第十七章 智慧の境地についての釈示
570.
§1 【517】今や、「範疇(蘊)、〔認識の〕場所(処)、界域(界)、機能(根)、真理(諦)、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)等の細別ある諸々の法(性質)の境地があり」(Ch.14§32)と、このように説かれた、この智慧の諸々の境地として有る諸々の法(性質)のうち、すなわち、まさしく、そして、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が、さらに、「等」という語によって包摂された、縁によって生起した諸々の法(縁已生法:縁によって生み出された物事)が、残りのものとして有ることから、それゆえに、それらの解説の順番が、至り得るところとなった。
§2 そこおいて、まずは、無明等々の諸法(性質)が、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕」と知られるべきである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。比丘たちよ、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(識:認識作用)があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(触:感覚の発生)があります。接触という縁あることから、感受(受:楽苦の知覚)があります。感受という縁あることから、渇愛(愛)があります。渇愛という縁あることから、執取(取)があります。執取という縁あることから、生存(有)があります。生存という縁あることから、生(生)があります。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有ります。比丘たちよ、これは、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』〔と〕説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ2p.1)と。
§3 また、老と死等々が、「縁によって生起した諸々の法(性質)」と知られるべきである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって生起した諸々の法(性質)なのですか。比丘たちよ、老と死は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、生は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、生存は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、執取は……略……。比丘たちよ、渇愛は……。比丘たちよ、感受は……。比丘たちよ、接触は……。比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所は……。比丘たちよ、名前と形態は……。比丘たちよ、識知〔作用〕は……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は……。比丘たちよ、無明は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、これらは、『縁によって生起した諸々の法(性質)』〔と〕説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ2p.26)と。
571.
§4 【518】また、ここにおいて、これが、〔その〕簡略〔の言説〕となる。「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(※)」とは、縁としての諸々の法(性質)と知られるべきである。「縁によって生起した諸々の法(性質)」とは、それら〔の縁〕それらの縁によって発現した諸々の法(性質)と〔知られるべきである〕。
※ テキストには Paṭiccamuppādo とあるが、VRI版により Paṭiccasamuppādo と読む。
§5 「どのように、このことが知られるべきであるのか」と、もし〔問うなら〕、「世尊の言葉によって」〔と答える〕。なぜなら、世尊によって、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕と縁によって生起した諸々の法(性質)についての説示の経において、「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。比丘たちよ、生という縁あることから、老と死があります。あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域(界)は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があり、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)があります。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。そして、『見よ』と言いました。『比丘たちよ、生という縁あることから、老と死があります』〔と〕。比丘たちよ、生存という縁あることから、生があります。……略……。[比丘たちよ、執取という縁あることから、生存があります。……。比丘たちよ、渇愛という縁あることから、執取があります。……。比丘たちよ、感受という縁あることから、渇愛があります。……。比丘たちよ、接触という縁あることから、感受があります。……。比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。……。比丘たちよ、名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。……。比丘たちよ、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……。]比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。あるいは、如来たちの生起あるも……略……区分し、明瞭と為します。そして、『見よ』と言いました。『比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります』〔と〕。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、そこにあっては、真実たることがあり、真実を離れざることがあり、他ならざることがあり、これを縁とすることがあります。比丘たちよ、これは、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』〔と〕説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ2p.25-6)と、このように、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を説示しつつ、真実たること等々の同義語によって、まさしく、縁としての諸々の法(性質)が、〔世尊によって〕「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕」〔と〕説かれたからである。それゆえに、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、老と死等々の諸法(性質)にとっての縁を特相とし、苦しみに追随することを効用(機能・性行)とし、邪道(輪廻)を現起(現状)とする、と知られるべきである。
572.
§6 また、〔まさに〕その、この〔縁によって物事が生起する道理〕は、まさしく、増減なくある、それら〔の縁〕それらの縁によって、その〔法〕その法(性質)に発生あることから、「真実たること」と〔説かれ〕、諸々の縁が和合に近しく赴いたとき、寸時でさえも、そののち、発現した諸々の法(性質)に発生なき状態なきことから、「真実を離れざること」と〔説かれ〕、諸々の他なる法(性質)の縁から、他なる法(性質)の生起なきことから(因果関係の確定性ゆえに)、「他ならざること」と〔説かれ〕、〔前に〕説かれたとおりの、これらの老と死等々にとっての、あるいは、縁たることから、あるいは、縁の集団たることから、「これを縁とすること」と説かれた。
573.
§7 そこで、これが、言葉の義(意味)となる。これら〔の老と死等々〕にとっての、諸々の縁が、諸々のこれを縁とするもの。まさしく、諸々のこれを縁とするものが、「これを縁とすること」。あるいは、諸々のこれを縁とするものの、〔その〕集団が、「これを縁とすること」。また、〔その〕特相は、ここにおいて、語義学(文法学)〔の観点〕から、遍く探求されるべきである。
574.
§8 また、或る者たちは、「縁によって(パティッチャ)、かつまた、正しく(サンマー)、異教の者によって遍く想い描かれた(妄想された)原質(根本物質)や原人(純粋精神)等の契機を期すことなき、生起(ウッパーダ)が、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(パティッチャ・サムッパーダ)である」と、このように、生起(果の行相)のみを、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である」と説くが、その〔説〕は【519】適合しない。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「(1)経の状態なきことから、(2)経の矛盾あることから、(3)深遠なる方法の発生なきことから、さらに、(4)語の破壊あることから」〔と答える〕。
§9 (1)なぜなら、生起のみを、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である」と〔説く〕経は存在せず──
(2)さらに、それを、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である」と説いている者には、部分の住についての経〔の言葉〕と矛盾が惹起するからである。どのようにか。まさに、世尊の、「そこで、まさに、世尊は、初夜のあいだ(宵の内)、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、順逆に、意を為しました」(ヴィナヤ1p.2)という言葉等から、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に意を為すことは、最初の現正覚の住であり、さらに、部分の住であり、それにとっての一つの部の住である。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、その住によって、〔まさに〕その、わたしが、最初に現正覚した者として〔世に〕住む、〔まさに〕その〔住〕の部分によって、〔わたしは〕住みました」(サンユッタ・ニカーヤ5p.12)と。そして、そこでは、縁の行相を見ることによって住んだのであり、生起のみを見ることによって〔住んだのでは〕ない。すなわち、〔世尊が〕言うように、「その〔わたし〕は、このように覚知します。『誤った見解という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい見解という縁あることからもまた、感受されたものがある。誤った思惟という縁あることからもまた、感受されたものがある。[……略……。誤った禅定という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい禅定という縁あることからもまた、感受されたものがある。欲〔の思い〕という縁あることからもまた、感受されたものがある。思考(尋)という縁あることからもまた、感受されたものがある。表象(想)という縁あることからもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、かつまた、思考が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、さらに、表象が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が〔すでに〕寂止したものとして有り、かつまた、思考が〔すでに〕寂止したものとして有り、さらに、表象が〔すでに〕寂止したものとして有り、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある。〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、努力が存在し、その境位が至り得るところとなったときもまた、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある』]」(サンユッタ・ニカーヤ5p.12)と。〔これらの〕全てが詳知されるべきである。このように、生起のみを、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である」と説いている者には、部分の住についての経〔の言葉〕と矛盾が惹起する。
§10 そのように、『カッチャーヤナ・スッタ』〔の言葉〕と矛盾が〔惹起する〕。なぜなら、『カッチャーヤナ・スッタ』においてもまた、「カッチャーナよ、世の集起を、まさに、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者には、すなわち、世において存在なきことは、それは有りません(世界の非存は認められない)」(サンユッタ・ニカーヤ2p.17)と〔説かれた〕からである。順なる縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、「世の縁から、世の集起がある」と、断絶の見解(断見)の根絶を義(目的)に明示されたものであり、生起のみを〔説くものでは〕ない。なぜなら、生起のみを見ることによって、断絶の見解の根絶が有ることはなく、いっぽう、縁の止息なきときは果の止息なきことから、縁の止息なき〔状態〕を見ることによって、〔断絶の見解の根絶が〕有るからである。ということで、このように、生起のみを、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である」と説いている者には、『カッチャーヤナ・スッタ』〔の言葉〕ともまた矛盾が惹起する。
§11 (3)「深遠なる方法の発生なきことから」とは、また、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「アーナンダよ、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものです」(ディーガ・ニカーヤ2p.55,サンユッタ・ニカーヤ2p.92)と。そして、「深遠なること」というのは、四種類のものがあり、それを、後に、〔わたしたちは〕解説するであろう(§304)。その〔深遠なること〕は、生起のみにおいて存在するのではない。さらに、四種類の方法(四句分別)によって装飾されたものとして、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を、〔彼らは〕解説するが(§309)、その、方法としての四なるもの(四句分別)もまた、生起のみにおいて存在するのではない。ということで、深遠なる方法の発生なきことからもまた、生起のみを、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である」〔と説く、その説は適合し〕ない。
575.
§12 (4)また、「語の破壊あることから」とは、そして、この「パティッチャ(縁)」という語は、〔普通の場合は〕等しくある【520】為し手にたいし、過去の時において結合しつつ、義(意味)の成就を為すものとして有る(同一主語のすでに完了した動作を含意する語である)。それは、すなわち、この、「かつまた、眼を縁として(パティッチャ)、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕(眼識)が生起します」(サンユッタ・ニカーヤ2p.72)と。いっぽう、ここ(パティッチャ・サムッパーダ:縁起)では、状態〔の義〕を遂行する〔語〕である「ウッパーダ(生起)」という語を相手に結合しているのであり、等しくある為し手の状態なきことから(主語を不要とする語と結合していることから)、語の破壊へと至り(文法的逸脱による語義の変化が起こる)、そして、何であれ、義(意味)を遂行することはない。ということで、語の破壊あることからもまた、生起のみを、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である」〔と説く、その説は適合し〕ない、と〔知られるべきである〕。
§13 そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「〔わたしたちは〕『縁によって(パティッチャ)、〔物事が〕生起する〔道理〕が有る(ホーティ)』と、〔『パティッチャ(縁によって)』という語を〕『ホーティ(有る)』という語を相手に結び付けるであろう(省略されている「ホーティ」という動詞と結合する)」〔と説くなら〕、「その〔説〕は適合しない」〔と答える〕。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「まさしく、そして、〔「ホーティ(有る)」という語との〕結合の状態なきことから、さらに、生起に生起が至り得る汚点あることから(※)」〔と答える〕。なぜなら、「比丘たちよ、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を、あなたたちに説示しましょう。比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。……略……。比丘たちよ、これは、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』〔と〕説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ2p.1)という、これらの句のなかの一つでさえも、〔それを〕相手に、「ホーティ(有る)」という語が結合へと至ることはなく(「ホーティ」という語はどこにも存在しない)、さらに、「ウッパーダ(生起)」〔という語〕も有ることがないからである──それで、もし、有るなら、生起にもまた生起が至り得ることになる──と〔知られるべきである〕。
※ テキストには uppāduppattidosato とあるが、VRI版により uppādapattidosato と読む。
576.
§14 すなわち、また、〔一部の者たちは〕思い考える。「諸々のこれを縁とするものの、〔その〕状態が、これを縁とすること(此縁性)である。そして、『状態』というのは、すなわち、行相であり、無明等々にとっての、諸々の形成〔作用〕等の出現における因であり、その〔状態〕が、その諸々の形成〔作用〕の変異において、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』という呼称となる」と。彼らには、「その〔説〕は適合しない」〔と答える〕。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「無明等々を因とする言葉あることから」〔と答える〕。なぜなら、世尊によって、「アーナンダよ、それゆえに、ここに、老と死には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、生です。……略……諸々の形成〔作用〕には、[まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。]すなわち、この、無明です」(ディーガ・ニカーヤ2p.57-63:一部異なる箇所あり)と、このように、まさしく、無明等々が、因である、と説かれたからである──それらの変異ではなく。それゆえに、「『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』とは、縁としての諸々の法(性質)と知られるべきである」(§4)と、かくのごとく、すなわち、〔まさに〕その、〔前に〕説かれたものが、それが、正しく説かれたものである、と知られるべきである。
577.
§15 また、ここにおいて、すなわち、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕」という、この文の影(見かけ)によって、「これは、生起だけが説かれた」という表象が生起するが、その〔表象〕は、この句の、このような義(意味)を収め取って、寂止されるべきである。まさに、世尊によって──
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、転起された〔果の〕法(性質)の集団について、〔『縁によって物事が生起する道理』という〕この言葉があることから、それゆえに、〔この言葉は、因と果の〕二種に〔理解され〕、それゆえに、それの縁である、この〔因の法の集団〕は、果の行境によって、かくのごとく、〔『縁によって物事が生起する道理』と〕説かれた」〔と〕。
§16 まさに、すなわち、この、縁とすることによって転起された〔果の〕法(性質)の集団であるが、そこにおいて、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕」という、この言葉〔の義〕は、〔因と果の〕二種に求められるべきである、と〔知られるべきである〕。まさに、その〔縁によって物事が生起する道理〕は、【521】すなわち、信受されているなら(パティーヤマーナ)、〔有情たちの〕利益のために〔等しく転起し〕、さらに、安楽のために等しく転起することから、それゆえに、賢者たちがそれを信受させる(パッチェーティ)に値する、ということで、「縁によって(パティッチャ)」となり、さらに、生起しているなら(ウッパッジャマーナ)、一つ一つのものとしてではなく、共に(サハ)〔生起し〕、かつまた、因なきものとしてでもまたなく、正しく(サンマー)生起する(ウッパッジャティ)、ということで、「〔物事が〕生起する〔道理〕(サムッパーダ)」となり、このように、そして、「縁によって(パティッチャ)」であり、さらに、それは、「〔物事が〕生起する〔道理〕(サムッパーダ)」である、ということで、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(パティッチャ・サムッパーダ)」。さらに、また、共に(サハ)生起する(ウッパッジャティ)、ということで、「〔物事が〕生起する〔道理〕(サムッパーダ)」となり、また、縁の和合を縁として(パティッチャ)、〔縁の和合を〕拒絶せずして(アパッチャッカーヤ)、ということで、このようにもまた、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(パティッチャ・サムッパーダ)」(※)。そして、〔縁とすることによって転起された〕その〔果の法の集団〕にとって、この因の〔法の〕集団は、縁である、ということで、それの縁であることから(※※)、この〔因の法の集団〕もまた──すなわち、世において、痰にとっての縁である糖蜜が、「痰は、糖蜜である」と説かれるように──さらに、すなわち、〔世尊の〕教えにおいて、安楽の縁として、覚者たちの生起が、「安楽なるは、覚者たちの生起あること」(ダンマパダ194)と説かれるように──そのように、まさしく、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕」と、果としての語用によって説かれた、と知られるべきである。
※ テキストには evam pi paṭicca [so] samuppādo cā ti paṭiccasamuppādo とあるが、VRI版により evam pi paṭiccasamuppādo と読む。
※※ テキストには paccayo ti tappaccayo, tappaccayattā とあるが、VRI版により paccayo ti tappaccayattā と読む。
578.
§17 さらに、あるいは──
〔そこで、詩偈に言う〕「『〔果に〕向かい、この〔因〕から(パティムカン・イトー)』ということで、この、因の〔法の〕集団は、『縁によって(パティッチャ)』と説かれ、さらに、『諸々の伴ったものを生起させる(サヒテー・ウッパーデーティ)』ということで、それは、『〔物事が〕生起する〔道理〕(サムッパーダ)』〔と、果としての語用によっても〕説かれた」〔と〕。
§18 まさに、すなわち、この、諸々の形成〔作用〕等々の出現における無明等の一つ一つの因を頭目として釈示された、因の〔法の〕集団は、それは、果を完遂させるという共通の義(意味)によって、さらに、不全なき義(意味)によって(※)、諸々の和合の支分が互いに他を〔縁として〕、〔果に〕向かい、この〔因〕から赴いたもの、と〔理解を〕為して、「縁」と説かれる。〔まさに〕その、この〔因の法の集団〕は、互いに他と分解不能の諸々の法(性質)を、まさしく、伴ったものとして、生起させる、ということで、「〔物事が〕生起する〔道理〕」ともまた説かれた。このようにもまた、そして、「縁によって」であり、さらに、それは、「〔物事が〕生起する〔道理〕」である、ということで、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕」。
※ テキストには avekallattena とあるが、VRI版により avekallaṭṭhena と読む。
579.
§19 他の方法として──
〔そこで、詩偈に言う〕「この、縁とすることは、互いに他を縁として、すなわち、等しく、さらに、共に、諸々の法(性質)を生起させることから、それゆえにもまた、このように、ここに、牟尼によって、〔『縁によって物事が生起する道理』という言葉が〕語られた」〔と〕。
§20 まさに、無明等を頭目として釈示された諸々の縁のうち、それらの縁が、すなわち、諸々の形成〔作用〕等の法(性質)を生起させるとして、それら〔の縁〕は、互いに他を縁とせずして、互いに他と不全なるものとして存しているときは、〔諸々の形成作用等の法を〕生起させることができない、と〔知られるべきである〕。それゆえに、この、縁とすることは、〔互いに他を〕縁として、等しく、かつまた、共に、一つ一つの部分としてではなく、前後の状態によってでもまたなく、諸々の法(性質)を生起させる、ということで、義(意味)に従い行く語用に巧みな智ある牟尼によって、このように、ここに、〔『縁によって物事が生起する道理』という言葉が〕語られた。まさしく、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕」と語られた、という義(意味)である。
580.
§21 そして、このように語りつつある〔世尊〕によって──
§22 〔そこで、詩偈に言う〕「前〔の句〕によって、常久等々の状態なきことが〔遍く提示され〕、さらに、後の句によって、断絶等の打破が〔遍く提示され〕、二つ〔の句〕によって、正理が遍く提示された」〔と〕。
「前〔の句〕によって」とは、縁の和合を遍く提示するものである「縁によって」の句によって。【522】転起の諸法(性質)の、縁の和合に依止した転起たることから、常久〔の論〕と無因〔の論〕と誤因〔の論〕と自在転起者(自在天・創造神)の論の細別ある常久等々の状態なきことが、遍く提示されたものと成る。「まさに、どうして、常久等々のものに、あるいは、無因等を所以に転起されたものに、縁の和合があるというのだろう」と。
§23 「さらに、後の句によって」とは、諸法(性質)の生起を遍く提示するものである「〔物事が〕生起する〔道理〕」の句によって。縁の和合において、諸法(性質)の生起あることから、断絶〔論〕や非存〔論〕や無作論が打破された、ということで、断絶等の打破が、遍く提示されたものと成る。さらに、「まさに、前〔の縁〕前の縁を所以に、諸法(性質)が繰り返し生起しているとき、どうして、断絶〔論〕や非存〔論〕や無作論があるというのだろう」と。
§24 「二つ〔の句〕によって」とは、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕という言葉全体によって。それぞれの縁の和合によって、相続を断絶せずして、それらそれらの諸法(性質)の発生あることから、中なる〔実践の〕道(中道)が〔説かれ〕、「その者として為し、その者として得知する(常住論)」「他の者として為し、他の者として得知する(断滅論)」(サンユッタ・ニカーヤ2p.20)という、〔両極の〕論の捨棄が〔説かれ〕、「地方の言語への固着なきもの」「呼称における錯誤なきもの」(マッジマ・ニカーヤ3p.234)という、この正理が、遍く提示されたものと成る。ということで、まずは、これが、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕です」という言葉のみについての義(意味)となる。
581.
§25 また、すなわち、世尊によって、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を説示しつつ、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」という〔言葉〕等の方法によって示し置かれたのが、この経典であるとして、その〔経典〕の義(意味)を解説することを為している者によって、〔正しい論である〕区分論者の輪に入って、師匠たちを誹謗することなく、自らの教義から外れることなく、他の教義に乗ることなく、経を拒否することなく、律に随順しつつ、〔四つの〕大いなる題目(四大教法:ディーガ・ニカーヤ2p.123)を眺め見つつ、法(教え)を明らかにしつつ、義(意味)を包摂しつつ、まさしく、その義(意味)を、ふたたび繰り返して、そして、諸他の教相の機微によってもまた釈示しつつ、すなわち、義(意味)の解説が為されるべきものと成るも、しかしながら、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の義(意味)の解説は、〔生来の〕性向によってもまた、まさしく、為し難きことから──過去の方たちが言うように──
〔そこで、詩偈に言う〕「真理、有情、結生、さらに、縁の行相こそは、見難く、かつまた、説示することが極めて為し難い、四つの法(性質)である」と──
それゆえに、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の義(意味)の解説は、聖教(阿含)の到達に至り得た者たちより他に、為し易きことにあらず、と〔考量し〕比較して──
〔そこで、詩偈に言う〕「わたしは、今日、縁の行相の解説を説くことを欲するも、海洋に沈潜した者のように、確立に到達しない。
【523】いっぽう、種々なる説示の方法に装飾された、この教えがあり、さらに、断絶することなき、往古の師匠の道が転起することから──
すなわち、それゆえに、その両者に依拠して、この〔縁によって物事が生起する道理〕の義(意味)の解説を、〔わたしは〕始めるであろう。〔心が〕定められた者たちとなり、それを聞きたまえ」〔と〕。
§26 まさに、このことが、往古の師匠たちによって説かれた。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、誰であれ、わたしを義(目的)と為して聞くなら、過去と未来における殊勝なるもの(煩悩の滅尽)を得るであろう。過去と未来における殊勝なるものを得て、死魔の王の見えざるところ(彼岸)に赴くであろう」〔と〕。
582.
§27 かくのごとく、まさに、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」という〔言葉〕等々について、まずは、まさしく、〔その〕最初から──
〔そこで、詩偈に言う〕「(1)説示の細別〔の観点〕から、(2)義(意味)と(3)特相と(4)一種類のもの等〔の観点〕から、さらに、(5)諸々の支分の〔差異の〕定置〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである」〔と〕。
§28 (1)そこにおいて、「説示の細別〔の観点〕から」とは、まさに、世尊の──蔓を〔採集して〕運び去る四者の人が蔓を掴み取る〔方法〕のように、(1―1)あるいは、最初から〔始めて、すなわち、結末まで〕、(1―2)あるいは、中間から始めて、すなわち、結末まで、そのように、(1―3)あるいは、結末から〔始めて、すなわち、最初まで〕、(1―4)あるいは、中間から始めて、すなわち、最初まで、という──四種類の、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の説示〔の細別の観点〕から。
§29 (1―1)まさに、すなわち、蔓を〔採集して〕運び去る四者の人のうち、一者は、まさしく、蔓の根元を、最初に見る──彼が、その〔蔓〕を根元で断ち切って、〔その〕全てを引き寄せて取って、諸々の作業に利用するように、このように、世尊は、「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。……略……。生という縁あることから、老と死があり、[諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります]」(マッジマ・ニカーヤ1p.261,サンユッタ・ニカーヤ2p.1)と、最初から始めて、すなわち、結末までもまた、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を説示する。
§30 (1―2)また、すなわち、それらの〔四者の〕人のうち、一者は、蔓の中間を最初に見る──彼が、〔その蔓を〕中間で断ち切って、〔中間から〕上の部分だけを引き寄せて取って、諸々の作業に利用するように、このように、世尊は、「彼が、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、愉悦が生起します。それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは、執取です。彼には、執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。[生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります]」(マッジマ・ニカーヤ1p.266)と、中間から始めて、すなわち、結末までもまた、説示する。
§31 (1―3)さらに、すなわち、それらの〔四者の〕人のうち、一者は、蔓の先端を最初に見る──彼が、〔その蔓を〕先端で掴み取って、先端から従い行き、すなわち、根元まで、〔その〕全てを取って、諸々の作業に利用するように、このように、世尊は、「〔世尊は尋ねた〕『「生という縁あることから、老と死がある」と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生という縁あることから、老と死はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか』と。〔比丘たちが答えた〕『尊き方よ、生という縁あることから、老と死があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。「生という縁あることから、老と死がある」』と。【524】〔世尊は尋ねた〕『「生存という縁あることから、生がある」……略……。〔世尊は尋ねた〕『「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか』」(マッジマ・ニカーヤ1p.261-2)と、結末から始めて、すなわち、最初までもまた、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を説示する。
§32 (1―4)また、すなわち、これらの〔四者の〕人のうち、一者は、まさしく、蔓の中間を、最初に見る──彼が、〔その蔓を〕中間で断ち切って、まさしく、下に降り行きつつ、すなわち、根元まで、〔中間から下の部分を〕取って、諸々の作業に利用するように、このように、世尊は、「比丘たちよ、では、これらの四つの食(四食:口にする食・知覚としての食・意志としての食・認識としての食)は、何を因縁とし、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。これらの四つの食は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とします。比丘たちよ、では、渇愛は、これは、何を因縁とし……感受は……接触は……六つの〔認識の〕場所は……名前と形態は……識知〔作用〕は……。比丘たちよ、では、諸々の形成〔作用〕は、これらは、何を因縁とし……。諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし……略……無明を起源とします」(マッジマ・ニカーヤ1p.261,サンユッタ・ニカーヤ2p.11-2)と、中間から始めて、すなわち、最初まで、説示する。
583.
§33 「また、何ゆえに、このように説示するのか」と〔問うなら〕、「縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が遍きにわたり賢善なることから、さらに、〔世尊〕自らが説示の美麗に至り得たことから」〔と答える〕。なぜなら、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、遍きにわたり賢善なるものであり、〔四種類の説示の〕それぞれから、正理の理解のために、まさしく、等しく転起するからであり、さらに、世尊は、説示の美麗に至り得た者であり、四つの恐れおののきを離れた〔あり方〕と〔四つの〕融通無礙〔の智慧〕との結合によって、さらに、四種類の深遠なる状態(§304)に至り得たことによって、彼は、説示の美麗に至り得たことから、まさしく、種々なる方法によって、法(教え)を説示するからである。
§34 また、差異〔の観点〕から〔説くなら〕、彼の、(1―1)〔まさに〕その、最初から始めて、順なる説示(順観)は、それは、教え導かれるべき人々が〔諸法の〕転起の契機の区分について迷乱しているのを等しく随観しつつ、〔諸法の〕自らのとおりの契機による転起を見示することを義(目的)に〔転起され〕、さらに、生起の順番を見示することを義(目的)に転起された(説示された)、と識知されるべきである。(1―3)〔まさに〕その、結末から始めて、逆なる説示(逆観)は、それは、「まさに、この世〔の人々〕は、苦難を惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する」(ディーガ・ニカーヤ2p.30,サンユッタ・ニカーヤ2p.5)という〔言葉〕等の方法によって、世〔の人々〕が苦難を惹起しているのを見回しつつ、〔成道の〕前段部分における理解に従い行くことで、老と死等のそれぞれの苦しみの、自己が到達したところの契機(苦しみの原因・根拠)を見示することを義(目的)に〔転起された、と識知されるべきである〕。(1―4)〔まさに〕その、中間から始めて、すなわち、最初まで転起された〔説示〕は、それは、食の因縁〔の差異〕を定め置くことに従い行くことで、すなわち、過去の時(過去世)まで遡って、ふたたび、過去の時から以降の、因と果の次第次第を見示することを義(目的)に〔転起された、と識知されるべきである〕。(1―2)また、〔まさに〕その、中間から始めて、すなわち、結末まで転起された〔説示〕は、それは、現在の時における、未来の時(未来世)の因の現起から以降の、未来の時を見示することを義(目的)に〔転起された、と識知されるべきである〕。
§35 それら〔の四つの説示〕のうち、〔まさに〕その、〔諸法の〕転起の契機〔の区分〕について迷乱している教え導かれるべき人々に、【525】〔諸法の〕自らのとおりの契機による転起を見示することを義(目的)に〔説かれ〕、さらに、生起の順番を見示することを義(目的)に説かれた、最初から始めて、順なる説示が、それが、ここに示し置かれた、と知られるべきである。
584.
§36 「また、ここにおいて、何ゆえに、無明が、最初に説かれたのか。どうであろう、原質論者(サーンキヤ派)たちの原質(根本物質)のように、無明もまた、契機なきもの(契機なく自ら生じたもの)であり、世にとっての根元の契機としてあるのでは」と〔問うなら〕、「契機なきものにあらず」〔と答える〕。なぜなら、「煩悩の集起あることから、無明の集起があります」(マッジマ・ニカーヤ1p.54)と、無明の契機が説かれたからである。また、すなわち、〔教相の観点によって、無明が〕根元の契機として存することになる、〔まさに、その〕教相は存在する。「また、何が、この〔教相〕となるのか」と〔問うなら〕──
§37 「〔無明は〕転起の言説(輪廻説)における頭目の状態(先頭)として〔存在する〕」〔と答える〕。なぜなら、世尊は、転起の言説を言説しつつ、二つの法(性質)を頭目と為して言説するからである。(1―1)あるいは、無明を〔頭目と為して〕、すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、無明には、『無明は、これより前には有ることなく、そこで、後に発生した』という、前端は覚知されません。比丘たちよ、しかしながら、このように、このことは説かれ、そこで、また、そして、『これを縁として、無明はある』〔と〕覚知されます」(アングッタラ・ニカーヤ5p.113)と。(1―2)あるいは、生存の渇愛(有愛)を〔頭目と為して〕、すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、生存の渇愛には、『生存の渇愛は、これより前には有ることなく、そこで、後に発生した』という、前端は覚知されません。比丘たちよ、しかしながら、このように、このことは説かれ、そこで、また、そして、『これを縁として、生存の渇愛はある』〔と〕覚知されます」(アングッタラ・ニカーヤ5p.116)と。
585.
§38 「また、何ゆえに、世尊は、転起の言説(輪廻説)を言説しつつ、これらの二つの法(性質)を頭目と為して言説するのか」と〔問うなら〕、「〔これらの二つの法が〕善き境遇(善趣)と悪しき境遇(悪趣)に至る行為(業)にとっての殊勝なる因として有ることから」〔と答える〕。
§39 (1―1)まさに、悪しき境遇に至る行為にとっての殊勝なる因は、無明である。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「すなわち、火の熱苦ある棍棒で打たれ疲労に征服された屠殺される雌牛が、その疲労と痛苦から、熱水を──〔それが〕悦楽なきものであろうが、さらに、自己に義(利益)ならざることをもたらすものであろうが(※)──飲むように、無明に征服された凡夫は、〔心の〕汚れ(煩悩)の熱苦から、命あるものを殺すこと等の無数の流儀ある、悪しき境遇に至る行為を──悦楽なき〔行為〕であろうが、さらに、悪しき境遇に落とすことから、自己に義(利益)ならざることをもたらす〔行為〕であろうが──励むことから」〔と答える〕。
※ テキストには anatthāvahampi とあるが、VRI版により anatthāvahampi ca と読む。
§40 (1―2)また、善き境遇に至る行為にとっての殊勝なる因は、生存の渇愛である。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「すなわち、〔前に〕説かれたとおりの流儀の雌牛が、冷水への渇愛によって、冷水を──悦楽を有し、さらに、自己の疲労を除き去る〔冷水〕を──飲むように、生存の渇愛に征服された凡夫は、命あるものを殺すことから離れていること等の無数の流儀ある、善き境遇に至る行為を──〔心の〕汚れの熱苦の絶無なることから、悦楽を有し、さらに、善き境遇へと得達させることで、自己の悪しき境遇の苦痛と疲労を除き去る〔行為〕を──励むことから」〔と答える〕。
586.
§41 また、転起の言説(輪廻説)の頭目として有る、これらの〔二つの〕法(性質)のうち、或るところにおいては、世尊は、一つの法(性質)を根元とする説示を説示する。それは、すなわち、この、【526】「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明を機縁とする、諸々の形成〔作用〕があり、諸々の形成〔作用〕を機縁とする、識知〔作用〕があり、[識知〔作用〕を機縁とする、名前と形態があり、名前と形態を機縁とする、六つの〔認識の〕場所があり、六つの〔認識の〕場所を機縁とする、接触があり、接触を機縁とする、感受があり、感受を機縁とする、渇愛があり、渇愛を機縁とする、執取があり、執取を機縁とする、生存があり、生存を機縁とする、生があり、生を機縁とする、苦しみがあり、苦しみを機縁とする、信があり、信を機縁とする、歓喜があり、歓喜を機縁とする、喜悦があり、喜悦を機縁とする、静息があり、静息を機縁とする、安楽があり、安楽を機縁とする、禅定があり、禅定を機縁とする、事実のとおりの知見があり、事実のとおりの知見を機縁とする、厭離があり、厭離を機縁とする、離貪があり、離貪を機縁とする、解脱があり、解脱を機縁とする、滅尽についての知恵があります]」(サンユッタ・ニカーヤ2p.31)等と。そのように、「比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。[執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります]」(サンユッタ・ニカーヤ2p.84)等と。或るところにおいては、両者を根元とする〔説示〕をもまた〔説示する〕。それは、すなわち、この、「比丘たちよ、〔過去において〕無明の妨害があり渇愛と結び付いた愚者には、このように、生まれ来たものとして、この身体があります。かくのごとく、まさしく、そして、この身体があり、さらに、外に、名前と形態があります。ここにおいて、この二つのものがあり、二つのものを縁として、接触があり、まさしく、六つの〔接触の〕場所があります。それらに接触された、〔その〕愚者は、楽と苦を得知します──[あるいは、これらのなかのどれか一つに〔接触されたなら〕]」(サンユッタ・ニカーヤ2p.23-4)等と。
§42 それらの説示のうち、(1―1)「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」という、この〔説示〕が、ここでは、無明を所以に、一つの法(性質)を根元とする説示である、と知られるべきである。まずは、ここにおいて、このように、説示の細別〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
587.
