第九章 梵住についての釈示
240.
〔1 慈愛の修行(31)〕
§1 【295】また、随念という〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)の直後に配置された(Ch.3§105)、慈愛〔の心〕(慈)、慈悲〔の心〕(悲)、歓喜〔の心〕(喜)、放捨〔の心〕(捨)、という、これらの四つの梵住について。まずは、慈愛〔の思い〕を修めることを欲する、初学の者たる〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)によって、〔見難き小なる〕障害を断絶し、〔心を定める〕行為の拠点を収め取り、食事を為して、食後の睡魔を除き去って、遠離された場所に善く設けられた坐所に安楽に坐り、まずは、最初に、憤怒(瞋)における危険(患・過患)が〔綿密に注視されるべきであり〕、さらに、忍耐における福利が綿密に注視されるべきである。
§2 何ゆえにか。なぜなら、この修行によって、憤怒が捨棄されるべきであり、忍耐が到達されるべきであるとして、しかしながら、何であれ、〔いまだ〕見られていない危険を捨棄することはできず、あるいは、〔いまだ〕見出されていない福利に到達することは〔できない〕からである。それゆえに、「友よ、まさに、怒る者は、憤怒〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、[与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます]」(アングッタラ・ニカーヤ1p.189, p.216)という〔言葉〕等々を所以に、憤怒における危険が見られるべきである。
〔そこで、詩偈に言う〕「『忍耐と忍受は、最高の苦行である。涅槃は、最高〔の安楽〕である』〔と〕、覚者たちは説く」(ディーガ・ニカーヤ2p.49,ダンマパダ184)。
「[罵倒を、さらに、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、]忍耐の力ある者であり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説く」(ダンマパダ399,スッタニパータ623)。
「忍耐よりも、より一層のものは見出されない」(サンユッタ・ニカーヤ1p.226)という──
〔言葉〕等々を所以に、忍耐における福利が見出されるべきである。
§3 そこで、このように危険が見られた憤怒から、心を遠離させることを義(目的)として、さらに、福利が見出された忍耐へと、〔心を〕結び付けることを義(意味)として、慈愛の修行が勉励されるべきである。さらに、勉励している者によって、まさしく、最初に、人の細別が知られるべきである。「慈愛〔の修行〕は、これらの人たちにたいし、最初に修められるべきではない。【296】これら〔の人たち〕にたいしては、まさしく、修められるべきではない(※)」と。
※ テキストには te va bhāvetabbā とあるが、VRI版により neva bhāvetabbā と読む。
§4 なぜなら、この慈愛〔の修行〕は、(1)愛しからざる人、(2)極めて愛しき道友、(3)〔愛憎の対象ならざる〕中間の者(自分と関わりのない人間)、(4)怨みある人、という、これらの四者にたいし、最初に修められるべきではないからである。特に、(5)徴表を相違する者(異性)にたいしては、修められるべきではなく、(6)命を終えた者にたいしては、まさしく、修められるべきではない。
§5 どのような契機から、〔慈愛の修行は〕愛しからざる者等々にたいし、最初に修められるべきではないのか。なぜなら、〔初学の者が〕(1)愛しからざる者を愛しき状況に据え置いていると、〔彼は〕疲弊し(愛しくない者を愛しいと思いなすのに苦労する)、(2)極めて愛しき道友を〔愛憎の対象ならざる〕中間の状況に据え置いていると、〔彼は〕疲弊し(愛しい者への愛しさを捨てるのに苦労する)、そして、たとえ、少しばかりのものでも、その〔極めて愛しき者〕に、苦痛が生起したとき、〔彼は〕悲泣の行相に至り得た者のように成り、(3)〔愛憎の対象ならざる〕中間の者を、そして、尊重の状況に、さらに、愛しき状況に、据え置いていると、〔彼は〕疲弊し、(4)怨みある者を等しく随念していると、〔彼に〕忿激が生起するからである。それゆえに、〔慈愛の修行は〕愛しからざる者等々にたいし、最初に修められるべきではない。
§6 また、特に、(5)徴表を相違する者(異性)にたいし、まさしく、その〔徴表を相違する者〕を対象として、〔慈愛の修行を〕修めていると、貪欲が生起する。伝えるところでは、或るどこかの家臣の子が、家に親近ある長老に尋ねた。「尊き方よ、誰のために、慈愛〔の修行〕が修められるべきですか」と。長老は、「愛しき人にたいし」と言った。彼(大臣の子)にとっては、自己の妻が愛しき者として有り、彼は、彼女のために、慈愛〔の修行〕を修めつつ、全夜にわたり、壁との戦いを為した。それゆえに、特に、徴表を相違する者(異性)にたいしては、修められるべきではない。
§7 また、(6)命を終えた者にたいし〔慈愛の修行を〕修めている者は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に〔至り得ることは〕、まさしく、なく、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得ることもない。伝えるところでは、或るどこかの青年比丘が、〔自己の〕師匠を対象として、慈愛〔の修行〕を勉励した。彼に、慈愛〔の修行〕は転起せず、彼は、大長老の現前に赴いて、「尊き方よ、わたしにとって、慈愛の瞑想への入定は、まさしく、熟練するところです。しかしながら、それに入定することができません。いったい、まさに、どのような契機から〔できないのですか〕」と言った。長老は、「友よ、形相を収め取りなさい」と言った。彼(青年比丘)は、〔形相を〕探し求めつつ、〔自己の〕師匠の死んだ状態を知って、他の者を対象として慈愛しながら、入定〔の境地〕に専注した。それゆえに、命を終えた者にたいしては、まさしく、修められるべきではない。
241.
§8 (1)また、全ての最初に、あるいは、「わたしは、安楽の者として有るのだ。苦痛なき者として〔有るのだ〕」と、あるいは、「怨念〔の思い〕なき者として、憎悪〔の思い〕なき者として、煩悶〔の思い〕なき者として、安楽なる者として、〔わたしは〕自己を守り抜くのだ(維持する)」と、このように、まさしく、自己にたいし、繰り返し、〔慈愛の思いが〕修められるべきである。
§9 「このように存しているとして、すなわち、『ヴィバンガ(分別論)』において、『では、どのように、比丘は(※)、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住むのか。それは、たとえば、また、まさに、一者の人を、愛しく意に適う者と見て、慈愛するであろうように、まさしく、このように、一切の有情たちを、慈愛〔の思い〕で充満する』(ヴィバンガp.272)と説かれ、さらに、すなわち、『パティサンビダー(無礙解道)』において、『どのような五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱があるのか。「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。一切の命あるものたちは……略……。一切の【297】生類たちは……略……。一切の人たちは……略……。一切の自己状態あるものに属する者たち(個我的あり方をしている存在)は、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け」[と、これらの五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱がある]』(パティサンビダー・マッガ2p.130)という〔言葉〕等が説かれ、さらに、すなわち、『メッタ・スッタ』(スッタニパータp.25)において、『一切の有情たちは、安楽の自己ある者たちと成れ。まさしく、安楽で、平安の者たちと成れ』(スッタニパータ145)という〔言葉〕等が説かれたが、それと矛盾するのでは──なぜなら、そこにおいては、自己にたいする〔慈愛の〕修行が説かれていないからである」と、もし、〔そのように問うなら〕──
※ テキストには Kathañ ca, bhikkhave, bhikkhu とあるが、VRI版により Kathañca bhikkhu と読む。
§10 「しかしながら、それと矛盾しない」〔と答える〕。何ゆえにか。なぜなら、それ(上記経典の記述)は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕を所以に説かれたが、これ(自己にたいする慈愛の修行の記述)は、〔修行の〕実証となる状態を所以に〔説かれた〕からである。なぜなら、たとえ、それで、もし、百年のあいだ、あるいは、千年のあいだ、「わたしは、安楽の者として有るのだ」という〔言葉〕等の方法によって、自己にたいし慈愛〔の修行〕を修めるとして、彼に、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が生起することは、まさしく、ないからである。いっぽう、「わたしは、安楽の者として有るのだ」と修めていると、「すなわち、わたしが、安楽を欲する者であり、苦痛を嫌う者であり、さらに、生きることを欲する者であり、死なないことを欲する者であるように、このように、他の有情たちもまたある」と、自己を実証と為して、他の有情たちにたいし利益と安楽を欲することが生起する。世尊によってもまた──
〔そこで、詩偈に言う〕「全ての方角を、心して訪ね回って、自己よりもより愛しいものに、どこにであれ、まさしく、到達しなかった。
このように、他者たちにとっても、自己は、個々それぞれに愛しいものであり、それゆえに、自己〔の幸せ〕を欲する者は、他者を害さぬがよい」(サンユッタ・ニカーヤ1p.75,ウダーナp.47)と──
〔このように〕説いて、この方法が見示された。
242.
§11 (2)それゆえに、〔修行の〕実証となる状態を義(目的)に、最初に、自己を、慈愛〔の思い〕で充満して、その直後に、〔修行が〕安楽に転起することを義(目的)に、すなわち、この、愛しく意に適い重く尊ばれる者である、あるいは、師匠がいるなら、あるいは、師匠ほどの者がいるなら、あるいは、師父がいるなら、あるいは、師父ほどの者がいるなら、彼の、愛しく意に適う契機となる愛しき言葉等々を、さらに、重く尊ばれる契機となる戒や所聞等々を、それらを随念して、「この正なる人士は、安楽ある者として有れ。苦痛なき者として〔有れ〕」という〔言葉〕等の方法によって、慈愛〔の思い〕が修められるべきである。そして、このような形態の人にたいしては、もちろん、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が成就する。
§12 (3・4・5)また、この比丘によって、まさしく、そのかぎりのもので満足〔の思い〕を惹起せずして、境界の混入(対象の拡大)を為すことを欲する者となり、その直後に、(3)極めて愛しき道友にたいし〔慈愛の修行が修められるべきであり〕、極めて愛しき道友ののち、(4)〔愛憎の対象ならざる〕中間の者にたいし〔慈愛の修行が修められるべきであり〕、中間の者ののち、(5)怨みある人にたいし慈愛〔の修行〕が修められるべきである。そして、〔慈愛の修行を〕修めている者によって、一つ一つの部位において、柔和で行為に適する心を作り為して、その直後に、〔慈愛の思いが〕近しく集中されるべきである。
§13 また、彼に、あるいは、怨みある人が存在しないなら、あるいは、〔彼が〕偉大なる人の類たることから、義(利益)ならざることを為している他者にたいしてもまた、まさしく、怨みの表象が生起しないなら、彼によって、「〔愛憎の対象ならざる〕中間の者にたいし、わたしの慈愛の心は、行為に適するものとして生じたのだ。今や、〔わたしは〕その〔慈愛の心〕を、怨みある者にたいし近しく集中するのだ」と、まさしく、〔余計な〕労苦が【298】為されるべきではない。いっぽう、彼に、〔怨みある人が〕存在するなら、彼に関して、「中間の者ののち、怨みある人にたいし慈愛〔の修行〕が修められるべきである」と説かれた。
243.
§14 また、それで、もし、この者(瞑想修行者)に、怨みある者にたいし、心を近しく集中しつつ、その〔怨みある者〕によって為された非礼を随念することによって、敵対〔の思い〕が生起するなら、そこで、この者によって、前の人たち(愛しき者・極めて愛しき道友・中間の者)にたいし、その、どこにたいしてであれ、繰り返し、慈愛〔の瞑想〕に入定して〔そののち、入定から〕出起して、繰り返し、その〔怨みある〕人を慈愛しながら、敵対〔の思い〕が除去されるべきである。
§15 それで、もし、たとえ、このように努力しつつも、〔敵対の思いが〕消えないなら、そこで──
〔そこで、詩偈に言う〕「鋸の喩えの教諭等々を随念しながら、敵対〔の思い〕の捨棄のために、繰り返し、〔慈愛の心が〕勤められるべきである」〔と〕。
さらに、その〔慈愛の心〕は、まさに、この行相によって、まさしく、自己を〔常に〕教え諭しながら、〔勤められるべきである〕。「ああ、忿激する人よ、まさに、世尊によって説かれたではないか。かつまた、『比丘たちよ、たとえ、もし、卑しい盗賊たちが、両側に棒のある鋸で、それぞれの手足を切り裂くも、そこで、また、その〔比丘〕が、意を汚すなら(怒りを起こすなら)、それによって、彼は、わたしの教えを為す者ではありません』(マッジマ・ニカーヤ1p.129)と。かつまた──
〔そこで、詩偈に言う〕『すなわち、忿激した者に忿激し返すなら、それによって、まさしく、彼に、より悪しきことがある。忿激した者に忿激し返さずにいる者は、勝利し難き戦いに勝利する。
他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら、かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者の義(利益)を行なう』(サンユッタ・ニカーヤ1p.162)と。
かつまた、『比丘たちよ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、敵は、敵に、このように求めます。「ああ、まさに、この者は、悪しき色艶の者として存するべきである」と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵の色艶あることを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、たとえ、何であれ、彼が、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、白い衣をまとう者と成るも、そこで、まさに、彼は、忿激〔の思い〕に征服された者としてあり、まさしく、悪しき色艶の者と成ります。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。敵は、敵に、このように求めます。比丘たちよ、さらに、また、他に、「ああ、まさに、この者は、苦痛のうちに臥すべきである(※)」と。……略……多岐にわたる義(利益)ある者として存するべきにあらず」と。……略……財物ある者として存するべきにあらず」と。……略……盛名ある者として存するべきにあらず」と。……略……朋友ある者として存するべきにあらず」と。……略……【299】身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生するべきにあらず」と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵が善趣に赴くことを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、忿激〔の思い〕に征服された者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します』(アングッタラ・ニカーヤ4p.94-6)と。かつまた、『比丘たちよ、それは、たとえば、また、火葬の薪が、両〔側〕から燃やされたとして、中間において糞が行き及んだもの(汚物で燃え残ったもの)は、薪たる義(用途)を、まさしく、村においても充満せず、林においても〔充満し〕ないようなものです(村と林の両所で役に立たない)。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。かつまた、在家の財物から遍く衰退し、かつまた、沙門の資質たる義(目的)を円満成就させません』(サンユッタ・ニカーヤ3p.93)と。今や、〔まさに〕その、おまえは、このように忿激している者であり、まさしく、そして、世尊の教えを為す者と成らないであろうし、さらに、〔忿激した者に〕忿激し返している者であり、忿激した人よりもなお、より悪しき者と成って、勝利し難き戦いに勝利しないであろう。そして、敵の〔利益を〕作り為す〔七つの〕法(性質)を、まさしく、自己が自己に為すであろうし、さらに、火葬の薪の如き者と成るであろう」と。
※ テキストには passeyyā とあるが、VRI版により sayeyyā と読む。
244.
