第七章 六つの随念についての釈示

 

123.

 

§1  【197】また、浄美ならざるものの直後に配置された(Ch.3§105)、十の随念について。繰り返し生起することから、気づき()こそが、「随念」。あるいは、まさしく、転起されるべき場において転起されたことから、信によって出家した良家の子息に適切なる気づき、ということでもまた、「随念」。

 (1)覚者(:ブッダ)を対象として生起した随念が、「覚者の随念」。これは、覚者の諸徳を対象とする気づきの同義語である。(2)法(:ダンマ)を対象として生起した随念が、「法(教え)の随念」。これは、見事に告げ知らされたものたること等の法(教え)の諸徳を対象とする気づきの同義語である。(3)僧団(:サンガ)を対象として生起した随念が、「僧団の随念」。これは、善き実践者たること等の僧団の諸徳を対象とする気づきの同義語である。(4)戒を対象として生起した随念が、「戒の随念」。これは、破断ならざること等の戒の諸徳を対象とする気づきの同義語である。(5)施捨を対象として生起した随念が、「施捨の随念」。これは、解き放たれた施捨たること(物惜せずに分け与えること)等の施捨の諸徳を対象とする気づきの同義語である。(6)天神たちを対象として生起した随念が、「天神たちの随念」。これは、天神たちを実証例に据え置いて、自己の信等の諸徳を対象とする気づきの同義語である。(7)死を対象として生起した随念が、「死の随念」。これは、生命の機能(命根)の断絶を対象とする気づきの同義語である。(8)髪等の細別ある形態の身体(色身)に〔気づきが行き及んだ〕在り方、あるいは、身体において〔気づきが行き及んだ〕在り方、ということで、「身体の在り方」。そして、それは、身体の在り方であり、さらに、気づきである、ということで、「身体の在り方の気づき(カーヤガタ・サティ)」と説かれるべきところを、短く為さずして、「身体の在り方についての気づき(カーヤガター・サティ)」と説かれた。これは、髪等の身体の部位の形相を対象とする気づきの同義語である。(9)呼吸を対象として生起した気づきが、呼吸についての気づき。これは、出息と入息の形相を対象とする気づきの同義語である。(10)寂止を対象として生起した随念が、寂止の随念。これは、一切の苦しみの寂止を対象とする気づきの同義語である。

 

124.

 

 1 覚者の随念(21)(※)

 

※ テキストには見出しを欠くが、南伝大蔵経62『清浄道論1』にならい補足する(以下の同様箇所については注記を省略)。

 

§2  【198】ということで、これらの十の随念について。まずは、覚者の随念を修めることを欲し、確固たる浄信を具備した〔心の〕制止者として、適切なる臥坐所にあって、静所に赴き静坐する者によって、「かくのごとくもまた、彼は、世尊は、(一)阿羅漢であり、(二)正等覚者であり、(三)明知と行ないの成就者であり、(四)善き至達者であり、(五)世〔の一切〕を知る者であり、(六)無上なる者であり、(七)調御されるべき人の馭者であり、(八)天〔の神々〕と人間たちの教師であり、(九)覚者であり、(十)世尊である」(ディーガ・ニカーヤ1p.49,ディーガ・ニカーヤ2p.93)と、このように、覚者たる世尊の諸徳が随念されるべきである。

 

§3  そこで、これが、随念する方法となる。「彼は、世尊は、かくのごとくもまた、阿羅漢であり、かくのごとくもまた、正等覚者であり……略……かくのごとくもまた、世尊である」と随念する。かつまた、この〔契機〕によっても、かつまた、この契機によっても、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

125.

 

 [(一)阿羅漢]

 

§4  そこにおいて、(1)〔一切の心の汚れから〕遠く離れている(アーラカ)ことから、(2)〔煩悩の〕賊(アリ)たちを〔打破したことから〕、さらに、(3)諸々の〔輪廻の輪の〕輻(アラ)を打破した(ハタ)ことから、(4)日用品等々〔を施す〕に値する者(アラハ)たることから、(5)悪を為すことにおける内密の状態なき(ラハーバーヴァ)ことから、という、まずは、これらの契機によって(※)、「彼は、世尊は、阿羅漢(アラハント)である」と随念する。

 

※ テキストには karaehi とあるが、VRI版により kāraehi と読む。

 

§5  (1)まさに、彼は、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)から遠く離れ、極めて遠くの遠くに立つ者であり、〔聖者の〕道によって、諸々の〔心の〕汚れを、諸々の〔悪なる行為の〕残香(薫習:潜在傾向)と共に砕破することから、ということで、遠く離れていることから、「阿羅漢」。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼に、その〔心の汚れ〕の保有者たることはなく、彼は、その〔心の汚れ〕から、遠く離れている、ということになる。そして、諸々の〔心の〕汚点の保有者ならざる、〔世の〕主たる方(ブッダ)は、それによって、『阿羅漢』と認証された方となる」と。

 

126.

 

§6  (2)さらに、この者によって、それらの〔心の〕汚れの賊たちは、〔聖者の〕道によって打破された。ということで、〔煩悩の〕賊たちを打破したことからもまた、「阿羅漢」。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、『貪欲』等と名づけられた賊たちは、全てもろともに、〔世の〕主たる方(ブッダ)によって、智慧(慧・般若)の刃によって打破されたことから、それゆえにもまた、『阿羅漢』と認証された方となる」と。

 

127.

 

§7  (3)さらに、すなわち、無明と生存の渇愛(有愛)によって作られる轂があり、功徳〔の行為〕等の諸々の行作の輻があり、老と死の外輪があり、煩悩()の集起によって作られる車軸によって貫かれて、三つの〔迷いの〕生存(三有:三界)の車に仕立てられ、無始なる時間のうちに転起された、〔まさに〕この、輪廻の輪であるが、その〔輪廻の輪〕の、諸々の輻は、この者によって、菩提道場において、精進の〔両の〕足をもって戒の地に立って、信の手をもって行為()の滅尽を為す知恵(知・智)の斧を掴んで、〔それらの〕全てが打破された。ということで、諸々の〔輪廻の輪の〕輻を打破したことからもまた、「阿羅漢」。

 

128.

 

§8  そこで、あるいは、「輪廻の輪」とは、始源が思い考えられない輪廻の転起と説かれる。そして、その〔輪廻の輪〕にとって、無明は、根元たることから、轂であり、老と死は、結末たることから、外輪であり、残りの十の法(性質)は、無明を根元とすることから、かつまた、老と死を結末とすることから、諸々の輻である。

 

§9  そこにおいて、苦しみ等々〔の四つの聖なる真理〕における無知(知恵なき状態)が、無明である。そして、欲望の生存(欲有:粗雑な物質的世界・欲界)における無明は、【199】欲望の生存における諸々の形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)にとっての縁と成る。形態の生存(色有:精妙な物質的世界・色界)における無明は、形態の生存における諸々の形成〔作用〕にとっての縁と成る。形態なき生存(無色有:非物質的世界・無色界)における無明は、形態なき生存における諸々の形成〔作用〕にとっての縁と成る。

 

§10  欲望の生存における諸々の形成〔作用〕は、欲望の生存における結生の識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)にとっての縁と成る。これが、諸他について、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§11  欲望の生存における結生の識知〔作用〕は、欲望の生存における名前と形態(名色:精神的事象と物質的事象)にとっての縁と成る。そのように、形態の生存における〔結生の識知作用は、形態の生存における名前と形態にとっての縁と成る〕。形態なき生存における〔結生の識知作用は、形態なき生存における〕名前(精神的事象)だけにとっての縁と成る。

 

§12  欲望の生存における名前と形態は、欲望の生存における六つの〔認識の〕場所(六処:眼・耳・鼻・舌・身・意)にとっての縁と成る。形態の生存における名前と形態は、形態の生存における三つの〔認識の〕場所(眼・耳・意)にとっての縁と成る。形態なき生存における名前(精神的事象)は、形態なき生存における一つの〔認識の〕場所(意)にとっての縁と成る。

 

§13  欲望の生存における六つの〔認識の〕場所は、欲望の生存における六種類の接触(:感覚の発生)にとっての縁と成る。形態の生存における三つの〔認識の〕場所(眼・耳・意)は、形態の生存における三〔種類〕の接触にとっての縁と成る。形態なき生存における一つの〔認識の〕場所である意は、形態なき生存における一〔種類〕の接触にとっての縁と成る。

 

§14  欲望の生存における六〔種類〕の接触は、欲望の生存における六〔種類〕の感受(:楽苦の知覚)にとっての縁と成る。形態の生存における三〔種類〕の接触は、まさしく、そこにおいて、三〔種類の感受〕にとっての〔縁と成る〕。形態なき生存における一〔種類の接触〕は、まさしく、そこにおいて、一〔種類〕の感受にとっての縁と成る。

 

§15  欲望の生存における六〔種類〕の感受は、欲望の生存における六つの渇愛()の体系にとっての縁と成る。形態の生存における三〔種類の感受〕は、まさしく、そこにおいて、三つ〔の渇愛の体系〕にとっての〔縁と成る〕。形態なき生存における一〔種類〕の感受は、形態なき生存における一つの渇愛の体系にとっての縁と成る。それぞれにおいて、それぞれの渇愛は、それぞれの執取()にとっての〔縁と成る〕。

 

§16  執取等々(欲望への執取・見解への執取・戒や掟への執取・自己の論への執取)は、生存()等々にとっての〔縁と成る〕。どのようにか。ここに、一部の者が、「諸々の欲望〔の対象〕を、〔わたしは〕遍く受益するのだ」と、欲望への執取という縁あることから、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ない、悪しき行ないの円満成就によって悪所に再生する(※)。そこにおいて、彼の、再生(※※)の因と成った行為が、行為の生存(業有)であり、行為によって発現した〔五つの心身を構成する〕範疇()が、再生の生存(生有)であり、〔五つの心身を構成する〕範疇の発現が生であり、〔五つの心身を構成する範疇の〕円熟が、老であり、〔五つの心身を構成する範疇の〕破壊が、死である。

 

※ テキストには uppajjati とあるが、VRI版により upapajjati と読む。以下の uppajjati についても、同様に upapajjati と読む。

※※ テキストには uppatti とあるが、VRI版により upapatti と読む。以下の uppatti についても、同様に upapatti と読む。

 

§17  他の者は、「天上への得達(天上界の幸福)を、〔わたしは〕経験するのだ」と、まさしく、そのように、善き行ないを行ない、善き行ないの円満成就によって天上に再生する。そこにおいて、彼の、再生の因と成った行為が、行為の生存である、ということで、まさしく、それが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§18  また、他の者は、「梵の世の得達(梵天界の幸福)を、〔わたしは〕経験するのだ」と、まさしく、欲望への執取という縁あることから、慈愛〔の心〕()を修め、慈悲〔の心〕()を〔修め〕、歓喜〔の心〕()を〔修め〕、放捨〔の心〕()を修め、修行の円満成就によって梵の世に【200】発現する。そこにおいて、彼の、発現の因と成った行為が、行為の生存である、ということで、まさしく、それが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§19  他の者は、「形態なき生存における得達(無色界禅定の幸福)を、〔わたしは〕経験するのだ」と、まさしく、そのように、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)等の入定を修め、修行の円満成就によって、〔虚空無辺なる認識の場所等の〕それぞれにおいて発現する。そこにおいて、彼の、発現の因と成った行為が、行為の生存であり、行為によって発現した〔心を構成する四つの〕範疇が、再生の生存であり、〔心を構成する四つの〕範疇の発現が生であり、〔心を構成する四つの範疇の〕円熟が、老であり、〔心を構成する四つの範疇の〕破壊が、死である。ということで、まさしく、これが、残りの〔三つの〕執取(見解への執取・戒や掟への執取・自己の論への執取)を根元とするものの解釈についてもまた、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§20  このように、この、「無明は、因であり、諸々の形成〔作用〕は、因によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取(理解・把握)における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、無明は、因であり、諸々の形成〔作用〕は、因によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.50-1)という、この方法によって、全ての句が詳知されるべきである。

 

§21  そこにおいて、無明(無明)と諸々の形成〔作用〕()が、一つの簡略(ひとまとまりのもの)となり、識知〔作用〕()と名前と形態(名色)と六つの〔認識の〕場所(六処)と接触()と感受()が、一つ〔の簡略〕となり、渇愛()と執取()と生存()が、一つ〔の簡略〕となり、生()と老と死(老死)が、一つ〔の簡略〕となる。そして、ここにおいて、最初の簡略(無明・諸々の形成作用)は、過去の時のものであり、中間の二つ〔の簡略〕(識知作用・名前と形態・六つの認識の場所・接触・感受、さらに、渇愛・執取・生存)は、現在のものであり、生と老と死は、未来のものである。そして、ここにおいて、無明と諸々の形成〔作用〕が〔同類の他の法を〕収め取ることで、渇愛と執取と生存が、まさしく、〔無明と諸々の形成作用に〕収め取られたものと成る(最初の簡略である無明と諸々の形成作用には、渇愛と執取と生存が含意されている)、ということで、これらの五つの法(性質)は、過去において、行為()の転起としてあり、識知〔作用〕等々の五つ〔の法〕(識知作用・名前と形態・六つの認識の場所・接触・感受)は、今現在、報い(異熟)の転起としてあり、渇愛と執取と生存が〔同類の他の法を〕収め取ることで、無明と諸々の形成〔作用〕が〔渇愛と執取と生存に〕収め取られたものと成る(ここに言う渇愛と執取と生存には、無明と諸々の形成作用が含意されている)、ということで、これらの五つの法(性質)は、今現在、行為の転起としてあり、生と老と死の題目によって、識知〔作用〕等々〔の五つの法〕が釈示されたことから、これらの五つの法(性質)は、未来に、報いの転起としてあり、それら〔の十二の法〕(十二の縁起支)は、行相〔の観点〕から、二十種類のものと成る。そして、ここにおいて、諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕の間に、一つの連鎖があり、感受と渇愛の間に、一つ〔の連鎖〕があり、生存と生の間に、一つ〔の連鎖〕がある、と〔知られるべきである〕(Ch.17§288)。

 

§22  かくのごとく、世尊は、この、四つの簡略と三つの時と二十の行相と三つの連鎖ある、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を、一切の行相〔の観点〕から知り、見、了知し、理解する。それは、所知の義(意味)によって(※)、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって、「縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.52)と説かれる。この法(性質)の止住の知恵によって、世尊は、それらの〔十二の〕法(性質)を、事実のとおりに知って、それらについて、厭離しつつ、離貪しつつ、解脱しつつ、〔前に〕説かれた流儀の、この輪廻の輪の、諸々の輻を、打破し、倒破し、砕破した。このようにもまた、諸々の〔輪廻の輪の〕輻を打破したことから、「阿羅漢」。

 

 【201】〔そこで、詩偈に言う〕「輪廻の輪の、諸々の輻は、すなわち、〔世の〕主たる方(ブッダ)によって、知恵の剣によって打破されたことから、それによって、この方は、『阿羅漢』と呼ばれる」〔と〕。

 

※ テキストには ñāaṭṭhena とあるが、VRI版により ñātaṭṭhena と読む。

 

129.

