを欲し」。解き放ちのための手段を作り為すことを義(目的)に、〔修行の〕中間において審慮することが、「審慮して〔そののち〕」。解き放って、〔修行の〕最後において、放捨することが、「確立する」。それに関して、「生起は、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる」(パティサンビダー・マッガ1p.61)という〔言葉〕等が説かれた。このように、この〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕は、まさしく、一つの知恵となる。

 

781.

 

§82  さらに、また、この聖典によってもまた、この〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕は、まさしく、このように、かくのごとく知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「そして、すなわち、解き放ちを欲することは、かつまた、すなわち、審慮の随観は、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕の放捨は、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)」(パティサンビダー・マッガ2p.64)と。

 

782.

 

 [出起に至る〔あるがままの〕観察]

 

§83  また、このように諸々の形成〔作用〕の放捨に到達した、この良家の子息(瞑想修行者)のばあい、〔あるがままの〕観察は、頂に至り得たものと〔成り〕、出起に至るものと成る。あるいは、「頂に至り得た〔あるがままの〕観察」とは、あるいは、「出起に至る〔あるがままの観察〕」とは、これは、まさしく、諸々の形成〔作用〕の放捨等の三つの知恵の名前である。なぜなら、それは、頂たる最上の状態に至り得たことから、頂に至り得た〔あるがままの観察〕となるからであり、出起に至り行く、ということで、出起に至る〔あるがままの観察〕となるからである。出起は、まさしく、そして、外に形相として有る固着した事物(外在物として認知解釈され把持把握された外的事象)から、さらに、内に転起された〔心の汚れ等の範疇〕から、出起しつつある者にとっての道と説かれ、その〔道〕に至り行く、ということで、出起に至る〔あるがままの観察〕となる。〔聖者の〕道と共に結束される(結合する)、という義(意味)である。

 

783.

 

§84  そこで、固着と出起が明らかな状態となることを義(目的)として(※)、これが、〔その〕項目となる。(1)内に固着して、内から出起する。(2)内に固着して、外から出起する。(3)外に固着して、外から出起する。(4)外に固着して、内から出起する。(5)形態に固着して、形態から出起する。(6)形態に固着して、形態なきものから出起する。(7)形態なきものに固着して、形態なきものから出起する。(8)形態なきものに固着して、形態から出起する。(9)一撃で、五つの〔心身を構成する〕範疇から出起する。(10)無常〔の観点〕から固着して、無常〔の観点〕から出起する。(11)無常〔の観点〕から固着して、苦痛〔の観点〕から〔出起し〕、無我〔の観点〕から出起する。(12)苦痛〔の観点〕から固着して、苦痛〔の観点〕から〔出起し〕、無常〔の観点〕から〔出起し〕、無我〔の観点〕から出起する。(13)無我〔の観点〕から固着して、無我〔の観点〕から〔出起し〕、無常〔の観点〕から〔出起し〕、苦痛〔の観点〕から出起する。どのようにか。

 

※ テキストにはavibhāvatthāya とあるが、VRI版により āvibhāvatthāya と読む。

 

784.

 

§85  (1)ここに、一部の者は、まさしく、最初に、内なる諸々の形成〔作用〕に固着する(把持し把握する)。固着して〔そののち〕、それらを見る。また、すなわち、まさしく、単に内を見ることのみでは、〔聖者の〕道への出起が有ることはなく、外もまた、まさしく、見られるべきことから、それゆえに、他者の諸々の範疇をもまた、諸々の執取されていない形成〔作用〕(非有情的事象)をもまた、「無常であり、苦痛であり、無我である」と見る。彼は、〔しかるべき〕時に、【662】内に触知し(※)、〔しかるべき〕時に、外に〔触知する〕。このように触知している、彼の、内に触知する時において、〔あるがままの〕観察が、〔聖者の〕道と共に結束される(結合する)なら、これが、内に固着して、内から出起する、ということになる。(2)また、それで、もし、彼の、外に触知する時において、〔あるがままの〕観察が、〔聖者の〕道と共に結束されるなら、これが、内に固着して、外から出起する、ということになる。(3・4)外に固着して、そして、外から、さらに、内から、〔両者からの〕出起についてもまた、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

※ テキストにはsamasati とあるが、VRI版により sammasati と読む。

 

785.

 

§86  (5)他の者は、まさしく、最初に、形態に固着する(把持し把握する)。固着して〔そののち〕、そして、〔四つの大いなる〕元素の形態を、さらに、〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態を、集まりと為して見る(一括して見る)。また、すなわち、まさしく、単に形態を見ることのみでは(※)、〔聖者の道への〕出起が有ることはなく、形態なきものもまた、まさしく、見られるべきことから、それゆえに、その形態を対象と為して生起した、感受〔作用〕、表象〔作用〕、諸々の形成〔作用〕、さらに、識知〔作用〕を、「これは、形態なきものである」と、形態なきものを見る。彼は、〔しかるべき〕時に、形態を触知し、〔しかるべき〕時に、形態なきものを〔触知する〕。このように触知している、彼の、形態を触知する時において、〔あるがままの〕観察が、〔聖者の〕道と共に結束される(結合する)なら、これが、形態に固着して、形態から出起する、ということになる。(6)また、それで、もし、彼の、形態なきものを触知する時において、〔あるがままの〕観察が、〔聖者の〕道と共に結束されるなら、これが、形態に固着して、形態なきものから出起する、ということになる。(7・8)形態なきものに固着して、そして、形態なきものから、さらに、形態から(※※)、〔両者からの〕出起についてもまた、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

※ テキストにはsuddharūpadassana-maggen’ eva とあるが、VRI版により suddharūpadassanamatteneva と読む。

※※ テキストにはarūpārūpā ca とあるが、VRI版により arūpā ca rūpā ca と読む。

 

786.