§16 彼が、このように勤めつつ、努力しているとして、それで、もし、その敵対〔の思い〕が寂止するなら、ということで、これは善きことである。もし、寂止しないなら、そこで、その〔怨みある〕人の、その〔法〕その法(性質)が、〔すでに〕寂止したものとして有り、完全なる清浄のものとなり、〔それを〕随念していると浄信をもたらすなら、その〔法〕その〔法〕を随念して、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきである(その人の善い性質のみが随念されるべきである)。
§17 まさに、一部の者のばあい、身体による正行だけが、寂静となったものとして有る。そして、彼の、〔その〕寂静となった状態は、〔彼が〕多くの行持の実践を為していると、〔周囲の〕全ての人々に〔自ずと〕知られる。いっぽう、言葉による正行と意による正行は、〔いまだ〕寂止していないものとして有る。彼のばあい、それら(言葉による正行と意による正行)を思い考えずして、身体による正行の寂止だけが随念されるべきである。
§18 一部の者のばあい、言葉による正行だけが、寂静となったものとして有る。そして、彼の、〔その〕寂静となった状態は、〔周囲の〕全ての人々に〔自ずと〕知られる。まさに、彼は、〔生来の〕性向によっても、挨拶に巧みな智ある者(言葉優しき者)として有り、友誼の者、安楽の会話ある者(気安く話せる者)、親身の者、明瞭な語り口の者、〔話しかけられる〕前に語る者(謙譲の語り手)として〔有り〕、蜜のように甘美な声で法(教え)を朗唱し、諸々の遍き円成の句と文によって法(教え)の言説(法話)を言説する。いっぽう、身体による正行と意による正行は、〔いまだ〕寂止していないものとして有る。彼のばあい、それら(身体による正行と意による正行)を思い考えずして、言葉による正行の寂止だけが随念されるべきである。
§19 一部の者のばあい、意による正行だけが、寂静となったものとして有る。そして、彼の、〔その〕寂静となった状態は、塔廟の敬拝等々において、〔周囲の〕全ての人々に明白なるものと成る。なぜなら、その者が、〔いまだ〕寂止していない心の者として有るなら、彼は、あるいは、塔廟を、あるいは、菩提〔樹〕を、あるいは、長老たちを、敬拝しながらも、恭しく敬拝せず、【300】法(教え)の聴聞の天幕においては、あるいは、散乱した心の者として、あるいは、居眠りする者として、坐り、いっぽう、寂静となった心の者は、信頼して恭しく敬拝し、〔法に〕耳を傾ける者となり、義(目的)を為して、あるいは、身体によって、あるいは、言葉によって、心の浄信を為しながら、法(教え)を聞くからである。ということで、一部の者のばあい、意による正行だけが、寂静となったものとして有り、身体と言葉による正行は、〔いまだ〕寂止していないものとして有る。彼のばあい、それら(身体による正行と言葉による正行)を思い考えずして、意による正行の寂止だけが随念されるべきである。
§20 また、一部の者のばあい、これらの三つの法(性質)のうちの一つでさえも、〔いまだ〕寂止していないものとして有る。その人にたいしては、「たとえ、何であれ、この者は、今は、人間の世を歩むも、そこで、まさに、数日も経過すると、八大地獄や十六増長地獄の円満成就者と成るであろう」と、慈悲〔の思い〕(悲)が据え置かれるべきである。なぜなら、慈悲〔の思い〕を縁としてもまた、憤懣〔の思い〕は寂止するからである。一部の者のばあい、これらの〔三つの〕法(性質)が、三つもろともに寂止したものとして有る。彼のばあい、その〔法〕その〔法〕を(※)、〔修行者が〕求めるなら、その〔法〕その〔法〕が、〔修行者によって〕随念されるべきである。なぜなら、そのような人にたいしては、慈愛の修行は、為し難きものと成らないからである。
※ テキストには naṃ yaṃ とあるが、VRI版により yaṃ yaṃ と読む。
§21 ということで、そして、この義(意味)が(※)明らかな状態となることを義(目的)に、「友よ、まさに、これらの五つの憤懣〔の思い〕の取り除きがあります。そこにおいて、比丘に、憤懣〔の思い〕が生起したなら、全てにわたり取り除かれるべきです(※※)」(アングッタラ・ニカーヤ3p.186)という、この、〔『アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)』の〕五なる集まり(五集)における『アーガータパティヴィナヤ・スッタ』(アングッタラ・ニカーヤ3p.186)〔の言葉〕が詳知されるべきである。
※ テキストには atth’ assa とあるが、VRI版により atthassa と読む。
※※ テキストならびにVRI版には paṭivinodetabbo とあるが、引用原典により paṭivinetabbo と読む。
245.
§22 また、それで、もし、この者が、たとえ、このように努力しつつも、憤懣〔の思い〕が、まさしく、生起するなら、そこで、この者によって、このように、自己が教え諭されるべきである。
〔そこで、詩偈に言う〕「おまえの自己の境域において、もしくは、怨みある者によって苦しみが作り為されたとして、彼の境域ならざる自らの心において、どうして、〔おまえは〕苦しみを作り為すことを、〔自ら〕求めるのだ(自心を汚す必要はない)。
多くの資益ある涙顔の親族の集まりを捨棄して〔出家したにもかかわらず〕、どうして、〔おまえは〕大いなる不義(不利益)を作り為す敵を、忿激〔の思い〕を捨棄しないのだ。
それらの戒を、〔おまえは〕守るが、それらの根を切り落とす忿激〔の思い〕を、まさに、〔おまえは〕愛撫する。おまえに等しき痴者として、誰があるというのだ。
『他者によって、聖ならざる行為が為されたのだ』と、〔おまえは〕忿激する。いったい、どうして、おまえは、まさしく、そのような〔行為〕を、それで、自ら、為すことを求めるのだ。
もしくは、おまえを怒らせることを欲する他者が、意に適わないことを為したとして、憤怒の生起によって、まさしく、彼の意欲を、どうして、〔おまえは〕満たすのだ。
そして、忿激した者となり、まさに、おまえは、彼に苦しみを、あるいは、作り為すことになり、あるいは、ならないとして、いっぽう、まさしく、今や、自己を、忿激の苦しみで悩ますのだ。
あるいは、忿激という益なき道を辿り行くのが(※)、もしくは、怨みある者たちであるとして、何ゆえに、おまえもまた、忿激する者となり、まさしく、彼らに、従い学ぶのだ。
すなわち、おまえの憤怒に依拠して、賊によって愛しからざることが為されたのだ。まさしく、その憤怒を断て。どうして、〔基盤なく〕状況なきことに、〔おまえは〕打ちのめされるのだ。
【301】そして、諸々の法(性質)の瞬間のものたることから、すなわち、〔五つの心身を構成する〕範疇(五蘊)によって、意に適わないことがおまえに為されたとして、それらは〔すでに〕止滅したのであり、今や、ここに、〔おまえは〕誰に忿激するのだ。
或る者が、或る者に、苦しみを作り為すとして、その者なくして、その者は、誰に、〔苦しみを〕作り為すというのだ。かくのごとく、自らもまた、苦しみの因としてある、おまえが、どうして、彼に忿激するのだ」と。
※ テキストには arūḷhā とあるが、VRI版により ārūḷhā と読む。
246.
§23 また、それで、もし、この者が、このように自己を教え諭しつつもまた、敵対〔の思い〕が、まさしく、寂止しないなら、そこで、この者によって、(1)そして、自己の、(2)さらに、他者の、行為(業)の帰属性(行為を自らのものとすること)が綿密に注視されるべきである。(1)そこにおいて、まずは、自己の〔行為の帰属性が〕、このように(※)綿密に注視されるべきである。「おい、おまえは、おまえ〔自身〕に忿激した者となり、何を為すというのだ。そして、まさしく、おまえの、この憤怒を因縁とする行為は、まちがいなく、義(利益)ならざることのために等しく転起する。まさに、おまえは、行為を自らのものとする者であり、行為を相続する者であり、行為を根源とする者であり、行為を眷属とする者であり、行為を帰依所とする者であり、〔おまえが〕その行為を為すなら、〔おまえは〕その〔行為〕の相続者と成るのだ。さらに、おまえの、この行為は、まさしく、正等覚への〔得達〕にあらず、独者の覚り(独覚菩提・縁覚菩提)への〔得達〕にあらず、弟子の境地への〔得達〕にあらず、梵〔天〕たることや帝釈〔天〕たることや転輪〔王〕や地域の王等への得達のなかのどれか一つの得達を成し遂げることもできず、そこで、まさに、〔世尊の〕教えから離れさせて、まさしく、そして、残飯を喰う等の状態(畜生への再生)を〔等しく転起させ〕、さらに、地獄にある者等の諸々の苦しみの特質を等しく転起させるのが、おまえの、この行為なのだ。〔まさに〕その、おまえは、この〔行為〕を為しつつ、両の手で、あるいは、諸々の無炎の炭火を〔掴んで〕、あるいは、糞を掴んで、他者を打つことを欲する人のように、まさしく、自己を、まさしく、そして、最初に焼き、さらに、悪臭あるものに作り為す」と。
※ テキストには ekaṃ とあるが、VRI版により evaṃ と読む。
§24 (2)このように、自己の行為の帰属性を綿密に注視して〔そののち〕、他者の〔行為の帰属性〕もまた、このように綿密に注視されるべきである。「この者(※)もまた、おまえに忿激して、何を為すというのだ。まさしく、この者の、この〔行為〕は、まちがいなく、義(意味)なきことのために等しく転起する。まさに、この尊者は、行為を自らのものとする者であり、行為を相続する者であり……略……〔この者が〕その行為を為すなら、〔この者は〕その〔行為〕の相続者と成るのだ。さらに、この者の、この行為は、まさしく、正等覚への〔得達〕にあらず、独者の覚りへの〔得達〕にあらず、弟子の境地への〔得達〕にあらず、梵〔天〕たることや帝釈〔天〕たることや転輪〔王〕や地域の王等への得達のなかのどれか一つの得達を成し遂げることもできず、そこで、まさに、〔世尊の〕教えから離れさせて、まさしく、そして、残飯を喰う等の状態を〔等しく転起させ〕、さらに、地獄にある者等の諸々の苦しみの特質を等しく転起させるのが、この者の、この行為なのだ。〔まさに〕その、この者は、この〔行為〕を為しながら、逆風に立って他者に塵を振りまくことを欲する人のように、まさしく、自己に、〔塵を〕振りまく」と。まさに、このことが、世尊によって説かれた。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、汚れなき人を汚すなら、清浄で穢れなき人を〔穢すなら〕(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱くなら)、【302】まさしく、その愚者に、悪は戻り来る──風に逆らって投げられた細かい塵が、〔投げた者自身に戻り来る〕ように」(ダンマパダ125)と。
※ テキストには so とあるが、VRI版により eso と読む。
247.
