第二十三章 智慧の修行の福利についての釈示

 

854.

 

 六 「何が、智慧の修行にとって、福利であるのか」

 

§1  【698】また、すなわち、〔前に〕説かれた、「何が、智慧の修行にとって、福利であるのか」(Ch.14§1)とは──

 そこにおいて、〔わたしたちは〕説くであろう。まさに、この、「智慧の修行」というものは、幾百の福利がある。詳細〔の観点〕から〔説くなら〕、その〔智慧の修行〕にとっての福利を明示するのは、たとえ、長時をもってしても、為し易いことではない。いっぽう、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、その〔智慧の修行〕の、(1)種々なる〔心の〕汚れを砕破すること、(2)聖者の果の味を経験すること、(3)止滅の入定に入定することができること、(4)〔供物を〕捧げられるべき状態等の実現、という、この福利が知られるべきである。

 

855.

 

 1 種々なる〔心の〕汚れを砕破すること

 

§2  そこにおいて、すなわち、名前と形態の〔範囲の〕限定(見解の清浄:Ch.18)から以降、身体を有するという見解等々を所以にする種々なる〔心の〕汚れを砕破することが説かれ、これが、世〔俗〕の智慧の修行にとっての福利となり、すなわち、聖者の道の瞬間において、束縛するもの等々を所以にする種々なる〔心の〕汚れを砕破することが説かれ、これが、世〔俗〕を超える智慧の修行にとっての福利となる、と知られるベきである。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「恐ろしい勢いで落ちた雷が、諸々の岩山を〔砕破する〕ように──風の勢いで現起した火が、林を〔砕破する〕ように──

 火を有し燃える円輪の太陽が、暗黒を〔砕破する〕ように──長夜にわたり従起してきた〔心の汚れ〕を──義(利益)ならざるものの一切を取り揃える〔心の汚れ〕を──

 まさに、〔心の〕汚れの網を、修められた智慧は砕破する。このゆえに、現に見られるものとして、この福利を、ここ(現世)に、〔智慧ある者は〕知るであろう」〔と〕。

 

856.

 

 2 聖者の果の味を経験すること

 

§3  そして、「聖者の果の味を経験すること」とは、単に、〔心の〕汚れを砕破することだけにあらず、聖者の果の味を経験することもまた、智慧の修行にとっての【699】福利である。なぜなら、「聖者の果」ということで、預流果等の沙門果が説かれるからである。その〔聖者の果〕には、二つの行相による、味を経験することが有る──そして、〔聖者の〕道の道程において、さらに、果の入定を所以にする転起において。

 そこで、その〔聖者の果〕の、〔聖者の〕道の道程における転起は、まさしく、〔前に〕見示された(Ch.22)。

 

857.

 

§4  そして、また、或る者たちが、「まさしく、束縛するものの捨棄のみが、『果』ということになる。何であれ、他の法(性質)は、存在しない」と説くなら、彼らの教導を義(目的)に、この経もまた見示されるべきである。「どのように、専念〔努力〕の安息としての智慧が、果についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい見解が生起する。これが、道にとっての、果となる」(パティサンビダー・マッガ1p.71)と詳知されるべきである。さらに、「四つの聖者の道は、そして、四つの沙門果は、これらの諸法(性質)は、無量なるものを対象とする」(ダンマ・サンガニp.239)「〔形態の行境と形態なき行境の〕莫大なる法(性質)は、無量なる法(性質)にとって、直後なる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.227)という、このような〔言葉〕等々もまた、ここにおいて、諸々の確証となる。

 

858.

 

§5  また、その〔聖者の果〕の、果の入定における転起を見示することを義(目的)に、この、問いの列挙がある。(1)どのようなものが、果の入定であるのか、(2)その〔果の入定〕に、どのような者たちが、入定するのか、(3)どのような者たちが、入定しないのか、(4)何ゆえに、〔彼らは〕入定するのか、(5)そして、その〔果の入定〕には、どのように、入定することが有るのか、(6)どのように、止住することが〔有るのか〕、(7)どのように、出起することが〔有るのか〕、(8)どのようなものが、果の直後にあるのか、(9)そして、どのようなものの直後に、果があるのか、と。

 

859.

 

§6  (1)そこにおいて、「どのようなものが、果の入定であるのか」とは、すなわち、聖者の果の、止滅に専注する〔禅定〕(涅槃を対象とする瞑想)である。

 

860.

 

 (2・3)「その〔果の入定〕に、どのような者たちが、入定するのか、どのような者たちが、入定しないのか」とは、凡夫たちは、全てもろともに、入定しない。「何ゆえにか」と〔問うなら〕、「〔いまだ、果の入定に〕到達していないことから」〔と答える〕。いっぽう、聖者たちは、全てもろともに、入定する。「何ゆえにか」と〔問うなら〕、「〔すでに、果の入定に〕到達したことから」〔と答える〕。いっぽう、上なる〔聖者〕たちが、下なる〔果の入定〕に入定することはない──別の〔聖者たる〕人の状態に近しく赴くことによって、〔下なる果の入定が〕安息されたことから。かつまた、下なる〔聖者〕たちが、上なる〔果の入定〕に〔入定することもない〕──〔いまだ、果の入定に〕到達していないことから。いっぽう、まさしく、自己の〔果〕、自己の果に、〔彼らは〕入定する。ということで、ここにおいて、これが、確定〔の説〕となる。

 

