第十章 形態なきものについての釈示

 

275.

 

 1 虚空無辺なる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点(35)

 

§1  【326】また、梵住の直後に配置された(Ch.3§105)、四つの形態なきものについて。まずは、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を修めることを欲する者は、「『また、まさに、形態()を事因に、棒(武器)を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争が見られる。また、まさに、このことは、全てにわたり、形態なきもの(無色)においては存在しない』と、彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、諸々の形態の、厭離のために、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」(マッジマ・ニカーヤ1p.410)という言葉から、まさしく、そして、これらの棒(武器)を取ること等々の、さらに、眼や耳の病等々の、数千の病苦を所以に、〔行為を〕為すことから生じる形態における危険を見て、その〔形態〕の超越のために、限定された虚空の遍満を除いて、地の遍満(地遍)等々の九つ〔の遍満〕のなかのどれか一つ〔の遍満〕において、第四の瞑想〔の境地〕(第四禅)を生起させる。

 

§2  彼にとって、たとえ、何であれ、形態の行境(色界:精妙な物質的世界)における第四の瞑想を所以に、〔行為を〕為すことから生じる形態が超越されたものと成るとして、そこで、まさに、〔その〕遍満の形態をもまた、すなわち、まさしく、その〔行為を為すことから生じる形態〕の相似としてあることから、それゆえに、〔彼は〕それをもまた超越することを欲する者と成る。どのようにか。

 

§3  すなわち、蛇を恐れる人が、林のなかで蛇に追われ、勢いよく逃げて、逃げた場において、〔蛇に似た〕様々な線ある、あるいは、ターラ〔樹〕の葉を〔見て〕、あるいは、蔓を〔見て〕、あるいは、縄を〔見て〕、また、あるいは、裂けた地の亀裂を見て、まさしく、恐怖し、まさしく、恐れわななき、それを見ることを欲する者と(※)成ることが、まさしく、ないように、である。さらに、すなわち、義(利益)ならざることを為す怨みある人と共に、一つの村に住している人が、彼による殴打や結縛や家を燃やす等々に悩まされ、他の村に住することを義(目的)として赴いて、そこ(他の村)でもまた、怨みある者に等しき形態と音声と慣行ある人を見て、まさしく、恐怖し、まさしく、恐れわななき、それを見ることを欲する者と成ることが、まさしく、ないように、である。

 

※ テキストには dukkhitukāmo とあるが、VRI版により dakkhitukāmo と読む。

 

§4  そこで、これが、喩えの適応となる。まさに、それらの人(蛇を恐れる人と怨みある者を恐れる人)の、蛇によって、あるいは、怨みある者によって、悩まされた時のように、比丘の、【327】〔認識の〕対象(所縁)を所以に、〔行為を〕為すことから生じる形態を保有する時がある。彼らの、勢いよく逃げることや他の村に赴くことのように、比丘の、形態の行境における第四の瞑想を所以に、〔行為を〕為すことから生じる形態を超越する時がある。彼らの、そして、逃げた場において、さらに、他の村において、まさしく、そして、〔蛇に似た〕様々な線のあるターラ〔樹〕の葉等々を〔見て〕、さらに、怨みある者に等しき人を見て、恐怖と恐れわななきから〔それらを〕見ないことを欲することのように、比丘の、遍満の形態をもまた、「これは、まさしく、その〔行為を為すことから生じる形態〕の相似としてある」と省察して、それをもまた超越することを欲することがある。さらに、猪に襲われた犬や魔物を恐れる者等のものもまた、ここにおいて、喩えとして知られるべきである。

 

276.

 

§5  このように、彼は、〔まさに〕その、第四の瞑想の対象として有る遍満の形態から、厭離して立ち去ることを欲する者と〔成り〕、〔傾注することの自在と入定することの自在と確立することの自在と出起することの自在と綿密に注視することの自在という〕五つの行相(Ch.4§131-6)によって、行ないに自在なる者と成って、熟練するところの形態の行境における第四の瞑想から出起して、その瞑想について、そして、「この〔入定〕は、わたしによって厭離された形態を対象と為す」と、かつまた、「悦意という義(利益)に反するものの近くにある」と、さらに、「寂静なる解脱より粗雑なるものである」と、危険を見る。いっぽう、ここにおいて、支分の粗雑なることは存在しない。なぜなら、まさしく、すなわち、この形態〔の行境における第四の瞑想〕が、〔放捨の感受と心の一境性という〕二つの支分あるものであるように、このように、諸々の形態なき〔瞑想〕もまた、〔二つの支分あるものである〕からである、と〔知られるべきである〕。

 

§6  彼は、そこにおいて、このように危険を見て、欲念を完全に取り払って、虚空無辺なる〔認識の〕場所に、寂静なるもの〔の観点〕から、終極なきもの〔の観点〕から、意を為して、あるいは、チャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)を結末に、あるいは、すなわち、求めるかぎりの、そのかぎりに遍満を広げて、その〔遍満〕によって接触された空間(遍満の対象とされた空間)に、「虚空である」「虚空である」と、あるいは、「虚空は、終極なきものである」と、かくのごとく意を為しつつ、遍満を撤去する。

 

§7  まさに、撤去している者は、まさしく、敷物を巻くようにではなく、釜から菓子を取り出すようにではなく、〔遍満を撤去する〕。また、単に、その〔遍満〕に、まさしく、〔心を〕傾注させず、意を為さず、綿密に注視せず、そして、〔心を〕傾注させずにいながら、意を為さずにいながら、綿密に注視せずにいながら、何はともあれ、その〔遍満〕によって接触された空間に、「虚空である」「虚空である」と、意を為しつつ、遍満を撤去する、ということである。

 

§8  遍満もまた、撤去されつつも、まさしく、増大せず、減少しない。そして、単に、この〔遍満〕に意を為さないことを、さらに、「虚空である」「虚空である」と意を為すことを、〔両者を〕縁として、「撤去されたもの」ということに成る。〔そこにおいては〕遍満の撤去たる虚空のみが覚知される。あるいは、「遍満の撤去たる虚空」と〔説かれ〕、あるいは、「遍満によって接触された空間」と〔説かれ〕、「遍満から遠離された虚空」と〔説かれるが〕、この全てが、まさしく、一つである(同一である)。

 

§9  彼は、その、遍満の撤去たる虚空の形相を、【328】「虚空である」「虚空である」と、繰り返し〔心を〕傾注させ、考慮による触発と思考による触発を為す(瞬時の事実確認を繰り返し為す)。彼が、このように、繰り返し〔心を〕傾注させ、考慮による触発と思考による触発を為していると、〔五つの修行の〕妨害()は鎮静され、気づき()は確立し、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)によって、心は定められる。彼は、その形相を、繰り返し、習修し、修め、多く為す。

 

§10  彼が、このように、繰り返し〔心を〕傾注させ、意を為していると、地の遍満等々にたいし、形態の行境の心が〔専注する〕ように、虚空にたいし、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)の心が専注する。まさに、ここ(虚空無辺なる認識の場所)でもまた、前段部分における、三つ、あるいは、四つの、疾走〔作用の心〕(速行:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)は、欲望の行境(欲界:粗雑な物質的世界)のものであり、まさしく、放捨の感受(捨受)と結び付いたものとして有り、〔最後の一つである〕第四、あるいは、第五のものが、形態なき行境(無色界:非物質的世界)のものと〔成る〕。残りのものは、まさしく、地の遍満において説かれた方法となる(Ch.4§74)。

 

§11  また、これが、差異となる。このように、形態なき行境の心が生起したとき、その比丘は、たとえば、まさに、乗物や荷箱や瓶の口等々のなかのどれか一つを、あるいは、青の布切れで、あるいは、黄や赤や白等々のなかのどれか一つの布切れで、縛って見ている人が、あるいは、風の勢いで、あるいは、何であれ、他〔の因〕によって、布切れが取り去られたときは、虚空だけを見ている者となり、立つことになるように、まさしく、このように、過去において、遍満の円輪を瞑想の眼で見ている者として住んで〔そののち〕、「虚空である」「虚空である」と、この、事前作業としての意を為すことによって、いきなり、その形相が取り去られたときは、虚空だけを見ている者となり、〔世に〕住む。

 

§12  そして、これだけで、この〔比丘〕は、「全てにわたり、(1)諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、(2)諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、(3)諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます」(ディーガ・ニカーヤ2p.112,マッジマ・ニカーヤ2p.13)と説かれる。

 

277.

