ウェブ道場
※袴の前側は襞が5本(右足2本、左足3本)見える。
これは今から約三千年も昔の陰陽説という学問・文化の影響によるもので、それが今も私たちの剣道の中で生き続けているのです。
陰陽説では、偶数が陰で奇数が陽、人体の右側を陰、左側を陽【注】としていることから、袴の左側の陽のほうに奇数の3、右側の陰のほうに偶数の2を配して陰陽を整え、全体として3+2=5で奇数の陽を表面に出しています。【注】(太陽(南側)に向かって日の昇る東(左)が陽で、西(右)が陰。)
左右で襞の数が違うと動きのバランスが悪くなりそうですが、右の内側には3本目の襞があるので、両足とも同じ動きができるよう機能性が保たれています。
また、袴の前の5本の襞は、儒教でいう五常(仁・義・礼・智・信)をあらわすといわれています。
仁 ・・・ 思いやり、自分にきびしく、人を許す心。
義 ・・・ 正しく筋道を通す。人としての道を踏み外さない。
礼 ・・・ 礼儀作法や、社会生活のきまりを守ること。
智 ・・・ 正しい判断力・知恵。
信 ・・・ 信頼、誠実、嘘を言わない、信じる心。
袴をはくときは、これら五常を身につけるための修業が始まるのだと心に言い聞かせながら着用します。
さらに、5本の前襞については、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈って五穀(米・麦・粟・豆・稗)を刻んで襞にしたともいわれています。
※袴の後ろ側は襞が1本見える。
袴の後ろ側の1本の襞は、二心(ふたごころ:裏切りの心)のなさを示しており、また、天つ神(アマツカミ)と国つ神(クニツカミ)が一つにまとまるという国譲り(くにゆずり)神話にちなんだ1本の襞であるともいわれています。
怠けない心 H27/5/17
一つの技を自分の技にするためには、初心者でも一万回練習したら覚えることができる。
その言葉を「一技万錬」といいます。
技を身につけられずに悩んでいる人にとって、一万回という具体的な数字を目標にすれば、一万回もしないうちにその技を覚えることができるかもしれません。
剣豪宮本武蔵も「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」と五輪書に記しています。
鍛錬といえば苦行に感じられますが、毎日の稽古を休まずコツコツと積み重ねることはとても大事なことです。
稽古の積み重ねで肉体が強靭となり、怠け心もなくなれば、いつの間にか千日、万日と稽古を重ねることができるかもしれません。
試合における悪癖の研究(修正ポイントはどこかを知って強くなる) H27/3/25
平成27年3月21日に行われた長崎ライオンズ旗争奪少年剣道大会の動画から、試合における悪癖を知り、修正すべきポイントを探してみましょう。
(撮影できた動画からピックアップしました)
(動画左:雄心舘選手)
・左手の握りが悪い(横握り)→剣先が効かない。
・左足が遊んでいる→打突の好機に間に合わない。
・間合の意識が低い→相手の打ち間にされる。
(動画右:雄心舘選手)
・一度踏ん張ってから相手の間合に入り込む→相手に技を出す機会を読まれる。
・送り足が悪く、また技を打ち切っていない→有効打突にならない。
・引き技を無理に出す→相手から後打ちを何本も打たれる。
(動画右:雄心舘選手)
・一度踏ん張ってから仕掛け技に出る→相手に対応する機会を与える。
(動画手前:雄心舘選手)
・面を胴に返され、足を止めて竹刀を受け止める→むしろ相手の返し胴を見栄え良くする。
(動画左:雄心舘選手)
・手元が浮き、剣先が相手から外れる→相手に攻めの機会を与える。
・右足の踏み込みが遅い→相手に後れを取る。
(動画左:雄心舘選手)
・相手の防御に攻めを緩めたり、剣先の攻めに反応→相手の技に出遅れる。
(動画左:雄心舘選手)
・打突後の体当たりに対応が遅れる→体勢が崩れる。
・いつまでも押され続け、相手の打ち間にされる→引き面を打たれる。
(動画左・雄心舘選手)
・小手から面に入る間合が深い→相手の打ち間で打たれる。
(動画右:雄心舘選手)
・つばぜり合いで相手を崩さずに引き面を打つ→相引き面を合わせられる。
(動画右:雄心舘選手)
・小手を仕掛けた後、体の軸を崩して避ける→相小手面を合わせられる。
(動画左:雄心舘選手)
・左足の引き付けが遅く足幅が広い→打突が遅れる。
(動画左:雄心舘選手)
・打ち間で手元を上げる→相手の打突の好機。
残心(ざんしん) H27/2/15
打突で勝負がついても気を抜いてはいけない。
すぐに元の心に返る。
打って打たざる以前に戻る。
これを『残心』という。
『小川忠太郎範士剣道講話(二)不動智心妙録』
剣道の理念 H27/1/12
「剣道の理念」
剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である [昭和50年 (財)全日本剣道連盟]
≪「剣道の理念」が制定された時代背景≫
大東亜戦争の敗戦後まもなく、GHQの占領政策によって剣道は戦争遂行に加担する危険なものとして全面禁止されてしまいました。
占領中、当時の剣道関係者の苦肉の策により、武道的な性格を排除してポイントを競い合う「撓(しない)競技」というスポーツが生み出されました。
昭和27年にGHQの占領政策が解かれると、全日本剣道連盟が発足、2年後には全日本撓競技連盟と合併し、ようやく剣道は復活したのですが、撓競技のスポーツ的要素が色濃く残り、以後約20年の間に、剣道は全国的に試合偏重・勝利至上主義の「当てっこ剣道」と揶揄されるようになり、武道としての剣道の精神の伝承が危ぶまれる事態になりました。
全剣連は、この事態を憂慮して、剣道並びにこれをおこなう人びとの健全な成長と発展を願い、どういう意義・目的によって剣道の修行をおこなうべきなのかということをすべての剣道人に対して明らかにしようと、当時の高名な先生方の叡智を結集して「剣道の理念」を生み出したのです。
≪理念の解釈について≫
どんなに立派な指導理念も、その中に込められている思いを読み取ることがなければ、残念ながら空文となってしまうものです。
昇段審査の学科試験では、「剣道の理念」や「剣道修錬の心構え」について書かせることがありますが、もしかすると作文のテクニックだけで、これらのことを考えるのは試験の時だけではないでしょうか。日本剣道形についてもしかりで、六・七段の剣道形審査を拝見しても、日頃の修錬に剣道形を取り入れていないのは一目瞭然という残念な受審者もちらほらいます。
「剣道の理念」について「剣道の技術を会得することにより、立派な人間になることができる」という短絡的な解釈をするならば、他のスポーツでも上達すれば人間形成できるわけです。最近では、剣道を遊戯化したスポーツチャンバラというのも流行っていて、剣道と同じように礼儀も教えているというのですから、「剣道の特性」とは何なのか、ということを剣道人は真剣に考え直す必要があります。
そこで、「剣道の理念」を深く読み取るため、同時に制定された「剣道修錬の心構え」を考察してみましょう。
「剣道修錬の心構え」
剣道を正しく真剣に学び 心身を錬磨して 旺盛なる気力を養い 剣道の特性を通じて 礼節をとうとび 信義を重んじ 誠を尽くして 常に自己の修養に努め 以って国家社会を愛し 広く人類の平和繁栄に寄与せんとするものである
前段の″剣道を正しく真剣に学び 心身を錬磨して 旺盛なる気力を養い″の部分は、「剣の理法の修錬」であり、運動的な部分といえるでしょう。
「剣道は武道であって、他のスポーツとは重みが違いますよ」というところは、「剣道の特性を通じて」以降となります。
″礼節をとうとび 信義を重んじ 誠を尽くして 常に自己の修養に努め″
礼節とは…(礼儀と節度)
剣道では、礼儀を重んじ、礼を失する行いは厳しく戒められますが、形式だけの礼儀は虚礼といわれ、また礼も度が過ぎれば無礼といわれます。礼は節度を持って行うべきものです。
信義とは…(いつわったりあざむいたりせず、真実で正しい道を守ること。)
誠とは…(うそのない心。武士道において至高の徳の1つとされ、侍の心髄ともいえる徳である。)
