第六章 浄美ならざるものという〔心を定める〕行為の拠点についての釈示

 

102.

 

§1  【178】また、遍満の直後に配置された(Ch.3§105)、(1)膨張したもの、(2)青黒くなったもの、(3)膿み爛れたもの、(4)切断されたもの、(5)喰い残されたもの、(6)散乱したもの、(7)打ち殺され散乱したもの、(8)血まみれのもの、(9)蛆虫まみれのもの、(10)骨となったもの、という、十の、識知〔作用〕なきもの(死体)としてある浄美ならざるもの(不浄)について。

 (1)風によって高く〔膨らんだ〕鞴のように、生命の終焉ののち、順々に引き起こされた膨らみの状態によって膨張することから、膨張した〔死体〕。〔その〕膨張した〔死体〕こそが、「膨張したもの」。あるいは、嫌悪あることから、嫌悪される膨張した〔死体〕、ということで、「膨張したもの」。これは、そのような形態の、屍となった肉体の同義語である。

 

§2  (2)完全に破壊した青色のものが、青黒い〔死体〕と説かれる。青黒い〔死体〕こそが、「青黒くなったもの」。あるいは、嫌悪あることから、嫌悪される青黒い〔死体〕、ということで、「青黒くなったもの」。肉の増長ある諸々の箇所(身体のなかの肉が多いところ)においては赤色となり、膿の蓄積ある諸々の箇所においては白色となり、そして、多くのところは青色となる。これは、〔その〕青の箇所における、青の衣に包まれたかのような、屍となった肉体の同義語である。

 

§3  (3)諸々の完全に破壊した箇所において流れ出ている膿が、膿み爛れ。〔その〕膿み爛れこそが、「膿み爛れたもの」。あるいは、嫌悪あることから、嫌悪される膿み爛れ、ということで、「膿み爛れたもの」。これは、そのような形態の、屍となった肉体の同義語である。

 

§4  (4)二様に切断することで裂開されたものが、切断された〔死体〕と説かれる。切断された〔死体〕こそが、「切断されたもの」。あるいは、嫌悪あることから、嫌悪される切断された〔死体〕、ということで、「切断されたもの」。これは、中間において切断され、屍となった肉体の同義語である。

 

§5  【179】(5)こちらからもあちらからも様々な種類の行相によって犬や野狐(ジャッカル)等々に喰われたもの、ということで、喰い残された〔死体〕。〔その〕喰い残された〔死体〕こそが、「喰い残されたもの」。あるいは、嫌悪あることから、嫌悪される喰い残された〔死体〕、ということで、「喰い残されたもの」。これは、そのような形態の、屍となった肉体の同義語である。

 

§6  (6)様々な種類の投げ放たれたものが、散乱した〔死体〕。〔その〕散乱した〔死体〕こそが、「散乱したもの」。あるいは、嫌悪あることから、嫌悪される散乱した〔死体〕、ということで、「散乱したもの」。これは、他なるものとして、手があり、他なるものとして、足があり、他なるものとして、頭がある、ということで、このように、そこかしこに散乱した、屍となった肉体の同義語である。

 

§7  (7)それが、かつまた、打ち殺されたものであり、まさしく、前に〔説かれた〕方法によって、かつまた、散乱したものである、ということで、「打ち殺され散乱したもの」。これは、烏の足跡の行相によって手足や肢体にたいし刃で打って、〔前に〕説かれた方法によって散乱した、屍となった肉体の同義語である。

 

§8  (8)血が、散在し、散乱し、こちらからもあちらからも流出する、ということで、「血まみれのもの」。これは、流出した血が塗布された、屍となった肉体の同義語である。

 

§9  (9)諸々の虫が、蛆虫たちと説かれる。蛆虫たちが散在する、ということで、「蛆虫まみれのもの」。これは、虫で遍く満ち溢れた、屍となった肉体の同義語である。

 

§10  (10)骨こそが、「骨となったもの」。あるいは、嫌悪あることから、嫌悪される骨、ということで、「骨となったもの」。これは、骨の鎖の〔同義語〕でもまたあり、一骨となったものの同義語でもまたある。

 

§11  また、そして、これら〔の十の浄美ならざるもの〕こそは、これらの膨張したもの等々に依拠して生起した諸々の形相の〔名前〕でもまたあり、諸々の形相において獲得された瞑想〔の境地〕(禅・静慮)の名前でもまたある。

 

103.

 

 [1 膨張したもの(11)]

 

§12  そこにおいて──膨張した肉体において、膨張したものの形相を生起させて、「膨張したもの」と名づけられた瞑想を修めることを欲する〔心の〕制止者(瞑想修行者)によって、まさしく、地の遍満において説かれた方法によって、〔前に〕説かれた流儀の師匠に近づいて行って、〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)が収め取られるべきである。彼(瞑想修行者)に〔心を定める〕行為の拠点を言説しつつ、その〔師匠〕によって、浄美ならざる形相を義(目的)として、(一)〔墓場等に〕赴くことについての規定、(二)遍きにわたり形相を近しく観ること、(三)十一種類〔の観点〕によって形相を収め取ること、(四)〔墓地等への〕行き帰りの道を綿密に注視すること、という、このように、(五)〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕についての規定を結末とする一切が言説されるべきである。彼(瞑想修行者)もまた、一切を善くしっかりと収め取って、前に説かれた流儀の臥坐所に近しく赴いて、膨張したものの形相を遍く探し求めつつ住むべきである。

 

104.

 

 [(一)〔墓場等に〕赴くことについての規定]

 

§13  そして、このように住んでいるとして、「何某という名の、あるいは、村の門に、あるいは、森の入口に、あるいは、街道に、あるいは、山麓に、あるいは、木の根元に、【180】あるいは、墓場に、膨張した肉体が置かれた」と言説している者たちの言葉を、たとえ、聞いても、渡し場(沐浴場)ならざるところに飛び込んでいる〔慌て者〕のように、まさしく、ただちに、赴くべきではない。何ゆえにか。

 

§14  なぜなら、浄美ならざるものは、まさに、これは、猛獣たちに狙われるものとしてもまた〔有り〕、人間ならざるもの(精霊・悪霊)たちに狙われるものとしてもまた有り、そこで、彼には、生命の障りもまた存するであろうからである。また、あるいは、赴く道は、ここにおいて、あるいは、村の門をとおるものとして〔有り〕、あるいは、沐浴の渡し場をとおるものとして〔有り〕、あるいは、耕地の外側をとおるものとして有り、そこにおいて、〔自らの性と〕相違する形態(異性の姿)が視野にやってくるからである。あるいは、まさしく、その、肉体(死体)〔そのもの〕が、〔自らの性と〕相違するものとして有るからである。なぜなら、女の肉体は、男にとって〔自らの性と相違するものであり〕、かつまた、男の肉体は、女にとって〔自らの性と〕相違するものであり、〔まさに〕その、この〔肉体〕は、今このときに死んだものであるなら、浄美なるもの〔の観点〕からもまた現起し、それによって、彼には、梵行(禁欲清浄行)の障りもまた存するであろうからである。また、それで、もし、「これは、わたしのような者にとって、重大事にあらず」と、自己のことを考えるなら、〔常に〕このように考えている者として赴くべきである(覚悟を決めて赴くべきである)。

 

105.

 

§15  そして、赴きつつあるとして、あるいは、僧団の長老に、あるいは、或る誰か証知の比丘に、言説して〔そののち〕赴くべきである(告知してから赴くべきである)。何ゆえにか。

 

§16  なぜなら、それで、もし、彼が、墓場において、人間ならざるものや獅子や虎等々の形態や音声等の好ましくない対象(所縁)に征服されたとして、あるいは、手足や肢体が動揺し、あるいは、食べたものが〔腹に〕落ち着かず、あるいは、他の病苦が有るなら、そこで、彼のために、その〔長老〕は、精舎において、鉢や衣料の善き守護を為すであろうし、あるいは、青年〔比丘〕たちを、あるいは、沙弥たちを、〔彼のところに〕送り届けて、その比丘を看護するであろうからである。

 

§17  さらに、また、「『墓場』というものは、危惧なき場である」と思い考えながら、盗賊たちが──〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちであろうが、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちであろうが──集まってくる。彼らは、人間たちに追われたなら、比丘の近くに物品を捨て放ってもまた逃げて行く。人間たちは、「盗品と共に、盗賊を見つけた」と、比丘を掴まえて、悩み苦しめる。そこで、彼のために、その〔長老〕は、「この者を、悩み苦しめてはならない。この者は、わたしに言説して〔そののち〕、まさに、この〔修行の〕行為によって赴いたのだ」と、それらの人間たちを説得して、安穏の状態を作り為すであろう。これが、言説して〔そののち〕赴くことにおける福利となる。