 

§23  (4)さらに、至高の施与されるべき者たることから、衣料等の諸々の日用品〔を施す〕に値し、かつまた、殊勝なる供養〔を受ける〕に〔値する〕。そして、まさしく、それによって、如来が〔世に〕生起したとき、大いなる権能ある天〔の神々〕と人間たちは、それらの者たちが誰であれ、彼らは、〔もはや〕他所において供養を為さない。まさに、そのように、サハンパティ梵〔天〕は、シネール〔山〕(須弥山)ほどの宝環をもって、如来を供養した。そして、他の天〔の神々〕たちは、さらに、〔マガダ国の王である〕ビンビサーラやコーサラ〔国〕の王等々の人間たちも、〔持てる〕力のままに、〔如来を供養した〕。さらに、たとえ、完全なる涅槃に到達したとして、世尊に関して、アソーカ大王は、九億六千万の財を投じて、ジャンブ・ディーパ(インド本島)全体において、八万四千の精舎を建てさせた。また、諸他の殊勝なる供養に、何の論があるというのだろう(言うまでもないことである)。ということで、日用品等々〔を施す〕に値する者たることからもまた、「阿羅漢」。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、この、世の主たる方(ブッダ)は、諸々の日用品と共に殊勝なる供養〔を受ける〕に値することから、それゆえに、勝者(ブッダ)は、世において、義(意味)に適切なる、『阿羅漢』という、この名前に値する」〔と〕。

 

130.

 

§24  (5)さらに、すなわち、世において、〔自らを〕賢者と思量する愚者たちは、それらの者たちが誰であれ、名声がなくなる恐怖によって、内密に悪を為すように、このように為すことが、いついかなる時も、この者はない。ということで、悪を為すことにおける内密の状態なきことからもまた、「阿羅漢」。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、如なる方(ブッダ)には、諸々の悪なる行為における内密というものが存在しないことから、内密の状態がないことによって、それによって、この方は、『阿羅漢』という、〔世に〕聞こえた者となる」〔と〕。

 

§25  このように、一切点においてもまた──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔一切の心の汚れから〕遠く離れていることから、さらに、諸々の〔心の〕汚れの賊たちを打破したことから、彼は、牟尼である。輪廻の輪の諸々の輻を打破した方であり、さらに、日用品等々〔を施す〕に値する方であり、諸々の悪を内密に為さない。それによって、『阿羅漢』〔と〕説かれる」と。

 

131.

 

 [(二)正等覚者]

 

§26  また、正しく、かつまた、自ら、一切の法(事象)を覚ったことから、「正等覚者」。まさに、そのように、この者は、一切の法(事象)を、正しく、かつまた、自ら、覚った者であり(※)、諸々の証知されるべき法(性質)を証知されるべき〔観点〕から覚った者であり、諸々の遍知されるべき法(性質)を遍知されるべき〔観点〕から〔覚った者であり〕、諸々の捨棄されるべき法(性質)を捨棄されるべき〔観点〕から〔覚った者であり〕、諸々の実証されるべき法(性質)を実証されるべき〔観点〕から〔覚った者であり〕、諸々の修行されるべき法(性質)を修行されるべき〔観点〕から〔覚った者である〕。そして、まさしく、それによって、〔世尊は〕言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「証知されるべきものは証知され、さらに、修行されるべきものは修行され、わたしによって、捨棄されるべきものは捨棄されました。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しています」(スッタニパータ558)と。

 

※ テキストには sammāsambuddho とあるが、VRI版により sammā sāmañca buddho と読む。

 

132.

 

§27  【202】さらに、また、「眼は、苦しみという真理(苦諦)である。それにとっての根元の契機たる状態によって、それを現起させる、以前のものとしてある渇愛は、〔苦しみの〕集起という真理(集諦)である。両者の転起なきは、〔苦しみの〕止滅という真理(滅諦)である。〔苦しみの〕止滅を覚知する〔実践の〕道は、〔苦しみの止滅への〕道という真理(道諦)である」と、このように、一つ一つの句を摘要することでもまた、一切の法(事象)を、正しく、かつまた、自ら、覚った者である。これが、〔残りの〕耳と鼻と舌と身と意について、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§28  まさしく、この方法によって、形態()等々の六つの〔外なる認識の〕場所()、眼の識知〔作用〕()等々の六つの識知〔作用〕の体系、眼の接触()等々の六つの接触、眼の接触から生じるもの等々の六つの感受()、形態の表象()等々の六つの表象、形態の思欲()等々の六つの思欲、形態の渇愛()等々の六つの渇愛の体系、形態の思考()等々の六つの思考、形態の想念()等々の六つの想念、形態の範疇()等々の五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)、十の遍満、十の随念、膨張したものの表象等を所以にする十の〔浄美ならざる〕表象、諸々の髪等々の三十二の行相、十二の〔認識の〕場所(十二処)、十八の界域(十八界)、欲望の生存等々の九つの生存(欲望の生存、形態の生存、形態なき生存、表象の生存、表象なき生存、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存、色蘊のみを有する一つの構成としての生存、色蘊以外の四蘊を有する四つの構成としての生存、五蘊すべてを有する五つの構成としての生存)、第一〔の瞑想〕等々の四つの瞑想(四色界禅定)、慈愛の修行等々の四つの無量(慈悲喜捨の四無量心)、四つの形態なきものへの入定(四無色界禅定)が〔解釈されるべきであり〕、さらに、逆〔の観点〕からの老と死等々〔の支分〕が、順〔の観点〕からの無明等々〔の支分〕が、〔それらの〕縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の支分が解釈されるべきである。

 

§29  そこで、これが、一つの句の解釈となる。「老と死は、苦しみという真理である。生は、〔苦しみの〕集起という真理である。両者ともどもの出離は、〔苦しみの〕止滅という真理である。〔苦しみの〕止滅を覚知する〔実践の〕道は、〔苦しみの止滅への〕道という真理である」と、このように、一つ一つの句を摘要することで、一切の法(事象)を、正しく、かつまた、自ら、覚った者であり、順に覚った者であり、逆に覚った者である。それによって説かれた。「また、正しく、かつまた、自ら、一切の法(事象)を覚ったことから、『正等覚者』」(§26)と。

 

133.

 

 [(三)明知と行ないの成就者]

 

§30  また、諸々の明知を、かつまた、行ないを、〔両者ともに〕成就したことから、「明知と行ないの成就者」。そこにおいて、「明知」とは、三つのものとしてある明知でもまたあり、八つのものとしてある明知でもまたある。三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)は、まさしく、『バヤベーラヴァ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ1p.16)に説かれた方法によって、知られるべきである。八つ〔の明知〕は、『アンバッタ・スッタ』(ディーガ・ニカーヤ1p.87)に〔説かれた方法によって、知られるべきである〕。なぜなら、そこでは、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の知恵と、さらに、意によって作られる神通と、〔両者と〕共に、六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)を遍く収め取って、〔合わせて〕八つの明知が説かれたからである。

 

§31  「行ない」とは、戒による統御(律儀)、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていること、食において量を知ること、〔眠らずに〕起きていることへの専念、〔信と恥の思いと良心の咎めと多聞と精進と気づきと智慧の〕七つの正なる法(性質)、四つの形態の行境(色界)における瞑想〔の境地〕、という、これらの十五の法(性質)と知られるべきである。なぜなら、まさしく、これらの十五の法(性質)は、すなわち、聖なる弟子が、これらによって行ない、不死なる方角(涅槃)に赴くことから、それゆえに、「行ない」と説かれたからである。すなわち、〔尊者アーナンダが〕言ったように、「マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、戒ある者として〔世に〕有り、[戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、戒を成就した者として〔世に〕有ります]」(マッジマ・ニカーヤ1p.355)と、〔その〕全てが、まさしく、〔『マッジマ・ニカーヤ(中部経典)』の〕中間の【203】五十〔経における『セーカ・スッタ』〕に説かれた方法によって、知られるべきである。世尊は、これらの明知を、かつまた、この行ないを、〔両者ともに〕具備した者である。それによって、「明知と行ないの成就者」と説かれる。

 

§32  そこにおいて、明知の成就は、世尊の、一切知者たることを円満させて打ち立てられ、行ないの成就は、大いなる慈悲の者たることを〔円満させて打ち立てられた〕。彼は、一切知者たることによって、一切の有情たちの義(利益)と義(利益)ならざるものを知って、大いなる慈悲の者たることによって、〔一切の有情たちの〕義(利益)ならざるものを遍く避けて、諸々の義(利益)へと駆り立てる。すなわち、そのように、〔世尊は〕明知と行ないの成就者である。それによって、彼の弟子たちは、善き実践者たちと成る──明知と行ないの衰滅者たちの弟子たちが、自己苦行者たちと〔成る〕ように、悪しき実践者たち、ではなく。

 

134.

 

 [(四)善き至達者]

 

§33  荘厳に至ることから、美妙なる境位に至ったことから、正しく至ったことから、さらに、正しく語ることから、「善き至達者(善逝)」。なぜなら、至るものもまた、「至ったもの」と説かれ、そして、世尊の、その荘厳は、完全なる清浄にして罪過なきものであるからである。「また、何が、その〔至るもの〕であるのか」と〔問うなら〕、「聖者の道である」〔と答える〕。なぜなら、その至るものによって、この者は、平安の方角(涅槃)に着することなく至ったからである。ということで、荘厳に至ることから、「善き至達者」。

 さらに、この者は、美妙なる境位に、不死なる涅槃に、至った者である。ということで、美妙なる境位に至ったことからもまた、「善き至達者」。

 

§34  さらに、正しく至った者は、その〔道〕その道によって捨棄された諸々の〔心の〕汚れに、ふたたび戻り行くことがない。まさに、このことが、〔諸々のアッタカターにおいて〕説かれた。「預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、〔彼は〕それらの〔心の〕汚れに、ふたたび、至らず、戻らず、戻り行かない。ということで、『善き至達者』。……略……。阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、〔彼は〕それらの〔心の〕汚れに、ふたたび、至らず、戻らず、戻り行かない。ということで、『善き至達者』」と。

 あるいは、正しく至った者は、〔過去の生存において、過去の覚者である〕ディーパンカラ(燃燈仏)の足元〔において、未来の覚者たる授記を受けた時〕から以降、すなわち、菩提道場〔において、覚者と成る〕まで、それまでのあいだ、正味三十の完全態(波羅蜜)を円満させる正しい実践によって、一切の世〔の人々〕のための利益と安楽だけを作り為しながら、かつまた、常久〔の見解〕(常住論)、断絶〔の見解〕(断滅論)、欲望の安楽(快楽主義)、自己の疲弊(苦行主義)、という、これらの極〔論〕に近しく赴くことがなく、至った者としてある。ということで、正しく至ったことからもまた、「善き至達者」。

 

§35  さらに、この者は、正しく語り、相応しい状況において、まさしく、相応しい言葉を語る。ということで、正しく語ることからもまた(※)、「善き至達者」。そこで、これが、〔その〕確証の経となる。「如来が、その言葉を、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、如来は、その言葉を語ることがありません。たとえ、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知るも〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、如来は、その言葉をもまた語ることがありません。【204】しかしながら、まさに、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、そこで、如来は、その言葉を説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。如来が、その言葉を、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、如来は、その言葉を語ることがありません。たとえ、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知るも〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、如来は、その言葉をもまた語ることがありません。しかしながら、まさに、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、そこにおいて、如来は、その言葉を説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります」(マッジマ・ニカーヤ1p.395)と。このように、正しく語ることからもまた、「善き至達者」と知られるべきである。

 

※ テキストには sammāpadattā pi とあるが、VRI版により sammāgadattā pi と読む。

 

135.