修養とは…(知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成に努めること。)
社会生活において正しい道を守ることは当然のことですが、剣道でも相手をごまかして打とうとせず、素直で正しい稽古をすることです。
スポーツの競技によっては「どんな手を使ってでも、とにかく勝てばよい」という考え方があるようですが、剣道では、勝つことよりも正しい剣道を行うことを重んじるのです。
しかし実際のところは、勝ったか負けたか、強いか弱いかばかりを争っているのが剣道界の現状であり、〝誠を尽くして常に自己の修養に努め″という自身の人間形成を無視して、相手に対して、打ったか打たれたか、ということばかりになっているのではないでしょうか。試合でも、審判がどうとかこうとか、結果ばかりを考えてしまうのではなく、自分はどうであるかに軸を置くことです。
ここまでは「個人としての人間形成」にあたることで、「個人形成」とは当然ながら単に試合が強くなるということではありません。
″以って国家社会を愛し 広く人類の平和繁栄に寄与せんとするものである″の部分は「社会性をもった人間の形成(社会形成)」となります。
この後段部分では、剣道を修行することが「人類の平和繁栄に寄与せんとする」ことに繋がっていくのですから、とても壮大なテーマになってきます。
しかし、「社会形成」といっても、何も政治家や偉い人たちだけが、「社会形成」をするのではありません。
「一隅を照らすものは国の宝なり」といわれるように、私たち一人ひとりが誠を尽くして常に自己の修養に努めることで世の中の役に立つことができるはずです。
このように「剣道の理念」における「人間形成の道」は、自身の「個人形成」だけではなく、さらには「社会形成」にもつなげるという大目的を持っています。
「誠を尽くして人に接すれば、心を動かさないものはこの世にない。
真心を十分に発揮しようと思い努力することこそが人の道である。」(吉田松陰)
写真で見る「試合時の作法」の注意点 H26/11/03
反則などで審判の宣告を受けたときの試合者はきちんと構えを解いている。
中断したところから開始線に戻るときなども構えを解いて歩くのが望ましいが、竹刀を抱えるようにして歩く試合者も多くみられるため、普段から意識したい。
無意識に中結あたりの刃部を触りながら歩く試合者も多いので注意する。
試合が中断しているとはいえ、刃部を握ることは刀法に反する行為なので、中結の位置が回っているなど、どうしても手直しが必要な場合は、主審に申し出て不具合のある状態を見せてから、一旦下がり、正座して手直しすること。
かつて県高体連の試合では、このように刀法を無視した軽率な行為があまりに多かったたため、審判会議で反則を取るよう指導があり、実際に反則を取った試合もある。
竹刀の刃部のみを片手で持ち歩いている。
たとえ刀を鞘に納めていると考えても、この持ち方で歩けば刀が滑り落ち、足を切る大怪我となることは明白である。
竹刀を刀と考えて扱えば、簡単に打って出たり、気が抜けたりすることは「命取り」と考えるようになり、まさに『真剣勝負』の戦いができるようになる。
【試合終了時(後退)の注意点】
蹲踞し納刀して右手を膝に置いてから立ち上がる。
蹲踞の納刀時を含め、柄頭が下がったり、提げ刀のまま下がっていないか。
右腕を前後に振ったり、体を揺らしながら歩くように下がっていないか。
【終礼】
写真のように、歩きながら礼をしない。
両足をきちんと揃え静止し、提げ刀にしてから、相手と合わせて礼を行う。
頭を下げるまでは相手と合わせるが、頭を上げながら横(左右どちらかの進行方向)を向くのは「礼」ではなく「失礼」になるので、最後まで相手と合わせる。
【最後に】
いつでも(大きな試合でも小さな試合でも普段の稽古でも)全国大会の決勝戦だ(我ここにあり)と思って立派な立ち居振る舞いを心掛けてほしい。
錬(ね)れた剣道 H26/10/09
試合や地稽古など、相手との立ち合いでは、まず中心の取り合いや、自分に有利な間合いをお互いに計りながら、打突の好機をうかがいます。
この様子を見て、剣道の専門家はよく「この人は剣道が錬れてるな。」という表現を使います。
逆に、錬れていない剣道とは、「立ち上がってすぐに技を出す。」、「左手がすぐに上がり防御の姿勢に入る。」など、中高生に多く見られる傾向です。
昔の高段者の先生方は、相手の攻めに反応して左手が少し浮いただけでも「参りました。」と打たれていなくても負けを認めたといいます。
それほど、相手の攻めに対して、自分の“心”が動くことを強く戒めたのです。
このことと関連して『名人は苦しい時に剣先が下がる。凡人は苦しい時に剣先が上がる。』という訓えもあります。
普段から、“錬れた剣道”を心がけて、一段上の剣道を目指しましょう。
稽古は試合のように 試合は稽古のように H26/09/14
「一所懸命稽古をしているつもりなのに、試合になると力が出せない。」
そんな人は、ふだんから道場での稽古を『試合』だと思って取り組むことです。
たとえば・・・
・自分が今立っている道場の中はとても大きな大会会場だ。
・面を着けながら、相手と向かい合うまでは試合の直前だ。
・切り返しや基本稽古は、呼吸、相手への間合いの入り方、打突、残心等、試合と思って取り組むことができる。
・元立ちの時も試合の気持ちだ。
こういった気持ちで普段の稽古に取り組むことが出来ていれば、試合の時は普段の稽古のとおりにやるだけですから、自ずと力が発揮できるようになることでしょう。
そもそも『試合』というものは、自分の普段の稽古の成果を試すために行うものであり、結果だけを求めるものではないはずです。
結果にこだわりすぎると、自分を見失ってしまいます。
試合で失敗したところは、その経験を道場に持ち帰って、また稽古に活かせば良いのです。
【写真】平成26年度第49回全国道場少年剣道大会 中堅 山口萌々子選手(右)
三つ攻めたら一つ切れ ~窮鼠猫を噛む(きゅうそねこをかむ)~ H26/09/09
攻めにおいては、こちらが圧倒的に優位であっても、相手に逃げ道がないほど徹底的に攻めすぎてはいけない。
攻めこまれて、どうしようもなくなった相手は、こちらの思わぬところに反撃してくるかもしれない。
これを『窮鼠 猫を噛む』(きゅうそ ねこをかむ)といい、「ネコに追い込まれたネズミが、死にもの狂いでネコに反撃する」という意味です。
このことを教訓とした剣道の極意に『三つ攻めたら一つ切れ』という訓えがあります。
三つ攻めても、相手の守りが固ければ無理に攻め込まず、相手に逃げ道となる隙を一つ与えれば、相手は打ち気になり、こちらの勝ちにつなげることができるということです。
【写真】 馬場勇司舘長 範士八段
王者の応援 ~勝って兜の緒を締めよ~ H26/08/31
欧米発祥で『紳士のスポーツ』といわれるゴルフやテニスのギャラリーは、静粛な雰囲気の中で選手の動きを見守り、プレー直後の拍手はすがすがしいほどです。
また、自分が応援する選手だけでなく、相手選手の良いプレーにも自然と拍手が沸き起こります。
武士道精神を重んじる剣道も、中体連や高体連などの大会実施要項には、『応援は拍手のみ』と明記されており、騎士道精神を背景とした紳士のスポーツ同様、静粛な雰囲気での応援を求めています。
しかし、実際は、大きな剣道大会に行くと、強豪チームほど大きな声援が飛び交い、組織的な応援は、部外者からみると不快感、嫌悪感を感じる人もいるのではないでしょうか。
雄心舘も、これまで多くの大会で辛酸をなめてきましたが、相手が一本を取って、その応援者達が歓喜の声を上げる姿を見て、その度に悔しい思いをしたことでしょう。
平成26年の夏休み、雄心舘の現中学生チームは、優勝してみて初めて、今度は今まで以上にいろんな行動を周りから評価される立場になりましたが、良くも悪くも、それは選手だけではなく、雄心舘に関わるすべての人達の行動が問われることになってくるでしょう。
一例として、下の動画は平成26年度川棚大会の中学生決勝戦です。
今一度、相手や会場にいる人達の立場になって声援を聞いてみてください。
気持ちよく観戦できたでしょうか?
