第十八章 見解の清浄についての釈示
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§1 【587】今や、すなわち、これらの〔智慧の〕境地として有る諸々の法(性質)について、「収取と遍問を所以に知恵の精通を為して」(Ch.14§32)、まさしく、そして、戒の清浄、さらに、心の清浄(定心)、という、〔智慧の〕根元として有る二つの清浄が成就されるべきである、と説かれたが、そこにおいて、「戒の清浄」というのは、完全無欠の清浄たる、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御等の四種類の戒であり、そして、それは、戒についての釈示(Ch.1-2)において、まさしく、詳知され、「心の清浄」というのは、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕と共に、八つの入定(等至:禅定の境地)であり、それらもまた、心を頭目として(※)説かれた禅定についての釈示(Ch.3-13)において、一切の行相によって、まさしく、詳知された。それゆえに、それら〔の二つの清浄〕は、まさしく、そこにおいて詳知された方法によって、知られるべきである。
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§2 また、すなわち、〔前に〕説かれた、「見解の清浄、疑いの超渡の清浄、道と道ならざるものの知見の清浄、〔実践の〕道の知見の清浄、知見の清浄、という、これらの五つの清浄の総体がある」(Ch.14§32)とは、そこにおいて、名前と形態(名色:精神的事象と物質的事象)をあるがままに見ることが、「見解の清浄」ということになる。
663.
§3 まずは、その〔見解の清浄〕を成就させることを欲する、〔心の〕止寂(奢摩他・止)の行者によって、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を除いて、残りの形態〔の行境〕と形態なき行境の諸瞑想のなかのどれか一つ〔の瞑想〕から出起して、〔粗雑なる〕思考(尋)等々の瞑想の支分が、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)が、特相や効用等を所以に遍く収め取られるべきである。遍く収め取って〔そののち〕、「これは、全てもろともに、対象(所縁)に向かい傾くことから、傾くこと(ナマナ)の義(意味)によって、名前(名:ナーマ)である」と定め置かれるべきである。
§4 そののち、すなわち、まさに、人が家の内に蛇を見て、それを追いつつ、その〔蛇〕の巣を見るように、まさしく、このように、この、〔心の〕制止(瑜伽)を行境とする者(瞑想修行者)もまた、その名前(「名前である」と定め置かれたもの)を近しく注視しながら、「これは、名前である。何に依拠して転起するのか」と、遍く探し求めつつ、その〔名前〕の依所たる【588】心臓の形態(心臓の基盤)を見る。そののち、「心臓の形態の依所たる〔四つの大いなる〕元素があり、さらに、〔四つの大いなる〕元素に依拠したものとして、残りの、〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態(所造色)がある」と、形態を遍く収め取る。彼は、「これは、全てもろともに、壊れ崩れること(ルッパナ)から、形態(色:ルーパ)である」と定め置く。そののち、「〔対象に向かい〕傾くことを特相とするものは、名前である」「壊れ崩れることを特相とするものは、形態である」と、簡略〔の観点〕から、名前と形態を定め置く。
664.
§5 また、〔不純なき〕清浄の〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の行者(あるがままの観察だけを実践する者)は、あるいは、まさしく、この〔心の〕止寂の行者は、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置において説かれた(Ch.11§27)、それらそれらの界域を遍く収め取る諸門のなかのどれか一つの門を所以に、あるいは、簡略〔の観点〕から、あるいは、詳細〔の観点〕から、四つの界域を遍く収め取る。そこで、彼には、あるがままの自ずからの効用と特相〔の観点〕から明らかと成った〔四つの〕界域のうち、まずは、行為(業)から現起するものである、髪において、〔地と水と火と風の〕四つの界域、色艶、臭気、味感、滋養、生命〔の機能〕、身の〔機能の〕澄浄(触覚機能)、という、このように、身の十なるものを所以に、十の形態があり、まさしく、そこ(髪)において、〔性差の〕状態が存することから、〔性差の〕状態の十なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・女もしくは男の機能)を所以に、十〔の形態〕があり、まさしく、そこ(髪)において、食から現起する滋養を第八とするもの(Ch.11§2)、季節から現起する〔滋養を第八とするもの〕、心から現起する〔滋養を第八とするもの〕、という、他の二十四〔の形態〕もまたあり、ということで、このように、〔行為と食と季節と心の〕四つのものから現起するものである、〔身体における〕二十四の部位(身体における三十二の部位のうち、汗と涙と唾液と鼻水と胃物と糞と膿と尿の八つを除いた二十四の部位)において、〔二十四の部位それぞれに〕四十四〔の形態〕四十四の形態があり、また、汗、涙、唾液、鼻水、という、季節と心から現起するものである、これらの四つ〔の部位〕においては、二つの滋養を第八とするものを所以に、〔四つの部位それぞれに〕十六〔の形態〕十六の形態があり、胃物、糞、膿、尿、という、季節から現起するものである、これらの四つ〔の部位〕においては、季節から現起するだけの滋養を第八とするものを所以に、〔四つの部位それぞれに〕八つ〔の形態〕八つの形態があり、明白なるものと成る。ということで、まずは、これが、〔身体における〕三十二の行相について、〔その〕方法となる。