§7  また、或る者たちは、「預流たる者と一来たる者もまた、入定せず、上なる二つ〔の聖者たち〕だけが、入定する」と説く。そして、これが、彼らの、〔その〕契機(自説の根拠)となる。「なぜなら、これら〔の上なる二つの聖者たち〕は、禅定における円満成就を為す者たちであるからである」と。その〔説〕は、凡夫のばあいもまた、自己が獲得した世俗の禅定に入定することから、まさしく、契機なきものとなる。そして、ここにおいて、契機あるも契機なきも思弁によって、何になるというのだろう(考えるまでもないことである)。まさに、まさしく、聖典において説かれたではないか。「どのような十の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に【700】生起するのか。預流道の獲得を義(目的)として、生起を、転起されたものを、[形相を、専業を、結生を、境遇を、発現を、再生を、生を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、]葛藤を、外なる諸々の形成〔作用〕の形相を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。預流果への入定を義(目的)として……。一来道の獲得を義(目的)として……略……。阿羅漢果への入定を義(目的)として……。空性の住への入定を義(目的)として……。無相の住への入定を義(目的)として、生起を……略……外なる諸々の形成〔作用〕の形相を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる」(パティサンビダー・マッガ1p.68)と。それゆえに、聖者たちは、全てもろともに、自己の〔果〕、自己の果に、入定する。ということで、〔この〕結論が、ここにおいて、収め取られるべきである。

 

861.

 

§8  (4)「何ゆえに、〔彼らは〕入定するのか」とは、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)を義(目的)に。まさに、すなわち、王が、王権の安楽を〔経験し〕、天神たちが、天の安楽を経験するように、このように、聖者たちは、「聖なるものにして、世〔俗〕を超える安楽を、〔わたしたちは〕経験するのだ」と、時間の限定を為して、求める〔瞬間〕、求める瞬間において、果の入定に入定する。

 

862.

 

§9  (5・6・7)「そして、その〔果の入定〕には、どのように、入定することが有るのか、どのように、止住することが〔有るのか〕、どのように、出起することが〔有るのか〕」とは──

 (5)まずは、二つの行相によって、その〔果の入定〕には、入定することが有る。涅槃より他の対象に意を為さないことから、さらに、涅槃に意を為すことから、である。すなわち、〔世尊が〕言うように、「友よ、まさに、二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります。そして、一切の形相に意を為さないことであり、さらに、無相なる界域に意を為すことです」(マッジマ・ニカーヤ1p.296)と。

 

863.

 

§10  また、ここにおいて、これが、入定の次第となる(※)。まさに、果の入定を義(目的)とする聖なる弟子によって、静所に赴き静坐する者となり、生成と衰失等を所以に、諸々の形成〔作用〕が見られるべきである。彼に、〔あるがままの〕観察が順次に転起されたなら、諸々の形成〔作用〕を対象とする〔新たな〕種姓と成る知恵の直後に(※※)、果の入定を所以に、心は、止滅に専注する。そして、ここにおいて、果の入定に向かい行くことから、〔いまだ〕学びある者(有学)たちにはまた、果だけが生起し、道は〔生起し〕ない。

 

※ テキストにはsamāpajjanakkhamo とあるが、VRI版により samāpajjanakkamo と読む。

※※ テキストにはsakhārārammaagotrabhuñāantarā とあるが、VRI版により sakhārārammaagotrabhuñāānantarā と読む。

 

§11  また、或る者たちが、「預流たる者は、『果の入定に、〔わたしは〕入定するのだ』と、〔あるがままの〕観察を確立させて、一来たる者と成る。そして、一来たる者は、不還たる者と〔成る〕」と説くなら、彼らは、〔以下のように〕説かれるべきである。「このように存しているなら、不還たる者は、阿羅漢と成るであろう。阿羅漢は、独覚と〔成るであろう〕。そして、独覚は、覚者と〔成るであろう〕」〔と〕。それゆえに、何であれ、この〔説〕は、〔収め取られるべきでは〕ない。さらに、まさしく、聖典を所以に拒絶された、ということでもまた、収め取られるべきではない。いっぽう、まさしく、このことが、収め取られるべきである。「〔いまだ〕学びある者たちにはまた、果だけが生起し、道は〔生起し〕ない」〔と〕。そして、彼には、果が、それで、もし、彼によって、第一の瞑想に属する道が到達されたものと成るなら、まさしく、第一の瞑想に属するものとして生起し、それで、もし、第二〔の瞑想〕等々のうち、どれか一つの瞑想に属する〔道〕が〔到達されたものと成るなら〕、第二〔の瞑想〕等々のうち、まさしく、どれか一つの瞑想に属するものとして〔生起する〕。ということで、まずは、このように、その〔果の入定〕には、入定することが有る。

 

864.

 

§12  【701】(6)また、「友よ、まさに、三つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の止住のための縁があります。そして、一切の形相に意を為さないことであり、かつまた、無相なる界域に意を為すことであり、さらに、過去における行作(事前の決意)です」(マッジマ・ニカーヤ1p.297)という言葉から、三つの行相によって、その〔果の入定〕には、止住することが有る。そこにおいて、「かつまた、過去における行作です」とは、入定より過去〔の時点〕において〔為された〕、時の限定である。まさに、「何某という名の時において、〔わたしは〕出起するであろう」と限定されたことから、その〔果の入定〕には、すなわち、その時がやってこないかぎり、それまでは、止住することが有る。このように、その〔果の入定〕には、止住することが有る、と〔知られるべきである〕。

 

865.

 

§13  (7)また、「友よ、まさに、二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の出起のための縁があります。そして、一切の形相に意を為すことであり、さらに、無相なる界域に意を為さないことです」(マッジマ・ニカーヤ1p.296)という言葉から、二つの行相によって、その〔果の入定〕には、出起することが有る。そこにおいて、「一切の形相に」とは、形態の形相と感受〔作用の形相〕と表象〔作用の形相〕と諸々の形成〔作用の形相〕と識知〔作用〕の形相に。さらに、もちろん、これら〔の形相〕を、まさしく、〔それらの〕全てを、一緒に意を為す、〔ということでは〕ない。いっぽう、一切を包摂するものたるを所以に、この〔言葉〕は説かれた。それゆえに、その〔対象〕が、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の対象として有るなら、その〔対象〕に意を為している者には、果の入定から出起することが有る。ということで、このように、その〔果の入定〕には、出起することが〔有る、と〕知られるべきである。

 

866.