優勝した中学生チームには、試合直後のミーティングで、監督が『勝って兜の緒を締めよ』と言いましたが、浮かれた顔をした選手は一人もいませんでした。立派でした。
ご父兄の方々も、子供達の初めての優勝を目の当たりにして、大変お喜びでしたが、試合後の審判長の講評が、監督と同じ『勝って兜の緒を締めよ』という言葉であったことは、もしかしたら「優勝した道場は、道場に所属する全体として気を引き締めなさい。」という意味だったのかも知れません。
雄心館として、今一度、馬場武雄先生の指導理念『もののあわれを感じ 風流で優雅さがあり 思いやりのある日本人たれ』を咀嚼したい。
ただし、理想は高くとも、強くなければ説得力がありません。
だからこそ強くなることを求め、強くなった道場が、思いやりのある応援を続けていけば、自然と剣道界全体の応援が良くなっていくはずです。
そのような『王者の応援』をしていきたいものです。
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試合の挑み方(H26年度長崎市中総体の反省) H26/06/13
戦いをするのだから、なりふりかまわず勝ちに行く姿勢は大事。
しかし・・・
『優勝を狙う』=『他の選手の模範になる』という気位が欲しい。
相手との礼から蹲踞まで、『剣道形』のように気を合わせる。
先にちょこんと蹲踞せず、相撲の仕切りのように覚悟を持って挑む。
周囲から見て、その気位や美しさも大事。
雄心舘の一門とわかるような『抜刀』を心がけているか?
試合終了時の蹲踞から納刀の際、柄頭が下がっている選手が散見された。
刀であれば、鞘から刀が落ちてしまう。
常に『刀を扱う』精神で振る舞うことが剣道を良くする。
“ 稽古は形のごとく 形は試合のごとく 試合は稽古のごとく ”
『打つか、受け止めるか』にならず、『打つか、返すか』を心掛ける。
『先』を掛け続けていれば、自然と『打つか、返すか』の剣道になる。
大事な勝負所での悪癖は普段の稽古で直す。『右足に体重が乗って足幅が広くなる』、『安易に左手が上がる』、『右手に力が入り打ちが小さくなる』と、良い結果はついてこない。
上位進出した選手は、試合場の隅で長い時間をかけて足捌きや体操をしていた。
良い動きをするためには、良い準備が必要。
見学・応援者の姿勢が立派であることは会場全体の雰囲気を引き締め、試合も良くなる。
※古里虹輝選手(写真左端)は今回補欠で試合に出ることはなかったが、見学の姿勢が立派であった。
勝利への気合いの3原則 H26/05/18
「相手より先に発すること」
「相手より大きく発すること」
「相手より数多く発すること」
どんな稽古のときでも、どんな相手とやるときでも、必ず先に、しかも全力で気合いを発するのです。
縁を切らない稽古 H26/05/11
ひとつの技を出すその過程には、
『声を発し、気合に変え、さらに気魄に変える、
その間は、呼気を長く、吸気を短く、また呼吸を止め、
相手の間合いに、攻め込み、攻め切り、攻め勝ってから、
技を出し、技を決め、打ち切って、最後に残心する。』という流れがあります。
技の稽古を見ていると、技を出すまでの過程では誰しも気が抜けないように努力するのですが、その前後、たとえば発声をする前に気が抜けていたり、打突後の残心も形だけで、すぐに気が抜けてしまう、というケースが多々あります。
普段の稽古でこういうことを繰り返していると、相手に攻め遅れたり、一本打つごとに気が抜けてしまい、その瞬間を打たれやすくなる、という悪い習慣が身に付いてしまいます。
とくに、試合や地稽古で打突後に攻め込まれ打たれやすい人は、せっかく十分に相手を攻めて打ちにいったつもりが、わざわざ後を打たれるために技を出す、という悪循環を作ってしまっています。
さらに悪いケースは、勝負の要素が絡むと打たれることを恐れながら不十分に打ちに行って足が止まったり、出した技が当たらなかったからと自分であきらめ中途半端に足を止め発声も止めてしまう『がっかり剣道』です。
『がっかり剣道』をやってしまっている人同士の地稽古は、足を使う範囲が非常に狭く、お互い半径1m程度の間しか動いていない、という意味で『1m剣道』とも揶揄されます。
これらの悪癖を取り除くための技の稽古方法は、
遠い間合いからでも、お互いに試合のような気持ちで小さく素早く足をさばいて間合を作っていく、
元立ちのときもきついが発声することにより気を充実させ、さらに懸かり手の気を充実させる、
懸かり手は、元立ちに気魄で負けないように攻め、打った技はたとえ外れても最後まで立派に打ち切る、
打った後の足さばきは小さく素早く最後まで抜くことなく、相手が後ろから攻めてくることを常に注意し残心をする。
残心で構えるところは一番きついところだが、攻められると一番弱いところになるので、できるだけ大きく息を吸わないよう、前の打突の呼気から続けて気を出し、振り返ったら一歩前に詰める。
出頭技や返し技などの直後は、間合や立ち位置が悪いと、逆に相手から攻められることがあるので、残心後の自分と相手の立ち位置の関係を予測して、常に有利な立ち位置になるよう、間合を確保しながら残心する。
懸かり手と元立ちが交替するときは、一番気が抜けがちになるので、お互い常に試合だという気持ちで、すかさず足を使い適正な間合いを作る。
このように懸かり手も、元立ちも、お互いに普段から“縁を切らない稽古”を心がけていれば、基本の稽古が充実して強くなれるのです。
剣道具の持ち運び H26/04/14
①正座の状態。
②面を面布団の下から持ち、
③面金を下向きに、顎のほうを前にして左脇に抱え、
④小手を筒口のほうから面に入れる。
(小手内側の汚れを見せない。また小手を傷めないため。)
⑤左脇に面、右手で竹刀を持ち腰に引き付け、
⑥跪座(きざ:つま先を立てる)をしてから、
⑦右足を小さく前に出して姿勢を崩さないように立ち上がり、
⑧立ちあがったら提げ刀となります。
湧泉(ゆうせん) H26/03/29
湧泉とは、足の裏にあるツボで、足底を内側に曲げると人の字のようになる交点のくぼみ(図の赤丸)部分をいいます。
整体では、湧泉を刺激すると、からだの疲労が抜け、生命エネルギーが『泉』のように『湧』いてくるといわれています。
剣道でも、左右の湧泉に体重を乗せることで安定した足運びが可能となるので、重要なキーワードのひとつです。
【悪癖の例】
・左足の湧泉が床から離れ、つま先重心(左足が外を向く人は親指側に重心がある)になってしまうと、左足の運びが床に十分伝わらず左腰が流れ、また右足重心になり、足幅も広くなってしまいます。その結果、居着き(いつき)、構えの崩れ、打ち急ぎ、出遅れが生じるのです。(左足裏の皮が向けやすい人は、このタイプに多いです。)
・打突時に左足が跳ね足になり、上体が前に倒れ打突が安定しないため、有効打突になりにくい。
⇒打突時に湧泉を床から離さず左足を引きつけるように意識すれば腰が安定し、打突も安定します。
・右のかかとを痛めやすい。 ⇒ 右かかと重心になっており、踏み込みのときも、かかとから踏み込んでいるため痛める。右ひざを軽く曲げ、湧泉での踏み込みを心がける。
・下がるとき、右足のつま先側が浮き上がってしまう人(特に切り返しでみられる)は、かかと重心になっており、右ひざも伸びるため、相手に攻め込まれやすくなってしまいます。
・下がるときの足運びでは湧泉の重心を気を付けていても、前進に切り替えるときに左のかかとがついてしまう人も多いです。
勝負では一瞬の居着きが命取りになるため、いつ相手が攻めてきても対応できるような心構えでの足運びが重要です。
近年は空前のランニングブームですが、世の中には100km超級のウルトラマラソンというものが存在し、日本を含め世界各地で行われています。
