第十一章 禅定についての釈示

 

294.

 

 1 食についての嫌悪の表象の修行(39)

 

§1  【341】今や、形態なき〔瞑想〕の直後に、「一つの表象()」と、このように配置された(Ch.3§105)、食についての嫌悪の表象(食厭想)の修行についての釈示が、至り得るところとなった。

 そこにおいて、持ち運ぶ(アーハラティ)、ということで、「食(アーハーラ)」。それは、物質としての食(段食:口にする食)、接触としての食(触食:知覚としての食)、意の思欲としての食(思食:意志としての食)、識知〔作用〕としての食(識食:認識としての食)、という、四種類のものとなる。

 

§2  「また、ここにおいて、何が、何を持ち運ぶのか」と〔問うなら〕、「物質としての食は、滋養を第八とする形態(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養からなる最小限の物質的事象、「〔不純なき〕清浄の八なるもの」とも言う:§105)を持ち運び、接触としての食は、三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)を持ち運び、意の思欲としての食は、三つの生存(三有:三界)において結生〔の識知作用〕を持ち運び、識知〔作用〕としての食は、結生の瞬間において名前と形態(名色:精神的事象と物質的事象)を持ち運ぶ」〔と答える〕。

 

§3  それらのうち、物質としての食においては、欲念の恐怖があり、接触としての食においては、近接の恐怖があり、意の思欲としての食においては、再生の恐怖があり、識知〔作用〕としての食においては、結生の恐怖がある。そして、このように恐怖を有するそれらについて、物質としての食は、子の肉の喩え(サンユッタ・ニカーヤ2p.98)によって明らかにされるべきであり、接触としての食は、皮なし牛の喩え(サンユッタ・ニカーヤ2p.99)によって〔明らかにされるべきであり〕、意の思欲としての食は、火坑の喩え(サンユッタ・ニカーヤ2p.99)によって〔明らかにされるべきであり〕、識知〔作用〕としての食は、刃と串の喩え(サンユッタ・ニカーヤ2p.100)によって〔明らかにされるべきである〕、と〔知られるべきである〕。

 

§4  また、これらの四つの食のうち、食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものという細別ある、物質としての食だけが、この義(意味)における食となる(他の三つの食は、ここに言う食ではない)、というのが、志向するところとなる。その食について、嫌悪の行相を収め取ることを所以に生起した表象が、「食についての嫌悪の表象」。

 

§5  その食について、嫌悪の表象を修めることを欲し、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)を収め取って〔そののち〕、収め取るところから一歩でさえも亡失せずにいる、静所に赴き静坐する者によって、食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものという細別ある、【342】物質としての食について、それは、すなわち、この、(1)〔行乞に〕赴くこと〔の観点〕から、(2)遍く探し求めること〔の観点〕から、(3)遍き受益〔の観点〕から、(4)分泌〔の観点〕から、(5)安置〔の観点〕から、(6)未消化〔の観点〕から、(7)消化〔の観点〕から、(8)果〔の観点〕から、(9)排出〔の観点〕から、(10)塗布〔の観点〕から、という、十の行相によって、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

295.

 

§6  (1)そこにおいて、「〔行乞に〕赴くこと」とは、このように、まさに、大いなる威力ある教えにおいて出家した者によって、全夜のあいだ、あるいは、覚者の言葉の読誦を〔為して〕、あるいは、沙門の法(性質)を為して、ごく早朝に起きて、塔廟の庭や菩提〔樹〕の庭の行持を為して、飲用水と洗浄水を奉仕して、僧房を掃き清めて、肉体を看護して(身体の面倒を見て)、〔瞑想の〕坐に登って、二十〔回〕、三十回と、〔心を定める〕行為の拠点に意を為して〔そののち〕、立ち上がって、鉢と衣料を収め取って、人との摩擦なく、遠離の安楽ある、日影と水に満ちた、清らかで、涼やかな、喜ばしき地の部分たる、諸々の苦行の林を捨棄して、聖なる遠離の喜びを期さずして、墓場に向かう野狐(ジャッカル)のように、食を義(目的)として、村に向かい、〔行乞に〕赴くべきこと。

 

§7  そして、このように赴きつつあるなら、あるいは、臥床から、あるいは、椅子から、下りてから以降は、足の塵や家蜥蜴の糞等にまみれた敷物が踏まれるべきものと成る。そののち、また、或る時には、鼠や蝙蝠の糞等々に害されたことから、部屋の内よりもより嫌悪なる玄関が見られるべきものと成る。そののち、梟や鳩〔の糞〕等で塗りたくられたことから、上床よりもより嫌悪なる下床が〔見られるべきものと成る〕。そののち、その時、その時に、風に吹かれた諸々の枯れ草や〔枯れ〕葉で〔汚れ〕、病者の沙弥たちの糞尿や唾液や鼻水で〔汚れ〕、さらに、雨の時の泥水等々で汚れたことから、下床よりもより嫌悪なる僧房〔の庭〕が〔見られるべきものと成り〕、僧房〔の庭〕よりもより嫌悪なる精舎の路地が見られるべきものと成る。

 

§8  また、順次に、そして、菩提〔樹〕を、さらに、塔廟を、〔両者ともに〕敬拝して、〔托鉢の道行きに思いを巡らす〕思考の広場に立ち、「真珠の集まりに等しき塔廟を、孔雀の尾翼の束のように意を奪い去る菩提〔樹〕を、さらに、天宮の得達のような吉祥を有する臥坐所を、〔それらを〕顧みずして、このような形態の、まさに、喜ばしき場所を背と為して、食を因として、〔行乞に〕赴くべきことと成るのだ」と立ち去って、村への道を行ったなら、木株や棘ある道もまた〔見られるべきものと成り〕、水の勢いで破壊された平坦ならざる道もまた見られるべきものと成る。

 

§9  そののち、腫物を覆うかのように着るものを着衣して、傷のための布(包帯)を結ぶかのように身体を結ぶもの(帯)を結んで、骨の群結を覆うかのように衣料を着込んで、薬壷を【343】取り出すかのように鉢を取り出して、村の門の近くに至り得つつあるなら、象の死骸や馬の死骸や牛の死骸や水牛の死骸や人間の死骸や蛇の死骸や山犬の死骸もまた見られるべきものと成る。さらに、単に、見られるべきにあらず。それらの臭いもまた、鼻を打ちつつ、耐え忍ぶべきものと成る。そののち、村の門に立って、狂暴な象や馬等の危難を遍く避けることを義(目的)に、諸々の村の路地が眺め見られるべきものと成る。

 

§10  ということで、この、敷物を最初とし、無数の死骸を結末とする、嫌悪なるものが、食を因として、そして、踏まれるべきものと〔成り〕、かつまた、見られるべきものと〔成り〕、さらに、嗅がれるべきものと成る。「君よ、ああ、まさに、食は、嫌悪なるものである」と、このように、〔行乞に〕赴くこと〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

296.

 

§11  (2)また、どのように、遍く探し求めること〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。このように、たとえ、〔行乞に〕赴くことの嫌悪を耐え忍んでも、大衣に包まれた者(行乞者)として村に入ったなら、哀れな人間(物乞い)のように、皿(鉢)を手に、家を次第次第に、村の道々を歩むべきことと成る。そこにおいては、雨の時には、踏まれた〔場〕踏まれた場において、すなわち、〔脛の〕団肉まであろうが、〔両の〕足は、泥水のなかに入る。一つの手で、鉢が掴み取られるべきものと成り、〔他の〕一つ〔の手〕で、衣料が持ち上げられるべきものと〔成る〕。夏の時には、風の勢いで現起した諸々の砂や草や塵を振りまかれた肉体で歩むべきことと〔成る〕。その〔家の門〕その家の門に至り得ては、魚を洗う〔水〕や肉を洗う〔水〕や米を洗う〔水〕や唾液や鼻水や犬豚の糞等々が等しく混合し、蛆虫たちの家となり青蝿の飛び交う、まさしく、そして、諸々の水たまりが、さらに、諸々のどぶ池の地が、見られるべきものと成り、踏まれるべきものともまた〔成る〕。そこからは、それらの蝿たちが出てきて、大衣にもまた〔止まり〕、鉢にもまた〔止まり〕、頭にもまた止まる。

 

§12  たとえ、家屋に入ったとして、或る者たちは施し、或る者たちは施さない。たとえ、施しているとして、一部の者たちは、昨日調理した食事をもまた〔施し〕、古くなった固形の食料をもまた〔施し〕、腐った粥や汁等々をもまた施す。たとえ、施さずにいるとして、まさしく、或る者たちは、「尊き方よ、ほかで求めてください」と説き、また、或る者たちは、見ずにいる者たちであるかのように沈黙なるままに有り、或る者たちは、顔をもまた他に為し(露骨に顔を背け)、或る者たちは、「おい、坊主、去れ」という〔言葉〕等々の粗暴な言葉で受け答えする。このように、哀れな人間(物乞い)のように、村を〔行乞の〕食のために歩んで、〔村から〕出るべきことと〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

§13  ということで、この、村に入ってから以降、すなわち、〔村から〕出るまでは、泥水等の嫌悪なるものが、食を因として、まさしく、そして、踏まれるべきものと〔成り〕、かつまた、見られるべきものと〔成り〕、さらに、耐え忍ぶべきものと成る。「君よ、ああ、まさに、食は、嫌悪なるものである」と、このように、遍く探し求めること〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

297.

 

§14  【344】(3)どのように、遍き受益〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。また、このように食を遍く探し求め、村の外なる平穏の場にて安楽に坐ったとして、すなわち、そこにおいて、手を下ろさないかぎり(食べ物に手を付けないかぎり)、それまでは、あるいは、そのような形態の重き〔地位に〕立つべき比丘を〔見て〕、あるいは、恥〔の思い〕ある〔立派な〕人間を見て、〔彼らを〕招くこともまたできる、〔そのような者として〕有るも(一緒に食べることを申し出ることができる)、いっぽう、ここにおいて、食べることを欲することから、手が下ろされたのみで、「収め取ってください」と説きつつあるなら、恥ずべきことと成る(手を付けたあとは他者を招くことはできない)。また、手を下ろして、圧していると(食べ物を手でこねていると)、流れ出る汗が五指に従い行くことで、乾燥し硬直した食をもまた(※)潤しつつ、柔らかなものと為す。

 

※ テキストには sukkathaddhabhattampi とあるが、VRI版により sukkhathaddhabhattampi と読む。

 

§15  そこで、その〔食〕は、圧し潰すのみですら、〔その〕美しさに〔醜さが〕混入し、握り飯と為して、口に据え置かれたなら、諸々の下の歯は、臼の作用を遂行し、諸々の上の〔歯〕は、杵の作用を〔遂行し〕、舌は、手の作用を〔遂行する〕。そこにおいて、〔まさに〕その、犬桶のなかの犬の食べ物のような〔食〕を、諸々の歯の杵で打って、舌で遍く転起させながら、舌の先端においては、薄く澄浄な唾液が塗布するも、〔舌の〕中央から以降は、濃い唾液が塗布し、楊枝をもって達し得ない箇所においては、歯糞が塗布する。

 

§16  〔まさに〕その、このように粉砕され塗布された〔食〕は、まさしく、その瞬間に、色艶や臭気や形成〔作用〕の特質が消没し、犬桶のなかに止住している犬の吐瀉物のように最高に忌避される状態に近しく赴く。たとえ、このような形態のものとして存しながらも、眼の視野を超え行ったことから、飲み下されるべきものと成る(嫌悪の状態を見ないので飲み下せる)。ということで、このように、遍き受益〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

298.

 

§17  (4)どのように、分泌〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。また、そして、このように、遍き受益に近しく赴いた、この〔食〕が、〔身体の〕内に入りつつあるとして、すなわち、覚者(ブッダ)や独覚(縁覚・辟支仏)たちにもまた、転輪王にもまた、胆汁と痰と膿と血の四つの分泌のうち、どれか一つの分泌が、まさしく、有ることから、また、弱き功徳の者たちには、四つの分泌〔の全て〕が有ることから、それゆえに、その者に、胆汁の分泌が増上のものとして有るなら、彼の〔その食は〕、濃い蜜油が塗布されたかのように最高に忌避されるものと成り、彼に、痰の分泌が増上のものとして有るなら、彼の〔その食は〕、ナーガバラー〔樹〕の葉液が塗布されたかのように〔最高に忌避されるものと成り〕、彼に、膿の分泌が増上のものとして有るなら、彼の〔その食は〕、腐った酪が塗布されたかのように〔最高に忌避されるものと成り〕、彼に、血の分泌が増上のものとして有るなら、彼の〔その食は〕、染料が塗布されたかのように最高に忌避されるものと成る。ということで、このように、分泌〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

299.