 

§14  (8・9)「どのようなものが、果の直後にあるのか、そして、どのようなものの直後に、果があるのか」とは──

 (8)まずは、果の直後に、あるいは、まさしく、果が有り、あるいは、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕が〔有る〕。

 (9)また、果は、(9―1)道の直後に存在し、(9―2)果の直後に存在し、(9―3)〔新たな〕種姓と成るものの直後に存在し、(9―4)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の直後に存在する。

 (9―1)そこにおいて、道の道程においては、道の直後に〔存在する〕。

 (9―2)前のもの前のものの果の直後に、後のもの後のものが〔存在する〕。

 (9―3)諸々の果の入定においては、前のもの前のものの〔新たな〕種姓と成るものの直後に〔存在する〕。そして、ここにおいて、「〔新たな〕種姓と成るもの」とは、随順する〔知恵〕と知られるべきである。まさに、このことが、『パッターナ(発趣論)』において説かれた。「阿羅漢の随順するものは、果の入定にとって、直後なる縁によって、縁となる。〔いまだ〕学びある者たちの随順するものは、果の入定にとって、直後なる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.159)と。

 (9―4)その果によって、止滅〔の入定〕からの出起が有るなら、その〔果〕は、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の直後に〔存在する〕、と〔知られるべきである〕。

 

§15  そこにおいて、道の道程において生起した果を除いて、残りの一切は、果の入定を所以に転起されたもの、ということになる。このように、この〔果〕は、道の道程において、あるいは、果の入定において、生起することを所以に──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「懊悩が安息し、不死〔の涅槃〕を対象とする、浄美なるものを──世〔財〕を吐き捨てた、寂静にして最上の沙門果を──

 【702】滋養があり、清らかで、安楽で、〔まさに〕その、快にして極めて快なる不死〔の甘露〕が降り注ぐ、蜜のようなものを──

 その聖者の果にとって、無上の味として有る、その安楽を、すなわち、賢者は、智慧を修めて見出すことから──

 それゆえに、ここ(現世)に、聖者の果の味を経験することは、このことは、〔あるがままの〕観察の修行にとっての福利である、と説かれる」〔と〕。

 

867.

 

 3 止滅の入定に入定することができること

 

§16  また、「止滅の入定に入定することができること」とは、そして、単に、聖者の果を経験することだけにあらず、この、止滅の入定に入定することができることもまた、この智慧の修行にとっての福利となる、と知られるべきである。

 

§17  そこで、止滅の入定の分明を義(目的)に、この、問いの列挙がある。(1)どのようなものが、止滅の入定であるのか、(2)その〔果の入定〕に、どのような者たちが、入定するのか、(3)どのような者たちが、入定しないのか、(4)どこにおいて、〔彼らは〕入定するのか、(5)何ゆえに、〔彼らは〕入定するのか、(6)そして、その〔止滅の入定〕には、どのように、入定することが有るのか、(7)どのように、止住することが〔有るのか〕、(8)どのように、出起することが〔有るのか〕、(9)出起した者には、どのようなものに向かい行く心が有るのか、(10)どのようなものが、そして、死者の、さらに、入定した者の、差異となるのか、(11)止滅の入定は、どうであろう、形成されたものなのか、形成されたものではないものなのか、世〔俗〕のものなのか、世〔俗〕を超えるものなのか、完遂されたものなのか、完遂されていないものなのか、と。

 

868.

 

§18  (1)そこにおいて、「どのようなものが、止滅の入定であるのか」とは、すなわち、順次の止滅を所以に、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)の転起なきものである。

 (2・3)「どのような者たちが、その〔止滅の入定〕に入定するのか、どのような者たちが、入定しないのか」とは、凡夫たちは、全てもろともに〔入定せず〕、預流たる者たち、一来たる者たち、さらに、〔禅定の潤いなく〕乾燥した〔あるがままの〕観察者である不還たる者たちと阿羅漢たちは入定しない。いっぽう、八つの入定の得者たちである、不還たる者たち、さらに、煩悩の滅尽者(阿羅漢)たちは入定する。なぜなら、「二つの力を具備したものたることから、さらに、三つの形成〔作用〕の安息あることから、十六の知恵の性行によって、九つの禅定の性行によって、自在なる状態たることとしての智慧が、止滅の入定についての知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.97)と説かれたからである。そして、この成就は、八つの入定の得者たちである、不還たる者たちと煩悩の滅尽者たちを除いて、他の者たちには存在しない。それゆえに、彼らだけが入定し、他の者たちは〔入定し〕ない。

 

869.

