第十三章 神知についての釈示

 

400.

 

§1  【407】今や、天耳の界域についての釈示の順が、至り得るところとなった。そこ(天耳の界域の知恵)において、そして、それ(天耳の界域の知恵)より他の、三つの神知(他者の心を探知する知恵・過去における居住の随念の知恵・有情たちの死滅と再生の知恵)において──

 

 [2 天耳の界域の知恵]

 

 [世尊は、「彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、天耳の界域〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」(ディーガ・ニカーヤ1p.79)という〔言葉〕等を言った。]

 「彼は、このように、心が、定められたものとなり」という〔言葉〕等々の義(意味)は、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである(Ch.12§13)。また、一切所において、まさしく、差異のみを、〔わたしたちは〕説き明かすであろう。

 

§2  そこで、「天耳の界域によって」とは、ここにおいて、天と相同のものたることから、「天」。なぜなら、天〔の神々〕たちには、善き行ないの行為〔の報い〕によって発現したことから、胆汁や痰や血等々によって邪魔されず、付随する〔心の〕汚れから解脱したことから、たとえ遠方にあるも対象を領受することができる、天の澄浄の耳の界域が有るからである。そして、また、この比丘にも、この知恵の耳の界域が、精進と修行の力によって発現したものとして、まさしく、そのようなものとして〔有る〕、ということで、天と相同のものたることから、「天」。そして、また、天の住を所以に獲得されたことから、さらに、自己みずから天の住に依拠したことからもまた、「天」。聞くことという義(意味)によって、さらに、生命なきものという義(意味)によって、「耳の界域」。さらに、耳の界域の作用を為すことによって、耳の界域のようにある、ということでもまた、「耳の界域」。その、天耳の界域によって。「清浄の」とは、完全なる清浄にして付随する〔心の〕汚れなき。「人間を超越した」とは、人間の行境を超越して、音声を聞くことでは人間の肉耳の界域を超越した〔耳〕によって。〔人間の行境を〕超克して(※)、止住している〔耳〕によって。

 

※ テキストには pī ti vattitvā とあるが、VRI版により vītivattitvā と読む。

 

§3  「両者の音声を聞きます」とは、二つの音声を聞く。どのようなものが、二つのものであるのか。そして、天〔の神々〕たち〔の音声〕であり、さらに、人間たち〔の音声〕である。そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、〔両者の〕音声を〔聞く〕、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。これによって、部分としての完全なる取り上げが知られるべきである。「それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」とは、それらの音声が、遠方にあるも、他〔の世の界域〕のチャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)にあるもまた、さらに、それら〔の音声〕が、現前にあるも、もしくは、自らの肉身に依拠している命あるもの(体内に生息する生物)の音声であるもまた、それら〔の音声〕を聞く、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。これによって、部分なき完全なる取り上げが知られるべきである(全体的に言及された)。

 

§4  「また、どのように、この〔天耳の界域〕は生起させられるべきであるのか」と〔問うなら、以下のように答える〕。

 その比丘によって、【408】神知の足場たる瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、事前作業〔としての瞑想〕における禅定の心によって、まず最初に、〔生来の〕性向の耳(肉耳)の道において、遠くにある粗雑なる〔音声〕として、林地における獅子等々の音声が傾注されるべきである。精舎における、鐘の音声、太鼓の音声、法螺貝の音声、全力で読誦している沙弥や青年比丘たちの読誦の音声、〔生来の〕性向の言説(普通の話し声)で言説している者たちの「尊き方よ、どうでしょう」「友よ、どうでしょう」という〔言葉〕等の音声、鳥の音声、風の音声、足の音声、沸騰した水のシュッシュッという音声、熱光のもと干上がりつつあるターラ〔樹〕の葉の音声、蟻等の音声、ということで、このように、一切の粗雑なるものから始めて順々に、諸々の繊細なる音声が傾注されるべきである。彼によって、東の方角において、諸々の音声の、音声の形相が、意が為されるべきである。西〔の方角〕において、北〔の方角〕において、南〔の方角〕において、下〔の方角〕において、上の方角において、東維において、西〔維〕において、北〔維〕において、南維においてもまた、諸々の音声の、音声の形相が、意が為されるべきである。粗雑なるものであろうが、繊細なるものであろうが、諸々の音声の、音声の形相が、意が為されるべきである。

 

§5  それらの音声は、彼の、〔生来の〕性向の心にとってもまた、明白なるものと成るが、いっぽう、事前作業〔としての瞑想〕における禅定の心にとっては、極度に明白なるものと〔成る〕。彼が、このように、音声の形相に意を為していると、「今や、天耳の界域が生起するであろう」と、それらの音声のうち、どれか一つを対象と為して、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕(意門引転:意に生じた思いを定置して意識化する作用の心)が生起する。それが止滅したとき、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕(速行:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)が疾走する。それら〔の疾走作用の心〕のうち、前の三つ、あるいは、四つのものは、「事前作業するもの(遍作)」「近接するもの(近行)」「随順するもの(随順)」「〔新たな〕種姓と成るもの(種姓)」という名のもので、欲望の行境(欲界)のものであり、〔最後の一つである〕第四、あるいは、第五のものが、〔瞑想の境地に〕専注する心となり、形態の行境(色界)のものにして第四の瞑想に属するものとなる。

 

§6  そこにおいて、それが、その〔瞑想の境地に〕専注する心と共に生起した知恵であるなら、これが、天耳の界域である、と知られるべきである。

 それより後は、〔音声は〕その〔知恵の〕耳のうちに侵入したものと成る。それを強き類のものと為しつつ、「ここにおいて、〔この〕間隔のうちなる音声を聞くのだ」と、一アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)ほどに〔範囲を〕限定して、〔次第次第にその範囲が〕増大させられるべきである。そののち、二アングラ、四アングラ、八アングラ、〔一〕ヴィダッティ(長さの単位・一ヴィダッティは約二十五センチ)、〔一〕ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)、部屋の内、庭先、講堂、僧房、僧団の林園、托鉢する村、地方等を所以に(※)、チャッカ・ヴァーラに至るまで、あるいは、それよりもより一層であろうが、〔範囲を〕限定しては限定して、〔次第次第にその範囲が〕増大させられるべきである。

 

※ テキストには janapadānivasena とあるが、VRI版により janapadādivasena と読む。

 

§7  このように、神知に到達したこの〔比丘〕は、足場たる瞑想を対象とする〔神知の知恵〕によって接触された空間の内部に在している諸々の音声をもまた、たとえ、ふたたび足場たる瞑想に入定せずしても、神知の知恵によって、まさしく、聞く。そして、このように聞いていると、たとえ、それで、もし、梵の世に至るまで、螺貝や太鼓や小鼓等の【409】諸々の音声と〔混合した〕一なる喧噪と成るとして、〔それらの音声を〕単独のものに定め置くことを欲することが存しているときは(個別に聞き分けようとするなら)、「これは、法螺貝の音声である」「これは、太鼓の音声である」と、定め置くことが、まさしく、できる。ということで──

 天耳の界域の言説は、〔以上で〕終了となる。

 

401.

 

 [3 〔他者の〕心を探知する知恵]

 

§8  [世尊は、「彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲()を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒()を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄()を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します」(ディーガ・ニカーヤ1p.79-80)という〔言葉〕等を言った。]

 〔他者の〕心を探知する知恵の言説において、「〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために」とは、ここにおいて、遍く知る(パリヤーティ)、ということで、「知る〔知恵〕(パリヤ)」。〔範囲を〕限定する、という義(意味)である。〔他者の〕心を探知することが、「〔他者の〕心を探知する〔知恵〕」。かつまた、〔他者の〕心を探知することであり、かつまた、それは知恵である、ということで、「〔他者の〕心を探知する知恵」。その〔他者の心を探知する知恵〕を義(目的)として、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。「他の有情たちの」とは、自己を除いて、残りの有情たちの。「他の人たちの」とは、この〔句〕もまた、まさしく、これと一なる義(意味)となる(直前の「他の有情たちの」と同義である)。いっぽう、教導を所以に、さらに、説示の美麗〔を所以〕に、文の種々なることが為された(同義であるも言い換えられた)。「心を、〔自らの〕心をとおして」とは、彼らの心を、自己の心によって。「探知して」とは、〔範囲を〕限定して。「覚知します」とは、貪欲を有する等を所以に、種々なる流儀〔の観点〕から知る。

 

§9  「また、どのように、この〔他者の心を探知する〕知恵は生起させられるべきであるのか」と〔問うなら、以下のように答える〕。

 まさに、この〔知恵〕は、天眼を所以に実現する。それ(天眼)は、この〔知恵〕にとっての事前作業〔としての瞑想〕であり、それゆえに、その比丘によって、光明を増大させて、天眼によって他者の心臓の形態(肉身の心臓)に依拠して転起している血の色を見て(Ch.8§111)、〔他者の〕心が遍く探し求められるべきである。なぜなら、すなわち、悦意の心が転起するとき、そのときは、熟したニグローダ〔樹の果〕と相同の赤と成り、すなわち、失意の心が転起するとき、そのときは、熟したジャンブ〔樹の果〕と相同の黒と〔成り〕、すなわち、放捨の心が転起するとき、そのときは、澄浄なる胡麻油と相同のものと成るからである。それゆえに、彼によって、「この形態は、悦意の機能から現起するものである」「この〔形態〕は、失意の機能から現起するものである」「この〔形態〕は、放捨の機能から現起するものである」と、他者の心臓の血の色を見ては見て、心を遍く探し求めつつ、〔他者の〕心を探知する知恵が、強靭に至ったものに作り為されるべきである。

 

§10  なぜなら、その〔他者の心を探知する知恵〕が、このように強靭に至ったものとしてあるとき、もはや、心臓の形態を見ることなくして、まさしく、心から心へと転移しつつ、順に、欲望の行境(欲界)の心を、さらに、形態の行境(色界)と形態なき行境(無色界)の心を、全てもろともに覚知するからである。そして、このこともまた、アッタカター(注釈書)において説かれた。「『形態なき〔行境〕において、他者の心を知ることを欲する者は、誰の心臓の形態を見るのか、誰の機能の変異を眺め見るのか』と〔問うなら〕、『誰のであれ、〔見〕ない』〔と答える〕。すなわち、この、どこであれ、そこおいて、〔神通者が、他者の〕心に傾注しつつ知る、十六の細別ある心(貪欲を有する心等の十六の心)が、これが、神通者にとって、境域(見る対象)となる。いっぽう、〔理解の〕固着が為されていない者を所以に、〔他者の心臓の血の色を見るという〕この言説が〔説かれた〕」と。

 

§11  また、「あるいは、貪欲を有する心を」という〔言葉〕等々について。八種類の貪欲を共具した【410】心(八十九の心のうち、悦意を共具し知恵と結び付き形成作用なき心・悦意を共具し知恵と結び付き形成作用を有する心・悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用なき心・悦意を共具し知恵と結び付かず形成作用を有する心・放捨を共具し知恵と結び付き形成作用なき心・放捨を共具し知恵と結び付き形成作用を有する心・放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用なき心・放捨を共具し知恵と結び付かず形成作用を有する心:Ch.14§90-1)が、「貪欲を有する心」と知られるべきである。〔これら以外の〕残りのもので、四つの境地(三界と出世間)のものにして、善なる〔心〕と〔善悪が〕説き明かされない心が、「貪欲を離れた〔心〕」〔ということになる〕。また、失意の心の二つ、疑惑〔の心〕と高揚の心の二つ、という、これら四つの心(八十九の心のうち、失意を共具し敵対と結び付いた形成作用なき心・失意を共具し敵対と結び付いた形成作用を有する心、さらに、放捨を共具し疑惑と結び付いた心・放捨を共具し高揚と結び付いた心:Ch.14§92-3)は、〔貪欲を有する心と貪欲を離れた心という〕二なるものにおいて、包摂に至ることはない(包摂されない)。いっぽう、或る長老たちは、それら〔の四つの心〕をもまた、〔二なるもののうちに〕包摂する。また、二種類の失意の心(失意を共具し敵対と結び付いた形成作用なき心・失意を共具し敵対と結び付いた形成作用を有する心:Ch.14§92)が、「憤怒を有する心」ということになる。四つの境地(三界と出世間)のものにして、善なる〔心〕と〔善悪が〕説き明かされない心は、全てもろともに、「憤怒を離れた〔心〕」〔ということになる〕。残りの十の善ならざる心は、この〔憤怒を有する心と憤怒を離れた心という〕二なるものにおいて、包摂に至ることはない(包摂されない)。いっぽう、或る長老たちは、それら〔の十の心〕をもまた、〔二なるもののうちに〕包摂する。また、「迷妄を有する〔心〕」「迷妄を離れた〔心〕」とは、ここにおいて、対人の方法によって〔厳密に説くなら〕、疑惑〔を共具した心〕と高揚を共具した〔心〕の二つ(Ch.14§93)だけが、迷妄を有する〔心〕となる。いっぽう、迷妄のばあい、一切の善ならざる〔心〕において発生あることから、十二種類もろともに、善ならざる心が、「迷妄を有する心」と知られるべきである。残りの〔心〕が、「迷妄を離れた〔心〕」〔ということになる〕。

 

§12  また、沈滞と眠気(昏沈睡眠)に従い行く〔心〕が、「退縮した〔心〕」。高揚に従い行く〔心〕が、「散乱した〔心〕」。形態の行境と形態なき行境〔の心〕が、「莫大なる〔心〕」。残りの〔心〕が、「莫大ならざる〔心〕」。三つの境地(三界)の〔心〕が、全てもろともに、「有上なる〔心〕」。世〔俗〕を超える〔心〕が、「無上なる〔心〕」。〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得た〔心〕が、さらに、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た〔心〕が、「定められた〔心〕」。両者に至り得ていない〔心〕が、「定められていない〔心〕」。置換〔による解脱〕と鎮静〔による解脱〕と断絶〔による解脱〕と安息〔による解脱〕と出離による解脱に至り得た〔心〕が、「解脱した〔心〕」。この解脱に至り得ていない〔心〕が、五種類もろともに、「解脱していない〔心〕」。かくのごとく知られるべきである。かくのごとく、〔他者の〕心を探知する知恵の得者として、比丘は、一切の流儀もろともに、この、あるいは、貪欲を有する心を……略……あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知する。ということで──

 〔他者の〕心を探知する知恵の言説は、〔以上で〕終了となる。

 

402.

