第八章 〔他の〕随念たる〔心を定める〕行為の拠点についての釈示

 

167.

 

 1 死についての気づき(27)

 

§1  【229】今や、この直後に〔配置された〕(Ch.3§105)、死についての気づき(死念)の修行についての釈示が、至り得るところとなった。

 そこにおいて、「死」とは、一つの生存に属している生命の機能(命根)の断絶のこと。また、すなわち、この──阿羅漢たちの、「〔生の〕転起(輪廻)の苦しみの断絶」と名づけられた、根絶としての死は──諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)の、「瞬間の滅壊(刹那滅)」と名づけられた、瞬間のものとしての死は──さらに、「木が死んだのだ(枯れた)」「銅が死んだのだ(錆びた)」という〔言葉〕等々における、〔言葉の〕慣習(世俗・仮名:社会通念)としての死は、それは、ここでは、志向するところではない(意味するところではない)。

 

§2  そして、また、すなわち、この、〔ここにおいて〕志向するところ〔の死〕は、それは、時なる死、時ならざる死、という、二種類のものと成る。そこにおいて、時なる死は、あるいは、功徳の滅尽によって、あるいは、寿命の滅尽によって、あるいは、両者の滅尽によって、有る。時ならざる死は、行為()を断絶させる行為を所以に〔有る〕。

 

§3  そこにおいて、すなわち、たとえ、寿命の相続を生じさせる〔食等の〕縁の得達が見出されているとして、単に、結生を生じさせる行為の報い(異熟)が円熟したことから、死が有るなら、これが、「功徳の滅尽による死」ということになる。すなわち、〔天の〕境遇や〔長寿の〕時や〔豊富な〕食等の得達の状態がないことによって、今時の人たちのように、百年ほどの量の寿命の滅尽を所以に、死が有るなら、これが、「寿命の滅尽による死」ということになる。また、すなわち、ドゥーシン悪魔(マッジマ・ニカーヤ1p.337)やカラーブ王(ジャータカ3p.39・本生物語313)等々のように、まさしく、その瞬間に、〔その〕場から死滅させることができる行為によって、〔寿命の〕相続が断絶された者たちに、あるいは、以前の行為(宿業)を所以に、刃の襲撃等々の行動によって、〔寿命の〕相続が断ち切られつつある者たちに、死が有るなら、【230】これが、「時ならざる死」ということになる。その〔時なる死と時ならざる死〕は、全てもろともに、〔前に〕説かれた流儀の生命の機能の断絶によって包摂されたものとなる。ということで、「生命の機能の断絶」と名づけられた死を思念することが、「死についての気づき(死念)」。

 

168.

 

§4  その〔死についての気づき〕を修めることを欲し、静所に赴き静坐する者によって、あるいは、「死が、有るであろう」「生命の機能が、断ち切られるであろう」と、あるいは、「死である」「死である」と、根源のままに意を為すこと(如理作意)が転起させられるべきである。

 

§5  なぜなら、根源のままならずに〔心を〕転起させていると、好ましい人の死を随念するときは、愛しい子の死を随念するときの生みの母のように、憂悲〔の思い〕が生起し、好ましくない人の死を随念するときは、怨みある者の死を随念するときの怨みある者たちのように、歓喜〔の思い〕が生起し、〔どちらでもない〕中間の人の死を随念するときは、死んだ亡骸を見るときの火葬夫のように、畏怖〔の思い〕が生起せず、自己の死を随念するときは、剣を引き抜いた殺戮者を見て恐怖を生む者のように、恐慌〔の思い〕が生起するからである。

 

§6  〔まさに〕その、この〔生起〕は、全てもろともに、気づき()と畏怖〔の思い〕と知恵(知・智)が絶無なることから有る。それゆえに、〔墓場等の〕そこかしこにおいて、殺されたか死んだかした有情たちを眺め見て、過去に得達が見られた有情たちで死んだ者たちの死に〔心を〕傾注させて、そして、気づきに、かつまた、畏怖〔の思い〕に、さらに、知恵に、〔それらに〕専念して、「死が、有るであろう」という〔言葉〕等の方法によって、意を為すことが転起させられるべきである。

 

§7  なぜなら、このように〔心を〕転起させている者は、根源のままに〔心を〕転起させるからである。〔正しい〕手段(方便)によって〔心を〕転起させる、という義(意味)である。なぜなら、まさしく、このように転起させていると、一部の者には、〔五つの修行の〕妨害()が鎮静し、死を対象(所縁)とする気づきが確立し、まさしく、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)に至り得た、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)が有るからである。

 

169.

 

§8  また、彼に、これだけでは、〔心を定める行為の拠点が〕有ることなくあるなら、彼によって、(1)殺戮者の現起〔の観点〕から、(2)得達の衰滅〔の観点〕から、(3)〔他者を自己と〕対照する〔観点〕から、(4)〔他者と自己の〕身体の多くが共通なる〔観点〕から、(5)寿命の力弱き〔観点〕から、(6)〔生命の〕無相なる〔観点〕から、(7)〔生命に〕時間の限界ある〔観点〕から、(8)〔生命の〕瞬間にして微小なる〔観点〕から、という、これらの八つの行相によって、死が随念されるべきである。

 

 [(一)殺戮者の現起〔の観点〕からの死の随念]

 

§9  そこにおいて、「殺戮者の現起〔の観点〕から」とは、殺戮者の〔現起〕のように、現起〔の観点〕から。まさに、すなわち、「この者の頭を、〔わたしは〕断ち切るのだ」と、剣を掴んで首のところで行き来させている殺戮者が、まさしく、〔今この場に〕現起したものとして〔現前に〕有るかのように、このように、「死もまた、まさしく、〔今この場に〕現起したものとしてある」と随念されるべきである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、出生と共に至り来たものとしてあることから、そして、生命を運び去ることから、と〔知られるべきである〕。

 

§10  まさに、すなわち、蛇の傘(茸)の芽が、頭に砂を、まさしく、収め取って盛り上がるように、このように、有情たちは、老と死を、まさしく、収め取って発現する。まさに、そのように、彼らの結生の心は、まさしく、生起の直後に、老に至り得て、山頂から落ちた石のように、【231】〔それと〕結び付いた〔五つの心身を構成する〕範疇()と共に破壊される。まずは、このように、瞬間のもの(刹那滅)としての死が、出生と共に至り来たものとしてある。また、生まれた者には、かならず死あることから、ここに志向するところの死(生命の機能の断絶)もまた、出生と共に至り来たものとしてある。

 

§11  それゆえに、この有情は、生まれた時から以降、すなわち、まさに、上がった太陽が滅却に向かい(西を目指し)、赴くだけとなり、赴いた〔場〕赴いた場から、僅かでさえも戻ることがないように──あるいは、すなわち、山の川の激しい流れが、〔何であれ〕運びに運び、流れるだけとなり、転じるだけとなり、僅かでさえも戻ることがないように──このように、僅かでさえも戻ることがなく、まさしく、死に向かい、行く〔だけとなる〕。それによって、〔このことが〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、或る夜、最初に、小児が、〔母の〕胎に住すると、彼は、立ちのぼる雲のように進む。彼は、〔生の道を〕赴きつつ、〔もはや〕引き返すことはない」(ジャータカ4p.494)と。

 

§12  そして、このように〔生の道を〕赴いている彼にとって──夏の〔炎暑に〕焼かれた諸々の小川にとっての滅尽のように、早朝に水液(樹液)が〔枝の〕結節(成り口)に行き着いた諸々の木の果にとっての落下のように、棍棒で砕かれた諸々の土器にとっての破壊のように、さらに、太陽の光に触れた諸々の露の滴にとっての砕破のように──まさしく、死は、近きものとして有る。それによって、〔世尊は〕言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「昼夜は過ぎ行き、生命は破却され、死すべき者(人間)たちの寿命は滅尽する──諸々の小川の水のように」(サンユッタ・ニカーヤ1p.109)。

 「熟した諸果には、常に、落ちるがゆえの恐れがあるように、このように、死すべき者(人間)として生まれた者たちには、常に、死ゆえの恐れがある」(スッタニパータ576,ジャータカ4p.127)。

 「たとえば、また、陶工の作った土器が、そして、小なるものも、さらに、大なるものも、すなわち、焼かれたものであれ、さらに、すなわち、生のものであれ、〔それらの〕全てが、破壊を結末とするように、このように、死すべき者たちの生命はある」(スッタニパータ577:一部異なる箇所あり)。

 「日の出に向かい、草の先端の露が〔消え行く〕ように、このように、人間たちの寿命は〔消え行く〕。母よ、わたし〔の出家〕を、妨げてはならない」(ジャータカ4p.122)と。

 

§13  また、このように、剣を引き抜いた殺戮者のように、この死は、出生と共に至り来たものであり、剣を首のところで行き来させている、その殺戮者のように、【232】生命を、まさしく、運び去り、運び去って〔もはや〕戻ることはない。それゆえに、出生と共に至り来たものとしてあることから、そして、生命を運び去ることから、剣を引き抜いた殺戮者のように、死もまた、まさしく、〔今この場に〕現起したものとしてある。ということで、このように、殺戮者の現起〔の観点〕から、死が随念されるべきである。

 

170.

 

 [(二)得達の衰滅〔の観点〕からの死の随念]

 

§14  「得達の衰滅〔の観点〕から」とは、ここに、得達は、まさに、衰滅がそれを征服しない、そのかぎりは、まさしく、それまでは美しく輝く。しかしながら、すなわち、衰滅を超え行って止住できる、その得達は、まさに、存在しない。まさに、そのように──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「全地を併呑して、百千万〔の金〕を布施して、安楽ある者となるも、最後には、アーマラカ〔の果〕の半分ほどの権力に堕したのだ。

 まさしく、その、肉身の結縛によって、功徳が滅尽に至ったとき、死に向かう者となり、アソーカ(無憂・阿育:アショーカ王)は、彼もまた、憂いに至ったのだ」(典拠不詳)と。

 

§15  さらに、また、全ての無病(健康)は、病を結末とし、全ての若さは、老を結末とし、全ての生命は、死を結末とする。世の共住者は、まさしく、全てが、生に随行され、老に添着され、病に征服され、死に侵攻されている。それによって、〔世尊は〕言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「あたかも、また、諸々の広大なる巌が、山から、天空を打って、四方を粉砕しながら、遍きにわたり巡り行くように、このように、そして、老は、さらに、死魔は、命あるものたちに転じ行く。

 士族たちを、婆羅門たちを、庶民たちを、隷民たちを、チャンダーラ(賎民)やプックサ(非人)たちを、誰であろうが、遍く避けず、まさしく、一切を打ち砕く。そこにおいては、象〔兵〕たちの地なく、車〔兵〕たちの〔地〕なく、歩〔兵〕の〔地〕なく、さらに、また、智略による戦いによっても、あるいは、財産〔による戦い〕によっても、勝つことはできない」(サンユッタ・ニカーヤ1p.102)と。

 

 このように、生命の得達が死の衰滅を結末とすることを〔心に〕定め置いている者によって、得達の衰滅〔の観点〕から、死が随念されるべきである。

 

171.

 

 [(三)〔他者を自己と〕対照する〔観点〕からの死の随念]

 

§16  「〔他者を自己と〕対照する〔観点〕から」とは、他者たちを相手に、自己と〔比較し〕対照する〔観点〕から。そこにおいて、(1)福徳の大いなること、(2)功徳の大いなること、(3)強靭さの大いなること、(4)神通の大いなること、(5)智慧の大いなること、(6)独覚(縁覚・辟支仏)、(7)正等覚者、という、七つの行相によって、〔他者を自己と〕対照する〔観点〕から、死が随念されるべきである。どのようにか。

 

§17  (1)この死は、まさに、大いなる福徳があり、大いなる取り巻きがあり、財をもたらすものを成就した、【233】マハー・サンマタ〔王〕やマンダートゥ〔王〕やマハー・スダッサナ〔王〕やダラネーミ〔王〕やニミ〔王〕等々の上にもまた、まさしく、疑いなく、落とされた。また、いったい、どうして、わたしの上に落ちないというのだろう。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「マハー・サマンタ等々の、大いなる福徳ある優れた王たち──彼らもまた、死魔の支配に至り得たのだ。わたしのような者たちについて、いったい、何の言説があるというのだろう(言うまでもないことである)」(典拠不詳)と。

 

 まずは、このように、福徳の大いなること〔の観点〕から、随念されるべきである。

 

§18  (2)どのように、功徳の大いなること〔の観点〕から、〔随念されるべきであるのか〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ジョーティカ、ジャティタ、ウッガ、メンダカ、さらに、プンナカ──そして、これら〔の功徳ある者たち〕は、さらに、すなわち、他の、『大いなる功徳ある者たち』と世に聞こえた者たちも、〔彼らの〕全てが、死を惹起したのだ。わたしのような者たちについて、いったい、何の言説があるというのだろう」(典拠不詳)と。

 

 このように、功徳の大いなること〔の観点〕から、随念されるべきである。

 

§19  (3)どのように、強靭さの大いなること〔の観点〕から、〔随念されるべきであるのか〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ヴァースデーヴァ、バラデーヴァ、ビーマセーナ、ユディッティラ、チャーヌラ〔等〕の大力士──〔これらの力ある者たちも〕死神の支配に赴いたのだ。

このように、『強靭と活力を具した者たち』と世に聞こえた、これらの者たちもまた、死に至ったのだ。わたしのような者たちについて、いったい、何の言説があるというのだろう」(典拠不詳)と。

 

 このように、強靭さの大いなること〔の観点〕から、随念されるべきである。

 

§20  (4)どのように、神通の大いなること〔の観点〕から、〔随念されるべきであるのか〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「足の指のみでヴェージャヤンタ〔の高楼〕を動かした、まさに、すなわち、神通者たちのなかの最勝者にして、第二の至高の弟子たる方(マハー・モッガッラーナ長老)──

 彼もまた、鹿が獅子の口に〔入る〕ように、おぞましき死魔の口に、〔有する〕諸々の神通と共に入ったのだ。わたしのような者たちについて、いったい、何の言説があるというのだろう」(典拠不詳)と。

 

 このように、神通の大いなること〔の観点〕から、随念されるべきである。

 

§21  (5)どのように、智慧の大いなること〔の観点〕から、〔随念されるべきであるのか〕。

 

 【234】〔そこで、詩偈に言う〕「世の主たる方(ブッダ)を除いて、さらに、すなわち、他の、命ある者たちが存在し、〔全ての者たちが〕サーリプッタ〔長老〕の智慧の十六分の一に値しない。

 このように、まさに、大いなる智慧ある者にして、第一の至高の弟子たる方(サーリプッタ長老)が、死の支配に至り得たのだ。わたしのような者たちについて、いったい、何の言説があるというのだろう」(典拠不詳)と。

 

 このように、智慧の大いなること〔の観点〕から、随念されるべきである。

 

§22  (6)どのように、独覚〔の観点〕から、〔随念されるべきであるのか〕。すなわち、自己の知恵と精進の力によって、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)の賊の撃破を為して、独者の覚り(独覚菩提・縁覚菩提)に至り得て、犀の角のように〔他に依らず〕自ら成る者たち──彼らもまた、死から解き放たれなかったのだ。また、どうして、わたしが、〔死から〕解き放たれるというのだろう、と〔随念されるべきである〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その〔形相〕その形相に由来して〔常に〕考察している偉大なる聖賢たち──すなわち、知恵の輝きによって煩悩の滅尽に至り得た、〔他に依らず〕自ら成る者たち──

 独歩の居住によって犀の角の喩えある者たち──彼らもまた、死を超え行かなかったのだ。わたしのような者たちについて、いったい、何の言説があるというのだろう」(典拠不詳)と。

 

 このように、独覚〔の観点〕から、随念されるべきである。

 

§23  (7)どのように、正等覚者〔の観点〕から、〔随念されるべきであるのか〕。たとえ、すなわち、彼が、世尊が、八十の装飾された付随する特徴と三十二の偉大なる人の特相という種々様々な形態ある身体の者であり、一切の行相が完全なる清浄の戒の範疇(戒蘊)等の諸徳の宝が等しく実現した法(性質)ある身体の者であり、福徳の大いなることと功徳の大いなることと強靭さの大いなることと神通の大いなることと智慧の大いなることの彼岸に至った者であり、同等の者なき者であり、〔過去と未来の〕同等の者なき者たちと同等なる者であり、対する人なき者であり、阿羅漢であり、正等覚者であるとして、彼もまた、大いなる火の塊が水雨の落下によって〔消え去る〕ように、死雨の落下によって、即座に寂止したのだ。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「このように、偉大なる威力ある方に、偉大なる聖賢たる方に、すなわち、まさに、この、死の支配は、恐れなくして、恥なくして、至り着いたのだ。

 無恥にして、恐れおののきを離れ、一切の有情たちを撃破する、〔まさに〕その、この〔死〕が、どうして、わたしのような有情を征服しないというのだろう」(典拠不詳)と。

 

 このように、正等覚者〔の観点〕から、随念されるべきである。

 

§24  彼(瞑想修行者)が、このように、福徳の大いなること等を成就した他者たちを相手に、死の平等なることについて、自己と〔比較し〕対照して、「殊勝なる有情たちである彼らに〔死が有る〕ように、わたしにもまた、死が有るであろう」と随念していると、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得た〔心を定める〕行為の拠点が有る。ということで、このように、〔他者を自己と〕対照する〔観点〕から、死が随念されるべきである。

 

172.

 

 [(四)〔他者と自己の〕身体の多くが共通なる〔観点〕からの死の随念]

 

§25  【235】「〔他者と自己の〕身体の多くが共通なる〔観点〕から」とは、この身体は、〔他者と〕多くの共通のものがある。まずは、八十〔種類〕の虫の家あることが、共通である。そこにおいて、命あるものたちは、表皮に依拠したものたちは表皮を喰い、皮に依拠したものたちは皮を喰い、肉に依拠したものたちは肉を喰い、腱に依拠したものたちは腱を喰い、骨に依拠したものたちは骨を喰い、髄に依拠したものたちは髄を喰い、まさしく、そこにおいて、〔彼らは〕生まれ、老い、死に、大小便を為す。身体こそは、彼らにとって、まさしく、そして、生家であり、かつまた、病舎であり、かつまた、墓場であり、かつまた、便壷であり、さらに、尿桶である。〔まさに〕その、この〔身体〕は、それらの虫の家の動乱によってもまた、まさしく、死に遭遇する。そして、すなわち、八十〔種類〕の虫の家のように、このように、まさしく、内なる幾百の病の、さらに、外なる蛇や蠍等々の、死の縁あることが、共通である。

 

§26  まさに、すなわち、大きな四つ辻(十字路)に据え置かれた標的に、全ての方角から至り来た矢や刃や槍や岩等々が落下するように、このように、身体にもまた、全ての禍が落下する。〔まさに〕その、この〔身体〕は、それらの禍の落下によってもまた、まさしく、死に遭遇する。それによって、世尊は言う。「比丘たちよ、ここに、比丘が、昼が過ぎ、夜が来たとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしには、多くの死の縁がある。あるいは、蛇がわたしを咬むであろうし、あるいは、蠍がわたしを咬むであろうし、あるいは、百足がわたしを咬むであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。あるいは、〔わたし自身が〕躓いて落ちるであろうし、あるいは、わたしの食べた食事が害を加えるであろうし、あるいは、わたしの〔体内の〕胆汁が動乱するであろうし、あるいは、わたしの〔体内の〕痰が動乱するであろうし、あるいは、わたしの〔体内の〕諸々の刃の風(体調不良を引き起こす体内の風)が動乱するであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』〔と〕」(アングッタラ・ニカーヤ3p.306)と。このように、〔他者と自己の〕身体の多くが共通なる〔観点〕から、死が随念されるべきである。

 

173.

 

 [(五)寿命の力弱き〔観点〕からの死の随念]

 

§27  「寿命の力弱き〔観点〕から」とは、寿命は、まさに、これは、力なきものであり、力弱きものである。まさに、そのように、有情たちの生命は、まさしく、そして、出息と入息を結縛とするものであり、かつまた、〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥のあり方)を結縛とするものであり、かつまた、寒暑を結縛とするものであり、かつまた、〔四つの〕大いなる元素(大種:地・水・火・風)を結縛とするものであり、さらに、食(動力源・エネルギー)を結縛とするものである。

 

§28  〔まさに〕その、この〔生命〕は、出息と入息が平等に転起することを得ている、〔そのとき〕だけ、転起する。いっぽう、外に出た鼻風(気息)が内に入らずにいるときは、あるいは、〔内に〕入った〔鼻風〕が〔外に〕出ずにいるときは、まさに、死んだものとして有る。

 四つの振る舞いの道(四威儀:行住坐臥)もまた、〔それらが〕平等に転起することを得ている、〔そのとき〕だけ、〔生命は〕転起する。【236】いっぽう、〔四つのなかの〕何らかの或るものが旺盛となることで、諸々の寿命の形成〔作用〕()は断ち切られる。

 寒暑もまた、〔それらが〕平等に転起することを得ている、〔そのとき〕だけ、〔生命は〕転起する。いっぽう、過度の寒さによって〔征服され〕、あるいは、過度の暑さによって征服されたなら、〔生命は〕衰滅する。

 〔四つの〕大いなる元素もまた、〔それらが〕平等に転起することを得ている、〔そのとき〕だけ、〔生命は〕転起する。いっぽう、地の界域の〔動乱によって〕、あるいは、水の界域等々のなかの何らかの或るものの動乱によって、たとえ、力に満ちた人でも、あるいは、身体が硬直し(地の界域の動乱)、あるいは、〔体内の水の〕過度の流出等を所以に身体が汚れて腐り(水の界域の動乱)、あるいは、〔体内の〕大いなる燃焼によって打ち負かされ(火の界域の動乱)、あるいは、関節と結節が断絶している者と成って(風の界域の動乱)、生命の滅尽に至り得る(Ch.11§102)。

 物質としての食(段食:生命を支えるための物質的滋養物)もまた、〔それを〕相応しい時に得ている、〔そのとき〕だけ、〔彼の〕生命は転起する。いっぽう、食を得ずにいると、〔生命は〕完全なる滅尽に至る。ということで、このように、寿命の力弱き〔観点〕から、死が随念されるべきである。

 

174.

 

 [(六)〔生命の〕無相なる〔観点〕からの死の随念]

 

§29  「〔生命の〕無相なる〔観点〕から」とは、〔差異の〕定置なき〔観点〕から(※)。限定の状態なき〔観点〕から、という義(意味)である。まさに、有情たちのばあい──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)生命、(2)病、そして、(3)時、(4)〔死んだ〕肉身を捨て置く〔場所〕、(5)〔死後に〕赴く所──これらの五つは、生ある者の世において、無相なるものとしてあり、知られることがない」〔と〕。

 

※ テキストには avavathānato とあるが、VRI版により avavatthānato と読む。

 

§30  (1)そこにおいて、まずは、生命は、「まさしく、これなるあいだ、それまでは生きるべきである」「これより他には、〔生きるべきでは〕ない」という、このような〔差異の〕定置の状態なきことから、無相なるものである。なぜなら、有情たちは、カララ(入胎後一週間)の時でさえも死に、アッブタ(入胎後二週間)やペーシ(入胎後三週間)やガナ(入胎後四週間)や〔一〕月や二月や三月や四月や五月や十月の時においてもまた〔死に〕、子宮から出る時点においてもまた〔死に〕、それより他にも、百年の内であろうが外であろうが、まさしく、死ぬからである。

 

§31  (2)病もまた、「まさしく、この病によって、有情たちは死ぬ」「他〔の病〕によって、〔死ぬことは〕ない」という、このような〔差異の〕定置の状態なきことから、無相なるものである。なぜなら、有情たちは、眼の病によってもまた死に、耳の病等々によってもまた〔死ぬ〕からである。

 

§32  (3)時もまた、「まさしく、この時において、死ぬべきである」「他〔の時〕において、〔死ぬべきでは〕ない」という、このような〔差異の〕定置の状態なきことから、無相なるものである。なぜなら、有情たちは、早刻においてもまた死に、日中等々のなかのどれか一つにおいてもまた〔死ぬ〕からである。

 

§33  (4)〔死んだ〕肉身を捨て置く〔場所〕もまた、「まさしく、ここに、死につつある者たちの肉身は落ちるべきである」「他〔の場所〕において、〔落ちるべきでは〕ない」という、このような〔差異の〕定置の状態なきことから、無相なるものである。なぜなら、村の内において生まれた者たちの自己状態(身体)は、村の外においてもまた落ち(落命する)、村の外において生まれた者たちの〔自己状態〕もまた、村の内において〔落ちる〕からである。そのように、あるいは、陸において生まれた者たちの〔自己状態は〕、水において〔もまた落ち〕、あるいは、水において生まれた者たちの〔自己状態は〕、陸において〔もまた落ちる〕。ということで、無数の流儀〔の観点〕から詳知されるべきである。

 

§34  【237】(5)〔死後に〕赴く所もまた、「ここから死滅した者は、ここに発現するべきである」という、このような〔差異の〕定置の状態なきことから、無相なるものである。なぜなら、天の世から死滅した者たちは、人間たちのなかにおいてもまた発現し、人間の世から死滅した者たちは、天の世等々の、また、どこであれ、そこにおいて発現するからである。ということで、このように、機具に結び付けられた牛のように、五つの〔死後に〕赴く所(五趣:地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)において、世〔の人々〕は等しく遍く転起する。ということで、このように、〔生命の〕無相なる〔観点〕から、死が随念されるべきである。

 

175.