 

§19  「また、ここにおいて、どのようなものが、二つの力であり……略……どのようなものが、自在なる状態たることであるのか」と〔問うなら〕、ここにおいて、何であれ、わたしたちによって説かれるべきものは存在しない。この全てが、この概略〔の説示〕(上記引用)についての釈示において、まさしく、説かれた。すなわち、〔聖典に〕言うように──

 

§20  「『二つの力』とは、二つの力がある。(1)〔心の〕止寂()の力であり、(2)〔あるがままの〕観察()の力である。

 【703】(1)どのようなものが、〔心の〕止寂の力であるのか。離欲を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以にする……。光明の表象(光明想)を所以にする……。〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以にする……略……。放棄の随観ある出息を所以にする……。放棄の随観ある入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である」(パティサンビダー・マッガ1p.97-8)と。

 

§21  「どのような義(意味)によって、〔心の〕止寂の力となるのか。第一の瞑想によって、〔修行の〕妨害にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。第二の瞑想によって、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念にたいし……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。そして、〔心の〕高揚にたいし、かつまた、高揚を共具した〔心の〕汚れにたいし、さらに、範疇にたいし、〔心が〕動かず、揺れ動かず、動揺しない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。これが、〔心の〕止寂の力である。

 

§22  (2)どのようなものが、〔あるがままの〕観察の力であるのか。無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。苦痛の随観が……。無我の随観が……。厭離の随観が……。離貪の随観が……。止滅の随観が……。放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。形態において、無常の随観が……。形態において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。感受〔作用〕において……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……略……。眼において……。老と死において無常の随観が……老と死において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である」(パティサンビダー・マッガ1p.98)と。

 

§23  「どのような義(意味)によって、〔あるがままの〕観察の力となるのか。無常の随観によって、常住の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。苦痛の随観によって、安楽の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで……。無我の随観によって、自己の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで……。厭離の随観によって、愉悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで……。離貪の随観によって、貪欲にたいし、〔心が〕動かない、ということで……。止滅の随観によって、集起にたいし、〔心が〕動かない、ということで……。放棄の随観によって、執取にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。そして、無明にたいし、かつまた、無明を共具した〔心の〕汚れにたいし、さらに、範疇にたいし、〔心が〕動かず、揺れ動かず、動揺しない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。これが、〔あるがままの〕観察の力である。

 

§24  『さらに、三つの形成〔作用〕の安息あることから』とは、どのような三つの形成〔作用〕の安息あることから、であるのか。(1)第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が、〔それらの〕言葉の形成〔作用〕が、安息したものと成り、(2)第四の瞑想に入定した者には、出息と入息が、〔それらの〕身体の形成〔作用〕が、安息したものと成り、(3)表象と感覚の止滅〔の入定〕(想受滅)に入定した者には、そして、表象〔作用〕が、さらに、感受〔作用〕が、〔それらの〕心の形成〔作用〕が、安息したものと成る。これらの三つの形成〔作用〕の安息あることから、である。

 

§25  『十六の知恵の性行によって』とは、どのような十六の知恵の性行によって、であるのか。(1)無常の随観が、知恵の性行である。(2)苦痛の随観が……。(3)無我の随観が……。(4)厭離の随観が……。(5)離貪の随観が……。(6)止滅の随観が……。(7)放棄の随観が……。(8)還転の随観が、知恵の性行である。(9)預流道が、【704】知恵の性行である。(10)預流果への入定が、知恵の性行である。(11)一来道が……略……。(16)阿羅漢果への入定が、知恵の性行である。これらの十六の知恵の性行によって、である。

 

§26  『九つの禅定の性行によって』とは、どのような九つの禅定の性行によって、であるのか。(1)第一の瞑想が、禅定の性行である。(2)第二の瞑想が……略……。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が、禅定の性行である。(9)第一の瞑想の獲得を義(目的)とする〔瞑想の境地に近接する禅定〕の、そして、〔粗雑なる〕思考であり、かつまた、〔繊細なる〕想念であり、そして、喜悦であり、かつまた、安楽であり、さらに、心の一境性であり……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)とする〔瞑想の境地に近接する禅定〕の、そして、〔粗雑なる〕思考であり、かつまた、〔繊細なる〕想念であり、そして、喜悦であり、かつまた、安楽であり、さらに、心の一境性である。これらの九つの禅定の性行によって、である。

 

§27  『自在』とは、五つの自在がある。(1)傾注することの自在、(2)入定することの自在、(3)確立することの自在、(4)出起することの自在、(5)綿密に注視することの自在である。第一の瞑想に、(1)求めるところで求めるときに求めるかぎり傾注し、傾注することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、傾注することの自在となる。第一の瞑想に、(2)求めるところで求めるときに求めるかぎり入定し、入定することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、入定することの自在となる。第一の瞑想に、(3)求めるところで求めるときに求めるかぎり確立し、確立することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、確立することの自在となる。第一の瞑想に、(4)求めるところで求めるときに求めるかぎり出起し、出起することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、出起することの自在となる。第一の瞑想に、(5)求めるところで求めるときに求めるかぎり綿密に注視し、綿密に注視することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、綿密に注視することの自在となる。第二の瞑想に……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定に、(1)求めるところで求めるときに求めるかぎり傾注し、傾注することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、傾注することの自在となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定に、(2)求めるところで求めるときに求めるかぎり入定し……略……(3)確立し……(4)出起し……(5)綿密に注視し、綿密に注視することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、綿密に注視することの自在となる。これらの五つの自在がある」(パティサンビダー・マッガ1p.98-9)と。

 

870.

 

§28  そして、ここにおいて、「十六の知恵の性行によって」とは、これは、最多のばあいの釈示である。また、不還たる者のばあい、十四の知恵の性行によって、と成る。「もしくは、このようにあるなら、どうであろう、一来たる者のばあい、十二〔の知恵の性行〕によって、さらに、預流たる者のばあい、十〔の知恵の性行〕によって、と成るのではないか」と〔問うなら〕、「禅定の障害となる、〔五つの〕欲望の属性にたいする貪り〔の思い〕が、〔一来たる者と預流たる者のばあい、いまだ〕捨棄されていないことから、〔そのようには〕成らない」〔と答える〕。まさに、彼らのばあい、その〔貪りの思い〕は、〔いまだ〕捨棄されず、それゆえに、〔心の〕止寂の力は、円満成就と成らず、その〔心の止寂の力〕が円満成就なきときは、力不足によって、〔心の止寂とあるがままの観察の〕二つの力によって入定されるべき止滅の入定に入定することができない。いっぽう、不還たる者のばあい、その〔貪りの思い〕は、〔すでに〕捨棄され、それゆえに、この〔不還たる者〕は、円満成就した力ある者と成り、円満成就した力あることから、〔入定することが〕できる。それによって、世尊は言う。「止滅〔の入定〕から出起しつつある者の、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の善なる〔心〕は、果の入定〔の心〕にとって、直後なる縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ2p.159)と。まさに、これは、『パッターナ(発趣論)』の大論書において、まさしく、不還たる者のばあいの、止滅〔の入定〕からの出起に関して説かれた、と〔知られるべきである〕。

 

871.