 

§87  (9)また、「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」(マッジマ・ニカーヤ1p.380)と、このように固着して(把持し把握して)、まさしく、このように、出起の時において、一撃で、五つの〔心身を構成する〕範疇から出起する、ということになる。

 

787.

 

§88  (10)或る者は、まさしく、最初に、無常〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕を触知する。また、すなわち、まさしく、無常〔の観点〕から触知することのみでは、〔聖者の道への〕出起が有ることはなく、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、まさしく、触知されるべきことから、それゆえに、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、触知する。このように実践した、彼に、無常〔の観点〕から、触知する時において、出起が有るなら、これが、無常〔の観点〕から固着して、無常〔の観点〕から出起する(「無常である」と固着して「無常である」と出起する)、ということになる。(11)また、それで、もし、彼に、苦痛〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、触知する時において、出起が有るなら、これが、無常〔の観点〕から固着して、苦痛〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、出起する(「無常である」と固着して「苦痛である」「無我である」と出起する)、ということになる。(12・13)苦痛〔の観点〕から〔固着して〕、無我〔の観点〕から固着して、残りのものからの出起についてもまた、これが、〔その〕方法となる。

 

788.

 

§89  そして、ここにおいて、すなわち、また、無常〔の観点〕から固着した者も、すなわち、また、苦痛〔の観点〕から〔固着した〕者も、すなわち、また、無我〔の観点〕から〔固着した〕者も、そして、出起の時において、無常〔の観点〕からの出起が有るなら、三人もろともに、信念多き者たちと成り、信の機能を獲得し、無相の解脱によって解脱し、第一の道(預流道)の瞬間において、信に従い行く者たちと成り、〔残りの〕七つの境位(四道四果から預流道を除いたもの)において、信による解脱者たちと〔成る〕。【663】また、それで、もし、苦痛〔の観点〕からの出起が有るなら、三人もろともに、静息多き者たちと成り、禅定の機能を獲得し、無願の解脱によって解脱し、一切所において、身体による実証者たちと成る。また、彼が、ここにおいて、形態なき〔行境〕の瞑想を足場とするなら、彼は、至高の果〔たる阿羅漢の資質〕において、両部の解脱者と成る。そこで、彼らに、無我〔の観点〕からの出起が有るなら、三人もろともに、知多き者たちと成り、智慧の機能を獲得し、空性の解脱によって解脱し、第一の道(預流道)の瞬間において、法(教え)に従い行く者たちと成り、六つの境位(四道四果から預流道と阿羅漢果を除いたもの)において、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成り〕、至高の果〔たる阿羅漢の資質〕において、智慧による解脱者たちと〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

789.

 

§90  今や、前後の諸々の知恵と共に、この出起に至る〔あるがままの〕観察が明らかな状態となることを義(目的)に、十二の喩えが説かれるべきである。これが、それら〔の喩え〕の摂頌(まとめの偈)となる(※)。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)蝙蝠、そして、(2)黒蛇、(3)家、(4)牛、(5)女夜叉、(6)幼児、(7)飢え、(8)渇き、(9)寒さ、(10)暑さ、(11)暗黒、さらに、(12)毒とともに、〔これらの十二の譬えがある〕」と。

 

 そして、これらの〔十二の〕喩えは、恐怖の現起〔の知恵〕から以降は、すなわち、どこにおいてであれ、知恵において安立して〔そののち〕適用するのが順当であるとして、いっぽう、この境位(出起に至るあるがままの観察)において、〔それらの喩えが〕適用されるなら、恐怖の現起〔の知恵〕から、すなわち、果の知恵まで、一切〔の知恵〕が、明白なるものと成る。それゆえに、まさしく、ここで、適用されるべきである、と説かれた。

 

※ テキストにはudāna とあるが、VRI版により uddāna と読む。

 

790.

 

§91  (1)「蝙蝠」とは、伝えるところでは、或る蝙蝠が、「ここにおいて、あるいは、花を、あるいは、果を、得るのだ」と、五つの枝がある蜜の木に止まって、一つの枝を撫でまわして、そこにおいて、何であれ、あるいは、花を、あるいは、果を、取って行くべきものを見なかった。そして、すなわち、一つ〔の枝〕を〔撫でまわした〕ように、このように、第二、第三、第四、第五の枝をもまた撫でまわして、〔取って行くべきものを〕見なかった。その〔蝙蝠〕は、「まさに、この木は、果がない。ここにおいては、何であれ、取って行くべきものは存在しない」と、その木にたいする〔執着の〕基底を捨てて、真っすぐの枝を登って、樹枝の間から頭を出して、上を見上げて、虚空に飛び上がって、他の果ある木に止まる。

 