 

 [(七)〔生命に〕時間の限界ある〔観点〕からの死の随念]

 

§35  「〔生命に〕時間の限界ある〔観点〕から」とは、人間たちの生命には、まさに、今現在は、微小なる時間がある〔だけであり〕(※)、彼が、長く生きるとして、彼は、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるだけである〕。それによって、世尊は言う。「比丘たちよ、人間たちの、この寿命は、僅かです。赴くべきは、未来(来世)です。為すべきは、善なる〔行為〕です。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しません。比丘たちよ、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕」(サンユッタ・ニカーヤ1p.108)と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「人間たちの寿命は、僅かなもの。善き人は、それを蔑むもの。頭が燃えている者のように、〔世を〕歩むがよい。死魔の到来なきは、存在しない」(サンユッタ・ニカーヤ1p.108)と。

 

 他にもまた、〔世尊は〕言う。「比丘たちよ、過去の事ですが、アラカという名の教師が〔世に〕有りました」(アングッタラ・ニカーヤ4p.136)と。七つの喩えによって十分に作り為された経が、全てもろともに詳知されるべきである。

 

※ テキストには na paricchedo na tathā addhā とあるが、VRI版により paritto addhā と読む。

 

§36  他にもまた、〔世尊は〕言う。「比丘たちよ、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、夜と昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、すなわち、また、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、すなわち、また、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一つの〔行乞の〕施食を食べる、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、すなわち、また、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕四〔口〕五口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、これらの者たちは、『比丘たちとして、〔気づきを〕怠る者たちとして〔世に〕住み、遅鈍なる死についての気づきを修める──諸々の煩悩の滅尽のために』〔と〕説かれます。

 

§37  【238】比丘たちよ、そして、すなわち、まさに、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、すなわち、また、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、あるいは、〔わたしが〕出息して入息し、あるいは、〔わたしが〕入息して出息する、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、これらの者たちは、『比丘たちとして、〔気づきを〕怠らない者たちとして〔世に〕住み、鋭敏なる死についての気づきを修める──諸々の煩悩の滅尽のために』〔と〕説かれます」(アングッタラ・ニカーヤ3p.305-6)と。

 

§38  このように、四〔口〕五口を噛むほどのあいだも、信頼なきものであり、生命には、微小なる時間がある〔だけである〕。ということで、このように、〔生命に〕時間の限界ある〔観点〕から、死が随念されるべきである。

 

176.

 

 [(八)〔生命の〕瞬間にして微小なる〔観点〕からの死の随念]

 

§39  「〔生命の〕瞬間にして微小なる〔観点〕から」とは、まさに、最高の義(勝義:最高の真実)〔の観点〕から、有情たちの生命の〔存続の〕瞬間は、極めて微小にして、まさしく、一つの心の転起のみのものとなる。たとえば、まさに、転起している車輪もまた、まさしく、一つの外輪部分(外輪と地面の接触部分)によって転起し、止住している〔車輪〕もまた、まさしく、一つ〔の外輪部分〕によって止住するように、まさしく、このように、有情たちの生命は、一つの心の瞬間のものであり、〔転起している〕その心が止滅したかぎりにおいても、「有情は止滅したのだ」と説かれる(有情の生命は、心の属性としてある諸機能のなかの一機能が作用している、その瞬間かぎりのものであり、作用終了の時点で止滅する)。すなわち、〔聖典に〕言うように、「過去における〔一つの〕心の瞬間においては、〔過去において〕生きたが、〔現在において〕生きることはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。未来における〔一つの〕心の瞬間においては、〔未来において〕生きるであろうが、〔現在において〕生きることはなく、〔過去において〕生きたことはない。現在における〔一つの〕心の瞬間においては、〔現在において〕生きるが、〔過去において〕生きたことはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない」(マハー・ニッデーサp.42)と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「生命は、そして、自己状態(個我的あり方・身体のこと)も、さらに、楽と苦も、全部が、一つの心〔の瞬間〕と結び付いたものであり、〔その〕瞬間は、軽やかに転起する。

 この〔世において〕、死につつある者の、あるいは、止住している者の、それらの止滅した〔五つの心身を構成する〕範疇()は、全てもろともに、相同のものであり、〔すでに〕去り行ったものであり、結生なきものである(結生に至り着くことはない)。

 発現した〔心〕が〔すでに〕ないなら、生じたものは〔もはや〕なく、現在〔の瞬間の心の転起〕によって、〔有情は〕生きる。心が滅壊したのち、世〔の人々〕の死がある。〔これが〕最高の義(勝義:最高の真実)〔としての死〕の通称(施設:概念)となる」(マハー・ニッデーサp.42)と。

 

 このように、〔生命の〕瞬間にして微小なる〔観点〕から、死が随念されるべきである。

 

177.

 

§40  かくのごとく、これらの八つの行相のなかの何らかの或るものによって随念しているとまた、繰り返し意を為すことを所以に、心は習修を得る。死を対象とする気づきが確立し、〔五つの修行の〕妨害が鎮静し、〔五つの〕瞑想の支分が出現する。いっぽう、対象が、自ずからの状態(自性:固有の性能)の法(性質)たることから、かつまた、畏怖するべきものたることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)に至り得ただけの瞑想と成る。

 いっぽう、世〔俗〕を超える瞑想は、【239】さらに、第二と第四の形態なき〔行境〕の瞑想(識知無辺なる認識の場所と表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所)も、〔死についての気づきと同じように〕自ずからの状態の法(性質)にたいして〔為す瞑想である〕もまた、修行の殊勝たるによって、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得る。なぜなら、世〔俗〕を超える〔瞑想〕は、清浄の修行の次第たるを所以に〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得るからであり、形態なき〔瞑想〕は、対象の超越の修行たるを所以に〔瞑想の境地に専注する禅定に至り得る〕からである。なぜなら、まさしく、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た〔形態なき〕瞑想には、対象を超越することのみが、そこにおいて有るからである。いっぽう、ここ(死についての気づき)では、その両者(清浄の修行と対象の超越)ともどもに存在しない。それゆえに、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得ただけの瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、気づきの力によって生起したことから、まさしく、「死についての気づき」という名称に至る(かくのごとく名づけられる)。

 

§41  また、そして、この死についての気づきに専念する比丘は、常に〔気づきを〕怠らない者として〔世に〕有り、一切の生存について歓楽なき表象を獲得し、生命にたいする欲念を捨棄し、悪を難じる者と成り、蓄積多きことなき者と〔成り〕、諸々の必需品にたいする物惜の垢が離れ去った者と〔成る〕。そして、彼には、無常の表象(無常想)が精通に至り、さらに、まさしく、その〔無常の表象〕に従い行くことで、苦痛の表象(苦想)が〔現起し〕、かつまた、無我の表象(無我想)が現起する。すなわち、死〔についての気づき〕を修めていない有情たちが、いきなり猛獣や夜叉や蛇や盗賊や殺戮者に征服されたかのように、死の時点において、恐怖と恐慌と迷妄を惹起するように、このように〔恐怖と恐慌と迷妄を〕惹起せずして、恐怖なく迷妄なき者として、〔彼は〕命を終える。それで、もし、まさしく、所見の法(現法:現世)において、〔彼が〕不死〔の境処〕(涅槃)に達しないなら、身体の破壊ののち、〔来世において〕善き境遇(善趣)を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、思慮深き者は、このように大いなる威力ある、死の随念によって、〔気づきを〕怠らないことを為すべきである」と。

 

 これが、死についての気づきについての詳細の言説の門となる。

 

178.

 

 2 身体の在り方についての気づき(28)

 

§42  今や、すなわち、〔まさに〕その、覚者(ブッダ)の生起〔の時〕より他に、過去に転起されたことなく、一切の異教の者たちの境域と成ったことなきものが──それらそれらの経典において、「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起し、大いなる義(利益)のために等しく転起し、大いなる束縛からの平安(軛安穏)のために等しく転起し、気づきと正知のために等しく転起し、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起し、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)のために等しく転起し、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです」(アングッタラ・ニカーヤ1p.43)「比丘たちよ、彼らが、身体の在り方についての気づきを遍く受益するなら、彼らは、不死を遍く受益します。比丘たちよ、彼らが、身体の在り方についての気づきを遍く受益しないなら、彼らは、不死を遍く受益しません。【240】……。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが遍く受益されたなら、彼らに、不死は遍く受益されたのです。……遍く受益されていないのです。……遍く衰退したのです。……遍く衰退していないのです。……亡失されたのです。……亡失されていないのです。……。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが勉励されたなら、彼らに、不死は勉励されたのです」(アングッタラ・ニカーヤ1p.45-6)と、このように、世尊によって、無数の行相をもって賞賛して、「比丘たちよ、どのように、身体の在り方についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、[あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて]」(マッジマ・ニカーヤ3p.89)という〔言葉〕等の方法によって、呼吸の部、振る舞いの道の部、四つの正知の部、嫌悪なるものに意を為すことの部、界域に意を為すことの部、九つの墓所の部、という、これら十四の部を所以に、身体の在り方についての気づきが、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)として釈示されたが──その〔身体の在り方についての気づき〕の修行についての釈示が、至り得るところとなった。

 

§43  そこにおいて、すなわち、振る舞いの道の部、四つの正知の部、界域に意を為すことの部、という、これらの三つ〔の部〕は、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を所以に説かれ、九つの墓所の部は、まさしく、〔八つのあるがままの〕観察の知恵のうち、〔第四の知恵である〕危険の随観(Ch.21§35)を所以に説かれ、そして、すなわち、また、ここにおいて、膨張したもの等々において禅定の修行が実現し、それは、〔十の〕浄美ならざるもの(不浄)についての釈示(Ch.6)において、まさしく、明示された。また、呼吸の部は、さらに、嫌悪なるものに意を為すことの部は、まさしく、これらの二つ〔の部〕は、ここにおいて、禅定(三昧・定)を所以に説かれた。それらのうち、呼吸の部は、呼吸についての気づき(§145)を所以に、別個に(単独で)、まさしく、〔心を定める〕行為の拠点となる。

 

§44  また、すなわち、この、「比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と[諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と]尿が存在する』」(ディーガ・ニカーヤ2p.293)と、このように、脳味噌を骨髄によって包摂して(脳味噌を骨髄に加え含めて、計三十二の部位とし)、嫌悪なるものに意を為すことを所以に説示された、三十二の行相ある〔心を定める〕行為の拠点が、これが、ここでは、「身体の在り方についての気づき」ということで、志向するところとなる(意味するところとなる)。

 

179.

 

§45  そこにおいて、これが、聖典の解説を先行とする、修行についての釈示となる。

 「まさしく、この身体を」とは、この、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる腐敗の身体を。「足の裏から上に」とは、足の裏から上方に。「髪の頂から下に」とは、髪の先端から下方に。「皮膚を極限とし」とは、横に、皮膚によって限定されたものとして。「種々なる流儀の不浄物に満ちているものと【241】綿密に注視します」とは、「種々なる流儀の髪等の不浄物に満ちたものが、この身体である」と見る。どのようにか。「この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……尿が存在する」と〔綿密に注視する〕。

 

§46  そこにおいて、「存在する」とは、〔あるがままに〕等しく見出されされる。「この」とは、すなわち、この、「足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているもの」と説かれる、その〔身体〕には。「身体には」とは、肉体には。なぜなら、肉体は、不浄物の蓄積あることから、まさしく、そして、諸々の髪等々の嫌悪されるものにとっての、さらに、眼病等々の百病にとっての、起源(アーヤ)として有ることから、「身体(カーヤ)」と説かれるからである。「諸々の髪と諸々の毛と」とは、三十二の行相ある、これらの諸々の髪等々が〔存在する〕。

 そこにおいて、「この身体には、諸々の髪が存在する」「この身体には、諸々の毛が存在する」と、このように、〔句の〕連結が知られるべきである(「諸々の髪」等々のそれぞれに「この身体には、存在する」を結び付けて理解する)。

 

§47  なぜなら、この〔身体〕において、足の裏から始めて、上に、髪の頂から始めて、下に、皮膚から始めて、遍く、ということで、この、〔一〕ヴヤーマ(:長さの単位・一ヴヤーマは約二メートル)ほどの死体(身体)において、たとえ、一切の行相によって弁別しているとして、誰であれ、何を〔見よう〕とも、あるいは、真珠を、あるいは、宝珠を、あるいは、瑠璃を、あるいは、沈香を、あるいは、鬱金香を、あるいは、樟脳香を、あるいは、香粉等の清らかな状態を、微塵でさえも見ることはなく、そこで、まさに、最高の悪臭がして忌避されるべきものにして、吉祥ならざる見た目のものを、まさしく、種々なる流儀の髪や毛等の細別ある不浄物を、見るからである。それによって説かれた。「この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……尿が存在する」と。

 ここにおいて、これが、句の連結〔の観点〕からの解説となる。

 

180.

 

§48  また、この〔心を定める〕行為の拠点(身体の在り方についての気づき)を修めることを欲する、初学の者たる良家の子息によって、〔前に〕説かれた流儀の善き朋友に近づいて行って(Ch.3§61-73)、この〔心を定める〕行為の拠点が収め取られるべきである。彼(瞑想修行者)に〔心を定める〕行為の拠点を言説している、その〔善き朋友〕によってもまた、(一)七種の収取に巧みな智が〔告げ知らされるべきであり〕、さらに、(二)十種の意を為すことに巧みな智が告げ知らされるべきである。

 

 [(一)七種の収取に巧みな智]

 

 そこにおいて、(1)言葉〔の観点〕から、(2)意〔の観点〕から、(3)色艶〔の観点〕から、(4)外貌〔の観点〕から、(5)方角〔の観点〕から、(6)空間〔の観点〕から、(7)限定〔の観点〕から、という、このように、七種の収取に巧みな智が告げ知らされるべきである。

 

§49  (1)まさに、この、嫌悪なるものに意を為す〔心を定める〕行為の拠点については、たとえ、彼が、三ピタカの者(三蔵保持者)として有るも、彼によってもまた、〔嫌悪なるものに〕意を為す時においては、最初に、言葉によって読誦が為されるべきである。なぜなら、一部の者のばあい、まさしく、読誦を為していると、〔心を定める〕行為の拠点が明白なるものと成るからである。マラヤの住者たるマハー・デーヴァ長老の現前において〔心を定める〕行為の拠点を収め取った二者の長老のばあいのように。伝えるところでは、彼らから〔心を定める〕行為の拠点を乞われた〔マハー・デーヴァ〕長老は、「四月のあいだ、【242】この読誦だけを為しなさい」と、三十二の行相の聖典を与えた。彼らは、たとえ、何であれ、彼らには、二つ三つのニカーヤ(長部・中部・相応部・小部・増支部の五部経典)が熟練するところなるも、いっぽう、〔心を定める行為の拠点が〕的確に収め取られたことから、四月のあいだ、まさしく、三十二の行相〔の聖典〕を読誦しながら、〔それだけで〕預流たる者たちと成った。それゆえに、〔心を定める〕行為の拠点を言説する師匠によって、内弟子は、「まずは、最初に、言葉によって読誦を為しなさい」と説かれるべきである。

 

§50  そして、〔それを〕為しているなら、皮膚についての五なるもの(髪・毛・爪・歯・皮膚)等々に限定して、順逆を所以に、読誦が為されるべきである。まさに、「諸々の髪があり、諸々の毛があり、諸々の爪があり、諸々の歯があり、皮膚がある」と説いて、ふたたび、逆から、「皮膚があり、諸々の歯があり、諸々の爪があり、諸々の毛があり、諸々の髪がある」と説かれるべきである。

 

§51  その直後に、腎臓についての五なるものについて、「肉があり、腱があり、骨があり、骨髄があり、腎臓がある」と説いて、ふたたび、逆から、「腎臓があり、骨髄があり、骨があり、腱があり、肉があり、皮膚があり、諸々の歯があり、諸々の爪があり、諸々の毛があり、諸々の髪がある」と説かれるべきである。

 

§52  そののち、肺臓についての五なるものについて、「心臓があり、肝臓があり、肋膜があり、脾臓があり、肺臓がある」と説いて、ふたたび、逆から、「肺臓があり、脾臓があり、肋膜があり、肝臓があり、心臓があり、腎臓があり、骨髄があり、骨があり、腱があり、肉があり、皮膚があり、諸々の歯があり、諸々の爪があり、諸々の毛があり、諸々の髪がある」と説かれるべきである。

 

§53  そののち、脳味噌についての五なるものについて、「腸があり、腸間膜があり、胃物があり、糞があり、脳味噌がある」と説いて、ふたたび、逆から、「脳味噌があり、糞があり、胃物があり、腸間膜があり、腸があり、肺臓があり、脾臓があり、肋膜があり、肝臓があり、心臓があり、腎臓があり、骨髄があり、骨があり、腱があり、肉があり、皮膚があり、諸々の歯があり、諸々の爪があり、諸々の毛があり、諸々の髪がある」と説かれるべきである。

 

§54  そののち、脂肪についての六なるものについて、「胆汁があり、痰があり、膿があり、血があり、汗があり、脂肪がある」と説いて、ふたたび、逆から、「脂肪があり、汗があり、血があり、膿があり、痰があり、胆汁があり、脳味噌があり、糞があり、胃物があり、腸間膜があり、腸があり、肺臓があり、脾臓があり、肋膜があり、肝臓があり、心臓があり、腎臓があり、骨髄があり、骨があり、腱があり、肉があり、皮膚があり、諸々の歯があり、諸々の爪があり、諸々の毛があり、諸々の髪がある」と説かれるべきである。

 

§55  そののち、尿についての六なるものについて、「涙があり、膏があり、唾液があり、鼻水があり、髄液があり、尿がある」と説いて、ふたたび、逆から、「尿があり、髄液があり、鼻水があり、唾液があり、膏があり、涙があり、脂肪があり、汗があり、血があり、膿があり、痰があり、胆汁があり、脳味噌があり、糞があり、胃物があり、腸間膜があり、腸があり、肺臓があり、脾臓があり、肋膜があり、肝臓があり、心臓があり、腎臓があり、骨髄があり、骨があり、腱があり、肉があり、皮膚があり、諸々の歯があり、諸々の爪があり、諸々の毛があり、諸々の髪がある」と説かれるべきである。

 

§56  【243】このように、百時、千時、百千時でさえも、言葉によって読誦が為されるべきである。なぜなら、言葉〔の観点〕から読誦によって〔心を定める〕行為の拠点の経典が熟練するところと成り、心がこちらからもあちらからも走り回ることはなく、〔三十二の〕部位が明白なるものと成り、〔組んだ〕手の〔指の〕列のように、かつまた、垣根の足の列のように、〔はっきりと〕見えるからである。

 

§57  (2)また、すなわち、言葉〔の観点〕からのように、まさしく、そのように、意〔の観点〕からもまた、読誦が為されるべきである。なぜなら、言葉〔の観点〕からの読誦は、意〔の観点〕からの読誦にとっての縁と成り、意〔の観点〕からの読誦は、特相の理解にとっての縁と成るからである。

 

§58  (3)「色艶〔の観点〕から」とは、諸々の髪等々の色が定め置かれるべきである。

 (4)「外貌〔の観点〕から」とは、まさしく、それらの外貌が定め置かれるべきである。

 (5)「方角〔の観点〕から」とは、「まさに、この肉体には、臍から上に、上の方角があり、〔臍から〕下に、下の方角がある。それゆえに、この部位は、まさに、この方角にある」と、方角が定め置かれるべきである。

 (6)「空間〔の観点〕から」とは、「この部位は、まさに、この空間に止住している(存している)」と、このように、それぞれの空間が定め置かれるべきである。

 

§59  (7)「限定〔の観点〕から」とは、部分を共にする(共通する)限定〔の範囲〕、部分を共にしない(相違する)限定〔の範囲〕、という、二つの限定〔の範囲〕がある。そこにおいて、「この部位は、そして、下に、そして、上に、そして、横に、まさに、この〔部位〕によって限定されている」と、このように、部分を共にする限定〔の範囲〕が知られるべきである。「諸々の髪は、毛ではない」「諸々の毛もまた、髪ではない」と、このように、混合なきことを所以に、部分を共にしない限定〔の範囲〕が知られるべきである。

 

§60  また、このように、七種の収取に巧みな智を告げ知らせているとして、「この〔心を定める〕行為の拠点は、何某の経において、嫌悪〔の表象〕を所以に言説され、何某〔の経〕において、〔地と水と火と風の四つの〕界域〔の差異の定置〕を所以に〔言説された〕」と知って〔そののち〕、告げ知らされるべきである。「まさに、この〔身体の在り方についての気づきという心を定める行為の拠点〕は、『マハー・サティ・パッターナ〔スッタ〕』(ディーガ・ニカーヤ2p.290)において、まさしく、嫌悪〔の表象〕を所以に言説され、『マハー・ハッティ・パドーパマ〔スッタ〕』(マッジマ・ニカーヤ1p.184)『マハー・ラーフローヴァーダ〔スッタ〕』(マッジマ・ニカーヤ1p.420)『ダートゥ・ヴィバンガ〔スッタ〕』(マッジマ・ニカーヤ1p.237)において、〔地と水と火と風の四つの〕界域〔の差異の定置〕を所以に言説され、また、『カーヤ・ガター・サティ・スッタ』(マッジマ・ニカーヤ3p.88)においては、彼(瞑想修行者)に、色〔の遍満〕から〔身体の在り方についての気づきが〕現起するなら、彼に関して、四つの瞑想〔の境地〕が区分され、そこおいて、〔地と水と火と風の四つの〕界域〔の差異の定置〕を所以に言説されたものが、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の〔心を定める〕行為の拠点と成り、嫌悪〔の表象〕を所以に言説されたものが、〔心の〕止寂(奢摩他・止)の〔心を定める〕行為の拠点と〔成る〕。ここでは、〔まさに〕その、〔心の〕止寂の〔心を定める〕行為の拠点だけが、これが、〔志向するところとなる〕」と。

 

181.

 

 [(二)十種の意を為すことに巧みな智]

 

§61  このように、七種の収取に巧みな智を告げ知らせて〔そののち〕、(1)順次〔の観点〕から、(2)急速過ぎることなき〔の観点〕から、(3)緩慢過ぎることなき〔の観点〕から、(4)散乱の拒否〔の観点〕から、(5)通称の超越〔の観点〕から、(6)順次の解放〔の観点〕から、(7)〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定の観点〕から、さらに、(8・9・10)三つの経典〔の観点〕から、という、このように、十種の意を為すことに巧みな智が告げ知らされるべきである。

 

§62  (1)そこにおいて、「順次〔の観点〕から」とは、まさに、この〔心を定める行為の拠点〕は、読誦を為すことから始まって、【244】次第次第に、意が為されるべきである──隙間を一つあけて、ではなく。なぜなら、隙間を一つあけて意を為している者は、あたかも、まさに、巧みな智なき人が、三十二段の梯子を、隙間を一つあけて登りつつ、疲弊した身体に堕し、登ることを成就させないように、まさしく、このように、修行の得達を所以に到達されるべき悦楽への到達なきことから、疲弊した心に堕し、修行を成就させないからである。

 

§63  (2)そして、順次〔の観点〕から意を為しつつもまた、急速過ぎることなき〔の観点〕から、意が為されるべきである。なぜなら、急速過ぎ〔の観点〕から意を為している者のばあい、あたかも、まさに、三ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)の道を行って、〔なおかつ〕入る〔道〕と捨てる〔道〕を省察せずして、激しい速さで、百回でさえも行ったり来たりを為している人が、たとえ、何であれ、旅程の終着に至るも〔通り過ぎてしまい〕、そこで、まさに、まさしく、〔終着の場所を〕尋ねて、〔ふたたび道を〕赴くべきことと成るように、まさしく、このように、たとえ、何であれ、全部の〔心を定める〕行為の拠点の結末に至り得るとして、いっぽう、〔心を定める行為の拠点は〕明確ならざるものとして有り、殊勝〔の境地〕をもたらさないからである。それゆえに、急速過ぎることなき〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

§64  (3)さらに、すなわち、急速過ぎることなき〔の観点〕から、〔意が為されるべきである〕ように、このように、緩慢過ぎることなき〔の観点〕からもまた、〔意が為されるべきである〕。なぜなら、緩慢過ぎ〔の観点〕から意を為している者のばあい、あたかも、まさに、まさしく、その日のうちに、三ヨージャナの道を赴くことを欲する人が、道の途中で、木や山や池等々でのんびりしていると、道は、終着に至ることがなく、二日か三日をもって終わらせるべきものと成るように、まさしく、このように、〔心を定める〕行為の拠点は、結末に至ることがなく、殊勝〔の境地〕への到達にとっての縁と成らないからである。

 

§65  (4)「散乱の拒否〔の観点〕から」とは、〔心を定める〕行為の拠点を捨てて、外の多々なる対象における心の散乱が拒否されるべきである。なぜなら、拒否せずにいる者のばあい、あたかも、まさに、一足〔ほどの幅〕の深淵の道を行く人が、〔前に〕進める足を省察せずして、こちらからもあちらからも顧みていると、〔踏み出す〕足の時機は亡失され、そののち、百人〔の高さ〕ある深淵に落ちるべきことと成るように、まさしく、このように、外に〔心の〕散乱が存しているとき、〔心の定める〕行為の拠点は、遍く衰退し、遍く滅亡する。それゆえに、散乱の拒否〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

§66  (5)「通称の超越〔の観点〕から」とは、すなわち、この、「諸々の髪がある」「諸々の毛がある」という〔言葉〕等の通称(施設:概念)は、それを超越して、「嫌悪なるものである」と、心が据え置かれるべきである。なぜなら、あたかも、水が得難き時に、人間たちが、林のなかに泉水を見て、そこにおいて、まさしく、幾許かのターラ〔樹〕の葉等を、標識として結んで、その標識によって、〔そこに〕至り来て、まさしく、そして、沐浴し、さらに、〔水を〕飲むとして、【245】また、すなわち、彼らが、何度となく行き来することで、往来の足跡が明白なるものと成るとき、そのときは、標識によって為すべきことが有ることはなく(不要となる)、好きな〔時〕好きな時に赴いて、まさしく、そして、沐浴し、さらに、〔水を〕飲むように、まさしく、このように、〔修行の〕前段部分において、「諸々の髪がある」「諸々の毛がある」という通称を所以に意を為していると、嫌悪の状態が明白なるものと成り、そこで、「諸々の髪がある」「諸々の毛がある」という通称を超越して、まさしく、嫌悪の状態において、心が据え置かれるべきであるからである。

 

§67  (6)「順次の解放〔の観点〕から」とは、その〔部位〕、その部位が、〔心に〕現起しないなら、その〔部位〕、その〔部位〕を、〔順次に〕解き放ちつつ(撤去して)、順次の解放〔の観点〕から、意が為されるべきである。なぜなら、初学の者のばあい、「諸々の髪がある」と、意を為しつつ、〔いつのまにか〕意を為すことが赴いて、「尿がある」という、この、まさしく、結末の部位へと〔意を〕持ち運んで、〔意を為すことが〕止住するからであり、さらに、「尿がある」と、意を為しつつ、〔いつのまにか〕意を為すことが赴いて、「諸々の髪がある」という、この、まさしく、最初の部位へと〔意を〕持ち運んで、〔意を為すことが〕止住するからである。そこで、彼が、意を為しつつ、意を為しつつ、諸々の何らかの部位が現起し、諸々の何らかの部位が現起しないとして、それら〔の部位〕、それら〔の部位〕が、〔心に〕現起するなら、彼によって、まずは、〔心に現起する〕それら〔の部位〕、それら〔の部位〕において、〔意を為す〕行為が為されるべきである。まずは、二つ〔の部位〕が現起したとして、それらのばあいもまた、一つ〔の部位〕が、より巧妙に現起するなら、また、このように現起した、その〔部位〕だけに、繰り返し意を為しつつ、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が生起させられるべきである。

