第四章 地の遍満についての釈示

 

51.

 

 [(五)〔禅定の〕修行に適切ならざる精舎と適切なる精舎]

 

§1  【118】今や、すなわち、〔前に〕説かれた、「禅定の修行に適切ならざる精舎を捨棄して、適切なる精舎に住んでいる者によって」(Ch.3§28)とは、ここにおいて、まずは、彼が、師匠と共に一つの精舎に住しているとして、〔彼に〕平穏が有るなら、彼は、まさしく、そこにおいて、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)を完全に清めつつ、住するべきである。それで、もし、そこにおいて、平穏が有ることなくあるなら、あるいは、〔一〕ガーヴタ(長さの単位・一ガーヴタは牛の鳴き声が届く距離で四分の一由旬とされる)において、あるいは、半ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)において、あるいは、たとえ、〔一〕ヨージャナほどにおいても、すなわち、他の、正当な精舎が有るなら、そこにおいて住するべきである。まさに、このように、〔彼が〕存しているとして、〔心を定める〕行為の拠点の、まさしく、何らかの箇所について、あるいは、疑団が、あるいは、気づき()の忘却(失念)が(※)、生じたときは、ごく早朝に精舎における行持を為して〔出立し〕、道の途中で〔行乞の〕食のために歩んで、まさしく、食事が終わるなら、師匠の住する場に赴いて、その日のうちに、師匠の現前において、〔心を定める〕行為の拠点を清めて(疑念を払って)、次の日には、師匠を敬拝して、〔精舎を〕出て、道の途中で〔行乞の〕食のために歩んで、まさしく、疲れることなく、自己の住する場に帰り着くことができるであろう。また、すなわち、たとえ、〔一〕ヨージャナの量(距離)においても、平穏の場を得ないなら、彼は、〔心を定める〕行為の拠点における一切の難解な箇所を、〔まずは、師匠の現前において、その疑念を〕断ち切って、〔心を定める〕行為の拠点を、〔心を対象に〕傾注する〔作用〕と連結された極めて清浄なるものに作り為して、遠くにさえも赴いて、禅定の修行に適切ならざる精舎を捨棄して、適切なる精舎において住むべきである。

 

※ テキストには sati sati-sammose とあるが、VRI版により satisammose と読む。

 

52.

 

 [適切ならざる精舎]

 

§2  そこにおいて、「適切ならざる〔精舎〕」というのは、十八の汚点なかのどれか一つを具備したものである。そこで、これらの十八の汚点がある。(1)大きなもの、(2)新しいもの、(3)古くなったもの、(4)道に依拠したもの、(5)池、(6)〔食べられる〕葉、(7)花、(8)果実、(9)切望されるべきものとしてあること、(10)城市の近くにあること、(11)樹林の近くにあること、(12)田畑の近くにあること、(13)相違する人たちの存すること、(14)交易場の近くにあること、(15)辺境の近くにあること、(16)国境の近くにあること、(17)不当なること、(18)善き朋友たちを得ないこと、という、【119】これらの十八の汚点のなかのどれか一つの汚点を具備したものが、「適切ならざる〔精舎〕」ということになり、そこにおいて住むべきではない。何ゆえにか。

 

§3  (1)まずは、大きな精舎には、種々なる欲〔の思い〕ある多くの者たちが集まる。彼らは、互いに他を遮ることから、〔弟子としての〕行持を為さない。菩提〔樹〕の庭等々は、まさしく、掃き清められずに有る。飲用水と洗浄水は、奉仕されることがない。そこで、この者(瞑想修行者)が、「托鉢する村において、〔行乞の〕食のために歩むのだ」と、鉢と衣料を取って〔精舎を〕出つつあるとして、あるいは、〔弟子としての〕行持が為されていないのを、あるいは、飲用水の鉢が空なのを、それで、もし、見るなら、そこで、この者によって、〔弟子としての〕行持が為されるべきものと成り、飲用水が奉仕されるべきものと〔成る〕。為さずにいるなら、〔弟子として為すべき〕行持の細別(条項)における要悔悟(突吉羅・悪作)〔の罪〕を犯す。為していると、時は過ぎ行き、昼を過ぎて〔村に〕入ったとして、行乞〔の食〕は終了し、何も得ない。たとえ、静坐に赴いたとして、沙弥や青年比丘たちの高声によって、さらに、諸々の僧団の行為によって、〔心が〕散乱する。いっぽう、そこにおいて、一切の行持が(※)、まさしく、為されたものとして有り(為すべき者によって為されているなら)、さらに、残りのこと(静坐等々のこと)についてもまた、邪魔が存在しないなら、たとえ、大きな精舎でも、このような形態〔の精舎〕に住むべきである。

 

※ テキストには patta とあるが、VRI版により vatta と読む。

 

§4  (2)新しい精舎には、多くの新たな〔設営の〕行為(大工仕事)が有る。為さずにいる者を、〔比丘たちは〕譴責する。いっぽう、そこにおいて、比丘たちが、「尊者は、安楽なるままに沙門の法(性質)を為してください。わたしたちが、新たな〔設営の〕行為を為しましょう」と、このように説くなら、このような形態〔の精舎〕に住むべきである。

 

§5  (3)また、古くなった精舎には、多くの修理されるべき〔箇所〕が有る。もしくは、たとえ、自己の臥坐所ですらも、修理せずにいるなら、〔比丘たちは、彼を〕譴責する。修理していると、〔心を定める〕行為の拠点は衰退する。

 

§6  (4)道に依拠した、大道にある精舎には、夜に、昼に、来客者たちが集まる。非時にやってきた者たちに自己の臥坐所を与えて、あるいは、木の根元に、あるいは、岩の背に、住するべきことと成る。翌日もまた、まさしく、このようにある。ということで、〔心を定める〕行為の拠点のための機会と成らない。いっぽう、そこにおいて、このような形態の来客者による煩わしさが有ることなくなら、そこにおいて住むべきである。

 

§7  (5)岩の溜め池が、「池」ということに成る。そこにおいて、飲用水を義(目的)に、大勢の人が集まってくる。城市に住し王家に親近ある長老たちの内弟子たちが、〔衣料を〕染める行為を義(目的)にやってくる。彼らが、器や木桶等々を尋ねるなら、「そして、何某〔の箇所〕に、そして、何某の【120】箇所に」と、〔諸事に〕見示するべきことと成り、このように、全ての時でさえも、常なる多忙の者と成る。

 

§8  (6)そこにおいて、種々なる種類の野菜の葉が有るなら、そこにおいて、たとえ、彼が、〔心を定める〕行為の拠点を収め取って、昼住(昼の休息)に坐ったとして、現前において、野菜を摘み取って行く〔女〕たちが、歌いながら、葉を集めつつ、〔自らの性と〕相違する声で喚き合うことで、〔心を定める〕行為の拠点の障りを為す。

 (7)また、そこにおいて、見事に花ひらいた種々なる種類の花畑の群叢が有るなら、そこでもまた、まさしく、そのような禍がある。

 

§9  (8)そこにおいて、種々なる種類のアンバやジャンブやパナサ等の果実が有るなら、そこにおいて、果実を義(目的)とする者たちがやってきて、乞い求める。与えずにいるなら、〔彼らは〕忿激し、あるいは、力ずくで掴み取る。夕刻時には、精舎の中で歩行〔瞑想〕をしながら、彼らを見て、「在俗信者(優婆塞)たちよ、どうして、〔あなたたちは〕このように為すのですか」と説くなら、〔彼らは〕好きなように罵り、彼の住なきために勤しみもまたする(彼を追い出そうとする)。

 

§10  (9)また、切望されるべきものとしてあり、住房として等しく認証された、ダッキナ・ギリやハッティクッチやチェーティヤ・ギリやチッタラ山に等しき精舎に住んでいる者を、「この方は、阿羅漢である」と尊んで、敬拝することを欲する人間たちが、遍きにわたり訪ね来る。それによって、彼に、平穏は有ることなくある。いっぽう、彼にとって、それが正当なるものとして有るなら、彼は、昼には他所に赴いて、夜に住するべきである。

 

§11  (10)城市の近くにある〔精舎〕では、〔自らの性と〕相違する諸々の対象(異性)が視野にやってくる。瓶をもつ奴婢たちもまた、諸々の鉢をぶつけながら赴き、〔前に〕現われても、道を与えない(道を譲らない)。権力ある人間たちもまた、精舎の中に幕を張り巡らせて坐る。

 

§12  (11)また、樹林の近くにある〔精舎〕では、そこにおいて、そして、諸々の薪が〔存し〕、さらに、材木用の木が存するなら、そこにおいて、薪を運んで行く者たちが、前に説かれた野菜や花を摘み取る者たちのように、平穏ならざることを為す。「精舎には、木々が存する。それらを切って、〔わたしたちは〕家を作るのだ」と、人間たちがやってきて、〔木々を〕切る。それで、もし、夕刻時に、精励の家(静坐堂)から出て、精舎の中で歩行〔瞑想〕をしながら、彼らを見て、「在俗信者たちよ、どうして、〔あなたたちは〕このように為すのですか」と説くなら、〔彼らは〕好きなように罵り、彼の住なきために勤しみもまたする(彼を追い出そうとする)。

 

§13  (12)また、その〔精舎〕が、田畑の近くに有り、遍きにわたり、諸々の田畑に取り囲まれているなら、そこにおいて、人間たちが、まさしく、精舎の中で、脱穀を為して、穀物を挽き、面前で乾かし、他にもまた、多くの平穏ならざることを為す。そこで、また、大いなる僧団の財物が有るなら、園丁たちが家の者たちの(※)牛たちを囲い込み、水の供給を差し止める。人間たちは、【121】稲穂を掴んで、「見よ、おまえたちの園丁たちの(※※)行為だ」と、僧団に見せる。あれやこれやを契機に、王や王の大臣たちの家の門口に赴くべきことと成る(訴えられて連行される)。この〔大いなる僧団の財物ある精舎〕もまた、まさしく、田畑の近くにあるものによって包摂されたものとなる。

 

※ テキストには ārāmikakulāna とあるが、VRI版により ārāmikā kulāna と読む。

※※ テキストには ārāmikakulāna とあるが、VRI版により ārāmikāna と読む。

 

§14  (13)「相違する人たちの存すること」とは、そこにおいて、互いに他と相違する(対立する)怨みある比丘たちが住み、それらの紛争を為している者たちが、〔修行者によって〕「尊き方たちよ、〔あなたたちは〕このように為してはいけません」と阻止されるなら、〔阻止された彼らは〕「この糞掃衣の者がやってきた時から以降、〔わたしたちは〕滅びの者たちとして存している」と説く者たちと成る。

 

§15  (14)その〔精舎〕が、また、あるいは、水の交易場に、あるいは、陸の交易場に、依拠したものとして有るなら、そこにおいて、間断なく、そして、諸々の舟とともに、さらに、諸々の隊商とともに、やってきた人間たちが、「空間を与えよ、飲み物を与えよ、塩を与えよ」と喚きながら、平穏ならざることを為す。

 

§16  (15)また、辺境の近くにある〔精舎〕では、人間たちが、覚者等々(仏法僧の三宝)にたいし浄信なき者たちとして有る。

 (16)国境の近くにある〔精舎〕では、王の恐怖が有る。なぜなら、その地域を、或る王が、「わが支配のもとに転起しない」と征伐するなら、他〔の王〕もまた、「わが支配のもとに転起しない」と〔征伐する〕からである。そこで、この比丘は、いつであろうが、他の王の領土において渡り歩き、いつであろうが、或る〔王〕の〔領土において渡り歩く〕。そこで、その〔比丘〕を、「この〔比丘〕は、間諜である」と思い考えながら、〔人々が〕思い掛けない災厄に至り得させる。

 

§17  (17)「不当なること」とは、あるいは、〔自らの性と〕相違する形態(異性の姿)等の対象が集まってくることで、あるいは、人間ならざるもの(精霊・悪霊)に収め取られたことで、不当なること。そこで、これが、〔その〕事例となる。伝えるところでは、或る長老が、林のなかに住している。そこで、或る女夜叉が、彼の草庵の門口に立って、〔歌を〕歌った。彼は、〔小屋から〕出て、門口に立った。彼女は、〔そこから〕去って、歩行場の上方で歌った。長老は、歩行場の上方に赴いた。彼女は、百人〔の高さ〕ある深淵に立って、歌った。長老は、〔進むのを止め〕引き返した。そこで、彼女は、彼を勢いよく掴んで、「尊き方よ、あなたさまのような方で、わたしによって喰われた者は、一者でもなく、二者でもありません」と言った。

 

§18  (18)「善き朋友たちを得ないこと」とは、そこにおいて、あるいは、師匠(阿闍梨)であれ、あるいは、師匠に等しき者であれ、あるいは、師父(和尚)であれ、あるいは、師父に等しき者であれ、善き朋友を得ることができないなら、そこにおいて、〔まさに〕その、善き朋友たちを得ないことは、まさしく、大いなる汚点となる。ということで、これらの十八の汚点のなかのどれか一つ〔の汚点〕を具備したものは、「適切ならざる〔精舎〕」と知られるべきである。そして、このこともまた、諸々のアッタカター(注釈書)において説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大きな居住所、新しい居住所、さらに、古い居住所、道があり、池があり、そして、〔食べられる〕葉があり、さらに、花があり、果実があり、そして、まさしく、切望されたもの──

 【122】城市があり、樹林があり、田畑があり、相違する者とともにあり、交易場があり、辺境にあり、境界にあり、不当なるもの、そこにおいて、朋友が得られないところ──

 『これらの十八の〔汚点ある〕場がある』と識知して、賢者は、遠く離れ、〔それらを〕遍く避けるべきである──あたかも、恐怖の道を〔遍く避ける〕ように」と。

 

53.

 

 [適切なる精舎](※)

 

※ テキストには Anurūpe vihāre vihrantena とあるが、VRI版により Anurūpavihāro と読む。

 

§19  また、すなわち、托鉢する村から遠過ぎず近過ぎないこと等々の五つの支分を具備したものであるなら、これが、「適切なる〔精舎〕」ということになる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、では、どのように、臥坐所は、五つの支分を具備したものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、臥坐所が、(1)〔村から〕遠過ぎず近過ぎずに有り、〔村への〕往来〔の便〕が満たされ、(2)昼は出入り少なく、夜は音声少なく騒音少なく、(3)諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触が少なく有り、(4)また、まさに、その臥坐所に住んでいる者に、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品が、まさしく、難少なくして生起し(苦労なく得られ)、(5)また、まさに、その臥坐所においては、長老の比丘たちが住み、多聞の者たちであり、聖教(阿含)の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱(論母:法と律の要目)の保持者たちであり、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、〔質問者が〕遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔質問者〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、このように、まさに、臥坐所は、五つの支分を具備したものと成ります」(アングッタラ・ニカーヤ5p.15)と。

 「禅定の修行に適切ならざる精舎を捨棄して、適切なる精舎に住んでいる者によって」とは、ここにおいて、これが、〔その〕詳細となる。

 

54.

 

 [(六)〔見難き〕小なる障害]

 

§20  「〔見難き〕小なる障害の断絶を為して」(Ch.3§28)とは、このように、適切なる精舎に住んでいる者によって、すなわち、また、それらの〔見難き〕小なる障害が、彼に有るなら、それらもまた、断ち切られるべきである。それは、すなわち、この──諸々の長い髪や爪や毛は切られるべきであり、諸々の古くなった衣料については、あるいは、補強の作業が、あるいは、修繕の作業が、為されるべきであり、あるいは、諸々の汚れた〔衣料〕は、〔新たに〕染められるべきであり、それで、もし、鉢に垢(汚れ)が有るなら、鉢は、煮られるべきであり、臥床や椅子等々は、清められるべきである。ということで──

 「〔見難き〕小なる障害の断絶を為して」とは、ここにおいて、これが、〔その〕詳細となる。

 

55.

 

 [(七)修行の規定]

 

§21  今や、「一切の修行の規定を遍く衰退させずにいる者によって、〔世俗の禅定が〕修められるべきである」(Ch.3§28)とは、ここにおいて、これが、地の遍満を最初と為して、一切の【123】〔心を定める〕行為の拠点を所以に、詳細の言説と成る(以下、四十の心を定める行為の拠点の詳しい解説が始まる)。

 

 [1 地の遍満(1)]

 

 まさに、このように、〔見難き〕小なる障害を断ち切った比丘によって、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、食後の睡魔を除き去って、遠離された空間に安楽に坐り、あるいは、〔人為に〕作り為されたものであれ、あるいは、作り為されていないものであれ、地において、形相が収め取られるべきである(地が瞑想対象として把持されるべきである)。

 

§22  まさに、このことが、〔諸々のアッタカターにおいて〕説かれた。「地の遍満を収め取っている者は、あるいは、〔人為に〕作り為されたものであれ、あるいは、作り為されていないものであれ、地において、形相を収め取る。〔その地は〕終極を有するものにして、終極なきものにあらず──終辺を有するものにして、終辺なきものにあらず──外周を有するものにして、外周なきものにあらず──制限を有するものにして、制限なきものにあらず──あるいは、箕ほどのものであり、あるいは、台皿ほどのものである。彼は、その形相を、善く収め取られたものに作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く定め置かれたものとして定め置く。彼は、その形相を、善く収め取られたものに作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く定め置かれたものとして定め置いて、福利を見る者と〔成り〕、宝の表象ある者と成って、〔瞑想対象となる形相に〕心作を現起させて、〔瞑想対象となる形相を〕愛顧しながら、その対象にたいし、心を連結する。『確実に、この〔実践の〕道によって、〔わたしは〕老と死から解き放たれるのだ』と。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住む」(典拠不祥)と。

 

§23  そこにおいて、彼が、過去の生存(過去世)においてもまた、あるいは、〔世尊の〕教えにおいて〔出家して〕、あるいは、聖賢(リシ・仙人)の出家において出家して、地の遍満において、四なる〔瞑想〕か五なる瞑想(四禅もしくは五禅)を、過去に発現させたことがあるなら、このような形態の、功徳ある者にして、依所を成就した者のばあいは、〔人為に〕作り為されていない地において、あるいは、耕作地であれ、あるいは、脱穀所であれ、形相が生起する。マッラカ長老のように。伝えるところでは、その尊者が、耕作地を眺め見ていると、まさしく、その〔耕作〕地の量の形相が生起した。彼は、それを増大させて、五なる瞑想を発現させて、瞑想を境処の拠点(直接原因)とする〔あるがままの〕観察を確立させて、阿羅漢の資質に至り得た。

 

 [(一)四つの遍満の汚点]

 

§24  いっぽう、彼が、このような〔過去における〕参究が為されていない者として〔世に〕有るなら、彼によって、師匠の現前において収め取られた〔心を定める〕行為の拠点の規定を失わずして、四つの遍満の汚点を遍く退けつつ、〔地の〕遍満が作り為されるべきである。まさに、青と黄と赤と白の混入を所以に、四つの地の遍満の汚点がある。それゆえに、青等の色の土を使わずして、ガンガー〔川〕が運ぶ土に等しき朝日色の土によって、〔地の〕遍満が作り為されるべきである。そして、その〔遍満〕は、【124】まさに、沙弥等々の行き来する場である、精舎の中央において作り為されるべきではない。いっぽう、隠蔽された場である、精舎の片隅において、あるいは、洞窟のなかで、あるいは、草庵のなかで、あるいは、持ち運びができるものが、あるいは、そこに据え置きのものが、作り為されるべきである。

 

 [(二)遍満の作り方]

 

§25  そこで、持ち運びができるものは、あるいは、布切れを、あるいは、皮を、あるいは、筵を、四つの棒に縛って、そこにおいて、草や根や小石や砂利を取り去り、善く捏ねた土で、〔前に〕説かれた量の円形に塗って、作り為されるべきである。その〔遍満〕が、事前作業〔としての瞑想〕(遍作:予備的瞑想)の時に、地に敷いて眺め見られるべきである。そこに据え置きのものは、地に諸々の杭を蓮華の果皮の行相に打ち込んで、諸々の蔓で覆い包んで、作り為されるべきである。もしくは、〔前に説かれた〕その土が調達できないなら、下には他〔の土〕を置いて、上部に、完全無欠に清められた朝日色の土によって、〔一〕ヴィダッティ(長さの単位・一ヴィダッティは約二十五センチ)と四アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ・十二アングラが一ヴィダッティに相当)の幅の円形が作り為されるべきである。まさに、まさしく、この量に関して、「あるいは、箕ほどのものであり、あるいは、台皿ほどのものである」(§22)と説かれた。また、「終極を有するものにして、終極なきものにあらず」(§22)という〔言葉〕等は、その〔遍満〕の、〔範囲の〕限定を義(目的)として説かれた。

 

56.