§6 また、すなわち、この三十二の行相が明らかと成ったとき、他の十の行相(火の界域の四つの部位と風の界域の六つの部位:Ch.8§81-2)が明らかと成る。そこにおいて、まずは、食べたもの等を遍熱するものにして、行為から生じるものである、火の部位において、まさしく、そして、滋養を第八とするもの、さらに、生命〔の機能〕、という、九つの形態があり、そのように、心から生じるものである、〔風の部位たる〕出息と入息の部位においてもまた、まさしく、そして、滋養を第八とするもの、さらに、音声、という、九つ〔の形態〕があり、〔行為と食と季節と心の〕四つのものから現起するものである、残りの八つ〔の部位〕においては、まさしく、そして、生命〔の機能〕の九なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能)、さらに、三つの滋養を第八とするもの、という、〔八つの部位それぞれに〕三十三〔の形態〕三十三の形態があり、明白なるものと成る。
§7 このように、彼には、詳細〔の観点〕から、四十二の行相を所以に、これらの〔四つの大いなる〕元素に執取して〔形成された〕形態が明白なるものとして生じたとき、〔心臓の〕基盤と〔感官の〕門を所以に、五つの眼の十なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・色艶・眼の機能の澄浄・生命の機能)等々(眼の十なるもの・耳の十なるもの・鼻の十なるもの・舌の十なるもの・身の十なるもの)、さらに、心臓の基盤の十なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・心臓の基盤)、という、他の六十の形態もまた、明白なるものと成る。
§8 彼は、それら〔の形態〕を、全てもろともに、壊れ崩れることという特相によって、一つに為して(一括して)、「これは、形態である」と見る。彼が、このように形態を遍く収め取ったなら、〔感官の〕門を所以に、諸々の形態なき法(性質)が、明白なるものと成る。それは、すなわち、この──二つの五つの識知〔作用〕(34・35・36・37・38・50・51・52・53・54)、三つの意の界域(39・55・70)、六十八の意の識知〔作用〕の界域、【589】という、八十一の世〔俗〕の心が、〔明白なるものと成る〕。そして、差異なき〔の観点〕によって〔説くなら〕、それらの〔八十一の〕心と共に生じたものとして、接触、感受、表象、思欲、生命、心の止住(心の一境性)、意を為すこと、という、これらの七つ七つの心の属性(心所:心に現起する作用・感情)がある、と〔知られるべきである〕。また、世〔俗〕を超える諸心は、〔いまだ〕到達されていないことから(※)、〔不純なき〕清浄の〔あるがままの〕観察の行者にとっても、〔遍き収取に赴くことは〕なく、〔心の〕止寂の行者にとっても、遍き収取に赴くことはない(収め取られない)、と〔知られるべきである〕。彼は、それらの諸々の形態なき法(性質)を、全てもろともに、〔対象に向かい〕傾くことという特相によって、一つに為して(一括して)、「これは、名前である」と見る。このように、或る者は、四つの界域の〔差異の〕定置の門によって、詳細〔の観点〕から、名前と形態を定め置く。
※ テキストには anidhigatattā とあるが、VRI版により anadhigatattā と読む。
665.
§9 他の者は、十八の界域(十八界)を所以に、〔名前と形態を定め置く〕。どのようにか。ここに、比丘が存在し、「この自己状態において、眼の界域があり……略……意の識知〔作用〕の界域がある」と、諸々の界域に〔心を〕傾注して〔そののち〕、すなわち、白黒〔濃淡〕の円輪が種々様々にある、細長い幅の、眼の穴において腱の糸によって結び付けられた肉の団塊にして、世〔の人々〕が「眼」と表象するもの──それを、〔「眼の界域である」と〕収め取らずして、〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示(Ch.14)における、〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態において説かれた流儀の眼の〔機能の〕澄浄(視覚機能)を、「眼の界域である」と定め置く。