 

 [4 過去における居住(過去世)の随念の知恵]

 

§13  [世尊は、「彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します」(ディーガ・ニカーヤ1p.81)という〔言葉〕等を言った。]

 過去における居住(過去世)の随念の知恵の言説において、「過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために」とは、それが、過去における居住の随念の知恵であるなら、その〔過去における居住の随念の知恵〕を義(目的)として。「過去における居住」とは、過去における諸々の過ぎ去った生において住された〔五つの心身を構成する〕範疇()。「住された」とは、諸々の居住したもの、諸々の経験したもの、自己の相続における諸々の生起しては止滅したもの、あるいは、諸々の住された法(事象)。「住された」とは、境涯の居住(対象の経験)によって住され、自己の識知〔作用〕()によって識知され、限定されたもの。あるいは、他者の識知〔作用〕によって識知されたものもまた、〔再生の〕道を断った方(ブッダ)の随念すること等々においては〔該当するが〕、それらのものは、覚者たちにだけ得られる。「過去における居住(過去世)の随念」とは、その気づき()によって、過去における居住を随念するなら、その〔気づき〕は、過去における居住の随念である。「知恵」とは、その気づきと結び付いた知恵である。このように、この【411】過去における居住の随念の知恵を義(目的)として、「過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために」。この知恵に到達し至り得るために、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

§14  「無数〔の流儀〕に関した」とは、無数の種類あるもの、あるいは、無数の流儀によって転起させられたもの。〔詳細に〕説き明かされたもの、という義(意味)である。「過去における居住を」とは、等しく直前に過ぎ去った生存(直前の生存・前世)を最初と為して、そこかしこにおいて住された相続を。「随念します」とは、〔五つの心身を構成する〕範疇の次第次第を所以に、あるいは、死滅と結生を所以に、従い行っては従い行って思念する。

 

§15  まさに、この過去における居住を、異教の者たち、普通の弟子たち、〔八十者の〕偉大なる弟子たち、〔サーリプッタ長老とモッガッラーナ長老の二者の〕至高の弟子たち、独覚(縁覚・辟支仏)たち、覚者たち、という、六〔種類〕の人たちが随念する。

 

§16  そこにおいて、異教の者たちは、四十カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)だけを随念する。それより他は、〔随念でき〕ない。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「力弱き智慧たることから」〔と答える〕。なぜなら、彼らのばあい、名前と形態(名色:精神的事象と物質的事象)の〔範囲の〕限定(見解の清浄:Ch.18)が絶無たることから、力弱き智慧と成るからである。普通の弟子たちは、力ある智慧たることから、百カッパであろうが、千カッパであろうが、まさしく、随念する。八十者の偉大なる弟子たちは、百千カッパを随念する。〔サーリプッタ長老とモッガッラーナ長老の〕二者の至高の弟子たちは、一つのアサンケイヤ(阿僧祇:不可算不可測の巨大数)を、さらに、百千〔カッパ〕を〔随念する〕。独覚たちは、二つのアサンケイヤを、さらに、百千〔カッパ〕を〔随念する〕。なぜなら、これだけのものが、彼らにとって、〔知恵の〕導引としてあるからである。いっぽう、覚者たちにとって、〔範囲の〕限定は、まさに、存在しない。

 

§17  そして、異教の者たちは、〔五つの心身を構成する〕範疇の次第次第だけを〔所以に〕思念する。次第次第を解き放って(手順を省いて)、死滅と結生を所以に思念することができない。なぜなら、彼らのばあい、求めた場所に入ることが、盲者たちのように、存在しないからである。また、すなわち、盲者たちが、棒を、まさしく、解き放たずして赴くように、このように、彼らは、〔五つの心身を構成する〕範疇の次第次第を、まさしく、解き放たずして思念する。普通の弟子たちは、〔五つの心身を構成する〕範疇の次第次第によってもまた随念し、死滅と結生を所以にもまた転移する。そのように、八十者の偉大なる弟子たちもある。いっぽう、二者の至高の弟子たちのばあい、〔五つの心身を構成する〕範疇の次第次第の作用は存在しない。或る自己状態(個我的あり方・身体のこと)の死滅を見て、結生を見、ふたたび、他の〔自己状態の〕死滅を見て、結生を〔見る〕。ということで、このように、まさしく、死滅と結生を所以に、転移しつつ赴く。そのように、独覚たちもある。

 

§18  いっぽう、覚者たちのばあい、まさしく、〔五つの心身を構成する〕範疇の次第次第の作用も〔存在せ〕ず、死滅と結生の転移の作用も存在しない。なぜなら、彼らのばあい、幾千万カッパにおいて、あるいは、前のものも、あるいは、後のものも、その〔状況〕その状況を求めるなら、その〔状況〕その〔状況〕が、まさしく、明白なるものと成るからである。それゆえに、幾千万カッパでさえをも、聖典の省略〔箇所〕のように簡略して、その〔状況〕その〔状況〕を求めるなら、まさしく、その場その場に入りつつ、獅子の跳入を所以に赴く。そして、このように赴きつつある彼らの知恵は、すなわち、まさに、毛を貫くことに精通を為したサラバンガ〔菩薩〕(ジャータカ5p.131・本生物語522)と相同の者としてある弓の使い手の放った矢が、途中において、木や蔓等々に当たることなく、まさしく、標的へと落ち行き、〔他物に〕当たらず、〔標的を〕外さないように、このように、諸々の途中途中の生に当たらず、【412】〔標的を〕外さず、まさしく、求めた〔状況〕求めた状況を、〔他物に〕当たることなく、〔標的を〕外すことなく、収め取る。

 

§19  また、そして、これらの過去における居住を随念する有情たちについて。異教の者たちのばあい、過去における居住を見ることは、螢の光に等しきものと成って現起する。普通の弟子たちのばあい、灯明の光に等しきものと〔成って現起する〕。偉大なる弟子たちのばあい、松明の光に等しきものと〔成って現起する〕。至高の弟子たちのばあい、明けの明星の光に等しきものと〔成って現起する〕。独覚たちのばあい、月の光に等しきものと〔成って現起する〕。覚者たちのばあい、千光に装飾された秋の日輪に等しきものと成って現起する。

 

§20  そして、異教の者たちのばあい、過去における居住を随念することは、盲者たちが棒の端で〔地を叩いて〕赴くようなものと成る。普通の弟子たちのばあい、棒の橋(丸木橋)を赴くようなものと〔成る〕。偉大なる弟子たちのばあい、歩行用の橋を赴くようなものと〔成る〕。至高の弟子たちのばあい、荷車用の橋を赴くようなものと〔成る〕。独覚たちのばあい、歩行用の大橋を赴くようなものと〔成る〕。覚者のばあい、荷車用の大橋を赴くようなものと〔成る〕。

 

§21  また、この参究においては、弟子たちのばあいの、過去における居住を随念することが、志向するところとなる(意味するところとなる)。それによって説かれた。「『随念します』とは、〔五つの心身を構成する〕範疇の次第次第を所以に、あるいは、死滅と結生を所以に、従い行っては従い行って思念する」(§14)と。

 

403.

 

§22  それゆえに、このように随念することを欲する初学の者たる比丘によって、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、静所に赴き静坐する者となり、次第次第に四つの瞑想に入定して、神知の足場たる第四の瞑想から出起して、全て〔の行為〕の最後のものである、坐ることが傾注されるべきである。そののち、坐所を設置すること、臥坐所に入ること、鉢と衣料を処置すること、食べる時、村から帰ってくる時、村において〔行乞の〕食のために歩んだ時、村に〔行乞の〕食のために入った時、精舎から出る時、塔廟の庭や菩提〔樹〕の庭で敬拝する時、鉢を洗浄する時、鉢を収め取る時、鉢を収め取る時より〔遡って〕顔の洗浄に至るまでに為した為すべきこと、早朝の時に為した為すべきこと、後夜(明け方)に為した為すべきこと、初夜(宵の内)に為した為すべきこと、ということで、このように、逆の順に、夜と昼に為した為すべきことの全体が傾注されるべきである。

 

§23  また、これだけのことは、〔生来の〕性向の心にとってもまた、明白なるものと成るが、いっぽう、事前作業〔としての瞑想〕における禅定の心にとっては、まさしく、極度に明白なるものと〔成る〕。また、それで、もし、ここにおいて、何であれ、明白なるものと成らないなら、ふたたび、足場たる瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、〔為した為すべきことが〕傾注されるべきである。これだけのことをもって〔為すなら〕、灯明が燃やされたときのように、明白なるものと成る。まさしく、このように逆の順に、第二日についてもまた、第三と第四と第五日についてもまた、十日についてもまた、半月についてもまた、ひと月についてもまた、すなわち、一年までもまた、為した為すべきことが傾注されるべきである。

 

§24  まさしく、この手段によって、十年、二十年、ということで、すなわち、この生存(現世)における【413】自己の結生(誕生の瞬間)まで、それまでのあいだ、〔為した為すべきことに〕傾注しつつ、前の生存(前世)の死滅の瞬間において転起させられた名前と形態(名色:心身のあり方)が傾注されるべきである。なぜなら、賢者たる比丘は、まさしく、最初の回で、結生〔の因縁〕を収め取って、〔前の生存の〕死滅の瞬間において〔転起された〕名前と形態を対象と為すことができるからである。

 

§25  また、すなわち、前の生存における名前と形態は、残りなく止滅し、他〔の名前と形態〕が生起していることから、そえゆえに、その状況は、通路なき暗闇のように、智慧浅き者によっては見難きものと成る。たとえ、その〔智慧浅き者〕によっても、「わたしは、結生〔の因縁〕を収め取って、死滅の瞬間において転起させられた名前と形態を対象と為すことができない」と、荷を捨て置くことが為されるべきではない(傾注を断念するべきではない)。また、まさしく、その足場たる瞑想が、繰り返し入定されるべきである。そして、そののち、出起しては出起して(※)、その状況が傾注されるべきである。

 

※ テキストには catutthāya vuṭṭhāya とあるが、VRI版により ca vuṭṭhāya vuṭṭhāya と読む。

 

§26  なぜなら、このように為している者は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、楼閣の尖塔を義(目的)として、大木を切断しながら、まさしく、枝葉の切断のみで、斧の切っ先が毀損したとき、たとえ、大木を切断することができなくても、荷を捨て置くこと(仕事の放棄)を、まさしく、為さずして、鍛冶屋小屋に赴いて、鋭利な斧を作らせて、ふたたび帰ってきて〔大木を〕切断するであろうし、そして、ふたたび毀損したとき、ふたたび、また、まさしく、そのように作らせて〔大木を〕切断するであろうし、彼が、このように切断していると、切断されたところ、切断されたところには、ふたたび切断されるべき状態なきことから、かつまた、切断されていないところ〔だけ〕を切断することから、まさしく、長からずして、大木を切り倒すであろうように、まさしく、このように、足場たる瞑想から出起して、過去に傾注されたところに傾注せずして、結生だけに傾注しつつ、まさしく、長からずして、結生〔の因縁〕を収め取って、死滅の瞬間において転起させられた名前と形態を対象と為すであろう、と〔知られるべきである〕。樵夫や理髪師等々〔の喩え〕によってもまた、この義(意味)が明らかにされるべきである。

 

§27  そこにおいて、〔全ての行為の〕最後のものである、坐ることから以降、結生に至るまで、対象と為して転起された知恵は、「過去における居住についての知恵」ということには成らず、いっぽう、それは、「事前作業〔としての瞑想〕における禅定の知恵」ということに成る。或る者たちは、「過去の事象についての知恵」ともまた説く。それは、形態の行境(色界)に関しては適合しない(予備的瞑想における禅定の知恵は欲界に属するからである)。また、すなわち、その比丘が〔このように為している〕とき、結生を超え行って、死滅の瞬間において転起させられた名前と形態を対象と為して、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が生起する。そして、それが止滅したとき、まさしく、その〔名前と形態〕を対象と為して、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕が疾走する。まさしく、前に説かれた方法によって(§5)、それらのうち、前〔の三つ、あるいは、四つのもの〕は、「事前作業するもの」等の名のもの(事前作業するもの・近接するもの・随順するもの・新たな種姓と成るもの)で、欲望の行境のものと成り、最後のものが、形態の行境のものにして、第四の瞑想に属するものたる、〔瞑想の境地に〕専注する心と〔成る〕。そのとき、彼に、その〔瞑想の境地に専注する〕心と共に、すなわち、知恵が生起するなら、これが、「過去における居住の随念の知恵」ということに〔成る〕。その知恵と結び付いた気づきによって、「無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二【414】生をもまた……略……かくのごとく、形相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します」と〔知られるべきである〕。

 

404.