 

§68  そこで、これが、〔その〕喩えとなる。まさに、すなわち、三十二のターラ〔樹〕があるターラの林に住している猿を捕捉することを欲し、猟師が(※)、最初に立っているターラ〔樹〕の葉を矢で貫いて、叫喚〔による威嚇〕を為すなら、そこで、まさに、その猿は、次第次第に、その〔ターラ樹〕そのターラ〔樹〕に降下して、まさしく、結末のターラ〔樹〕に赴くことになり、たとえ、そこに赴いても、猟師によって、まさしく、そのように、〔叫喚による威嚇が〕為されたなら、ふたたび、まさしく、その方法によって、最初〔のターラ樹〕に帰ることになり、その〔猿〕は、このように、繰り返し、遍く降下させられつつ(※※)、まさしく、叫喚〔の場〕叫喚の場において、立ち上がって、順に、或るターラ〔樹〕に降下して、まさしく、その〔ターラ樹〕の中央において、ターラの葉先の芽を堅固に掴んで、たとえ、〔矢で葉を〕貫かれつつも、〔もはや〕立ち上がることがないように、このように、同様に、このことが見られるべきである。

 

※ テキストには luddhe とあるが、VRI版により luddho と読む。

※※ テキストには paipātiyamāno とあるが、VRI版により paripātiyamāno と読む。

 

§69  そこで、これが、喩えの適応となる。まさに、すなわち、ターラの林にある三十二のターラ〔樹〕のように、このように、この身体における三十二の部位がある。猿のように、心がある。猟師のように、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)がある。猿の、三十二のターラ〔樹〕があるターラの林における、居住のように、〔心の〕制止者(瞑想修行者)の心の、三十二の部位がある身体における、対象を所以にする思い巡りがある。猟師によって、最初に立っているターラ〔樹〕の葉を矢で貫いて、叫喚〔による威嚇〕が為されたとき、猿が、その〔ターラ樹〕そのターラ〔樹〕に降下して、結末のターラ〔樹〕に赴くように、〔心の〕制止者の、「諸々の髪がある」と、意を為すことが始められたとき、次第次第に赴いて、まさしく、結末の部位における、心の【246】確立がある。〔最初の部位に〕ふたたび帰り行くことについてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。繰り返し、遍く降下させられつつ(※)、猿が、叫喚〔の場〕叫喚の場において、立ち上がるように、繰り返し意を為しつつ、諸々の何らか〔の部位〕何らか〔の部位〕が現起されたとき(※※)、諸々の現起していない〔部位〕を捨てて、諸々の現起された〔部位〕において、〔禅定のための〕事前作業〔としての瞑想〕(遍作:予備的瞑想)を為すことがある。順に、或るターラ〔樹〕に降下して、その〔ターラ樹〕の中央において、ターラの葉先の芽を堅固に掴んで、たとえ、〔矢で葉を〕貫かれつつも、〔もはや〕立ち上がることがないように、最後には、現起された二つ〔の部位〕のうち、すなわち、より巧妙に現起する、その〔部位〕だけに、繰り返し意を為して、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕を生起させることがある。

 

※ テキストには paipātiyamānassa とあるが、VRI版により paripātiyamānassa と読む。

※※ テキストには upaṭṭhātesu とあるが、VRI版により upaṭṭhitesu と読む。

 

§70  他にもまた、喩えがある。すなわち、まさに、〔行乞の〕施食の者である比丘が、三十二の家ある村に近しく依拠して住しつつ、まさしく、最初の家において、二つ〔の家の量〕の行乞〔の食〕を得て、〔それより〕後は、一つ〔の家〕を捨てることになり、翌日には、三つ〔の家の量の行乞の食〕を得て、〔それより〕後は、二つ〔の家〕を捨てることになり、第三日には、まさしく、最初の家において、鉢に満ちるものを得て、〔そのまま〕坐堂(共用の食堂)に赴いて、〔得たものを〕遍く受益することになるように、このように、同様に、このことが見られるべきである。

 

§71  まさに、三十二の家ある村のように、三十二の行相がある。〔行乞の〕施食の者のように、〔心の〕制止を行境とする者がある。彼の、その村に近しく依拠しての住のように、〔心の〕制止者の、三十二の行相において、〔禅定のための〕事前作業〔としての瞑想〕を為すことがある。最初の家において、二つ〔の家の量〕の行乞〔の食〕を得て、〔それより〕後は、一つ〔の家〕を捨てるように、さらに、第二日には、三つ〔の家の量の行乞の食〕を得て、〔それより〕後は、二つ〔の家〕を捨てるように、意を為しつつ、意を為しつつ、諸々の現起していない〔部位〕を捨てて、諸々の現起された〔部位〕において(※)、まずは、二つの部位において、〔禅定のための〕事前作業〔としての瞑想〕を為すことがある。第三日には、まさしく、最初〔の家〕において、鉢に満ちるものを得て、〔そのまま〕坐堂に坐って、〔得たものの〕遍き受益があるように、〔現起された〕二つ〔の部位〕において、すなわち、より巧妙に現起する、まさしく、その〔部位〕に、繰り返し意を為して、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕を生起させることがある。

 

※ テキストには upaṭṭhitesu upaṭṭhitesu とあるが、VRI版により upaṭṭhitesu と読む。

 

§72  (7)「〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定の観点〕から」とは、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定を生起させる〕部位から、〔意が為されるべきである〕。諸々の髪等々における一つ一つの部位において、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が有る、と知られるべきである。ということで、ここにおいて、これが、志向するところとなる。

 

§73  (8・9・10)「さらに、三つの経典〔の観点〕から」とは、卓越の心(増上心:瞑想)、清涼の状態、覚りの支分に巧みな智、という、これらの三つの経典が、精進と禅定を結び付けることを義(目的)に、知られるべきである。ということで、ここにおいて、これが、志向するところとなる。

 

§74  (8)そこにおいて、「比丘たちよ、卓越の心(瞑想)に専念する比丘によって、三つの形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。禅定の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。励起の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。放捨の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕【247】意が為されるべきです。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、禅定の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、怠惰のために等しく転起します。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、励起の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、高揚のために等しく転起します。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、放捨の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、卓越の心に専念する比丘が、禅定の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、励起の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、放捨の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、その心は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められます。

 

§75  比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、溶炉を構え、溶炉を構えて、溶炉の口に点火し、溶炉の口に点火して、火箸で金を掴んで、溶炉の口に置いて、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく風を〕吹き入れ、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕水を振り掛け、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕捨て放つようなものです。比丘たちよ、それで、もし、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金に、一方的に〔風を〕吹き入れるなら、その金は、必然的に焼けてしまいます。比丘たちよ、それで、もし、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金に、一方的に水を振り掛けるなら、その金は、必然的に〔火が〕消えてしまいます。比丘たちよ、それで、もし、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金を、一方的に捨て放つなら、その金は、必然的に正しく円熟に至りません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく風を〕吹き入れ、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕水を振り掛け、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕捨て放つことから、その金は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、正しく行為に近しく至ります。そして、その〔装身具〕その装身具を、〔彼が〕望むなら、もしくは、帯であれ、もしくは、耳飾であれ、もしくは、首飾であれ、もしくは、金環であれ、そして、彼の、その義(目的)は適います。

 

§76  比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、卓越の心に専念する比丘によって……略……諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められます。そして、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、【248】心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」(アングッタラ・ニカーヤ1p.256-8:一部異なる箇所あり)という、この経が、卓越の心である、と知られるべきである。

 

§77  (9)「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、無上なる清涼の状態を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、その時点において、心が制御されるべきであるなら、その時点において、心を制御し、その時点において、心が励起されるべきであるなら、その時点において、心を励起し、その時点において、心が感動されるべきであるなら、その時点において、心を感動させ、その時点において、心が放捨されるべきであるなら、その時点において、心を放捨し、そして、精妙なるものを信念する者と成り、さらに、涅槃を喜び楽しむ者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、無上なる清涼の状態を実証することが可能となります」(アングッタラ・ニカーヤ3p.435)という、この経が、清涼の状態である、と知られるべきである。

 

§78  (10)また、覚りの支分に巧みな智は、「比丘たちよ、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時ではなく〔云々〕」(サンユッタ・ニカーヤ5p.112)と、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智についての言説において、まさしく、見示された(Ch.4§51,57)。

 

§79  かくのごとく、この、七種類の収取に巧みな智を、善く収め取られたものに作り為して、さらに、この、十種類の意を為すことに巧みな智を、巧妙に定め置いて、その〔心の〕制止者によって、両者の巧みな智を所以に、〔心を定める〕行為の拠点が、善くしっかりと収め取られるべきである。

 

§80  また、それで、もし、師匠と共に、まさしく、一つの精舎に〔住している〕彼に、平穏が有るなら、このように、〔一度に〕詳細〔の観点〕によって〔師匠に〕言説させずして、〔心を定める〕行為の拠点を巧妙に定め置いて、〔心を定める〕行為の拠点に専念しながら、殊勝〔の境地〕を得て〔そののち〕、上に上にと〔師匠が〕言説させられるべきである(一度に全部を教わるのではなく、段階的に教わるべきである)。他所において住することを欲するなら、〔前に〕説かれたとおりの手順で、〔一度に〕詳細〔の観点〕から〔師匠に〕言説させて、繰り返し、〔心を定める行為の拠点を〕遍く転起させて、一切の難解な箇所を断ち切って、まさしく、地の遍満についての釈示において説かれた方法によって(Ch.4§1-20)、適切ならざる臥坐所を捨棄して、適切なる精舎に住しながら、〔見難き〕小なる障害の断絶を為して、嫌悪なるものに意を為すことにおいて、〔禅定のための〕事前作業〔としての瞑想〕が為されるべきである。

 

 [(三)三十二の部位についての詳細の言説]

 

§81  また、〔それを〕為している者によって、まずは、諸々の髪において、形相が収め取られるべきである。どのようにか。あるいは、一つ〔の髪〕を〔引き抜いて〕、あるいは、二つの髪を引き抜いて、手の平に据え置いて、【249】まずは、色艶が定め置かれるべきである。〔髪が〕切られた箇所において、諸々の髪を眺め見るのもまた順当である(許容される)。あるいは、水の鉢において、あるいは、粥の鉢において、眺め見るのもまた、まさしく、順当である。〔髪の色の〕黒き時においては、見て〔そののち〕、「諸々の黒きものである」と、意が為されるべきである。〔髪の色の〕白き時においては、〔見てそののち〕、「諸々の白きものである」と、〔意が為されるべきである〕。また、〔黒と白の〕混合ある時においては、増長(性質の優勢さ)を所以に、意が為されるべきものと成る。さらに、すなわち、諸々の髪におけるように、皮膚についての五なるものの全体においてもまた、このように、まさしく、見て、形相が収め取られるべきである。

 

182.

 

§82  このように、形相を収め取って、〔三十二の〕全ての部位において、色艶と外貌と方角と空間と限定を所以に定め置いて(§58-9)、色艶と外貌と臭気と依拠と空間を所以に、五種の嫌悪なることが定め置かれるべきである。そこで、これが、〔三十二の〕全ての部位について、順次の言説となる。

 

§83  (1)まずは、諸々の髪は、〔生来の〕性向としての色艶によるなら、黒きものにして、濡れたアリッタカ〔樹〕の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、長く円形で、秤棒の外貌がある。方角〔の観点〕からは、上なる方角(上半身)に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、両脇については、〔両の〕耳の付け根によって〔限定され〕、前は、額の端によって〔限定され〕、後は、喉の底によって限定されたものとなる。頭蓋を包み込む、水気のある皮が、諸々の髪にとって、空間となる。限定〔の観点〕からは、諸々の髪は、頭を包み込む皮に、稲の先端ほど入って止住していることで、下は、自己の根の面(毛根の部分)によって〔限定され〕、上は、虚空(空気との接触面)によって〔限定され〕、横は、互いに他によって限定されたものとなり、二つの髪が一緒に存在することはない。ということで、これが、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。「諸々の髪は、毛ではない」「諸々の毛は、髪ではない」と、このように、残りの三十一の部位と混合なきこと(単独性)があり、諸々の髪は、まさに、単独にして一なる部位となる。ということで、これが、部分を共にしない限定〔の範囲〕となる。これが、諸々の髪にとって、色艶等〔の観点〕から定め置くこととなる。

 

183.

 

§84  また、これが、それら(諸々の髪)にとって、色艶等を所以に、五種の嫌悪〔の観点〕から定め置くこととなる。諸々の髪は、まさに、これらは、色艶〔の観点〕からもまた、嫌悪なるものとなり、外貌〔の観点〕からもまた、臭気〔の観点〕からもまた、依拠〔の観点〕からもまた、空間〔の観点〕からもまた、嫌悪なるものとなる。

 

§85  なぜなら、たとえ、快意なる、あるいは、粥の鉢のなかに、あるいは、食の鉢のなかに、何であれ、髪の色艶あるものを見て、「これは、髪が混ざったものだ。それを、運び去れ」と、〔人々は〕忌避するからである。このように、諸々の髪は、色艶〔の観点〕から、嫌悪なるものとなる。たとえ、夜に食べているとして、髪の外貌ある、あるいは、アッカの樹皮に、あるいは、マッカチの樹皮に、触れてもまた、まさしく、そのように、忌避する。このように、外貌〔の観点〕から、嫌悪なるものとなる。

 

§86  さらに、油の塗布や花の香煙等の行使が絶無となった諸々の髪の臭気は、最高に忌避されるものと成る。〔それらが〕火のなかに置かれたなら、それよりもより忌避されるものと〔成る〕。【250】なぜなら、諸々の髪は、色艶と外貌〔の観点〕からは、嫌悪ならざるものとして存することもまたあるであろうが、いっぽう、臭気〔の観点〕によるなら、まさしく、嫌悪なるものであるからである。まさに、すなわち、年少の童子の糞が、色艶〔の観点〕からは、鬱金の色艶があり、外貌〔の観点〕からもまた、鬱金塊の外貌があり、さらに、塵芥場に捨てられた、膨張した黒犬の肉体が、色艶〔の観点〕からは、熟したターラ〔の果〕の色艶があり、外貌〔の観点〕からは、転がして捨てられた小鼓の外貌があり、その〔犬〕の諸々の牙もまた、スマナ〔草〕の芽に等しき〔外貌〕があり、ということで、両者ともどもに、色艶と外貌〔の観点〕からは、嫌悪ならざるものとして存するであろうが、いっぽう、臭気〔の観点〕によるなら、まさしく、嫌悪なるものであるように、このように、諸々の髪もまた、色艶と外貌〔の観点〕からは、嫌悪ならざるものとして存するであろうが、いっぽう、臭気〔の観点〕によるなら、まさしく、嫌悪なるものである、と〔知られるべきである〕。

 

§87  また、すなわち、不浄の場において村からの排出物(汚物)によって生じた諸々の汁用の葉が、城市の人間たちにとって、忌避されるものと成り、遍く受益なきものと〔成る〕ように、このように、諸々の髪もまた、〔体内の〕膿や血や尿や糞や胆汁や痰等からの排出物によって生じたことから、忌避されるべきものとなる。ということで、これが、それら(諸々の髪)にとって、依拠〔の観点〕から、嫌悪なることとなる。

 

§88  さらに、これらの諸々の髪は、まさに、糞の集積に出起した茸のように、三十一の部位の集積に生じたものであり、それら〔の諸々の髪〕は、墓場や塵芥場等々に生じた野菜のように、さらに、堀等々に生じた蓮や睡蓮等の花のように、不浄の場に生じたことから、最高に忌避されるものとなる。ということで、これが、それら(諸々の髪)にとって、空間〔の観点〕から、嫌悪なることとなる。

 

§89  そして、すなわち、諸々の髪にとってのように、このように、〔三十二の〕全ての部位にとって、色艶と外貌と臭気と依拠と空間を所以に、五種の嫌悪なることが定め置かれるべきである。また、色艶と外貌と方角と空間と限定を所以に、〔三十二の〕全て〔の部位〕についてもまた、別個、別個に、定め置かれるべきである。

 

184.

 

§90  (2)そこにおいて、まずは、諸々の毛は、〔生来の〕性向としての色艶〔の観点〕からは、諸々の髪のような混入なき黒ではなく、いっぽう、黒褐色のものと成る。外貌〔の観点〕からは、先端が下がった、ターラ〔樹〕の根の外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角(上半身と下半身)に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、そして、諸々の髪の止住している空間を、さらに、手足の面(手の平と足の裏)を、〔両者を〕除いて、多くのところは、残りの肉体を包み込む皮に生じたものとなる。限定〔の観点〕からは、肉体を包み込む皮に〔一〕リッカー(長さの単位・一リッカーは虱の卵の大きさ)ほど入って止住していることで、下は、自己の根の面(毛根の部分)によって〔限定され〕、上は、虚空によって〔限定され〕、横は、互いに他によって限定されたものとなり、二つの毛が一緒に存在することはない。ということで、これが、それら(諸々の毛)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる(§83)。

 

185.

 

§91  (3)「諸々の爪」とは、二十枚の爪の名前である。それらは、全てもろともに、色艶〔の観点〕からは、白きものとなる。外貌〔の観点〕からは、魚の鱗の外貌がある。方角〔の観点〕からは、諸々の足の爪は、下なる方角(下半身)にあり、諸々の手の爪は、上なる方角(上半身)にあり、ということで、【251】〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、諸々の指の先端の背に止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、〔左右〕二つの方角については、諸々の指の端の肉によって〔限定され〕、内は、指の背の肉によって〔限定され〕、まさしく、そして、外は、かつまた、先端については、虚空によって〔限定され〕、横は、互いに他によって限定されたものとなり、二〔枚〕の爪が一緒に存在することはない。これが、それら(諸々の爪)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

186.

 

§92  (4)「諸々の歯」とは、歯が遍く満ちた者には、三十二の歯の骨があり、それらもまた、色艶〔の観点〕からは、〔全てが〕白きものとなる。外貌〔の観点〕からは、幾つかの外貌がある。まさに、それらの、まずは、下の歯の列には、中央に四つの歯(門歯)があり、〔それらは〕粘土塊のなかに次第次第に据え置かれた瓜の種の外貌があり、それらの両の脇には、一つの根と一つの突端があるもの(犬歯)が一つずつあり、〔それらは〕マッリカー(ジャスミン)の芽の外貌があり、それから、二つの根と二つの突端があるもの(小臼歯)が一つずつあり、〔それらは〕乗物の支柱棒の外貌があり、それから、三つの根と三つの突端があるもの(小臼歯と大臼歯)が二つずつあり、それから、四つの根と四つの突端があるもの(大臼歯)が二つずつある、と〔知られるべきである〕。上の〔歯の〕列についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。方角〔の観点〕からは、上なる方角(上半身)に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、〔上下〕二つの顎の骨に止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、下は、顎の骨に止住していることで、自己の根の面(歯根)によって〔限定され〕、上は、虚空によって〔限定され〕、横は、互いに他によって限定されたものとなり、二つの歯が一緒に存在することはない。これが、それら(諸々の歯)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

187.

 

§93  (5)「皮膚」とは、全肉体を包み込んで止住している皮である。その〔皮〕の上にある黒や茶や黄等の色あるものが、「表皮」ということになり、それ(表皮)は、全肉体もろともに引き寄せられるなら、棗の核ほどのものと成る。また、皮膚は、色艶〔の観点〕からは、白きものだけとなる。そして、その〔皮膚〕の白き状態は、それは、火傷を負ったり打撃を与える等々によって表皮が砕破されたことで明白なるものと成る。外貌〔の観点〕からは、まさしく、肉体の外貌あるものと成る。ここにおいて、これが、簡略〔の説示〕となる。

 

§94  また、詳細〔の観点〕から、足の指の皮膚は、蚕の繭の外貌があり、足の甲の皮膚は、袋結びの履物(足袋)〔の背〕の外貌があり、脛の皮膚は、食物袋にしたターラ〔樹〕の葉の外貌があり、腿の皮膚は、米の満ちた長い袋の外貌があり、尻の皮膚は、水で膨らんだ布の濾過器の外貌があり、背の皮膚は、延べ板を覆った皮の外貌があり、腹の皮膚は、琵琶の胴を覆った皮の外貌があり、胸の皮膚は、多くのところは、四角の外貌があり、両の腕の皮膚は、矢筒を覆った皮の外貌があり、手の甲の皮膚は、剃刀の鞘の外貌があり、あるいは、櫛の袋の外貌があり、手の指の皮膚は、鍵の鞘箱の外貌があり、首の皮膚は、喉当て(襟巻き)の外貌があり、顔の【252】皮膚は、種々の穴ある虫の巣の外貌があり、頭の皮膚は、鉢の袋の外貌がある、と〔知られるべきである〕。

 

§95  そして、皮膚〔の形相〕を遍く収め取る者としてある、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)によって、上唇から始めて、顔の上に知恵(知覚)を送って、まずは、最初に、顔を覆い包んで止住している皮が定め置かれるべきである。そののち、額の骨の皮が〔定め置かれるべきである〕。そののち、そして、袋に入れられた鉢の、さらに、袋の、〔両者の〕間に手を〔差し入れる〕ように、そして、頭の骨の、さらに、頭の皮の、〔両者の〕間に知恵を送って、骨と共に皮が一つに連結された状態を引き離しつつ、頭の皮が定め置かれるべきである。そののち、肩の皮が〔定め置かれるべきである〕。そののち、順によって、さらに、逆によって、右手の皮が〔定め置かれるべきである〕。そこで、まさしく、その方法によって、左手の皮が〔定め置かれるべきである〕。そののち、背の皮が〔定め置かれるべきである〕。それを定め置いて、順によって、さらに、逆によって、右足の皮が〔定め置かれるべきである〕。そこで、まさしく、その方法によって、左足の皮が〔定め置かれるべきである〕。そののち、まさしく、順に、膀胱(下腹部)と腹と心臓(胸部)と首の皮が定め置かれるべきである。そこで、首の皮の直後に、下顎の皮を定め置いて、下唇を結末に〔知恵を〕至り得させて、終わらせるべきである。このように、粗雑なるもの粗雑なるものを遍く収め取っていると、繊細なるものもまた、明白なるものと成る。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、全肉体を覆い包んで止住しているものとなる。

 

§96  限定〔の観点〕からは、下は、止住している面によって〔限定され〕、上は、虚空によって限定されたものとなる。これが、それ(皮膚)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

188.

 

§97  (6)「肉」とは、九百の肉片である。それは、全てもろともに、色艶〔の観点〕からは、赤きものとなり、キンスカの花に等しきものとなる。外貌〔の観点〕からは、脛の団肉は、ターラ〔樹〕の葉の食物袋の外貌があり、腿の肉は、小型砥石の外貌があり、尻の肉は、竈の外側の外貌があり、背の肉は、〔干し固めた〕ターラ糖の膜の外貌があり、二つの肋の肉は、蔵〔の壁〕の穴に薄く粘土を塗り付けたものの外貌があり、乳房の肉は、丸めて〔地上に〕投げ捨てられた粘土の塊の外貌があり、二つの腕の肉は、二倍に作り為して据え置かれた皮なしの大鼠(皮を剥いだ大鼠を二匹連ねて置いたもの)の外貌がある。このように、粗雑なるもの粗雑なるものを遍く収め取っていると、繊細なるものもまた、明白なるものと成る。

 

§98  方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、三百を優に超える骨を【253】塗り固めて止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、下は、骨の群結に止住している面によって〔限定され〕、上は、皮膚によって〔限定され〕、横は、互いに他によって限定されたものとなる。これが、それ(肉)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

189.

 

§99  (7)「腱」とは、九百の腱である。色艶〔の観点〕からは、〔九百の〕腱は、全てもろともに、白きものとなる。外貌〔の観点〕からは、種々なる外貌がある。まさに、これらのうち、首の上の部分から始まって、五つの大腱は、肉体を覆い包みつつ前側を貫き、五つ〔の大腱〕は、〔肉体を覆い包みつつ〕後側を〔貫き〕、五つ〔の大腱〕は、〔肉体を覆い包みつつ〕右側を〔貫き〕、五つ〔の大腱〕は、〔肉体を覆い包みつつ〕左側を〔貫き〕、右手を覆い包んでいるものもまた、手の前側を〔貫くものが〕五つあり、後側を〔貫くものが〕五つあり、そのように、左手を覆い包んでいるものがあり、右足を覆い包んでいるものもまた、足の前側を〔貫くものが〕五つあり、後側を〔貫くものが〕五つあり、そのように、左足を覆い包んでいるものもまたある。ということで、このように、まさに、肉体を保持する六十の大腱が、身体を覆い包みつつ貫いている。それらは、「筋」ともまた説かれるが、それらは、全てもろともに、芋芽の外貌がある。また、それぞれの場所に覆い被さって止住している、それよりもより繊細なる諸他〔の腱〕は、縄糸の外貌がある。それよりもより繊細なる諸他〔の腱〕は、蔦葛の外貌がある。それよりもより繊細なる諸他〔の腱〕は、大琵琶の弦の外貌がある。諸他〔の腱〕は、粗大なる糸の外貌がある。〔両の〕手足の背の腱は、鳥の足の外貌がある。頭の腱は、幼児たちの頭網(幼児帽)の外貌がある。背の腱は、熱所に拡げた水気のある網の外貌がある。残りの、それぞれの手足や肢体に従い行く諸々の腱は、肉体に装着された網当ての外貌がある。

 

§100  方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、全肉体の諸骨と連結して止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、下は、三百の骨の上に止住している面によって〔限定され〕、上は、諸々の肉と皮に触れて止住している場所によって〔限定され〕、横は、互いに他によって限定されたものとなる。これが、それら(腱)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

190.