 

§18  (5)どのように、安置〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。その〔食〕は、これらの四つの分泌のうち、どれか一つの分泌によって塗布され、腹の内に入って、まさしく、金の器においてでもなく、宝珠や銀等の器においてでもなく、安置へと至る(安置される)。また、それで、もし、十歳の者によって飲み下されるなら、十年のあいだ洗い清められていない便壷に等しき【345】空間において止住する。また、それで、もし、二十や三十や四十や五十や六十や七十や八十や九十歳の者によって〔飲み下されるなら、二十や三十や四十や五十や六十や七十や八十や九十年のあいだ洗い清められていない便壷に等しき空間において止住する〕。それで、もし、百歳の者によって飲み下されるなら、百年のあいだ洗い清められていない便壷に等しき空間において止住する。ということで、このように、安置〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

300.

 

§19  (6)どのように、未消化〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。また、〔まさに〕その、このような形態の空間における安置に近しく赴いた、この食は、すなわち、未消化のものとして有るかぎり、それまでは、まさしく、その、〔前に〕説かれたとおりの流儀の、最高の暗黒にして漆黒、種々なる死骸(汚物)の臭気を香らせ臭い漂う、極めて悪臭がする忌避される場所(胃)において、たとえば、まさに、猛暑における時ならざる雨雲によって激しい雨があるとき、チャンダーラ(旃陀羅:賎民・非人)の村の門にあるどぶ池に溜まった諸々の草や葉や筵の切れ端や蛇や山犬や人間の死骸等々が、太陽の熱によって熱せられ、泡沫や泡粒を蓄積したものとなり、止住するように、まさしく、このように、その日であろうが、昨日であろうが、それより前の日であろうが、飲み下されたものの一切が、一緒に成って、痰の膜に覆い包まれ、身体の火熱によって腐熟され、腐熟によって生じた泡沫や泡粒を蓄積したものとなり、最高に忌避される状態に近しく赴いて、止住する。ということで、このように、未消化〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

301.

 

§20  (7)どのように、消化〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。その〔食〕は、熱せられた身体の火による消化あるものとなり、〔そのように〕存しつつも、諸々の金や銀等の界域(鉱石)のように、金や銀等の状態に近しく赴くことはない。また、泡沫や泡粒を放ちつつ(※)、軟柔に為すべく砕いて筒のなかに盛る黄土のように、糞の状態に近しく赴いて、大腸を〔満たし〕、さらに、尿の状態に近しく赴いて、尿で膀胱を満たす。ということで、このように、消化〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

※ テキストには muñcanto muñcanto とあるが、VRI版により muñcanto と読む。

 

302.

 

§21  (8)どのように、果〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。また、そして、この〔食〕は、正しく消化されているなら、髪や毛や爪や歯等々の種々なる死骸を出現させ、正しくなく消化されているなら、肌荒や搔痒や疥癬や癩病や疱瘡や肺病や喘息や下血等の幾百の病を〔出現させる〕。「これが、その〔食〕の果である」と、このように、果〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

303.

 

§22  (9)どのように、排出〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。そして、この〔食〕は、飲み下されているなら、一つの門から入って、排出しているなら、眼からは眼糞、耳からは耳糞、という〔あり方〕等の流儀によって、無数の門から排出する。そして、この〔食〕は、飲み下す時点においては、たとえ、大いなる取り巻きとともに飲み下されるも(集団のなかで飲み下されもする)、いっぽう、排出する時点においては、大小便等の状態に近しく赴いたものとなり、まさしく、独りで取り出される。そして、第一日においては、【346】その〔食〕を遍く受益しながら、欣喜のうえにも欣喜し、勇躍のうえにも勇躍し、喜悦と悦意を生じた者と成るもまた、第二日においては、排出しながら、鼻を塞ぎ、顔を背け、忌避〔の思い〕ある、愕然と成った者と成る。そして、第一日においては、その〔食〕を、貪欲し、貪求し、拘束され、耽溺し、固執している者となり、飲み下してもまた、第二日においては、一夜が過ぎて、離貪し、苦悩しつつ、自責しつつ、忌避しつつ、取り出す。

 

§23  それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大価ある、食べ物、飲み物、固形の食料、さらに、軟らかい食料は、一門から入って、九門から流れ出る。

 大価ある、食べ物、飲み物、固形の食料、さらに、軟らかい食料を、取り巻きと共に食べるも、排泄しているときは〔身を〕隠す。

 大価ある、食べ物、飲み物、固形の食料、さらに、軟らかい食料を、喜びながら食べるも、排泄しているときは忌避する。

 大価ある、食べ物、飲み物、固形の食料、さらに、軟らかい食料を、一夜が完全に過ぎたなら、一切が腐敗のものと成る」と──

 

 このように、排出〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

304.

 

§24  (10)どのように、塗布〔の観点〕から、〔嫌悪なることが綿密に注視されるべきであるのか〕。そして、遍き受益の時にもまた、この〔食〕は、手と唇と舌と口蓋を塗布する。それらは、その〔食〕によって塗布されたことから、嫌悪なるものと成る。それらが、たとえ、洗い清められたとして、臭いを消し去ることを義(目的)に、繰り返し洗い清められるべきものと成る。〔すでに〕遍く受益され、〔体内に〕存しているとして、たとえば、まさに、米を炊いているときに籾や糠や米屑等々が出て、鍋口の縁と蓋を塗布するように、まさしく、このように、全肉体に従い行く身体の火によって、泡立ち煮られて、〔体外に〕出つつ、諸々の歯を、歯垢の状態で塗布し、舌と口蓋等々を、痰や唾液等の状態で〔塗布し〕、眼や耳や鼻や下の道(大小の便道)等々を、眼糞や耳糞や鼻水や糞尿等の状態で塗布する。それによって塗布された、これらの門は、毎日、毎日、洗い清められつつもまた、まさしく、清らかなものと〔成ることが〕なく、意が喜びとするものと成ることもない。それらのうち、一部のもの(小便道)を洗い清めて〔そののち〕、手は、ふたたび水で洗い清められるべきものと成り、一部のもの(大便道)を洗い清めて〔そののちは〕、二〔回〕、三回と、牛糞によってであろうが、粘土によってであろうが、香粉によってであろうが、洗い清められたとして、嫌悪なることが離れ去ることはない。ということで、このように、塗布〔の観点〕から、嫌悪なることが綿密に注視されるべきである。

 

305.

 

§25  彼(瞑想修行者)が、このように、十の行相によって、嫌悪なることを綿密に注視しつつ、考慮による触発と思考による触発を為していると、嫌悪の行相を所以に、物質としての食は、【347】明白なるものと成る。彼は、その形相を、繰り返し、習修し、修め、多く為す。彼が、このように為していると、〔五つの修行の〕妨害()は鎮静される。物質としての食のばあい、自ずからの状態(自性:固有の性能)の法(性質)たることから、〔さらに、嫌悪の表象の〕深遠なることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ないも(※)、〔瞑想の境地に〕近接する禅定によって、心は定められる。また、嫌悪の行相を収め取ることを所以に、ここにおいて、〔嫌悪の〕表象は、明白なるものと成る。それゆえに、この〔心を定める〕行為の拠点は、まさしく、「食についての嫌悪の表象」という名称に至る。

 

※ テキストには appanattena とあるが、VRI版により appattena と読む。

 

§26  また、そして、この食についての嫌悪の表象に専念する比丘の心は、味への渇愛から、退去し、退避し、反転する。彼は、砂漠を超え出ることを義(目的)とする者が、驕慢〔の思い〕を離れ去り、子の肉を〔食べる〕ように、苦しみを超え渡ることを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、食を食する。そこで、彼の、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)あるものとしての貪欲〔の思い〕は、まさしく、難少なくして、物質としての食の遍知を入口に、遍知へと至る(あるがままに遍知される)。彼は、五つの欲望の属性の遍知を入口に、形態の範疇(色蘊)を遍知する。さらに、未消化等の嫌悪の状態を所以に、彼の、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)の修行もまた、円満成就へと至る。〔彼は〕浄美ならざる表象(不浄想:身体は不浄で価値がないと意を為す瞑想)に随順する〔実践の〕道を実践する者と成る。また、この実践に依拠して、まさしく、所見の法(現法:現世)において、不死〔の境処〕(涅槃)を結末とすることができずにいるとして、〔来世において〕善き境遇(善趣)を行き着く所とする者と成る。ということで──

 これが、食についての嫌悪の表象の修行についての詳細の言説となる。

 

306.

 

 2 〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置の修行(40)

 

§27  今や、食についての嫌悪の表象の直後に、「一つの〔差異の〕定置」と、このように配置された(Ch.3§105)、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置(四界差別)の修行についての釈示が、至り得るところとなった。

 そこにおいて、「定置」とは、自ずからの状態を近しく観ることを所以に確定すること。四つの界域〔の差異〕を定め置くことが、「〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置」。「界域に意を為すこと」「界域という〔心を定める〕行為の拠点」「〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置」とは、義(意味)〔の観点〕から、一つとなる(同一概念である)。

 そこで、この〔地と水と火と風の四つの界域の差異の定置〕は、二種に、そして、簡略〔の観点〕から、さらに、詳細〔の観点〕から、〔経典において〕言及された。(1)簡略〔の観点〕から、『マハー・サティ・パッターナ〔スッタ〕』(ディーガ・ニカーヤ2p.290)において言及され、(2)詳細〔の観点〕から、『マハー・ハッティパドゥーパマ〔スッタ〕』(マッジマ・ニカーヤ1p.184)において〔言及され〕、『ラーフローヴァーダ〔スッタ〕』(マッジマ・ニカーヤ1p.420)において〔言及され〕、さらに、『ダートゥ・ヴィバンガ〔スッタ〕』(マッジマ・ニカーヤ1p.237)において〔言及された〕。

 

§28  (1)まさに、それは、「比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、大きな四つ辻において、【348】片々に細別して、〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域()〔の観点〕から、綿密に注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』」(ディーガ・ニカーヤ2p.294)と、このように、鋭敏なる智慧ある者が〔地と水と火と風の四つの〕界域を〔心を定める〕行為の拠点とするのを所以に、簡略〔の観点〕から、『マハー・サティ・パッターナ〔スッタ〕』において言及された。

 

§29  〔これが〕その〔言葉〕の義(意味)となる。すなわち、あるいは、利口な牛の屠殺者が、あるいは、まさしく、彼の、食事と報酬で養われた内弟子が、雌牛を打ち殺して刺し貫いて、「四つの方角に通じた〔四つの〕大道の中間地」と名づけられた、大きな四つ辻において、〔雌牛の肉体を片々の〕部位と為して、〔そこに〕坐り、存するように、まさしく、このように、比丘が、四つの振る舞いの道(四威儀:行住坐臥)のなかの、何であれ、或る行相によって、止住していることから、止住しているとおりに、まさしく、止住しているとおりにあることから、作為しているとおりに、〔この〕身体を、「この身体において、地の界域と……略……風の界域が存在する」と、このように、界域〔の観点〕から、綿密に注視する。

 

§30  何が、〔ここにおいて〕説かれたものと成るのか。すなわち、牛の屠殺者にとって、雌牛を養い育てている者にとってもまた、屠殺場に運び込んでいる者にとってもまた、運び込んで、そこにおいて結縛して、据え置いている者にとってもまた、打ち殺している者にとってもまた、打ち殺され死んだ〔雌牛〕を見ている者にとってもまた、すなわち、その〔雌牛〕を裂いて、片々に区分しないかぎり、まさしく、それまでは、「雌牛である」という表象は消没しないとして、いっぽう、〔片々に〕区分して、〔そこに〕坐ったなら、雌牛の表象は消没し、肉の表象が転起し、彼には、「わたしは、雌牛を売る。この者たちは、雌牛を持ち去る」という、このような〔思いが〕有ることはなく、そこで、まさに、彼には、まさしく、「わたしは、肉を売る。この者たちもまた、肉を持ち去る」という、〔このような思いが〕有るように、まさしく、このように、この比丘にとってもまた、過去において、愚者たる凡夫の時においては、在家者として有るもまた、出家者として〔有る〕もまた、すなわち、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、重厚〔の表象〕の分解を為して、界域〔の観点〕から、綿密に注視しないかぎり、まさしく、それまでは、あるいは、「有情である」という、あるいは、「男である」という、あるいは、「人である」という、〔その〕表象は消没しないとして、いっぽう、界域〔の観点〕から、綿密に注視していると、有情の表象は消没し、まさしく、界域を所以に、心は確立する。それによって、世尊は言う。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が……略……〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……風の界域が存在する』」(ディーガ・ニカーヤ2p.294:§28)と。

 

307.