 

§13  そこにおいて、「全てにわたり」とは、一切の行相によって、あるいは、残りなく一切の、という義(意味)である。

 (1)「諸々の形態の表象(色想)の」とは、まさしく、そして、(1―1)表象を頭目として説かれた形態の行境における諸瞑想の、さらに、(1―2)その諸対象の。なぜなら、(1―1)形態の行境における瞑想もまた、「形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見ます」(ディーガ・ニカーヤ2p.111,マッジマ・ニカーヤ2p.12)という〔言葉〕等々において、「形態」と説かれ、(1―2)その〔形態の行境における瞑想〕の対象もまた、「外に諸々の形態を、善色と悪色あるものと見ます」(ディーガ・ニカーヤ2p.110,マッジマ・ニカーヤ2p.13)という〔言葉〕等々において、〔「形態」と説かれる〕からである。それゆえに、ここでは、形態についての表象が、「形態の表象」。ということで、このように、これは、表象を頭目として説かれた形態の行境における瞑想の同義語である。その〔形態の行境における瞑想〕にとって、形態が表象となる、ということで、「形態の表象」。その〔形態の行境における瞑想〕にとって、形態が名前となる、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。これは、地の遍満等の細別の、さらに、その対象の、同義語である、と知られるべきである。

 

§14  【329】「超越あることから」とは、離貪あることから、さらに、止滅あることから。何が、〔ここにおいて〕説かれたものと成るのか。これらの、〔五つの瞑想の各々における〕善なるものと報いとしてのものと〔報いを生まない純粋〕所作(唯作:行為の報いを生まない善悪無記の心)としてのものを所以に「十五の瞑想」と名づけられた諸々の形態の表象の、さらに、これらの、〔十の遍満から限定された虚空の遍満を除いた〕地の遍満等を所以に「九つの〔瞑想の〕対象」と名づけられた諸々の形態の表象の、一切の行相によって、あるいは、残りなく〔一切〕の、そして、離貪あることから、さらに、止滅あることから、まさしく、そして、離貪を因とし、さらに、止滅を因とする、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。なぜなら、全てにわたり、諸々の形態の表象が超越されていないなら、この〔虚空無辺なる認識の場所〕を成就して〔世に〕住むことはできないからである、と〔知られるべきである〕。

 

§15  そこにおいて、すなわち、対象にたいし離貪していない者に、表象の超越が有ることはなく、そして、諸々の表象が超越されたとき、対象は、まさしく、超越されたものと成ることから、それゆえに、対象の超越を説かずして、「そこにおいて、どのようなものが、諸々の形態の表象であるのか。あるいは、形態の行境への入定に入定した者の〔善なる表象であり〕、あるいは、〔形態の行境に〕再生した者の〔報いとしての表象であり〕、あるいは、〔形態の行境の〕所見の法(現世)における安楽の住ある者の〔報いを生まない純粋所作としての〕表象であり、表象することであり、表象されたものたることである。これらが、『諸々の形態の表象』〔と〕説かれる。これらの形態の表象が、超え行かれたものと成り、過ぎ行かれたものと〔成り〕、超越されたものと〔成る〕。それによって説かれる。『全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから』〔と〕」(ヴィバンガp.261)と、このように、『ヴィバンガ(分別論)』において、まさしく、諸々の表象の超越が説かれた(対象の超越については言及せず、表象の超越のみが説かれた)。また、すなわち、これらの入定は、対象の超越によって至り得られるべきものであり、第一の瞑想等々のように、まさしく、一つの対象において〔至り得られるもの〕ではないことから、それゆえに、対象の超越を所以にしてもまた、この義(意味)の解説が為された(対象の超越をもまた含意している)、と知られるべきである。

 

278.

 

§16  (2)「諸々の敵対の表象(有対想)の滅至あることから」とは、眼等々の基盤(感官器官)にとって、さらに、形態等々の諸々の対象にとって、障礙となるもの(接触し衝撃をもたらすもの)によって生起した諸々の表象が、「諸々の敵対の表象」。これは、諸々の形態の表象等々の同義語である。すなわち、〔聖典に〕言うように、「そこにおいて、どのようなものが、諸々の敵対の表象であるのか。形態の表象、音声の表象、臭気の表象、味感の表象、感触の表象──これらが、『諸々の敵対の表象』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.261)と。

 それらの、善なる報いとしての五つ〔の敵対の表象〕の、善ならざる報いとしての五つ〔の敵対の表象〕の(※)、ということで、全てにわたり、十もろともの敵対の表象の、滅至あることから、捨棄あることから、生起なきことから、〔心の〕転起なきを為して、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

※ テキストには prñcannan とあるが、VRI版により pañcannan と読む。

 

§17  さらに、もちろん、これら〔の敵対の表象〕は、第一の瞑想等々に入定した者にとってもまた存在しない。なぜなら、その時点においては、五つの門を所以に心が転起することはないからである。たとえ、このように存しているとして、他所において〔すでに〕捨棄された安楽と苦痛の〔捨棄が〕、第四の瞑想において〔説かれる〕ように、さらに、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)等々の〔捨棄が〕、第三の道(覚りの第三階梯である不還道・不還向)において【330】〔説かれる〕ように、この瞑想にたいし、邁進〔の思い〕を生じさせることを義(目的)に、この瞑想を賞賛することを所以に、ここ(虚空無辺なる認識の場所)において、〔諸々の敵対の表象についての〕これらの言葉が〔説かれた、と〕知られるべきである。

 

§18  そこで、あるいは、たとえ、何であれ、それら〔の敵対の表象〕が、形態の行境に入定した者にとってもまた(※)存在しないとして、そこで、まさに、捨棄されたことから存在しないのではない。なぜなら、形態の行境における修行は、形態の離貪のために等しく転起せず、さらに、形態に依止したものとして、これら〔の敵対の表象〕の転起があるからである。いっぽう、〔形態なき行境における〕この修行は、形態の離貪のために等しく転起する。それゆえに、それら〔の敵対の表象〕は、ここ(虚空無辺なる認識の場所)において捨棄された、と説くのが順当である(ふさわしい)。さらに、単に、説くべきにあらず、まさしく、一定して、このように保持するのもまた順当である。

 

※ テキストには samapannassāpi とあるが、VRI版により samāpannassāpi と読む。

 

§19  なぜなら、それら〔の敵対の表象〕のばあい、これ(虚空無辺なる認識の場所)より過去においては、まさしく、〔いまだ〕捨棄されていないことから、第一の瞑想に入定した者にとって、「音声は棘です」(アングッタラ・ニカーヤ5p.135)と、世尊によって説かれたが、しかしながら、ここ(虚空無辺なる認識の場所)では、まさしく、捨棄されたことから、諸々の形態なき〔瞑想〕の入定の、〔心の〕不動なることが〔説かれ〕、さらに、寂静なる解脱たることが説かれたからである。そして、形態なき〔瞑想〕に入定したアーラーラ・カーラーマ(人名)は、五百ばかりの荷車が近づいては〔超え行き〕近づいては超え行ったのを、まさしく、見ることがなく、また、音声を聞くこともなかった(ディーガ・ニカーヤ2p.130)、ということである。

 

279.