§25 また、それで、もし、この者が、このように、〔自己と他者それぞれの〕行為の帰属性を綿密に注視しつつもまた、まさしく、〔憤懣の思いが〕寂止しないなら、そこで、この者によって、教師(ブッダ)の、過去(過去世)の行ないの諸徳が随念されるべきである。
§26 そこで、これが、綿密に注視することの方法となる。「おい、出家者よ、まちがいなく、おまえの教師は、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない菩薩として存しつつもまた、四つのアサンケイヤ(阿僧祇:不可算不可測の巨大数)のあいだ、さらに、十万カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、諸々の〔行ないの〕完全態(波羅蜜)を円満させつつ、その場その場において、たとえ、〔自己を害する〕殺戮者たちであれ、〔自己の〕義(利益)に反する者たちにたいし、心を怒らせることがなかった。
§27 それは、すなわち、この、まずは、『シーラヴァ・ジャータカ』(ジャータカ1p.261・本生物語51)において〔菩薩は〕、自己の妃と〔自己に〕怒りある悪しき家臣によって手引きされた敵〔国〕の王が、三百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)の王国を収め取りつつあるも、〔その〕制止を義(目的)として立ち上がった家臣たちに、武器に触れることすらも許さなかった。さらに、千の家臣と共に、新造の墓場に喉の量(高さ)の地を掘って埋められながらも、ただの心の苛立ちすらも為さずして、死骸を喰うことを義(目的)にやってきた野狐(ジャッカル)たちが砂を取り去るのに依拠して、人の為すことを為して(元の状態に戻って)生命を得た〔菩薩〕は、夜叉の威力によって(夜叉の力を借りて)、自己の寝室に降りて、〔自己の〕義(利益)に反する者(敵王)が寝所に臥しているのを見ても、まさしく、苛立ちを為さずして、互いに他と〔和睦の〕誓いを為して、彼を朋友の境位に据え置いて、言った。
〔そこで、詩偈に言う〕『人は、まさしく、願望するべきである。賢者は、厭離するべきにあらず。まさに、わたしは、自己を見る──すなわち、〔わたしが〕求めたとおり、そのとおりに、〔わたしは〕成ったのだ』(ジャータカ1p.267)と。
§28 『カンティヴァーディー・ジャータカ』(ジャータカ3p.39・本生物語313)において〔菩薩は〕、思慮浅きカーシ王に、『沙門よ、おまえは、何を説く者なのだ』と尋ねられた。〔菩薩によって〕『わたしは、まさに、忍耐を説く者です』と説かれたので、〔王が〕棘を有する諸々の鞭で打って、〔両の〕手足が断ち切られながらも、〔菩薩は〕ただの苛立ちすらも為さなかった。
§29 すなわち、出家〔の道〕に近しく赴いた老練の者(成人した大人)が、このように為すとして、そして、これは、稀有ならざるものである。いっぽう、『チューラ・ダンマパーラ・ジャータカ』(ジャータカ3p.177・本生物語358)において〔菩薩は〕、上向きに臥す〔嬰児〕として存しつつもまた──
〔そこで、詩偈に言う〕『栴檀の真髄を塗った〔両の〕腕が切断されます──ダンマパーラ〔王子〕(菩薩)の、地の相続者の、〔両の腕が〕。陛下よ、わたしの諸々の気息は消失します』(ジャータカ3p.181)と──
このように、母が喚き散らしつつあるなか、父であるマハー・パターパという名の王によって、筍を〔切る〕ように四つの手と足が切断させられたとき、【303】それでもまだ、満足〔の思い〕を起こさずして、『彼(菩薩)の頭を切断せよ』と、〔ふたたび、王によって〕命じられたとき、『今や、これは、おまえにとって、心を正しく制御する時である。今や、さあ、ダンマパーラよ、頭の切断を命じる父、頭を切断する家来、嘆き悲しんでいる母、さらに、自己、という、これらの四者にたいし、平等の心ある者と成れ(※)』と、堅固なる受持を〔心に〕確立して、ただの怒りの行相すらも為さなかった。
※ テキストには hotī とあるが、VRI版により hohī と読む。
§30 すなわち、人間として有る者が、このように為したとして、そして、これもまた、まさしく、稀有ならざるものである。いっぽう、〔菩薩は〕畜生として有るもまた、チャッダンタ(六牙)という名の象と成って(ジャータカ5p.36・本生物語514)、毒を塗った矢で臍を貫かれてもなお、それでも、義(利益)ならざることを為す猟師にたいし、心を怒らせることがなかった。〔菩薩が〕言ったように──
〔そこで、詩偈に言う〕『太い矢に射抜かれた象は、汚れなき心で、猟師に語りかけた。「友よ、これは、何を義(目的)としてのことですか。あるいは、何を因として、わたしを打ったのですか。あるいは、これは、何を目的としてのことですか」』(ジャータカ5p.51)と──
そして、このように説いて、〔猟師によって〕『幸甚なる方よ、あなたの〔六つの〕牙を義(目的)として、カーシ王の王妃によって送られた者として、〔わたしは〕存しています』と説かれたとき、彼女の意欲を満たしながら、六色の光を放ち等しく輝き渡る典雅で浄美なる自己の〔六つの〕牙を、〔自ら〕断って〔猟師に〕与えた。
§31 〔菩薩は〕大猿と成って(ジャータカ5p.67・本生物語516)、まさしく、自己みずから、山の深淵から引き上げた人によって──
〔そこで、詩偈に言う〕『まさしく、すなわち、他の、林にいる獣たちのように、この〔猿〕も、人間たちの食物である。それなら、さあ、飢えた〔わたし〕は、この猿を打ち殺して、喰ったらどうであろう。
まさしく、〔糧食の〕依所なき〔わたし〕は、肉を糧食として取って、赴くであろう。〔わたしは〕砂漠を超え出るであろう。〔肉は〕わたしの〔旅の〕路銀と成るであろう』(ジャータカ5p.71)と──
このように思い考えて石を持ち上げて、〔自己の〕頭が砕かれたとき、涙に満ちた〔両の〕眼で、その人を見ながら──
〔そこで、詩偈に言う〕『幸甚なる方よ、いけません、わたしにとって、尊貴なる者として存していながら、あなたは、まさに、このような〔悪なる行為〕を為しました。あなたは、まさに、寿命長き者として存し、他者たち〔の悪なる行為〕を防ぐに値します(悪業の報いを人々に知らせる生きた見本として余生を送る運命にある)』(ジャータカ5p.71)と──
〔このように〕説いて、その人にたいし、心を怒らさずして、さらに、自己の苦痛を思い考えずして、まさしく、その人を、平安の極地へと得達させた(安全な場所まで送り届けた)。
§32 〔菩薩は〕ブーリダッタという名の龍王と成って(ジャータカ6p.157・本生物語543)、斎戒(布薩)の諸支分〔の受持〕を〔心に〕確立して、【304】蟻塚の頂きに臥しながら、〔世を焼き尽くす〕劫末の火に等しき〔劇〕薬を全肉体に注がれながらもまた、籠に入れられてジャンブ・ディーパ(インド本島)全体において〔理不尽に〕遊ばれつつもまた、その婆羅門にたいし、ただの意の怒りすらも作り為さなかった。すなわち、〔菩薩が〕言ったように──
〔そこで、詩偈に言う〕『〔わたしを〕籠に押し込めているときもまた、〔わたしを〕手で押し潰しているときもまた、わたしには、戒の破断の恐怖あることから、アーランパーナ(婆羅門)にたいし怒らない』(チャリヤー・ピタカp.85)と。
§33 〔菩薩は〕チャンペイヤ龍王ともまた成って(ジャータカ4p.454・本生物語506)、蛇使いに悩み苦しめられながらも、ただの意の怒りすらも生起させなかった。〔菩薩が〕言ったように──
〔そこで、詩偈に言う〕『そのときもまた、法(教え)の行者たるわたしを、斎戒に入った〔わたし〕を(※)、蛇使いは掴まえて、王〔宮〕の門〔前〕において遊び戯れる(芸をさせる)。
まさしく、青に、黄に、赤に、その〔色〕その色を、彼が〔心に〕思い考えたなら、彼の心に随転しながら、〔彼が〕思い考えた〔色〕の似姿と成る(変色する)。
〔わたしは〕陸を水と為すことができる。また、水を陸と為すこともできる。すなわち、わたしが、彼に激怒するなら、瞬時に、〔彼を〕灰と為すであろう。
すなわち、〔わたしが、怒りの〕心の支配ある者と成るなら、〔わたしは〕戒から遍く衰退するであろう。戒から遍く衰退した者に、最上の義(目的)は実現しない』(チャリヤー・ピタカp.85)と。
※ テキストには upavuttaṃ uposathaṃ とあるが、VRI版により upavutthauposathaṃ と読む。
§34 〔菩薩は〕サンカパーラ龍王と成って(ジャータカ5p.161・本生物語524)──〔残忍なボージャ族の者たちが〕諸々の鋭い刃で〔菩薩の身体の〕八箇所を貫いて、〔それらの〕打撃口に棘を有する蔓を導き入れて、〔なおかつ〕鼻に堅固な縄を入れて〔そののち〕──十六者のボージャ族の者たちに、天秤で担いで運ばれつつ、大地の面に肉体を引きずられながら、大いなる苦痛を味わいつつ、怒ってただ睨んだだけで全てのボージャ族の者たちを灰と為すことができる〔力ある者〕として存しつつもまた、眼を閉じて、ただの怒りの行相すらも作り為さなかった。〔菩薩が〕言ったように──
〔そこで、詩偈に言う〕『アーラーラよ、〔月の〕十四〔日〕と十五〔日〕には、〔わたしは〕常に斎戒に入ります。そこで、十六者の〔残忍な〕ボージャ族の者たちがやってきました──縄を掴んで、さらに、堅固な索縄を〔掴んで〕。
鼻を破断して縄を通して、残忍な者たちは、わたしを完全に捕捉して連れて行きました。このような苦しみを忍受しつつも、わたしは、斎戒を乱さずにいます』(ジャータカ5p.172-3)と。
§35 【305】さらに、単に、これらだけにあらず。諸他にもまた、マートゥポーサカ・ジャータカ(ジャータカ4p.90・本生物語455)等々において、〔菩薩は〕稀有なることを無数に為した。〔まさに〕その、おまえにとって、今や、一切知者たるに至り得た方にして、天を含む世において、誰であれ、忍耐の徳に対等の者なき方を、彼を、世尊を、〔世の〕教師たる方を、引き合いにしながら、まさに、敵対の心を生起させることは、あまりに極めて、道理なきことであり、適切ならざることである」と。
248.
§36 また、それで、もし、この者が、このように教師の過去に行なった徳を綿密に注視しつつもまた、長夜にわたり、諸々の〔心の〕汚れの奴隷たる資質を具した〔この者〕の、その敵対〔の思い〕が、まさしく、寂止しないなら、そこで、この者によって、始源が思い考えられない〔無数の輪廻〕が綿密に注視されるべきである。そこで、まさに、〔聖典において〕説かれた。「比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に母と成ったことなき者です。……略……すなわち、この長時にわたり、過去に父と成ったことなき者です。……略……すなわち、この長時にわたり、過去に兄弟と成ったことなき者です。……略……すなわち、この長時にわたり、過去に姉妹と成ったことなき者です。……略……すなわち、この長時にわたり、過去に子と成ったことなき者です。……略……すなわち、この長時にわたり、過去に娘と成ったことなき者です」(サンユッタ・ニカーヤ2p.189-90)と。それゆえに、その〔怨みある〕人にたいし、このように、心が生起させられるべきである。「まさに、この者は、過去において、わたしの母と成って、十月のあいだ、子宮のなかで守り抜いて、糞尿や唾液や鼻水等々を黄栴檀であるかのように忌避することなく取り去って、胸であやしながら(※)、脇に抱え運びつつ、〔わたしを〕養い育てたのだ。父と成って、山羊の道や杭の道等々〔の難路〕を赴いて商売に従事しながら、わたしの義(利益)のために、生命をもまた完全に捨て去って、両軍の〔対峙する〕戦場に入って、船で大海に乗り入れて、さらに、諸他の為し難きことを為して、『子たちを養い育てるのだ』と、それら〔の手段〕、それらの手段で、財を集めて、わたしを養い育てたのだ。兄弟と〔成り〕、姉妹と〔成り〕、子と〔成り〕、さらに、また、娘と成って、かくのごとく、そして、この〔資益〕を、さらに、この資益を、為したのだ。そこで、わたしにとって適切ならざるは、意を怒らせること」と。
※ テキストには nacchāpentī とあるが、VRI版により naccāpentī と読む。
249.
§37 また、それで、もし、このようにもまた、心を寂滅させることが、まさしく、できないなら、そこで、この者によって、このように、諸々の慈愛〔の修行〕の福利が綿密に注視されるべきである。「おい、出家者よ、まさに、世尊によって説かれたではないか。『比丘たちよ、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修され、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、十一の福利が期待できます。どのようなものが、十一のものなのですか。(1)安楽のうちに眠ります。(2)安楽のうちに目覚めます。(3)悪夢を見ません。(4)人間たちにとって愛しい者と成ります。(5)人間ならざるもの(精霊・悪霊)たちにとって愛しい者と成ります。(6)天神たちが〔彼を〕守ります。(7)彼に、あるいは、火が、あるいは、毒が、あるいは、刃が、至り行くことはありません。(8)すみやかに心が定められます。(9)顔色が澄浄になります。(10)迷乱なき者として命を終えます。(11)より上なるもの(智慧による解脱)に理解なくあるも、梵の世に近しく赴く者と【306】成ります』(アングッタラ・ニカーヤ5p.342,パティサンビダー・マッガ2p.130)と。それで、もし、おまえが、この心を寂滅させないであろうなら、〔おまえは〕これらの福利から遍く外にある者と成るであろう」と。
250.
§38 また、このようにもまた、〔心を〕寂滅させることができずにいるなら、界域(界:要素・成分)の分解が為されるべきである。どのようにか。「おい、出家者よ、また、おまえは、この者に忿激しているが、何に忿激するのか。どうなのだ、諸々の髪に忿激するのか、それとも、諸々の毛に〔忿激するのか〕、諸々の爪に〔忿激するのか〕……尿に忿激するのか、そこで、また、あるいは、諸々の髪等々における、地の界域に忿激するのか、水の界域に〔忿激するのか〕、火の界域に〔忿激するのか〕、風の界域に忿激するのか、あるいは、それらの五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)や十二の〔認識の〕場所(十二処)や十八の界域(十八界)に執取して、この尊者は「某名」と説かれる(呼称される)が、それらのうち、どうなのだ、形態(色)の範疇に忿激するのか、それとも、感受〔作用〕(受)〔の範疇〕に〔忿激するのか〕、表象〔作用〕(想)〔の範疇〕に〔忿激するのか〕、諸々の形成〔作用〕(行)〔の範疇〕に〔忿激するのか〕、識知〔作用〕(識)の範疇に忿激するのか、あるいは、どうなのだ、眼の〔認識の〕場所に忿激するのか、どうなのだ、形態の〔認識の〕場所に忿激するのか……略……どうなのだ、意の〔認識の〕場所に忿激するのか、どうなのだ、法(意の対象)の〔認識の〕場所に忿激するのか、あるいは、どうなのだ、眼の界域に忿激するのか、どうなのだ、形態の界域に〔忿激するのか〕、どうなのだ、眼の識知〔作用〕の界域に〔忿激するのか〕……略……どうなのだ、意の界域に〔忿激するのか〕、どうなのだ、法(意の対象)の界域に〔忿激するのか〕、どうなのだ、意の識知〔作用〕の界域に〔忿激するのか〕」と。まさに、このように、界域の分解を為していると、錐の先に芥子を〔置く〕ように、さらに、虚空に絵画を〔描く〕ように、忿激〔の思い〕が確立する状況は有ることなくある。
251.