ウルトラランナーたちの間では、メキシコのタラウラマ族の走りを学び、“かかと着地”は故障の元、今や“前足部着地”(フォアフットランニング)の時代となっているそうです。
剣道の教えも、昔からフォアフット(湧泉)であった、ということですね。
指導講話(馬場武典先生) H26/03/15
〇面打ちについて
・面を打った後に竹刀を跳ね上げて気を抜かない。
・打った後、そこからが打突の始まり。
・相手の中心を割って行くように、竹刀をはじくのは10cm程度(実際はもっとはじくが)のつもりで。
・打突時の発生は「メーン!」ではなく、「メエェーーン!」と打突時の「メ」から竹刀をはじいた後の「エェー」を強調することで、打突後の動きがしっかりしてくる。
・打突後、竹刀や腕を落さずに剣先の向きに上がっていくように。剣先が上がり切った頂点で振り返る。
・左足の引きつけは、左足で床を蹴ろうとするから引きつけが悪くなる。右足を踏み込んだら、引きつけた左足の「かかとを床につける」ようにすると自然に引きつけられる。
〇懸かり稽古に懸った後の動作について
・懸かり稽古は、次から次に途切れず懸かった方が全体の勢いがあって良い面もあるが、西雄舘では、懸かり稽古一回ごとに蹲踞をしている。それだけで足腰が鍛えられる。
・懸かり稽古で元立ちがそのまま次の人を受ける場合、懸かった人が竹刀を納めて元立ちに礼をしてはいるが、きつくても所作をいいかげんにせず、正しく行う。
・懸かった後に戻る際も、だらだらと歩いて戻るのではなく、懸かり稽古をしている人たちの邪魔にならないように機敏に間をすり抜けて戻っていく。
〇竹刀の扱いについて
・竹刀を置くときに音がしている人がいる。竹刀は刀と同じであるから、大事に扱う。
・武士の時代は、武士と武士が道をすれ違う時、鞘と鞘が振れないよう、お互いに左側通行をしていた。もし鞘が触れたら、どちらかの不注意であるから、不注意をした者は土下座して謝らなければならなかった。そのくらい武士にとって刀は大切にされた物であった。
・メジャーリーグのイチロー選手は、バットをほかの誰にも触らせない。打席で打った後も投げない。マリナーズ時代は専用のバット置きも作ってもらっていた。グローブ等の道具も同じように大切に扱っている。
・2月に五島で高校の九州選抜大会があったが、九州で最高の高校生剣士が集まる大会であったにもかかわらず、竹刀検量で100本もの不合格竹刀があった。竹刀は自分の身体の一部であって、竹刀と友達にならないと強くはならない。
〇子供たちが帰った後
・面打ちについては、面の中心を打っていない子が多い。右や左を打っていることが多いので、あくまでも中心を狙って打つよう指導すること。
・五島の九州高校選抜大会の選手は、礼をした後の抜刀について、ひょっと竹刀を構えたり、試合後の納刀も右手を膝に置かずにささっと立ち上がっていた。
・納刀は、右手を膝に置いて、初めて納刀が終わる。
・世界選手権大会も、藤原崇郎先生(総監督)が、日本選手に納刀だけでも他国の模範としてしっかりさせたいと指導を行ったが、指導陣にでさえまったく浸透しなかった。
・子供たちの頃から、剣道の“心”を指導しなくてはいけない。
履き物を揃える(はきものをそろえる) H26/03/08
「履き物を揃えなさい」
学校の先生や大人から、こども達がよく言われる言葉ではないでしょうか。
『外国に行くと、日本のことがよくわかる』とよくいわれます。
10年ほど前、仕事で来日した外国人男性のすまいを訪問する機会がありましたが、玄関の靴はいつも天地が逆になるほど脱ぎ捨てられ、まさに“雨のち晴れ”、普通の日本人から見るとまさにカルチャーショック、という状態でした。
『履き物を揃える』という習慣は、日本人特有の習慣のようです。
履き物の揃え方について「剣道礼法と作法」(馬場武典先生著)には、以下のように書かれてあります。
※きちんと揃えることは、相手にこころよい感じを与えるということで、礼儀作法の第一歩である。
更にその揃え方にしても、靴箱に入れる入れ方は、踵の方を奥にして入れ、靴の中の汚れが見えないように靴先(足の甲の部分)を手前にし(写真①)、便所などで使う共用のものの並べ方は、次に履く人が履きやすいようにという思いやりから(自分にとっては脱ぎにくいけれども)、むこう向きに並べる等の心づかいをする(船出の形)(写真②)。 (以上、抜粋)
剣道大会会場のトイレでは、スリッパが整然と揃えてあるときもあれば、残念ながら乱れているときもあります。
心ある人は、その乱れたスリッパを、あとから入ってくる人が履きやすいよう、つま先を揃えてくれます。
しばらくして、多くのひとが行き交い、せっかく誰かが揃えてくれたスリッパが乱れていても、必ず誰かが揃えてくれます。
心ある人は、ほかの誰かがも見ていなくても、スリッパをきちんと揃えてくれます。
汚いとか、めんどくさいとか、そんな気持ちを乗り越えて、やってみると心が強くなります。
ほんの小さな良心でも、世の中に貢献している自分が実感できるはずです。
『一隅(いちぐう)を照らすものは、国の宝なり』
“それぞれが、それぞれの立場で、その場所を照らす行いを精いっぱいやれば、世の中が良くなる。そういう人こそが、国の宝である”という意味です。
「はきものをそろえる」
はきものをそろえると心もそろう
心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと
はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら
だまって そろえておいてあげよう
そうすればきっと 世界中の人の心も
そろうでしょう
(鎌倉時代初期の禅僧、道元禅師の教え)
打たれて強くなる H26/02/10
一刀正伝無刀流の創始者、山岡鉄舟は幕末、千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し、なりふりかまわず稽古に励み、二十歳で幕府の講武所の教士に任命されたといいます。
鉄舟は、玄武館に入門後、周りからボロ鉄といわれるほど打たれて修業しました。
しかし、鉄舟はただボロボロに打たれっぱなしになって稽古したわけではなく、自分が不得意な攻めや技をいろいろ試し、そのたびに稽古相手に打たれたわけです。
誰でも、自分の得意な攻め、得意な技だけを使い、弱いところは打たれないようにと、無理なところを勝負しなければ、短期的には負けにくく、勝負勘の良い人はすぐに勝つでしょう。
現代剣道の修業でも「打ち上手は、打たれ上手」といいます。
打たれる怖さを克服し、小手を打たれようが、胴を返されようが、自分の技を打ち切る。
短期的な勝ちを度外視し、将来を見据えて、あえて自分の不得意な技を磨く。
大きな目標を持ち、自分が現在どうあるべきか、どうすべきかを知りコツコツと努力するからこそ、目標を達成できるということです。
道場 H26/02/02
道場は精神的にも肉体的にも最も緊張した状態のもとで稽古が行われる修行の場です。
道場には神殿を設けて神を祭り、場内を清め、怪我のないように祈り、心を引き締めます。
雄心舘のように独自の道場をもたない団体の多くは、学校の体育館や公的施設等で稽古を行うため、神殿を設けられない場所もありますが、その場合もそれぞれが道場の正面中央に神殿をイメージして、どの稽古場所であっても道場としての雰囲気づくりを心掛けます。
また、道場は素足で歩き、直に正座する場所であるので、それぞれが床を雑巾がけしていたわることで、怪我の予防になるだけでなく、足腰や心の鍛錬にもなります。
体育館等はモップがけをするところもありますが、いずれにしても道場として使用する場所を常に清める心は、道場の雰囲気づくりに役立ちます。