 

§26  それゆえに、このように、〔前に〕説かれた量の〔範囲の〕限定を為して、木の篦では〔種々に〕相違する色を現起させるので、それゆえに、それを使わずして、岩の篦ですりつぶして、鼓の面に等しき平坦を作り為して、その場を掃き清めて、沐浴して至り来て、遍満の円輪(曼陀羅)から、二・五ハッタ(長さの単位・一ハッタは約五十センチ)の内にある場所に設置され、〔一〕ヴィダッティと四アングラ〔の高さ〕の足がある、〔敷物が〕善く敷かれた椅子に、坐るべきである。なぜなら、それよりもより遠くに坐った者には、遍満は現起せず、より近くに〔坐った者には〕、諸々の遍満の汚点が覚知され、より高くに坐ったなら、首を下げて眺め見るべきものと成り、より低くに〔坐ったなら、両の〕膝が損傷するからである(※)。

 

※ テキストには jaṇṇukā nirujanti とあるが、VRI版により jaṇṇukāni rujanti と読む。

 

 [(三)作り為された〔遍満〕の修行の方法]

 

§27  それゆえに、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって坐って、「諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、[苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある]」(マッジマ・ニカーヤ1p.91)という〔言葉〕等の方法によって、諸々の欲望〔の対象〕における危険を綿密に注視して、欲望〔の対象〕からの出離と一切の苦しみの超越のための手段として有る離欲〔の境地〕にたいし激しい願望が生じたなら、覚者(:ブッダ)と法(:ダンマ)と僧団(:サンガ)の徳を随念することによって、喜悦と歓喜を生じさせて、「これは、今や、〔まさに〕その、一切の覚者や独覚(縁覚・辟支仏)や聖なる弟子たちによって実践された、離欲の〔実践の〕道である」と、実践について生じた尊重〔の思い〕によって、「確実に、この〔実践の〕道によって、〔わたしは〕遠離の安楽の味を分有する者と成るのだ」と、邁進〔の思い〕を生じさせて、平等の行相によって(中庸のまなざしで)【125】〔両の〕眼を開いて、形相を収め取りつつ、〔地の遍満が〕修められるべきである。

 

§28  なぜなら、開き過ぎていると、眼が疲れ、かつまた、円輪が明瞭過ぎるものと成り、それによって、彼に、形相は生起せず、過度に少なく開いていると、円輪は明瞭ならざるものと成り、かつまた、心は畏縮したものと成り、このようにもまた、形相は生起しないからである。それゆえに、鏡面に顔の形相を見る者のように、平等の行相によって(開き過ぎず閉じ過ぎない中庸のまなざしで)〔両の〕眼を開いて、形相を収め取りつつ、〔地の遍満が〕修められるべきである。

 

§29  〔円輪の〕色は、綿密に注視されるべきではない。〔堅固等の、地の〕特相は、意が為されるべきではない。そして、また、色を解き放たずして、依所〔たる地〕の有する色〔だけのもの〕と為して、増長(性質の優勢さ)を所以に、通称(施設:概念)としての法(性質)にたいし、心を据え置いて、意が為されるべきである。「パタヴィー」「マヒー」「メーディニー」「ブーミ」「ヴァスダー」「ヴァスンダラー」という〔言葉〕等々の、地の名前のなかで、すなわち、〔彼が〕求めるものが、それが、彼の表象()に随順するものとして有るなら、その〔名前〕が、説かれるべきである(念じられるべきである)。しかしながら、また、「パタヴィー」という、この名前こそが、明白なるもの(一般的なもの)であり、それゆえに、まさしく、明白なるものを所以に(地については「パタヴィー」という名称が一般的であることから)、「パタヴィー(地である)」「パタヴィー(地である)」と〔説くことで、地の遍満が〕修められるべきである。〔しかるべき〕時に〔眼を〕開いて、〔しかるべき〕時に〔眼を〕閉じて、〔心に形相が〕傾注されるべきである。すなわち、〔心に〕収取の形相(取相:眼耳鼻舌身の五感官に依拠せず意感官だけで把捉できるようになった形相)が生起しないかぎり、それまでは、百回であろうが、千回であろうが、それよりもより一層であろうが、まさしく、この方法によって、〔地の遍満が〕修められるべきである。

 

57.

 

 [(四)二種類の形相]

 

§30  彼が、このように修めていると、すなわち、〔眼を〕閉じて、〔形相に〕傾注していると、〔眼を〕開いた時のように〔形相が〕視野にやってくるとき、そのときに、「〔心に〕収取の形相が生じたのだ」ということに成る。

 その〔形相〕が生じた時から以降は、その場に坐るべきではない。自己の住する場に入って、そこにおいて坐り、〔地の遍満が〕修められるべきである。また、足を洗い清める煩わしさを遍く退けることを義(目的)に、彼には、そして、一重に裏打ちされた〔両の〕履物が、さらに、歩杖が、求められるべきである。そこで、この者によって、それで、もし、〔生起したばかりの〕幼い禅定が、まさしく、何らかの不当な契機によって消え行くなら、履物を履いて、歩杖を掴んで、〔さきに形相が収め取られた〕その場に赴いて、形相を取って、〔臥坐所に〕帰還して安楽に坐り、〔地の遍満が〕修められるべきである。繰り返し、〔心に形相が〕集中されるべきであり、考慮による触発と思考による触発が為されるべきである(瞬時の事実確認が繰り返し為されるべきである)。

 

§31  彼が、このように為していると、順に、〔五つの修行の〕妨害()は鎮静し、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)は静止する。〔瞑想の境地に〕近接する禅定(近行定)によって、心は定められ、相似の形相(彼分相・似相:瞑想対象として心に思念された純粋形相)が生起する。そこで、これが、そして、〔この相似の形相が生起する〕以前の〔形相〕である収取の形相の、さらに、この〔相似の形相〕の、差異となる。収取の形相においては、遍満の汚点が覚知されるが、相似の形相は、袋から取り出された円鏡【126】のように、美しく洗い清められた真珠貝のように、雷雲の間から出た円月のように、雨雲に面する鶴のように、収取の形相を破り去って出たかのように、それよりも、百倍も、千倍も、完全無欠の清浄と成って現起する。また、そして、まさに、その〔相似の形相〕は、まさしく、色あるものでもなく、外貌あるものでもない。なぜなら、すなわち、その〔相似の形相〕が、このようなもの(色あるもの・外貌あるもの)として有るなら、眼によって識知されるべきもの(眼所識)として──粗雑なるものとして、触知に近しく赴くもの(触知できるもの)として、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相に侵されているものとして──存することになるからである。いっぽう、この〔相似の形相〕は、そのようなものではない。まさに、単に、禅定の得者に現起する行相のみのものであり、この〔相似の形相〕は、表象から生じるものである、と〔知られるべきである〕。

 

58.

 

 また、そして、〔相似の形相が〕生起した時から以降は、彼にとって、〔五つの修行の〕妨害は、まさしく、鎮静されたものと(※)成り、諸々の〔心の〕汚れは、まさしく、静止したものと〔成る〕。〔瞑想の境地に〕近接する禅定によって、心は、まさしく、定められたものと〔成る〕、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストには vikkhambhitā neva とあるが、VRI版により vikkhambhitāneva と読む。

 

 [(五)二種類の禅定]

 

§32  まさに、二種類の禅定がある。そして、〔瞑想の境地に〕近接する禅定(近行定)であり、さらに、〔瞑想の境地に〕専注する禅定(安止定)である。二つの行相によって、心は定められる。あるいは、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の境地において、あるいは、獲得の境地において、である。そこにおいて──〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の境地においては、〔五つの修行の〕妨害の捨棄によって、心は、定められたものと成る。獲得の境地においては、〔喜悦や安楽等の〕支分の出現によって、〔心は、定められたものと成る〕。

 

§33  また、二つの禅定には、この、種々なる契機(相違点)がある。〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においては、諸々の支分が、〔いまだ〕強さを生じていないことから、諸々の支分は、強さを生じたものと成らない。たとえば、まさに、年少の童子が、〔身体を〕もたげて据え置きつつも、繰り返し、地に倒れ落ちるように、まさしく、このように、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕が生起したとき、心は、時に、形相を対象と為し、時に、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕(有分:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)に沈む。いっぽう、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕においては、諸々の支分は、強さを生じたものと成る──それら〔の支分〕が、〔すでに〕強さを生じたことから。たとえば、まさに、力ある人が、坐から立ち上がって、昼のあいだもまた立ち続けるように、まさしく、このように、〔瞑想の境地に〕専注する禅定が生起したとき、心は、一度、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の時機を切断して(潜在意識化する機会を与えず)、夜の全部であろうが、昼の全部であろうが、〔瞑想の境地に〕安立する。まさしく、善なる疾走〔作用の心〕(速行:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)の次第次第〔の生起〕を所以に、〔心は〕転起する、と〔知られるべきである〕。

 

 [(六)七種類の正当なるものと不当なるもの]

 

§34  そこで、すなわち、この、〔瞑想の境地に〕近接する禅定と共に、相似の形相が生起したとして、それを生起させることは、まさに、極めて為し難く、それゆえに、それで、もし、まさしく、その結跏の者によって、その形相を増大させて、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に到達することができるなら、〔それはそれで〕すばらしい。もし、できないなら、そこで、この者によって、その形相は、怠りなく、転輪〔王を授かった母〕胎のように、守られるべきである。まさに、このように──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「形相を守っている者に、得たものの遍き衰退は見出されない。守護が存していないとき、得たもの、得たものは、〔順次に〕消失する」〔と〕。

 

59.

 

§35  【127】そこで、これが、守護の手順となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「(1)居住所、(2)托鉢所、(3)談義、(4)人、(5)食料、(6)季節、(7)〔四つの〕振る舞いの道、という、これらの七つの不当なるものを避けるべきである。

 七つの正当なるものと慣れ親しむべきである。まさに、このように実践している者には、誰であれ、まさしく、長時ならずして、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が有る」と。

 

§36  (1)そこで、彼が、その居住所に住しているとして、あるいは、〔いまだ〕生起していない形相が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した形相が消失し、さらに、〔いまだ〕現起していない気づきが現起されず、さらに、〔いまだ〕定められていない心が定められないなら、この〔居住所〕は、不当なるものである。そこにおいて、〔いまだ生起していない〕形相が、まさしく、そして、生起し、さらに、確固たるものと成り、〔いまだ現起していない〕気づきが現起され、〔いまだ定められていない〕心が定められるなら、この〔居住所〕は、正当なるものである。ナーガ山の住者にして精励者たるティッサ長老の〔精舎〕のように。それゆえに、その精舎に、多くの居住所が有るなら、そこにおいて、一つ一つ〔の居住所〕に、三〔日〕三日と住して、そこにおいて、彼の心が一境と成るなら、そこにおいて住するべきである。なぜなら、居住所が正当であることで、タンバパンニ・ディーパ(スリランカ島)のチューラ・ナーガ窟に住しつつ、五百の比丘たちは、まさしく、そこにおいて、〔心を定める〕行為の拠点を収め取って、阿羅漢の資質に至り得たからである。また、預流たる者等々として、他所において聖者の境地に至り得て〔そののち〕、そして、そこにおいて、阿羅漢の資質に至り得た者たちには、〔もはや〕数は存在しない(数えようがない)。このように、他のチッタラ山精舎等々についてもまたある(同様である)。

 

§37  (2)また、托鉢所としての村(托鉢する村)は、すなわち、臥坐所から、あるいは、北にも、あるいは、南にも、遠過ぎることなく、一・五コーサ(長さの単位・四分の一由旬)の内に有り、行乞〔の食〕が得易く満ちている〔村〕(托鉢に苦労しない村)であるなら、その〔托鉢所〕は、正当なるものである。〔その〕反対のものは、不当なるものである。

 

§38  (3)談義もまた、三十二の畜生の議論(無用論・無駄話)に属しているもの(王についての議論・盗賊についての議論・大臣についての議論・軍団についての議論・恐怖についての議論・戦争についての議論・食べ物についての議論・飲み物についての議論・衣についての議論・乗物についての議論・臥具についての議論・花飾についての議論・香料についての議論・親族についての議論・村についての議論・町についての議論・城市についての議論・地方についての議論・女についての議論・男についての議論・勇士についての議論・道端の議論・井戸端の議論・過去の亡者についての議論・種々なることについての議論・世についての言論・海についての言論・有り無しについての議論・林についての議論・山についての議論・川についての議論・島についての議論)は、不当なるものである。なぜなら、その〔談義〕は、彼にとって、形相の消没のために等しく転起するからである。十の〔正しい〕議論の事例(少欲・知足・遠離・非俗・精進勉励・戒・禅定・智慧・解脱・解脱の知見)に依拠したものは、正当なるものである。〔ただし〕それもまた、量(節度)をもって語られるべきである。

 

§39  (4)人もまた、畜生の議論なき者にして戒等の徳を成就した者であり、彼に依拠して、あるいは、〔いまだ〕定められていない心が定められ、あるいは、〔すでに〕定められた心がより強固と成るなら、このような形態の者は、正当なる者である。いっぽう、身体の堅固さ(健康)に多く〔の関心〕ある畜生の議論ある者は、不当なる者である。なぜなら、その〔畜生の議論ある者〕は、彼を、泥水が澄んだ水を〔汚染する〕ように、まさしく、垢あるものと為すからである。そして、そのような者に由来して、コータ山の住者たる青年〔比丘〕のように、〔彼の〕入定(等至:禅定の境地)もまた、消え行く。ましてや、形相は〔言うまでもない〕。

 

§40  【128】(5)また、食料は、或る者には、甘いものが、或る者には、酸っぱいものが、正当なるものと成る。

 (6)季節もまた、或る者には、寒いものが、或る者には、暑いものが、正当なるものと成る。それゆえに、〔まさに〕その、あるいは、食料に、あるいは、季節に、慣れ親しんでいると、平穏が有るなら、あるいは、〔いまだ〕定められていない心が定められ、あるいは、〔すでに〕定められた心がより強固と成るなら、その食料は、そして、その季節は、正当なるものである。他の食料は、そして、他の季節は、不当なるものである。

 

§41  (7)〔四つの〕振る舞いの道(行住坐臥のあり方)についてもまた、或る者には、歩行することが、正当なるものと成り、或る者には、臥すことや立つことや坐ることのなかのどれか一つが、〔正当なるものと成る〕。それゆえに、〔前に説かれた〕その居住所のように、三日のあいだ、近しく注視して〔そののち〕、その振る舞いの道において、あるいは、〔いまだ〕定められていない心が定められ、あるいは、〔すでに〕定められた心がより強固と成るなら、その〔振る舞いの道〕は、正当なるものである。他のものは、不当なるものである、と知られるべきである。

 かくのごとく、この、七種類の不当なるものを避けて、正当なるものが慣れ親しまれるべきである。なぜなら、このように実践し、形相の習修多き者には、誰であれ、まさしく、長時ならずして、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が有るからである。

 

60.

 

 [(七)十種類の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智]

 

§42  また、たとえ、このように実践しつつも、彼に、〔瞑想の境地に専注する禅定が〕有ることなくあるなら、彼によって、十種類の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智が成就されるべきである。そこで、これが、〔成就の〕方法となる。

 十の行相によって、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智が求められるべきである。(1)事物を清潔に為すことから、(2)〔五つの〕機能()の平等を実践することから、(3)形相に巧みな智あることから、(4)その時点において、心が励起されるべきであるなら、その時点において、心を励起する、(5)その時点において、心が制御されるべきであるなら、その時点において、心を制御する、(6)その時点において、心が満悦させられるべきであるなら、その時点において、心を満悦させる、(7)その時点において、心が放捨されるべきであるなら、その時点において、心を放捨する、(8)〔心が〕定められていない人を遍く避けることから、(9)〔心が〕定められた人と慣れ親しむことから、(10)それ(禅定)に信念あることから、という〔十の行相によって〕。

 

61.

 

§43  (1)そこにおいて、「事物を清潔に為すこと」というのは、諸々の内外の事物を清潔の状態と為すこと。まさに、すなわち、彼の、諸々の髪や爪や毛が長く成り、あるいは、肉体が汗や垢にまみれたとき、そのとき、内なる事物は、清潔ならざるものと成り、完全なる清浄ならざるものと〔成る〕。また、すなわち、彼の、衣料が老朽し汚染し悪臭がするものと成り、あるいは、臥坐所が汚くなるとき、そのとき、外なる事物は、清潔ならざるものと成り、【129】完全なる清浄ならざるものと〔成る〕。そして、内外の事物が清潔ならざるとき、生起した諸々の心と心の属性(心心所:心と心に現起する作用・感情)における知恵(知・智)もまた、完全なる清浄ならざるものと成る──完全なる清浄ならざる灯芯と灯皿と注油に依拠して生起した灯明の炎の光のように。完全なる清浄ならざる知恵によって、諸々の形成〔作用〕(諸行:心の作用)を触知していると、諸々の形成〔作用〕もまた、明瞭ならざるものと成り、〔心を定める〕行為の拠点に専念しているとして、〔心を定める〕行為の拠点もまた、増大と成長と広大に至らない。

 

§44  いっぽう、内外の事物が清潔であるとき、生起した諸々の心と心の属性における知恵もまた、清潔なるものと成り、完全なる清浄のものと〔成る〕──完全なる清浄の灯芯と灯皿と注油に依拠して生起した灯明の光のように。そして、完全なる清浄の知恵によって、諸々の形成〔作用〕を触知していると、諸々の形成〔作用〕もまた、明瞭なるものと成り、〔心を定める〕行為の拠点に専念しているとして、〔心を定める〕行為の拠点もまた、増大と成長と広大に至る。

 

62.

 

§45  (2)「〔五つの〕機能の平等を実践すること」というのは、信等々の〔五つの〕機能(五根:信の機能・精進の機能・気づきの機能・禅定の機能・智慧の機能)を平等の状態(均等の状態)に作り為すこと。それで、もし、まさに、彼の、信の機能(信根)が力あるものと成り、諸他のものが弱きものと〔成るなら〕、そののち、精進の機能(精進根)は励起の作用を、気づきの機能(念根)は現起の作用を、禅定の機能(定根)は〔心の〕散乱なき作用を、智慧の機能(慧根)は〔あるがままの〕見の作用を、為すことができない。それゆえに、その〔信の機能〕は、あるいは、法(性質)の自ずからの状態(自性)を綿密に注視することによって──あるいは、すなわち、〔瞑想の対象に〕意を為している者に〔特定の〕力あるものが生じるように、そのように意を為さないことによって──減らされるべきである(増長している機能は軽減されるべきである)。そして、ここにおいて、ヴァッカリ長老の事例が、〔その〕証拠となる(ブッダの肉身を見ることを求めて励む、その錯誤をブッダに諭された)。

 

§46  また、それで、もし、精進の機能が力あるものと成るなら、そこで、信の機能は、信念の作用を為すことが、まさしく、できず、諸他のものは、〔それぞれの〕他の作用の細別を〔為すことができ〕ない。それゆえに、その〔精進の機能〕は、静息等の修行によって、減らされるべきである。そこでもまた、ソーナ長老の事例が見示されるべきである(極端に精進努力し、琵琶の糸の喩えをブッダに示された)。このように、残りのものについてもまた、一つの力ある状態が存しているとき、諸他のものの自己の作用において不能となることが知られるべきである。

 

§47  また、ここにおいて、特に、信と智慧〔の機能〕の〔平等なることを〕、さらに、禅定と精進〔の機能〕の平等なることを、〔識者たちは〕賞賛する。なぜなら、信が力あり、智慧が弱くあると、〔彼は〕迷乱したものに浄信した者と成り、諸々の基盤なきものに浄信し、智慧が力あり、信が弱くあると、奸邪の傾向に親近し、薬から現起した病のように癒しようのないものと成るが、両者の平等なることで、まさしく、基盤あるものに浄信するからである。また、禅定が力あり、精進が弱くあると、禅定に怠惰の傾向あることから、怠惰が〔彼を〕征服し、【130】精進が力あり、禅定が弱くあると、精進に〔心の〕高揚の傾向あることから、〔心の〕高揚が〔彼を〕征服し、いっぽう、精進と結び付けられた禅定は、怠惰〔の状態〕に落ちることを得ず、禅定と結び付けられた精進は、高揚〔の状態〕に落ちることを得ず、それゆえに、その両者の平等が為されるべきである。なぜなら、両者の平等なることで、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が有るからである。

 

§48  そして、また、禅定の行為者のばあい、力ある信もまた順当である。このように、信を置き、信頼している者は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得るであろう。また、禅定と智慧については、禅定の行為者のばあい、〔心の〕一境性が力あるのが順当である。なぜなら、このようにあると、彼は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得るからである。〔あるがままの〕観察の行為者のばあい、智慧が力あるのが順当である。なぜなら、このようにあると、彼は、〔無常と苦痛と無我の三つの〕特相の理解(通達)に至り得るからである。また、〔禅定と智慧の〕両者の平等なることからもまた、まさしく、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が有る。

 

§49  また、気づきは、一切所において力あるのが順当である。なぜなら、気づきは、〔心の〕高揚の傾向ある信と精進と智慧を所以に高揚〔の状態〕に落ちることから、さらに、怠惰の傾向ある禅定によって怠惰〔の状態〕に落ちることから、心を守るからである。それゆえに、それ(気づき)は、一切の香味あるなかで塩や香料が〔求められる〕ように、一切の王の為すべきことあるなかで一切の行為者たる家臣が〔求められる〕ように、一切所において求められるべきである。それで、〔論者は〕言った。「また、そして、気づきは、世尊によって、一切所にあるものと説かれた。何が、契機であるのか。なぜなら、心は、気づきを帰依所(依所)とし、さらに、気づきは、守護を現起(現状)とし、気づきなくして、心に、励起と制御は有ることなくあるからである」(典拠不詳)と。

 

63.

 

§50  (3)「形相に巧みな智」というのは、地の遍満等の心の一境性の形相を作り為したことがない者にとっては、〔形相の〕作り方に巧みな智であり、そして、作り為した者にとっては、〔形相の〕修行に巧みな智であり、さらに、〔形相の〕修行を得た者にとっては、〔形相の〕守護に巧みな智である。ここでは、その〔守護に巧みな智〕が、志向するところとなる(意味するところとなる)。

 

64.