§92  そこにおいて、蝙蝠のように、〔心の〕制止を行境とする者が見られるべきである。五つの枝がある蜜の木のように、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)がある。蝙蝠の、そこにおいて、〔木に〕止まることのように、〔心の〕制止者の、五つの〔心身を構成する〕範疇における〔理解の〕固着(把持把握)がある。その〔蝙蝠〕の、一つの枝を撫でまわして、何であれ、取って行くべきものを見ずして、残りの枝を撫でまわすことのように、〔心の〕制止者の、形態の範疇を触知して、そこにおいて、何であれ、取って行くべきものを見ずして、残りの〔四つの〕範疇を触知することがある。その〔蝙蝠〕の、「まさに、この木は、果がない」と、木にたいする〔執着の〕基底を捨てることのように、〔心の〕制止者の、五つの〔心身を構成する〕範疇もろともにおいて無常の特相等を見ることを所以に【664】厭離しつつ、解き放ちを欲する等の三つの知恵がある。その〔蝙蝠〕の、真っすぐの枝を上に登ることのように、〔心の〕制止者の、随順する〔知恵〕がある。頭を出して、上を見上げることのように、〔新たな〕種姓と成る知恵がある。虚空に飛び上がることのように、道の知恵がある。他の果ある木に止まることのように、果の知恵がある。

 

791.

 

§93  (2)黒蛇の喩えは、まさしく、審慮の知恵において説かれた(§49)。また、喩えの適応については、ここにおいて、蛇を捨てることのように、〔新たな〕種姓と成る知恵がある。〔蛇から自己を〕解き放って〔そののち〕、やってきた道を眺め見ながら立つことのように、道の知恵がある。赴いて〔そののち〕、恐怖なき境位に立つことのように、果の知恵がある。ということで、これが、差異となる。

 

792.

 

§94  (3)「家」とは、伝えるところでは、家の主人が、夕方に、〔食事を〕食べて、臥具に登って、眠りに入りつつあるとき、家が出火した(※)。彼は、目覚めて、火を見て、恐怖した。「まさに、善きこととして存するでろう──それで、もし、焼かれずに出られるなら」と、〔周囲を〕眺め見ながら、道を見て、〔家から〕出て、勢いよく平安の境位(安全地帯)に赴いて、立った。

 

※ テキストにはādivutta とあるが、VRI版により āditta と読む。

 

§95  そこにおいて、家の主人の、〔食事を〕食べて、臥具に登って、眠りに入ることのように、愚者たる凡夫の、〔心身を構成する〕範疇の五なるものを、「わたしである」「わたしのものである」と収め取ることがある。目覚めて、火を見て、恐怖した時のように、正しい〔実践の〕道を実践して、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を見て〔生起した〕、恐怖の現起の知恵がある。〔家から〕出る道を眺め見ることのように、解き放ちを欲する知恵がある。道を見ることのように、随順する〔知恵〕がある。〔家から〕出ることのように、〔新たな〕種姓と成る知恵がある。勢いよく赴くことのように、道の知恵がある。平安の境位に立つことのように、果の知恵がある。

 

793.

 

§96  (4)「牛」とは、伝えるところでは、或る耕作者が、夜分に、眠りに入りつつあると、牛舎を壊して、牛たちが逃げ去った。彼は、早朝の時分に、そこに赴いて眺め見ながら、それら〔の牛たち〕が逃げ去った状態を知って、足跡を〔辿って〕赴いて、王の牛たちを見た。「それらは、わたしの牛たちだ」と省察して、〔牛たちを〕運び去りつつ、夜明けの時に、「これらは、わたしの牛たちではない。王の牛たちだ」と了解して、「王の家来たちが、わたしのことを、『こいつは、盗賊だ』と収め取って(誤認して)、思い掛けない災厄に至り得させない、そのあいだに、まさしく、ただちに、逃げ去るのだ」と恐怖し、牛たちを捨棄して、勢いよく逃げ去って、恐怖なき境位に立った。

 

§97  そこにおいて、「わたしの牛たちだ」と、王の牛たちを収め取ることのように、愚者たる凡夫の、「わたしである」「わたしのものである」と、諸々の範疇を収め取ることがある。夜明けに、「王の牛たちだ」と了解することのように、〔心の〕制止者の、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を所以に、諸々の範疇を、「無常であり、苦痛であり、無我である」と了解することがある。恐怖した時のように、恐怖の現起の知恵がある。捨てて去り行くことを欲することのように、解き放ちを欲する〔知恵〕がある。捨てることのように、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕がある。逃げ去ることのように、道〔の知恵〕がある。逃げ去って恐怖なき地点に立つことのように、果〔の知恵〕がある。

 

794.

 

§98  【665】(5)「女夜叉」とは、伝えるところでは、或る男が、女夜叉と共に、共住を営んだ(同棲した)。その〔女夜叉〕は、夜分に、「この者は、眠りについたところだ」と思い考えて、新造の墓場に赴いて、人間の肉を喰う。その〔男〕は、「この者は、どこに赴くのか」と追跡して、人間の肉を喰っているのを見て、その〔女夜叉〕の人間ならざる状態を知って、「わたしを喰わない、そのあいだに、それまでに逃げ去るのだ」と恐怖し、勢いよく逃げ去って、平安の境位(安全地帯)に立った。

 

§99  そこにおいて、女夜叉と共にする共住のように、諸々の範疇を、「わたしである」「わたしのものである」と収め取ることがある。墓場で人間の肉を喰っているのを見て、「こいつは、女夜叉だ」と知ることのように、諸々の範疇の三つの特相を見て、無常等の状態を知ることがある。恐怖した時のように、恐怖の現起〔の知恵〕がある。逃げ去ることを欲することのように、解き放ちを欲する〔知恵〕がある。墓場を捨棄することのように、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕がある。勢いよく逃げ去ることのように、道〔の知恵〕がある。〔逃げ去って〕恐怖なき地点に立つことのように、果〔の知恵〕がある。

 

795.