雄心舘の眞邊維新くん(小6)は、ここ数年間、毎日、誰よりも早く道場に来ています。
眞邊くんは、道場に着くとすぐにバケツに水を汲み、ひとり黙々と道場の隅から隅まで雑巾がけをしています。
他の友達が来る前には雑巾がけを終えて、鏡の前で素振りをしたり構えをチェックしたりしています。
眞邊くんは、小学5年生頃までは同級生の中でも試合にはあまり勝てず、大会でも補欠ばかりでしたが、こつこつと努力を続けたおかげで剣道も強くなり、小学6年生になると大会で何度か優勝したり、少年玉竜旗では11人抜きも果たすほどの力をつけました。
そういった日々の模範的な行いが道場に認められ、年末の納め会で眞邊くんは特別賞を受賞しました。
このように、良い環境の感化力は、ひとりふたりの指導者の教導よりも、遙かに偉大な感化力を持つものです。
特に幼少年にとっては、無言のうちに感化し、善導するものですから、道場の環境づくりに対しては、特段の配慮を払わなければなりません。
仕かけ技(面技) H26/01/26
表から攻めて面
・相手の竹刀に自分の竹刀を乗せていく。
・身体ごと勢いよく跳びこむ。
・相手の剣先を中心からはずすこと。
裏から攻めて面
・鍔元を攻めることで、相手は小手を警戒して剣先を開いてきたら、すかさずスキのできた面を打つ(素早く振りかぶり手首のスナップを利かせる)。
小手から面の連続技
・一本一本を決めるつもりで打つこと。全力で。
・体勢を崩さず打つためには、左足の引きつけが大事。
・体勢を崩さずに腰から打つこと。
表から払って面
・右前に攻めながら、左斜め前にむかって相手の竹刀を払い落し、素早く左足を引きつけて体勢をととのえ面を打つ(手首のスナップ)。
裏から払って面
・竹刀を裏に回し、相手の竹刀の中ほどを払い上げ、そのまままっすぐ振りかぶり、流れるように面打ちの動作にうつり、手首のスナップをきかせて面を打つ。
かつぎ面
・機会を見て攻めこんで、面技と同じ軌道で振りかぶり、竹刀を肩にかつぎ、相手が胴を警戒し手元を上げて居ついたところを面を打つ。
捲き落し面
・相手の竹刀を根元から巻き落し、完全に巻き落してから、竹刀を振りかぶり、正面から真直ぐ面を打つ。
・低く攻め込んで裏から竹刀を巻く。
団体戦の戦い方~最悪の状況から勝利を考察する~ H26/01/17
私はできる H25/12/28
負けると思ったらあなたは負ける。
負けてなるものかと思えば負けない。
勝ちたいと思っても勝てないのではないかと思ったら、あなたは勝てない。
負けるのじゃないかな、と思ったらあなたはもう負けている。
というのも、成功は人の考えから始まるからだ。
すべてはあなたの心の状態によって決まるのだ。
自信がなければあなたは負ける。
上に登りつめるには高揚した精神が必要だ。
なにか勝つためには自信が必要だ。
人生の戦いに勝つのは、必ずしももっとも強くて、もっともすばしっこい人ではない。
最終的に勝利を収めるのは『私はできる。』と思っている人なのだ。
ナポレオン・ヒル 『巨富を築く13の条件』 より
剣道ノート H25/12/15
稽古で先生から教わったことを忘れないためには、その日の反省をノートに書き留めることが効果的です。
とはいえ、学校の宿題もしないといけないし、小中学生が毎日の稽古の反省を書いていくことは大変です。
勉強も剣道も、やりっぱなしは良くないとわかっていても、毎日予習復習するのは時間がいくらあっても足りないと思うでしょう。
まずは、一行でよいので書いてみましょう。
課題は二つ。
『先生から剣道について教わったこと。あるいは注意を受けたこと。』
『剣道について、思ったこと。あるいは感じたこと。』
この二つをたった一行ずつ、キーワードだけでもよいのでとにかく毎日書いていくこと。
この「書く」ということが、「考える剣道」をするためのコツです。
毎日書いていくうちに、「今日は先生がどんなことを教えてくれるだろう?」、「今日はこのことを書こうかな。」等と稽古をしながら考えていけるようになれば効果が表れてきた証拠です。
毎日、剣道ノートを書いて、考える剣道をしましょう。
大技(おおわざ)と小技(こわざ) H25/12/07
小さい面打ちが得意な人と、大きい面打ちが得意な人。
小さい面打ちは、技の出が速いので相手を惑わします。
反面、射程距離が短いので、足を使って十分な打ち間に入らなければ(あるいは相手を引き出さなければ)相手には届かず、そのため相手の打ち間に入るリスクが伴いますし、さらには冴えた手の内で十分にとらえきれなければ、当てただけの不十分な打突となってしまいがちです。
また、間合いの取り方の上手な、懐(ふところ)の深い相手にはなかなか通用しません。
大きい面打ちは、小さい面打ちよりも遠い間合いから、さらに相手の小技をも打ち崩すことができ、打ち切ればたとえ打突部位をとらえきれなくとも見る者を感動させることがあります。
反面、大技は、技を出すまでの業前(わざまえ)で相手に勝っていることが大事で、ただ大きく打つだけでは、相手に隙を与えるようなものです。
稽古では、大技をたくさん稽古して、その際、業前をしっかり意識することです。
大技の稽古は振り幅が大きい分、相手に打たれやすいため、幼少年時代は勝ちに恵まれないこともありますが、後に必ず強くなる稽古方法です。
勝負強さを求めるならば、間合いによって大技と小技を使い分けることです。
大技ばかりの人は、近い間合いではとっさの技が打てませんし、小技ばかり使う人は、簡単に勝てるときもありますが、まったく相手に技が届かなかったり、将来的にはスピードがなくなったら勝てなくなる恐れがあるので、大技と小技、どちらも稽古しましょう。
そして、どんな技も業前が重要ということです。
"技を出すまでが剣道である。技を出してからは運動である。"
『指導者の目線』「他者から学ぶ」~第40回記念長崎県少年武道大会~ H25/12/02
「チームワークの勝利」
中学生の部優勝の島原第一中学校は、エントリーした7名全員が剣道着・袴に胴・垂れを着けて表彰式に参加しており、誰が補欠かわからないくらい、みな誇らしげで立派な態度でした。
その他の表彰チームのいくつかも正選手と同様に補欠が表彰式に参加していました。
大会前のアップでも、エントリー全員が面を着けて稽古している光景はいくつか見受けられました。
中には余りが出ないよう8名で稽古しているチームもありました。
たとえその大会に出られなくても、その雰囲気の中で稽古をしたり試合を応援することは、普段の稽古とは得るものが違います。
むしろ試合に出ない人の方が、いろんなものが目に映り、その経験は次回以降の大会にも必ず活きてくるものなのです。
入賞するチームはこのようなことが当たり前にできていて意気込みが違います。
とはいえ“勝負は紙一重”。
雄心舘の中学生も優勝した島原第一中学校と対戦し、あと少しのところまで追いつめたのですから、“紙一重の差”は十分肌で感じたことでしょう。
試合に出ない人も面を着けて一緒になって稽古相手をしたり、次の試合の組み合わせや相手の情報などを常に把握し、選手を安心させる。
些細なことでも、選手にとって大きな心の支えとなります。
そうやって正選手も試合に出ない仲間たちに感謝の気持ちで精いっぱい頑張ることができる。
入賞するチームとそうでないチームの“紙一重の差”は、チームワークにあるといっても過言ではありません。
「正中線と間合いで勝つ」
入賞チームの選手は皆、足を巧みに使って相手の中に入り込み、正中線をすかさず奪い、相手を打つことが得意でした。
優勝したチームでいえば、小学生は真崎少年の大将三浦君。
ススッと相手の嫌な間合いに入り正中線を取って、相手が居ついたり出遅れたところに面を打つのが得意。