§10 また、すなわち、それ(眼)には〔眼の機能の澄浄の他に〕、〔眼の機能の澄浄の〕依所たる元素の四つの界域、〔眼の機能の澄浄に〕付属する四つの色艶と臭気と味感と滋養の形態、〔眼の機能の澄浄を〕警護する生命の機能、という、九つの共に生じた形態があり、まさしく、そこ(眼)において、諸々の止住するものとして、身の十なるものと〔性差の〕状態の十なるものを所以に、二十の行為から生じる形態があり、〔行為から現起するものを除く〕食から現起するもの等々の三つの滋養を第八とするものを所以に、二十四の執取されていない形態がある。ということで、このように、〔眼の機能の澄浄の他に〕残りの五十三の形態が有る。そして、「それら〔の五十三の形態〕は、眼の界域ではない」と定め置く。これが、耳の界域等々についてもまた、〔共通する〕方法となる。いっぽう、身の界域には、〔眼の十なるもの等を除く〕残りの四十三の形態が有る。また、或る者たちは、「季節と心から現起する〔十六の形態〕は、音声を加えて(音声の九なるものとして)、それぞれ九つ〔の形態〕と為して、〔身の界域には〕四十五〔の形態〕がある」と説く。
§11 かくのごとく、これらの五つの〔機能の〕澄浄(正常な感官機能)、さらに、それらの境域たる形態と音声と臭気と味感と感触の五つ、という、十の形態が、十の界域と成る。残りの諸々の形態が、まさしく、法(意の対象)の界域と成る。また、眼に依拠して、形態を対象として転起された心は、「眼の識知〔作用〕の界域」ということになる。ということで、このように、二つの五つの識知〔作用〕(34・35・36・37・38・50・51・52・53・54)が、五つの識知〔作用〕の界域と成る。三つの意の界域の心(39・55・70)が、一つの意の界域と〔成る〕。六十八の意の識知〔作用〕の界域の心が、意の識知〔作用〕の界域と〔成る〕。ということで、全てもろともに、八十一の世〔俗〕の心が、七つの識知〔作用〕の界域(眼の識知作用の界域・耳の識知作用の界域・鼻の識知作用の界域・舌の識知作用の界域・身の識知作用の界域・意の界域・意の識知作用の界域)と〔成り〕、それと結び付いた接触等々が、法(意の対象)の界域と〔成る〕。
ということで、ここにおいて、このように、十と半分の界域が、形態と〔成り〕、七つと半分の【590】界域が、名前と〔成る〕。ということで、このように、或る者は、十八の界域を所以に、名前と形態を定め置く。
666.
§12 他の者は、十二の〔認識の〕場所(十二処)を所以に、〔名前と形態を定め置く〕。どのようにか。まさしく、眼の界域において説かれた方法によって、五十三の形態を除いて、眼の〔機能の〕澄浄(視覚機能)のみを、「眼の〔認識の〕場所である」と定め置く。そして、そこにおいて、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、耳〔の界域〕と鼻〔の界域〕と舌〔の界域〕と身の界域を、「耳〔の認識の場所〕と鼻〔の認識の場所〕と舌〔の認識の場所〕と身の〔認識の〕場所である」と〔定め置く〕。それらの境域(認識対象)として有る五つの法(性質)を、「形態〔の認識の場所〕と音声〔の認識の場所〕と臭気〔の認識の場所〕と味感〔の認識の場所〕と感触の〔認識の〕場所である」と〔定め置く〕。世〔俗〕の七つの識知〔作用〕の界域を、「意の〔認識の〕場所である」と〔定め置く〕。それと結び付いた接触等々を、さらに、残りの形態を、「法(意の対象)の〔認識の〕場所である」と〔定め置く〕。ここにおいて、このように、十と半分の〔認識の〕場所が、形態と〔成り〕、一つと半分の〔認識の〕場所が、名前と〔成る〕。ということで、このように、或る者は、十二の〔認識の〕場所を所以に、名前と形態を定め置く。
667.
§13 他の者は、そののち、より簡略に、範疇(蘊)を所以に、〔名前と形態を〕定め置く。どのようにか。ここに、比丘が、「この肉体において、〔行為と食と季節と心の〕四つのものから現起するものである、〔地と水と火と風の〕四つの界域、それに依拠したものである、色艶、臭気、味感、滋養、眼の〔機能の〕澄浄等々の五つの〔機能の〕澄浄、〔心臓の〕基盤としての形態、〔性差の〕状態、生命の機能、〔季節と心の〕二つのものから現起する音声、という、これらの十七の形態は、触知に近しく赴くもの(触知できるもの)にして、完遂されたもの(作り為されたもの)であり、形態(壊れ崩れるもの)としての形態(Ch.14§77)である。いっぽう、身体の表示、言葉の表示、虚空の界域、形態の軽快性、〔形態の〕柔和性、〔形態の〕行為適合性、〔形態の〕蓄積、〔形態の〕相続、〔形態の〕老化性、〔形態の〕無常性、という、これらの十の形態は、触知に近しく赴くものではなく、行相の変異と間隔の限定(範囲の確定)のみあるものにして、完遂されたもの(作り為されたもの)ではなく、形態(壊れ崩れるもの)としての形態ではない。そして、また、まさに、〔それらの〕形態のばあい、行相の変異と間隔の限定のみあることから、『形態』という名称に至る。ということで、これらの二十七の形態は、全てもろともに、形態の範疇である。八十一の世〔俗〕の心と共に生起した感受〔作用〕は、感受〔作用〕の範疇である。それと結び付いた表象〔作用〕は、表象〔作用〕の範疇である。諸々の形成〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕の範疇である。識知〔作用〕は、識知〔作用〕の範疇である」と〔定め置く〕。かくのごとく、形態の範疇が、形態と〔成り〕、四つの形態なき範疇が、名前と〔成る〕。ということで、このように、或る者は、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)を所以に、名前と形態を定め置く。
668.