§39 また、界域の分解を為すことができずにいるなら、布施と分与が為されるべきである。自己に存するものは、他者に施されるべきであり、他者に存するものは、自己によって収め取られるべきである。また、それで、もし、他者が、生き方が破断した者であり、必需品の遍き受益に値しない者として有るなら、まさしく、自己に存するものが、〔その他者に〕施されるべきである。彼が、このように為していると、まさしく、一方的に、その〔怨みある〕人にたいし、憤懣〔の思い〕は寂止する。そして、他者の、過去の生より以降の結縛としてある忿激〔の思い〕もまた、まさしく、その瞬間に寂止する。チッタラ山精舎において、三回、臥坐所を追放された〔行乞の〕施食の長老によって、〔自己を追放した大長老に〕「尊き方よ、この、八カハーパナ(貨幣の単位)の価値ある鉢は、わたしの母である女性在俗信者(優婆夷)によって施されたものであり、法(教え)にかなう利得です。〔これを収め取って〕大いなる女性在俗信者のために、功徳の利得を作ってください」と説いて、施された鉢を得た大長老の、〔過去の生より以降の結縛としての忿激の思いが寂止した〕ように。まさに、このように、大いなる威力あるのが、この、「布施」ということになる。そして、このこともまた説かれた。
〔そこで、詩偈に言う〕「布施は、調御されざる者の調御となる。布施は、一切所において確証となる。布施によって、愛しき言葉によって、〔施した者は、頭が〕上がり、かつまた、〔施された者は、頭が〕下がる」(典拠不詳)と。
252.
§40 【307】彼が、このように、怨みある人にたいし、敵対〔の思い〕が寂止した者としてあるなら、すなわち、愛しき者や極めて愛しき道友や〔愛憎の対象ならざる〕中間の者たちにたいするように、このように、彼(怨みある人)にたいしてもまた、慈愛〔の思い〕を所以に、心は転起する。
そこで、この者によって、繰り返し慈愛しながら、自己、愛しき人、〔愛憎の対象ならざる〕中間の者、怨みある人、という、四者の人にたいし、平等の心を成就させつつ、境界の混入(対象の拡大)が為されるべきである。
§41 これが、その〔境界の混入〕の特相となる。それで、もし、この人(瞑想修行者)が、愛しき者と〔愛憎の対象ならざる〕中間の者と怨みある者と共に、自己を第四の者として、一つの場所に坐っているとき、盗賊たちがやってきて、「尊き方よ、一者の比丘を、わたしたちに与えよ」と説いて、「どのような契機から」と説かれたとき、「その者を殺して、喉から血を収め取って、供物と為すことを義(目的)として」と説くなら、そして、そこで、この比丘が、「あるいは、誰某を、あるいは、誰某を、収め取れ」と思い考えるなら、境界の混入は、まさしく、為されざるものと成る。たとえ、それで、もし、「わたしを収め取れ。これらの三者を〔収め取ることが〕あってはならない」と思い考えるもまた、境界の混入は、まさしく、為されざるものと成る。何ゆえにか。なぜなら、その者、その者の、収め取ることを求めるなら、その者、その者の、益なきことを求める者と成り、まさしく、他〔の三者〕の益を求める者と成るからである。また、すなわち、四者の人の間で〔特定の〕一者を盗賊たちに与えるべきと見ないとき、そして、自己にたいし、さらに、それらの三者の人にたいし、まさしく、平等の心を転起させるとき、境界の混入は、為されたものと成る。
§42 それによって、過去の方たちは言う。
〔そこで、詩偈に言う〕「自己にたいし、益ある者と〔愛憎の対象ならざる〕中間の者にたいし、さらに、益なき者にたいし──〔これらの〕四種類の者にたいし、種々なるものを見る、そのときは、命あるものたちに益ある心の者となるだけのこと。
『慈愛〔の心〕に欲念と利得ある者』『巧みな智ある者』と呼ばれることはない。比丘にとって、四つの境界が混入したものと成る、そのときは──
天を含む一切の世を、慈愛〔の心〕で平等に充満する。彼に、〔四つの〕境界が知られないなら、〔彼は〕以前よりも大いなる殊勝〔の境地〕ある者となる」〔と〕。
253.
§43 そして、このように、まさしく、境界の混入と同時に、この比丘によって、そして、形相が、さらに、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕が、〔両者ともに〕得られたものと成る。また、境界の混入が為されたとき、まさしく、その形相を、習修し修め多く為している者は、まさしく、難少なくして、まさしく、地の遍満において説かれた方法によって、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得る。これだけで、この者によって、五つの支分を捨棄し、五つの支分を具備し、三種類の善きものがあり、十の特相を成就した、慈愛〔の思い〕を共具した第一の瞑想〔の境地〕(初禅・第一禅)が、到達されたものと成る。そして、その〔第一の瞑想〕が到達されたとき、まさしく、その形相を、習修し修め多く為している者は、順次に、四なる〔瞑想〕(四禅)の方法における第二と第三の瞑想〔の境地〕に、【308】かつまた、五なる〔瞑想〕(五禅)の方法における第二と第三と第四の瞑想〔の境地〕に、至り得る。
§44 まさに、彼は、第一の瞑想等々のなかのどれか一つを所以に、「慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住む。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住む」(ディーガ・ニカーヤ1p.250-1)。なぜなら、第一の瞑想等を所以に、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た心の者にだけ、この変異は成就するからである。
254.
§45 そして、ここにおいて、「慈愛〔の思い〕を共具した」とは、慈愛〔の思い〕を具備した。
「心で」とは、心によって。
「一つの方角を」とは、一つ一つの方角において最初に遍く収め取られた有情に関して、一つの方角に属している有情にたいする〔慈愛の思いの〕充満を所以に説かれた。
「充満して」とは、触れて、対象と為して。
「〔世に〕住む」とは、梵住が確立された、振る舞いの道(行住坐臥のあり方)の住を転起させる。
「そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕」とは、すなわち、東等々の方角において、それが何であれ、一つの方角を充満して〔世に〕住むように、まさしく、そのように、その直後に、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住み〕、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住み〕、さらに、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕、という義(意味)である。
§46 「かくのごとく、上に」とは、まさしく、この方法によって、上の(※)方角に、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。
「下に、横に」とは、下の方角にもまた、横の方角にもまた、まさしく、このように。そして、そこにおいて、「下に」とは、下方に。「横に」とは、〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に。このように、一切の方角にたいし、慈愛〔の思い〕を共具した心を、馬場において馬を〔行きつ戻りつさせる〕ように、行かせもまたし、戻らせもまたする。ということで、これだけで、一つ一つの方角を遍く収め取って、限界〔の観点〕から、慈愛〔の思い〕の充満が見示された。
※ テキストには parimaṃ とあるが、VRI版により uparimaṃ と読む。
§47 いっぽう、「一切所に」という〔言葉〕等は、限界なき〔の観点〕から見示することを義(目的)に説かれた。
そこにおいて、「一切所に」とは、一切所において。
「一切において自己たることから」とは、一切の下劣なる者と中等なる者と高尚なる者と朋友と敵と〔愛憎の対象ならざる〕中間の者等の細別ある者たちにおいて、自己たることから。「この者は、他者たる有情である」という区分を(※)為さずして、自己と平等なることから、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。そこで、あるいは、「一切において自己たることから」とは、一切の心の部分を、僅かでさえも外に散乱せずにいる、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。
【309】「一切すべての」とは、一切の有情たちすべての。一切の有情たちと結び付いたものを、という義(意味)である。
「世を」とは、有情の世を。
※ テキストには vibhāvaṃ とあるが、VRI版により vibhāgaṃ と読む。
§48 また、ここ(限界なき充満)において、「広大で」という、このような〔言葉〕等は、様態の見示〔の観点〕から(具体相の提示を目的として)、ふたたび、「慈愛〔の思い〕を共具した」と説かれた。あるいは、ここにおいて、すなわち、限界ある充満におけるように、あるいは、「そのように」という語が、あるいは、「かくのごとく」という語が、ふたたび説かれなかったことから、それゆえに、ふたたび、「慈愛〔の思い〕を共具した心で」と説かれた。あるいは、結び〔の言葉〕たるを所以に、この〔句〕が説かれた。そして、「広大で」とは、ここにおいて、充満を所以に、広大なることが見られるべきである。
また、この〔慈愛の形相〕は、境地を所以に、「莫大で」。さらに、熟練を所以に、かつまた、無量なる有情という対象を所以に、「無量にして」。憎悪〔の思い〕という義(利益)に反するものの捨棄によって、「怨念〔の思い〕なく」。失意の捨棄あることから、「憎悪〔の思い〕なく」。苦痛〔の思い〕なきものとなる、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。
これが、「慈愛〔の思い〕を共具した心で」という〔言葉〕等の方法によって説かれた変異の義(意味)となる。
255.
§49 さらに、すなわち、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た心の者にだけ、この変異が成就するように、そのように、すなわち、また、『パティサンビダー(無礙解道)』において、「五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱がある。七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱がある。十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱がある」(パティサンビダー・マッガ2p.130)と説かれたが、それもまた、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た心の者にだけ成就する、と知られるべきである。
§50 そして、そこにおいて、「(1)一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(2)一切の命あるものたちは……略……。(3)一切の生類たちは……略……。(4)一切の人たちは……略……。(5)一切の自己状態あるものに属する者たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け」(パティサンビダー・マッガ2p.130)という、これらの五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が知られるべきである。
§51 「(1)一切の女たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(2)一切の男たちは……略……。(3)一切の聖者たちは……略……。(4)一切の聖者ならざる者たちは……略……。(5)一切の天〔の神々〕たちは……略……。(6)一切の人間たちは……略……。(7)一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け」(パティサンビダー・マッガ2p.131)という、これらの七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が知られるべきである。
§52 「(1)東の方角にある一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(2)西の方角にある一切の有情たちは……略……。(3)北の方角にある一切の有情たちは……略……。(4)南の方角にある一切の有情たちは……略……。(5)東維にある一切の有情たちは……略……。(6)西維にある一切の有情たちは……略……。(7)北維にある一切の有情たちは……略……。【310】(8)南維にある一切の有情たちは……略……。(9)下の方角にある一切の有情たちは……略……。(10)上の方角にある一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(1)東の方角にある一切の命あるものたちは……略……生類たちは……人たちは……自己状態あるものに属する者たちは……一切の女たちは……一切の男たちは……一切の聖者たちは……一切の聖者ならざる者たちは……一切の天〔の神々〕たちは……一切の人間たちは……一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(2)西の方角にある一切の……略……。(3)北の方角にある一切の……。(4)南の方角にある一切の……。(5)東維にある一切の……。(6)西維にある一切の……。(7)北維にある一切の……。(8)南維にある一切の……。(9)下の方角にある一切の……。(10)上の方角にある一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け」(パティサンビダー・マッガ2p.131)という、これらの十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が知られるべきである。
256.
§53 そこにおいて、「一切の」とは、これは、残りなく完全に取り上げる〔言葉〕。
「有情たちは」とは、形態等々の諸々の範疇(蘊)にたいし、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕によって、執着した者(サッタ)たちであり、強く執着した者(ヴィサッタ)たちである、ということで、「有情(サッタ)たち」。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「ラーダよ、まさに、形態(色)にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、そこにあって、執着したのであり(サッタ)、そこにあって、強く執着したのです(ヴィサッタ)。それゆえに、『有情(サッタ)』と説かれます。感受〔作用〕(受)にたいし……。表象〔作用〕(想)にたいし……。諸々の形成〔作用〕(行)にたいし……。識知〔作用〕(識)にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、そこにあって、執着したのであり、そこにあって、強く執着したのです。それゆえに、『有情』と説かれます」(サンユッタ・ニカーヤ3p.190)と。いっぽう、汎用語としては、貪欲を離れた者たちについてもまた、この〔言葉〕は、語用(通称)として、まさしく、転起する(「有情」という語は執着の者に限らず離欲の者をも含意する)──竹で作られる特殊な扇についてもまた、「扇(ターラヴァンタ:ターラ樹の葉の扇)」という語用があるように。また、文典家たちは、義(意味)を想念せずして、この〔言葉〕は、名前のみのものである、と求める(主張し承認する)。すなわち、また、義(意味)を想念する、それらの者たち(サーンキヤ学派)は、純質(サットヴァ)との結合によって、有情(サッタ)となる、と求める。
§54 息をすること(パーナナ)から、「命あるもの(パーナ)たち」。出息と入息に依止した生活者たることから、という義(意味)である。
成ったこと(ブータッタ)から、「生類(ブータ)たち」。〔世に〕発生したことから、〔世に〕発現したことから、という義(意味)である。
「プン」とは、地獄と説かれる。その〔地獄〕に落ちる(ガラティ)、ということで、「人(プッガラ)たち」。赴く、という義(意味)である。
自己状態(個我的あり方)は、肉体と説かれる。あるいは、まさしく、〔心身を構成する〕範疇の五なるもの(五蘊)である──それに執取して〔存続し〕、通称(施設:概念)のみによる発生あることから(※)。その自己状態に属している、ということで、「自己状態あるものに属する者たち」。
「属している者たち」とは、限定されたもの。内含されているもの、という義(意味)である。
※ テキストには paññattimattasambhāvato とあるが、VRI版により paññattimattasambhavato と読む。
§55 さらに、すなわち、「有情たち」という言葉のように、このように、残り〔の「命あるものたち」「生類たち」という言葉等々〕もまた、汎用を所以に用いて、これらの全てが、「一切の有情たち」の同義語である、と知られるべきである。さらに、もちろん、【311】諸他にもまた、「一切の人(ジャントゥ)たち」「一切の生ある者(ジーヴァ)たち」という〔言葉〕等々、「一切の有情たち」の同義語が存在するが、いっぽう、明白なるものを所以に、これらの五つ〔の言葉〕だけを収め取って、「五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱がある」と説かれた。
§56 また、すなわち、「有情たち」「命あるものたち」という〔言葉〕等々に、単に、言葉のみ〔の観点〕からだけではなく、そこで、まさに、義(意味)〔の観点〕からもまた、まさしく、種々なる〔差異〕を求めるとして、彼らのばあい、限界なき充満〔という言葉〕が矛盾することになる。それゆえに、そのように義(意味)を収め取らずして、これらの五つの行相のうち、どれか一つを所以に、限界なく、慈愛〔の心〕が充満されるべきである。
257.