 

§31  (2)また、『マハー・ハッティパドゥーパマ〔スッタ〕』において、そして、「友よ、では、どのようなものが、内なる地の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の髪と諸々の毛と[諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と]胃物と糞は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる地の界域』〔と〕説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.185)【349】と、そして、「友よ、では、どのようなものが、内なる水の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる水の界域』〔と〕説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.187)と、そして、「友よ、では、どのようなものが、内なる火の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、かつまた、それによって熱せられ、かつまた、それによって老い、かつまた、それによって遍く焼かれ、かつまた、それによって食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが正しく変化に至るなら(消化吸収されるなら)──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる火の界域』〔と〕説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.188)と、そして、「友よ、では、どのようなものが、内なる風の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の上に赴く風、諸々の下に赴く風、諸々の腹に依拠する風、諸々の〔腸の〕部位に依拠する風、諸々の手足や肢体に従い行く風、出息、入息、かくのごときものは──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる風の界域』〔と〕説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.188)と、極めて鋭敏なる智慧なき者が〔地と水と火と風の四つの〕界域を〔心を定める〕行為の拠点とするのを所以に、詳細〔の観点〕から言及された。さらに、すなわち、ここにおいて〔説かれた〕ように、このように、『ラーフローヴァーダ〔スッタ〕』と『ダートッ・ヴィバンガ〔スッタ〕』においてもまた、〔詳細の観点から言及された〕。

 

§32  そこで、これが、明瞭ならざる句の解説となる。

 「内なるもので、各自それぞれに」とは、まずは、これは、両者ともどもに、自分の同義語である。「自分」というのは、自己において生じた相続に属しているもの、という義(意味)である。〔まさに〕その、これは、すなわち、世の婦女たちにおける言説が、「婦女的なもの」と説かれるように、このように、自己において転起されたことから、「内なるもので」〔と説かれ〕、自己を縁として転起されたことから、「各自それぞれに」ともまた説かれる。

 

§33  「粗剛にして」とは、硬直なるもの。「粗野な在り方をした」とは、粗暴なるもの。そこにおいて、第一〔の句〕は、特相についての言葉であり、第二〔の句〕は、行相についての言葉である。なぜなら、粗剛(重さと堅さ)を特相とするのが地の界域であり、それは、粗暴を行相とするものとして有り、それゆえに、「粗野な在り方をした」と説かれたからである。

 「〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは」とは、堅固に取られたもの。「わたしである」「わたしのものである」と、このように、堅固に取られたもの、収め取られたもの、偏執されたもの、という義(意味)である。

 

§34  「それは、すなわち、この」とは、不変化詞である。それには、「『それは、どのようなものか』と、もし〔問うなら〕」という義(意味)がある。

 そののち、それを見示しながら、「諸々の髪と諸々の毛と」という〔言葉〕等々を言った。そして、ここにおいて、脳味噌を加えて、二十の行相によって、地の界域が釈示された、と知られるべきである。

 「また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ」とは、残りの三つ〔の界域〕の部位における地の界域が、〔ここにおいて〕包摂されたものとなる(他の三つの界域の部位のそれぞれに存する地の界域がここに言及されている)。

 

§35  【350】流出の状態をもって、その〔状況〕その状況に至り得る(アッポーティ)、ということで、「水(アーポー)」。行為()から現起するもの等を所以に、諸々の種々なる種類の水における在り方をしたもの、ということで、「水の在り方をした」。何が、それであるのか。水の界域における連結(風の界域の拡張作用に対抗する連結作用としての引力)を特相とするものである。

 

§36  鋭くすること(テージャナ)を所以に、「火(テージョー)」。まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、諸々の〔種々なる種類の〕火における在り方をしたもの、ということで、「火の在り方をした」。何が、それであるのか。〔火の界域における〕暑熱(変化をもたらす熱力)を特相とするものである。

 「かつまた、それによって〔熱せられ〕」とは、その、火の界域の在り方をしたものが動乱したことによって、この身体が熱せられるなら、一日熱(病名)等の状態によって、熱を生じたものと成ること。

 「かつまた、それによって老い」とは、それによって、この身体が老いるなら、〔感官の〕機能の不全に、〔身体の〕力の完全なる滅尽に、さらに、皺や白髪の状態に、至り得ること。

 「かつまた、それによって遍く焼かれ」とは、その、〔火の界域の在り方をしたものが〕動乱したことによって、この身体が焼かれるなら、そして、その人は、「焼かれる(暑い)」「焼かれる(暑い)」と泣き叫びながら、まさしく、そして、百洗の酥やゴーシーサ栴檀等を〔身体に〕塗ることを(※)、さらに、扇の風を、願い求めること。

 「かつまた、それによって食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが正しく変化に至るなら」とは、それによって、〔まさに〕この、あるいは、食した飯等が、あるいは、飲んだ飲み物等が、あるいは、咀嚼した粉でできた固形の食料等が、あるいは、味わったアンバ果(マンゴー)や蜜や糖等が、正しく消化へと至るなら、液等の状態によって遠離へと至る(液状に分離する)、という義(意味)である。そして、ここにおいて、前の三つの火の界域は、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起するものとしてあり、最後のものは、行為だけから現起するものとしてある。

 

※ テキストには satadhotasappigosītacandanādilepañceva とあるが、VRI版により satadhotasappigosīsacandanādilepañceva と読む。

 

§37  吹くこと(ヴァーヤナ)を所以に、「風(ヴァーヨー)」。まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、諸々の〔種々なる種類の〕風における在り方をしたもの、ということで、「風の在り方をした」。何が、それであるのか。〔風の界域における〕支持(水の界域の連結作用に対抗する拡張作用としての斥力)を特相とするものである。

 「諸々の上に赴く風」とは、嘔吐や吃逆等を引き起こすもので、上に登り行く諸々の風。

 「諸々の下に赴く風」とは、大小便等を取り出すもので、下に降り行く諸々の風。

 「諸々の腹に依拠する風」とは、諸々の腸の外にある諸々の風。

 「諸々の〔腸の〕部位に依拠する風」とは、諸々の腸の内にある諸々の風。

 「諸々の手足や肢体に従い行く風」とは、血管網に従い行くことで全肉体における手足と肢体を循環するもので、曲げ伸ばし〔の動作〕等を発現する諸々の風。

 「出息」とは、内に入る風(経のアッタカターにおける説:Ch.8§164)。

 「入息」とは、外に出る風(経のアッタカターにおける説:Ch.8§164)。

 そして、ここにおいて、前の五つ〔の風の界域〕は、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起するものとしてあり、出息と入息は、心だけから現起するものとしてある。

 【351】一切所において、「また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ」という、この句によって、残りの〔三つの界域の〕部位における水の界域等々が、〔ここにおいて〕包摂されたものとなる。

 

§38  かくのごとく、二十の行相によって、地の界域が〔詳知され〕、十二〔の行相〕によって、水の界域が〔詳知され〕、四つ〔の行相〕によって、火の界域が〔詳知され〕、六つ〔の行相〕によって、風の界域が〔詳知され〕、かくのごとく、四十二〔の行相〕によって、四つの界域が詳知されたものと成る。ということで、まずは、ここにおいて、これが、聖典の解説となる。

 

308.

 

§39  また、ここにおいて、修行の方法は、鋭敏なる智慧ある比丘のばあい、「諸々の髪は、地の界域である」「諸々の毛は、地の界域である」と、このように、詳細〔の観点〕から〔意を為していると〕、界域の遍き収取は、煩わしきものとして現起する。いっぽう、「すなわち、硬直を特相とするものは、これは、地の界域である」「すなわち、連結を特相とするものは、これは、水の界域である」「すなわち、暑熱を特相とするものは、これは、火の界域である」「すなわち、支持を特相とするものは、これは、風の界域である」と、このように意を為していると、彼に、〔心を定める〕行為の拠点は明白なるものと成る。また、極めて鋭敏なる智慧なき者のばあい、このように意を為していると、〔心を定める行為の拠点は〕暗黒にして明瞭ならざるものと成り、前に〔説かれた〕方法によって、詳細〔の観点〕から意を為していると、明白なるものと成る。どのようにか。

 

§40  すなわち、二者の比丘が、多くの省略ある経典を読誦しているとき、鋭敏なる智慧ある比丘は、あるいは、一度、あるいは、二回、省略部門を詳知させて、そののち、〔省略部門より〕他の、両端だけを所以に、読誦を為しつつ赴くが、そこで、極めて鋭敏なる智慧なき者は、「まさに、これは、何という読誦なのだ。唇を打つほどのことも為すことができないとは。このように読誦が為されているなら、いつ、経典が熟練するところと成るのだろう」と、このように説く者として有り、彼は、言及された〔省略部門〕、言及された省略部門を、まさしく、〔一つ一つ〕詳知させて、読誦を為すとして、〔まさに〕その、この〔比丘〕に、他〔の鋭敏なる智慧ある比丘〕が、「まさに、これは、何という読誦なのだ。結末に至ることができないとは。このように読誦が為されているなら、いつ、経典は結末に至るのだろう」と、このように言うように、まさしく、このように、鋭敏なる智慧ある者のばあい、髪等を所以に、詳細〔の観点〕から〔意を為していると〕、界域の遍き収取は、煩わしきものとして現起し、「すなわち、硬直を特相とするものは、これは、地の界域である」という〔言葉〕等の方法によって、簡略〔の観点〕から意を為していると、〔心を定める行為の拠点は〕明白なるものと成る。他〔の極めて鋭敏なる智慧なき者〕のばあい、そのように(※)意を為していると、暗黒にして明瞭ならざるものと成り、髪等を所以に、詳細〔の観点〕から意を為していると、〔心を定める行為の拠点は〕明白なるものと成る。

 

※ テキストには tatha とあるが、VRI版により tathā と読む。

 

§41  それゆえに、まずは、この〔心を定める〕行為の拠点を修めることを欲する、鋭敏なる智慧ある者によって、静所に赴き静坐する者となり、自己の形態の身体(色身)に、〔その〕全体もろともに、〔心を〕傾注させて、「この身体において、すなわち、あるいは、硬直の状態あるものであり、あるいは、粗野の状態あるものであるなら、これは、地の界域である。すなわち、あるいは、連結の状態あるものであり、【352】あるいは、流動の状態あるものであるなら、これは、水の界域である。すなわち、あるいは、遍熱の状態あるものであり、あるいは、暑熱の状態あるものであるなら、これは、火の界域である。すなわち、あるいは、支持(拡張)の状態あるものであり、あるいは、浮遊の状態あるものであるなら、これは、風の界域である」と、このように、簡略〔の観点〕によって、〔四つの〕界域を遍く収め取って、繰り返し、「地の界域である」「水の界域である」と、界域だけ〔の観点〕から、有情ならざる〔観点〕から、生命ならざる〔観点〕から、〔心が〕傾注されるべきであり、意が為されるべきであり、綿密に注視されるべきである。

 

§42  彼が、このように努力していると、まさしく、長からずして、界域の細別を照らす智慧によって遍く収め取られた〔禅定〕が(※)〔生起するが〕、自ずからの状態の法(性質)を対象とすることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ずに、〔瞑想の境地に〕近接するのみの禅定が生起する。

 

※ テキストには dhātuppabhedā va bhāsanapaññāpariggahito とあるが、VRI版により dhātuppabhedāvabhāsanapaññāpariggahito と読む。

 

§43  そこで、また、あるいは、すなわち、〔地と水と火と風の〕四つの大いなる元素(四大種)の有情ならざる状態の見示を義(目的)に、法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)によって、「かつまた、骨を縁として、かつまた、腱を縁として、かつまた、肉を縁として、かつまた、皮を縁として、虚空が遍く取り囲まれたなら、まさしく、『形態』という名称に至ります(かくのごとく名づけられる)」(マッジマ・ニカーヤ1p.190)と、これらの四つの部位が説かれたが、それら〔の四つの部位〕において、その〔部位〕、その〔部位〕を、間に従い行く知恵の手で(差異をあるがままに覚知する智慧の眼で)分解しては分解して、「これら〔の四つの部位〕において、すなわち、あるいは、硬直の状態あるものであり、あるいは、粗野の状態あるものであるなら、これは、地の界域である」と、まさしく、前に説かれた方法によって、〔四つの〕界域を遍く収め取って、繰り返し、「地の界域である」「水の界域である」と、界域だけ〔の観点〕から、有情ならざる〔観点〕から、生命ならざる〔観点〕から、〔心が〕傾注されるべきであり、意が為されるべきであり、綿密に注視されるべきである。

 

§44  彼が、このように努力していると、まさしく、長からずして、界域の細別を照らす智慧によって遍く収め取られた〔禅定〕が(※)〔生起するが〕、自ずからの状態の法(性質)を対象とすることから、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ずに、〔瞑想の境地に〕近接するのみの禅定が生起する。

 これが、簡略〔の観点〕から言及された〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置における修行の方法となる。

 

※ テキストには dhātuppabhedā va bhāsanapaññāpariggahito とあるが、VRI版により dhātuppabhedāvabhāsanapaññāpariggahito と読む。

 

309.