§43 (2)「義(意味)〔の観点〕から」とは、無明等々の諸句の義(意味)〔の観点〕から。それは、すなわち、この──〔行ないを〕円満させるための道義なき義(意味)によって、身体による悪しき行ない等は見出されるべきではない、ということになり──〔「見出されるべきではない」とは〕得られるべきではない、という義(意味)である──その、見出されるべきではないもの(アヴィンディヤ)を見出す(ヴィンダティ)、ということで、「無明(アヴィッジャー)」。それとは反対のものたることから、身体による善き行ない等は見出されるべきである、ということになり、その、見出されるべきものを見出さない、ということで、「無明」。〔五つの心身を構成する〕範疇の集まりの義(意味)を、〔六つの認識の〕場所の〔心を〕傾けることの義(意味)を、〔十八の〕界域の空の義(意味)を、〔二十二の〕機能の優位の義(意味)を、〔四つの〕真理の真実の義(意味)を、見出されざるものに作り為す、ということでもまた、「無明」。逼悩等を所以に説かれた(Ch.14§15)、苦しみ等々の〔有する〕四種類の義(意味)を、見出されざるものに作り為す、ということでもまた、「無明」。終極が絶無なる輪廻において、一切の胎や境遇や生存や識知〔作用〕の止住や有情の居住所のうちに有情たちを疾走させる、ということで、「無明」。最高の義(勝義:最高の真実)〔の観点〕から見出されていない女と男等々にたいし疾走し、〔最高の義の観点から〕見出されているにもかかわらず、〔五つの心身を構成する〕範疇等々にたいし疾走しない、ということで、「無明」。さらに、また、眼の識知〔作用〕等々の基盤と対象を、さらに、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕と縁によって生起した諸々の法(性質)を、隠蔽することからもまた、「無明」。
§44 それを縁として、果が至り来るなら、それは、縁である。「縁として」とは、〔それ〕なくして、〔これは〕ない。〔それを〕拒絶せずして、という義(意味)である。「至り来る」とは、まさしく、そして、生起する、さらに、転起する、という義(意味)である。さらに、また、資益の義(意味)が、縁の義(意味)となる。それは、かつまた、無明であり、かつまた、縁である、ということで、「無明という縁」。それゆえに、「無明という縁あることから」。
形成されたもの(有為)を行作する、ということで、「諸々の形成〔作用〕」。さらに、また、(2―1)無明という縁あることからある諸々の形成〔作用〕、(2―2)「形成〔作用〕」という語によって言及された諸々の形成〔作用〕、という、二種類の諸々の形成〔作用〕がある。
そこにおいて、(2―1)功徳ある〔行作〕(善果を形成する働き)と功徳なき〔行作〕(悪果を形成する働き)と不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)の三つ、身体〔の形成作用〕と言葉〔の形成作用〕と心の形成〔作用〕の三つ、という(※)、これらの六つのものが、無明という縁あることからある諸々の形成〔作用〕である。それらは、全てもろともに、まさしく、世〔俗〕のものとしての善なる〔思欲〕と善ならざる思欲(思:心の思い・意志)のみと成る。
※ テキストには puññāpuññāneñjābhisaṅkhārā tayo ti とあるが、VRI版により puññāpuññāneñjābhisaṅkhārā tayo, kāyavacīcittasaṅkhārā tayo ti と読む。
§45 (2―2)また、(2―2―1)形成されたものとしての形成〔作用〕、(2―2―2)行作されたものとしての形成〔作用〕、【527】(2―2―3)行作するものとしての形成〔作用〕、(2―2―4)専念〔努力〕(明確な意志)としての行作、という、これらの四つのものが、「形成〔作用〕」という語によって言及された諸々の形成〔作用〕である。
§46 そこにおいて、(2―2―1)「常住ならざるは、まさに、諸々の形成〔作用〕です」(ディーガ・ニカーヤ2p.157,サンユッタ・ニカーヤ1p.158)という〔言葉〕等々において説かれたものは、全てもろともに、縁を有する諸々の法(性質)であり、「諸々の形成されたものとしての形成〔作用〕」ということになる。(2―2―2)「諸々の行為によって発現したものにして、三つの境地(三界)のものたる、諸々の形態と形態なき法(性質)は、諸々の行作されたものとしての形成〔作用〕である」と、諸々のアッタカター(注釈書)において説かれた。それらもまた、「常住ならざるは、まさに、諸々の形成〔作用〕です」という、まさしく、ここにおいて、包摂に至る(諸々の行作されたものとしての形成作用は、諸々の形成されたものとしての形成作用に包摂される)。いっぽう、〔これとは〕別個に〔経典において〕、それらが言及された箇所は覚知されない(存在しない)。(2―2―3)また、三つの境地のものとしての善なる〔思欲〕と善ならざる思欲は、「行作するものとしての形成〔作用〕」と説かれる。「比丘たちよ、すなわち、無明を具した人士たる人が、まさしく、もし、功徳ある形成〔作用〕(善果を形成する働き)を行作するなら、[識知〔作用〕は、功徳に近しく赴くものと成り、もし、功徳なき形成〔作用〕(悪果を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、功徳に近しく赴かないものと成り、もし、不動の形成〔作用〕(無色界の禅定を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、不動に近しく赴くものと成ります]」(サンユッタ・ニカーヤ2p.82)という〔言葉〕等々において、それが言及された箇所は覚知される(存在する)。(2―2―4)また、身体の属性としての〔精進〕と心の属性としての精進は、「専念〔努力〕としての行作」と説かれる。「およそ、行作に赴く所があるかぎり、〔車輪は〕そのかぎりを赴いて、思うに、車軸に打たれているかのように〔地に〕立ちました」(アングッタラ・ニカーヤ1p.112)という〔言葉〕等々において、それは言及された。
§47 さらに、単に、これらだけにあらず。諸他にもまた、「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅(想受滅)に入定しつつある比丘には、最初に、言葉の形成〔作用〕が止滅し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔止滅し〕、そののち、心の形成〔作用〕が〔止滅します〕」(マッジマ・ニカーヤ1p.302)という〔言葉〕等の方法の「形成〔作用〕」という語によって言及された、幾多の形成〔作用〕がある。それら〔の形成作用〕において、すなわち、諸々の形成されたものとしての形成〔作用〕による包摂に至らない、〔まさに〕その、形成〔作用〕は、存在しない(それらの形成作用の全てが、諸々の形成されたものとしての形成作用に包摂される)。
§48 これより他に、「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(識:認識作用)があります」(§2)という〔言葉〕等々において説かれたものは、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである。また、〔前に〕説かれていないものについて。識知する(ヴィジャーナーティ)、ということで、「識知〔作用〕(ヴィンニャーナ)」。〔対象に向かい〕傾く(ナマティ)、ということで、「名前(ナーマ)」。壊れ崩れる(ルッパティ)、ということで、「形態(ルーパ)」。諸々の入来(アーヤ)を広げる(タノーティ)、さらに、広げられたもの(アーヤタ)を導く(ナヤティ)、ということで、「〔認識の〕場所(アーヤタナ)」。接触する(パッサティ)、ということで、「接触(パッサ)」。感受する(ヴェーダヤティ)、ということで、「感受(ヴェーダナー)」。思い悩む(パリタッサティ)、ということで、「渇愛(タンハー)」。執取する(ウパーディヤティ)、ということで、「執取(ウパーダーナ)」。有る(バヴァティ)、さらに、有らしめる(バーヴァヤティ)、ということで、「生存(バヴァ)」。生まれること(ジャナナ)が、「生(ジャーティ)」。老いること(ジーラナ)が、「老(ジャラー)」。これによって、〔人々が〕死ぬ(マランティ)、ということで、「死(マラナ)」。憂い悲しむこと(ソーチャナ)が、「憂い(ソーカ)」。嘆き悲しむこと(パリデーヴァナ)が、「嘆き(パリデーヴァ)」。〔人々を〕苦します(ドゥッカヤティ)、ということで、「苦痛(ドゥッカ)」。あるいは、生起と止住を所以に、二種に(ドヴィダー)掘り崩す(カナティ)、ということでもまた、「苦痛(ドゥッカ)」。失意の状態(ドゥンマナ・バーヴァ)が、「失意(ドーマナッサ)」。過酷な(ブサ)苦労(アーヤーサ)が、「葛藤(ウパーヤーサ)」。
§49 「発生します」とは、発現する(※)。そして、単に、憂い等々〔の句〕だけではなく、そこで、まさに、一切の句と、「発生します」という語との結合が為されるべきである(「発生します」は、「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します」の句だけではなく、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」や「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります」等々の諸句とも結び付けて理解されるべきである)。なぜなら、他のばあいは、「無明というあること縁から、諸々の形成〔作用〕があります」と説かれたとき、「〔諸々の形成作用が〕何を為すのか」ということが覚知されず、いっぽう、「発生する」という結合が存しているとき、それは、かつまた、無明であり、かつまた、縁である、ということで、「無明という縁」となり、〔まさに〕その、無明という縁あることから、【528】「諸々の形成〔作用〕が発生する」ということで、縁と縁によって生起したものの〔差異の〕定置が、為されたものと成るからである。これが、一切所において、〔共通する説示の〕方法となる。
※ テキストには abhinibbattan ti とあるが、VRI版により abhinibbattanti と読む。
§50 「このように」とは、〔前に〕釈示された方法の実例として。それによって、「イッサラ〔天〕(自在天・創造神)の化作等々からではなく、まさしく、無明等々の契機から〔発生する〕」と見示する。「この」とは、〔前に〕説かれたとおりの。「全部の」とは、混合なきものの、あるいは、全体の。「苦しみの範疇の」とは、苦しみの集団の(※)──有情の、ではなく──安楽と浄美なるもの等々の、ではなく。「集起が」とは、発現が。「有ります」とは、発生する。ここにおいて、このように、義(意味)〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
※ テキストには dukkhasamudayassa とあるが、VRI版により dukkhasamūhassa と読む。
588.
§51 (3)「特相等〔の観点〕から」とは、無明等々の特相等〔の観点〕から。それは、すなわち、この──無明は、無知(知恵なき状態)を特相とし、迷妄を効用(機能・性行)とし、隠蔽することを現起(現状)とし、煩悩を境処の拠点(直接原因)とする。諸々の形成〔作用〕は、行作することを特相とし、専業すること(業を作ること)を効用(機能・性行)とし、思欲(意志)を現起(現状)とし、無明を境処の拠点(直接原因)とする。識知〔作用〕は、識知することを特相とし、〔名前と形態の〕先行たることを効用(機能・性行)とし、結生を現起(現状)とし、諸々の形成〔作用〕を境処の拠点(直接原因)とし、あるいは、〔認識の〕基盤と対象を境処の拠点とする。名前は、〔対象に向かい〕傾くことを特相とし、結合を効用(機能・性行)とし、分解なき〔状態〕を現起(現状)とし、識知〔作用〕を境処の拠点(直接原因)とする。形態は、壊れ崩れることを特相とし、離散することを効用(機能・性行)とし、〔善悪が〕説き明かされない〔状態〕(無記)を現起(現状)とし、識知〔作用〕を境処の拠点(直接原因)とする。六つの〔認識の〕場所は、〔心を〕傾けることを特相とし、見ること等を効用(機能・性行)とし、〔認識の〕基盤と門たる状態を現起(現状)とし、名前と形態を境処の拠点(直接原因)とする。接触は、接触することを特相とし、相打つことを効用(機能・性行)とし、接合を現起(現状)とし、六つの〔認識の〕場所を境処の拠点(直接原因)とする。感受は、経験することを特相とし、〔認識の〕境域の効用(刺激)に等しき受益あることを効用(機能・性行)とし、楽と苦を現起(現状)とし、接触を境処の拠点(直接原因)とする。渇愛は、因を特相とし、愉悦することを効用(機能・性行)とし、満足なき状態を現起(現状)とし、感受を境処の拠点(直接原因)とする。執取は、収め取ることを特相とし、解き放たないことを効用(機能・性行)とし、渇愛の堅固なることと〔悪しき〕見解を現起(現状)とし、渇愛を境処の拠点(直接原因)とする。生存は、行為と行為の果を特相とし、有らしめることと有ることを効用(機能・性行)とし、善なる〔状態〕と善ならざる〔状態〕と〔善悪が〕説き明かされない〔状態〕を現起(現状)とし、執取を境処の拠点(直接原因)とする。生等々の特相等々は、まさしく、〔四つの〕真理についての釈示において説かれた方法によって(Ch.16§32)、知られるべきである。ここにおいて、このように、特相等〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
589.
§52 (4)「一種類のもの等々〔の観点〕から」とは、ここにおいて、無明は、無知と無見と迷妄等の状態〔の観点〕から、一種類のものとなる。実践なき〔状態〕と誤った実践〔の観点〕から、二種類のものとなる。そのように、形成〔作用〕を有するものと形成〔作用〕なきもの〔の観点〕から、〔二種類のものとなる〕。三つの感受(苦受・楽受・不苦不楽受)との結合〔の観点〕から、三種類のものとなる。四つの真理について理解なきこと〔の観点〕から、四種類のものとなる。五つの境遇(地獄・餓鬼・畜生・人間・天界)の危険を隠蔽すること〔の観点〕から、【529】五種類のものとなる。また、〔六つの〕門と〔六つの〕対象〔の観点〕から、〔六種類のものとなる〕。〔他の〕諸々の形態なき法(性質)についても、全てもろともに、六種類のものとなることが知られるべきである。
§53 諸々の形成〔作用〕は、煩悩を有するもの〔としての法〕や報いとしての法(性質)という法(性質)等の状態〔の観点〕から、一種類のものとなる。善なるものと善ならざるもの〔の観点〕から、二種類のものとなる。そのように、微小なるものと莫大なるもの〔の観点から〕と下劣なるものと中等なるもの〔の観点から〕と誤った〔道〕たるものと正しい〔道〕たるもの〔の観点から〕と〔生起が〕決定しているものと〔生起が〕決定していないもの〔の観点〕から、〔二種類のものとなる〕。功徳ある行作等の状態〔の観点〕から、三種類のものとなる。四つの胎(卵生・胎生・湿生・化生)に等しく転起すること〔の観点〕から、四種類のものとなる。五つの境遇(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)に赴くこと〔の観点〕から、五種類のものとなる。
§54 識知〔作用〕は、世〔俗〕のものや報いとしてのもの等の状態〔の観点〕から、一種類のものとなる。因を有するものと因なきもの等〔の観点〕から、二種類のものとなる。三つの生存(三有:三界)に属しているもの〔の観点〕から、三つの感受との結合〔の観点〕から、さらに、因なきものと二つの因あるものと三つの因あるもの〔の観点〕から、三種類のものとなる。胎と境遇を所以に、四種類のものとなり、さらに、五種類のものとなる。
§55 名前と形態は、識知〔作用〕の依所〔の観点〕から、さらに、行為の縁〔の観点〕から、一種類のものとなる。対象を有するものと対象なきもの〔の観点〕から、二種類のものとなる。過去等〔の観点〕から、三種類のものとなる。胎と境遇を所以に、四種類のものとなり、さらに、五種類のものとなる。
§56 六つ〔認識の〕場所は、〔心と心の属性の〕産出と集結の境位〔の観点〕から、一種類のものとなる。元素の〔機能の〕澄浄(正常な感官機能)と識知〔作用〕等〔の観点〕から、二種類のものとなる。得達された〔境涯〕(感官機能との接触ある認識対象)と得達されていない〔境涯〕(感官機能との接触なき認識対象)と両者ならざる境涯〔の観点〕から(※)、三種類のものとなる(Ch.14§46)。胎と境遇に属しているもの〔の観点〕から、四種類のものとなり、さらに、五種類のものとなる。
かくのごとく、この方法によって、接触等々のばあいもまた、一種類のもの等の状態が知られるべきである。ということで、ここにおいて、このように、一種類のもの等々〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
※ テキストには Sampattāsampattatobhayagocarato とあるが、VRI版により Sampattāsampattanobhayagocarato と読む。
590.
§57 (5)「さらに、諸々の支分の〔差異の〕定置〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、憂い等々は、生存の輪の断絶なき〔状態〕を見示することを義(目的)に説かれた。なぜなら、老と死に侵された愚者には、それら〔の憂い等々〕が発生するからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、無聞の凡夫は、肉体的な苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します」(マッジマ・ニカーヤ3p.285,サンユッタ・ニカーヤ4p.206)と。そして、すなわち、それら〔の憂い等々〕の転起があるかぎり、そのかぎりは、無明の〔転起がある〕、ということで、ふたたび、また、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。かくのごとく、まさしく、連結が有り、生存の輪となる。それゆえに、それら〔の憂い等々〕を、まさしく、老と死とともに、一つの簡略のものと為して、まさしく、十二〔の支分〕が、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の支分となる、と知られるべきである。ここにおいて、このように、諸々の支分の〔差異の〕定置〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。まずは、ここにおいて、これが、簡略の言説となる。
591.
[1 「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」]
§58 また、これが、詳細の方法となる。「無明」とは、経典の教相によって〔説くなら〕、【530】苦しみ等々の四つの境位についての無知であり、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)の教相によって〔説くなら〕、過去の極等々と共に、〔合わせて〕八つ〔の境位〕について〔の無知である〕。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「そこにおいて、どのようなものが、無明であるのか。苦しみについての無知……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知、過去の極についての無知、未来の極について〔の無知〕、過去の極と未来の極について〔の無知〕、これを縁とすることと縁によって生起した諸々の法(性質)についての無知である」(ダンマ・サンガニp.195)と。
§59 そこにおいて、たとえ、何であれ、世〔俗〕を超える二つの真理(止滅と道)を除いて、残りの境位においては、対象を所以にもまた、無明は生起し、たとえ、このように存しているとして、ここでは、まさしく、隠蔽することを所以に、志向するところとなる。なぜなら、それ(無明)は、生起したなら、苦しみという真理を隠蔽して止住し、あるがままの自ずからの効用(機能・性行)の特相を理解することを許さず、そのように、集起〔という真理〕を、止滅〔という真理〕を、道〔という真理〕を、「過去の極(前際:過去の種々相)」と名づけられた過去の〔心身を構成する〕範疇の五なるもの(五蘊)を、「未来の極(後際:未来の種々相)」と名づけられた未来の〔心身を構成する〕範疇の五なるものを、「過去の極と未来の極(前後際)」と名づけられたその両者を、「これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)」と「縁によって生起した諸々の法(縁已生法:縁によって生み出された物事)」と名づけられた、まさしく、そして、これを縁とすることを、さらに、縁によって生起した諸々の法(性質)を、隠蔽して止住し、ここにおいて、「これは、無明である」「これらは、諸々の形成〔作用〕である」と、このように、あるがままの自ずからの効用(機能・性行)の特相を理解することを許さないからである。それゆえに、「苦しみについての無知……略……これを縁とすることと縁によって生起した諸々の法(性質)についての無知である」(ダンマ・サンガニp.195)と説かれる。
592.
§60 「諸々の形成〔作用〕」とは、〔功徳ある行作、功徳なき行作、不動の行作、という〕功徳ある〔行作〕等々の三つ、〔身体の形成作用、言葉の形成作用、心の形成作用、という〕身体の形成〔作用〕等々の三つ、という、このように、前に簡略〔の観点〕から説かれた(§44)、六つ〔の形成作用〕である。また、詳細〔の観点〕から〔説くなら〕、ここにおいて、功徳ある行作は、まさしく、そして、布施や戒等を所以に転起された八つの欲望の行境の善なる思欲(八つの欲望の行境の善なる心と結び付いた思欲)、さらに、修行を所以に転起された(※)五つの形態の行境の善なる思欲、という、十三の思欲が有り、功徳なき行作は、命あるものを殺すこと等を所以に転起された十二の善ならざる思欲が〔有り〕、さらに、不動の行作は、まさしく、修行を所以に転起された四つの形態なき行境の善なる思欲が〔有り〕、ということで、三つの形成〔作用〕もろともに、二十九の思欲が有る。
※ テキストには kāmāvacarakusalacetanā va bhāvanāvasen’ eva pavattā とあるが、VRI版により kāmāvacarakusalacetanā ceva bhāvanāvasena pavattā と読む。
§61 また、諸他の、三つ〔の形成作用〕について。身体の形成〔作用〕は、身体の思欲(身体に起因する意志)であり、言葉の形成〔作用〕は、言葉の思欲(言葉に起因する意志)であり、心の形成〔作用〕は、意の思欲(意に起因する意志)である。この、三なるものは、行為に専業する瞬間において功徳ある行作等々が〔身体と言葉と意の三つの〕門から転起することを見示することを義(目的)に説かれた。まさに、身体の表示を現起させて身体の門から転起された、八つの欲望の行境の善なる思欲と十二の善ならざる思欲、という、正味二十の思欲が、「身体の形成〔作用〕」ということになる。まさしく、それら〔の二十の思欲〕が、言葉の表示を【531】現起させて言葉の門から転起されたなら、「言葉の形成〔作用〕」ということになる。また、ここにおいて、神知の思欲は、他なることから(特別であることから)、〔諸々の形成作用から発生する結生の〕識知〔作用〕にとっての縁と成ることがない、ということで、包摂されず、さらに、すなわち、神知の思欲のように、このように、高揚の思欲もまた、〔諸々の形成作用から発生する結生の識知作用にとっての縁と〕成ることがなく、それゆえに、その〔高揚の思欲〕もまた、識知〔作用〕にとっての縁たる状態については、取り去られるべきである。いっぽう、これら〔の二十の思欲〕は、全てもろともに、無明という縁あることから、〔諸々の形成作用として〕有る。〔身体と言葉の〕両者ともどもの表示を現起させずして意の門に生起した、二十九の思欲は、全てもろともに、心の形成〔作用〕である。かくのごとく、この〔身体の形成作用と言葉の形成作用と心の形成作用の〕三なるものは、まさしく、前の〔功徳ある行作と功徳なき行作と不動の行作の〕三なるものに入る(包摂される)。ということで、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、功徳ある行作等々を所以に、無明の、〔諸々の形成作用にとっての〕縁たる状態が知られるべきである。
593.
§62 そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「また、どのように、『無明という縁あることから、これらの形成〔作用〕が有る』と、このことが知られるべきであるのか」〔と問うなら〕、「無明の状態あるとき、〔それらの形成作用の〕状態あることから」〔と答える〕。なぜなら、その者に、「苦しみ等々についての無明」と名づけられた無知が、〔いまだ〕捨棄されていないものとして有るなら、彼は、そのあいだ、苦しみについて〔の無知によって〕、さらに、過去の極等々についての無知によって、輪廻の苦しみを安楽の表象によって収め取って(誤認して)、まさしく、その〔苦しみ〕の因として有る、〔功徳ある行作と功徳なき行作と不動の行作の三なるものとしての〕諸々の形成〔作用〕を、三種類もろともに励み、集起についての無知によって、苦しみの因として有る、渇愛の必需品たる諸々の形成〔作用〕をもまた、安楽の因〔の観点〕から思い考えつつ励み、また、止滅について〔の無知によって〕、さらに、道についての無知によって、苦しみの止滅ならざるものとして有る、〔天界等の〕殊勝なる境遇についてもまた、苦しみの止滅の表象ある者と成って、さらに、止滅の道ならざるものとして有る、諸々の祭祀や不死の苦行等々についてもまた、止滅の道の表象ある者と成って、苦しみの止滅を切望しつつ、祭祀や不死の苦行等の門によって、〔功徳ある行作と功徳なき行作と不動の行作の三なるものとしての〕諸々の形成〔作用〕を、三種類もろともに励むからである。
§63 さらに、また、彼は、〔まさに〕その、四つの真理についての無明が捨棄されていないことから、特に、生と老と病と死等の無数の危険が混在した、「功徳の果」と名づけられた苦しみをもまた、苦しみ〔の観点〕から知ることなく、その〔功徳の果〕への(※)到達のために、身体〔の形成作用〕と言葉〔の形成作用〕と心の形成〔作用〕の細別ある功徳ある行作を励む──天の仙女を欲する者が、風神の深淵に〔飛び込む〕ように。さらに、たとえ、安楽と等しく認証されたとして、その功徳の果が、最後には、大いなる苦悶を生むものであることを、変化の苦しみ(Ch.16§34)あることを(※※)、さらに、澄浄ならざることを、見ることもまたなく、それの縁たる、まさしく、〔前に〕説かれた流儀の、功徳ある行作を励む──蛾が、灯明の炎に落ち行くように、さらに、蜜の滴を貪る者が、蜜が塗られた刃の切っ先を舐めるように。さらに、欲望〔の対象〕に近しく慣れ親しむこと等々の報いを有するものにおける危険を見ることなく、まさしく、そして、安楽の表象によって、さらに、〔心の〕汚れに征服されたことによって、〔身体と言葉と意の〕三つの門によって転起された功徳なき行作をもまた励む──愚者が、糞で遊び戯れるように、さらに、死ぬことを欲する者が、毒を喰らうように。さらに、また、諸々の形態なき〔行境〕の報いあるものに形成〔の苦しみ〕と変化の苦しみあることを覚ることなく、常久等の転倒〔の妄想〕によって、心の形成〔作用〕として有る、不動の行作を励む──方角に迷った者が、魔物の城市に向かい道を赴くように。
※ テキストには ajānantassa とあるが、VRI版により ajānanto tassa と読む。
※※ テキストには pariṇāmadukkhataṃ とあるが、VRI版により vipariṇāmadukkhataṃ と読む。
§64 このように、すなわち、まさしく、無明の状態あることから、諸々の形成〔作用〕の状態があり、【532】〔無明の〕状態なきことから、〔諸々の形成作用の状態が〕ないことから、それゆえに、「これらの形成〔作用〕は、無明という縁あることから有る」と、このことが知られるべきである。そして、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、知なき者は、無明を具した者は、功徳ある行作をもまた行作し、功徳なき行作をもまた行作し、不動の行作をもまた行作します。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘の、無明が捨棄され、明知が生起したことから、彼は、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、まさしく、功徳ある行作を行作せず、[功徳なき行作を行作せず、不動の行作を行作しません]」(サンユッタ・ニカーヤ2p.82:一部異なる箇所あり)と。
594.
§65 ここにおいて、〔或る者は〕言う。「まずは、このことを、〔わたしたちは〕収め取る(把握する)。『無明は、諸々の形成〔作用〕にとっての縁である』と。また、このことが説かれるべきである。どのような諸々の形成〔作用〕にとって、どのように縁と成るのか」と。そこで、このことが説かれる。
§66 まさに、世尊によって、「(1)因としての縁(因縁)、(2)対象としての縁(所縁縁)、(3)優位としての縁(増上縁)、(4)直後なる縁(無間縁)、(5)等しく直後なる縁(等無間縁)、(6)共に生じた縁(倶生縁)、(7)互いに他なる縁、(8)依所たる縁、(9)近しき依所たる縁、(10)先に生じた縁、(11)後に生じた縁、(12)習修としての縁、(13)行為としての縁、(14)報いとしての縁、(15)食としての縁、(16)機能としての縁、(17)瞑想としての縁、(18)道としての縁、(19)結合の縁、(20)不結合の縁、(21)存在の縁、(22)非存在の縁、(23)離去の縁、(24)不離去の縁」(ティカ・パッターナ1p.1)という、二十四の縁が説かれた。
§67 (1)そこにおいて、それは、かつまた、因であり、かつまた、縁である、ということで、「因としての縁(因縁)」。因と成って、縁である──因たる状態によって、縁である──というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。対象としての縁等々についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。
595.
そこにおいて、「因」とは、これは、論式の〔一〕成分の〔同義語であり〕、契機の〔同義語であり〕、根元の同義語である。まさに、世において、「命題」や「因」〔や「喩え」や「適合」や「結論」〕という〔言葉〕等々における、論式の〔一〕成分が、「因」と説かれ、また、〔世尊の〕教えにおいては、「すなわち、因を起源とする(因から発生する)諸々の法(性質)」(ヴィナヤ1p.40)という〔言葉〕等々においては契機が、「三つの善なる因があり、三つの善ならざる因があり、[三つの〔善悪が〕説き明かされない因がある]」(ダンマ・サンガニp.188)という〔言葉〕等々においては根元が、「因」と説かれるが、その〔根元としての因〕が、ここでは、志向するところとなる。
§68 また、「縁」とは、ここにおいて、これが、言葉の義(意味)となる。縁として、これあることから、行く(パティッチャ・エータスマー・エーティ)、ということで、「縁(パッチャヤ)」。それを拒絶せずして転起する、という義(意味)である。まさに、或る法(性質)が、〔別の〕或る法(性質)を拒絶せずして(必要として)、あるいは、止住し、あるいは、生起するなら、その〔別の法〕は、その〔法〕にとっての縁と〔成る〕、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。いっぽう、特相〔の観点〕からは、縁は、資益あることを特相とする。まさに、或る【533】法(性質)が、〔別の〕或る法(性質)の、あるいは、止住のために、あるいは、生起のために、資益あるものと成るなら、その〔法〕は、その〔別の法〕にとっての縁と〔成る〕、と説かれる。縁(パッチャヤ)、因(ヘートゥ)、契機(カーラナ)、因縁(ニダーナ)、発生(サンバヴァ)、起源(パバヴァ)、という〔言葉〕等は、義(意味)〔の観点〕から、一つのものとなり、文字〔の観点〕から、種々なるものとなる。かくのごとく、根元の義(意味)によって、因であり、資益の義(意味)によって、縁である、ということで、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、根元の義(意味)による資益ある法(性質)が、「因としての縁」。
§69 それは、米等々のばあいの、米の種等々のように、さらに、宝珠の光等々のばあいの、宝珠の色艶等々のように、善なるもの等々のばあいの、善なるもの等の状態を遂行すること(成就させるもの)、というのが、〔一部の〕師匠たちの志向するところとなる。いっぽう、このように存しているなら、それから現起する諸々の形態については、因としての縁たることが成就しない〔ことになる〕。なぜなら、その〔因としての縁〕は、それら〔の形態〕の善なるもの等の状態を遂行することはなく、かつまた、〔因としての〕縁ではなく有ることもないからである(善なるもの等の状態を成就させないにもかかわらず、因としての縁としてある)。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「諸々の因は、因と結び付いた諸々の法(性質)にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって、因としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.1)と。そして、諸々の因なきものとしての心のばあいは、この〔因〕なくして、〔善悪が〕説き明かされない状態(善悪無記の状態)が成就されたのであり、さらに、諸々の因を有するもの〔としての心〕のばあいもまた、根源のままに意を為すこと(如理作意)等と連結されたものとして、善なるもの等の状態が〔成就されたのであり〕、結び付いた因と連結されたものとして、〔善なるもの等の状態が成就されたのでは〕ない。さらに、すなわち、結び付いた諸々の因のうちに、まさしく、自ずからの状態(自性:固有の性能)として、善なるもの等の状態が存するというのなら、〔それと〕結び付いた〔諸々の法〕において、因と連結されたものとしてある貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、あるいは、善なるものとして存するか、あるいは、〔善悪が〕説き明かされないものとして〔存するか、どちらか一つになるはずであるが〕、いっぽう、両者ともどもに有ることから、それゆえに、すなわち、〔それと〕結び付いた〔諸々の法〕におけるように、このように、諸々の因についてもまた、〔自ずからの状態としてではなく、根源のままに意を為すこと等と連結されたものとして〕善なるもの等たることが遍く探求されるべきである。
§70 また、諸々の因のばあい、善なるもの等の状態を遂行することを所以に根元の義(意味)を収め取らずして、善く確立された状態を遂行することを所以に〔根元の義を〕収め取っているなら、何であれ、矛盾することはない。なぜなら、因としての縁を得た諸々の法(性質)は、根が成長した木々のように、強固にして善く確立されたものと成り、因なき〔諸々の法〕は、諸々の胡麻の種ほどのもの等の苔のように、善く確立されたものと〔成ることが〕ないからである。ということで、「根元の義(意味)による資益」とは、善く確立された状態を遂行することによる資益ある法(性質)であり、〔それが〕「因としての縁」と知られるべきである。
596.
§71 (2)それより諸他のものについて。対象の状態による資益ある法(性質)が、「対象としての縁(所縁縁)」。それは、〔『ティカ・パッターナ(発趣論)』において〕「形態の〔認識の〕場所は、眼の識知〔作用〕の界域にとって、[対象としての縁によって、縁となる]」(ティカ・パッターナ1p.1)と始まってさらに、「それぞれの法(性質)を対象として、それらそれらの諸法(性質)が、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)として生起するなら、それらそれらの諸法(性質)は、〔心と心の属性としての〕それらそれらの諸法(性質)にとって、対象としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.1)と終結したことから、何であれ、法(性質)が、〔対象と〕成らないことはない(法である以上、それは対象となる)。まさに、すなわち、力弱き人が、あるいは、棒に、あるいは、縄に、まさしく、しがみついて〔そののち〕、まさしく、そして、立ち上がり、さらに、立つように、このように、心と心の属性としての諸法(性質)は、形態等の対象を、まさしく、対象として〔そののち〕、まさしく、そして、生起し、さらに、止住する。それゆえに、心と心の属性としての〔諸法〕にとって、対象として有る諸法(性質)は、全てもろともに、対象としての縁である、と知られるべきである。
597.
§72 【534】(3)一番のものという義(意味)による資益ある法(性質)が、「優位としての縁(増上縁)」。それは、(3―1)共に生じたものと(3―2)対象を所以に、二種類のものとなる。(3―1)そこにおいて、「欲〔の思い〕を優位とするものは、欲〔の思い〕と結び付いた諸々の法(性質)にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって、優位としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.2)という言葉等から、「欲〔の思い〕(意欲)」と「精進」と「心(専心)」と「考察」と名づけられた四つの法(性質)が、優位としての縁である、と知られるべきである。しかしながら、まさに、〔四つ〕一緒に〔縁と成ることは〕ない。なぜなら、すなわち、欲〔の思い〕が筆頭としてあり、欲〔の思い〕を一番のものと為して、心が転起するとき、そのときは、欲〔の思い〕だけが優位のものとなり、諸他のものはならないからである。これが、残りのものについて、〔共通する説示の〕方法となる。(3―2)また、その法(性質)を重きものと為して、諸々の形態なき法(性質)が転起するなら、その〔法〕は、それら〔の諸々の形態なき法〕にとって、対象の優位〔としての縁〕となる。それによって説かれた。「それぞれの法(性質)を重きものと為して、それらそれらの諸法(性質)が、心と心の属性としての諸法(性質)として生起するなら、〔重きものとされた〕それらそれらの諸法(性質)は、〔心と心の属性としての〕それらそれらの諸法(性質)にとって、優位としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.2)と。
598.