中学生は島原第一中学校の大将市原君。福江西雄舘との代表戦では、難しい相手にひるむことなく最後まで間を詰めて正中線を奪うと、ついに飛び込み面を決めました。
小学生3回戦で真崎少年に惜敗した愛野少年の小柄な選手たちも、相手よりもかなり不利な条件であったにもかかわらず、積極的に間を詰めて大きな相手に立ち向かいチームに貢献していました。
試合中、仲間も「中にもっと入り込め!」と激励しており、チーム全体が自分たちのやるべき剣道をわかっているようでした。
最近、小学生では、黒髪少年や不二剣などの佐世保勢が元気のよい剣道でたびたび入賞しています。
黒髪少年と対戦した雄心舘は、正中線の奪い合いで負けてしまいました。
足を叩いたりして間を詰めてくる相手に、つい受けが先になり剣先を外してしまい正中線を奪われ一瞬遅れて面を打たれました。
剣道で一番大事な正中線。そして間合い。勝負の鉄則はここにあるのです。
懸待一致(けんたいいっち) H25/11/24
懸かる=攻撃、待つ=防御。
つまり“攻防一致”のことです。
戦いの中では、懸かる中に待ち、待つ中に懸かる態勢を維持します。
仕掛け技が得意なだけでは、いつか相手に出鼻を打たれたり、返されたりします。
出頭技や返し技が得意なだけでも、相手に待っていることが伝われば、間を詰められたり、引っ掛けられたりして打たれます。
「懸待一致」を実践するためには、たとえば返し技が得意でも、まずは先々の先の気で相手を攻め、隙があれば相手に打ち込むという攻め(本当に隙があれば技を仕掛けるぎりぎりの気位で)をしていきます。
そうすると大抵、相手がこちらの攻め気に押され、まだ十分な打ち間ではないところで打ちこんでくる、そこを返すのです。
その時、もし相手が打ってこれなければ、こちらが十分な間合いと態勢になっている可能性が高いですから、そうであれば自信を持って打ち込めばよいのです。
ちなみに「打つか、受けるか」は、最悪の剣道、
「打ってよし、返してよし」
これが剣道の醍醐味です。
物見(ものみ) H25/11/10
相手との間合いを正しく測り、集中して対するためには、面の物見(ものみ)から相手を見るよう心がけることです。
面金の横金は、一般用は14本(少年用は13本)あり、面金の上から6本目と7本目の間を物見といいます。
幼少期のこどもはこれから成長することを見越して大きめの面を着用する場合がありますので、物見が合わない場合は、頭部に厚みのある布を充てたり、あご当てをして調整します。
面のサイズが合っていても、着け方が悪く、中心が横にずれていたり、物見から1本ずれて上目遣いになっている人もいます。
物見がずれると修行の妨げになるので、面を着けたら鏡で確認するなど、正しい着用を心がけましょう。
夢をかなえる生き方 H25/11/04
元プロテニスプレーヤーの杉山愛さんによると、世界のトップ選手は人間的にも尊敬できる人が多いといいます。
ロジャー・フェデラー選手は、
「相手が自分の弱点を教えてくれるいいコーチなんだ」
という発想を持っている。
常にトップにいる理由を感じさせる物事の考え方をしている。
杉山さんは、「遊戯(ゆげ)ざんまい」という言葉を大切にしている。
「楽しいことをする」ではなく「することを楽しむ」という意味。
試練やつらいときに、この状況を楽しもうと遊戯ざんまいという言葉のスイッチを入れることで、人生で乗り越えられないと思う高いハードルも、知らない間に乗り越えてきたという。
プロ野球日本シリーズで、ルーキーながら大車輪の活躍で東北楽天の初めての日本一に貢献した則本昴大投手は、
「ユニホームを着てマウンドに立ったら、人が変わったように気迫を出したい」
との思いで戦ってきたそうです。
剣道でも、「面を着けたら鬼となれ」といいます。
この日本シリーズで胴上げ監督となり宙を舞った東北楽天の星野監督は、
「辛うじて1勝の差で勝った。まだまだ巨人より力は劣る」
とのコメントを残しました。
相手方(ファンも含めて)にも配慮した謙虚な気持ちが見習うべきところですね。
大強速軽(だいきょうそくけい) H25/10/27
「大きく」、「強く」、「速く」、「軽妙に」打ちなさい、という教えのことです。
「大きく」、「強く」、「速く」、打つだけなら、力まかせに打ってもできることですが、この三点に加えて「軽妙に」打つ修行をすることで、正確で冴えのある打突が表現できます。
少年期、特に中高生の勝負にこだわりがちな時期は、小さく速く打つ傾向に陥りがちです。
その場合、ほとんどが相手の間合いに入れず打突するので、竹刀が相手に届かなかったり、届いたとしても正確でない当てっこの弱い打突、あるいは打ちは強くても鈍重な打突となり、有効打突の条件から離れていきます。
このような打突では打たれた相手の心にも響きません。
さらには自分自身も相手の当てっこの竹刀にさわられるのが怖くなり、体勢を崩してまで当てに入るような打突しかできなくなっていくのです。
このことは、小さく速いだけの当てっこの打突に旗を挙げる審判にも責任がありますが…。
全日本選手権の上位に食い込む選手の有効打突は、スローでみると振りが大きい上に、打ち切った打突をしています。
馬場勇司先生は、「稽古で大強速軽を心がけていても、試合になると半分くらいの大きさでしか打てないのだから、稽古の時はできるだけ大きく打ちなさい。」と指導されています。
勝負に勝っても負けても、見る者を感動させるような一本を打つことができるよう、大強速軽を心がけていきたいものです。
長幼の序(ちょうようのじょ) H25/09/30
礼式や稽古のとき、年長者(先生や先輩)は上座(かみざ)、年少者(後輩)は下座(しもざ)に並びます。
また、整列して正座をするときも起立するときも、年長者から先に動き、年少者はその動作に合わせます。
立ち合いのときの蹲踞(そんきょ)も同様です。
日本剣道形においても、仕太刀(下位者)は打太刀(上位者)の動きに影のように合わせて動き、決して仕太刀が先に動いてはいけません。
このように剣道ではいろいろな場面で上位・下位の規律を重んじていて、これを「長幼の序」といいます。
「長幼の序」とは、年少者は年長者を敬い、年長者は年少者に愛情を持って大切にするという意味です。
上位下位の序列に従い行動しますが、決して上位の者が下位の者に対して偉そうに横暴な態度を取って良いということではありません。
先輩は後輩に対して愛情を持って接することです。
初心者の面着けを手伝ったり、優しく、時に厳しく稽古の手ほどきをする。また、率先して道場の雑巾がけや窓閉め等をする。
かつて自分が先輩達から受けた愛情を後輩達に返していくことで後輩達から尊敬される、それが「長幼の序」のよいところです。
見取り稽古(みとりげいこ) H25/09/21
剣道では、ほかの人の稽古を見て学ぶことを、「見取り稽古」といいます。
「剣道の上手な人は、なぜ、どのような点が良くてできているのか?」
「上手くできていない人は、どこが足りなくてできていないのか?」
「今の自分はその人とくらべてどうなのか?」
「どうしたら自分もできるようになるのか?」
このように普段の稽古から「見取り稽古」に取り組む習慣づくりはとても大事です。
また、大会会場では、強い人の試合の動きを見て学ことはもちろん大事ですが、礼法や所作ごと、会場での行動においても、何か見習う点がないかを観察する目も大事です。
自分が強い人に対して観察する目をもつことは、自分自身もほかの人から観察されているかもしれないということですから、「見取り稽古」はその人を高めることにもなります。
怪我などで稽古ができない時は、とくに「見取り稽古」をするチャンスだと考えましょう。
自分が稽古をできないからといって、休むのはとてももったいないことです。