 

§29  【705】(4)「どこにおいて、〔彼らは〕入定するのか」とは、五つの構成(五蘊)としての生存において(※)。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「順次の入定(次第定)の発生あることから」〔と答える〕。また、四つの構成(受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)としての生存においては、第一の瞑想等々の生起は存在しない。それゆえに、そこ(四つの構成としての生存)においては、〔止滅の入定に〕入定することができない。また、或る者たちは、「〔心臓の〕基盤の状態なきことから」と説く。

 

※ テキストにはpañcavokārabhavo とあるが、VRI版により pañcavokārabhave と読む。

 

872.

 

§30  (5)「何ゆえに、〔彼らは〕入定するのか」とは、諸々の形成〔作用〕の転起と破壊を嫌悪して、「まさしく、所見の法(現世)において、〔わたしたちは〕無心の者たちと成って、止滅の涅槃に至り得て、安楽に住むのだ」と入定する。

 

873.

 

§31  (6)「そして、その〔止滅の入定〕には、どのように、入定することが有るのか」とは、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を所以に邁進して、前もって為すべきことを為した者が、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を止滅させているなら、このように、その〔止滅の入定〕には、入定することが有る。なぜなら、彼が、まさしく、〔心の〕止寂を所以に邁進するなら、彼は、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の入定に(※)至り得て止住し、また、彼が、まさしく、〔あるがままの〕観察を所以に邁進するなら、彼は、果の入定に至り得て止住し、また、彼が、まさしく、両者を所以に邁進して、前もって為すべきことを為して〔そののち〕、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を止滅させるなら、彼は、その〔止滅の入定〕に入定するからである。ということで、ここにおいて、これが、簡略〔の説示〕となる。

 

※ テキストにはnevasaññānāsaññāyatanasamāpatti とあるが、VRI版により nevasaññānāsaññāyatanasamāpatti と読む。

 

874.

 

§32  また、これが、〔その〕詳細となる。ここに、比丘が、止滅〔の入定〕に入定することを欲する者となり、食事を為し、手足を善く洗い清め、遠離された空間において、善く設けられた坐所に坐り、結跏を組んで、真っすぐに身体を定めて、全面に気づきを現起させて〔そののち〕、彼は、(一)第一の瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、〔あるがままに〕観察する。

 

§33  また、この〔あるがままの〕観察は、(1)諸々の形成〔作用〕を遍く収め取るものとしての〔あるがままの〕観察、(2)果の入定としての〔あるがままの〕観察、(3)止滅の入定としての〔あるがままの〕観察、という、三種類のものと成る。(1)そこにおいて、諸々の形成〔作用〕を遍く収め取るものとしての〔あるがままの〕観察は、あるいは、薄弱なるものと成るも、あるいは、鋭敏なるものと〔成るも〕、〔聖者の〕道にとって、まさしく、境処の拠点(直接原因)と成る。(2)果の入定としての〔あるがままの〕観察は、鋭敏なるものとしてだけ転起し、〔聖者の〕道の修行に等しきものと〔成る〕。(3)また、止滅の入定としての〔あるがままの〕観察は、薄弱過ぎず鋭敏過ぎずに転起する。それゆえに、この者は、薄弱過ぎず鋭敏過ぎない〔あるがままの〕観察によって、それらの形成〔作用〕を、〔あるがままに〕観察する。

 

§34  そののち、(二)第二の瞑想に入定して〔そののち、入定から〕出起して、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕を、まさしく、そのように、〔あるがままに〕観察する。そののち、(三)第三の瞑想に……略……。そののち、(六)識知無辺なる〔認識の〕場所に入定して〔そののち、入定から〕出起して、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕を、まさしく、そのように、〔あるがままに〕観察する。そのように、(七)無所有なる〔認識の〕場所に入定して〔そののち、入定から〕出起して、(1)種々なる者に連結する〔物品〕の不損、(2)僧団の待望、(3)教師の召喚、(4)時間の限定、という、四種類の前もって為すべきことを為す。

 

875.

 

§35  【706】(1)そこにおいて、「種々なる者に連結する〔物品〕の不損」とは、すなわち、この比丘を相手に一者に連結する〔物品〕(一個人の所有物)として有るのではなく、種々なる者に連結する〔物品〕(僧団の共有物)と成って止住するもの──あるいは、鉢や衣料、あるいは、臥床や椅子、あるいは、居住する家、あるいは、また、他の、何であれ、必需品の類としてあるものが、それが、すなわち、破損せず、火や水や風や盗賊や鼠等々を所以に消失しないように、このように、〔心が〕確立されるべきである。そこで、これが、〔その〕確立の規定となる。「そして、これも、さらに、あれも、この七日以内に、火に焼かれることがあってはならない、水に運ばれることがあってはならない、風に砕破されることがあってはならない、盗賊たちに持ち去られることがあってはならない、鼠等々に喰われることがあってはならない」と、このように〔心が〕確立されたとき、その七日のあいだ、それには、何であれ、危難が有ることはない。

 