 

§28  そこにおいて、「一生をもまた」とは、結生を根元とし、死滅を結末とし、一つの生存に属している、〔五つの心身を構成する〕範疇の相続の一つをもまた。これが、「二生をもまた」という〔言葉〕等々についてもまた、〔共通する説示の〕方法となる。また、「無数の展転されたカッパ(:時間の単位・極めて長い時間)をもまた」という〔言葉〕等々について、遍く衰退しつつあるカッパが、展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)であり、増大しつつある〔カッパ〕が、還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)である、と知られるべきである。

 

§29  そこにおいて、展転された〔カッパ〕が止住する〔カッパ〕(壊住劫・空劫)は、その〔展転されたカッパ〕を根元とすることから、展転された〔カッパ〕によって収め取られたものと成る(包含される)。そして、還転された〔カッパ〕が止住する〔カッパ〕(成住劫・住劫)は、還転された〔カッパ〕によって〔収め取られたものと成る〕。まさに、このように存しているとき、すなわち、それら〔の四つのアサンケイヤ〕が、「比丘たちよ、四つのものがあります。カッパには、これらのアサンケイヤ(阿僧祇:不可算不可測の巨大数)があります。どのようなものが、四つのものなのですか。展転された〔カッパ〕(壊劫)であり、展転された〔カッパ〕が止住する〔カッパ〕(壊住劫・空劫)であり、還転された〔カッパ〕(成劫)であり、還転された〔カッパ〕が止住する〔カッパ〕(成住劫・住劫)です」(アングッタラ・ニカーヤ2p.142)と、〔世尊によって〕説かれたが、それら〔の四つのアサンケイヤ〕は、〔展転されたカッパと還転されたカッパによって〕遍く収め取られたものと成る。

 

§30  そこにおいて、水によって展転された〔カッパ〕、火によって展転された〔カッパ〕、風によって展転された〔カッパ〕、という、三つの展転された〔カッパ〕があり、〔第二の瞑想の境地たる〕光音〔天〕、〔第三の瞑想の境地たる〕遍浄〔天〕、〔第四の瞑想の境地たる〕広果〔天〕、という、三つの展転された〔カッパ〕の境界がある。すなわち、カッパが、火によって展転するとき、光音〔天〕から下は、火によって燃焼し、すなわち、水によって展転するとき、遍浄〔天〕から下は、水によって溶解し、すなわち、風によって展転するとき、広果〔天〕から下は、風によって砕破する。

 

§31  また、詳細〔の観点〕から〔説くなら〕、常にまた、一つの覚者の国土が消失する。「覚者の国土」というのは、三種類のものが有る。出生の国土であり、命令の国土であり、さらに、境域の国土である。そこにおいて、出生の国土は、すなわち、如来が結生を収め取ること等々があるときに揺れ動く、一万のチャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)を極限とするものと成る。命令の国土は、そこにおいて、『ラタナ・スッタ』(スッタニパータp.39)、『カンダ・パリッタ』(アングッタラ・ニカーヤ2p.72)、『ダジャッガ・パリッタ』(サンユッタ・ニカーヤ1p.218)、『アターナーティヤ・パリッタ』(ディーガ・ニカーヤ3p.194)、『モーラ・パリッタ』(ジャータカ2p.33・本生物語159)、という、これらのパリッタ(護呪)の威力が転起する、百千万億のチャッカ・ヴァーラを極限とするものと〔成る〕。境域の国土は、終極なく無量なるものと〔成る〕(範囲の限定はない)。あるいは、すなわち、〔聖典において〕「また、すなわち、〔彼が〕望むかぎりを」(アングッタラ・ニカーヤ1p.228)と説かれたが、そこ(境域の国土)において、如来が、そのもの、そのものを望むなら、そのもの、そのものを、〔如来は〕知る。このように、これらの三つの覚者の国土があるなか、〔展転されたカッパにおいて〕一つの命令の国土が消失する。また、その〔命令の国土〕が消失しつつあるとき、出生の国土もまた、まさしく、消失したものと成る。そして、〔命令の国土が〕消失しつつあるなら、まさしく、〔その全てが〕一緒に消失し、成立しつつあるなら、また、まさしく、〔その全てが〕一緒に成立する。

 

§32  その〔命令の国土〕の、そして、消失が、さらに、成立が、このように知られるべきである。

 

405.

 

 [火による国土の消失]

 

 まさに、カッパが火によって消え行く、その時点において、まさしく、最初に、カッパの消失をもたらす大雲が【415】出起して、百千万億のチャッカ・ヴァーラにおいて、一なる大雨を雨降らせる。人間たちは、満足し欣喜し、一切の種を取り出して蒔く。いっぽう、諸々の作物が、牛が喰うほどに生じたとき、驢馬の鳴声〔のような雷鳴〕が響き渡りつつも、〔天は〕一滴さえも雨を降らせることがなく、そのとき、雨は、まさしく、断絶されては断絶されたものと成る。まさに、これに関して、世尊によって、「比丘たちよ、すなわち、幾年、幾百年、幾千年、幾百千年のあいだ、天が雨を降らせない、まさに、その(※)時が有ります」(アングッタラ・ニカーヤ4p.100)と説かれた。雨に依拠して生きる有情たちは、命を終えて、梵の世に発現し、かつまた、花や果に依拠して生きる天神たちも、〔梵の世に発現する〕。

 

※ テキストには so とあるが、VRI版により kho so と読む。

 

§33  このように、長時が過ぎ去ったとき、そこかしこにおいて、水は、完全なる滅尽に至る。そこで、順次に、魚や亀たちもまた、命を終えて、梵の世に発現し、地獄にある有情たちもまた、〔梵の世に発現する〕。そこにおいて、「地獄にある者たちは、第七の太陽の出現(§41)とともに消失する」と、或る者たちは〔説く〕。「瞑想〔の境地〕なくして、梵の世における発現は存在しない。そして、これらの者たちのなかの、或る者たちは、飢饉に責め苛まれた者たちであり、或る者たちは、瞑想〔の境地〕の到達に可能なき者たちである。彼らは、どのように、そこ(梵の世)において発現するのか」と〔問うなら〕、「天の世において獲得された瞑想〔の境地〕を所以に」〔と答える〕。

 

§34  まさに、そのとき、「十万年が経過して、カッパの出起(一劫の終わる時・世の終末)と成るであろう」と〔思い考えて〕、ローカブユーハという名の欲望の行境(欲界)の天〔の神々〕たちが、頭〔髪〕を解き放ち、髪を振り乱し、泣き顔になり、〔両の〕手で涙を拭いながら、赤の衣を着衣し、極度に醜い形態の見てくれを保持する者たちと成って、人間の道を渡り歩きながら、このように告げる。「皆様方よ、皆様方よ、これより十万年が経過して、カッパの出起と成るであろう。この世は消失するであろう。大海もまた干上がるであろう。そして、この大地は、さらに、シネールの山王も、燃尽するであろうし、消失するであろう。梵の世に至るまで、世の消失が有るであろう。皆様方よ、慈愛〔の心〕を修めたまえ。皆様方よ、慈悲〔の心〕を、歓喜〔の心〕を、放捨〔の心〕を、修めたまえ。母に奉仕したまえ。父に奉仕したまえ。家における最尊者を敬う者たちと成りたまえ」と。

 

§35  彼らの言葉を聞いて、多くのところの、そして、人間たちは、さらに、地にある天神たちも、畏怖〔の思い〕が生じ、互いに他と柔和なる心の者たちと成って、慈愛〔の心〕等々の功徳を作り為して、天の世に発現する。そこにおいて、天の清浄なる食料を食べて、風の遍満において事前作業〔としての瞑想〕を為して、瞑想〔の境地〕を獲得する。また、それより他の者たちも、順後に感受されるべき行為〔の報い〕によって、天の世に発現する。なぜなら、輪廻のうちに輪廻している有情で、順後に感受されるべき行為〔の報い〕が絶無となった者は、まさに、存在しないからである(有する行為の報いによって、一切の有情が天の世に発現する)。彼らもまた、そこにおいて、まさしく、そのように、瞑想〔の境地〕を【416】獲得する。このように、天の世において獲得された瞑想〔の境地〕を所以に、全てもろともの者たちが、梵の世に発現する、と〔知られるべきである〕。

 

§36  また、雨の断絶から以後に、長時が経過して、第二の太陽が出現する。そして、このこともまた、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、[すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、第二の太陽が出現する、]まさに、その(※)時が有ります」(アングッタラ・ニカーヤ4p.100)と、『サッタ・スリヤ〔スッタ〕』〔の言葉〕が詳知されるべきである。また、そして、その〔第二の太陽〕が出現したときは、まさしく、夜の限定は〔覚知され〕ず、昼の限定も覚知されない。一つの太陽が出起し、一つ〔の太陽〕が滅却に至り、まさしく、太陽の熱が断絶されざる世と成る。そして、すなわち、〔生来の〕性向の太陽(第一の太陽)に太陽の天子が有るように、このように、カッパの消失をもたらす太陽(第二の太陽)に〔太陽の天子が〕存在することはない。そこにおいて(※※)、〔生来の〕性向の太陽が転起しているときは、虚空において、雷雲もまた〔歩み行き〕、煙霞もまた歩み行くが、カッパの消失をもたらす太陽が転起しているときは、煙〔霞〕と雷雲は離れ去り、鏡円のように無垢なる天空と成り、五つの大河(ガンガー川・ヤムナー川・サラブー川・サラスヴァティー川・マヒー川)を除いて、残りの小川等々の水は干上がる。

 

※ テキストには so とあるが、VRI版により kho so と読む。

※※ テキストには Te pi tattha とあるが、VRI版により Tattha と読む。

 

§37  そののち、また、長時が経過して、第三の太陽が出現する。その〔太陽〕の出現あることから、〔五つの〕大河もまた干上がる。

 

§38  そののち、また、長時が経過して、第四の太陽が出現する。その〔太陽〕の出現あることから、ヒマヴァント(ヒマラヤ)においては、〔五つの〕大河の起源である、シーハパータナ、ハンサパータナ、カンナムンダカ、ラタカーラダハ、アノータッタダハ、チャッダンタダハ、クナーラダハ、という、これらの七つの大池が干上がる。

 

§39  そののち、また、長時が経過して、第五の太陽が出現する。その〔太陽〕の出現あることから、順次に、大海においては、指の節を濡らすほどの水さえも止住しなくなる。

 

§40  そののち、また、長時が経過して、第六の太陽が出現する。その〔太陽〕の出現あることから、チャッカ・ヴァーラ全体が一つの煙と成り、煙によって潤いは完全に奪い去られ、そして、すなわち、この〔チャッカ・ヴァーラ〕のように、百千万億のチャッカ・ヴァーラもまた、このように〔成る〕。

 

§41  そののち、また、長時が経過して、第七の太陽が出現する。その〔太陽〕の出現あることから、チャッカ・ヴァーラ全体が一つの光となり、百千万億のチャッカ・ヴァーラと共に、〔高さにして〕百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)等の細別あるシネール〔山〕の峰々もまた消滅して、まさしく、虚空に消没する。その火の光は、出起して四大王〔天〕を収め取る。そこにおいて、黄金宮殿と宝玉宮殿と宝珠宮殿を焼き尽くして、三十三〔天〕の生存域を収め取る。まさしく、この方法によって、すなわち、第一の瞑想の境地までを収め取る。そこ(第一の瞑想の境地)において、〔低位なる〕三つの梵(梵衆天・梵輔天・大梵天)の世をもまた焼き尽くして、〔第二の瞑想の境地たる〕光音〔天〕を触発して止住する。その〔火の光〕は、すなわち、【417】形成〔作用〕()の在り方をしたものが、たとえ、微塵ほどでも存在するかぎり、それまでは消えることがない(一切を焼き尽くす)。また、一切の形成〔作用〕の完全なる滅尽あることから、酥と油を焼き尽くす火炎のように、灰すらも残さずして消え、上の虚空は、下の虚空と共に、一つと成り、大いなる暗黒と〔成る〕。

 

406.