 

§100  (6)「幼児」とは、伝えるところでは、或る、子供への貪求ある婦女(子を溺愛する母親)があり、彼女が、まさしく、上階に坐っていると、路上に幼児の声を聞いて、「はてさて、まさに、わたしの子が、誰かにいじめられているのでは」と、勢いよく赴いて、「自己の子である」という表象によって、他者の子を収め取った(抱き上げた)。彼女は、「こいつは、他者の子だ」と了解して、〔心が〕咎めつつ、こちらからもあちらからも眺め見て、「まさしく、まさに、誰かが、わたしのことを、『こいつは、幼児を盗もうとしている』と説くことがあってはならない」と、まさしく、そこにおいて、幼児を降ろして、ふたたび、勢いよく〔上〕階に登って坐った。

 

§101  そこにおいて、自己の子の表象によって他者の子を収め取ることのように、「わたしである」「わたしのものである」と、五つの〔心身を構成する〕範疇を収め取ることがある。「こいつは、他者の子だ」と了解することのように、三つの特相を所以に、「わたしではない」「わたしのものではない」と了解することがある。〔心が〕咎めることのように、恐怖の現起〔の知恵〕がある。こちらからもあちらからも眺め見ることのように、解き放ちを欲する知恵がある。まさしく、そこにおいて、幼児を降ろすことのように、随順する〔知恵〕がある。降ろして、路上に立った時のように、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕がある。〔上〕階に登ることのように、道〔の知恵〕がある。登って坐ることのように、果〔の知恵〕がある。

 

796.

 

§102  (7・8・9・10・11・12)また、「飢え、渇き、寒さ、暑さ、暗黒、さらに、毒とともに」とは、これらの六つの喩えは、出起に至る〔あるがままの〕観察において安立した者のために、世〔俗〕を超える法(性質)に向かい行き傾倒し傾斜する状態を見示することを義(目的)に説かれた。

 

§103  (7)すなわち、また、飢えに征服され、極めて飢えている人が、美味なる食料を切望するように、まさしく、このように、輪廻の転起の飢えに接触された、この〔心の〕制止を行境とする者は、不死なる味ある身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)の食料を切望する。

 

§104  (8)さらに、すなわち、口と喉が遍く干上がり、渇いている人が、幾多の資糧ある飲み物を切望するように、まさしく、このように、輪廻の転起の渇きに【666】接触された、この〔心の〕制止を行境とする者は、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)の飲み物を切望する。

 

§105  (9)また、すなわち、寒さに接触された人が、暑さを切望するように、まさしく、このように、輪廻の転起において渇愛と愛執の寒さに接触された、この〔心の〕制止を行境とする者は、〔心の〕汚れを熱苦させる〔聖者の〕道の火を切望する。

 

§106  (10)さらに、すなわち、暑さに接触された人が、寒さを切望するように、まさしく、このように、輪廻の転起において十一の火(貪欲・憤怒・迷妄・生・老・死・憂い・嘆き・苦痛・失意・葛藤)の熱苦に熱せられた、この〔心の〕制止を行境とする者は、十一の火の寂止たる涅槃〔の境処〕を切望する。

 

§107  (11)また、すなわち、暗黒に打ち負かされた人が、光明を切望するように、まさしく、このように、無明の暗黒によって覆われ覆い包まれた、この〔心の〕制止を行境とする者は、知恵の光明たる〔聖者の〕道の修行を切望する。

 

§108  (12)さらに、すなわち、毒に接触された人が、毒を殲滅する薬を切望するように、まさしく、このように、〔心の〕汚れの毒に接触された、この〔心の〕制止を行境とする者は、〔心の〕汚れの毒を撃破する不死の薬たる涅槃〔の境処〕を切望する。

 

§109  それによって説かれた。「彼が、このように知り、このように見ていると、三つの生存と……略……九つの有情の居住所にたいし、心は、退去し、退避し、反転し、〔もはや〕伸展されることがない。あるいは、放捨が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立する。それは、たとえば、また、まさに、僅かな傾きある蓮の葉に触れた諸々の水〔の滴〕が〔云々〕」(§63)と。〔その〕全てが、まさしく、前に説かれた方法によって、知られるべきである。

 

797.