§73 (4・5)直後なる状態による資益ある法(性質)が、「直後なる縁(無間縁)」。等しく直後なる状態による資益ある法(性質)が、「等しく直後なる縁(等無間縁)」。そして、この二つの縁を、〔人々は〕多種に虚構する(妄想する)。また、ここにおいて、これが、真髄となる。まさに、すなわち、この、「眼の識知〔作用〕の直後に、意の界域がある。意の界域の直後に、意の識知〔作用〕の界域がある」という〔言葉〕等の、心の決定(確定性)は、それは、すなわち、まさしく、前〔の心〕前の心を所以に実現するから──他なるものとして、ではなく──それゆえに、〔その〕自己〔その〕自己にとって(その心その心にとって)直後に適切なる心の生起を生起させることができる法(性質)が、直後なる縁である。まさしく、それによって、〔聖典に〕言う。「『直後なる縁』とは、眼の識知〔作用〕の界域は、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)は、意の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、直後なる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.2)等と。
§74 それが、直後なる縁としてあるなら、まさしく、それは、等しく直後なる縁である。なぜなら、ここにおいて、蓄積と相続〔の両語〕におけるように(Ch.14§66)、さらに、名辞や言語の二なるもの等におけるように、まさしく、文字のみは種々なるものとしてあるが、いっぽう、義(意味)〔の観点〕からは、種々なるものは存在しないからである(同義である)。
§75 すなわち、また、「義(目的)の直後なることによって、直後なる縁となり、時の直後なることによって、等しく直後なる縁となる」と、〔一部の〕師匠たちの認証するところは、それは、「止滅〔の入定〕から出起しつつある者の、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の善なる〔心〕は、果の入定〔の心〕にとって、等しく直後なる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.159)という〔言葉〕等々と矛盾する。
§76 すなわち、また、そこにおいて、〔彼らは〕「諸々の法(性質)を現起させることができる〔能力〕が遍く衰退することはないが、いっぽう、修行の力によって妨げられていることから、諸々の法(性質)は、等しく直後に生起しない」と説くが、それもまた、時の直後なることの、まさしく、状態なきことを遂行する。なぜなら、「修行の力によって、そこにおいて、時の直後なることは【535】存在しない」と、わたしたちもまた、まさしく、このことを説くからである。そして、すなわち、時の直後なることが存在しないことから、それゆえに、等しく直後なる縁たることは適合しない。なぜなら、「時の直後なることによって、等しく直後なる縁が有る」というのが、彼らの主張であるからである。それゆえに、〔彼らの主張に〕固着を為さずして、まさしく、文字のみ〔の観点〕から、ここにおいて、種々なる契機(相違点)が信受されるべきである──義(意味)〔の観点〕から、ではなく。どのようにか。まさに、これらには、間(アンタラ:間隔)が存在しない、ということで、「直後に(アナンタラー:間隔なく)」。外貌(サンターナ)の状態なきことから、巧妙に直後なるもの(スットゥ・アンタラ)、ということで、「等しく直後に(サマナンタラー:等しく間隔なく)」。
599.
§77 (6)まさしく、生起しているとして、共に生起させる状態による資益ある法(性質)が、「共に生じた縁(倶生縁)」。光にとっての灯明のようなものである。それは、形態なき範疇等を所以に、六種類のものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「(6―1)四つの形態なき範疇(受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)は、互いに他と、共に生じた縁によって、縁となる。(6―2)四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)は、互いに他と、〔共に生じた縁によって、縁となる〕。(6―3)入胎の瞬間における名前と形態(名色)は、互いに他と、〔共に生じた縁によって、縁となる〕。(6―4)心と心の属性としての諸法(性質)は、心から現起する諸々の形態にとって、〔共に生じた縁によって、縁となる〕。(6―5)〔四つの〕大いなる元素は、諸々の〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態(所造色)にとって、〔共に生じた縁によって、縁となる〕。(6―6)諸々の形態ある法(性質)は、諸々の形態なき〔心と心の属性としての〕法(性質)にとって、或る時には(結生の時は)、共に生じた縁によって、縁となり、或る時には(結生以後においては)、共に生じた縁によって、縁とならない」(ティカ・パッターナ1p.3)と。この〔形態〕は、まさしく、〔二十四種類の形態のなかの〕心臓の基盤(心の依所:Ch.14§60)に関して説かれたものである。
600.
§78 (7)互いに他を生起させ保全する状態による資益ある法(性質)が、「互いに他なる縁」。互いに他を〔支持し〕保全する三つの棒のようなものである。それは、形態なき範疇等を所以に、三種類のものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「(7―1)四つの形態なき範疇は、互いに他なる縁によって、縁となる。(7―2)四つの大いなる元素は、〔互いに他なる縁によって、縁となる〕。(7―3)入胎の瞬間における名前と形態は、互いに他なる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.3)と。
601.
§79 (8)確立の行相による、かつまた、依所の行相による、資益ある法(性質)が、「依所たる縁」。木や絵画等々にとっての地や画布のようなものである。それは、「(8―1)四つの形態なき範疇は、互いに他と、依所たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.3)と、このように、まさしく、共に生じた〔縁〕において説かれた方法によって、知られるべきである。また、第六の部位として、ここにおいて、「(8―6)眼の〔認識の〕場所は、眼の識知〔作用〕の界域にとって、[さらに、それと結び付いた諸々の法にとって、依所たる縁によって、縁となる]。耳の……。鼻の……。舌の……。身の〔認識の〕場所は、身の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、依所たる縁によって、縁となる。すなわち、形態(心臓の基盤)に依拠して、そして、意の界域が〔転起し〕、さらに、意の識知〔作用〕の界域が転起するなら、その形態は、そして、意の界域にとって、かつまた、意の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、依所たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.4)と、このように区分された。
602.
§80 (9)また、「近しき依所たる縁」とは、ここにおいて、まずは、これが、言葉の義(意味)となる。【536】それに依ることで転起あることから、自己の果によって依拠されたものであり、拒絶されたものではない(必要とされている)、ということで、「依所」。また、すなわち、激しい苦労(ブサ・アーヤーサ)が葛藤(ウパーヤーサ)であるように、このように、激しい依所(ブサ・ニッサヤ)が、「近しき依所(ウパニッサヤ)」。これは、力ある契機の同義語である。それゆえに、力ある契機の状態による資益ある法(性質)が、「近しき依所たる縁」と知られるべきである。それは、(9―1)対象の近しき依所、(9―2)直後なる近しき依所、(9―3)〔生来の〕性向の近しき依所、という、三種類のものと成る。
§81 (9―1)そこにおいて、「布施を施して、戒を受持して、斎戒(布薩)の行為を為して、それを重きものと為して綿密に注視する。過去の諸々の善き行ないを重きものと為して綿密に注視する。瞑想〔の境地〕から出起して、瞑想〔の境地〕を重きものと為して綿密に注視する。〔いまだ〕学びある者(有学)たちは、〔新たな〕種姓と成るもの(Ch.22§1)を重きものと為して綿密に注視し(預流者の場合)、浄化するもの(清白心)を重きものと為して綿密に注視する(一来者と不還者の場合)。〔いまだ〕学びある者たちは、道〔の瞑想〕から出起して、道を重きものと為して綿密に注視する」(ティカ・パッターナ2p.165)という、このような〔言葉〕等の方法によって、まずは、対象の近しき依所は、対象の優位(§72)と共に、まさしく、種々なることを為さずして(両者の間に差異を付けずに)区分された。そこにおいて、その対象を重きものと為して、心と心の属性としての〔諸法〕が生起するなら、その〔対象〕は、決定して、それらの対象のうちの力ある対象と成る。かくのごとく、重きものと為されるべきのみの義(意味)によって(※)、対象の優位となり、力ある契機の義(意味)によって、対象の近しき依所となる。ということで、このように、これら〔の両者〕の種々なることが知られるべきである。
※ テキストには garukāttabbaṭṭhena とあるが、VRI版により garukattabbamattaṭṭhena と読む。
§82 (9―2)直後なる近しき依所もまた、「前〔の諸々の善なる範疇〕、前の諸々の善なる範疇は、後〔の諸々の善なる範疇〕、後の諸々の善なる範疇にとって、近しき依所たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.4)という〔言葉〕等の方法によって、直後なる縁と共に、まさしく、種々なることを為さずして(両者の間に差異を付けずに)区分された。いっぽう、要綱(論母:法と律の要目)の概説においては、それらのばあい、「眼の識知〔作用〕の界域は、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)は、意の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、直後なる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.4)という〔言葉〕等の方法によって、直後なる〔縁〕が〔言及され〕、「前〔の諸々の善なる法〕、前の諸々の善なる法(性質)は、後〔の諸々の善なる法〕、後の諸々の善なる法(性質)にとって、近しき依所たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.4)という〔言葉〕等の方法によって、近しき依所たる〔縁〕が言及されたことから、概説においては、差異が存在する。それもまた、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、一なる状態へと至るが(同一のものとなる)、たとえ、このように存しているとして、〔その〕自己〔その〕自己にとって(その心その心にとって)直後に適切なる心の生起を転起させることができることから、直後なる〔縁〕たることが〔知られるべきであり〕、前の心が後の心を生起させるときに力あることから、直後なる近しき依所たることが知られるべきである。
§83 まさに、すなわち、因や縁等々のうち、何らかの法(性質)なくしてもなお、心が生起するように、このように、心が生起することは、直後なる心なくしては、まさに、存在しない(無間に生起する心なくして、心の生起はありえない)。【537】それゆえに、〔直後なる心は〕力ある縁と成る。かくのごとく、〔その〕自己〔その〕自己にとって直後に適切なる心を生起させることを所以に、直後なる縁となり、力ある契機を所以に、直後なる近しき依所となる。ということで、このように、これらの種々なること(直後なる縁と直後なる近しき依所の差異)が知られるべきである。
§84 (9―3)また、〔生来の〕性向の近しき依所は、〔生来の〕性向であり、近しき依所であり、〔生来の〕性向の近しき依所となる。「〔生来の〕性向」というのは、自己の相続において、あるいは、〔自ずと〕完遂されたもの(作り為されたもの)であり、あるいは、近しく習修された(しっかりと身に付いた)信や戒等であり、あるいは、まさしく、季節や食等の〔生来の〕性向によって、近しき依所としてあるものであり、〔生来の〕性向の近しき依所となる。対象の〔近しき依所〕と直後なる〔近しき依所〕と混合なきものである、という義(意味)である。その〔生来の性向の近しき依所〕のばあい、「〔生来の〕性向の近しき依所は、信に近しく依拠して、布施を施し、戒を受持し、斎戒の行為を為し、瞑想〔の境地〕を生起させ、〔あるがままの〕観察を生起させ、道を生起させ、神知を生起させ、入定〔の境地〕を生起させ、戒に……所聞に……施捨に……智慧に近しく依拠して、布施を施し……略……入定〔の境地〕を生起させる。信と戒と所聞と施捨と智慧は、信と戒と所聞と施捨と智慧にとって、近しき依所たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.165)という〔言葉〕等の方法によって、無数の流儀〔の観点〕から、細別が知られるべきである。かくのごとく、これらの信等々は、まさしく、そして、〔生来の〕性向であり、さらに、力ある契機の義(意味)によって、近しき依所であり、ということで、〔生来の〕性向の近しき依所となる、と〔知られるべきである〕。
603.
§85 (10)まず最初に生起して転起している状態による資益ある法(性質)が、「先に生じた縁」。それは、五つの門における基盤と対象と心臓の基盤を所以に、十一種類のものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「(10―1)眼の〔認識の〕場所は、眼の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法にとって、先に生じた縁によって、縁となる。(10―2)耳の……略……。(10―3)鼻の……。(10―4)舌の……。(10―5)身の〔認識の〕場所は……。(10―6)形態の〔認識の〕場所は……。(10―7)音声の……。(10―8)臭気の……。(10―9)味感の……。(10―10)感触の〔認識の〕場所は、身の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法にとって、先に生じた縁によって、縁となる。(10―11)形態〔の認識の場所〕と音声〔の認識の場所〕と臭気〔の認識の場所〕と味感〔の認識の場所〕と感触の〔認識の〕場所は、意の界域にとって、〔さらに、それと結び付いた諸々の法にとって、先に生じた縁によって、縁となる〕。その形態(心臓の基盤)に依拠して、そして、意の界域が〔転起し〕、さらに、意の識知〔作用〕の界域が転起するなら、その形態は、意の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、先に生じた縁によって、縁となり、意の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、或る時には(結生以後においては)、先に生じた縁によって、縁となり、或る時には(結生の時は)、先に生じた縁によって、縁とならない」(ティカ・パッターナ1p.4-5)と。
604.
§86 (11)先に生じた諸々の形態の法(性質)を保全するものたることによる資益ある形態なき法(性質)が、「後に生じた縁」。鷲の雛たちの肉体にとっての食を願い求める思欲(食欲)のようなものである。それによって説かれた。「後に生じた心と心の属性としての【538】諸法は、先に生じたこの身体にとって、後に生じた縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5)と。
605.
§87 (12)習修の義(意味)による、諸々の直後なるものの熟練の力ある状態のための資益ある法(性質)が、「習修としての縁」。書物等々〔の修学〕における前々からの専念(予習)のようなものである。それは、(12―1)善なるものと(12―2)善ならざるものと(12―3)〔報いを生まない純粋〕所作としての疾走〔作用〕を所以に、三種類のものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「(12―1)前〔の諸々の善なる法〕、前の諸々の善なる法(性質)は、後〔の諸々の善なる法〕、後の諸々の善なる法(性質)にとって、習修としての縁によって、縁となる。(12―2)前〔の諸々の善ならざる法〕、前の諸々の善ならざる〔法〕は……略……。(12―3)前〔の諸々の報いを生まない純粋所作としての善悪が説き明かされない法〕、前の諸々の〔報いを生まない純粋〕所作としての〔善悪が〕説き明かされない法(性質)は、後〔の諸々の報いを生まない純粋所作としての善悪が説き明かされない法〕、後の諸々の〔報いを生まない純粋〕所作としての〔善悪が〕説き明かされない法(性質)にとって、習修としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5)と。
606.
§88 (13)「心の専念」と名づけられた所作の状態による資益ある法(性質)が、「行為としての縁」。それは、まさしく、そして、(13―1)種々なる瞬間の善なる〔思欲〕と善ならざる思欲を〔所以に〕、さらに、(13―2)共に生じた全てもろともの思欲を所以に、二種類のものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「(13―1)善なる〔行為〕と善ならざる行為は、報いとしての諸々の範疇にとって、さらに、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、行為としての縁によって、縁となる。(13―2)共に生じた思欲は、〔それと〕結び付いた諸々の法(性質)にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって、行為としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5)と。
607.
§89 (14)能力なき寂静の状態による、能力なき寂静の状態のための資益ある報いとしての法(性質)が、「報いとしての縁」。それは、転起されたもの(結生以後の転起・所与的世界)においては、その〔報いとしての識知作用〕から現起する〔諸々の形態〕にとって、さらに、結生(再生の瞬間)においては、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、そして、一切所において、〔それと〕結び付いた諸々の法(性質)にとって、縁となる。すなわち、〔聖典に〕言うように、「報いとしての〔善悪が〕説き明かされない一つの範疇は、〔他の〕三つの範疇にとって、さらに、心から現起する諸々の形態にとって、報いとしての縁によって、縁となる。……略……。結生の瞬間における報いとしての〔善悪が〕説き明かされない一つの範疇は(※)、〔他の〕三つの範疇にとって、さらに、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって……三つの範疇は、〔他の〕一つの範疇にとって……二つの範疇は、〔他の〕二つの範疇にとって、さらに、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、報いとしての縁によって、縁となる。諸々の範疇は、〔心臓の〕基盤にとって、報いとしての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.173)と。
※ テキストには dhammo とあるが、VRI版により khandho と読む。
608.
§90 (15)諸々の形態と形態なきものを保全するものたることによる(※)資益ある四つの食(四食:口にする食・知覚としての食・意志としての食・認識としての食)が、「食としての縁」。すなわち、〔聖典に〕言うように、「物質としての食は、この身体にとって、食としての縁によって、縁となる。〔他の、三つの〕形態なきものとしての食は、〔それと〕結び付いた諸々の法(性質)にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって(※※)、食としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5)と。また、〔『ティカ・パッターナ(発趣論)』の〕問いの部において、「結生の瞬間における報いとしての〔善悪が〕説き明かされない諸々の食は、それと結び付いた諸々の範疇にとって、さらに、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、食としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.174)ともまた説かれた。
※ テキストにはupatthambhakaṭṭhena とあるが、注釈書(Visuddhimagga-mahāṭīkā)により upatthambhakattena と読む。
※※ テキストには taṃsamuṭṭhānānañ とあるが、VRI版により taṃsamuṭṭhānānañca と読む。
609.
§91 (16)優位の義(意味)による資益あるものにして、女の機能と男の機能を除く【539】二十の機能(Ch.16§1)が、「機能としての縁」。そこにおいて、眼の機能等々〔の五つの機能〕は、諸々の形態なき法(性質)だけにとって、残り〔の十五の機能〕は、諸々の形態と形態なきものにとって、縁と成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「眼の機能は、眼の識知〔作用〕の界域にとって……略……。耳の……。鼻の……。舌の……。身の機能は、身の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、機能としての縁によって、縁となる。形態ある生命の機能は、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、機能としての縁によって、縁となる。諸々の形態なきものとしての機能は、〔それと〕結び付いた諸々の法(性質)にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって、機能としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5-6)と。また、〔『ティカ・パッターナ(発趣論)』の〕問いの部において、「結生の瞬間における報いとしての〔善悪が〕説き明かされない諸々の機能は、〔それと〕結び付いた諸々の範疇にとって、さらに、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、機能としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.175)ともまた説かれた。
610.
§92 (17)凝視することという義(意味)による資益あるものにして、二つの五つの識知〔作用〕(34・35・36・37・38・50・51・52・53・54)における〔身の識知作用に属している〕安楽〔の感受〕と苦痛の感受の二つを除いて、善なるもの等の細別ある全てもろとも(善なるものと善ならざるものと善悪無記のものを含めた全て)の七つの瞑想の支分(思考・想念・喜悦・一境性・悦意・失意・放捨)が、「瞑想としての縁」。すなわち、〔聖典に〕言うように、「諸々の瞑想の支分は、瞑想と結び付いた諸々の法(性質)にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって、瞑想としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.6)と。また、〔『ティカ・パッターナ(発趣論)』の〕問いの部において、「結生の瞬間における報いとしての〔善悪が〕説き明かされない諸々の瞑想の支分は、〔それと〕結び付いた諸々の範疇にとって、さらに、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、瞑想としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.176)ともまた説かれた。
611.
§93 (18)どこであろうがそこから出発するという義(意味)による資益あるものにして、善なるもの等の細別ある十二の道の支分(正しい見解・正しい思惟・正しい言葉・正しい行業・正しい生き方・正しい努力・正しい気づき・正しい禅定・誤った見解・誤った思惟・誤った努力・誤った禅定)が、「道としての縁」。すなわち、〔聖典に〕言うように、「諸々の道の支分は、道と結び付いた諸々の法(性質)にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって、道としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.6)と。また、〔『ティカ・パッターナ(発趣論)』の〕問いの部において、「結生の瞬間における報いとしての〔善悪が〕説き明かされない諸々の道の支分は、〔それと〕結び付いた諸々の範疇にとって、さらに、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、道としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.176)ともまた説かれた。また、これらの瞑想〔としての縁〕と道としての縁は、二つともどもに、二つの五つの識知〔作用〕と因なきものとしての心(34・35・36・37・38・39・40・41・50・51・52・53・54・55・56・70・71・72)において得られることはない、と知られるべきである。
612.
§94 (19)「〔認識の〕基盤を一つとし〔認識の〕対象を一つとし生起を一つとし止滅を一つとするもの」と名づけられた結び付いた状態による資益ある諸々の形態なき法(性質)が、「結合の縁」。すなわち、〔聖典に〕言うように、「四つの形態なき範疇は、互いに他と、結合の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.6)と。
613.
§95 (20)〔認識の〕基盤を一つとする等の状態に近しく赴かないことによる資益ある、諸々の形態ある法(性質)が、諸々の形態なき法(性質)にとっての──諸々の形態なき〔法〕もまた、諸々の形態ある〔法〕にとっての──「不結合の縁」。それは、(20―1)共に生じたものと(20―2)後に生じたものと(20―3)先に生じたものを所以に、三種類のものと成る。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「(20―1)共に生じた諸々の善なる範疇は、心から現起する諸々の形態にとって、不結合の縁によって、縁となる。(20―2)後に生じた諸々の善なる【540】範疇は、先に生じたこの身体にとって、不結合の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.176)と。また、〔善悪が〕説き明かされないものの句についての、共に生じたものの区分においては、「結生の瞬間における報いとしての〔善悪が〕説き明かされない諸々の範疇は、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、不結合の縁によって、縁となる。諸々の〔形態なき〕範疇は、〔形態ある〕基盤(眼の機能・耳の機能・鼻の機能・舌の機能・身の機能・心臓の基盤)にとって、〔形態ある〕基盤は、諸々の〔形態なき〕範疇にとって、不結合の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.176)ともまた説かれた。(20―3)また、先に生じたものは、まさしく、眼の機能等の基盤たるを所以に、知られるべきである。すなわち、〔聖典に〕言うように、「先に生じた眼の〔認識の〕場所は、〔後に生じた〕眼の識知〔作用〕にとって(※)……略……。〔先に生じた〕身の〔認識の〕場所は、〔後に生じた〕身の識知〔作用〕にとって、不結合の縁によって、縁となる。〔先に生じた心臓の〕基盤は、〔後に生じた〕報いとしての〔善悪が〕説き明かされない〔諸々の範疇〕と〔報いを生まない純粋〕所作としての〔善悪が〕説き明かされない諸々の範疇にとって……略……。〔先に生じた心臓の〕基盤は、善なる諸々の範疇にとって……略……。〔先に生じた心臓の〕基盤は、善ならざる諸々の範疇にとって、不結合の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.176-7)と。
※ テキストには viññāṇassa とあるが、VRI版により cakkhuviññāṇassa と読む。
614.
§96 (21)現在を特相とする存在の状態によって、まさしく、そのような法(性質)を保全するものたることによる資益ある法(性質)が、「存在の縁」。その〔存在の縁〕のばあい、(21―1)形態なき範疇と(21―2)大いなる元素と(21―3)名前と形態と(21―4)心と心の属性と(21―5)大いなる元素と(21―6)〔認識の〕場所と(21―7)〔認識の〕基盤を所以に、七種に項目が示し置かれた。すなわち、〔聖典に〕言うように、「(21―1)四つの形態なき範疇は、互いに他と、存在の縁によって、縁となる。(21―2)四つの大いなる元素は、〔互いに他と、存在の縁によって、縁となる〕。(21―3)入胎の瞬間における名前と形態は、互いに他と、〔存在の縁によって、縁となる〕。(21―4)心と心の属性としての諸法(性質)は、心から現起する諸々の形態にとって、〔存在の縁によって、縁となる〕。(21―5)〔四つの〕大いなる元素は、〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態にとって、〔存在の縁によって、縁となる〕。(21―6)眼の〔認識の〕場所は、眼の識知〔作用〕の界域にとって……略……。身の〔認識の〕場所は……略……。形態の〔認識の〕場所は……略……。感触の〔認識の〕場所は、身の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、存在の縁によって、縁となる。形態の〔認識の〕場所は……略……。感触の〔認識の〕場所は、意の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、〔存在の縁によって、縁となる〕。(21―7)すなわち、形態(心臓の基盤)に依拠して、そして、意の界域が〔転起し〕、さらに、意の識知〔作用〕の界域が転起するなら、その形態は、そして、意の界域にとって、かつまた、意の識知〔作用〕の界域にとって、さらに、それと結び付いた諸々の法(性質)にとって、存在の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.6)と。
§97 また、〔『ティカ・パッターナ(発趣論)』の〕問いの部において、(21―1)共に生じたもの、(21―2)先に生じたもの、(21―3)後に生じたもの、(21―4)食、(21―5)機能、という〔五つの縁〕をもまた示し置いて、まずは、(21―1)共に生じたものについて、「一つの範疇は、〔他の〕三つの範疇にとって、さらに、それから現起する諸々の形態にとって、存在の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.177)という〔言葉〕等の方法によって、釈示が為された。(21―2)先に生じたものについては、先に生じた眼等々を所以に、釈示が為された。(21―3)後に生じたものについては、先に生じたこの身体が、後に生じた心と心の属性としての〔諸法〕にとっての縁たるを所以に、釈示が為された。(21―4・21―5)食と機能については、「物質としての食は、この身体にとって、存在の縁によって、【541】縁となる。形態ある生命の機能は、〔報いとして〕作り為されたことから、諸々の形態にとって、存在の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.178)と、このように、釈示が為された、と〔知られるべきである〕。
615.
§98 (22)自己の直後に生起している諸々の形態なき法(性質)に転起の機会を与えることによる資益ある、等しく直後に止滅した(間を置かず無間に止滅した)諸々の形態なき法(性質)が、「非存在の縁」。すなわち、〔聖典に〕言うように、「等しく直後に止滅した心と心の属性としての諸法(性質)は、現在の心と心の属性としての諸法(性質)にとって、非存在の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.6)と。
§99 (23)それら〔の等しく直後に止滅した心と心の属性としての諸法〕(非存在の縁としての諸法)こそが、離れ去った状態による資益あるものたることから、「離去の縁」。すなわち、〔聖典に〕言うように、「等しく直後に離れ去った心と心の属性としての諸法(性質)は、現在の心と心の属性としての諸法(性質)にとって、離去の縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.7)と。
§100 (24)そして、存在の縁としての諸法(性質)こそが、離れ去らない状態による資益あるものたることから、「不離去の縁」と知られるべきである。いっぽう、説示の美麗を〔所以に〕、あるいは、そのように、教え導かれるべき〔弟子たち〕が教え導かれるべきことを所以に、この二なるものが説かれた──因なきもの〔と因あるもの〕という二なるものを説いてもなお、因と結び付かないもの〔と因と結び付いたもの〕という二なるものが〔説かれた〕ように──と〔知られるべきである〕。
616.
§101 このように、これらの二十四の縁について、この無明は──
〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の功徳ある〔行作〕にとって、二種類に縁と成り、また、他の〔諸々の功徳なき行作〕にとっては、幾種にも〔縁と成り〕、それ(無明)は、後の〔諸々の不動の行作〕にとって、一種に縁と〔成る〕、〔と〕認証された」〔と〕。
§102 そこにおいて、「諸々の功徳ある〔行作〕にとって、二種類に」とは、そして、対象としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、ということで、二種に縁と成る。まさに、それ(無明)は、〔善き凡夫たちが〕無明を、滅尽〔の観点〕から〔触知し〕衰失〔の観点〕から触知する時には、欲望の行境の諸々の功徳ある行作にとって、対象としての縁によって、縁と成り、神知の心によって迷妄を有する心を知る時には、形態の行境〔の諸々の功徳ある行作〕にとって、〔対象としての縁によって、縁と成り〕、また、無明の超越を義(目的)として、まさしく、そして、布施等々の欲望の行境の諸々の功徳の所作の事例を満たしつつある者にとって、さらに、形態の行境の諸々の瞑想〔の境地〕を生起させつつある者にとって、それらの両者ともどもにとって、近しき依所たる縁によって、縁と成り、そのように、無明によって等しく迷乱したことから、欲望の生存(欲有)や形態の生存(色有)の得達を切望して、まさしく、それらの功徳ある〔行作〕を為している者にとって、〔近しき依所たる縁によって、縁と成る〕。
§103 「また、他の〔諸々の功徳なき行作〕にとっては、幾種にも〔縁と成り〕」とは、諸々の功徳なき行作にとって、幾種にも縁と成る。どのようにか。まさに、この〔無明〕は、無明を対象として(機縁として)、貪欲等々が生起する時には、対象としての縁によって──〔無明を〕重きものと為して味わう時には、対象の優位としての〔縁〕と対象の近しき依所たる縁によって──無明によって等しく迷乱し、〔無常のうちに〕危険を見ることなく、命あるものを殺すこと等々を為している者にとって、近しき依所たる縁によって──〔善ならざる〕第二の疾走〔作用〕等々にとって、直後なる〔縁〕と等しく直後なる〔縁〕と直後なる近しき依所たる〔縁〕と習修としての〔縁〕と非存在の〔縁〕と離去の縁によって──それが何であれ、善ならざることを為している者にとって、因としての〔縁〕と共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁によって──ということで、幾種にも縁と成る。
§104 「それ(無明)は、後の〔諸々の不動の行作〕にとって、一種に縁と〔成る〕、〔と〕認証された」とは、諸々の不動の行作にとって、【542】近しき依所たる縁だけによって、一種に縁と〔成る〕、〔と〕認証された。また、その〔無明〕の、その近しき依所たる状態は、まさしく、功徳ある行作において説かれた方法によって、知られるべきである、と。
617.
§105 ここにおいて、〔或る者は〕言う。「また、どうであろう、これは、無明という一つのものだけが、諸々の形成〔作用〕にとっての縁と〔成るのか〕、それとも、他にもまた諸々の縁が存在するのか」と。「また、どうであろう、ここにおいて、もしくは、まずは、〔無明という〕一つのものだけが〔縁と成るなら〕、一つのものを契機とする論が惹起することになり、そこで、他にもまた〔諸々の縁が〕存在するなら、『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります』という、〔無明という〕一つのものを契機とする釈示が成り立たないことになるのでは」と〔問うなら〕、「成り立たないことはない」〔と答える〕。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「すなわち、〔以下の〕ことから」〔と答える〕。
〔そこで、詩偈に言う〕「ここに、一つ〔の契機〕から、一つ〔の果だけ〕が〔存在することは〕なく、複数〔の果〕が〔存在することも〕なく、また、複数〔の契機〕から、一つの果が存在することもない。いっぽう、一つの因と果を提示することには、義(利益)が存在する」〔と〕。
§106 まさに、ここに、一つの契機から、何であれ、一つの果〔だけ〕が存在することはなく、複数〔の果〕が〔存在することも〕なく、また、複数の契機から、一つの果が〔存在すること〕もない。いっぽう、複数の契機から、まさしく、複数〔の果〕が〔存在することは〕有る。なぜなら、そのように、複数の「季節」や「地」や「種」や「水」と名づけられた諸々の契機から、まさしく、複数の形態や臭気や味感等がある「芽」と名づけられた果が生起しているのが見られるからである。また、すなわち、この、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります」と、一つの因と果を提示することが為されたが、そこにおいては、義(利益)が存在し、目的が見出される。
§107 なぜなら、世尊は、或るところにおいては、(1)根本のものたることから、或るところにおいては、(2)明白なるものたることから、或るところにおいては、(3)共通ならざるものたることから、そして、説示の美麗のために、さらに、教え導かれるべき者たちのために、適切に、一つだけの、あるいは、因を、あるいは、果を、提示するからである。(1)まさに、「接触という縁あることから、感受があります」と、根本のものたることから、一つだけの因と果を言った。なぜなら、接触は、〔それを〕感受が接触のとおりに定置することから、感受にとって、根本の因としてあるからであり、かつまた、感受は、〔それを〕接触が感受のとおりに定置することから、接触にとって、根本の果としてあるからである。(2)「痰から等しく現起する諸々の病苦」(アングッタラ・ニカーヤ5p.110)と、明白なるものたることから、一つの因を言った。なぜなら、ここにおいて、痰は、明白なるものであり、行為等々は、〔明白なるものでは〕ないからである。(3)「比丘たちよ、それらが何であれ、諸々の善ならざる法(性質)であるなら、それらの全てが、根源のままならずに意を為すことを根元とするものです」(サンユッタ・ニカーヤ5p.91:一部異なる箇所あり)と、共通ならざるものたることから、一つの因を言った。なぜなら、根源のままならずに意を為すことは、諸々の善ならざる〔法〕にとってのものであり、〔諸々の善なる法にとっては〕共通ならざるものであるが、基盤や対象等々は、〔両者にとって〕共通なるものであるからである。ということで──
§108 それゆえに、この無明は、ここに、たとえ、諸々の形成〔作用〕の契機となる諸他の基盤や対象や共に生じた法(性質)等々が見出されているときも、(1)そして、「[比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、]悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します」(サンユッタ・ニカーヤ2p.84)という〔言葉から〕、さらに、「無明の集起あることから、煩悩の集起があります」(マッジマ・ニカーヤ1p.55)という言葉から、諸々の形成〔作用〕の因となる諸他の渇愛等々にとってもまた、因となる、ということで、根本のものたることから──(2)「比丘たちよ、知なき者は、無明を具した者は、功徳ある行作をもまた行作し、[功徳なき行作をもまた行作し、不動の行作をもまた行作します]」(サンユッタ・ニカーヤ2p.82:一部異なる箇所あり)という〔言葉から〕、明白なるものたることから──(3)さらに、〔他と〕共通ならざるものたることから──【543】諸々の形成〔作用〕にとっての因たる状態によって提示された、と知られるべきである。そして、まさしく、この、一つ一つの因と果を提示し維持する言葉によって、一切所において、一つ一つの因と果の提示における〔句の〕構成が知られるべきである、と。
618.