 

 [(五)世〔の一切〕を知る者]

 

§36  また、一切点においてもまた、世が知られたことから、「世〔の一切〕を知る者」。なぜなら、彼は、世尊は、自ずからの状態(自性:固有の性能)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、止滅〔の観点〕から、止滅の手段(方便)〔の観点〕から、という、一切点において、世を知り、了知し、理解したからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない(※)、〔まさに〕その、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません。……略……。友よ、また、まさに、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません。友よ、そして、また、わたしは、まさしく、この、〔一〕ヴヤーマ(:長さの単位・一ヴヤーマは約二メートル)ばかりの、表象を有し意を有する死体(意識ある肉体)において、そして、世を、かつまた、世の集起を、かつまた、世の止滅を、さらに、世の止滅に至る〔実践の〕道を、〔人々に〕報知します。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『赴くこと(空間の移動)によって至り得るべきにあらず──世の終極は、いついかなる時も。そして、世の終極に至り得ずして、苦しみからの解き放ちは存在しない。

 それゆえに、まさに、世〔の一切〕を知る、思慮深き者は──世の終極に至る、梵行の完成者は──〔心が〕静まった者は、世の終極を知って、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない』」(サンユッタ・ニカーヤ1p.61-2)と。

 

※ テキストには na uppajjati とあるが、VRI版により na upapajjati と読む。

 

136.

 

§37  さらに、また、(1)形成〔作用〕の世、(2)有情の世、(3)空間の世、という、三つの世がある。そこにおいて、「一つの世がある。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである」(アングッタラ・ニカーヤ5p.50,パティサンビダー・マッガ1p.122)と言及された箇所におけるものが、【205】(1)形成〔作用〕の世と知られるべきである。「あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と」(マッジマ・ニカーヤ1p.427)と言及された箇所におけるものが、(2)有情の世と〔知られるべきである〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、月と日が、〔天空を〕行き渡り、方々に遍照しながら光り輝くかぎり、そのかぎりが、千種の世となる。ここにおいて、あなたの支配は転起する」(マッジマ・ニカーヤ1p.328)と──

 

 〔このように〕言及された箇所におけるものが、(3)空間の世と〔知られるべきである〕。その〔世〕を、〔三つ〕もろともに、世尊は、一切点において知った。

 

§38  (1)まさに、そのように、この者には、「一つの世がある。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである。二つの世がある。そして、名前()であり、さらに、形態()である。三つの世がある。三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)である。四つの世がある。四つの食(四食:口にする食・知覚としての食・意志としての食・認識としての食)である。五つの世がある。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)である。六つの世がある。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。七つの世がある。七つの識知〔作用〕の止住(七識住:ディーガ・ニカーヤ3p.253)である。八つの世がある。八つの世の法(八世間法:ディーガ・ニカーヤ3p.260)である。九つの世がある。九つの有情の居住所(九有情居:ディーガ・ニカーヤ3p.263)である。十の世がある。十の〔認識の〕場所(十処)である。十二の世がある。十二の〔認識の〕場所(十二処)である。十八の世がある。十八の界域(十八界)である」(パティサンビダー・マッガ1p.122)と、この形成〔作用〕の世もまた、一切点において知られた。

 

§39  (2)また、すなわち、この者は、全てもろともの有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、有能なる者たちとして、無能なる者たちとして、有情たちを覚知することから、それゆえに、この者には、有情の世もまた、一切点において知られた。

 

137.

 

§40  (3)さらに、すなわち、有情の世のように、このように、空間の世もまた、〔一切点において知られた〕。まさに、そのように、この者は、一つのチャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)を〔知る〕。そして、広さ〔の観点〕から、さらに、幅〔の観点〕から、百二十万ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)と、そして、三千四百〔ヨージャナ〕と、さらに、五十ヨージャナと〔知る〕。また、周囲〔の観点〕から──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「円周の全てを、三百六十万〔ヨージャナ〕と、まさしく、そして、一万〔ヨージャナ〕と、さらに、三百五十〔ヨージャナ〕と〔知る〕」〔と〕──

 

§41  そこにおいて──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二十万〔ヨージャナ〕と、さらに、四万〔ヨージャナ〕と、厚さにして、これだけものと、この大地は数えられた」〔と〕──

 

 まさしく、その〔大地〕の保持するものとして──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四十万〔ヨージャナ〕と、まさしく、そして、八万〔ヨージャナ〕と、厚さにして、これだけものと、風のうちに止住する水は〔数えられた〕」〔と〕──

 

 さらに、その〔水〕の保持するものとして──

 

 【206】〔そこで、詩偈に言う〕「天空に上昇する風は(※)、九十万〔ヨージャナ〕と、まさしく、そして、六万〔ヨージャナ〕となる。これが、世の確立である」〔と〕──

 

※ テキストには matthato na samuggato とあるが、VRI版により māluto nabhamuggato と読む。

 

§42  そして、このように確立された〔世〕において、ここにおいて、ヨージャナにして──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大海に潜入すること、八万四千〔ヨージャナ〕にして、まさしく、それだけ〔の高さ〕で〔天空に〕屹立する、最上の山たるシネール(須弥山)があり──

 〔その山を取り囲んで〕順々に、それより半分ずつの量をもって、〔大海に〕潜入し、〔天空に〕屹立する、天の種々なる彩りの宝ある〔七つの山〕がある──

 ユガンダラ〔山〕、イサダラ〔山〕、カラヴィーカ〔山〕、スダッサナ〔山〕、ネーミンダラ〔山〕、ヴィナタカ〔山〕、アッサカンナ〔山〕、〔という、これらの七つの〕高大なる山が。

 これらの七つの大いなる巌は(※)、シネールの遍きにわたり、〔四者の〕大いなる〔天〕王(四天王)の居住所にして、天〔の神々〕や夜叉たちの慣れ親しむところである。

 ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山嶺は、五百ヨージャナの高さがあり、三千ヨージャナの広さと幅があり、八万四千の峰をもって装飾されている。

 『ナガ』と名づけられた〔ジャンブ樹〕は、幹は十五ヨージャナの周囲があり、幹の枝は遍きにわたり五十ヨージャナの広さがある。

 〔その〕ジャンブ〔樹〕は、百ヨージャナの幅があり、さらに、まさしく、それだけの高さがあり、その〔ジャンブ樹〕の威にちなんで、ジャンブ・ディーパ(閻浮洲・閻浮提:インド本島)と明示された」〔と〕──

 

※ テキストには setā とあるが、VRI版により selā と読む。

 

§43  そして、すなわち、この、ジャンブ〔樹〕の量は、この〔量〕こそは、阿修羅たちのチトラパータリー〔樹〕の〔量であり〕、迦楼羅(金翅鳥)たちのシンバリ樹の〔量であり〕、西のゴーヤーナ〔ディーパ〕におけるカダンバ〔樹〕の〔量であり〕、北のクル〔ディーパ〕におけるカッパ樹の〔量であり〕、東のヴィデーハ〔ディーパ〕におけるシリーサ〔樹〕の〔量であり〕、三十三〔天〕におけるパーリッチャッタカ〔樹〕の〔量である〕、と〔知られるべきである〕。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「パータリー〔樹〕、シンバリ〔樹〕、ジャンブ〔樹〕、天〔の神々〕たちのパーリッチャッタカ〔樹〕、カダンバ〔樹〕、さらに、カッパ樹があり、シリーサ〔樹〕をもって第七と成る」〔と〕──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大海に潜入すること、八万二千〔ヨージャナ〕にして、まさしく、それだけ〔の高さ〕で、〔天空に〕屹立する、チャッカ・ヴァーラの連山があり、この〔チャッカ・ヴァーラの連山〕は、世の界域を、その全てを、遍く囲んで止住している」〔と〕。

 

§44  【207】そこにおいて、月輪は、四十九ヨージャナ〔の幅〕がある。日輪は、五十ヨージャナ〔の幅〕がある。三十三〔天〕の生存域は、一万ヨージャナ〔の幅〕があり、そのように、阿修羅の生存域があり、アヴィーチ(阿鼻)の大地獄があり、さらに、ジャンブ・ディーパがある。西のゴーヤーナ〔ディーパ〕は、七千ヨージャナ〔の幅〕があり、そのように、東のヴィデーハ〔ディーパ〕がある。北のクル〔ディーパ〕は、八千ヨージャナ〔の幅〕がある。そして、ここにおいて、一つ一つの大いなるディーパは、五百五百の小なるディーパによって〔それそれが〕取り巻かれている。その全てもろともが、一つのチャッカ・ヴァーラとなり、一つの世の界域となる。諸々の〔世と世の〕その間には、世の間に〔位置する〕諸々の地獄がある。このように、諸々の終極なきチャッカ・ヴァーラを、諸々の終極なき世の界域を、世尊は、終極なき覚者の知恵によって知り、了知し、理解した。このように、この者には、空間の世もまた、一切点において知られた。

 

§45  このようにもまた、一切点において、世を知ったことから、「世〔の一切〕を知る者」。

 

138.

 

 [(六)無上なる者]

 

§46  また、〔有する〕諸徳〔の観点〕によって、誰〔の徳〕であろうが、自己よりもより最勝なる〔徳〕の状態がないことから、この者には、より上なる者が存在しない、ということで、「無上なる者」。まさに、そのように、この者は、戒の徳によってもまた、一切の世を征服し、禅定と智慧と解脱と解脱の知見の徳によってもまた、〔一切の世を征服する〕。戒の徳によってもまた……略……解脱の知見の徳によってもまた、同等の者なき者であり、〔過去と未来の〕同等の者なき者たちと同等なる者であり、比類の者なき者であり、相似の者なき者であり、対する人なき者である。すなわち、〔世尊が〕言うように、「また、まさに、わたしは、等しく随観しない──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、自己よりもより戒を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を」(サンユッタ・ニカーヤ1p.139)という〔言葉〕が、〔その〕詳細となる。このように、『アッガッパサーダ・スッタ』(アングッタラ・ニカーヤ2p.34)等々が、さらに、「わたしに、師匠は存在しない。[わたしに、同等の者は見出されない。天を含む世において、わたしに、対する人は存在しない]」(マッジマ・ニカーヤ1p.171,ヴィナヤ1p.8)という〔言葉〕等の諸々の詩偈が、詳知されるべきである。

 

139.

 

 [(七)調御されるべき人の馭者]

 

§47  調御されるべき人たちを行かせる(サーレーティ)、ということで、「調御されるべき人の馭者(サーラティ)」。調御する、教導する、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。そこにおいて、「調御されるべき人たち」とは、畜生の雄たちであろうが、人間の男たちであろうが、人間ならざるもの(精霊・悪霊)の男たちであろうが、〔いまだ〕調御されていない者たちで、調御するに相応しい者たちのこと。まさに、そのように、世尊によって、畜生の雄たちもまた、アパラーラ龍王、チューローダラ〔龍王〕、マホーダラ〔龍王〕、アッギシカ〔龍王〕、ドゥーマシカ〔龍王〕、アーラヴァーラ龍王、ダナパーラカ象、という、このような〔畜生〕等々が調御され、毒なきものに為され、そして、諸々の帰依において、さらに、諸々の戒において、確立させられた。人間の男たちもまた、サッチャカ・ニガンタプッタ、アンバッタ学徒、【208】ポッカラサーティ、ソーナダンダ、クータダンタ等々が、人間ならざるものの男たちもまた、アーラヴァカ〔夜叉〕、スーチローマ〔夜叉〕、カラローマ夜叉、帝釈天王等々が、種々様々な教導の手段によって調御され、教導された。そして、「ケーシよ、わたしは、まさに、調御されるべき人たちを、優しい〔手段〕によってもまた教導し、粗暴な〔手段〕によってもまた教導し、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕によってもまた教導します」(アングッタラ・ニカーヤ2p.112:一部異なる箇所あり)という、この経〔の言葉〕が、ここにおいて、詳知されるべきである。

 

§48  さらに、また、世尊は、清浄の戒ある者たち等々には、第一の瞑想等々を〔告げ知らせながら〕、かつまた、預流たる者たちには、より上なる〔聖者の〕道への〔実践の〕道を告げ知らせながら、調御された者たちをもまた、まさしく、調御する。

 そこで、あるいは、「無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり」という、この句の義(意味)は、まさしく、一つとなる。なぜなら、世尊は、あたかも、まさしく、一なる結跏によって坐った者たちが、着することなく八つの方角に走り行くように、そのように、調御されるべき人たちを行かせるからである。それゆえに、「無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり」と説かれる。そして、「比丘たちよ、調御されるべき象が、象の調御者によって行かせられたなら、一つの方角だけに走り行きます」(マッジマ・ニカーヤ3p.222)という、この経〔の言葉〕が、ここにおいて、詳知されるべきである。

 

140.