§14 他の者は、「それが何であれ、形態としてあるものは、〔その〕全てが、四つの大いなる元素(四大)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である」と、このように、まさしく、簡略されたものによって、この自己状態において、形態を遍く収め取って、そのように、まさしく、そして、意の〔認識の〕場所を、さらに、法(意の対象)の〔認識の〕場所の一部位を、「名前である」と遍く収め取って、「かくのごとく、そして、これが、名前であり、さらに、これが、形態であり、これが、『名前と形態』〔と〕説かれる」と、簡略〔の観点〕から、名前と形態を定め置く。
669.
§15 【591】また、それで、もし、彼が、それぞれの門によって形態を遍く収め取って〔そののち〕、形態なきものを遍く収め取りつつあるとして、繊細なることから、形態なきものが現起しないなら、彼によって、荷を捨て置くことを為さずして(傾注を断念せずして)、形態だけが、繰り返し、触知されるべきであり、意が為されるべきであり、遍く収め取られるべきであり、定め置かれるべきである。なぜなら、彼の〔その〕形態が、そのとおり、そのとおりに、善く洗い落とされたものと成り、結束なきものと〔成り〕、完全無欠の清浄と〔成るなら〕、そのとおり、そのとおりに、その〔形態〕を対象とする諸々の形態なき法(性質)が、まさしく、自ずと、明白なるものと成るからである。
§16 まさに、すなわち、眼ある人が、完全なる清浄ならざる鏡において、顔の形相を眺め見つつ、形相が覚知されないなら、彼は、「形相が覚知されない」と、鏡を捨てず、そこで、まさに、繰り返し、その〔鏡〕を擦り、完全なる清浄の鏡において、彼の〔顔の〕形相が、まさしく、自ずと、明白なるものと成るように──さらに、すなわち、油を義(目的)とする者が、胡麻粉を桶に降り注いで、水を振り掛けて、一回、二回と、圧縮するのみでは油が出ずにいるとして、胡麻粉を捨てず、そこで、まさに、繰り返し、その〔胡麻粉〕を、熱水を振り掛けて、圧しては圧縮し、彼が、このように為していると、澄浄なる胡麻油が出るように──また、あるいは、すなわち、〔鉢の内の〕水を澄浄にすることを欲する者が、カタカ〔樹〕の核を掴んで、鉢の内に手を下ろして、一〔回〕、二回と、擦り付けるのみでは水が澄浄にならずにいるとして、カタカ〔樹〕の核を捨てず、そこで、まさに、繰り返し、その〔核〕を擦り付け、彼が、このように為していると、泥や土が沈下し、透明で澄浄の水と成るように──まさしく、このように、その比丘によって、荷を捨て置くことを為さずして、形態だけが、繰り返し、触知されるべきであり、意が為されるべきであり、遍く収め取られるべきであり、定め置かれるべきである。
§17 なぜなら、彼の〔その〕形態が、そのとおり、そのとおりに、善く洗い落とされたものと成り、結束なきものと〔成り〕、完全無欠の清浄と〔成るなら〕、そのとおり、そのとおりに、それと正反対のものである諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)が沈下し、泥の上の水のように、心は澄浄なるものと成り、その〔形態〕を対象とする諸々の形態なき法(性質)が、まさしく、自ずと、明白なるものと成るからである。このように、諸他の、甘蔗〔の圧搾〕や盗賊〔の尋問〕や牛〔の調教〕や乳酪〔の精製〕や魚〔の捕獲〕等々の喩えによってもまた、この義(意味)が明示されるべきである。
670.