 

§45  また、詳細〔の観点〕から言及された〔地と水と火と風の四つの界域の差異の定置〕における〔修行の方法は〕、このように知られるべきである。まさに、この〔心を定める〕行為の拠点を修めることを欲する、極めて鋭敏なる智慧なき者である、〔心の〕制止者(瞑想修行者)によって、師匠の現前において、四十二の行相によって(§31-8)、詳細〔の観点〕から、〔四つの〕界域を収め取って、〔前に〕説かれた流儀の臥坐所において住みつつ、〔戒を完全に清めること等々の〕一切の為すべきことを為した、静所に赴き静坐する者となり、(一)要素を有するものについて簡略〔の観点〕から、(二)要素を有するものについて区分〔の観点〕から、(三)特相を有するものについて簡略〔の観点〕から、(四)特相を有するものについて区分〔の観点〕から、という、このように、四つの行相によって、〔心を定める〕行為の拠点が修められるべきである。

 

§46  (一)そこにおいて、どのように、要素を有するものについて簡略〔の観点〕から修めるのか。ここに、比丘は、(1)二十の部位において、硬直を行相とするものを、「地の界域である」と定め置き、(2)十二の部位において、汁の在り方をした、「水」と名づけられた、連結を行相とするものを、「水の界域である」と定め置き、(3)四つの部位において、【353】遍熱ある火を、「火の界域である」と定め置き、(4)六つの部位において、支持を行相とするものを、「風の界域である」と定め置く。彼が、まさしく、このように定め置いていると、〔四つの〕界域が明白なるものと成る。それらに、繰り返し〔心を〕傾注し、意を為していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔瞑想の境地に〕近接する禅定が生起する。

 

310.

 

§47  (二)また、彼が、このように修めつつも、〔心を定める〕行為の拠点が実現しないなら、彼によって、要素を有するものについて区分〔の観点〕から修められるべきである。どのようにか。まさに、その比丘によって、すなわち、その、身体の在り方についての気づきという〔心を定める〕行為の拠点についての釈示において説かれた、七種の収取に巧みな智(Ch.8§48-60)が、さらに、十種の意を為すことに巧みな智(Ch.8§61-80)が、まずは、その全てを、〔諸々の髪等々の〕三十二の行相において遍く衰退させずして、皮膚についての五なるもの等々の順逆からの言葉による読誦を最初と為して、そこ(身体の在り方についての気づき)において説かれた〔修行の〕規定の全てが為されるべきである。

 まさに、まさしく、これが、〔身体の在り方についての気づきの、地と水と火と風の四つの界域の差異の定置との〕差異となる。そこ(身体の在り方についての気づき)においては、色艶と外貌と方角と空間と限定を所以に、諸々の髪等々に意を為して、また、嫌悪なるものを所以に、心が据え置かれるべきであるが(Ch.8§81-138)、いっぽう、ここ(地と水と火と風の四つの界域の差異の定置)では、界域を所以に、〔心が据え置かれるべきである〕。それゆえに、色艶等を所以に、五種に五種にと、諸々の髪等々に意を為して〔そののち〕、最後に、このように、意を為すことが転起させられるべきである。

 

311.

 

§48  (1)「これらの『諸々の髪』というのは、頭蓋を包む皮に生じたものである。そこにおいて、すなわち、蟻塚の頂きに諸々のクンタ草が生じたとして、蟻塚の頂きは、『わたしに、諸々のクンタ草が生じたのだ』と知ることがなく、諸々のクンタ草もまた、『わたしたちは、蟻塚の頂きに生じたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、頭蓋を包む皮は、『わたしに、諸々の髪が生じたのだ』と知ることがなく、諸々の髪もまた、『わたしたちは、頭蓋を包む皮に生じたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『諸々の髪』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないもの(無記)であり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

312.

 

§49  (2)「諸々の毛は、肉体を包む皮に生じたものである。そこにおいて、すなわち、空の村落地に諸々のダッバ草が生じたとして、空の村落地は、『わたしに、諸々のダッバ草が生じたのだ』と知ることがなく、諸々のダッバ草もまた、『わたしたちは、空の村落地に生じたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、肉体を包む皮は、『わたしに、諸々の毛が生じたのだ』と知ることがなく、諸々の毛もまた、『わたしたちは、肉体を包む皮に生じたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『諸々の毛』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

313.

 

§50  (3)「諸々の爪は、諸々の指の先端に生じたものである。そこにおいて、すなわち、少年たちが諸々の棒で諸々のマドゥカ〔樹の果〕の核を貫いて遊んでいるとして、諸々の棒は、【354】『わたしたちに、諸々のマドゥカ〔樹の果〕の核が据え置かれたのだ』と知ることがなく、諸々のマドゥカ〔樹の果〕の核もまた、『わたしたちは、諸々の棒に据え置かれたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、諸々の指は、『わたしたちの先端に、諸々の爪が生じたのだ』と知ることがなく、諸々の爪もまた、『わたしたちは、諸々の指の先端に生じたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『諸々の爪』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

314.

 

§51  (4)「諸々の歯は、〔上下二つの〕顎の骨に生じたものである。そこにおいて、すなわち、大工たちによって諸々の岩臼(礎石)に何らかの或る接着する類のもので結縛して据え置かれた諸々の柱があるとして、諸々の臼は、『わたしたちに、諸々の柱が立てられたのだ』と知ることがなく、諸々の柱もまた、『わたしたちは、諸々の臼に立てられたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、〔上下二つの〕顎の骨は、『わたしたちに、諸々の歯が生じたのだ』と知ることがなく、諸々の歯もまた、『わたしたちは、〔上下二つの〕顎の骨に生じたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『諸々の歯』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

315.

 

§52  (5)「皮膚は、全肉体を覆い包んで止住しているものである。そこにおいて、すなわち、水気ある牛の皮によって覆い包まれた大琵琶があるとして、大琵琶は、『わたしは、水気ある牛の皮によって覆い包まれたのだ』と知ることがなく、水気ある牛の皮もまた、『わたしによって、大琵琶が覆い包まれたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、肉体は、『わたしは、皮膚によって覆い包まれたのだ』と知ることがなく、皮膚もまた、『わたしによって、肉体が覆い包まれたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『皮膚』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

316.

 

§53  (6)「肉は、骨の群結を塗り固めて止住しているものである。そこにおいて、すなわち、大いなる〔量〕の粘土によって塗られた壁があるとして、壁は、『わたしは、大いなる〔量〕の粘土によって塗られたのだ』と知ることがなく、大いなる〔量〕の粘土もまた、『わたしによって、壁が塗られたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、骨の群結は、『わたしは、九百片の細別ある肉によって塗られたのだ』と知ることがなく、肉もまた、『わたしによって、骨の群結が塗られたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『肉』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

317.

 

§54  (7)「諸々の腱は、肉体の内部において、諸々の骨を連結しつつ止住しているものである。そこにおいて、すなわち、諸々の蔓によって結合された諸々の柵木があるとして、諸々の柵木は、【355】『わたしたちは、諸々の蔓によって結合されたのだ』と知ることがなく、諸々の蔓もまた、『わたしたちによって、諸々の柵木が結合されたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、諸々の骨は、『わたしたちは、諸々の腱によって連結されたのだ』と知ることがなく、諸々の腱もまた、『わたしたちによって、諸々の骨が連結されたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『諸々の腱』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

318.

 

§55  (8)「諸々の骨について。踵の骨は、踝の骨を持ち上げて止住しているものである。踝の骨は、脛の骨を持ち上げて止住しているものである。脛の骨は、腿の骨を持ち上げて止住しているものである。腿の骨は、腰の骨を持ち上げて(※)止住しているものである。腰の骨は、脊椎を持ち上げて止住しているものである。脊椎は、首の骨を持ち上げて止住しているものである。首の骨は、頭の骨を持ち上げて止住しているものである。頭の骨は、首の骨に止住しているものである。首の骨は、脊椎に止住しているものである。脊椎は、腰の骨に止住しているものである。腰の骨は、腿の骨に止住しているものである。腿の骨は、脛の骨に止住しているものである。脛の骨は、踝の骨に止住しているものである。踝の骨は、踵の骨に止住しているものである。

 

※ テキストには pakkhipitvā とあるが、VRI版により ukkhipitvā と読む。

 

§56  そこにおいて、すなわち、諸々の煉瓦と木と牛糞等の積み重ねがあるとして、下のもの下のものは、『わたしたちは、上のもの上のものを持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、上のもの上のものもまた、『わたしたちは、下のもの下のものに止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、踵の骨は、『わたしは、踝の骨を持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、踝の骨は、『わたしは、脛の骨を持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、脛の骨は、『わたしは、腿の骨を持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、腿の骨は、『わたしは、腰の骨を持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、腰の骨は、『わたしは、脊椎を持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、脊椎は、『わたしは、首の骨を持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、首の骨は、『わたしは、頭の骨を持ち上げて止住しているのだ』と知ることがなく、頭の骨は、『わたしは、首の骨に止住しているのだ』と知ることがなく、首の骨は、『わたしは、脊椎に止住しているのだ』と知ることがなく、脊椎は、『わたしは、腰の骨に止住しているのだ』と知ることがなく、腰の骨は、『わたしは、腿の骨に止住しているのだ』と知ることがなく、腿の骨は、『わたしは、脛の骨に止住しているのだ』と知ることがなく、脛の骨は、『わたしは、踝の骨に止住しているのだ』と知ることがなく、踝の骨は、『わたしは、踵の骨に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『骨』というのは、この【356】肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

319.

 

§57  (9)「骨髄は、諸々の骨のそれぞれの内部に止住しているものである。そこにおいて、すなわち、諸々の竹の節等々の内に盛られて蒸された筍等々があるとして、諸々の竹の節等々は、『わたしたちのなかに、諸々の筍等々が盛られたのだ』と知ることがなく、諸々の筍等々もまた、『わたしたちは、諸々の竹の節のなかに止住しているのだ』と知ることがないように、諸々の骨は、『わたしたちの内に、髄が止住しているのだ』と知ることがなく、髄もまた、『わたしは、諸々の骨の内に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『骨髄』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

320.

 

§58  (10)「腎臓は、一つの根元たる喉の底から出つつも少し赴いて二種(二股)に別れる粗大なる腱と連結されたものと成って、心臓の肉を囲んで止住しているものである。そこにおいて、すなわち、茎によって連結された二つのアンバ果(マンゴー)があるとして、茎は、『わたしによって、二つのアンバ果が連結されたのだ』と知ることがなく、二つのアンバ果もまた、『わたしは、茎によって連結されたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、粗大なる腱は、『わたしによって、腎臓が連結されたのだ』と知ることがなく、腎臓もまた、『わたしは、粗大なる腱によって連結されたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『腎臓』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

321.

 

§59  (11)「心臓は、肉体の内部において、胸の骨の枠の中央に依拠して止住しているものである。そこにおいて、すなわち、古くなった戦車の枠に依拠して据え置かれた肉片があるとして、古くなった戦車の枠の内部は、『わたしに依拠して、肉片が止住しているのだ』と知ることがなく、肉片もまた、『わたしは、古くなった戦車の枠に依拠して止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、胸の骨の枠の内部は、『わたしに依拠して、心臓が止住しているのだ』と知ることがなく、心臓もまた、『わたしは、胸の骨の枠に依拠して止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『心臓』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

322.

 

§60  (12)「肝臓は、肉体内の二つの乳房の内部において、右側に依拠して止住しているものである。そこにおいて、すなわち、料理鍋の〔内〕側に付着した対の肉団子があるとして、料理鍋の〔内〕側は、『わたしに、対の肉団子が付着したのだ』と知ることがなく、対の肉団子もまた、【357】『わたしは、料理鍋の〔内〕側に付着したのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、〔二つの〕乳房の内部の右側は、『わたしに依拠して、肝臓が止住しているのだ』と知ることがなく、肝臓もまた、『わたしは、〔二つの〕乳房の内部において、右側に依拠して止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『肝臓』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

323.

 

§61  (13)「〔二種の〕肋膜のうち、覆われた肋膜は、そして、心臓を、さらに、腎臓を、〔両者を〕取り囲んで止住しているものであり、覆われていない肋膜は、全肉体において、皮の下に肉を覆い包んで止住しているものである。そこにおいて、すなわち、布切れによって包まれた肉があるとして、肉は、『わたしは、布切れによって包まれたのだ』と知ることがなく、布切れもまた、『わたしによって、肉が包まれたのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、腎臓と心臓は、さらに、全肉体における肉は、『わたしは、肋膜によって覆われたのだ』と知ることがなく、肋膜もまた、『わたしによって、腎臓と心臓が〔覆われ〕、さらに、全肉体における肉が覆われたのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『肋膜』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

324.

 

§62  (14)「脾臓は、心臓の左側において、胃の膜の頭側(胃の上部)に依拠して止住しているものである。そこにおいて、すなわち、蔵の頭側(蔵の上部)に依拠して止住している(保管されている)牛糞の団塊があるとして、蔵の頭側は、『牛糞の団塊が、わたしに依拠して止住しているのだ』と知ることがなく、牛糞の団塊もまた、『わたしは、蔵の頭側に依拠して止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、胃の膜の頭側は、『脾臓が、わたしに依拠して止住しているのだ』と知ることがなく、脾臓もまた、『わたしは、胃の膜の頭側に依拠して止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『脾臓』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

325.