そして、ここにおいて、「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ」と〔慈愛の心を充満するなら〕、これは〔これで〕、一つの〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕となる。「憎悪〔の思い〕なき者たちとして有れ」と〔慈愛の心を充満するなら〕、これは〔これで〕、一つの〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕となる。「憎悪〔の思い〕なき者たちとして」とは、憎悪〔の思い〕が絶無なる者たちとして。「煩悶〔の思い〕なき者たちとして有れ」と〔慈愛の心を充満するなら〕、これは〔これで〕、一つの〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕となる。「煩悶〔の思い〕なき者たちとして」とは、苦痛〔の思い〕なき者たちとして。「安楽なる者たちとして、自己を守り抜け」と〔慈愛の心を充満するなら〕、これは〔これで〕、一つの〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕となる。それゆえに、また、これらの句のうち、その〔句〕その〔句〕が明白なるものと成るなら、その〔句〕その〔句〕を所以に、慈愛〔の心〕が充満されるべきである。ということで、五つの行相において、四つの〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕を所以に、限界なき充満においては、二十の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が有る。
§57 また、限界ある充満においては、七つの行相において、四つ〔の瞑想の境地に専注する禅定〕を所以に、二十八〔の瞑想の境地に専注する禅定〕が〔有る〕。
そして、ここにおいて、「女たち」「男たち」とは、〔性差の〕徴表を所以に説かれた。「聖者たち」「聖者ならざる者たち」とは、聖者と凡夫を所以に〔説かれた〕。「天〔の神々〕たち」「人間たち」「堕所にある者たち」とは、再生を所以に〔説かれた〕。
§58 また、〔十の〕方角の充満においては、「東の方角にある一切の有情たちは」という〔言葉〕等の方法によって、一つ一つの方角において、二十ずつ〔の瞑想の境地に専注する禅定〕を為して、二百〔の瞑想の境地に専注する禅定〕が〔有る〕。「東の方角にある一切の女たちは」という〔言葉〕等の方法によって、一つ一つの方角において、二十八ずつ〔の瞑想の境地に専注する禅定〕を為して、二百八十〔の瞑想の境地に専注する禅定〕が〔有る〕。ということで、そして、四百八十の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が〔有る〕。ということで、『パティサンビダー(無礙解道)』において、全てもろともに、〔二十と二十八と四百八十とで〕五百二十八〔の瞑想の境地に専注する禅定〕が説かれた、と〔知られるべきである〕。
§59 かくのごとく、これらの〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕のうち、それが何であれ、〔どれか一つを〕所以に、慈愛という〔止寂の〕心による解脱を修めて、この〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、「安楽のうちに眠ります」(§37)という〔言葉〕等の方法によって説かれた、十一の福利を獲得する。
258.
§60 (1)そこにおいて、「安楽のうちに眠ります」とは、すなわち、残りの人たちが、〔身体を〕ごろごろさせながら、いびきをしつつ、苦痛のうちに眠るように、このように寝ずして、安楽のうちに眠る。たとえ、眠りに入ったとして、入定〔の境地〕に入定したかのように、〔彼は〕有る。
§61 (2)「安楽のうちに目覚めます」とは、すなわち、他者たちが、うめきながら、あくびをしつつ、〔身体を〕ごろごろさせながら、苦痛のうちに目覚めるように、このように目覚めずして、拡張しつつある蓮華(開花する蓮華)のように、安楽に、変異なく目覚める。
§62 【312】(3)「悪夢を見ません」とは、たとえ、夢を見ているとして、善夢だけを見る。塔廟を敬拝しているかのように、供養を為しているかのように、さらに、法(教え)を聞いているかのように、〔彼は〕有る。また、すなわち、他者たちが、自己を、盗賊たちに取り囲まれたかのように、猛獣たちに襲われたかのように、さらに、深淵に落ちつつあるかのように、〔夢の中で〕見るように、このように、悪夢を見ることがない。
§63 (4)「人間たちにとって愛しき者と成ります」とは、胸に付けた真珠の首飾のように、さらに、頭にある花飾のように、人間たちにとって愛しき者と成り、意に適う者と〔成る〕。
§64 (5)「人間ならざるもの(精霊・悪霊)たちにとって愛しき者と成ります」とは、まさしく、すなわち、人間たちにとってのように、このように、人間ならざるものたちにとってもまた、愛しき者と成る。ヴィサーカ長老のように。
伝えるところでは、彼は、パータリプッタ(地名)の富豪として有った。彼は、まさしく、そこにおいて住しつつ、〔このように〕聞いた。「伝えるところでは、タンバパンニ・ディーパ(スリランカ島)は、塔廟が花飾で美しく作り為され、袈裟の灯火があり(※)、まさしく、求める〔場〕、求める場において、ここにおいて、あるいは、坐ることができ、あるいは、横になることが〔できる〕。季節の正当なること、臥坐所の正当なること、人の正当なること、法(教え)の聴聞の正当なること、という、〔これらの〕全てが、ここにおいて得易きものとしてある」と。
※ テキストには cetiyamālālaṅkatokāsā va pajjoto とあるが、VRI版により cetiyamālālaṅkato kāsāvapajjoto と読む。
§65 彼は、自己の財物の範疇を子と妻に引き渡して、布地の端に貨幣一つだけを結び付け、家から出て、海岸で舟を待ちつつ、一月のあいだ住した(そこに滞在した)。彼は、売り買いに巧みな智あることから、この場にて物品を買って、何某において売りながら、法(正義)にかなう商売で、まさしく、その月の間に、千〔金〕を集めた。
§66 順次に〔海を超え〕、マハー・ヴィハーラ(大寺:寺名)にやってきて、出家を乞うた。彼は、出家を義(目的)として、〔聖なる〕境界(結界・戒壇)に導かれたが、その千〔金〕の袋を、帯の間から、地に落としてしまった。そして、「これは何ですか」と説かれたとき、「尊き方よ、千〔金〕の貨幣です」と説いて、「在俗信者(優婆塞)よ、出家した時から以降は、分配することができなくなります。まさしく、今、この〔千金〕を分配しなさい」と説かれたとき、「ヴィサーカの出家の場にやってきた者たちが、空手で帰ることがあってはならない」と、〔袋の紐を〕解き放って、〔聖なる〕境界の庭に〔千金を〕散布して〔そののち〕、出家して〔戒を〕成就したのだった。
§67 彼は、〔出家してのち〕五年の者と成って、二つの要綱(論母:法と律の要目)を熟練するところと為して、〔雨期の滞在を〕充足して、自己に正当な〔心を定める〕行為の拠点を収め取って、一つ一つの精舎において、四月を〔限りと〕為して、平等転起の住(来客者としての待遇を拒み精舎の行持を平等に為す住)に住しながら〔各地を〕歩んだ。このように歩みながら──
〔そこで、詩偈に言う〕「林間における止住者、ヴィサーカ長老は、鳴り響く者。自己の徳を探求しつつ、この義(意味)を語った。
『すなわち、〔戒を〕成就したからには、すなわち、ここにやってきたからには、ここにおいて、〔その〕間に、躓きは存在しない。ああ、敬愛なる者よ、おまえには、諸々の利得がある』」と。
§68 【313】彼は、チッタラ山精舎に赴きつつ、二種の道に至り得て、「いったい、まさに、この道なのか、それとも、この〔道〕なのか」と思い考えながら、立った。そこで、彼に、山に住している天神が手を伸ばして、「この道です」と説いて、〔赴くべき道を〕見示した。
§69 彼は、チッタラ山精舎に赴いて、そこにおいて、四月を住して、「早朝に去り行くのだ」と思い考えて、横になった。歩行場の上方にあるマニラ樹に住している天神が、梯子の延べ板に坐って、泣き悲しんだ。長老は、「誰なのですか、この者は」と言った。「尊き方よ、わたしは、マニラ〔樹の天神〕です」と。「何を泣き悲しむのですか」と。「あなたさまが去り行くことを縁として」と。「わたしがここに住しているとき、あなたたちに、どのような徳(善事)があるのですか」と。「尊き方よ、あなたさまがここに住しているとき、人間ならざるものたちは、互いに他と、慈愛〔の思い〕を得ます。彼らは、今や、あなたさまが去り行ったなら、紛争を為すでしょうし、邪悪なこともまた話し出すでしょう」と。長老は、「それで、もし、わたしがここに住しているとき、あなたたちに、平穏の住が有るなら、すばらしいことです」と説いて、他にもまた四月を、まさしく、そこにおいて住して、ふたたび、まさしく、そのように、去り行く心を生起させた。天神もまた、ふたたび、まさしく、そのように、泣き叫んだ。まさしく、この手段によって、長老は、まさしく、そのように住して、まさしく、そこにおいて、完全なる涅槃に到達した。ということで、このように、慈愛の住者たる比丘は、人間ならざるものたちにとって愛しき者と成る。
§70 (6)「天神たちが〔彼を〕守ります」とは、母と父が子を〔守る〕ように、天神たちが〔彼を〕守る。
§71 (7)「彼に、あるいは、火が、あるいは、毒が、あるいは、刃が、至り行くことはありません」とは、慈愛の住者の身体においては、あるいは、ウッタラー女性在俗信者のように(Ch.12§34)、火が、あるいは、『サンユッタ〔ニカーヤ〕(相応部経典)』の朗読者チューラ・シヴァ長老のように、毒が、あるいは、サンキッチャ沙弥のように(Ch.12§28)、刃が、至り行くことはなく、入り行くこともない。彼の身体を動乱させることがない、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。
§72 そして、ここにおいて、乳牛の事例をもまた、〔人々は〕言説する。伝えるところでは、或る乳牛が、たまっている乳を子牛にやりながら立っていたところ、或る猟師が、「その〔乳牛〕を貫いてやる」と、手で遍く転起させて、長棒(柄)の刃を放った。その〔刃〕は、その〔乳牛〕の肉体に触れて〔そののち〕、ターラ〔樹〕の葉のように転起しながら〔地に〕落ちたのだった。まさしく、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の力にあらず、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の力にあらず、単に、子牛にたいする愛しき心の力によってのこと。このように、大いなる威力あるのが、慈愛〔の思い〕である、と〔知られるべきである〕。
§73 (8)「すみやかに心が定められます」とは、慈愛の住者には、まさしく、すみやかに、心が定められ、その〔心〕には、遅滞が存在しない。
§74 【314】(9)「顔色が澄浄になります」とは、そして、〔枝の〕結節(成り口)から解き放たれた〔ばかり〕の熟したターラ〔樹の果〕のように、彼の顔は、澄浄なる色艶と成る。
§75 (10)「迷乱なき者として命を終えます」とは、慈愛の住者には、迷妄の死が、まさに、存在せず、まさしく、迷乱なき者として、眠りに入りつつあるかのように、命を終える。
§76 (11)「より上なるものに理解なくありつつも」とは、慈愛の入定よりもより上なる阿羅漢の資質に到達することができずにいるとして、ここ(現世)から死滅して〔そののち〕、眠りから目覚めたかのように、梵の世に再生する。ということで──
これが、慈愛の修行の詳細の言説となる。
259.