 

§18  それゆえに、浄美ならざる形相を見ることにたいし激しい願望が生じたなら、〔前に〕説かれた流儀の比丘に〔墓場に赴くことを〕言説して、すなわち、まさに、士族が灌頂の場に、祭祀をする者が祭祀の堂に、また、あるいは、財なき者が財宝の場に、喜悦と悦意が生じた者となり、〔喜び勇んで〕赴くように、このように、喜悦と悦意を生起させて、諸々のアッタカター(注釈書)において説かれた手順によって〔墓場に〕赴くべきである。

 

§19  まさに、このことが、〔諸々のアッタカターにおいて〕説かれた。「膨張したものの浄美ならざる形相を〔常に〕収め取っている者は、独り、伴侶なく、赴く──現起した気づきの忘却なきために、内に赴いた諸々の〔感官の〕機能()によって、外に赴かない意図によって、行き帰りの道を綿密に注視しながら。その場所において、膨張したものの【181】浄美ならざる形相が、置かれたもの(安置された死体)として有るなら、その場所における、あるいは、岩を、あるいは、蟻塚を、あるいは、木を、あるいは、群叢を、あるいは、蔓を、形相を有するものに作り為し、対象を有するものに作り為す。形相を有するものに作り為して、対象を有するものに作り為して、膨張したものの浄美ならざる形相を、自ずからの状態(自性:固有の性能)の〔その〕状態〔の観点〕から、近しく観る(§84)。(1)色艶〔の観点〕からもまた、(2)徴表〔の観点〕からもまた、(3)外貌〔の観点〕からもまた、(4)方角〔の観点〕からもまた、(5)空間〔の観点〕からもまた、(6)限定〔の観点〕からもまた、(7)関節〔の観点〕から、(8)裂け目〔の観点〕から、(9)低き〔場の観点〕から、(10)高き〔場の観点〕から、(11)遍きにわたる〔観点〕から、〔近しく観る〕。彼は、その形相を、善く収め取られたものに作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く定め置かれたものとして定め置く。

 

§20  彼は、その形相を、善く収め取られたものに作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く定め置かれたものとして定め置いて、独り、伴侶なく、赴く──現起した気づきの忘却なきために、内に赴いた諸々の〔感官の〕機能によって、外に赴かない意図によって、行き帰りの道を綿密に注視しながら。彼は、歩行しつつあるもまた、その〔浄美ならざる形相〕を部分とする歩行だけを〔心に〕確立する(歩行瞑想)。坐りつつあるもまた、まさしく、その〔浄美ならざる形相〕を部分とするものとして、坐を設置する(静坐瞑想)。

 

§21  『遍きにわたり形相を近しく観ることは、何が義(目的)であり、何が福利であるのか』と〔問うなら〕、『遍きにわたり形相を近しく観ることは、迷妄なき〔あり方〕が義(目的)であり、迷妄なき〔あり方〕が福利である』〔と答える〕。『十一種類〔の観点〕によって形相を収め取ることは、何が義(目的)であり、何が福利であるのか』と〔問うなら〕、『十一種類〔の観点〕によって形相を収め取ることは、〔心を浄美ならざる形相に〕連結することが義(目的)であり、〔心を浄美ならざる形相に〕連結することが福利である』〔と答える〕。『〔墓地等への〕行き帰りの道を綿密に注視することは、何が義(目的)であり、何が福利であるのか』と〔問うなら〕、『〔墓地等への〕行き帰りの道を綿密に注視することは、〔心を定める行為の拠点の〕道程を正しく実践することが義(目的)であり、〔心を定める行為の拠点の〕道程を正しく実践することが福利である』〔と答える〕。

 

§22  彼は、福利を見る者と〔成り〕、宝の表象ある者と成って、〔瞑想対象となる形相に〕心作を現起させて、〔瞑想対象となる形相を〕愛顧しながら、その対象にたいし、心を連結する。『確実に、この〔実践の〕道によって、〔わたしは〕老と死から完全に解き放たれるのだ』と。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住む。彼には、形態の行境(色界)のものたる第一の瞑想が、そして、天の住が、さらに、修行によって作られる功徳行の基盤が、到達されたものと成る」と。

 

106.

 

§23  それゆえに、彼が、〔単なる〕心の自制を義(目的)として墓所〔の死体〕を見に赴くなら、彼は、鐘を打って、集を集めてでさえも、赴け(一人で行ってはならない)。いっぽう、〔心を定める〕行為の拠点を頭目(主目的)として赴きつつあるなら、独り、伴侶なく、根元となる〔心を定める〕行為の拠点を捨てずして、まさしく、それに意を為しつつ、墓場における犬等の危難の除去を義(目的)に、あるいは、歩杖を〔掴んで〕、【182】あるいは、棒を掴んで、善く確立された状態の成就ある者として、忘却なき気づきを作り為して、さらに、意を第六とする〔感官の〕機能が内に赴いた状態の成就あることから、外に赴かない意図ある者と成って、〔墓場に〕赴くべきである。

 

§24  まさしく、精舎から出つつあるなら、「何某の方角によって、何某の門によって、出つつある者として、〔わたしは〕存している」と、門が省察されるべきである。そののち、その道によって赴くなら、その道が〔心に〕定め置かれるべきである。「この道は、あるいは、東の方角に向かい赴く。あるいは、西〔の方角〕に……北〔の方角〕に……。あるいは、南の方角に向かい〔赴く〕。あるいは、〔東南と東北と西南と西北の四維のうち、どれか一つの〕維に向かい〔赴く〕」と。「また、この場において、左に赴く。この場において、右に〔赴く〕。そして、その〔道〕の、この場において、岩がある。この〔場〕において、蟻塚がある。この〔場〕において、木がある。この〔場〕において、群叢がある。この〔場〕において、蔓がある」と。このように、赴く道を〔心に〕定め置きながら、〔浄美ならざる〕形相の場に赴くべきである。

 

§25  そして、まさに、逆風を〔赴くべきでは〕ない。なぜなら、逆風を赴きつつあると、死骸の臭いが鼻を打って、あるいは、脳味噌を掻き乱すであろうし、あるいは、食を吐き捨てさせるであろうし、あるいは、後悔〔の思い〕を生じさせるであろうからである。「まさに、このような死骸の場にやってきた者として、〔わたしは〕存している」と。それゆえに、逆風を避けて、順風を赴くべきである。それで、もし、道の途中に、あるいは、山が〔有り〕、あるいは、淵が〔有り〕、あるいは、岩が〔有り〕、あるいは、垣が〔有り〕、あるいは、棘の場が〔有り〕、あるいは、水が〔有り〕、あるいは、泥が有り、順風の道によって赴くことができなく成るなら、衣料の端で鼻を塞いで赴くべきである。これが、彼にとって、〔墓地等に〕赴くことについての行持となる。

 

107.

 

 [(二)遍きにわたり形相を近しく観ること]

 

§26  また、このように〔墓場に〕赴いたなら、まずは、浄美ならざる形相が眺め見られるべきではない(最初から死体を眺めるべきではない)。方角が定め置かれるべきである。なぜなら、〔適切ならざる〕或る方角の部分においては、立つ者にとって、そして、〔認識の〕対象は明瞭と成って見えることがなく、さらに、心は行為に適するものと成らないからである。それゆえに、その〔場所〕を避けて、そこにおいては、立つ者にとって、そして、〔認識の〕対象が明瞭と成って見え、さらに、心が行為に適するものと成るなら、そこにおいて、立つべきである。そして、逆風と順風〔の場所〕は、捨棄されるべきである。なぜなら、逆風〔の場所〕においては、立つ者にとって、死骸の臭いによって悩まされたなら、〔彼の〕心は走り回り、順風〔の場所〕においては、立つ者にとって、それで、もし、そこにおいて、住者として人間ならざるものたちが有るなら、彼らは怒って、〔彼に〕義(利益)ならざることを為すからである。それゆえに、僅かに外れて、順風過ぎない〔場所〕において、立つべきである。

 

§27  たとえ、このように立っているとして、〔死骸から〕遠過ぎることなく、近過ぎることなく、〔死骸の〕足の方ではなく、頭の方ではなく、立つべきである。なぜなら、遠過ぎる〔場所〕においては、立つ者にとって、〔認識の〕対象は、明瞭と成らざるものとして有り、近過ぎる〔場所〕においては、恐怖〔の思い〕が生起し、あるいは、〔死骸の〕足の方であれ、あるいは、頭の方であれ、立つ者にとって、一切の浄美ならざる〔形相〕は、平等に覚知されないからである。それゆえに、〔死骸から〕遠過ぎることなく、近過ぎることなく、眺め見ている者にとって平穏の場となる、肉体(死体)の中間の部分において、立つべきである。

 

108.