 

§42  そこで、長時が経過して、大雲が出起して、最初に、繊細なる雨を降らせ、順次に、蓮の茎、棒、杵、ターラ〔樹〕の幹等々の量の流雨で雨を降らせながら、百千万億のチャッカ・ヴァーラにおける一切の焼かれた箇所を〔雨水で〕満たして消没する。そして、下から、さらに、横からも、風が現起して、その水を重厚なるものと為し、蓮華の葉のうえにある水滴に等しき球形のものと〔為す〕。「どのように、まずは、大いなる水の集まりを重厚なるものと為すのか」と、もし〔問うなら〕、「裂け目を成作することから」〔と答える〕。なぜなら、その〔風〕が、その〔水〕に、そこかしこにおいて、裂け目を与えるからである。

 

§43  その〔水〕は、このように風によって丸められ重厚なるものと為されながら、完全に滅尽しつつ、順次に下へと降り行く。水が降り行ったとき、降り行ったときに、梵の世の箇所においては、梵の世が〔出現し〕、そして、上の四つの欲望の行境の天の世(他化自在天・化楽天・兜率天・耶摩天)の箇所においては、〔上の四つの欲望の行境の〕天の世が出現する。また、以前の地の箇所に降り行ったときは、諸々の力ある風が生起する。それら〔の風〕は、口を塞いだ水瓶のなかに止住している水のように、その〔水〕を、能力なきものと為して囲い込む(※)。甘美なる水は、完全なる滅尽に至りつつ、上に味ある地を現起させる。その〔味ある地〕は、まさしく、そして、色艶に満ちたものと成り、さらに、無水の乳粥の上膜のように、香りと味に満ちたものと〔成る〕。

 

※ テキストには rujjhanti とあるが、VRI版により rundhanti と読む。

 

§44  そして、そのとき、〔第二の瞑想の境地たる〕光音〔天〕の梵の世に、まず最初に発現した有情たちが、あるいは、寿命の滅尽あることから、あるいは、功徳の滅尽あることから、その〔光音天の梵の世〕から死滅して〔そののち〕、ここ(味ある地)に再生する。彼らは、自らの光をもち、空中を歩む者たちとして有るが、彼らは、『アッガンニャ・スッタ』(ディーガ・ニカーヤ3p.84)において説かれた方法によって、その味ある地を味わって渇愛に征服され、〔それを〕固まりと為したものを遍く受益することに従事する。そこで、彼らの自らの光は消没し、暗黒と成る。彼らは、暗黒を見て、恐怖する。

 

§45  そののち、彼らの恐怖を消失させて、勇気ある状態を生じさせつつ、〔直径にして〕五十ヨージャナの遍く満ちた日輪が出現する。彼らは、その〔日輪〕を見て、「〔わたしたちは〕光明を獲得した」と、欣喜し満足した者たちと成って、「恐怖するわたしたちの恐怖を消失させて、勇気(スーラ)ある状態を生じさせながら、〔それは〕出起したのだ。それゆえに、太陽(スリヤ)と成れ」と、その〔日輪〕のために、まさしく、「太陽」という名を作り為す(命名する)。そこで、太陽が、昼のあいだ光明を作り為して、滅却に至ったとき(日没時になると)、「〔わたしたちが〕得た、その光明もまた、それもまた、わたしたちから【418】消え行ったのだ」と、ふたたび、〔彼らは〕恐怖する者たちと成る。彼らには、このような〔思いが〕有る。「善きこととして、まさに、存するであろう。それで、もし、他の光明を、〔わたしたちが〕得るであろうなら」と。

 

§46  彼らの心を知ってかのように、〔直径にして〕四十九ヨージャナの月輪が出現する。彼らは、その〔月輪〕を見て、より一層激しく、欣喜し満足した者たちと成って、「わたしたちの欲〔の思い〕(チャンダ:chanda)を知ってかのように、〔それは〕出起したのだ。それゆえに、月(チャンダ:canda)と成れ」と、まさしく、「月」という、その〔月輪〕の(※)名を作り為す(命名する)。

 

※ テキストには chando hotū ti chandotveva’ ssa とあるが、VRI版により cando hotū ti candotvevassa と読む。

 

§47  このように、月と日が出現したとき、諸々の星が星座の形態で出現する。それから以降、夜と昼が覚知され、そして、順に、半月、ひと月、季節、一年が〔覚知される〕。

 

§48  また、まさしく、月と日が出現した日に、シネールとチャッカ・ヴァーラとヒマヴァント(ヒマラヤ)の山々が出現する。そして、それらは、まさに、〔その〕前でもなく、〔その〕後でもなく、まさしく、パッグナ〔月〕(春三月)の満月の日に、〔同時に〕出現する。どのようにか。すなわち、まさに、稗食が煮られているとき、まさしく、一打撃によって、諸々の泡粒が立ち上がり、諸々の或る部分は、高く高くある〔箇所〕と成り、諸々の或る〔部分〕は、低く低くある〔箇所〕と〔成り〕、諸々の或る〔部分〕は、平たく平たくある〔箇所〕と〔成る〕ように、まさしく、このように、高く高くある箇所は、諸々の山と成り、低く低くある箇所は、諸々の海と〔成り〕、平たく平たくある箇所は、諸々の洲(大陸)と〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

§49  そこで、それらの有情たちが、味ある地を遍く受益していると、順に、一部の者たちは、色艶ある者たちと〔成り〕、一部の者たちは、醜き色艶の者たちと成る。そこにおいて、色艶ある者たちは、醜き色艶の者たちを軽んじる。彼らには、高慢を縁とすることから、その味ある地もまた消没し、地の餅が出現する。そこで、彼らには、まさしく、〔同じ〕その方法によって、それもまた消没し、甘美なる蔓が出現する。まさしく、〔同じ〕その方法によって、それもまた消没し、耕さずに成熟する米が出現する──糠がなく、籾がなく、清浄で(※)、善き香りの、米の果が。

 

※ テキストには suddo とあるが、VRI版により suddho と読む。

 

§50  そののち、彼らに、諸々の器が生起する。彼らは、米を器に据え置いて、岩の背に据え置く。まさしく、自ずと、光炎が出起して、それを煮る。その飯は、スマナの類(ジャスミン)の花に等しきものと成り、それには、あるいは、汁によって、あるいは、香味によって、作り為されるべきものは存在しない(手を加える必要がない)。その〔味〕その味を食べることを欲する者たちとして有るなら、まさしく、その〔味〕その味と成る。

 

§51  彼らが、その粗雑なる食を食していると、それから以降、糞尿が生み出される。そこで、彼らには、その〔糞尿〕が出ることを義(目的)として、諸々の傷口が破られる(身体に穴が開く)。男には、男の状態が〔出現し〕、女にもまた、女の状態が出現する(性差が出現する)。そこで、まさに、女は男を、さらに、男は女を、限度を超えて思慕する。彼らには、限度を超えて思慕することを縁とすることから、欲望の苦悶が生起する。そののち、〔彼らは〕淫事の法(性質)を受用する。

 

§52  【419】彼らは、正ならざる法(性質)の受用を縁とすることから、識者たちに非難され呵責されながら、その正ならざる法(性質)の隠蔽を因として諸々の家屋を作る。彼らは、家屋に居住しながら、順に、或るどこかの怠け者の類である有情に随従する見解を惹起しつつ、〔米の〕蓄積を為す。それから以降、糠もまた、籾もまた、米を覆い包み、刈られた箇所もまた再成しない。彼らは、集まって泣き悲しむ。「君よ、まさに、諸々の悪しき法(性質)が、有情たちにおいて出現したのだ。まさに、わたしたちは、過去においては、意によって作られる者たちとして、[喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、]〔世に〕有り、[長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住した]」(ディーガ・ニカーヤ3p.90)と、『アガンニャ・スッタ』において説かれた方法によって詳知されるべきである。

 

§53  そののち、〔彼らは、自己の所有物に〕制約を据え置く(所有物に境界を設置する)。そこで、或るどこかの〔悪しき〕有情が、他者〔の所有物〕の〔一〕部を、与えられていないのに〔盗み〕取る。彼を、二回、誹謗して、三度目には、手や石や棒等々で打つ。彼らは、このように、与えられていないものを取ることや〔他者を〕非難することや虚偽を説くことや棒を取ること(暴力行為)が生起したとき、集まって思い考える。「それなら、さあ、わたしたちは、一者の有情を選ぶのだ。すなわち、わたしたちのなかで、正しく憤慨されるべき者に憤慨し、正しく難詰されるべき者を難詰し、正しく追放されるべき者を追放するであろう、〔そのような者を〕。いっぽう、わたしたちは、彼に、諸々の米のなかの〔しかるべき〕部分を供与するのだ」(ディーガ・ニカーヤ3p.92)と。

 

§54  また、このように、有情たちにおいて、〔議論の〕確定が為されたとき、まだ、このカッパにおいて、まさしく、この世尊は、菩薩として有るも、その時点にあって、それらの有情たちのなかでは、そして、より形姿麗しき者であり、かつまた、より見られるべき者であり、さらに、より大いなる権能ある者であり、覚慧に満ちた者であり、〔有情たちの〕制御と励起を為すための能力ある者であり、彼らは、彼に、近づいて行って、乞い求めて、〔彼を、王に〕選んだ。彼は、その大勢(マハー)の人によって選ばれた者(サンマタ)、ということで、「大いに敬われる者(マハー・サンマタ)」──諸々の国土(ケッタ)の君主(アディパティ)、ということで、「士族(カッティヤ)」──平等の法(正義)によって他者たちを喜ばす(ランジェーティ)、ということで、「王(ラージャン)」──という、三つの名前で覚知された。まさに、その〔状況〕その〔状況〕が、世における稀有なる状況としてあるなら、まさしく、菩薩は、そこにおいて、最初の人となる。ということで、このように、菩薩を最初〔の人〕と為して、士族の圏域が確立されたとき、順次に、婆羅門等々の種別もまた確立した。

 

§55  そこにおいて、カッパの消失をもたらす大雲〔の出起〕から、すなわち、光の断絶までが、これが、一つのアサンケイヤ(阿僧祇:不可算不可測の巨大数)となり、「展転された〔カッパ〕(壊劫)」と説かれる。カッパの消失をもたらす光の断絶から、すなわち、百億千万のチャッカ・ヴァーラを〔水によって〕遍く満たす大雲の得達までが、これが、第二のアサンケイヤとなり、「展転された〔カッパ〕が止住する〔カッパ〕(壊住劫・空劫)」と説かれる。大雲の得達から、すなわち、月と日の出現までが、これが、第三のアサンケイヤとなり、「還転された〔カッパ〕(成劫)」と説かれる。月と日の出現から、すなわち、ふたたび【420】カッパの消失をもたらす大雲〔の出起〕までが、これが、第四のアサンケイヤとなり、「還転された〔カッパ〕が止住する〔カッパ〕(成住劫・住劫)」と説かれる。これらの四つのアサンケイヤが、一つの大いなるカッパと成る。まずは、このように、火による、そして、消失が、さらに、成立が、知られるべきである。

 

407.

 

 [水による国土の消失]

 

§56  また、カッパが水によって消え行く、その時点において、まさしく、最初には、カッパの消失をもたらす大雲が出起して、ということで、まさしく、前に説かれた方法によって(§32)、詳知されるべきである。

 

§57  また、これが、差異となる。すなわち、そこ(火による消失)において、第二の太陽が〔出現する〕ように、このように、ここ(水による消失)では、カッパの消失をもたらす灰汁の大雲が出起する。それは、最初には、繊細にして繊細なる雨を降らせながらも、順に、諸々の大いなる流雨によって百億千万のチャッカ・ヴァーラを満たしながら、雨を降らせる。灰汁によって接触されては接触された地や山等々は溶解し、水は、遍きにわたり、諸々の風によって保持される。地から、すなわち、第二の瞑想の境地までを、水が収め取る。そこ(第二の瞑想の境地)において、〔低位なる〕三つの梵(少光天・無量光天・光音天)の世をもまた溶解させて、〔第三の瞑想の境地たる〕遍浄〔天〕を触発して止住する。その〔水〕は、すなわち、形成〔作用〕の在り方をしたものが、たとえ、微塵ほどでも存在するかぎり、それまでは、止み静まることがない(一切を溶解させる)。また、水が従い行くもので、一切の形成〔作用〕の在り方をしたものを征服して、即座に止み静まり、消没に至り、上の虚空は、下の虚空と共に、一つと成り、大いなる暗黒と〔成る〕(§41)。ということで、一切は、〔前に〕説かれたところに等しきものと〔成る〕。また、ただし、ここでは、光音〔天〕の梵の世を最初と為して、世が出現する。そして、遍浄〔天〕から死滅して〔そののち〕、光音〔天〕の箇所等々において、有情たちは発現する。

 

§58  そこにおいて、カッパの消失をもたらす大雲〔の出起〕から、すなわち、カッパの消失をもたらす水の断絶までが、これが、一つのアサンケイヤとなる。〔カッパの消失をもたらす〕水の断絶から、すなわち、〔百億千万のチャッカ・ヴァーラを水によって遍く満たす〕大雲の得達までが、これが、第二のアサンケイヤとなる。大雲の得達から……略……。これらの四つのアサンケイヤが、一つの大いなるカッパと成る。このように、水による、そして、消失が、さらに、成立が、知られるべきである。

 

408.

 

 [風による国土の消失]

 

§59  カッパが風によって消え行く、その時点において、まさしく、最初には、カッパの消失をもたらす大雲が出起して、ということで、まさしく、前に説かれた方法によって(§32)、詳知されるべきである。

 

§60  また、これが、差異となる。すなわち、そこ(火による消失)において、第二の太陽が〔出現する〕ように、このように、ここ(風による消失)では、カッパの消失を義(目的)に、風が現起する。それは、最初に、〔地上にある〕粗大なる塵を吹き上げる。そののち、〔地に付着している〕軟柔なる塵を、繊細なる砂を、粗大なる砂を、石や岩等々を、ということで、すなわち、【421】楼閣ほどの諸々の岩までを、さらに、平坦ならざる箇所に立っている諸々の大木を、吹き上げる。それらは、地から天空へと上昇し、そして、ふたたび落ちることはなく、まさしく、そこにおいて、諸々の細片の細片と成って、状態なきに至る。

 

§61  そこで、順に、大いなる地の下から、風が現起して、地を遍く転起させて、根元を高きに為して(上下をひっくり返して)、虚空に投げ放つ。百ヨージャナの量ある地の部分であろうが、二〔百〕ヨージャナや三〔百〕ヨージャナや四〔百〕ヨージャナや五百ヨージャナの量ある〔地の部分〕であろうが、破壊されては風の勢いで投げ放たれ、まさしく、虚空において、諸々の細片の細片と成って、状態なきに至る。チャッカ・ヴァーラの山であろうが、シネールの山であろうが、風が引き抜いて、虚空に投げ放つ。それらは、互いに他を損壊して、諸々の細片の細片と成って、消失する。まさしく、この手段によって、そして、地居〔天〕の諸々の天宮を、さらに、空居〔天〕の諸々の天宮を、消失させつつ、六つの欲望の行境の天(六欲天:四大王天・三十三天・他化自在天・化楽天・兜率天・耶摩天)の世を消失させて、百千万億のチャッカ・ヴァーラを消失させる。そこにおいて、諸々のチャッカ・ヴァーラは諸々のチャッカ・ヴァーラと、諸々のヒマヴァントは諸々のヒマヴァントと、諸々のシネールは(※)諸々のシネールと、互いに他と遭遇して、諸々の細片の細片と成って、消失する。

 

※ テキストにはSineru とあるが、VRI版により Sinerū と読む。

 

§62  地から、すなわち、第三の瞑想の境地までを、風が収め取る。そこ(第三の瞑想の境地)において、〔低位なる〕三つの梵(少浄天・無量浄天・遍浄天)の世を溶解させて、〔第四の瞑想の境地たる〕広果〔天〕を触発して止住する。このように、一切の形成〔作用〕の在り方をしたものを消失させて、自らもまた消失する。上の虚空は、下の虚空と共に、一つと成り、大いなる暗黒と〔成る〕(§41)。ということで、一切は、〔前に〕説かれたところに等しきものと〔成る〕。また、ここでは、遍浄〔天〕の梵の世を最初と為して、世が出現する。そして、広果〔天〕から死滅して〔そののち〕、遍浄〔天〕の箇所等々において、有情たちは発現する。

 

§63  そこにおいて、カッパの消失をもたらす大雲〔の出起〕から、すなわち、カッパの消失をもたらす風の断絶にまでが、これが、一つのアサンケイヤとなる。〔カッパの消失をもたらす〕風の断絶から、すなわち、〔百億千万のチャッカ・ヴァーラを風によって遍く満たす〕大雲の得達までが、これが、第二のアサンケイヤとなる。……略……。これらの四つのアサンケイヤが、一つの大いなるカッパと成る。このように、風による、そして、消失が、さらに、成立が、知られるべきである。

 

409.