 

§20  (3)「諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから」とは、あるいは、種々なる境涯(作用範囲)にたいし転起された諸々の表象に〔意を為さないことから〕、あるいは、諸々の種々なる表象に〔意を為さないことから〕。まさに、すなわち、これら〔の種々なる表象〕は、「そこにおいて、どのようなものが、諸々の種々なる表象であるのか。〔いまだ〕入定していない者で、あるいは、意の界域(意界)を保有する者の、あるいは、意の識知〔作用〕の界域(意識界)を保有する者の、表象であり、表象することであり、表象されたものたることである。これらが、『諸々の種々なる表象』〔と〕説かれる」(ヴィバンガp.261)と、このように、『ヴィバンガ(分別論)』において、区分して説かれたものであり、ここでは、志向するところとなるが、〔いまだ〕入定していない者の、意の界域と意の識知〔作用〕の界域によって包摂されたものとしてある諸々の表象は、形態と音声等の細別ある種々なるものとしてあり、種々なる自ずからの状態ある境涯にたいし転起することから──さらに、すなわち、これら〔の種々なる表象〕は、八つの欲望の行境の善なる表象(欲望の行境の八つの善なる心と結び付いた表象作用:Ch.14§83-5)、十二の善ならざる表象(欲望の行境の十二の善ならざる心と結び付いた表象作用:Ch.14§89-93)、十一の欲望の行境の善なる報いとしての表象(欲望の行境の善なる報いとしての、八つの因なき心から識知作用の五なるものを除いた三つの心と結び付いた表象作用、さらに、八つの因を有する心と結び付いた表象作用:Ch.14§97-100)、二つの善ならざる報いとしての表象(※)(欲望の行境の善ならざる報いとしての七つの因なき心から識知作用の五なるものを除いた二つの心と結び付いた表象作用:Ch.14§101)、十一の欲望の行境の〔報いを生まない純粋〕所作としての表象(欲望の行境の報いを生まない純粋所作としての、十一の善悪が説き明かされない心と結び付いた表象作用:Ch.14§106-9)、という、このように、四十四の表象としてもまた、種々なるものにして、種々なる自ずからの状態ある、互いに他と相同ならざるものであることから──それゆえに、「諸々の種々なる表象」と説かれた。それらの種々なる表象に、全てにわたり、意を為さないことから、〔心を〕傾注しないことから、集中しないことから、綿密に注視しないことから、すなわち、それら〔の種々なる表象〕に、〔心を〕傾注させず、意を為さず、綿密に注視しないことから、それゆえに、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

※ テキストには kusalavipākasaññā とあるが、VRI版により akusalavipākasaññā と読む。

 

§21  そして、ここにおいて、すなわち、〔諸々の形態の表象と諸々の敵対の表象と諸々の種々なる表象のうち〕前〔の二つ〕である、諸々の形態の表象は、さらに、諸々の敵対の表象は、この瞑想〔の境地〕によって発現した〔虚空無辺なる認識の場所の〕生存においては、もはや見出されず、ましてや、その〔虚空無辺なる認識の場所の〕生存において、この瞑想〔の境地〕を成就して〔世に〕住む時においては〔言うまでもない〕ことから、それゆえに、それら(諸々の形態の表象と諸々の敵対の表象)の、超越あることから、【331】滅至あることから、という、二種〔の観点〕からもまた、まさしく、〔それらの〕状態なき〔あり方〕が説かれた。いっぽう、諸々の種々なる表象については、すなわち、八つの欲望の行境の善なる表象(欲望の行境の八つの善なる心と結び付いた表象作用:Ch.14§83-5)、九つの〔報いを生まない純粋〕所作としての表象(欲望の行境の報いを生まない純粋所作としての十一の善悪が説き明かされない心から前の二つの因なき心を除いた九つの心と結び付いた表象作用:Ch.14§106-9)、十の善ならざる表象(欲望の行境の十二の善ならざる心から二つの憤怒を根元とする心を除いた十の心と結び付いた表象作用:Ch.14§89-93)、という、これらの二十七の表象は、この瞑想〔の境地〕によって発現した〔虚空無辺なる認識の場所の〕生存において見出されることから、それゆえに、それら〔の種々なる表象〕に意を為さないことから、と説かれた、と知られるべきである。なぜなら、そこで、また、この瞑想〔の境地〕を成就して〔世に〕住んでいる者は、まさしく、それら〔の種々なる表象〕に意を為さないことから、〔瞑想の境地を〕成就して〔世に〕住むのであり、いっぽう、それら〔の種々なる表象〕に意を為している者は、〔いまだ〕入定していない者として有るからである、と〔知られるべきである〕。

 

§22  そして、簡略〔の観点〕から〔説くなら〕、ここにおいて、「諸々の形態の表象の超越あることから」という、この〔句〕によって、一切の形態の行境の法(性質)の捨棄が説かれ、「諸々の敵対の表象の滅至あることから」「諸々の種々なる表象に意を為さないことから」という、この〔二つの句〕によって、一切の欲望の行境の心と心の属性(心心所:心と心に現起する作用・感情)の、そして、捨棄が〔説かれ〕、さらに、意を為さないことが説かれた、と知られるべきである。

 

280.

 

§23  「虚空は、終極なきものである」とは、ここにおいて、その〔虚空無辺なる認識の場所の生存〕には、あるいは、生起の終極が、あるいは、衰失の終極が、覚知されない、ということで、「終極なきもの」。「虚空」とは、遍満の撤去たる虚空と説かれる。さらに、意を為すことを所以にもまた、ここにおいて、終極なきものたることが(※)知られるべきである。まさしく、それによって、『ヴィバンガ(分別論)』において説かれた。「その虚空にたいし、心を、据え置き、確立させ、終極なく充満する。それによって説かれる。『虚空は、終極なきものである』〔と〕」(ヴィバンガp.262)と。

 

※ テキストには anantā とあるが、VRI版により anantatā と読む。

 

§24  また、「虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます」とは、ここにおいて、その〔虚空無辺なる認識の場所の生存〕には終極がない、ということで、「終極なき」。虚空の終極なきが、「虚空無終極」。虚空無終極こそが、「虚空無辺(空無辺)」。その虚空無辺が、〔心の〕確立(加持)の義(意味)によって、〔その瞑想の境地と〕結び付いた法(性質)を含めて、その瞑想〔の境地〕にとって、〔認識の〕場所()となる。天〔の神々〕たちにとっての天の場所(居住の場)のように。ということで、「虚空無辺なる〔認識の〕場所を」。

 「成就して〔世に〕住みます」とは、その虚空無辺なる〔認識の〕場所に至り得て、完遂させて、その〔瞑想の境地〕に適切なる振る舞いの道(行住坐臥のあり方)の住によって、〔世に〕住む。

 これが、虚空無辺なる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点についての詳細の言説となる。

 

281.