§36  いっぽう、〔心が〕確立されずにいると、火等々によって消失する。マハー・ナーガ長老のばあいのように。伝えるところでは、長老は、女性在俗信者である母の村に〔行乞の〕食のために入った。女性在俗信者は、粥を施して、〔長老を〕坐堂に坐らせた。長老は、止滅〔の入定〕に入定して坐った。彼が坐ったとき、坐堂が出火し、残りの比丘たちは、自己それぞれが坐っていた坐具を収め取って逃げた。村の住者たちは参集して、〔坐堂に残っている〕長老を見て、「怠けた沙門だ」「怠けた沙門だ」と言った。火は、〔屋根の〕草や竹や木片を燃やして、長老を取り巻いて止住した。人間たちは、諸々の鉢で水を運んで、〔火を〕消して、灰を取り去って、後始末を為して、花々を振りまいて(※)、礼拝しながら立った。長老は、限定された時を所以に出起して、彼らを見て、「〔わたしは〕存している──明白なるものが生じた者として(わたしの怠けが露見した)」と、宙に飛び上がって、ピヤング島に去り行った。

 

※ テキストにはpubbāni とあるが、VRI版により pupphāni と読む。

 

§37  これが、「種々なる者に連結する〔物品〕の不損」ということになる。すなわち、一者に連結する〔物品〕と成るものは、あるいは、着るものや被るものであり、あるいは、坐っている坐具であり、そこにおいては、〔心を〕確立する作用は、別個に存在しない(不要である)。まさしく、入定を所以に、それを守る。尊者サンジーヴァのばあいのように。そして、このこともまた説かれた。「尊者サンジーヴァの、[尊者カーヌ・コンダンニャの、ウッタラー女性在俗信者の、サーマーヴァティー女性在俗信者の、]禅定の充満の神通である」「尊者サーリプッタの、禅定の充満の神通である」(パティサンビダー・マッガ2p.212:Ch.12§30)と。

 

876.

 

§38  (2)「僧団の待望」とは、僧団が待望し待つこと。すなわち、この比丘がやってくるまで、それまでは、僧団の行為として為すことはない、という、義(意味)である。そして、ここにおいて、〔僧団の〕待望〔それ自体〕は、この〔比丘〕にとって、前もって為すべきことではない。いっぽう、〔僧団の〕待望に傾注することが、前もって為すべきこととなる。それゆえに、このように傾注されるべきである。「それで、もし、わたしが、七日のあいだ、止滅〔の入定〕に入定して坐っているときに、僧団が、告白の行為等々のうち、何らかの或る行為を為すことを欲するものと成るなら、すなわち、わたしのもとに、誰であれ、比丘がやってきて、〔わたしを〕召喚しないうちに、【707】まさしく、ただちに、〔わたしは、止滅の入定から〕出起するのだ」と。なぜなら、このように為して〔坐っているなら〕、入定者は、その時点において、まさしく、〔止滅の入定から〕出起するからである。

 

§39  いっぽう、彼が、このように為さないなら、そして、僧団が参集して、彼を見ずにいると、「誰某の比丘は、どこにいるのか」と〔尋ねて〕、「止滅〔の入定〕に入定している」と説かれたとき、僧団は、誰であれ、比丘を、「赴きなさい。彼を、僧団の言葉をもって召喚しなさい」と、〔彼のもとへと〕送る。そこで、彼には、その比丘によって、聴聞の行境(可聴範囲)に立って、「友よ、僧団が、あなたを待望しています」と、まさしく、説かれたときのみ、出起することが有る。まさに、このように重きものが、僧団の命令ということになる。それゆえに、〔あらかじめ〕それに傾注して、すなわち、まさしく、自ずと出起するように(他者によって出起させられることがないように)、このように、〔止滅の入定が〕入定されるべきである。

 

877.

 

§40  (3)「教師の召喚」とは、ここでもまた、教師(ブッダ)の召喚に傾注することだけが、この〔入定者〕にとっての作用となる。それゆえに、それもまた、このように傾注されるべきである。「それで、もし、わたしが、七日のあいだ、止滅〔の入定〕に入定して坐っているときに、教師が、〔何かの〕事態が出来したとき、あるいは、学びの境処(戒律)を制定し、あるいは、そのような形態の義(事態)の生起あるために法(教え)を説示するなら、すなわち、わたしのもとに、誰であれ、〔比丘が〕やってきて、〔わたしを〕召喚しないうちに、まさしく、ただちに、〔わたしは、止滅の入定から〕出起するのだ」と。なぜなら、このように為して坐っているなら、その時点において、彼は、〔止滅の入定から〕出起するからである。

 

§41  いっぽう、彼が、このように為さないなら、そして、教師は、僧団が参集したとき、彼を見ずにいると、「誰某の比丘は、どこにいるのか」と〔尋ねて〕、「止滅〔の入定に〕入定している」と説かれたとき、誰であれ、比丘を、「赴きなさい。彼を、わたしの言葉をもって召喚しなさい」と、〔彼のもとへと〕送る。そこで、彼には、その比丘によって、聴聞の行境(可聴範囲)に立って、「教師が、尊者を呼んでいます」と、まさしく、説かれたときのみ、出起することが有る。まさに、このように重きものが、教師の召喚であり、それゆえに、〔あらかじめ〕それに傾注して、まさしく、自ずと出起するように(他者によって出起させられることがないように)、このように、〔止滅の入定が〕入定されるべきである。

 

878.