 

§51  (4)そして、どのように、その時点において、心が励起されるべきであるなら、その時点において、心を励起するのか。すなわち、彼に、極めて緩慢な精進等々によって畏縮した心が有るとき、そのときは、静息という正覚の支分等々の三つを修めずして、法(真理)の判別という正覚の支分等々の三つを修める。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「[〔世尊は言った〕『比丘たちよ、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分(軽安覚支)の修行のための時ではなく、禅定という正覚の支分(定覚支)の修行のための時ではなく、放捨という正覚の支分(捨覚支)の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ難きものと成るからです。]比丘たちよ、それは、たとえば、また、小さな火を燃やすことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の水気のある草を投げ入れ、かつまた、諸々の水気のある牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の水気のある薪を投げ入れ、そして、水ある風を送り、さらに、砂を振りまくなら、いったい、まさに、その人は、小さな【131】火を燃やすことが可能ですか』と。〔比丘たちが答えた〕『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。〔世尊は言った〕『比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時ではなく、禅定という正覚の支分の修行のための時ではなく、放捨という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ難きものと成るからです。

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)の修行のための時であり、精進という正覚の支分(精進覚支)の修行のための時であり、喜悦という正覚の支分(喜覚支)の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ易きものと成るからです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、小さな火を燃やすことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の乾燥した草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾燥した牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾燥した薪を投げ入れ、そして、口から風を送り、さらに、砂を振りまかないなら、いったい、まさに、その人は、小さな火を燃やすことが可能ですか』と。〔比丘たちが答えた〕『尊き方よ、そのとおりです』〔と〕。[〔世尊は言った〕『比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時であり、精進という正覚の支分の修行のための時であり、喜悦という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ易きものと成るからです』]」(サンユッタ・ニカーヤ5p.112-3)と。

 

§52  そして、ここにおいて、すなわち、自らの食(それぞれが動力源とするもの)を所以に、法(真理)の判別という正覚の支分等々の修行が知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。(4―1)「比丘たちよ、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)が〔存在し〕、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)が〔存在し〕、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)が〔存在し〕、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すこと(如理作意)を多く為す〔あり方〕が、これが、食(動力源・原因)となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起のために〔等しく転起し〕、あるいは、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起します」(サンユッタ・ニカーヤ5p.104)と。そのように、(4―2)「比丘たちよ、勉励の界域が〔存在し〕、促進の界域が〔存在し〕、勤勉の界域が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起のために〔等しく転起し〕、あるいは、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起します」(サンユッタ・ニカーヤ5p.104)と。そのように、(4―3)「比丘たちよ、喜悦という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起のために〔等しく転起し〕、あるいは、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起します」(サンユッタ・ニカーヤ5p.104)と。

 

§53  【132】そこにおいて、自ずからの状態〔の特相〕(個別的特相)と同等の特相(一般的特相)の理解を所以に転起された意を為すことが、善なる〔法と善ならざる法〕等々において、「根源のままに意を為すこと」ということになる。勉励の界域等々を生起させることを所以に転起された意を為すことが、勉励の界域等々において、「根源のままに意を為すこと」ということになる。そこにおいて、「勉励の界域」とは、最初の精進と説かれる。「促進の界域」とは、怠惰〔の状態〕から促進したことから、それ(勉励の界域)よりは、より力あるものとなる。「勤勉の界域」とは、他〔の境位〕へ他の境位へと〔常に〕前進することから、それ(促進の界域)よりもなお、より力あるものとなる。また、「喜悦という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)」とは、これは、まさしく、喜悦の名前である(喜悦のことである)。さらに、その〔喜悦〕を、まさしく、生起させるために意を為すことが、「根源のままに意を為すこと」ということになる。

 

§54  (4―1)そして、また、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)の生起のために、(1)遍問あること、(2)事物を清潔に為すこと、(3)〔五つの〕機能の平等を実践すること、(4)智慧浅き人を遍く避けること、(5)智慧ある人と慣れ親しむこと、(6)深遠なる知恵の性行を綿密に注視すること、(7)その〔支分〕に信念あること、という、七つの法(性質)が等しく転起する。

 

§55  (4―2)精進という正覚の支分(精進覚支)の生起のために、(1)悪所等の恐怖を綿密に注視すること、(2)精進に依止した世〔俗〕のものと世〔俗〕を超えるものにおける殊勝〔の境地〕への到達という福利を見る者たること、(3)「覚者や独覚や偉大なる弟子たちが赴いた道を、わたしは赴くべきである。そして、その〔道〕は、怠惰の者によって赴くことはできない」と、このように、赴くことの道程を綿密に注視すること、(4)施者たちに大いなる果ある状態を作り為すことで〔行乞〕の食を敬恭すること、(5)「わたしの教師(ブッダ)は、精進に励むことの栄誉を説く者である。そして、彼は、違犯するべき教えなき者であり、かつまた、わたしたちにとって多くの資益ある者であり、さらに、〔その〕実践によって供養されながら、〔人々に〕供養される者として〔世に〕有る──他のことによって、ではなく」と、このように、教師の偉大なることを綿密に注視すること、(6)「正なる法(真理)を究めた偉大なる遺産が、わたしによって収め取られるべきである。そして、その〔遺産〕は、怠惰の者によって収め取ることはできない」と、このように、〔覚者の〕遺産の偉大なることを綿密に注視すること、(7)光明の表象(光明想)に意を為すことや〔四つの〕振る舞いの道を遍く転起させることや野外〔の住〕に慣れ親しむこと等々によって〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を除き去ること、(8)怠惰の人を遍く避けること、(9)精進に励む人と慣れ親しむこと、(10)正しい精励を綿密に注視すること、(11)その〔支分〕に信念あること、という、十一の法(性質)が等しく転起する。

 

§56  (4―3)喜悦という正覚の支分(喜覚支)の生起のために、(1)覚者(:ブッダ)の随念、(2)法(:ダンマ)の随念、(3)僧団(:サンガ)の随念、(4)戒の随念、(5)施捨の随念、(6)天神たちの随念、(7)寂止の随念、(8)粗野な人を遍く避けること、【133】(9)円滑な人と慣れ親しむこと、(10)浄信するべき経典を綿密に注視すること、(11)その〔支分〕に信念あること、という、十一の法(性質)が等しく転起する。

 かくのごとく、これらの行相によって、これらの諸法(性質)を生起させつつ、法(真理)の判別という正覚の支分等々を修める、ということになる。このように、その時点において、心が励起されるべきであるなら、その時点において、心を励起する。

 

65.

 

§57  (5)どのように、その時点において、心が制御されるべきであるなら、その時点において、心を制御するのか。すなわち、彼に、励み過ぎの精進等々によって高揚した心が有るとき、そのときは、法(真理)の判別という正覚の支分等々の三つを修めずして、静息という正覚の支分等々の三つを修める。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「[〔世尊は言った〕『比丘たちよ、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時ではなく、精進という正覚の支分の修行のための時ではなく、喜悦という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ難きものと成るからです。]比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる火の塊を消すことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の乾燥した草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾燥した牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾燥した薪を投げ入れ、そして、口から風を送り、さらに、砂を振りまかないなら、いったい、まさに、その人は、大いなる火の塊を消すことが可能ですか』と。〔比丘たちが答えた〕『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。〔世尊は言った〕『比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時ではなく、精進という正覚の支分の修行のための時ではなく、喜悦という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ難きものと成るからです。

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時であり、禅定という正覚の支分の修行のための時であり、放捨という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ易きものと成るからです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる火の塊を消すことを欲する人が存し、彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の水気のある草を投げ入れ、かつまた、諸々の水気のある牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の水気のある薪を投げ入れ、そして、水ある風を送り、さらに、砂を振りまくなら、いったい、まさに、その人は、大いなる火の塊を消すことが可能ですか』と。〔比丘たちが答えた〕『尊き方よ、そのとおりです』〔と〕。[〔世尊は言った〕『比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時であり、禅定という正覚の支分の修行のための時であり、放捨という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ易きものと成るからです』]」(サンユッタ・ニカーヤ5p.114)と。

 

§58  ここにおいてもまた、すなわち、自らの食(それぞれが動力源とするもの)を所以に、静息という正覚の支分等々の修行が知られるべきである。まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。(5―1)「比丘たちよ、身体の静息が〔存在し〕、心の静息が存在します。【134】そこにおいて、根源のままに意を為すこと(如理作意)を多く為す〔あり方〕が、これが、食(動力源・原因)となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起のために〔等しく転起し〕、あるいは、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起します」(サンユッタ・ニカーヤ5p.104)と。そのように、(5―2)「比丘たちよ、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の形相が〔存在し〕、混乱なき形相が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起のために〔等しく転起し〕、あるいは、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起します」(サンユッタ・ニカーヤ5p.105)と。そのように、(5―3)「比丘たちよ、放捨という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起のために〔等しく転起し〕、あるいは、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、等しく転起します」(サンユッタ・ニカーヤ5p.105)と。

 

§59  そこにおいて、すなわち、彼にとって、静息等々が過去において生起したとおりに、その〔行相〕その行相を省察して、それらを生起させることを所以に、まさしく、転起された意を為すことが、〔前に説かれた〕三つの句もろともにおいて、「根源のままに意を為すこと」ということになる。そして、「〔心の〕止寂の形相」とは、これは、まさしく、〔心の〕止寂の同義語である。さらに、まさしく、その〔心の止寂〕の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、「〔心の〕混乱なき形相」と〔説かれる〕。

 

§60  (5―1)そして、また、静息という正覚の支分(軽安覚支)の生起のために、(1)精妙なる食料に慣れ親しむこと、(2)季節の安楽に慣れ親しむこと、(3)振る舞いの道の安楽に慣れ親しむこと、(4)中なることに専念すること、(5)激昂する人を遍く避けること、(6)静息の身体ある人と慣れ親しむこと、(7)その〔支分〕に信念あること、という、七つの法(性質)が等しく転起する。

 

§61  (5―2)禅定という正覚の支分(定覚支)の生起のために、(1)事物が清潔であること、(2)形相に巧みな智あること、(3)〔五つの〕機能の平等を実践すること、(4)〔しかるべき〕時に〔しかるべく〕心を制御すること、(5)〔しかるべき〕時に〔しかるべく〕心を励起すること、(6)〔修行に〕悦楽なき心が信と畏怖〔の思い〕を所以に満悦すること、(7)正しく転起されたものを放捨すること(自然の状態にしておくこと)、(8)〔心が〕定められていない人を遍く避けること、(9)〔心が〕定められた人と慣れ親しむこと、(10)瞑想と解脱を綿密に注視すること、(11)その〔支分〕に信念あること、という、十一の法(性質)が等しく転起する。

 

§62  (5―3)放捨という正覚の支分(捨覚支)の生起のために、(1)有情にたいし中なること、(2)諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)にたいし中なること、(3)有情と諸々の形成〔作用〕を愛玩する人を遍く避けること、(4)有情と諸々の形成〔作用〕にたいし中なる人と慣れ親しむこと、(5)その〔支分〕に信念あること、という、五つの法(性質)が等しく転起する。

 かくのごとく、これらの行相によって、これらの諸法(性質)を生起させつつ、静息という正覚の支分等々を【135】修める、ということになる。このように、その時点において、心が制御されるべきであるなら、その時点において、心を制御する。

 

66.

 

§63  (6)どのように、その時点において、心が満悦させられるべきであるなら、その時点において、心を満悦させるのか。すなわち、彼に、あるいは、智慧への専念の弱さによって、あるいは、寂止の安楽への到達なきによって、〔修行に〕悦楽なき心が有るとき、そのときは、その〔心〕を、八つの畏怖ある事態を綿密に注視することによって畏怖させる。「八つの畏怖ある事態」というのは、生と老と病と死の四つ、悪所の苦しみを第五に、過去における〔生の〕転起を根元とする苦しみ、未来における〔生の〕転起を根元とする苦しみ、現在における食の遍き探求を根元とする苦しみ、と〔知られるべきである〕。そして、覚者と法(教え)と僧団の徳を随念することによって、その〔心〕に、浄信を生じさせる。このように、その時点において、心が満悦させられるべきであるなら、その時点において、心を満悦させる。

 

§64  (7)どのように、その時点において、心が放捨されるべきであるなら、その時点において、心を放捨するのか。すなわち、このように実践している彼に、陰鬱ならず、高揚ならず、悦楽なきにあらず、対象にたいし平等に転起し、〔心の〕止寂の道程を実践する、〔そのような〕心が有るとき、そのときは、その〔心〕の励起と制御と満悦させることにおいて、労苦を体験しない──平等に転起された馬たちにおける馭者のように。このように、その時点において、心が放捨されるべきであるなら、その時点において、心を放捨する。

 

§65  (8)「〔心が〕定められていない人を遍く避けること」というのは、離欲の〔実践の〕道を過去に成長させたことがなく、無数の為すべきことを追い求め(不必要な義務に忙殺され)、心臓(心)が散乱した人たちを、遠く離れて完全に捨て去ること。

 (9)「〔心が〕定められた人と慣れ親しむこと」というのは、離欲の〔実践の〕道の実践者にして禅定の得者たる人たちに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行くこと。

 (10)「それ(禅定)に信念あること」というのは、禅定に信念あること。禅定を尊重し、禅定に向かい行き、禅定に傾倒し、禅定に傾斜すること、という義(意味)である。

 このように、この、十種類の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智が成就されるべきである。

 

67.

 

 [(八)精進の平等なること]

 

§66  〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、このように、この〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に巧みな智を成就させている者には、形相が獲得されたとき、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が等しく転起する。

 まさに、このように実践する者に、それで、もし、その〔瞑想の境地に専注する禅定〕が転起しないなら、たとえ、そのようにあるとして、〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)を捨棄するべきではない。賢者は、まさしく、努力するべきである。

 【136】なぜなら、正しい努力を捨棄して、学徒が、まさに、殊勝〔の境地〕に到達できる、この状況は、微小でさえも見出されないからである。

 それゆえに、心の転起の行相を〔常に〕省察している聡き者は(※)、まさしく、精進の平等なることに、繰り返し専念するべきである。

 たとえ、僅かであれ、〔心が〕畏縮し去り行くなら、まさしく、意図を励起するべきである。〔心が〕励み過ぎたなら、〔それを〕制して、まさしく、〔精進の〕平等を転起させるべきである。

 すなわち、花粉にたいし、花弁にたいし、花糸にたいし、花管にたいし、茎にたいし、〔それらにたいする〕蜜蜂等々の行持が、等しく褒め称えられるように──

 このように、諸々の畏縮や高揚の状態から、全てにわたり、〔心を〕解き放って、形相に向かい、意図を実践させるべきである」と。

 

※ テキストには Buddho とあるが、VRI版により budho と読む。

 

68.

 

§67  そこで、これが、義(意味)の提示となる。まさに、すなわち、利口過ぎる蜜蜂は、「何某の木で花が花ひらいた」と知って、鋭い勢いで飛び立ち、その〔花〕を超え行って、〔ふたたび〕戻りつつあるも、花粉が尽きたときに、〔ようやく〕達し得る──他の利口ではない〔蜜蜂〕は、弱い勢いで飛び立ち、まさしく、〔花粉が〕尽きたときに、〔ようやく〕達し得る──いっぽう、利口な〔蜜蜂〕は、平等の勢いで飛び立ち、楽に花の群落に達し得て、求めるかぎりの花粉を取って、蜜を得て、蜜の味を味わうように──

 

§68  さらに、すなわち、矢の治癒者(外科医)の内弟子たちが、水盤に置かれた青蓮の葉において、刃の行為(執刀術)を学んでいるとき、利口過ぎる或る〔内弟子〕は、勢いよく刃を落としつつ、青蓮の葉を、あるいは、二様に切断し、あるいは、水に落としてしまう──他の利口ではない〔内弟子〕は、切断することや落としてしまうことの恐怖から、刃に触れることさえもできない──いっぽう、利口な〔内弟子〕は、平等の専念でもって、そこにおいて、刃の打撃を与えて、遍く清められた技術の者と成って(技術を完成させて)、そのような形態の諸々の状況において、〔治癒の〕行為を為して利得を得るように──

 

§69  さらに、すなわち、「その者が、四ヴヤーマ(:長さの単位・一ヴヤーマは約二メートル)の量の蜘蛛の糸を持ってくるなら、彼は、四千〔金〕を得る」と、王に説かれたとき、利口過ぎる或る人は、蜘蛛の糸を勢いよく引きつつ、まさしく、そこかしこに切断する──他の利口ではない〔人〕は、切断することの恐怖から、手で触れることさえもできない──いっぽう、利口な〔人〕が、外側から始めて、平等の専念でもって、棒に巻いて、〔王のところに〕持ち運んで利得を得るように──

 

§70  さらに、すなわち、利口過ぎる【137】船頭は、強風のときに帆を張りつつ、舟を辺地に至らせる──他の利口ではない〔船頭〕は、弱風のときに帆を下ろしつつ、まさしく、そこにおいて、舟を据え置く──いっぽう、利口な〔船頭〕は、弱風のときに帆を張って、強風のときに帆を半分に為すことを為して、求めていた場に、〔無事〕安穏に至り得るように──

 

§71  さらに、すなわち、「その者が、油を捨てることなく筒に満たすなら、彼は、利得を得る」と、内弟子たちが師匠に説かれたとき、利口過ぎる或る〔内弟子〕は、利得を貪る者となり、勢いよく満たしつつ、油を捨てる(外にこぼす)──他の利口ではない〔内弟子〕は、油を捨てることの恐怖から、〔筒に〕注ぐことさえもできない──いっぽう、利口な〔内弟子〕は、平等の専念でもって、〔筒を油で〕満たして、利得を得るように──

 

§72  まさしく、このように、或る比丘は、形相が生起したとき、「まさしく、即座に、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に、〔わたしは〕至り得るのだ」と、荒々しく精進を為し、彼の心は、励み過ぎの精進たることから、高揚〔の状態〕に落ち、彼は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ることができない──或る〔比丘〕は、励み過ぎの精進の汚点を見て、「今や、わたしにとって、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が、何だというのだろう」と、精進を退失させ、彼の心は、畏縮し過ぎの精進たることから、怠惰〔の状態〕に落ち、彼もまた、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得ることができない──いっぽう、その者が、たとえ、僅かであれ、畏縮した〔心〕を、畏縮した状態から〔解き放ち〕、高揚した〔心〕を、高揚〔の状態〕から解き放って、平等の専念(中庸の精進)によって形相に向かい、〔心を〕転起させるなら、彼は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得る。そのような者として、〔世に〕有るべきである。

 

§73  この義(意味)に関して、このことが説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、花粉にたいし、花弁にたいし、花糸にたいし、花管にたいし、茎にたいし、〔それらにたいする〕蜜蜂等々の行持が、等しく褒め称えられるように──

 このように、諸々の畏縮や高揚の状態から、全てにわたり、〔心を〕解き放って、形相に向かい、意図を実践させるべきである」(§66)と。

 

69.

 

 [(九)〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の規定]

 

§74  また、かくのごとく、このように、彼が、形相に向かい、意図を実践させていると、「今や、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が実現するであろう」と、生存の〔潜在〕支分〔作用〕(有分:現世における生存様態を保持し継続させる潜在的基底心)を切断して、「パタヴィー(地である)」「パタヴィー(地である)」と、〔瞑想対象への〕専念を所以に現起された、まさしく、その、地の遍満を対象(所縁)と為して、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕(意門引転:意に生じた思いを定置して意識化する作用の心)が生起する。そののち、まさしく、その対象において、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕(速行:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)が疾走する。それら〔の疾走作用の心〕のうち、最後の一つが、形態の行境(色界:精妙な物質的世界)のものとなる。残り〔の三つ、あるいは、四つの心〕は、欲望の行境(欲界:粗雑な物質的世界)のものであるが、〔生来の〕性向としての諸心よりもより力ある思考と想念と喜悦と安楽と心の一境性があり、それら〔の心〕は、(1)〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕のための事前作業たることから、「事前作業するもの(遍作:予備的瞑想)」と(※)もまた〔説かれ〕、(2)たとえば、村等々の近くにある地域が、「村に近接するところ」【138】「城に近接するところ」と説かれるように、このように、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の近くにあることから、あるいは、〔その〕近くを行くことから、「近接するもの(近行)」ともまた〔説かれ〕、(3)これより前においては、諸々の事前作業するものに〔随順し〕、そして、〔その〕後には、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に随順することから、「随順するもの(随順)」ともまた説かれ、(4)そして、ここにおいて、すなわち、〔残りの三つ、あるいは、四つの心の〕全ての最後にあるものは(※※)、それは、微小なる種姓(欲界)を征服することから、さらに、莫大なる種姓(色界)を修行することから、「〔新たな〕種姓と成るもの(種姓)」ともまた説かれる。

 

※ テキストには parikammānīhi とあるが、VRI版により parikammānīti と読む。

※※ テキストには sabbant’ ima とあるが、VRI版により sabbantima と読む。

 

§75  また、ここにおいて、〔すでに〕収め取ったものを〔重ねて〕収め取る〔無駄〕なき〔観点〕によって〔略説するなら〕(重複を省いて再説するなら)、〔五つの疾走作用の心がある場合は〕第一の〔心〕が事前作業するものであり、第二の〔心〕が近接するものであり、第三の〔心〕が随順するものであり、第四の〔心〕が〔新たな〕種姓と成るものである。あるいは、〔四つの疾走作用の心がある場合は〕第一の〔心〕が近接するものであり、第二の〔心〕が随順するものであり、第三の〔心〕が〔新たな〕種姓と成るものである。〔四つの疾走作用の心がある場合は〕第四の〔心〕が、あるいは、〔五つの疾走作用の心がある場合は〕第五の〔心〕が、〔瞑想の境地に〕専注する心である。なぜなら、〔四つの疾走作用の心がある場合は〕第四の〔心〕だけが、あるいは、〔五つの疾走作用の心がある場合は〕第五の〔心だけ〕が、〔瞑想の境地に〕専注するからである。そして、〔両者の〕その〔差異〕は、まさに、速き証知であるか遅き証知であるかを所以にする(Ch.21§117)。それより他の〔第六と第七の〕疾走〔作用の心〕は落下し、生存の〔潜在〕支分〔作用〕の時機と成る(もはや疾走作用の心として機能せず、潜在意識化してしまう)。

 

§76  いっぽう、論の専門家であるゴーダッタ長老は、「以前の〔善なる諸法〕、以前の善なる諸法(性質)は、以後の〔善なる諸法〕、以後の善なる諸法(性質)にとって、習修としての縁によって、縁となる」(ティカ・パッターナ1p.5)という、この経を説いて、「習修としての縁によって、以後の〔法〕、以後の法(性質)は、〔それぞれに〕力あるものと成る。それゆえに、第六においてもまた、第七においてもまた、〔瞑想の境地に〕専注する〔心〕が有る」と言った。その〔論〕は、諸々のアッタカター(注釈書)において、「これは、長老の自己の思いであるのみ(個人的見解にすぎない)」と説いて拒絶された。

 

§77  いっぽう、第四か第五においてだけ、〔瞑想の境地に〕専注する〔心〕が有り、〔それより〕後は、落下したものとしての疾走〔作用の心〕、ということに成る──生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕の近くにあることから、と説かれた。それは、このように想念して説かれたことから、拒絶することはできない。まさに、すなわち、人が、断崖の深淵に向かい、走り行きつつあるとして、たとえ、立ち止まることを欲し、〔断崖の〕最極に足を為しても(踏み止まろうとしても)、立ち止まることはできず、まさしく、深淵に落ちるように、このように、あるいは、第六において、あるいは、第七において、〔瞑想の境地に〕専注することはできない──生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕の近くにあることから。それゆえに、第四か第五においてだけ、〔瞑想の境地に〕専注する〔心〕が有る、と知られるべきである。

 

§78  また、そして、それ(瞑想の境地に専注する禅定)は、〔ただ〕一つの心の瞬間だけのものである(一刹那のみのものである)。まさに、最初の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕、諸々の世〔俗〕の神知(神通力・超越知)、四つの〔聖者の〕道、道の直後の果、諸々の形態ある〔生存〕と形態なき生存(色界と無色界)における生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕としての瞑想(色界における無想定と無色界における滅尽定)、止滅〔の入定〕(滅尽定)にとっての縁となる表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)、止滅〔の入定〕から出起しつつある者にとっての果の入定、という、七つの境位においては、時間の限定は、まさに、存在しない。ここにおいて、道の直後の果は、三つ〔の心の瞬間〕より以上のものと成ることはなく、【139】止滅〔の入定〕にとっての縁となる表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所は、二つ〔の心の瞬間〕より以上のものと成ることはなく、形態(色界)と形態なきもの(無色界)における生存の〔潜在〕支分〔作用の心としての瞑想〕には、量が存在せず(無量である)、残りの〔四つの〕境位においては、〔ただ〕一つの心〔の瞬間〕だけがある、と〔知られるべきである〕。かくのごとく、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕は、〔ただ〕一つの心の瞬間だけのものであり、それより〔後は〕、生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕への落下となる。そして、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断して、瞑想〔の境地〕を綿密に注視することを義(目的)として、〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が〔生起し〕、そののち、瞑想〔の境地〕を綿密に注視する〔作用の心〕が〔生起する〕、と〔知られるべきである〕。

 

 [(一)第一の瞑想]

 

§79  また、そして、これだけで、この者(瞑想修行者)は、(一)まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、(二)〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、(三)遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、(四)第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住む。このように、この者によって、(五)五つの支分を捨棄し、五つの支分を具備し、(六)三種類の善きものがあり、十の特相を成就した、(七)第一の瞑想〔の境地〕としての地の遍満が、〔ここにおいて〕到達されたものと成る。

 

70.