2 慈悲の修行(32)
§77 また、慈悲〔の思い〕(悲)を修めることを欲する者によって、慈悲なきことにおける危険を〔綿密に注視し〕、さらに、慈悲における福利を綿密に注視して、慈悲の修行が勉励されるべきである。また、そして、その〔慈悲の修行〕を勉励している者によって、最初に、愛しき人たちにたいし、〔慈悲の修行が〕勉励されるべきではない。なぜなら、〔初学の者にとって〕愛しき者は、まさしく、愛しき者の境位において止住し、極めて愛しき道友は、まさしく、極めて愛しき道友の境位において〔止住し〕、〔愛憎の対象ならざる〕中間の者は、まさしく、〔愛憎の対象ならざる〕中間の境位において〔止住し〕、愛しからざる者は、まさしく、愛しからざる者の境位において〔止住し〕、怨みある者は、まさしく、怨みある者の境位において止住するからである。徴表を相違する者(異性)と命を終えた者たちは、まさしく、田畑(瞑想対象)ならざるものとなる。
§78 また、「では、どのように、比丘は、慈悲〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住むのか。それは、たとえば、また、まさに、悪しき境遇となり悪しき〔身体〕を具した一者の人を見て、慈悲するように、まさしく、このように、一切の有情たちを、慈悲〔の思い〕で充満する」(ヴィバンガp.273)と、『ヴィバンガ(分別論)』において説かれたことから、まずは、全ての最初に、まさしく、何であれ、慈悲されるべき(同情されるべき)醜い形態の者にして、最高の苦難に至り得た者である、悪しき境遇となり悪しき〔身体〕を具した哀れな人が、食を断たれ、鉢を前に据え置いて、貧窮堂に坐り、〔両の〕手と足から蛆虫の群れが流れ出て、苦悩の声を為しているのを見て、「まさに、この有情は、苦難を惹起している。まさしく、また、まさに、この苦痛から、〔彼が〕解き放たれるように」と、慈悲〔の思い〕が転起させられるべきである。
彼(苦難の者)を得ずにいるとして、たとえ、安楽の者でも、悪を為す人であるなら、屠殺されるべき者に喩えて(彼を死刑囚に見立てて)、慈悲されるべきである。どのようにか。
§79 それは、たとえば、また、〔盗んだ〕物品と共に捕捉された盗賊を、「彼を打ち殺せ」と、王の命令で、王の家来たちが結縛して、四つ角、四つ角にて、百打を与えつつ、刑場に連行すると、彼のために、人間たちは、固形の食料をもまた〔与え〕、軟らかい食料をもまた〔与え〕、花飾や香料や塗料やタンブーラ〔樹の葉〕(噛んで味わう葉)をもまた与え、たとえ、何であれ、【315】彼が、それら〔の施し物〕を、まさしく、そして、咀嚼しながら、かつまた、遍く受益しながら、財物を授与された安楽の者であるかのように赴くとして、そこで、まさに、彼のことを、誰であれ、「まさに、この者は、安楽の者である、大いなる受益者である」と、まさしく、思わず、「何はともあれ、この者は、惨めな者であり、今や、死ぬであろう。まさしく、その〔足〕、その足を、まさに、この者が〔地に〕置くなら、その〔足〕、その〔足〕によって、〔この者は〕死の現前に有る」と、彼のことを、人は慈悲するように、まさしく、このように、慈悲〔の修行〕という〔心を定める〕行為の拠点ある比丘によって、たとえ、安楽の人でも、このように、慈悲されるべきである。「この者は、惨めな者であり、たとえ、何であれ、今は、安楽の者として善く供応され、諸々の財物を遍く受益するが、そこで、まさに、〔身体と言葉と意の〕三つの門のうちの一つでさえも、善き行為(善業)が作り為された状態なきことから、今や、諸々の悪所において、少なからざる苦痛と失意〔の思い〕を得知するであろう」と。
§80 このように、その人を慈悲して、それより後は、まさしく、この手段(方便)によって、愛しき人にたいし、そののち、〔愛憎の対象ならざる〕中間の者にたいし、そののち、怨みある者にたいし、ということで、順次に、慈悲〔の思い〕が転起させられるべきである。
§81 また、それで、もし、彼(瞑想修行者)に、まさしく、前に説かれた方法によって、怨みある者にたいし、敵対〔の思い〕が生起するなら、その〔敵対の思い〕は、まさしく、慈愛〔の修行〕において説かれた方法によって(§14-39)、寂止されるべきである。そして、たとえ、その〔慈悲されるべき人〕が、ここにおいて、善なる〔行為〕を為した者として有るも、彼をもまた、親族の病や財物の損傷等々のなかのどれか一つの災厄を具備した者と、あるいは、見て、あるいは、聞いて、たとえ、それらの状態がないときも、〔輪廻の〕転起の苦しみの超越なきことから、「この者は、まさしく、苦痛の者である」と、このように、一切点においてもまた慈悲して、まさしく、〔慈愛の修行において〕説かれた方法によって、自己、愛しき人、〔愛憎の対象ならざる〕中間の者、怨みある者、という、四者の人にたいし、境界の混入(対象の拡大)を為して、その形相を習修し修め多く為している者によって、まさしく、慈愛〔の修行〕において説かれた方法によって、三なる〔瞑想〕(四禅における最初の三つの瞑想)か四なる瞑想(五禅における最初の四つの瞑想)を所以に、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が増大させられるべきである。
§82 いっぽう、『アングッタラ〔ニカーヤ〕(増支部経典)』のアッタカター(注釈書)においては、最初に、怨みある人が慈悲されるべきであり、彼にたいし、心を柔和と為して、悪しき境遇の者が、そののち、愛しき人が、そののち、自己が〔慈悲されるべきである〕、という、この順が説かれた。それは、「悪しき境遇となり悪しき〔身体〕を具した」(ヴィバンガp.273:§78)という聖典と合致せず、それゆえに、まさしく、〔慈愛の修行において〕説かれた方法によって、ここにおいて、修行に勉励して、境界の混入を為して、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が増大させられるべきである。
§83 それより他に、五つの行相による限界なき充満、七つの行相による限界ある充満、十の行相による方角の充満、という、この変異は、さらに、「安楽のうちに眠ります」という〔言葉〕等々の福利は、まさしく、慈愛〔の修行〕において説かれた方法によって、知られるべきである。ということで──
これが、慈悲の修行の詳細の言説となる。
260.
3 歓喜の修行(33)
§84 【316】歓喜(喜)の修行を勉励している者によってもまた、最初に、愛しき人等々にたいし、〔歓喜の修行が〕勉励されるべきではない。なぜなら、〔初学の者にとって〕愛しき者は、まさしく、愛しき状態のみでは、歓喜〔の思い〕のための境処の拠点(直接原因)と成らないからである。ましてや、〔愛憎の対象ならざる〕中間の者と怨みある者は〔言うまでもない〕。徴表を相違する者(異性)と命を終えた者は、まさしく、田畑(瞑想対象)ならざるものとなる。
§85 いっぽう、極めて愛しき道友は、境処の拠点(直接原因)として存することになる。すなわち、アッタカター(注釈書)において、「飲み仲間」と説かれた者であるが、なぜなら、彼は、まさしく、歓喜のうえにも歓喜の者として有り、〔顔を見ると〕最初に笑って、そのあとに話し出すからである。それゆえに、あるいは、彼が、最初に歓喜〔の思い〕で充満されるべきであり、あるいは、愛しき人が、安楽の者として供応され歓喜しているのを、あるいは、見て、あるいは、聞いて、「まさに、この有情は歓喜する。ああ、善きかな、ああ、巧妙なるかな」と、歓喜〔の思い〕が生起させられるべきである。まさに、まさしく、このことが、義(利益)たる所以を縁として、『ヴィバンガ(分別論)』において説かれた。「では、どのように、比丘は、歓喜〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住むのか。それは、たとえば、また、まさに、意に適う愛しき一者の人を見て、歓喜の者として存するように、まさしく、このように、一切の有情たちを、歓喜〔の思い〕で充満する」(ヴィバンガp.274)と。
§86 たとえ、それで、もし、彼(瞑想修行者)の、あるいは、その飲み仲間(極めて愛しき者)が、あるいは、愛しき人が、過去において安楽の者として有ったとして、いっぽう、現在は悪しき境遇となり悪しき〔身体〕を具した者であるなら、そして、彼の、まさしく、過去の安楽の状態を随念して、「彼は、過去において、このように、大いなる財物ある者として〔有り〕、大いなる取り巻きある者として〔有り〕、常に歓喜の者として有った」と、彼の、まさしく、その歓喜の行相を収め取って、歓喜〔の思い〕が生起させられるべきである。また、あるいは、「未来において、ふたたび、その得達を得て、象の肩や馬の背や黄金の駕篭等々で渡り歩くであろう」と、彼の、未来の歓喜の行相をもまた収め取って、歓喜〔の思い〕が生起させられるべきである。このように、愛しき人にたいし、歓喜〔の思い〕を生起させて、そこで、〔愛憎の対象ならざる〕中間の者にたいし、そののち、怨みある者にたいし、ということで、順次に、歓喜〔の思い〕が転起させられるべきである。
§87 また、それで、もし、彼(瞑想修行者)に、まさしく、前に説かれた方法によって、怨みある者にたいし、敵対〔の思い〕が生起するなら、その〔敵対の思い〕を、まさしく、慈愛〔の修行〕において説かれた方法によって(§14-39)、寂止させて、そして、これらの三者(愛しき人と中間の者と怨みある者)にたいし、さらに、自己にたいし、かくのごとく、四者の人にたいし、平等の心たることによって、境界の混入(対象の拡大)を為して、その形相を習修し修め多く為している者によって、まさしく、慈愛〔の修行〕において説かれた方法によって、まさしく、三なる〔瞑想〕(四禅における最初の三つの瞑想)か四なる瞑想(五禅における最初の四つの瞑想)を所以に、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が増大させられるべきである。
それより他に、五つの行相による限界なき充満、七つの行相による限界ある充満、十の行相による方角の充満、という、この変異は、さらに、「安楽のうちに眠ります」という〔言葉〕等々の福利は、まさしく、慈愛〔の修行〕において説かれた方法によって、知られるべきである。ということで──
これが、歓喜の修行の詳細の言説となる。
261.
4 放捨の修行(34)
§88 【317】また、放捨(捨)の修行を勉励している者によって、慈愛〔の修行〕等々において、三なる〔瞑想〕(四禅における最初の三つの瞑想)か四なる瞑想(五禅における最初の四つの瞑想)が獲得されたなら、熟練するところの第三の瞑想〔もしくは第四の瞑想〕から出起して、「安楽の者たちと成れ」という〔言葉〕等を所以に有情を愛玩し意を為すことと結び付くことから、敵対〔の思い〕と随貪〔の思い〕の近くで行なうことから、かつまた、悦意〔の思い〕との結合によって粗雑なることから、前〔の三つの修行〕における危険を〔見て〕、さらに、〔放捨の思いが〕寂静を自ずからの状態(自性)とすることから、放捨(選択せず差別なき心)における福利を見て、すなわち、この者が、人として、元来において〔愛憎の対象ならざる〕中間の者であるなら、彼を〔最初に〕放捨して、放捨〔の思い〕が生起させられるべきである。そののち、愛しき人等々にたいし、〔放捨の思いが転起させられるべきである〕。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。「では、どのように、比丘は、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住むのか。それは、たとえば、また、まさに、まさしく、意に適う者でもなく、意に適わない者でもない、一者の人を見て、放捨の者として存するように、まさしく、このように、一切の有情たちを、放捨〔の思い〕で充満する」(ヴィバンガp.275)と。
§89 それゆえに、〔前に〕説かれた方法によって、〔愛憎の対象ならざる〕中間の者である人にたいし、放捨〔の思い〕を生起させて、そして、愛しき人にたいし、そののち、飲み仲間(極めて愛しき者)にたいし、そののち、怨みある者にたいし、ということで、〔順次に、放捨の思いが転起させられるべきである〕。このように、そして、これらの三者(愛しき人と飲み仲間と怨みある者)の人にたいし、さらに、自己にたいし、かくのごとく、一切所において中なることを所以に、境界の混入(対象の拡大)を為して、その形相が、習修され修められ多く為されるべきである。
§90 彼が、このように為していると、まさしく、地の遍満において説かれた方法によって、第四の瞑想〔もしくは第五の瞑想〕が生起する(四禅における第四の瞑想の境地に、もしくは、五禅における第五の瞑想の境地に至り得る)。「また、どうであろう、この、地の遍満等々において生起した第三の瞑想は、彼にもまた、生起するのか、生起しないのか」〔と問うなら〕、「生起しない」〔と答える〕。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「対象が部分を共にしないことから(相違することから)」〔と答える〕。いっぽう、慈愛〔の修行〕等々において生起した第三の瞑想が、まさしく、彼に、生起する──対象が部分を共にすることから(共通することから)、と〔知られるべきである〕。
また、それより他に、そして、変異は、さらに、福利の獲得も、まさしく、慈愛〔の修行〕において説かれた方法によって、知られるべきである。ということで──
これが、放捨の修行の詳細の言説となる。
262.
5 〔四つの梵住についての〕雑駁なる言説
§91 〔そこで、詩偈に言う〕「最上の梵〔天〕(ブッダ)によって言説された、これらの〔四つの〕梵住を、かくのごとく知って〔そののち〕、これら〔の四つの梵住〕について、この雑駁なる言説もまた、より一層、識知されるべきである」〔と〕。
§92 まさに、これらの慈愛と慈悲と歓喜と放捨〔の心〕について、まずは、義(意味)〔の観点〕から、太らせる(メッジャティ:可愛がる)、ということで、「慈愛(メッター)」。愛し慈しむ、という義(意味)である。あるいは、朋友(ミッタ)にたいする敬愛、あるいは、朋友への【318】この転起(行動)、ということでもまた、「慈愛(メッター)」。他者の苦痛が存しているとき、善き者たちが心臓(心)を動かすこと(カンパナ)を為す(カローティ)、ということで、「慈悲(カルナー)」。あるいは、他者の苦痛を、買う(キナーティ)、害する、消失させる、ということで、「慈悲(カルナー)」。あるいは、苦しんでいる者たちにおいて散布され(キリヤティ)、充満を所以に拡散される、ということで、「慈悲(カルナー)」。それを保有する者たちが、それによって歓喜する(モーダンティ)、あるいは、自ら、歓喜する(モーダティ)、あるいは、まさしく、それを歓喜すること(モーダナ)のみある、ということで、「歓喜(ムディター)」。「怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ」という〔言葉〕等の労苦(作為)を捨棄することで、さらに、中なる状態に近しく赴くことで、放捨する(ウペッカティ)、ということで、「放捨(ウペッカー)」。
263.
§93 また、特相等〔の観点〕から、ここにおいて、慈愛〔の修行〕は、〔有情たちの〕利益となる行相の転起が特相であり(※)、〔有情たちの〕利益に〔心を〕近しく集中することが効用(機能・性行)であり、憤懣〔の思い〕の調伏(取り除き)が現起(現状)であり、有情たちの意に適う状態を見ることが境処の拠点(直接原因)である。憎悪〔の思い〕の寂止が、この〔慈愛の修行〕の得達となり、愛執〔の思い〕の発生が、衰滅となる。
※ テキストには hitākārappavatti-lakkhaṇamettā とあるが、VRI版により hitākārappavattilakkhaṇā mettā と読む。
§94 慈悲〔の修行〕は、苦痛を取り去る行相の転起が特相であり、他者の苦痛を耐えられないことが効用(機能・性行)であり、〔他者を〕害さないことが現起(現状)であり、苦痛に征服された者たちの貧窮の状態を見ることが境処の拠点(直接原因)である。悩害〔の思い〕の寂止が、その〔慈悲の修行〕の得達となり、憂いの発生が、衰滅となる。
§95 歓喜〔の修行〕は、歓喜することが特相であり、嫉妬しないことが効用(機能・性行)であり、不満〔の思い〕の打破が現起(現状)であり、有情たちの得達を見ることが境処の拠点(直接原因)である。不満〔の思い〕の寂止が、その〔歓喜の修行〕の得達となり、〔低俗な〕笑いの発生が、衰滅となる。
§96 放捨〔の修行〕は、有情たちにたいし中なる行相の転起が特相であり、有情たちにたいし平等の状態を見ることが効用(機能・性行)であり、敵対〔の思い〕と随貪〔の思い〕の寂止が現起(現状)であり、「行為(業)を自らのものとするのが、有情たちである。〔他の〕誰の嗜好によって、彼らが、あるいは、安楽の者たちと成るというのだろう、あるいは、苦痛から解き放たれるというのだろう、あるいは、至り得た得達から遍く衰退しないというのだろう」と、このように転起された行為の帰属性(行為を自らのものとすること)を見ることが境処の拠点(直接原因)である。敵対〔の思い〕と随貪〔の思い〕の寂止が、その〔放捨の修行〕の得達となり、家〔の生活〕に依拠した無知なる放捨の発生が、衰滅となる。
264.