 

§42  (4)「時間の限定」とは、生命の時間を限定すること。まさに、この比丘は、時間の限定に極めて巧みな智ある者として有るべきである。「自己の、諸々の寿命の形成〔作用〕が、七日のあいだ、転起するであろうか、転起しないであろうか」と、まさしく、〔心を〕傾注して、入定されるべきである。なぜなら、それで、もし、七日以内に止滅するものとしてある諸々の寿命の形成〔作用〕に、まさしく、〔心を〕傾注せずして、入定するなら、彼の、止滅の入定は、死を拒むことができないからである。止滅の内において、死が存することはなく、まさしく、〔入定の〕途中において、〔彼は〕入定から出起する(出起せざるをえなくなる)。それゆえに、このことに、まさしく、〔心を〕傾注して、入定されるべきである。なぜなら、「残り〔の三つの前もって為すべきこと〕のばあい、傾注しないのもまた順当であるが(許容できる)、いっぽう、これは、まさしく、傾注されるべきである」と、〔アッタカター(注釈書)において〕説かれたからである。

 

879.

 

§43  彼は、このように、無所有なる〔認識の〕場所に入定して〔そののち、入定から〕出起して、この、前もって為すべきことを為して、(八)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定する。そこで、あるいは、一つの、あるいは、二つの、心の時機を超え行って、無心の者と成り、(九)止滅〔の入定〕を体得する(到達する)。「また、何ゆえに、彼には、二つの心より以上の、諸々の心が転起しないのか」と〔問うなら〕、「止滅〔の入定〕への専念たることから」〔と答える〕。なぜなら、この比丘の、〔心の〕止寂〔の法〕と〔あるがままの〕観察の法(性質)という二つのものを【708】双連のものと為して、八つの入定を登り行くことは、これは、順次の止滅〔の入定〕への専念であり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定への〔専念〕ではないからである。ということで、止滅〔の入定〕への専念たることから、二つの心より以上の、諸々の心が転起することはない。

 

§44  いっぽう、その比丘が、無所有なる〔認識の〕場所から出起して〔そののち〕、この、前もって為すべきことを為さずして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定するなら、彼は、後に、無心の者と成ることができない。また、退転して、まさしく、無所有なる〔認識の〕場所に止住する。

 

§45  そして、ここにおいて、道を過去に赴いたことがない人(未踏の道を行く人)の喩えが説かれるべきである。伝えるところでは、或る人が、或る道を、過去に赴いたことがなく、途中に、あるいは、水ある峡谷を〔超え行き〕、深く水ある泥地を超え行って、あるいは、屹立し激しい熱光に熱せられた岩〔場〕に〔至り来て〕(※)、その着るものや被るものを〔正しく〕装着せずして、峡谷に降り行き、必需品(衣服)を濡らすことの恐怖で〔水に入れず〕、まさしく、ふたたび、岸に止住する──岩〔場〕を踏みしめてもまた、足が熱せられ、まさしく、ふたたび、此方の域に止住する。

 

※ テキストにはcaṇḍātapasantattapāsāa vā kandara vā とあるが、VRI版により caṇḍātapasantattapāsāa vā と読む。

 

§46  そこにおいて、すなわち、その人が、着るものや被るものが〔正しく〕装着されなかったことから、峡谷に、まさしく、降り行ったのみとなり、さらに、熱せられた岩〔場〕を、まさしく、踏みしめたのみとなり、〔ふたたび〕退転して、まさしく、此方に止住するように、このように、〔心の〕制止を行境とする者もまた、前もって為すべきことを為さなかったことから、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に、まさしく、入定したのみで退転して、無所有なる〔認識の〕場所に止住する。

 

§47  また、すなわち、前にもまた、その道を、過去に赴いたことがある人は、その状況に至り来て、一つの衣を堅固に着衣して、他のものを手で抱えて、峡谷を超え上がって、あるいは、熱せられた岩〔場〕を、まさしく、踏みしめることのみを為して〔足が熱せられることなく〕、後に、〔他所へと〕赴くように、まさしく、このように、前もって為すべきことを為した比丘は、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に、まさしく、入定して、後に、無心の者と成って、止滅〔の入定〕を体得して、〔世に〕住む。

 

880.

 

§48  (7)また、「どのように、止住することが〔有るのか〕」とは、このように入定した、その〔止滅の入定〕には、まさしく、そして、時間の限定を所以に、さらに、中途に寿命の滅尽や僧団の待望や教師の召喚の状態がないことによって、止住することが有る。

 

881.

 

§49  (8)「どのように、出起することが〔有るのか〕」とは、不還たる者には、不還果の生起によって、阿羅漢には、阿羅漢果の生起によって、ということで、このように、二種に出起することが有る。

 

882.

 

§50  (9)「出起した者には、どのようなものに向かい行く心が有るのか」とは、涅槃に向かい行く〔心〕が〔有る〕。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「友よ、ヴィサーカよ、表象と感覚の止滅(想受滅)の入定から出起した比丘の心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成ります〕」(マッジマ・ニカーヤ1p.302)と。

 

883.

 

§51  【709】(10)「どのようなものが、そして、死者の、さらに、入定した者の、差異となるのか」とは、この義(意味)もまた、まさしく、経において説かれた。すなわち、〔世尊が〕言うように、「友よ、すなわち、この、命を終えた死者ですが、彼の、諸々の身体の形成〔作用〕(身行)は止滅し安息したものとなり、諸々の言葉の形成〔作用〕(口行)は……諸々の心の形成〔作用〕(心行)は止滅し安息したものとなり、寿命は完全に滅尽したものとなり、熱は寂止したものとなり、諸々の〔感官の〕機能は完全に破壊したものとなります。さらに、すなわち、この(※)、表象と感覚の止滅〔の入定〕に入定した比丘ですが、彼もまた、諸々の身体の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、諸々の言葉の形成〔作用〕は……諸々の心の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなるも、寿命は完全に滅尽したものとならず、熱は寂止したものとならず、諸々の〔感官の〕機能は完全に破壊されたものとなりません」(マッジマ・ニカーヤ1p.296:一部異なる箇所あり)と。

 

※ テキストにはyvāya とあるが、VRI版により Yo cāya と読む。

 

884.