 

§80  (一)そこにおいて、「まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて」とは、諸々の欲望〔の対象〕から、遠く離れて、別れ別れに成って、立ち去って。また、ここにおいて、すなわち、この、「まさしく」という文字であるが、それは、決定(確定・限定)の義(意味)である、と知られるべきである。そして、すなわち、決定の義(意味)であることから、それゆえに、彼が、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む時点においては、もはや、諸々の欲望〔の対象〕は見出されずにあるも、〔諸々の欲望の対象が〕その第一の瞑想〔の境地〕にとって相反する状態のものであることを〔明らかにし〕、さらに、まさしく、欲望〔の対象〕を完全に捨て去ることによって、その〔第一の瞑想〕への到達があることを明らかにする。どのようにか。

 

§81  「まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて」とは、まさに、このように、決定が為されるとき、このことが覚知される。「まちがいなく、この瞑想〔の境地〕にとって、諸々の欲望〔の対象〕は、相反するものとして有る。それら〔の欲望の対象〕が存しているとき、この〔瞑想の境地〕は転起しない──暗黒が存しているとき、灯明の光が〔転起しない〕ように。そして、まさしく、それら〔の欲望の対象〕を完全に捨て去ることによって、その〔第一の瞑想〕への到達が有る──此岸を完全に捨て去ることによって、まさしく、彼岸への〔到達が有るように〕」〔と〕。それゆえに、決定を為す、と〔知られるべきである〕。

 

§82  そこにおいて、〔或る者が〕存するとして、「また、何ゆえに、この〔『まさしく』という文字〕は、〔『諸々の善ならざる法(性質)から離れて』という〕後の句には〔説かれ〕ず、〔『まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて』という〕前の句だけに説かれたのか。どうであろう、たとえ、諸々の善ならざる法(性質)から離れずしても、〔第一の〕瞑想を成就して〔世に〕住めるのでは」と〔問うなら〕、「また、まさに、これは、このように見られるべきではない」〔と答える〕。なぜなら、その〔欲望の対象〕を出離することから、前の句において、この〔『まさしく』という文字〕が説かれたからである。まさに、欲望の界域(欲界)の超越あることから、さらに、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕にとって相反するものたることから、この〔第一の〕瞑想〔の境地〕は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕にとっての出離となる。すなわち、〔世尊が〕言うように、「諸々の欲望〔の対象〕にとっては、これが、出離となります。すなわち、この、離欲です」(ディーガ・ニカーヤ3p.275)と。また、後の句についてもまた、【140】すなわち、「比丘たちよ、まさしく、ここに、第一の沙門がいます。ここに、第二の沙門がいます」(マッジマ・ニカーヤ1p.63)と、ここにおいて、「まさしく」という文字が、導入して説かれるように、このように、〔「まさしく」という文字が、導入して〕説かれるべきである(後の句についてもまた、「まさしく」という意味が読み込まれるべきである)。なぜなら、この〔欲望の対象〕より他の、「〔修行の〕妨害()」と名づけられた、諸々の善ならざる法(性質)からもまた離れずして、〔第一の〕瞑想を成就して〔世に〕住むことはできないからである。それゆえに、「まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、まさしく、諸々の善ならざる法(性質)から離れて」と、このように、二つの句ともどもにおいて、この〔「まさしく」という文字〕が見られるべきである。そして、二つの句ともどもにおいて、たとえ、何であれ、「離れて」という、この共通の言葉によって、置換による遠離等々(置換による遠離・鎮静による遠離・断絶による遠離・安息による遠離・出離による遠離)が、さらに、心の遠離等々(心の遠離・身体の遠離・依り所の遠離)が、〔これらの〕遠離が、全てもろともに包摂に至るとして──たとえ、そのようにあるも、(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)鎮静による遠離、という、三つ〔の遠離〕だけが、ここに見られるべきである。

 

§83  また、「諸々の欲望〔の対象〕から」とは、この句によって、そして、すなわち、『〔マハー〕ニッデーサ(大義釈)』において、「どのようなものが、諸々の事物の欲望であるのか。諸々の意に適う愛しい形態()、[諸々の意に適う音声()、諸々の意に適う臭気()、諸々の意に適う味感()、諸々の意に適う感触(所触)、諸々の敷物、諸々の着物、奴婢や奴隷たち、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち、田畑、地所、金貨、黄金、村や町や王都、かつまた、国土、かつまた、地方、かつまた、蔵、かつまた、貯蔵庫、それが何であれ、貪るべき事物は、諸々の事物の欲望である]」(マハー・ニッデーサp.1)という〔言葉〕等の方法によって、諸々の事物の欲望が説かれ、さらに、すなわち、まさしく、そこ(ニッデーサ)において、かつまた、『ヴィバンガ(分別論)』において、「[どのようなものが、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の欲望であるのか。]欲〔の思い〕は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟と貪り〔の思い〕は、欲望である。[すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする喜び〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛()、欲望〔の対象〕にたいする執取()、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害()である。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『欲望よ、おまえの根元を、〔わたしは〕見た。欲望よ、〔誤った〕思惟から、〔おまえは〕生じた。おまえのことを、〔もはや、わたしは〕思惟しない。欲望よ、このように、〔もはや、おまえは〕有りえない』と。

 

 これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる]」(マハー・ニッデーサp.2,ヴィバンガp.256)と、このように、諸々の〔心の〕汚れの欲望が説かれたが、それら〔の欲望〕は、全てもろともに、まさしく、かくのごとく、〔ここに〕包摂されたものとなる、と見られるべきである。まさに、このように〔句の構成が〕存しているとき、「まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて」とは、諸々の事物の欲望からもまた、まさしく、離れて、という義(意味)が適合し、それによって、(1)身体の遠離が、〔ここにおいて〕説かれたものと成り、「諸々の善ならざる法(性質)から離れて」とは、諸々の〔心の〕汚れの欲望から、あるいは、全ての善ならざる〔法〕から、離れて、という義(意味)が適合し、それによって、(2)心の遠離が、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。そして、ここにおいて、第一〔の句〕によって、まさしく、諸々の事物の欲望からの遠離についての言葉たることから、欲望の安楽を完全に捨て去ることが〔分明され〕、第二〔の句〕によって、諸々の〔心の〕汚れの欲望からの遠離についての言葉たることから、離欲の安楽の遍き収取(理解・把握)が分明されたものと成る。

 

§84  さらに、このように、まさしく、事物の欲望と〔心の〕汚れの欲望からの遠離についての言葉たることから、これら〔の二つの句〕の、第一〔の句〕によって、〔心の〕汚染(雑染)〔の因〕たる事物の捨棄が〔分明され〕、第二〔の句〕によって、〔心の〕汚染の捨棄が〔分明され〕、第一〔の句〕によって、妄動の状態(欲望の対象に心が動く状態)の因の遍捨が〔分明され〕、第二〔の句〕によって、愚者の状態(心の汚れに汚染された状態)の〔因の遍捨が分明され〕、さらに、第一〔の句〕によって、〔精進への〕専念による清浄が〔分明され〕、第二〔の句〕によって、〔解脱への〕志欲を養うことが分明されたものと成る、と知られるべきである。

 まずは、ここにおいて、これが、「諸々の欲望〔の対象〕から」と説かれた諸々の欲望のうち、事物の欲望の側における〔説示の〕方法となる。

 

§85  また、〔心の〕汚れの欲望の側における〔説示の方法としては〕、そして、「欲〔の思い〕」と〔説かれ〕、さらに、「貪り〔の思い〕」と〔説かれもする〕、このような〔言葉〕等々による無数の細別ある、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)こそが、欲望である、というのが、志向するところとなる。【141】そして、それ(欲望)は、善ならざる〔法〕に属しているものであり、たとえ、〔そのように〕存しつつも、「そこにおいて、どのようなものが、欲望であるのか(※)。欲〔の思い〕が、欲望である」(ヴィバァンガp.256)という〔言葉〕等の方法によって、『ヴィバンガ(分別論)』においては、瞑想〔の境地〕に相反するものたることから、〔善ならざる法とは〕別に説かれた。あるいは、〔心の〕汚れとしての欲望たることから、第一の句において、〔その遠離が〕説かれ、善ならざる〔法〕に属していることから、第二の句において、〔その遠離が説かれた〕。そして、それ(欲望)には、無数の細別あることから、「欲望〔の対象〕から(単数)」と説かずして、「諸々の欲望〔の対象〕から(複数)」と説かれた。

 

※ テキストには katame kāmā とあるが、VRI版により katamo kāmo と読む。

 

§86  また、たとえ、他の諸法(性質)にも、善ならざる状態が見出されつつあるとして、「そこにおいて、どのようなものが、諸々の善ならざる法(性質)であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕である」(ヴィバァンガp.256)という〔言葉〕等の方法によって、『ヴィバンガ(分別論)』において、〔欲望の対象にたいする欲の思い等々の善ならざる法は〕後に〔説かれる〕諸々の瞑想の支分(禅支)にとって正反対で相反する状態のものたることを見示することから、まさしく、〔五つの修行の〕妨害(:欲望の対象にたいする欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)と説かれた。まさに、〔五つの修行の〕妨害は、諸々の瞑想の支分にとって正反対のものであり、それら〔の五つの修行の妨害〕にとって、まさしく、諸々の瞑想の支分は、相反するものであり、砕破するものであり、打破するものである、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。まさに、そのように、「禅定は、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)にとって相反するものである(対処法として位置づけられる)。喜悦は、憎悪〔の思い〕(瞋恚)にとって〔相反するものである〕。思考は、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)にとって〔相反するものである〕。安楽は、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)にとって〔相反するものである〕。想念は、疑惑〔の思い〕()にとって〔相反するものである〕」と、『ペータカ(ペータコーパデーサ)』において説かれた。

 

§87  ここにおいて、このように、「まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて」とは、この〔句〕によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての、(3)鎮静による遠離が、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。「諸々の善ならざる法(性質)から離れて」とは、この〔句〕によって、五つの〔修行の〕妨害もろともにとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成る〕。また、〔すでに〕収め取ったものを〔重ねて〕収め取る〔無駄〕なき〔観点〕によって〔略説するなら〕(重複を省いて再説するなら)、第一〔の句〕によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、第二〔の句〕によって、残りの〔四つの修行の〕妨害(憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)にとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、そのように、第一〔の句〕によって、三つの善ならざるものの根元(三不善根)のうち、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)という細別を境域とする、貪欲()にとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、第二〔の句〕によって、〔九つの〕憤懣の基盤(アングッタラ・ニカーヤ4p.408)という細別等を境域とする、憤怒()と迷妄()にとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、あるいは、激流等々の諸法(性質)について、第一〔の句〕によって、欲望の激流(暴流)と欲望の束縛()と欲望の煩悩()と欲望〔の対象〕にたいする執取()と強欲〔の思い〕による身体の拘束()と欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの()にとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、第二〔の句〕によって、〔欲望を除く〕残りのものの激流と束縛と煩悩と執取と拘束と束縛するものにとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、さらに、第一〔の句〕によって、渇愛()にとっての、さらに、諸々のそれと結び付いたものにとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、第二〔の句〕によって、無明にとっての、さらに、諸々のそれと結び付いたものにとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、さらに、また、第一〔の句〕によって、貪欲と結び付いた八つの心(Ch.14§90)の生起にとっての、〔鎮静による遠離が、ここにおいて説かれたものと成り〕、第二〔の句〕によって、残りの四つの善ならざる心(Ch.14§92-3)の生起にとっての、鎮静による遠離が、〔ここにおいて〕説かれたものと成る、と知られるべきである。

 まずは、ここにおいて、これが、「まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて」という〔言葉〕の義(意味)の明示となる。

 

71.

 

§88  (二)そして、これだけで、第一の瞑想にとっての捨棄の支分を見示して、今や、〔第一の瞑想にとっての〕結合の支分を見示するために、「〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し」(§79)という〔言葉〕等々が説かれた。

 【142】そこにおいて、思い考えることが、「思考()」。思い付くこと、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。〔まさに〕その、この〔思考〕は、〔認識の〕対象(所縁)にたいし心が固定することを特相とし、〔認識の対象にたいし心が〕触発し撃打すること(あるがままの事実を確認し妄想を生起させないこと)を効用(機能・性行)とし、まさに、そのように、それ(思考)によって、〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、〔認識の〕対象に、思考による触発(事実確認)を〔為し〕、思考による撃打(妄想打破)を為す、と説かれ、〔認識の〕対象にたいし心が導入することを現起(現状)とする。

 思い廻ることが、「想念()」。思い巡ること、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。〔まさに〕その、この〔想念〕は、〔認識の〕対象にたいし沈思することを特相とし、そこにおいて共に生じたものに専念することを効用(機能・性行)とし、心が〔思考を〕継続することを現起(現状)とする。

 

§89  そして、たとえ、どこにおいてであれ、それら〔の思考と想念〕の別離なき〔状態〕が存しているとして、粗雑の義(意味)によって、さらに、先行の義(意味)によって、鐘を打った〔時〕のように、心の最初の集注が、思考であり、繊細の義(意味)によって、さらに、沈思することを自ずからの状態(自性:固有の性能)とすることによって、鐘の余韻のように、継続するものが、想念である。そして、ここにおいて、拡散するものが、思考である。最初の生起の時において、心が震動するものと成った〔状態〕である。〔それは〕虚空に飛び上がることを欲する鳥が翼を広げる〔状態〕のようなものであり、さらに、香りにたいし結縛の心ある蜜蜂が蓮華に向かい落下する〔状態〕のようなものである。寂静の転起あるものが、想念である。心が極めて震動なき状態である。〔それは〕虚空に飛び上がった鳥が翼を伸ばす〔状態〕のようなものであり、さらに、蓮華に向かい落下した蜜蜂が蓮華の上部を這う〔状態〕のようなものである。

 

§90  いっぽう、〔『アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)』の〕二なる集まり(二集)のアッタカター(注釈書)において、「空を赴く大鳥が、両の翼で風を収め取って、〔両の〕翼を静止させて赴くように、〔認識の〕対象にたいし、心を固定する状態によって転起されたものが、思考である。なぜなら、その〔状態〕は、一境と成って〔認識の対象に〕専注するからである。風を収め取ることを義(目的)に、〔鳥が、両の〕翼を震わせながら赴くように、沈思することを自ずからの状態とすることによって転起されたものが、想念である」と説かれた。その〔論〕は、継続することによる〔作用の〕転起において適合する。また、それらのその差異は、第一と第二の瞑想〔の境地〕において、明白なるものと成る(明瞭となる)。

 

§91  さらに、また、垢(錆)に捕捉された銅の器(錆が生じた銅器)を一つの手で堅固に掴んで、他の手によって塗粉や油をつけた刷毛で擦っている者の、〔器を〕堅固に掴む手のようなものが、思考であり、〔器を刷毛で〕擦る手のようなものが、想念である。そのように、棒の打撃で輪を回して器を作っている陶工の、〔器を〕押さえる【143】手のようなものが、思考であり、こちらからもあちらからも行き来する手のようなものが、想念である。そのように、〔地に〕円輪を作り為している者の、中央に止めて立てた木片(ピン)のようなものが、固定すること〔を特相とする〕思考であり、外に回転する木片のようなものが、沈思すること〔を特相とする〕想念である。

 

§92  かくのごとく、木が、花と、かつまた、果と、〔両者と共に転起する〕ように、そして、この思考と、さらに、この想念と、〔両者と〕共に転起する、ということで、この〔第一の〕瞑想〔の境地〕は、「〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し」と説かれる。

 また、『ヴィバンガ(分別論)』において、「そして、この思考を、さらに、この想念を、具した者として、具完した者として、[所有した者として、完備した者として、具有した者として、完有した者として、具備した者として、]〔世に〕有る」(ヴィバンガp.257)という〔言葉〕等の方法によって、〔その〕人〔の境位〕を確立するものとして説示が為された。また、そこでもまた、義(意味)は、まさしく、このように、見られるべきである。

 

§93  (三)「遠離から生じる」(§79)とは、ここにおいて、離れることが、「遠離」。〔修行の〕妨害から離れ去ること、という義(意味)である。あるいは、離れたもの、ということで、「遠離」。〔修行の〕妨害から離れたもの、瞑想〔の境地〕と結び付いた法(性質)の集まり、という義(意味)である。その遠離から、あるいは、その遠離において、生じたもの、ということで、「遠離から生じる」。

 

72.

 

§94  「喜悦と安楽(喜楽)がある」とは、ここにおいて、喜ばす(ピーナーヤティ)、ということで、「喜悦(ピーティ)」。それは、愛顧することを特相とし、あるいは、身体と心を喜ばすことを効用(機能・性行)とし、あるいは、〔心が〕充満することを効用とし、〔心が〕勇躍することを現起(現状)とする。また、それは、この、(1)微小の喜悦、(2)瞬間の喜悦、(3)継起の喜悦、(4)戦慄の喜悦、(5)充満の喜悦、という、五種類のものと成る。

 (1)そこにおいて、微小の喜悦は、肉体において、まさしく、身の毛がよだつのみを為すことができる。(2)瞬間の喜悦は、瞬間瞬間における雷光の生起に等しきものとして有る。(3)継起の喜悦は、海岸に波が〔打ち寄せる〕ように、身体に現われては現われて破壊される。(4)戦慄の喜悦は、力あるものとして有り、身体を高所に為して虚空に跳ばせる量〔の力〕に至り得たものとなる。

 

§95  まさに、そのように、プンナヴァッリカの住者たるマハー・ティッサ長老は、満〔月〕の日の夕方に、塔廟の庭に赴いて、月光を見て、〔アヌラーダの都にある〕大塔廟に向かう者と成って(大塔廟の方角に向かって立ち)、「まさに、この時刻に、〔比丘と比丘尼と在俗信者と女性在俗信者の〕四衆は、大塔廟を敬拝する」と、〔過去に〕見た対象を所以に、〔生来の〕性向によって、覚者(ブッダ)を対象に戦慄の喜悦を生起させて、石膏の床に打ちつけられた色つきの玉のように、虚空に飛び上がって、まさしく、大塔廟の庭に立った。

 

§96  そのように、ギリカンダカ精舎の近くにあるヴァッタカーラカ村に〔住む〕或る良家の息女もまた、覚者を対象とする力ある戦慄の喜悦によって虚空に跳ばされた。伝えるところでは、彼女の母と父は、夕方に、法(教え)の聴聞を義(目的)として【144】〔精舎に〕赴きつつあるところ、「娘よ、おまえは、重き荷ある者だ(妊娠している)。時ならざる〔時〕に歩むことはできない(家にいなさい)。わたしたちは、おまえのために、至り得るべき〔功徳〕を作り為して、法(教え)を聞くであろう」と、〔娘を家に残して、精舎に〕赴いた。彼女は、〔共に〕赴くことを欲するもまた、彼らの言葉を拒むことができず、家に残って、家の庭に立って、月光によってギリカンダカの虚空に塔廟の庭を眺め見ながら、塔廟への灯明の供養を見た。そして、〔比丘と比丘尼と在俗信者と女性在俗信者の〕四衆が花飾や香料等々によって塔廟への供養を為して、右回り〔の礼〕を為しているのを〔見た〕。さらに、比丘の僧団が群れ集い読誦する声を聞いた。そこで、彼女に、「豊饒なるは、まさに、これらの方たちである──すなわち、〔彼らは〕精舎に赴いて、このような形態の塔廟の庭を巡り歩くことを〔得るのであり〕、さらに、このような形態の蜜のように甘美な法(教え)の言説を聞くことを得るのだ」と、真珠の集まりに等しき塔廟を、まさしく、見ていることで、戦慄の喜悦が生起した。彼女は、虚空に跳んで、母と父が〔到着する〕、まさしく、より以前に、虚空から塔廟の庭に降りて、塔廟を敬拝して、法(教え)を聞ききながら立っていた。

 

§97  そこで、彼女のところに、母と父がやってきて、「娘よ、おまえは、どの道をとおって、〔ここに〕到来し、〔ここに〕存しているのだ」と尋ねた。彼女は、「虚空をとおって、〔ここに〕到来し、〔ここに〕存しています──道をとおって、ではなく」と説いて、「娘よ、虚空をとおって、まさに、煩悩の滅尽者たちは行き来する。おまえは、どのように、〔ここに〕到来したのだ」と説かれたので、言った。「わたしが、月光によって塔廟を眺め見ながら立っていると、覚者を対象とする力ある〔激情の〕喜悦が生起しました。そこで、わたしは、まさしく、自己の立っている状態を〔了知することも〕なく、坐っている状態を了知することもありませんでした。また、まさしく、〔覚者の〕形相が収め取られたことで、虚空に跳んで、塔廟の庭において〔自己を〕確立し、〔ここに〕存しているのです」と。このように、戦慄の喜悦は、虚空に跳ばせる量〔の力〕あるものと成る。

 

§98  (5)また、充満の喜悦が生起したとき、全肉体は、吹いて膨らんだ膀胱のように、さらに、大水の激流に襲われた山窟のように、〔喜悦によって〕充満したものと成る。

 

§99  また、〔まさに〕その、この五種類の喜悦が、胎を孕みつつ、円熟に至るなら(発生し成熟するなら)、そして、身体の静息を、さらに、心の静息を、〔この〕二種類の静息を円満成就させる。静息が、胎を孕みつつ、円熟に至るなら、そして、身体の〔安楽〕を、さらに、心の〔安楽〕を、〔この〕二種類の安楽をもまた円満成就させる。安楽が、胎を孕みつつ、円熟に至るなら、瞬間のものとしての禅定(刹那定)、〔瞑想の境地に〕近接する禅定(近行定)、〔瞑想の境地に〕専注する禅定(安止定)、という、三種類の禅定を円満成就させる。それら〔の五種類の喜悦〕のうち、すなわち、〔瞑想の境地に〕専注する禅定の根元と成って増大しつつ、禅定との結合に至ったものが、充満の喜悦であり、この〔充満の喜悦〕が、この義(意味)において志向された喜悦である、と〔知られるべきである〕。

 

73.