 

§64  「どのような契機から、このように、世は消失するのか」〔と問うなら〕、「〔三つの〕善ならざる根元の契機あることから」〔と答える〕。なぜなら、〔三つの〕善ならざる根元が増長したとき(※)、このように、世は消失するからである。そして、それは、まさに、貪欲がより増長したとき、火によって消失し、憤怒がより増長したとき、水によって消失し──また、或る者たちは、「憤怒がより増長したとき、火によって〔消失し〕、貪欲がより増長したとき、水によって〔消失する〕」と説く──迷妄がより増長したとき、風によって消失する。

 

※ テキストには ussanesu とあるが、VRI版により ussannesu と読む。

 

§65  そして、このように消失しつつもまた、まさしく、間断なく〔連続して〕、七回、火によって消失し、第八の回には水によって〔消失し〕、ふたたび、七回、火によって〔消失し〕、第八の回には水によって〔消失し〕、ということで、このように、第八〔の回〕、第八の回には、〔水によって〕消失しつつ、【422】七度、水によって消失して〔そののち〕、ふたたび、七回、火によって消失する。これだけで、六十三のカッパが過ぎ行ったものと成る。ここにおいて、〔次のカッパへの〕合間となり、水によって消え行く回に達し得たとはいえ、〔水の活動を〕拒んで、〔活動の〕機会を得た風が、遍く満ちた六十四カッパの寿命ある、〔第三の瞑想の境地たる〕遍浄〔天〕を砕破しつつ、世を消失させる。

 

410.

 

§66  そして、また、過去における居住(過去世)を随念しながら、カッパを随念する比丘は、これらのカッパにおいて、無数の展転されたカッパをもまた、無数の還転されたカッパをもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた、随念する。どのようにか。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた」(ディーガ・ニカーヤ1p.81:§13)という〔言葉〕等の方法によって。そこにおいて、「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた」とは、某所の展転されたカッパにおいて、わたしは、某所の、あるいは、生存において、あるいは、胎において、あるいは、境遇()において、あるいは、識知〔作用〕の止住(識住)において、あるいは、有情の居住所(有情居)において、あるいは、有情の部類において、存していた。

 

§67  「このような名の者として」とは、あるいは、ティッサとして、あるいは、プッサとして。「このような姓の者として」とは、あるいは、カッチャーナとして、あるいは、カッサパとして。この〔言葉〕は、その〔比丘〕の過去の生存(過去世)における自己の名や姓を随念することを所以に説かれた。また、それで、もし、その時における自己の、あるいは、色艶の得達(容姿風貌の状態)を、あるいは、粗末な〔生〕と精妙な生の状態を、あるいは、楽と苦の多さを、あるいは、短命と長命の状態を、随念することを欲する者と成るなら、それをもまた、まさしく、随念する。それによって、〔世尊は〕言う。「このような色の者として……略……このような寿命を極限とする者として」(ディーガ・ニカーヤ1p.81)と。

 

§68  そこにおいて、「このような色の者として」とは、あるいは、白〔の色〕の者として、あるいは、茶〔の色〕の者として。「このような食の者として」とは、あるいは、米と肉の飯の食の者として(※)、あるいは、落ちた果を食料とする者として。「このような楽と苦の得知ある者として」とは、無数の流儀による、身体の属性と心の属性としての〔楽と苦〕の、あるいは、財貨を有するものと財貨なきもの等の細別ある楽と苦の、得知ある者として。「このような寿命を極限とする者として」とは、このように、あるいは(※※)、量として百年の寿命を極限とする者として、あるいは、八万四千カッパの寿命を極限とする者として。

 

※ テキストには salimasodanāhāro とあるが、VRI版により sālimasodanāhāro と読む。

※※ テキストには va とあるが、VRI版により vā と読む。

 

§69  「その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した」とは、〔まさに〕その、わたしは、〔まさに〕その、生存から、胎から、境遇から、識知〔作用〕の止住から、有情の居住所から、あるいは、有情の部類から、死滅し、ふたたび、何某という名の、生存において、胎において、境遇において、識知〔作用〕の止住において、有情の居住所において、あるいは、有情の部類において、生起した(再生した)。「そこでもまた、〔このように〕存していた」とは、そこで、そこにおいてもまた、生存において、胎において、境遇において、識知〔作用〕の止住において、有情の居住所において、あるいは、有情の部類において、ふたたび、〔わたしは〕有った。「このような名の者として」という〔言葉〕等は、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる。

 

§70  さらに、また、すなわち、「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた」という、この〔言葉〕は、順次に〔過去へと〕遡行している者の、求めるかぎりのものを随念すること〔を説くもの〕であり、「その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し」とは、〔過去から〕退去している者の、綿密に注視すること〔を説くもの〕であることから、それゆえに、「ここ(現世)に再生したのだ」という、〔まさに〕この、ここにおける再生(現世における再生)の、まさしく、直前における、彼の再生(前世における再生)の状況に関して、「某所に生起した」という、この〔言葉〕が説かれた、と知られるべきである。また、「そこでもまた、〔このように〕存していた」という、このような〔言葉〕等は、彼の、そこ(前世)における──〔まさに〕この、〔ここにおける〕再生の、直前の再生の状況における──【423】名や姓等々を随念することの見示を義(目的)に説かれた。「その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」とは、〔まさに〕その、わたしは、〔まさに〕その、直前の再生の状況(前世)から死滅し、ここ(現世)に、何某という名の、あるいは、士族の家に、あるいは、婆羅門の家に、発現したのだ、と〔知られるべきである〕。

 

§71  「かくのごとく」とは、このように。「行相を有し、素性を有する」とは、名と姓を所以に、素性を有し、色等を所以に、行相を有するものとして。なぜなら、有情は、名と姓によって、「ティッサ」「カッサパ」と指定されるからであり、色等々によって、「茶〔の色〕の者」「白〔の色〕の者」と、種々なる〔観点〕から覚知されるからである。それゆえに、名と姓は、素性であり、諸他のものは、行相である。「無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します」とは、これは、まさしく、明瞭なる義(意味)あるもの。ということで──

 過去における居住の随念の知恵の言説は、〔以上で〕終了となる。

 

411.

 

 [5 有情たちの死滅と再生の知恵]

 

§72  [世尊は、「彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄となり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します」(ディーガ・ニカーヤ1p.82-3)という〔言葉〕等を言った。]

 有情たちの死滅と再生の知恵の言説において、「死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために」とは、そして、死滅について、さらに、再生について、〔両者についての〕知恵〔の獲得〕のために。その知恵によって、有情たちの、そして、死滅が、さらに、再生が、知られるなら、その〔有情たちの死滅と再生の知恵〕を義(目的)に。天眼の知恵を義(目的)に、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。「心を導引し、向かわせます」とは、事前作業〔としての瞑想〕の心を、まさしく、そして、導引し、さらに、向かわせる。「彼は」とは、〔まさに〕その、心の導引を為した比丘は。

 

§73  また、「天眼によって(※)」という〔言葉〕等々については、天と相同のものたることから、「天」。なぜなら、天神たちには、善き行ないの行為〔の報い〕によって発現したことから、胆汁や痰や血等々によって邪魔されず、付随する〔心の〕汚れから解脱したことから、たとえ遠方にあるも対象を領受することができる、天の澄浄の眼が有るからである。そして、この知恵の眼もまた、精進と修行の力によって発現したものとして、まさしく、そのようなものとして〔有る〕、ということで、天と相同のものたることから、「天」。天の住を所以に獲得されたことから、さらに、自己みずから天の住に依拠したことからもまた、「天」。光明の遍き収取によって大いなる光輝あることからもまた、「天」。壁等を超えて在している形態()を見ることによって大いなる境遇あることからもまた、「天」。その全てが、まさしく、音声学(語源解釈)に従い行くことで知られるべきである。見ることという義(意味)によって、「眼」。眼の作用を為すことによって、眼のようにある、ということでもまた、「眼」。死滅と再生を見ることによって、見解(ものの見方)の清浄の因たることから、「清浄の」。

 

※ テキストには dibbena とあるが、VRI版により dibbena cakkhunā と読む。

 

§74  なぜなら、彼が、まさしく、死滅のみを見、再生を〔見〕ないなら、彼は、断絶の見解を収め取り、彼が、まさしく、再生のみを見、死滅を〔見〕ないなら、彼は、新たな有情の出現の見解を収め取り、いっぽう、彼が、その両者を見るなら、彼は、すなわち、二種類ともどもに、その悪しき見解を超克することから、それゆえに、彼の、その見ることは、見解の清浄の因となるからである。そして、この両者ともどもに、覚者の子(仏弟子)たちは見る。それによって説かれた。「死滅と再生を見ることによって、【424】見解(ものの見方)の清浄の因たることから、『清浄の』」と。

 

§75  人間の行境を超越して形態を見ることによって、「人間を超越した」。あるいは、人間の肉眼を超越したことから、「人間を超越した」と知られるべきである。〔まさに〕その、「人間を超越した清浄の天眼によって」。「有情たちが、[死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、]見ます」とは、人間たちが肉眼によって〔見る〕ように、有情たちを眺め見る。

 

§76  「死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを」とは、ここにおいて、死滅の瞬間においては、あるいは、再生の瞬間においても、天眼によって〔有情たちを〕見ることはできない。また、すなわち、今や死滅するであろう、死滅の近い者たちが、彼らが、死滅しつつある者たちであり、さらに、すなわち、今、まさしく、発現したところである、結生を収め取った者たちが、彼らが、再生しつつある者たちである、というのが、志向するところとなる。彼らが、このような形態の者たちとして、そして、「死滅しつつあるのを」、さらに、「再生しつつあるのを」。「見ます(パッサティ)」とは、見示する(ダッセーティ)。

 

§77  「下劣なる者たちとして」とは、迷妄の排出(等流)と結び付いたことから、諸々の下劣なる出生や家系や財物等々を所以に、蔑まれ、蔑視され、軽蔑され、軽視された者たちとして。「精妙なる者たちとして」とは、迷妄なき〔あり方〕(無痴)の排出と結び付いたことから、その反対の者たちとして。「善き色艶の者たちとして」とは、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)の排出と結び付いたことから、好ましく愛らしく意に適う色艶(容姿風貌)と結び付いた者たちとして。「醜き色艶の者たちとして」とは、憤怒の排出と結び付いたことから、好ましくなく愛らしくなく意に適わない色艶と結び付いた者たちとして。形姿麗しからざる者たちとして、醜き形姿の者たちとして、というのもまた、義(意味)となる。「善き境遇(善趣)の者たちとして」とは、善き境遇に至った者たちとして。あるいは、貪欲なき〔あり方〕(無貪)の排出と結び付いたことから、富者たちとして、大いなる富者たちとして。「悪しき境遇(悪趣)の者たちとして」とは、悪しき境遇に至った者たちとして。あるいは、貪欲の排出と結び付いたことから、貧者たちとして、少なき食べ物と飲み物の者(飲食物の窮乏者)たちとして。

 

§78  「〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして」とは、その〔行為〕その行為が蓄積されたなら、その〔行為〕その行為によって〔報いに〕近しく赴いた者たちとして。そこにおいて、前の「死滅しつつある者たちとして」という〔言葉〕等々によって、天眼の作用が説かれ、また、この句によって、〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵(隨業趣智)の作用が〔説かれた〕。

 

§79  そして、これが、その知恵の生起の次第となる。ここに、比丘が、下に、地獄に向かい、光明を増大させて、地獄にある有情たちを見る──大いなる苦痛を味わっている者たちとして。その見ることは、まさしく、天眼の作用である。彼は、このように意を為す。「いったい、まさに、どのような行為を為して、これらの有情たちは、この苦痛を味わうのか」と。そこで、彼に、「まさに、この〔行為〕を為して」と、その行為を対象とする知恵が生起する。そのように、上に、天の世に向かい、光明を増大させて、ナンダナ林やミッサカ林やパールサカ林等々にある有情たちを見る──大いなる得達を味わっている者たちとして。その見ることもまた、まさしく、天眼の作用である。彼は、このように意を為す。「いったい、まさに、どのような行為を為して、これらの有情たちは、この得達を味わうのか」と。そこで、彼に、「まさに、この〔行為〕を為して」と、その行為を対象とする知恵が生起する。これが、「〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵」【425】ということになる。