§18 また、このように、極めて清浄の形態を遍く収め取る者には、彼には、諸々の形態なき法(性質)が、(1)あるいは、接触を所以に、(2)あるいは、感受〔作用〕を所以に、(3)あるいは、識知〔作用〕を所以に、三つの行相によって現起する。どのようにか。
§19 (1)まずは、或る者には、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」という〔言葉〕等の方法によって、〔四つの〕界域を遍く収め取っていると(Ch.11§93)、「〔心の〕最初の集注として、接触がある。それと結び付いた感受〔作用〕は、感受〔作用〕の範疇である。〔それと結び付いた〕表象〔作用〕は、表象〔作用〕の範疇である。接触と共に、思欲は、諸々の形成〔作用〕の範疇である。心は、識知〔作用〕の範疇である」【592】と、〔形態なき法が〕現起する。そのように、髪において、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」……略……。出息と入息において、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」という〔言葉等の方法によって、四つの界域を遍く収め取っていると〕(Ch.11§31)、「〔心の〕最初の集注として、接触がある。それと結び付いた感受〔作用〕は、感受〔作用〕の範疇である。……略……。心は、識知〔作用〕の範疇である」と、〔形態なき法が〕現起する。このように、諸々の形態なき法(性質)が、接触を所以に現起する。
§20 (2)或る者には、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」という〔言葉等の方法によって、四つの界域を遍く収め取っていると〕、「その〔地の界域〕を対象とする味を経験する感受〔作用〕は、感受〔作用〕の範疇である。それと結び付いた表象〔作用〕は、表象〔作用〕の範疇である。それと結び付いた、そして、接触は、さらに、思欲は、諸々の形成〔作用〕の範疇である。それと結び付いた心は、識知〔作用〕の範疇である」と、〔形態なき法が〕現起する。そのように、髪において、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」……略……。出息と入息において、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」という〔言葉等の方法によって、四つの界域を遍く収め取っていると〕、「その〔地の界域〕を対象とする味を経験する感受〔作用〕は、感受〔作用〕の範疇である。……略……。それと結び付いた心は、識知〔作用〕の範疇である」と、〔形態なき法が〕現起する。このように、感受〔作用〕を所以に、諸々の形態なき法(性質)が現起する。
§21 (3)他の者には、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」という〔言葉等の方法によって、四つの界域を遍く収め取っていると〕、「対象を識別する識知〔作用〕は、識知〔作用〕の範疇である。それと結び付いた感受〔作用〕は、感受〔作用〕の範疇である。〔それと結び付いた〕表象〔作用〕は、表象〔作用〕の範疇である。〔それと結び付いた〕、そして、接触は、さらに、思欲は、諸々の形成〔作用〕の範疇である」と、〔形態なき法が〕現起する。そのように、髪において、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」……略……。出息と入息において、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」という〔言葉等の方法によって、四つの界域を遍く収め取っていると〕、「対象を識別する識知〔作用〕は、識知〔作用〕の範疇である。それと結び付いた感受〔作用〕は、感受〔作用〕の範疇である。〔それと結び付いた〕表象〔作用〕は、表象〔作用〕の範疇である。〔それと結び付いた〕、そして、接触は、さらに、思欲は、諸々の形成〔作用〕の範疇である」と、〔形態なき法が〕現起する。このように、識知〔作用〕を所以に、諸々の形態なき法(性質)が現起する。
§22 まさしく、この手段によって、行為から現起する髪において、「地の界域は、粗剛なることを特相とし」という〔言葉〕等の方法によって、〔諸々の髪等々の〕四十二の(※)界域の部位(三十二の行相と他の十の行相:§6)において、それぞれの四つの界域を所以に〔解釈が為されるべきであり〕、さらに、残りの眼の界域等々の諸々の形態を遍く収め取る門においても、一切の方法の細別に従い行って、〔それぞれに〕解釈が為されるべきである。
※ テキストには nayena vā kesādayo bacattālīsāya とあるが、VRI版により nayena dvācattālīsāya と読む。
671.
§23 そして、すなわち、このように、まさしく、極めて清浄の形態を遍く収め取る者には、彼には、諸々の形態なき法(性質)が、三つの行相によって明白なるものと成ることから、それゆえに、まさしく、極めて清浄の形態を遍く収め取る者によって、形態なきものを遍く収め取るための〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)が為されるべきである──他の者によって、ではなく。なぜなら、それで、もし、あるいは、一つの形態の法(性質)が現起したとき、あるいは、二つ〔の形態の法〕が〔現起した〕とき、〔その時点で〕形態を捨棄して、形態なきものを遍く収め取ることを始めるなら、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)から遍く衰退するからである──地の遍満の修行において説かれた流儀の、山の【593】雌牛のように(Ch.4§130)。いっぽう、極めて清浄の形態を遍く収め取ることを所以に、形態なきものを遍く収め取るための〔心の〕制止を為している者には、〔心を定める〕行為の拠点は、増大と成長と広大に至り得る。
§24 彼は、このように、接触等々を所以に現起した、四つの形態なき範疇を、「名前である」と〔定め置き〕、それら〔の四つの形態なき範疇〕の対象として有る、四つの大いなる元素を、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態を、「形態である」と定め置く。かくのごとく、十八の界域(十八界)、十二の〔認識の〕場所(十二処)、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)、という、三つの境地(三界)の諸々の法(性質)を、全てもろともに、剣で箱を切り開いているかのように、さらに、二股のターラ〔樹〕の幹を切り裂いているかのように、そして、「名前である」〔と〕、さらに、「形態である」と、二種に定め置き、ただの名前と形態より以上に、他のものは──あるいは、有情も、あるいは、人も、あるいは、天〔の神〕も、あるいは、梵〔天〕も──存在しない、という結論に至る。
672.