 

 2 識知無辺なる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点(36)

 

§25  また、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を修めることを欲する者によって、〔傾注することの自在と入定することの自在と確立することの自在と出起することの自在と綿密に注視することの自在という〕五つの行相によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の行ないに自在なる状態ある者となり、「この入定は、形態の行境における瞑想という義(利益)に反するものの近くにあり、かつまた、識知無辺なる〔認識の〕場所のように寂静ではない」と、虚空無辺なる〔認識の〕場所における危険を見て、そこにおいて、欲念を完全に取り払って、〔より上なる瞑想の境地である〕識知無辺なる〔認識の〕場所に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、その虚空を充満して転起された識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)が、「識知〔作用〕である」「識知〔作用〕である」と、繰り返し、〔心が〕傾注されるべきであり、意が為されるべきであり、綿密に注視されるべきであり、考慮による触発と思考による触発が為されるべきである(瞬時の事実確認が繰り返し為されるべきである)。【332】いっぽう、「終極なきものである」「終極なきものである」と、意が為されるべきではない(その場合は、「識知〔作用〕は、終極なきものである」「識知〔作用〕は、終極なきものである」と、意が為されるべきである)。

 

§26  彼が、このように、その形相にたいし、繰り返し、心を行なわせていると、〔五つの修行の〕妨害は鎮静され、気づきは確立し、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)によって、心は定められる。彼は、その形相を、繰り返し、習修し、修め、多く為す。彼が、このように為していると、虚空にたいし、虚空無辺なる〔認識の〕場所〔の心〕が〔専注する〕ように、虚空を充満した(※)識知〔作用〕にたいし、識知無辺なる〔認識の〕場所の心が専注する。また、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)の〔修行の〕方法は、ここにおいて、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである(虚空無辺なる認識の場所と同様である)。

 

※ テキストには ākāsaphuṭṭe とあるが、VRI版により ākāsaphue と読む。

 

§27  そして、これだけで、この〔比丘〕は、「全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます」(ディーガ・ニカーヤ2p.112)と説かれる。

 

282.

 

§28  そこにおいて、「全てにわたり」とは、これは、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(虚空無辺なる認識の場所と同様である)。

 また、「虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して」とは、ここにおいて、前に説かれた方法によって(§13)、〔虚空無辺なる認識の場所の〕瞑想〔の境地〕もまた、虚空無辺なる〔認識の〕場所であり、〔虚空無辺なる認識の場所の瞑想の〕対象〔である虚空〕もまた、〔虚空無辺なる認識の場所である〕。なぜなら、〔虚空無辺なる認識の場所の瞑想の〕対象〔である虚空〕もまた、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§13)、そして、虚空無辺であり、それは、第一の形態なき〔行境〕の瞑想の対象たることから、天〔の神々〕たちにとっての天の場所のように、〔心の〕確立の義(意味)によって、かつまた、〔認識の〕場所となるからである。ということで、「虚空無辺なる〔認識の〕場所を」。そのように、そして、虚空無辺であり、それは、その瞑想〔の境地〕にとって産出の因たることから、「カンボージャー(地名)は、馬たちの場所(産地)である」という〔言葉〕等々のように、産出の地の義(意味)によって、かつまた、〔認識の〕場所となる。ということで、「虚空無辺なる〔認識の〕場所を」。このように、そして、この〔虚空無辺なる認識の場所の〕瞑想〔の境地〕を、かつまた、〔虚空無辺なる認識の場所の瞑想の〕対象〔である虚空〕を、ということで、〔瞑想の境地と瞑想の対象の〕両者ともどもに、そして、転起の契機なきことによって、さらに、意を為さないことによって、まさしく、超越して〔そののち〕、すなわち、この識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むべきことから、それゆえに、〔瞑想の境地と瞑想の対象の〕両者ともどもに、これを一所に為して、「虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して」と、この〔句〕が説かれた、と知られるべきである。

 

§29  「識知〔作用〕は、終極なきものである」とは、まさしく、その〔識知作用〕に──「虚空は、終極なきものである」と、このように、〔虚空を〕充満して転起された識知〔作用〕に──「識知〔作用〕は、終極なきものである」「識知〔作用〕は、終極なきものである」と、このように意を為しつつ、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。あるいは、意を為すことを所以に、「終極なきものである」。なぜなら、彼(瞑想修行者)は、〔まさに〕その、虚空を対象とする識知〔作用〕に、残りなく意を為しつつ、「終極なきものである」と、意を為すからである。

 

§30  また、すなわち、『ヴィバンガ(分別論)』において、「『識知〔作用〕は、終極なきものである』とは、まさしく、その虚空を、識知〔作用〕で充満したものとして意を為し、終極なく充満する。それによって説かれる。『識知〔作用〕は、終極なきものである』〔と〕」(ヴィバンガp.262)と説かれたが、そこにおいて、「識知〔作用〕で」とは、〔「で」とあるが〕目的格の義(意味)において作用する言葉と知られるべきである(「識知〔作用〕で」は「識知〔作用〕に」と理解するべきである)。なぜなら、このように、アッタカター(注釈書)の師匠たちは、その〔言葉〕の義(意味)を解説するからである。「『終極なく充満する』〔とは〕、まさしく、その虚空を充満した識知〔作用〕に意を為す、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る」〔と〕。

 

§31  また、「識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます」とは、ここにおいて、【333】その〔識知無辺なる認識の場所の生存〕には終極がない、ということで、「終極なき」。終極なきこそが、「無辺」。〔その〕識知〔作用〕の無辺が、〔それを〕「識知〔作用〕の無辺」と説かずして、「識知無辺」と説かれた。なぜなら、ここにおいて、これが、汎用語となるからである。

 その識知無辺が、〔心の〕確立の義(意味)によって、〔その瞑想の境地と〕結び付いた法(性質)を含めて、その瞑想〔の境地〕にとって、〔認識の〕場所となる。天〔の神々〕たちにとっての天の場所のように。ということで、「識知無辺なる〔認識の〕場所を」。

 残りのものは、まさしく、前に等しきものとなる。ということで──

 これが、識知無辺なる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点についての詳細の言説となる。

 

283.