このような時こそ、普段みえているようでみえていなかった「何か」に気付くかもしれません。
「見取り稽古」を習慣にして強くなりましょう。
気は大納言(だいなごん)のごとく 身は足軽(あしがる)のごとし H25/09/15
相手との立ち合いにおいて、「気位(きぐらい)は殿様のように堂々と懐深く構え、片や身のこなし(足さばき)は足軽のように素早く行うべし」という教えです。
気持ちも動きも足軽では、品格のない「足軽剣道」になってしまい、見ている人に感動を与えませんし、逆に、昇段審査でよくみられる「構えはとても良いのに、動きだしたら残念な剣道」というのも、普段の稽古で足を使っていない証拠となってしまいます。
普段から大きな気位で懐深く構え、なおかつ誰よりも多く足を使って稽古を積み重ねることが肝要ということです。
抜刀(ばっとう) H25/09/12
馬場一門の竹刀の抜き方には流儀があります。
鞘(さや)から刀を抜くような動作で、据物(すえもの)切りのように抜くのがその方法です。(動画道場)
昨今、竹刀を抜く際、腰からすぐ構えの位置に持ってきたり、あるいは刃筋を無視して横から、ひどい場合には下から抜く場合も見られますが、昔の文献からみると、当時の著名な剣道家は、竹刀を刀として抜くことにポリシーを持っていたようです。
(その1)
蹲踞の姿勢をとりながら右手を以て大きく頭上から体の正中面を通して抜く。
【注意】刀を抜くとき、腰からすぐ構えの位置に持ってくる者、所謂小さく抜くものがあるが、刀は腰から上に柄を挙げながら我が正中線を通して、頭上から大きく抜くがよい。
(「増補・改訂 剣道学」金子近次著)
(その2)
柄を握りたる右手は…頭上に刀を抜く心持ちにて上に抜くなり。
(「剣道新手引」 堀田捨次郎)
(その3)
右手の親指をもって下より鍔元を支え上げ、鞘より抜く考えにて、かつ、敵を真っ向より撃ち下ろす心持ちを以て抜き放ち左手にて柄頭を握る。
(「剣道」高野佐三郎)
(その4)
鞘に納まっている刀を抜く心持ちで、蹲踞しながら正中面上に抜き放つ。・・・このとき抜き放つ刀を以て、敵を一刀両断にする心で体前に取り、左手を添えて柄頭を握る。
(「剣道神髄と指導法」 谷田左一著 高野茂義校閲)
礼三息(れいさんそく) H25/09/01
立礼も座礼も、礼のはじめと終わりは必ず相手に注目します。
背筋を伸ばし、前に倒したときはいったん動作を止めて、相手にタイミングを合わせるために“間”を取ります。
特に上位の者よりも早く起こさないように気を配ることが大切です。
一日の稽古で、何十回も行う礼とはいえ、普段の心がけがないと、形だけの雑な礼になり、なかなかタイミングよく美しく、とはいかないものです。
丁寧な礼をタイミングよく行う方法として「礼三息」の教えがあります。
「上体を倒すとき息を吸い、倒して止めるときに吐き、戻すときに吸う。」
これを実践することにより、礼のタイミングはもとより、前に倒すとき息を吸うことによって、胸郭が張り背中が曲がらず上体を真っ直ぐに保つことができます。
また、座礼では倒したとき吐くことによって腹圧がなくなり深く曲げることができるようになります。
「礼三息」を心がけて、呼吸と身体の動きを合わせれば、美しい礼ができるようになります。
物打(ものうち)・元打(もとうち)・中結(なかゆい)・弦(つる) H25/08/24
物打とは、竹刀の剣先(けんさき)から中結までの刃部(じんぶ)で、『有効打突の条件』にある“竹刀の打突部”のことです。
逆に、中結から鍔元(つばもと)までの刃部を元打といい、元打での打突は有効打突となりません。
刀で一番切れ味が良いところは「切っ先三寸(きっさきさんずん)」といわれ、その由来から竹刀の打突部である物打も決まったといえます。
中結は竹刀の全長の約1/4と規定されていますが、わりと守られていないことが多く、緩んでいたり元打のほうに下がっていたり、ひどい場合は、中結が回って弦が反対側を向いてしまっているケースも見受けられます。
危険防止のため、稽古前後の竹刀点検は必ず行い、また監督や審判も、試合者の中結や弦が緩んでいないかなどのチェックを怠ってはいけません。
なお、結びなおした中結や弦は伸びて余ってくるので、潔くハサミで切ります。
参考
【剣道試合・審判規則 第13条】 「竹刀の打突部は、物打を中心とした刃部(弦の反対側)とする。」
【剣道試合・審判・運営要領の手引き 三 運営要領(その他の要領)④】「中結は剣先から全長の約1/4の箇所でしっかりと固定させる。不備であれば危険を防止するために取り換えさせる。」
鎬(しのぎ) H25/08/15
鎬とは、日本刀の両側面の一番厚くなっている部分。
剣道の竹刀は四枚の竹を重ねてありますが、弦(つる)のある面が峰(みね:または棟(むね))、その反対側が刃(は)、両側面を鎬の部分と見立てています。
実際に刀を使うと、相手の刀を刃部で受け止めたり、鍔迫り合い(つばぜりあい)をすると刃こぼれしてしまうので、鎬を使います。
剣道で鎬を使う代表的な技として、すり上げ技がありますが、小学生の試合でも、相手が先に打ってくる技を、鎬を使って軽妙にすり上げ面で打ち返す様は、芸術的です。
一般にも「鎬を削る(しのぎをけずる)」ということわざがありますが、互いの鎬が削れ落ちるほど激しく争うさまを例えています。
しかし、剣道の試合や稽古で、鎬を使うどころか、鍔も合わせない拳合わせのような緊迫感のない鍔迫り合いを見かけることがよくあります。
また、全日本選手権の試合巧者でも、間が近くなるとすぐ相手の肩に竹刀を掛けながら別れるような、刀の意識を全く無視した試合展開を見かけることも多々あります。
剣道人が互いに刀を扱う意識で、まさに鎬を削り合う戦いをすればもっと剣道が魅力的で芸術的なものになっていくことでしょう。
虚実(きょじつ) H25/08/15
攻められるなどして「はっ!」とした、心の動じた状態が「虚(きょ)」。
逆に心が動じていない状態は「実(じつ)」。
互いに相手の「実」を避け、「虚」を打つ。
自ら(みずから)も「虚」の状態を極力(きょくりょく)作らず、「実」の状態で攻める。
呼気(こき:息を吐いている状態)は「実」、吸気(きゅうき:息を吸った瞬間)は「虚」。
吸気はなるべく生命維持に最低限必要なレベルに抑え、細く長い呼気の状態で相手を攻めていく。
どんなに強い相手でも、技を出す瞬間は「虚」になります。
その機会に、自分が「虚」であれば当然打たれますし、逆に「実」の状態であればその機会に打ち勝つことができるでしょう。
「実」の状態をつくるためには、構え(フォーム)も重要です。
足幅が広かったり、相手から剣先がはずれた状態は、心も動揺します。
普段の稽古で、なるべく「虚」の状態が少なくなるよう、呼吸や構えを整えることが肝要(かんよう)です。
目付(めつけ) H25/08/15
宮本武蔵は戦いの時の目の付け様について、観(かん)の目を強く、見(けん)の目を弱くするよう伝えています。
つまり、現実に見えている相手の動きにとらわれることなく、心の目(イメージ力)で相手を見なさい、ということです。
稽古で観の目を養うには、相手の打突部位を見るのではなく、「遠山(えんざん)の目付」で相手の後ろにある遠くの山をイメージして見るよう修行します。
小手が打ちたくて小手に目がいけば、相手に打突の意思が読まれてしまいますから、普段から視線を動かさず全体を見て打突できるようにするべきです。
素振りでも、ただ振るのではなく、相手をイメージしてやっている人は強くなること間違いないでしょう。
心で打て(こころでうて) H25/08/15
一寸 =3.03030303 センチメートル
手で打つな 足で打て
足で打つな 腰で打て
腰で打つな 心で打て
間合い(まあい) H25/08/15