 

§28  【183】このように立つ者によって、「その場所における、あるいは、岩を……略……あるいは、蔓を、形相を有するものに作り為し」(§19)と、このように、遍きにわたり、諸々の形相が近しく観られるべきと説かれた。

 

§29  そこで、これが、近しく観ることの規定となる。それで、もし、その形相の、遍きにわたり、眼の道(視野)において、岩が有るなら、その〔岩〕が、「この岩は、あるいは、高く、あるいは、低く、あるいは、小さく、あるいは、大きく、あるいは、赤く、あるいは、黒く、あるいは、白く、あるいは、長く、あるいは、円くある」と定め置かれるべきである。そののち、まさに、この空間において、「これは、岩である。これは、浄美ならざる形相である」「これは、浄美ならざる形相である。これは、岩である」と省察されるべきである。

 

§30  それで、もし、蟻塚が有るなら、その〔蟻塚〕もまた、「あるいは、高く、あるいは、低く、あるいは、小さく、あるいは、大きく、あるいは、赤く、あるいは、黒く、あるいは、白く、あるいは、長く、あるいは、円くある」と定め置かれるべきである。そののち、まさに、この空間において、「これは、蟻塚である。これは、浄美ならざる形相である」と省察されるべきである。

 

§31  それで、もし、木が有るなら、その〔木〕もまた、「あるいは、アッサッタ〔の木〕である、あるいは、ニグローダ〔の木〕である、あるいは、カッチャカ〔の木〕である、あるいは、カピッタカ〔の木〕である、あるいは、高く、あるいは、低く、あるいは、小さく、あるいは、大きく、あるいは、黒く、あるいは、白くある」と定め置かれるべきである。そののち、まさに、この空間において、「これは、木である。これは、浄美ならざる形相である」と省察されるべきである。

 

§32  それで、もし、群叢が有るなら、その〔群叢〕もまた、「あるいは、シンディ〔の群叢〕である、あるいは、カラマンダ〔の群叢〕である、あるいは、カナヴィーラ〔の群叢〕である、あるいは、クランダカ〔の群叢〕である、あるいは、高く、あるいは、低く、あるいは、小さく、あるいは、大きくある」と定め置かれるべきである。そののち、まさに、この空間において、「これは、群叢である。これは、浄美ならざる形相である」と省察されるべきである。

 

§33  それで、もし、蔓が有るなら、その〔蔓〕もまた、「あるいは、ラーブ〔の蔓〕である、あるいは、クンバンディー〔の蔓〕である、あるいは、サーマー〔の蔓〕である、あるいは、カーラヴァッリー〔の蔓〕である、あるいは、プーティラター〔の蔓〕である」と定め置かれるべきである。そののち、まさに、この空間において、「これは、蔓である。これは、浄美ならざる形相である」「これは、浄美ならざる形相である。これは、蔓である」と省察されるべきである。

 

109.

 

§34  また、すなわち、〔前に〕説かれた、「形相を有するものに作り為し、対象を有するものに作り為す」(§19)とは、それは、まさしく、ここに、内含されている(含意されている)。なぜなら、繰り返し〔心に〕定め置いている者は、まさに、形相を有するものに作り為すことになり、「これは、岩である。これは、浄美ならざる形相である」「これは、浄美ならざる形相である。これは、岩である」と、このように、二つずつに合わせては合わせて、〔心に〕定め置いている者は、まさに、対象を有するものに作り為すことになるからである。

 

§35  また、このように、形相を有するものに〔作り為して〕、さらに、対象を有するものに作り為して〔そののち〕、「自ずからの状態(自性)の〔その〕状態〔の観点〕から」(§19)〔心に〕定め置く、と説かれたことから、すなわち、その〔浄美ならざる形相〕の、自ずからの状態としての状態──他と共通のものではなく、自己の属性としてある、膨張したものの状態であるが──その〔状態〕によって、意が為されるべきである。「膨れ上がったものである」「膨張したものである」と、このように、自ずからの状態によって、自ずからの効用(機能・性行)によって、定め置かれるべきである、という義(意味)である。

 

110.

 

 [(三)十一種類〔の観点〕によって形相を収め取ること]

 

 このように定め置いて〔そののち〕、「(1)色艶〔の観点〕からもまた、(2)徴表〔の観点〕からもまた、(3)外貌〔の観点〕からもまた、【184】(4)方角〔の観点〕からもまた、(5)空間〔の観点〕からもまた、(6)限定〔の観点〕からもまた」(§19)、という、六種類〔の観点〕によって、形相が収め取られるべきである。どのようにか。

 

§36  (1)まさに、その〔心の〕制止者によって、「あるいは、黒〔の色艶〕の者の、あるいは、白〔の色艶〕の者の、あるいは、金色の表皮〔の色艶〕の者の、これは、〔その〕肉体である」と、色艶〔の観点〕から定め置かれるべきである。

 

§37  (2)また、徴表〔の観点〕から、「あるいは、女の徴表ある〔肉体〕である、あるいは、男の徴表ある〔肉体〕である」と定め置かずして、「あるいは、初年(少年期)において〔止住している者の〕、あるいは、中年(壮年期)において〔止住している者の〕、あるいは、後年(晩年期)において止住している者の、これは、〔その〕肉体である」と定め置かれるべきである。

 

§38  (3)外貌〔の観点〕から、まさしく、膨張したものの外貌を所以に、「その〔膨張したもの〕の、これは、頭の外貌である、これは、首の外貌である、これは、手の外貌である、これは、腹の外貌である、これは、臍の外貌である、これは、腰の外貌である、これは、腿の外貌である、これは、脛の外貌である、これは、足の外貌である」と定め置かれるべきである。

 

§39  (4)また、方角〔の観点〕から、「この肉体において、二つの方角がある。臍から下に、下の方角があり、〔臍から〕上に、上の方角がある」と定め置かれるべきである。そこで、あるいは、「この方角において、わたしは止住している(存している)、この〔方角〕において、浄美ならざる形相は〔止住している〕」と定め置かれるべきである。

 

§40  (5)また、空間〔の観点〕から、「まさに、この空間において、〔両の〕手は〔止住している〕、この〔空間〕において、〔両の〕足は〔止住している〕、この〔空間〕において、頭は〔止住している〕、この〔空間〕において、中間の身体(胴体)は止住している」と定め置かれるべきである。そこで、あるいは、「この空間において、わたしは止住している、この〔空間〕において、浄美ならざる形相は〔止住している〕」と定め置かれるべきである。

 

§41  (6)限定〔の観点〕から、「この肉体は、下は、足の裏によって〔限定されている〕、上は、髪の頂によって〔限定されている〕、横は、皮膚によって限定されている、そして、限定されたとおりの場において、まさしく、三十二〔の部位〕の死骸(汚物)で満ちている」と定め置かれるべきである。そこで、あるいは、「その〔浄美ならざる形相〕の、これは、手の限定(範囲)である、これは、足の限定である、これは、頭の限定である、これは、中間の身体の限定である」と定め置かれるべきである。また、あるいは、そのかぎりの場を、〔彼が〕収め取るなら、まさしく、そのかぎり〔の場〕が、「これは、このようなものとしてある、膨張したものである」と限定されるべきである。

 

§42  また、男にとって、女の肉体は〔順当ではなく〕、あるいは、女にとって、男の肉体は順当ではない(ふさわしくない)。〔自らの性と〕相違する肉体においては、〔浄美ならざる形相としての〕対象は現起せず、まさしく、〔悪しき思いで心を〕震わせることにとって、縁と成る。「まさに、腫れ膨れたものであろうが、女〔の肉体〕は、男の心を完全に奪い去って止住する」と、『マッジマ〔ニカーヤ〕(中部経典)』のアッタカターにおいて説かれた。それゆえに、まさしく、部分を共にする〔同性の〕肉体において、このように、六種類〔の観点〕によって、形相が収め取られるべきである。

 

111.

 

§43  また、すなわち、過去の覚者(過去仏)たちの現前において、〔心を定める〕行為の拠点が習修され、払拭〔行〕の支分が遍く守られ、〔四つの〕大いなる元素(大種:地・水・火・風)が窮尽され、形成〔作用〕()が遍く収め取られ、名前と形態(名色:精神的事象と物質的事象)が〔あるがままに〕定め置かれ、有情の表象()が撤去され、沙門の法(性質)が為され、【185】〔善なる行為の〕残香(薫習:潜在傾向)を香らせ、修行を修め、〔善なる〕種を有し、より上なる知恵(知・智)があり、〔心の〕汚れ(煩悩)が少ない、良家の子息であるなら、彼には、まさしく、眺め見た〔場〕、眺め見た場において、相似の形相(彼分相・似相:瞑想対象として心に思念された純粋形相)が現起する。もし、このように、〔相似の形相が〕現起しないとして、そこで、このように、六種類〔の観点〕によって形相を収め取っていると、〔相似の形相が〕現起する。

 

§44  また、彼に、たとえ、このように、〔相似の形相が〕現起しないとして、彼によって、「(7)関節〔の観点〕から、(8)裂け目〔の観点〕から、(9)低き〔場の観点〕から、(10)高き〔場の観点〕から、(11)遍きにわたる〔観点〕から」(§19)、という、さらなる、五種類〔の観点〕によってもまた、形相が収め取られるべきである。

 

112.