§25 彼が、このように、あるがままの自ずからの効用(機能・性行)〔の観点〕から、名前と形態を定め置いて〔そののち〕、より巧妙に、〔まさに〕この、「有情」「人」という、世の呼称を捨棄することを義(目的)として、有情という迷妄〔のあり方〕の(※)超越を義(目的)として、迷妄なき境地にたいし、心を据え置くことを義(目的)として、数多くの経典を所以に、「これは、まさしく、名前と形態のみにして、有情は〔存在せ〕ず、人は存在しない」と、この義(意味)を適応させて(※※)定め置く。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、また、部品の集合あることから、『車』という語(※※※)が有るように、このように、〔五つの心身を構成する〕範疇が存しているとき、『有情』という〔言葉の〕慣習(世俗:社会通念)が有る」(サンユッタ・ニカーヤ1p.135)と。
※ テキストには sattasamohassa とあるが、VRI版により sattasammohassa と読む。
※※ テキストには saṃsanditvā とあるが、VRI版により saṃsandetvā と読む。
※※※ テキストには satto とあるが、VRI版により saddo と読む。
§26 他にもまた説かれた。「友よ、それは、たとえば、また、かつまた、木片を縁として、かつまた、蔓を縁として、かつまた、草を縁として、かつまた、粘土を縁として、虚空が遍く取り囲まれたなら、まさしく、『家』という名称に至るように、友よ、まさしく、このように、まさに、かつまた、骨を縁として、かつまた、腱を縁として、かつまた、肉を縁として、かつまた、皮を縁として、虚空が遍く取り囲まれたなら、まさしく、『形態』という名称に至ります」(マッジマ・ニカーヤ1p.190)と。
§27 他にもまた説かれた。
〔そこで、詩偈に言う〕「まさに(※)、苦しみだけが発生する。苦しみが止住し、そして、衰失する。苦しみより他に、〔何も〕発生しない。苦しみより他に、〔何も〕止滅しない」(サンユッタ・ニカーヤ1p.135)と。
※ テキストには ti とあるが、VRI版により hi と読む。
673.
§28 このように、幾百の経典によって、まさしく、名前と形態が提示された──有情ではなく、人ではなく。それゆえに、車軸と車輪と枠と轅等々の部品となる諸々の資糧が一つの行相によって確立したとき、「車」という語用(通称)のみが有り、最高の義(勝義:最高の真実)〔の観点〕から、一つ一つの部品が〔あるがままに〕近しく注視されているとき、「車」というものが存在しないように──さらに、すなわち、木片等々の家の諸々の資糧が一つの行相によって虚空を取り囲んで止住したとき、「家」という語用のみが有り、最高の義(意味)〔の観点〕から、「家」というものが存在しないように──さらに、すなわち、指と親指等々が一つの行相によって止住したとき、【594】「拳」という語用のみが有り、胴と弦等々が〔一つの行相によって止住したとき〕、「琵琶」という〔語用のみが有り〕、象と馬等々が〔一つの行相によって止住したとき〕、「軍団」という〔語用のみが有り〕、城壁と家と城門等々が〔一つの行相によって止住したとき〕、「城市」という〔語用のみが有り〕、幹と枝と葉等々が一つの行相によって止住したとき、「木」という語用のみが有り、最高の義(意味)〔の観点〕から、一つ一つの成分が〔あるがままに〕近しく注視されているとき、「木」というものが存在しないように──まさしく、このように、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)が存在しているとき、「有情」「人」という語用のみが有り、最高の義(意味)〔の観点〕から、一つ一つの法(性質)が〔あるがままに〕近しく注視されているときは、あるいは、「〔わたしは〕存在する」と、あるいは、「わたしは〔云々〕」と、かくのごとく収取の基盤と成った「有情」というものは存在せず、いっぽう、最高の義(意味)〔の観点〕から、「まさしく、名前と形態のみが存在する」と、まさに、このように、〔あるがままに〕見ている者の見(ものの見方)が、「事実のとおりの見」ということに成る。
674.
§29 また、彼が、この事実のとおりの見を捨棄して、「有情は存在する」と収め取るなら、彼は、その〔自己〕の、消失〔の状態〕を認めるであろうし、あるいは、消失なき〔状態〕を〔認めるであろう〕。消失なき〔状態〕を認めている者は、常久〔の見解〕に落ち、消失〔の状態〕を認めている者は、断絶〔の見解〕に落ちる。「何ゆえにか」〔と問うなら〕。「乳に付従する乳酪のような、その〔自己〕に付従する他のものの、〔その〕状態なきことから」〔と答える〕。彼が、「常久なる有情が〔存在する〕」と収め取っているなら、〔有るところのものに〕執着する、ということになり、「〔有情は〕断絶する」と収め取っているなら、〔有るところのものから〕逸脱する、ということになる。
§30 それによって、世尊は言う。「比丘たちよ、二つの悪しき見解(常見と断見)に遍く取り囲まれた天〔の神々〕と人間たちがいます。或る者たちは、〔有るところのものに〕執着し、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱します。そして、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、では、どのように、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着するのですか。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、生存(有:実体)を喜びとする者たちであり、生存を喜ぶ者たちであり、生存を等しく歓喜する者たちです。彼らのばあい、生存の止滅のために、法(教え)が説示されているとき、〔彼らの〕心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着します。比丘たちよ、では、どのように、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱するのですか。また、まさに、或る者たちは、まさしく、生存によって、苦悩しつつ、自責しつつ(※)、忌避しつつ、非生存(非有:虚無)に愉悦します。『君よ、すなわち、まさに、この自己は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなきことから、この〔非生存〕は、寂静である、この〔非生存〕は、精妙である、この〔非生存〕は、あるがままのものである』と。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱します。比丘たちよ、では、どのように、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見るのですか。ここに、比丘が、〔世に〕有るところのもの(実:実体的存在として認識される現象世界)を、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ます。〔世に〕有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、〔世に〕有るところのものの厭離と離貪と止滅のために、〔道の〕実践者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見ます」(パティサンビダー・マッガ1p.169,イティヴッカタp.43)と。
※ テキストには hārāyamānā とあるが、VRI版により harāyamānā と読む。
675.