§109 ここにおいて、〔或る者は〕言う。「たとえ、このように存しているとして(上述のとおりであるとして)、一方的に好ましからざる果あるものにして、罪過を有するものである、無明のばあい、どのように、功徳ある〔行作〕や不動の行作にとっての縁たることが適合するのか。なぜなら、〔苦味のある〕ニンバ〔樹〕の種から甘蔗は生起しないからである」と。「どうして、適合しないというのだろう(適合する)」〔と答える〕。なぜなら、世において──
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、矛盾あるものが、さらに、矛盾なきものが、そのように、相同なるものと相同ならざるものが、諸々の法(性質)にとって、縁として実現したなら、そして、それら〔の諸々の法〕は、まさしく、〔その縁の〕報いとしてあるわけではない」〔と〕。
§110 なぜなら、諸々の法(性質)にとって、そして、境位と自ずからの状態と作用等の矛盾あるものが、さらに、〔境位と自ずからの状態と作用等の〕矛盾なきものが、〔諸々の法にとっての〕縁として、世において実現したからである。まさに、前の心は、後の心にとって、境位の矛盾(状況の相違)ある縁と〔成り〕、かつまた、前の技能等の学びは、後に転起している技能等の諸々の所作にとって、〔境位の矛盾ある縁と成り〕、行為は、形態にとって、自ずからの状態の矛盾(自性の相違)ある縁と〔成り〕、かつまた、乳等々は、乳酪等々にとって、〔自ずからの状態の矛盾ある縁と成り〕、光は、眼の識知〔作用〕にとって、作用の矛盾〔ある縁〕と〔成り〕、かつまた、糖等々は、抽出物(酒)等々にとって、〔作用の矛盾ある縁と成り〕、また、眼と形態等々は、眼の識知〔作用〕等々にとって、境位の矛盾ある縁と〔成り〕、前の疾走〔作用〕等々は、後の疾走〔作用〕等々にとって、自ずからの状態の矛盾ある〔縁〕と〔成り〕、かつまた、作用の矛盾ある〔縁〕と〔成る〕。さらに、すなわち、矛盾あるものと矛盾なきものが縁として実現したように、このように、相同なるものと相同ならざるものもまた〔縁と成る〕。まさに、まさしく、相同なるものとして、「季節」と「食」と名づけられた形態が、〔相同なる〕形態にとって、縁と〔成り〕、そして、米の種等々が、〔相同なる〕米の果等々にとって、〔縁と成る〕。相同ならざるものとして、形態もまた、〔相同ならざる〕形態なきものにとって、さらに、形態なきものも、〔相同ならざる〕形態にとって、縁と成り、そして、牛毛や羊毛や角や乳酪や胡麻や粉等々も、〔相同ならざる〕ダッバ〔草〕やブーティナカ〔草〕等々にとって、〔縁と成る〕。そして、それらの諸々の法(性質)にとって、それらの矛盾あるものと矛盾なきものと相同なるものと相同ならざるものが縁としてあるなら、それらの諸々の法(性質)は、それら〔の矛盾あるものと矛盾なきものと相同なるものと相同ならざるもの〕たる諸々の法(性質)の、まさしく、報いとしてあるわけではない。
§111 かくのごとく、この無明は、報いを所以に、一方的に好ましからざる果あるものであり、自ずからの状態を所以に、罪過を有するものとしてもまた存しつつ、これらの功徳ある行作等々(功徳ある行作・功徳なき行作・不動の行作)の全てもろともにとって、適切なるままに──境位と作用と自ずからの状態の矛盾あるものと矛盾なきものが縁としてあることを所以に、さらに、相同なるものと相同ならざるものが縁としてあることを所以に──縁と成る、と知られるべきである。そして、その〔無明〕の、その縁の状態は、「なぜなら、その者に、『苦しみ等々についての無明』と名づけられた無知が、〔いまだ〕捨棄されていないものとして有るなら、彼は、そのあいだ、苦しみについて〔の無知によって〕、さらに、過去の極等々についての無知によって、輪廻の苦しみを安楽の表象によって収め取って(誤認して)、まさしく、その〔苦しみ〕の(※)因として有る、〔功徳ある行作と功徳なき行作と不動の行作の三なるものとしての〕諸々の形成〔作用〕を、三種類もろともに励み」(§62)という〔言葉〕等の方法によって、まさしく、〔前に〕説かれた。
※ テキストには tassa hetubhūte とあるが(VRI版も同様)、§62に合わせて tasseva hetubhūte と読む。
619.
§112 さらに、また、他にもまた、これが、教相となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「死滅と再生と輪廻にたいし、そして、諸々の形成〔作用〕の特相にたいし、さらに、縁によって生起した諸々の法(性質)にたいし、その者が迷乱するなら──
【544】彼は、〔功徳ある行作と功徳なき行作と不動の行作という〕これらの三種類の形成〔作用〕を行作することから、すなわち、それゆえに、この無明は、それらの三種類〔の形成作用〕にとって、縁と〔成る〕」と。
§113 「また、これらのものにたいし、その者が迷乱するとして、どのように、彼は、〔功徳ある行作と功徳なき行作と不動の行作という〕これらの形成〔作用〕を、三種類もろともに作り為すのか」と、もし〔問うなら、以下のように答える〕。まずは、死滅にたいし迷乱した者は、「一切所において、〔五つの心身を構成する〕範疇の破壊が、死である」と、死滅を〔あるがままに〕収め取ることなく(正しく把握せず)、「有情が死ぬ」「有情には、別の肉身に転移することがある」等々と想い描く(妄想する)。
§114 再生にたいし迷乱した者は、「一切所において、〔五つの心身を構成する〕範疇の出現が、生である」と、再生を〔あるがままに〕収め取ることなく、「有情が生まれる」「有情には、新しい肉体の出現がある」等々と想い描く。
§115 輪廻にたいし迷乱した者は、すなわち、この──
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、諸々の範疇の、さらに、諸々の界域と〔認識の〕場所の、次第次第に断絶なく転起している〔状態〕が、『輪廻』と説かれる」と──
このように解説された輪廻なるも、それを、このように〔あるがままに〕収め取ることなく、「この有情が、この世から他の世に至り行く」「他の世からこの世に帰り来る」等々と想い描く。
§116 諸々の形成〔作用〕の特相にたいし迷乱した者は、諸々の形成〔作用〕の、〔形態や感受等の〕自ずからの状態の特相(個別的特相)を、さらに、〔無常や無我等の〕同等の特相(一般的特相)を、〔あるがままに〕収め取ることなく、諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から、自己に属するもの〔の観点〕から、常恒〔の観点〕から、安楽〔の観点〕から、浄美〔の観点〕から、想い描く。
§117 縁によって生起した諸々の法(性質)にたいし迷乱した者は、無明等々による諸々の形成〔作用〕等々の転起を〔あるがままに〕収め取ることなく、あるいは、「自己が、あるいは、知り、あるいは、知らない」「まさしく、その〔自己〕が、そして、為し、さらに、為さしめる」「結生において、〔自己が〕生起する」「その〔自己〕のために、微細〔原子〕やイッサラ〔天〕(自在天・創造神)等々が、カララ(入胎後一週間)等の状態によって、肉体を確立させつつ、諸々の機能を成就させる」「諸々の機能が成就した、その〔自己〕は、接触し、感受し、渇愛し、執取し、勤労する」「その〔自己〕は、さらなる生存の間に有る」と〔想い描き〕、あるいは、「一切の有情たちは、[一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、]運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化したものである」(ディーガ・ニカーヤ1p.53)と想い描く。
§118 無明によって盲者に作り為された彼は、このように想い描きながら、すなわち、まさに、盲者が地を渡り歩きつつ、道であろうが、道ならざるところであろうが、高きであろうが、低きであろうが、平坦であろうが、平坦ならざるところであろうが、〔ところかまわず〕行くように、このように、功徳ある〔行作〕をもまた〔行作し〕、功徳なき〔行作〕をもまた〔行作し〕、不動の行作をもまた行作する、と〔知られるべきである〕。
§119 それによって、この〔詩偈〕が説かれる。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、また、まさに、生まれながらの盲者たる人が、遍き導き手なく、或る時は道を行き、或る時は悪しき道をもまた〔行く〕ように──
そのように、愚者は、輪廻のうちに輪廻しながら、遍き導き手なく、或る時は功徳ある〔行作〕を為し、或る時は功徳なき〔行作〕をもまた〔為す〕。
しかしながら、すなわち、彼が、法(教え)を知って、諸々の真理を知悉するとき、そのときは、無明の寂止あることから、寂静なる者となり、〔世を〕歩むであろう」と。
これが、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」という句についての詳細の言説の門となる。
620.
[2 「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります」]
§120 【545】「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(識)があります」という句について、「識知〔作用〕があります」とは、眼の識知〔作用〕等の六種類のものがある。そこにおいて、眼の識知〔作用〕は、善なる報いとしてのもの、善ならざる報いとしてのもの、という、二種類のものと成る(34・50)。そのように、耳〔の識知作用〕(35・51)と鼻〔の識知作用〕(36・52)と舌〔の識知作用〕(37・53)と身の識知〔作用〕(38・54)がある(眼と同様である)。意の識知〔作用〕は、善なる〔報い〕と善ならざる報いとしての二つの意の界域(39・55)、三つの因なきものにして〔善なる報いと善ならざる報いとしての〕意の識知〔作用〕の界域(40・41・56)、八つの因を有するものにして欲望の行境の〔善なる〕報いとしての心(42・43・44・45・46・47・48・49)、五つの形態の行境の〔善なる報いとしての心〕(57・58・59・60・61)、四つの形態なき行境の〔善なる報いとしての心〕(62・63・64・65)、という、二十二種類のものと成る。かくのごとく、これらの六つの識知〔作用〕(眼の識知作用・耳の識知作用・鼻の識知作用・舌の識知作用・身の識知作用・意の識知作用)によって、三十二の世〔俗〕のものたる報いとしての識知〔作用〕が、全てもろともに、包摂されたものと成る。また、諸々の世〔俗〕を超えるものは、転起の言説(輪廻説)に適合しない、ということで、包摂されない。
§121 そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「また、どのように、『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、この、〔前に〕説かれた流儀の識知〔作用〕が有る』と、このことが知られるべきであるのか」〔と問うなら〕、「蓄積された行為の状態なきとき、報いの状態なきことから」〔と答える〕。なぜなら、この〔諸々の形成作用という縁あることから有る識知作用〕は、報いとしてのものであり、かつまた、報いとしてのものは、蓄積された行為の状態なきとき、生起しないからである。すなわち、〔蓄積された行為の状態なくして〕生起するなら、全ての者に、全ての報いが生起するであろうが、しかしながら、生起することはない。ということで、「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、この識知〔作用〕が有る」と、このことが知られるべきである。
§122 「どのような諸々の形成〔作用〕という縁あることから、どのような識知〔作用〕があるのか」と、もし〔問うなら、以下のように答える〕。
(1―1)まずは、欲望の行境の功徳ある行作という縁あることから、善なる報いとしての五つの眼の識知〔作用〕等々(34・35・36・37・38)と意の識知〔作用〕における一つの意の界域(39)と二つの意の識知〔作用〕の界域(40・41)と八つの欲望の行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(42・43・44・45・46・47・48・49)、という、十六〔の識知作用〕が〔有る〕。すなわち、〔聖典に〕言うように、「欲望の行境の善なる行為(善業)が作り為され蓄積されたことから、報いとしての眼の識知〔作用〕が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.87)「……耳の……鼻の……舌の……身の識知〔作用〕が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.89)「報いとしての意の界域が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.91)「悦意を共具した意の識知〔作用〕の界域が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.92)「放捨を共具した意の識知〔作用〕の界域が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.95)「悦意を共具し知恵と結び付き〔形成作用なきもの〕が……悦意を共具し知恵と結び付き形成〔作用〕を有するものが……悦意を共具し知恵と結び付かず〔形成作用なきもの〕が……悦意を共具し知恵と結び付かず形成〔作用〕を有するものが……放捨を共具し知恵と結び付き〔形成作用なきもの〕が……放捨を共具し知恵と結び付き形成〔作用〕を有するものが……放捨を共具し知恵と結び付かず〔形成作用なきもの〕が……放捨を共具し知恵と結び付かず形成〔作用〕を有するものが……」(ダンマ・サンガニp.96)と。
§123 (1―2)また、形態の行境の功徳ある行作という縁あることから、五つの形態の行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(57・58・59・60・61)が〔有る〕。すなわち、〔聖典に〕言うように、「まさしく、その、形態の行境の善なる行為が作り為され蓄積されたことから、【546】まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、報いとしての第一の瞑想を……略……第五の瞑想を成就して〔世に〕住む」(ダンマ・サンガニp.97)と。
このように、功徳ある行作という縁あることから、二十一種類の識知〔作用〕が有る。
§124 (2)また、功徳なき行作という縁あることから、善ならざる報いとしての五つの眼の識知〔作用〕等々(50・51・52・53・54)と一つの意の界域(55)と一つの意の識知〔作用〕の界域(56)、という、このように、七種類の識知〔作用〕が有る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「善ならざる行為が作り為され蓄積されたことから、報いとしての眼の識知〔作用〕が、生起したものと成る。……耳の……鼻の……舌の……身の識知〔作用〕が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.117-8)「……報いとしての意の界域が……報いとしての意の識知〔作用〕の界域が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.119)と。
§125 (3)また、不動の行作という縁あることから、四つの形態なき〔行境の善なる〕報い〔としての心〕(62・63・64・65)、という、このように、四種類の識知〔作用〕が〔有る〕。すなわち、〔聖典に〕言うように、「まさしく、その、形態なき行境の善なる行為が作り為され蓄積されたことから、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから……略……報い〔としての心〕が、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を共具したものとして……略……識知無辺なる……略……無所有なる……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を共具したものとして、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住む」(ダンマ・サンガニp.97-8)と。
621.
§126 このように、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、〔まさに〕その、〔これだけの種類の〕識知〔作用〕が有るとして、それを知って〔そののち〕、今や、その〔識知作用〕の転起が、このように知られるべきである。
まさに、この〔識知作用〕は、まさしく、〔その〕全てが、(一)〔結生以後の〕転起と(二)結生(再生の瞬間)を所以に、二種に転起する(結生以後の転起において転起する識知作用と再生の瞬間において転起する識知作用の二種類がある)。そこにおいて、二つの五つの識知〔作用〕(34・35・36・37・38・50・51・52・53・54)と二つの意の界域(39・55)と悦意を共具した因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(40)、という、これらの十三〔の識知作用〕は、五つの構成(五蘊)としての生存(欲界と色界)において、〔結生以後の〕転起においてだけ転起する。残りの十九〔の識知作用〕は、三つの生存(三有:三界)において、適切なるままに、〔結生以後の〕転起においてもまた〔転起し〕、結生においてもまた転起する。どのようにか。
§127 (一)まずは、善なる報いとしての眼の識知〔作用〕等々の五つ(34・35・36・37・38)が、善なる報いによって〔発現した者の〕、あるいは、善ならざる報いによって発現した者の──順々に〔行為の〕円熟へと〔感官の〕機能が近しく赴いた者の──眼等々の視野に至った好ましい〔形態等の対象〕を〔対象として〕、あるいは、好ましいものにたいし中なる〔行相〕ある形態等の対象を対象として、眼等の〔機能の〕澄浄(正常な感官機能)に依拠して、見る〔作用〕と聞く〔作用〕と嗅ぐ〔作用〕と味わう〔作用〕と接触する作用を遂行しつつ、転起する。そのように、善ならざる報い〔としての眼の識知作用等々〕の五つ(50・51・52・53・54)がある(同様である)。なぜなら、単に、それらには、好ましくない〔形態等の対象〕が〔有るか〕、あるいは、好ましくないものにたいし中なる〔行相〕ある〔形態等の〕対象が有るか〔という〕、このことだけが、差異となるからである。そして、これら〔の識知作用〕は、十もろともに、〔生起が〕決定している門と対象と基盤と境位あるものとして、さらに、まさしく、〔生起が〕決定している作用あるものとして、有る(転起する)。
§128 そののち、善なる報いとしての眼の識知〔作用〕等々の(※)直後に、善なる報いとしての意の界域(39)が、まさしく、それら〔の眼の識知作用等々〕の対象を対象として、心臓の基盤(心の依所:Ch.14§60)に【547】依拠して、領受する作用を遂行しつつ、転起する。そのように、善ならざる報い〔としての眼の識知作用等々〕の直後に、善ならざる報い〔としての意の界域〕(55)がある(同様に転起する)。また、そして、この二つ〔の意の界域〕は、〔生起が〕決定していない門と対象あるものとして、〔生起が〕決定している基盤と境位あるものとして、さらに、〔生起が〕決定している作用あるものとして、有る(転起する)。
※ テキストには cakkhuviññāṇādīni とあるが、VRI版により cakkhuviññāṇādīnaṃ と読む。
§129 また、悦意を共具した因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(40)が、善なる報いとしての意の界域の直後に、まさしく、その〔意の界域〕の対象を対象として、心臓の基盤に依拠して、吟味する作用を遂行しつつ、六つの門における力ある対象にたいし──欲望の行境の有情たちのばあい、多くのところとして、貪欲と結び付いた疾走〔作用〕の最後において、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の道程(心相続)を切断して、疾走〔作用〕によって収め取られた対象にたいし──残象〔作用〕を所以に、あるいは、一度、あるいは、二回、転起する、と、『マッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)』のアッタカター(注釈書)において説かれたが、いっぽう、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)のアッタカターにおいては、残象〔作用〕について、二つの心の時機が言及された(残象作用としての心は、二回、転起する、と)。また、この〔残象作用の〕心は、そして、「その〔疾走作用の対象〕を対象とするもの」と、さらに、「背を生存の〔潜在〕支分〔作用〕とするもの(疾走作用の余波としての作用)」と、かくのごとく、二つの名前を得、〔生起が〕決定していない門と対象あるものとして、〔生起が〕決定している基盤あるものとして、さらに、〔生起が〕決定していない境位と作用あるものとして、有る(転起する)。
ということで、まずは、このように、十三〔の識知作用〕が、五つの構成としての生存(欲界と色界)において、〔結生以後の〕転起においてだけ転起する、と知られるべきである。
§130 残りの十九〔の識知作用〕(41・42・43・44・45・46・47・48・49・56・57・58・59・60・61・62・63・64・65)のうち、何であれ、自己に適切なる結生(再生の瞬間)において、転起しないものはない。いっぽう、〔結生以後の〕転起においては、まずは、善なる〔報い〕と善ならざる報いとしての、二つの因なきものとしての意の識知〔作用〕の界域(41・56)が、五つの門において、善なる〔報い〕と善ならざる報いとしての意の界域の直後に吟味する作用を──六つの門において、まさしく、前に説かれた方法によって、残象〔作用〕を──自己みずからの結生が与えられてより以後、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断する心の生起が存在していないときは、生存の〔潜在〕支分作用を──さらに、〔生の〕最後において、死滅作用を──ということで、四つの作用を遂行しつつ、〔生起が〕決定している基盤あるものと〔成り〕、〔生起が〕決定していない門と対象と境位と作用あるものと成って、転起する。
§131 八つの欲望の行境の因を有するものとしての心(42・43・44・45・46・47・48・49)が、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、六つの門において、残象作用を──自己みずからの結生が与えられてより以後、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断する心の生起が存在しないときは、生存の〔潜在〕支分作用を──さらに、〔生の〕最後において、死滅作用を──ということで、三つの作用を遂行しつつ、〔生起が〕決定している基盤あるものと〔成り〕、〔生起が〕決定していない門と対象と境位と作用あるものと成って、転起する。
§132 五つの形態の行境の〔善なる報いとしての心〕(57・58・59・60・61)が、さらに、四つの形態なき〔行境の善なる報いとしての心〕(62・63・64・65)が、自己みずからの結生が与えられてより以後、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断する心の生起が存在しないときは、生存の〔潜在〕支分作用を──さらに、〔生の〕最後において、死滅作用を──ということで、二つの作用を遂行しつつ、転起する。それらのうち、〔五つの〕形態の行境の〔善なる報いとしての心〕は、〔生起が〕決定している基盤と対象あるものと〔成り〕、〔生起が〕決定していない境位と作用あるものと〔成って、転起し〕、諸他のものは、〔生起が〕決定している基盤なきものと〔成り〕(心臓の基盤なきものとして生起することが決定している)、〔生起が〕決定している対象あるものと〔成り〕、〔生起が〕決定していない境位と作用あるものと成って、転起する。
ということで、まずは、このように、識知〔作用〕が、三十二種類もろともに、〔結生以後の〕転起において、諸々の形成〔作用〕という縁あることから転起する。そこで、それらそれらの諸々の形成〔作用〕は、その〔識知作用〕にとって、そして、行為としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、【548】諸々の縁と成る。
622.
§133 (二)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「残りの十九〔の識知作用〕(41・42・43・44・45・46・47・48・49・56・57・58・59・60・61・62・63・64・65)のうち、何であれ、自己に適切なる結生(再生の瞬間)において、転起しないものはない」(結生における識知作用の転起:§130)とは、その〔解説〕は、極めて簡略なることから、識知し難く、それで、それについての詳細の方法を見示することを義(目的)に、〔あらためて〕説かれる──(1)どれだけの結生があるのか、(2)どれだけの結生の心があるのか、(3)何によって、どこにおいて、結生と成るのか、(4)何が、結生〔作用の心〕の対象であるのか、と。
§134 (1)表象〔作用〕なき〔有情〕の結生を含む、二十の結生がある。(2)まさしく、〔前に〕説かれた流儀の、十九の結生の心がある。(3)そこにおいて、善ならざる報いとしての因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(56)によって、諸々の悪所において、結生と成る。善なる報い〔としての因なきものたる意の識知作用の界域〕(41)によって、人間の世において、生まれながらの盲者や生まれながらの聾者や生まれながらの狂者や生まれながらの蒙者や性不全者等々の〔結生と成る〕。八つの因を有するものにして欲望の行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(42・43・44・45・46・47・48・49)によって、まさしく、そして、天〔の神々〕たちにおいて、さらに、人間たちにおいて、功徳ある者たちの結生と成る。五つの形態の行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(57・58・59・60・61)によって、形態ある梵の世において、〔結生と成る〕。四つの形態なき行境の〔善なる〕報い〔としての心〕(62・63・64・65)によって、形態なき世において、〔結生と成る〕、と〔知られるべきである〕。そして、それによって、そこにおいて、結生と成るなら、まさしく、その〔結生〕は、それにとって、「適切なる(※)結生」ということになる。(4)また、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、結生〔作用の心〕には、三つの対象が有る。過去のもの、現在のもの、さらに、不可説のものである。表象〔作用〕なき〔有情〕の結生は、対象なきものである、と〔知られるべきである〕。
※ テキストには arūpā とあるが、VRI版により anurūpā と読む。
§135 そこにおいて、識知無辺なる〔認識の〕場所〔の結生作用の心〕と表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の結生〔作用の心〕のばあい、過去のものだけが対象となる。十の欲望の行境〔の結生作用の心〕のばあい、あるいは、過去のものが〔対象となり〕、あるいは、現在のものが〔対象となる〕。残りのもののばあい、不可説のものだけが〔対象となる〕。また、このように、結生〔作用の心〕は、三つの対象にたいし転起しつつ、すなわち、あるいは、過去のものを対象とする〔死滅作用の心〕の、あるいは、不可説のものを対象とする死滅〔作用〕の心の、まさしく、直後に転起し、また、現在のものを対象とする死滅〔作用〕の心は、まさに、存在しないことから、それゆえに、〔過去のものと不可説のものの〕二つの対象のうち、どちらか一つを対象とする死滅〔作用の心〕の直後に、〔過去のものと現在のものと不可説のものの〕三つの対象のうち、どれか一つを対象とする結生〔作用の心〕によって、善き境遇(善趣)と悪しき境遇(悪趣)を所以に、転起する行相が知られるべきである。
623.
[善き境遇から悪しき境遇へ]
§136 それは、すなわち、この──まずは、欲望の行境の善き境遇に止住した者で、悪なる行為ある人のばあいは、「[すなわち、彼の、過去において為された諸々の悪なる行為(悪業)が──諸々の身体による悪しき行ないが、諸々の言葉による悪しき行ないが、諸々の意による悪しき行ないが──]それらが、その時点において、彼に、垂れ掛かり、[垂れ下がり、もたれ掛かります]」(マッジマ・ニカーヤ3p.164)という言葉等から、死の床に就いたなら、〔過去に〕蓄積されたとおりの、あるいは、悪なる行為が、あるいは、〔悪なる〕行為の形相が、意の門の視野にやってくる。それを対象として生起した、残象〔作用〕を結末とする〔一連の〕疾走〔作用〕の道程の直後に、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の境域を対象と為して、死滅〔作用〕の心が生起する。それが止滅したとき、まさしく、その、〔意の門の〕視野に至った、あるいは、行為を、あるいは、行為の形相を、対象として、〔いまだ〕断絶されていない〔心の〕汚れの力によって屈曲された、悪しき境遇に属している結生〔作用〕の心が生起する。【549】これが、過去のものを対象とする死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、過去のものを対象とする結生となる。
§137 他の者のばあいは、死の時点において、〔前に〕説かれた流儀の行為を所以に、諸々の奈落(地獄)等々にある火光の色等の悪しき境遇の形相が、意の門の視野にやってくる。それから、二回、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕が生起して止滅したなら、その対象(火光の色等の悪しき境遇の形相)を対象として、一つの傾注する〔作用の心〕、死の近き状態によって勢いが弱く成ったことから五つの疾走〔作用の心〕、二つの残象〔作用の心〕、という、三つの道程の諸心が生起する。そののち、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の境域を対象と為して、一つの死滅〔作用〕の心が〔生起する〕。これだけで、十一の心の瞬間が、過去のものと成る。そこで、彼には、残りの寿命として五つの心の瞬間があるが、まさしく、その対象にたいし、結生〔作用〕の心が生起する。これが、過去のものを対象とする死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、現在のものを対象とする結生となる。
§138 他の者のばあいは、死の時点において、貪欲等の因として有る、下劣なる対象が、五つの門のなかのどれか一つの視野にやってくる。彼には、順々に生起した定置する〔作用〕の最後において、死の近き状態によって勢いが弱く成ったことから五つの疾走〔作用の心〕が〔生起し〕、さらに、二つの残象〔作用の心〕が生起する。そののち、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の境域を対象と為して、一つの死滅〔作用〕の心が〔生起する〕。そして、これだけで、二つの生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕、傾注する〔作用の心〕、見る〔作用の心〕、領受する〔作用の心〕、吟味する〔作用の心〕、定置する〔作用の心〕、五つの疾走〔作用の心〕、二つの残象〔作用の心〕、一つの死滅〔作用〕の心、という、十五の心の瞬間が、過去のものと成る。そこで、残りの寿命として一つの心の瞬間があるが、まさしく、その対象にたいし、結生〔作用〕の心が生起する。これもまた、過去のものを対象とする死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、現在のものを対象とする結生となる。まずは、これが、過去のものを対象とする善き境遇の死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、過去のものか現在のものを対象とする悪しき境遇の結生〔作用の心〕の、転起する行相となる。
624.
[悪しき境遇から善き境遇へ]
§139 また、悪しき境遇に止住した者で、罪過なき行為が蓄積された者のばあいは、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔まさに〕その、あるいは、罪過なき行為が、あるいは、〔罪過なき〕行為の形相が、意の門の視野にやってくる。ということで、黒い側を白い側に据え置いて(悪しきを善きに置き換えて)、一切が、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって、知られるべきである。これが、過去のものを対象とする悪しき境遇の死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、過去のものか現在のものを対象とする善き境遇の結生〔作用の心〕の、転起する行相となる。
625.
[善き境遇から善き境遇へ]
§140 また、善き境遇に止住した者で、罪過なき行為が蓄積された者のばあいは、「[すなわち、彼の、過去において為された諸々の善なる行為(善業)が──諸々の身体による善き行ないが、諸々の言葉による善き行ないが、諸々の意による善き行ないが──]それらが、その時点において、彼に、垂れ掛かり、[垂れ下がり、もたれ掛かります]」(マッジマ・ニカーヤ3p.171)という言葉等から、死の床に就いたなら、〔過去に〕蓄積されたとおりの、あるいは、罪過なき行為が、あるいは、〔罪過なき〕行為の形相が、意の門の視野にやってくる。そして、まさに、それは、【550】まさしく、欲望の行境の罪過なき行為が蓄積された者のばあいであり、いっぽう、莫大なる行為(形態の行境と形態なき行境の瞑想)が蓄積された者のばあいは、行為の形相だけが、視野にやってくる。それを対象として生起した、残象〔作用〕を結末とする〔疾走作用の道程の直後に〕、あるいは、〔残象作用を結末としない〕単なる疾走〔作用〕の道程の直後に、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の境域を対象と為して、死滅〔作用〕の心が生起する。それが止滅したとき、まさしく、その、〔意の門の〕視野に至った、あるいは、行為を、あるいは、行為の形相を、対象として、〔いまだ〕断絶されていない〔心の〕汚れの力によって屈曲された、善き境遇に属している結生〔作用〕の心が生起する。これが、過去のものを対象とする死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、あるいは、過去のものを対象とする、あるいは、不可説のものを対象とする、結生となる。
§141 他の者のばあいは、死の時点において、欲望の行境の罪過なき行為を所以に、あるいは、人間の世において、「母の子宮の色艶あるもの」と名づけられた〔善き境遇の形相〕が、あるいは、天の世において、「庭園や宮殿やカッパ樹等の色艶あるもの」と名づけられた善き境遇の形相が、意の門の視野にやってくる。彼には、まさしく、悪しき境遇の形相において見示された順に、死滅〔作用〕の心の直後に、結生〔作用〕の心が生起する。これが、過去のものを対象とする死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、現在のものを対象とする結生となる。
§142 他の者のばあいは、死の時点において、親族たちが、あるいは、「親愛なる者よ、あなたの義(利益)のために、この覚者への供養が為されます。心を浄信させたまえ」と説いて、花環や旗等〔を見させること〕を所以に形態の対象が、あるいは、法(教え)の聴聞や楽器の供養等〔を聞かせること〕を所以に音声の対象が、あるいは、煙や香りや臭い等〔を嗅がせること〕を所以に臭気の対象が、あるいは、「親愛なる者よ、あなたの義(利益)のために施されることになる、この施しの法(施物)を味わいたまえ」と説いて、蜜や糖等〔を味わわせること〕を所以に味感の対象が、あるいは、「親愛なる者よ、あなたの義(利益)のために施されることになる、この施しの法(施物)に触れたまえ」と説いて、チーナ布やソーマーラ布等〔を触れさせること〕を所以に感触の対象が、五つの門において近しく集中する。彼には、〔まさに〕その、〔意の門の〕視野に至った形態等の対象にたいし、順々に生起した定置する〔作用〕の最後において、死の近き状態によって勢いが弱く成ったことから五つの疾走〔作用の心〕が〔生起し〕、さらに、二つの残象〔作用の心〕が生起する。そののち、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の境域を対象と為して、一つの死滅〔作用〕の心が〔生起する〕。その最後において、一つの心の瞬間の止住ある、まさしく、その対象にたいし、結生〔作用〕の心が生起する。これもまた、過去のものを対象とする死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、現在のものを対象とする結生となる。
626.
§143 また、他の、地の遍満の瞑想等を所以に莫大なるものを獲得した者で、善き境遇に止住した者のばあいは、死の時点において、あるいは、欲望の行境の善なる行為と〔善なる〕行為の形相と〔善き〕境遇の形相のなかのどれか一つが、あるいは、地の遍満等の形相が、あるいは、莫大なる心(形態の行境と形態なき行境の心)が、【551】意の門の視野にやってくる。あるいは、善なる生起(再生)の因として有る精妙なる対象が、眼と耳のなかのどちらか一つ〔の門〕の視野にやってくる。彼には、順々に生起した定置する〔作用〕の最後において、死の近き状態によって勢いが弱く成ったことから五つの疾走〔作用の心〕が生起する。いっぽう、莫大なる境遇の者たちには、残象〔作用〕は存在せず、それゆえに、まさしく、疾走〔作用の心〕の直後に、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の境域を対象と為して、一つの死滅〔作用〕の心が生起する。彼には、〔その〕最後において、欲望の行境〔の善き境遇〕と莫大なる善き境遇のなかのどちらか一つの善き境遇に属している、現起したとおりの諸対象のうち、どれか一つを対象とする、結生〔作用〕の心が生起する。これが、不可説のものを対象とする〔形態の行境の〕善き境遇の死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、過去のものと現在のものと不可説のものの〔三つの〕対象のなかの(※)どれか一つを対象とする結生となる。
※ テキストには atītapaccuppannanavattabbārammaṇāni とあるが、VRI版により atītapaccuppannanavattabbārammaṇānaṃ と読む。
§144 形態なき〔行境の〕死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕結生〔作用の心〕もまた、この〔形態の行境の死滅作用の心〕に従い行くことで、知られるべきである。これが、過去のものか不可説のものを対象とする〔形態なき行境の〕善き境遇の死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、過去のものか不可説のものか現在のものを対象とする結生〔作用の心〕の、転起する行相となる。
627.
[悪しき境遇から悪しき境遇へ]
§145 また、悪しき境遇に止住した者で、悪なる行為ある者のばあいは、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔まさに〕その、〔悪なる〕行為が、〔悪なる〕行為の形相が、あるいは、〔悪しき〕境遇の形相が、意の門の〔視野にやってくる〕。また、あるいは、善ならざる生起(再生)の因として有る対象が、五つの門の視野にやってくる。そこで、彼には、順々に、死滅〔作用〕の心の最後において、悪しき境遇に属している、それらの対象のうち、どれか一つを対象とする、結生〔作用〕の心が生起する。これが、過去のものを対象とする悪しき境遇の死滅〔作用の心〕の直後に〔転起する〕、過去のものか現在のものを対象とする結生〔作用の心〕の、転起する行相となる。
かくのごとく、これだけで、十九種類もろともに、識知〔作用〕の転起が、結生を所以に、明らかにされたものと成る。
628.
§146 〔まさに〕その、この〔十九種類の識知作用〕は、全てもろともに、このように──
〔そこで、詩偈に言う〕「〔生の〕連鎖(結生)において転起しつつ、行為によって、二種に転起する。そして、混合あるもの等々の細別によって、〔その〕細別には、二種類等のものがある」〔と〕。
§147 まさに、この、報いとしての識知〔作用〕は、十九種類もろともに、結生において(※)転起しつつ、行為によって、二種に転起する。なぜなら、自らのものなるままに、この〔結生〕を生じさせる行為は、まさしく、そして、種々なる瞬間の行為としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、縁と成るからである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「善なる[行為は、報いにとって、近しき依所たる縁によって、縁となる]」「善ならざる行為は、報いにとって、近しき依所たる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.167, p.169)と。
※ テキストには paṭisandhimpi とあるが、VRI版により paṭisandhimhi と読む。
§148 また、このように転起している、その〔十九種類の識知作用〕には、混合あるもの等々の細別によって、二種類等の細別もまた、知られるべきである。それは、すなわち、この──まさに、この〔十九種類の識知作用〕は、結生を所以に、一種に転起しつつもまた、形態と共に【552】混合あるものと混合なきものの細別〔の観点〕から、二種類のものと〔成り〕、欲望〔の生存〕と形態ある〔生存〕と形態なき生存(三界)の細別〔の観点〕から、三種類のものと〔成り〕、卵生と胎生と湿生と化生の胎を所以に、四種類のものと〔成り〕、境遇を所以に、五種類のものと〔成り〕、識知〔作用〕の止住を所以に、七種類のものと〔成り〕、有情の居住所を所以に、八種類のものと成る(九つの有情の居住所から表象なき有情の居住所を除く八種類)。
629.