 

§101  (8)「骨」とは、三十二の歯の骨を除いて、残りの、六十四の手の骨、六十四の足の骨、六十四の肉に依拠した軟骨、二つの踵の骨、一つずつの足における二つずつの踝の骨、〔一つずつの足における〕二つ〔ずつ〕の脛の骨、〔一つずつの足における〕一つ〔ずつ〕の膝の骨、〔一つずつの足における〕一つ〔ずつ〕の腿の骨、二つの腰の骨、十八の脊椎の骨、【254】二十四の肋の骨、十四の胸の骨、一つの心臓の骨、二つの鎖骨、二つの肩甲骨、二つの腕の骨、〔一つずつの手における〕二つずつの前腕の骨、七つの首の骨、二つの顎の骨、一つの鼻の骨、二つの眼の骨、二つの耳の骨、一つの額の骨、一つの頭頂の骨、九つの頭蓋の骨、という、このように、三百ばかりの骨がある。それら〔の骨〕は、全てもろともに、色艶〔の観点〕からは、白きものとなる。外貌〔の観点〕からは、種々なる外貌がある。

 

§102  まさに、そこにおいて、足の指の先端の諸骨は、カタカ〔樹〕の種の外貌があり、その直後の、中間の結節の諸骨は、パナサ〔樹〕の核の外貌があり、根元の結節の諸骨は、小鼓の外貌がある。足の甲の諸骨は、打ち付けられた芋根の集まりの外貌がある。踵の骨は、一つの核があるターラ〔樹〕の果の種の外貌がある。

 

§103  〔二つの〕踝の骨は、〔紐で〕結んだ遊戯球の外貌がある。〔二つの〕脛の骨で、〔二つの〕踝の骨に止住している箇所は、皮を取り去ったシンディー〔樹〕の芽の外貌があり、小なる脛の骨は、弓棒の外貌があり、大なる〔脛の骨〕は、干涸びた蛇の背の外貌がある。膝の骨は、片側が完全に滅尽した泡沫の外貌がある。そこ(膝の骨)において脛の骨が止住している箇所は、先端が鋭くない牛の角の外貌がある。腿の骨は、拙く加工された鉈や斧の棒(柄)の外貌がある。その〔腿の骨〕の、腰の骨に止住している箇所は、遊戯球の外貌がある。その〔腿の骨〕によって腰の骨が止住している箇所は、先端が切断された大なるプンナーガ〔樹〕の果の外貌がある。

 

§104  〔二つの〕腰の骨は、二つでありながらも一つに連結されたものと成って、陶工の竈の外貌がある。単独では、鍛冶屋の槌の結び紐の外貌がある。〔脊椎の骨の〕端に止住している尻の骨は、下向きに為して掴み取られた蛇の鎌首の外貌があり、七つの箇所に種々の穴がある。〔十八の〕脊椎の骨は、内部(腹側)から〔見るなら〕、上に上にと据え置かれた鉛板の管の外貌があり、外(背中側)から〔見るなら〕、環の列の外貌がある。それらの中途中途には、鋸の歯に等しき二つか三つの棘が有る。

 

§105  二十四の肋の骨のうち、〔四つの〕円満成就していないものは、円満成就していない〔完成前の〕剣の外貌があり、【255】〔二十の〕円満成就したものは、円満成就した〔完成後の〕剣の外貌があり、全てもろともに、白き雛が翼を拡げた外貌がある。十四の胸の骨は、古くなった戦車の枠の外貌がある。心臓の骨は、匙の頭の外貌がある。〔二つの〕鎖骨は、小なる銅鉈の棒(柄)の外貌がある。〔二つの〕肩甲骨は、片側が完全に滅尽したシーハラ(セイロン)鋤の外貌がある。

 

§106  腕の諸骨は、鏡の棒(柄)の外貌がある。〔二つの〕前腕の骨は、対になったターラ〔樹〕の塊茎の外貌がある。〔二つの〕宝珠連結の骨(手首の骨)は、片側を接着させて据え置かれた鉛板の管の外貌がある。手の甲の諸骨は、打ち付けられた芋根の集まりの外貌がある。諸々の手の指〔の骨〕のうち、根元の結節の諸骨は、小鼓の外貌があり、中間の結節の諸骨は、円満成就していないパナサ〔樹〕の核の外貌があり、先端の諸骨は、カタカ〔樹〕の種の外貌がある。

 

§107  七つの首の骨は、棒で貫いて次第次第に据え置かれた筍の輪切りの外貌がある。下顎の骨は、鍛冶屋たちの鉄の槌の結び紐の外貌がある。上〔顎の骨〕は、〔作物の〕皮剥ぎの刃の外貌がある。〔四つの〕眼の穴と鼻の穴の骨は、髄を取り去った若いターラ〔樹の果〕の核の外貌がある。額の骨は、下向きに据え置かれた(※)真珠貝の皿の外貌がある。〔二つの〕耳の付け根の骨は、理髪師の剃刀の鞘の外貌がある。額と耳の付け根の上の、布結びの空間(ターバンを巻く部分)の骨は、縮んだ酪の詰めものの膜の切れ端の外貌がある。頭頂の骨は、口を切った彎曲椰子の外貌がある。〔九つの〕頭〔蓋〕の骨は、縫い合わせて据え置かれた古い瓢箪瓶の外貌がある。

 

※ テキストには adhomukhaṭṭhipita とあるが、VRI版により adhomukhaṭṭhapita と読む。

 

§108  方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕、全肉体に止住しているものとなる。いっぽう、差異〔の観点〕(分析的見地)によって〔説くなら〕、ここにおいて、頭の諸骨は、首の諸骨に止住しているものとなり、首の諸骨は、脊椎の諸骨に、脊椎の諸骨は、腰の諸骨に、腰の諸骨は、腿の諸骨に、腿の諸骨は、膝の諸骨に、膝の諸骨は、脛の諸骨に、脛の諸骨は、踝の諸骨に、踝の諸骨は、足の背の諸骨に止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、内は、骨髄によって〔限定され〕、上は、肉によって〔限定され〕、先端においては、さらに、根元においても、互いに他によって限定されたものとなる。これが、それら(骨)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

191.

 

§109  (9)「骨髄」とは、諸々の骨のそれぞれの内部に在している髄である。それは、色艶〔の観点〕からは、白きものとなる(※)。外貌〔の観点〕からは、種々の大なる【256】諸骨の内部に在している〔髄〕は、竹筒のなかに入れて熱した大筍の外貌がある。種々の小なる〔諸骨〕の内部に在している〔髄〕は、竹棒の諸結節のなかに入れて熱した細筍の外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、諸骨の内部に止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、諸骨の内部の面によって限定されたものとなる。これが、それ(骨髄)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

※ テキストには tesa とあるが、VRI版により seta と読む。

 

192.

 

§110  (10)「腎臓」とは、一つに連結された二つの肉の団塊である。それは、色艶〔の観点〕からは、淡く赤きものとなり、パーリバッダカ〔樹の果〕の核の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、幼児たちの対になった遊戯球の外貌がある。あるいは、一つの茎に連結された二つのアンバ果(マンゴー)の外貌がある。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、一つの根元である喉の底から出つつも少し赴いて二種(二股)に別れる粗大なる腱と連結されたものと成って、心臓の肉を囲んで止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、腎臓は、腎臓〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(腎臓)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

193.

 

§111  (11)「心臓」とは、心臓の肉である。それは、色艶〔の観点〕からは、赤きものとなり、赤蓮の花弁の背の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、外にある諸々の花弁を取り去って下向きに据え置かれた赤蓮の蕾の外貌がある。外は、艶やかで、内は、糸瓜の果の内部に等しきものとなる。智慧ある者たちの〔心臓は〕、少し拡張しているが、薄弱なる智慧の者たちの〔心臓は〕、まさしく、蕾んでいる。そして、その〔心臓〕の内には、プンナーガ〔樹の果〕の核が止住するほどの洞が有り、そこにおいては、半パサタ(容積の単位・一パサタは一合)ほどの血が止住し、その〔血〕に依拠して、そして、意の界域(意界)が〔転起し〕、さらに、意の識知〔作用〕の界域(意識界)が転起する。

 

§112  また、〔まさに〕その、この〔心臓〕は、貪欲の行ないの者のばあい、赤きものと成り、憤怒の行ないの者のばあい、黒きものと〔成り〕、迷妄の行ないの者のばあい、肉を洗浄した水に等しき〔色艶〕と〔成り〕、思考の行ないの者のばあい、えんどう豆の煮汁の色艶と〔成り〕、信の行ないの者のばあい、カニカーラ〔樹〕の花の色艶と〔成り〕、智慧の行ないの者のばあい、透明で、澄浄で、混濁なく、白く、完全なる清浄で、洗い清められた天然の宝珠のように、光輝あるものに見える。

 

§113  方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、肉体の内部において、二つの乳房の中央に止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、心臓は、心臓〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(心臓)にとって、【257】部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

194.

 

§114  (12)「肝臓」とは、対になった肉の膜である。それは、色艶〔の観点〕からは、赤きものとなり、薄き赤なる界域(色素)のものにして、濃き赤なることはなく、白蓮の花弁の背の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、根元においては、一つであるが、先端においては、対になったコーヴィラーラ〔樹〕の葉の外貌がある。そして、それは、遅鈍なる者たちのばあい、まさしく、一つの、大なるものと成り、智慧ある者たちのばあい、あるいは、二つの、あるいは、三つの、小なるものと〔成る〕。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、二つの乳房の内部において、右側に依拠して止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、肝臓は、肝臓〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(肝臓)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

195.

 

§115  (13)「肋膜」とは、覆われたものと覆われていないものの細別〔の観点〕から、二種類の覆包肉となる。それは、二種類ともどもに、色艶〔の観点〕からは、白きものとなり、ドゥクーラの布切れの色艶がある。外貌〔の観点〕からは、自己の空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、覆われた肋膜は、上の方角に〔生じたものとなり〕、他のものは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、覆われた肋膜は、そして、心臓を、さらに、腎臓を、〔両者を〕覆って〔止住しているものとなり〕、覆われていない肋膜は、全肉体において、皮の下に肉を覆い包んで止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、下は、肉によって〔限定され〕、上は、皮によって〔限定され〕、横は、肋膜〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(肋膜)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

196.

 

§116  (14)「脾臓」とは、胃〔の上部〕にある舌〔の形をした〕肉である。それは、色艶〔の観点〕からは、青きものとなり、ニッグンディ〔樹〕の花の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、七アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)の量のもので、〔他との〕連結なく、黒牛の舌の外貌がある。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、心臓の左側にあり、胃の膜の頭側(胃の上部)に依拠して止住しているものとなる。すなわち、打撃を与えることで外に出たときは、有情たちにとって、生命の滅尽と成る。限定〔の観点〕からは、脾臓〔の周囲〕の部分によって(※)限定されたものとなる。これが、それ(脾臓)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

※ テキストには pihakabhāvena とあるが、VRI版により pihakabhāgena と読む。

 

197.

 

§117  (15)「肺臓」とは、三十二の肉切れの細別ある肺臓の肉である。それは、色艶〔の観点〕からは、赤きものとなり、熟し過ぎない無花果の果の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、平坦ならずに切られた厚い菓子の切れ端の外貌がある。〔肉体の〕内部において、諸々の食べたものや飲んだものの状態なきときは、行為()から生じる火熱の上昇あることで〔肺臓が〕侵されることから、噛み砕かれた藁の団塊のように、効用なく、滋養なきものとなる。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、肉体の内部において、二つの乳房の間に、そして、心臓を、【258】さらに、肝臓を、〔両者を〕上に覆い隠して、垂れ下がりつつ止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、肺臓〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(肺臓)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

198.

 

§118  (16)「腸」とは、男のばあい、三十二ハッタ(長さの単位・一ハッタは約五十センチ)あり、女のばあい、二十八ハッタある、二十一の箇所において折れ曲がった腸の管である。〔まさに〕その、この〔腸〕は、色艶〔の観点〕からは、白きものとなり、小砂の石膏の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、血の桶のなかに〔形を〕組んで据え置かれた頭を切った蛇の外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、上は、喉の底に〔連結し〕、かつまた、下は、糞の道に連結していることから、喉の底と糞の道を極限とする肉体の内部に止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、腸の〔周囲の〕部分によって(※)限定されたものとなる。これが、それ(腸)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

※ テキストには antabhogena とあるが、VRI版により antabhāgena と読む。

 

199.

 

§119  (17)「腸間膜」とは、〔二十一の〕腸の蜷局の箇所において〔腸の管を〕連結する〔膜〕である。それは、色艶〔の観点〕からは、白きものとなり、ダカシータリカ〔草〕の根の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、まさしく、ダカシータリカ〔草〕の根の外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、鋤や斧の作業等々を為している者たちが機具を引き上げる時に諸々の機具板を〔連結する〕機具糸のように、〔二十一の〕腸の蜷局が落ちることなく一緒に連結して、足拭き縄の輪の間に縫い合わせて据え置かれた縄のように、二十一の腸の蜷局の間に止住しているものとなる。限定〔の観点〕からは、腸間膜〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(腸間膜)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

200.

 

§120  (18)「胃物」とは、胃に有るもので、食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものである。それは、色艶〔の観点〕からは、飲み下された食の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、濾過器のなかの緩く結び連なる米の外貌がある。

 

§121  方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、胃のなかに止住しているものとなる。「胃」というのは、両側から搾られている水気ある衣の中央に生じた膨らみに等しきもので、腸の膜である。外は、艶やかで、内は、肉屑を包む汚れたパーヴァーラ〔樹〕の花に等しきものとなる。腐熟したパナサ〔樹の果〕の皮の内部に等しきものとなる、と説くのもまた順当である。そこにおいては、タッコータカー(蛆虫)、ガンドゥッパーダカー(腫物を起こす虫)、ターラヒーラカー(ターラの葉を裂く虫)、スーチムカカー(針口虫)、パタタントゥカー(布紐虫)、スッタカー(糸虫)、という、このような〔名前〕等の、三十二の族種の細別ある虫たちが満ち溢れて動き回り、群れに群れて歩むものたちと成って居住し、それら〔の虫〕たちは、飲み物や食料等が【259】見出されないときは、飛び上がっては鳴動しつつ心臓の肉を打ち破り、さらに、飲み物や食料等が飲み下される時刻には、口を上にするものたちと成って、最初に飲み下された二〔口〕三口を、急ぎに急いで奪い取る。それ(胃)は、それらの虫たちの産屋と〔成り〕、便壷と〔成り〕、病舎と〔成り〕、さらに、墓場と成る。そこにおいて、それは、たとえば、また、まさに、チャンダーラ(旃陀羅:賎民・非人)の村の門にあるどぶ池において、猛暑の時に土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、〔その〕水によって、尿や糞や皮や骨や腱の切れ端や唾液や鼻水や血等の種々なる死骸(汚物)の類が運ばれながら〔池に〕流れ落ちて、泥水と混ぜ合わされたものが、二日、三日と経過して、虫の族種が生じ、太陽の光熱によって勢いよく腐熟され、上に上にと諸々の泡沫や泡粒を放ちながら、紺碧の色艶となり、最高の悪臭がする忌避されるものとなり、まさしく、近しく赴くにも〔値せ〕ず、見るにも値しない形態たることを惹起して──ましてや、あるいは、嗅ぐにも〔値せず〕、あるいは、味わうにも〔値せずして〕──止住するように、まさしく、このように、種々なる流儀の飲み物や食料等は、歯の杵によって砕かれ、舌の手によって遍く転起させられ、唾液やつばによって捏ね回された、まさしく、その瞬間に、色艶や臭気や味感等は離れ去り、同様に、織紐屋の糊や犬の吐瀉物に等しきものとなり、〔胃に〕流れ落ちて、胆汁や痰や風によって包まれたものと成って、胃の火熱によって勢いよく腐熟され、虫の種々なる族種が〔生じ〕、上に上にと諸々の泡沫や泡粒を放ちながら、最高の屑たる悪臭がする忌避される状態を惹起して止住する。それを聞いてもまた、飲み物や食料等々にたいし快意ならざる〔思い〕が確立する。ましてや、智慧の眼で眺め見て、〔確立しないはずがない〕。そして、そこにおいて、落ちた飲み物や食料等は、五種に遠離して赴く(分散する)。一部分を、命あるものたちが喰い、一部分を、胃の火が燃やし、一部分は、尿と成り、一部分は、糞と〔成り〕、一部分は、液の状態を惹起して血や肉等々を増進させる(滋養となって血肉を形成する)。

 

§122  限定〔の観点〕からは、まさしく、そして、胃の膜によって〔限定され〕、さらに、胃物〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(胃物)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

201.

 

§123  (19)「糞」とは、便である。それは、色艶〔の観点〕からは、多くのところは、まさしく、飲み下された食の色艶があるものと成る。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、下の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、大腸のなかに止住しているものとなる。

 

§124  「大腸」というのは、臍の下と脊椎の根元の間、【260】腸の最後にある、高さにして、八アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)ほどの、竹筒に等しきものである。そこにおいて、それは、たとえば、また、まさに、高い土地の部分に落ちた雨水が下り降りて、下の土地の部分を満たして止住するように、まさしく、このように、それが何であれ、胃の腑に落ちた飲み物や食料等のものは、胃の火によって泡立ち、爛熟したうえにも爛熟し、砥石によって粉砕されたもののように、軟柔の状態を(※)惹起して、腸の穴を下り降りては下り降りて、押し潰して竹の節に盛る黄色の粘土のように、蓄積されたものと成って止住する。

 

※ テキストには sahabhāga とあるが、VRI版により sahabhāva と読む。

 

§125  限定〔の観点〕からは、まさしく、そして、大腸の膜によって〔限定され〕、さらに、糞〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(糞)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

202.

 

§126  (20)「脳味噌」とは、頭蓋の内部に止住している髄の集積物である。それは、色艶〔の観点〕からは、白きものとなり、蛇の傘(茸)の団塊の色艶がある。酪の状態に達し得ていない汚れた乳(発酵しかけの牛乳)の色艶がある、と説くのもまた順当である。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、頭蓋の内部において、四つの縫い合わせの道(縫合部)に依拠して、結合して据え置かれた四つの粉団子のように収められ、止住する。限定〔の観点〕からは、まさしく、そして、頭蓋の内部の諸面によって〔限定され〕、さらに、脳味噌〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(脳味噌)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

203.

 

§127  (21)「胆汁」とは、二〔種〕の胆汁である。そして、結縛された胆汁(固着性のもの)であり、さらに、結縛されていない胆汁(非固着性のもの)である。そこにおいて、結縛された胆汁は、色艶〔の観点〕からは、濃厚なマドゥカ〔樹〕の油の色艶がある。結縛されていない胆汁は、干涸びたアークリー〔樹〕の花の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、両者ともどもに、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、結縛された胆汁は、上の方角に生じたものとなり、他のものは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、結縛されていない胆汁は、髪と毛と歯と爪〔等々〕の、まさしく、そして、肉から離れた箇所を〔除いて〕、さらに、硬直し乾燥した皮を除いて、水に油の滴が〔広がる〕ように、残りの肉体に遍充して止住しているものとなる。その〔胆汁〕が〔怒りの思いで〕動乱したとき、〔両の〕眼は、黄ばんだものと成り、迷走し、五体は揺れ動き、むずむずする。結縛された胆汁は、心臓と肺臓の間に、肝臓の肉に依拠して確立している、大糸瓜の瓢に等しき胆嚢のなかに止住しているものとなる。その〔胆汁〕が〔怒りの思いで〕動乱したとき、有情たちは、狂者たちと成り、転倒した心の者たちと〔成り〕、恥〔の思い〕()と〔良心の〕咎め()を捨てて、為すべきではないことを為し、語るべきではないことを語り、思い考えるべきではないことを思い考える。限定〔の観点〕からは、胆汁〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(胆汁)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

204.

 

§128  【261】(22)「痰」とは、肉体の内部における、一つの鉢に満ちる量の痰である。それは、色艶〔の観点〕からは、白きものとなり、ナーガバラーの葉液の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、胃の膜に止住しているものとなる。それは、飲み物や食料等が飲み下される時においては、それは、たとえば、また、まさに、水のうえの苔草が、あるいは、木片が〔落ちるとき〕、あるいは、小石が落ちるとき、断ち切られて二様のものと成って、ふたたび覆い被さって〔元のように〕止住するように、まさしく、このように、飲み物や食料等が〔胃に〕落ちるとき、断ち切られて二様のものと成って、ふたたび覆い被さって〔元のように〕止住する。そして、それ(痰)が弱きものと成ったとき、爛熟した腫物のように、さらに、腐った鶏卵のように、胃は、最高に忌避される、死骸(汚物)の臭いあるものと成り、かつまた、それより立ち昇った臭いで、吐く息であろうが、口であろうが、悪臭がする腐った死骸(汚物)に等しきものと成る。そして、その人は、「離れよ、〔おまえは〕悪臭を放っている」と説かれるべき〔状態〕を惹起する。そして、それ(痰)が増大して、濃厚さを惹起したなら、便壷の蓋板のように、まさしく、胃の膜の内部において、死骸(汚物)の臭いを押さえ付けて止住する。限定〔の観点〕からは、痰〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(痰)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

205.

 

§129  (23)「膿」とは、腐った血を所以に転起された膿である。それは、色艶〔の観点〕からは、枯れ葉の色艶がある。いっぽう、死んだ肉体においては、腐った濃厚な粥の色艶あるものと成る。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に有る。また、空間〔の観点〕からは、膿のばあい、そこにおいて、それ(膿)が蓄積され、止住するであろう、空間は、まさに、結縛されたもの(固着性のもの)は存在しない。そこかしこにおいて、杭や棘や打撃や火傷等々によって害された肉体の場所に血が止住して爛熟するなら、あるいは、腫物や吹出物等々が生起するなら、そこかしこにおいて、〔膿は〕止住する。限定〔の観点〕からは、膿〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(膿)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

206.

 

§130  (24)「血」とは、二〔種〕の血である。そして、蓄積された血(固着性のもの)であり、さらに、循環する血(非固着性のもの)である。そこにおいて、蓄積された血は、色艶〔の観点〕からは、煮られた濃厚な〔赤の〕染料液の色艶がある。循環する血は、澄んだ〔赤の〕染料液の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、両者ともどもに、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、蓄積された血は、上の方角に生じたものとなり、他のものは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、循環する血は、まさしく、そして、髪と毛と歯と爪の肉から離れた箇所を〔除いて〕、さらに、硬直し乾燥した皮を除いて、血管の網に従い行くことで、執取された肉体の全てを充満して止住しているものとなる。蓄積された血は、肝臓の箇所の下の部分を【262】満たして、一つの鉢に満ちるほどのもので、心臓と腎臓と肺臓の上に少しずつ流れ出ながら、腎臓と心臓と肝臓と肺臓を潤しつつ止住しているものとなる。まさに、それ(血)が腎臓や心臓等々を潤さずにいるとき、有情たちは、渇きある者たちと成る。限定〔の観点〕からは、血〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(血)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

207.

 

§131  (25)「汗」とは、毛穴等々から流れ出る水の界域(液体)である。それは、色艶〔の観点〕からは、澄浄なる胡麻油の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、汗のばあい、そこにおいて、それ(汗)が血のように常に止住するであろう、空間は、まさに、結縛されたもの(固着性のもの)は存在しない。また、すなわち、火の熱や太陽の熱や季節の変異等々によって、肉体が熱せられるとき、そのとき、水から引き抜かれたばかりの、平坦ならずに切られた蓮の芽や蓮の茎の束のように、諸々の髪や毛の穴の裂け目の全てから、〔汗は〕流れ出る。それゆえに、その外貌もまた、まさしく、諸々の髪や毛の穴の裂け目を所以に知られるべきである。そして、汗〔の形相〕を遍く遍く収め取る者としてある〔心の〕制止者によって、まさしく、諸々の髪や毛の穴の裂け目を満たして止住しているものを所以に、汗〔の形相〕が、意が為されるべきである。限定〔の観点〕からは、汗〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(汗)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

§132  (26)「脂肪」とは、沈滞の脂肪である。それは、色艶〔の観点〕からは、裂けた鬱金の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、まずは、粗大なる肉体(肥満体)のばあい、皮と肉の間に据え置かれた、鬱金の色艶あるドゥクーラの布切れの外貌がある、と〔知られるべきである〕。痩せ細った肉体のばあい、脛の肉、腿の肉、脊椎に依拠した背の肉、胃の周囲の肉、という、これら〔の肉〕に依拠して、二重三重に作り為して据え置かれた、鬱金の色艶あるドゥクーラの布切れの外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、粗大なる〔肉体〕のばあい、全肉体を充満して〔止住しているものとなり〕、痩せ細った〔肉体〕のばあい、脛の肉等々に依拠して止住しているものとなる。すなわち、たとえ、「脂質」という名称に至った(名づけられた)として、最高に忌避されるものたることから、〔それを、人々が〕頭に〔塗る〕油を義(目的)として〔収め取ることは〕、まさしく、なく、鼻に〔塗る〕油等々を義(目的)として収め取ることもない。限定〔の観点〕からは、下は、肉によって〔限定され〕、上は、皮によって〔限定され〕、横は、脂肪〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(脂肪)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

208.

 

§133  (27)「涙」とは、〔両の〕眼から流れ出る水の界域(液体)である。それは、色艶〔の観点〕からは、澄浄なる胡麻油の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。【263】方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、〔両の〕眼の穴に止住しているものとなる。しかしながら、この〔涙〕は、胆嚢における胆汁のように、〔両の〕眼の穴に常に蓄積されたものとして止住することはない。また、すなわち、有情たちが、悦意を生じた者たちとなり、大笑いに笑い、失意を生じた者たちとなり、泣き叫び、嘆き悲しみ、あるいは、そのような形態の平常ならざる食を食するとき、さらに、すなわち、彼らの〔両の〕眼が煙や塵や砂等々によって害されるとき、そのとき、〔涙は〕これらの悦意や失意や〔平常と〕相違する食(動力源・エネルギー)や季節(気候・気温)から現起して(※)、〔両の〕眼の穴を満たして、あるいは、止住し、あるいは、流れ出る。そして、涙〔の形相〕を遍く遍く収め取る者としてある〔心の〕制止者によって、まさしく、〔両の〕眼の穴を満たして止住しているものを所以に、〔涙の形相が〕遍く収め取られるべきである。限定〔の観点〕からは、涙〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(涙)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

※ テキストには samaṭṭhahitvā とあるが、VRI版により samuṭṭhahitvā と読む。

 

209.