 

 [(八)天〔の神々〕と人間たちの教師]

 

§49  所見の法(現法:現世)のもの〔としての義〕と未来のもの〔としての義〕と最高の義(勝義:最高の真実)によって、〔状況に応じて〕分のままに教示する(アヌサーサティ)、ということで、「教師(サッタル)」。さらに、また、隊商(サッタ)のように、ということで、「教師(サッタル)」。「世尊は、先導者(サッタヴァーハ:隊商の長)である。たとえば、隊商の長が、隊商たちを〔導いて〕、難所(砂漠)を超え渡し、盗賊の難所を超え渡し、猛獣の難所を超え渡し、飢餓の難所を超え渡し、無水の難所を、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地(安全地帯)へと得達させるように、まさしく、このように、世尊は、先導者(隊商の長)であり、有情たちを〔導いて〕、難所を超え渡し、生の難所を超え渡し、[老の難所を超え渡し、病の難所を……略……死の難所を……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の難所を超え渡し、貪欲の難所を超え渡し、憤怒の難所を……迷妄の難所を……思量の難所を……見解の難所を……〔心の〕汚れの難所を……悪しき行ないの難所を超え渡し、貪欲の茂みを超え渡し、憤怒の茂みを……迷妄の茂みを……思量の茂みを……見解の茂みを……〔心の〕汚れの茂みを……悪しき行ないの茂みを、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地へと、不死なる涅槃へと、得達させる]」(マハー・ニッデーサp.446)という〔言葉〕等の釈示の方法によってもまた、ここにおいて、義(意味)が知られるべきである。

 

§50  「天〔の神々〕と人間たちの」とは、そして、天〔の神々〕たちにとって、さらに、人間たちにとって。高尚なる者という限定を所以に、さらに、有能なる人という限定を所以に、この〔句〕が説かれた。また、世尊は、畜生に堕ちた者たちにもまた、教示を与えることで、まさしく、教師である。なぜなら、彼らもまた、世尊の法(教え)の聴聞によって、依所への得達に至り得て、まさしく、その依所への得達によって、あるいは、第二〔の生〕の、あるいは、第三〔の生〕の、自己状態(個我的あり方)において、道の果を分有する者と成るからである。

 

§51  そして、マンドゥーカ天子等々が、ここにおいて、〔その〕証拠となる。伝えるとことでは、世尊が、ガッガラーの蓮池の岸辺において、チャンパー城市の住者たちに法(教え)を説示しているとき、一者の蛙が、世尊の声において形相を【209】収め取った。杖に頼って立っている、一者の牛飼いが、その〔蛙〕の頭を、〔杖で〕押さえ付けて立った。その〔蛙〕は、まさしく、ただちに、命を終えて、三十三〔天〕の生存域において、十二ヨージャナの黄金宮殿において発現した。眠りから目覚めた者のように、そこにおいて、仙女の群れに取り囲まれた自己を見て、「ああ、わたしでさえもが、まさに、ここに発現したのだ。いったい、まさに、どのような行為()を為したのだ」と〔心を〕傾注させつつ、世尊の声において形相を収め取ることより他に、何であれ、他のものを見なかった。彼(マンドゥーカ天子)は、まさしく、ただちに、宮殿と共に帰還して、世尊の〔両の〕足を敬拝した。世尊は、まさしく、知りつつ、〔マンドゥーカ天子に〕尋ねた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「誰が、わたしの〔両の〕足を敬拝するのですか。神通と福徳によって燃え盛り、崇高なる色艶によって、一切の方角を照らしながら」と。

 〔マンドゥーカ天子が答えた〕「かつて、わたしは、蛙として〔世に〕存していました──水を餌場とする者として、水のなかに。あなたの法(教え)を聞いていると、牛飼いが、〔わたしを〕打ち殺しました」と(ヴィマーナヴァットゥp.77)。

 

 世尊は、彼に、法(教え)を説示した。八万四千の命ある者たちに、法(教え)の知悉(現観)が有った。〔マンドゥーカ〕天子もまた、預流果において確立して、笑みを為して立ち去った、ということである。

 

141.

 

 [(九)覚者]

 

§52  また、それが何であれ、まさに、知られるべきものが存在するなら、まさしく、〔その〕全てを、解脱の終極の知恵を所以に覚ったことから、「覚者」。あるいは、すなわち、四つの真理(四諦)を、自己みずからもまた覚り、他の有情たちをもまた覚らせたことから、それゆえに、このような〔あり方〕等々の契機によってもまた、「覚者」。また、そして、この義(意味)を識知させることを義(目的)に、「諸々の真理を覚った者、ということで、『覚者』。人々を覚らせる者、ということで、『覚者』」(マハー・ニッデーサp.457,パティサンビダー・マッガ1p.174)と、このように転起された、『ニッデーサ(義釈)』の〔説示の〕方法が、あるいは、『パティサンビダー(無礙解道)』の〔説示の〕方法が、全てもろともに詳知されるべきである。

 

142.

 

 [(十)世尊]

 

§53  また、「世尊」とは、これは、最勝の徳ある者にして一切の有情たちの最上の者である導師への尊重〔の思い〕から〔説かれた言葉であり〕、彼の同義語である。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『世尊』とは、最勝の言葉である。『世尊』とは、最上の言葉である。彼は、導師への尊重〔の思い〕に相応しい者であり、それによって、世尊と説かれる」と。

 

§54  あるいは、位相的なもの、徴表的なもの、示相的なもの、偶発生起的なもの、という、四種類の名前がある。「偶発生起的なもの」というのは、世〔俗〕の語用(通称)として、求めるままに〔名づけられたもの〕、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。そこにおいて、子牛、【210】調御牛(若牛)、荷牛(軛牛)、という、このような〔言葉〕等が、位相的なものであり、杖ある者、傘ある者、冠あるもの(孔雀)、手あるもの(象)(※)、という、このような〔言葉〕等が、徴表的なものであり、三つの明知(三明)ある者、六つの神知(六神通)ある者、という、このような〔言葉〕等が、示相的なものであり、シリヴァッダカ(吉祥を増大させる者)、ダナヴァッタカ(財産を増大させる者)、という、このような〔言葉〕等が、言葉の義(意味)を期さずして転起された偶発生起的なものである。

 

※ テキストには parī とあるが、VRI版により karī と読む。

 

§55  また、この、「世尊」という名前は、示相的なものである。マハー・マーヤー(摩耶:ブッダの母親)によって〔作られたもの〕ではなく、スッドーダナ(浄飯:ブッダの父親)大王によって〔作られたもの〕ではなく、八万の親族によって作られたものではなく、帝釈〔天〕や兜率〔天〕等々の殊勝なる天神たちによって〔作られたもの〕ではない(※)。そして、このこともまた、法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)によって説かれた。「『世尊』という、この名前は、母によって作られたものではなく、[父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。]これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、世尊である」(マハー・ニッデーサp.143, p.458,パティサンビダー・マッガ1p.174)と。

 

※ テキストには na asītiyā ñātisahassehi kata, na sakkasantusitādīhi de na asītiyā ñātisahassehi na sakkasantusitādīhi devatāvisesehi とあるが、VRI版により na asītiyā ñātisahassehi kata, na sakkasantusitādīhi devatāvisesehi と読む。

143.

 

§56  さらに、すなわち、徳における示相的なものが、この名前であり(未来に獲得される資質に起因して名づけられた)、それらの諸徳を明示することを義(目的)に、〔過去の方たちは〕この詩偈を説く。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「福運ある者であり(バギー)、親近ある者であり(バジー)、分有する者であり(バーギー)、区分する者である(ヴィバッタヴァー)、ということで──〔煩悩の〕破壊(バッガ)を為した、ということで──導師である(ガル)、ということで──福運あふれる者であり(バーグヤヴァー)──

 多くの正理によって、善く修められた自己の(スバーヴィタッタノー)、生存の終極に至る者であり(バヴァンタゴー)、彼は、『世尊(バガヴァー)』と説かれる」と。

 

 そして、まさしく、『ニッデーサ(義釈)』において説かれた方法によって(マハー・ニッデーサp.142)、ここにおいて、それら〔の句〕それら句の義(意味)が見られるべきである。

 

144.

 

§57  また、これが、他の方法となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)福運あふれる者であり(バーグヤヴァー)、(2)〔煩悩の〕破壊ある者であり(バッガヴァー)、さらに、(3)諸々の福運(バガ)に(※)相応しい者であり、(4)区分する者であり(ヴィバッタヴァー)、(5)親近あふれる者であり(バッタヴァー)、(6)諸々の生存(バヴァ)において赴くこと(ガマナ)を吐き捨てた者(ヴァンタ)であり、それゆえに、世尊である(バガヴァー)」と。

 

※ テキストには bhavehi とあるが、VRI版により bhagehi と読む。

 

§58  (1)そこにおいて、字(音節)の増加、字(音節)の減少、という〔現象〕等の、語の特相を収め取って、あるいは、音声の方法(法則)によって、「ピソーダラ」〔と「ピサウダラ」の例〕等の、挿入の特相を収め取って、すなわち、この者には、世〔俗〕の〔安楽〕と世〔俗〕を超える安楽を発現したものとして、布施と戒等の彼岸に至り得た福運が存在することから、それゆえに、「福運あふれる者(バーグヤヴァー)」と説かれるべきところで、「世尊(バガヴァー)」と説かれる、と知られるべきである。

 

§59  (2)また、すなわち、貪欲()と憤怒()と迷妄()と転倒した意を為すこと(顛倒作意)と恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)と〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)と忿激と怨恨と偽装と加虐と嫉妬と物惜と幻惑と狡猾と強情と激昂と思量と高慢と驕慢と放逸と渇愛と無明と三種類の善ならざる根元と悪しき行ないと〔心の〕汚染と垢と平等ならざる表象と【211】思考と虚構と四種類の転倒と煩悩と拘束と激流と束縛と非道と渇愛と執取と五つの心の鬱積と結縛と〔修行の〕妨害と愉悦〔の思い〕と六つの論争の根元と渇愛の体系と七つの悪習と八つの誤った〔道〕たることと九つの渇愛の根元と十の善ならざる行為の道と六十二の悪しき見解と百八の細別ある渇愛の行ないと一切の懊悩と苦悶と〔心の〕汚れの百千を〔破壊したことから〕、あるいは、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、〔心の〕汚れと範疇と行作と天子と死魔の五つの悪魔を破壊したことから、それゆえに、これらの危難を破壊する者であり、「〔煩悩の〕破壊ある者(バッガヴァー)」と説かれるべきところで、「世尊(バガヴァー)」と説かれる。そして、ここにおいて、〔過去の方は〕言った。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲を破壊し、憤怒を破壊し、迷妄を破壊した、煩悩なき方──彼の、悪しき諸法(性質)は破壊された。それによって、世尊と説かれる」と。

 

§60  (3)さらに、福運あふれることによって、この者には、百の功徳の特相の保持ある者として、形態の身体(色身)の得達が明らかにされたものと成り、〔心の〕汚点の破壊あることによって、法の身体(法身)の得達が〔明らかにされたものと成る〕。そのように、世〔俗〕の者と〔世俗を超える〕明智ある者〔の両者〕に多く認証された状態が〔明らかにされたものと成り〕、在家者と出家者〔の両者〕によって信服されるべきことが〔明らかにされたものと成り〕、かつまた、信服している彼らの身体と心〔の両者〕の苦しみを取り去ることに能力ある状態が〔明らかにされたものと成り〕、財貨の布施と法(教え)の布施〔の両者〕による資益あることが〔明らかにされたものと成り〕、さらに、世〔俗〕の〔安楽〕と世〔俗〕を超える安楽〔の両者〕と結び付けることができることが明らかにされたものと成る。

 

§61  さらに、すなわち、世において、権力と法(正義)と福徳と吉祥と欲望と専念〔努力〕の六つの法(性質)にたいし、福運という音声が転起し(語用され流通する)、かつまた、この者には、自らの心にたいし最高の権力があり、あるいは、微細〔変化〕(身体を小さくする神通)や軽佻〔変化〕(身体を軽くする神通)等の、世〔俗〕の者に等しく認証された一切の行相の円満成就が存在し、そのように、世〔俗〕を超える法(性質)が〔存在し〕、三つの世(三界)に遍充し、事実のとおりの徳(真実なること)に到達した、あまりに極めて完全なる清浄の福徳が〔存在し〕、形態の身体を見ることに懸命な人々の眼に浄信を生むことができ、一切の行相の円満成就ある、全ての手足と肢体の吉祥が〔存在し〕、自己の利益として、あるいは、他者の利益として、この者によって求められ望まれた、それぞれのものは、それぞれのものが、まさしく、そのとおりに完遂されたことから、求められたものの完遂として了解された欲望が〔存在し〕、さらに、一切の世の導師たる状態に至り得る因と成った、「正しい努力」と名づけられた専念〔努力〕が存在することから、それゆえに、これらの福運に相応しい者たることからもまた、この者には、諸々の福運が(バガー)存在する、ということで、この義(意味)によって、「世尊(バガヴァー)」と説かれる。

 

§62  (4)また、すなわち、善なるもの等々の細別によって一切の法(性質)を〔区分し〕、あるいは、〔心身を構成する〕範疇()や〔認識の〕場所()や〔認識の〕界域()や真理()や機能()や縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)【212】等々によって善なるもの等の諸法(性質)を〔区分し〕、あるいは、逼悩と形成されたもの(有為)と熱苦と変化の義(意味)によって苦しみという聖なる真理(聖諦)を〔区分し〕、専業(業を作ること)と因縁と束縛と障害の義(意味)によって集起〔という聖なる真理〕を〔区分し〕、出離と遠離と形成されたものではないもの(無為)と不死の義(意味)によって止滅〔という聖なる真理〕を〔区分し〕、出脱と因と〔あるがままの〕見と優位の義(意味)によって道〔という聖なる真理〕を区分する者であることから──区分して、開顕して、説示して、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る──それゆえに、「区分する者(ヴィバッタヴァー)」と説かれるべきところで、「世尊(バガヴァー)」と説かれる。

 

§63  (5)さらに、すなわち、この者は、天〔の住〕や梵〔の住〕や聖なる住に、身体と心という依り所からの遠離に、空性〔の解脱〕や無願〔の解脱〕や無相の解脱に、さらに、他の、世〔俗〕のものであれ、世〔俗〕を超えるものであれ、人間を超える諸々の法(性質)に、親近し、慣れ親しみ、多く為したことから、それゆえに、「親近あふれる者(バッタヴァー)」と説かれるべきところで、「世尊(バガヴァー)」と説かれる。

 

§64  (6)また、すなわち、三つの生存(三有:三界)において、「渇愛」と名づけられた赴くことが、この者によって吐き捨てられたことから、それゆえに、「諸々の生存において赴くことを吐き捨てた者(バヴェース・ヴァンタガマノー)」と説かれるべきところで、「生存(バヴァ)」という語からバの文字を〔取り〕、「赴くこと(ガマナ)」という語からガの文字を〔取り〕、さらに、「吐き捨てた(ヴァンタ)」という語からヴァの文字を長く為して取って、「世尊(バガヴァー)」と説かれる──あたかも、世において、「メーハナッサ・カッサ・マーラー」と説かれるべきところで、「メーカラー(帯)」と〔説かれる〕ように。

 

145.