 

§100  【145】また、他に、楽しむことが、「安楽」。あるいは、身体と心の病苦を、巧妙に(スットゥ)喰い尽くし(カーダティ)、さらに、掘り崩す(カナティ)、ということで、「安楽(スカ)」。それは、快楽を特相とし、諸々の〔瞑想の境地と〕結び付いた〔諸法〕が増進することを効用(機能・性行)とし、〔それらの〕資助を現起(現状)とする。そして、たとえ、どこにおいてであれ、それらの喜悦と安楽の別離なき〔状態〕が存しているとして、好ましい〔認識の〕対象の獲得による満足が、喜悦であり、獲得した〔好ましい〕味を経験することが、安楽である。そこにおいて、喜悦があるなら、そこにおいて、安楽がある。そこにおいて、安楽があるも、そこにおいて、決定して、喜悦があるのではない。諸々の形成〔作用〕の範疇(行蘊)によって包摂されたものとしてあるのが、喜悦であり、感受〔作用〕の範疇(受蘊)によって包摂されたものとしてあるのが、安楽である。砂漠で消耗した者が、林の外れや水〔の音〕を見たり聞いたりすることにおけるようなものが、喜悦であり、林の影に入ることや水を遍く受益することにおけるようなものが、安楽である。そして、その〔時点〕、その時点において、〔両者の差異は〕明白なる状態あることから(自明のものであるから)、このことが説かれた、と知られるべきである。

 

§101  かくのごとく、そして、この喜悦が、さらに、この安楽が、この瞑想〔の境地〕には、あるいは、この瞑想〔の境地〕において、存在する、ということで、この瞑想〔の境地〕は、「喜悦と安楽がある」と説かれる。さらに、あるいは、そして、喜悦が、さらに、安楽が、法(教え)と律等々のように、「喜悦と安楽がある」〔と説かれる〕。遠離から生じる喜悦と安楽が、この瞑想〔の境地〕には、あるいは、この瞑想〔の境地〕において、存在する、ということで、このようにもまた、「遠離から生じる喜悦と安楽がある」〔と説かれる〕。まさしく、まさに、すなわち、〔第一の〕瞑想〔の境地〕が、〔遠離から生じるものである〕ように、このように、喜悦と安楽もまた、ここにおいて、まさしく、遠離から生じるものとして有る。かつまた、その〔喜悦と安楽〕は、その〔第一の瞑想〕において存在する。それゆえに、まさしく、一つの句によって、「遠離から生じる喜悦と安楽がある」ともまた説くことが、〔ここにおいて〕適合する(表現として適切である)。また、『ヴィバンガ(分別論)』において、「この安楽は、この喜悦を共具したものである」(ヴィバンガp.257)という〔言葉〕等の方法によって説かれた。また、そこにおいてもまた、義(意味)は、まさしく、このように、見られるべきである。

 

§102  (四)「第一の瞑想(初禅・第一禅)を」(§79)とは、これは、後に、明らかと成るであろう(§119)。

 「成就して」とは、近しく赴いて。至り得て、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。あるいは、成就させて、完遂させて、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。また、『ヴィバンガ(分別論)』において、「『成就して』とは、第一の瞑想〔の境地〕を、得ること、獲得すること、至り得ること、得達すること、体得すること、実証すること、成就することである」(ヴィバンガp.257)と説かれた。そのばあいもまた、義(意味)は、まさしく、このように、見られるべきである。

 

§103  「〔世に〕住む」とは、それに適切なる振る舞いの道たる住(行住坐臥のあるべきあり方)によって、かくのごとく説かれた流儀の瞑想を保有する者と成って、自己状態(個我的あり方・身体のこと)の、振る舞いを、転起(行持)を、警護すること(維持すること)を、保つことを、保ち行くことを、行ないを、住を、完遂させる。まさに、このことが、『ヴィバンガ(分別論)』において説かれた。「『〔世に〕住む』とは、振る舞う、【146】転起する、警護する、保つ、保ち行く、行なう、住む。それによって説かれる。『〔世に〕住む』〔と〕」(ヴィバンガp.252)と。

 

74.

 

§104  (五)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「五つの支分を捨棄し、五つの支分を具備し」(§79)とは、そこにおいて、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)、憎悪〔の思い〕(瞋恚)、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)、疑惑〔の思い〕()、という、これらの五つの〔修行の〕妨害(五蓋)の捨棄を所以に、五つの支分を捨棄したことが知られるべきである。なぜなら、これら〔の五つ〕が捨棄されていないとき、瞑想は生起しないからである。それによって、これら〔の五つ〕は、その〔第一の瞑想〕にとって、諸々の捨棄の支分である、と説かれる。なぜなら、たとえ、何であれ、瞑想の瞬間においては、他の諸々の善ならざる法(性質)(※)もまた、〔これらと共に〕捨棄されるが、たとえ、そのようにあるとして、これら〔の五つ〕こそが、特に、瞑想の障りを為すものとしてあるからである。

 

※ テキストには dhamma とあるが、VRI版により dhammā と読む。

 

§105  まさに、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕によって種々なる境域に誘惑された心は、一なる対象にたいし定められず、あるいは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕によって征服された〔心〕は、それは、欲望の界域を捨棄するための〔実践の〕道を実践することがない。さらに、憎悪〔の思い〕によって打ちのめされている〔心〕は、対象にたいし間断なく転起することがない(時間を置いて機能することになる)。〔心の〕沈滞と眠気によって征服された〔心〕は、行為に適さないものと成る。〔心の〕高揚と悔恨によって打ち負かされた〔心〕は、まさしく、寂止されざるものと成って回転する。疑惑〔の思い〕によって損壊された〔心〕は、瞑想〔の境地〕への到達の確証となる〔実践の〕道に登ることがない。かくのごとく、特に、瞑想の障りを為すことから、これら〔の五つ〕こそが、諸々の捨棄の支分である、と説かれた。

 

§106  また、すなわち、思考は、〔認識の〕対象にたいし、心を固定し、想念は、〔思考を〕継続し、それらによって混乱なき〔状態〕への専念が成就された心には専念の得達の発生あることから、喜悦は、〔心を〕喜悦することを〔為し〕、かつまた、安楽は、〔喜悦を〕増進することを為し、そこで、その、残りの〔瞑想の境地と〕結び付いた法(性質)を有する〔心〕を、これらの固定することと継続することと喜悦することと増進することによって資助された〔心の〕一境性は、一境なる〔瞑想の〕対象において、等しく、かつまた、正しく、保持することから(Ch.3§3)、それゆえに、思考、想念、喜悦、安楽、心の一境性、という、これらの五つの生起を所以に、五つの支分を具備したものであることが知られるべきである。

 

§107  なぜなら、これらの五つが生起したとき、「〔第一の〕瞑想が、生起したのだ」ということに成るからである。それによって、その〔第一の瞑想〕には、これらの五つの具備した支分がある、と説かれる。それゆえに、これら〔の五つの支分〕を具備した、まさしく、他の瞑想は、まさに、存在しない(第一の瞑想だけが、これらの五つの支分を具備する)、と収め取られるべきである(把握されるべきである)。また、すなわち、まさしく、支分のみを所以に、四つの支分あるものが「軍団」〔と説かれ〕、かつまた、五つの支分あるものが「楽器」〔と説かれ〕、さらに、八つの支分あるものが「道」と説かれるように、このように、これもまた、まさしく、支分のみを【147】所以に、あるいは、「五つの支分あるもの」と〔説かれ〕、あるいは、「五つの支分を具備したもの」と説かれる、と知られるべきである。

 

§108  そして、これらの五つの支分は、たとえ、何であれ、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の瞬間においてもまた存在し、そこで、まさに、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において、〔生来の〕性向としての心よりもより力あるものとなる。いっぽう、ここ(瞑想の境地に専注する禅定)では、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定における五つの支分〕よりもなお、より力あるものとなり、形態の行境(色界)の特相に至り得たものとして〔存在する〕。まさに、ここにおいて、思考は、極めて清浄なる行相によって、対象にたいし、心を固定しつつ生起する。想念は、極度に対象を沈思しつつ〔生起する〕。喜悦と安楽は、身体の一切すべてにさえも充満しつつ〔生起する〕。まさしく、それによって、〔世尊は〕言う。「彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません」(ディーガ・ニカーヤ1p.73)と。心の一境性もまた、下の箱の面にたいし上の箱の面が〔隙間なく接触する〕ように、諸々の対象にたいし〔完全に〕接触したものと成って生起する。これが、これら〔の瞑想の境地に専注する禅定における五つの支分〕の、諸他のものとの差異となる。

 

§109  そこにおいて、心の一境性は、たとえ、何であれ、「〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し」(§79)という、この文章において釈示されなかったが(心の一境性への言及はなかったが)、たとえ、そのようにあるとして、『ヴィバンガ(分別論)』において、「『〔第一の〕瞑想』とは、思考、想念、喜悦、安楽、心の一境性である」(ヴィバンガp.257)と、このように説かれたことから、まさしく、支分である。まさに、その志向によって、〔この〕誦説は、世尊によって為されたのであり、まさしく、その〔志向〕が、『ヴィバンガ(分別論)』において、彼によって明示された、と〔知られるべきである〕。

 

75.

 

§110  (六)また、「三種類の善きものがあり、十の特相を成就した」(§79)とは、ここにおいて、最初と中間と結末〔の細別〕を所以に、三種類の善きものがあることが〔知られるべきであり〕、さらに、まさしく、それらの最初と中間と結末の特相を所以に、十の特相を成就したものであることが知られるべきである。

 

§111  そこで、これが、聖典〔の言葉〕となる。「[第一の瞑想には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。]第一の瞑想には、(1)〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であり、(2)放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあり、(3)満悦することが、〔その〕結末である。(1)第一の瞑想には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、どれだけの特相があるのか。最初には、三つの特相がある。(1―1)それが、その〔第一の瞑想〕にとっての遍き結縛であるなら、その〔遍き結縛〕から、心は清浄となる。(1―2)清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践する。(1―3)〔止寂の形相が〕実践されたことから、そこにおいて、心は跳入する。そして、すなわち、遍き結縛から、心は清浄となり、そして、すなわち、清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践し、そして、すなわち、〔止寂の形相が〕実践されたことから、そこにおいて、心は跳入する。第一の瞑想には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。『第一の瞑想は、まさしく、そして、最初が善きものと成り、さらに、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕』〔と〕。

 

§112  【148】(2)第一の瞑想には、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、どれだけの特相があるのか。中間には、三つの特相がある。(2―1)清浄となった心は放捨する。(2―2)止寂〔の形相〕が実践された〔心〕は放捨する。(2―3)一なることの現起ある〔心〕は放捨する。そして、すなわち、清浄となった心は放捨し、そして、すなわち、止寂〔の形相〕が実践された〔心〕は放捨し、そして、すなわち、一なることの現起ある〔心〕は放捨する。第一の瞑想には、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。『第一の瞑想は、まさしく、そして、中間において善きものと成り、さらに、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕』〔と〕。

 

§113  (3)第一の瞑想には、満悦することが、〔その〕結末であるとして、結末には、どれだけの特相があるのか。結末には、四つの特相がある。(3―1)そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、満悦することがある。(3―2)〔五つの〕機能(五根)の、一なる効用(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、満悦することがある。(3―3)それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、満悦することがある。(3―4)習修の義(意味)によって、満悦することがある。第一の瞑想には、満悦することが、〔その〕結末であるとして、結末には、これらの四つの特相がある。それによって説かれる。『第一の瞑想は、まさしく、そして、結末が善きものと成り、さらに、〔四つの〕特相を成就したものと〔成る〕』〔と〕」(パティサンビダー・マッガ1p.167-8)と。

 

§114  そこで、「(1)『〔実践の〕道の清浄』というのは、〔瞑想の境地に専注する禅定の〕要素を有するものとしての〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕である。(2)『放捨〔の心〕の増進』というのは、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕である。(3)『満悦すること』というのは、綿密に注視することである」と、このように、或る者たちは解説する。また、すなわち、「一なることに至った心は、まさしく、そして、〔実践の〕道の清浄に跳入したものと成り、かつまた、放捨〔の心〕が増進されたものと〔成り〕、さらに、知恵によって満悦させられたものと〔成る〕」(パティサンビダー・マッガ1p.167)と、聖典において説かれたことから、それゆえに、(1)まさしく、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の内へと至り来ることを所以に、〔実践の〕道の清浄と〔知られるべきであり〕、(2)そこに中なる放捨(中捨:一切にたいし中庸の態度を取ること)の作用たるを所以に、放捨〔の心〕の増進と〔知られるべきであり〕、(3)さらに、〔そこにおいて生じた〕諸法(性質)が〔相互に〕超克なき等の状態を遂行する(成就させる)ことによって、遍く清める知恵の作用の完遂を所以に、満悦することと知られるべきである。どのようにか。

 

§115  (1)まさに、その時機において、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が生起するなら、その〔時機〕において、すなわち、「〔修行の〕妨害()」と名づけられた〔心の〕汚れ(煩悩)の群れが、その〔第一の〕瞑想には、遍き結縛としてあり、(1―1)その〔遍き結縛〕から、心は清浄となる。(1―2)清浄となったことから、妨害が絶無となった〔心〕と成って、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践する。「〔両極を離れた〕中なる止寂の形相」というのは、平等に転起された、まさしく、〔瞑想の境地に〕専注する禅定のこと。また、〔瞑想の境地に専注する禅定が生起する〕その直前の心が、一つの相続における変化の方法によって(Ch.22§6)、【149】真実なるものに近しく赴きつつ、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践する、ということになる。このように、(1―3)〔止寂の形相が〕実践されたことから、真実なるものに近しく赴くことで、そこ(第一の瞑想)において、〔心は〕跳入する、ということになる。まずは、このように、〔瞑想の境地に専注する禅定が生起するその直〕前の心において見出される〔三つの〕行相を完遂させるものが、第一の瞑想の、まさしく、生起の瞬間にやってくることを所以に、〔実践の〕道の清浄が知られるべきである。

 

§116  (2)また、このように清浄となった、その〔心〕には、清浄とするべき状態なきことから、もはや、〔心を〕清浄とすることにおいて労苦を為すことなく、(2―1)清浄となった心を放捨する、ということになる。〔心の〕止寂の状態に近しく赴くことで、止寂〔の形相〕が実践された〔心〕には、もはや、〔心を〕定めることにおいて労苦を為すことなく、(2―2)止寂〔の形相〕が実践された心を放捨する、ということになる。そして、まさしく、止寂〔の形相〕が実践された状態あることから、〔心の〕汚れとの交わりを捨棄して、一なる〔状態〕によって現起された〔心〕には、もはや、一なる〔状態〕の現起において労苦を為すことなく、(2―3)一なる〔状態〕の現起ある〔心〕を放捨する、ということになる。このように、そこに中なる放捨の作用を所以に、放捨〔の心〕の増進が知られるべきである。

 

§117  (3)また、すなわち、このように放捨〔の心〕が増進されたとき、これら〔の四つの行相〕があり、(3―1)そこ(第一の瞑想の結末)において生じた、「禅定(定・三昧)」と「智慧(慧・般若)」と名づけられた〔心の止寂とあるがままの観察という〕双連の法(性質)が、互いに他を超克することなきものと成って転起され、(3―2)さらに、すなわち、信等々の〔五つの〕機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)が、種々なる〔心の〕汚れから解脱したことから、解脱の効用によって、一なる効用あるものと成って転起され、(3―3)さらに、すなわち、この者(瞑想修行者)が、それに近しく赴く〔精進〕を──それらの〔相互に〕超克なき〔状態〕と一なる効用ある状態にとって至当なる精進を──もたらし、(3―4)さらに、すなわち、その〔第一の瞑想〕には、その〔滅壊〕の瞬間において、〔第二の瞑想への移行の縁となるべく〕転起された習修があり、それらの〔四つの〕行相は、全てもろともに、すなわち、知恵()によって、〔心の〕汚染と浄化について、そして、危険を、さらに、福利を、それぞれに見て、そのとおりそのとおりに、満悦させられ清浄とされ遍く清められたことから、まさしく、〔知恵の作用が〕完遂されたことから、それゆえに、〔そこにおいて生じた〕諸法(性質)が〔相互に〕超克なき等の状態を遂行することによって、遍く清める知恵の作用の完遂を所以に、満悦することが知られるべきである、と説かれた。

 

§118  そこにおいて、すなわち、放捨を所以に、知恵が、明白なるものと成ることから──すなわち、〔聖典に〕言うように、「そのように励起された心は、善くしっかりと放捨する。放捨を所以に、智慧を所以に、智慧の機能は、旺盛なるものと成る。放捨を所以に、種々なる〔心の〕汚れから、心は解脱する。解脱を所以に、智慧を所以に、智慧の機能は、旺盛なるものと成る。解脱したことから、それらの諸法(性質)は、一なる効用のものと成る。一なる効用の義(意味)によって、修行となる」(パティサンビダー・マッガ2p.25)と──それゆえに、知恵の作用と成った満悦することが、〔第一の瞑想の〕結末である、と説かれた。

 

§119  (七)今や、「第一の瞑想〔の境地〕としての地の遍満が、〔ここにおいて〕到達されたものと成る」(§79)とは、ここにおいて、数の順序たることから、「第一の」。第一に生起したもの、【150】ということでもまた、「第一の」。対象を凝視すること(ウパニッジャーナ)から、あるいは、正反対のもの(五つの修行の妨害)を焼尽すること(ジャーパナ)から、「瞑想(ジャーナ)」。また、地の円輪(曼陀羅)は、全体という義(意味)によって、「地の遍満」と説かれる。その〔地の円輪〕に依拠して獲得された形相もまた、地の遍満である。形相において獲得された瞑想〔の境地〕もまた、〔地の遍満である〕。そこで、この〔後者〕の義(意味)において、「瞑想〔の境地〕としての地の遍満」と知られるべきである。それに関して説かれた。「第一の瞑想〔の境地〕としての地の遍満が、〔ここにおいて〕到達されたものと成る」と。

 

76.