 

§110  また、そして、これだけで、これが、「退去の行」ということに成る。それに関して、〔聖典において〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔欲望の対象から〕退去して〔世を〕歩む比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら──〔彼のことを、賢者たちは〕『彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕言う──彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」(スッタニパータ810)と。

 

§111  このように、この諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵は、〔心の〕制止者の退去の行の状態を決定して、より上なる聖者の道にとってもまた、覚りの支分と道の支分と瞑想の支分と〔実践の〕道と解脱〔の門〕の差異を決定する。

 まさに、(1)或る長老たちは、「足場たる瞑想が、覚りの支分と道の支分と瞑想の支分の差異を決定する」と説き、(2)或る〔長老〕たちは、「〔あるがままの〕観察の対象と成った諸々の範疇が決定する」と説き、(3)或る〔長老〕たちは、「人の志欲が決定する」と説く。たとえ、彼らに諸々の論があるとして、この、前段部分における出起に至る〔あるがままの〕観察(諸々の形成作用の放捨の知恵)が、まさしく、決定する、と知られるべきである。

 

798.

 

§112  (1)そこで、これが、〔その〕順次の言説となる。(1―1)まさに、〔あるがままの〕観察による決定によって、〔禅定の潤いなく〕乾燥した〔あるがままの〕観察者に生起した〔聖者の〕道もまた──入定の得者に、瞑想を足場と為さずして生起した〔聖者の〕道もまた──第一の瞑想を足場と【667】為して、諸々の雑駁なる形成〔作用〕を触知して生起させた〔聖者の〕道もまた──第一の瞑想に属するものだけと成る(第二と第三と第四と第五の瞑想に属するものとは成らない)。全てにおいて、七つの覚りの支分(七覚支)と八つの道の支分(八正道)と五つの瞑想の支分(思考・想念・喜悦・安楽・心の一境性)が有る。なぜなら、それら〔の聖者の道〕の、前段部分における〔あるがままの〕観察は、悦意を共具したものともまた〔成り〕、放捨を共具したものともまた〔成り〕、成って〔そののち〕、出起の時においては、諸々の形成〔作用〕の放捨の状態に至り得て、悦意を共具したものと成るからである。

 

§113  (1―2)五なる方法ある〔瞑想の階梯〕における第二と第三と第四の瞑想を足場と為して生起させた〔聖者の〕道においては、まさしく、順々に、瞑想は、四つの支分(想念・喜悦・安楽・心の一境性)あるもの、三つの支分(喜悦・安楽・心の一境性)あるもの、さらに、二つの支分(安楽・心の一境性)あるものと成る。また、全てにおいて、七つの道の支分(八正道から思考に該当する正思惟を除いた七つの支分)が有り、第四〔の瞑想を足場と為して生起させた聖者の道〕においては、六つの覚りの支分(七覚支から喜悦に該当する喜覚支を除いた六つの支分)が〔有る〕。この差異は、まさしく、そして、足場たる瞑想による決定によって、さらに、〔あるがままの〕観察による決定によって、〔すなわち、両者による決定を所以に〕有る。なぜなら、それら〔の聖者の道〕のばあいもまた、前段部分における〔あるがままの〕観察は、悦意を共具したものともまた〔成り〕、放捨を共具したものともまた成るが、出起に至る〔あるがままの観察〕は、悦意を共具したものだけと〔成る〕からである。

 

§114  (1―3)また、第五の瞑想を足場と為して発現させた〔聖者の〕道においては、放捨と心の一境性を所以に、二つの支分が〔有り〕、覚りの支分と道の支分としては、六つ〔の覚りの支分〕が〔有り〕、まさしく、そして、七つ〔の道の支分〕が〔有る〕。この差異もまた、〔足場たる瞑想とあるがままの観察の〕両者による決定を所以に有る。なぜなら、この方法においては、前段部分における〔あるがままの〕観察は、あるいは、悦意を共具したものと〔成り〕、あるいは、放捨を共具したものと成るが、出起に至る〔あるがままの観察〕は、放捨を共具したものだけと〔成る〕からである。形態なき〔行境〕の瞑想を足場と為して生起させた〔聖者の〕道もまた、まさしく、これが、〔その〕方法となる。

 このように、足場たる瞑想から出起して、それらが何であれ(※)、諸々の形成〔作用〕を触知して発現させた〔聖者の〕道には、〔その道の〕近い地点において出起させた入定〔の境地〕が、〔その道を〕自己に等しき状態に作り為す──大蜥蜴の色にとっての地の色のように(地の色が、大蜥蜴の皮膚の色を、同色のものに作り為すように)。

 

※ テキストにはye koci とあるが、VRI版により ye keci と読む。

 

799.

 

§115  (2)また、第二の長老の論においては、その〔入定〕その入定から出起して〔そののち〕、それら〔の入定の諸法〕それらの入定の諸法(性質)を触知して発現させたものとして〔聖者の〕道が有るなら、まさしく、その〔入定〕その入定に等しきものと成る。(※)触知された入定に等しきものと〔成る〕、という義(意味)である。また、それで、もし、欲望の行境の諸法(性質)を触知するなら、第一の瞑想に属するものだけと成る。そして、そこ(第二の長老の論)でもまた、〔あるがままの〕観察による決定は、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである。

 

※ 南伝大蔵経64『清浄道論3』の註により、以下の二文 Sammasitasamāpattisadiso ty’ attho. Sace pana kāmāvacaradhamme sammasati pahamajjhāniko va hoti. を補う

 

800.