 

§63  (15)「肺臓は、肉体の内部において、二つの乳房の間に、そして、心臓を、さらに、肝臓を、〔両者を〕上に覆い隠して、垂れ下がりつつ止住しているものである。そこにおいて、すなわち、古く成った蔵の内部において、垂れ下がりつつ〔止住している〕鳥の巣があるとして、古く成った蔵の内部は、『わたしのなかに、鳥の巣が垂れ下がりつつ止住しているのだ』と知ることがなく、鳥の巣もまた、『わたしは、古く成った蔵の内部において、垂れ下がりつつ止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、【358】その肉体の内部は、『わたしに、肺臓が垂れ下がりつつ止住しているのだ』と知ることがなく、肺臓もまた、『わたしは、このような形態の肉体の内部において、垂れ下がりつつ止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『肺臓』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

326.

 

§64  (16)「腸は、喉の底と糞の道を極限とする肉体の内部に止住しているものである。そこにおいて、すなわち、血の桶のなかに〔形を〕組んで据え置かれた頭を切った蛇の死体があるとして、血の桶は、『わたしのなかに、蛇の死体が止住しているのだ』と知ることがなく、蛇の死体もまた、『わたしは、血の桶のなかに止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、肉体の内部は、『わたしのなかに、腸が止住しているのだ』と知ることがなく、腸もまた、『わたしは、肉体の内部に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『腸』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

327.

 

§65  (17)「腸間膜は、腸の間に、二十一の腸の蜷局を(※)結縛して止住しているものである。そこにおいて、すなわち、足拭き縄の輪を縫って止住している諸々の縄があるとして、足拭き縄の輪は、『諸々の縄が、わたしを縫って止住しているのだ』と知ることがなく、諸々の縄もまた、『わたしたちは、足拭き縄の輪を縫って止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、腸は、『腸間膜が、わたしを結縛して止住しているのだ』と知ることがなく、腸間膜もまた、『わたしは、腸を結縛して止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『腸間膜』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

※ テキストには ekavīsatibhoge とあるが、VRI版により ekavīsatiantabhoge と読む。

 

328.

 

§66  (18)「胃物は、胃のなかに止住しているもので、食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものである。そこにおいて、すなわち、犬桶のなかに止住している犬の吐瀉物があるとして、犬桶は、『わたしのなかに、犬の吐瀉物が止住しているのだ』と知ることがなく、犬の吐瀉物もまた、『わたしは、犬桶のなかに止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、胃は、『わたしのなかに、胃物が止住しているのだ』と知ることがなく、胃物もまた、『わたしは、胃のなかに止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『胃物』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

329.

 

§67  (19)「糞は、『大腸』と名づけられた八アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)の竹の節に等しき【359】腸の結末〔部分〕のなかに止住しているものである。そこにおいて、すなわち、竹の節のなかに押し潰して盛られた軟柔な黄粘土があるとして、竹の節は、『わたしのなかに、黄粘土が止住しているのだ』と知ることがなく、黄粘土もまた、『わたしは、竹の節のなかに止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、大腸は、『わたしのなかに、糞が止住しているのだ』と知ることがなく、糞もまた、『わたしは、大腸のなかに止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『糞』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

330.

 

§68  (20)「脳味噌は、頭蓋の内部に止住しているものである。そこにおいて、すなわち、古い瓢箪瓶のなかに盛られた粉団子があるとして、瓢箪瓶は、『わたしのなかに、粉団子が止住しているのだ』と知ることがなく、粉団子もまた、『わたしは、瓢箪瓶のなかに止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、頭蓋の内部は、『わたしのなかに、脳味噌が止住しているのだ』と知ることがなく、脳味噌もまた、『わたしは、頭蓋の内部に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『脳味噌』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、硬直なる地の界域である」と。

 

331.

 

§69  (21)「〔二種の〕胆汁のうち、結縛されていない胆汁(非固着性のもの)は、生命の機能(命根)と連結されたもので全肉体に遍充して止住しているものであり、結縛された胆汁(固着性のもの)は、胆嚢のなかに止住しているものである。そこにおいて、すなわち、〔揚げ〕菓子に遍充して止住している油があるとして、菓子は、『油が、わたしに遍充して止住しているのだ』と知ることがなく、油もまた、『わたしは、菓子に遍充して止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、肉体は、『結縛されていない胆汁が、わたしに遍充して止住しているのだ』と知ることがなく、結縛されていない胆汁もまた、『わたしは、肉体に遍充して止住しているのだ』と知ることがない。すなわち、雨水で満ちた糸瓜の瓢があるとして、糸瓜の瓢は、『わたしのなかに、雨水が止住しているのだ』と知ることがなく、雨水もまた、『わたしは、糸瓜の瓢のなかに止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、胆嚢は、『わたしのなかに、結縛された胆汁が止住しているのだ』と知ることがなく、結縛された胆汁もまた、『わたしは、胆嚢のなかに止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『胆汁』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

332.

 

§70  (22)「痰は、一つの鉢に満ちる量のもので胃の膜に止住しているものである。そこにおいて、すなわち、上に泡沫の膜が生じたどぶ池があるとして、どぶ池は、『わたしに、泡沫の膜が止住しているのだ』と知ることがなく、泡沫の膜もまた、【360】『わたしは、どぶ池に止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、胃の膜は、『わたしに、痰が止住しているのだ』と知ることがなく、痰もまた、『わたしは、胃の膜に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『痰』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

333.

 

§71  (23)「膿は、結縛された空間(固着の場所)なく、まさしく、そこかしこにおいて、杭や棘や打撃や火傷等々によって害された肉体の場所に血が止住して爛熟するなら、あるいは、腫物や吹出物等々が生起するなら、そこかしこにおいて止住する。そこにおいて、すなわち、粗暴で激しい打撃等を所以に樹脂が流れ出ている木があるとして、木の、打撃等のある諸々の場所は、『わたしたちに、樹脂が止住しているのだ』と知ることがなく、樹脂もまた、『わたしは、木の、打撃等のある諸々の場所に止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、肉体の、杭や棘等々によって害された諸々の場所は、『わたしたちに、膿が止住しているのだ』と知ることがなく、膿もまた、『わたしは、それらの場所に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『膿』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

334.

 

§72  (24)「〔二種の〕血のうち、循環する血(非固着性のもの)は、胆汁のように全肉体に遍充して止住しているものであり、蓄積された血(固着性のもの)は、肝臓の箇所の下の部分を満たして一つの鉢に満ちるほどのもので腎臓と心臓と肝臓と肺臓を潤しつつ止住しているものである。そこにおいて、循環する血については、まさしく、結縛されていない胆汁と相同の判別となる(同様である)。また、他の〔蓄積された血〕は、すなわち、〔穴のあいた〕古皿(鉢)が雨を得、水が下の土塊の破片等々を潤しているとして、土塊の破片等々は、『わたしたちは、水によって潤されているのだ』と知ることがなく、水もまた、『わたしは、土塊の破片等々を潤す』と知ることがないように、まさしく、このように、肝臓の下の部分は、あるいは、腎臓等々は、『わたしに、血が止住しているのだ、あるいは、わたしたちを潤しつつ、〔血が〕止住しているのだ』と知ることがなく、血もまた、『わたしは、肝臓の下の部分を満たして、腎臓等々を潤しつつ止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『血』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

335.

 

§73  (25)「汗は、諸々の火熱等のある時において、諸々の髪や毛の穴の裂け目を満たして、まさしく、そして、〔そこにおいて〕止住し、さらに、〔そこから〕流れ出る。そこにおいて、すなわち、水から引き抜かれたばかりの【361】諸々の蓮の芽や蓮の茎の束があるとして、諸々の蓮等の束の裂け目は、『わたしたちから、水が流れ出る』と知ることがなく、諸々の蓮等の束の裂け目から流れ出ている水もまた、『わたしは、諸々の蓮等の束の裂け目から流れ出る』と知ることがないように、まさしく、このように、諸々の髪や毛の穴の裂け目は、『わたしたちから、汗が流れ出る』と知ることがなく、汗もまた、『わたしは、諸々の髪や毛の穴の裂け目から流れ出る』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『汗』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

336.

 

§74  (26)「脂肪は、粗大なる〔肉体〕(肥満体)のばあい、全肉体を充満して〔止住し〕、痩せ細った〔肉体〕のばあい、脛の肉等々に依拠して止住している、沈澱した脂質である。そこにおいて、すなわち、鬱金の布切れで覆われた肉塊があるとして、肉塊は(※)、『わたしに依拠して、鬱金の布切れが止住しているのだ』と知ることがなく、鬱金の布切れもまた、『わたしは、肉塊に依拠して止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、〔粗大なる肉体の〕全肉体に〔止住している肉は〕、あるいは、〔痩せ細った肉体の〕脛等々に止住している肉は、『わたしに依拠して、脂肪が止住しているのだ』と知ることがなく、脂肪もまた、『わたしは、〔粗大なる肉体の〕全肉体の〔肉に依拠して〕、あるいは、〔痩せ細った肉体の〕脛等々の肉に依拠して、止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『脂肪』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

※ テキストには haliddipilotikapaicchanne na masapuñjā とあるが、VRI版により haliddipilotikapaicchanne masapuñje na masapuñjo と読む。

 

337.

 

§75  (27)「涙は、すなわち、生み出されるときは、そのときは、〔両の〕眼の穴を満たして、あるいは、〔そこにおいて〕止住し、あるいは、〔そこから〕流れ出る。そこにおいて、すなわち、水が満ちた〔二つの〕若いターラ〔樹の果〕の核の穴があるとして、〔二つの〕若いターラ〔樹の果〕の核の穴は、『わたしたちに、水が止住しているのだ』と知ることがなく、〔二つの〕若いターラ〔樹の果〕の核の穴にある水もまた、『わたしは、〔二つの〕若いターラ〔樹の果〕の核の穴に止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、〔両の〕眼の穴は、『わたしたちに、涙が止住しているのだ』と知ることがなく、涙もまた、『わたしは、〔両の〕眼の穴に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『涙』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

338.

 

§76  (28)「膏は、火熱等のある時において、手の平と手の甲と足の裏と足の甲と鼻の袋(鼻の穴)と額と肩の先に止住している溶解した脂質である。そこにおいて、すなわち、油が盛られた粥があるとして、粥は、『わたしに、油が覆い被さって止住しているのだ』と知ることがなく、油もまた、『わたしは、粥に覆い被さって止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、手の平等の場所は、【362】『わたしに、膏が覆い被さって止住しているのだ』と知ることがなく、膏もまた、『わたしは、手の平等の場所に覆い被さって止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『膏』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

339.

 

§77  (29)「唾液は、そのような形態の唾液の生起の縁が存しているとき、両の頬の側から降りて舌の面に止住する。そこにおいて、すなわち、断絶なく水が排出する川岸の穴があるとして、穴の面は、『わたしに、水が等しく止住する』と知ることがなく、水もまた、『わたしは、穴の面に等しく止住する』と知ることがないように、まさしく、このように、舌の面は、『わたしに、唾液が両の頬の側から降りて止住しているのだ』と知ることがなく、唾液もまた、『わたしは、両の頬の側から降りて舌の面に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『唾液』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

340.

 

§78  (30)「鼻水は、すなわち、生み出されるときは、そのときは、〔両の〕鼻の袋(鼻の穴)を満たして、あるいは、〔そこにおいて〕止住し、あるいは、〔そこから〕流れ出る。そこにおいて、すなわち、腐った乳酪で満ちた牡蠣があるとして、牡蠣は、『わたしに、腐った乳酪が止住しているのだ』と知ることがなく、腐った乳酪もまた、『わたしは、牡蠣に止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、〔両の〕鼻の袋は、『わたしたちに、鼻水が止住しているのだ』と知ることがなく、鼻水もまた、『わたしは、〔両の〕鼻の袋に止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『鼻水』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

341.

 

§79  (31)「髄液は、諸々の骨の関節の潤滑作用を遂行しつつ百八十の関節に止住しているものである。そこにおいて、すなわち、油が塗られた車軸があるとして、車軸は、『油が、わたしを塗って止住しているのだ』と知ることがなく、油もまた、『わたしは、車軸を塗って止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、百八十の関節は、『髄液が、わたしたちを塗って止住しているのだ』と知ることがなく、髄液もまた、『わたしは、百八十の関節を塗って止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『髄液』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

342.

 

§80  (32)「尿は、膀胱の内部に止住しているものである。そこにおいて、すなわち、どぶ池に捨て置かれた口のない(※)水漏れ鉢があるとして、水漏れ鉢は、『わたしのなかに、どぶ池の液が止住しているのだ』と知ることがなく、どぶ池の液もまた、『わたしは、水漏れ鉢のなかに止住しているのだ』と知ることがないように、まさしく、このように、膀胱は、【363】『わたしのなかに、尿が止住しているのだ』と知ることがなく、尿もまた、『わたしは、膀胱のなかに止住しているのだ』と知ることがない。互いに他を念慮し綿密に注視することの絶無なるのが、これらの諸法(性質)である。かくのごとく、『尿』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、汁の状態あるものにして連結を行相とする水の界域である」と。

 

※ テキストには adhomukhe とあるが、VRI版により amukhe と読む。

 

343.