 

§45  (7)そこにおいて、「関節〔の観点〕から」とは、百八十の関節から。いっぽう、膨張した〔死体〕において、どのように、百八十の関節が〔心に〕定め置かれるというのだろう(百八十もの関節を定め置くことはできない)。それゆえに、この者によって、三つの右手の関節、三つの左手の関節、三つの右足の関節、三つの左足の関節、一つの首の関節、一つの腰の関節、という、このように、十四の大いなる関節を所以に、関節〔の観点〕から定め置かれるべきである。

 

§46  (8)「裂け目〔の観点〕から」とは、「裂け目」というのは、手〔と脇〕の間、足〔と足〕の間、腹の間(臍)、耳の間(耳孔)、ということで、このように、裂け目〔の観点〕から定め置かれるべきである。〔両の〕眼のばあいはまた、あるいは、閉じた状態が、あるいは、開いた状態が、さらに、口のばあいは、あるいは、締まった状態が、あるいは、開いた状態が、定め置かれるべきである。

 

§47  (9)「低き〔場の観点〕から」とは、すなわち、肉体における低き場としてあるもの──あるいは、眼の穴、あるいは、口の内、あるいは、喉の底──それが定め置かれるべきである。そこで、あるいは、「低き〔場〕において、わたしは止住している(存している)、高き〔場〕において、肉体は〔止住している〕」とも定め置かれるべきである。

 

§48  (10)「高き〔場の観点〕から」とは、すなわち、肉体における高き場としてあるもの──あるいは、膝、あるいは、胸、あるいは、額──それが定め置かれるべきである。そこで、あるいは、「高き〔場〕において、わたしは止住している、低き〔場〕において、肉体は〔止住している〕」とも定め置かれるべきである。

 

§49  (11)「遍きにわたる〔観点〕から」とは、肉体の一切が、遍きにわたる〔観点〕から定め置かれるべきである。全肉体において、知恵を行なわせて、その場が明瞭と成って現起するなら、そこにおいて、「膨張したものである」「膨張したものである」と、心が据え置かれるべきである。それで、もし、たとえ、このように、〔相似の形相が〕現起しないとして、腹を結末とする超過の膨張したもの(腹部が極度に膨張した死体)が有るなら、そこにおいて、「膨張したものである」「膨張したものである」と、心が据え置かれるべきである。

 

113.

 

§50  今や、「彼は、その形相を、善く収め取られたものに作り為して」(§20)という〔言葉〕等々について、これが、判別の言説となる。その〔心の〕制止者によって、その肉体において、〔前に〕説かれたとおりの形相を収め取ることを所以に、巧妙に形相が収め取られるべきである。気づきを善く確立されたものに作り為して、〔心に形相が〕傾注されるべきである。このように、繰り返し作り為している者によって、善くしっかりと〔形相が〕、まさしく、そして、保ち置かれるべきであり、さらに、定め置かれるべきである。肉体から遠過ぎず近過ぎない場所に、あるいは、立ち、あるいは、坐り、眼を開いて、〔肉体を〕眺め見ては、形相が収め取られるべきである。【186】「膨張した嫌悪なるものである」「膨張した嫌悪なるものである」と、百回、千回でさえも、〔眼を〕開いて、〔肉体が〕眺め見られるべきである。〔眼を〕閉じて、〔心に形相が〕傾注されるべきである。

 

§51  このように、繰り返し作り為している者には、収取の形相(取相:眼耳鼻舌身の五感官に依拠せず意感官だけで把捉できるようになった形相)が、善く収め取られたものと成る。「いつ、善く収め取られたものと成るのか」〔と問うなら〕、「すなわち、〔眼を〕開いて、〔肉体を〕眺め見ていると、さらに、〔眼を〕閉じて、〔形相に〕傾注していると、〔形相が〕一つに等しきものと成って視野にやってくるとき、そのとき、『善く収め取られたもの』ということに成る」〔と答える〕。

 

§52  彼が、その形相を、このように、善く収め取られたものに作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く定め置かれたものとして定め置いて、それで、もし、まさしく、そこにおいて(その場において)、修行の結末(第一の瞑想の境地)に至り得ることができないなら、そこで、この者は、まさしく、〔墓場に〕やってくる時について説かれた方法によって、独り、伴侶なく、まさしく、その〔心を定める〕行為の拠点に意を為しながら、気づきを善く確立されたものに作り為して、内に赴いた諸々の〔感官の〕機能によって、外に赴かない意図によって、まさしく、自己の臥坐所に赴くべきである。

 

§53  そして、墓場を、まさしく、出つつあるなら、やってきた道が定め置かれるべきである。「その道によって、〔墓場を〕出つつある者として〔わたしは〕存しているが、この道は、あるいは、東の方角に向かい赴く。あるいは、西〔の方角〕に……。北〔の方角〕に……。あるいは、南の方角に向かい赴く。あるいは、〔東南と東北と西南と西北の四維のうち、どれか一つの〕維に向かい〔赴く〕。また、この場において、左に赴く。この〔場〕において、右に〔赴く〕。そして、その〔道〕の、この場において、岩がある。この〔場〕において、蟻塚がある。この〔場〕において、木がある。この〔場〕において、群叢がある。この〔場〕において、蔓がある」と。

 

§54  このように、やってきた道を〔心に〕定め置いて、〔臥坐所に〕帰還したなら、歩行しつつあるもまた、まさしく、その〔浄美ならざる形相〕を部分とするものとして、歩行が〔心に〕確立されるべきである(歩行瞑想)。浄美ならざる形相の方角に向かう地の場所において、歩行するべきである、という義(意味)である。坐りつつあるもまた、まさしく、その〔浄美ならざる形相〕を部分とするものとして、坐が設置されるべきである(静坐瞑想)。

 

§55  また、それで、もし、その〔浄美ならざる形相〕の方角において、あるいは、溝が〔有り〕、あるいは、淵が〔有り〕、あるいは、木が〔有り〕、あるいは、垣が〔有り〕、あるいは、泥が有り、その方角に向かう地の場所において歩行することができず、坐もまた、空間なきことから、設置することができないなら、たとえ、その方角を眺め見ずにいるも、空間として適切なる場において、まさしく、そして、歩行するべきであり、さらに、坐るべきである。いっぽう、心は、まさしく、その方角に向かい、作り為されるべきである。

 

114.

 

§56  今や、「遍きにわたり形相を近しく観ることは、何が義(目的)であり」(§21)という〔言葉〕等の諸々の問いへの、「迷妄なき〔あり方〕が義(目的)であり」という〔言葉〕等の答えについて、これが、志向するところとなる。まさに、彼が、〔適切なる〕時刻ではなく膨張したものの形相の場に赴いて、遍きにわたり形相を近しく観ることを為して、形相を収め取ることを義(目的)に、眼を開いて、まさしく、〔肉体を〕眺め見ていると、その死んだ肉体は、立ち上がって、【187】立っているかのように、覆い被さるかのように、さらに、ついてまわるかのように成って、現起する。彼は、その、恐く、恐ろしい対象を見て、狂者であるかのように、散乱した心の者と成り、身の毛のよだつ驚愕の恐怖に至り得る。まさに、聖典に区分された三十八の〔瞑想の〕対象のなかで、他に、このような形態の恐ろしい対象は、まさに、存在しない。なぜなら、この〔心を定める〕行為の拠点において、瞑想〔の境地〕から離脱する者が、まさに、有るからである。「何ゆえにか」〔と問うなら〕、「〔心を定める〕行為の拠点の極度の恐ろしさから」〔と答える〕。

 

§57  それゆえに、その〔心の〕制止者は、〔心を〕堅く保って、気づきを善く確立されたものに作り為して、「死んだ肉体が立ち上がって、ついてまわることは、まさに、存在しない。なぜなら、それで、もし、この〔肉体〕の近くに立っている、あるいは、岩が、あるいは、蔓が、それがやってくるなら、肉体もまた、やってくるであろうが、また、すなわち、あるいは、岩が、あるいは、蔓が、それがやってこないように、このように、肉体もまた、やってこないからである。また、これは、おまえにとっての、現起の行相であり、表象〔作用〕()から生じるものであり、表象の発生である(妄想の産物である)。今日、おまえによって、〔心を定める〕行為の拠点が現起されたのだ。比丘よ、恐れてはならない」と、恐れを除き去って、笑みを生起させて、その形相にたいし、心を行き来させるべきである。このように、〔彼は〕殊勝〔の境地〕に到達する。これに関して、この〔言葉〕が説かれた。「遍きにわたり形相を近しく観ることは、迷妄なき〔あり方〕が義(目的)であり」(§21)と。

 

§58  また、十一種類〔の観点〕によって形相を収め取ることを成就させている者は、〔心を定める〕行為の拠点に〔心を〕連結する。なぜなら、彼には、〔両の〕眼を開いて眺め見ることを縁とすることから、収取の形相が生起し、その〔収取の形相〕において、意図を行なわせていると、相似の形相が生起し、そこ(相似の形相)において、意図を行なわせている者は、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に安立して、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を増大させながら、阿羅漢の資質を実証するからである。それによって説かれた。「十一種類〔の観点〕によって形相を収め取ることは、〔心を浄美ならざる形相に〕連結することが義(目的)であり」(§21)と。

 

115.