 

§116  (3)第三の長老の論においては、それぞれの自己の志欲に適切なることで、それぞれの瞑想を足場と為して、それぞれの瞑想の諸法を触知して、〔聖者の〕道が発現させられたなら、まさしく、それぞれの瞑想と相同のものと成る。また、足場たる瞑想〔なくして〕、あるいは、触知された瞑想なくして、まさしく、志欲のみによって、それが実現することはない。〔まさに〕その、この義(意味)は、『ナンダコーヴァーダ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ3p.270)によって明らかにされるべきである。そして、ここ(第三の長老の論)においてもまた、〔あるがままの〕観察による決定は、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである。

 まずは、このように、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕(あるがままの観察)が、覚りの支分と道の支分と瞑想の支分の差異を決定する、と知られるべきである。

 

801.

 

§117  また、それで、もし、この〔諸々の形成作用の放捨の知恵〕が、〔その〕最初から、諸々の〔心の〕汚れを鎮静させつつ、苦なる専念〔努力〕を有し形成〔作用〕を有するものによって、〔諸々の心の汚れを〕鎮静させることができたなら、「苦なる〔実践の〕道」ということに成り、反対のものによるなら、【668】「楽なる〔実践の〕道」〔ということに成る〕。また、諸々の〔心の〕汚れを鎮静させて〔そののち〕、〔あるがままの〕観察の遍住と〔聖者の〕道の出現を、徐々に作り為しつつあるなら、「遅き証知」ということに成り、反対のものによるなら、「速き証知」〔ということに成る〕。かくのごとく、この諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕は、至り来るべき境位に立脚して、〔その〕自己〔その〕自己にとっての道に名前を与え、それによって、〔聖者の〕道は、〔苦なる実践の道にして遅き証知、苦なる実践の道にして速き証知、楽なる実践の道にして遅き証知、楽なる実践の道にして速き証知、という〕四つの名前を得る。

 

§118  また、〔まさに〕その、この〔実践の〕道は、或る比丘にとっては、種々なるものと成り、或る〔比丘〕にとっては、〔預流道と一来道と不還道と阿羅漢道の〕四つの〔聖者の〕道もろともにおいて、まさしく、一つのものと〔成る〕。いっぽう、覚者たちにとって、四つの〔聖者の〕道は、まさしく、楽なる〔実践の〕道にして速き証知のものとして有った。そのように、法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)にとって〔有った〕。また、マハー・モッガッラーナ長老にとって、第一の道(預流道)は、楽なる〔実践の〕道にして速き証知のものとして有ったが、後の三つ〔の聖者の道〕(一来道・不還道・阿羅漢道)は、苦なる〔実践の〕道にして遅き証知のものとして〔有った〕。

 

§119  さらに、すなわち、〔実践の〕道のように、このように、〔欲の思い、心、精進、考察、という、四つの〕優位(主因)もまた、或る比丘にとっては、四つの〔聖者の〕道において、種々なるものと成り、或る〔比丘〕にとっては、四つ〔の聖者の道〕もろともにおいて、まさしく、一つのものと〔成る〕。このように、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕は、〔実践の〕道の差異を決定する。

 また、すなわち、解脱〔の門〕の差異を決定する、その〔あり方〕は、まさしく、前に説かれた(§66-78)。

 

802.

 

§120  さらに、また、「道」というものは、五つの契機(原因・根拠)によって、〔その〕名前を得る──(1)あるいは、自ずからの効用によって、(2)あるいは、正反対のものによって、(3)あるいは、自ずからの徳によって、(4)あるいは、対象によって、(5)あるいは、至り来ることによって。

 

§121  (1)まさに、それで、もし、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕が、諸々の形成〔作用〕を、無常〔の観点〕から触知して〔そののち〕出起するなら、〔その道は〕無相の解脱によって解脱し、それで、もし、苦痛〔の観点〕から触知して〔そののち〕出起するなら、〔その道は〕無願の解脱によって解脱し、それで、もし、無我〔の観点〕から触知して〔そののち〕出起するなら、〔その道は〕空性の解脱によって解脱する。これが、「自ずからの効用〔の観点〕からの〔道の〕名前」ということになる。

 

§122  (2)また、すなわち、この〔道〕は、無常の随観によって諸々の形成〔作用〕の重厚〔の表象〕の分解を為して、常住の形相と常恒の形相と常久の形相を捨棄しつつ至り来たことから、それゆえに、無相であり、また、苦痛の随観によって安楽の表象を捨棄して、切願と切望〔の思い〕を乾燥させて至り来たことから、無願であり、無我の随観によって自己と有情と人の表象を捨棄して、諸々の形成〔作用〕が空〔の観点〕から見られたことから、空性である。ということで、これが、「正反対のもの〔の観点〕からの〔道の〕名前」ということになる。

 

§123  (3)また、この〔道〕は、貪欲等々が空であることから、空性であり、形態の形相等々の、あるいは、まさしく、貪欲の形相等々の、状態がないことによって、無相であり、貪欲の切願等々の状態なきことから、無願である。ということで、これが、その〔道〕の、「自ずからの徳〔の観点〕からの〔道の〕名前」〔ということになる〕。

 

§124  (4)〔まさに〕その、この〔道〕は、空性であり、無相であり、かつまた、無願である、涅槃を、対象と為す、ということでもまた、空性であり、無相であり、無願である、と説かれる。これが、その〔道〕の、「対象〔の観点〕からの〔道の〕名前」〔ということになる〕。

 

803.