 

§120  また、この〔第一の瞑想の境地〕が、このように到達されたときは、その〔心の〕制止者(瞑想修行者)によって、そして、〔髪の〕毛を貫く者のように、さらに、〔巧みな智ある〕料理人のように、諸々の行相が遍く収め取られるべきである。まさに、すなわち、極めて巧みな智ある弓の使い手が、〔髪の〕毛を貫くための行為を為しつつ、その時機において、毛を貫くなら、その時機においては、かつまた、踏みしめられた〔両の〕足の、かつまた、弓棒の、かつまた、弦の、かつまた、矢の、〔それぞれの〕行相を、「このように、わたしが立ったことで、このように、弓棒を、このように、弦を、このように、矢を、〔それぞれに〕収め取って、〔髪の〕毛が貫かれたのだ」と遍く収め取るべきであり、彼は、それから以降は、まさしく、そのとおりに、それらの行相を成就させつつ、〔的を〕失わずして、〔髪の〕毛を貫くであろうように、まさしく、このように、〔心の〕制止者によってもまた、「まさに、この食料を(※)、わたしが食べて、このような形態の人と慣れ親しんでいることで、このような形態の臥坐所において、まさに、この振る舞いの道(行住坐臥のあり方)によって、この時に、この〔第一の瞑想の境地〕が到達されたのだ(※※)」と、これらの正当なる食料等々が、諸々の行相として、遍く収め取られるべきである。なぜなら、このように〔為すなら〕、彼は、あるいは、その〔第一の瞑想〕が滅したとき、それらの行相を成就させて、ふたたび生起させることが〔できるであろうし〕、あるいは、未熟なるところを熟練するところと為しつつ、繰り返し専注することができるであろうからである。

 

※ テキストには bhājana とあるが、VRI版により bhojana と読む。

※※ テキストには idhagatan とあるが、VRI版により adhigatan と読む。

 

§121  さらに、すなわち、巧みな智ある料理人が、彼の主人に給仕しているとして、その〔食料〕、その〔食料〕を、〔主人が、自身の〕好みで食べるなら、その〔食料〕、その〔食料〕を、省察して、それから以降は、まさしく、そのような〔食料〕を差し出しながら、利得の分有者と成るように、このように、この〔心の制止者〕もまた、〔第一の瞑想の境地が〕到達された瞬間において、〔これらの正当なる〕食料等々の行相を収め取って、それら〔の行相〕を成就させつつ、繰り返し、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の得者と成る。それゆえに、〔髪の〕毛を貫く者のように、さらに、〔巧みな智ある〕料理人のように、彼によって、諸々の行相が遍く収め取られるべきである。

 

§122  そして、このこともまた、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人が、あるいは、王に、あるいは、王の大臣たちに、種々なる趣きある汁によって──酸っぱさを主眼とするものによってもまた、苦さを主眼とするものによって【151】もまた、辛さを主眼とするものによってもまた、甘さを主眼とするものによってもまた、刺激のあるものによってもまた、刺激のないものによってもまた、塩気のあるものによってもまた、塩気のないものによってもまた──奉仕する者として存するとします。比丘たちよ、それで、まさに、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人は、自らの主人の形相を収め取ります(主人の嗜好を把握する)。『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、この汁物が好ましきものとなり、あるいは、この〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、この〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、この〔汁物〕の栄誉を語る』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、酸っぱさを主眼とする汁物が好ましきものとなり、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕の栄誉を語る』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、苦さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、辛さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、甘さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、刺激のある……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、刺激のない……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、塩気のある……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、塩気のない汁物が好ましきものとなり、あるいは、塩気のない〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、塩気のない〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、塩気のない〔汁物〕の栄誉を語る』と。比丘たちよ、それで、まさに、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人は、まさしく、そして、衣服の得者と成り、報酬の得者と〔成り〕、諸々の〔物品の〕提供の得者と〔成ります〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人は、自らの主人の形相を収め取るからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の、賢者にして明敏で、巧みな智ある比丘は、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は定められ、諸々の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)は捨棄され、彼は、その形相を収め取ります。諸々の感受()における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)において法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は定められ、諸々の付随する〔心の〕汚れは捨棄され、彼は、その形相を収め取ります。比丘たちよ、それで、まさに、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある比丘は、まさしく、そして、所見の法(現世)における諸々の安楽の住の得者と成り、気づきと正知の得者と〔成ります〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある比丘は、自らの心の形相を収め取るからです」(サンユッタ・ニカーヤ5p.151-2)と。

 

§123  そして、形相を収め取ることによって、彼が、ふたたび、それらの行相を成就させているときは、まさしく、〔一つの瞬間の瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕のみが実現し、長く続くものと〔成ら〕ないが、いっぽう、禅定の障害となる諸法(性質)が善く清浄とされたことから、長く続くものと成る。

 

§124  まさに、その比丘が、欲望〔の対象〕の危険を綿密に注視すること等々によって欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を巧妙に鎮静させずして、身体の静息を所以に身体の邪悪な〔行為〕を安息したものと巧妙に為さずして、勉励の界域(最初の精進)に意を為すこと等を所以に〔心の〕沈滞と眠気を巧妙に除き去らずして、止寂の形相に意を為すこと等を所以に〔心の〕高揚と悔恨を【152】完破されたものと巧妙に為さずして、他のまた禅定の障害となる諸法(性質)を巧妙に清浄とせずして、瞑想〔の境地〕に入定するなら、その〔比丘〕は、清浄とされていない巣に入った蜜蜂のように、さらに、清浄ならざる庭園に入った王のように、まさしく、すみやかに、〔瞑想の境地から〕出る。

 

§125  いっぽう、その〔比丘〕が、禅定の障害となる諸法(性質)を巧妙に清浄として、瞑想〔の境地〕に入定するなら、その〔比丘〕は、善く清浄とされた巣に入った蜜蜂のように、さらに、完全無欠の清浄の庭園に入った王のように、日分の全体(終日)でさえも、まさしく、入定(等至:禅定の境地)の内に有る(終日でさえも禅定の境地にある)。それによって、過去の方たちは言う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を、敵対〔の思い〕を、〔心の〕高揚と眠気を、疑惑〔の思い〕という第五のものを、〔それらを〕除き去るがよい。遠離を歓喜と為す心によって、〔四〕辺清浄〔の庭園〕に赴いた王のように、そこ(瞑想の境地)において喜び楽しむがよい」と。

 

§126  それゆえに、〔瞑想の境地に専注する禅定が〕長く続くことを欲する者によって、〔禅定の〕障害となる諸法(性質)を清浄として〔そののち〕、瞑想〔の境地〕が入定されるべきであり、さらに、心の修行の広大なることを義(目的)に、〔過去に〕得られたとおりの相似の形相(彼分相・似相:瞑想対象として心に思念された純粋形相)が増大させられるべきである。その〔相似の形相〕には、二つの増大の境地がある。あるいは、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕(近行)であり、あるいは、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕(安止)である。まさに、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕に至り得てもなお、それを増大させるのが順当である。また、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得てもなお、或る境位において、かならず増大させられるべきである。それによって説かれた。「〔過去に〕得られたとおりの相似の形相が増大させられるべきである」と。

 

77.

 

§127  そこで、これが、増大の方法となる。その〔心の〕制止者によって、その形相は、鉢が増大し菓子が増大し食が増大し蔓草が増大し布地が増大する〔そのような形態〕の〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)によって増大させずして(急速に増大させるのではなく)、まさに、すなわち、耕作者が耕作するべき場を鋤によって限定して、限定内において耕作するように、また、あるいは、すなわち、比丘たちが〔聖なる〕境界(結界・戒壇)を結びつつあるとして、最初に諸々の形相を省察して、そのあとで結ぶように、まさしく、このように、得られたとおりの、その形相の、順に、一アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)、二アングラ、三アングラ、四アングラほどが、意で限定して〔そののち〕、限定されたとおりの限定〔の範囲〕に増大させられるべきである。いっぽう、限定せずして、〔形相が〕増大させられるべきではない。そののち、〔一〕ヴィダッティ(長さの単位・一ヴィダッティは約二十五センチ)、〔一〕ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)、庭先、僧房、精舎を境界とし、さらに、村、町、地方、王国、海を境界とする、限定〔の範囲〕を所以に増大させながら、【153】あるいは、チャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)を限定〔の範囲〕として、あるいは、それよりもより以上であろうが、〔範囲を〕限定して、〔形相が〕増大させられるべきである。

 

§128  まさに、すなわち、白鳥(ハンサ・神鳥)の雛たちが、〔両の〕翼が出起した時から始まって、僅かな〔距離〕、僅かな距離と、〔徐々に〕飛び上がりながら精通を為して、順に、月や日の現前に赴くように、まさしく、このように、比丘は、〔前に〕説かれた方法によって、形相を限定して増大させながら、チャッカ・ヴァーラを限定〔の範囲〕とするに至るまで、あるいは、それよりもより以上に、増大させる。

 

§129  そこで、彼にとって、その形相は、増大させられては増大させられた〔それぞれの〕場において、〔たとえ、その〕地に高みや窪みや川の難所や山の凹凸があるとして、百の杭で平坦に張られた牛皮のようなものと成る。また、その形相において第一の瞑想に至り得た初学の者は、〔瞑想の境地に〕入定多き者として有るべきであり、綿密に注視すること(再検証)多き者として有るべきではない。なぜなら、綿密に注視すること多き者には、諸々の瞑想の支分が、粗大にして力弱きものと成って現起するからである。そこで、彼にとって、それら〔の支分〕は、このように、〔粗大にして力弱きものとして〕現起されたことから、より以上に邁進するための縁たることを惹起しない(より一層に努力するための縁とならない)。彼は、未熟な瞑想〔の境地〕において邁進しつつ、そして、第一の瞑想〔の境地〕から遍く衰退し、さらに、第二〔の瞑想〕に至り得ることができない。

 

§130  それによって、世尊は言う。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔一部の〕山の雌牛が、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智なくあるようなものです。その〔山の雌牛〕に、このような〔思いが〕存するとします。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くのだ。さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うのだ。かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むのだ』と。その〔山の雌牛〕が、前足を善く確立されたものとして確立させずして、後足を引き上げるなら、その〔山の雌牛〕は、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くこともなく、さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うこともなく、かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むこともありません。さらに、すなわち、〔その〕地域において、その〔山の雌牛〕が立っていたとき、『それなら、さあ、わたしは、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くのだ。……略……。かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むのだ』と、このような〔思いが〕存したのですが、しかしながら、〔その山の雌牛は、その地域を離れてそののち、かつて立っていた〕その地域に、〔無事〕安穏に戻れません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その山の雌牛は、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智なくあるからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、巧みな智なき者として、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、その形相を、習修せず、修めず、多く為さず、善く確立されたものとして〔心に〕確立しません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』【154】と。彼は、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住むことができません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住むこともできません。比丘たちよ、この者は、『比丘として、両者から転落した者であり、両者から遍く衰退した者である。それは、たとえば、また、その山の雌牛が、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智なくあるように』〔と〕説かれます」(アングッタラ・ニカーヤ4p.418-9)と。

 

§131  それゆえに、この者は、まずは、まさしく、その、第一の瞑想において、〔以下に説く〕五つの行相によって、行ないに自在なる者として有るべきである。

 

78.

 

 そこで、(1)傾注することの自在、(2)入定することの自在、(3)確立することの自在、(4)出起することの自在、(5)綿密に注視することの自在、という、これらの五つの自在がある。第一の瞑想に、求める所で求める時に求める間だけ傾注し、傾注することに遅滞が存在しない、ということで、「傾注することの自在」。第一の瞑想に、求める所で……略……入定し、入定することに遅滞が存在しない、ということで、「入定することの自在」。このように、残りのものもまた、詳知されるべきである(Ch.23§27)。

 

§132  (1)また、ここにおいて、これが、義(意味)の明示となる。第一の瞑想〔の境地〕から出起して、最初に、〔粗雑なる〕思考に〔心を〕傾注させていると、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断して生起した〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕の直後に、まさしく、〔粗雑なる〕思考を対象とする、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕が疾走する。そののち、二つの生存の〔潜在〕支分〔作用の心〕が〔生起する〕。そののち、ふたたび、〔繊細なる〕想念を対象とする〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が〔生起し〕、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔四つ、あるいは、五つの〕疾走〔作用の心〕が〔疾走する〕。ということで、このように、五つの瞑想の支分にたいし、直後に心を送ることができる、そのとき、そこで、彼にとって、傾注することの自在は、成就されたものと成る。

 また、この〔傾注することの〕自在の頂点に至り得たもの(最高のもの)は、世尊の対なる神変(パティサンビダー・マッガ1p.125)において得られる。あるいは、他〔の阿羅漢〕たちの、このような形態の時において〔得られる〕。この〔自在〕より他に、より即座なる傾注することの自在は、まさに、存在しない。

 

§133  (2)また、尊者マハー・モッガッラーナ(目連)の、ナンドーパナンダ龍王の調御(Ch.12§106)におけるように、即座に〔瞑想の境地に〕入定することができることが、「入定することの自在」ということになる。

 

§134  (3)あるいは、指を弾くほど〔の瞬間〕に、あるいは、十の指を弾くほどの瞬間に、〔瞑想の境地を〕据え置くことができることが、「確立することの自在」ということになる。

 (4)まさしく、そのように、軽々と〔瞑想の境地から〕出起することができることが、「出起することの自在」ということになる。

 

§135  その〔確立と出起の〕両者を見示することを義(目的)に、ブッダラッキタ長老の事例を言説するのが順当である。【155】まさに、その尊者は、〔戒の〕成就から八年の者と成って(受戒して八年が過ぎ)、テーランバッタラ〔精舎〕において、マハー・ローハナグッタ長老の病の奉仕にやってきた三万ほどの神通者たちの中に坐り、金翅鳥の王が、「長老に粥を納受させている奉仕者の龍王を掴み取るのだ」と、虚空から下りてくるのを見て、まさしく、ただちに、山を化作して、龍王の腕を掴み取って、そこに入った。金翅鳥の王は、山に打撃を与えて、逃げ去った。マハー長老は言った。「友よ、それで、もし、ラッキタが有ることなくあるなら、まさしく、全ての者たちが、非難されるべき者たちとして存するでしょう」と。

 

§136  (5)また、綿密に注視することの自在は、まさしく、傾注することの自在において説かれた。なぜなら、まさしく、諸々の綿密に注視する〔作用〕としての疾走〔作用〕(速行:定置され意識化された対象を速やかに味わい業を作る心)が、そこにおいて、〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕の直後にあるからである、と〔知られるべきである〕。

 

79.

 

§137  また、これらの五つの自在において、行ないに自在なる者によって、熟練するところの第一の瞑想〔の境地〕から出起して、そして、「この入定は、〔五つの修行の〕妨害という義(利益)に反するものの近くにあり、思考と想念〔の両支分〕が粗雑なることから、〔その〕支分は〔いまだ〕力弱きものとしてある」と、そこにおいて汚点を見て、第二の瞑想〔の境地〕(第二禅)に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、第一の瞑想〔の境地〕にたいする欲念を完全に取り払って、第二〔の瞑想〕への到達のために、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

§138  そこで、すなわち、彼に──第一の瞑想〔の境地〕から出起して、気づきと正知の者となり、諸々の瞑想の支分を綿密に注視している〔彼〕に──思考と想念〔の両支分〕が、粗雑なるもの〔の観点〕から現起し、まさしく、そして、喜悦と安楽が、さらに、心の一境性が、寂静なるもの〔の観点〕から現起するとき、そのとき、彼に(※)──粗雑なる支分の捨棄のために、さらに、寂静なる支分の獲得のために、まさしく、その形相に、「パタヴィー(地である)」「パタヴィー(地である)」と、繰り返し意を為している〔彼〕に──「今や、第二の瞑想が成就するであろう」と、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断して、まさしく、その、地の遍満を対象と為して、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が生起する。そののち、まさしく、その対象において、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕が疾走する。それら〔の疾走作用の心〕のうち、最後の一つが、形態の行境(色界)のものにして第二の瞑想に属するものとなる。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた流儀によって(§74)、欲望の行境(欲界)のものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

※ テキストには Tad-assa とあるが、VRI版により tadāssa と読む。

 

 [(二)第二の瞑想]

 

§139  そして、これだけで、この者は、(一)〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、(二)内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、(三)思考なく、想念なく、(四)禅定から生じる喜悦と安楽がある、(五)第二の瞑想を成就して〔世に〕住む。このように、この者によって、(六)二つの支分を捨棄し、三つの支分を具備し、三種類の善きものがあり、十の特相を成就した、第二の瞑想〔の境地〕としての地の遍満が、〔ここにおいて〕到達されたものと成る。

 

80.

 

§140  【156】(一)そこにおいて、「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」とは、そして、思考、さらに、想念、という、これらの二つの寂止あることから、〔これらの二つの〕超越あることから、第二の瞑想の瞬間において〔これらの二つの〕支分の出現なきことから、というのが、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。そこにおいて、たとえ、何であれ、第二の瞑想においては、第一の瞑想の諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、〔もはや〕存在しない。なぜなら、まさしく、他なるものとして、第一の瞑想における接触(:感覚の発生)等々があり、他なるものとして、ここにあるからである(両者は別個のものとしてある)。いっぽう、粗雑なる支分〔である思考と想念〕の超越あることから、第一の瞑想より他の第二の瞑想等々への到達と成る、ということで、〔このことの〕提示を義(目的)に、「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」と、このように説かれた、と知られるべきである。

 

§141  (二)「内なる」とは、ここでは、自分〔自身〕の内なるものが、志向するところとなる。また、『ヴィバンガ(分別論)』において、「内なるもので各自のもの」(ヴィバンガp.258)と、まさしく、このことが説かれた。そして、すなわち、自分〔自身〕の内なるものが、志向するところとなることから、それゆえに、「自己のうちに生じたもの」「自己の相続のうちに発現したもの」という、このことが、ここにおいて、〔言葉の〕義(意味)となる。

 

§142  「浄信あり」とは、信が、浄信と説かれる。浄信との結合あることから、瞑想〔の境地〕もまた、浄信あるものとなる──青の色との結合あることから、青の衣が〔青である〕ように。あるいは、すなわち、その瞑想〔の境地〕が、浄信を具備したことから、さらに、思考と想念の変動の寂止あることで、心を浄信させることから、それゆえにもまた、「浄信あり」と説かれた。そして、このばあいの義(意味)の分別(後者の「心を浄信させる」という理解)においては、「心の浄信あり」と、このように、句の連結が知られるべきである(次の「心の」を「浄信あり」と結び付けて理解する)。いっぽう、前のばあいの義(意味)の分別(前者の「信が、浄信である」とする理解)においては、「心の」とは、これは、〔後に続く〕専一なる状態を相手に結び付けられるべきである(次の「心の」を「専一なる状態あり」と結び付けて理解する)。

 

§143  そこで、これが、義(意味)の構成となる(以下の解説は、「心の」を「専一なる状態あり」と結び付け、「心の専一なる状態あり」と理解してのものとなる)。一つのものとして(エーコー)昇り行く(ウデーティ)、ということで、「専一(エーコーディ)」。〔粗雑なる支分である〕思考と想念によって増進されないことから、至高にして最勝なるものと成って、昇り行く、という義(意味)である。なぜなら、最勝なるものもまた、世において、一つのものである、と説かれるからである。あるいは、思考と想念が絶無となったもの、一つのものにして同類なきものと成って、と説くのもまた順当である。そこで、あるいは、〔特定の対象と〕結び付いた諸々の法(性質)を喚起する(ウダーヤティ)、ということで、「専(ウディ)」。上がらせる、という義(意味)である。最勝の義(意味)によって、そして、一つのものであり、さらに、その〔一つのもの〕が「専」である、ということで、「専一」。これは、禅定の同義語である。かくのごとく、この専一なる〔禅定〕を修行し、増大させる、ということで、この第二の瞑想〔の境地〕は、専一なる状態となる。また、〔まさに〕その、この専一は、すなわち、心にとっての〔専一〕であり、有情にとっての〔専一〕ではなく、生命にとっての〔専一〕ではないことから、それゆえに、このように、「心の専一なる状態あり」と説かれた。

 

§144  「では、まさに、この信は、第一の瞑想においてもまた、存在するのではないか。かつまた、この専一は、名前としては、禅定〔の同義語〕である。そこで、何ゆえに、この〔第二の瞑想〕だけが、『浄信あり』〔と説かれ〕、さらに、『心の専一なる状態あり』と説かれたのか」〔と問うなら、以下のように答える〕。〔そこで、このことが〕説かれる。まさに、その第一の瞑想は、【157】思考と想念の変動によって、波浪の乱れ打つ水〔面〕のように、善く浄信したものではなく有り、それゆえに、信が存在しているもまた、「浄信あり」とは説かれず、そして、ここにおいて、まさしく、善く浄信したものではないことから、禅定もまた、巧妙に明白なるものではなく、それゆえに、「専一なる状態あり」ともまた説かれなかった。いっぽう、この〔第二の〕瞑想においては、思考と想念の障害の状態がないことによって〔生起の〕機会が得られた力ある信があり、まさしく、力ある信を同類として獲得することで、禅定もまた、明白なるものとなり、それゆえに、この〔第二の瞑想〕だけが、このように説かれた、と知られるべきである。

 

§145  また、『ヴィバンガ(分別論)』において、「『浄信』とは、すなわち、信、信を置くこと、信頼すること、浄信あることである。『心の専一なる状態』とは、すなわち、心の、止住(安立)、[確立、定置、乱雑なき、散乱なき、乱雑なき意図あること、〔心の〕止寂(奢摩他・止)、禅定の機能(定根)、禅定の力(定力)、]正しい禅定(正定)である」(ヴィバンガp.258)と、まさしく、これだけのものが説かれた。また、このように説かれた、その〔言葉〕と共に、この義(意味)の解説が、すなわち、矛盾なくあるように、何はともあれ、まさしく、そして、適応し、さらに、合致する。このように、知られるべきである。

 

81.

 

§146  (三)「思考なく、想念なく」とは、修行によって捨棄されたことから、この〔第二の瞑想の境地〕においては、あるいは、この〔第二の瞑想の境地〕にとっては、〔粗雑なる〕思考は存在しない、ということで、「思考なく」。まさしく、この方法によって、「想念なく」。『ヴィバンガ(分別論)』においてもまた説かれた。「かくのごとく、そして、この〔粗雑なる〕思考は、さらに、この〔繊細なる〕想念は、〔両者ともに〕寂静と成り、静まり、寂止し、滅却に至り、滅没に至り、絶え果て、絶滅し、乾き、干上がり、終息を為したものと〔成る〕。それによって説かれる。『思考なく、想念なく』〔と〕」(ヴィバンガp.258)と。

 ここにおいて、〔或る者は〕言う。「では、まさに、〔前に説かれた〕『〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから』という、この〔言葉〕によってもまた、この義(意味)は、〔すでに〕成就されたのではないか。そこで、何ゆえに、ふたたび、『思考なく、想念なく』〔という、この言葉が〕説かれたのか」と。〔そこで、このことが〕説かれる。このように、〔前に、「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」という〕この〔言葉〕が〔説かれ〕、この義(意味)は、まさしく、〔すでに〕成就されたのだが、いっぽう、〔「思考なく、想念なく」という〕この〔言葉〕は、その義(意味)を提示するものではない。まさに、〔わたしたちは〕言ったではないか。「いっぽう、粗雑なる支分〔である思考と想念〕の超越あることから、第一の瞑想より他の第二の瞑想等々への到達と成る、ということで、〔このことの〕提示を義(目的)に(※)、『〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから』と、このように説かれた」(§140)と。

 

※ テキストには dassanattha とあるが(VRI版も同様)、§140に合わせてdīpanattha と読む。

 

§147  さらに、また、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、この浄信はある──〔心の〕汚れや翳りの〔寂止あることから〕、ではなく。かつまた、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、専一なる状態はある──〔瞑想の境地に〕近接する瞑想のように、〔五つの修行の〕妨害の捨棄あることから、ではなく──さらに、第一の瞑想のように、支分の出現あることから、ではなく。ということで、このように、浄信と専一なる状態にとっての因を遍く提示するものとして、〔「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」という〕この言葉がある。そのように、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、この〔第二の瞑想〕は、思考なくあり、想念なくある──第三〔の瞑想〕や第四の瞑想のように、さらに、眼の識知〔作用〕(眼識)等々のように、〔思考と想念の〕状態なきことから、ではなく。ということで、このように、そして、思考なく想念なき状態にとっての因を遍く提示するものとして、〔「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」という、この言葉がある〕──思考と想念の状態なきことのみを遍く提示するものとして、ではなく。いっぽう、まさしく、思考と想念の状態なきことのみを【158】遍く提示するものとして、「思考なく、想念なく」という、この言葉がある。それゆえに、前に、〔「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」という、この言葉を〕説いてもなお、まさしく、〔後においても、「思考なく、想念なく」という、この言葉が〕説かれるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

§148  (四)「禅定から生じる」とは、第一の瞑想の禅定から、あるいは、〔第二の瞑想と〕結び付いた禅定から、生じたもの、という義(意味)である。そこにおいて、たとえ、何であれ、第一〔の瞑想の境地〕もまた、〔第一の瞑想と〕結び付いた禅定から生じたとして、そこで、まさに、この〔第二の瞑想の境地の〕禅定こそが、「禅定」と説かれるべきものに値する。思考と想念の変動の絶無によって、極めて動揺なきことから、さらに、善く浄信したものであることから、それゆえに、この〔第二の瞑想の境地〕への褒め称え〔の言葉〕を話すことを義(目的)に、まさしく、この〔第二の瞑想の境地〕が、「禅定から生じる」と説かれた。

 「喜悦と安楽がある」とは、これは、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(第一の瞑想と同様である)。

 (五)「第二の」とは、数の順序たることから、「第二の」。第二に生起したもの、ということでもまた、「第二の」ということになり、この〔第二の瞑想〕は、第二〔の瞑想の境地〕に入定する、ということでもまた、「第二の」。

 

§149  (六)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「二つの支分を捨棄し、三つの支分を具備し」とは、そこにおいて、思考と想念の捨棄を所以に、二つの支分を捨棄したことが知られるべきである。そして、すなわち、第一の瞑想の、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の瞬間において、〔五つの修行の〕妨害が捨棄されるように、そのように、この〔第二の瞑想〕の、思考と想念が〔捨棄されるのでは〕ない。いっぽう、そして、まさしく、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の瞬間において、この〔第二の瞑想〕は、それら〔の二つの支分〕(思考と想念)なくして、生起する。それによって、それら〔の二つの支分〕は、その〔第二の瞑想〕にとって、捨棄の支分である、と説かれる。

 

§150  また、喜悦と安楽、心の一境性、という、これらの三つ〔の支分〕の生起を所以に、三つの支分を具備したことが知られるべきである。それゆえに、すなわち、『ヴィバンガ(分別論)』において、「『〔第二の〕瞑想』とは、浄信、喜悦と安楽、心の一境性である」(ヴィバンガp.258)と説かれたが、それは、必需品〔たる支分〕を有する瞑想〔の境地〕を見示するために、教相〔の観点〕(比喩的具体的説明)によって説かれた。いっぽう、教相なき〔観点〕(逐語的理論的説明)によって〔説くなら〕、〔対象を〕凝視することという特相(§119)に至り得た諸支分たるを所以に、浄信を除いて、この〔第二の瞑想〕は、まさしく、三つの支分あるものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「〔第二の瞑想は〕どのようなものであるのか。その時点において、〔第二の瞑想は〕三つの支分ある瞑想と成る。喜悦、安楽、心の一境性である」(ヴィバンガp.263)と。残りのものは、まさしく、第一の瞑想において説かれた方法となる(第一の瞑想と同様である)。

 

82.