 

§134  (28)「膏」とは、溶解した脂質である。それは、色艶〔の観点〕からは、椰子油の色艶がある。粥に注がれた油の色艶がある、と説くのもまた順当である。外貌〔の観点〕からは、沐浴の時に澄浄なる水の上で浮遊する脂質の滴が広がったものの外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、多くのところは、手の平と手の甲と足の裏と足の甲と鼻の袋(鼻の穴)と額と肩の峰(肩の先)に止住しているものとなる。しかしながら、この〔膏〕は、これらの空間において、まさしく、溶解したものと成って、常に止住することはなく、また、すなわち、火の熱や太陽の熱や季節の〔平常との〕相違や界域の〔平常との〕相違によって、それらの部分が熱を生じたものと成るとき、そのとき、そこにおいて、沐浴の時に澄浄なる水の上で〔浮遊する〕脂質の滴が広がったように、こちらからもあちらからも行き来する(浮き出る)。限定〔の観点〕からは、膏〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(膏)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

210.

 

§135  (29)「唾液(※)」とは、口内における泡沫の混合ある水の界域(液体)である。それは、色艶〔の観点〕からは、白きものとなり、泡沫の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。泡沫の外貌がある、と説くのもまた順当である。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、両の頬の側から降りて舌に止住しているものとなる。しかしながら、この〔唾液〕は、ここ(舌)において、蓄積されたものと成って、常に止住することはない。また、すなわち、有情たちが、そのような形態の食を、あるいは、見、あるいは、思念し、あるいは、熱いものや苦いものや辛いものや塩のものや酸っぱいもののなかの何らかのものを口に据え置くとき、あるいは、すなわち、彼らの心臓が弱まり、あるいは、何らかの或るものにたいし、忌避〔の思い〕が生起するとき、そのとき、唾液が生起して、両の頬の側から降りて舌に止住する。かつまた、この〔唾液〕は、舌の先端においては、薄いものと成り、舌の根元においては、濃いものと〔成る〕。そして、あるいは、〔精米していない〕米が、あるいは、〔精米した〕米が、あるいは、何であれ、咀嚼されるべきものが、口に置かれたなら、川の砂岸に掘られた穴のなかの水のように、まさしく、完全なる滅尽に【264】至らずにあり、〔口を〕潤すことができるものと成る。限定〔の観点〕からは、唾液〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(唾液)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

※ テキストには Keo とあるが、VRI版により Kheo と読む。

 

211.

 

§136  (30)「鼻水」とは、脳味噌から流れ出る不浄物である。それは、色艶〔の観点〕からは、若いターラ〔樹の果〕の核の髄の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、上の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、〔両の〕鼻の袋(鼻の穴)を満たして止住しているものとなる。しかしながら、この〔鼻水〕は、ここ(鼻の袋)において、蓄積されたものと成って、常に止住することはない。そこで、まさに、すなわち、人が、まさに、蓮の葉に乳酪を結び包んで、下から刺し棒で貫くなら、そこで、この穴から乳清が(※)滴り出て外に落ちるように、まさしく、このように、すなわち、有情たちが、泣き叫び、あるいは、〔平常と〕相違する食や季節を所以に生じた界域の変動(体調の異変)ある者たちと成るとき、そのとき、頭の内から腐った痰の状態を惹起した脳味噌が滴り出て、口蓋の頂の裂け目から入って〔両の〕鼻の袋(鼻の穴)を満たして、あるいは、止住し、あるいは、流れ出る。そして、鼻水〔の形相〕を遍く遍く収め取る者としてある〔心の〕制止者によって、まさしく、〔両の〕鼻の袋を満たして止住しているものを所以に、〔鼻水の形相が〕遍く収め取られるべきである。限定〔の観点〕からは、鼻水〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(鼻水)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

※ テキストには adhimutta とあるが、VRI版により dadhimutta と読む。

 

212.

 

§137  (31)「髄液」とは、諸々の肉体の関節の内部における、ぬるぬるした死骸(汚物)である。それは、色艶〔の観点〕からは、カニカーラ〔樹〕の樹脂の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、〔自己の〕空間の外貌がある。方角〔の観点〕からは、〔上下〕二つの方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、諸々の骨の関節の潤滑作用を遂行しつつ、百八十の関節の内部に止住しているものとなる。そして、彼の、この〔髄液〕が弱きものと成るなら、彼が、立っていても、坐っていても、進んでいても、戻っていても、〔身を〕曲げていても、〔身を〕伸ばしていても、諸々の骨はカタカタときしみ、弾指の音を為している者のように行き来し、一ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)か二ヨージャナほどの旅程を赴いたとして、〔関節における〕風の界域は動乱し、五体は苦しむ。いっぽう、彼の、〔諸々の髄液が〕多きものと成るなら、彼が、立つ坐る等々において、諸々の骨はカタカタときしまず、たとえ、長き旅程を赴いたとして、〔関節における〕風の界域は動乱せず、五体は苦しまない。限定〔の観点〕からは、髄液〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(髄液)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

213.

 

§138  (32)「尿」とは、尿液である。それは、色艶〔の観点〕からは(※)、豆の灰汁の色艶がある。外貌〔の観点〕からは、下向きに据え置かれた水瓶の内部に在る水の外貌がある。方角〔の観点〕からは、下の方角に生じたものとなる。空間〔の観点〕からは、膀胱の内部に止住しているものとなる。「膀胱」というのは、膀胱の袋と説かれる。そこにおいて、それは、たとえば、また、どぶ池に捨て置かれた、口のない水漏れ鉢において、【265】どぶ池の液が入り、かつまた、その〔液〕の入る道が〔鉢において〕覚知されないように、まさしく、このように、肉体から尿が入り、かつまた、その〔尿〕の入る道は〔膀胱において〕覚知されない。いっぽう、出る道は、明白なるものと成る。そして、すなわち、〔膀胱に〕尿が満ちたときは、「〔わたしたちは〕尿を為すのだ」と、有情たちの専業が有る(放尿する)。限定〔の観点〕からは、尿〔の周囲〕の部分によって限定されたものとなる。これが、それ(尿)にとって、部分を共にする限定〔の範囲〕となる。また、部分を共にしない限定〔の範囲〕は、まさしく、髪に等しきものとなる。

 

※ テキストには ti vaṇṇato とあるが、VRI版により ti muttarasa. Ta vaṇṇato と読む。

 

214.

 

 [(四)〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の生起]

 

§139  まさに、このように、諸々の髪等々の部位を、色艶と外貌と方角と空間と限定を所以に定め置いて(§58)、〔前に説かれた〕「順次〔の観点〕から」「急速過ぎることなき〔の観点〕から」(§61)という〔言葉〕等の方法によって、色艶と外貌と臭気と依拠と空間を所以に(§84)、五種に、「嫌悪なるものである」「嫌悪なるものである」と意を為していると、通称の超越〔の観点〕(§66)の最後において、それは、たとえば、また、眼ある人が、三十二の〔種々なる〕色艶の花を一つの糸で束ねた花飾を眺め見ていると、全ての花が、前なく後なきかのように明白なるものと成るように、まさしく、このように、「この身体には、諸々の髪が存在する」と、この身体を眺め見ていると、それらの諸法(性質)は、全てが、前なく後なきかのように明白なるものと成る。それによって説かれた。意を為すことに巧みな智についての言説において、「なぜなら、初学の者のばあい、『諸々の髪がある』と、意を為しつつ、〔いつのまにか〕意を為すことが赴いて、『尿がある』という、この、まさしく、結末の部位へと〔意を〕持ち運んで、〔意を為すことが〕止住するからであり、[さらに、『尿がある』と、意を為しつつ、〔いつのまにか〕意を為すことが赴いて、『諸々の髪がある』という、この、まさしく、最初の部位へと〔意を〕持ち運んで、〔意を為すことが〕止住するからである]」(§67)と。

 

§140  また、それで、もし、〔自己の内だけではなく〕外においてもまた、意を為すことを〔他者と〕対照するなら(他者の身体に目を向けるなら)、そこで、その〔心の制止者〕にとって、このように、〔三十二の〕全ての部位が明白なるものと成ったとき、逍遥している人間や畜生等々は、有情の行相を捨棄して、まさしく、〔三十二の〕部位の集積物を所以に現起し(身体各部位の集積体として顕現する)、かつまた、彼らによって飲み下されつつある飲み物や食料等は、〔三十二の〕部位の集積物に置きつつあるものであるかのように現起する。

 

§141  そこで、彼が、順次の解放〔の観点〕等を所以に、「嫌悪なるものである」「嫌悪なるものである」と、繰り返し意を為していると(§67)、順に、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が生起する。そこにおいて、諸々の髪等々の色艶と外貌と方角と空間と限定を所以にする現起は、収取の形相(取相:眼耳鼻舌身の五感官に依拠せず意感官だけで把捉できるようになった形相)であり、一切の行相〔の観点〕から嫌悪なるものを所以にする現起は、相似の形相(彼分相・似相:瞑想対象として心に思念された純粋形相)である。その〔相似の形相〕を習修し修める者には、〔前に〕説かれた方法によって(Ch.4§74)、〔十の〕浄美ならざるものという〔心を定める〕行為の拠点におけるように、第一の瞑想(初禅・第一禅)だけを所以に、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が生起する。その〔瞑想の境地に専注する禅定〕は、その〔心の制止者〕にとって、一つの部位だけが明白なるものと成り、あるいは、〔彼が〕一つの部位において〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得て〔そののち〕、ふたたび他〔の部位〕において〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)を為さないなら、彼には、一つ〔の瞑想の境地に専注する禅定〕だけが生起する。

 

§142  いっぽう、彼に、〔三十二のなかの〕幾つかの部位が明白なるものと成るなら、あるいは、〔彼が〕一つ〔の部位〕において瞑想〔の境地〕に至り得て〔そののち〕、ふたたび他〔の部位〕において〔心の〕制止を為すなら、彼には、マッラカ長老のように、〔為した〕部位の数によって、諸々の第一の瞑想〔の境地〕が発現する。

 【266】伝えるところでは、その尊者は、『ディーガ〔ニカーヤ〕(長部経典)』の朗読者たるアバヤ長老の手を掴んで、「友よ、アバヤよ、まずは、この問いを収め取りなさい」と説いて、言った。「マッラカ長老は、三十二の部位における三十二の第一の瞑想の得者です。それで、もし、〔彼が〕夜に一つ〔の部位〕に〔入定し〕昼に一つ〔の部位〕に入定するなら、半月余りで、ふたたび、〔彼は、得者として〕成就します。また、それで、もし、〔彼が〕毎日に一つ〔の部位〕に入定するなら、〔一〕月余りで、ふたたび、〔彼は、得者として〕成就します」と。

 

§143  そして、このように、たとえ、第一の瞑想を所以に実現しつつも、この〔心を定める〕行為の拠点は、〔身体における三十二の部位の〕色艶や外貌等々についての気づきの力によって実現することから、「身体の在り方についての気づき」と説かれる。

 

§144  そして、この身体の在り方についての気づきに専念する比丘は、「不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者と成り、かつまた、彼を、不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕が打ち負かすことはなく、生起した不満〔の思い〕を征服しては征服して〔世に〕住む。恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と成り、かつまた、彼を、恐怖と恐ろしさが打ち負かすことはなく、生起した恐怖と恐ろしさを征服しては征服して〔世に〕住む。寒さや暑さに、[飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、]忍耐ある者として〔世に〕有り、[諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない]命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有る」(マッジマ・ニカーヤ3p.97:一部異なる箇所あり)。〔彼は〕諸々の髪等々の色艶の細別に依拠して、四つの瞑想〔の境地〕の得者と成り、六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)を理解する(通達する)。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、〔気づきを〕怠ることなき賢者は、このように無数の福利ある、この身体の在り方についての気づきに専念するべきである」と。

 

 これが、身体の在り方についての気づきについての詳細の言説の門となる。

 

215.

 

 3 呼吸についての気づき(29)

 

§145  今や、すなわち、その──覚者(ブッダ)によって、「比丘たちよ、まさに、この、呼吸についての気づきという禅定もまた、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.321)と、このように賞賛して〔そののち〕──「比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを【267】現起させて。彼は、まさしく(※)、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。(一)あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。(二)あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。(三)『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。(四)『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕(身行)を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。(五)『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。](六)『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。](七)『〔わたしは〕心の形成〔作用〕(心行)の得知ある者として、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。](八)『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ(※※)、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。](九)『〔わたしは〕心の得知ある者として、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。](十)『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学びます。](十一)『〔わたしは〕心を定めつつ、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学びます。](十二)『〔わたしは〕心を解脱させつつ、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学びます。](十三)『〔わたしは〕無常の随観ある者として、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。](十四)『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。](十五)『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、[出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。](十六)『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.322)と、このように、十六の基盤(根拠・事態)ある、呼吸についての気づきという〔心を定める〕行為の拠点が釈示されたが──その〔心を定める行為の拠点〕の修行の方法〔についての釈示〕が、至り得るところとなった。

 

※ テキストには sato vā とあるが、VRI版により sato va と読む。

※※ テキストには passambhaya cittasakhāra cittapaisavedī とあるが、VRI版により passambhaya cittasakhāra と読む。

 

§146  また、その〔修行の方法〕は、すなわち、まさしく、聖典の解説に従い行くことで、説かれているものが、一切の行相の円満成就あるものと成ることから、それゆえに、ここにおいて、これが、聖典の解説を先行とする、〔修行の方法についての〕釈示となる。

 

216.

 

 「比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ」とは、ここにおいて、まずは、「どのように」とは、呼吸についての気づきという禅定の修行を(※)種々なる流儀から詳知させることを欲する問いのこと。「比丘たちよ、では」「呼吸についての気づきという禅定が修められ」とは、種々なる流儀から詳知させることを欲することから尋ねられた法(性質)の実例となる。

 「どのように多く為されたなら……略……寂止させるのですか」とは、ここにおいてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

※ テキストには ānāpānassatisamādhibhāvanāna とあるが、VRI版により ānāpānassatisamādhibhāvana と読む。

 

§147  そこにおいて、「修められ」とは、生起させられたなら、あるいは、増大させられたなら。

 「呼吸についての気づきという禅定」とは、呼吸〔の形相〕を遍く収め取る気づきと共に結び付いた禅定である。あるいは、呼吸についての気づきにおける禅定が、「呼吸についての気づきという禅定」。

 「多く為されたなら」とは、繰り返し為されたなら。

 

§148  「まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり」とは、まさしく、そして、寂静となり、まさしく、かつまた、精妙となり。両所において、「まさしく」という語による決定(確定・限定)が知られるべきである(片方だけではなく両者をともに強調する)。何が、〔ここにおいて〕説かれたものと成るのか。まさに、この〔呼吸についての気づきという禅定〕は、すなわち、〔十の〕浄美ならざるものという〔心を定める〕行為の拠点が、単に、〔瞑想の境地の〕理解を所以に、そして、寂静となり、かつまた、精妙となるとして、いっぽう、粗雑なる対象たることから、かつまた、嫌悪なる対象たることから、対象(所縁)を所以に、まさしく、寂静となることもなく、精妙となることもないように、このように、あるいは、寂静ならざるものとなることが、あるいは、精妙ならざるものとなることが、どのような様態によっても、ない(まさしく、寂静となり、精妙となる)。そこで、まさに、対象の寂静なることからもまた、寂静となり、寂止となり、寂滅となり、「〔瞑想の境地の〕理解(通達)」と名づけられた〔瞑想の〕支分の寂静なることからもまた、〔寂静となり、寂止となり、寂滅となり〕、対象の精妙なることからもまた、精妙となり、【268】〔修行における〕満足〔の思い〕を作り為さないものとなり(中途において満足しない)、〔「〔瞑想の境地の〕理解」と名づけられた瞑想の〕支分の精妙なることからもまた、〔精妙となり、修行における満足の思いを作り為さないものとなる〕。ということで、それによって説かれた。「まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり」と。

 

§149  また、「かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり」とは、ここにおいて、その〔呼吸についての気づきという禅定〕には、雑物が〔存在し〕ない、ということで、「無雑となり」。〔他物が〕注がれざるものにして、〔間に〕途切れなきもの、独一にして、独特のものとなり。ここにおいて、〔心の〕寂静なることは、あるいは、〔禅定のための〕事前作業〔としての瞑想〕(遍作:予備的瞑想)によって、あるいは、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)によって、存在するのではなく、〔心の〕最初の集中から以降は、自己の、まさしく、自ずからの状態(自性:固有の性能)によって、そして、寂静となり、かつまた、精妙となる、という義(意味)である。また、或る者たちは、「『無雑となり』とは、〔他物が〕注がれざるものにして、滋養があり、まさしく、自ずからの状態によって、甘美なるものである」と説く。このように、この〔呼吸についての気づきという禅定〕は、かつまた、無雑となり(※)、〔瞑想の境地に〕専注した〔瞬間〕専注した瞬間において、身体の属性としての〔安楽〕と心の属性としての安楽の獲得のために等しく転起することから、「かつまた、安楽の住となり」と知られるべきである。

 

※ テキストには secanako とあるが、VRI版により asecanako と読む。

 

§150  「生起しては生起した」とは、諸々の〔いまだ〕鎮静されていないもの、諸々の〔いまだ〕鎮静されていないものを。

 「諸々の悪しき」とは、諸々の悪辣なるものを。

 「善ならざる法(性質)を」とは、巧みな智(善巧)ならざるものから発生した諸法(性質)を。

 「即座に消没させ」とは、まさしく、瞬時に、消没させ、鎮静させる。

 「寂止させます」とは、巧妙に寂止させる。あるいは、〔呼吸についての気づきという禅定は〕洞察〔の智慧〕を部分とすることから、順次に聖者の道の増大に至り得たものとして、〔諸々の悪しき善ならざる法を〕断絶し(※)、安息させる、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

※ テキストには samacchindati とあるが、VRI版により samucchindati と読む。

 

§151  また、ここにおいて、これが、簡略の義(意味)となる。「比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定は、どのような流儀によって〔修められたなら〕、どのような行相によって〔修められたなら〕、どのような種類によって修められたなら、どのような流儀によって多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり……略……寂止させるのですか」と。

 

217.

 

§152  今や、その義(意味)を〔比丘たちに〕詳知させつつ、〔世尊は〕「比丘たちよ、ここに」という〔言葉〕等を言った。

 そこにおいて、「比丘たちよ、ここに、比丘が」とは、比丘たちよ、この〔世尊の〕教えにおいて、比丘が。なぜなら、この「ここに」という語は、ここにおいて、一切の流儀の呼吸についての気づきという禅定が発現した人にとっては、等しき依所と成った〔世尊の〕教えを遍く提示するものであり、さらに、他の教えのそのような状態を反駁するものであるからである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、まさしく、ここ(世尊の教え)に、沙門(預流たる者)があり、[ここに、第二の沙門(一来たる者)があり、ここに、第三の沙門(不還たる者)があり、ここに、第四の沙門(阿羅漢)がある。]他の(※)沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの」(マッジマ・ニカーヤ1p.63)と。それによって説かれた。「この〔世尊の〕教えにおいて、比丘が」と。

 

※ テキストには aññe とあるが、VRI版により aññehī と読む。

 

§153  「あるいは、林に赴き……略……あるいは、空家に赴き」とは、この〔言葉〕は、彼に、呼吸についての気づきという禅定の修行に適切なる臥坐所の遍き収取(理解・把握)を遍く提示するものである。なぜなら、この比丘の、長夜にわたり形態()等々の諸々の対象において拡乱した心は、呼吸についての気づきという禅定の対象を増進することを求めず、粗野な牛に結び付けられた車のように、まさしく、悪路を走り行くからである。それゆえに、それは、たとえば、また、まさに、牛飼いが、【269】粗野な乳牛の乳を飲んで増大(成長)した粗野な子牛を調御することを欲し、乳牛から離して、一方に大きな柱を掘り据えて、そこにおいて、結び紐で縛るなら、そこで、彼のその子牛は、こちらからも、あちらからも、もがいても逃げることができずに、まさしく、その柱〔の近く〕に、あるいは、近しく坐ることになり、あるいは、近しく横たわることになるように、まさしく、このように、この比丘もまた、長夜にわたり形態の対象等の味ある飲み物で増大した汚れた心を調御することを欲するとして、形態等の対象から〔心を〕離して、あるいは、林に……略……あるいは、空家に、〔心を〕導き入れて、そこにおいて、出息と入息の柱に、気づきの結び紐で縛るべきである。このように、彼のその心は、こちらからも、あちらからも、たとえ、もがいても、過去に習行した対象を得ずにいると、気づきの結び紐を断ち切って逃げることができずに、まさしく、その対象〔の近く〕に、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)と〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)を所以に、まさしく、そして、近しく坐り、さらに、近しく横たわる。それによって、過去の方たちは言う。

 

§154  〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、ここに、人が、調御する子牛を柱に縛るように、このように、自らの心を、気づきによって、〔瞑想の〕対象に堅固に縛るがよい」と。

 

 このように、彼にとって、その臥坐所は、修行に適切なるものと成る。それによって説かれた。「この〔言葉〕は、彼に、呼吸についての気づきという禅定の修行に適切なる臥坐所の遍き収取を遍く提示するものである」と。

 

§155  そこで、あるいは、すなわち、この、〔心を定める〕行為の拠点の細別における筆頭として有り、一切知者たる覚者や独覚や覚者の弟子たちにとって、殊勝〔の境地〕への到達となり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)の境処の拠点(直接原因)となる、呼吸についての気づきという〔心を定める〕行為の拠点は、瞑想にとって声は棘たることから、女や男や象や馬等の声が乱れ飛ぶ村の外れを完全に捨て去らずしては、修行するに為し易きものとならず、いっぽう、村ならざる林においては、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)によって(※)、この〔心を定める〕行為の拠点を遍く収め取って、呼吸〔についての気づき〕による第四の瞑想〔の境地〕を(※※)発現させて、まさしく、それを足場に作り為して(基礎として造作して)、諸々の形成〔作用〕(諸行)を〔あるがままに〕触知して(Ch.20§2)、至高の果たる阿羅漢の資質を得達するに為し易きものとなることから、それゆえに、彼に、適切なる臥坐所を見示しながら、世尊は、「あるいは、林に赴き」という〔言葉〕等を言った。

 

※ テキストには yogāvacare とあるが、VRI版により yogāvacarena と読む。

※※ テキストには ānāpānacatukkajjhāna とあるが、VRI版により ānāpānacatutthajjhāna と読む。

 

§156  まさに、地所の明知ある師匠(有能な風水師)のように、世尊はある。彼(ブッダ)は、あたかも、地所の明知ある師匠が、【270】城市の地を見て、巧妙に近しく注視して、「ここにおいて、城市を造作せよ」と指示し、そして、〔無事〕安穏に城市が出来上がったとき、王家の者から大いなる尊敬を得るように、まさしく、このように、〔心の〕制止を行境とする者に、適切なる臥坐所を近しく注視して、「ここにおいて、〔心を定める〕行為の拠点が専念されるべきである」と指示し、そののち、そこにおいて、〔心を定める〕行為の拠点に専念する〔心の〕制止者(瞑想修行者)が、順に、阿羅漢の資質に至り得たとき、「正等覚者である──まさに、彼は、世尊は」と、大いなる尊敬を得る。

 

§157  また、この比丘は、「豹に等しき者」と説かれる。まさに、すなわち、大いなる豹の王が、林のなかで、あるいは、草の茂みに〔依拠して隠れて〕、あるいは、林の茂みに〔依拠して隠れて〕、あるいは、山の茂みに依拠して隠れて、野牛や大鹿や猪等々の獣たちを収め取る(捕捉する)ように、まさしく、このように、この、林等々において〔心を定める〕行為の拠点に専念している比丘は、順々に、まさしく、そして、預流〔道〕と一来〔道〕と不還〔道〕と阿羅漢道を〔収め取り〕、さらに、聖者の果を収め取る、と知られるべきである。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、また、豹が、まさに、〔茂みに〕隠れて、獣たちを収め取る(捕捉する)ように、まさしく、そのように、この、覚者の子は、〔心の〕制止に専念する〔あるがままの〕観察者として、林に入って、最上の果を収め取る」と。

 

 それで、彼に、勤勉の速さ(修行の進み具合)に相応する地たる林の臥坐所を見示しながら、世尊は、「あるいは、林に赴き」という〔言葉〕等を言った。

 

218.

 

§158  そこにおいて、「林に赴き」とは、そして、「『林』とは、インダの杭(城市の門柱)から外に出て、この一切が、林である」(パティサンビダー・マッガ1p.176,ヴィバンガp.251)と、さらに、「『林にある臥坐所』というのは、最低でも、五百弓〔の距離〕あるところである」(ヴィナヤ4p.183)と、このように説かれた諸々の特相ある林のうち、それが何であれ、遠離の安楽ある林に赴き。

 「木の根元に赴き」とは、木の近くに赴き。

 「空家に赴き」とは、空なる遠離の空間に赴き。そして、ここにおいて、そして、林を、さらに、木の根元を、〔両者を〕除いて、残りの七種類の臥坐所(山・峡谷・岩窟・墓場・山林・野外・藁の集積所:マッジマ・ニカーヤ1p.181)に赴くこともまた、「空家に赴き」と説くのは順当である。

 

§159  【271】このように、彼(瞑想修行者)に、三つの季節に適宜にして、かつまた、〔痰と風と胆汁の三つの〕界域(体調)と〔貪欲と憤怒と迷妄と信と覚と思考の六つの〕性行に適宜なる、呼吸についての気づきの修行に適切なる臥坐所を指示して、陰鬱ならず高揚ならざる傾向にして、寂静なる〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥)を指示しながら、〔世尊は〕「〔瞑想のために〕坐ります」と言った。そこで、彼に、坐の堅固なる状態を、出息と入息の転起の安楽なることを、さらに、対象の遍き収取の手段を、〔それらを〕指示しながら、〔世尊は〕「結跏を組んで」という〔言葉〕等を言った。

 

§160  そこにおいて、「結跏を」とは、遍きにわたり腿が結ばれた坐(両足が完全に組まれた坐法)を。

 「組んで」とは、結んで。

 「身体を真っすぐに立てて」とは、上の肉体(上半身)を真っすぐに据え置いて、十八の脊椎〔の骨〕の端と端を引き締めて。なぜなら、このように坐っていると、諸々の皮と肉と腱が傾かないからである。そこで、彼の、すなわち、それら(十八の脊椎の骨)の傾きを縁として瞬間瞬間に生起するであろう、諸々の〔苦痛の〕感受()は、それらが生起することはない。それらが生起せずにいるとき、心は(※)、一境と成り、〔心を定める〕行為の拠点は、崩落せず、増大と増殖に近しく赴く。

 

※ テキストには anuppajjamānā sucitta とあるが、VRI版により anuppajjamānāsu citta と読む。

 

§161  「全面に気づきを現起させて」とは、〔心を定める〕行為の拠点に向かい、気づきを据え置いて。あるいは、そこで、「『全』とは、遍き収取の義(意味)である。『面』とは、出脱の義(意味)である。『気づき』とは、現起の義(意味)である。それによって説かれる。『全面に気づきを』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.176)と、このように、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた方法によってもまた、ここにおいて、義(意味)が見られるべきである。そこで、これが、簡略〔の説示〕となる。「出脱が遍く収め取られた気づきを作り為して」と。

 

219.