 

§125  【669】(5)また、至り来ることは、二種類のものとなる。〔あるがままの〕観察から至り来ることであり、さらに、道から至り来ることである。

 そこにおいて、道においては、〔あるがままの〕観察から至り来ることを得、果においては、道から至り来ることを〔得る〕。まさに、無我の随観は(※)、「空性」ということになり、空性の〔あるがままの〕観察によって、道は、空性である。無常の随観は、「無相」ということになり、無相の〔あるがままの〕観察によって、道は、無相である。

 

※ テキストにはAnattānupassā とあるが、VRI版により Anattānupassanā と読む。

 

§126  また、この名前は、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)の教相によっては得られず、経の教相によって得られる。なぜなら、そこ(経)では、〔新たな〕種姓と成る知恵は、無相の涅槃を対象と為して、無相の名前あるものと成って、自ら、至り来るべき境位に安立して、〔その〕道に名前を与える、と説くからである。それによって、道は、無相である、と説かれた。また、道から至り来ることによって、果は、無相である、と〔説くことも〕、まさしく、適合する。

 

§127  苦痛の随観は、諸々の形成〔作用〕にたいする切願を乾燥させて至り来たことから、「無願」ということになり、無願の〔あるがままの〕観察によって、道は、無願である。無願の道の果は、無願である。

 このように、〔あるがままの〕観察は、自己の名前を道に与え、道は、〔自己の名前を〕果に〔与える〕。ということで、これが、「至り来ること〔の観点〕からの〔道の〕名前」〔ということになる〕。

 このように、この諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕は、解脱〔の門〕の差異を決定する。ということで──

 諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

804.

 

 9 随順する知恵

 

§128  彼(瞑想修行者)が、〔まさに〕その、諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵を、習修し修め多く為していると、信念と信は、より力あるものとして発現し、精進は、善く収め取られたものと成り、気づきは、善く現起されたものと〔成り〕、心は、善く定められたものと〔成り〕、より鋭敏なる諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕が生起する。

 

§129  彼には、「今や、〔聖者の〕道が生起するであろう」と、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕が、諸々の形成〔作用〕を、あるいは、「無常である」と、あるいは、「苦痛である」と、あるいは、「無我である」と、触知して、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕(有分:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)へと入り行く。生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕の直後に、まさしく、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕において為された方法によって、諸々の形成〔作用〕を、あるいは、「無常である」と、あるいは、「苦痛である」と、あるいは、「無我である」と、対象と為しつつ、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕(意門引転:意に生じた思いを定置して意識化する作用の心)が生起する。そののち、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕を転じて生起した、その〔報いを生まない純粋〕所作としての心(意門引転心)の直後に、間隔なき心の相続として継続しつつ、まさしく、そのように、諸々の形成〔作用〕を対象と為して、第一の疾走〔作用〕の心(速行心:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)が生起する。それが、「事前作業するもの(遍作)」と説かれる。その直後に、まさしく、そのように、諸々の形成〔作用〕を対象と為して、第二の疾走〔作用〕の心が生起する。それが、「近接するもの(近行)」と説かれる。その直後にもまた、【670】まさしく、そのように、諸々の形成〔作用〕を対象と為して、第三の疾走〔作用〕の心が生起する。それが、「随順するもの(随順)」と説かれる。これが、それらの単独の名前となる(個別の名称となる)。

 

§130  いっぽう、差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕、〔事前作業するものと近接するものと随順するものの〕三種類もろともに、これを、「習修するもの」ともまた、「事前作業するもの」ともまた、「近接するもの」ともまた、「随順するもの」ともまた、説くのが順当である。

 「何に、随順するものであるのか」〔と問うなら〕、「前段部分と後段部分に」〔と答える〕。なぜなら、その〔随順する知恵〕は、真実の〔触知の〕作用あることから、そして、前の八つ〔のあるがままの〕観察の知恵に随順し、さらに、後の三十七の覚りの項目(菩提分)の諸法(性質)に〔随順する〕からである。

 

§131  まさに、その〔随順する知恵〕は、無常の特相等を所以に、諸々の形成〔作用〕を対象として転起されたことから、(1)そして、「まさに、生成と衰失〔の随観〕の知恵は、まさしく、生成と衰失ある諸法(性質)の、生起と衰失を見た」と、(2)そして、「まさに、滅壊の随観〔の知恵〕は、まさしく、滅壊ある〔諸法〕の、滅壊を見た」と、(3)そして、「まさに、恐怖の現起〔の知恵〕には、まさしく、恐怖を有するものが、恐怖〔の観点〕から現起したのだ」と、(4)そして、「まさに、危険の随観〔の知恵〕は、まさしく、危険を有するものにおいて、危険を見た」と、(5)そして、「まさに、厭離〔の随観〕の知恵は、まさしく、厭離されるべきものにおいて、厭離したのだ(※)」と、(6)そして、「まさに、解き放ちを欲する知恵は、まさしく、解き放たれるべきものにおいて(※※)、解き放ちを欲することが生じたのだ」と、(7)そして、「まさに、審慮〔の随観〕の知恵によって、まさしく、審慮されるべきものが、審慮されたのだ」と、(8)そして、「まさに、諸々の形成〔作用〕の放捨〔の知恵〕によって、まさしく、放捨されるべきものが、放捨されたのだ」と、義(意味)〔の観点〕から説いているように、そして、真実の〔触知の〕作用あることから、これらの八つの(※※※)知恵に随順し、さらに、その実践によって〔道と果が〕至り得られるべきことから、後の三十七の覚りの項目の諸法(性質)に〔随順する〕。