“間合いを制する者は勝負を制する”
『触刃(しょくじん)の間』
お互いの剣先が触れ合う間合い。もうひとつ攻めないと十分に相手を打てないが、ここで正中線(せいちゅうせん:お互いの中心)を取り、また呼吸を乱してはいけない。
『一足一刀(いっそくいっとう)の間』
交刃(こうじん)の間とも言われ、一歩踏み出せば相手を打突できる間合い。触刃の間もそうだが、一足一刀の間で発声すると息を吸うことになり、相手に攻めの機会を与えるので、戒めること。
『近間(ちかま)』
ここまで入るとお互いに打てなくなるので、その前の一足一刀の間で打突の機会を逃さないこと。また、近間で文字どおり「間が悪く」なり、簡単に下がれば、相手に打突の機会を与えることになるので、互いに譲れない間合いとなる。この場合、体当たりや開き足(ひらきあし)で自分に優位な間合いとする、あるいはお互いに中心を譲らず、潔く下がることが肝要。
『遠間(とおま)』
一歩踏み出してもまだ相手を打突できない間合い。
『大遠間(おおとおま)』
遠間よりもさらに遠い間合い。相手からは遠いが、気を抜かず、ここでも攻めの気をつくっておく。
これら距離的な間に加え、時間的な間(ため)も勝負を制する大事な要素となります。
手刀(てがたな) H25/08/15
稽古の前後の礼式の時は、正座をして手はひざの上で指先を伸ばし親指を内側に入れ、「手刀」を取ります。
これはもちろん正座がより美しく見えるということもありますが、武士の時代は「手刀」が自分の身を守る最終手段と考えられていました。
丸腰(刀を帯びていない)の状態で、相手がいきなり切りかかってきても、「手刀」で相手の頸動脈(けいどうみゃく:首筋の部分)を打つことで重大な損傷を与えることができるのです。
「手刀」は、どんな時でも気を抜いていないという意思表示であり、また、武士のさりげなく凛とした美しさのひとつでもありました。
日本人としての伝統を受け継ぐためにも、「手刀」は常日頃から意識していたいものです。
先(せん) H25/08/15
「先」とは、相手の意思の動きをいちはやく察知し、機先を制して勝つ機会のこと。以下、3つの先がある。
①「先前(せんぜん)の先」
相手が動作を起こす前に、先に打ち込む機会のこと。相手より先に仕掛ける勇気が必要。
②「先の先」
相手と同時に打突する機会のこと。我慢できず先に出れば返され、相手を待っては遅れを取るような状態は、ぐっと我慢して先を掛け出頭を打つと最高の機会となる。
③「後(ご)の先」
相手に先に技を出させて、返したり、抜いたり、あるいは竹刀を制したりして打突する機会のこと。この機会は決して待ってはいけない。むしろ「先前の先」の気位でいることにより、相手がこちらの気に押され、無理に打ってくる機会こそが「後の先」の醍醐味となる。
「先」とは、日常生活においては、勉強であれば、予習をして授業や試験に備えておくこと。
ビジネスであれば、第1案、第2案・・・と事前に顧客の動向を予測し準備しておくことで、たとえ結果的に予測が外れたとしても、そのことに動じず、あらゆる状況の変化に即座に対応できるようになることでしょう。
稽古であれば、早めに道場に来て素振りをしたり打ち込み台を打つ、誰よりも先に面を着け一番に先生に掛かる。このようなことをこつこつと続けている人で強くならない人はいません。そのような人は、いずれどのような世界でも通用する大人物となることでしょう。
剣道の勝敗だけでなく、日常生活においても、常日頃から「先」を取っておくことは、その人のこれからの人生をも左右する重要な要素といえます。
膕(ひかがみ) H25/08/15
「ひかがみ」とは、ひざの裏のくぼみのこと。
剣道では、中段の場合は「左のひかがみ」が折れることを嫌います。
ひかがみを軽く伸ばしておくことで、打突の機会に素直な技が出ます。
稽古不足であったり、普段からおちつきのない剣道をしていると、ひかがみが折れ、足幅も広くなり、打たれてはいけないところを打たれてしまいます。
「ひかがみ」は、まさにその人の稽古の質と心のバロメーターでもあります。
有効打突(ゆうこうだとつ) H25/08/15
「今の当たったのに何で1本じゃないの?」
大会会場でよく聞かれる話です。
剣道試合・審判規則第12条では「有効打突」の条件について、
充実した気勢、
適正な姿勢をもって、
竹刀の打突部で打突部位を
刃筋正しく打突し、
残心あるものとする。
と規定しています。
また有効打突には、図のように「要件」と「要素」があり、3人の審判員は「有効打突の条件」に基づく「要件」や「要素」により有効打突を見極めます。
・打突の強度不足(要素)
・打突部位はとらえていた(要件)が、手の内の冴え(要素)がなかった
・打突後の身構え、気構えがない(残心)など。
「すりあげ技」のように「玄妙な技」は打突が軽くても1本になる場合があります。
審判員はその時、なぜ旗を挙げたか、挙げなかったかについて、常に説明責任を問われる覚悟で判定し、試合者は日々「有効打突の条件」を満たす稽古を重ねてきたかが、その試合において問われるのです。
四戒(しかい) H25/08/15
驚(おどろ)くなかれ
懼(おそ)れるなかれ
疑(うたが)うなかれ
惑(まど)うなかれ
驚懼疑惑(きょう・く・ぎ・わく)といい、相手と立ち合うなかで、この四つの状態に陥らないよう、己を戒めて稽古することが、勝利の極意です。
これは、あらゆる日常生活においても同じことがいえますし、逆に日常生活において四戒を心がけている人は、いざというときの大一番にも強いと言えるでしょう。
まさに「生活即剣道、剣道即生活」です。
公明正大(こうめいせいだい) H25/08/15
全日本剣道連盟の「剣道試合・審判規則」第1条は、
「剣の理法を全うしつつ、
公明正大に試合をし、
適正公平に審判すること」
を目的としています。
つまり、試合者は第一条の精神に則って試合を行い、審判も試合者同士が第一条の精神に適った試合を行うよう、試合を進行させるのです。
現状はどうでしょうか。
多くの優勝常連者は、反則を有効に使う。
たとえば、
「境界線付近で無抵抗の相手を明らかに打突の意思なく執拗に押し出す行為。→押された相手の反則。」
「鍔迫り合いで相手の竹刀をこれまた執拗にはじき落とそうとする行為。→竹刀を落されたほうの反則。」
「鍔迫り合いから逆交差で相手の肩に竹刀を掛けて打たせない行為。→明らかに不当な鍔迫り合いだが巧みに反則を取らせない。また審判が取ろうとしない。」
最近は、相手が「あと1回で反則負け」という重大な場面で、故意に相手に2回目の反則を誘発することが多く見受けられます。
こういった卑しい行為がはびこる要因は、審判にもあります。
第1条の精神に則って「公明正大」に試合者が試合を行うよう「適正公平」に審判すれば、試合者が故意に行う反則ギリギリの行為に対し、勇気をもって合議をかけ、反則を取って良いのです。
「倒れた相手に何度も打ち掛かる」ような行為が散見されるのは、試合者が倒れて「一呼吸」間を置いて「やめ」をかけるというルールを、不利な相手に対して「やめ」が掛かるまでは「何度でも打て」という誤解を招いています。
審判には、武士の時代の「果たし合い」における「見届け人」のような「適正公平」さが求められます。
試合者も同様、その時代、「果たし合い」で背中から斬りつけて勝ったのであれば、卑劣な行為として「審判」され、切腹を申し付けられたというくらい武士道精神は正々堂々を重んじます。
勝利至上主義の指導者も責任重大です。
剣道を良くしたいのか、ただ勝たせたいだけなのか?
「指導者の美学」も問われるところです。
今の時代、第1条に「指導者は公明正大に試合するよう剣道を指導し、」と追記しなければならなくなったのでしょうか?