 

§65  彼(瞑想修行者)が、このように、「かつまた、この〔契機〕によっても、かつまた、この契機によっても、彼は、世尊は、阿羅漢であり……略……かつまた、この〔契機〕によっても、かつまた、この契機によっても、世尊である」と、覚者の諸徳を随念していると、その時点において、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は〔有ること〕なく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有る──如来を対象として。

 

§66  ということで、彼には──このように、貪欲等の遍く取り囲む状態がないことによって、〔修行の〕妨害が鎮静された者には(※)──〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)に向かい行くことによって、心が真っすぐに赴いた者には──覚者の諸徳に傾倒する〔粗雑なる〕思考()と〔繊細なる〕想念()が転起する。覚者の諸徳を刻々に思考し刻々に想念している者には、喜悦が生起する。喜悦の意ある者には、喜悦を境処の拠点(直接原因)とする静息によって、身体と心の諸々の懊悩が安息する。懊悩の静息ある者には、身体の属性としての〔安楽〕もまた〔生起し〕、心の属性としての安楽もまた生起する。安楽ある者の心は、覚者の諸徳を対象とするものと成って定められる。ということで、順に、一つの瞬間において、〔五つの〕瞑想の支分(禅支)が生起する。いっぽう、覚者の諸徳の深遠なることから、あるいは、種々なる流儀の諸徳を随念することに信念あることから(思い入れが強いために)、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)に至り得ただけの瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、覚者の諸徳を随念することを所以に生起したことから、まさしく、「覚者の随念」という名称に至る(かくのごとく名づけられる)。

 

※ テキストには nikkhambhitanīvaraassa とあるが、VRI版により vikkhambhitanīvaraassa と読む。

 

§67  また、そして、この覚者の随念に専念する比丘は、教師にたいし、尊敬〔の思い〕を有する者と成り、敬虔〔の思い〕を有する者と〔成り〕、信の広大なることに〔到達し〕、気づきの広大なることに〔到達し〕、智慧の広大なることに〔到達し〕、さらに、功徳の広大なることに到達し、喜悦と歓喜多き者と成り、恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と〔成り〕、【213】苦しみを耐え忍ぶことができる者と〔成り〕、教師との共住の表象を獲得し、さらに、覚者の諸徳の随念に占拠された、彼の肉体もまた、塔廟の建物のように、供養に値するものと成り、心は、覚者の境地に傾き、さらに、違犯されるべき事態に結び付くものについては、面前に教師を見ているかのように、彼に、恥〔の思い〕()と〔良心の〕咎め()が現起する。また、より上なるものに理解なくあるとして、〔来世において〕善き境遇(善趣)を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、思慮深き者は、このように大いなる威力ある、覚者の随念によって、常に、〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)を為すべきである」と。

 

 まずは、これが、覚者の随念についての詳細の言説の門となる。

 

146.

 

 2 法(教え)の随念(22)

 

§68  法(教え)の随念を修めることを欲し、静所に赴き静坐する者によってもまた、「法(教え)は、世尊によって(一)見事に告げ知らされたものであり、(二)現に見られるものであり、(三)時を要さないものであり、(四)来て見るものであり、(五)導くものであり、(六)識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである」(ディーガ・ニカーヤ2p.93)と、このように、まさしく、そして、聖典の法(教え)の〔諸徳が随念されるべきであり〕、さらに、〔預流道と預流果と一来道と一来果と不還道と不還果と阿羅漢道と阿羅漢果(四道四果・四向四果)が、そして、涅槃が──これらの〕九種類の世〔俗〕を超える法(性質)の諸徳が随念されるべきである。

 

147.

 

 [(一)見事に告げ知らされたもの]

 

§69  「見事に告げ知らされたもの」とは、まさに、この句については、(1)聖典の法(教え)もまた、〔(2)世俗を超える法とともに、同一の〕包摂に至る(この句は、聖典の法と世俗を超える法の両者について言う)。諸他〔の句〕については、世〔俗〕を超える法(性質)だけのものとなる。

 (1)そこにおいて、まずは、聖典の法(教え)であるが、(1―1)最初と中間と結末の善きことから、さらに、(1―2)義(意味)を有し文(文型)を有し全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行(禁欲清浄行)を明示することから、「見事に告げ知らされたもの」。

 (1―1)まさに、すなわち、たとえ、一つの詩偈であれ、世尊が説示するなら、その〔詩偈〕は、遍きにわたり賢善なるものであることから、法(教え)の、第一の句によって、最初が善きものとなり、第二と第三の句によって、中間において善きものとなり、最後の句(第四句)によって、結末が善きものとなる。一つの連鎖ある経は、因縁(因縁部分)によって、最初が善きものとなり、結び〔の言葉〕によって、結末が善きものとなり、残りによって、中間において善きものとなる。種々なる連鎖ある経は、第一の連鎖によって、最初が善きものとなり、最後〔の連鎖〕によって、結末が善きものとなり、残りによって、中間において善きものとなる。さらに、また、因縁を有し生起を有するものたることから、最初が善きものとなり、教え導かれるべき者たちにとって適切なることから、かつまた、義(意味)の(※)転倒なきことから、かつまた、因と例に適合することから、中間において善きものとなり、さらに、聞く者たちに信の獲得を生む結び〔の言葉〕によって、結末が善きものとなる。

 

※ テキストには atth’assa とあるが、VRI版により atthassa と読む。

 

§70  教えの法(教法)は、〔その〕全体もまた、自己の義(利益)として有る戒によって、最初が善きものとなり、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)と〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)と〔聖者の〕道と〔聖者の〕果(四道四果・四向四果)によって、中間において善きものとなり、涅槃によって、結末が善きものとなる。あるいは、戒と禅定(三昧・定)によって、最初が善きものとなり、〔あるがままの〕観察と〔聖者の〕道によって、【214】中間において善きものとなり、〔聖者の〕果と涅槃によって、結末が善きものとなる。あるいは、覚者(:ブッダ)の善き覚り(菩提)たることによって、最初が善きものとなり、法(:ダンマ)の善き法(教え)たることによって、中間において善きものとなり、僧団(:サンガ)の善き実践たることによって、結末が善きものとなる。あるいは、それを聞いてそのとおりそのままに実践した者によって到達されるべき現正の覚り(現正覚)たることから、最初が善きものとなり、独者の覚り(独覚菩提・縁覚菩提)たることから、中間において善きものとなり、弟子の覚り(声聞菩提)たることから、結末が善きものとなる。

 

§71  さらに、この〔法〕は、〔それが〕聞かれているなら、〔修行の〕妨害()を鎮静することから、〔その〕聴聞によってもまた、まさしく、善きものをもたらす、ということで、最初が善きものとなり、〔それが〕実践されているなら、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察の安楽をもたらすことから、〔その〕実践によってもまた、善きものをもたらす、ということで、中間において善きものとなり、そして、そのとおりに実践された〔法〕は、実践の果が結実したとき、如なる状態(あるがままの認識)をもたらすことから、実践の果によってもまた、善きものをもたらす、ということで、結末が善きものとなる。ということで、このように、最初と中間と結末の善きことから、「見事に告げ知らされたもの」。

 

§72  (1―2)また、すなわち、彼が、世尊が、教えとしての梵行を、さらに、道としての梵行を、法(教え)として説示しながら、種々なる方法によって提示し明示するなら、その〔法〕は、適切なるままに、義(意味)の得達あることから、義(意味)を有するものであり、文(文型)の得達あることから、文(文型)を有するものである。顕示し明示し開顕し区分し明瞭と為し報知することが義(意味)と句に結び付くことから、義(意味)を有するものであり、字と句と文と行相と言語と釈示の得達あることから、文(文型)を有するものである。義(意味)の深遠なることと理解の深遠なることから、義(意味)を有するものであり、法(教え)の深遠なることと説示の深遠なることから、文(文型)を有するものである。義(意味)と応答の融通無礙(無礙解)の境域あることから、義(意味)を有するものであり、法(教え)と言語の融通無礙の境域あることから、文(文型)を有するものである。賢者によって知られるべきことから、〔世俗を超える〕明智ある人にとって浄信あるものとなる(※)、ということで、義(意味)を有するものであり、信を置くべきことから、世〔俗〕の人にとって浄信あるものとなる、ということで、文(文型)を有するものである。深遠なる志向あることから、義(意味)を有するものであり、明瞭なる句あることから、文(文型)を有するものである。付け加えるべきものの状態なきことから、〔その〕全体が円満成就した状態によって、全一にして円満成就したものであり、取り去るべきものの状態なきことから、汚点なき状態によって(※※)、完全なる清浄のものである。さらに、また、実践によって、到達あることが明瞭となることから、義(意味)を有するものであり、学得によって、聖教(阿含)たることが明瞭となることから、文(文型)を有するものである。戒等の五つの法(戒・禅定・智慧・解脱・解脱の知見)の範疇()に適合することから、全一にして円満成就したものであり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)なきことから、〔輪廻の〕超脱を義(目的)として転起あることから、さらに、世の財貨への期待なきことから、完全なる清浄のものである。ということで、このように、義(意味)を有し文(文型)を有し全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行(禁欲清浄行)を明示することから、「見事に告げ知らされたもの」。

 

※ テキストには sarikkhakajanappasādakan とあるが、VRI版により parikkhakajanappasādakan と読む。

※※ テキストには niddesabhāvena とあるが、VRI版により niddosabhāvena と読む。

 

§73  (1―3)あるいは、義(意味)の転倒の状態なきことから、巧妙に告げ知らされたもの、ということで、「見事に告げ知らされたもの」。まさに、すなわち、〔教えを〕他にする異教の者たちの法(教え)の義(意味)は転倒を惹起し、「諸々の障りである」と説かれた諸法(性質)には障りとなる状態なきことから、【215】かつまた、「諸々の出脱(離欲)である」と説かれた諸法(性質)には出脱となる状態なきことから、それによって、それらは、まさしく、諸々の拙劣に告げ知らされた法(教え)と成るように、そのように、世尊の法(教え)の義(意味)が転倒を惹起することはない──「これらの諸法(性質)は、諸々の障りである」「これらの諸法(性質)は、諸々の出脱である」と、このように説かれた諸法(性質)には、如なる状態があり違犯なきことから。ということで、まずは、このように、聖典の法(教え)が、「見事に告げ知らされたもの」。

 

§74  (2)また、世〔俗〕を超える法(性質)は、涅槃〔の境処〕に適切なる実践のために、さらに、〔実践の〕道に適切なる涅槃〔の境処〕のために、告げ知らされたことから、「見事に告げ知らされたもの」。すなわち、〔帝釈天が〕言ったように、「また、まさに、彼によって、世尊によって、弟子たちに、涅槃に至る〔実践の〕道が善く報知され、かつまた、涅槃は、かつまた、〔実践の〕道は、〔それぞれ一つに〕合流します。それは、たとえば、また、まさに、ガンガー〔川〕の水が、ヤムナー〔川〕の水と合流し合体するように、まさしく、このように、彼によって、世尊によって、弟子たちに、涅槃に至る〔実践の〕道が善く報知され、かつまた、涅槃は、かつまた、〔実践の〕道は、〔それぞれ一つに〕合流します」(ディーガ・ニカーヤ2p.223)と。

 

§75  そして、聖者の道は、ここにおいて、二つの極〔論〕(両極)に近しく赴かずして、まさしく、中なる〔実践の〕道(中道)として有るものであり、「中なる〔実践の〕道である」と告げ知らされたことから、「見事に告げ知らされたもの」。諸々の沙門果は、まさしく、諸々の〔心の〕汚れが安息したものであり、「諸々の〔心の〕汚れが安息したものである」と告げ知らされたことから、「見事に告げ知らされたもの」。涅槃は、まさしく、常久や不死や救護や避難等の自ずからの状態(自性)あるものであり、常久等の自ずからの状態を所以に告げ知らされたことから、「見事に告げ知らされたもの」。ということで、このように、世〔俗〕を超える法(性質)もまた、「見事に告げ知らされたもの」。

 

148.