§31 それゆえに、すなわち、木の操り〔人形〕が、空にして生命なく作動なくも、そこで、また、しかしながら、木と縄の結合を所以に、赴きもまたし立ち【595】もまたし、作動を有し労苦を有するかのように見えるように、このように、この名前と形態もまた、空にして生命なく作動なくも、そこで、また、しかしながら、互いに他との結合を所以に、赴きもまたし立ちもまたし、作動を有し労苦を有するかのように見える、と見られるべきである。それによって、過去の方たちは言う。
〔そこで、詩偈に言う〕「真理〔の観点〕から〔見るなら〕、ここ(現世)に、そして、名前が〔存在し〕、さらに、形態が存在する〔だけのこと〕。なぜなら、ここにおいて、有情は〔見出されず〕、さらに、人間も見出されないからである。
〔まさに〕この、操り〔人形〕のように、行作されたものは、空である──苦しみの集まりであり、草や薪に等しきものである」と。
§32 さらに、単に、木の操り〔人形〕の喩えによってにあらず、この〔名前と形態〕は、他のまた葦の束等々の喩えによっても修められるべきである。まさに、すなわち、二つの葦の束が互いに他に依拠して据え置かれたとき、一つが、一つにとっての保全と成り、一つが倒れ落ちつつあるなら、他もまた倒れ落ちるように、まさしく、このように、五つの構成(五蘊)としての生存において、名前と形態は、互いに他に依拠して転起し、一つが一つにとっての保全と成り、死を所以に、一つが倒れ落ちつつあるなら、他もまた倒れ落ちる。それによって、過去の方たちは言う。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、名前と形態の両者は、対なるものとして互いに他に依拠し、一つが破壊しつつあるとき、〔互いに他を〕縁とする両者は、〔共に〕破壊する」と。
676.
§33 さらに、すなわち、音声が、棒で打たれた太鼓に依拠して転起しているとき、他のものとして、太鼓があり、他のものとして、音声があり、混合なきものとして、太鼓と音声があり、音声が空なるものとして、太鼓があり、太鼓が空なるものとして、音声があるように、まさしく、このように、名前が、「〔認識の〕基盤と門と対象」と名づけられた形態に依拠して転起しているとき、他のものとして、形態があり、他のものとして、名前があり、混合なきものとして、名前と形態があり、形態が空なるものとして、名前があり、名前が空なるものとして、形態がある。さらに、また、まさに、太鼓を縁として、音声が〔転起する〕ように、形態を縁として、名前が転起する。それによって、過去の方たちは言う。
〔そこで、詩偈に言う〕「接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つ〕は、眼から生まれることはなく、形態から〔生まれることは〕なく、かつまた、両者の間から〔生まれることも〕ない。
諸々の形成されたもの(有為)は、因を縁として発生する──すなわち、また、〔棒で〕打たれた太鼓から、音声が〔発生する〕ように。
接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つ〕は、耳から生まれることはなく、音声から〔生まれることは〕なく、かつまた、両者の間から〔生まれることも〕ない。
諸々の形成されたものは、因を縁として発生する──すなわち、また、〔棒で〕打たれた太鼓から、音声が〔発生する〕ように。
接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つ〕は、鼻から生まれることはなく、臭気から〔生まれることは〕なく、かつまた、両者の間から〔生まれることも〕ない。
諸々の形成されたものは、因を縁として発生する──すなわち、また、〔棒で〕打たれた太鼓から、音声が〔発生する〕ように。
接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つ〕は、舌から生まれることはなく、味感から〔生まれることは〕なく、かつまた、両者の間から〔生まれることも〕ない。
諸々の形成されたものは、因を縁として発生する──すなわち、また、〔棒で〕打たれた太鼓から、音声が〔発生する〕ように。
【596】接触を第五とする〔識知作用と感受作用と表象作用と思欲と接触の五つ〕は、身から生まれることはなく、接触から〔生まれることは〕なく、かつまた、両者の間から〔生まれることも〕ない。
諸々の形成されたものは、因を縁として発生する──すなわち、また、〔棒で〕打たれた太鼓から、音声が〔発生する〕ように。
諸々の形成されたものは、〔心臓の〕基盤としての形態から発生することはなく、さらに、また、諸々の法(意の対象)の〔認識の〕場所から出て行ったものでもない。
諸々の形成されたものは、因を縁として発生する──すなわち、また、〔棒で〕打たれた太鼓から、音声が〔発生する〕ように」と。
677.