 

 [(四)〔墓地等への〕行き帰りの道を綿密に注視すること]

 

§59  また、「〔墓地等への〕行き帰りの道を綿密に注視することは、〔心を定める行為の拠点の〕道程を正しく実践することが義(目的)であり」(§21)とは、ここにおいて、すなわち、そして、行きの道を、さらに、帰りの道を、綿密に注視することと説かれたものであり、それは、〔心を定める〕行為の拠点の道程を正しく実践することを義(目的)とする、という義(意味)である。

 

§60  なぜなら、それで、もし、〔心を定める〕行為の拠点を収め取って〔臥坐所に〕帰りつつある、この比丘に、道の途中で、誰かしら或る者たちが、「尊き方よ、今日は第何〔日〕ですか」と、あるいは、日を尋ね、あるいは、〔他の〕問いを尋ね、あるいは、挨拶を為すなら、「わたしは、〔心を定める〕行為の拠点ある者です(修行の最中です)」と、沈黙の状態をもって赴くのは順当ではなく、〔尋ねられた〕日は言説されるべきであり、〔尋ねられた〕問いは答えられるべきであり、それで、もし、知らないなら、「〔わたしは〕知りません」と説かれるべきであり、法(教え)にかなう挨拶が為されるべきであるからである。【188】彼が、このように為していると、収め取られた幼い形相は消え行くが、たとえ、その〔形相〕が消え行きつつも、〔尋ねられた〕日は、〔問いを〕尋ねられたなら、まさしく、言説されるべきであり、〔尋ねられた〕問いは、〔答えを〕知らずにいるなら、「〔わたしは〕知りません」と説かれるべきであり、〔答えを〕知っているなら、一定して言説することもまた順当であり、挨拶もまた、為されるべきである。また、来客の比丘を見ては、来客者への挨拶が、まさしく、為されるべきである。残りのものもまた、塔廟の庭の行持、菩提〔樹〕の庭の行持、斎戒堂の行持、食堂や浴室や師匠や師父や来客者や訪問者の行持等々、〔律における〕章立てのなかの行持は、〔それらの〕全てが、まさしく、満たされるべきである。

 

§61  彼が、それら〔の行持〕を満たしつつもまた、その幼い形相は消え行く。「ふたたび〔墓場に〕赴いて、〔わたしは〕形相を収め取るのだ」と、〔墓場に〕赴くことを欲するもまた、あるいは、人間ならざるものたちに〔狙われ〕、あるいは、猛獣たちに狙われたことから、墓場もまた赴くことができなく(※)成り、あるいは、〔膨張したものの〕形相が消没する(肉体の膨張そのものが消滅する)。なぜなら、膨張した〔死体〕は、あるいは、一〔日〕のあいだだけ〔止住して〕、あるいは、二日のあいだ止住して、青黒くなったもの等の状態に至るからである。一切の〔心を定める〕行為の拠点のなかで、これと等しく得難き〔心を定める〕行為の拠点は、まさに、存在しない。

 

※ テキストには gantu vā na sakkā とあるが、VRI版により gantu na sakkā と読む。

 

§62  それゆえに、このように、形相が滅したとき、その比丘によって、あるいは、夜の時分に、あるいは、昼の時分に、坐って(瞑想の姿勢を取って)、「わたしは、まさに、この門によって精舎から出て、何某の方角に向かう道を行って、まさに、何某の場において、左に曲がった。何某〔の場〕において、右に〔曲がった〕。その〔道〕の、何某の場において、岩があり、何某〔の場〕において、蟻塚や木や群叢や蔓のなかのどれか一つがある。〔まさに〕その、わたしは、その道によって赴いて、まさに、何某の場において、浄美ならざるものを見た。そこにおいて、何某の方角に向かい、立って、そして、このように、さらに、このように、遍きにわたり、諸々の形相を省察して、このように、浄美ならざる形相を収め取って、何某の方角において、墓場から出て、まさに、このような形態の道によって、そして、これを〔為しつつ〕、さらに、これを為しつつ、〔臥坐所に〕帰還して、ここに、坐っている」と、このように、すなわち、結跏を組んで坐っている場まで、そのかぎりの行き帰りの道が(※)綿密に注視されるべきである。

 

※ テキストには gatāgatamago とあるが、VRI版により gatāgatamaggo と読む。

 

§63  彼が、このように綿密に注視していると、その形相は、明白なるものと成り、〔眼の〕前に置かれたものであるかのように現起する。〔心を定める〕行為の拠点は、まさしく、以前の行相によって、〔その〕道程を行く(忠実に再現される)。それによって説かれた。「〔墓地等への〕行き帰りの道を綿密に注視することは、〔心を定める行為の拠点の〕道程を正しく実践することが義(目的)であり」(§21)と。

 

116.

 

 [(五)〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕についての規定]

 

§64  今や、「福利を見る者と〔成り〕、宝の表象ある者と成って、〔瞑想対象となる形相に〕心作を現起させて、〔瞑想対象となる形相を〕愛顧しながら、その対象にたいし、心を連結する」(§22)とは、ここにおいて、膨張した嫌悪なるものにおいて、意図を行なわせて(※)、瞑想〔の境地〕を発現させて、瞑想を境処の拠点(直接原因)とする〔あるがままの〕観察を増大させながら、【189】「確実に、この〔実践の〕道によって、〔わたしは〕老と死から完全に解き放たれるのだ」(§22)と、このように、福利を見る者と成るべきである。

 

※ テキストには caretvā とあるが、VRI版により cāretvā と読む。

 

§65  また、すなわち、悪しき境遇の人が、高価な宝珠の宝を得て、「得難きものが、まさに、わたしによって得られた」と、それについて、宝の表象ある者と成って、尊重〔の思い〕を生じさせて、広大なる愛情によって愛顧しながら、それを守るであろうように、まさしく、このように、「得難きものが、この〔心を定める〕行為の拠点が、わたしによって得られた。悪しき境遇の者にとっての、高価な宝珠の宝に等しきものである。なぜなら、〔地と水と火と風の〕四つの界域〔の差異の定置〕を〔心を定める〕行為の拠点とする者(地と水と火と風の差異の定置を瞑想手段として修行している者)は、自己の四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)を遍く収め取り、呼吸〔についての気づき〕を〔心を定める〕行為の拠点とする者は、自己の鼻における風〔の出入〕を遍く収め取り、遍満を〔心を定める〕行為の拠点とする者は、遍満を作り為して安楽なるままに修行するように、このように、諸他の〔心を定める〕行為の拠点は得易きものであるが、いっぽう、この〔膨張したもの〕は、あるいは、一〔日〕のあいだだけ〔止住し〕、あるいは、二日のあいだ止住し、それより後は、青黒くなったもの等の状態に至り得るからである。ということで、これよりもより得難きものは存在しない」と、その〔膨張したもの〕について、宝の表象ある者と成って、〔瞑想対象となる形相に〕心作を現起させて、〔瞑想対象となる形相を〕愛顧しながら、その形相が守られるべきである。

 そして、夜の時分において、さらに、昼の時分においても、「膨張した嫌悪なるものである」「膨張した嫌悪なるものである」と、そこにおいて、繰り返し、心が連結されるべきである。繰り返し、その形相が傾注されるべきであり、〔その形相に〕意が為されるべきであり、考慮による触発と思考による触発が為されるべきである(瞬時の事実確認が繰り返し為されるべきである)。

 

117.