 

§80  この〔知恵〕には、別個に、事前作業〔としての瞑想〕は、まさに、存在しない。そして、すなわち、この〔知恵〕のように、このように、未来の事象についての知恵(未来分智)にもまた(※)、〔別個に、事前作業としての瞑想は、まさに、存在しない〕。なぜなら、まさしく、天眼を足場とする、これら〔の知恵〕は、まさしく、天眼と共に、実現するからである。

 

※ テキストには anāgata sa ñāassāpi とあるが、VRI版により anāgatasañāassāpi と読む。

 

§81  「身体による悪しき行ないを」という〔言葉〕等々について。邪悪を行なうこと、あるいは、邪悪に行なうことが、〔心の〕汚れ(煩悩)の腐敗あることから、ということで、「悪しき行ない」。身体によって〔為された〕悪しき行ない、あるいは、身体から生起した悪しき行ない、ということで、「身体による悪しき行ない」。諸他のもの(言葉と意)についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。「具備し」とは、具備する者と成った者たち。

 

§82  「聖者たちを批判する者たちであり」とは、覚者や独覚や覚者の弟子〔等々〕の聖者たちにとって──もしくは、在家の預流たる者たちにとってもまた──義(利益)ならざることを欲する者と成って、あるいは、最悪の事例〔を強調すること〕によって、あるいは、〔彼らの〕徳を否認することによって、「〔聖者たちを〕批判する者たちであり」。罵倒する者たちであり、非難する者たちであり、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

§83  そこにおいて、〔聖者たちを批判する者は〕「これらの者たちには、沙門の法(性質)は存在しない。これらの者たちは、沙門ならざる者たちである」と説きながら、最悪の事例〔を強調すること〕によって批判し、「これらの者たちには、あるいは、瞑想も、あるいは、解脱も、あるいは、道も、あるいは、果も、存在しない」という〔言葉〕等々を説きながら、徳を否認することを所以に批判する、と知られるべきである。そして、彼が、あるいは、〔故意に〕知りつつ批判するとして、あるいは、知ることなく〔批判するとして〕、両者ともどもに、まさしく、聖者への批判と成る。〔聖者への批判は〕重大なる行為にして、直後〔に報いが転起する悪なる行為〕と相同のものであり、そして、天上への妨害となり、さらに、〔聖者の〕道への妨害となる。いっぽう、可癒のものでは有る。

 

§84  それが明らかな状態となることを義(目的)に、この事例が知られるべきである。

 伝えるところでは、或るどこかの村において、そして、一者の長老が、さらに、青年比丘が、〔行乞の〕施食のために歩む。彼らは、まさしく、最初の家で、匙ほどの熱粥を得た。そして、長老の腹の風が止滅する(空腹に苦しむ)。彼は、思い考えた。「この粥は、わたしに正当なるものである。すなわち、冷たく成らないあいだに、それまでに、それを飲むのだ」と。彼は、人間たちが〔家の〕敷居(戸口の上り段)を義(目的)として持ち運んだ木の幹のうえに坐って、〔それを〕飲んだ。他〔の青年比丘〕は、彼を忌避しつつ、「過度の飢えに征服された老練の方が、わたしたちにとって恥ずべきことを為した」と言った。長老は、村を歩んで、精舎に至って、青年比丘に言った。「友よ、あなたには、〔世尊の〕この教えにおける確立が存在しますか」と。「尊き方よ、そのとおり。わたしは、預流たる者です」と。「友よ、まさに、それなら、上なる道を義(目的)として努力を為してはいけません。煩悩の滅尽者が、あなたによって批判されたのです」と。彼(青年比丘)は、彼(長老)に謝罪した。それによって、彼のその行為は、自然のとおりと成った(悪業にはならなかった)。

 

§85  それゆえに、すなわち、他の者もまた、聖者を批判するなら、彼は、〔その聖者のところに〕赴いて、それで、もし、自己が、〔その聖者よりも〕より年長の者として有るなら、【426】ひざまずいて坐って、「わたしは、尊者に、そして、この〔言葉〕を、さらに、この〔言葉〕を、言いました。わたしのその〔言葉〕を許してください」と謝罪するべきであり、それで、もし、〔自己が、その聖者よりも〕より年少の者として有るなら、敬拝して、ひざまずいて坐って、合掌を差し出して、「尊き方よ、わたしは、あなたさまに、そして、この〔言葉〕を、さらに、この〔言葉〕を、言いました。わたしのその〔言葉〕をお許しください」と謝罪するべきである。それで、もし、〔自己が、すでに他の〕方角に立ち去った者として有るなら(すでに別の精舎に移ってしまったなら)、あるいは、〔その聖者のところに〕自ら赴いて、あるいは、〔その聖者のところに〕共住者等々を送って、謝罪するべきである。

 

§86  しかしながら、それで、もし、〔自ら〕赴くこともまた〔でき〕ず、〔共住者等々を〕送ることもできないなら、すなわち、〔他の〕比丘たちで、〔今いる〕その精舎に住する、それらの者たちの現前に赴いて──それで、もし、〔彼らが、自己よりも〕より年少の者たちとして有るなら、ひざまずいて坐って──それで、もし、〔彼らが、自己よりも〕より年長の者たちとして〔有るなら〕、まさしく、年長の者について説かれた方法によって実践して──「尊き方よ、わたしは、誰某という名の尊者に、そして、この〔言葉〕を、さらに、この〔言葉〕を、言いました。その尊者が、わたしを許されますように」と説いて、謝罪するべきである。たとえ、面前にて許すことなくあるも、まさしく、これが為されるべきである。

 

§87  それで、もし、〔その聖者が〕独り歩む比丘として有り、彼の住する場が、まさしく、〔覚知され〕ず、赴いた場が覚知されないなら、賢者たる或る比丘の現前に赴いて、「尊き方よ、わたしは、誰某という名の尊者に、そして、この〔言葉〕を、さらに、この〔言葉〕を、言いました。その〔言葉〕を随念しつつ随念しつつ、わたしには、後悔〔の思い〕が有ります。〔わたしは〕何を為すのですか」と説くべきである。彼は説くであろう。「あなたさまは、思い考えてはいけません。長老は、あなたさまをお許しになります。心を止み静めなさい」と。彼(謝罪者)もまた、聖者の赴いた方角に向かい、合掌を差し出して、「〔わたしを〕許してください」と説くべきである。

 

§88  それで、もし、その〔聖者〕が、完全なる涅槃に到達した者として有るなら(すでに死去していたなら)、完全なる涅槃に到達した臥床の場に赴いて、すなわち、また、墓所にまで赴いて、謝罪するべきである。このように為されたとき、まさしく、天上への妨害と〔成ることは〕なく、〔聖者の〕道への妨害と成ることもなく、まさしく、自然のとおりと成る(悪業にはならない)。

 

§89  「誤った見解ある者たちであり」とは、転倒した見(ものの見方)ある者たちであり。「誤った見解と行為を受持する者たちである」とは、誤った見解を所以に受持された種々なる種類の行為ある者たちである。そして、彼らは、誤った見解を根元とする諸々の身体の行為等々において、他者たちをもまた受持させる。そして、ここにおいて、まさしく、言葉による悪しき行ないを収め取ることによって、聖者への批判が〔包摂され〕、さらに、意による悪しき行ないを収め取ることによって、誤った見解が包摂されているにもかかわらず、これらの二つ(聖者への批判と誤った見解)へのさらなる〔言及の〕言葉があるのは、〔両者の〕大いなる罪過を有する状態を見示することを義(目的)に〔説かれた〕、と知られるべきである。

 

§90  まさに、聖者への批判は、直後〔に報いが転起する、悪なる行為〕と相同のものたることから、大いなる罪過を有するものである。そして、このこともまた説かれた。「サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現法:現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、【427】このように、地獄に放ち置かれる者となります」(マッジマ・ニカーヤ1p.71)と。かつまた、誤った見解よりも、より大いなる罪過を有するものは、まさに、他に、存在しない。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、より大いなる罪過を有するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、誤った見解です。比丘たちよ、誤った見解を最高として、諸々の罪過はあります」(アングッタラ・ニカーヤ1p.33)と。

 

§91  「身体の破壊ののち」とは、執取された〔五つの心身を構成する〕範疇(取蘊)の遍捨ののち。「死後において」とは、その直後に発現する〔五つの心身を構成する〕範疇を収め取るときに。そこで、あるいは、「身体の破壊ののち」とは、生命の機能(命根)の断絶ののち。「死後において」とは、死滅の心より以後に。

 

§92  「悪所に」という、このような〔言葉〕等の一切は、まさしく、地獄の同義語である。なぜなら、地獄は、天上や解脱の因として有り功徳として等しく認証された収入(アヤ)から離去した(アペータ)ことから、あるいは、諸々の安楽の収益(アーヤ)の状態なき(アバーヴァ)ことから、「悪所(アパーヤ)」となり、苦しみ(ドゥッカ)の赴く所(ガティ)にして帰依する所、ということで、「悪趣(ドゥッガティ:悪しき境遇)」となり、あるいは、憤怒(ドーサ)多きことから、〔怒りや憎しみで〕汚れた(ドゥッタ)行為によって発現した境遇(ガティ)、ということで、「悪趣(ドゥッガティ:悪しき境遇)」となり、悪行を為す者たちが、ここにおいて、〔自心の〕自在を離れ(ヴィヴァサー)、落ちて行く(ニパタンティ)(※)、ということで、「堕所(ヴィニパータ)」となり、あるいは、消失しつつある者たち(ヴィナッサンター)が、ここにおいて、手足や肢体を粉々に破壊されながら、落ちて行く(パタンティ)、ということでもまた、「堕所(ヴィニパータ)」となり、ここにおいて、「悦楽」と名づけられた収入(アヤ)は存在しない、ということで、「地獄(ニラヤ)」となるからである。

 

※ テキストには Vinasā nipatanti tattha dukkaakārino とあるが、VRI版により Vivasā nipatanti ettha dukkaakārino と読む。

 

§93  そこで、あるいは、悪所を収め取ることによって、畜生の胎〔が包摂されていること〕を明らかにする。なぜなら、畜生の胎は、善趣(善き境遇)から離去したことから、悪所ではあるが、大いなる権能ある龍王等々の発生あることから、悪趣(悪しき境遇)ではないからである。悪趣を収め取ることによって、餓鬼の境域〔が包摂されていること〕を〔明らかにする〕。なぜなら、それ(餓鬼の境域)は、善趣から離去したことから、さらに、苦しみの赴く所として有ることから、まさしく、そして、悪所であり、さらに、悪趣であるが、しかし、阿修羅と相同の堕所ならざることから、堕所ではないからである。堕所を収め取ることによって、阿修羅の衆〔が包摂されていること〕を〔明らかにする〕。なぜなら、それ(阿修羅の衆)は、〔前に〕説かれたとおりの義(意味)によって、まさしく、そして、悪所であり、かつまた、悪趣であり、さらに、一切の〔功徳の〕積み重ねから落ち行ったことから、堕所である、と説かれるからである。地獄を収め取ることによって、アヴィーチ(阿鼻)〔の大地獄〕等の、まさしく、種々なる流儀の地獄〔が包摂されていること〕を〔明らかにする〕、と〔知られるべきである〕。「再生したのだ」とは、近しく赴いたものたちである。そこにおいて発現したものたちである、というのが、志向するところとなる。

 

§94  〔前に〕説かれた〔方法〕の反対によって、白い側(善の事例)が知られるべきである。また、これが、差異となる。そこにおいて、善趣を収め取ることによって、人間の境遇もまた包摂されるが、天上を収め取ることによって、天の境遇だけが〔包摂される〕。そこにおいて、すばらしい(スンダラ)境遇(ガティ)、ということで、「善趣(スガティ:善き境遇)」。形態等々の境域として、巧妙に(スットゥ)至高なる(アッガ)、ということで、「天上(サッガ)」。それは、全てもろともに、壊滅し崩壊するという義(意味)によって、「世」。ということで、これが、言葉の義(意味)となる。

 「かくのごとく」「天眼によって」という〔言葉〕等の一切は、結びの言葉である。このように、天眼によって見る、というのが、ここにおいて、これが、簡略の義(意味)となる。

 

412.