 

§151  また、このように、その〔第二の瞑想〕が到達されたとき、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、五つの行相によって、行ないに自在なる者と成って、熟練するところの第二の瞑想〔の境地〕から出起して、そして、「この入定は、思考と想念という義(利益)に反するものの近くにあり、『まさしく、すなわち、そこにおいて、喜悦の在り方をした(※)、心の浮揚があるなら、このことによって、これは、粗雑なるものと告げ知らされます』(ディーガ・ニカーヤ1p.37)と説かれた喜悦〔の支分〕が粗雑なることから、〔その〕支分は〔いまだ〕力弱きものとしてある」と、そこにおいて汚点を見て、第三の瞑想〔の境地〕(第三禅)に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、第二の瞑想〔の境地〕にたいする欲念を完全に取り払って、第三〔の瞑想〕への到達のために、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

※ テキストには pītī ti とあるが、VRI版により pītigata と読む。

 

§152  そこで、すなわち、彼に──第二の瞑想〔の境地〕から出起して、気づきと正知の者となり、【159】諸々の瞑想の支分を綿密に注視している〔彼〕に──喜悦〔の支分〕が、粗雑なるもの〔の観点〕から現起し、まさしく、そして、安楽が、さらに、〔心の〕一境性が、寂静なるもの〔の観点〕から現起するとき、そのとき、彼に──粗雑なる支分の捨棄のために、さらに、寂静なる支分の獲得のために、まさしく、その形相に、「パタヴィー(地である)」「パタヴィー(地である)」と、繰り返し意を為している〔彼〕に──「今や、第三の瞑想が成就するであろう」と、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断して、まさしく、その、地の遍満を対象と為して、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が生起する。そののち、まさしく、その対象において、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕が疾走する。それら〔の疾走作用の心〕のうち、最後の一つが、形態の行境のものにして第三の瞑想に属するものとなる。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって(§74)、欲望の行境のものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

 [(三)第三の瞑想]

 

§153  また、そして、これだけで、この者は、(一)さらに、喜悦の離貪あることから、(二)そして、放捨の者として〔世に〕住み、(三)かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、(四)そして、身体による安楽を得知し、(五)すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、(六)第三の瞑想を成就して〔世に〕住む。このように、この者によって、(七)一つの支分を捨棄し、二つの支分を具備し、三種類の善きものがあり、十の特相を成就した、第三の瞑想〔の境地〕としての地の遍満が、〔ここにおいて〕到達されたものと成る。

 

83.

 

§154  (一)そこにおいて、「さらに、喜悦の離貪あることから」とは、「離貪」というのは、〔前に〕説かれた流儀の喜悦の、あるいは、忌避、あるいは、超越。また、〔ここにおいて説かれた喜悦と離貪の〕両者の内にある「さらに」という語は、〔他句との〕連結の義(意味)である。それは、(1)あるいは、〔第二の瞑想の解説における〕「寂止」に連結し、(2)あるいは、〔第二の瞑想の解説における〕「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止」に〔連結する〕。

 (1)そこにおいて、すなわち、「寂止」だけに連結するとき、そのときは、「さらに、喜悦の離貪あることから、そして、なお、より一層に、かつまた、〔喜悦の〕寂止あることから」と、このように、〔句の〕構成が知られるべきである。そして、この〔句の〕構成による離貪は、忌避の義(意味)と成る。それゆえに、「さらに、喜悦の忌避あることから、かつまた、〔喜悦の〕寂止あることから」と、この義(意味)が見られるべきである。

 (2)また、すなわち、「〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止」に連結するとき、そのときは、「さらに、喜悦の離貪あることから、そして、なお、より一層に、かつまた、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」と、このように、〔句の〕構成が知られるべきである。そして、この〔句の〕構成による離貪は、超越の義(意味)と成る。それゆえに、「さらに、喜悦の超越あることから、かつまた、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」と、この義(意味)が見られるべきである。

 

§155  さらに、もちろん、これらの思考と想念〔の両支分〕は、まさしく、第二の瞑想において、寂止したとして、いっぽう、この〔第三の〕瞑想の道を遍く提示することを義(目的)に、さらに、〔第三の瞑想の境地への〕褒め称え〔の言葉〕を話すことを義(目的)に、この〔句〕が説かれた。なぜなら、「かつまた、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」と説かれたとき、このことが覚知されるからである。「まちがいなく、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止は、この〔第三の〕瞑想の道である」と。さらに、たとえば、第三の聖者の道(覚りの第三階梯である不還道・不還向)において、たとえ、捨棄されることがないとして、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)等々の捨棄が、「五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩、有身見・疑・戒禁取・欲貪・瞋恚)の捨棄あることから、[化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕]」(アングッタラ・ニカーヤ1p.232)と、このように説かれているように(有身見・疑・戒禁取の三結は、第一の聖者の道である預流道・預流向において捨棄されたにもかかわらず、それらの三結を含む五下分結の捨棄が、第三の聖者の道である不還道・不還向において説かれているように)、【160】〔そして、それが、第三の聖者の道への〕褒め称え〔の言葉〕を話すことと成り、その到達のために邁進する者たちにとって、邁進〔の思い〕を生じさせるものと〔成る〕ように、まさしく、このように、ここ(第三の瞑想の境地)では、たとえ、寂止されることがないとして(第二の瞑想の境地において、すでに寂止されているとして)、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止が説かれているのであり、〔それは、第三の瞑想の境地への〕褒め称え〔の言葉〕を話すことと成る。それによって、この義(意味)が〔前に〕説かれた。「さらに、喜悦の超越あることから、かつまた、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから」と。

 

84.

 

§156  (二)「そして、放捨の者として〔世に〕住み」とは、ここにおいて、再生(ウパパッティ)〔の観点〕から見る(イッカティ)、ということで、「放捨(ウペッカー)」。〔分け隔てなく〕平等に見る、偏向なき者と成って見る、という義(意味)である。〔まさに〕その、清潔にして広大、強靭に至った〔放捨〕を具備したことから、第三の瞑想を保有する者であり、「放捨の者」と説かれる。また、放捨は、(1)六つの支分の放捨、(2)梵住の放捨、(3)覚りの支分の放捨、(4)精進の放捨、(5)諸々の形成〔作用〕の放捨、(6)感受の放捨、(7)〔あるがままの〕観察の放捨、(8)そこに中なる放捨、(9)瞑想の放捨、(10)完全なる清浄の放捨、という、十種類のものと成る。

 

§157  (1)そこにおいて、すなわち、「ここに、煩悩が滅尽した比丘は、眼によって形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住みます〕」(ディーガ・ニカーヤ3p.250,アングッタラ・ニカーヤ2p.198,アングッタラ・ニカーヤ3p.279)と、このように言及されたもので、煩悩の滅尽者の、〔感官の〕六つの門において、好ましい〔六つの対象〕や好ましくない六つの対象が視野にあるとき、完全なる清浄の〔生来の〕性向の状態を捨棄しない行相あるものと成った放捨──これが、「六つの支分の放捨」ということになる。

 

§158  (2)また、すなわち、「放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます」(ディーガ・ニカーヤ1p.251,マッジマ・ニカーヤ1p.283)と、このように言及されたもので、有情たちにたいし中なる行相あるものと成った放捨──これが、「梵住の放捨」ということになる。

 

§159  (3)すなわち、「遠離に依拠し、[離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、]放捨という正覚の支分を修めます」(サンユッタ・ニカーヤ4p.367)と、このように言及されたもので、共に生じた諸々の法(性質)にとって中なる行相あるものと成った放捨──これが、「覚りの支分の放捨」ということになる。

 

§160  (4)また、すなわち、「[禅定の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、励起の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、]放捨の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、[その心は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められます]」(アングッタラ・ニカーヤ1p.257)と、このように言及されたもので、「励み過ぎでもなく緩やか過ぎでもない精進」と名づけられた放捨──これが、「精進の放捨」ということになる。

 

§161  (5)すなわち、「どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕止寂(奢摩他・止)を所以に(※)生起するのか。どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を所以に生起するのか。八つの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕止寂を所以に生起する。十の諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する」(パティサンビダー・マッガ1p.64)と、このように言及されたもので、〔修行の〕妨害等を【161】〔あるがままに〕審慮して〔そののち〕確立する〔智慧〕にして、〔物事を〕収め取ることについて中なるものと成った放捨──これが、「諸々の形成〔作用〕の放捨」ということになる。

 

※ テキストには samādhivasena とあるが、VRI版により samathavasena と読む。以下の平行箇所も同様。

 

§162  (6)また、すなわち、「その時点において、欲望の行境(欲界)の善なる心が生起し、放捨を共具したものと成るなら」(ダンマ・サンガニp.29)と、このように言及されたもので、「苦でもなく楽でもない(不苦不楽)」と名づけられた放捨──これが、「感受の放捨」ということになる。

 

§163  (7)すなわち、「それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを捨棄し、放捨〔の思い〕を獲得します」(アングッタラ・ニカーヤ4p.70)と、このように言及されたもので、〔物事を〕弁別することについて中なるものと成った放捨──これが、「〔あるがままの〕観察の放捨」ということになる。

 

§164  (8)また、すなわち、欲〔の思い〕等々の〔聖典において〕「あるいは、また、云々」(ダンマ・サンガニp.9)と〔簡略して説かれたもの〕(Ch.14§133:欲の思い・信念・意を為すこと・そこに中なること)において言及されたもので、共に生じた〔諸々の法〕を平等に運び来るものと成った放捨──これが、「そこに中なる放捨」ということになる。

 

§165  (9)すなわち、「そして、放捨の者として〔世に〕住み」(ディーガ・ニカーヤ1p.75,ヴィバンガp.245)と、このように言及されたもので、たとえ、至高の安楽にたいしても、それにたいする偏向を生まない放捨──これが、「瞑想の放捨」ということになる。

 

§166  (10)また、すなわち、「放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を」(ディーガ・ニカーヤ1p.75,ヴィバンガp.245)と、このように言及されたもので、一切の正反対のものにたいし完全なる清浄のものとなり、正反対のものを寂止することについてもまた、労苦なきものと成った放捨──これが、「完全なる清浄の放捨」ということになる。

 

§167  そこにおいて、そして、六つの支分の放捨、かつまた、梵住の放捨、かつまた、覚りの支分の放捨、かつまた、そこに中なる放捨、かつまた、瞑想の放捨、さらに、完全なる清浄の放捨は、義(意味)〔の観点〕から一つのものであり、まさしく、そこに中なる放捨と成る。いっぽう、それぞれの位置の細別によって、それには、この細別がある(上記のように細別される)──たとえ、一者として存しつつも、有情には、少年や若年や長老や軍団長や王等を所以に細別があるように。それゆえに、それら〔の放捨〕については、そこにおいて、六つの支分の放捨があるなら、そこにおいては、覚りの支分の放捨等々が〔有ることは〕なく、また、あるいは、そこにおいて、覚りの支分の放捨があるなら、そこにおいては、六つの支分の放捨等々が有ることはない、と知られるべきである。

 そして、すなわち、これら〔の放捨〕に、義(意味)〔の観点〕から、一なる状態があるように、このように、諸々の形成〔作用〕の放捨と〔あるがままの〕観察の放捨にもまた、〔義の観点から、一なる状態がある〕。なぜなら、それは、まさしく、智慧であり、作用〔の差異〕を所以に、二種に細別されたからである。

 

§168  まさに、すなわち、人が、夕方、家に入った蛇を、山羊足の棒(山羊の足のように先端が三つ又になっている、蛇を捕獲するための棒)を掴んで、遍く探し求めていると、その〔蛇〕が籾小屋で横になっているのを見て、「はてさて、まさに、〔これこそは〕蛇ではないのか」と眺め見ながら、〔実際には〕三つの卍印〔でしかなかったの〕を見て、思い違いなき者となるなら、「蛇なのか、蛇ではないのか」と弁別することについて【162】中なることが有る(無関心になる)ように、まさしく、このように、すなわち、〔あるがままの〕観察に励む者に、〔あるがままの〕観察の知恵によって〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相が見られたとき、諸々の形成〔作用〕の無常なる状態等を弁別することについて中なることが生起するなら、これが、「〔あるがままの〕観察の放捨」ということになる。

 

§169  また、すなわち、その人が、山羊足の棒で、荒々しく蛇を収め取って、「はてさて、どうだろう、わたしは、この蛇を害することなく、かつまた、自己をこの〔蛇〕に咬ませることなく、解き放てるであろうか」と、解き放ちの行相だけを遍く探し求めていると、収め取ることについて中なることが有るように、まさしく、このように、すなわち、〔無常と苦痛と無我の〕三つの特相が見られたことから、燃え盛る〔家〕であるかのように、三つの〔迷いの〕生存(三有:三界)を見ていると、諸々の形成〔作用〕を収め取ることについて中なることが〔有るなら〕、これが、「諸々の形成〔作用〕の放捨」ということになる。

 

§170  かくのごとく、〔あるがままの〕観察の放捨が成就されたとき、諸々の形成〔作用〕の放捨もまた、まさしく、成就されたものと成る。また、これら〔の放捨〕は、弁別することと収め取ることについて、この「中なること」と名づけられた作用によって、二種に細別された、と〔知られるべきである〕。

 また、精進の放捨は、かつまた、感受の放捨は、そして、互いに他と、さらに、残りのものとも、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、細別された、と〔知られるべきである〕。

 

§171  ということで、これらの放捨のなかで、瞑想の放捨が、ここでは、志向するところとなる。それは、中なることを特相とし、念慮なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、労苦なき〔状態〕を現起(現状)とし、喜悦の離貪を境処の拠点(直接原因)とする、と〔知られるべきである〕。

 ここにおいて、〔或る者は〕言う。「そして、まちがいなく、この〔瞑想の放捨〕は、義(意味)〔の観点〕から、まさしく、そこに中なる放捨として有り、さらに、その〔そこに中なる放捨〕は、第一と第二の瞑想においてもまた存在する。それゆえに、そこでもまた、この〔瞑想の放捨〕は、『そして、放捨の者として〔世に〕住み』と、このように説かれるべきものとして存在するべきである。何ゆえに、それは、〔そこにおいて〕説かれなかったのか(どうして、第三の瞑想において、はじめて説かれたのか)」と。「作用が明敏ならざることから〔説かれなかった〕」〔と答える〕。なぜなら、そこ(第一と第二の瞑想)においては、その〔瞑想の放捨〕の作用は、思考等々によって征服されたことから、明敏ではなく、いっぽう、ここ(第三の瞑想)では、この〔瞑想の放捨〕は、思考と想念と喜悦によって征服されないことから、浮き出た血管のようなものと成って、明敏なる作用あるものとして生じたからである。それゆえに、〔第三の瞑想において、放捨が〕説かれた、と〔知られるべきである〕。

 「そして、放捨の者として〔世に〕住み」という、この〔句〕の、義(意味)の解説は、全てにわたり、〔以上で〕終了となる。

 

85.

 

§172  (三)今や、「かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕」とは、ここにおいて、思念する、ということで、「気づきの者」。正知する、ということで、「正知の者」。人と〔共に存在するものとして〕、そして、気づきが、さらに、正知が、〔ここにおいて〕説かれた(気づきと正知の者とは、気づきと正知を有する人のことである)。そこにおいて、気づきは、思念することを特相とし、忘却なき〔状態〕を効用(機能・性行)とし、守護を現起(現状)とする。正知は、迷妄なき〔あり方〕を特相とし、吟味を効用(機能・性行)とし、精査を現起(現状)とする。

 

§173  そこにおいて、たとえ、何であれ、この気づきと正知は、〔第三の瞑想より〕前の諸々の瞑想においてもまた存在する。なぜなら、気づきが忘却された者には、正知なき者には、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕ほどのものでさえも成就しないからである。ましてや、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕は〔成就するべくもない〕。いっぽう、〔支分の〕粗雑なることから、それらの瞑想のばあい、地にある人の〔歩み〕のように、心の赴く所は、安楽なるものとして有り、そこにおいて、気づきと正知の作用は、明敏ではない(行程が楽であり気づきと正知は必要とされない)。いっぽう、粗雑なる支分の捨棄によって、【163】〔支分の〕繊細なることから、この瞑想のばあい、剃刀の切っ先にある人の〔歩み〕のように、まさしく、気づきと正知の作用の遍き収取あることが、心の赴く所として、求められるべきものとなる(行程が楽ではなく気づきと正知が必要とされる)。ということで、まさしく、ここに、〔気づきと正知が〕説かれた。

 

§174  そして、なお、より一層に〔その理由を説くなら〕、たとえば、乳牛(母牛)のもとに赴く子牛が、乳から離されたとして、〔牛飼いに〕守られていないなら、まさしく、ふたたび、乳に近しく赴くように、このように、喜悦から離された、この第三の瞑想の安楽が、気づきと正知の守護によって守られていないなら、それは、まさしく、ふたたび、喜悦に近しく赴くであろうし、まさしく、喜悦と結び付いたものとして存するであろう。あるいは、また、安楽にたいし、有情たちは執着し、そして、この〔第三の瞑想の〕安楽は、それよりも他に安楽の状態なきことから、極めて甘美なるものである。いっぽう、ここにおいて、気づきと正知の威力によって、安楽にたいし、執着なくあることが有る──他なるものとして、ではなく。ということで、この差異の義(意味)を見示するために、まさしく、ここに、この〔気づきと正知〕が説かれた、と知られるべきである。

 

§175  (四)今や、「そして、身体による安楽を得知し」とは、ここにおいて、たとえ、何であれ、第三の瞑想を保有する者には、安楽を得知することの受益(享受)は存在しないとして、このように存しているときもまた、すなわち、彼には、名前の身体(名身:精神的身体)と結び付いた安楽があることから──あるいは、すなわち、その名前の身体と結び付いた安楽があるなら、その〔安楽〕から現起する極めて精妙なる形態(精妙物質)によって、すなわち、彼の形態の身体(色身:物質的身体)が充満され(※)、それが充満されたことから、たとえ、〔彼が〕瞑想から出起したとして、〔そのとき、彼は〕安楽を得知するであろうことから──それゆえに、この義(意味)を見示しながら、「そして、身体による安楽を得知し」と言った。

 

※ テキストには phuṭṭho とあるが、VRI版により phuo と読む。

 

86.