§34 さらに、また、ここにおいて、名前は、動力なきものにして、自らの動力によって転起することが(※)できず、喰わず、飲まず、弁ぜず、振る舞いの道(行住坐臥)を営まない。形態もまた、動力なきものにして、自らの動力によって転起することができない。なぜなら、その〔形態〕には、喰うことを欲することがなく、飲むことを欲することもまたなく、弁ずることを欲することがなく、振る舞いの道を営為することを欲することがないからである。そこで、まさに、名前に依拠して、形態が転起し、形態に依拠して、名前が転起する。名前に、喰うことを欲することが、飲むことを欲することが、弁ずることを欲することが、振る舞いの道を営為することを欲することが、存しているとき、形態が、喰い、飲み、弁じ、振る舞いの道を営為する。
※ テキストには pavattesu とあるが、VRI版により pavattituṃ と読む。
§35 また、この義(意味)を分明することを義(目的)として、この喩えを、〔人々は〕述べ伝える。すなわち、そして、生まれながらの盲者が、さらに、足萎えの者が、〔両者ともに或る〕方角に旅立つことを欲する者たちとして存しているとする。生まれながらの盲者が、足萎えの者に、このように言った。「まさに、お話ししますと、わたしは、〔両の〕足でもって、足で為すべきことを為すことができます。ですが、わたしには、それらでもって〔道の〕平坦なる〔箇所〕と平坦ならざる〔箇所〕を見ることができる、〔両の〕眼は存在しません」と。足萎えの者もまた、生まれながらも盲者に、このように言った。「まさに、お話ししますと、わたしは、眼でもって、眼で為すべきことを為すことができます。ですが、わたしには、それらでもって、あるいは、進むことができ、あるいは、戻ることができる、〔両の〕足は存在しません」と。満足し欣喜した、その生まれながらの盲者は、足萎えの者を肩先に乗せた。足萎えの者は、生まれながらの盲者の肩先に坐って、このように言った。「左を放ち置け、右を収め取れ」「右を放ち置け、左を収め取れ」と。そこにおいて、生まれながらの盲者もまた、動力なく、力弱く、自らの動力によって〔赴かず〕、自らの力によって赴かず、足萎えの者もまた、動力なく、力弱く、自らの動力によって〔赴かず〕、自らの力によって赴かず、しかしながら、彼らには、互いに他に依拠して〔そののちは〕、赴くことが転起しない、〔ということが、もはや〕ないように、まさしく、このように、名前もまた、動力なきものにして、自らの動力によって生起せず、それらそれらの所作において転起せず、形態もまた、動力なきものにして、自らの動力によって生起せず、それらそれらの所作において転起せず、しかしながら、それらには、互いに他に依拠して〔そののちは〕、あるいは、生起が、あるいは、転起が、有ることなくある、〔ということは、もはや〕ない。
§36 それによって、このことが説かれる。
〔そこで、詩偈に言う〕「自らの力によって生まれることなく、自らの力によって止住することもまたなく、諸々の形成されたものは、自己の力が弱く、他の法(性質)の支配に従い転じ行くものとして生まれる。
【597】そして、諸々の現起したものは、他の縁から生まれ、他の対象〔による資益あること〕から〔生まれる〕。これらは、そして、対象と縁によって、さらに、他の諸々の法(性質)によって、発生したものである。
すなわち、また、船に依拠して、人間たちが海を行くように、まさしく、このように、形態に依拠して、名前の身体(名身:精神的事象の体系)が転起する。
すなわち、人間たちに依拠して、船が海を赴くように、まさしく、このように、名前に依拠して、形態の身体(色身:物質的事象の体系)が転起する。
〔船と人間たちの〕両者に依拠して、人間たちが〔海を行き〕、さらに、船が海を赴くように、このように、そして、名前は、さらに、形態は、両者は、互いに他に依拠したものとして〔転起する〕」と。
§37 このように、種々なる方法によって、名前と形態を定め置く者の、有情の表象を征服して〔そののち〕、迷妄なき境地において安立した、名前と形態をあるがままに見ることが、「見解の清浄」と知られるべきである。「名前と形態の〔差異の〕定置」というのもまた、「諸々の形成〔作用〕の〔範囲の〕限定」というのもまた、まさしく、この〔見解の清浄〕の(※)同義語である。
ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「見解の清浄についての釈示」という名の第十八章となる。
※ テキストには ekass’ va とあるが、VRI版により etasseva と読む。