§149 そこにおいて──
〔そこで、詩偈に言う〕「混合あるものは、〔性差の〕状態の細別〔の観点〕から、〔性差の状態を有するものと性差の状態なきものの〕二種(有性と無性)になり、そして、そこにおいて、〔性差の〕状態を有するもの(有性のもの)は、〔女の機能あるものと男の機能あるものの〕二種(女と男)になる。最初のもの(形態と混合あるもの)と共に、少なくとも、あるいは、二つの〔十なるものが生起し〕、あるいは、三つの十なるものが〔生起する〕」〔と〕。
§150 「混合あるものは、〔性差の〕状態の細別〔の観点〕から、〔性差の状態を有するものと性差の状態なきものの〕二種になり」とは、まさに、ここにおいて、すなわち、この、形態なき生存(無色有)より他の、形態と混合あるものが、結生の識知〔作用〕として生起するなら、それは、形態の生存(色有)においては、「女の機能」と「男の機能」と名づけられた〔性差の〕状態なくして生起あることから──欲望の生存(欲有)においては、生まれながらの性機能不全者の結生より他は、〔「女の機能」と「男の機能」と名づけられた性差の〕状態と共に生起あることから──〔性差の〕状態を有するもの(有性)、〔性差の〕状態なきもの(無性)、という、二種類のものと成る。
§151 「そして、そこにおいて、〔性差の〕状態を有するものは、〔女の機能あるものと男の機能あるものの〕二種になる」とは、そして、そこにおいてもまた、すなわち、〔性差の〕状態を有するものは、それは、女〔の状態〕と男の状態のなかのどちらか一つと共に生起あることから、まさしく、二種類のものと成る。
§152 「最初のもの(形態と混合あるもの)と共に、少なくとも、あるいは、二つの〔十なるものが生起し〕、あるいは、三つの十なるものが〔生起する〕」とは、まさに、ここにおいて、すなわち、この、混合あるもの、混合なきもの、という、二つのもののうちの最初のものとして有る、形態と混合あるものが、結生の識知〔作用〕としてあるなら、それと共に、少なくとも、あるいは、〔心臓の〕基盤〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・心臓の基盤)と身の十なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・身の機能)を所以に、二つの〔十なるものが生起し〕、あるいは、〔心臓の〕基盤〔の十なるもの〕と身〔の十なるもの〕と〔性差の〕状態の十なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・女もしくは男の機能)を所以に、三つの十なるものが生起する。これより他に、形態の遍き衰退は存在しない(これが最小限のものとなる)、と〔知られるべきである〕。また、〔まさに〕その、この〔形態〕は、このように、最小限の量のものとして生起しつつ、「卵生」と「胎生」という名のある二つの胎において、天然の羊毛の一糸によって引き上げられた酥の精髄(醍醐)の量ある「カララ(入胎後一週間)」という名称を得たものと成って生起する。
§153 そこにおいて、諸々の胎についての発生の細別が、境遇(趣)を所以に知られるべきである。
630.
まさに、これらにおいて──
〔そこで、詩偈に言う〕「地獄においては、さらに、地居〔天〕を除く諸天においては、前の三つの胎(卵生・胎生・湿生)は有ることなくあり、〔畜生と餓鬼と人間の〕三つの境遇においては、四つ〔の胎〕もろともに〔有る〕」〔と〕。
§154 そこにおいて、「さらに、地居〔天〕を除く諸天においては」とは、「さらに」という語によって、すなわち、そして、地獄におけるように、さらに、地居〔天〕を除く諸天におけるように、このように、かつまた、焼渇の餓鬼たちにおいても、前の三つの胎(卵生・胎生・湿生)は存在しない、と知られるべきである。なぜなら、彼らは、まさしく、化生の者たちとして有るからである。いっぽう、残りの、「畜生」と「餓鬼の境域」と「人間」と名づけられた三つの境遇においては、さらに、前に除かれた地居天〔の神々〕たちにおいては、四つ〔の胎〕もろともに有る。
§155 そこにおいて──
〔そこで、詩偈に言う〕「〔化生の胎ある〕形態ある〔梵天〕たち(色界天の神々)においては、三十〔の形態〕と、まさしく、そして、九つ〔の形態〕がある。湿〔生〕と化生の胎ある者たちにおいては、そこで、〔形態ある梵天たちを除く〕高尚なる者には、〔最多で〕七十の形態があり(※)、そこで、あるいは、低劣なる者には、〔最少で〕三十の形態がある」〔と〕。
※ テキストには satta ti ukkaṃ satotha とあるが、VRI版により sattati ukkaṃsatotha と読む。
§156 まずは、化生の胎ある形態ある梵〔天〕たちにおいて、眼〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・眼の機能)と耳〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・耳の機能)と〔心臓の〕基盤の十なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・心臓の基盤)、【553】さらに、生命〔の機能〕の九なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能)、という、四つの集合を所以に、そして、三十〔の形態〕が、さらに、九つの形態が、結生の識知〔作用〕と共に生起する。また、形態ある梵〔天〕たちを除いて、諸他の湿生と化生の胎ある者たちにおいて、高尚なる者には、眼〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・眼の機能)と耳〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・耳の機能)と鼻〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・鼻の機能)と舌〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・舌の機能)と身〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・身の機能)と〔心臓の〕基盤〔の十なるもの〕(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・心臓の基盤)と〔性差の〕状態の十なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養・生命の機能・女もしくは男の機能)を所以に、〔最多で〕七十〔の形態〕がある。そして、それら〔の形態〕は、常に、〔欲望の行境の〕天〔の神々〕たちにおいてある。そこにおいて、色艶、臭気、味感、滋養、さらに、また、四つの界域(地・水・火・風)、眼の〔機能の〕澄浄(眼浄:視覚機能)、生命〔の機能〕、という、この十の形態の量と形態の塊が、「眼の十なるもの」ということになる。このように、残り〔の耳の十なるもの等々〕が知られるべきである。
§157 いっぽう、低劣なる者である、生まれながらの盲者にして聾者にして無鼻者にして無性者には、舌〔の十なるもの〕と身〔の十なるもの〕と〔心臓の〕基盤〔の十なるもの〕を所以に、〔最少のものとして〕三十の形態が生起する(眼の十なるものと耳の十なるものと鼻の十なるものと女もしくは男の機能の十なるものの、四十の形態は生起しない)。また、高尚なる者と低劣なる者の間については、適切に〔その〕分別が知られるべきである。
631.
§158 このように説いて、ふたたび──
〔そこで、詩偈に言う〕「範疇と対象と境遇と因と感受と喜悦と思考と想念によって、死滅と〔生の〕連鎖(結生)の、細別あるものと細別なきものの差異が遍知されるべきである」〔と〕。
§159 まさに、すなわち、この、〔形態と〕混合あるものと混合なきもの〔の観点〕から、二種類のものとなる結生──さらに、すなわち、その〔結生〕の直前のものとなる死滅──それらの、細別あるものと細別なきものの差異が、これらの範疇等々によって知られるべきである、という義(意味)である。どのようにか。
§160 まさに、或る時には、四つの範疇あるものたる、形態なき〔行境〕の死滅の直後に、まさしく、四つの範疇あるものにして、対象〔の観点〕からもまた細別されざる(対象を同じくする)結生が有る。或る時には、莫大ならざるもの(欲望の行境)たる、外なる〔範疇〕を対象とする〔死滅〕の〔直後に〕、莫大なるもの(形態なき行境)にして、内なる〔範疇〕を対象とする〔結生〕が〔有る〕。まずは、これが、まさしく、諸々の形態なき境地について、〔その〕方法となる。また、或る時には、四つの範疇あるものたる、形態なき〔行境〕の死滅の直後に、五つの範疇あるものたる、欲望の行境の結生が有る。或る時には、五つの範疇あるものたる、欲望の行境の死滅の〔直後に〕、あるいは、形態の行境の死滅の直後に、四つの範疇あるものたる、形態なき〔行境〕の結生が〔有る〕。このように、過去のものを対象とする死滅の〔直後に〕、現在のものを対象とする結生が〔有る〕。一部の善き境遇の死滅の〔直後に〕、一部の悪しき境遇の結生が〔有る〕。因なきものの死滅の〔直後に〕、因を有するものの結生が〔有る〕。二つの因あるものの死滅の〔直後に〕、三つの因あるものの結生が〔有る〕。放捨を共具したものの死滅の〔直後に〕、悦意を共具したものの結生が〔有る〕。喜悦なきものの死滅の〔直後に〕、喜悦を有するものの結生が〔有る〕。思考なきものの死滅の〔直後に〕、思考を有するものの結生が〔有る〕。想念なきものの死滅の〔直後に〕、想念を有するものの結生が〔有る〕。思考なく想念なきものの死滅の〔直後に〕、思考を有し想念を有するものの結生が〔有る〕、と〔知られるべきである〕。さらに、それぞれの反対からも、道理のままに結び付けられるべきである。
632.
§161 〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、縁を得た、この法(性質)のみが、別の生存に近しく至る。彼には、その〔過去の生存〕から〔ここへの〕転移はなく、因なくして、その〔過去の生存〕から〔ここに〕有ることはない」〔と〕。
§162 まさに、かくのごとく、縁を得た、この、形態と形態なき法(性質)のみが生起しつつ、別の生存に近しく至る、と説かれる──有情ではなく──生命ではなく。【554】そして、彼には、過去の生存からここ(現世)への転移もまた存在せず、因なくして、その〔過去の生存〕からここへの出現もまた〔存在し〕ない。
§163 〔まさに〕その、このことを、明白に、人間の死滅と結生の順に、〔わたしたちは〕明示するであろう。まさに、過去の生存において、自ずからの効用(機能・性行)によって、あるいは、〔不慮の〕行動によって、死に近づいたなら(自然死もしくは事故死によって死につつあるとき)──耐えることができず、全ての手足と肢体の連鎖と連結を断ち切る、死を末路とする諸々の〔苦痛の〕感受たる刃の(※)集団に、〔彼が〕耐えられずにいるなら──熱所に置かれた緑のターラ〔樹〕の葉のように、順に、肉体が干上がりつつ、眼等々の機能が止滅し、心臓の基盤のみにおいて、身の機能と意の機能と生命の機能が止住しているとき、その残りの瞬間の心臓の基盤に依拠した識知〔作用〕が、〔彼にとっての〕重き〔行為〕と〔日頃〕慣れ親んだ〔行為〕と〔死の〕近くの〔行為〕と過去に為した〔行為〕のなかのどれか一つの〔行為〕を〔対象として〕──「〔無明等の〕残余の縁を得た形成〔作用〕」と名づけられた行為を〔対象として〕、あるいは、それによって現起させられた「行為の形相」や「境遇の形相」と名づけられた境域を対象として──転起する。〔まさに〕その、このように転起している〔識知作用〕を、〔いまだ〕渇愛と無明が捨棄されていないことから、無明によって危険が隠蔽された、その境域のうちへと、渇愛が誘導し、諸々の共に生じた形成〔作用〕が投げ放つ。その〔識知作用〕は、相続を所以に、渇愛によって誘導されつつ、諸々の形成〔作用〕によって投げ放たれつつ、此岸の木と連結する縄に頼って水路を超え行く者のように、そして、前の依所を捨棄し、さらに、行為によって現起させられた後の依所を、あるいは、味わいつつ、あるいは、味わうことなく、まさしく、対象としての〔縁〕等々の諸縁によって転起する、と〔知られるべきである〕。
※ テキストには māraṇantikavedanā sattānaṃ とあるが、VRI版により māraṇantikavedanāsatthānaṃ と読む。
§164 そして、ここにおいて、前の〔識知作用〕は、死滅することから、「死滅」〔と説かれ〕、後の〔識知作用〕は、別の生存等に結生することから、「結生」と説かれる。〔まさに〕その、この〔識知作用〕は、前の生存からここ(現世)へと到来したこともまたなく、行為や形成〔作用〕や誘導や境域等の(※)因なくして、その〔過去の生存〕から〔ここへの〕出現もまた〔存在し〕ない、と知られるべきである。
※ テキストには kammasaṅkhāran ativisayādi とあるが、VRI版により kammasaṅkhāranativisayādi と読む。
633.
§165 〔そこで、詩偈に言う〕「そこで、ここにおいて、残響等々のものが、諸々の実例として存在するであろう。相続の連結あることから、一なることは存在せず、種々なることもまた〔存在し〕ない」〔と〕。
§166 そして、ここにおいて、この識知〔作用〕の、前の生存からここ(現世)への到来なきことについて、さらに、過去の生存に属している諸因による生起について、残響や灯明や印章や反影の流儀ある諸々の法(性質)が、諸々の実例として存在するであろう。まさに、すなわち、残響や灯明や印章や日影が、音声等を因とするものとして有り、まさしく、他に赴かずして有るように、まさしく、このように、この心はある。
§167 そして、ここにおいて、相続の連結あることから、一なることは存在せず、種々なることもまた〔存在し〕ない。なぜなら、もしくは、相続の連結が存在しているとき、一方的に一なることが有るなら、乳から発生したものとして、乳酪が存在することはないであろうし、そこで、また、一方的に種々なることが有るなら、乳に依るものとして、乳酪が存在することもないであろうからである。これが、一切の因と生起したものについて、〔共通する説示の〕方法となる。さらに、このように、〔一方的に一なることと種々なることが〕存在するなら、一切の世における語用の喪失が存在するであろう。しかしながら、それは、求められざることである(承認できない)。それゆえに、ここにおいて、あるいは、一方的に一なることも、あるいは、〔一方的に〕種々なることも、〔両者ともに〕近しく赴くべきではない、と〔知られるべきである〕。
634.
§168 【555】ここにおいて、〔或る者は〕言う。「まさに、このように、転移なき出現が存在しているとして、すなわち、この人間としての自己状態(個我的あり方)における諸々の範疇は、それらのばあいは、〔すでに〕止滅したことから、さらに、果にとっての縁である行為がそこに赴かないことから、その果は、他〔の因〕のものとして、かつまた、他〔の因〕からのものとして、存在しているのではないか。さらに、〔果を〕近しく受益する者が存在していないとき、その果は、誰のものとして存在するというのだろう。それゆえに、この規定は、美妙なることなし」と。
§169 そこで、このことが説かれる。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、相続における果は、これは、他〔の因〕のものにあらず、かつまた、他〔の因〕からのものにあらず。諸々の種のための行作が、この〔果〕のために、義(目的)を(※)遂行するものとなる」〔と〕。
※ テキストには etass’ atth’ assa とあるが、VRI版により etassatthassa と読む。
§170 まさに、一つの相続における果は、生起しつつあるとして、そこにおいて、一方的に一なることと種々なることの実現なきことから、あるいは、「他〔の因〕のもの」ということも、あるいは、「他〔の因〕からのもの」ということも、有ることなくある。また、そして、諸々の種のための行作が、この〔果〕のために、義(目的)を遂行するものとなる。まさに、アンバ〔樹〕の種等々のために、諸々の行作が為されたとき、その種の相続(発芽から成長までの間)において、縁を得たことから、別の時において、特定の果が生起しつつあるのであり、諸々の他の種のものとして〔果が生起することは〕なく、諸々の他の行作を縁として生起することもまたなく、さらに、それらの種や諸々の行作が果の境位に至り得ることも(※)ない。このように、同様に、このことが知られるべきである。そして、また、幼童の肉体において、学術や技能や薬事等々に専念したことから、別の時において、年長の肉体等々において、果を与える、という、この義(意味)が知られるべきである。
※ テキストには pāpuṇāti とあるが、VRI版により pāpuṇanti と読む。
§171 すなわち、また、〔さらなる反問として〕説かれた、「さらに、〔果を〕近しく受益する者が存在していないとき、その果は、誰のものとして存在するというのだろう」とは、そこにおいて──
〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、果に生起(再生)あることで実現したのが、〔果を〕受益する者という〔言葉の〕慣習(世俗・仮名:社会通念)である。すなわち、果の生起によって、木に、結果する(実を結ぶ)という〔言葉の〕慣習があるように」〔と〕。
§172 まさに、すなわち、「木」と名づけられた諸々の法(性質)の一部位として有る、木の果に、まさしく、生起あることから、あるいは、「木が結果する(実を結ぶ)」と〔説かれ〕、あるいは、「結果した〔木〕である」と説かれるように、そのように、「天〔の神〕」や「人間」と名づけられた諸々の範疇の一部位として有る、「近しき受益」と名づけられた楽と苦の果の、まさしく、生起によって、あるいは、「天〔の神〕が、あるいは、人間が、近しく受益する」と、〔説かれ〕、あるいは、「安楽の者である」「苦痛の者である」と説かれる。それゆえに、ここにおいて、他の近しく受益する者に、まさに、何の義(意味)が存するというのだろう(別個に受益者なるものを想定する必要はない)、と〔知られるべきである〕。
635.
§173 その〔反問者〕は、また、〔このように〕説くかもしれない。「たとえ、このように存しているとして(上述のとおりであるとして)、これらの形成〔作用〕は、あるいは、見出されつつ(現前のものとして)果にとっての縁として存在することになるか、あるいは、見出されることなく〔果にとっての縁として存在することになるか、どちらかであり〕、さらに、すなわち、〔これらの形成作用が〕見出されつつ〔縁として存在するなら〕、まさしく、転起の瞬間において、それら〔の形成作用〕の報いとして〔果が〕有るべきであり、そこで、〔これらの形成作用が〕見出されることなく〔縁として存在するなら〕、転起から前において、さらに、後においても、常に、諸々の果をもたらすものが存在することになる」と。彼は、このように説かれるべきである。
〔そこで、詩偈に言う〕「作り為されたことから、これらの縁はあるのであり、そして、常に、果をもたらすものとしてあるのではない。そこにおいて、代理人等の実例が知られるべきである」〔と〕。
§174 まさに、諸々の形成〔作用〕は、まさしく、作り為されたことから、自己の果にとっての縁として有るのであり、見出されていることから、あるいは、見出されていないことから、〔縁として有るのでは〕ない。すなわち、〔聖典に〕言うように、「欲望の行境の【556】善なる行為(善業)が作り為され蓄積されたことから、報いとしての眼の識知〔作用〕が、生起したものと成る」(ダンマ・サンガニp.87,ヴィバンガp.187)等と。そして、〔諸々の形成作用は〕分のままの自己の果にとっての縁として有って〔そののち〕、ふたたび、果をもたらすものとして有ることはない──〔すでに〕熟した報いたることから。そして、この義(意味)を分明することについては、この、代理人等の実例が知られるべきである。まさに、すなわち、世において、彼が、何らかの義(目的)のための〔用件を〕実施することを義(目的)に、代理人として有り、あるいは、物品を買うなら、あるいは、借金を収め取るなら、彼の、まさしく、その所作を為すことのみが、その義(目的)を実施すること等における縁として有り、所作の、見出されていることは、あるいは、見出されていないことは、〔縁として有ることは〕なく、かつまた、その義(目的)を実施すること等〔の用件を果たして〕から後はもう、まさしく、〔物品等の〕保持者として有ることがないように──「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「〔代理人として用件を〕実施すること等々が〔すでに〕為されたことから」〔と答える〕──このように、諸々の形成〔作用〕もまた、まさしく、作り為されたことから、自己の果にとっての縁と成り、そして、分のままに果を与えてから後はもう、果をもたらすものとして有ることはない。
かくのごとく、これだけで、〔形態と〕混合あるものと混合なきものを所以に、二種にもまた転起している結生の識知〔作用〕にとっての、諸々の形成〔作用〕を縁とする転起が、明らかにされたものと成る。
636.
§175 今や、それらの三十二の報いとしての識知〔作用〕について、まさしく、〔それらの〕全てについて、迷妄の打破を義(目的)に──
〔そこで、詩偈に言う〕「〔三つの〕生存等々における、結生と転起を所以に、これらの形成〔作用〕が、そして、それら〔の報いとしての識知作用〕にとって縁と〔成る〕、そのとおりに、識知されるべきである」〔と〕。
§176 そこにおいて、(1)三つの生存(三有:三界)、(2)四つの胎(四胎:卵生・胎生・湿生・化生)、(3)五つの境遇(五趣:地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)、(4)七つの識知〔作用〕の止住(七識住:ディーガ・ニカーヤ3p.253)、(5)九つの有情の居住所(九有情居:ディーガ・ニカーヤ3p.263)、という、これらのものが、「〔三つの〕生存等々」ということになる。これらの〔三つの〕生存等々における、結生(再生の瞬間)において、さらに、転起されたもの(結生以後の転起)において、これら〔の形成作用〕が、それらの報いとしての識知〔作用〕にとって、縁と〔成り〕、さらに、すなわち、縁と成るとおりに、そのように、識知されるべきである、という義(意味)である。
§177 (一)そこにおいて、まずは、功徳ある行作について。欲望の行境の八つの思欲の細別(1・2・3・4・5・6・7・8)ある功徳ある行作は、差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕、欲望の生存の善き境遇における結生において、九つの報いとしての識知〔作用〕(41・42・43・44・45・46・47・48・49)にとって、まさしく、そして、種々なる瞬間の行為としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、ということで、二種に縁と〔成る〕。形態の行境の五つの善なる思欲の細別(9・10・11・12・13)ある功徳ある行作は、形態の生存における結生においてだけ、五つ〔の形態の行境の善なる報いとしての識知作用〕(57・58・59・60・61)にとって、〔種々なる瞬間の行為としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、ということで、二種に縁と成る〕。
§178 また、〔前に〕説かれた細別ある欲望の行境〔の功徳ある行作〕は、欲望の生存の善き境遇における転起されたものにおいて、放捨を共具した〔善なる報いとしての〕因なきものたる意の識知〔作用〕の界域(41)を除く、七つの微小なる報いとしての識知〔作用〕(34・35・36・37・38・39・40)にとって、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、二種に縁と〔成るが〕、結生において、〔縁と成ることは〕ない。まさしく、その〔功徳ある行作〕は、形態の生存における転起されたものにおいて、五つの〔善なる〕報いとしての識知〔作用〕(34・35・39・40・41)にとって、まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成るが〕、結生において、〔縁と成ることは〕ない。また、欲望の生存の悪しき境遇における転起されたものにおいて、八つもろともの微小なる報いとしての識知〔作用〕(34・35・36・37・38・39・40・41)にとって、【557】まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成るが〕、結生において、〔縁と成ることは〕ない。そこにおいて、地獄におけるマハー・モッガッラーナ長老の地獄巡行等々については、好ましい対象との結合において、その〔功徳ある行作〕は、〔善なる報いとしての識知作用にとっての〕縁と成る。いっぽう、畜生たちについては、さらに、大いなる神通ある餓鬼たちについては、好ましい対象が得られるだけとなる。
§179 まさしく、その〔功徳ある行作〕は、欲望の生存の善き境遇における、そして、転起されたものにおいて、さらに、結生において、十六もろともの〔善なる〕報いとしての識知〔作用〕(34・35・36・37・38・39・40・41・42・43・44・45・46・47・48・49)にとって、まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成る〕(転起されたものにおいて、34から41にとって、結生において、42から49にとって、縁と成る)。また、差異なき〔の観点〕によって〔説くなら〕、功徳ある行作は、形態の生存における、そして、転起されたものにおいて、さらに、結生において、十の報いとしての識知〔作用〕(34・35・39・40・41・57・58・59・60・61)にとって、まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成る〕(転起されたものにおいて、34・35・39・40・41にとって、結生において、57から61にとって、縁と成る)。
§180 (二)十二の善ならざる思欲の細別ある功徳なき行作(22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33)は(※)、欲望の生存の悪しき境遇における結生において、一つの識知〔作用〕(56)にとって、まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成るが〕、転起されたものにおいて、〔縁と成ることは〕ない。〔欲望の生存の悪しき境遇における〕転起されたものにおいて、六つ〔の識知作用〕(50・51・52・53・54・55)にとって、〔まさしく、そのように、二種に縁と成るが〕、結生において、〔縁と成ることは〕ない。そして、転起されたものにおいて、さらに、結生において、七つもろともの善ならざる報いとしての識知〔作用〕(50・51・52・53・54・55・56)にとって、〔まさしく、そのように、二種に縁と成る〕。また、欲望の生存の善き境遇における転起されたものにおいて、まさしく、それらの七つ〔の識知作用〕にとって、まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成るが〕、結生において、〔縁と成ることは〕ない。形態の生存における転起されたものにおいて、四つの報いとしての識知〔作用〕(50・51・55・56)にとって、まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成るが〕、結生において、〔縁と成ることは〕ない。そして、その〔功徳なき行作〕は、まさに、欲望の行境において、好ましくない形態を見ることと〔好ましくない〕音声を聞くことを所以に〔転起するが〕、いっぽう、梵の世においては、好ましくない形態等々は、まさに、存在しない。そのように、欲望の行境の天の世もまたある(同様である)。
※ テキストには puññābhisaṅkhāro とあるが、VRI版により apuññābhisaṅkhāro と読む。
§181 (三)不動の行作は、形態なき生存における、そして、転起されたものにおいて、さらに、結生において、四つの報いとしての識知〔作用〕(62・63・64・65)にとって、まさしく、そのように、〔二種に〕縁と〔成る〕。
まずは、このように、(1)〔三つの〕生存における、結生と転起を所以に、これらの形成〔作用〕が、それら〔の報いとしての識知作用〕にとって、縁と〔成り〕、そして、縁と成るとおりに、そのように、知られるべきである。まさしく、この方法によって、〔四つの〕胎等々についてもまた、知られるべきである。
637.
§182 そこで、これが、最初から以降の、門のみの明示となる。まさに、これらの形成〔作用〕のうち、(一)まずは、功徳ある行作は、すなわち、(1)〔欲望と形態の〕二つの生存において、結生を与えて、一切の自己の報いを生じさせ、そのように、(2)卵生等々の四つの胎において、(3)「天〔の神〕」や「人間」と名づけられた二つの境遇において、(4)「種々なる身体と種々なる表象あるもの」と「種々なる身体と一なる表象あるもの」と「一なる身体と種々なる表象あるもの」と「一なる身体と一なる表象あるもの」と名づけられた四つの識知〔作用〕の止住において、(5)また、表象なき有情の居住所において、この〔功徳ある行作〕は、まさしく、形態のみを行作する、ということで〔それを除いて〕、そして、まさしく、四つの有情の居住所(種々なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・種々なる身体と一なる表象ある有情の居住所・一なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・一なる身体と一なる表象ある有情の居住所)において、結生を与えて、一切の自己の報いを生じさせることから、それゆえに、この〔功徳ある行作〕は、これらの、二つの生存において、四つの胎において、二つの境遇において、四つの識知〔作用〕の止住において、さらに、四つの有情の居住所において、二十一の〔善なる〕報いとしての識知〔作用〕(34・35・36・37・38・39・40・41・42・43・44・45・46・47・48・49・57・58・59・60・61)にとって、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔種々なる瞬間の行為としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、ということで、二種に〕縁と成る──発生のとおりに、【558】結生において(41・42・43・44・45・46・47・48・49・57・58・59・60・61)、さらに、転起されたものにおいて(34・35・36・37・38・39・40・41)。
§183 (二)また、功徳なき行作は、すなわち、(1)欲望の生存の一つだけにおいて、(2)四つの胎において、(3)残りの〔地獄と餓鬼と畜生の〕三つの境遇において、(4)「種々なる身体と一なる表象あるもの」と名づけられた一つの識知〔作用〕の止住において、(5)さらに、まさしく、そのような一つの有情の居住所(種々なる身体と一なる表象ある有情の居住所)において、結生を所以に熟する(報いを生む)ことから、それゆえに、この〔功徳なき行作〕は、一つの生存において、四つの胎において、三つの境遇において、一つの識知〔作用〕の止住において、さらに、一つの有情の居住所において、七つの〔悪しき〕報いとしての識知〔作用〕(50・51・52・53・54・55・56)にとって、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔種々なる瞬間の行為としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、ということで、二種に〕縁と〔成る〕──結生において(56)、さらに、転起されたものにおいて(50・51・52・53・54・55・56)。
§184 (三)また、不動の行作は、すなわち、(1)形態なき生存の一つだけにおいて、(2)化生の胎の一つにおいて、(3)天の境遇の一つにおいて、(4)虚空無辺なる〔認識の〕場所等々の三つの識知〔作用〕の止住において、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所等々の四つの有情の居住所において、結生を所以に熟する(報いを生む)ことから、それゆえに、この〔不動の行作〕は、一つの生存において、一つの胎において、一つの境遇において、三つの識知〔作用〕の止住において、四つの有情の居住所において、四つの〔善なる報いとしての〕識知〔作用〕(62・63・64・65)にとって、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔種々なる瞬間の行為としての縁によって、さらに、近しき依所たる縁によって、ということで、二種に〕縁と成る──結生において、さらに、転起されたものにおいて。
§185 ということで、このように──
〔そこで、詩偈に言う〕「〔三つの〕生存等々における、結生と転起を所以に、これらの形成〔作用〕が、そして、それら〔の報いとしての識知作用〕にとって縁と〔成る〕、そのとおりに、識知されるべきである」(§175)と。
これが、「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります」という句についての詳細の言説となる。
638.
[3 「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります」]
§186 「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色)があります」という句について──
〔そこで、詩偈に言う〕「(1)名前と形態の区分〔の観点〕から、(2)〔三つの〕生存等々における転起〔の観点〕から、(3)包摂〔の観点〕から、(4)縁の方法〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである」〔と〕。
§187 (1)「名前と形態の区分〔の観点〕から」とは、まさに、ここにおいて、「名前(名:精神的事象)」とは、対象に向かい傾くことから、感受〔作用〕等々の三つの範疇である。「形態(色:物質的事象)」とは、四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態である。それらの区分は、まさしく、〔五つの心身を構成する〕範疇についての釈示(Ch.14)において説かれた。ということで、まずは、ここにおいて、このように、名前と形態の区分〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
§188 (2)「〔三つの〕生存等々における転起〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、名前は、一つの有情の居住所(表象なき有情の居住所)を除いて、一切の生存と胎と境遇と識知〔作用〕の止住と残り〔の八つ〕の有情の居住所において、転起する。形態は、二つの生存(欲界と色界)において、四つの胎において、五つの境遇において、前の四つの識知〔作用〕の止住(種々なる身体と種々なる表象ある識知〔作用〕の止住・種々なる身体と一なる表象ある識知〔作用〕の止住・一なる身体と種々なる表象ある識知〔作用〕の止住・一なる身体と一なる表象ある識知〔作用〕の止住)において、〔前の〕五つの有情の居住所(種々なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・種々なる身体と一なる表象ある有情の居住所・一なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・一なる身体と一なる表象ある有情の居住所・表象なき有情の居住所)において、転起する。
§189 そして、この名前と形態が、このように転起しているとき、すなわち、【559】(2―1)〔性差の〕状態なきものとして〔母の〕胎に臥す者(無性の胎生者)たちのばあいは、さらに、卵生の者たちのばあいは、結生の瞬間において、〔心臓の〕基盤〔の十なるもの〕と身の十なるものを所以に、形態からなるものとして二つの相続の頭目(相続における有機的構成単位)が〔出現し〕、かつまた、三つの形態なき範疇が出現することから、それゆえに、彼らのばあい、詳細〔の観点〕によって〔説くなら〕、形態(壊れ崩れるもの)としての形態(Ch.14§77)からなるものとして〔心臓の基盤の十なるものと身の十なるものの〕二十の法(性質)、さらに、三つの形態なき範疇、という、これらの二十三の法(性質)が、識知〔作用〕という縁あることからある名前と形態である、と知られるべきである。また、〔すでに〕収め取ったものを〔重ねて〕収め取る〔無駄〕なき〔観点〕によって〔略説するなら〕(重複を省いて再説すると)、一つの相続の頭目から九つの形態の法(性質)を取り去って(心臓の基盤の十なるものと身の十なるものの二十の法のうち、重複する九つの法を取り去って)、十四〔の法〕となる。(2―2)〔性差の〕状態を有する者たちのばあいは、〔性差の〕状態の十なるものを加えて、三十三〔の法〕が、〔識知作用という縁あることからある名前と形態である、と知られるべきである〕。彼らのばあいもまた、〔すでに〕収め取ったものを〔重ねて〕収め取る〔無駄〕なき〔観点〕によって〔略説するなら〕、二つの相続の頭目から十八の形態の法(性質)を取り去って、十五〔の法〕となる。
§190 (2―3)さらに、すなわち、化生の有情たちのうちで梵衆〔天〕等々のばあいは、結生の瞬間において、眼〔の十なるもの〕と耳〔の十なるもの〕と〔心臓の〕基盤の十なるものを〔所以に〕、さらに、生命の機能の九なるものを所以に、形態からなるものとして四つの相続の頭目(相続における有機的構成単位)が〔出現し〕、かつまた、三つの形態なき範疇が出現することから、それゆえに、彼らのばあい、詳細〔の観点〕によって〔説くなら〕、形態(壊れ崩れるもの)としての形態からなるものとして〔眼の十なるものと耳の十なるものと心臓の基盤の十なるものと生命の機能の九なるものの〕三十九の法(性質)、さらに、三つの形態なき範疇、という、これらの四十二の法(性質)が、識知〔作用〕という縁あることからある名前と形態である、と知られるべきである。また、〔すでに〕収め取ったものを〔重ねて〕収め取る〔無駄〕なき〔観点〕によって〔略説するなら〕、三つの相続の頭目から二十七の法(性質)を取り去って、十五〔の法〕となる。
§191 (2―4)また、すなわち、欲望の生存において、残りの化生の者たちのばあいは、あるいは、湿生の者たちで〔性差の〕状態を有し〔認識の〕場所が円満成就した者たちのばあいは(※)、結生の瞬間において、〔眼の十なるものと耳の十なるものと鼻の十なるものと舌の十なるものと身の十なるものと心臓の基盤の十なるものと性差の状態の十なるものを所以に〕、形態からなるものとして七つの相続の頭目(相続における有機的構成単位)が〔出現し〕、かつまた、三つの形態なき範疇が出現することから、それゆえに、彼らのばあい、詳細〔の観点〕によって〔説くなら〕、形態(壊れ崩れるもの)としての形態からなるものとして〔眼の十なるものと耳の十なるものと鼻の十なるものと舌の十なるものと身の十なるものと心臓の基盤の十なるものと性差の状態の十なるものの〕七十の法(性質)、さらに、三つの形態なき範疇、という、これらの七十三の法(性質)が、識知〔作用〕という縁あることからある名前と形態である、と知られるべきである。また、〔すでに〕収め取ったものを〔重ねて〕収め取る〔無駄〕なき〔観点〕によって〔略説するなら〕、形態の六つの相続の頭目から(※※)五十四の法(性質)を取り去って、十九〔の法〕となり、これが、高尚なる者のばあいとなる。(2―5)また、低劣なる者であるなら、それぞれの形態の相続の頭目の欠損ある者たちのばあいは、それぞれ〔の欠損〕を所以に減らしては減らして、簡略〔の観点〕から、さらに、詳細〔の観点〕から、結生において、識知〔作用〕という縁あることからある名前と形態の数が知られるべきである。
※ テキストには sabhāvakaparipuṇṇāyatanaṃ とあるが、VRI版により sabhāvakaparipuṇṇāyatanānaṃ と読む。
※※ テキストには rūpasantatisīsacakkato とあるが、VRI版により rūpasantatisīsachakkato と読む。
§192 (2―6)また、形態なき者たちのばあいは、三つの形態なき範疇だけが、〔識知作用という縁あることからある名前と形態である、と知られるべきであり〕、(2―7)表象なき者たちのばあいは、形態からなるものとして生命の機能の九なるものだけが、〔識知作用という縁あることからある名前と形態である、と知られるべきである〕。ということで、まずは、これが、結生(再生の瞬間)における方法となる。
§193 (2―8)また、転起されたもの(結生以後の転起)においては、形態の転起ある地点では、一切所において、結生の心には、〔その〕止住の瞬間において、結生の心と共に転起された季節(寒暑等)から、季節から現起する〔不純なき〕清浄の八なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養からなる最小限の物質的事象、「滋養を第八とするもの」とも言う)が出現する。また、結生の心は、形態を現起させることがない。なぜなら、すなわち、その〔結生の心〕は、深淵に落ちた人が他者にとっての縁と成ることができないように、このように、〔自らの〕基盤〔となる形態〕の力弱きことから、〔かつまた、自らも〕力弱きことから、形態を現起させることができないからである。いっぽう、結生の心より以後、最初の生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕から以降は、【560】心から現起する〔不純なき〕清浄の八なるものが〔出現する〕。(2―9)そして、音声の出現の時において、結生の瞬間より以後、まさしく、そして、転起された季節から、さらに、心から、音声の九なるもの(不純なき清浄の八なるものに音声を加えたもの)が〔出現する〕。
§194 (2―10)また、すなわち、物質としての食に依拠して生きる者たちとして〔母の〕胎に臥す者たちは、彼らのばあいは──
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、すなわち、食料として、食べ物を、さらに、飲み物を、彼の母が食べるなら──その〔食料〕によって、彼は、そこにおいて、〔身を〕保ち行く──母の子宮に至った人として」という──
言葉から、母が飲み下した食が肉体に従い行くとき、〔食から現起する不純なき清浄の八なるものが出現する〕。(2―11)化生の者たちのばあいは、全ての最初に、自己の口に至った唾液を飲み下す時に、食から現起する〔不純なき〕清浄の八なるものが〔出現する〕。
ということで、この、食から現起する〔不純なき〕清浄の八なるものを〔所以に〕、さらに、季節と心から現起する──〔音声が出現する〕高尚なる者のばあいの──二つの九なるもの(季節から現起する音声の九なるものと心から現起する音声の九なるもの)を所以に、二十六種類のもの、さらに、一つ一つの心の瞬間において、三回、生起し〔止住し滅壊している〕、前に説かれた(§156)、行為から現起する七十種類のもの(眼の十なるものと耳の十なるものと鼻の十なるものと舌の十なるものと身の十なるものと心臓の基盤の十なるものと性差の状態の十なるもの)、という、九十六種類の形態、さらに、三つの形態なき範疇、という、総合で、九十九の法(性質)が〔出現する〕。
§195 あるいは、すなわち、音声は、〔生起が〕決定していないものであり、まさしく、或る時において出現することから、それゆえに、その〔季節から現起する音声の九なるものと心から現起する音声の九なるもの〕を、二種類ともどもに取り去って、これらの八十一の法(性質)が(※)、発生のとおりに、一切の有情たちのばあいの、識知〔作用〕という縁あることからある名前と形態である、と知られるべきである。まさに、彼ら(一切の有情たち)が、眠りについたときであろうが、怠っているときであろうが、喰っているときであろうが、飲んでいるときであろうが、そして、昼も、さらに、夜も、これら〔の八十一の法〕は、識知〔作用〕という縁あることから転起する。そして、その、それら〔の八十一の法〕が識知〔作用〕という縁あることからある状態を、〔わたしたちは〕後に説き明かすであろう(§200)。
※ テキストには sattanavuti dhammāとあるが(VRI版も同様)、南伝大蔵経64『清浄道論3』の註に従い ekāsīti dhammā と読む。
§196 また、ここにおいて、すなわち、この、行為から生じる形態は、それは、生存と胎と境遇と〔識知作用の〕止住と有情の居住所において、全ての最初に確立しつつあるもまた、〔季節と心と食の〕三つのものから現起する形態によって保全されなかったなら、止住することができない。〔季節と心と食の〕三つのものから現起する〔形態〕もまた、その〔行為から生じる形態〕によって保全されなかったなら、〔止住することができ〕ない。そこで、まさに、風に打たれてもなお、四方が定め置かれた葦の束のように、さらに、荒波に打たれてもなお、大海のどこかしらに依拠を得た難破船のように、まさしく、互いに他と保全された、これら〔の四つのものから現起する形態〕は、倒れ落ちることなく止住して、一年であろうが、二年であろうが……略……百年であろうが、すなわち、それらの有情たちの、あるいは、寿命の滅尽あるまで、あるいは、功徳の滅尽あるまで、それまでは転起する。ということで、このように、〔三つの〕生存等々における転起〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
639.