 

 3 無所有なる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点(37)

 

§32  また、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を修めることを欲する者によって、〔傾注することの自在と入定することの自在と確立することの自在と出起することの自在と綿密に注視することの自在という〕五つの行相によって、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の行ないに自在なる状態ある者となり、「この入定は、虚空無辺なる〔認識の〕場所という義(利益)に反するものの近くにあり、かつまた、無所有なる〔認識の〕場所のように寂静ではない」と、識知無辺なる〔認識の〕場所における危険を見て、そこにおいて、欲念を完全に取り払って、〔より上なる瞑想の境地である〕無所有なる〔認識の〕場所に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、まさしく、その、識知無辺なる〔認識の〕場所の対象として有る、虚空無辺なる〔認識の〕場所の識知〔作用〕(虚空を充満して転起された識知作用)の、状態なき〔あり方〕が、空なることが、遠離された行相が、意が為されるべきである。どのようにか。

 

§33  その識知〔作用〕に意を為さずして、あるいは、「存在しない」「存在しない」と、あるいは、「空である」「空である」と、あるいは、「遠離されたものである」「遠離されたものである」と、繰り返し、〔心が〕傾注されるべきであり、意が為されるべきであり、綿密に注視されるべきであり、考慮による触発と思考による触発が為されるべきである。

 

§34  彼が、このように、その形相にたいし、心を(※)行なわせていると、〔五つの修行の〕妨害は鎮静され、気づきは確立し、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕によって、心は定められる。彼は、その形相を、繰り返し、習修し、修め、多く為す。彼が、このように為していると、虚空を充満した莫大なる識知〔作用〕にたいし、識知無辺なる〔認識の〕場所〔の心〕が〔専注する〕ように、まさしく、その、虚空を充満して転起された莫大なる識知〔作用〕の、空にして遠離された〔何も〕存在しない状態にたいし、無所有なる〔認識の〕場所の心が専注する。そして、ここにおいてもまた、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の〔修行の〕方法は、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである(虚空無辺なる認識の場所と同様である)。

 

※ テキストには nimittacitta とあるが、VRI版により nimitte citta と読む。

 

§35  また、これが、差異となる。まさに、その、〔瞑想の境地に〕専注する心が生起したとき、その比丘は──たとえば、まさに、人が、円形堂等々において、何らかの或る為すべきことによって参集した比丘の僧団を見て〔そののち〕、どこかしら〔他所に〕赴いて、まさしく、参集し為すべきことの最後となり、比丘たちが〔坐から〕立ち上がって立ち去ったときに、〔他所から〕戻ってきて、門に立って、ふたたび、その場を眺め見ていると、空なる〔場〕だけを見、遠離された〔場〕だけを見、彼に、「まさに、これだけの比丘たちが、あるいは、命を終えたのだ、あるいは、方々に立ち去ったのだ」という、このような〔思いが〕有ることはなく、そこで、まさに、「これは、空なる〔場〕である。【334】遠離された〔場〕である」と、〔何も〕存在しない状態だけを見るように、まさしく、このように──過去において、虚空にたいし転起させられた識知〔作用〕を識知無辺なる〔認識の〕場所の瞑想の眼で見ている者として住んで〔そののち〕、「存在しない」「存在しない」という〔言葉〕等の、事前作業としての意を為すことによって、その識知〔作用〕が消没したときは、その〔識知作用〕の、「離去」と名づけられた、まさしく、状態なき〔あり方〕(非存状態)を見ている者となり、〔世に〕住む。

 

§36  そして、これだけで、この〔比丘〕は、「全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます」(ディーガ・ニカーヤ2p.112)と説かれる。

 

284.

 

§37  ここでもまた、「全てにわたり」とは、これは、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(虚空無辺なる認識の場所と同様である)。

 「識知無辺なる〔認識の〕場所を」とは、そして、ここにおいてもまた、まさしく、前に説かれた方法によって(§13)、〔識知無辺なる認識の場所の〕瞑想〔の境地〕もまた、識知無辺なる〔認識の〕場所であり、〔識知無辺なる認識の場所の瞑想の〕対象〔である虚空を充満して転起された識知作用〕もまた、〔識知無辺なる認識の場所である〕。なぜなら、〔識知無辺なる認識の場所の瞑想の〕対象〔である虚空を充満して転起された識知作用〕もまた、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§13)、そして、識知無辺であり、それは、第二の形態なき〔行境〕の瞑想の対象たることから、天〔の神々〕たちにとっての天の場所のように、〔心の〕確立の義(意味)によって、かつまた、〔認識の〕場所となるからである。ということで、「識知無辺なる〔認識の〕場所を」。そのように、そして、識知無辺であり、それは、まさしく、その瞑想〔の境地〕にとって産出の因たることから、「カンボージャーは、馬たちの場所である」という〔言葉〕等々のように、産出の地の義(意味)によって、かつまた、〔認識の〕場所となる。ということで、「識知無辺なる〔認識の〕場所を」。このように、そして、この〔識知無辺なる認識の場所の〕瞑想〔の境地〕を、さらに、〔識知無辺なる認識の場所の瞑想の〕対象〔である虚空を充満して転起された識知作用〕を、ということで、〔瞑想の境地と瞑想の対象の〕両者ともどもに、そして、転起の契機なきことによって、さらに、意を為さないことによって、まさしく、超越して〔そののち〕、すなわち、この無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むべきことから、それゆえに、〔瞑想の境地と瞑想の対象の〕両者ともどもに、これを一所に為して、「識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して」と、この〔句〕が説かれた、と知られるべきである。

 

§38  「何であれ、存在しない」とは、「存在しない」「存在しない」「空である」「空である」「遠離されたものである」「遠離されたものである」と、このように意を為しつつ、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。すなわち、また、『ヴィバンガ(分別論)』において、「『何であれ、存在しない』とは、まさしく、その、識知〔作用〕を、無有とし、非有とし、消没させ、『何であれ、存在しない』と見る。それによって説かれる。『何であれ、存在しない』〔と〕」(ヴィバンガp.262)と説かれたが、それは、たとえ、何であれ、滅尽〔の観点〕から、〔識知作用を〕触知することであるように説かれたとして、そこで、まさに、そのばあいも、義(意味)は、まさしく、このように、見られるべきである。まさに、その識知〔作用〕に、〔心を〕傾注させずにいながら、意を為さずにいながら、綿密に注視せずにいながら、単に、その〔識知作用〕の、まさしく、存在しない状態に、空なる状態に、遠離された状態に、意を為しつつ、無有とし、非有とし、消没させる、と説かれる──他なるものとして、ではなく、と〔知られるべきである〕。

 

§39  また、「無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます」とは、ここにおいて、それには、何ものも〔存在し〕ない、ということで、「無一物」。もしくは、それには、滅壊するほどのものでさえも、残されたものが存在しない、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。無一物の状態が、「無所有」。これは、虚空無辺なる〔認識の〕場所の識知〔作用〕(虚空を充満して転起された識知作用)の離去の同義語である。【335】その無所有が、〔心の〕確立の義(意味)によって、その瞑想〔の境地〕にとって、〔認識の〕場所となる。天〔の神々〕たちにとっての天の場所(居住の場)のように。ということで、「無所有なる〔認識の〕場所を」。

 残りのものは、まさしく、前に等しきものとなる。ということで──

 これが、無所有なる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点についての詳細の言説となる。

 

285.