 

§66  彼が、このように為していると、相似の形相が生起する。そこで、これが、〔収取と相似の〕二つの形相の、種々なる契機(相違点)となる。収取の形相は、醜い形態にして恐く、恐ろしい見た目と成って現起する。いっぽう、相似の形相は、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ食べて横になった者で粗大なる手足と肢体ある人のようなものとなる(純粋無雑のものとなる)。

 

§67  彼のばあい、まさしく、相似の形相の獲得と同時に、外に、諸々の欲望〔の対象〕に意を為さないことから、〔欲の思いの〕鎮静を所以に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)は捨棄される。さらに、まさしく、随貪〔の思い〕の捨棄によって、彼のばあい、血の捨棄によって膿も〔捨棄される〕ように、憎悪〔の思い〕(瞋恚)もまた捨棄される。そのように、精進に励むことによって、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)は〔捨棄され〕、後悔〔の思い〕を作り為さない寂静の法(性質)に専念することを所以に、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)は〔捨棄され〕、到達した殊勝〔の境地〕が現見のものとなることによって、〔中なる道の〕実践の説示者たる教師(ブッダ)にたいし、〔中なる道の〕実践にたいし、さらに、〔中なる道の〕実践の果にたいし、疑惑〔の思い〕()は捨棄される。ということで、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)は捨棄される。そして、まさしく、その形相にたいし心が固定することを特相とする思考()、形相にたいし沈思する作用を遂行している想念()、獲得した殊勝〔の境地〕への到達という縁あることからある喜悦()、喜悦の意ある者には静息の発生あることから静息の形相ある安楽()、さらに、安楽ある者には【190】心の禅定の発生あることから安楽の形相ある〔心の〕一境性、という、〔五つの〕瞑想の支分(禅支)が出現する。

 

§68  このように、彼には、第一の瞑想(初禅・第一禅)の反影として有る〔瞑想の境地に〕近接する瞑想もまた、まさしく、その瞬間に発現する。これより他は、すなわち、まさしく、そして、第一の瞑想の〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕、さらに、〔五つの〕自在に至り得ることまで、そのかぎりの全てが、まさしく、地の遍満において説かれた方法によって、知られるべきである。

 

118.

 

§69  また、これより他の青黒くなったもの等々についてもまた、すなわち、〔まさに〕その、「膨張したものの浄美ならざる形相を〔常に〕収め取っている者は、独り、伴侶なく、赴く──現起した気づきの忘却なきために〔云々〕」(§19)という〔言葉〕等の方法によって、〔墓場等に〕赴くこと〔についての規定〕を最初のものと為して、特相として説かれた、その全てが、「青黒くなったものの浄美ならざる形相を〔常に〕収め取っている者は」「膿み爛れたものの浄美ならざる形相を〔常に〕収め取っている者は」と、このように、それぞれを所以に、それぞれにおいて、「膨張したもの」の句のみを遍く転起させて(その部分だけを他と置き換えて)、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔その〕判別と共に〔その〕志向するところが知られるべきである。また、これが、〔諸他のものの、膨張したものとの〕差異となる。

 

 [2 青黒くなったもの(12)]

 

§70  青黒くなったものにおいて、「青黒くなった嫌悪なるものである」「青黒くなった嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。そして、ここにおいて、収取の形相は、斑紋のものと〔成り〕、斑紋の色あるものと成って現起する。いっぽう、相似の形相は、増長(性質の優勢さ)を所以に、〔強い色だけのものと成って〕現起する。

 

 [3 膿み爛れたもの(13)]

 

§71  膿み爛れたものにおいて、「膿み爛れた嫌悪なるものである」「膿み爛れた嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。また、ここにおいて、収取の形相は、〔膿が〕流れ出ているもののように現起する。相似の形相は、動揺なく静止したものと成って現起する。

 

 [4 切断されたもの(14)]

 

§72  切断されたものは、あるいは、戦場において、あるいは、盗賊の林において、あるいは、そこにおいて、王たちが盗賊たちを切断させる墓場において、また、あるいは、獅子や虎たちに切断された人〔の死体〕の場たる林において、得られる。それゆえに、そのような形態の場に赴いて、それで、もし、〔切断されたものが〕種々なる方角に落ちているもまた、〔眼を〕一つ〔の方角〕に傾注することで視野にやってくるなら、ということで、これは善きことである。もし、〔視野に〕やってこないなら、自ら、手で撫でまわすべきではない(じかに触れてはいけない)。なぜなら、撫でまわしていると、親しみ〔の思い〕を惹起するからである。それゆえに、あるいは、園丁によって、あるいは、見習い沙門(沙弥)によって、あるいは、他の誰かによって、一つの場に作り為させるべきである(一箇所に集めさせるべきである)。〔彼らを〕得ずにいるなら、あるいは、歩杖で、あるいは、棒で、〔諸々の断片を〕一アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)の間隔に作り為して、近置されるべきである。このように近置して、「切断された嫌悪なるものである」「切断された嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。そこにおいて、収取の形相は、中間で切断されたもののように現起する。いっぽう、相似の形相は、円満成就のもの(欠くところなきもの)と成って現起する。

 

 [5 喰い残されたもの(15)]

 

§73  【191】喰い残されたものにおいて、「喰い残された嫌悪なるものである」「喰い残された嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。また、ここにおいて、収取の形相は、そこかしこが、まさしく、喰われたものに等しきものとして現起する。いっぽう、相似の形相は、円満成就したものと成って現起する。

 

 [6 散乱したもの(16)]

 

§74  散乱したものもまた、まさしく、切断されたものにおいて説かれた方法によって、〔一〕アングラ〔一〕アングラの間隔に、あるいは、〔他の者に〕作り為させて、あるいは、〔自ら〕作り為して、「散乱した嫌悪なるものである」「散乱した嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。ここにおいて、収取の形相は、〔断片の〕間が明白なるものと成って現起する(断片の間が明瞭なるままに顕現する)。いっぽう、相似の形相は、円満成就したものと成って現起する。

 

 [7 打ち殺され散乱したもの(17)]

 

§75  打ち殺され散乱したものもまた、まさしく、切断されたものにおいて説かれた流儀の諸々の場において得られる。それゆえに、そこに赴いて、まさしく、〔前に〕説かれた方法によって、〔一〕アングラ〔一〕アングラの間隔に、あるいは、〔他の者に〕作り為させて、あるいは、〔自ら〕作り為して、「打ち殺され散乱した嫌悪なるものである」「打ち殺され散乱した嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。また、ここにおいて、収取の形相は、打撃面が〔常に〕覚知されているかのように成る。相似の形相は、まさしく、円満成就したものと成って現起する。

 

 [8 血まみれのもの(18)]

 

§76  血まみれのものは、あるいは、戦場等々において打撃を得た者たちの切断された手や足等々において、あるいは、破断した腫物や吹出物等々の〔傷〕口から〔血が〕流れ出ている時に、得られる。それゆえに、それを見て、「血まみれの嫌悪なるものである」「血まみれの嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。ここにおいて、収取の形相は、風に打たれた赤い旗のように、動揺している行相のものとして現起する。いっぽう、相似の形相は、静止したものと成って現起する。

 

 [9 蛆虫まみれのもの(19)]

 

§77  蛆虫まみれのものは、死後二日三日して、死骸の九つの傷口(眼鼻耳口大小排泄孔の九穴)から虫の集まりが流れ出ている時に有る。そして、また、それは、犬や野狐(ジャッカル)や人や牛や水牛や象や馬や大蛇等々の、まさしく、〔その〕肉体の量と成って、〔炊いた〕食米の集まりのように止住する。すなわち、どこにおいてであれ、それらにおいて、「蛆虫まみれの嫌悪なるものである」「蛆虫まみれの嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。なぜなら、チューラ・ピンダパーティカ・ティッサ長老のばあい、カーラ・ディーガ池の内にある象の死骸において、形相が現起したからである。また、ここにおいて、収取の形相は、動揺しているもののように現起する。相似の形相は、〔炊いた〕食米の塊のように、静止したものと成って現起する。

 

 [10 骨となったもの(20)]

 

§78  骨となったものは、「彼が、墓所に捨てられた肉体を見るとします──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱で連結されたものを」(ディーガ・ニカーヤ2p.296)という〔言葉〕等の方法によって、種々なる流儀から【192】説かれた。それゆえに、そこにおいて、それが、捨て置かれたものとして有るなら、そこにおいて、まさしく、前に説かれた方法によって赴いて、遍きにわたり、岩等々を所以に、形相を有するものに〔作り為して〕、対象を有するものに作り為して〔そののち〕、「これは、骨となったものである」と、自ずからの状態の〔その〕状態〔の観点〕から近しく観て、色艶等を所以に、十一の行相によって、形相が収め取られるべきである。

 

119.