§197 (3)「包摂〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、すなわち、形態なき〔生存〕における転起と結生において、さらに、五つの構成(五蘊)としての生存(欲界と色界)における転起において、識知〔作用〕という縁あることからある、名前だけのものが──そして、すなわち、諸々の表象なき〔生存〕において、〔その〕一切所において、さらに、五つの構成としての生存における転起において、識知〔作用〕という縁あることからある、形態だけのものが──さらに、すなわち、五つの構成としての生存において、【561】〔その〕一切所において、識知〔作用〕という縁あることからある、名前と形態が、その全てが──そして、名前が、かつまた、形態が、さらに、名前と形態が──名前と形態となる。ということで、このように、一部位において形態を共にするもの(重複するもの)について、一つのものを残す方法によって〔それらの三者を〕包摂して〔一つとし〕、「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある」と知られるべきである。
§198 「諸々の表象なき〔生存〕においては、識知〔作用〕の状態なきことから、〔それは〕道理なきことなのでは」と、もし〔問うなら〕、「道理なきことではない」〔と答える〕。まさに、このことは──
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、名前と形態にとっての因たる識知〔作用〕は、それは、二種に認証され、報いとしてのものがあり、さらに、報いならざるものがあり、それゆえに、このことは、まさしく、道理あることである」〔と〕。
§199 まさに、すなわち、名前と形態にとっての因としてある、識知〔作用〕は、それは、報いとしてのものと報いならざるものの細別〔の観点〕から、二種に認証された。そして、表象なき有情たちにおける、この〔形態〕は、行為から現起することから、五つの構成としての生存において転起された行作としての識知〔作用〕という縁あることからある形態である。そのように、五つの構成〔としての生存〕の転起における〔形態は〕、善なるもの等の心の瞬間において、行為から現起する〔形態〕である。ということで、このことは、まさしく、道理あることである。このように、包摂〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
640.
§200 (4)「縁の方法〔の観点〕から」とは、まさに、ここにおいて──
〔そこで、詩偈に言う〕「(4―1)成熟としての識知〔作用〕(報いとしての識知作用)は、名前にとって、九種に縁と成り、(4―2)〔心臓の〕基盤としての形態にとって、九種に〔縁と成り〕、(4―3)残りの形態にとって、八種に〔縁と成る〕。
(4―4)行作としての識知〔作用〕は、形態にとって、一種に〔縁と〕成り、(4―5)また、それより他の識知〔作用〕は、それぞれ〔の名前と形態〕にとって、〔状況に応じて〕分のままに〔縁と成る〕」〔と〕。
§201 (4―1)まさに、すなわち、この、結生における、あるいは、転起における、「報い」と名づけられた名前であるが、その〔名前〕にとって──〔それが〕形態と混合あるものであろうが、混合なきものであろうが──あるいは、結生における〔報いとしての識知作用は〕、あるいは、他の報いとしての識知〔作用〕は、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と結合の〔縁〕と報いとしての〔縁〕と食としての〔縁〕と機能としての〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁によって、九種に縁と成る。(4―2)結生における〔報いとしての識知作用は〕、〔心臓の〕基盤としての形態にとって、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と報いとしての〔縁〕と食としての〔縁〕と機能としての〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁によって、九種に縁と成る。(4―3)また、〔心臓の〕基盤としての形態を除いて、残りの形態にとって、これらの九つ〔の縁〕のうち、互いに他なる縁を取り去って、残りの八つの縁によって、縁と成る。(4―4)また、行作としての識知〔作用〕は、あるいは、表象なき有情の形態にとって、あるいは、五つの構成としての生存(欲界と色界)における行為から生じる形態にとって、経の専門家の教相〔の観点〕から、近しき依所たる〔縁〕を所以に、一種にだけ縁と成る。(4―5)残りの、最初の生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕から以降の識知〔作用〕は、全てもろともに、それぞれの名前と形態にとって、〔状況に応じて〕分のままに縁と成る、と知られるべきである。また、詳細〔の観点〕から、その〔名前と形態〕にとっての縁の方法が見示されるときは、『パッターナ(発趣論)』の言説が、全てもろともに、詳知されるべきものと成る。ということで、〔わたしたちは〕それを始めない(量が多く、ここでは省略する)。
§202 そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「また、どのように、『識知〔作用〕という縁あることから、結生の【562】名前と形態が有る』と、このことが知られるべきであるのか」〔と問うなら〕、「経〔の観点〕から、さらに、適合〔の観点〕から」〔と答える〕。なぜなら、経において、「心に随転する諸々の法(性質)」(ダンマ・サンガニp.5)という〔言葉〕等の方法によって、多種に、感受〔作用〕等々にとって、識知〔作用〕の縁たることが実現した(証明された)からである。また、適合〔の観点〕から──
〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、ここに、心から生じる形態が見られたことで、〔識知作用の縁たることが〕実現する──『見られざる形態にとってもまた、識知〔作用〕は、縁と〔成る〕』〔と〕、かくのごとく」〔と〕。
なぜなら、心が澄浄なるとき、あるいは、澄浄ならざるときは、その〔心〕に適切なる、諸々の形態、諸々の形態が、〔それぞれに〕生起しているのが見られ、そして、見られたものによって、見られざるものの推知が有るからである。ということで、ここに、この、心から生じる形態が見られたことで、「見られざる結生の形態にとってもまた、識知〔作用〕は、縁と成る」と、このことが知られるべきである。まさに、行為から現起する〔形態〕にとってもまた、〔まさに〕その、心から現起する〔形態〕にとってのように、識知〔作用〕の縁たることが、『パッターナ(発趣論)』において言及された(パッターナ1p.5)。ということで、このように、縁の方法〔の観点〕からもまた、ここにおいて、判別〔の方法〕が識知されるべきである。ということで──
これが、「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります」という句についての詳細の言説となる。
641.
[4 「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります」]
§203 「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処)があります」という句について──
〔そこで、詩偈に言う〕「名前は、三つの範疇であり、形態は、〔四つの大いなる〕元素と〔認識の〕基盤等である、〔と〕認証された。一つのものを残す〔方法〕が為された、その〔名前と形態〕は、まさしく、そのような〔一つのものを残す方法が為された〕、その〔六つの認識の場所〕にとって、縁と〔成る〕」〔と〕。
§204 まさに、すなわち、この、まさしく、六つの〔認識の〕場所にとって、縁として有る、名前と形態であるが、そこにおいて、「名前」とは、感受〔作用〕等の三つの範疇であり、また、形態は、自らの相続に属しているものにして、決定して、四つの〔大いなる〕元素、六つの〔認識の〕基盤、生命の機能である、ということで、このように、〔四つの大いなる〕元素と〔認識の〕基盤等である、〔と〕認証された、と知られるべきである。また、(一)そして、名前が、(二)かつまた、形態が、(三)さらに、名前と形態が、「名前と形態」ということで、このように、一つのものを残す〔方法〕が為された、その〔名前と形態〕は、そして、第六の〔認識の〕場所が、かつまた、六つの〔認識の〕場所が、「六つの〔認識の〕場所」ということで、このように、まさしく、一つのものを残す〔方法〕が為された、六つの〔認識の〕場所にとって、縁と〔成る〕、と知られるべきである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「すなわち、形態なき〔生存〕においては、名前だけが縁と〔成り〕、そして、それは、第六の〔認識の〕場所だけにとっての〔縁と成り〕、他〔の認識の場所〕にとって、〔縁と成ることが〕ないことから」〔と答える〕。なぜなら、『ヴィバンガ(分別論)』において、「名前という縁あることから、第六の〔認識の〕場所がある」(ヴィバンガp.144)と説かれたからである。
§205 そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「また、どのように、『名前と形態は、六つの〔認識の〕場所にとって、縁と〔成る〕』と、このことが知られるべきであるのか」〔と問うなら〕、「名前と形態の状態あるとき、〔六つの認識の場所の〕状態あることから」〔と答える〕。なぜなら、それぞれの名前には、さらに、形態には、〔その〕状態あるとき、それぞれの〔認識の〕場所が有るからである──他なるものとして、ではなく。また、その〔名前と形態〕の、その状態あるときに〔六つの認識の場所の〕状態あることは、それは、まさしく、〔以下に説く〕縁の方法において、明らかと成るであろう。それゆえに──
【563】〔そこで、詩偈に言う〕「結生(再生の瞬間)において、あるいは、転起されたもの(結生以後の転起)において、それが、それにとって、縁と成るなら、そして、すなわち、縁と成るとおり、そのとおりに、分明する者によって導かれるべきである」〔と〕。
§206 そこで、これが、義(意味)の提示となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「(一)まさに、名前だけのもの〔としての名前〕は、(1)形態なき〔生存〕における(1―1)結生と(1―2)転起において、七種に縁と成り、それ(名前)は、最少にして、六種に〔縁と成る〕」〔と〕。
§207 どのようにか。(1―1)まずは、結生において、名前は、六つの〔認識の〕場所にとって、最少にして、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と結合の〔縁〕と報いとしての〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁によって、七種に縁と成る。また、ここにおいて、或るものは、因としての縁によって、或るものは、食としての縁によって、ということで、このように、他にもまた、縁と成る。それを所以に、最多と最少が知られるべきである。(1―2)転起されたものにおいてもまた、報い〔としての名前〕は、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、縁と成る。また、他の〔報いならざるものとしての名前〕は、最少にして、〔前に〕説かれた流儀の〔七つの〕縁のうち、報いとしての縁を除く、六つの縁によって、縁と成る。また、ここにおいて、或るものは、因としての縁によって、或るものは、食としての縁によって、ということで、このように、他にもまた、縁と成る。それを所以に、最多と最少が知られるべきである。
§208 〔そこで、詩偈に言う〕「(2)他の生存においてもまた、名前は、まさしく、そのように、(2―1)結生において、第六〔の認識の場所〕にとって、〔縁と成り〕、他〔の五つの眼の認識の場所等々〕にとって、それ(名前)は、六つの行相によって、縁と〔成る〕」〔と〕。
§209 (2―1)まさに、形態なき〔生存〕より他の五つの構成としての生存においてもまた、その、報いとしての名前は、心臓の基盤の同伴と成って、第六〔の認識の場所〕である意の〔認識の〕場所にとって、すなわち、形態なき〔生存における結生〕において説かれたように、まさしく、そのように、最少にして、七種に縁と成る。いっぽう、それは、他の五つの眼の〔認識の〕場所等々にとっては、四つの大いなる元素の同伴と成って、共に生じた〔縁〕と依所たる〔縁〕と報いとしての〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、六つの行相によって、縁と成る。また、ここにおいて、或るものは、因としての縁によって、或るものは、食としての縁によって、ということで、このように、他にもまた、縁と成る。それを所以に、最多と最少が知られるべきである。
§210 〔そこで、詩偈に言う〕「(2―2)転起されたものにおいてもまた、そのように、成熟〔としての名前〕(報いとしての名前)は、成熟〔としての第六の認識の場所〕にとって、縁と成り、成熟ならざるもの〔としての名前〕は、成熟ならざるものとしての第六〔の認識の場所〕にとって、六種に縁と〔成る〕」〔と〕。
§211 (2―2)まさに、五つの構成としての生存における転起されたものにおいてもまた、すなわち、結生におけるように、まさしく、そのように、報いとしての名前は、報いとしての第六の〔認識の〕場所にとって、最少にして、七種に縁と成る。いっぽう、報いならざるもの〔としての名前〕は、報いならざるものとしての第六〔の認識の場所〕にとって、まさしく、最少にして、それ(七つの縁)から報いとしての縁を取り去って、六種に縁と成る。また、ここにおいて、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、最多と最少が知られるべきである。
§212 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そこにおいて、〔すなわち、五つの構成としての〕生存において、報い〔としての名前〕は、残りの〔報いとしての眼の認識の場所等々の〕五つにとって、四種に縁と〔成り〕、報いならざるもの〔としての名前〕もまた、まさしく、このように、明示された」〔と〕。
§213 【564】まさに、まさしく、そこにおいて、〔すなわち、五つの構成としての生存における〕転起されたものにおいて、残りの〔報いとしての〕眼の〔認識の〕場所等々の五つにとって、眼の〔機能の〕澄浄(視覚機能)等を基盤とする、他の報いとしての名前もまた、後に生じた〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁によって、四種に縁と成る。そして、すなわち、報い〔としての名前〕のように、報いならざるもの〔としての名前〕もまた、まさしく、このように、明示された。それゆえに、善なるもの等の細別ある〔名前〕もまた、それら〔の眼の認識の場所等々〕にとって、四種に縁と成る、と知られるべきである。
まずは、このように、名前だけのもの〔としての名前〕は、結生において、あるいは、転起されたものにおいて、それぞれの〔認識の〕場所にとって、縁と成り、そして、すなわち、縁と成るとおり、そのとおりに、〔名前が〕知られるべきである。
§214 〔そこで、詩偈に言う〕「(二)また、ここにおいて、形態〔だけのものとしての形態〕は、形態なき生存においては、一つの〔認識の〕場所にとってでさえも、縁と成ることがない。いっぽう、五つの範疇(五蘊)の生存においては──
形態ある〔五つの範疇の生存〕の結生において、〔心臓の〕基盤は、第六〔の認識の場所〕にとって、六種に縁と〔成り〕、〔四つの〕大いなる元素は、〔残りの眼の認識の場所等々の〕五つにとって、差異なき〔の観点〕によって、四種に〔縁と〕成る」〔と〕。
§215 まさに、形態ある〔五つの範疇の生存〕の結生において、〔心臓の〕基盤としての形態は、第六〔の認識の場所〕である意の〔認識の〕場所にとって、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁によって、六種に縁と成る。また、四つの大いなる元素は、差異なき〔の観点〕から、結生において、さらに、転起されたものにおいて、それぞれの〔認識の〕場所が生起するなら、それぞれを所以に、五つもろともの眼の〔認識の〕場所等々にとって、共に生じた〔縁〕と依所たる〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁によって、四種に縁と成る。
§216 〔そこで、詩偈に言う〕「〔形態としての〕生命〔の機能〕は、さらに、食は、〔結生と〕転起において、これら〔の眼の認識の場所等々の五つ〕にとって、三種に〔縁と成り〕、まさしく、それら〔の眼の認識の場所等々の五つ〕は、第六〔の認識の場所〕にとって、六種に〔縁と成り〕、〔心臓の〕基盤は、まさしく、その〔第六の認識の場所〕にとって、五種に〔縁と成る〕」〔と〕。
§217 また、〔五つの範疇の生存における〕結生において、さらに、転起されたものにおいて、これらの眼〔の認識の場所〕等々の五つにとって、形態としての生命〔の機能〕は、存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕と機能としての〔縁〕を所以に、三種に縁と成り、さらに、食は、存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕と食としての〔縁〕を所以に、三種に縁と成る。そして、それ(食)は、まさに、彼らが、食に依拠して生きる有情たちであるなら、彼らの、食に従い行く身体における転起においてだけ、〔縁と成り〕、結生においては、〔縁と成ることが〕ない。また、それらの眼の〔認識の〕場所等々の五つは、第六〔の認識の場所〕にとって──「眼〔の識知作用〕」と「耳〔の識知作用〕」と「鼻〔の識知作用〕」と「舌〔の識知作用〕」と「身の識知〔作用〕」と名づけられたものとしての意の〔認識の〕場所にとって──依所たる〔縁〕と先に生じた〔縁〕と機能としての〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、六つの行相によって、転起されたものにおいて、縁と成り、結生においては、〔縁と成ることが〕ない。また、五つの識知〔作用〕を除いて、まさしく、その、残りの意の〔認識の〕場所にとって、〔心臓の〕基盤としての形態は、依所たる〔縁〕と先に生じた〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、五種に、転起されたものにおいてだけ、縁と成り、結生においては、〔縁と成ることが〕ない。
このように、形態だけのもの〔としての形態〕は、結生において、あるいは、転起されたものにおいて、それぞれの〔認識の〕場所にとって、縁と成り、そして、すなわち、縁と成るとおり、そのとおりに、〔形態が〕知られるべきである。
§218 【565】〔そこで、詩偈に言う〕「(三)また、名前と形態の両者のもの〔としての名前と形態〕は、それが、それにとって、縁と成るなら、そして、すなわち、それもまた、一切所において、〔縁と成るとおり、そのとおりに〕、分明する者によって識知されるべきである」〔と〕。
§219 それは、すなわち、この──まずは、五つの構成としての生存における結生において、「三つの範疇と〔心臓の〕基盤としての形態」と名づけられた名前と形態は、第六の〔認識の〕場所にとって、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と報いとしての〔縁〕と結合の〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁等々によって、縁と成る、と〔知られるべきである〕。ここにおいて、これが、門のみ〔の明示〕となる。また、〔前に〕説かれた方法に従い行くことで、一切を結び付けることができる、ということで、ここにおいて、詳細が見示されることはない。ということで──
これが、「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります」という句についての詳細の言説となる。
642.
[5 「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります」]
§220 「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(触)があります」という句について──
〔そこで、詩偈に言う〕「簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、眼の接触等々の、まさしく、六つの接触が〔有り〕、詳細〔の観点〕によって〔説くなら〕、識知〔作用〕のように、それらの三十二〔の報いとしての接触〕が有る」〔と〕。
§221 まさに、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります」とは、眼の接触、耳の接触、鼻の接触、舌の接触、身の接触、意の接触、という、これらの眼の接触等々の、まさしく、六つの接触が有る。また、詳細〔の観点〕によって〔説くなら〕、眼の接触等々は、五つの善なる報いとしてのもの、五つの善ならざる報いとしてのもの、という、十〔の報いとしてのもの〕があり、さらに、残りのものとして、二十二の世〔俗〕のものたる報いとしての識知〔作用〕と結び付いた二十二〔の報いとしてのもの〕があり、ということで、このように、諸々の形成〔作用〕という縁あることからある、〔前に〕説かれた識知〔作用〕のように、全てもろともに、三十二〔の報いとしての接触〕が有る。
§222 また、すなわち、この、三十二種類もろともの接触にとっての縁と〔成る〕、六つの〔認識の〕場所であるが、そこにおいて──
〔そこで、詩偈に言う〕「第六〔の認識の場所〕と共に、眼等々の内なる〔認識の場所〕が、六つの外なる〔認識の場所〕をもまた含めて、六つの〔認識の〕場所である、〔と〕明眼の者たちは求める(主張し承認する)」〔と〕。
§223 そこにおいて、まずは、すなわち、「これは、執取されたものの転起についての言説である、ということで、自らの相続に属しているものだけが、縁となり、かつまた、縁によって生起したもの(果)となる」〔と〕提示する者たちは──彼らは、「第六の〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある」(ヴィバンガp.138)という聖典〔の言葉〕に従い行くことから、そして、形態なき〔生存〕における第六の〔認識の〕場所が、さらに、一切を包摂する〔観点〕から、他所(欲界と色界)における六つの〔認識の〕場所が、接触にとって、縁と〔成る〕、ということで、一部位において形態を共にするもの(重複するもの)について、一つのものを残す〔方法〕を為して、第六〔の認識の場所〕と共に、眼等々の内なる〔認識の場所〕が、六つの〔認識の〕場所である、と求める(主張し承認する)。なぜなら、〔まさに〕その、そして、第六の〔認識の〕場所が、さらに、六つの〔認識の〕場所が、まさしく、「六つの〔認識の〕場所」という(※)名称に至る(かくのごとく名づけられる)からである。
また、すなわち、「縁によって生起したもの(果)だけが、一つの〔自己の〕相続に属するものとなり、いっぽう、縁は、〔自己の〕相続とは別のものもまた〔縁となる〕」〔と〕提示する者たちは──彼らは、それぞれの〔認識の〕場所が、接触にとって、縁と成るなら、その〔認識の場所〕は、全てもろともに、〔縁と成る、と〕提示しつつ、外なる〔認識の場所〕をもまた遍く収め取って(包摂して)、まさしく、その、第六〔の認識の場所〕と共に、内なる〔認識の場所〕が、外なる形態の〔認識の〕場所等々と共にまた、六つの〔認識の〕場所である、【566】と求める(主張し承認する)。なぜなら、それもまた、そして、第六の〔認識の〕場所、さらに、六つの〔内なる認識の〕場所、六つの〔外なる認識の〕場所、という、これらのものに、一つのものを残す〔方法〕が為されたとき、まさしく、「六つの〔認識の〕場所」という名称に至るからである。
※ テキストには saḷāyatanan sveva とあるが、VRI版により saḷāyatanan tveva と読む。
§224 ここにおいて、〔或る者は〕言う。「一切の〔認識の〕場所から、一つの接触が発生することはなく、一つの〔認識の〕場所から、一切の接触が〔発生すること〕もまたない。そして、この、『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります』と、一つだけが説かれた。それは、何ゆえにか」と。
§225 そこで、これが、〔その〕答えとなる。一切〔の認識の場所〕から、一つ〔の接触〕が〔発生することはなく〕、あるいは、一つ〔の認識の場所〕から、一切〔の接触〕が発生することはない──このことは、真理である(たしかに、そのとおりである)。いっぽう、複数〔の認識の場所〕から、一つ〔の接触〕が発生する──すなわち、眼の接触が、眼の〔認識の〕場所から〔発生し〕、形態の〔認識の〕場所から〔発生し〕、「眼の識知〔作用〕」と名づけられた意の〔認識の〕場所から〔発生し〕、さらに、残りの〔それと〕結び付いた法(意の対象)の〔認識の〕場所から〔発生する〕ように。ということで、このように、一切所において、適切なるままに解釈されるべきである。まさに、それゆえにこそ──
〔そこで、詩偈に言う〕「『この接触は、たとえ、一つであるも、複数の〔認識の〕場所を起源とするものとして〔有る〕(※)』と、一つの言葉の釈示をもって、ここに、如なる方(ブッダ)によって提示された」〔と〕。
「一つの言葉の釈示をもって」とは、「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります」という、この一つの言葉の釈示をもって。「複数の〔認識の〕場所から、一つの接触が有る」と、如なる方によって提示された、という義(意味)である。
※ テキストには Eko pan’ ekāyatanappabhavo とあるが、VRI版により Ekopanekāyatanappabhavo と読む。
§226 また、諸々の〔認識の〕場所について──
〔そこで、詩偈に言う〕「五つ〔の認識の場所〕は、六種に〔縁と成り〕、それより〔他の〕一つ〔の認識の場所〕は、九種に〔縁と成り〕、六つの外なる〔認識の場所〕は、発生のとおりに〔縁と成る〕。この〔認識の場所〕の縁たることについて、分明するべきである」〔と〕。
§227 そこで、これが、〔その〕分明となる。まずは、眼の〔認識の〕場所等々は、五つの眼の接触等の細別〔の観点〕から、五種類の接触にとって、依所たる〔縁〕と先に生じた〔縁〕と機能としての〔縁〕と不結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、六種に縁と成る。それより他の一つの、報いとしての意の〔認識の〕場所は、複数の細別ある報いとしての意の接触にとって、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と報いとしての〔縁〕と食としての〔縁〕と機能としての〔縁〕と結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、九種に縁と成る。また、諸々の外なる〔認識の場所〕については、形態の〔認識の〕場所は、眼の接触にとって、対象としての〔縁〕と先に生じた〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、四種に縁と成る。そのように、音声の〔認識の〕場所等々は、耳の接触等々にとって、〔対象としての縁と先に生じた縁と存在の縁と不離去の縁を所以に、四種に縁と成る〕。また、意の接触にとって、そして、それら〔の五つの外なる認識の場所である形態等々〕は、さらに、〔第六の外なる認識の場所である〕対象としての法(意の対象)は、そして、そのように、〔対象としての縁と先に生じた縁と存在の縁と不離去の縁を所以に、四種に縁と成り〕、さらに、〔現在のものならざる形態等々と対象としての法は〕、まさしく、対象としての縁のみによって、〔一種に縁と成る〕。ということで、このように、六つの外なる〔認識の場所〕は、発生のとおりに〔縁と成る〕。この〔認識の場所〕の縁たることについて、分明するべきである。ということで──
これが、「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります」という句についての詳細の言説となる。
643.
[6 「接触という縁あることから、感受があります」]
§228 「接触という縁あることから、感受(受)があります」という句について──
〔そこで、詩偈に言う〕「門〔の観点〕から、感受は、眼の接触から生じるもの等の、それらの六つだけが説かれたが、細別〔の観点〕によって〔説くなら〕、八十九〔の感受〕がある、〔と〕認証された」〔と〕。
§229 この句のばあいもまた、〔その区分については〕『ヴィバンガ(分別論)』において、「眼の接触から生じる感受」「耳〔の接触から生じる感受〕」「鼻〔の接触から生じる感受〕」「舌〔の接触から生じる感受〕」「身〔の接触から生じる感受〕」「意の接触から生じる感受」(ヴィバンガp.136)と、このように、【567】門〔の観点〕から、六つだけが、感受と説かれた。いっぽう、それらは、細別〔の観点〕によって〔説くなら〕、八十九の心と結び付いたことから、八十九〔の感受〕がある(※)、〔と〕認証された。
※ テキストには ekūnavuti とあるが、VRI版により ekūnanavuti と読む。
§230 〔そこで、詩偈に言う〕「また、これらの感受のうち、ここでは、報い〔としての心〕と結び付いたものである三十二の感受だけが、志向するところとなる、と語られた。
そこにおいて、五つの門〔における接触〕もまた、五つ〔の感受〕にとって、八種に縁と〔成り〕、残り〔の欲望の行境の報いとしての諸々の感受〕にとって、接触は、一種に〔縁と成り〕、意の門においてもまた、それは、そのように、〔八種に縁と成る〕」〔と〕。
§231 まさに、そこにおいて、五つの門における、眼の〔機能の〕澄浄(視覚機能)等を基盤とする、五つの感受にとって、眼の接触等の接触は、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と報いとしての〔縁〕と食としての〔縁〕と結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、八種に縁と成る。また、残りの、一つ一つの門において、領受する〔作用〕と吟味する〔作用〕と残象〔作用〕を所以に転起された、欲望の行境の報いとしての諸々の感受にとって、〔まさに〕その、眼の接触等の接触は、近しき依所たる〔縁〕を所以に、一種にだけ縁と成る。
§232 「意の門においてもまた、それは、そのように、〔八種に縁と成る〕」とは、まさに、意の門においてもまた、残象〔作用〕を所以に転起された、欲望の行境の報いとしての諸々の感受にとって、〔まさに〕その、「共に生じた意の接触」と名づけられた接触は、まさしく、そのように、八種に縁と成る。結生〔作用〕と生存の〔潜在〕支分〔作用〕と死滅〔作用〕を所以に転起された、それらの三つの境地の報いとしての諸々の感受にとってもまた、〔八種に縁と成る〕。また、すなわち、それらの、意の門において、残象〔作用〕を所以に転起された、欲望の行境の諸々の感受であるが、それらにとって、意の門における〔心を対象に〕傾注する作用と結び付いた、意の接触は、近しき依所たる〔縁〕を所以に、一種にだけ縁と成る。ということで──
これが、「接触という縁あることから、感受があります」という句についての詳細の言説となる。
644.