 

 4 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点(38)

 

§40  また、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を修めることを欲する者によって、〔傾注することの自在と入定することの自在と確立することの自在と出起することの自在と綿密に注視することの自在という〕五つの行相によって、無所有なる〔認識の〕場所への入定の行ないに自在なる状態ある者となり、あるいは、「この入定は、識知無辺なる〔認識の〕場所という義(利益)に反するものの近くにあり、かつまた、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所のように寂静ではない」と、あるいは、「表象は、病である。表象は、腫物である。表象は、矢である。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものである」と、このように、無所有なる〔認識の〕場所における危険を〔見て〕、さらに、〔より上なる瞑想の境地の〕上なる福利を見て、無所有なる〔認識の〕場所にたいする欲念を完全に取り払って、〔より上なる瞑想の境地である〕表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、まさしく、その、〔虚空を充満して転起された識知作用の〕状態なき〔あり方〕を対象と為して転起させられた無所有なる〔認識の〕場所への入定が、「寂静である」「寂静である」と、繰り返し、〔心が〕傾注されるべきであり、意が為されるべきであり、綿密に注視されるべきであり、考慮による触発と思考による触発が為されるべきである。

 

§41  彼が、このように、その形相にたいし、繰り返し、意図を行なわせていると、〔五つの修行の〕妨害は鎮静され、気づきは確立し、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕によって、心は定められる。彼は、その形相を、繰り返し、習修し、修め、多く為す。彼が、このように為していると、識知〔作用〕の離去にたいし、無所有なる〔認識の〕場所〔の心〕が〔専注する〕ように、「無所有なる〔認識の〕場所への入定」と名づけられた〔形態なき〕四つの範疇(受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)にたいし、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の心が専注する。また、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の〔修行の〕方法は、ここにおいて、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、知られるべきである(虚空無辺なる認識の場所と同様である)。

 

§42  そして、これだけで、この〔比丘〕は、「全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます」(ディーガ・ニカーヤ2p.112)と説かれる。

 

286.

 

§43  ここでもまた、「全てにわたり」とは、これは、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(虚空無辺なる認識の場所と同様である)。

 「無所有なる〔認識の〕場所を超越して」とは、ここにおいてもまた、まさしく、前に説かれた方法によって(§13)、〔無所有なる認識の場所の〕瞑想〔の境地〕もまた、無所有なる〔認識の〕場所であり、〔無所有なる認識の場所の瞑想の〕対象もまた、〔無所有なる認識の場所である〕。なぜなら、〔無所有なる認識の場所の瞑想の〕対象もまた、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって(§13)、そして、無所有であり、それは、第三の形態なき〔行境〕の瞑想の対象たることから、天〔の神々〕たちにとっての天の場所(居住の場)のように、〔心の〕確立の義(意味)によって、かつまた、〔認識の〕場所となるからである。ということで、「無所有なる〔認識の〕場所を」。そのように、そして、無所有であり、それは、まさしく、その瞑想〔の境地〕にとって産出の因たることから、【336】「カンボージャーは、馬たちの場所である」という〔言葉〕等々のように、産出の地の義(意味)によって、かつまた、〔認識の〕場所となる。ということでもまた、「無所有なる〔認識の〕場所を」。このように、そして、この〔無所有なる認識の場所の〕瞑想〔の境地〕を、さらに、〔無所有なる認識の場所の瞑想の〕対象を、ということで、〔瞑想の境地と瞑想の対象の〕両者ともどもに、そして、転起の契機なきことによって、さらに、意を為さないことによって(※)、まさしく、超越して〔そののち〕、すなわち、この表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むべきことから、それゆえに、〔瞑想の境地と瞑想の対象の〕両者ともどもに、これを一所に為して、「無所有なる〔認識の〕場所を超越して」と、この〔句〕が説かれた、と知られるべきである。

 

※ テキストには amanasikaraena とあるが、VRI版により amanasikaraena ca と読む。

 

§44  また、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を」とは、ここにおいて、その表象の、状態〔の観点〕から、その〔表象〕は、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所」と説かれる。すなわち、実践した者に、その表象が有るとおりに、まずは、その〔表象〕を見示するために、『ヴィバンガ(分別論)』において、「表象ある者にもあらず表象なき者にもあらざる者は」と提起して、「まさしく、その、無所有なる〔認識の〕場所に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為し、残余の形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)への入定(表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所)を修める。それによって説かれる。『表象ある者にもあらず表象なき者にもあらざる者』〔と〕」(ヴィバンガp.263)と説かれた。

 

§45  そこにおいて、「寂静なるもの〔の観点〕から意を為し」とは、「まさに、この〔無所有なる認識の場所への〕入定は、寂静である」〔と意を為すこと〕。なぜなら、そこでは、まさに、〔何も〕存在しない状態でさえも、対象と為して止住することになるからである。ということで、このように、寂静を対象とすることから、その〔無所有なる認識の場所への入定〕に、「寂静である」と意を為す。「もし、寂静なるもの〔の観点〕から意を為すなら、どのように、超越が有るのか」と〔問うなら〕、「〔その無所有なる認識の場所に〕入定することを欲さないことから」〔と答える〕。なぜなら、彼は、たとえ、何であれ、その〔無所有なる認識の場所への入定〕に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為すとして、そこで、まさに、彼には、「わたしは、この〔無所有なる認識の場所への入定〕に、〔心を〕傾注するであろう(※)、入定するであろう、確立するであろう、出起するであろう、綿密に注視するであろう」という、この、念慮や集中や意を為すことは、有ることなくあるからである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「無所有なる〔認識の〕場所より、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所が、より寂静にしてより精妙なることから」〔と答える〕。

 

※ テキストには āpajjissāmi とあるが、VRI版により āvajjissāmi と読む。

 

§46  まさに、すなわち、王の大いなる威力をもって、優れた象の肩に在る王が、城市の道を渡り歩みつつ、牙の細工師等々の技術者たちが、一なる衣を堅固に着衣して、一なる〔布〕で頭を巻いて、牙の細片等々で五体が等しく振りまかれ、無数なる牙の〔装身〕具等々の技術品を作っているのを見て、「ああ、まさに、まあ、利口なる師匠たちだ──まさに、これらのような技術品でさえも作るのだ」と、このように、彼らの利口さに満足するとして、しかしながら、彼に、「ああ、まさに、わたしは、王権を捨棄して、このような形態の技術者と成るのだ」という、このような〔思いが〕有ることはなく──「それは、何を因とするのか」〔と問うなら〕、「王権の吉祥には大いなる福利あることから」〔と答える〕──その〔王〕が、技術者たちを、まさしく、超越して赴くように、まさしく、このように、そして、この〔比丘〕は、たとえ、何であれ、その入定に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為すとして、そこで、まさに、彼に、「わたしは、この〔無所有なる認識の場所への〕入定に、〔心を〕傾注するであろう(※)、入定するであろう、確立するであろう、出起するであろう、綿密に注視するであろう」という、この、念慮や集中や意を為すことは、まさしく、有ることなくある。

 

※ テキストには āpajjissāmi とあるが、VRI版により āvajjissāmi と読む。

 

§47  彼は、その〔無所有なる認識の場所への入定〕に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為しつつ、前に説かれた方法によって、【337】その〔表象〕に──最高の繊細なるものにして、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た、〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所の〕表象に──至り得る。それによって、〔彼は〕「表象ある者にもあらず表象なき者にもあらざる者」ということに成り、「残余の形成〔作用〕への入定(表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所)を修める」と説かれる。

 「残余の形成〔作用〕への入定を」とは、究極の繊細なる状態に至り得た形成〔作用〕としてある、第四の形態なき〔瞑想〕への入定(表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所)を。

 

287.