 

§79  (1)また、それを、色艶〔の観点〕から、「白である」と眺め見ている者には、〔形相が〕現起せず、〔形相は〕白の遍満の混入あるものと成る。それゆえに、「骨となったものである」と、まさしく、嫌悪なるものを所以に、眺め見られるべきである。(2)「徴表」とは、ここでは、手等々の名前である。それゆえに、手や足や頭や腹や腕や腰や腿や脛を所以に、徴表〔の観点〕から定め置かれるべきである。(3)また、長や短や円形や四角や小や大を所以に、外貌〔の観点〕から定め置かれるべきである。(4・5)方角と空間は、まさしく、〔前に〕説かれた方法となる(§39-40)。(6)それぞれの骨の極限を所以に、限定〔の観点〕から定め置いて、まさしく、それが、ここにおいて、明白なるものと成って現起するなら、それを収め取って、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕が至り得られるべきである。(7・8)また、それぞれの骨の低き場や高き場を所以に、そして、低き〔場の観点〕から〔定め置かれるべきであり〕、さらに、高き〔場の観点〕から定め置かれるべきである。場所を所以にもまた、「低き〔場〕において、わたしは止住している、高き〔場〕において、骨は〔止住している〕」〔と定め置かれるべきであり〕、あるいは、「高き〔場〕において、わたしは〔止住している〕、低き〔場〕において、骨は〔止住している〕」ともまた定め置かれるべきである。(9)また、二つの骨となったものの、それぞれに結束された場を所以に、関節〔の観点〕から定め置かれるべきである。(10)まさしく、諸々の骨となったものの間を所以に、裂け目〔の観点〕から(※)定め置かれるべきである。(11)また、まさしく、一切所において、知恵を行なわせて、「この場において、この骨は〔止住している〕」と、遍きにわたる〔観点〕から定め置かれるべきである。たとえ、このように〔為すも〕、形相が現起せずにいるときは、額の骨において、心が確立されるべきである。

 

※ テキストには vivarāvivarato とあるが、VRI版により vivarato と読む。

 

120.

 

 そして、ここにおいて、すなわち、このように、この、十一種類〔の観点〕によって形相を収め取ることが、これより前の蛆虫まみれのもの等々においてもまた、適合していることを所以に、省察されるべきである。

 

§80  また、そして、この〔心を定める〕行為の拠点は、骨の鎖の全体においてであろうが、一骨となったものにおいてであろうが、〔両者それぞれに〕成就する。それゆえに、すなわち、どこにおいてであれ、それら〔の両者〕において、十一種類〔の観点〕によって形相を収め取って、「骨となった嫌悪なるものである」「骨となった嫌悪なるものである」と、意を為すことが転起させられるべきである。「ここでは、収取の形相であろうが、相似の形相であろうが、まさしく、一つに等しきものと成る」と、〔諸々のアッタカターにおいて〕説かれたが、それは、一骨となったものにおいて適合するところとなる。いっぽう、骨の鎖においては、収取の形相が覚知されているときは、裂け目あるものとなり(※)、相似の形相が〔覚知されているときは〕、円満成就した状態が適合する。そして、一骨となったものにおいて【193】もまた、収取の形相は、恐く、恐怖させるものと成るべきであり、相似の形相は、〔瞑想の境地に〕近接する〔禅定〕をもたらすことから、喜悦と悦意を生じさせるものとなる。

 

※ テキストには paññāyamānavivaratā とあるが、VRI版により paññāyamāne vivaratā と読む。

 

§81  なぜなら、この箇所について、すなわち、諸々のアッタカター(注釈書)において説かれたものは(「ここでは、収取の形相であろうが、相似の形相であろうが、まさしく、一つに等しきものと成る」という記述)、それは、まさしく、〔さらなる解釈の〕門を与えて説かれたからである(両者には差異がある、と推測し推論して説くことができる)。なぜなら、そのように、そこ(注釈書)において、「四つの梵住(慈悲喜捨の四無量心)において、かつまた、十の浄美ならざるものにおいて、相似の形相は存在しない。なぜなら、〔四つの〕梵住においては、まさしく、境界の混入(対象の拡大)あるものが、形相として〔有り〕、かつまた、十の浄美ならざるものにおいては、分別なき〔見〕を作り為して、嫌悪の状態だけが見られたときに、形相が、まさに、有るからである」と説いていながら、いっぽう、まさしく、〔その〕直後に、「ここに、二種類の形相がある。収取の形相であり、相似の形相である。収取の形相は、醜い形態にして恐く、恐怖させるものと成って現起する」という〔言葉〕等が説かれたからである。それゆえに、すなわち、〔さらなる解釈の門を〕想念して説いた、まさしく、このことが、ここにおいて、適合するところとなる。そして、また、マハー・ティッサ長老の、骨となった歯のみを眺め見ることで婦女の全肉体が骨の群結の状態で現起する〔事例〕(Ch.1§40)等々が、そして、ここにおいて、諸々の証拠となる、と〔知られるべきである〕。

 

 [11 十の浄美ならざるものについての雑駁なる言説]

 

§82  〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、美徳ある方(ブッダ)は、千の眼ある者(帝釈天)によって奉賛された名誉ある方は、〔十の〕浄美ならざるものを〔説いた〕。すなわち、一つ一つの瞑想〔の境地〕の因〔となる十の浄美ならざるもの〕を、十の力ある方は説いた。

 このように、そして、それら〔の十の浄美ならざるもの〕を〔知って〕、さらに、それら〔の十の浄美ならざるもの〕の、この修行の方法を知って〔そののち〕、まさしく、それら〔の十の浄美ならざるもの〕について、この雑駁なる言説もまた、より一層、識知されるべきである」〔と〕。

 

121.

 

§83  まさに、すなわち、どこにおいてであれ、これら〔の十の浄美ならざるもの〕において、瞑想〔の境地〕に到達した者は、貪欲が善く鎮静されたことから、貪欲を離れた者(阿羅漢)のようにあり、妄動なき行者と成る。たとえ、このように存しているとして、すなわち、この、浄美ならざるものの細別が説かれたのは、それは、そして、肉体の自ずからの状態に至り得るものを所以に〔説かれ〕、さらに、貪欲の行ない(性行)の細別を所以に〔説かれた〕、と知られるべきである。

 

§84  まさに、屍としての肉体は、嫌悪の状態を惹起しつつ、あるいは、膨張したものという自ずからの状態に至り得たものとして存するであろうし、あるいは、青黒くなったもの等々のなかのどれか一つの自ずからの状態に至り得たものとして〔存するであろう〕。かくのごとく、そのようなもの、そのようなものを、得ることができるように成るなら、そのようなもの、そのようなものにおいて、「膨張した嫌悪なるものである」「青黒くなった嫌悪なるものである」と、このように、形相が、まさしく、収め取られるべきである。ということで、肉体の自ずからの状態に至り得るものを所以に、十種の浄美ならざるものの細別が説かれた、と知られるべきである。

 

§85  そして、ここにおいて、差異〔の観点〕(分析的見地)から〔説くなら〕、膨張したものは、肉体の外貌の衰滅を明示することから、外貌に貪欲ある者には、正当なるものとなる。青黒くなったものは、表皮の色彩の衰滅を明示することから、肉体の色艶に貪欲ある者には、正当なるものとなる。膿み爛れたものは、身体の色艶と連結した悪臭の状態を明示することから、【194】花飾や香料等を所以に現起させられた肉体の臭気に貪欲ある者には、正当なるものとなる。切断されたものは、〔身体の〕内の空洞の状態を明示することから、肉体における重厚の状態に貪欲ある者には、正当なるものとなる。喰い残されたものは、肉の蓄積の得達(豊満な肉体)の消失を明示することから、乳房等々の肉体の諸部における肉の蓄積に貪欲ある者には、正当なるものとなる。散乱したものは、諸々の手足や肢体の散乱を明示することから、手足や肢体の優美に貪欲ある者には、正当なるものとなる。打ち殺され散乱したものは、肉体の群結の分裂と変異を明示することから、肉体の群結の得達(肉体美)に貪欲ある者には、正当なるものとなる。血まみれのものは、血にまみれた嫌悪の状態を明示することから、〔装いを〕十分に作り為すことによって生じさせられた荘厳に貪欲ある者には、正当なるものとなる。蛆虫まみれのものは、身体が無数の虫の共通の家たる状態を明示することから、身体にたいする我執〔の思い〕(わがものと錯視された身体)に貪欲ある者には、正当なるものとなる。骨となったものは、諸々の肉体の骨の嫌悪の状態を明示することから、歯の得達(歯の美しさ)に貪欲ある者には、正当なるものとなる。ということで、このように、貪欲の行ないの細別を所以にもまた、十種の浄美ならざるものの細別が説かれた、と知られるべきである。