[7 「感受という縁あることから、渇愛があります」]
§233 「感受という縁あることから、渇愛(愛)があります」という句について──
〔そこで、詩偈に言う〕「形態の渇愛等の細別によって、六つの渇愛が、ここに提示されたが、一つ一つ〔の渇愛〕は、転起の行相〔の観点〕から、そこにおいて、三種類のものとなる、〔と〕認証された」〔と〕。
§234 まさに、この句において、「長者の子」「婆羅門の子」という、父からの名前を所以に、子があるように、「形態の渇愛」「音声〔の渇愛〕」「臭気〔の渇愛〕」「味感〔の渇愛〕」「感触〔の渇愛〕」「法(意の対象)の渇愛」(ヴィバンガp.136)という、対象(所縁)からの名前を所以に(「形態の渇愛」は「形態という渇愛」ではなく「形態への渇愛」を意味する)、『ヴィバンガ(分別論)』において、〔その区分について〕六つの渇愛が提示された。また、それらの渇愛について、一つ一つの渇愛は、転起の行相〔の観点〕から、(1)欲望の渇愛(欲愛)、(2)生存の渇愛(有愛)、(3)非生存の渇愛(非有愛)、という、このように、三種類のものとなる、〔と〕認証された。
§235 (1)まさに、まさしく、形態の渇愛は、すなわち、眼の視野にやってきた形態の対象が、欲望の悦楽を所以に味わわれつつ転起するとき、そのときは、「欲望の渇愛」ということに成る。(2)すなわち、まさしく、その〔形態の〕対象が、「常恒である」「常久である」と転起された常久の見解(常見)と共に【568】転起するとき、そのときは、「生存の渇愛」ということに成る。なぜなら、常久の見解を共具した貪欲は、「生存の渇愛」と説かれるからである。(3)また、すなわち、まさしく、その〔形態の〕対象が、「断絶する」「消失する」と転起された断絶の見解(断見)と共に転起するとき、そのときは、「非生存の渇愛」ということに成る。なぜなら、断絶の見解を共具した貪欲は、「非生存の渇愛」と説かれるからである。これが、音声の渇愛等々についてもまた、〔共通する説示の〕方法となる。ということで、これらの十八の渇愛が有る。それらは、内なる形態等々にたいする十八〔の渇愛〕、外なる〔形態等々にたいする〕十八〔の渇愛〕、ということで、三十六〔の渇愛〕となる。かくのごとく、過去の三十六〔の渇愛〕、未来の三十六〔の渇愛〕、現在の三十六〔の渇愛〕、ということで、百八〔の渇愛〕が有る。それらは、ふたたび簡略するなら、形態等の対象を所以に、六つ〔の渇愛〕と〔成り〕、欲望の渇愛等を所以に、まさしく、三つの渇愛と成る、と知られるべきである。
§236 また、すなわち、これらの有情たちは、〔子の親が〕子を味わって(子を溺愛して)、子にたいする我執〔の思い〕によって、〔子の〕乳母への〔尊敬の思いを作り為す〕ように、形態等の対象を所以に生起している感受を味わって、感受にたいする我執〔の思い〕によって、形態等の対象を与えてくれる絵師や音楽家や調香者や料理人や織紐屋や〔不老不死の〕霊薬を調合する医師等々への大いなる尊敬〔の思い〕を作り為すことから、それゆえに、この渇愛は、全てもろともに、感受という縁あることから有る、と知られるべきである。
§237 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、すなわち、ここにおいて、報いとしての安楽の感受(楽受)が、志向するところとなることから、それゆえに、一つだけの、この〔安楽の感受〕が、渇愛にとって、一種に縁と成る」〔と〕。
「一種に」とは、近しき依所たる縁によってだけ、縁と成る。
§238 あるいは、すなわち、〔以下の〕ことから──
〔そこで、詩偈に言う〕「苦痛ある者は、安楽を切望する。安楽ある者は、より一層さらに、〔安楽を〕求める。また、放捨は、寂静なることから、まさしく、『安楽である』と語られた。
それゆえに、感受は、〔苦の感受と楽の感受と苦でもなく楽でもない感受の〕三つもろともに、渇愛にとって、縁と成り、『感受という縁あることから、渇愛があります』と、偉大なる聖賢によって説かれた。
そして、また、感受という縁あることから、〔渇愛があるとして〕、すなわち、悪習(随眠)なくして、〔渇愛は〕有ることなくあることから、それゆえに、〔梵行の〕完成者たる〔真の〕婆羅門に、それ(渇愛)は有ることなくある」と。
これが、「感受という縁あることから、渇愛があります」という句についての詳細の言説となる。
645.
[8 「渇愛という縁あることから、執取があります」]
§239 「渇愛という縁あることから、執取(取)があります」という句について──
〔そこで、詩偈に言う〕「それらの四つの執取を、(一)義(意味)の区分〔の観点〕から、(二)法(性質)の簡略と詳細〔の観点〕から、さらに、(三)順番〔の観点〕から、分明するべきである」〔と〕。
§240 【569】そこで、これが、〔その〕分明となる。(1)欲望への執取、(2)見解への執取、(3)戒や掟への執取、(4)自己の論への執取、という、まずは、ここにおいて、これらの四つの執取がある。
§241 (一)これが、それら〔の四つの執取〕の義(意味)の区分となる。(1)「事物」と名づけられた欲望〔の対象〕に執取する、ということで、「欲望への執取」。それは、そして、欲望であり、かつまた、執取である、ということでもまた、「欲望への執取」。「執取(ウパーダーナ)」とは、堅固に収め取ること。なぜなら、ここにおいて、「執(ウパ)」という語(接頭辞ウパ)は、葛藤(ウパーヤーサ)や重い癩病(ウパカッタ)等々におけるように、堅固の義(意味)であるからである。(2)そのように、それは、そして、見解であり、かつまた、執取である、ということで、「見解への執取」。あるいは、見解に執取する、ということで、「見解への執取」。なぜなら、「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、[不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している]」(ディーガ・ニカーヤ1p.14)という〔言葉〕等々〔の誤った見解〕においては、前の見解に、後の見解は執取するからである。(3)そのように、戒と掟に執取する、ということで、「戒や掟への執取」。それは、そして、戒と掟であり、かつまた、執取である、ということでもまた、「戒や掟への執取」。なぜなら、牛の戒や牛の掟(マッジマ・ニカーヤ1p.387)等々は、「このように、清浄である」という固着あることから、まさしく、自ずと、諸々の執取となるからである。(4)そのように、これによって、〔彼らは〕説く(ヴァダンティ)、ということで、「論(ヴァーダ)」。これによって、〔彼らは〕執取する(ウパーディヤンティ)、ということで、「執取(ウパーダーナ)」。「何を説き、あるいは、執取するのか」〔と問うなら〕、「自己を」〔と答える〕。自己の、論への執取が(※)、「自己の論への執取」。あるいは、まさしく、自己の論のみを、「自己である」と〔説き〕、これによって、〔彼らは〕執取する、ということで、「自己の論への執取」。まずは、これが、それら〔の四つの執取〕の義(意味)の区分となる。
※ テキストには attano vā upādānaṃ とあるが、VRI版により Attano vādupādānaṃ と読む。
§242 (二)また、法(性質)の簡略と詳細〔の観点〕について。(1)まずは、欲望への執取は、「そこにおいて、どのようなものが、欲望への執取であるのか。すなわち、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする喜び〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執──これが、『欲望への執取』〔と〕説かれる」(ダンマ・サンガニp.212,ヴィバンガp.375)と言及されたことから、簡略〔の観点〕から、「渇愛の堅固なること」〔と〕説かれる。「渇愛の堅固なること」というのは、前の渇愛という近しき依所たる縁によって堅固に発生したのが、まさしく、後の渇愛であること。また、或る者たちは言う。「〔いまだ〕至り得ていない境域を切望することが、渇愛である──暗黒のなかで、盗賊が手を伸ばすように。〔すでに〕得達した境域を収め取ることが、執取である──まさしく、その〔盗賊〕が、物品を収め取るように。そして、それらの諸法(性質)は、少なき欲求たることや満ち足りていることと相反するものとしてあり、そのように、遍く探し求めること〔の苦しみ〕と守護の苦しみの根元としてある」と。(2・3・4)また、残りの三つの執取は、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、まさしく、見解のみのものとなる。
§243 また、詳細〔の観点〕から〔説くなら〕、(1)形態〔の渇愛〕等々について、前に説かれた、百八の細別ある渇愛もろともの堅固なる状態が、欲望への執取である。(2)十の事例ある誤った見解が、見解への執取である。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、見解への執取であるのか。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』[『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、]実証して、〔他者に〕知らせる、[世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない]』という、すなわち、このような形態の、見解、[見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、]転倒するものの収取(妄想)──これが、『見解への執取』〔と〕説かれる」(ダンマ・サンガニp.212,ヴィバンガp.375)と。(3)また、「諸々の戒と掟によって、清浄がある」という偏執が、戒や掟への執取である。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、戒や掟への執取であるのか。『……略……戒によって、清浄があり、掟によって、清浄があり、戒と掟によって、【570】清浄がある』という、すなわち、このような形態の、見解……略……転倒するものの収取(妄想)──これが、『戒や掟への執取』〔と〕説かれる」(ダンマ・サンガニp.212,ヴィバンガp.375)と。(4)二十の事例ある身体を有するという見解(有身見)が、自己の論への執取である。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、自己の論への執取であるのか。ここに、無聞の凡夫が……略……正なる人士の法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し(偏見のままに認知する)、[あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕(自己である、と錯視する)、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観する〕。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……略……。諸々の形成〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観する〕。すなわち、このような形態の、見解……略……]転倒するものの収取(妄想)──これが、『自己の論への執取』〔と〕説かれる」(ダンマ・サンガニp.212-3,ヴィバンガp.375)と。
ここにおいて、これが、法(性質)の簡略と詳細となる。
§244 (三)また、「順番〔の観点〕から」とは、ここにおいて、三種類の順番がある(Ch.14§211)。(1)生起の順番、(2)捨棄の順番、さらに、(3)説示の順番である。そこにおいて、(1)始源が思い考えられない輪廻においては、「これにとって、最初の生起となる」という状態がないことから、教相なき〔観点〕(逐語的理論的説明)によって、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の生起の順番が説かれることはない。いっぽう、教相〔の観点〕(比喩的具体的説明)によって〔説くなら〕、多くのところは、一つの生存において、自己への収取(自己の論への執取)を先行とする、常久と断絶への固着(常見と断見への執取)があり、そののち、「この自己は、常久である」と収め取っている者(妄想し執着する者)には、自己の清浄を義(目的)とする戒や掟への執取があり、「〔この自己は〕断絶する」と収め取っている、他の世を期すことなき者には、欲望への執取がある。ということで、このように、最初に、自己の論への執取があり、そののち、見解〔への執取〕と戒と掟〔への執取〕と欲望への執取がある。ということで、これが、これら〔の四つの執取〕の、一つの生存における、生起の順番となる。
§245 (2)さらに、ここにおいて、〔欲望への執取を除く〕見解への執取等々〔の三つ〕は、預流道によって打破されるべきことから、最初に捨棄され、欲望への執取は、阿羅漢道によって打破されるべきことから、最後に〔捨棄される〕。ということで、これが、これら〔の四つの執取〕の、捨棄の順番となる。
§246 (3)また、これら〔の四つの執取〕のうち、欲望への執取は、大いなる境域あることから、さらに、明白なることから、最初に説示された。なぜなら、その〔欲望への執取〕は、八つの〔貪欲を根元とする〕心(22・23・24・25・26・27・28・29)との結合あることから、大いなる境域あるものとなり、他〔の三つの執取〕は、四つの〔憤怒と迷妄を根元とする〕心(30・31・32・33)との結合あることから、小なる境域あるものとなり、さらに、〔世の人々の〕多くのところは、〔五つの欲望の属性の〕基底を喜ぶことから、〔世の〕人々の欲望への執取は、明白なるものとなり、他〔の三つの執取〕は、〔明白なるものとなら〕ないからである。あるいは、欲望への執取は、諸々の欲望〔の対象〕への到達を義(目的)に、議論や祝事等の多きものと成り、それは、彼の見解となる、ということで(※)、その直後に、見解への執取があり、その〔見解への執取〕は、細別されつつ、戒と掟〔への執取〕と自己の論への執取を所以に、二種類のものと成り、その両者において、戒や掟への執取は、〔彼が戒や掟とする〕牛の所作を〔見ても〕、あるいは、〔彼が戒や掟とする〕山犬の所作を見てもまた、知られるべきことから、粗雑なるものである、ということで、最初に説かれ、自己の論への執取は、繊細なることから、最後に〔説かれた〕。ということで、これが、これら〔の四つの執取〕の、説示の順番となる。
※ テキストには kutūhalamaṅgalādibahulo hoti; sassatan ti とあるが、VRI版により kotūhalamaṅgalādibahulo hoti, sāssa diṭṭhīti と読む。
§247 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、渇愛は、ここにおいて、最初〔の執取である、欲望への執取〕にとって、一種に縁と成る。それ(渇愛)は、残りの三つ〔の執取である、見解への執取と戒や掟への執取と自己の論への執取〕にとって、七種に〔縁と成り〕、あるいは、八種にもまた〔縁と成る〕」〔と〕。
§248 そして、ここにおいて、このように説示された、執取の四なるものについて、欲望の渇愛は、最初〔の執取〕である、欲望への執取にとって、近しき依所たる縁を所以に、一種にだけ縁と成る──渇愛が喜ぶ諸々の境域において、〔欲望への執取の〕生起あることから。いっぽう、残りの三つ〔の執取である、見解への執取と戒や掟への執取と自己の論への執取〕にとっては、あるいは、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕と【571】因としての〔縁〕を所以に、七種に〔縁と成り〕、あるいは、また、近しき依所たる〔縁〕と共に(※)、〔合わせて〕八種に縁と成る。そして、すなわち、その〔渇愛〕が、近しき依所たる縁を所以に、〔三つの執取にとって〕縁と成るとき、そのときは、まさしく、共に生じることなきものと成る。ということで──
これが、「渇愛という縁あることから、執取があります」という句についての詳細の言説となる。
※ テキストには upanissayavasena とあるが、VRI版により upanissayena saha と読む。
646.
[9 「執取という縁あることから、生存があります」]
§249 「執取という縁あることから、生存(有)があります」という句について──
〔そこで、詩偈に言う〕「(1)義(意味)〔の観点〕から、まさしく、そして、(2)法(性質)〔の観点〕から、(3)義(目的)を有するもの〔の観点〕から、(4)細別と(5)包摂〔の観点〕から、まさしく、そして、(6)それが、それにとって、縁と〔成るなら〕、判別〔の方法〕が識知されるべきである」〔と〕。
§250 (1)そこにおいて、有る(生存する)、ということで、「生存(有)」。それは、(1―1)行為の生存(業有)、さらに、(1―2)再生(※)の生存(生有)、という、二種類のものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「生存は、二種類のものとして、行為の生存が存在し、再生の生存が存在する」(ヴィバンガp.137)と。そこにおいて、行為こそは、生存であり、行為の生存となる。そのように、再生こそは、生存であり、再生の生存となる。そして、ここにおいて、再生が有る、ということで、「生存」。また、行為は、すなわち、安楽の契機(原因・根拠)たることから、「安楽なるは、覚者たちの生起あること」(ダンマパダ194)と説かれたように、このように、生存の契機たることから、果としての語用によって、「生存」と知られるべきである。ということで、まずは、ここにおいて、このように、義(意味)〔の観点〕から、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
※ テキストには uppatti とあるが、VRI版により upapatti と読む。以下の uppatti についても、同様に upapatti と読む。
647.
§251 (2)また、「法(性質)〔の観点〕から」とは、(2―1)まずは、行為の生存は、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、まさしく、そして、思欲(思:心の思い・意志)であり、さらに、思欲と結び付いた強欲〔の思い〕等々であり、「行為」と名づけられた諸々の法(性質)である。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、行為の生存であるのか。功徳ある行作、功徳なき行作、不動の行作──あるいは、〔限定された〕小なる境地のものも、あるいは、〔限定されない〕大いなる境地のものも──これが、『行為の生存』〔と〕説かれる。生存に至る行為は、全てもろともに、行為の生存となる」(ヴィバンガp.137)と。
§252 まさに、ここにおいて、「功徳ある行作」とは、十三の思欲(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13)であり、「功徳なき行作」とは、十二〔の思欲〕(22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33)であり、「不動の行作」とは、四つ〔の思欲〕(14・15・16・17)である。このように、「あるいは、〔限定された〕小なる境地のものも、あるいは、〔限定されない〕大いなる境地のものも」という、この〔句〕によって、まさしく、それらの思欲の、弱き〔報いたること〕と多き報いたること(報いの強弱)が説かれた。また、「生存に至る行為は、全てもろともに、行為の生存となる」という、この〔句〕によって、思欲と結び付いた強欲〔の思い〕等々が説かれた。
§253 (2―2)また、再生の生存は、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、行為によって発現した諸々の範疇であり、細別〔の観点〕から、九種類のものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、再生の生存であるのか。欲望の生存(欲有)、形態の生存(色有)、形態なき生存(無色有)、表象の生存、表象なき生存、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存、一つの構成としての生存、四つの構成としての生存、【572】五つの構成としての生存──これが、『再生の生存』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.137)と。
§254 そこにおいて、「欲望」と名づけられた生存が、「欲望の生存」。これが、形態ある〔生存〕と形態なき生存について、〔共通する説示の〕方法となる。まさしく、表象があり、それが生存となる──あるいは、表象が、ここにおいて、生存において、存在する──ということで、「表象の生存」。〔その〕反対によって、「表象なき生存」。粗雑なる表象の状態なきことから、かつまた、繊細なる〔表象〕の状態あることから、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものが、この生存においてある、ということで、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存」。一つの形態の範疇によって構成された生存が、「一つの構成としての生存」。あるいは、一つの構成が、この生存にはある、ということで、「一つの構成としての生存」。これが、四つの構成〔としての生存〕と五つの構成としての生存について、〔共通する説示の〕方法となる(形態の範疇を除く四つの範疇を有する生存が四つの構成としての生存で、五つの範疇すべてを有する生存が五つの構成としての生存)。
§255 そこにおいて、欲望の生存は、五つの〔心身を構成する〕執取された範疇(五取蘊)である。そのように、形態の生存がある(同様である)。形態なき生存は、四つ〔の執取された範疇〕である。表象の生存は、四つ〔の執取された範疇〕と五つ〔の執取された範疇〕である。表象なき生存は、一つの執取された範疇である。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存は、四つ〔の執取された範疇〕である。一つの構成としての生存等々は、諸々の執取された範疇あることから、一つ〔の範疇〕と四つ〔の範疇〕と五つの範疇である。ということで、ここにおいて、このように、法(性質)〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
648.
§256 (3)また、「義(目的)を有するもの〔の観点〕から」とは、(3―1)そして、すなわち、〔ここにおける〕生存についての釈示において〔説かれた〕ように、まさしく、そのように、もちろん、諸々の形成〔作用〕についての釈示においてもまた、まさしく、功徳ある行作等々が説かれた。たとえ、このように存しているとして、前には(諸々の形成作用についての釈示においては)、過去の行為を所以に、ここ(現世)への結生にとっての縁たることから〔説かれたのであり〕、これら〔の行為の生存としての功徳ある行作等々〕は、現在の行為を所以に、未来の結生にとっての縁たることから〔説かれた〕、ということで、〔ここにおける〕さらなる〔釈示の〕言葉は、まさしく、義(目的)を有するものとなる。(3―2)あるいは、前には、「そこにおいて、どのようなものが、功徳ある行作であるのか。欲望の行境の善なる思欲である」(ヴィバンガp.135)という、このような〔言葉〕等の方法によって、諸々の思欲だけが、諸々の形成〔作用〕である、と説かれたが、また、ここでは、「生存に至る行為は、全てもろともに、〔行為の生存となる〕」(ヴィバンガp.137)という言葉から、諸々の思欲と結び付いた〔法〕もまた〔包摂されたものとしてある〕。(3―3)さらに、前には、識知〔作用〕の縁たる行為だけが、諸々の形成〔作用〕である、と説かれたが、今や、表象なき生存に発現した〔行為〕もまた〔包摂されたものとしてある〕。あるいは、〔これ以上の〕多く〔の言葉〕が何になるというのだろう(もはや多言を要さない)。
§257 (3―4)「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」とは、ここにおいて、功徳ある行作等々の善なる〔諸法〕と善ならざる諸法(性質)だけが説かれたが、「執取という縁あることから、生存があります」とは、また、ここでは、再生の生存もまた包摂されたものとしてあることから、善なる〔諸法〕と善ならざる〔諸法〕と〔善悪が〕説き明かされない諸法(性質)が説かれた。それゆえに、一切点においてもまた、この、さらなる言葉は、まさしく、義(目的)を有するものとなる。ということで、ここにおいて、このように、義(目的)を有するもの〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
649.
§258 (4・5)「細別と包摂〔の観点〕から」とは、執取という縁あることからある生存の、まさしく、そして、細別〔の観点〕から、さらに、包摂〔の観点〕から。
(4)まさに、すなわち、(4―1)欲望への執取という縁あることから、欲望の生存に発現させるものとして為される行為は、それは、行為の生存であり、その〔行為〕によって発現した諸々の範疇は、再生の生存である。これが、形態ある〔生存〕と形態なき生存について、〔共通する説示の〕方法となる。このように、欲望への執取という縁あることから──【573】二つの欲望の生存があり、そして、それに内含されるものとして、表象の生存と五つの構成としての生存がある──二つの形態の生存があり、そして、それに内含されるものとして、表象の生存と表象なき生存と一つの構成としての生存と五つの構成としての生存がある──二つの形態なき生存があり、そして、それに内含されるものとして、表象の生存と表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存と四つの構成としての生存がある。ということで、諸々の内含された〔生存〕と共に、六つの生存がある。そして、すなわち、(4―1)欲望への執取という縁あることから、諸々の内含された〔生存〕と共に、六つの生存があるように、そのように、(4―2・3・4)残りの〔三つの〕執取という縁あることからもまた、〔諸々の内含された生存と共に、十八の生存がある〕。ということで、このように、執取という縁あることから、細別〔の観点〕から〔説くなら〕、諸々の内含された〔生存〕と共に、二十四の生存がある。
§259 (5)また、包摂〔の観点〕から、(5―1)行為の生存を、さらに、再生の生存を、一つに為して(一括して)、欲望への執取という縁あることから、諸々の内含された〔生存〕と共に、一つの欲望の生存がある。そのように、形態ある〔生存〕と形態なき生存がある(同様である)。ということで、三つの生存がある。そのように、残りの〔三つの〕執取という縁あることからもまた、〔諸々の内含された生存と共に、九つの生存がある〕。ということで、このように、執取という縁あることから、包摂〔の観点〕から〔説くなら〕、諸々の内含された〔生存〕と共に、十二の生存がある。
§260 (5―2)さらに、また、差異なき〔の観点〕によって〔説くなら〕、執取という縁あることから、欲望の生存に近しく赴く行為は、行為の生存であり、その〔行為〕によって発現した諸々の範疇は、再生の生存である。これが、形態ある〔生存〕と形態なき生存について、〔共通する説示の〕方法となる。このように、執取という縁あることから、諸々の内含された〔生存〕と共に、二つの欲望の生存があり、二つの形態の生存があり、二つの形態なき生存がある。ということで、他の教相〔の観点〕によって〔説くなら〕、包摂〔の観点〕から、六つの生存がある。(5―3)あるいは、行為の生存と再生の生存の細別に近しく赴かずして〔説くなら〕、諸々の内含された〔生存〕と共に、欲望の生存等を所以に、三つの生存と成る。(5―4)さらに、欲望の生存等の細別に近しく赴かずして〔説くなら〕、行為の生存と再生の生存を所以に、二つの生存と成る。(5―5)さらに、また、行為と再生の細別に近しく赴かずして〔説くなら〕、「執取という縁あることから、生存がある」と、生存を所以に、一つだけの生存と成る。ということで、ここにおいて、このように、執取という縁あることからある生存の細別と包摂〔の観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
650.
§261 (6)「そして、それが、それにとって、縁と〔成るなら〕」とは、そして、ここにおいて、その執取が、その〔生存〕にとって、縁と成るなら、その〔観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである、という義(意味)である。「また、ここにおいて、何が、何にとって、縁と成るのか」〔と問うなら〕、「何であれ、どのようなものも、何であれ、どのようなものにとっても、まさしく、縁と成る」〔と答える〕。なぜなら、凡夫は、狂者のように〔世に有り〕、彼は、「これは、道理あることである」「これは、道理なきことである」と想念せずして、それが何であれ、執取を所以に、それが何であれ、生存を切望して、それが何であれ、まさしく、行為を為すからである。それゆえに、すなわち、一部の者たちが、「戒や掟への執取によって、形態ある〔生存〕と形態なき生存は有ることなし」と説くとして、それは、収め取られるべきではない(その説は承認できない)。いっぽう、一切によって、一切が有る、と収め取られるべきである。
§262 (6―1)それは、すなわち、この──ここに、一部の者は、あるいは、〔他者からの〕聴聞を所以に、あるいは、〔自己の〕見解に従い行くことで、「諸々の欲望は、まさに、これらは、まさしく、そして、人間の世における士族や大家の家系等々において〔等しく実現するところとなり〕、さらに、六つの欲望の行境の天の世(六欲天)において等しく実現するところとなる」と思い考えて、それらへの到達を義(目的)に、【574】正ならざる法(教え)の聴聞等々によって騙された者となり、「この行為によって、諸々の欲望は成就する」と思いながら、欲望への執取を所以に、身体による悪しき行ない等々をもまた為す。彼は、悪しき行ないの円満成就によって、悪所に再生する(※)。あるいは、現に見られるものとしての諸々の欲望〔の対象〕を切望しながら、かつまた、諸々の獲得したものを守りながら、欲望への執取を所以に、身体による悪しき行ない等々を為す。彼は、悪しき行ないの円満成就によって、悪所に再生する。そこで、彼の、再生の因と成った行為は、行為の生存であり、行為によって発現した諸々の範疇は、再生の生存である。また、まさしく、それに内含されるものとして、表象の生存と五つの構成としての生存がある。
※ テキストには uppajjati とあるが、VRI版により upapajjati と読む。以下の uppajjati についても、同様に upapajjati と読む。
§263 (6―2)また、他の者は、正なる法(教え)の聴聞等々によって、知恵が増進した者となり、「この行為によって、諸々の欲望が成就する」と思いながら、欲望への執取を所以に、身体による善き行ない等々を為す。彼は、善き行ないの円満成就によって、あるいは、天〔の神々〕たちにおいて〔再生し〕、あるいは、人間たちにおいて再生する。そこで、彼の、再生の因と成った行為は、行為の生存であり、行為によって発現した諸々の範疇は、再生の生存である。また、まさしく、それに内含されるものとして、表象の生存と五つの構成としての生存がある。かくのごとく、欲望への執取が、細別を有し内含されたものを有する欲望の生存にとって、縁と成る。
§264 (6―3)他の者は、「諸々の欲望は、その〔欲望の生存における〕よりも、形態ある〔生存〕と形態なき生存において、より等しく実現するところとなる」と、あるいは、聞いて、あるいは、遍く想い描いて(妄想して)、まさしく、欲望への執取を所以に、形態ある〔生存〕か形態なき生存への入定を発現させて、入定の力によって、形態〔の生存〕か形態なき生存の梵の世において再生する。そこで、彼の、再生の因と成った行為は、行為の生存であり、行為によって発現した諸々の範疇は、再生の生存である。また、まさしく、それに内含されるものとして、表象〔の生存〕と表象なき〔生存〕と表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔生存〕と一つ〔の構成としての生存〕と四つ〔の構成としての生存〕と五つの構成としての生存がある。かくのごとく、欲望への執取が、細別を有し内含されたものを有する形態ある〔生存〕と形態なき生存にとってもまた、縁と成る。
§265 (6―4)他の者は、「この自己は、まさに、あるいは、欲望の行境の得達の生存(善き境遇)が〔断絶されたとき〕、あるいは、形態ある〔生存〕と形態なき生存のなかのどちらか一つが断絶されたとき、確実に断絶されたもの(虚無)と成る」と、断絶の見解に執取して、それに近しく赴く行為を為す。彼の、行為は、行為の生存であり、行為によって発現した諸々の範疇は、再生の生存である。また、まさしく、それに内含されるものとして、表象の生存等々がある。かくのごとく、見解への執取が、細別を有し内含されたものを有する欲望〔の生存〕と形態ある〔生存〕と形態なき生存の三つもろともにとって、縁と成る。
§266 (6―5)他の者は、「この自己は、まさに、あるいは、欲望の行境の得達の生存(善き境遇)において、あるいは、形態ある〔生存〕と形態なき生存のなかのどちらか一つにおいて、安楽あるものと成り、苦悶が離れ去ったものと〔成る〕」と、自己の論への執取によって、それに近しく赴く行為を為す。彼の、その行為は、行為の生存であり、それによって発現した諸々の範疇は、【575】再生の生存である。また、まさしく、それに内含されるものとして、表象の生存等々がある。かくのごとく、自己の論への執取が、細別を有し内含されたものを有する三つの生存にとって、縁と成る。
§267 (6―6)他の者は、「この戒と掟は、まさに、あるいは、欲望の行境の得達の生存(善き境遇)において、あるいは、形態ある〔生存〕と形態なき生存のなかのどちらか一つにおいて、〔それを〕円満成就させつつあるなら、安楽の円満成就に至る」と、戒や掟への執取を所以に、それに近しく赴く行為を為す。彼の、その行為は、行為の生存であり、それによって発現した諸々の範疇は、再生の生存である。また、まさしく、それに内含されるものとして、表象の生存等々がある。かくのごとく、戒や掟への執取が、細別を有し内含されたものを有する三つの生存にとって、縁と成る。
ここにおいて、このように、その〔執取〕が、その〔生存〕にとって、縁と成るなら、その〔観点〕からもまた、判別〔の方法〕が識知されるべきである。
§268 (7)「また、ここにおいて、どのような〔執取〕が、どのような生存にとって、どのように縁と成るのか」と、もし〔問うなら、以下のように答える〕。
〔そこで、詩偈に言う〕「執取は、形態ある〔生存〕と形態なき生存にとって、近しき依所たる縁と〔成り〕、それは、欲望の生存にとって、共に生じた〔縁〕等々によってもまた、〔縁と成る〕、と識知されるべきである」〔と〕。
§269 まさに、この執取は、四種類もろともに、形態ある〔生存〕と形態なき生存にとって、そして、欲望の生存に属している、行為の生存における善なる行為にとってだけ、さらに、再生の生存にとって、近しき依所たる縁を所以に、一種にだけ縁と成り、欲望の生存における自己と結び付いた善ならざる行為の生存にとって(※)、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と結合の〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕と因としての縁の細別ある、共に生じた〔縁〕等々によって、縁と成り、また、〔欲望の生存における自己と〕結び付かない〔善ならざる行為の生存〕にとって、近しき依所たる縁によってだけ、〔縁と成る〕。ということで──
これが、「執取という縁あることから、生存があります」という句についての詳細の言説となる。
※ テキストには sampayuttā kusalā kammabhavassa とあるが、VRI版により sampayuttākusalakammabhavassa と読む。
651.
[10・11 「生存という縁あることから、生があります」「生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します」]
§270 「生存という縁あることから、生(生)があります」という〔言葉〕等々について。生等々の判別〔の方法〕は、まさしく、真理についての釈示において説かれた方法によって(Ch.16§31)、知られるべきである。また、「生存」とは、ここにおいて、行為の生存だけが、志向するところとなる。なぜなら、それは、生にとっての縁であり、再生の生存は、〔生にとっての縁では〕ないからである。また、それは、行為としての縁と近しき依所たる縁を所以に、二種に縁と成る、と〔知られるべきである〕。
§271 そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「また、どのように、『生存は、生にとって、縁と〔成る〕』と、このことが知られるべきであるのか」と、もし〔問うなら〕、「たとえ、外なる縁が等しくあるときも、下劣なると精妙なること等の差異を見ることから」〔と答える〕。なぜなら、たとえ、父と母と白(精子)と赤(卵子)と食等々の外なる縁が等しくあるときも、たとえ、双子として存している有情たちにも、下劣なると精妙なること等の差異が見られるからである。そして、それは、かつまた、一切時に、かつまた、一切の者にとって、【576】〔等しき〕状態なきことから、因なきものではない──それによって発現した有情たちに、内なる相続における他の契機の状態なきことから、行為の生存より他〔の因〕を因とするものではない──ということで、まさしく、行為の生存を因とするものとしてある。なぜなら、行為は、有情たちの下劣なると精妙なること等の差異にとっての因であるからである。それによって、世尊は言う。「行為は、有情たちを区別します。すなわち、この、下劣なると精妙なることへと」(マッジマ・ニカーヤ3p.203)と。それゆえに、「生存は、生にとって、縁と〔成る〕」と、このことが知られるべきである。
§272 さらに、すなわち、生が存していないとき、老と死は、あるいは、憂い等々の諸法(性質)は、まさに、有ることなくあり、いっぽう、生が存しているとき、まさしく、そして、老と死が〔有り〕、そして、あるいは、「老と死」と名づけられた苦しみの法(性質)に接触された愚者たる人には、老と死に連結する〔憂い等々の諸法〕が〔有り〕、あるいは、〔老と死以外の〕それぞれの苦しみの法(性質)に接触された者には、そして、〔老と死に〕連結しない憂い等々の諸法(性質)が有ることから、それゆえに、この生もまた、まさしく、そして、老と死にとって、さらに、憂い等々にとって、縁と成る、と知られるべきである。また、それは、近しき依所たる〔縁〕の唯一によって、一種にだけ縁と成る。ということで──
これが、「生存という縁あることから、生があります」等々についての詳細の言説となる。
652.