 

§48  今や、すなわち、その〔表象〕が、このように到達された表象たるを所以に、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所」と説かれるとして、その〔表象〕を、義(意味)〔の観点〕から見示するために、「『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所』とは、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者の〔善なる心と心の属性としての諸法であり〕、あるいは、〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所に〕再生した者の〔報いとしての心と心の属性としての諸法であり〕、あるいは、〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所の〕所見の法(現世)における安楽の住ある者の〔報いを生まない純粋所作としての〕心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)である」(ヴィバンガp.263)と説かれたが、それら〔の三者〕のうち、ここでは、入定した者の〔善なる〕心と心の属性としての諸法(性質)が、志向するところとなる。

 

§49  また、ここにおいて、言葉の義(意味)は、粗雑なる表象の状態なきことから、さらに、繊細なる〔表象〕の状態あることから、〔その瞑想の境地と〕結び付いた法(性質)を含めて、その瞑想〔の境地〕には、まさしく、表象なく、表象なきにもあらず、ということで、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざるもの」。そして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる、その〔瞑想の境地〕は、意の〔認識の〕場所(意処)と法の〔認識の〕場所(法処)に属していることから、かつまた、〔認識の〕場所となる。ということで、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を」。

 

§50  そこで、あるいは、すなわち、この表象は、ここにおいて、それは、明白なる表象の作用を為すことができないことから、まさしく、表象なく、残余の形成〔作用〕の繊細なる状態によって見出されることから、表象なきにもあらず、ということで、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざるもの」。そして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる、その〔表象〕は、残余の諸法(性質)にとって、〔心の〕確立の義(意味)によって、かつまた、〔認識の〕場所となる。ということで、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を」。そして、単に、ここにおいて、表象だけが、このようなものとなるのではなく、そこで、まさに、感受(:楽苦の知覚)もまた、感受あるにもあらず感受なきにもあらざるものとなり、心もまた、心あるにもあらず心なきにもあらざるものとなり、接触(:感覚の発生)もまた、接触あるにもあらず接触なきにもあらざるものとなる。これが、残余の〔その瞑想の境地と〕結び付いた諸々の法(性質)について、〔共通する〕方法となる。いっぽう、表象を頭目として、この説示が為された、と知られるべきである。

 

§51  そして、鉢に塗る油等々の喩えによって、この義(意味)が分明されるべきである。伝えるところでは、沙弥が、油で鉢を塗って据え置いた。粥を飲む時になり、彼に、長老は、「鉢を持ってきなさい」と言った。彼は、「尊き方よ、鉢のうちには、油が存在します」と言った。そののち、〔長老によって〕「沙弥よ、油を持ってきなさい。筒に満たすのだ」と説かれたとき、「尊き方よ、油は存在しません」と言った。そこにおいて、すなわち、内に〔油が〕付着していることから、粥と共に〔飲むのは〕適確ならざる義(意味)によって、「油が存在する」ということに成り、筒に満たす等々を所以に、「存在しない」ということに成るように、このように、その表象もまた、明白なる表象の作用を為すことができないことから、「まさしく、表象なく」〔ということに成り〕、残余の形成〔作用〕の繊細なる状態によって見出されることから、「表象なきにもあらず」〔ということ〕に成る。

 「また、何が、ここにおいて、表象の作用であるのか」と〔問うなら〕、「まさしく、そして、対象を表象することであり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の境域の状態(無常の現実)に近しく赴いて、〔その観察の対象にたいし〕厭離を生じさせることである」〔と答える〕。

 

§52  【338】まさに、温水のなかで火の界域が燃焼する作用を〔為すことができない〕ように、表象する作用をもまた、この〔表象〕は、明白なるものとして為すことができない。諸々の残りの入定における表象のように、〔あるがままの〕観察の境域の状態(無常の現実)に近しく赴いて、〔その観察の対象にたいし〕厭離を生じさせることもまた、為すことができない。

 

§53  なぜなら、〔この表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所に入定した〕比丘は、〔形態や感受作用等の〕諸他の〔心身を構成する〕範疇にたいし〔理解の〕固着を為さず、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の範疇〔だけ〕にたいし触知して、〔その結果、あるがままの観察を所以に〕厭離に至り得ることができる者として、まさに、存在しないからである。そして、たとえ、尊者サーリプッタ(舎利弗)が、また、〔生来の〕性向としての〔あるがままの〕観察者にして大いなる智慧ある者で、まさしく、サーリプッタと相同の者が、〔生来の性向として厭離に至り得ることが〕できるとして、彼もまた、「このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く」(マッジマ・ニカーヤ3p.28)と、このように、まさしく、〔形態や感受作用等の諸法の〕集合の〔あるがままの〕触知(Ch.20§2)を所以に〔厭離に至り得るのであり〕、個別の法(単独の対象)にたいする〔あるがままの〕観察を所以に〔厭離に至り得ることはでき〕ない。このように、繊細なることに至ったのが、この入定である。

 

§54  さらに、すなわち、鉢に塗る油の喩えによってのように、このように、道の水の喩えによってもまた、この義(意味)が分明されるべきである。伝えるところでは、道を行く長老の前を赴いている沙弥が、〔道に〕少しの水を見て、「尊き方よ、水です。〔両の〕履物を脱いでください」と言った。そののち、長老によって、「それで、もし、水が存在するなら、沐浴の衣を持ってきなさい。〔わたしたちは〕沐浴するのだ」と説かれたとき、「尊き方よ、存在しません」と言った。そこにおいて、すなわち、履物を濡らすのみの義(意味)によって、「水が存在する」ということに成り、沐浴の義(意味)によって、「存在しない」ということに成るように、このようにもまた、その〔表象〕は、明白なるものとして表象の作用を為すことができないことから、「まさしく、表象なく」〔ということに成り〕、残余の形成〔作用〕の繊細なる状態によって見出されることから、「表象なきにもあらざる」〔ということ〕に成る。

 

§55  さらに、単に、これら〔の喩え〕だけにあらず。諸他の適切なる喩えによってもまた、この義(意味)が分明されるべきである。

 「成就して〔世に〕住みます」とは、これは、まさしく、〔前に〕説かれた〔説示の〕方法となる。ということで──

 これが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所という〔心を定める〕行為の拠点についての詳細の言説となる。

 

288.

 

 5 〔四つの形態なきものについての〕雑駁なる言説

 

§56  〔そこで、詩偈に言う〕「等しき形態の者なき〔世の〕主たる方(ブッダ)が言った、〔まさに〕その、四種類の形態なき〔瞑想〕であるが、かくのごとく、それを知って〔そののち〕、それについて、〔この〕雑駁なる言説もまた、識知されるべきである」〔と〕。

 

289.

 

§57  まさに、〔四つの〕形態なき〔瞑想〕への入定は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「対象の超越〔の観点〕から、これら〔の形態なき行境の瞑想への入定〕は、四つもろともに〔等しく〕有るとして、分明なる者たちは、これら〔の形態なき行境の瞑想への入定〕に支分の超越あることを求めない(主張しない)」〔と〕。

 

§58  まさに、これらについて、形態の形相の超越〔の観点〕から、第一〔の形態なき行境の瞑想への入定〕(虚空無辺なる認識の場所)となり、虚空の超越〔の観点〕から、第二〔の形態なき行境の瞑想への入定〕(識知無辺なる認識の場所)となり、虚空にたいし転起させられた識知〔作用〕の超越〔の観点〕から、第三〔の形態なき行境の瞑想への入定〕(無所有なる認識の場所)となり、虚空にたいし転起させられた識知〔作用〕の離去の超越〔の観点〕から、第四〔の形態なき行境の瞑想への入定〕(表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所)となる。ということで、一切点において、対象の超越〔の観点〕から、四つもろともに、これら〔の形態なき行境の瞑想への入定〕は〔等しく〕有る、〔と〕知られるべきである。

 【339】いっぽう、賢者たちは、これら〔の形態なき行境の瞑想への入定〕に支分の超越あることを求めない(主張しない)。なぜなら、諸々の形態の行境への入定におけるような支分の超越は、これら〔の形態なき行境の瞑想への入定〕においては存在しないからである。まさに、これら〔の形態なき行境の瞑想への入定〕においては、全てもろともにおいて、放捨、心の一境性、という、二つだけが、瞑想の支分として有る。

 

290.