 

§81  このように、諸々の髪等々にたいし、意を為すことを転起させて〔そののち〕、「(33)それによって熱せられるなら、これは(※)、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、遍熱を行相とする火の界域である」と、「(34)それによって老いるなら、(35)それによって遍く焼かれるなら、(36)それによって食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものが正しく変化へと至るなら、これは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、遍熱を行相とする火の界域である」と、このように、火の〔四つの〕部位にたいし、意を為すことが転起させられるべきである。

 

※ テキストには aha とあるが、VRI版により aya と読む。

 

344.

 

§82  そののち、諸々の上に赴く風を、上に赴くことを所以に遍く収め取って、諸々の下に赴く〔風〕を、下に赴くことを所以に〔遍く収め取って〕、諸々の腹の外なる〔風〕を、腹の外なることを所以に〔遍く収め取って〕、諸々の腹の内なる〔風〕を、腹の内なることを所以に〔遍く収め取って〕、諸々の手足や肢体に従い行く〔風〕を、手足や肢体に従い行くことを所以に〔遍く収め取って〕、諸々の出息と入息〔の風〕を、出息と入息を所以に遍く収め取って、「(37)『諸々の上に赴く風』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、支持を行相とする風の界域である」と、「(38)『諸々の下に赴く風』というのは、(39)『諸々の腹の外なる風』というのは、(40)『諸々の腹の内なる風』というのは、(41)『諸々の手足や肢体に従い行く風』というのは、(42)『諸々の出息と入息の風』というのは、この肉体における単独の部位であり、思欲なきものであり、〔善悪が〕説き明かされないものであり、空なるものであり、有情ならざるものであり、支持を行相とする風の界域である」と、このように、風の〔六つの〕部位にたいし、意を為すことが転起させられるべきである。

 

§83  彼に、このように意を為すことが転起されたなら、〔四つの〕界域が明白なるものと成る。それらに、繰り返し〔心を〕傾注し、意を為していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔瞑想の境地に〕近接する禅定が生起する。

 

345.

 

§84  (三)また、彼が、このように修めつつも、〔心を定める〕行為の拠点が実現しないなら、彼によって、特相を有するものについて簡略〔の観点〕から修められるべきである。どのようにか。(1)二十の部位において、「硬直を特相とするものは、地の界域である」と定め置かれるべきである。まさしく、そこにおいて、「連結を特相とするものは、水の界域である」と、「遍熱を特相とするものは、火の界域である」と、「支持を特相とするものは、風の界域である」と〔定め置かれるべきである〕。(2)十二の部位において、「連結を特相とするものは、水の界域である」と定め置かれるべきである。まさしく、そこにおいて、「遍熱を特相とするものは、火の界域である」と、「支持を特相とするものは、風の界域である」と、「硬直を特相とするものは、地の界域である」と〔定め置かれるべきである〕。(3)四つの部位において、「遍熱を特相とするものは、火の界域である」と定め置かれるべきである。それによって分解されないもの(分離なくあるもの)で、「支持を特相とするものは、【364】風の界域である」と、「硬直を特相とするものは、地の界域である」と、「連結を特相とするものは、水の界域である」と〔定め置かれるべきである〕。(4)六つの部位において、「支持を特相とするものは、風の界域である」と定め置かれるべきである。まさしく、そこにおいて、「硬直を特相とするものは、地の界域である」と、「連結を特相とするものは、水の界域である」と、「遍熱を特相とするものは、火の界域である」と〔定め置かれるべきである〕。

 彼が、このように定め置いていると、〔四つの〕界域が明白なるものと成る。それらに、繰り返し〔心を〕傾注し、意を為していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔瞑想の境地に〕近接する禅定が生起する。

 

346.

 

§85  (四)いっぽう、彼が、このように修めつつもまた、〔心を定める〕行為の拠点が実現しないなら、彼によって、特相を有するものについて区分〔の観点〕から修められるべきである。どのようにか。まさしく、前に説かれた方法によって、諸々の髪等々を遍く収め取って〔そののち〕、髪において、「硬直を特相とするものは、地の界域である」と定め置かれるべきである。まさしく、そこ(髪)において、「連結を特相とするものは、水の界域である」と、「遍熱を特相とするものは、火の界域である」と、「支持を特相とするものは、風の界域である」と〔定め置かれるべきである〕。このように、一切の部位における一つ一つの部位において、四つずつの界域が定め置かれるべきである。

 彼が、このように定め置いていると、〔四つの〕界域が明白なるものと成る。それらに、繰り返し〔心を〕傾注し、意を為していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔瞑想の境地に〕近接する禅定が生起する。

 

§86  また、まさに、そして、また、(1)言葉の義(意味)〔の観点〕から、(2)集合〔の観点〕から、(3)細片〔の観点〕から、(4)特相等〔の観点〕から、(5)現起〔の観点〕から、(6)種々なることと一なること〔の観点〕から、(7)分解と分解なき〔の観点〕から、(8)部分を共にするものと部分を共にしないもの〔の観点〕から、(9)内なるものと外なるものの差異〔の観点〕から、(10)包摂〔の観点〕から、(11)縁〔の観点〕から、(12)〔心の〕集中なき〔の観点〕から、(13)縁の区分〔の観点〕から、という、これらの行相によってもまた、〔四つの〕界域が、意が為されるべきである。

 

347.

 

§87  (1)そこにおいて、言葉の義(意味)〔の観点〕から意を為している者によって、「広げられた(パッタタ)ことから、『地(パタヴィー)』。あるいは、至り得る(アッポーティ)、滑り行く(アーピヤティ)、進み行く(アッパーヤティ)、ということで、『水(アーポー)』。鋭くする(テージャティ)、ということで、『火(テージョー)』。吹く(ヴァーヤティ)、ということで、『風(ヴァーヨー)』。また、〔地と水と火と風の〕差異なき〔の観点〕によって〔説くなら〕、自らの特相を保持すること(ダーラナ)から、苦しみに執取すること(アーダーナ)から、さらに、苦しみを配布すること(アーダーナ)から、『界域(ダートゥ)』」と、このように、差異と同等を所以に、言葉の義(意味)〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

348.

 

§88  (2)「集合〔の観点〕から」とは、すなわち、この、「諸々の髪と諸々の毛と」という〔言葉〕等の方法によって、二十の行相によって地の界域が〔釈示され〕、さらに、「胆汁と痰と」という〔言葉〕等の方法によって、十二の行相によって水の界域が釈示されたが、そこにおいて、すなわち──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「色艶、臭気、味感、滋養、さらに、また、四つの界域という、八つの法(性質)の結合あることから、『髪』という〔言葉の〕慣習(世俗・仮名:社会通念)が有り、まさしく、それらの分解あることから、『髪』という〔言葉の〕慣習は存在しない」〔という、このことから〕──

 

 それゆえに、諸々の髪もまた、まさしく、八つの法(性質)の集合(滋養を第八とする形態:§2)のみのものであり、そのように、諸々の毛等々もある(同様である)、【365】と〔知られるべきである〕。また、ここ(諸々の髪等々の三十二の部位)において、すなわち、行為から現起する部位は、それは、そして、生命の機能と〔共に〕、さらに、〔性差の〕状態(女もしくは男の機能)と共に、〔合わせて〕十の法(性質)の集合としてもまた有る。いっぽう、増長を所以に(何らかの性質が他の諸性質よりも増大し優勢であることから)、「地の界域」「水の界域」という名称に至ったものとして〔有る〕(かくのごとく名づけられるに至った)。このように、集合〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

349.

 

§89  (3)「細片〔の観点〕から」とは、まさに、この肉体において、最高の微細(極微)の細別に粉砕されたものとして〔有り〕、繊細なる塵として有る、地の界域は、中量のもので遍く収め取るなら(平均的身体について計量するなら)、〔一〕ドーナ(容積の単位・一ドーナは枡桶の量)ほどのものとして存するであろうが、その〔地の界域〕は、それより半分の量の水の界域によって包摂され(結合され)、火の界域によって警護され(維持され)、風の界域によって支持され(拡張され)、離散することがなく、砕破することがない。離散せずにいながら、砕破せずにいながら、無数の種類の男女の徴表等の状態の分岐に近しく赴き、さらに、微細や粗大や長きや短きや強固や頑強等の状態を明示する。

 

§90  また、ここ(肉体)において、汁の在り方をしたものとして〔有り〕、連結を行相とするものとして有る、水の界域は、地〔の界域〕によって確立され、火〔の界域〕によって警護され、風〔の界域〕によって支持され、流れ出ることがなく、漏れ出ることがない。流れ出ずにいながら、漏れ出ずにいながら、豊満〔の状態〕豊満の状態を〔継続的に〕見示する。

 

§91  そして、ここ(肉体)において、食べたものや飲んだもの等を処理するものとして〔有り〕、熱を行相とするものとして有り、暑熱を特相とする火の界域は、地〔の界域〕によって確立され、水〔の界域〕によって包摂され、風〔の界域〕によって支持され、この身体を遍熱させ、さらに、それ(身体)に、色艶の得達(健康)をもたらす。また、そして、それ(火の界域)によって遍熱された、この身体は、腐敗の状態を見示することがない。

 

§92  さらに、ここ(肉体)において、手足と肢体を循環するものとして〔有り〕、浮遊と支持を特相とする風の界域は、地〔の界域〕によって確立され、水〔の界域〕によって包摂され、火〔の界域〕によって警護され、この身体を支持する。また、そして、それ(風の界域)によって支持された、この身体は、崩落することがなく、真っすぐに確立する。他の〔浮遊を特相とする〕風の界域によって刺激された〔この身体〕は、赴くことと立つことと坐ることと臥すことという〔四つの〕振る舞いの道における表示を見示し、〔身を〕曲げ、〔身を〕伸ばし、手や足を動かす。まさしく、このように、男女の状態等を所以に、〔まさに〕その、愚人を騙すものにして、幻想の形態と相同の、界域の機関が転起する。ということで、このように、細片〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

350.

 

§93  (4)「特相等〔の観点〕から」とは、「地の界域は、何を特相とし、何を効用(機能・性行)とし、何を現起(現状)とするのか」と、このように、四つの界域もろともに〔心を〕傾注させて、「地の界域は、粗剛なることを特相とし、確立することを効用とし、領受することを現起とする」「水の界域は、流出することを特相とし、増進することを効用とし、包摂することを現起とする」「火の界域は、暑熱なることを特相とし、遍熱することを効用とし、柔軟を付与することを現起とする」「風の界域は、支持することを特相とし、浮遊することを効用とし、導引することを現起とする」と、このように、特相〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

351.

 

§94  【366】(5)「現起〔の観点〕から」とは、地の界域等々を詳細〔の観点〕から見示することを所以に、すなわち、諸々の髪等々の、これらの四十二の部位が見示されたが、それらのうち、胃物、糞、膿、尿、という、これらの四つの部位は、季節だけから現起するものとしてあり(寒暖の変化を因とする)、涙、汗、唾液、鼻水、という、これらの四つの部位は、季節と心から現起するものとしてあり、食べたもの等を遍熱する火は、行為だけから現起するものとしてあり、出息と入息は、心だけから現起するものとしてあり、残りのものは、全てもろともに、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起するものとしてある。ということで、このように、現起〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

352.