[12 生存の輪についての言説(※)]
※ テキストには Sokādīhi avijjā, siddhā とあるが、VRI版により Bhavacakkakathā と読む。以下、章末まで見出しを省略する。
§273 また、ここにおいて、すなわち、憂い等々が、最後に説かれたことから、それゆえに、すなわち、その、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」と、このように、この生存の輪の最初に説かれた〔無明〕であるが、それは──
〔そこで、詩偈に言う〕「無明は、憂い等々によって実現したものであり、この生存の輪は、最初が知られざるものにして(※)、作り手と受け手が絶無なるもの、十二種類の空性について空なるものである」〔ということで〕──
〔この生存の輪は〕常久に、連続して転起する、と知られるべきである。
※ テキストには bhavacakkamaviditādīnidaṃ とあるが、VRI版により bhavacakkamaviditādimidaṃ と読む。
§274 (1)「また、ここにおいて、どのように、無明は、憂い等々によって実現したのか」(2)「どのように、この生存の輪は、最初が知られざるのか」(3)「どのように、作り手と受け手が絶無なるのか」(4)「どのように、十二種類の空性について空なるのか」と、もし〔問うなら、以下のように答える〕。
§275 (1)まさに、ここにおいて、憂いと失意と葛藤は、無明との別離なきものであり、さらに、嘆きは、まさに、迷乱した者にある、ということで、まずは、それら〔の憂いと失意と葛藤と嘆き〕が実現したとき、無明は、実現したものと成る。さらに、また、「煩悩(漏)の集起あることから、無明の集起があります」(マッジマ・ニカーヤ1p.54)と、〔世尊によって〕説かれ、そして、煩悩の集起あることから、これらの憂い等々が有る。どのようにか。
§276 (1―1)まずは、事物の欲望(意に適う欲望の対象:Ch.4§83)との別離あるとき、憂いは、欲望の煩悩の集起あることから(※)有る。すなわち、〔世尊が〕言うように──
〔そこで、詩偈に言う〕「もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして、人に、欲〔の思い〕が生じたとして、それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するなら、矢に貫かれた者のように悩み苦しむ」(スッタニパータ767)と。
さらに、すなわち、〔世尊が〕言うように、「欲望から、憂いが生まれ、[欲望から、恐れが生まれる。欲望〔の拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない]」(ダンマパダ215)と。
※ テキストには kāmāsavasamudayo とあるが、VRI版により kāmāsavasamudayā と読む。
§277 (1―2)そして、これら〔の憂いと失意と葛藤と嘆き〕は、全てもろともに、見解の煩悩の集起あることから有る。すなわち、〔世尊が〕言うように、「〔まさに〕その、『わたしは、形態である』【577】『形態は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、形態の変化と他化の状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起します」(サンユッタ・ニカーヤ3p.3)と。
§278 (1―3)そして、すなわち、〔憂いと失意と葛藤と嘆きが〕見解の煩悩の集起あることからあるように、このように、生存の煩悩の集起あることからもまたある。すなわち、〔世尊が〕言うように、「すなわち、また、それらの、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちであり、諸々の高貴なる天宮に長く止住する者たちである、天〔の神々〕たちも、彼らもまた、如来の法(教え)の説示を聞いて、多くのところが、恐怖と畏怖と恐慌を惹起します」(サンユッタ・ニカーヤ3p.85)と、五つの〔衰失の〕前兆(五衰)を見て、死の恐怖によって恐慌した天〔の神々〕たちのばあいのように。
§279 (1―4)さらに、すなわち、〔憂いと失意と葛藤と嘆きが〕生存の煩悩の集起あることからあるように、このように、無明の煩悩の集起あることからもまたある。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、まさしく、所見の法(現法:現世)において、三種類の苦痛と失意を得知します」(マッジマ・ニカーヤ3p.163)と。
かくのごとく、すなわち、煩悩の集起あることから、これら〔の憂い等々〕の諸法(性質)が有ることから、それゆえに、これら〔の憂い等々の諸法〕が実現しているなら、〔これらの憂い等々の諸法は〕無明にとっての因として有る諸々の煩悩を遂行する(実現させる)。そして、諸々の煩悩が実現したときは──縁の状態あるとき、〔果の〕状態あることから──無明もまた、まさしく、実現したものと成る。ということで、まずは、ここにおいて、このように、無明は、憂い等々によって実現したものと成る、と知られるべきである。
§280 (2)また、すなわち、このように──縁の状態あるとき、〔果の〕状態あることから──無明が実現したときは、ふたたび、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある」ということで、このように、因と果の再帰には結末が存在しないことから、それゆえに、〔まさに〕その、因と果の連結を所以に転起された、十二の支分ある生存の輪は、「最初が知られざるもの」として実現したものと成る。
§281 「このように存しているとして、『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります』という、この、最初を〔無明〕のみとする言説と、矛盾するのでは」と、もし〔問うなら、以下のように答える〕。これは、最初を〔無明〕のみとする言説ではない。また、これは、根本についての法(性質)の言説である(§107-8)。なぜなら、無明は、〔過去と現在と未来の〕三つの転起(§298)にとっての根本であり、まさに、無明を収め取る(妄想し執着する)ことで、そして、残りの〔心の〕汚れの転起が、さらに、行為等々が、愚者を障害するからである──蛇の頭を収め取ることで、残りの蛇の肉体が腕に〔巻き付く〕ように。また、無明の断絶が為されたとき、それら〔の残りの心の汚れや行為等々〕からの解脱が有る──蛇の頭の断絶が為されたとき、巻き付かれた腕の〔蛇からの〕解脱が〔有る〕ように。すなわち、〔世尊が〕言うように、「まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります」(サンユッタ・ニカーヤ2p.4)等と。かくのごとく、それを収め取っている者には結縛が〔有り〕、しかしながら、解き放っている者には解脱が有る、〔まさに〕その、〔無明という〕根本の法(性質)のための言説であり、これは、最初を〔無明〕のみとする言説ではない。ということで、このように、この生存の輪は、最初が知られざるものと〔成る〕、と知られるべきである。
§282 【578】(3)〔まさに〕その、この〔生存の輪〕は、すなわち、無明等々の契機による諸々の形成〔作用〕等々の転起あることから、それゆえに、その〔無明〕より他の、「梵〔天〕である」「大いなる梵〔天〕である」「最勝者である」「創造者である」と、このように遍く想い描かれた、あるいは、梵〔天〕等の輪廻の作り手が〔絶無なるものと成り〕、また、その〔生存の輪〕は、まさに、「これは、わたしの自己である──説く者であり、感受する者である」と、このように遍く想い描かれた、あるいは、自己という楽と苦の受け手が絶無なるものと〔成る〕。ということで、作り手と受け手が絶無なるものと〔成る〕、と知られるべきである。
§283 (4)また、ここにおいて、すなわち、無明は、生成と衰失の法(性質)たることから、常恒の状態が〔空なるものと成り〕、汚染されたものたることから、かつまた、汚染するものたることから、浄美なる状態が〔空なるものと成り〕、生成と衰失によって責め苛まれたものたることから、安楽の状態が〔空なるものと成り〕、さらに、縁に依止した転起あることから、自在に転起するものとして有る自己状態が空なるものと〔成り〕、そのように、諸々の形成〔作用〕等々の〔残りの〕支分もまたあることから、あるいは、すなわち、無明は、自己ではなく、自己のものではなく、自己のうちになく、自己あるものではなく、そのように、諸々の形成〔作用〕等々の〔残りの〕支分もまたあることから、それゆえに、この生存の輪は、十二種類(十二の縁起の支分)の空性について空なるものと〔成る〕、と知られるべきである。
653.
§284 そして、このように説いて、ふたたび──
〔そこで、詩偈に言う〕「その〔生存の輪〕には、無明と渇愛という根元があり、過去等々の三つの時があり、それら〔の過去等々の三つの時〕について、形態を共にする〔観点〕から、〔過去のものとして〕二つ〔の支分があり〕、〔現在のものとして〕八つ〔の支分があり〕、さらに、まさしく、〔未来のものとして〕二つの支分がある」〔と〕。
§285 また、まさに、その、この生存の輪には、無明、さらに、渇愛、という、二つの法(性質)の根元がある、と知られるべきである。〔まさに〕その、この〔生存の輪〕は、過去の極(前際:過去の種々相)から運び込むことから、無明を根元とし感受を最後とするもの、未来の極(後際:未来の種々相)へと相続することから、渇愛を根元とし老と死を最後とするもの、という、二種類のものと成る。
§286 そこにおいて、前のものは、見解の行ないの者を所以に説かれ、後のものは、渇愛の行ないの者を所以に〔説かれた〕。なぜなら、見解の行ないの者たちにとっては、無明が〔輪廻の導き手となり〕、そして、渇愛の行ないの者たちにとっては、渇愛が輪廻の導き手となるからである。あるいは、断絶の見解(断見)の根絶のために、果の生起の諸因の断絶なき〔状態〕を明示する〔観点〕から、第一のものが〔説かれ〕、常久の見解(常見)の根絶のために、諸々の生起したものには老と死があることを明示する〔観点〕から、第二のものが〔説かれた〕。あるいは、〔母の〕胎に臥す者(胎生)を所以に、順次の転起を提示する〔観点〕から、前のものが〔説かれ〕、化生の者を所以に、一度の生起を提示する〔観点〕から、後のものが〔説かれた〕。
§287 さらに、その〔生存の輪〕には、過去と現在と未来の三つの時がある。それら〔の三つの時〕について、聖典において、形態を共にする〔観点〕から言及されたものを所以に、無明、さらに、諸々の形成〔作用〕、という、二つの支分の過去の時(過去世)があり、識知〔作用〕を最初とし生存を最後とする、八つ〔の支分〕の現在の時(現世)があり、まさしく、そして、生、さらに、老と死の、二つ〔の支分〕の未来の時(未来世)がある、と知られるべきである。
654.
§288 【579】ふたたび──
〔そこで、詩偈に言う〕「この〔生存の輪〕は、(1)因〔を前とするもの〕と果〔を前とするもの〕と因を前とするものという三つの連鎖あるものとなり、かつまた、(2)四つの細別による包摂あるものとなり、(3)二十の行相の輻あるものとなり、(4)三つの転起あるものとして、定めなく迷走する」〔と〕。
かくのごとくもまた、知られるべきである。
§289 (1)そこにおいて、そして、諸々の形成〔作用〕の、さらに、結生の識知〔作用〕の、〔両者の〕間に、一つの因と果の連鎖がある、ということになり、そして、感受の、さらに、渇愛の、〔両者の〕間に、一つの果と因の連鎖がある、ということになり、そして、生存の、さらに、生の、〔両者の〕間に、一つの因と果の連鎖がある。ということで、このように、この〔生存の輪〕は、因〔を前とするもの〕と果〔を前とするもの〕と因を前とするものという三つの連鎖あるものとなる、と知られるべきである。
§290 (2)また、その〔生存の輪〕には、〔三つの〕連鎖の最初と結末〔の差異〕が定め置かれた四つの包摂が有る。それは、すなわち、この──無明と諸々の形成〔作用〕が一つの包摂となり、識知〔作用〕と名前と形態と六つの〔認識の〕場所と接触と感受が第二〔の包摂〕となり、渇愛と執取と生存が第三〔の包摂〕となり、生と老と死が第四〔の包摂〕となる。ということで、このように、この〔生存の輪〕は、四つの細別による包摂あるものとなる、と知られるべきである。
§291 (3)〔そこで、詩偈に言う〕「(3―1)過去における五つの因があり、(3―2)今〔世〕における果の五なるものがあり、(3―3)今〔世〕における五つの因があり、(3―4)未来における果の五なるものがある」と。
また、これらの「二十の行相」と名づけられた輻によって、二十の行相の輻あるものとなる、と知られるべきである。
§292 (3―1)そこにおいて、「過去における五つの因があり」とは、まずは、無明、そして、諸々の形成〔作用〕、という、まさしく、これらの二つのものが説かれ、また、すなわち、無知なる者は思い悩み、思い悩む者は執取し、彼には、執取という縁あることから、生存があることから、それゆえに、渇愛と執取と生存もまた、〔無明と諸々の形成作用に〕包摂されたものと成る。それによって、〔聖典に〕言う。「過去(過去世)の行為の生存(業有)において、(3―1―1)迷妄としてある無明、(3―1―2)専業としてある諸々の形成〔作用〕、(3―1―3)欲念としてある渇愛、(3―1―4)近接としてある執取、(3―1―5)思欲としてある生存、という、過去(過去世)の行為の生存における、これらの五つの法(性質)は、ここ(現世)に、結生にとって、縁となる」(パティサンビダー・マッガ1p.52)と。
§293 そこにおいて、「過去(過去世)の行為の生存において」とは、過去〔の生〕における行為の生存において。過去の生において、行為の生存が為されているとき、という義(意味)である。(3―1―1)「迷妄としてある無明」とは、すなわち、そのとき、苦しみ等々について迷妄があり、その〔迷妄〕によって迷乱した者が行為を為すなら、それが、「〔迷妄としてある〕無明」〔ということになる〕。(3―1―2)「専業としてある諸々の形成〔作用〕」とは、その行為を為している者に、すなわち、〔行為の〕前のものとしての諸々の思欲があるなら、〔それらが、「専業としてある諸々の形成作用」ということになる〕──すなわち、「布施を施すのだ」と、心を生起させて、〔一〕月でさえも、一年でさえも、諸々の布施の資益を準備している者に生起した、〔行為の〕前のものとしての諸々の思欲のように。また、納受する者たちの【580】手に施物を置きつつある者の思欲は、「〔思欲としてある〕生存」と説かれる。あるいは、一つの傾注する〔作用〕と六つの疾走〔作用〕における思欲の専業が、「〔専業としてある〕諸々の形成〔作用〕」ということになり、第七〔の疾走作用の思欲〕が、「〔思欲としてある〕生存」〔ということになる〕。また、あるいは、それが何であれ、思欲であるなら、「〔行為の〕生存」〔ということになり〕、〔思欲と〕結び付いた専業が、「諸々の形成〔作用〕」ということになる。(3―1―3)「欲念としてある渇愛」とは、すなわち、行為を為している者にとっての果である再生の生存にたいし、欲念や切望があるなら、それが、「〔欲念としてある〕渇愛」ということになる。(3―1―4)「近接としてある執取」とは、すなわち、行為の生存にとっての縁として有るもので、「これを為して、何某という名の境位において、諸々の欲望〔の対象〕を、〔わたしは〕慣れ親しむのだ、〔わたしは〕断ち切るのだ」という〔言葉〕等の方法によって転起された、近しく赴くこと、収め取ること、偏執することが、これが、「〔近接としてある〕執取」ということになる。(3―1―5)「思欲としてある生存」とは、専業〔としてある諸々の形成作用〕の最後にあると説かれた思欲が、「〔思欲としてある〕生存」〔ということになる〕。ということで、このように、義(意味)が知られるべきである。
§294 (3―2)「今〔世〕における果の五なるものがあり」とは、識知〔作用〕を最初とし感受を最後とする〔五つの支分〕が、まさしく、聖典において言及された。すなわち、〔聖典に〕言うように、「ここ(現世)に、(3―2―1)結生としてある識知〔作用〕、(3―2―2)入胎としてある名前と形態、(3―2―3)〔機能の〕澄浄(正常な感官機能)としてある〔認識の〕場所、(3―2―4)接触されたものとしてある接触、(3―2―5)感受されたものとしてある感受、という、ここ(現世)に、再生の生存(生有)における、これらの五つの法(性質)は、先(過去世)に作り為された行為にとって、縁から〔発生する果となる〕」(パティサンビダー・マッガ1p.52)と。
§295 そこにおいて、(3―2―1)「結生としてある識知〔作用〕」とは、すなわち、別の生存に結生することを所以に生起したことから、「結生」と説かれるなら、それが、「〔結生としてある〕識知〔作用〕」〔ということになる〕。(3―2―2)「入胎としてある名前と形態」とは、すなわち、〔母の〕胎において、諸々の形態と形態なき法(性質)の至り来て入り行くような入胎であるなら、これが、「〔入胎としてある〕名前と形態」〔ということになる〕。(3―2―3)「〔機能の〕澄浄(正常な感官機能)としてある〔認識の〕場所」とは、これは、眼等の五つの〔認識の〕場所を所以に説かれたものである。(3―2―4)「接触されたものとしてある接触」とは、すなわち、対象と接触したものが、〔対象と〕接触しつつ、生起したものであるなら、これが、「〔接触されたものとしてある〕接触」〔ということになる〕。(3―2―5)「感受されたものとしてある感受」とは、すなわち、あるいは、結生の識知〔作用〕と〔共に生起したもので〕、あるいは、六つの〔認識の〕場所を縁とする接触と共に生起したもので、報いとしての感受されたものであるなら、それが、「〔感受されたものとしてある〕感受」〔ということになる〕。ということで、このように、義(意味)が知られるべきである。
§296 (3―3)「今〔世〕における五つの因があり」とは、渇愛等々〔の五つの支分〕が、聖典において言及された。渇愛と執取と生存があり、生存が収め取られたとき、その〔生存〕の前段部分〔としての諸々の形成作用〕が、あるいは、それと結び付いた諸々の形成〔作用〕が、まさしく、収め取られたものと成り(包摂される)、さらに、渇愛と執取を収め取ることによって、それと結び付いた〔無明〕が(※)、あるいは、その〔無明〕によって迷乱した者が行為を為すなら、その無明が、まさしく、収め取られたものと成る(包摂される)。ということで、このように、五つ〔の因〕がある。それによって、〔聖典に〕言う。「諸々の〔認識の〕場所の完熟したものたることから、ここ(現世)に、(3―3―1)迷妄としてある無明、(3―3―2)専業としてある諸々の形成〔作用〕、(3―3―3)欲念としてある渇愛、(3―3―4)近接としてある執取、(3―3―5)思欲としてある生存、という、ここ(現世)に、行為の生存における、これらの五つの法(性質)は、未来(未来世)に、結生にとって、縁となる」(パティサンビダー・マッガ1p.52)と。そこにおいて、「諸々の〔認識の〕場所の完熟したものたることから、ここ(現世)に」とは、完熟した〔認識の〕場所ある者が行為を作り為す時における迷妄を見示したもの。残りのものは、まさしく、明瞭である。
※ テキストには taṃsampayutta とあるが、VRI版により taṃsampayuttā と読む。
§297 【581】(3―4)「未来における果の五なるものがある」とは、識知〔作用〕等々の五つ〔の支分〕である。それら〔の五つの支分〕は、生を収め取ることによって説かれた(生のうちに包摂される)。また、老と死は、まさしく、それら〔の五つの支分〕の、老と死である。それによって、〔聖典に〕言う。「未来(未来世)に、(3―4―1)結生としてある識知〔作用〕、(3―4―2)入胎としてある名前と形態、(3―4―3)〔機能の〕澄浄としてある〔認識の〕場所、(3―4―4)接触されたものとしてある接触、(3―4―5)感受されたものとしてある感受、という、未来(未来世)に、再生の生存における、これらの五つの法(性質)は、ここ(現世)で作り為された行為にとって、縁から〔発生する果となる〕」(パティサンビダー・マッガ1p.52)と。このように、この〔生存の輪〕は、二十の行相の輻あるものと成る。
§298 (4)また、「三つの転起あるものとして、定めなく迷走する」(§288)とは、ここにおいて、諸々の形成〔作用〕と生存としてある行為の転起、無明と渇愛と執取としてある〔心の〕汚れの転起、識知〔作用〕と名前と形態と六つの〔認識の〕場所と接触と感受としてある報いの転起、という、これらの三つの転起によって、この生存の輪は、三つの転起あるものとして、すなわち、〔心の〕汚れの転起が断絶されないかぎり、それまでは、縁が断絶されないことから、定めなく、繰り返し、遍く転起することから、まさしく、迷走する(回り続ける)、と知られるべきである。
655.
§299 〔まさに〕その、このように迷走している、この〔生存の輪〕は──
〔そこで、詩偈に言う〕「(1)真理の起源〔の観点〕から、(2)作用〔の観点〕から、(3)妨げ〔の観点〕から、さらに、(4)諸々の喩え〔の観点〕から、かつまた、(5・6)深遠と方法の細別〔の観点〕から、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである」〔と〕。
§300 (1)そこにおいて、すなわち、善なる〔行為〕と善ならざる行為は、差異なき〔の観点〕によって、〔『ヴィバンガ(分別論)』の〕真理の区分(ヴィバンガp.106)において、集起という真理である、と説かれたことから、それゆえに、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」という〔諸句について〕、無明から〔発生する〕諸々の形成〔作用〕は、第二の真理(集諦)を起源とする第二の真理であり、諸々の形成〔作用〕から〔発生する〕識知〔作用〕は、第二の真理を起源とする第一の真理(苦諦)であり、識知〔作用〕等々から〔発生する〕名前と形態を最初とし報いとしての感受を結末とするもの(名前と形態・六つの認識の場所・接触・感受)は、第一の真理を起源とする第一の真理であり、感受から〔発生する〕渇愛は、第一の真理を起源とする第二の真理であり、渇愛から〔発生する〕執取は、第二の真理を起源とする第二の真理であり、執取から〔発生する〕生存は、第二の真理を起源とする第一と第二の二つの真理であり、生存から〔発生する〕生は、第二の真理を起源とする第一の真理であり、生から〔発生する〕老と死は、第一の真理を起源とする第一の真理である。ということで、まずは、このように、この〔生存の輪〕が、真理の起源〔の観点〕から、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである。
656.
§301 (2)また、ここにおいて、すなわち、無明は、そして、諸々の事物にたいし有情たちを迷妄ならしめ、さらに、諸々の形成〔作用〕の出現にとっての縁と成り、そのように、諸々の形成〔作用〕は、【582】そして、形成されたもの(有為)を行作し、さらに、識知〔作用〕にとっての縁と成り、識知〔作用〕もまた、そして、事物を明言し(認知し)、さらに、名前と形態にとっての縁と成り、名前と形態もまた、そして、互いに他を保全し、さらに、六つの〔認識の〕場所にとっての縁と成り、六つの〔認識の〕場所もまた、そして、境域を有するものにおいて転起し、さらに、接触にとっての縁と成り、接触もまた、そして、対象に接触し、さらに、感受にとっての縁と成り、感受もまた、そして、対象の味を経験し、さらに、渇愛にとっての縁と成り、渇愛もまた、そして、染まるべき法(性質)にたいし染まり(貪るべき事物を貪る)、さらに、執取にとっての縁と成り、執取もまた、そして、執取されるべき法(性質)にたいし執取し、さらに、生存にとっての縁と成り、生存もまた、そして、種々なる境遇において散乱し(分岐し)、さらに、生にとっての縁と成り、生もまた、そして、諸々の〔心身を構成する〕範疇を生じさせ、それら〔の範疇〕の発現の状態によって転起されたことから、さらに、老と死にとっての縁と成り、老と死もまた、そして、諸々の〔心身を構成する〕の成熟と破壊の状態を確立し、さらに、憂い等々を確立することから、別の生存の出現にとっての縁と成ることから、それゆえに、一切の句において、二種に転起あるものとして、作用〔の観点〕からもまた、この〔生存の輪〕が、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである。
657.
§302 (3)そして、ここにおいて、すなわち、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります」とは、この〔句〕は、作り手〔の存在〕の見示を妨げるものであり、「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります」とは、自己の転移の見示を妨げるものであり、「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります」とは、「自己がある」と遍く想い描かれた事物の細別を見示することから、重厚の表象を妨げるものであり、「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります」という〔言葉〕等々は、「自己が見る……略……識知する、接触する、感受する、渇愛する、執取する、生存する(有る)、生まれる、老いる、死ぬ」という、このような〔言葉〕等の見示を妨げるものであることから、それゆえに、誤った見示の妨げ〔の観点〕からもまた、この生存の輪が、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである。
658.
§303 (4)また、ここにおいて、すなわち、無明は、自らの特相(個別的特相)と同等の特相(一般的特相)を所以にする諸法(性質)の見示なきことから、盲者のようなものであり、無明という縁あることからある諸々の形成〔作用〕は、盲者が躓くことのようなものであり、諸々の形成〔作用〕という縁あることからある識知〔作用〕は、躓いた〔盲者〕が倒れ落ちることのようなものであり、識知〔作用〕という縁あることからある名前と形態は、倒れ落ちた〔盲者〕の〔全身における〕腫物の出現のようなものであり、名前と形態という縁あることからある六つの〔認識の〕場所は、腫物の〔悪化〕分裂による吹き出物のようなものであり、六つ〔認識の〕場所という縁あることからある接触は、腫物の〔悪化分裂による〕吹き出物を打ち叩くことのようなものであり、接触という縁あることからある感受は、打ち叩くことによる苦痛のようなものであり、感受という縁あることからある渇愛は、苦痛のための対策にたいする激しい願望のようなものであり、渇愛という縁あることからある執取は、対策にたいする激しい願望によって不当なる〔薬〕を収め取ることのようなものであり、【583】執取という縁あることからある生存は、執取された不当なる〔薬〕を塗り付けることのようなものであり、生存という縁あることからある生は、不当なる〔薬〕を塗り付けることによる腫物の変異の出現のようなものであり、生という縁あることからある老と死は、腫物の変異ののちの腫物の破壊のようなものであることから──また、あるいは、すなわち、ここにおいて、無明は、白内障が〔両の〕眼を〔犯す〕ように、実践なき〔状態〕や誤った実践の状態によって有情たちを征服し、そして、それに征服された愚者は、繭を作る虫が繭の諸部によって〔身を包む〕ように、さらなる生存をもたらす諸々の形成〔作用〕によって自己を包み込み、諸々の形成〔作用〕によって遍く収め取られた識知〔作用〕は、遍き導き手(後見人)によって遍く収め取られた王子が王国において〔確立する〕ように、諸々の境遇において確立〔の縁〕を得、生起の形相について遍く想い描くことから、識知〔作用〕は、幻術師が幻を〔作り為す〕ように、結生において無数の流儀の名前と形態を発現させ、名前と形態において確立した六つの〔認識の〕場所は、肥沃の地に立った林の茂みが〔成長し繁茂する〕ように、増大と成長と広大に至り得、〔認識の〕場所を打ち叩くことから、接触は、火起こしの棒を摩擦することから火が〔起こる〕ように生まれ、接触によって接触された者に、感受は、火によって接触された者に燃焼が〔生じる〕ように出現し、感受している者に、渇愛は、塩水を飲んでいる者に渇きが〔増す〕ように増大し、渇愛した者は、渇いた者が飲み物にたいし〔熱望の思いを抱く〕ように、諸々の生存にたいし激しい願望をもまた作り為し、〔まさに〕その、彼の執取は、魚が餌への貪欲によって釣針を〔飲む〕ように、〔四つの〕執取によって生存に執取し、生存が存しているとき、生は、種が存しているとき、芽が〔出る〕ように有り、生まれた者に、老と死は、生起した木に倒れ落ちることがあるように、まちがいなくあることから──それゆえに、このように、喩え〔の観点〕からもまた、この生存の輪が、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである。
659.
§304 (5)そして、すなわち、世尊によって、(5―1)義(意味)〔の観点〕からもまた、(5―2)法(教え)〔の観点〕からもまた、(5―3)説示〔の観点〕からもまた、(5―4)理解〔の観点〕からもまた、深遠なる状態に関して、「アーナンダよ、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものです」(ディーガ・ニカーヤ2p.55,サンユッタ・ニカーヤ2p.92)と説かれたことから、まさに、それゆえに、深遠の細別〔の観点〕から、この生存の輪が、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである。
§305 (5―1)そこにおいて、すなわち、生から〔発生することが〕ないなら、老と死は有ることなく、かつまた、生なくして、他のものから〔発生する老と死は〕有ることなく、そして、かくのごとく、〔老と死は〕生から生まれ来る、ということで、このように、生という縁あることから生まれ来た義(意味)が覚り難いことから、老と死の、生という縁あることから発生し生まれ来た義(意味)は深遠であり、そのように、生の、生存という縁あることから……略……諸々の形成〔作用〕の、無明という縁あることから発生し生まれ来た義(意味)は深遠であることから、それゆえに、この生存の輪は、義(意味)の深遠なるものとなる。ということで、まずは、ここにおいて、これが、【584】義(意味)の深遠なることとなる。なぜなら、因の果が、「義(意味)」と説かれるからである。すなわち、〔聖典に〕言うように、「因の果についての知恵が、義(意味)の融通無礙である」(ヴィバンガp.293)と。
§306 (5―2)また、すなわち、どのような行相によって、そして、どのような位置の無明が、それらそれらの諸々の形成〔作用〕にとって、縁と成るかが、それが覚り難いことから、無明の、諸々の形成〔作用〕にとっての縁の義(意味)は深遠であり、そのように、諸々の形成〔作用〕の……略……生の、老と死にとっての縁の義(意味)は深遠であることから、それゆえに、この生存の輪は、法(性質)の深遠なるものとなる。ということで、ここにおいて、これが、法(教え)の深遠なることとなる。なぜなら、因には、「法(教え)」という名があるからである。すなわち、〔聖典に〕言うように、「因についての知恵が、法(教え)の融通無礙である」(ヴィバンガp.293)と。
§307 (5―3)そして、すなわち、その〔契機〕、その契機によって、そのとおり、そのとおりに、転起させられるべきことから、その〔縁によって物事が生起する道理〕の説示もまた深遠であり、そこにおいて、一切知者たる知恵より他の知恵は、確立〔の縁〕を得ず、まさに、そのように、この〔縁によって物事が生起する道理〕は、経において、或るところにおいては、順から〔説示され〕、或るところにおいては、逆から〔説示され〕、或るところにおいては、順逆から〔説示され〕、或るところにおいては、中間から始めて、あるいは、順から〔説示され〕、あるいは、逆から〔説示され〕、或るところにおいては、三つの連鎖と四つの簡略が〔説示され〕、或るところにおいては、二つの連鎖と三つの簡略が〔説示され〕、或るところにおいては、一つの連鎖と二つの簡略が説示されたことから、それゆえに、この生存の輪は、説示の深遠なるものとなる。ということで、これが、説示の深遠なることとなる。
§308 (5―4)さらに、ここにおいて、すなわち、無明等々の、すなわち、その、自ずからの状態は深遠であることから──その〔自ずからの状態〕の理解あることで、無明等々は、正しく自らの特相〔の観点〕から理解されたものと成るのだが、それは、遍く沈潜し難いことから──それゆえに、この生存の輪は、理解の深遠なるものとなる。まさに、そのように、ここにおいて、無明の、無知と無見と真理の無理解の義(意味)は深遠であり、諸々の形成〔作用〕の、行作と専業と有貪と離貪の義(意味)は〔深遠であり〕、識知〔作用〕の、空性と無労苦と無転移と(※)結生の出現の義(意味)は〔深遠であり〕、名前と形態の、一なる生起(同時生起)と分解と分解なき〔状態〕と傾くことと壊れ崩れることの義(意味)は〔深遠であり〕、六つの〔認識の〕場所の、優位と世と門と田畑と境域ある状態の義(意味)は〔深遠であり〕、接触の、接触することと相打つことと接合と集合の義(意味)は〔深遠であり〕、感受の、対象の味を経験することと楽なる〔状態〕と苦なる〔状態〕と中なる状態と生命なきものと感受されたものの義(意味)は〔深遠であり〕、渇愛の、愉悦と固執と流れと蔓と川と渇愛の海と満ち難き〔状態〕の義(意味)は〔深遠であり〕、執取の、取ることと収め取ることと固着と偏執と超越し難き〔状態〕の義(意味)は〔深遠であり〕、生存の、専業することと行作することと諸々の胎と境遇と止住と居住のうちに投げ放つことの義(意味)は〔深遠であり〕、生の、出生と産出と入胎と発現と出現の義(意味)は〔深遠であり〕、老と死の、滅尽と衰失と破壊と変化の義(意味)は深遠であることから、〔それゆえに、この生存の輪は、理解の深遠なるものとなる〕。ということで、ここにおいて、これが、理解の深遠なることとなる。
※ テキストには abyāpāra-saṅkanti とあるが、VRI版により abyāpāra-asaṅkanti と読む。
660.
§309 (6)また、ここにおいて、すなわち、(6―1)一なることの方法、(6―2)種々なることの方法、(6―3)労苦なきことの方法、【585】(6―4)このように〔あるがままの〕法(性質)たることの方法、という、四つの義(意味)ある方法が有ることから、それゆえに、方法の細別〔の観点〕からもまた、この生存の輪が、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである。
§310 (6―1)そこにおいて、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります」と、このように、種が芽等の状態によって木の状態に至り得るように、相続の断絶なき〔状態〕が、「一なることの方法」ということになる。それを、〔常に〕正しく見ている者は、因と果の連結によって、相続の断絶なき〔状態〕を覚ることから、断絶の見解を捨棄し、〔常に〕誤って見ている者は、因と果の連結によって、転起している相続の断絶なき〔状態〕を、一なることとして収め取ることから、常久の見解に執取する。
§311 (6―2)また、無明等々の、自らのものなるままに特相を定め置くことが、「種々なることの方法」ということになる。それを、〔常に〕正しく見ている者は、新しいもの新しいものの生起を見ることから、常久の見解を捨棄し、〔常に〕誤って見ている者は、一つの相続に落ちた〔状態〕を、細別された相続であるかのように、種々なることとして収め取ることから、断絶の見解に執取する。
§312 (6―3)無明の、「諸々の形成〔作用〕は、わたしによって生起させられるべきである」〔という〕、あるいは、諸々の形成〔作用〕の、「識知〔作用〕は、わたしたちによって〔生起させられるべきである〕」という、このような〔言葉〕等の労苦の状態(作為的あり方)なきことが、「労苦なきことの方法」ということになる。それを、〔常に〕正しく見ている者は、作り手の状態なきことを覚ることから、自己の見解を捨棄し、〔常に〕誤って見ている者は、無明等々には、たとえ、労苦〔の状態〕が存していないとして、すなわち、因の状態が、自ずからの状態を決定するものとして実現しているのであり、それを収め取らないことから、無作の見解(修行不要論)に執取する。
§313 (6―4)また、牛乳等々から乳酪等々の〔発生〕があるように、無明等々の契機から、諸々の形成〔作用〕等々だけの発生があり、諸他のものの〔発生は〕ない、という、このことが、「このように〔あるがままの〕法(性質)たることの方法」ということになる。それを、〔常に〕正しく見ている者は、縁の適切なるままに果を覚ることから、無因の見解を〔捨棄し〕、さらに、無作の見解を捨棄し、〔常に〕誤って見ている者は、縁の適切なるままに果の転起を収め取らずして、何であれ、どのようなものからも、何であれ、どのようなものにも、発生なき〔状態〕を収め取ることから、まさしく、そして、無因の見解を〔執取し〕、さらに、決定論を執取する。
ということで、このように、この生存の輪は──
〔そこで、詩偈に言う〕「真理の起源〔の観点〕から、作用〔の観点〕から、妨げ〔の観点〕から、さらに、諸々の喩え〔の観点〕から、かつまた、深遠と方法の細別〔の観点〕から、〔状況に応じて〕分のままに識知されるべきである」(§299)〔と〕。
661.
§314 まさに、この〔生存の輪〕は、極めて深遠なることから、依って立つ所なく、種々なる方法ある茂みたることから(※)、立ち向かい難く、禅定(三昧・定)という最も優れた石のうえで善く研いだ知恵の剣によって、生存の輪を破らずして、雷電のように常に〔人を〕撃破する輪廻の恐怖を、たとえ、夢の間ですら(※※)、誰であれ、超え行った者は存在しない。
【586】まさに、また、このことが、世尊によって説かれた。「アーナンダよ、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものです。アーナンダよ、そして、この法(性質)の随覚なく理解なきことから、このように、この〔世の〕人々は、絡んだ紐の類の者たちとなり、縺れた〔糸〕玉の類の者たちとなり、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません」(ディーガ・ニカーヤ2p.55,サンユッタ・ニカーヤ2p.92)と。それゆえに、あるいは、自己の、あるいは、他者たちの、そして、利益のために、さらに、安楽のために、〔道の〕実践者となり、諸々の残りの為すべきことを捨棄して──
〔そこで、詩偈に言う〕「深遠なる縁の行相の細別に、ここに、賢者たる者は、すなわち、依って立つ所を得られるように、このように専念するべきである──常に気づきある者として」と。
ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、智慧のための修行の参究における、「智慧の境地についての釈示」という名の第十七章となる。
※ テキストには Nānāyagahanato とあるが、VRI版により Nānānayagahanato と読む。
※※ テキストには supinantareyyatthi とあるが、VRI版により supinantarepyatthi と読む。