 

§59  たとえ、〔それらが〕このように存しているとして──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ここ(四つの形態なきものへの入定)では、後のもの、後のものが、より極めて精妙なるものと成る。そこにおいて、高楼の〔四つの〕層と〔四つの〕衣の喩えが識知されるべきである」〔と〕。

 

§60  まさに、すなわち、四つの階ある高楼の下の層においては、天の舞踏や歌詠や音楽や芳香や花飾や食事や臥具や傘蓋等を所以に現起された精妙なる五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)が存在し、第二〔の層〕においては、それよりも、より精妙なるものが〔存在し〕、第三〔の層〕においては、それよりも、より精妙なるものが〔存在し〕、第四〔の層〕においては、一切のより精妙なるものが〔存在し〕、そこにおいて、たとえ、何であれ、それらは、四つもろともに、まさしく、高楼の層としてあり、それらに、高楼の層という状態による差異は存在しないとして、いっぽう、五つの欲望の属性の豊富なる差異によって、下のもの、下のものよりは、上のもの、上のものが、より精妙なるものと成るように──さらに、すなわち、一者の婦女が紡いだ、粗大なる〔糸〕と軟柔なる〔糸〕とより軟柔なる〔糸〕と最も軟柔なる糸の、四パラ(重さの単位)と三パラと二パラと一パラの衣が、そして、広さ〔の観点〕によって、さらに、幅〔の観点〕によって、等量のものとして存在し、そこにおいて、たとえ、何であれ、それらの衣は、四つもろともに、そして、広さ〔の観点〕から、さらに、幅〔の観点〕から、等量のものとなり、それらに、量〔の観点〕から、差異は存在しないとして、いっぽう、安楽なる感触と安楽なる状態と高価なる状態によって、前のもの、前のものよりは、後のもの、後のものが、より精妙なるものと成るように──まさしく、このように、たとえ、何であれ、これらの四つ〔の形態なき行境の瞑想への入定〕においては、放捨、心の一境性、という、これらの二つだけが、支分として有り、そこで、まさに、修行の差異による、それらの支分の、精妙なる〔状態〕とより精妙なる状態によって、ここ(四つの形態なき行境の瞑想への入定)では、後のもの、後のものが、より極めて精妙なるものと成る、と知られるべきである。

 

291.

 

§61  このように、順次に、そして、これら〔の形態なき行境の瞑想への入定〕は、精妙なるものからより精妙なるものと〔成る〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一者は、不浄〔の地〕にある天幕に避難する者。他の者は、彼(第一の者)に依拠した者。他の者は、彼(第二の者)に依拠せずして外に〔止住した〕。そして、他の者は、彼(第三の者)に依拠して〔止住した〕。

 これらの四者の人によって、順々に止住があるように、〔それと〕等しき〔観点〕から、四つ〔の形態なき行境の瞑想への入定〕もまた、分明なる者によって(※)知られるべきである」〔と〕。

 

※ テキストには vibhāvino とあるが、VRI版により vibhāvinā と読む。

 

§62  そこで、これが、義(意味)の解釈となる。伝えるところでは、不浄の地に一つの天幕が〔存在した〕。そこで、一者の人がやってきて、その不浄を忌避しつつ、その天幕に〔両の〕手でしがみついて、そこにおいて、避難する者となり、避難したかのように止住した。そこで、他の者がやってきて、天幕に避難する人に、彼に依拠した者となる。そこで、他の者がやってきて、思い考えた。「すなわち、この天幕に避難する者は、さらに、すなわち、彼に依拠した者は、これらの者たちは、両者ともどもに、悪しき止住者たちである。そして、天幕の落下あるとき、彼らには、常に落下がある。さあ、わたしは、まさしく、外に止住するのだ」と。彼は、【340】その依拠した者(第二の者)に依拠せずして、まさしく、外に、止住した。そこで、他の者がやってきて、そして、天幕に避難する者の、さらに、彼に依拠した者の、〔両者ともどもの〕平安ならざる状態を思い考えて、「しかしながら、外に止住した者は、善き止住者である」と思いなして、彼(第三の者)に依拠して止住した。

 

§63  そこにおいて、不浄の地にある天幕のように、遍満の撤去たる虚空が見られるべきである。不浄を忌避することから天幕に避難する人のように、形態の形相を忌避することから虚空を対象とする虚空無辺なる〔認識の〕場所が〔見られるべきである〕。天幕に避難する人に依拠した者のように、虚空を対象とする虚空無辺なる〔認識の〕場所を対象として転起された識知無辺なる〔認識の〕場所が〔見られるべきである〕。それらの両者ともどもの平安ならざる状態を思い考えて、天幕に避難する者に、彼に依拠せずして、外に止住した者のように、虚空無辺なる〔認識の〕場所を対象と為さずして、その状態なき〔あり方〕を対象とする無所有なる〔認識の〕場所が〔見られるべきである〕。天幕に避難する者の、さらに、彼に依拠した者の、〔両者の〕平安ならざることを思い考えて、「しかしながら、外に止住した者は、善き止住者である」と思いなして、彼に依拠して止住した者のように、「識知〔作用〕の状態なき〔あり方〕」と名づけられた外の地に止住し、無所有なる〔認識の〕場所を対象として転起された、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所が見られるべきである。

 

292.

 

§64  そして、このように転起している〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所〕は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「この〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所〕は、他〔の対象〕の状態がないことによって、その〔無所有なる認識の場所〕を、まさしく、対象と為す。すなわち、たとえ、汚点が見られたとして、〔その〕王に、生活を因とする人が〔依拠して転起する〕ように」〔と〕。

 

§65  まさに、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所は、「この〔無所有なる認識の場所への〕入定は、識知無辺なる〔認識の〕場所という義(利益)に反するものの近くにある」と、このように、たとえ、汚点が見られたとして、その無所有なる〔認識の〕場所を、他の対象の状態なきことから、まさしく、対象と為す。「すなわち、どのようにか」〔と問うなら〕、「すなわち、たとえ、汚点が見られたとして、〔その〕王に、生活を因とする人が〔依拠して転起する〕ように」〔と答える〕。まさに、すなわち、自制なく、粗暴なる身体と言葉と意の励行あるも、何であれ、一切の方角の長たる王に──「この者は、粗暴なる励行ある者である」と、このように、たとえ、汚点が見られたとして──他所に生活を得ずにいる人は、生活を因として、〔その王に〕依拠して転起する(生活する)ように、このように、たとえ、汚点が見られたとして、その無所有なる〔認識の〕場所を、他の対象を得ずにいる、この表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所は、まさしく、対象と為す。

 

293.

 

§66  そして、このように為している〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所〕は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、長き梯子に登った者が、梯子の段に〔頼る〕ように、さらに、すなわち、山の先端に登った者が、山頂に〔頼る〕ように──

 あるいは、すなわち、岩山に登った者が、まさしく、自己の膝に頼るように、まさしく、そのように、この〔無所有なる認識の場所の〕瞑想に頼って転起する」と。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「形態なきものについての釈示」という名の第十章となる。