 

§95  (6)「種々なることと一なること〔の観点〕から」とは、(6―1)〔四つの〕界域には、全てもろともに、自らの特相等〔の観点〕から、種々なること(多様性)がある。なぜなら、まさしく、他のものとして、地の界域の特相と効用と現起があり、他のものとして、水の界域等々の〔特相と効用と現起がある〕からである。(6―2)いっぽう、このように、特相等を所以に、さらに、行為から現起するもの等を所以に、種々なるものとして有るもまた、これら〔の四つの界域〕には、(6―2―1)形態()と(6―2―2)大いなる元素(大種)と(6―2―3)界域()と(6―2―4)法(性質)と(6―2―5)無常等を所以に、一なること(同一性)が有る。

 

§96  なぜなら、〔四つの〕界域は、全てもろともに、(6―2―1)壊れ崩れること(ルッパナ)という特相を超え行かないことから、形態(ルーパ)であり、(6―2―2)大いなる出現等々の契機あることから、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となるからである。

 (6―2―2)「大いなる出現等々〔の契機〕あることから」とは、まさに、これらの〔四つの〕界域は、(6―2―2―1)大いなる出現たることから、(6―2―2―2)大いなる作成者と同等たることから、(6―2―2―3)大いなる維持たることから、(6―2―2―4)大いなる変異たることから、(6―2―2―5)大いなるものたることから、さらに、(6―2―2―6)有るものたることから、という、これらの契機あることから、〔四つの〕大いなる元素となる、と説かれる。

 

§97  そこにおいて、(6―2―2―1)「大いなる出現たることから」とは、まさに、これら〔の四つの元素〕は、執取されていない相続(非有情的事象)においてもまた、執取された相続(有情的事象)においてもまた、大いなるものとして出現したのであり、執取されていない相続における、それらの大いなる出現たることは──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二十万〔ヨージャナ〕と、さらに、四万〔ヨージャナ〕と、厚さにして、これだけものと、この大地は数えられた」という──

 

 〔言葉〕等の方法によって、まさしく、覚者の随念についての釈示において説かれ(Ch.7§41)、執取された相続においてもまた、魚や亀や天〔の神〕や魔神等の肉体を所以に、まさしく、大いなるものとして出現したのが、〔これらの四つの界域である〕。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、[さらに、また、他に、大海は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミラピンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──]百ヨージャナさえもの自己状態(個我的あり方・身体のこと)あるものたちとして、大海のうちに存在します」(アングッタラ・ニカーヤ4p.200)等と。

 

§98  (6―2―2―2)「大いなる作成者と同等たることから」とは、まさに、これら〔の四つの元素〕は、すなわち、幻術師が、まさしく、宝珠ならざる水を、宝珠と為して見せ、まさしく、黄金ならざる土隗を、黄金と為して見せるように──さらに、すなわち、まさしく、自ら、夜叉でもなく女夜叉でもなく存しているのに、夜叉の状態をもまた〔見せ〕、女夜叉の状態をもまた見せるように──まさしく、このように、自ら、まさしく、諸々の青ならざるものとして有って、青を、〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態(所造色)として見せ、まさしく、諸々の黄ならざるものや諸々の赤ならざるものや諸々の白ならざるものとして【367】有って、〔黄や赤や〕白を、〔四つの大いなる元素に〕執取して〔形成された〕形態として見せる。ということで、幻術師たる大いなる作成者(マハー・ブータ)と同等たることから、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となる。

 

§99  さらに、すなわち、夜叉等々の大いなる精霊たちが、或る者に取り憑くなら、彼らの〔止住する〕場は、〔取り憑かれた〕その者の、まさしく、内にも〔認められ〕ず、外にも認められず、かつまた、〔取り憑かれた〕その者に依拠せずして、〔彼らが〕止住することがないように、まさしく、このように、これら〔の四つの元素〕もまた、止住しているものとして〔その場に〕有っても、互いに他の、まさしく、内にも〔認められ〕ず、外にも認められず、かつまた、互いに他に依拠せずして、〔それらが〕止住することはない。ということで、不可思議なる〔止住の〕場たることによって、夜叉等の大いなる精霊(マハー・ブータ)と同等たることからもまた、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となる。

 

§100  さらに、すなわち、「女夜叉」と名づけられた大いなる精霊たちが、諸々の意に適う色艶や外貌や乱姿によって、自己の、〔人を〕恐怖させる状態を隠蔽して、有情たちを騙すように、まさしく、このように、これら〔の四つの元素〕もまた、女や男の肉体等々において、意に適う表皮の色艶によって、意に適う自己の手足と肢体の外貌によって、さらに、意に適う手の指や足の指や眉の乱姿によって、自己の、粗剛なること等の細別ある自らの効用(機能・性行)と特相を隠蔽して、愚人を騙し、自己の、自ずからの状態を見せることを許さない。ということで、騙す者たることによって、女夜叉と〔名づけられた〕大いなる精霊(マハー・ブータ)と同等たることからもまた、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となる。

 

§101  (6―2―2―3)「大いなる維持たることから」とは、諸々の大いなる日用品によって維持されるべきことから。まさに、これら〔の大いなる元素〕は、毎日、毎日、近しく導かれるべきことから、大いなる(マハー)食糧や衣服等々によって転起されたものとして有るもの(ブータ)、ということで、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となる。あるいは、大いなる(マハー)維持あるものとして有るもの(ブータ)、ということでもまた、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となる。

 

§102  (6―2―2―4)「大いなる変異たることから」とは、まさに、これら〔の大いなる元素〕は、執取されていないもの(非有情的事象)もまた、執取されたもの(有情的事象)もまた、大いなる変異あるものとして有る。そこにおいて、諸々の執取されていないもののばあい、カッパの出起(一劫の終わる時:Ch.13§34)において、変異の大いなることは、明白なるものと成る。諸々の執取されたもののばあい、界域の変動(体調の異変)ある時において、〔変異の大いなることは、明白なるものと成る〕。まさに、そのように──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「火によって世が焼かれるとき、地から出起した火炎の炎は、梵の世に至るまで走り行く。

 すなわち、動乱した水によって世が消失するとき、百千万億〔の広さ〕ある一つのチャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)が溶解する。

 すなわち、風の界域の動乱によって世が消失するとき、百千万億〔の広さ〕ある一つのチャッカ・ヴァーラが離散する。

 毒口〔という名の蛇〕に咬まれた身体が、硬直したものと成るように、地の界域の動乱によって、それは、毒口のなかにあるかのように、〔硬直したものと〕成る。

 腐口〔という名の蛇〕に咬まれた身体が、腐敗のものと成るように、水の界域の動乱によって、それは、腐口のなかにあるかのように、〔腐敗のものと〕成る。

 【368】火口〔という名の蛇〕に咬まれた身体が、熱せられたものと成るように、火の界域の動乱によって、それは、火口のなかにあるかのように、〔熱せられたものと〕成る。

 刃口〔という名の蛇〕に咬まれた身体が、断絶されたものと(※)成るように、風の界域の動乱によって、それは、刃口のなかにあるかのように、〔断絶されたものと〕成る」〔と〕──

 

 かくのごとく、大いなる(マハー)変異あるものとして有るもの(ブータ)、ということで、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となる。

 

※ テキストには Sañchanno とあるが、VRI版により Sañchinno と読む。

 

§103  (6―2―2―5・6―2―2―6)「大いなるものたることから、さらに、有るものたることから」とは、まさに、これら〔の四つの大いなる元素〕は、大いなる努力によって遍く収め取られるべきことから、大いなるものであり、〔現前に〕見出されていることから、有るものである、ということで、大いなるもの(マハー)たることから、さらに、有るもの(ブータ)たることから、〔四つの〕大いなる元素(マハー・ブータ)となる。このように、これらの〔四つの〕界域は、全てもろともに、大いなる出現等々の契機あることから、〔四つの〕大いなる元素となる。

 

§104  また、自らの特相を保持することから、そして、苦しみに執取することから、さらに、苦しみを配布することから、全てもろともに、(6―2―3)界域という特相を超え行かないことから、界域であり、(6―2―4)そして、自らの特相によって、さらに、自己の、瞬間における適切なるものの保持によって、法(性質)であり、(6―2―5)滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である。かくのごとく、全てもろともに、(6―2―1)形態と(6―2―2)大いなる元素と(6―2―3)界域と(6―2―4)法(性質)と(6―2―5)無常等を所以に、一なること(同一性)がある。

 ということで、このように、(6―1)種々なることと(6―2)一なること〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

353.

 

§105  (7)「分解と分解なき〔の観点〕から」とは、まさしく、共に生起したもの(倶生)として、これら〔の四つの界域〕は、一つ一つの〔形態〕における一切の最極限たる〔不純なき〕清浄の八なるもの(地・水・火・風・色艶・臭気・味感・滋養からなる最小限の物質的事象、「滋養を第八とするもの」とも言う:§2)等の集合においてもまた(※)、場所〔の観点〕によっては分解されないものとしてあるが(別個の存在として実体的に分解できない)、いっぽう、特相〔の観点〕によっては分解されたものとしてある(特性が認知され個別に判別される)。ということで、このように、分解と分解なき〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

※ テキストには sabbapariyant’ ime suddhaṭṭhakādikalāpehi とあるが、VRI版により sabbapariyantime suddhaṭṭhakādikalāpepi と読む。

 

354.

 

§106  (8)「部分を共にするものと部分を共にしないもの〔の観点〕から」とは(※)、そして、たとえ、このように分解されないものとしてあるも、これら〔の四つの界域〕のうち、前の二つ(地の界域と水の界域)は、重きものたることから、部分を共にするもの(共通点を有するもの)となり、そのように、後〔の二つ〕(火の界域と風の界域)は、軽きものたることから、〔部分を共にするものとなる〕。いっぽう、前〔の二つ〕は、後〔の二つ〕と、かつまた、後〔の二つ〕は、前〔の二つ〕と、部分を共にしないもの(共通点を有さないもの)となる。ということで、このように、部分を共にするものと部分を共にしないもの〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

※ テキストには Sabhāgavisabhāgato とあるが、VRI版により Sabhāgavisabhāgato ti と読む。

 

355.

 

§107  (9)「内なるものと外なるものの差異〔の観点〕から」とは、内なる〔四つの〕界域は、〔六つの〕識知〔作用〕の基盤にとって──〔身体の表示と言葉の〕表示にとって──〔女の機能と男の機能と生命の〕機能にとって──依所と成り、〔行住坐臥の四つの〕振る舞いの道を有し、〔行為と心と食と季節の〕四つのものから現起するものとしてある。外なる〔四つの界域〕は、〔前に〕説かれたものと反対の流儀のものとしてある。ということで、このように、内なるものと外なるものの差異〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

356.

 

§108  (10)「包摂〔の観点〕から」とは、行為から現起する地の界域は、行為から現起する他〔の三つの界域〕と、現起の種々なる状態なきことから、一なる包摂あるものと成る。そのように、心等から現起する〔地の界域〕は、心等から現起する〔他の三つの界域〕等々と、〔現起の種々なる状態なきことから、一なる包摂あるものと成る〕。ということで、このように、包摂〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

357.

 

§109  (11)「縁〔の観点〕から」とは、地の界域は、水によって包摂され、火によって警護され、風によって支持され、〔他の〕三つの大いなる元素にとって、確立するものと成って、縁と成る。水の界域は、地によって確立され、火によって警護され、風によって支持され、〔他の〕三つの大いなる元素にとって、連結するものと成って、縁と成る。火の界域は、地によって確立され、水によって包摂され、【369】風によって支持され、〔他の〕三つの大いなる元素にとって、遍熱するものと成って、縁と成る。風の界域は、地によって確立され、水によって包摂され、火によって遍熱され、〔他の〕三つの大いなる元素にとって、支持するものと成って、縁と成る。ということで、このように、縁〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

358.

 

§110  (12)「〔心の〕集中なき〔の観点〕から」とは、そして、ここにおいて、地の界域は、あるいは、「わたしは、地の界域である」と〔知ることがなく〕、あるいは、「〔他の〕三つの大いなる元素にとって、確立するものと成って、縁と成る」と知ることがなく、他の三つ〔の界域〕もまた、「わたしたちにとって、地の界域は、確立するものと成って、縁と成る」と知ることがない。これが、一切所において、〔共通する説示の〕方法となる。ということで、このように、〔心の〕集中なき〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

359.

 

§111  (13)「縁の区分〔の観点〕から」とは、まさに、〔四つの〕界域には、行為、心、食(動力源・エネルギー)、季節(気候・気温)、という、四つの縁がある。そこにおいて、行為から現起する〔四つの界域〕にとっては、まさしく、行為が、縁と成り、〔他の〕心等々は、〔縁と成ることが〕ない。心等から現起する〔四つの界域〕にとってもまた、まさしく、心等々が、縁と成り、諸他のものは、〔縁と成ることが〕ない。そして、行為から現起する〔四つの界域〕にとって、行為は、〔それらを〕生むものとしての縁と成り、残り〔の心等から現起する四つの界域〕にとっては、教相〔の観点〕から〔間接的に〕、〔それらの〕近しき依所(近因)たる縁と成る。心から現起する〔四つの界域〕にとって、心は、〔それらを〕生むものとしての縁と成り、残り〔の行為等から現起する四つの界域〕にとっては、後に生じた縁と〔成り〕、存在の縁と〔成り〕、さらに、不離去の縁と〔成る〕。食から現起する〔四つの界域〕にとって、食は、〔それらを〕生むものとしての縁と成り、残り〔の行為等から現起する四つの界域〕にとっては、食としての縁と〔成り〕、存在の縁と〔成り〕、さらに、不離去の縁と〔成る〕。季節から現起する〔四つの界域〕にとって、季節は、〔それらを〕生むものとしての縁と成り、残り〔の行為等から現起する四つの界域〕にとっては、存在の縁と〔成り〕、さらに、不離去の縁と〔成る〕。行為から現起する大いなる元素は、行為から現起する諸々の大いなる元素にとってもまた、縁と成り、心等から現起する〔諸々の大いなる元素〕にとってもまた、〔縁と成る〕。そのように、心から現起する〔大いなる元素〕は、〔心から現起する諸々の大いなる元素にとってもまた、縁と成り、行為等から現起する諸々の大いなる元素にとってもまた、縁と成り〕、食から現起する〔大いなる元素〕は、〔食から現起する諸々の大いなる元素にとってもまた、縁と成り、行為等から現起する諸々の大いなる元素にとってもまた、縁と成り〕、季節から現起する大いなる元素は、季節から現起する諸々の大いなる元素にとってもまた、縁と成り、行為等から現起する〔諸々の大いなる元素〕にとってもまた、〔縁と成る〕。