 

§95  また、このように見ることを欲する、初学の者たる良家の子息によって、〔地の〕遍満〔等々のうち、どれか一つ〕を対象とする神知の足場たる瞑想を、〔心を遍く調御する十四の〕行相の一切によって導引の忍耐あるものと為して(誘因として機能させて)、火の遍満、白の遍満、光明の遍満、【428】という、これらの三つの遍満のうち、どれか一つが、〔天眼の知恵に〕近きものとして作り為されるべきであり、〔瞑想の境地に〕近接する瞑想の境涯(作用範囲)と為して、〔それを〕増大させて、〔それが〕据え置かれるべきである(※)。そこにおいて、〔瞑想の境地に〕専注する〔瞑想〕が生起させられるべきではない、というのが、志向するところとなる。なぜなら、それで、もし、〔それを〕生起させるなら、〔それは〕足場たる瞑想の依所と成るからである──事前作業〔としての瞑想〕の依所ではなく。また、そして、これらの三つのなかでは、光明の遍満こそが、より最勝である。それゆえに、あるいは、それ(光明の遍満)を、あるいは、諸他のなかのどれか一つ〔の遍満〕を、遍満についての釈示において説かれた方法によって生起させて、まさしく、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の境地において止住して、〔それが〕増大させられるべきである。そして、その増大の方法もまた、まさしく、そこ(遍満についての釈示)において説かれた方法によって、知られるべきであり、まさしく、増大させられた場の内にある、形態の在り方をしたものが見られるべきである。

 

※ テキストには upetabba とあるが、VRI版により hapetabba と読む。

 

§96  また、形態の在り方をしたものを見ているこの者に、事前作業〔としての瞑想〕の時機が超え行き、そののち、光明が〔充満せずして〕消没し、それが消没したときは、もはや、形態の在り方をしたものは見られないが、そこで、この者によって、繰り返し、まさしく、足場たる瞑想に入って、そののち出起して、光明が充満されるべきである。このように〔為すなら〕、次第に、光明は、強靭に至ったものと成る、と〔知られるべきである〕。ここにおいて、「光明と成れ」と、そのかぎりの場を限定するなら、そこにおいて、光明は、まさしく、止住する。昼のあいだもまた、坐って見ていると、形態を見ることが有る。

 

§97  そして、ここにおいて、夜に草の松明で道を行く人が、〔その〕喩えとなる。

 伝えるところでは、或る者が、夜に草の松明で道を行き、彼の、その松明が燃え尽きた。そこで、彼には、〔道の〕平坦なる〔箇所〕と平坦ならざる〔箇所〕が覚知されなかった。彼は、その松明を地に打ちつけて、ふたたび燃焼させた。その〔松明〕は、火を放って、前の光明よりもより大いなる光明を作り為した。このように、繰り返し、燃え尽きた〔松明〕を燃焼させていると、次第に太陽が出てきた。太陽が出たとき、松明による行為は〔もはや〕存在しない(不要のものとなる)。ということで、その〔松明〕を捨てて、昼のあいだもまた〔道を〕赴いた。

 

§98  そこにおいて、松明の光明(※)のように、事前作業〔としての瞑想〕の時における遍満の光明がある。松明が燃え尽きたとき、〔道の〕平坦なる〔箇所〕と平坦ならざる〔箇所〕を見ないことのように、形態の在り方をしたものを見ている者の、事前作業〔としての瞑想〕の時機が超え行くことで、光明が〔充満せずして〕消没したとき、諸々の形態の在り方をしたものを見ないことがある。松明を〔地に〕打ちつけることのように、繰り返し、〔足場たる瞑想に〕入ることがある。松明の、前の光明よりもより大いなる光明を作り為すことのように、ふたたび事前作業〔としての瞑想〕を為している者の、より力ある光明を充満することがある。太陽が出ることのように、強靭に至った光明の、限定のとおりに、場〔に止住すること〕がある。草の松明を捨てて、昼のあいだもまた〔道を〕赴くことのように、微小なる光明を捨てて、強靭に至った光明によって、昼のあいだもまた、形態を見ることがある。

 

※ テキストには ukkaloko とあるが、VRI版により ukkāloko と読む。

 

§99  そこにおいて、すなわち、その比丘の肉眼の視野に至らない、腹の内に在るもの、心臓の基盤(心の依所:Ch.14§60)に依拠するもの、地面の下に依拠するもの、壁や山や垣を超えて在るもの、他のチャッカ・ヴァーラに在るもの、という、この形態が、知恵の眼の【429】視野にやってきて、肉眼に見えているかのように有るとき、そのとき、天眼は、生起したものと成る、と知られるべきである。そして、ここにおいて、まさしく、その〔天眼〕は、形態を見ることができる──前段部分の諸心ではなく。

 

§100  いっぽう、〔まさに〕その、この〔天眼〕は、凡夫にとっては、障害と成る。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「まさに、彼(凡夫)が、すなわち、その場その場において、『光明と成れ』と、〔心を〕確立するなら、たとえ、それぞれの地や海や山を貫いて、一つの光明と成るとして、そこで、彼が、そこにおいて、〔人を〕恐怖させる夜叉や羅刹等々の形態を見ていると、恐怖〔の思い〕が生起し、それによって、心の散乱に至り得て、瞑想〔の境地〕から離脱する者と成ることから」〔と答える〕。それゆえに、形態を見ることにおいて、〔気づきを〕怠る者として有るべきではない。

 

§101  そこで、これが、天眼の生起の次第となる。〔前に〕説かれた流儀の、この形態を対象と為して、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が生起して、止滅したとき、まさしく、その形態を対象と為して、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕が生起する(※)。ということで、一切が、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§5)、知られるべきである。ここでもまた、前段部分の諸心は、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する欲望の行境(欲界)のものとなり、結末における義(目的)の確証となる心が、第四の瞑想に属する形態の行境(色界)のものとなる。それと共に生じた知恵が、「有情たちの死滅と再生の知恵」ともまた〔説かれ〕、「天眼の知恵」ともまた説かれる。ということで──

 死滅と再生の知恵の言説は、〔以上で〕終了となる。

 

※ テキストには uppajjatī とあるが、VRI版により uppajjantī と読む。

 

413.

 

 [6 五つの神知についての雑駁なる言説]

 

§102  〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、五つの〔心身を構成する〕範疇を知る〔世の〕主たる方(ブッダ)が言った、すなわち、五つの神知がある──それらを知って、それらについての、この雑駁なる言説もまた、識知されるべきである」〔と〕。

 

§103  まさに、これらのうち、すなわち、この、「死滅と再生の知恵」と名づけられた天眼であるが、それには、そして、未来の事象についての知恵(未来分智)、さらに、〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵(隨業趣智)、という、二つの関連する知恵もまた有る。ということで、そして、これらの二つ〔の知恵〕、さらに、〔種々なる〕神通の種類等々の五つ〔の知恵〕、という、七つの神知の知恵が、ここに言及された。

 

§104  今や、それらの対象の区分について、迷妄なき〔あり方〕を義(目的)に──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「偉大なる聖賢によって説かれた、すなわち、四つの、対象の三なるものがある──それらについて、七つもろともの知恵の転起が明らかにされるべきである」〔と〕。

 

§105  そこで、これが、〔その〕提示となる。まさに、四つの、対象の三なるものが、偉大なる聖賢によって説かれた。どのようなものが、四つのものであるのか。微小なる対象〔等々〕の三なるもの、道なる対象〔等々〕の三なるもの、過去なる対象〔等々〕の三なるもの、内なる対象〔等々〕の三なるもの、と〔知られるべきである〕。

 

414.

 

§106  (一)そこにおいて、〔種々なる〕神通の種類の知恵(神変智)は、微小なると莫大なる〔対象〕と過去なると未来なると現在なる〔対象〕と【430】内なると外なる対象を所以に、七つの対象にたいし転起する。どのようにか。まさに、その〔種々なる神通の種類の知恵〕は、(1)すなわち、身体を心に依拠したものと為して、見られない身体で赴くことを欲する者が、心の自在によって身体を変化させ(Ch.12§119)、〔身体を〕莫大なる心に設置し揚挙するとき、そのときは──〔身体という〕目的格を得た対象あるものと成る、と〔理解を〕為して──形態の身体を対象とすることから、微小なる対象あるものと成る。(2)すなわち、心を身体に依拠したものと為して、見られる身体で赴くことを欲する者が、身体の自在によって心を変化させ、足場たる瞑想の心を形態の身体に設置し揚挙するとき、そのときは──〔心という〕目的格を得た対象あるものと成る、と〔理解を〕為して──莫大なる心を対象とすることから、莫大なる対象あるものと成る。

 

§107  (3)また、すなわち、まさしく、その、〔足場たる瞑想の〕心が、過去の止滅したものを対象と為すことから、それゆえに、過去なる対象あるものと成る。(4)偉大なる遺物(仏舎利)の安置におけるマハー・カッサパ長老等々のように、未来に〔心を〕確立している者たちには、未来なる対象あるものと成る。

 伝えるところでは、マハー・カッサパ長老は、偉大なる遺物の安置を為しつつ、「未来において、二百年と加えて十八年のあいだ、これらの、諸々の香は絶えることがあってはならず、諸々の花は萎れることがあってはならず、諸々の灯明は消えることがあってはならない」と、〔心を〕確立した。一切は、まさしく、そのとおりに成った。アッサグッタ長老は、ヴァッタニヤ(地名)の臥坐所において比丘の僧団が乾燥した食事を食べているのを見て、「池の水は、毎日、毎日、食事の前には、乳酪の味と成れ」と、〔心を〕確立した。食事の前に収め取った〔水〕は、乳酪の味と成り、食事の後には、まさしく、自然のとおりの水と〔成った〕。

 

§108  (5)また、身体を心に依拠したものと為して、見られない身体で赴く時には、現在なる対象あるものと成る。(6)身体の自在によって心を、あるいは、心の自在によって身体を、変化させる時には、さらに、自己を少年の姿等に化作する時には、自らの身体と心を対象と為すことから、内なる対象あるものと成る。(7)また、外に象や馬等を見示する時には、外なる対象あるものと〔成る〕。ということで、まずは、このように、〔種々なる〕神通の種類の知恵には、七つの対象にたいする転起が知られるべきである。

 

415.

 

§109  (二)天耳の界域の知恵(天耳界智)は、微小なる〔対象〕と現在なる〔対象〕と内なると外なる対象を所以に、四つの対象にたいし転起する。どのようにか。まさに、その〔天耳の界域の知恵〕は、(1)すなわち、音声を対象と為し、かつまた、音声は微小であることから、それゆえに、微小なる対象あるものと成る。(2)また、〔現に〕見出されている音声だけを対象と為して転起することから、現在なる対象あるものと成る。(3)その〔天耳の界域の知恵〕は、自己の腹の音声を聞く時には、内なる対象あるものと〔成る〕。(4)他者たちの音声を聞く時には、外なる対象あるものと〔成る〕。【431】ということで、このように、天耳の界域の知恵には、四つの対象にたいする転起が知られるべきである。

 

416.

 

§110  (三)〔他者の〕心を探知する知恵(他心智)は、微小なると莫大なると無量なる〔対象〕と道なる〔対象〕と過去なると未来なると現在なる〔対象〕と外なる対象を所以に、八つの対象にたいし転起する(※)。どのようにか。まさに、その〔他者の心を探知する知恵〕は、(1)他者たちの欲望の行境(欲界)の心を探知する時には、微小なる対象あるものと成る。(2)形態の行境(色界)と形態なき行境(無色界)の心を探知する時には、莫大なる対象あるものと成る。(3)道と果を知る時には、無量なる対象あるものと成る。そして、ここにおいて、凡夫は、預流たる者の心を知らず、あるいは、預流たる者は、一来たる者の〔心を知らず〕、ということで、このように、すなわち、阿羅漢まで、〔同様に〕導かれるべきである。いっぽう、阿羅漢は、全ての者たちの心を知る。そして、他の上なる者もまた、下なる者の〔心を探知する〕、という、この差異が知られるべきである。(4)道の心を対象とする時には、道なる対象あるものと成る。(5・6)また、すなわち、そして、過去七日以内において、さらに、未来七日以内において、他者たちの心を知るとき、そのときは、過去なる対象あるものと〔成り〕、さらに、未来なる対象あるものと成る。

 

※ テキストには pavatti とあるが、VRI版により pavattati と読む。

 

§111  (7)どのように、現在なる対象あるものと成るのか。「現在」というのは、三種類のものがある。瞬間の現在であり、相続の現在であり、さらに、一期の現在である。そこにおいて、生起と止住と滅壊に至り得たものが、瞬間の現在である。一つか二つの相続の時機に属しているものが、相続の現在である。

 

§112  そこにおいて、暗黒〔の場〕に坐って〔そののち〕、光明の場に赴いた者に、まずは、対象が明白なるものと成ることはない。また、すなわち、その〔対象〕が明白なるものと成るまで、ここにおいて、〔その〕間において、一つか二つの相続の時機が知られるべきである。光明の場を渡り歩いて〔そののち〕、内室に入った者にもまた、まずは、いきなり形態が明白なるものと成ることはない。また、すなわち、その〔形態〕が明白なるものと成るまで、ここにおいて、〔その〕間において、一つか二つの相続の時機が知られるべきである。また、遠くに立って、洗濯する者たちの〔棒で衣料を打つ〕手の変異を〔見てそののち〕、さらに、また、銅鑼や太鼓を打つ変異を見て〔そののち〕、まずは、音を聞くことはない。また、そして、すなわち、それを聞くまで、その間においてもまた、一つか二つの相続の時機が知られるべきである。まずは、このように、『マッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)』の朗読者たちは〔説く〕。

 

§113  いっぽう、『サンユッタ〔ニカーヤ〕(相応部経典)』の朗読者たちは、形態の相続、形態なきものの相続、という、二つの相続を説いて──「〔川の〕水を踏みしめて赴いた者の、踏みしめられた水の線(痕跡)が、岸において澄浄にならない、そのあいだは──外出から帰った者の、熱の状態が、身体において止み静まらない、そのあいだは──熱光のもとから帰って部屋に入った者の、暗黒の状態が離れ去らない、そのあいだは──部屋の内において〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)に意を為して、昼に窓を開いて〔外を〕眺め見る者の、〔両の〕眼の振動する状態が止み静まらない、そのあいだは──この〔間〕が、『形態の相続』ということになり、二つか三つの、〔一連の〕疾走〔作用の道程〕の時機が、『形態なきものの相続』ということになる」と説いて──その両者ともどもに、「『相続の現在』【432】ということになる」と説く。