 

§176  (五)今や、「すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの」とは、ここにおいて、すなわち、瞑想を因として、すなわち、瞑想という契機あることから、彼のことを、第三の瞑想を保有する人であると、覚者(ブッダ)等々の聖者たちが、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、明示し、賞賛する、というのが、志向するところとなる。何を〔告げ知らせるのか〕、ということで、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と〔告げ知せる〕。その「第三の瞑想を成就して〔世に〕住む」と、ここにおいて、このように、〔句の〕構成が知られるべきである。

 

§177  「また、何ゆえに、彼のことを、彼らは、このように賞賛するのか」と〔問うなら〕、「賞賛に値する者であるから」〔と答える〕。なぜなら、この者は、すなわち、極めて甘美なる安楽にして、安楽の完全態(波羅蜜)に至り得た、第三の瞑想においてもまた、放捨の者としてあり、そこにおいて、安楽への執着で引かれないことから──かつまた、すなわち、喜悦が生起しないように、このように現起された気づきがあることで、気づきある者としてあることから──さらに、すなわち、聖者の欲するところにして、かつまた、まさしく、聖者たる人の慣れ親しむところである、汚染なき安楽を、名前の身体(精神的身体)によって得知することから、それゆえに、賞賛に値する者と成るからである。かくのごとく、賞賛に値する者であるから、彼のことを、それらの聖者たちは、【164】このように、賞賛の因と成った諸徳を明示しつつ、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と、このように賞賛する、と知られるべきである。

 (六)「第三の」とは、数の順序たることから、「第三の」。この〔第三の瞑想〕は、第三〔の瞑想の境地〕に入定する、ということでもまた、「第三の」。

 

§178  (七)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「一つの支分を捨棄し、二つの支分を具備し」とは、ここにおいて、喜悦の捨棄を所以に、一つの支分を捨棄したことが知られるべきである。また、〔まさに〕その、この〔喜悦〕は、第二の瞑想にとっての思考と想念のように、まさしく、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の瞬間において、捨棄される。それによって、その〔喜悦〕は、その〔第三の瞑想〕にとって、捨棄の支分である、と説かれる。

 

§179  また、安楽、心の一境性、という、これらの二つ〔の支分〕の生起を所以に、二つの支分を具備したことが知られるべきである。それゆえに、すなわち、『ヴィバンガ(分別論)』において、「『〔第三の〕瞑想』とは、放捨、気づき、正知、安楽、心の一境性である」(ヴィバンガp.260)と説かれたが、それは、必需品〔たる支分〕を有する瞑想〔の境地〕を見示するために、教相〔の観点〕(比喩的具体的説明)によって説かれた。いっぽう、教相なき〔観点〕(逐語的理論的説明)によって〔説くなら〕、〔対象を〕凝視することという特相(§119)に至り得た諸支分たるを所以に、放捨と気づきと正知を除いて、この〔第三の瞑想〕は、まさしく、二つの支分あるものと成る。すなわち、〔聖典に〕言うように、「〔第三の瞑想は〕どのようなものであるのか。その時点において、〔第三の瞑想は〕二つの支分ある瞑想と成る。安楽、心の一境性である」(ヴィバンガp.264)と。残りのものは、まさしく、第一の瞑想において説かれた方法となる(第一の瞑想と同様である)。

 

87.

 

§180  また、このように、その〔第三の瞑想〕が到達されたときもまた、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、五つの行相によって、行ないに自在なる者と成って、熟練するところの第三の瞑想〔の境地〕から出起して、そして、「この入定は、喜悦という義(利益)に反するものの近くにあり、『まさしく、すなわち、そこにおいて、「安楽である」という、心の念慮があるなら、このことによって、これは、粗雑なるものと告げ知らされます』(ディーガ・ニカーヤ1p.37)と、このように説かれた安楽〔の支分〕が粗雑なることから、〔その〕支分は〔いまだ〕力弱きものとしてある」と、そこにおいて汚点を見て、第四の瞑想〔の境地〕(第四禅)に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、第三の瞑想〔の境地〕にたいする欲念を完全に取り払って、第四〔の瞑想〕への到達のために、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

§181  そこで、すなわち、彼に──第三の瞑想〔の境地〕から出起して、気づきと正知の者となり、諸々の瞑想の支分を綿密に注視している〔彼〕に──「心の属性としての悦意」と名づけられた安楽〔の支分〕が、粗雑なるもの〔の観点〕から現起し、まさしく、そして、放捨の感受が、さらに、心の一境性が、寂静なるもの〔の観点〕から現起するとき、そのとき、彼に──粗雑なる支分の捨棄のために、さらに、寂静なる支分の獲得のために、まさしく、その形相に、「パタヴィー(地である)」「パタヴィー(地である)」と、繰り返し意を為している〔彼〕に──「今や、第四の瞑想が成就するであろう」と、生存の〔潜在〕支分〔作用〕を切断して、まさしく、その、地の遍満を対象と為して、意の門における〔心を対象に〕傾注する〔作用の心〕が生起する。そののち、まさしく、その対象において、四つ、あるいは、五つの、疾走〔作用の心〕が生起する。【165】それら〔の疾走作用の心〕のうち、最後の一つが、形態の行境のものにして第四の瞑想に属するものとなる。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた流儀によって、欲望の行境のものとなる、と〔知られるべきである〕。

 

§182  また、これが、〔第四の瞑想の、諸他のものとの〕差異となる。すなわち、安楽の感受は、苦でもなく楽でもない感受にとって、習修としての縁によって、縁と成らないことから、かつまた、第四の瞑想においては、苦でもなく楽でもない感受によって、〔心が〕生起されるべきことから、それゆえに、それら〔の疾走作用の心〕は、放捨の感受と結び付いたものと成る。そして、ここにおいて、まさしく、放捨と結び付いたことから、喜悦もまた遍く衰退する、と〔知られるべきである〕。

 

 [(四)第四の瞑想]

 

§183  そして、これだけで、この者は、(一)かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、(二)苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、(三)第四の瞑想を成就して〔世に〕住む。このように、この者によって、(四)一つの支分を捨棄し、二つの支分を具備し、三種類の善きものがあり、十の特相を成就した、第四の瞑想〔の境地〕としての地の遍満が、〔ここにおいて〕到達されたものと成る。

 

88.

 

§184  (一)そこにおいて、「かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから」とは、そして、身体の属性としての安楽の、さらに、身体の属性としての苦痛の、捨棄あることから。

 「まさしく、過去において」とは、そして、それは、まさに、まさしく、過去においてであり、第四の瞑想の瞬間においてではない。

 「悦意と失意の滅至あることから」とは、そして、心の属性としての安楽の、さらに、心の属性としての苦痛の、ということで、これらの二つともどもに、まさしく、過去において、滅至あることから。捨棄あることから、というのが、まさしく、〔ここにおいて〕説かれたものと成る。

 

§185  「また、いつ、それらの捨棄が有るのか」と〔問うなら〕、「〔第一から第四までの〕四つの瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において」〔と答える〕。なぜなら、悦意は、まさしく、第四の瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の瞬間において捨棄され、苦痛と失意と安楽〔の三つ〕は、〔それぞれが〕第一と第二と第三〔の瞑想〕の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の瞬間において〔捨棄される〕からである。このように、たとえ、これらが、捨棄の順によって説かれなかったとして、いっぽう、〔『ヴィバンガ(分別論)』の〕機能の区分(ヴィバンガp.122)における、諸々の機能についての、まさしく、誦説の順によって、ここでもまた、〔そのように〕説かれたものとして、安楽と苦痛と悦意と失意の捨棄が知られるべきである。

 

§186  また、すなわち、まさしく、それぞれの瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の瞬間において、これらが捨棄されるなら、「そこで、何ゆえに、『では、どこにおいて、生起した苦痛の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した苦痛の機能は、完全に残りなく止滅します。……略……。では、どこにおいて、生起した失意の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した失意の機能は、完全に残りなく止滅します。……。では、どこにおいて、生起した安楽の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した安楽の機能は、完全に残りなく止滅します。……。では、どこにおいて、生起した悦意の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した悦意の機能は、【166】完全に残りなく止滅します』(サンユッタ・ニカーヤ5p.213-5)と、このように、まさしく、〔四つの〕瞑想〔の瞑想の境地に専注する禅定〕において、止滅が説かれたのか」と〔問うなら〕、「極めて勝れた止滅なることから」〔と答える〕。なぜなら、極めて勝れた止滅は、それらにとっては、第一の瞑想等々〔の瞑想の境地に専注する禅定〕においてあり、まさしく、〔極めて勝れた止滅ならざる、単なる〕止滅は、〔そこにおいては〕なく、いっぽう、まさしく、〔極めて勝れた止滅ならざる、単なる〕止滅は、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕の瞬間においてあり、極めて勝れた止滅は、〔そこにおいては〕ないからである。

 

§187  まさに、そのように、種々なる〔心を対象に〕傾注する〔作用〕(引転・転向)がある、第一の瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においては、たとえ、苦痛の機能が止滅したとして、あるいは、虻や蚊等の接触によって、あるいは、平坦ならざる坐所の悩苦によって、〔苦痛の機能の〕生起は存するであろう。まさしく、しかし、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の内においては、〔苦痛の機能の生起は〕ない。あるいは、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においては、たとえ、止滅したとして、この〔苦痛の機能〕は、相反するもの(対処法となるもの)によって〔いまだ〕打破されていないことから、巧妙に止滅したものとは成らない(温存されている)。いっぽう、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕の内においては、喜悦の充満によって、一切の身体は、安楽に没入したものと成り、そして、安楽に没入した身体にとって、苦痛の機能は、相反するものによって打破されたことから、巧妙に止滅したものと成る。

 

§188  そして、まさしく、種々なる〔心を対象に〕傾注する〔作用〕がある、第二の瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においては、たとえ、失意の機能が捨棄されたとして、すなわち、この〔失意の機能〕は、思考と想念を縁とする、身体の疲弊が、そして、心の害障が、〔そのどちらかが〕存しているときに生起し、しかしながら、思考と想念の状態なきときは、まさしく、生起せず、また、そこにおいて、〔失意の機能が〕生起するなら、そこにおいて、思考と想念の状態あるときに〔生起したのであり〕、そして、第二の瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において、思考と想念は、まさしく、〔いまだ〕捨棄されていないのであり、ということで、そこにおいて、その〔失意の機能〕の生起が存するであろう。まさしく、しかし、第二の瞑想〔の瞑想の境地に専注する禅定〕においては、縁が捨棄されたことから、〔失意の機能は生起し〕ない。

 

§189  そのように、第三の瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においては、たとえ、安楽の機能が捨棄されたとして、喜悦から現起する精妙なる形態(精妙物質)で充満された身体には、〔安楽の機能の〕生起が存するであろう。まさしく、しかし、第三の瞑想〔の瞑想の境地に専注する禅定〕においては、〔安楽の機能は生起し〕ない。なぜなら、第三の瞑想〔の瞑想の境地に専注する禅定〕においては、安楽の縁として有る喜悦が、全てにわたり、止滅するからである。そのように、第四の瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕においては、たとえ、悦意の機能が捨棄されたとして、〔悦意の機能の〕近くにあることから、かつまた、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得た放捨の状態がないことによって、〔悦意の機能が〕正しく超越されていないことから、〔悦意の機能の〕生起が存するであろう。まさしく、しかし、第四の瞑想〔の瞑想の境地に専注する禅定〕においては、〔悦意の機能は生起し〕ない。まさしく、それゆえに、「そして、ここにおいて、生起した苦痛の機能は、完全に残りなく止滅します。〔云々〕」(サンユッタ・ニカーヤ5p.213-5:§186)と、〔第一から第四までの瞑想の〕それぞれにおいて、「完全に残りなく」〔の語〕を収め取ることが為された(それぞれに付加された)、と〔知られるべきである〕。

 

§190  ここにおいて、〔或る者は〕言う。「そこで、このように、それぞれの瞑想の〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕において、たとえ、これらの感受が捨棄されたとして、何ゆえに、ここに集められたのか(それぞれの瞑想において言及されず、どうして、この第四の瞑想において言及されたのか)」と。「楽に収め取ることを義(目的)に」〔と答える〕。なぜなら、すなわち、この、「苦でもなく楽でもない」と、ここにおいて、苦でもなく楽でもない感受と説かれたものは、それは、繊細で、識知し難く、楽に収め取ることができないからである。それゆえに、たとえば、まさに、怒っていて、いかようにも、かくようにも、近づいて行って収め取ることができない牛を、牛飼いが、楽に収め取ることを義(目的)に、全ての牛たちを一つの牛舎に集め、【167】そこで、〔その〕一者一者を運び出しながら、次第次第に至り着いた、この〔怒っている牛〕を、その〔牛飼い〕が、「それを収め取れ」と、その〔牛〕をもまた収め取らせるように、まさしく、このように、世尊は、楽に収め取ることを義(目的)に、これら〔の感受〕の一切を、〔ここに〕集めた。なぜなら、このように、集められたこれら〔の感受〕を見示して、「すなわち、まさしく、安楽でもなく、苦痛でもなく、悦意でもなく、失意でもないものは、これは、苦でもなく楽でもない感受である」と〔説くなら〕、この〔苦でもなく楽でもない感受〕は、収め取らせることができるものと成るからである。

 

§191  さらに、また、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱にとっての縁を見示することを義(目的)にもまた、そして、これら〔の安楽の捨棄と苦痛の捨棄と悦意と失意の滅至〕が説かれた、と知られるべきである。なぜなら、安楽〔の捨棄〕と苦痛の捨棄等々は、その〔苦でもなく楽でもない止寂の心による解脱〕にとっての縁となるからである。すなわち、〔世尊が〕言うように、「友よ、まさに、四つの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります。友よ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、まさに、これらの四つの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります」(マッジマ・ニカーヤ1p.296)と。

 

§192  あるいは、すなわち、身体を有するという見解等々(五下分結)が、たとえ、他所において捨棄されたとして、第三の〔聖者の〕道(不還道・不還向)への褒め称え〔の言葉〕を話すことを義(目的)に、そこにおいて、〔それらの身体を有するという見解等々が〕捨棄された、と説かれたように(§155)、このように、この〔第四の〕瞑想への褒め称え〔の言葉〕を話すことを義(目的)にもまた、それら〔の安楽の捨棄と苦痛の捨棄と悦意と失意の滅至〕が、ここに説かれた、と知られるべきである。あるいは、縁の破壊によって、ここ(第四の瞑想)においては、貪欲と憤怒が極めて遠き状態たるを見示するためにもまた、これら〔の安楽の捨棄と苦痛の捨棄と悦意と失意の滅至〕が説かれた、と知られるべきである。なぜなら、これら〔の安楽と苦痛と悦意と失意〕のうち、安楽は、悦意にとっての縁となり、悦意は、貪欲にとっての〔縁となり〕、苦痛は、失意にとっての〔縁となり〕、失意は、憤怒にとっての〔縁となる〕からである。そして、安楽等の破壊によって、縁を共にする貪欲と憤怒は打破された、ということで、その〔第四の瞑想〕にとって、〔貪欲と憤怒は〕極めて遠くに有る、と〔知られるべきである〕。

 

§193  (二)「苦でもなく楽でもない」とは、苦痛の状態がないことによって、「苦でもなく」。安楽の状態がないことによって、「楽でもなく」。これによって、ここにおいて、苦痛と安楽と相反するものとして有る第三の感受を明らかにする──苦痛と安楽の状態なきのみのものとして、ではなく(単なる苦痛と安楽の非存ではなく、積極的に第三の感受として位置づける)。「第三の感受」というのは、苦でもなく楽でもないものであり、「放捨」ともまた、説かれる。それは、好ましいものと好ましくないもの〔の両者〕と反対のものを経験することを特相とし、中なることを効用(機能・性行)とし、明瞭ならざる〔状態〕を現起(現状)とし、安楽の止滅を境処の拠点(直接原因)とする、と知られるべきである。

 

89.

 

§194  「放捨による気づきの完全なる清浄たる」とは、放捨によって生じさせられた気づきの、完全なる清浄たる。なぜなら、この瞑想において、気づきは、完全無欠の清浄となるからである。そして、すなわち、その気づきの完全なる清浄は、それは、放捨によって作り為されたものである──他のものによって、ではなく。それゆえに、この〔第四の瞑想〕は、「放捨による気づきの完全なる清浄たる」と説かれる。『ヴィバンガ(分別論)』においてもまた説かれた。「この気づきは、この放捨によって、清潔なるものと成り、完全なる清浄のものと〔成り〕、遍く清められたものと〔成る〕。それによって説かれる。『放捨による気づきの完全なる清浄たる』〔と〕」(ヴィバンガp.261)と。そして、ここにおいて、すなわち、【168】放捨によって、気づきの完全なる清浄が有るなら、その〔放捨〕は、義(意味)〔の観点〕から、そこに中なることである、と知られるべきである。さらに、ここにおいて、単に、その〔放捨〕によって、気づきだけが、完全なる清浄のものと〔成るのでは〕なく、さらに、また、まさに、〔気づきと〕結び付いた諸々の法(性質)も、全てもろともに、〔完全なる清浄のものと成る〕。いっぽう、気づきを頭目(代表)として、〔気づきと結び付いた諸々の法についての〕説示が、〔ここにおいて〕説かれた。

 

§195  そこにおいて、たとえ、何であれ、この放捨は、下の三つの瞑想においてもまた見出されるとして、また、すなわち、昼に太陽の光が征服することから──さらに、自己にとって、親和なる状態あることで、あるいは、資益を為すことで、部分を共にする夜の利得なきことから──たとえ、昼に見出されていながらも、三日月が、完全なる清浄ならざるものと成り、遍く清められていないものと〔成る〕ように、このように、この、〔下の三つの瞑想における〕そこに中なる放捨の三日月もまた、思考等の正反対の法(性質)の輝きが征服することから、さらに、部分を共にする放捨の感受という夜の獲得なきことから、たとえ、見出されていながらも、第一等の瞑想の細別においては、完全なる清浄ならざるものと成る。そして、その〔下の三つの瞑想における放捨〕が完全なる清浄ならざることから、昼に完全なる清浄ならざる三日月の光のように、共に生じた気づき等々もまた、まさしく、完全なる清浄ならざるものと成る。それゆえに、それら〔の下の三つの瞑想〕については、一つでさえも、「放捨による気づきの完全なる清浄」と説かれなかった。いっぽう、ここ(第四の瞑想)では、思考等の正反対の法(性質)の輝きが征服する状態なきことから、さらに、部分を共にする放捨の感受の夜の獲得あることから、この、〔第四の瞑想における〕そこに中なる放捨の三日月は、極めて完全なる清浄のものと〔成る〕。その〔第四の瞑想における放捨〕が完全なる清浄なることから、完全なる清浄の三日月の光のように、共に生じた気づき等々もまた、完全なる清浄のものと成り、遍く清められたものと〔成る〕。それゆえに、この〔第四の瞑想〕だけが、「放捨による気づきの完全なる清浄たる」と説かれた、と知られるべきである。

 

§196  (三)「第四の」とは、数の順序たることから、「第四の」。この〔第四の瞑想〕は、第四〔の瞑想の境地〕に入定する、ということでもまた、「第四の」。

 

§197  (四)また、すなわち、〔前に〕説かれた、「一つの支分を捨棄し、二つの支分を具備し」とは、そこにおいて、悦意の捨棄を所以に、一つの支分を捨棄したことが知られるべきである。また、そして、その悦意は、〔生存の潜在支分を切断して、瞑想の境地に専注する禅定が生起し、生存の潜在支分に落下するに至る〕一つの道程における、まさしく、前〔の段階である、瞑想の境地に近接して止まる禅定〕の諸々の疾走〔作用〕において捨棄される。それによって、それ(悦意)は、その〔第四の瞑想〕にとって、捨棄の支分である、と説かれる。

 また、放捨の感受、心の一境性、という、これらの二つ〔の支分〕の生起を所以に、二つの支分を具備したことが知られるべきである。残りのものは、まさしく、第一の瞑想において説かれた方法となる(第一の瞑想と同様である)。

 まずは、これが、四なる瞑想(四禅)についての方法となる。

 

90.

 

 [(五)五なる瞑想]

 

§198  また、五なる瞑想(五禅)を発現させつつある者によって、熟練するところの第一の瞑想〔の境地〕から出起して、そして、「この入定は、〔五つの修行の〕妨害という義(利益)に反するものの近くにあり、思考〔の支分〕が粗雑なることから、〔その〕支分は〔いまだ〕力弱きものとしてある」と、そこにおいて(※)汚点を【169】見て、第二の瞑想〔の境地〕に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、第一の瞑想〔の境地〕にたいする欲念を完全に取り払って、第二〔の瞑想〕への到達のために、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

※ テキストには catuttha とあるが、VRI版により ca tattha と読む。

 

§199  そこで、すなわち、彼に──第一の瞑想〔の境地〕から出起して、気づきと正知の者となり、諸々の瞑想の支分を綿密に注視している〔彼〕に──思考〔の支分〕のみが、粗雑なるもの〔の観点〕から現起し、想念等々が、寂静なるもの〔の観点から現起する〕とき、そのとき、彼に──粗雑なる支分の捨棄のために、さらに、寂静なる支分の獲得のために、まさしく、その形相に、「パタヴィー(地である)」「パタヴィー(地である)」と、繰り返し意を為している〔彼〕に──まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、第二の瞑想が生起する。その〔第二の瞑想〕にとっては、まさしく、思考のみが、捨棄の支分であり、想念等々の四つは、具備の支分である。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた流儀のものとなる。

 

§200  また、このように到達したなら、その〔第二の瞑想〕においてもまた、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、五つの行相によって、行ないに自在なる者と成って、熟練するところの第二の瞑想〔の境地〕から出起して、そして、「この入定は、思考という義(利益)に反するものの近くにあり、想念〔の支分〕が粗雑なることから、〔その〕支分は〔いまだ〕力弱きものとしてある」と、そこにおいて汚点を見て、第三の瞑想〔の境地〕に、寂静なるもの〔の観点〕から意を為して、第二の瞑想〔の境地〕にたいする欲念を完全に取り払って、第三〔の瞑想〕への到達のために、〔心の〕制止が為されるべきである。

 

§201  そこで、すなわち、彼に──第二の瞑想〔の境地〕から出起して、気づきと正知の者となり、諸々の瞑想の支分を綿密に注視している〔彼〕に──想念〔の支分〕のみが、粗雑なるもの〔の観点〕から現起し、喜悦等々が、寂静なるもの〔の観点〕から〔現起する〕とき、そのとき、彼に──粗雑なる支分の捨棄のために、さらに、寂静なる支分の獲得のために、まさしく、その形相に、「パタヴィー(地である)」「パタヴィー(地である)」と、繰り返し意を為している〔彼〕に──まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、第三の瞑想が生起する。その〔第三の瞑想〕にとっては、まさしく、想念のみが、捨棄の支分であり、四なる方法〔ある瞑想の階梯〕(四禅)の第二の瞑想におけるように、喜悦等々の三つは、具備の支分である。残りのものは、まさしく、〔前に〕説かれた流儀のものとなる。

 

§202  かくのごとく、すなわち、四なる方法〔ある瞑想の階梯〕(四禅)における第二〔の瞑想〕は、それを二種に細別して、五なる方法〔ある瞑想の階梯〕(五禅)における、まさしく、そして、第二〔の瞑想〕と〔成り〕、さらに、第三〔の瞑想〕と成り、さらに、すなわち、そこ(四禅)における第三〔の瞑想〕と第四〔の瞑想〕は、それらは、ここ(五禅)では、第四〔の瞑想〕と第五〔の瞑想〕と成る。第一〔の瞑想〕は、まさしく、第一〔の瞑想〕である、と〔知られるべきである〕。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「地の遍満についての釈示」という名の第四章となる。