 

§112  そこにおいて、行為から現起する地の界域は、行為から現起する他〔の三つの界域〕にとって、まさしく、そして、共に生じた〔縁〕と互いに他なる〔縁〕と依所たる〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、さらに、確立するものとしての〔縁〕を所以に、縁と成るが、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、他の〔心と食と季節の〕三つの相続としての大いなる元素にとっては、依所たる〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の〔縁〕を所以に、縁と成るが、確立するものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕ない。

 そして、〔行為から現起する〕水の界域は、ここにおいて、〔行為から現起する〕他の三つ〔の界域〕にとって、まさしく、そして、共に生じた〔縁〕等を所以に、さらに、連結するものとしての〔縁〕を所以に、縁と成るが、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、他の〔心と食と季節の〕三つの相続〔としての大いなる元素〕にとっては、まさしく、依所たる〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁を所以に、〔縁と成るが〕、連結するものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕ない。

 〔行為から現起する〕火の界域もまた、ここにおいて、〔行為から現起する〕他の三つ〔の界域〕にとって、まさしく、そして、共に生じた〔縁〕等を所以に、さらに、遍熱するものとしての〔縁〕を所以に、縁と成るが、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、他の〔心と食と季節の〕三つの相続〔としての大いなる元素〕にとっては、まさしく、依所たる〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁を所以に、〔縁と成るが〕、遍熱するものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕ない。

 〔行為から現起する〕風の界域もまた、ここにおいて、〔行為から現起する〕他の三つ〔の界域〕にとって、【370】まさしく、そして、共に生じた〔縁〕等を所以に、さらに、支持するものとしての〔縁〕を所以に、縁と成るが、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、他の〔心と食と季節の〕三つの相続〔としての大いなる元素〕にとっては、まさしく、依所たる〔縁〕と存在の〔縁〕と不離去の縁を所以に、〔縁と成るが〕、支持するものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕なく、生むものとしての〔縁〕を所以に、〔縁と成ることは〕ない。

 心と食と季節から現起する地の界域等々についてもまた、まさしく、これが、〔共通する説示の〕方法となる。

 

§113  また、そして、このように、共に生じた〔縁〕等の縁の支配によって転起された、これらの〔四つの〕界域があるとき──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一つ〔の界域〕を縁として、三つ〔の界域〕が四種に〔等しく転起し〕、さらに、三つ〔の界域〕を縁として、一つ〔の界域〕が〔四種に等しく転起し〕、二つの界域を縁として、二つ〔の界域〕が六種に等しく転起する」〔と〕──

 

§114  まさに、地〔の界域〕等々のうちの一つ一つ〔の界域〕を縁として、他の三つ三つ〔の界域〕が〔等しく転起する〕。ということで、このように、一つ〔の界域〕を縁として、三つ〔の界域〕が四種に等しく転起する。そのように、地の界域等々のうちの一つ一つ〔の界域〕が、他の三つ三つ〔の界域〕を縁として〔四種に等しく転起する〕。ということで、このように、三つ〔の界域〕を縁として、一つ〔の界域〕が四種に等しく転起する。また、前の二つ〔の界域〕を縁として、後の〔二つの界域〕が〔等しく転起し〕、さらに、後の二つ〔の界域〕を縁として、前の〔二つの界域〕が〔等しく転起し〕、第一と第三〔の界域〕を縁として、第二と第四〔の界域〕が〔等しく転起し〕、第二と第四〔の界域〕を縁として、第一と第三〔の界域〕が〔等しく転起し〕、第一と第四〔の界域〕を縁として、第二と第三〔の界域〕が〔等しく転起し〕、第二と第三〔の界域〕を縁として、第一と第四〔の界域〕が〔等しく転起する〕。ということで、このように、二つの界域を縁として、二つ〔の界域〕が六種に等しく転起する。

 

§115  それら〔の四つの界域〕のうち、地の界域は、前進や後進等の時において、〔足を〕押さえること(歩き始めの際に足を踏み出すこと)にとっての縁と成る。まさしく、その〔地の界域〕は、水の界域が従い行くなら(水の界域が随伴者となるなら)、〔足を〕確立させることにとっての〔縁と成る〕。また、水の界域は、地の界域が従い行くなら、〔足を〕散乱させないこと(下に降ろすこと)にとっての〔縁と成り〕、火の界域は、風の界域が従い行くなら、〔足を〕上に挙げることにとっての〔縁と成り〕、風の界域は、火の界域が従い行くなら、〔足を〕前に運ぶことと横に運ぶことにとっての縁と成る(Ch.20§62-4)。ということで、このように、縁の区分〔の観点〕から、意が為されるべきである。

 

§116  まさに、このように、言葉の義(意味)等を所以に意を為している者にもまた、〔十三の行相の〕一つ一つの門によって、〔四つの〕界域は、明白なるものと成る。それらに、繰り返し〔心を〕傾注し、意を為していると、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔瞑想の境地に〕近接する禅定が生起する。〔まさに〕その、この〔禅定〕は、四つの界域を定め置く知恵の威力によって生起することから、まさしく、「〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置」という名称に至る。

 

360.

 

§117  また、そして、この〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置に専念する比丘は、空性に沈潜し、有情の表象を根絶する。彼は、有情の表象を完破したことから、猛獣や夜叉や羅刹等の分別を惹起せずにいながら、恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と成り、不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者と〔成り〕、諸々の好ましいものや好ましくないものにたいする興奮〔の思い〕と失望〔の思い〕に至り得ることがなく、また、そして、大いなる智慧ある者と成り、あるいは、不死〔の境処〕(涅槃)を結末とする者と〔成り〕、あるいは、〔来世において〕善き境遇(善趣)を行き着く所とする者と〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「このように、大いなる威力があり、優れた獅子(ブッダ)が戯れた、〔まさに〕この、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置〔の修行〕に、〔心の〕制止者は、常に慣れ親しむべきである──思慮深き者として」と。

 

 これが、〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置の修行についての釈示となる。

 

361.

 

§118  【371】そして、これだけで──すなわち、禅定の詳細を〔見示するために〕、かつまた、修行の方法を見示するために、「何が、禅定であるのか」「どのような義(意味)によって、禅定であるのか」という〔言葉〕等の方法によって、問いの列挙が為されたが(Ch.3§1)──そこにおいて、「どのように、修められるべきであるのか」という、この句の、一切の流儀からの義(意味)の解説が、完全なるものと成る。

 

§119  〔まさに〕その、この〔禅定〕は、まさしく、二種類のものが、ここに、志向するところとなる──まさしく、そして、〔瞑想の境地に〕近接する禅定(近行定)であり、さらに、〔瞑想の境地に〕専注する禅定(安止定)である。そこにおいて、十の〔心を定める〕行為の拠点(六つの随念・死の随念・寂止の随念・食についての嫌悪の表象・〔地と水と火と風の〕四つの界域の〔差異の〕定置)における〔心の一境性は〕、さらに、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の前段部分の諸心における〔心の〕一境性は、〔瞑想の境地に〕近接する禅定であり、残りの〔心を定める〕行為の拠点(十の遍満・十の浄美ならざるもの・身体の在り方についての気づき・呼吸についての気づき・四つの梵住・四つの形態なきもの)における心の一境性は、〔瞑想の境地に〕専注する禅定である。〔まさに〕その、二種類のものもまた、それらの〔心を定める〕行為の拠点が修められたことから、修められたものと成る。それによって説かれた。「『どのように、修められるべきであるのか』という、この句の、一切の流儀からの義(意味)の解説が、完全なるものと〔成る〕」と。

 

362.

 

 八 「何が、禅定の修行にとって、福利であるのか」

 

§120  また、すなわち、〔前に〕説かれた、「何が、禅定の修行にとって、福利であるのか」(Ch.3§1)とは──

 そこにおいて、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)等の五種類が、禅定の修行にとって、福利となる。(1)まさに、そのように、すなわち、煩悩の滅尽者たる阿羅漢たちが、入定して、「〔わたしたちは〕一境の心ある者たちとして、昼のあいだ、安楽に住むのだ」と、禅定を修めるなら、彼らの〔瞑想の境地に〕専注する禅定の修行は、所見の法(現世)における安楽の住という福利あるものと成る。それによって、世尊は言う。「チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます」(マッジマ・ニカーヤ1p.41)と。

 

§121  (2)〔いまだ〕学びある者や凡夫たちが、入定(等至:禅定の境地)から出起して〔そののち〕、「〔わたしたちは〕定められた心によって、〔あるがままの〕観察をするのだ」と修めていると、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)にとっての境処の拠点(直接原因)となることから、〔瞑想の境地に〕専注する禅定の修行もまた、〔あるがままの観察という福利あるものと成り〕、煩雑なる〔世俗〕において〔阿羅漢の資質に至り得る〕機会に到達する方法となることから、〔瞑想の境地に〕近接する禅定の修行もまた、〔あるがままの〕観察という福利あるものと成る。それによって、世尊は言う。「比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します」(サンユッタ・ニカーヤ3p.13)と。

 

§122  (3)また、彼らが、八つの入定を発現させて、神知(神通力・超越知)の足場たる瞑想に入定して〔そののち〕、入定から出起して、「一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります」(ディーガ・ニカーヤ1p.78:Ch.12§2)と説かれた方法の諸々の神知を切望しつつ発現させるなら、彼らの〔瞑想の境地に〕専注する禅定の修行は、気づき〔の場所〕気づきの場所()において、神知の境処の拠点(直接原因)となることから、神知という福利あるものと成る。それによって、世尊は言う。「神知による実証のために、神知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」(マッジマ・ニカーヤ3p.96)と。

 

§123  【372】(4)彼らが、「〔わたしたちは〕遍き衰退なき瞑想〔の境地〕ある者たちとなり、梵の世(梵天界)に発現するのだ」と、梵の世への再生を切望しつつ、あるいは、また、切望せずにいるとして、凡夫としての禅定から遍く衰退しないなら、彼らの〔瞑想の境地に〕専注する禅定の修行は、殊勝なる生存をもたらすことから、殊勝なる生存という福利あるものと成る。それによって、世尊は言う。「第一の瞑想を僅かに修めて、どこにおいて、〔彼らは〕再生するのですか(※)。梵〔天〕の会衆たる天〔の神々〕たちの同類として、〔彼らは〕再生します」(ヴィバンガp.424)等と。また、〔瞑想の境地に〕近接する禅定の修行もまた、欲望の行境(欲界)における善き境遇たる殊勝なる生存を、まさしく、もたらす。

 

※ テキストには uppajjanti とあるが、VRI版により upapajjanti と読む。以下の uppajjanti についても、同様に upapajjanti と読む。

 

§124  (5)また、すなわち、聖者たちが、八つの入定を発現させて、止滅の入定(滅尽定)に入定して〔そののち〕、「〔わたしたちは〕七日のあいだ、無心の者たちと成って、まさしく、所見の法(現世)において、止滅の涅槃に至り得て、安楽に住むのだ」と、禅定を修めるなら、彼らの〔瞑想の境地に〕専注する禅定の修行は、止滅という福利あるものと成る。それによって、〔聖典に〕言う。「十六の知恵の性行によって、九つの禅定の性行によって、自在なる状態たることとしての智慧が、止滅の入定についての知恵となる」(パティサンビダー・マッガ1p.97:Ch.23§18)と。

 

§125  このように、この、所見の法(現世)における安楽の住等の五種類が、禅定の修行の福利となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「それゆえに、無数の福利があり、〔心の〕汚れと〔世俗の〕垢を清める、禅定の修行という〔心の〕制止において、賢者は、〔気づきを〕怠らぬがよい」と。

 

363.

 

§126  そして、これだけで、「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が〔云々〕」(Ch.0§1)という、この詩偈の、戒と禅定と智慧(戒定慧)の門によって説示された清浄の道における、禅定もまた、遍く提示されたものと成る。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、「禅定についての釈示」という名の第十一章となる。

 

364.(※)

 

※ PTSに欠く「364.」を、VRI版により補う。

 

 第一のものとして、戒についての釈示があり、第二のものとして、払拭〔行〕の支分についての釈示があり、第三のものとして、〔心を定める〕行為の拠点を収め取ることについての釈示があり、第四のものとして、地の遍満についての釈示があり、第五のものとして、残りの遍満についての釈示があり、第六のものとして、浄美ならざるものという〔心を定める〕行為の拠点についての釈示があり、第七のものとして、六つの随念についての釈示があり、第八のものとして、〔他の〕随念たる〔心を定める〕行為の拠点についての釈示があり、第九のものとして、梵住についての釈示があり、第十のものとして、形態なきものについての釈示があり、〔食についての〕嫌悪の表象と〔地と水と火と風の四つの〕界域の〔差異の〕定置の両者についての釈示が、第十一となる。ということで──

 

 清浄の道の第一部は、〔以上で〕終了となる。