 

 [(二)現に見られるもの]

 

§76  また、「現に見られるもの」とは、ここにおいて、まずは、聖者の道が、自己の相続における貪欲等々の状態なき〔あり方〕を作り為している聖者たる人によって自ら見られるべきもの、ということで、「現に見られるもの」。すなわち、〔世尊が〕言うように、「婆羅門よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります」(アングッタラ・ニカーヤ1p.156-7)と。

 

§77  【216】さらに、また、〔預流道と預流果と一来道と一来果と不還道と不還果と阿羅漢道と阿羅漢果と涅槃の〕世〔俗〕を超える法(性質)は、九種類もろともに、その者その者によって、到達されたものと成るのであり、その者その者によって、他者への信によって赴くべきものを捨棄して、綿密に注視する〔作用〕の知恵によって自ら見られるべきもの、ということで、「現に見られるもの」。

 

§78  そこで、あるいは、賞賛された見解が、「現なる見解(正しいものの見方)」。現なる見解によって、〔諸々の心の汚れに〕勝利する、ということで、「現に見られるもの」。なぜなら、そのように、ここにおいて、聖者の道は、〔それと〕結び付いた〔現なる見解〕によって──聖者の果は、〔その〕契機と成った〔現なる見解〕によって(※)──涅槃は、〔その〕境域と成った現なる見解によって──諸々の〔心の〕汚れに勝利するからである。それゆえに、たとえば、車によって〔敵に〕勝利する、ということで、車の者(車兵)であるように、このように、世〔俗〕を超える法(性質)は、九種類もろともに、現なる見解によって、〔諸々の心の汚れに〕勝利する、ということで、「現に見られるもの」。

 

※ テキストには ariyaphalakāraabhūtāya とあるが、VRI版により ariyaphala kāraabhūtāya と読む。

 

§79  そこで、あるいは、「所見のもの」とは、見ることと説かれる。所見のものこそが、「現なる所見のもの」。現に見ること、という義(意味)である。現なる所見のものに値する、ということで、「現に見られるもの」。なぜなら、世〔俗〕を超える法(性質)は、修行による知悉(現観)を所以に、さらに、実証による知悉を所以に、まさしく、見られているなら、〔生の〕転起(輪廻)の恐怖を退転させる(解消する)からである。それゆえに、たとえば、衣に値する、ということで、衣の者(その衣を着ることができる者)であるように、このように、現なる所見のものに値する、ということで、「現に見られるもの」。

 

149.

 

 [(三)時を要さないもの]

 

§80  〔世俗を超える法である聖者の道が〕自己に果を与えることに関して、その〔法〕には、時がない(即座に果が生起する)、ということで、「時なきもの」。時なきものこそが、「時を要さないもの」。五日や七日等の細別ある時を過ごして、果を与えるのではなく、いっぽう、自己に、まさしく、転起の等しく直後に、果を与えるもの、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

§81  そこで、あるいは、自己に果を与えることについて、その〔法〕には、時の経過が至り得るところとなった、ということで、「時を要するもの」。何が、その〔時を要するもの〕であるのか。世〔俗〕の善なる法(性質)である。いっぽう、この〔世俗を超える法である聖者の道〕は、等しく直後に果あることから、時を要するものではない、ということで、「時を要さないもの」。この〔法〕は、〔世俗を超える法である聖者の〕道だけに関して説かれた。

 

150.

 

 [(四)来て見るもの]

 

§82  「来たれ、見よ、この法(性質)を」と、このように転起された、来て見る手順に(※)値する、ということで、「来て見るもの」。「また、何ゆえに、この〔法〕は、その手順に値するのか」と〔問うなら〕、「〔現前に〕見出されていることから、さらに、完全なる清浄なることから」〔と答える〕。まさに、空拳のうちに、たとえ、「あるいは、金貨が、あるいは、黄金が、存在する」と説いても、「来たれ、見よ、これを」と説くことはできない。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「〔現前に〕見出されていないことから」〔と答える〕。そして、たとえ、見出されているとして、あるいは、糞は、あるいは、尿は、快意なる状態を明示することで心を満悦させることを義(目的)に、「来たれ、見よ、これを」と説くことはできない。いっぽう、そして、また、まさに、あるいは、諸々の草によって、あるいは、諸々の葉によって、まさしく、隠されるべきものとして、〔糞や尿は〕有る。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「完全なる清浄のものならざることから」〔と答える〕。

 いっぽう、この、〔預流道と預流果と一来道と一来果と不還道と不還果と阿羅漢道と阿羅漢果と涅槃の〕世〔俗〕を超える法(性質)は、九種類もろともに、あるいは、自ずからの状態〔の観点〕から、〔現前に〕見出されているものであり、雷雲が離れ去った虚空における満月の円輪のように、さらに、黄の毛布のうえに置かれた天然の宝珠のように、完全なる清浄のものである。【217】それゆえに、〔現前に〕見出されていることから、さらに、完全なる清浄なることから、来て見る手順に値する、ということで、「来て見るもの」。

 

※ テキストには ehipassavidha とあるが、VRI版により ehipassavidhi と読む。

 

151.

 

 [(五)導くもの]

 

§83  導かれるべきもの、ということで、「導くもの」。また、ここにおいて、これが、〔その〕判別となる。導くことが、導き。あるいは、燃えている衣を、あるいは、〔燃えている〕頭を、放捨してさえも、修行を所以に、自己の心のうちに導くに値する、ということで、「導くもの」。これは、形成されたもの(有為)である世〔俗〕を超える法(四道四果)に適合する。いっぽう、形成されたものではないもの(無為:涅槃)は、自己の心によって導くに値する、ということで、「導くもの」。実証を所以に、避難するに値する、という義(意味)である。

 

§84  そこで、あるいは、涅槃へと導く、ということで、聖者の道は、導くべきものである。実証されるべきものとして導かれるべきもの、ということで、果と涅槃の法(性質)は、導くべきものである。導くべきものこそは、「導くもの」。

 

152.

 

 [(六)識者たちによって各自それぞれに知られるべきもの]

 

§85  「識者たちによって各自それぞれに知られるべきもの」とは、鋭気ある知者等々の識者たちによって、〔彼らの〕全てもろともによって、〔その〕自己〔その〕自己において、「わたしによって、道は修められ、果は到達され、止滅は実証された」と、〔各自に〕知られるべきものである。なぜなら、師父が修めた道によって、共住者(弟子)の諸々の〔心の〕汚れが捨棄されることはなく、彼(師父)の果の入定によって、彼(共住者)が平穏に住むことはなく、彼(師父)が実証した涅槃を、〔共住者が〕実証することはないからである(各自が修め入定し実証するしかない)。それゆえに、この〔法〕は、他者の頭にある装飾品のように、〔外において〕見られるべきものではない。いっぽう、自己の心においてこそ、見られるべきものである。識者たちによって〔自ら〕経験されるべきもの、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。また、そして、この〔法〕は、愚者たちの境域ならざるものである。

 

§86  さらに、また、この〔世俗を超える〕法(性質)は、見事に告げ知らされたものである──「何ゆえにか」〔と問うなら〕、現に見られるものであるからであり、現に見られるものであるのは、時を要さないものであるからであり、時を要さないものであるのは、来て見るものであるからである。そして、すなわち、来て見るものは、それは、まさに、導くものと成る、と〔知られるべきである〕。

 

153.

 

§87  彼(瞑想修行者)が、このように、見事に告げ知らされたもの等の細別ある法(教え)の諸徳を随念していると、その時点において、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に……略……なく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有る──法(教え)を対象として。ということで、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§66)、〔修行の〕妨害が鎮静された者には、一つの瞬間において、〔五つの〕瞑想の支分が生起する。いっぽう、法(教え)の諸徳の深遠なることから、あるいは、種々なる流儀の諸徳を随念することに信念あることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得ただけの瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、法(教え)の諸徳を随念することを所以に生起したことから、まさしく、「法(教え)の随念」という名称に至る。

 

§88  【218】また、そして、この法(教え)の随念に専念する比丘は、「このように、導くものである法(教え)の説示者にして、この〔法の徳の〕支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において等しく随観せず、また、今現在も〔等しく随観し〕ない──彼より、世尊より、他には」と、このように、まさしく、法(教え)の諸徳を見ることによって、教師にたいし、尊敬〔の思い〕を有する者と成り、敬虔〔の思い〕を有する者と〔成り〕、法(教え)にたいし、重き心作ある者と〔成り〕、信等の広大なることに到達し、喜悦と歓喜多き者と成り、恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と〔成り〕、苦しみを耐え忍ぶことができる者と〔成り〕、法(教え)との共住の表象を獲得し、さらに、法(教え)の諸徳の随念に占拠された、彼の肉体もまた、塔廟の建物のように、供養に値するものと成り、心は、無上の法(教え)への到達に傾き、さらに、違犯されるべき事態に結び付くものについては、法(教え)の善き法(教え)たることを正しく随念していると、彼に、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが現起する。また、より上なるものに理解なくあるとして、〔来世において〕善き境遇を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、思慮深き者は、このように大いなる威力ある、法(教え)の随念によって、常に、〔気づきを〕怠らないことを為すべきである」と。

 

 これが、法(教え)の随念についての詳細の言説の門となる。

 

154.

 

 3 僧団の随念(23)

 

§89  僧団の随念を修めることを欲し、静所に赴き静坐する者によってもまた、「世尊の弟子の僧団は、(1)善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、(2)真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、(3)正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、(4)適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、(5)〔供物を〕捧げられるべき者であり、(6)〔供物を〕贈られるべき者であり、(7)〔供物を〕施与されるべき者であり、(8)合掌を為されるべき者であり、(9)世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である」(ディーガ・ニカーヤ2p.93-4)と、このように、聖なる僧団の諸徳が随念されるべきである。

 

155.

 

§90  そこにおいて、(1)「善き実践者であり」とは、巧妙に実践する者であり。正しき〔実践の〕道を〔実践する者〕、退転なき〔実践の〕道を〔実践する者〕、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を〔実践する者〕、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を〔実践する者〕、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を実践する者、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。〔彼らは〕世尊の教諭と教示を謹んで聞く、ということで、「弟子(声聞)たち」。弟子たちの僧団が、「弟子の僧団」。戒と見解の平等なることによって(戒と見解を等しく共有することで)、群結の状態を惹起した弟子の集団、という義(意味)である。【219】(2・3・4)また、すなわち、その正しい〔実践の〕道は、真っすぐで、湾曲なく、屈曲なく、歪曲なく、そして、聖なるものであり、「正理」ともまた説かれ、さらに、至当なることから、「適正」という名称にもまた至ったことから、それゆえに、その〔正しい実践の道〕を実践する聖なる僧団は、「真っすぐな実践者であり」「正理の実践者であり」「適正の実践者であり」ともまた説かれた。

 

§91  そして、ここにおいて、すなわち、道に依って立つ者たちは、彼らは、正しい実践の保有者たることから、善き実践者たちであり、すなわち、果に依って立つ者たちは、彼らは、正しい〔実践の〕道によって到達するべきものに到達したことから、過去の〔実践の〕道(かつて修めた実践の道)に関して、善き実践者たちである、と知られるべきである。

 

§92  (1)さらに、また、見事に告げ知らされた法(教え)と律において、教示されたとおりに実践したことからもまた、雑物なしの〔実践の〕道を実践したことからもまた、「善き実践者であり」。(2)中なる〔実践の〕道(中道)によって、二つの極〔論〕(両極)に近しく赴かずして実践したことから、さらに、身体と言葉と意(身口意)による湾曲と屈曲と歪曲の汚点の捨棄のために実践したことから、「真っすぐな実践者であり」。(3)正理は涅槃と説かれ、その〔涅槃〕を義(目的)として実践したことから、「正理の実践者であり」。(4)すなわち、〔道を〕実践した者たちが適正の実践者に値する者たちと成るように、そのように、〔道を〕実践したことから、「適正の実践者であり」。

 

156.