 

§162  「彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します」とは、その比丘は、このように坐って、そして、このように気づきを現起させて、その気づきを捨棄することなく、まさしく、気づきある者として出息し、気づきある者として入息し、気づきある為し手と成る、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

 [(一・二・三・四)十六の基盤のうち第一の四なるもの]

 

§163  今や、それらの行相によって、〔彼が〕気づきある為し手と成る──それら〔の行相〕を見示するために、〔世尊は〕「あるいは、長く出息しつつ」という〔言葉〕等を言った。まさに、このことが、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「彼は、まさしく、気づきある者として出息し、気づきある者として入息します」という、まさしく、この〔言葉〕の区分(詳説)において、「三十二の行相によって、気づきある為し手と成る。(1)長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。(2)長き入息を所以にする……略……(31)放棄の随観ある、出息を所以にする……略……(32)放棄の随観ある、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る」(パティサンビダー・マッガ1p.176-7)と。

 

§164  (一)そこにおいて、「あるいは、長く出息しつつ」とは、あるいは、長き出息を転起させている者として。【272】「『出息(アッサーサ)』とは、外に出る風である。『入息(パッサーサ)』とは、内に入る風である」と、律のアッタカター(注釈書)において説かれた。いっぽう、諸々の経のアッタカターにおいては、〔その〕反対に、〔「『アッサーサ』とは、内に入る風である。『パッサーサ』とは、外に出る風である」と〕言及された。そこにおいて、胎児たちのばあい、全てもろともに、母の子宮から出る時は、最初に、内部の風が外に出て行き、のちに、外の風が繊細なる塵を収め取って内部に入りつつ口蓋に運んで消え行く。まずは、このように、出息と入息が知られるべきである。

 

§165  また、すなわち、それらの長短なることであるが、それは、時間(期間)を所以に知られるべきである。まさに、すなわち、空間と時間を充満して止住した、あるいは、水が、あるいは、砂が、「長い水」「長い砂」「短い水」「短い砂」と説かれる(言語表現される)ように、このように、たとえ、細片の細片なるも、出息と入息は、そして、象の肉体においては、さらに、蛇の肉体においては、彼らの自己状態(個我的あり方・身体のこと)と見なされた長い時間(象や蛇の体長に合致する呼吸の時間)を徐々に満たして、まさしく、徐々に出て行き、それゆえに、「長き〔出息と入息〕」と説かれ、犬や兎等々の自己状態と見なされた短い時間(犬や兎の体長に合致する呼吸の時間)を急速に満たして、まさしく、急速に出て行き、それゆえに、「短き〔出息と入息〕」と説かれる。

 

§166  いっぽう、人間たちにおいては、時と時間(時点と期間)を所以に、誰であれ、象や蛇等々のように、そして、長く出息し、さらに、〔長く〕入息し、誰であれ、犬や兎等々のように、短く〔出息し、短く入息する〕。それゆえに、彼ら(人間たち)のばあい、時を所以に、長い時間を〔徐々に満たして〕、そして、出つつあり、さらに、入りつつあるなら、それらは、長き〔出息と入息〕であり、暫しの時間を〔急速に満たして〕、そして、出つつあり、さらに、入りつつあるなら、短き〔出息と入息〕である、と知られるべきである。

 

§167  そこで、この比丘は、九つの行相によって、長く出息しつつ、さらに、入息しつつ、「〔わたしは〕長く出息し、入息する」と覚知する。そして、このように覚知している彼には、一つの行相によって、身体の随観という気づきの確立(念処・念住)の修行が成就する(身念処が修められ成就する)、と知られるべきである。

 

§168  『パティサンビダー(無礙解道)』において、すなわち、〔聖典に〕言うように、「どのように、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するのか。(1)〔彼は〕長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(2)〔彼は〕長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(3)〔彼は〕長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。〔彼が〕長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。(4)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より繊細なる長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(5)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より繊細なる長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(6)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より繊細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼が〕より繊細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、歓喜が生起する。【273】(7)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より繊細なる長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(8)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より繊細なる長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(9)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より繊細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。歓喜を所以に、そののち、〔彼が〕より繊細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、長き出息と入息からもまた、心は還転し、放捨〔の心〕(:選択せず差別なき心)が確立する。これらの九つの行相によって、長き出息と入息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。『身体における身体の随観という気づきの確立の修行』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.177)と。

 

§169  (二)「短き〔出息〕」の句についてもまた、これが、〔共通する説示の〕方法となる。また、これが、差異となる。すなわち、ここにおいて、「〔彼は〕長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において」と説かれたように、このように、ここでは、「〔彼は〕短き出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息する」(パティサンビダー・マッガ1p.182)と言及された。それゆえに、〔長きではなく〕短きを所以に、すなわち、「それによって説かれる。『身体における身体の随観という気づきの確立の修行』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.183)という〔言葉〕まで、そのかぎりにおいて、〔長きに替えて短きが〕結合されるべきである(置き換えられるべきである)。

 

§170  このように、この者(瞑想修行者)は、長期を所以に、さらに、短期を所以に、これらの〔九つの〕行相によって、出息と入息を覚知している者として、「あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し……略……あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知する」と知られるべきである。そして、このように覚知している彼には──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そのような、長きものとして、さらに、短きものとして、出息があり、さらに、また、入息がある。比丘の、まさしく、鼻の先端において、四つの種別〔の呼吸〕が転起する」と。

 

220.

 

§171  (三)「『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』[と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、]入息するのだ』と学びます」とは、「〔わたしは〕出息の身体の全体の最初と中間と結末を、〔あるがままに〕見出されたものと為しつつ、〔明瞭で〕明白なるものと為しつつ、出息するのだ」と学び、「〔わたしは〕入息の身体の全体の最初と中間と結末を、〔あるがままに〕見出されたものと為しつつ、〔明瞭で〕明白なるものと為しつつ、入息するのだ」と学ぶ。このように、〔あるがままに〕見出されたものと為しつつ、〔明瞭で〕明白なるものと為しつつ、知恵と結び付いた心によって、まさしく、そして、出息し、さらに、入息し、それゆえに、「〔わたしは〕出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ、と説かれる。

 

§172  なぜなら、或る比丘のばあい、細片の細片となって広がった出息の身体において、あるいは、入息の身体において、最初が明白なるものと成り、中間と結末は〔成ることが〕なく、彼は、最初だけを遍く収め取ることができ、中間と結末において疲弊し、或る者のばあい、中間が明白なるものと成り、最初と結末は〔成ることが〕なく、或る者のばあい、結末が明白なるものと成り、最初と中間は〔成ることが〕なく、彼は、結末だけを遍く収め取ることができ、【274】最初と中間において疲弊するからである。或る者のばあい、全てもろともが明白なるものと成り、彼は、全てもろともに遍く収め取ることができ、どこにおいてであれ、疲弊せず、そのような者として〔世に〕有るべきである、と見示しながら、〔世尊は〕言う。「『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と……略……入息するのだ』と学びます」と。

 

§173  そこにおいて、「学びます」とは、このように、勤め、努力する。あるいは、ここにおいて、すなわち、そのような〔学び〕と成った者の統御が、これが、卓越の戒の学びとなり、すなわち、そのような〔学び〕と成った者の禅定が、これが、卓越の心(増上心:瞑想)の学びとなり、すなわち、そのような〔学び〕と成った者の智慧が、これが、卓越の智慧の学びとなる。かくのごとく、これらの三つの学びを、その対象において、その気づきによって、その意を為すことによって、学び、習修し、修め、多く為す。ということで、ここにおいて、このように、義(意味)が見られるべきである。

 

§174  そこにおいて、すなわち、彼のばあい、前に〔説かれた〕方法(一・二)においては、まさしく、単に、出息されるべきであり、入息されるべきであり、かつまた、他のものは、何であれ、為されるべきではないとして、いっぽう、これ(三)から以降は、知恵を生起させること等々において、〔心の〕制止が為されるべきことから、それゆえに、そこ(一・二)においては、まさしく、「『〔わたしは〕出息する』と覚知し、『〔わたしは〕入息する』と覚知します」と、転起している時〔の言葉〕(現在時制)を所以に聖典を説いて、これ(三)から以降は、〔心の制止が〕為されるべき、知恵を生起させること等の、行相の見示を義(目的)に、「〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ」という〔言葉〕等の方法によって、未来の言葉(未来時制)を所以に聖典が宣述された、と知られるべきである(これまでは現在時制で説かれたが、ここからは未来時制で説かれることになる)。

 

§175  (四)「『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と[学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、]入息するのだ』と学びます」とは、「〔わたしは〕粗雑なる身体の形成〔作用〕を静息させつつ、安息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ。

 

§176  そこで、このように、そして、〔身体の形成作用の〕粗雑なると繊細なることが〔知られるべきであり〕、さらに、〔身体の形成作用の〕静息が知られるべきである。まさに、この比丘のばあい、過去における、〔出息と入息が〕遍く収め取られていない時においては、そして、身体は、さらに、心も、〔両者ともに〕懊悩を有するものと成り、粗雑なるものと〔成り〕、身体と心の粗雑なることが寂止していないとき、出息と入息もまた、粗雑なるものと成り、より力あるものと成って転起し、鼻からできずに、口によって、出息もまたしつつ、入息もまたしつつ、〔彼は〕止住するが、また、すなわち、彼にとって、身体もまた〔遍く収め取られ〕、心もまた〔遍く収め取られ〕、〔両者ともに〕遍く収め取られたものと成るとき、そのとき、それらは、寂静なるものと成り、寂止したものと〔成り〕、それらが寂止したとき、出息と入息は、繊細なるものと成って転起し、「いったい、まさに、存在するのか、存在しないのか」と弁別されるべき行相に至り得たものと成る。

 

§177  それは、たとえば、また、人が、走って、あるいは、山から降りて、あるいは、大きな荷を頭から降ろして、立っていると、出息と入息は、粗雑なるものと成り、鼻からできずに、口によって、出息もまたしつつ、入息もまたしつつ、立つとして、また、すなわち、彼が、その疲労を除いて、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、【275】水気のある布を心臓に為して(胸に当てて)、涼やかな日影に横になった者と成るとき、そこで、彼の、それらの出息と入息は、繊細なるものと成り、「いったい、まさに、存在するのか、存在しないのか」と弁別されるべき行相に至り得たものと〔成る〕ように、まさしく、このように、この比丘のばあい、過去における、〔出息と入息が〕遍く収め取られていない時においては、そして、身体は、[さらに、心も、〔両者ともに〕懊悩を有するものと成り、粗雑なるものと〔成り〕、身体と心の粗雑なることが寂止していないとき、出息と入息もまた、粗雑なるものと成り、より力あるものと成って転起し、鼻からできずに、口によって、出息もまたしつつ、入息もまたしつつ、〔彼は〕止住するが、また、すなわち、彼にとって、身体もまた〔遍く収め取られ〕、心もまた〔遍く収め取られ〕、〔両者ともに〕遍く収め取られたものと成るとき、そのとき、それらは、寂静なるものと成り、寂止したものと〔成り〕、それらが寂止したとき、出息と入息は、繊細なるものと成って転起し、「いったい、まさに、存在するのか、存在しないのか」と]弁別されるべき行相に至り得たものと成る。

 

§178  それは、何を因とするのか。まさに、そのように、彼には、過去における〔出息と入息が〕遍く収め取られていない時においては、「粗雑なる〔身体の形成作用〕、粗雑なる身体の形成〔作用〕を、〔わたしは〕静息させるのだ」と、念慮や集中や意を為すことや綿密に注視することが存在せず、いっぽう、〔出息と入息が〕遍く収め取られた時においては存在する(瞬間瞬間における身体の形成作用に集中し注視することが可能となる)。それによって、彼には、〔出息と入息が〕遍く収め取られていない時よりも、〔出息と入息が〕遍く収め取られた時において、身体の形成〔作用〕は繊細なるものと成る。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「身体が、さらに、心が、懊悩を有するとき、〔出息と入息は〕旺盛に転起する。身体が懊悩を有さないとき、〔出息と入息は〕繊細に転起する」と。

 

221.

 

§179  〔出息と入息の〕遍き収取があるときにおいてもまた、〔出息と入息は〕粗雑なるものであり、第一の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において、繊細なるものとなる。その〔第一の瞑想における瞑想の境地に近接する禅定〕においてもまた、〔出息と入息は〕粗雑なるものであり、第一の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕において、繊細なるものとなる。そして、第一の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕においても、さらに、第二の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においても、〔出息と入息は〕粗雑なるものであり、第二の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕において、繊細なるものとなる。そして、第二の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕においても、さらに、第三の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においても、〔出息と入息は〕粗雑なるものであり、第三の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕において、繊細なるものとなる。そして、第三の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕においても、さらに、第四の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においても、〔出息と入息は〕粗雑なるものであり、第四の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕において、極めて繊細なるものとなり、まさしく、転起なき〔状態〕に至り得る。ということで、まずは、これが、『ディーガ〔ニカーヤ〕(長部経典)』の朗読者と『サンユッタ〔ニカーヤ〕(相応部経典)』の朗読者たちの認証するところ(見解)である。また、『マッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)』の朗読者たちは、「第一の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕においては、〔出息と入息は〕粗雑なるものであり、第二の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において、繊細なるものとなる」と、このように、それぞれの下の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕より、それぞれの上の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においてもまた、より繊細なる〔出息と入息〕を求める(主張し承認する)。いっぽう、まさしく、全て〔の朗読者〕の認証するところによるなら、〔出息と入息が〕遍く収め取られていない時において転起された身体の形成〔作用〕は、〔出息と入息が〕遍く収め取られた時において安息し、〔出息と入息が〕遍く収め取られた時において転起された身体の形成〔作用〕は、第一の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において〔安息し〕……略……第四の瞑想における〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において転起された身体の形成〔作用〕は、第四の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕において安息する。まずは、これが、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)における方法となる。

 

§180  また、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)においては、遍き収取がないときにおいて、転起された身体の形成〔作用〕は、粗雑なるものであり、〔四つの〕大いなる元素(大種:地・水・火・風)の遍き収取があるときにおいて、繊細なるものとなる。それもまた、粗雑なるものであり、〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態(所造色)の遍き収取があるときにおいて、繊細なるものとなる。それもまた、粗雑なるものであり、〔両者を合わせた〕全体の形態()の遍き収取があるときにおいて、繊細なるものとなる。それもまた、粗雑なるものであり、〔感受作用と表象作用と諸々の形成作用と識知作用の〕形態なきもの(無色)の遍き収取があるときにおいて、繊細なるものとなる。それもまた、粗雑なるものであり、形態と形態なきものの遍き収取があるときにおいて、繊細なるものとなる。それもまた、粗雑なるものであり、縁の遍き収取があるときにおいて、繊細なるものとなる。それもまた、粗雑なるものであり、縁と共に名前と形態(名色)を見ることにおいて、繊細なるものとなる。それもまた、粗雑なるものであり、〔無常と苦痛と無我の三つの〕特相を対象とする〔あるがままの〕観察において、繊細なるものとなる。それもまた、力弱き〔あるがままの〕観察においては、粗雑なるものであり、力ある〔あるがままの〕観察において、繊細なるものとなる。

 そこにおいて、まさしく、前に説かれた方法によって、それぞれの前のものには、それぞれの後のものによる安息が知られるべきである。ここにおいて、このように、そして、〔身体の形成作用の〕粗雑なると繊細なることが、さらに、〔身体の形成作用の〕静息が、知られるべきである。

 

§181  【276】また、『パティサンビダー(無礙解道)』において、その〔句〕の義(意味)が、質問と解答と共に、このように説かれた。

 「どのように、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』[と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、]入息するのだ』と学ぶのか。どのようなものが、身体の形成〔作用〕であるのか。長き諸々の出息は、[身体の属性であり、これらの法(性質)が、身体に連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。長き諸々の入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)が、身体に連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。短き諸々の出息は……略……。短き諸々の入息は……略……。一切の身体の得知ある、諸々の出息は……略……。一切の身体の得知ある、]諸々の入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)が、身体に連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。そのような形態の諸々の身体の形成〔作用〕によって、すなわち、身体が、後屈し、側屈し、全屈し、前屈し、動じ動き、震えおののき、揺れ動き、振動するなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶ。そのような形態の諸々の身体の形成〔作用〕によって、すなわち、身体が、後屈せず、側屈せず、全屈せず、前屈せず、動じ動かず、震えおののかず、揺れ動かず、振動しないなら、寂静にして繊細なる〔身体の形成作用〕を、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶ。

 

§182  かくのごとく、まさに、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶとして、このように存しているなら、そして、〔出息と入息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有ることはなく、かつまた、出息と入息に、〔その〕増加が有ることはなく、かつまた、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有ることはなく、さらに、呼吸についての気づきという禅定に、〔その〕増加が有ることはなく、そして、その〔入定〕その入定(等至:禅定の境地)に、賢者たちは、入定することもまた、出起することもまた、ないのでは、〔と問うなら〕──

 

§183  かくのごとく、まさに、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』[と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、]入息するのだ』と学ぶとして、このように存しているなら、そして、〔出息と入息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有り、かつまた、出息と入息に、〔その〕増加が有り、かつまた、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有り、さらに、呼吸についての気づきという禅定に、〔その〕増加が有り、そして、その〔入定〕その入定に、賢者たちは、入定もまたするし、出起もまたする、〔と答える〕。

 

§184  どのように、そのようなことになるのか。それは、たとえば、また、銅鑼を打ったとき、最初に、諸々の粗雑なる音が転起し、諸々の粗雑なる音の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、粗雑なる音が止滅したとして、そこで、のちに、諸々の繊細なる音が転起し、諸々の繊細なる音の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、繊細なる音が止滅したとして、そこで、【277】のちに、繊細なる音の形相を対象とすることからもまた、心が転起するように、まさしく、このように、最初に、諸々の粗雑なる出息と入息が転起し、諸々の粗雑なる出息と入息の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、粗雑なる出息と入息が止滅したとして、そこで、のちに、諸々の繊細なる出息と入息が転起し、諸々の繊細なる出息と入息の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、繊細なる出息と入息が止滅したとして、そこで、のちに、繊細なる出息と入息の形相を対象とすることからもまた、心は、散乱に至らない。このように存しているなら、そして、〔出息と入息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有り、かつまた、出息と入息に、〔その〕増加が有り、かつまた、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有り、さらに、呼吸についての気づきという禅定に、〔その〕増加が有り、そして、その〔入定〕その入定に、賢者たちは、入定もまたするし、出起もまたする。

 

§185  身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。『身体における身体の随観という気づきの確立の修行』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.184-6)と。

 まずは、ここにおいて、これが、身体の随観(身念処・身念住)を所以に説かれた、〔十六の基盤のなかの〕第一の四なるものの順次の句の解説となる。

 

222.

 

§186  また、ここにおいて、すなわち、まさしく、この〔第一の〕四なるもの(身体の随観)は、初学の者のために、〔心を定める〕行為の拠点たるを所以に説かれたものであり(心の止寂のための行為の拠点である)、いっぽう、他の三つの四なるもの(第二と第三と第四の四なるもの)は、ここにおいて、瞑想(瞑想の境地に専注する禅定)に至り得た者のために、感受と心と法の〔三つの〕随観たるを所以に説かれたものである(あるがままの観察のための行為の拠点である)ことから、それゆえに、この〔心を定める〕行為の拠点(心の止寂のための身体の随観)を修めて〔そののち〕、呼吸〔についての気づき〕による第四の瞑想〔における瞑想の境地に専注する禅定〕を境処の拠点(直接原因)とする〔あるがままの〕観察によって、〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕(無礙解)と共に阿羅漢の資質に至り得ることを欲する、初学の者たる良家の子息によって、まさしく、前に説かれた方法によって、戒を完全に清めること等々の一切の為すべきことを為して、〔前に〕説かれた流儀の師匠の現前において、五つの連鎖ある〔心を定める〕行為の拠点が収め取られるべきである。

 

§187  そこで、(1)収取、(2)遍問、(3)現起、(4)専注、(5)特相、という、これらの五つの連鎖がある。そこにおいて、(1)「収取」というのは、〔心を定める〕行為の拠点を収め取ることであり、(2)「遍問」というのは、〔心を定める〕行為の拠点を遍く問い尋ねることであり、(3)「現起」というのは、〔心を定める〕行為の拠点の〔形相の〕現起であり、(4)「専注」というのは、【278】〔心を定める〕行為の拠点に専注する〔禅定〕であり、(5)「特相」というのは、〔心を定める〕行為の拠点の特相である。「このように、これが、〔心を定める〕行為の拠点の特相である」と、〔心を定める〕行為の拠点の自ずからの状態(自性)を保ち置くこと、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

§188  このように、五つの連鎖ある〔心を定める〕行為の拠点を収め取っている者は、自己みずからもまた疲弊せず、師匠をもまた悩害しない。それゆえに、少しを修学しては、多くの時を読誦して、このように、五つの連鎖ある〔心を定める〕行為の拠点を収め取って、あるいは、師匠の現前において〔住している者によって〕、あるいは、他の、前に説かれた流儀の臥坐所において住している者によって、〔見難き〕小なる障害を断絶し、食事を為し、食後の睡魔を除き去って、安楽に坐り、三宝の徳を随念し、心を満悦させて、師匠より収め取るところから一歩でさえも迷乱せずに、この、呼吸についての気づきという〔心を定める〕行為の拠点が、意が為されるべきである。

 

223.

 

§189  そこで、(1)数、(2)追随、(3)接触、(4)据置、(5)省察、(6)還転、(7)完全なる清浄、(8)さらに、それら(還転と完全なる清浄)を観察すること、という、これが、意を為すことの手順となる。そこにおいて、(1)「数」とは、まさしく、〔出息と入息を〕数えることである。(2)「追随」とは、〔出息と入息に気づきが〕随伴することである。(3)「接触」とは、〔出息と入息が身体と〕接触した場である。(4)「据置」とは、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)である。(5)「省察」とは、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)である。(6)「還転」とは、〔煩悩を還転させる、聖者の〕道である。(7)「完全なる清浄」とは、〔聖者の〕果である。(8)「さらに、それらを観察すること」とは、〔還転と完全なる清浄を〕綿密に注視すること(再検証)である。

 

§190  (1)そこにおいて、この、初学の者たる良家の子息によって、最初に、数(数えること)によって、この、〔呼吸についての気づきという心を定める〕行為の拠点が、意が為されるべきである。そして、〔出息と入息を〕数えているとして、〔数は〕五より下に据え置かれるべきではなく、十より上に導かれるべきではなく、途中に破断(数え落とし)が見られるべきではない。なぜなら、〔数を〕五より下に据え置く者のばあい、〔余裕のない〕煩雑な空間において、心の生起は、煩雑な牛舎のなかで押さえ付けられた牛の群れのように紛糾し、また、〔数を〕十より上に導く者のばあい、心の生起は、まさしく、数に依存したものと成り(数えることに気を取られてしまう)、途中に破断を見る者のばあい、「いったい、まさに、わたしの〔心を定める〕行為の拠点は、頂に至り得たのか、否か」と、心が動くからである。それゆえに、これらの汚点を避けて、〔出息と入息が〕数えられるべきである。

 

§191  そして、〔出息と入息を〕数えているとして、最初は、穀物を量る者の数え方である遅鈍な数え方で、〔出息と入息が〕数えられるべきである。まさに、穀物を量る者は、枡に満たして、「一つ」と説いて振りまき、ふたたび〔枡を〕満たしながら、何であれ、埃を見ては、それを捨て放ちつつ、「一つ」「一つ」と説く。「二つ」「二つ」という〔言葉〕等々について〔もまた〕、これが、〔共通する〕方法となる。まさしく、このように、この者(瞑想修行者)によってもまた、出息と入息において、それが現起するなら、それを収め取って、「一つ」「一つ」という〔言葉〕等々を為して、【279】すなわち、「十」「十」という〔言葉〕まで、転起しているもの、転起しているものを、まさしく、〔それぞれに〕近しく観て、〔出息と入息が〕数えられるべきである。

 

§192  彼が、このように数えていると、出息と入息は、そして、出つつあるものも、さらに、入りつつあるものも、〔両者ともに〕明白なるものと成る。そこで、この者によって、その、穀物を量る者の数え方である遅鈍な数え方を捨棄して、牛飼いの数え方である急速な数え方で、〔出息と入息が〕数えられるべきである。まさに、利口な牛飼いは、小石等々を腰〔の袋〕に収め取って、縄棒(鞭)を手に、ごく早朝に、牛舎に赴いて、牛たちの背を打って、〔門の〕閂の柱頭に坐り、雌牛を、門に至り得たもの、門に至り得たものだけを(※)、「一つ」「二つ」と、小石を投げては投げて、〔勢いよく〕数える。夜の三つの時期(初夜・中夜・後夜)のあいだ、煩雑な空間において、苦しみに至り得た牛の群れは、〔牛舎から〕出つつあるもの、出つつあるものが、互いに他と擦り合いながら、勢いよく、群集と成って出る。彼(牛飼い)は、勢いよく、「三つ」「四つ」「五つ」「十」と、まさしく、数える。このように、この者(瞑想修行者)のばあいもまた、前に〔説かれた〕方法によって数えていると、出息と入息は、明白なるものと成って、急速のうえにも急速に、繰り返し行き来する。

 

※ テキストには dvāra patta patta yeva とあるが、VRI版により dvārappatta dvārappattayeva と読む。

 

§193  そののち、彼によって、「繰り返し行き来する」と知って、そして、〔身体の〕内においても、さらに、〔身体の〕外においても、〔出息と入息を〕収め取らずして、門(鼻孔)に至り得たもの、門に至り得たものだけを収め取って、「一つ」「二つ」「三つ」「四つ」「五つ」〔と〕、「一つ」「二つ」「三つ」「四つ」「五つ」「六つ」〔と〕、「一つ」「二つ」「三つ」「四つ」「五つ」「六つ」「七つ」〔と〕……略……「八つ」〔と〕……「九つ」〔と〕……「十」と、急速のうえにも急速に、まさしく、数えられるべきである。なぜなら、数と連結された〔心を定める〕行為の拠点においては、まさしく、数の力によって、心は、一境と成るからである──舵の保全を所以に、激しい流れのなかで舟を据え置くことが〔可能となる〕ように。

 

§194  彼が、このように、急速のうえにも急速に数えていると、〔心を定める〕行為の拠点は、間断なく転起されたもののように現起する。そこで、「間断なく転起する」と知って、そして、〔身体の〕内においても、さらに、〔身体の〕外においても、〔出息と入息の〕風(気息)を遍く収め取らずして、まさしく、前に説かれた方法によって、勢いよく、〔出息と入息が〕数えられるべきである。なぜなら、内に入る風と共に、心を〔内に〕入れていると、内部において、〔心は〕風(体調不良を引き起こす体内の風)に侵され脂肪に満たされたかのように成り、外に出る風と共に、心を〔外に〕出していると、外の多々なる対象において、心は散乱するからである。いっぽう、〔出息と入息が身体に〕触れた〔空間〕触れた空間において、まさしく、気づきを据え置いて修めていると、〔彼の〕修行は成就する。それによって説かれた。「そして、〔身体の〕内においても、さらに、〔身体の〕外においても、〔出息と入息の〕風(気息)を遍く収め取らずして、まさしく、前に説かれた方法によって、勢いよく、〔出息と入息が〕数えられるべきである」と。

 

§195  「また、どれだけ長く、この〔出息と入息〕は数えられるべきであるのか」と〔問うなら〕、「すなわち、数なくして、【280】出息と入息という対象において、気づきが確立するまで」〔と答える〕。なぜなら、数(数えること)は、外に広がった思考()の切断(妄想の停止)を為して、出息と入息という対象において、まさしく、気づきを確立させることを義(目的)とするからである(気づきが確立したなら、数は不要となる)。

 

224.