 

§114  また、一つの生存として限定されたものが、「一期の現在」ということになる(一生涯の全期間を現在とするのが、「一期の現在」である)。それに関して、『バッデーカラッタ・スッタ』において、「友よ、そして、すなわち、意は、さらに、すなわち、諸々の法(意の対象)は、両者ともに、これは、現在のものです。もし(※)、その現在のものにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成るなら、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となり、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます」(マッジマ・ニカーヤ3p.197)と説かれた。そして、ここにおいて、相続の現在は、諸々のアッタカター(注釈書)において言及され、一期の現在は、経典において〔言及された〕。

 

※ テキストには yeva とあるが、VRI版により ce と読む。

 

§115  そこにおいて、或る者たちは、「瞬間の現在の心は、〔他者の〕心を探知する知恵の対象と成る」と説く。「何が、契機であるのか」〔と問うなら〕、「すなわち、そして、神通者の、さらに、他者の、〔両者の〕心は、一つの瞬間において生起することから」と〔彼らは答える〕。そして、これが、彼らの喩えとなる。「すなわち、ひと握りの花が虚空に投げられたとき、かならず、一つの花の茎が、〔他の〕一つ〔の花〕の茎と打ち合うように、このように、『〔わたしは〕他者の心を探知するのだ』と、群集を所以に、大勢の人の心が傾注されたとき、かならず、一者の心が、一者の心と、あるいは、生起の瞬間において、あるいは、止住の瞬間において、あるいは、滅壊の瞬間において、打ち合う」と。

 

§116  いっぽう、「その〔対象〕に、百年であろうが、千年であろうが、傾注しているとして、そして、その心によって、〔対象に〕傾注し、さらに、その〔心〕によって、〔対象を〕知る、それらの二つ〔の心〕(傾注する心と知る心)には、境位を共にする状態なきことから(同一時点に存在できないことから)──さらに、〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕(傾注する心)と疾走〔作用の心〕(知る心)には、好ましくない〔対象〕の境位においては、種々なる対象の状態に至り得る汚点あることから──〔或る者たちの説は〕道理がない」と、諸々のアッタカター(注釈書)において拒絶された。いっぽう、相続の現在が、さらに、一期の現在が、対象と成る、と知られるべきである(瞬間の現在は、他者の心を探知する知恵の対象にはならない)。

 

§117  そこにおいて、すなわち、転起している〔一連の〕疾走〔作用〕の道程より過去たると未来たるを所以に、二つか三つの疾走〔作用〕の道程の量ある時における他者の心は、それは、全てもろともに、「相続の現在」ということになる。また、一期の現在は、「疾走〔作用の道程〕の時機によって明らかにされるべきである(一期の現在の全期間が対象となるのではない)」と、『サンユッタ〔ニカーヤ〕(相応部経典)』のアッタカター(注釈書)において説かれた。それが、巧妙に説かれたものとなる(正しい説である)。

 

§118  そこで、これが、〔その〕提示となる。「神通者が、他者の心を知ることを欲する者として、〔心を対象に〕傾注する。〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕は、〔他者の〕瞬間の現在〔の心〕を対象と為して、まさしく、それと共に、止滅する。そののち、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕があり、それらのなかの最後のものが、神通の心となり、残り〔の、三つ、あるいは、四つの、疾走作用の心〕は、欲望の行境〔の心〕となる。それら〔の、四つ、あるいは、五つの疾走作用の心〕には、全てもろともに、まさしく、その〔傾注する作用の心が対象と為した、他者の〕止滅した心が対象と成り、そして、それらは、一期を所以に、現在を対象とすることから(※)、種々なる対象あるものと成ることはない。さらに、たとえ、対象を一つにするとしても、神通の心だけが、他者の心を知り、諸他〔の心〕は〔知ることが〕ない──すなわち、眼の門において、眼の識知〔作用〕(眼識)だけが、形態を見、諸他〔の心〕は〔見ることが〕ないように」と。

 

※ テキストには paccuppannārammaatā とあるが、VRI版により paccuppannārammaattā と読む。

 

§119  かくのごとく、この〔他者の心を探知する知恵〕は、まさしく、そして、相続の現在を〔所以に〕、さらに、一期の現在を【433】所以に、現在なる対象あるものと成る。あるいは、すなわち、相続の現在もまた、まさしく、一期の現在のうちに落ちることから、それゆえに、まさしく、一期の現在を所以に、その〔他者の心を探知する知恵〕は、現在なる対象あるものと〔成る〕、と知られるべきである。

 (8)また、まさしく、他者の心を対象とすることから、外なる対象あるものと〔成る〕。ということで、このように、〔他者の〕心を探知する知恵には、八つの対象にたいする転起が知られるべきである。

 

417.

 

§120  (四)過去における居住についての知恵(宿住智)は、微小なると莫大なると無量なる〔対象〕と道なる〔対象〕と過去なる〔対象〕と内なると外なると不可説なる対象を所以に、八つの対象にたいし転起する。どのようにか。まさに、その〔過去における居住についての知恵〕は、(1)欲望の行境の〔五つの心身を構成する〕範疇を随念する時には、微小なる対象あるものと成る。(2)形態の行境と形態なき行境の〔心身を構成する〕範疇を随念する時には、莫大なる対象あるものと〔成る〕。(3)過去において、自己によって、あるいは、他者たちによって、修められた道を、さらに、実証された果を、随念する時には、無量なる対象あるものと〔成る〕。(4)修められた道だけを随念する時には、道なる対象あるものと成る。(5)また、この〔過去における居住についての知恵〕は、決定して、過去なる対象あるものだけと〔成る〕(未来と現在を対象とすることはない)。

 

§121  そこにおいて、たとえ、何であれ、〔他者の〕心を探知する知恵と〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵もまた、過去なる対象あるものと成るとして、そこで、まさに、それらのばあい、〔他者の〕心を探知する知恵には、七日以内の過去の心だけが対象と〔成る〕。なぜなら、その〔他者の心を探知する知恵〕は、〔七日以内の過去の心より〕他の、あるいは、〔五つの心身を構成する〕範疇を、あるいは、〔五つの心身を構成する〕範疇と連結された〔名や姓等〕を、知ることがないからである。また、〔前に、他者の心を探知する知恵は、道なる対象あるものと成る、と説かれたが、それは、他者の心を探知する知恵が〕道と結び付いた心を対象とすることから(※)、教相〔の観点〕から〔間接的に〕、道なる対象あるものと〔成る〕、と説かれた。さらに、〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵には、まさしく、過去の思欲(:心の思い・意志)のみが対象と〔成る〕。いっぽう、過去における居住についての知恵には、過去の〔五つの心身を構成する〕範疇で、さらに、〔五つの心身を構成する〕範疇と連結された〔名や姓等〕で、何であれ、対象ならざるものは、まさに、存在しない。なぜなら、その〔過去における居住についての知恵〕は、過去の〔五つの心身を構成する〕範疇や〔五つの心身を構成する〕範疇と連結された〔名や姓等〕の諸々の法(意の対象)における一切知の知恵を赴く所とするものとして有るからである。ということで、この差異が知られるべきである。

 

※ テキストには Maggasampayuttacttārammaatā とあるが、VRI版により Maggasampayuttacittārammaattā と読む。

 

§122  ここにおいて、これが、アッタカター(注釈書)の解説となる。また、すなわち、「諸々の善なる範疇は、〔種々なる〕神通の種類の知恵と〔他者の〕心を探知する知恵と過去における居住の随念の知恵と〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵と未来の事象についての知恵にとって、対象たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.154)と、『パッターナ(発趣論)』において説かれたことから、それゆえに、〔感受作用と表象作用と諸々の形成作用と識知作用の〕四つの範疇もろともに、〔他者の〕心を探知する知恵と〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵の、対象と成る。そこで、また、〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵には、まさしく、善なる〔四つの範疇〕と善ならざる〔四つの範疇〕が〔対象と成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

§123  (6)また、自己の〔五つの心身を構成する〕範疇を随念する時には、この〔過去における居住についての知恵〕は、内なる対象あるものと〔成る〕。(7)他者の〔五つの心身を構成する〕範疇を随念する時には、外なる対象あるものと〔成る〕。(8)「過去において、ヴィパッシン世尊が〔世に〕有った。彼の母は、バンドゥマティーであり、父は、バンドゥマントである」(アッタサーリニーp.414)という〔言葉〕等の方法によって、名や姓や地の形相等を随念する時には、不可説なる対象あるものと成る。そして、「名や姓」とは、ここにおいて、〔五つの心身を構成する〕範疇と連結する、慣習の音声としての文の義(意味)と見られるべきであり、文〔それ自体〕ではない。なぜなら、文〔それ自体〕は、音声の〔認識の〕場所(声処)によって包摂されていることから、【434】微小なる〔対象〕と成るからである。すなわち、〔聖典に〕言うように、「言語の融通無礙は、微小なる対象あるものと〔成る〕」(ヴィバンガp.304)と。ここにおいて、これが、わたしたちにとって、愛着あるものとなる(容認する説となる)。このように、過去における居住についての知恵には、八つの対象にたいする転起が知られるべきである。

 

418.

 

§124  (五)天眼の知恵(天眼智)は、微小なる〔対象〕と現在なる〔対象〕と内なると外なる対象を所以に、四つの対象にたいし転起する。どのようにか。まさに、その〔天眼の知恵〕は、すなわち、(1)形態を対象と為し、かつまた、形態は微小なることから、それゆえに、微小なる対象あるものと成る。(2)さらに、〔現に〕見出されている形態においてだけ転起されたことから、現在なる対象あるものと〔成る〕。(3)自己の腹に在るもの等の形態を見る時には、内なる対象あるものと〔成る〕。(4)他者の〔腹に在るもの等の〕形態を見る時には、外なる対象あるものと〔成る〕。ということで、このように、天眼の知恵には、四つの対象にたいする転起が知られるべきである。

 

419.

 

§125  (六)未来の事象についての知恵(未来分智)は、微小なると莫大なると無量なる〔対象〕と道なる〔対象〕と過去なる〔対象〕と内なると外なると不可説なる対象を所以に、八つの対象にたいし転起する。どのようにか。まさに、その〔未来の事象についての知恵〕は、(1)「この者は、未来において、欲望の行境に発現するであろう」と知る時には、微小なる対象あるものと成る。(2)「形態の行境に、あるいは、形態なき行境に、発現するであろう」と知る時には、莫大なる対象あるものと〔成る〕。(3)「道を修めるであろうし、果を実証するであろう」と知る時には、無量なる対象あるものと〔成る〕。(4)「道を修めるであろう」とだけ知る時には、道なる対象あるものと〔成る〕。(5)また、その〔未来の事象についての知恵〕は、決定して、未来なる対象あるものだけと〔成る〕(過去と現在を対象とすることはない)。

 

§126  そこにおいて、たとえ、何であれ、〔他者の〕心を探知する知恵もまた、未来なる対象あるものと成るとして、そこで、まさに、その〔他者の心を探知する知恵〕には、七日以内の未来の心だけが対象と〔成る〕。なぜなら、その〔他者の心を探知する知恵〕は、〔七日以内の未来の心より〕他の、あるいは、〔五つの心身を構成する〕範疇を、あるいは、〔五つの心身を構成する〕範疇と連結された〔名や姓等〕を、知ることがないからである。未来の事象についての知恵には、過去における居住についての知恵において説かれた方法によって(§121)、未来における〔五つの心身を構成する範疇が、さらに、五つの心身を構成する範疇と連結された名や姓等が、何であれ〕、対象として、まさに、存在する。

 

§127  (6)「わたしは、某所に発現するであろう」と知る時には、内なる対象あるものと〔成る〕。(7)「誰某は、某所に発現するであろう」と知る時には、外なる対象あるものと〔成る〕。(8)また、「未来において、メッテイヤ世尊が生起するであろう。スブラフマーという名の婆羅門が、彼の父と成るであろう。ブラフマヴァティーという名の婆羅門尼が、母と成るであろう」(アッタサーリニーp.415)という〔言葉〕等の方法によって、名や姓を知る時には、まさしく、過去における居住についての知恵において説かれた方法によって(§123)、不可説なる対象あるものと成る。ということで、このように、未来の事象についての知恵には、八つの対象にたいする転起が知られるべきである。

 

420.

 

§128  (七)〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵(隨業趣智)は、微小なると莫大なる〔対象〕と過去なる〔対象〕と内なると外なる対象を所以に、五つの対象にたいし転起する。どのようにか。まさに、その〔為した行為のとおり報いに近しく赴くことについての知恵〕は、(1)欲望の行境の行為を知る時には、微小なる対象あるものと【435】成る。(2)形態の行境と形態なき行境の行為を知る時には、莫大なる対象あるものと〔成る〕。(3)過去だけを知る、ということで、過去なる対象あるものと〔成る〕。(4)自己の〔為した〕行為を知る時には、内なる対象あるものと〔成る〕。(5)他者の〔為した〕行為を知る時には、外なる対象あるものと成る。このように、〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴くことについての知恵には、五つの対象にたいする転起が知られるべきである。

 

§129  そして、ここにおいて、すなわち、まさしく、そして、「内なる対象あるものと〔成る〕」〔と〕、さらに、「外なる対象あるものと〔成る〕」〔と〕、かくのごとく説かれたものは、それは、時として内に、時として外に、〔対象を〕知る時には、内なる〔対象〕あるものとも外なる対象あるものともまた、まさしく、成る、と〔知られるべきである〕。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、「神知についての釈示」という名の第十三章となる。