 

§93  「すなわち、この」とは、すなわち、これらのもの。

 「四つの人士の組にして」とは、組を所以に、第一の道(預流道)に依って立つ者、〔第一の〕果(預流果)に依って立つ者、という、この、一つの組がある、ということで、このように、四つの人士の組と成る(第一の道にある者と果にある者が一組となり、それが第四まで四つある)。

 「八者の人士たる人であり」とは、人士たる人を所以に、第一の道に依って立つ者が一者、〔第一の〕果に依って立つ者が一者、という、この方法によって、まさしく、八者の人士たる人と成る。そして、ここにおいて、あるいは、「人士」と〔説かれ〕、あるいは、「人」と〔説かれる〕、これらの句は、一なる義(意味)のものである(同義である)。また、この〔句〕は、教え導かれるべき者を所以に説かれた。

 「〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は」とは、組を所以に、すなわち、これらの四つの人士の組となり、単独の者としては、八者の人士たる人となる、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は。

 

§94  (5)「〔供物を〕捧げられるべき者であり」とは、〔捧げられるべき者〕等々にたいし、〔外から〕持ち込んで捧げられるべきもの、ということで、「捧げもの」。遠くからでさえも持ち込んで、戒ある者たちにたいし施されるべきもの、という義(意味)である。これは、四つの日用品(四資具:飲食物・衣料・臥坐具・医薬品)の同義語である。その〔捧げもの〕が大いなる果を作り為すことから、その捧げものを納受するに相応しい者、ということで、「〔供物を〕捧げられるべき者であり」。

 

§95  そこで、あるいは、遠くからでさえもやってきて、自らの所有物の全てでさえも、ここにおいて捧げられるべきである、ということで、〔他の部派のように、この句を〕「〔供物を〕奉じられるべき者であり」〔と言い換えることもできる〕。あるいは、帝釈〔天〕等々にとってもまた、〔供物を〕奉じるに値する、ということで、「〔供物を〕奉じられるべき者であり」。そして、すなわち、この、〔供物を〕奉じられるべき者は、婆羅門たちにとっては、まさに、祭火(アグニ神)であり、そこにおいて、捧げられたものは、大いなる果となる、というのが、彼らの主張である。【220】それで、もし、捧げられたものが大いなる果となることから、〔供物を〕奉じられるべき者であるなら、僧団こそは、〔供物を〕奉じられるべき者である。なぜなら、僧団に捧げられたものは、大いなる果と成るからである。すなわち、〔世尊が〕言うように──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、その人が、百年のあいだ、林のなかで祭火(アグニ神)を世話するとして、しかしながら、自己を修めた者たちの一者を、寸時でさえも供養するなら、まさしく、その供養は、より勝っている──それが、もし、百年の供犠であるとして、〔それよりも〕」(ダンマパダ107)と。

 

 〔まさに〕その、〔他の〕部派(説一切有部)の間における、「〔供物を〕奉じられるべき者であり」という、この句は、ここ(上座部)での、「〔供物を〕捧げられるべき者であり」という、この句と、義(意味)〔の観点〕からは一つであるが、いっぽう、文(文型)〔の観点〕からは、ここにおいて、まさしく、幾許かほどの相異がある。ということで、「〔供物を〕捧げられるべき者であり」。

 

§96  (6)また、「〔供物を〕贈られるべき者であり」とは、ここにおいて、〔供物を〕贈る〔相手〕と説かれる。方々からやってきた愛しく意に適う親族や朋友たちの義(利益)ために、尊敬〔の思い〕で設えられた来客者への施しも、その〔施し〕もまた、そのような〔愛しく意に適う〕形態の贈り先である、それら〔の親族や朋友たち〕を捨て置いて、まさしく、僧団に施すのが相応しく、かつまた、僧団は、その〔施し〕を納受するに相応しい。なぜなら、〔供物の〕贈り先として、僧団と相同のものは存在しないからである。まさに、そのように、この〔僧団〕は、そして、一者の覚者の〔生存する〕間において見られ、さらに、〔覚者の死後も〕途切れなく〔見られ〕、自己に愛しく意に適うものを作り為す諸々の法(性質)を具備している、ということで、このように、〔来客者に〕贈る〔施し〕は、その〔僧団〕に施すのが相応しく、かつまた、〔僧団は、来客者に〕贈る〔施し〕を納受するに相応しい。ということで、「〔供物を〕贈られるべき者であり」。

 また、すなわち、「〔供物を〕送られるべき者であり」という〔句の〕聖典がある、それらの者たち(説一切有部)のばあい、僧団は、先に為すに値することから、それゆえに、全ての最初に持ち込んで、ここにおいて、〔供物を〕捧げられるべきである、ということで、「〔供物を〕送られるべき者であり」。あるいは、一切の流儀をもって、〔供物を〕奉じるに値する、ということで、「〔供物を〕送られるべき者であり」。〔まさに〕その、この〔句〕は、ここ(上座部)では、まさしく、その義(意味)によって、「〔供物を〕贈られるべき者であり」と説かれる。

 

§97  (7)また、「施与するもの(施物)」とは、他の世に信を置いて施されるべき施しと説かれる。〔まさに〕その、施与するものに値する、あるいは、施与するものによって利益がある──すなわち、大いなる果を作り為すことで、その〔施し〕を清めることから──ということで、「〔供物を〕施与されるべき者であり」。

 (8)両の手を頭に確立させて、一切の世〔の人々〕によって為される、合掌の行為に値する、ということで、「合掌を為されるべき者であり」。

 

§98  (9)「世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である」とは、一切の世〔の人々〕にとって、相同のものなき、功徳が成長する場である。まさに、すなわち、あるいは、王にとって、あるいは、家臣にとって、あるいは、諸々の米の〔成長する場が〕、あるいは、諸々の麦の成長する場が、「王にとって、米の田畑である」「王にとって、麦の田畑である」と説かれるように、このように、僧団は、一切の世〔の人々〕にとって、諸々の功徳が成長する場であり、まさに、僧団に依拠して、世〔の人々〕にとって、種々なる流儀の利益と安楽を等しく転起させるものとなる、諸々の功徳が成長する。それゆえに、僧団は、「世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である」と〔説かれる〕。

 

157.

 

§99  このように、善き実践者等の細別ある僧団の諸徳を随念していると、【221】その時点において、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に……略……なく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有る──僧団を対象として。ということで、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§66)、〔修行の〕妨害が鎮静された者には、一つの瞬間において(※)、〔五つの〕瞑想の支分が生起する。いっぽう、僧団の諸徳の深遠なることから、あるいは、種々なる流儀の諸徳を随念することに信念あることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得ただけの(※※)瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、僧団の諸徳を随念することを所以に生起したことから、まさしく、「僧団の随念」という名称に至る。

 

※ テキストには ekakkhae yeva とあるが、VRI版により ekakkhae と読む。

※※ テキストには upacāramattameva とあるが、VRI版により upacārappattameva と読む。

 

§100  また、そして、この僧団の随念に専念する比丘は、僧団にたいし、尊敬〔の思い〕を有する者と成り、敬虔〔の思い〕を有する者と〔成り〕、信等の広大なることに到達し、喜悦と歓喜多き者と成り、恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と〔成り〕、苦しみを耐え忍ぶことができる者と〔成り〕、僧団との共住の表象を獲得し、さらに、僧団の諸徳の随念に占拠された、彼の肉体は、僧団が集まった斎戒堂のように、供養に値するものと成り、心は、僧団の諸徳への到達に傾き、さらに、違犯されるべき事態に結び付くものについては、面前に僧団を見ているかのように、彼に、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが現起する。また、より上なるものに理解なくあるとして、〔来世において〕善き境遇を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、思慮深き者は、このように大いなる威力ある、僧団の随念によって、常に、〔気づきを〕怠らないことを為すべきである」と。

 

 これが、僧団の随念についての詳細の言説の門となる。

 

158.

 

 4 戒の随念(24)

 

§101  また、戒の随念を修めることを欲し、静所に赴き静坐する者によって、「ああ、まさに、わたしの、『諸戒は、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものである』(マッジマ・ニカーヤ2p.251)」と、このように、破断ならざる等の諸徳を所以に、自己の諸戒が随念されるべきである。

 

§102  そして、それら〔の諸戒〕は、在家者による在家の諸戒があり、出家者による出家の諸戒がある。あるいは、在家の諸戒で有れ、あるいは、出家の諸戒で〔有れ〕、それら〔の諸戒〕の、あるいは、最初において、あるいは、最後において、一つでさえも破壊されたものがないなら、それら〔の諸戒〕は、最極(外端)において切断された衣のような諸々の破断がない、ということで、「破断ならず」。

 【222】それら〔の諸戒〕の、中間において、一つでさえも破壊されたものがないなら、それら〔の諸戒〕は、中間において貫通された衣のような諸々の切断がない、ということで、「切断ならず」。

 それら〔の諸戒〕の、次第次第において、あるいは、二つの、あるいは、三つの、破壊されたものがないなら、それら〔の諸戒〕は、あるいは、背に、あるいは、腹に、長円形等の外貌をしたもので〔体色と〕相違する色〔の斑紋〕が出起したことで、黒や赤等々の何らかの或る体色がありながら〔その体色と相違する色の斑紋をもつ〕雌牛のような諸々の斑紋がない、ということで、「斑紋ならず」。

 それら〔の諸戒〕が、中途中途において、破壊されたものがないなら、それら〔の諸戒〕は、〔体色と〕相違する〔色〕の種々様々な斑点がある雌牛のような諸々の雑色がない、ということで、「雑色ならず」。

 

§103  あるいは、差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕、全てもろともに、七種類の淫事の束縛によって〔損壊されず〕(Ch.1§129)、かつまた、忿激や怨恨等々の悪しき諸法(性質)によって損壊されないことから(§59)、「破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず」。

 

§104  まさしく、それら〔の諸戒〕は、渇愛の奴隷たることから解き放って自由の状態を作り為すことによって、「〔渇愛から〕自由で」。

 覚者(ブッダ)等々の識者たちに賞賛されたことから、「識者たちに賞賛され」。

 諸々の渇愛と見解によって偏執されないことから、あるいは、誰によってであれ、「これは、諸戒における、あなたの汚点である」と、このように〔誤解し〕偏執することができないことから、「偏執されず」。

 〔瞑想の境地に〕近接する禅定(近行定)を〔等しく転起させ〕、あるいは、〔瞑想の境地に〕専注する禅定(安止定)を〔等しく転起させ〕、そこで、また、あるいは、〔聖者の〕道の禅定を〔等しく転起させ〕、さらに、また、〔聖者の〕果の禅定を等しく転起させる、ということで、「禅定を等しく転起させるものである」。

 

159.

 

§105  このように、破断ならざる等の諸徳を所以に自己の諸戒を随念していると、その時点において、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に……略……なく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼の心には、戒を対象として、まさしく、真っすぐに赴いた心が有る。ということで、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§66)、〔修行の〕妨害が鎮静された者には、一つの瞬間において、〔五つの〕瞑想の支分が生起する。いっぽう、戒の諸徳の深遠なることから、あるいは、種々なる流儀の諸徳を随念することに信念あることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得ただけの(※)瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、戒の諸徳を随念することを所以に生起したことから、まさしく、「戒の随念」という名称に至る。

 

※ テキストには upacāramattameva とあるが、VRI版により upacārappattameva と読む。

 

§106  また、そして、この戒の随念に専念する比丘は、学び(戒律)にたいし、尊敬〔の思い〕を有する者と成り、敬虔〔の思い〕を有する者と〔成り〕、〔戒ある者と〕部分を共にする生活者と〔成り〕、友愛において怠りなき者と〔成り〕、自己への批判等の恐怖が絶無となった者と〔成り〕、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者と〔成り〕、信等の広大なることに到達し、喜悦と歓喜多き者と成る。また、より上なるものに理解なくあるとして、〔来世において〕善き境遇を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、思慮深き者は、このように大いなる威力ある、戒の随念によって、常に、〔気づきを〕怠らないことを為すべきである」と。

 

 これが、戒の随念についての詳細の言説の門となる。

 

160.

 

 5 施捨の随念(25)

 

§107  【223】また、施捨の随念を修めることを欲する者によって、〔生来の〕性向によって〔自ずと〕施捨に信念ある者として〔有るべきであり〕、布施と分与が常に転起された者(布施の常習者)として有るべきであり、そこで、また、あるいは、修行を始めつつあるなら、「今や、これから以降は、納受者が存しているときは、もしくは、たとえ、一口ばかりのものであれ、布施を施さずして、〔わたしが〕食べることはないであろう」と、受持(誓い)を為して、その日のうちに、最勝の徳ある納受者たちにたいし、能のままに、力のままに、分与者として〔有るべきであり〕、布施を施して〔そののち〕、そこにおいて、形相を収め取って、静所に赴き静坐する者となり、「まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、物惜の垢に遍く取り囲まれた人々のなかにおいて、物惜の垢が離れ去った心で〔世に〕住む──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として」(アングッタラ・ニカーヤ3p.287:一部異なる箇所あり)と、このように、物惜の垢が離れ去ったこと等の諸徳を所以に、自己の施捨が随念されるべきである。

 

§108  そこにおいて、「まさに、わたしには、諸々の利得がある」とは、「わたしには、まさに、諸々の優れた利得がある。すなわち、これら〔の利得〕が──そして、『また、まさに、〔彼女は〕寿命を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、寿命を分有する者と成り、[色艶を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、色艶を分有する者と成り、安楽を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、安楽を分有する者と成り、活力を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、活力を分有する者と成ります]』(アングッタラ・ニカーヤ3p.42)と〔説かれ〕、かつまた、『〔常に〕施している者は、愛しい者として〔世に〕有る。多くの者たちが、彼に親近する。[そして、名誉に、〔彼は〕至り得る。さらに、福徳が、〔彼に〕増え行く]』(アングッタラ・ニカーヤ3p.40)と〔説かれ〕、さらに、『正しくある者たちの法(正義)に従い行きながら、〔常に〕施している者は、愛しい者として〔世に〕有る。[自制ある梵行者たちである、正しくある者たちは、彼に、常に親近する]』(アングッタラ・ニカーヤ3p.41)と〔説かれ〕、このような〔言葉〕等々の方法によって、施者の諸々の利得が、世尊によって等しく褒め称えられたが──まちがいなく、〔それらの利得を〕分有する者として、わたしには、それら〔の利得〕がある」というのが、志向するところとなる。

 