 

§52  (11)また、「止滅の入定は、形成されたものなのか、形成されたものではないものなのか〔云々〕」という〔言葉〕等の問いについて。「形成されたもの(有為)」ともまた、「形成されたものではないもの(無為)」ともまた、「世〔俗〕のもの(世間)」ともまた、「世〔俗〕を超えるもの(出世間)」ともまた、説かれるべきではない。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「自ずからの状態〔の観点〕から、非存なることから」〔と答える〕。また、すなわち、その〔止滅の入定〕は、入定している者を所以に、「入定された」ということに成ることから、それゆえに、「完遂された」と説くのが順当である──「完遂されていないもの」ではなく。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、寂静にして、聖者によって習修された、この〔止滅の〕入定を〔修めて〕──『まさしく、所見の法(現世)における涅槃(現法涅槃)』という名称に至り着いた聖者の智慧を修めて──賢者たちは入定する。

 すなわち、それゆえに、この〔止滅の入定〕に入定ができること(※)もまた、〔四つの〕聖者の道における、智慧〔の修行〕にとっての福利となる、と説かれる」と。

 

※ テキストにはsamāpattisamathatā とあるが、VRI版により samāpattisamatthatā と読む。

 

885.

 

 4 〔供物を〕捧げられるべき状態等の実現

 

§53  また、「〔供物を〕捧げられるべき状態等の実現」とは、そして、単に、止滅の入定に入定することができること(※)だけにあらず、この、〔供物を〕捧げられるべき状態等の実現もまた、この、世〔俗〕を超える智慧の修行にとっての福利となる、と知られるべきである。

 

※ テキストにはsamāpajjanasamathatā とあるが、VRI版により samāpajjanasamatthatā と読む。

 

§54  なぜなら、差異なき〔の観点〕(総合的見地)によって〔説くなら〕、この〔智慧の修行〕が、四種類もろともに修められたことから、智慧が修められた人は、天を含む世〔の人々〕にとって、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成る〕からである。

 

886.

 

§55  また、ここにおいて、差異〔の観点〕から〔説くなら〕、まずは、(一)第一の道の智慧を修めて、(1)薄弱なる〔あるがままの〕観察によって至り来た、柔弱なる機能の者でさえも、「最高で七回〔の再生〕ある者」ということに成り、七つの善き境遇の生存において輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為す。(2)中等なる〔あるがままの〕観察によって至り来た、中等なる機能の者は、「〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者」ということに成り、あるいは、二つの、あるいは、三つの、善き家を、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為す。鋭敏なる〔あるがままの〕観察によって至り来た、鋭敏なる機能の者は、「一つの種ある者」ということに成り、まさしく、一つの、【710】人間の生存を発現させて〔そののち〕、苦しみの終極を為す。

 

887.

 

 (二)第二の道の智慧を修めて、「一来たる者」ということに成り、まさしく、一度、この世に帰り来て〔そののち〕、苦しみの終極を為す。

 

888.

 

§56  (三)第三の道の智慧を修めて、「不還たる者」ということに成り、彼は、機能の相違を所以に、(1)〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者、(2)再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者、(3)形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者、(4)形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者、(5)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者、という、五種になり、ここ(現世)から衰退して〔そののち〕、究極〔の境地〕の者と成る(完全なる涅槃に到達する)。

 

§57  (1)そこにおいて、「〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者」とは、それがどこにおいてであれ、浄居〔天〕の生存に再生して、寿命の中間に、まさしく、至り得ずして、完全なる涅槃に到達する。

 (2)「再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者」とは、寿命の中間を超え行って、完全なる涅槃に到達する。

 (3)「形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者」とは、形成〔作用〕なき〔状態〕によって、専念〔努力〕なき〔状態〕によって、上なる道(阿羅漢道)を発現させる。

 (4)「形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者」とは、形成〔作用〕を有する〔状態〕によって、専念〔努力〕を有する〔状態〕によって、上なる道(阿羅漢道)を発現させる。

 (5)「上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者」とは、そこにおいて生起したなら、それより上に、すなわち、色究竟〔天〕の生存まで昇って、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する。

 

889.

 

§58  (四)第四の道の智慧を修めて〔そののち〕、或る者は、信による解脱者と成り、或る者は、智慧による解脱者と成り、或る者は、両部の解脱者と成り、或る者は、三つの明知ある者と〔成り〕、或る者は、六つの神知ある者と〔成り〕、或る者は、融通無礙〔の智慧〕の細別に至り得た大いなる煩悩の滅尽者と〔成る〕。それに関して、〔このことが〕説かれた。「また、〔聖者の〕道の瞬間において、この者は、〔まさに〕その、結束を解きほぐす、ということになり、〔聖者の〕果の瞬間において、結束が解きほぐされた〔彼〕は、天を含む世〔の人々〕にとって、至高の施与されるべき者と成る」(Ch.0§7)と。

 

§59  〔そこで、詩偈に言う〕「このように、無数の福利が、聖者の智慧の修行にあることから、すなわち、それゆえに、明眼の者は、そこにおいて、喜びを作り為すべきである」〔と〕。

 

890.

 

§60  そして、これだけで──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が、心を〔修めながら〕、そして、智慧を修めながら、熱情ある賢明なる比丘として、彼は、この結束を解きほぐすでしょう」(サンユッタ・ニカーヤ1p.13:Ch.0§1)と──

 

 この詩偈における戒と禅定と智慧の門によって説示された、清浄の道における、福利を有する智慧の修行が、遍く提示されたものと成る、と〔知られるべきである〕。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、「智慧の修行の福利についての釈示」という名の第二十三章となる。