 

※ テキストにはnibbindan とあるが、VRI版により nibbinnan と読む。

※※ テキストにはmuñcitabba hi とあるが、VRI版により muñcitabbamhi と読む。

※※※ テキストにはaṭṭhana とあるが、VRI版により aṭṭhanna と読む。

 

§132  まさに、すなわち、法(正義)にかなう王が、判決の場(法廷)に坐り、〔八者の〕裁判官たる大臣たちの判決を聞いて、非道に赴くことを捨棄して、〔公正〕中立の者と成って、「このように有れ」と裁可しながら、そして、彼らの判決に随順し、さらに、過去の王の法(正義)に〔随順する〕ように、このように、同様に、このことが知られるべきである。

 

§133  まさに、王のように、随順する知恵がある。八者の裁判官たる大臣たちのように、八つの知恵がある。過去の王の法(正義)のように、三十七の覚りの項目がある。そこにおいて、すなわち、王が、「このように有れ」と説きながら、そして、〔八者の〕裁判官たちの判決に〔随順し〕、さらに、〔過去の〕王の法(正義)に〔随順する〕ように、このように、この〔随順する知恵〕は、無常等を所以に、諸々の形成〔作用〕を対象として生起しながら、そして、真実の〔触知の〕作用あることから、八つの知恵に随順し、さらに、後の三十七の覚りの項目の諸法(性質)に〔随順する〕。まさしく、それによって、「真理に随順する知恵」と説かれる。ということで──

 随順する知恵〔の釈示〕は、〔以上で〕終了となる。

 

805.

 

 10 経の適応

 

§134  【671】また、そして、この随順する知恵は、諸々の形成〔作用〕を対象とする、出起に至る〔あるがままの〕観察の、結末と成り、いっぽう、〔新たな〕種姓と成る知恵は、出起に至る〔あるがままの〕観察の、一切によって一切にわたり、結末と〔成る〕。

 

§135  今や、まさしく、その、出起に至る〔あるがままの〕観察の、迷妄なき〔あり方〕を義(目的)に、この、経の適応が知られるべきである。それは、すなわち、この──まさに、この、出起に至る〔あるがままの〕観察は、『サラーヤタナヴィバンガ・スッタ』において、「比丘たちよ、それに関わらない〔あり方〕(渇愛なきあり方)に依拠して、それに関わらない〔あり方〕に由来して、すなわち、この、一なることがあり一なることに依拠した放捨があるとして、それを捨棄し、それを超越しなさい」(マッジマ・ニカーヤ3p.220)と、このように、「それに関わらない〔あり方〕」と説かれ、『アラガッダ・スッタンタ』において、「厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します」(マッジマ・ニカーヤ1p.139)と、このように、「厭離」と説かれ、『スシーマ・スッタンタ』において、「スシーマよ、まさに、前に、法(性質)の止住の知恵があり、後に、涅槃についての知恵があります」(サンユッタ・ニカーヤ2p.124)と、このように、「法(性質)の止住の知恵」と説かれ、『ポッタパーダ・スッタンタ』において、「ポッタパーダよ、まさに、表象として至高のものが、最初に生起し、そのあとに、知恵が〔生起します〕」(ディーガ・ニカーヤ1p.185:一部異なる箇所あり)と、このように、「表象として至高のもの(至高の表象)」と説かれ、『ダスッタラ・スッタンタ』において、「〔実践の〕道の知見の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり」(ディーガ・ニカーヤ3p.288)と、このように、「完全なる清浄のための精励の支分」と説かれ、『パティサンビダー・マッガ(無礙解道)』において、「そして、すなわち、解き放ちを欲することは、かつまた、すなわち、審慮の随観は、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕の放捨は、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)」(パティサンビダー・マッガ2p.64)と、このように、〔解き放ちを欲すること、審慮の随観、形成作用の放捨、という〕三つの名前で説かれ、『パッターナ(発趣論)』において、「随順するものは、〔新たな〕種姓と成るものにとって、〔等しく直後なる縁によって、縁となる〕。随順するものは、浄化するものにとって、〔等しく直後なる縁によって、縁となる〕」(ティカ・パッターナ2p.159)と、このように、〔随順するもの、新たな種姓と成るもの、浄化するもの、という〕三つの(※)名前で説かれ、『ラタヴィニータ・スッタンタ』において、「友よ、また、どうなのでしょう、〔実践の〕道の知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」(マッジマ・ニカーヤ1p.139)と、このように、「〔実践の〕道の知見の清浄」と説かれた。

 

※ テキストにはdvīhi とあるが、VRI版により tīhi と読む。

 

§136  〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、偉大なる聖賢によって、かくごとく、無数の名前で述べ伝えられたのが、寂静にして完全なる清浄の、出起に至る〔あるがままの〕観察である。

 大いなる恐怖ある輪廻の苦しみの汚泥から出起を欲する、賢者たる類の者は、そこにおいて、常に、〔心の〕制止を為すべきである」と。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「〔実践の〕道の知見の清浄についての釈示」という名の第二十一章となる。