§109  「まさに、わたしには、善く得られたものがある」とは、「すなわち、わたしによって、この教えが──あるいは、人間たること(人間として生まれること)が──得られたが、まさに、わたしには、その善く得られたものがある。『何ゆえにか』〔と問うなら〕、すなわち、わたしは、物惜の垢に遍く取り囲まれた人々のなかにおいて、物惜の垢が離れ去った心で〔世に〕住む……略……布施と分与を喜ぶ者として」というのが、〔志向するところとなる〕。

 

§110  そこにおいて、「物惜の垢に遍く取り囲まれた」とは、物惜の垢に征服された。

 「人々のなかにおいて」とは、〔人々とは、自らの行為のとおりに〕生まれることを所以に、有情たちと説かれる。それゆえに、自己の諸々の得達が他者と共通の状態あることに耐えられないという特相によって、心の光り輝く状態を汚す諸々の黒き法(性質)のなかの一つである物惜の垢に征服された有情たちのなかにおいて。ということで、ここにおいて、これが、〔その〕義(意味)となる。

 

§111  「物惜の垢が離れ去った」とは、まさしく、そして、他の貪欲や憤怒等の諸々の垢もまた〔離れ去り〕、さらに、物惜の垢が離れ去ったことから、「物惜の垢が離れ去った」。

 「心で〔世に〕住む」とは、〔前に〕説かれたとおりの流儀の心ある者と成って、〔わたしは〕住する、【224】という義(意味)である。いっぽう、諸々の経においては、預流たる者として存しつつ、〔預流たる者の〕依所となる住〔のあり方〕を尋ねている、釈迦〔族〕のマハー・ナーマ(人名)のために、〔預流たる者の〕依所となる住〔のあり方〕を所以に説示されたことから、「[すなわち、わたしは、物惜の垢に遍く取り囲まれた人々のなかにおいて、物惜の垢が離れ去った心で]家に居住する」(アングッタラ・ニカーヤ3p.287,アングッタラ・ニカーヤ5p.331)と説かれた(「〔世に〕住む」ではなく、「家に居住する」と説かれた)。そこ(家)において、〔諸々の煩悩を〕征服して、〔わたしは〕住するのだ、という義(意味)である。

 

§112  「施捨を解き放ち」とは、施捨を解き放った者として。

 「手を洗い清め」とは、完全なる清浄の手ある者として。恭しく自らの手で施すべき法(施物)を施すために、常に、まさしく、手を洗い清めた者として、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 「放棄を喜び」とは、投げ捨てることが、放棄である。完全に捨て去ること、という義(意味)である。その放棄を、常なる専念を所以に喜ぶ者として、ということで、「放棄を喜び」。

 「乞いに応じ」とは、そのもの、そのものを、他者たちが乞うなら、そのもの、そのものを施すことから、乞うことに応じる者として、という義(意味)である。祭祀に応じる者として、というのもまた、〔その〕読み方と〔成る〕。「祭祀をすること」と名づけられた祭祀に相応しい者として、という義(意味)である。

 「布施と分与を喜ぶ者として」とは、そして、布施を、さらに、分与を、〔両者を〕喜ぶ者として。「まさに、わたしは、そして、布施を施し、さらに、自己によって遍く受益されるべきものからもまた、分与を為すのだ──そして、まさしく、ここにおいて、この両者を喜ぶ者として」と、このように、〔彼は〕随念する、という義(意味)である。

 

161.

 

§113  彼が、このように、物惜の垢が離れ去ったこと等の諸徳を所以に自己の施捨を随念していると、その時点において、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に……略……なく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有る──施捨を対象として。ということで、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§66)、〔修行の〕妨害が鎮静された者には、一つの瞬間において、〔五つの〕瞑想の支分が生起する。いっぽう、施捨の諸徳の深遠なることから、あるいは、種々なる流儀の諸徳を随念することに信念あることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得ただけの(※)瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、施捨の諸徳を随念することを所以に生起したことから、まさしく、「施捨の随念」という名称に至る。

 

※ テキストには upacāramattameva とあるが、VRI版により upacārappattameva と読む。

 

§114  また、そして、この施捨の随念に専念する比丘は、より一層しっかりと、施捨に信念ある者と成り、貪欲なき〔あり方〕に志欲ある者と〔成り〕、慈愛〔の心〕に随順するものを為す者と〔成り〕、恐れおののきを離れた者と〔成り〕、喜悦と歓喜多き者と成る。また、より上なるものに理解なくあるとして、〔来世において〕善き境遇を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、思慮深き者は、このように大いなる威力ある、施捨の随念によって、〔気づきを〕怠らないことを為すべきである」と。

 

 これが、施捨の随念についての詳細の言説の門となる。

 

162.

 

 6 天神たちの随念(26)

 

§115  【225】また、天神たちの随念を修めることを欲する者によって、聖者の道を所以に生まれ来た信等々の諸徳を具備した者として有るべきであり、そののち、静所に赴き静坐する者となり、「四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが存在する。耶摩〔天の神々〕たちが〔存在する〕。兜率〔天の神々〕たちが〔存在する〕。化楽〔天の神々〕たちが〔存在する〕。他化自在〔天の神々〕たちが〔存在する〕。梵衆天〔の神々〕たちが存在する。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死滅し、そこ(天界)において再生したのであり(※)、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を……略……。そのような形態の所聞を……略……。そのような形態の施捨を……略……。そのような形態の智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死滅し、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される」(アングッタラ・ニカーヤ3p.287)と、このように、天神たちを諸々の実証例に据え置いて、自己の信等の諸徳が随念されるべきである。

 

※ テキストには uppannā とあるが、VRI版により upapannā と読む。以下の uppannā についても、同様に upapannā と読む。

 

§116  また、経において、「マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、随念するなら、[憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──天神たちを対象として]」(アングッタラ・ニカーヤ3p.287)と説かれたが、たとえ、何が説かれたとして、そこで、まさに、それは、実証例に据え置かれるべきものとして、天神たちと自己に、信等々〔の観点〕によって、同等の諸徳があることを提示することを義(目的)に説かれた、と知られるべきでる。なぜなら、アッタカター(注釈書)において、「天神たちを実証例として据え置いて、自己の諸徳を随念する」と、強調を為して説かれたからである。

 

163.

 

§117  それゆえに、前段部分において天神たちの諸徳を随念して、後段部分において自己の等しく見出されている信等の諸徳を随念していると、そして、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に……略……なく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有る──天神たちを対象として。ということで、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§66)、〔修行の〕妨害が鎮静された者には、一つの瞬間において、〔五つの〕瞑想の支分が生起する。いっぽう、信等の諸徳の深遠なることから、あるいは、種々なる流儀の諸徳を随念することに信念あることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得ただけの瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、天神たちの諸徳と相同の〔自己の〕信等の諸徳を随念することを所以に〔生起したことから〕、まさしく、「天神たちの随念」という名称に至る。

 

§118  【226】また、そして、この天神たちの随念に専念する比丘は、天神たちにとって、愛しき者と成り、意に適う者と〔成り〕、より一層しっかりと、信等の広大なることに到達し、喜悦と歓喜多き者として〔世に〕住む。また、より上なるものに理解なくあるとして、〔来世において〕善き境遇を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、思慮深き者は、このように大いなる威力ある、天神たちの随念によって、〔気づきを〕怠らないことを為すべきである」と。

 

 これが、天神たちの随念についての詳細の言説の門となる。

 

164.

 

 [7 六つの随念についての雑駁なる言説]

 

§119  また、すなわち、これらの詳細の説示において、「その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──如来を対象として」(アングッタラ・ニカーヤ3p.285)等々と説いて、「マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。[喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます]」(アングッタラ・ニカーヤ3p.285)と説かれたものであるが──

 そこにおいて、「かくのごとくもまた、彼は、世尊は」(§2)という〔言葉〕等々の義(意味)に依拠して生起した満足〔の思い〕に関して、「義(意味)の信受を得」と説かれ、聖典に依拠して生起した満足〔の思い〕に関して、「法(教え)の信受を得」〔と説かれ〕、両者を所以に、「法(真理)を伴った歓喜を得ます」と説かれた、と知られるべきである。

 

§120  さらに、すなわち、天神たちの随念において、「天神たちを対象として」(§117)と説かれたものであるが、それは、あるいは、前段部分においては天神たちを対象として転起された心を所以に〔説かれ〕、あるいは、〔後段部分においては〕天神たちの諸徳と相同にして、天神たちの状態を完遂させる(出現させる)〔自己の〕諸徳を対象として転起された心を所以に説かれた、と知られるべきである。

 

165.

 

§121  また、これらの六つの随念は、〔預流たる者以上の〕聖なる弟子たちだけに実現する(凡夫には実現しない)。なぜなら、彼らには、覚者と法(教え)と僧団の諸徳が、明白なるものと成るからであり、かつまた、彼らは、破断ならざる等の諸徳ある諸戒を〔具備した者たちであり〕、物惜の垢が離れ去った施捨を〔具備した者たちであり〕、大いなる威力ある天神たちの諸徳と相同の〔自己の〕信等の諸徳を具備した者たちであるからである。

 

§122  そして、『マハー・ナーマ・スッタ』(アングッタラ・ニカーヤ3p.285)において、預流たる者の依所となる住〔のあり方〕を尋ねられた世尊によって、まさしく、預流たる者の依所となる住〔のあり方〕を見示することを義(目的)に、これら〔の六つの随念〕は、詳細〔の観点〕から言説された。

 

§123  『ゲーダ・スッタ』(アングッタラ・ニカーヤ3p.312)においてもまた、「比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、如来を随念します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……[天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、如来を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に……略……迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、]その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──【227】貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。比丘たちよ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の同義語です。比丘たちよ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは清浄となります」(アングッタラ・ニカーヤ3p.312)と、このように、聖なる弟子のために、随念を所以に心を清めて、より上なる最高の義(勝義:最高の真実)たる清浄への到達を義(目的)として、〔これらの六つの随念は〕言説された。

 

§124  尊者マハー・カッチャーナによって説示された『サンバードーカーサ・スッタ』(アングッタラ・ニカーヤ3p.314)においてもまた、「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、これほどのものとして、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、煩雑なるもの(欲望の対象)のうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が随覚されたのです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、六つの随念の拠点です。どのようなものが、六つのものなのですか。友よ、ここに、聖なる弟子が、如来を随念します。……略……このように、ここに、一部の有情たちは、清浄の法(真理)ある者たちと成ります」(アングッタラ・ニカーヤ3p.314-5)と、このように、まさしく、聖なる弟子のために、最高の義(勝義:最高の真実)である清浄の法(真理)たることのために、〔出離の〕空間への到達を所以に、〔これらの六つの随念は〕言説された。

 

§125  『ウポーサタ・スッタ』(アングッタラ・ニカーヤ1p.206)においてもまた、「ヴィサーカーよ、では、どのように、聖者の斎戒(布薩)は有るのですか。ヴィサーカーよ、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、如来を随念します」(アングッタラ・ニカーヤ1p.206-11)と、このように、斎戒に入っている、まさしく、聖なる弟子のために、心を清め〔心を定める〕行為の拠点たるを所以に、斎戒の大いなる果ある状態を見示することを義(目的)に、〔これらの六つの随念は〕言説された。

 

§126  〔『アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)』の〕十一なる集まり(十一集)においてもまた、「マハー・ナーマよ、信ある者は、達成者と成ります──信なき者ではなく。精進に励む者は……。気づきが現起された者は……。〔心が〕定められた者は……。マハー・ナーマよ、智慧ある者は、達成者と成ります──智慧浅き者ではなく。マハー・ナーマよ、まさに、あなたは、これらの五つの法(性質)において確立して〔そののち〕、より上なる六つの法(性質)を修めるべきです。マハー・ナーマよ、ここに、あなたは、如来を随念するべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……覚者であり、世尊である』〔と〕」(アングッタラ・ニカーヤ5p.333)と、このように、まさしく、聖なる弟子のために、「尊き方よ、種々なる住によって〔世に〕住んでいるのが、〔まさに〕その、わたしたちであるなら、それでは、どのような住によって〔世に〕住むべきですか」(アングッタラ・ニカーヤ5p.333)と尋ねている者に、住〔のあり方〕を見示することを義(目的)に、〔これらの六つの随念は〕言説された。

 

166.

 

§127  たとえ、このように存しているとして(上述のとおりであるとして)、完全なる清浄の戒等の諸徳を具備した凡夫によってもまた、〔これらの六つの随念は〕意が為されるべきである。なぜなら、随念することを所以にもまた、【228】覚者等々の諸徳を随念していると、〔彼の〕心は、まさしく、浄信するからである。その〔心の浄信〕の威力によって、〔五つの修行の〕妨害を鎮静して、秀逸なる歓喜ある者となり、〔あるがままの〕観察に励んで、まさしく、阿羅漢の資質を実証するべきである。カタカンダカーラの住者たるプッサデーヴァ長老のように。

 

§128  伝えるところでは、その尊者は、悪魔によって化作された覚者(ブッダ)の形態を見て、「この者は、貪欲と憤怒と迷妄を有するも、それでも、このように美しく輝く。いったい、まさに、どうして、〔本物の〕世尊が美しく輝かないというのだろう。なぜなら、彼は、全てにわたり、貪欲と憤怒と迷妄を離れた方なのだから」と、覚者を対象とする喜悦を獲得して、〔あるがままの〕観察を増大させて、阿羅漢の資質に至り得た、という。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「六つの随念についての釈示」という名の第七章となる。