§97 また、これらの四つの梵住もろともにとって、まさしく、そして、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の安楽が、さらに、〔善き〕生存の得達が、共通の目的となり、憎悪〔の思い〕等の防御が、〔四つそれぞれの〕独特〔の目的〕となる。なぜなら、ここにおいて、憎悪〔の思い〕の防御を目的とするのが、慈愛〔の修行〕であり、悩害〔の思い〕と不満〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の防御を目的とするのが、他〔の三つの修行〕であるからである。そして、このこともまた、〔聖典において〕説かれた。「[友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。]友よ、なぜなら、これは、憎悪〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈愛という〔止寂の〕心による解脱です。……。友よ、なぜなら、これは、悩害〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈悲という〔止寂の〕心による解脱です。……。友よ、なぜなら、これは、不満〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、歓喜という〔止寂の〕心による解脱です。……。[友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、放捨という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、貪欲〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。]友よ、なぜなら、これは、貪欲〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、放捨という〔止寂の〕心による解脱です」(ディーガ・ニカーヤ3p.248-9)と。
265.
§98 そして、ここにおいて、〔四つの梵住の〕一つ一つには、近きと遠きを所以に、二つずつの義(利益)に反するものがある(四つの梵住のそれぞれに、近くにある義に反するものと遠くにある義に反するものがある)。まさに、慈愛の梵住にとっては、近くを歩む、人の敵(犯罪者)のように、【319】〔対象者の〕徳を見ることについて部分を共にすることから、貪欲〔の思い〕が、近くにある義(利益)に反するものとなる。それ(貪欲の思い)は、軽々と浸入〔の機会〕を得る。それゆえに、それ(貪欲の思い)から、巧妙に、慈愛〔の心〕が守られるべきである。山等の茂みに依拠している、人の敵のように、部分を共にすることについて部分を共にしないことから(性質が異なり完全に相違することから)、憎悪〔の思い〕が、遠くにある義(利益)に反するものとなる。それゆえに、それ(憎悪の思い)からの恐怖なく、〔心を〕慈愛させるべきである(憎悪の思いの生起を心配せずに修行できる)。かつまた、まさに、〔心を〕慈愛させることになり、かつまた、怒りを為すことになる、という、このことは、状況なきことである(ありえない)。
§99 慈悲の梵住にとっては、「眼によって識知されるべき諸々の形態で[……略……。耳によって識知されるべき諸々の音声で……。鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……。舌によって識知されるべき諸々の味感で……。身によって識知されるべき諸々の感触で……。意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で]、好ましく愛らしく意に適い、意が喜びとする世の財貨に関係したものの──あるいは、獲得なくあるのを、獲得なくあるものと等しく随観していると──あるいは、獲得された過去なきもので、過去において、過ぎ去り、止滅し、変化したものを等しく随念していると──失意〔の思い〕が生起します(回想して悲しむ)。すなわち、このような形態の失意〔の思い〕は、これは、家〔の生活〕に依拠した失意と説かれます」(マッジマ・ニカーヤ3p.218)という〔言葉〕等の方法によって言及された、家〔の生活〕に依拠した失意〔の思い〕が、衰滅を見ることについて部分を共にすることから、近くにある義(利益)に反するものとなる。部分を共にすることについて部分を共にしないことから、悩害〔の思い〕が、遠くにある義(利益)に反するものとなる。それゆえに、それ(悩害の思い)からの恐怖なく、〔心を〕慈悲させるべきである。かつまた、まさに、慈悲を為すことになり、かつまた、手等々によって〔他者を〕悩ますことになる、という、このことは、状況なきことである。
§100 歓喜の梵住にとっては、「眼によって識知されるべき諸々の形態で[……略……。耳によって識知されるべき諸々の音声で……。鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……。舌によって識知されるべき諸々の味感で……。身によって識知されるべき諸々の感触で……。意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で]、好ましく愛らしく意に適い、意が喜びとする世の財貨に関係したものの──あるいは、獲得あるのを、獲得あるものと等しく随観していると──あるいは、獲得された過去あるもので、過去において、過ぎ去り、止滅し、変化したものを等しく随念していると──悦意〔の思い〕が生起します(回想して喜ぶ)。すなわち、このような形態の悦意〔の思い〕は、これは、家〔の生活〕に依拠した悦意と説かれます」(マッジマ・ニカーヤ3p.217)という〔言葉〕等の方法によって言及された、家〔の生活〕に依拠した悦意〔の思い〕が、得達を見ることについて部分を共にすることから、近くにある義(利益)に反するものとなる。部分を共にすることについて部分を共にしないことから、不満〔の思い〕が、遠くにある義(利益)に反するものとなる。それゆえに、それ(不満の思い)からの恐怖なく、歓喜〔の思い〕が修められるべきである。かつまた、まさに、歓喜の者と成ることになり、かつまた、諸々の辺地の臥坐所や諸々の上善の法(性質)について嫌悪することになる、という、このことは、状況なきことである。
§101 また、放捨の梵住にとっては、「眼によって、形態を見て、迷乱した愚者たる凡夫に、〔自身の〕限界に勝利なく〔行為の〕報いに勝利なく〔生存の〕危険を見ない無聞の凡夫に、放捨〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の放捨〔の思い〕は、それは、形態を超克しません。それゆえに、それは、家〔の生活〕に依拠した放捨と説かれます。[耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、迷乱した愚者たる凡夫に、〔自身の〕限界に勝利なく〔行為の〕報いに勝利なく〔生存の〕危険を見ない無聞の凡夫に、放捨〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の放捨〔の思い〕は、それは、法(意の対象)を超克しません。それゆえに、それは、家〔の生活〕に依拠した放捨と説かれます]」(マッジマ・ニカーヤ3p.219)という〔言葉〕等の方法によって言及された、家〔の生活〕に依拠した無知なる放捨〔の思い〕が、〔心の〕汚点と徳を想念しないことを所以に部分を共にすることから、近くにある義(利益)に反するものとなる。部分を共にすることについて部分を共にしないことから、貪欲〔の思い〕と敵対〔の思い〕が、遠くにある義(利益)に反するものとなる。それゆえに、それ(貪欲の思いと敵対の思い)からの恐怖なく、〔心を〕放捨させるべきである。【320】かつまた、まさに、放捨することになり、かつまた、貪欲することになり、かつまた、立腹することになる、という、このことは、状況なきことである。
266.
§102 そして、これら〔の四つの梵住〕にとっては、全てもろともに、為すことを欲する欲〔の思い〕(意欲)が最初となり、〔五つの修行の〕妨害等の鎮静が中間となり、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が結末となる。
通称(施設:概念)としての法(性質)を所以に、あるいは、一者の有情が、あるいは、無数の有情たちが、〔瞑想の〕対象となる。
§103 あるいは、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に〔至り得たとき〕、あるいは、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得たとき、対象の増大がある。そこで、これが、増大の順となる。まさに、すなわち、巧みな智ある耕作者が耕作するべき場を限定して耕作するように、このように、まさしく、最初に、一つの居住所を限定して、そこにおいて、有情たちにたいし、「この居住所における有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ」という〔言葉〕等の方法によって、慈愛〔の思いが〕修められるべきである。そこにおいて、心を柔和で行為に適するものと為して、二つの居住所が限定されるべきである。そののち、順に、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十、一つの路地、半分の村、村、地方、国、一つの方角、ということで、このように、すなわち、一つのチャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)までが〔限定されるべきであり〕、また、あるいは、それよりもより一層に〔増大して〕、その場その場において、有情たちにたいし、慈愛〔の思い〕が修められるべきである。そのように、慈悲〔の思い〕等々がある(同様である)。ということで、ここにおいて、これが、対象の増大の順となる。
267.
§104 また、すなわち、〔十の〕遍満〔の入定〕の成果が、形態なき〔生存の入定〕(無色界禅定)であり、禅定の成果(色界禅定と下の三つの無色界禅定の成果)が、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)であり、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の成果が、〔聖者の〕果の入定であり、〔心の〕止寂(奢摩他・止)の成果が、止滅の入定(滅尽定)であるように、ここにおいて、このように、前の三つの梵住の成果は、放捨の梵住となる。まさに、すなわち、諸々の柱を造作せずして、梁を(※)揚げずして、虚空に屋頂の垂木を据え置くことができないように、このように、前〔の三つの梵住〕における第三の瞑想なくして、〔放捨の梵住における〕第四〔の瞑想〕を修めることはできない、と〔知られるべきである〕。
※ テキストには talāsaṅghāṭaṃ とあるが、VRI版により tulāsaṅghāṭaṃ と読む。
268.
§105 ここにおいて、〔或る者が〕存するとして、「(1)また、何ゆえに、これらの慈愛と慈悲と歓喜と放捨〔の心〕は、『〔四つの〕梵住』と説かれるのか。(2)そして、何ゆえに、まさしく、四つとなるのか。(3)かつまた、何が、これらの順となるのか。(4)さらに、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、何ゆえに、『〔四つの〕無量』と説かれたのか」と〔問うなら〕、〔そこで、このことが〕説かれる。
§106 (1)まずは、ここにおいて、最勝の義(道理)によって、さらに、〔心の〕汚点なき状態によって、梵住たることが知られるべきである。まさに、有情たちにたいする正しい実践たる状態によって最勝であるのが、これらの〔四つの〕住である。さらに、すなわち、梵〔天〕たちが汚点なき心で住むように、このように、これら〔の四つの住〕と結び付いた〔心の〕制止者(瞑想修行者)たちは、梵〔天〕に等しき者たちと成って〔世に〕住む。ということで、最勝の義(道理)によって、さらに、〔心の〕汚点なき状態によって、「〔四つの〕梵住」と説かれる。
269.
§107 【321】(2・3・4)また、「そして、何ゆえに、四つとなるのか」という〔言葉〕等の問いには、これが、答えとなる。
〔そこで、詩偈に言う〕「清浄の道等を所以として、四つとなる。また、利益等の行相を所以として、これが順となる。そして、それらは、無量なる境涯(作用範囲)にたいし転起する。それによって、それで、『〔四つの〕無量』〔と説かれた〕」〔と〕。
§108 (2)まさに、すなわち、これらのうち、慈愛〔の修行〕は、憎悪〔の思い〕多き者のための〔清浄の道であり〕、慈悲〔の修行〕は、悩害〔の思い〕多き者のための〔清浄の道であり〕、歓喜〔の修行〕は、不満〔の思い〕多き者たちのための〔清浄の道であり〕、放捨〔の修行〕は、貪欲〔の思い〕多き者たちのための清浄の道であることから──さらに、すなわち、〔他者の〕利益を提供することと〔他者の〕不益を取り去ることと〔他者の〕得達を歓喜することと〔他者に〕念慮なきことを所以に、まさしく、四種類の、有情たちにたいし意を為すことがあることから──さらに、すなわち、あたかも、母が、年少の者と病の者と若さの盛りに至り得た者と自らの為すべきことを追い求める者(自活者)という四者の子にたいし、年少の者のためには増大(成長)を欲する者と成り、病の者のためには病を取り去ることを欲する者と〔成り〕、若さの盛りに至り得た者のためには若さの盛りの得達の長き止住を欲する者と〔成り〕、自らの為すべきことを追い求める者のためには何であれ〔その為すべきことの〕様態ついては多忙ならざる者(放任する者)と成るように、そのように、無量なる住ある者によってもまた、一切の有情たちにたいし、慈愛〔の思い〕等を所以に〔心が〕修められるべきことから──それゆえに、このことから、清浄の道等を所以として、〔これらの〕無量なる〔住〕は、まさしく、四つとなる。
§109 (3)すなわち、これら〔の梵住〕を、四つもろともに修めることを欲する者によって、最初に、〔有情たちの〕利益となる行相の転起を所以に、有情たちにたいし〔慈愛の心が〕実践されるべきであり、そして、〔有情たちの〕利益となる行相の転起を特相とする、慈愛〔の修行〕となり、そののち、このように利益を切望する有情たちを苦痛が征服するのを、あるいは、見て、あるいは、聞いて、あるいは、掌握して、苦痛を取り去る行相の転起を所以に、そして、苦痛を取り去る行相の転起を特相とする、慈悲〔の修行〕となり、そこで、このように利益を切望し、さらに、苦痛の離去を切望する、それらの者たちの得達を見て、得達を歓喜することを所以に、そして、歓喜することを特相とする、歓喜〔の修行〕となり、また、それより後は、為されるべき状態なきことから、「放捨たること」と名づけられた中なる行相によって、〔放捨の心が〕実践されるべきであり、そして、中なる行相の転起を特相とする、放捨〔の修行〕となることから、また、それゆえに、このことから、利益等の行相を所以とする、この慈愛〔の修行〕が、最初に説かれたものとなり、そこで、慈悲〔の修行〕となり、歓喜〔の修行〕となり、放捨〔の修行〕となる、ということで、この順が、知られるべきである。
§110 (4)また、すなわち、これら〔の四つの梵住〕は、全てもろともに、無量なる境涯(作用範囲)にたいし転起することから──なぜなら、有情たちは無量にして、これら〔の四つの梵住〕の境涯として有り、かつまた、たとえ、一者の有情のためでも、「これだけの部分にたいし、慈愛〔の思い〕等々が修められるべきである」と、このように量を収め取らずして、まさしく、全体の充満を所以に、〔これらの四つの梵住は〕転起されたからである──ということで、それによって説かれた。
【322】〔そこで、詩偈に言う〕「清浄の道等を所以として、四つとなる。また、利益等の行相を所以として、これが順となる。そして、それらは、無量なる境涯(作用範囲)にたいし転起する。それによって、それで、『〔四つの〕無量』〔と説かれた〕」(§107)〔と〕。
270.