 

§86  また、すなわち、この浄美ならざるものにおいては、十種類もろともに、それは、たとえば、また、まさに、水がまったく止まることのない激しい流れの川において、まさしく、舵の力によって、舟が安立し、舵なくして〔舟を〕据え置くことができないように、まさしく、このように、対象の力弱きことから、まさしく、思考の力によって、心は一境と成って安立し、思考なくして〔心を〕据え置くことはできないことから、それゆえに、第一の瞑想(初禅・第一禅)だけが、ここにおいて、〔瞑想の境地として〕有り、第二〔の瞑想〕等々は〔存在し〕ない。

 

§87  そして、この対象において、たとえ、〔それが〕嫌悪であるとして、「確実に、この〔実践の〕道によって、〔わたしは〕老と死から完全に解き放たれるのだ」と、このように、まさしく、そして、福利を見る者としてあることで、さらに、〔修行の〕妨害の熱苦の捨棄あることで、喜悦と悦意が生起する──「今や、〔わたしは〕多くの報酬を(※)得るのだ」と福利を見る、花を捨てる者(不浄物の清掃者)に、山積みの糞において、〔喜悦と悦意が生起する〕ように──さらに、病苦が増長した病ある者に、〔快復の前兆となる〕嘔吐や下痢の転起において、〔喜悦と悦意が生起する〕ように。

 

※ テキストには me vetana とあるが、VRI版により vetana と読む。

 

122.

 

§88  そして、この浄美ならざるものは、十種類もろともに、特相〔の観点〕から、まさしく、一つと成る。なぜなら、この〔浄美ならざるもの〕のばあい、十種類もろともに、まさしく、不浄と悪臭と忌避と嫌悪の状態が、〔その〕特相となるからである。〔まさに〕その、この〔浄美ならざるもの〕は、この特相〔の観点〕によって、単に、死んだ肉体において〔現起するのみに〕あらず、また、歯の骨を見る者たるチェーティヤ山の住者たるマハー・ティッサ長老のばあいのように(Ch.1§40)、さらに、象の肩に在る王を眺め見ているサンガラッキタ長老の奉仕者たる沙弥のばあいのように、生きている肉体においてもまた、〔浄美ならざるものは〕現起する。なぜなら、まさしく、すなわち、死んだ肉体のように、このように、生きている〔肉体〕もまた、まさしく、浄美ならざるものであるからである。【195】いっぽう、ここ(生きている肉体)において、浄美ならざる特相は、付加物(衣服)によって〔装いを〕十分に作り為すことで隠蔽されたことから、覚知されない。

 

§89  また、元来において、この、「肉体」というものは、三百を超える骨の寄せ集めであり、百八十の関節の組み合わせであり、九百の腱の結び連なりであり、九百の肉片の塗り固めであり、水気のある人皮の覆い包みであり、表皮によって隠蔽されたものであり、種々の穴があり、油壺のように常に〔不浄物が〕滲み出ては流れ出ている、虫の群れが慣れ親しむものであり、諸々の病の場所であり、苦しみの諸法(性質)の基盤であり、完全に破壊した古い腫物のように九つの傷口(開口部)から常に〔不浄物の〕流出があり、その〔肉体〕の、両の眼からは眼糞が流れ出る──〔両の〕耳の穴からは耳糞が、鼻の〔両の〕穴からは鼻水が、口からは食や胆汁や痰や血液が、下の〔両の〕門(大小排泄孔)からは大小便が、九万九千の毛穴からは不浄の汗汁が、〔それぞれに〕流れ出る。青蝿等々が取り巻く、その〔肉体〕を、楊枝による口の洗浄や頭への〔油の〕塗布や沐浴や着衣や被着等々によって看護せずして、まさしく、生まれたままに、粗暴に散乱した髪と成って、村から村を渡り歩いている者は、王であろうが、花を捨てる者(不浄物の清掃者)やチャンダーラ(旃陀羅:賎民・非人)たちのうちの或る誰かであろうが、等しく肉体の嫌悪なることにおいて、差異なき者と成る。このように、不浄と悪臭と忌避と嫌悪なることにおいて、あるいは、王の、あるいは、チャンダーラの、肉体における相違は、まさに、存在しない。

 

§90  また、ここ(生きている肉体)において、楊枝による口の洗浄等々によって、歯垢等々を拭い取って、恥〔の思い〕で隠すべきところ(陰部)を種々なる衣で隠蔽して、種々なる色の芳しき塗料を塗って、花や装飾品等々によって〔装いを〕十分に作り為して、「わたしである」と、「わたしのものである」と、収め取られるべき行相に至り得たものに、〔人々は〕作り為す。そののち、この付加物によって〔装いを〕十分に作り為すことで隠蔽されたことから、その〔肉体〕の、あるがままの自ずからの効用(機能・性行)である、その不浄の特相を表象せずにいる、男たちは、女たちにたいし、そして、女たちは、男たちにたいし、喜び〔の思い〕を作り為す。また、ここ(生きている肉体)において、最高の義(勝義:最高の真実)〔の観点〕から、喜ぶべきものとして相応しい場は、まさに、微量でさえも存在しない。

 

§91  なぜなら、そのように、髪や毛や爪や歯や唾液や鼻水や大小便等々のうち、一部でさえも肉体から外に落ちたなら、有情たちは、手で触れることすらも求めず、苦悩し、自責し、忌避するからである。いっぽう、ここ(生きている肉体)において、それぞれのものが、〔肉体に〕残るものとして有るなら、それぞれのものを、たとえ、このように、嫌悪なるものとして存しているも、無明と暗黒に覆い包まれ、自己への愛執と貪欲に染まった者たちは、「好ましく、愛らしく、常住で、安楽で、【196】自己である」と収め取る(妄想し執着する)。このように収め取っている彼らは、森のなかでキンスカの木を見て、木から落ちていない花を(※)、「これは、肉片である」と〔勘違いして、結局は〕打ちのめされている老いた野狐(ジャッカル)に等しき〔事態〕を(※※)惹起する。

 

※ テキストには apatita apatita puppha とあるが、VRI版により apatitapuppha と読む。

※※ テキストには samānasa とあるが、VRI版により samānata と読む。

 

§92  それゆえに──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、すなわち、林のなかでキンスカ〔の木〕が花ひらいたのを見て、野狐が、『肉の木が、わたしによって得られた』と、勢いよく赴いて──

 極めて妄動ある者となり、落ちた〔花〕落ちた花を咬んでは、『これは、肉ではない。すなわち、木にあるものが、それが、肉である』と収め取る(妄想し執着する)ように──

 そのように、〔身体から〕落ちた部位だけを、『浄美ならざるものである』と収め取らずして、聡き者は、〔まさに〕その、肉体として止住しているものをもまた、そのように、〔『浄美ならざるものである』と〕収め取るべきである。

 まさに、この身体を、『浄美なるものである』と収め取って(妄執して)、そこにおいて耽溺している愚者たちは、諸々の悪を為しつつ、苦しみから完全に解き放たれない。

 それゆえに、思慮ある者は、あるいは、生きているものであれ、あるいは、死んだものであれ、腐敗の身体の自ずからの状態を、浄美なる状態を避け行く〔そのあり方〕を、〔あるがままに〕見るべきである」〔と〕。

 

§93  まさに、このことが、〔聖典において〕説かれた。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪臭をはなつ、不浄の身体──死骸(汚物)にして、大便の如きもの──〔世の〕眼として有る者たちに非難され、愚者たちに喜ばれるのが、身体である」(ジャータカ1p.146)。

 「水気のある皮に覆い包まれ、九つの穴があり、大きな傷(開口部)があり、不浄にして、腐臭のもの、遍きにわたり、〔不浄物が〕流れ出る」(典拠不詳)。

 「それで、もし、この身体の内なるものが、外なるものとして存するなら、まちがいなく、棒を掴んで、〔身体を喰いにくる〕烏たちや犬たちを阻止することになるだろう」(ジャータカ1p.146)と。

 

§94  それゆえに、才覚に恵まれた比丘によって、あるいは、生きている肉体で有れ、あるいは、死んだ肉体で〔有れ〕、それぞれにおいて、浄美ならざる行相が覚知されるなら、まさしく、それぞれにおいて、形相を収め取って、〔心を定める〕行為の拠点が、〔瞑想の境地に〕専注する〔禅定〕に至り得させられるべきである、と〔知られるべきである〕。

 

 ということで、善き人の歓喜を義(目的)として作り為された清浄の道における、禅定のための修行の参究における、「浄美ならざるものという〔心を定める〕行為の拠点についての釈示」という名の第六章となる。