 

 ということで、このように、数によって意を為して〔そののち〕、追随によって、意が為されるべきである。

 

§196  (2)「追随」というのは、数を取り去って、気づきをもって、間断なく出息と入息〔の接触した場〕に従い行くこと。しかしながら、それは、まさに、〔出息と入息の〕最初と中間と結末〔の全部〕に従い行くことを所以にするのではない。

 

§197  なぜなら、外に出る風(気息)のばあい、臍(腹部)が最初となり、心臓(胸部)が中間となり、鼻の先端が結末となり、内部に入る風のばあい、鼻の先端が最初となり、心臓が中間となり、臍が結末となるが、そして、彼が、その〔最初と中間と結末の全部〕に従い行きつつあると、まさしく、そして、懊悩を有することによって、かつまた、動揺することによって、散乱に至った心が有るからである。すなわち、〔聖典に〕言うように、「出息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、内に散乱に至った心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。入息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、外に散乱に至った心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕」(パティサンビダー・マッガ1p.165)と。それゆえに、追随によって意を為している者によって、〔出息と入息の〕最初と中間と結末〔の全部〕に従い行くことを所以に、意が為されるべきではない。しかしながら、また、まさに、そして、接触を所以に、さらに、据置を所以に、意が為されるべきである。

 

§198  (3)なぜなら、数や追随を所以にするように、接触や据置を所以にするなら、別個に意を為すことが存在しないからである(同時進行で意を為すことができる)。また、まさしく、接触した〔場〕接触した〔場〕において、〔出息と入息を〕数えながら、かつまた、数によって、かつまた、接触によって、〔同時に〕意を為し、まさしく、そこにおいて、数を取り去って、それら〔の出息と入息〕に、気づきをもって追随しながら、かつまた、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕を所以に心を据え置きながら、かつまた、追随によって、かつまた、接触によって、かつまた、据置によって、〔同時に〕意を為す、と説かれる。

 〔まさに〕その、この義(道理)が、諸々のアッタカターにおいて説かれた足萎え〔の喩え〕と門番の喩えによって、さらに、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた鋸の喩えによって、知られるべきである。

 

225.

 

§199  そこで、これが、足萎えの喩えとなる。それは、たとえば、また、足萎えの者が、ぶらんこで遊んでいる母子(妻子)のために、ぶらんこを投げ放って、まさしく、そこにおいて、ぶらんこの柱の根元において坐り、順に、そして、戻りつつある〔ぶらんこの板〕の、さらに、赴きつつある【281】ぶらんこの板の、両の端を〔見〕、さらに、〔その〕中間を見るも、しかしながら、両の端と中間を見ることを義(目的)に、多忙の者と成ることがないように、まさしく、このように、比丘は、気づきを所以に、連結の柱の根元において止住して、出息と入息のぶらんこを投げ放って、まさしく、そこにおいて、〔その〕形相にたいし、気づきをもって坐りながら、順に、そして、諸々の戻りつつあるものが、さらに、諸々の赴きつつあるものが、〔身体と〕接触した場において、〔それらの〕出息と入息の最初と中間と結末に、気づきをもって従い行きながら、そして、そこにおいて、心を据え置きながら、〔それらを〕見るも、しかしながら、それらを見ることを義(目的)に、多忙の者と成ることがない。これが、足萎えの喩えである。

 

226.

 

§200  また、これが、門番の喩えとなる。それは、たとえば、また、門番が、城市の、そして、内にある〔人たちを〕、さらに、外にある人たちを、「おまえは、誰だ」「あるいは、どこから来たのか」「あるいは、どこに赴くのか」「あるいは、おまえの手には何があるのだ」と審査せず──なぜなら、それらの者たちは、彼にとって、荷ではないからである(城市の内と外にいる人間は、門番の管轄外である)──いっぽう、門に至り得た者、門に至り得た者だけを審査するように、まさしく、このように、この比丘にとって、そして、諸々の内に入った風(気息)は、さらに、諸々の外に出た風も、荷(瞑想対象)として有るのではなく、諸々の門に至り得たもの、諸々の門に至り得たものだけが、荷(瞑想対象)ということになる。これが、門番の喩えである。

 

227.

 

§201  また、鋸の喩えは、最初から始まって(喩えを示す直前の問題提起の箇所から引用して)、このように知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。

 

 「〔そこで、詩偈に言う〕『形相と出息と入息〔の三者〕は、一つの心の対象とならず、かつまた、三つの法(性質)を知らずにいる者に、修行は認められない。

 形相と出息と入息〔の三者〕は、一つの心の対象とならず、まさしく、三つの法(性質)を知っている者に、修行は認められる』と。

 

§202  どのように、これらの三つの法(性質)は、一つの心の対象と成らず、かつまた、これらの三つの法(性質)は、見出されざるものと成らず、そして、心は、散乱に至らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達するのか。それは、たとえば、また、平坦な土地の部分に置かれた〔製材用の〕木があるとして、〔まさに〕その、この〔木〕を、人が鋸で切るなら、木に接触したところの鋸の諸歯を所以に、〔その〕人の気づきは現起されたものと成り、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯に、意を為さないとして、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯は、見出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔作業への〕専念を遂行し、殊勝〔の結果〕に到達するように、である。すなわち、平坦な土地の部分に置かれた〔製材用の〕木のように、このように、〔気づきと〕連結する形相(出息と入息が接触する、鼻の先端、あるいは、上唇)がある。すなわち、鋸の諸歯のように、このように、出息と入息がある。すなわち、木に接触したところの鋸の諸歯を所以に、〔その〕人の気づきは現起されたものと成り、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯に、意を為さないとして、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯は、見出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔作業への〕専念を遂行し、殊勝〔の結果〕に【282】到達するように、まさしく、このように、比丘は、あるいは、鼻の先端(鼻孔)において、あるいは、口の形相(上唇)において、気づきを現起させて坐った者と成り、あるいは、戻り、あるいは、赴く、出息と入息に、意を為さないとして、あるいは、戻り、あるいは、赴く、出息と入息は、見出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達する。

 

§203  『精励』とは、どのようなものが、精励であるのか。精進に励む者には、身体もまた、心もまた、行為に適するものと成る。これが、精励である。どのようなものが、〔修行への〕専念であるのか。精進に励む者には、諸々の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)は捨棄され、諸々の思考()は寂止する。これが、〔修行への〕専念である。どのようなものが、殊勝〔の境地〕であるのか。精進に励む者には、諸々の束縛するもの()は捨棄され、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)は終息と成る。これが、殊勝〔の境地〕である。このように、これらの三つの法(性質)は、一つの心の対象と成らず、かつまた、これらの三つの法(性質)は、見出されざるものと成らず、そして、心は、散乱に至らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達する。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『彼の、呼吸についての気づきが、円満成就し、善く修められたなら──覚者によって説示された、そのとおりに、順次に遍く蓄積されたなら──彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす』」(パティサンビダー・マッガ1p.170-2:一部異なる箇所あり)と。

 

 これが、鋸の喩えである。

 

228.

 

§204  (4)また、ここでは、彼にとって、まさしく、戻ったものと赴いたものを所以に意を為さないことのみが目的となる、と知られるべきである。この〔心を定める〕行為の拠点に意を為していると、或る者には、まさしく、長からずして、そして、〔相似の〕形相が生起し、さらに、残りの瞑想の支分で装飾され、「〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕」と名づけられた、据置が成就する。

 

§205  また、或る者には、まさしく、数を所以に意を為す時から以降、順に、粗雑なる出息と入息の止滅を所以に身体の懊悩が寂止したとき、身体もまた、心もまた、軽やかと成り、肉体は、虚空に跳ぶ行相に至り得たかのようなものと成る。すなわち、懊悩を有する身体の者が、あるいは、臥床に〔坐り〕、あるいは、椅子に坐っていると、臥床と椅子は、撓み、軋み、敷物は、皺が寄るが、いっぽう、懊悩を有さない身体の者が坐っていると、臥床と椅子は、まさしく、撓まず、軋まず、敷物は、皺が寄らず、臥床と椅子は、木綿を詰めたかのようなものと成るように──「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「すなわち、懊悩を有さない身体は、軽やかと成ることから」〔と答える〕──まさしく、このように、数を所以に意を為す時から以降、順に、粗雑なる出息と入息の止滅を所以に身体の懊悩が寂止したとき、【283】身体もまた、心もまた、軽やかと成り、肉体は、虚空に跳ぶ行相に至り得たかのようなものと成る。

 

§206  彼には、粗雑なる出息と入息が止滅したとき、繊細なる出息と入息の形相を対象とする心が転起する。その〔心〕もまた止滅したときは、次第次第に、その〔心〕よりも、より繊細なる〔形相を対象とする心〕、より繊細なる形相を対象とする〔心〕が、まさしく、転起する。どのようにか。

 

§207  たとえば、人が、大きな銅の撥で銅鑼の盤を打つなら、一つの打撃で、大きな音が生起するであろうし、彼には、粗雑なる音を対象とする心が転起するであろうし、粗雑なる音が止滅したとき、そこで、のちに、繊細なる音の形相を対象とする〔心〕が〔転起するであろうし〕、その〔心〕もまた止滅したときは、次第次第に、その〔心〕よりも、より繊細なる〔音の形相を対象とする心〕、より繊細なる音の形相を対象とする〔心〕が、まさしく、転起するように、このように〔転起する〕、と知られるべきである。そして、このこともまた、〔前に〕説かれた。「それは、たとえば、また、銅鑼を打ったとき〔云々〕」(パティサンビダー・マッガ1p.184)ということで、〔その〕詳細となる(§184)。

 

229.

 

§208  まさに、すなわち、諸他の〔心を定める〕行為の拠点〔の形相〕が、上に上にと〔順に修めていると〕、明確なるものと成るように、そのように〔明確なるものと成ることが〕、この〔心を定める行為の拠点の形相〕はない。いっぽう、この〔心を定める行為の拠点の形相〕は、上に上にと〔順に〕修めていると、繊細なることに赴き、現起にもまた赴かない。また、このように、その〔形相〕が現起せずにいるとき、その比丘は、坐から立ち上がって、皮の切れ端を払って(坐具を収納して)、去り行くべきではない。何が為されるべきであるのか。あるいは、「〔わたしは〕師匠に尋ねるのだ」と、あるいは、「今や、わたしの〔心を定める〕行為の拠点は消え行ったのだ」と、立ち上がるべきではない。なぜなら、振る舞いの道(行住坐臥のあり方)を乱して去り行く者の〔心を定める〕行為の拠点は、まさしく、真新しきものと成るからである(最初からやりなおしとなる)。それゆえに、まさしく、坐ったままにあり、〔出息と入息の接触ある〕地点から、〔形相を〕運び込むべきである。

 

§209  そこで、これが、運び込みの手段となる。その比丘によって、〔心を定める〕行為の拠点の現起なき状態を知って、かくのごとく深慮されるべきである。「これらの出息と入息は、まさに、どこにおいて存在し、どこにおいて存在しないのか、あるいは、誰に存在し、あるいは、誰に存在しないのか」と。そこで、このように深慮しつつ、「これら〔の出息と入息〕は、母の子宮の内には存在せず、水に潜った者たちには存在せず、そのように、表象なき者と成った者たち、死んだ者たち、第四の瞑想〔の境地〕に入定した者たち、形態ある〔生存〕と形態なき生存(色界と無色界)を保有する者たち、止滅〔の入定〕(滅尽定)に入定した者たちには〔存在しない〕」と知って、このように、まさしく、自己によって、自己が(※)叱咤されるべきである。「賢者よ、まちがいなく、おまえは、まさしく、母の子宮に在る者ではなく、水に潜った者ではなく、表象なき者と成った者ではなく、死んだ者ではなく、第四の瞑想〔の境地〕に入定した者ではなく、形態ある〔生存〕と形態なき生存を保有する者ではなく、止滅〔の入定〕に入定した者ではなく、おまえには、まさしく、出息と入息が存在する。いっぽう、弱き智慧たることから、〔形相を〕遍く収め取ることができないのだ」と。そこで、この者によって、〔生来の〕性向(気質)として接触された〔空間〕を所以に心を据え置いて、意を為すことが転起させられるべきである。

 

※ テキストには attanā とあるが、VRI版により attā と読む。

 

§210  なぜなら、これら〔の出息と入息〕は、長い鼻の者には、鼻の袋(鼻の穴)に【284】ぶつかりつつ転起し、短い鼻の者には、上の唇に〔ぶつかりつつ転起する〕からである。それゆえに、彼によって、「まさに、この場に、〔出息と入息は〕ぶつかる」と、形相が据え置かれるべきである。まさに、このことこそが、義(利益)たる所以を縁として、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません」(サンユッタ・ニカーヤ5p.337)と。

 

230.

 

§211  なぜなら、たとえ、何であれ、〔心を定める〕行為の拠点は、それが何であれ、気づきと正知の者だけに成就し、いっぽう、これ(呼吸についての気づき)より他〔の心を定める行為の拠点の形相〕は、意を為していると、明白なるものと成るからである(やればやるほどはっきりしてくる)。また、この、呼吸についての気づきという〔心を定める〕行為の拠点は、重きものであり、重き修行にして、覚者や独覚や覚者の子(仏弟子)たちのためのものであり、まさしく、偉大なる人たちのための、意を為す境地として有るものであり、まさしく、そして、些末のものではなく、さらに、些末の有情の慣れ親しむところではない。そのとおり、そのとおりに、意が為されるなら、そのとおり、そのとおりに、まさしく、そして、寂静なるものと成り、さらに、繊細なるものと〔成る〕。それゆえに、ここにおいては、力あるものとして、そして、気づきが、さらに、智慧が、求められるべきである。

 

§212  まさに、すなわち、艶やかな衣の縫製を為す時においては、針もまた、繊細なるものが求められるべきであり、針穴に貫く〔糸〕もまた、それよりもより繊細なるものが〔求められるべきである〕ように、まさしく、このように、艶やかな衣に等しきものである、この〔心を定める〕行為の拠点の修行の時においては、針と相似の気づきもまた、針穴に貫く〔糸〕と相似の、その〔気づき〕と結び付いた智慧もまた、〔両者ともに〕力あるものが求められるべきである。また、そして、それらの気づきと智慧を具備した比丘によって、それらの出息と入息は、〔生来の〕性向(気質)として接触された空間より他に、遍く探し求められるべきではない。

 

§213  また、すなわち、耕作者が耕作〔地〕を耕作して、荷牛(軛牛)たちを解き放って、餌場の入口へと為して(誘導して)、〔自らは〕日影に坐り、休息するなら、そこで、彼の、それらの荷牛たちは、勢いよく、森に入るであろうし、彼が、利口な耕作者として有るなら、それら〔の荷牛たち〕をふたたび収め取って結び付けることを欲する彼は、それら〔の荷牛たち〕の足跡を赴いて森を逍遥することなく、そこで、まさに、そして、手綱を、さらに、鞭を、〔両者を〕掴んで、まさしく、真っすぐに、それら〔の荷牛たち〕の落ち合う水場に赴いて、あるいは、坐り、あるいは、横になり、そこで、それらの牛たちが、日中を歩んで落ち合う水場に入って、そして、水浴びして、さらに、〔水を〕飲んで、〔水場から〕上がって、立っているのを見て、手綱を結んで、鞭で叩きつつ導き入れて、〔機具に〕結び付けて、ふたたび作業を為すように、まさしく、このように、その比丘によって、それらの出息と入息は、〔生来の〕性向(気質)として接触された空間より他に、遍く探し求められるべきではなく、そして、気づきの手綱を、さらに、智慧の鞭を、〔両者を〕掴んで、〔生来の〕性向として接触された空間にたいし、心を据え置いて、意を為すことが転起させられるべきである。【285】なぜなら、彼が、このように意を為していると、まさしく、長からずして、水場に落ち合う牛たちのように、それら〔の出息と入息〕が現起するからである。そののち、彼によって、気づきの手綱を結んで、まさしく、その箇所に結び付けて、智慧の鞭で叩きつつ、繰り返し、〔心を定める〕行為の拠点が専念されるべきである。

 

231.

 

§214  彼が、このように専念していると、まさしく、長からずして、形相が現起する。また、〔まさに〕その、この〔形相〕は、全ての者にとって、一つに等しきものと成ることはない。さらに、また、まさに、「或る者には、安楽の接触を生起させつつ、トゥーラ木綿のように、カッパーサ木綿のように、さらに、流れる風のように、〔この形相が〕現起する」と、一部の者たちは言った。

 

§215  また、これが、諸々のアッタカター(注釈書)における判別となる。まさに、この〔形相〕は、或る者には、星の形態のように、宝珠の小玉のように、さらに、真珠の小玉のように〔現起し〕、或る者には、粗野な接触と成って、カッパーサ〔木綿〕の核のように、さらに、木の芯〔で作った〕針のように〔現起し〕、或る者には、長い耳飾の糸のように、花環のように、さらに、火炎のように〔現起し〕、或る者には、広げられた蜘蛛の糸のように、雷雲の膜(入道雲)のように、蓮の花のように、車の輪のように、月の円輪のように、さらに、日の円輪のように現起する。

 

§216  また、そして、〔まさに〕その、この〔形相〕は、すなわち、大勢の比丘たちが経典を読誦して坐っているとして、或る比丘によって、「あなたたちには、どのようなものと成って、この経は現起しますか」と説かれたとき、或る者は、「わたしには、大いなる渓流のように成って現起します」と言い、他の者は、「わたしには、一つの林の列のように〔成って現起します〕」と〔言い〕、他は、「わたしには、涼やかな日影があり、枝が繁り、果実の荷で重くなった、一つの木のように〔成って現起します〕」と〔言う〕ように──なぜなら、彼らには、その、まさしく、一つの経が、表象〔作用〕(:認識対象を表象し概念化する働き)の種々なることによって、種々に現起するからである──このように、まさしく、一つの、〔心を定める〕行為の拠点〔の形相〕であるも、表象〔作用〕の種々なることによって、種々に現起する。まさに、この〔形相〕は、表象〔作用〕から生じ、表象〔作用〕を因縁とし、表象〔作用〕を起源とするものである。それゆえに、表象〔作用〕の種々なることによって、種々に現起する、と知られるべきである。

 

§217  そして、ここにおいて、まさしく、他のものとして、出息を対象とする心があり、他のものとして、入息を対象とする〔心〕があり、他のものとして、形相を対象とする〔心〕がある(これらの三つは別個のものである)。まさに、彼に、これらの三つの法(性質)が存在しないなら、彼の、〔心を定める〕行為の拠点は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に、まさしく、〔至り得ることが〕なく、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕にも至り得ない。いっぽう、彼に、これらの三つの法(性質)が存在するなら、まさしく、彼の、〔心を定める〕行為の拠点は、そして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に、さらに、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に、至り得る。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「形相と出息と入息〔の三者〕は、一つの心の対象とならず、かつまた、三つの法(性質)を知らずにいる者に、修行は認められない。

 形相と出息と入息〔の三者〕は、一つの心の対象とならず、まさしく、三つの法(性質)を知っている者に、修行は認められる」(パティサンビダー・マッガ1p.170-1:一部異なる箇所あり)と。

 

232.

 

§218  【286】また、このように、〔相似の〕形相が現起したときは、その比丘によって、師匠の現前に赴いて、「尊き方よ、わたしには、このような形態のものが、まさに、現起します」と告げられるべきである。いっぽう、「師匠によって、あるいは、『これは、形相である』と、あるいは、『形相ではない』と、説かれるべきではなく、『友よ、〔修行に専念していると〕このように有る(修行者にはこのようなことが起こるものである)』と説いて、『繰り返し、意を為せ』と説かれるべきである。なぜなら、『形相である』と説かれたときは、完成〔の思い〕を惹起することになり、『形相ではない』と説かれたときは、望みなき者となり、落胆することになるからである。それゆえに、その両者ともどもに説かずして、まさしく、意を為すことに、〔その比丘は〕駆り立てられるべきである」と、まずは、このように、『ディーガ〔ニカーヤ〕(長部経典)』の朗読者たちは〔言った〕。いっぽう、『マッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)』の朗読者たちは言った。「『友よ、これは、形相である。正なる人士よ、〔心を定める〕行為の拠点に、繰り返し、意を為せ』と説かれるべきである」と。そこで、この者によって、まさしく、形相にたいし、心が据え置かれるべきである。

 

§219  このように、彼にとって、これから以降は、これが、据置を所以に修行と成る。まさに、このことが、過去の方たちによって説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「形相にたいし、心を据え置きつつ、種々なる行相を分明しながら、慧者は、出息と入息に、自らの心を縛り付ける」と。

 

§220  このように、〔相似の〕形相の現起から以降は、彼の、〔五つの修行の〕妨害()は、まさしく、鎮静されたものと成り、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)は、まさしく、静止したものと〔成り〕、気づきは、まさしく、現起されたものと〔成り〕、心は、〔瞑想の境地に〕近接する禅定によって、まさしく、定められたものと〔成る〕。

 

§221  そこで、この者によって、その形相は、まさしく、色艶〔の観点〕から意が為されるべきではなく、特相〔の観点〕から綿密に注視されるべきではない。さらに、また、まさに、士族の王妃によって、転輪〔王〕となる胎児が〔守られる〕ように、さらに、耕作者によって、米や麦の胎(若穂)が〔守られる〕ように、居住所等々(居住所・托鉢所・談義・人・食・季節・振る舞いの道)の七つの不当なるものを避けて、まさしく、それらの七つの正当なるものと〔常に〕慣れ親しんでいる者によって(Ch.4§35)、善くしっかりと守られるべきである。そこで、その〔形相〕を、このように守って、繰り返し意を為すことを所以に、増大と成長に至らせて、十種類の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智(Ch.4§42)が成就されるべきであり、精進の平等なること(Ch.4§66)が専念されるべきである。

 

§222  彼が、このように勤めていると、まさしく、地の遍満において説かれた順によって、その形相において、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想(四禅もしくは五禅)が発現する。

 

233.

 

 (5・6・7・8)また、このように、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想が発現したなら、ここにおいて、比丘は、(5)省察と(6)還転を所以に、〔心を定める〕行為の拠点を増大させて、(7)完全なる清浄に至り得ることを欲する者として、まさしく、その瞑想を、五つの行相(Ch.4§131)によって、自在に至り得た熟練するところと為して、名前と形態(名色:精神的事象と物質的事象)を定め置いて、(8)〔あるがままの〕観察を確立させる(§189)。どのようにか。

 

§223  まさに、彼は、入定〔の境地〕から出起して、「出息と入息の【287】集起(起因)は、そして、〔行為を〕為すことから生じる身体であり、さらに、心である」と見る。まさに、すなわち、鍛冶屋の鞴が〔風を〕吹いているときは、そして、鞴を、さらに、人のそれに合う努力を、〔両者を〕縁として、風が行き来するように、まさしく、このように、そして、身体を、さらに、心を、〔両者を〕縁として、出息と入息が〔行き来する〕、と〔知られるべきである〕。そののち、そして、出息と入息を、さらに、身体を、「形態である」と〔定め置き〕、そして、心を、さらに、その〔心〕と結び付いた諸々の法(性質)を、〔両者ともに〕「形態なきものである(名前である)」と定め置く(Ch.18:見解の清浄)。ここにおいて、これが、簡略〔の説示〕となる。また、詳細〔の観点〕からの名前と形態〔の差異の〕定置は、後に、明らかと成るであろう(Ch.18§3)。

 

§224  このように、名前と形態を定め置いて〔そののち〕、その〔名前と形態〕にとっての縁を遍く探し求める。そして、〔彼は〕遍く探し求めつつ、その〔縁〕を見て、三時(過去・現在・未来)もろともにおける名前と形態の転起に関して、疑いを超え渡る(Ch.19:疑いの超渡の清浄)。疑いを超え渡った〔彼〕は、〔形態や感受作用等の諸法の〕集合の〔あるがままの〕触知(Ch.20§2)を所以に、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相を用いて、生成と衰失の随観(Ch.20§93)によって、〔修行の〕前段部分において生起した光輝等々(光輝・知恵・喜悦・静息・安楽・信念・励起・現起・放捨・欲念)の十の〔あるがままの〕観察に付随する〔心の〕汚れ(Ch.20§105)を捨棄して、「付随する〔心の〕汚れから解脱した〔実践の〕道の知恵が、〔聖者の〕道である」と定め置いて(Ch.20§128)、〔諸法の〕生成を捨棄して、滅壊の随観に至り得て、間断なく、滅壊の随観によって、衰失〔の観点〕から、諸々の現起されたものである一切の形成〔作用〕(一切諸行:形成されたもの・現象世界)について、厭離しつつ、離貪しつつ、解脱しつつ(Ch.21:〔実践の〕道の知見の清浄)、順々に、四つの聖者の道に至り得て、阿羅漢果において〔自己を〕確立して、十九の細別ある綿密に注視する〔作用〕の知恵(Ch.22§19)の極限に至り得た者と〔成り〕、天を含む世〔の人々〕にとって、至高の施与されるべき者と成る(Ch.22:知見の清浄)。

 

§225  そして、これだけで、彼の、数を最初と為して、観察することを結末とする(§189)、呼吸についての気づきという禅定の修行が、完全なるものと成る。ということで、これが、一切の行相〔の観点〕からの第一の四なるものの解説となる。

 

234.