§111 このように、無量なる境涯たることから、そして、たとえ、これら〔の四つの梵住〕が特相を一にするとして(四つの梵住すべてが無量なる境涯にたいし転起するとして)、前の三つ〔の梵住〕は、まさしく、三なる〔瞑想〕(四禅における最初の三つの瞑想)か四なる瞑想(五禅における最初の四つの瞑想)に属するものと成る(四禅における第四の瞑想の境地、もしくは、五禅における第五の瞑想の境地に至り得ない)。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「悦意〔の思い〕との別離なきことから」〔と答える〕。「また、何ゆえに、これは、悦意〔の思い〕と別離なきものであるのか」と〔問うなら〕、「失意〔の思い〕によって現起された憎悪〔の思い〕等々にとっての出離であることから」〔と答える〕。いっぽう、後のもの(放捨)は、まさしく、残りの一つの瞑想に属するものと〔成る〕(四禅における第四の瞑想の境地、もしくは、五禅における第五の瞑想の境地に至り得る)。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「放捨の感受(捨受:楽苦の感受が存在しない感受)との結合あることから」〔と答える〕。まさに、有情たちにたいし中なる行相の転起あることから、放捨の梵住は、放捨の感受なくして転起しない、と〔知られるべきである〕。
271.
§112 また、すなわち、〔一部の者が〕このように説くかもしれない。「すなわち、世尊によって、〔『アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)』の〕八なる集まり(八集)において、無量なる〔梵住〕について、四つもろともに、差異なき〔の観点〕によって、『比丘よ、そののち、あなたは、この禅定を、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみのものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なきものとしてもまた修めるべきであり、喜悦を有するものとしてもまた修めるべきであり、喜悦なくあるものとしてもまた修めるべきであり、快楽を共具したものとしてもまた修めるべきであり、放捨を共具したものとしてもまた修めるべきです』(アングッタラ・ニカーヤ4p.300)と説かれたことから、それゆえに、四つの無量なる〔梵住〕もろともに、四なる〔瞑想〕と五なる瞑想〔の全て〕に属するものと〔成る〕」と。
§113 彼は、「まさに、このようにあってはならない」と説かれるべき者として存するであろう。なぜなら、このように存しているなら、身体の随観等々もまた、四なる〔瞑想〕と五なる瞑想〔の全て〕に属するものとして存することになるからである。しかしながら、感受〔の随観〕等々においては、第一の瞑想でさえも存在せず、ましてや、第二〔の瞑想〕等々は〔言うまでもない〕。それゆえに、文の影のみを収め取って、世尊を誹謗してはならない。まさに、覚者の言葉は、深遠である。それは、師匠たちに奉侍して、志向するところ〔の観点〕から収め取られるべきである。
272.
§114 そこで、まさに、これが、志向するところとなる。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」(アングッタラ・ニカーヤ4p.299)と、このように、法(教え)の説示を懇願する、まさに、その比丘に──すなわち、彼は、過去にもまた、法(教え)を聞いて、まさしく、そこにおいて、〔そのまま〕住し、沙門の法(教え)を為すことに至らないことから(ブッダの側近くに止まり、遠離独存の道を歩まなかった)、それゆえに、彼に──世尊は、「まさしく、このように、また、ここに、一部の愚人たちは、まさしく、わたしに要請します。そして、法(教え)が語られたとき、まさしく、わたしに追随するべきと思い考えます(遠離独存の道を歩まず、ブッダと一緒にいることだけを考える)」(アングッタラ・ニカーヤ4p.299)と叱責して、ふたたび、すなわち、彼が、阿羅漢の資質の依所(近因)の成就者であることから、それゆえに、彼を教え諭しつつ、【323】言った。「比丘よ、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『内に、わたしの心は安立し、善く確立されたものと成るであろう。そして、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)は、心を完全に奪い去って止住しないであろう』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」(アングッタラ・ニカーヤ4p.299)と。また、彼への、この教諭によって、自分〔自身〕の内なるもの(Ch.4§141)を所以に、心の一境性のみのものとして、根元の禅定が説かれた(基本的あり方としての禅定が説かれた)。
§115 そののち、まさしく、これだけで満足〔の思い〕を惹起せずして、「このように、その禅定は、増大させられるべきである」と見示するべく、「比丘よ、すなわち、まさに、内に、あなたの心が安立し、善く確立されたものと成り、そして、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が、心を完全に奪い去って止住しないことから、比丘よ、そののち、このように、あなたは学ぶべきです。『わたしの、慈愛という〔止寂の〕心による解脱は、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るであろう』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」(アングッタラ・ニカーヤ4p.299-300)と、このように、彼に、慈愛を所以に修行を説いて、ふたたび、「比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、あなたは、この禅定を、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみのものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なきものとしてもまた修めるべきであり、喜悦を有するものとしてもまた修めるべきであり、喜悦なくあるものとしてもまた修めるべきであり、快楽を共具したものとしてもまた修めるべきであり、放捨を共具したものとしてもまた修めるべきです」(アングッタラ・ニカーヤ4p.300)と説かれた。
§116 〔これが〕その〔言葉〕の義(意味)となる。「比丘よ、すなわち、あなたの、この、根元の禅定が、このように、慈愛を所以に修められたものとして有るとき、そのとき、あなたは、それだけでまた、満足〔の思い〕を、まさしく、惹起せずして、この、根元の禅定を、諸他の〔瞑想の〕対象においてもまた、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想に至り得させながら、『〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するものとしてもまた』という〔言葉〕等の方法によって修めるべきである」と。
§117 そして、このように説いて、ふたたび、彼に、慈悲等の残りの梵住を先行とする〔修行〕をもまた〔為すべく〕、「諸他の〔瞑想の〕対象においてもまた、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想を所以に、修行を為すべきである」と見示しながら、「比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、このように、あなたは学ぶべきです。『わたしの、慈悲という〔止寂の〕心による解脱は……。[『わたしの、歓喜という〔止寂の〕心による解脱は……。『わたしの、放捨という〔止寂の〕心による解脱は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るであろう』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです]」(アングッタラ・ニカーヤ4p.300)という〔言葉〕等を言った。
§118 このように、慈愛等を先行とし、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想を所以にする修行を見示して、ふたたび、身体の随観等を先行とする〔修行〕を見示するために、「比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、このように、あなたは学ぶべきです。『身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むであろう……。[『諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むであろう……。『心における心の随観ある者として〔世に〕住むであろう……。『諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むであろう──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです]」(アングッタラ・ニカーヤ4p.300)という〔言葉〕等を説いて、「比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、あなたは、まさしく、そのところ、そのところに赴くなら、まさしく、平穏に赴きますし、まさしく、その場その場において立つなら、まさしく、平穏に立つでしょうし、【324】まさしく、その場その場において坐るなら、まさしく、平穏に坐るでしょうし、まさしく、その場その場において臥所を営むなら、まさしく、平穏に臥所を営むでしょう」(アングッタラ・ニカーヤ4p.301)と、阿羅漢の資質の頂点によって説示を完了した。それゆえに、慈愛等々は、まさしく、三なる〔瞑想〕(四禅における最初の三つの瞑想)か四なる瞑想(五禅における最初の四つの瞑想)に属するものと〔成り〕、いっぽう、放捨は、まさしく、残りの一つの瞑想(四禅における第四の瞑想、もしくは、五禅における第五の瞑想)に属するものと〔成る〕、と知られるべきである。まさしく、そのように、さらに、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において区分された、と〔知られるべきである〕。
273.
§119 このように、まさしく、そして、三なる〔瞑想〕か四なる瞑想を所以に、さらに、残りの一つの瞑想を所以に、たとえ、二種に立てられたとして、これら〔の四つの梵住〕には、浄美を最高とするもの等を所以に、互いに他と相同ならざる特定の威力が知られるべきである。まさに、『ハリッダヴァサナ・スッタ』において、これら〔の四つの梵住〕は、浄美を最高とするもの等の状態によって区別されて説かれた。すなわち、〔世尊が〕言うように、「比丘たちよ、わたしは、慈愛という〔止寂の〕心による解脱を、浄美を最高とするものと説きます。……比丘たちよ、わたしは、慈悲という〔止寂の〕心による解脱を、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を最高とするものと説きます。……比丘たちよ、わたしは、歓喜という〔止寂の〕心による解脱を、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を最高とするものと説きます。……比丘たちよ、わたしは、放捨という〔止寂の〕心による解脱を、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を最高とするものと説きます」(サンユッタ・ニカーヤ5p.119-21)と。
§120 「また、何ゆえに、これら〔の四つの梵住〕は、このように説かれたのか」と〔問うなら〕、「それぞれの依所(近因)たることから」〔と答える〕。まさに、慈愛の住者にとって、有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。そこで、彼が、嫌悪ならざる〔表象〕に精通あることから、青等々の嫌悪ならざる完全なる清浄の色において、心を近しく集中していると、まさしく、難少なくして、そこにおいて、心は跳入する。かくのごとく、慈愛〔の梵住〕は、浄美の解脱の依所(近因)と成るが、それより他に、〔依所と成ることは〕なく、それゆえに、「浄美を最高とするもの」と説かれた。
§121 慈悲の住者が、棒に打たれた等の形態の形相ある苦痛に至り得た者を等しく随観していると、慈悲〔の思い〕の転起の発生あることから、形態における危険は、完全無欠に見出されたものと成る。そこで、彼が、完全無欠に見出された形態における危険あることから、地の遍満等々のうち、どれか一つを撤去して(※)、形態からの出離たる虚空において、心を近しく集中していると、まさしく、難少なくして、そこにおいて、心は跳入する。かくのごとく、慈悲〔の梵住〕は、虚空無辺なる〔認識の〕場所の依所(近因)と成るが、それより他に、〔依所と成ることは〕なく、それゆえに、「虚空無辺なる〔認識の〕場所を最高とするもの」と説かれた。
※ テキストには ugghaṭetvā とあるが、VRI版により ugghāṭetvā と読む。
§122 また、歓喜の住者が、それぞれの歓喜の契機によって歓喜が生起した有情たちの識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)を等しく随観していると、歓喜〔の思い〕の転起の発生あることから、心は、識知〔作用〕を収め取ることが蓄積されたものと成る。そこで、彼が、順に到達した虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、虚空の形相を境涯(作用範囲)とする識知〔作用〕において、心を近しく集中していると、【325】まさしく、難少なくして、そこにおいて、心は跳入する。かくのごとく、歓喜〔の梵住〕は、識知無辺なる〔認識の〕場所の依所(近因)と成るが、それより他に、〔依所と成ることは〕なく、それゆえに、「識知無辺なる〔認識の〕場所を最高とするもの」と説かれた。
§123 また、放捨の住者には、「あるいは、有情たちは、安楽の者たちと成れ」「あるいは、苦痛から、解き放たれよ」「あるいは、得達した安楽から、解き放たれてはならない」という念慮の状態なきことから──安楽や苦痛等を最高の義(勝義:最高の真実)として収め取ることから離反する状態あることから──心は、見出されないもの(世に存在しないもの)を収め取る苦痛あるものと成る。そこで、彼が、〔安楽や苦痛等を〕最高の義(意味)として収め取ることから離反する状態が心に蓄積され、さらに、最高の義(意味)〔の観点〕から見出されないものを収め取る苦痛が心に〔蓄積され〕、順に到達した識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、自ずからの状態〔の観点〕から見出されないものにおいて──最高の義(意味)として有る識知〔作用〕の状態なきこと(識知作用の非存状態)において──心を近しく集中していると、まさしく、難少なくして、そこにおいて、心は跳入する。かくのごとく、放捨〔の梵住〕は、無所有なる〔認識の〕場所の依所(近因)と成るが、それより他に、〔依所と成ることは〕なく、それゆえに、「無所有なる〔認識の〕場所を最高とするもの」と説かれた、と〔知られるべきである〕。
274.
§124 このように、浄美を最高とするもの等を所以に、これら〔の四つの梵住〕の威力を知って、ふたたび、これら〔の四つの梵住〕は、全てもろともに、布施等々の一切の善なる法(性質)を円満成就させるものである、と知られるべきである。まさに、有情たちにたいし利益を志欲することから、有情たちの苦痛を耐えられないことから、有情たちの殊勝なる得達の長き止住を欲することから、さらに、一切の有情たちにたいし偏向の状態がないことによって(差別や偏見なくあることで)、平等に転起された心の者たちである偉大なる有情(菩薩)たちは、「この者に施すべきである」「この者に施すべきではない」という区分を為さずして、一切の有情たちの安楽の因縁となる布施を施し(布施波羅蜜)、彼らを害することを遍く避けつつ戒を受持し(持戒波羅蜜)、戒の円満成就を義(目的)とする離欲〔の境地〕に親しみ(出離波羅蜜)、有情たちの利益と不益について迷妄なきことを義(目的)として智慧を遍く清め(智慧波羅蜜)、有情たちの利益と安楽を義(目的)として常に精進に励み(精進波羅蜜)、さらに、最上の精進を所以に勇者の状態に至り得た者たちとしてもまた、有情たちの種々なる流儀の非礼を許し(忍辱波羅蜜)、「これを、あなたたちのために、施すであろうし、為すであろう」と、明言を為したなら、言葉を違えることなく(諦波羅蜜)、彼らの利益と安楽のために不動の確立者たちと成り(加持波羅蜜)、彼らにたいし不動の慈愛〔の思い〕で前もって為す者(無償の恩恵を施す者)たちと成り(慈波羅蜜)、放捨〔の思い〕あることから、返礼の資益を願い求めない(捨波羅蜜)、ということで、このように、〔十の〕完全態(波羅蜜)を円満させて、すなわち、十の力(十力:マッジマ・ニカーヤ1p.69-71)、四つの恐れおののきを離れた〔あり方〕(四無畏:マッジマ・ニカーヤ1p.71-2)、六つの共通ならざる知恵(パティサンビダー・マッガ1p.121-34)、十八の覚者の法(性質)の細別に至るまで、諸々の善なる法(性質)を、全てもろともに、〔菩薩は〕円満成就させる、ということで、このように、まさしく、これら〔の四つの梵住〕は、布施等の一切の善なる法(性質)を円満成就させるものと成る、と〔知られるべきである〕。
ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「梵住についての釈示」という名の第九章となる。