 

 [(五・六・七・八)十六の基盤のうち第二の四なるもの]

 

§226  また、他の、三つの四なるもの(第二と第三と第四の四なるもの)については、すなわち、別個に、〔心を定める〕行為の拠点の修行の方法が、まさに、存在しないことから、それゆえに、まさしく、句に従う解説(逐語的解説)の方法によって、このように、それらの義(意味)が知られるべきである。

 (五)「〔わたしは〕喜悦の得知ある者として」とは、喜悦を得知されたものと為している者として。〔喜悦を〕明白なるものと為している者として、「〔わたしは〕出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ。

 そこにおいて、二つの行相〔の観点〕から、喜悦は、得知されたものと成る──そして、対象〔の観点〕から、さらに、迷妄なき〔の観点〕から。

 

§227  どのように、対象〔の観点〕から、喜悦は、得知されたものと成るのか。喜悦を有する二つの瞑想(第一の瞑想と第二の瞑想)に入定する、その〔比丘〕には、入定の瞬間において、瞑想〔の境地〕の獲得によって、対象〔の観点〕から、喜悦は、得知されたものと成る──対象が得知されたことから。どのように、迷妄なき〔の観点〕から、〔喜悦は、得知されたものと成るのか〕。喜悦を有する二つの瞑想(第一禅と第二禅)に入定して〔そののち、入定から〕出起して、瞑想〔の境地〕と結び付いた【288】喜悦を、滅尽〔の観点〕から〔あるがままに触知し〕、衰失〔の観点〕から〔あるがままに〕触知する、その〔比丘〕には、〔あるがままの〕観察の瞬間において、特相の理解によって、迷妄なき〔の観点〕から、喜悦は、得知されたものと成る。

 

§228  まさに、このことが、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。「長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、確知されたものと成る。長き入息を所以にする……。短き出息を所以にする……。短き入息を所以にする……。一切の身体の得知ある、出息を所以にする……。一切の身体の得知ある、入息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、得知されたものと成る。〔心を〕傾注していると、その喜悦は、得知されたものと成る。〔あるがままに〕知っていると……略……。〔あるがままに〕見ていると……。綿密に注視していると……。心を確立していると……。信によって信念していると……。精進を励起していると……。気づきを現起させていると……。心を定めていると……。智慧によって覚知していると……。証知されるべきものを証知していると……。遍知されるべきものを遍知していると……。捨棄されるべきものを捨棄していると……。修行されるべきものを修行していると……。実証されるべきものを実証していると、その喜悦は、得知されたものと成る」(パティサンビダー・マッガ1p.187)と。

 

§229  まさしく、この方法によって、残りの諸句もまた、義(意味)〔の観点〕から知られるべきである。また、ここにおいて、これが、差異のみ〔の解説〕となる。

 (六・七)三つの瞑想(第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想)を所以に、安楽の得知あることが〔知られるべきであり〕、四つ〔の瞑想〕(第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想と第四の瞑想)を所以にもまた、心の形成〔作用〕の得知あることが知られるべきである。「心の形成〔作用〕」とは、感受〔作用〕等々の二つの〔心身を構成する〕範疇(感受作用と表象作用の二蘊)である。そして、「〔わたしは〕安楽の得知ある者として」の句において、ここにおいて、〔あるがままの〕観察の境地を見示することを義(目的)に、「『安楽』とは、二つの安楽がある。そして、身体の属性としての安楽であり、さらに、心の属性としての〔安楽〕である」(パティサンビダー・マッガ1p.188)と、『パティサンビダー(無礙解道)』において説かれた。

 (八)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ」とは、粗雑なる心の形成〔作用〕を静息させている者として。止滅させている者として、という義(意味)である。それは、詳細〔の観点〕から、まさしく、身体の形成〔作用〕において説かれた方法によって(§176-85)、知られるべきである。

 

§230  さらに、また、ここ(第二の四なるもの)において、「喜悦」の句において、喜悦を頭目(代表)として、感受〔作用〕が説かれ、「安楽」の句において、まさしく、自らの形態によって(そのままのものとして)、感受〔作用〕が〔説かれ〕、二つの「心の形成〔作用〕」の句において、「そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、〔両者ともに〕心の属性(心所:心に現起する作用・感情)であり、これらの法(性質)が、心に連結された、心の形成〔作用〕である」(パティサンビダー・マッガ1p.188)という言葉から、表象〔作用〕と結び付いた【289】感受〔作用〕が〔説かれた〕。ということで、このように、感受の随観(受念処・受念住)の方法によって、この、〔第二の〕四なるものが語られた、と知られるべきである。

 

235.

 

 [(九・十・十一・十二)十六の基盤のうち第三の四なるもの]

 

§231  (九)第三の四なるものについてもまた、四つの瞑想(第一の瞑想と第二の瞑想と第三の瞑想と第四の瞑想)を所以に、心の得知あることが知られるべきである。

 (十)「〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ」とは、心を、喜ばせている者として、歓喜させている者として、笑喜させている者として、欣喜させている者として、「〔わたしは〕出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ。そこにおいて、二つの行相による大いなる歓喜が有る。そして、禅定を所以にする〔大いなる歓喜〕であり、さらに、〔あるがままの〕観察を所以にする〔大いなる歓喜〕である。どのように、禅定を所以にする〔大いなる歓喜が有るのか〕。喜悦を有する二つの瞑想(第一の瞑想と第二の瞑想)に入定する、その〔比丘〕は、入定の瞬間において、〔瞑想の境地と〕結び付いた喜悦によって、心を、喜ばせ、歓喜させる。どのように、〔あるがままの〕観察を所以にする〔大いなる歓喜が有るのか〕。喜悦を有する二つの瞑想(第一の瞑想と第二の瞑想)に入定して〔そののち、入定から〕出起して、瞑想〔の境地〕と結び付いた喜悦を、滅尽〔の観点〕から〔あるがままに触知し〕、衰失〔の観点〕から〔あるがままに〕触知する。このように、〔あるがままの〕観察の瞬間において、瞑想〔の境地〕と結び付いた喜悦を対象と為して、心を、喜ばせ、歓喜させる。このように実践する者として、「〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ、と説かれる。

 

§232  (十一)「〔わたしは〕心を定めつつ」とは、第一の瞑想等を所以に、対象にたいし、心を、平等に保ち置いている者として、平等に据え置いている者として、〔「〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ〕。また、あるいは、それらの瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、瞑想〔の境地〕と結び付いた心を、滅尽〔の観点〕から〔あるがままに触知し〕、衰失〔の観点〕から〔あるがままに〕触知していると、〔あるがままの〕観察の瞬間において、特相の理解によって、瞬間のものとしての心の一境性が生起するが、このように生起した、瞬間のものとしての心の一境性を所以にもまた、対象にたいし、心を、平等に保ち置いている者として、平等に据え置いている者として、「〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ、と説かれる。

 

§233  (十二)「〔わたしは〕心を解脱させつつ」とは、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害から、心を、解き放っている者として、解脱させている者として、第二〔の瞑想〕によって、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念から、〔心を、解き放っている者として、解脱させている者として〕、第三〔の瞑想〕によって、喜悦から、〔心を、解き放っている者として、解脱させている者として〕、第四〔の瞑想〕によって、安楽と苦痛から、心を、解き放っている者として、解脱させている者として、〔「〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ〕。また、あるいは、それらの瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、瞑想〔の境地〕と結び付いた心を、滅尽〔の観点〕から〔あるがままに触知し〕、衰失〔の観点〕から〔あるがままに〕触知する、その〔比丘〕は、〔あるがままの〕観察の瞬間において、無常の随観によって、常住の表象から、心を、解き放っている者として、解脱させている者として──苦痛の随観によって、安楽の表象から、〔心を、解き放っている者として、解脱させている者として〕──無我の随観によって、自己の表象から、〔心を、解き放っている者として、解脱させている者として〕──厭離の随観によって、愉悦から、〔心を、解き放っている者として、解脱させている者として〕──離貪の随観によって、貪欲から、〔心を、解き放っている者として、解脱させている者として〕──止滅の随観によって、集起から、〔心を、解き放っている者として、解脱させている者として〕──放棄の随観によって、執取から、心を、解き放っている者として、解脱させている者として──まさしく、そして、出息し、さらに、入息する。それによって、「〔わたしは〕心を解脱させつつ、【290】出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ。ということで、このように、心の随観(心念処・心念住)を所以に、この、〔第三の〕四なるものが語られた、と知られるべきである。

 

236.

 

 [(十三・十四・十五・十六)十六の基盤のうち第四の四なるもの]

 

§234  (十三)また、第四の四なるものについて、「〔わたしは〕無常の随観ある者として」とは、まずは、ここにおいて、無常が知られるべきであり、無常なることが知られるべきであり、無常の随観が知られるべきであり、無常の随観ある者が知られるべきである。そこにおいて、「無常」とは、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)である。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「生起と衰失と他化の状態あることから(※)」〔と答える〕(物事は生滅を繰り返し、思うところとは他なるものに変化する)。「無常なること」とは、まさしく、それら(五蘊)の、生起と衰失と他化〔の状態あること〕、あるいは、有って〔そののち〕状態なきこと。諸々の発現したものには、まさしく、その行相によって止住せずして、瞬間の滅壊(刹那滅)による破壊がある、という義(意味)である。「無常の随観」とは、その無常なることを所以に、形態等々について、「無常である」と随観すること。「無常の随観ある者として」とは、その無常の随観を具備した者として。それゆえに、このように有る者として、出息しつつ、さらに、入息しつつ、ここに、「〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ、と知られるべきである。

 

※ テキストには Uppādavayaññathatthabhāvā とあるが、VRI版により Uppādavayaññathattabhāvā と読む。

 

§235  (十四)また、「〔わたしは〕離貪の随観ある者として」とは、ここにおいて、二つの離貪がある。そして、滅尽の離貪であり、さらに、究極の離貪である。そこにおいて、「滅尽の離貪」とは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)の瞬間の滅壊(※)であり、「究極の離貪」とは、涅槃である。「離貪の随観」とは、その両者を見ることを所以に転起された、そして、〔あるがままの〕観察であり、さらに、〔聖者の〕道である。その二種類の随観ともどもに具備した者と成って、出息しつつ、さらに、入息しつつ、「〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ、と知られるべきである。

 (十五)「〔わたしは〕止滅の随観ある者として」の句についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

※ テキストには khayabhago とあるが、VRI版により khaabhago と読む。

 

§236  (十六)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として」とは、ここにおいてもまた、二つの放棄がある。そして、完全に捨て去ることとしての放棄であり、さらに、跳入することとしての放棄である。まさしく、放棄は、〔それ自体が〕随観であり、放棄の随観である。これ(放棄の随観)は、〔あるがままの〕観察と〔聖者の〕道の同義語である。なぜなら、〔あるがままの〕観察は、〔無常の表象による常住の表象の〕置換を所以に、〔五つの心身を構成する〕範疇と〔それらの〕行作と共に、諸々の〔心の〕汚れを完全に捨て去り、さらに、形成されたもの(有為)の汚点を見ることによって、その反対のものである涅槃〔の境処〕にたいし、それに向かい行くことで跳入する、ということで、まさしく、そして、完全に捨て去ることとしての放棄であり、さらに、跳入することとしての放棄である、と説かれ(Ch.21§18)、〔聖者の〕道は、〔無常の表象による常住の表象の〕断絶を所以に、〔五つの心身を構成する〕範疇と〔それらの〕行作と共に、諸々の〔心の〕汚れを完全に捨て去り、さらに、〔涅槃をその〕対象と為すことによって、涅槃に跳入する、ということで、まさしく、そして、完全に捨て去ることとしての放棄であり、さらに、跳入することとしての放棄である、と説かれるからである。また、両者(あるがままの観察の知恵と聖者の道の知恵)ともどもに、以前の知恵に、従い従い(アヌアヌ)見ること(パッサナ)から、「随観(アヌパッサナー)」と説かれる。【291】その、二種類の放棄の随観ともどもに具備した者と成って、出息しつつ、さらに、入息しつつ、「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ、入息するのだ」と学ぶ、と知られるべきである。

 

§237  この、第四の四なるものは、まさしく、〔不純なき〕清浄の〔あるがままの〕観察を所以に説かれた(あるがままの観察だけを説く)。いっぽう、前の三つは、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を所以に〔説かれた〕。このように、四つの四なるものを所以に、十六の基盤(根拠・事態)ある呼吸についての気づきの修行が知られるべきである。

 また、そして、このように、十六の基盤を所以に、この呼吸についての気づきは、大いなる果と〔成り〕、大いなる福利と成る。

 

237.

 

§238  そこで、この〔呼吸についての気づき〕には、「比丘たちよ、まさに、この、呼吸についての気づきという禅定もまた、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、[かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます]」(サンユッタ・ニカーヤ5p.321)という言葉等から、寂静の状態等を所以にもまた、大いなる福利あることが知られるべきである。

 思考の断絶ができることによってもまた、〔大いなる福利あることが知られるべきである〕。なぜなら、この〔呼吸についての気づきという禅定〕は、寂静にして精妙にして無雑にして安楽の住たることから、禅定の障りを作り為す諸々の思考を所以に心がこちらからもあちらからも走り回る〔状態〕を断ち切って、まさしく、呼吸という対象に向かう心を作り為すからである。まさしく、それによって説かれた。「思考の断絶のために、呼吸についての気づきが修められるべきであり」(アングッタラ・ニカーヤ4p.353)と。

 

§239  さらに、明知と解脱の円満成就のための根元の状態によってもまた、この〔呼吸についての気づき〕には、大いなる福利あることが知られるべきである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立(四念処・四念住)を円満成就させます。四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分(七覚支)を円満成就させます。七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」(マッジマ・ニカーヤ3p.82)と。

 

§240  さらに、また、〔死における〕最後の出息と入息の、〔心に〕見出された状態(臨終時に呼吸を意識化している状態)を作り為すことからもまた、この〔呼吸についての気づき〕には、大いなる福利あることが知られるべきである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「ラーフラよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたことから、すなわち、また、それらの最後の出息と入息も、それらもまた、まさしく、見出されたものとして、止滅します──見出されないものとして、ではなく」(マッジマ・ニカーヤ1p.425-6)と。

 

238.

 

§241  そこにおいて、止滅を所以に、(1)生存における最後〔の出息と入息〕、(2)瞑想における最後〔の出息と入息〕、(3)死滅における最後〔の出息と入息〕、という、三つの最後〔の出息と入息〕がある。ま(1)さに、諸々の〔迷いの〕生存における欲望の生存(欲界)において、出息と入息は転起し、形態ある〔生存〕と形態なき生存(色界と無色界)において、〔出息と入息は〕転起しない。それゆえに、それら〔の出息と入息〕は、生存における最後〔の出息と入息〕となる。(2)諸々の瞑想〔の境地〕における前の三つの瞑想において、〔出息と入息は〕転起し、第四〔の瞑想〕(第四禅)において、〔出息と入息は〕転起しない。それゆえに、それら〔の出息と入息〕は、瞑想における最後〔の出息と入息〕となる。(3)また、すなわち、〔第十七の心である〕死滅の心より前に、【292】第十六の心(Ch.20§24)と共に生起して、死滅の心と共に止滅する、これら〔の出息と入息〕が、「死滅における最後〔の出息と入息〕」ということになる。ここでは、これら〔の出息と入息〕が、最後〔の出息と入息〕となる、ということで、志向するところとなる。

 

§242  まさに、この〔心を定める〕行為の拠点に専念する比丘には、呼吸という対象が巧妙に遍く収め取られたことから、死滅の心より前に、第十六の心が生起する瞬間において、〔出息と入息の〕生起に〔心を〕傾注させていると、それら〔の出息と入息〕の生起もまた、明白なるものと成り、〔出息と入息の〕止住に〔心を〕傾注させていると、それら〔の出息と入息〕の止住もまた、明白なるものと成り、さらに、〔出息と入息の〕滅壊に〔心を〕傾注させていると、それら〔の出息と入息〕の滅壊もまた、明白なるものと成る。

 

§243  まさに、これ(呼吸についての気づき)より他の〔心を定める〕行為の拠点を修めて阿羅漢の資質に至り得た比丘のばあい、寿命の期間は、あるいは、限定されたものと〔成り〕、あるいは、限定されざるものと成る。いっぽう、この、十六の基盤ある呼吸についての気づきを修めて阿羅漢の資質に至り得た比丘のばあい、寿命の期間は、まさしく、限定されたものと成る。彼は、「今や、これだけのものが、わたしの寿命の諸々の形成〔作用〕として転起するであろう。これより他が〔転起することは〕ない」と知って、まさしく、自己の法(性質)たることによって、肉体の看護や着衣の被着等々の一切の為すべきことを為して、〔両の〕眼を閉じる。コータ山精舎の住者たるティッサ長老のように。マハー・カランジヤ精舎の住者たるマハー・ティッサ長老のように。デーヴァ・プッタの大国におけるピンダパーティカ・ティッサ長老のように。さらに、チッタラ山精舎の住者たる二者の兄弟長老のように。

 

§244  そこで、これが、一つの事例の提示となる。伝えるところでは、二者の兄弟長老のなかの一者が、満〔月〕の斎戒(布薩)の日に、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を朗唱して〔そののち〕、比丘の僧団に取り囲まれ、自己の住する場に赴いて、歩行場のうえに立ち、月光を眺め見て、自己の寿命の諸々の形成〔作用〕を察知して、比丘の僧団に言った。「あなたたちが過去に見た比丘で、完全なる涅槃に到達しつつある者たちは、どのように、〔完全なる涅槃に到達したのですか〕」と。そこで、或る者たちは言う。「わたしたちが過去に見た比丘で、完全なる涅槃に到達しつつある者たちは、まさしく、坐所に坐った者となり、〔完全なる涅槃に到達しました〕」と。或る者たちは〔言う〕。「わたしたちが〔過去に見た比丘で、完全なる涅槃に到達しつつある者たちは〕、虚空に結跏を組んで坐った者となり、〔完全なる涅槃に到達しました〕」と。長老は言った。「今や、わたしは、あなたたちに、まさしく、歩行〔瞑想〕をしつつ、完全なる涅槃に到達するところを見せましょう」と。そののち、歩行場に線を為して(線を引いて)、「わたしは、〔線を為した〕この歩行場の〔一方の〕端から他の端に赴いて戻りつつ、この線に、まさしく、至り得て〔そののち〕、完全なる涅槃に到達するでしょう」と説いて、歩行場に入って、他の部分に赴いて戻りつつ、まさしく、一つの足で線を踏んだ瞬間に、完全なる涅槃に到達した。

 

 【293】〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、〔気づきを〕怠ることなき賢者は、このように無数の福利ある、呼吸についての気づきに、常に専念するべきである」と。

 

 これが、呼吸についての気づきについての詳細の言説の門となる。

 

239.

 

 4 寂止の随念(30)

 

§245  また、呼吸についての気づきの直後に配置された(Ch.3§105)、寂止の随念を修めることを欲し、静所に赴き静坐する者によって、「比丘たちよ、およそ、諸々の法(性質)としてあるかぎり、あるいは、諸々の形成されたもの(有為)も、あるいは、諸々の形成されたものではないもの(無為)も、離貪〔の法〕は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、驕慢の削除であり、涸渇の調伏(取り除き)であり、基底(阿頼耶:執着の思い)の根絶であり、転起(輪廻)の断絶であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃です」(アングッタラ・ニカーヤ2p.34)と、このように、「一切の苦しみの寂止」と名づけられた涅槃〔の境処〕の諸徳が随念されるべきである。

 

§246  そこにおいて、「およそ……かぎり」とは、あるかぎりのもの。「諸々の法(性質)としてある」とは、諸々の自ずからの状態(自性:固有の性能)のもの。「あるいは、諸々の形成されたものも、あるいは、諸々の形成されたものではないものも」とは、群集して〔集合となり〕合流して〔集合となる〕諸々の〔結集の〕縁によって、あるいは、作られたものも、あるいは、作られざるものも。「離貪〔の法〕は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます」とは、それらの形成された〔法〕や形成されたものではない法(性質)のなかで、離貪〔の法〕は、至高のものと告げ知らされ、最勝である、無上である、と説かれる。

 

§247  そこにおいて、「離貪〔の法〕」とは、まさしく、貪欲の状態なきことのみならず、そこで、まさに、「すなわち、この、驕慢の削除であり……略……涅槃です」という、すなわち、〔まさに〕その、「驕慢の削除」という〔言葉〕等々の名前を得る、形成されたものではない法(性質)も、それも、「離貪〔の法〕」と信受されるべきである。なぜなら、それは、すなわち、それに由来して、思量の驕慢や人間の驕慢等々の驕慢が、全てもろともに、驕慢ならざるものと〔成り〕、驕慢なきものと成り、消失することから、それゆえに、「驕慢の削除」と説かれ、そして、すなわち、それに由来して、欲望の涸渇(欲望の対象にたいする涸渇の思い)が、全てもろともに、調伏と滅却に至ることから、それゆえに、「涸渇の調伏」と説かれ、また、すなわち、それに由来して、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の基底が根絶に至ることから、それゆえに、「基底の根絶」と説かれ、そして、すなわち、それに由来して、三つの地盤(三界)ある〔輪廻の〕転起が断ち切られることから、それゆえに、「転起の断絶」と説かれ、また、すなわち、それに由来して、全てにわたり、渇愛の滅尽に至り、離貪し、さらに、止滅することから、それゆえに、「渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり」と説かれ、さらに、すなわち、この〔形成されたものではない法〕は、渇愛から──四つの胎(四胎:卵生・胎生・湿生・化生)や五つの境遇(五趣:地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)や七つの識知〔作用〕の止住(七識住:ディーガ・ニカーヤ3p.253)へと、さらに、九つの有情の居住所(九有情居:ディーガ・ニカーヤ3p.263)へと、次第次第の状態によって、織ることから、結び連ねることから、縫い合わせることから、「織ること(ヴァーナ)」という語用を得た〔渇愛〕から──離欲し(ニッカンタ)、出離し(ニッサタ)、束縛を離れたことから、それゆえに、「涅槃(ニッバーナ)」【294】と説かれるからである。ということで、まさしく、このように、それらの驕慢の削除たること等々の諸徳を所以に、「涅槃」と名づけられた寂止〔の境地〕が随念されるべきである。

 

§248  また、あるいは、すなわち、諸他にもまた、世尊によって、「比丘たちよ、では、形成されたものではないものを、[そして、形成されたものではないものに至る道を、]あなたたちに説示しましょう。……では、真理を……では、彼岸を……では、極めて見難いものを……では、老い朽ちないものを……では、常恒なるものを……では、虚構なきものを……では、不死なるものを……では、至福を……では、平安を……では、未曾有のものを……では、疾患なきものを……では、憎悪なきものを……では、清浄を……では、洲を……では、救護所を……。比丘たちよ、では、避難所を、[そして、避難所に至る道を、]あなたたちに説示しましょう」(サンユッタ・ニカーヤ4p.369-72)という〔言葉〕等々の諸経において、寂止の諸徳が説かれたが、それらを所以にもまた、まさしく、随念されるべきである。

 

§249  彼(瞑想修行者)が、このように、驕慢の削除たること等々の諸徳を所以に、寂止〔の境地〕を随念していると、その時点において、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に……略……なく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、寂止〔の境地〕を対象として、まさしく、真っすぐに赴いた心が有る。ということで、まさしく、覚者の随念等々において説かれた方法によって(Ch.7§66)、〔修行の〕妨害が鎮静された者には、一つの瞬間において、〔五つの〕瞑想の支分が生起する。いっぽう、寂止の諸徳の深遠なることから、あるいは、種々なる流儀の諸徳を随念することに信念あることから(思い入れが強いために)、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)に至り得ずして、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)に至り得ただけの瞑想と成る。〔まさに〕その、この〔瞑想〕は、寂止の諸徳を随念することを所以に、まさしく、「寂止の随念」という名称に至る(かくのごとく名づけられる)。

 

§250  そして、六つの随念のように、この〔寂止の随念〕もまた、〔預流たる者以上の〕聖なる弟子たちだけに実現する(凡夫には実現しない)。たとえ、このように存しているとして(上述のとおりであるとして)、寂止〔の境地〕への尊重ある凡夫によってもまた、〔寂止の随念は〕意が為されるべきである。なぜなら、聞くことを所以にもまた、寂止〔の境地〕において、心は浄信するからである。

 

§251  また、そして、この寂止の随念に専念する比丘は、安楽のうちに眠り、安楽のうちに目覚め、寂静なる〔感官の〕機能ある者と成り、寂静なる意図ある者と〔成り〕、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者と〔成り〕、浄信ある者と〔成り〕、精妙なるものに信念ある者と〔成り〕、梵行を共にする者たちにとって、そして、重き者と〔成り〕、さらに、尊ばれる者と〔成る〕。また、より上なるものに理解なくあるとして、〔来世において〕善き境遇を行き着く所とする者と成る。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、それゆえに、〔気づきを〕怠ることなき明眼の者は、このように無数の福利ある、聖なる寂止についての気づきを修めるべきである」と。

 

 これが、寂止の随念についての詳細の言説の門となる。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「〔他の〕随念たる〔心を定める〕行為の拠点についての釈示」という名の第八章となる。